隣の半島(朝鮮半島)を見る ( 3 ) 朝鮮半島 歴史 / 朝鮮半島の歴史 / 朝鲜半岛历史 |
朝鮮半島の歴史 隣の半島の歴史 |
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ユーラシア大陸
では、ヨーロッパからアジアに至るまで、様々な民族の移動、国家の興亡があった。 |
アジアでは、早い段階から文明時代に入った中国が周辺諸国、民族に大きな影響を与えた。その中国でも、漢民族の王朝が続いた |
訳ではなく、様々な異民族の王朝の交替があった。中原
(黄河中下流域)を支配した王朝を中国と呼ぶ。 |
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古代、中国から日本列島にいたる交易路沿いの、隊商の寄港地が町へと発展した。 ( 朝鮮の歴史
wiki )
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朝鮮半島を中国とみなす記述
wiki / 真面目に韓国考察
/ 日朝関係史
wiki /
古代から文化は朝鮮が上等だったのか
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古代の船は風待ち、潮待ちで何日も停泊することが多く、日中間の交易船に水、食料、薪などを売る人達によって市が形成されていった。 |
但し、古代 朝鮮半島の住民は、現代朝鮮人とは無関係である。現代朝鮮人のルーツは7世紀、統一新羅から始まる。 |
高句麗、渤海、百済、その他の東夷各民族は、現代朝鮮人とは無関係である。 |
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主な項目 |
■ 676年、統一新羅
朝鮮半島をほぼ統一、初の朝鮮半島統一王朝 |
■ 朝鮮最古の歴史書、『三国史記
』は 、1143年に執筆開始、1145年完成 / 新羅金氏王統の始祖瓠公 は日本人 |
■ 現代朝鮮人
は16世紀に形成された / 近隣の強国の支配を次々と受け続け、遺伝子レベルでの安定をみたのは明代である。 |
■ 清朝下に於ける小中華思想の変容
/ 尊明義理 再造之恩 大造之恩
慕華事大
尊明貶清 妄想世界への埋没 |
■ おさらい
/ 全頁の要約 |
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目次 |
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前編 7世紀後半まで |
■ 神話の時代
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■ 中国辺境史の時代
燕、秦、衛満朝鮮 (半島北部 中国人国家)。半島南部は中国から見て蛮族の住む未開の地。 |
■ 漢の時代
漢の武帝が半島に漢四郡
を設置、漢の領土となった (半島北部 中国直轄領) |
■ 高句麗
が帯方郡、楽浪郡を滅ぼす。(313年) 高句麗(ツングース系民族)が半島北部を支配下に置いた |
■ 朝鮮半島南部三国時代
半島南部は多民族の部族国家群が、馬韓 辰韓 弁韓 の三国に統合された。( 4世紀中頃 ) |
■ 倭と高句麗の戦争
400年 - 414年頃 半島南部を勢力圏に置いた倭と北部の高句麗が衝突した |
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後編 7世紀後半(統一新羅)以降 |
■ 初の朝鮮半島統一王朝
大唐帝国 鶏林大都督府
を設置。 統一新羅 、朝鮮半島をほぼ統一(676年) 【 朝鮮人のルーツ 】 |
■ 918年 高麗
建国 935年、高麗に帰順して新羅滅亡 (その後、高麗は、 後唐 -> 宋 -> 契丹 -> 宋 -> 契丹 -> 金に服属 ) |
■ モンゴルの侵攻で全土壊滅
( 1259年) 高麗、大元帝国の一部となる ( 大元帝国 征東等処行中書省
の管轄 ) |
■ 高麗滅亡、李朝建国
明から朝鮮という国号を下賜される。(1401年) 【 現代朝鮮人の原型形成 】 |
■ 清軍、侵入5日で城を包囲
、40日余りの篭城の末に降伏。(1637年)明から清へ宗主国交替 大清皇帝功徳碑
を建てさせられる。 |
■ 日清戦争 下関条約
で、清より独立 (1895年)与えられた独立 歴史上初めて帝国、皇帝を名乗る。大報壇の祭祀を中止
する |
■ 中世的世界の終焉、近代化始まる
( 1910年 ) 日本の税金投入による文明開化 人口、平均寿命など爆発的に増大伸長 |
■ 大日本帝国からの分離
米ソによる軍政時代(1945年〜) 国連信託統治案 しかし冷戦下の代理戦争の舞台となる |
■ 冷戦下、分断国家としての独立
( 1948年 ) またしても、与えられた独立 米ソ直接対決を避けるため傀儡政権をたてる。 |
