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くるみ割り人形〜金平糖の精のヴァリエーション:渡邊順子   (2002.11.10)
注)渡邊順子さんの踊りの感想です。渡邊順子さんのお許しを得て掲載させて頂きました。
 
8年前の金平糖を見てみませんか?」、JUNさんこと渡邊順子さんからこんなメールを頂きました。

渡邊順子さんはバレエのダンサー。数年前、ネットを通じて知り合ってから、親しくさせて頂いております。 渡邊順子さんは、バレエスクールで子供達を教える傍ら、自らも練習に励み、毎年のように「瀕死の白鳥」を踊ってきました。今年は、8月でした。昨年は12月に、その前の年・・・・。毎年、同じ踊りを踊っても、見るたびに新たな感動を与えてくれます。
 
そんな渡邊順子さんが、今年の12月に、「くるみ割り人形」の「金平糖の踊り」に挑戦します。もちろん私は彼女のステージを見に行く予定ですが、この「金平糖の踊り」には、彼女の深い思いがあるようです。右足の靱帯を痛め、悩んだ末、バレエを続けることをあきらめ、結婚を考えた時の、最後のステージが、この「金平糖」だったそうです。
渡邊順子さんから、彼女が1994年に踊ったビデオを送って頂き拝見しました。
舞台の前日もずっとマッサージをして、・・・・。トゥシューズを履いて踊れるかと不安を感じながら、なんとか本番はトゥシューズを履きましたが・・・・・」と言う彼女。ビデオを見ていると、痛みを必死にこらえながらも右足のポアントで立って、懸命に踊る彼女の姿に胸を打たれます。 彼女は、鋭いポアントで立ったアチチュードのポーズがこの上なく美しいのですが、さすがに右足をかばってか、時間が止まったような長いポーズは見られませんでした。でも、一瞬に見せた伸びやかなポアントに乗ったアチチュードのバランスには、ハッとした美しい輝きがありました。 踊り終わってホッとしたのか、観客に「見に来てくれてありがとう!!」と言っているような微笑みは、彼女の優しい人柄が自然に滲み出た美しいものでした。
 
冬になるとやはり、古傷が痛むことがあります。でもトゥシューズを全然履けないという訳ではないので、それなりに努力して踊っていくつもりです。今年の金平糖は8年前よりは精神的にもスッキリとした気分で踊れると思います」。しばらくバレエの世界から遠ざかっていた事が、彼女自身を大きく成長させたのでしょう。
 
大怪我をして見事に復帰した斎藤友佳里さんが、「試練というものは、『お前はそれを克服できる』と神に選ばれた者だけに与えられる」という事を言っています。 「金平糖の踊り」はポアントもジャンプも多い。「瀕死の白鳥」に比べ、一回りも二回りも、右足の負担は大きいでしょう。でも彼女はハンディを乗り超えて、立派に踊りきるに違い有りません。 12月の彼女のステージ、期待に胸がふくらみます。JUNさん、頑張れ!!!


渡邊順子さんにHPに載せる文章の相談をしたとき、彼女から以下のようなコメントを頂きました。あわせて掲載させて頂きます。
1994年1月。まさか自分自身でもこの年に自分が結婚するとは思っても見なかった。映画のワンシーンの様に、主人は私にひとめばれ。 何故、あんなに簡単に私自身も結婚を考えたのか。今も不思議だけど。運命の人と結婚した。 結婚して幸せになりたい。あの頃の私は、踊る事が辛かった。右足の靱帯を1993年に痛めた私は稽古場に足を運ぶ事がなくなっていった。どうせ、踊れない。そう自分で決めつけた。 踊る事を諦めながら諦められない私に、「舞台に立って踊って」と仙台のバレエ先生から電話があった。 どん底の気分の中、金平糖のバリエーションを踊った。
 
2002年 12月。 私は8年ぶりに金平糖のバリエーションを踊る事になった。 結婚して、子供を出産し、JUNバレエスクールの主宰者として踊る。自分のレッスン時間など なかなかとれません。 様々な不安はあります、でも私が踊る事を楽しみにしている人がいるのだから、私は踊らなければならない。 私が舞台で踊る姿を見たいと言う人達の思いが私を舞台に導いてくれたのだと思う。 舞台でまた踊ってほしい。そう言う人の気持ちを大事にして、私は努力を続けていきたい。
 
「玉磨かざれば光なし」。恵まれた素質があっても自ら努力しなければ、素質を十分に生かす事はできない。この8年の間にそんな事を学びましたね。   渡邊順子。
このページの画像・文章とも、渡邊順子さんご本人の了承を得て掲載しています。無断で複写複製を禁じます。

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