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朝鮮半島の歴史 ( 前編 ) |
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神話の時代 |
檀君朝鮮 |
檀君朝鮮
は完全な神話。13世紀に創作。 /
朝鮮の建国神話
/ 大朝鮮帝国史
/
韓国起源説
/
韩国起源论 / |
箕子朝鮮 |
箕子朝鮮は伝説上の国、なおかつ中国人の箕子が建国 中国人の国家。『史記
』巻38 「武王既克殷、
訪問箕子、於是武王乃封箕子於朝鮮」 |
「朝鮮」が中国の文献に初出するのは《山海經》からである。山海經は奇書とされ神話集である。 |
“東海之内,北海之隅,有国名朝鮮、天毒。”“朝鮮在列陽、東海北,山南。列陽属燕“《山海経》 |
尚書大傳、史記にも「朝鮮」の記述がある、これは、朝鮮半島北部を指す地名であって、
国号として使用されたのは、明の太祖朱元璋が、 |
女真族の李成桂(李氏朝鮮開祖)に下賜したものが最初である / 朝鮮历史
wiki-CN |
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理解する世界史(世界史年表1) /
世界史年表
/ 中国史時代区分表
wiki / 古朝鮮
/
古朝鲜 / 燕国
zh.wiki /
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中国朝鮮関係史
wiki / |
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中国辺境史の時代 燕、秦、衛満、漢、高句麗 |
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燕
中国人国家の時代 (紀元前1100年頃 - 紀元前222年) / 周代、春秋、戦国時代にわたって存在。戦国七雄の一つ。 |
燕は、朝鮮半島北西部の(朝鮮)、朝鮮半島中西部の(真番)を略属させ、5つの郡を置き、数千里の長城を築き官吏を駐在させた。
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秦
中国人国家の時代 (紀元前778年 - 紀元前206年) / 周、春秋、戦国に渡って存在、紀元前221年に中国を統一。
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燕が秦に滅ぼされた後、燕領朝鮮は秦の遼東郡の保護下にある属国となった。 |
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衛満朝鮮
(中国人国家) 『史記』朝鮮列伝「朝鮮王滿者、故燕人也」朝鮮王、満は燕国人である |
紀元前197年、漢朝は燕国を縮小して遼東郡を直轄化、その際、燕人の衛満が
燕・斉
の亡命者などと、朝鮮半島に衛氏朝鮮を建国した。 |
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辰国
(伝説)は『史記』や『漢書』によれば、衛氏朝鮮の時代(紀元前2世紀)に現在の朝鮮半島の南部にあったという国。 |
記録は少なく、その詳細はわからない。民族系統も不明で、一国であるのか部族連合であったのかも不明。 |
『三国志』には「辰韓者古之辰國也」とあり、辰国は、3世紀の辰韓の前身としている。辰韓は中国人国家。(『後漢書』辰韓伝) |
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中国、秦の始皇帝が中国を統一 (秦) 紀元前778年 - 紀元前206年 |
旧燕領朝鮮は秦の遼東郡の属国となった。 |
紀元前221年に韓、魏、趙、楚、燕、斉の六国を滅ぼし、秦の始皇帝が中国を統一。旧燕領朝鮮は秦の遼東郡の属国となった。 |
紀元前206年に秦は滅亡した。 この中国最初の統一王朝、秦がチャイナ、シノワ、シナの語源である。
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紀元前206年に前漢が中国を統一。紀元前121年に匈奴
を討ち、紀元前111年に南越
を攻略9郡を設置、西南夷を攻略して5郡を設置。
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紀元前108年、漢の武帝の遠征により衛氏朝鮮は滅亡。楽浪郡
、真番郡、臨屯郡、玄菟郡の漢四郡が置かれ漢の領土となった。 |
紀元前37年 高句麗
、建国 32年 高句麗、後漢に入貢。 (高句麗はツングース系民族、満州民族の祖) |
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漢の時代 ( 漢の武帝が半島に漢四郡を設置、漢の領土となった。楽浪郡・玄菟郡は4世紀まで存続した。 )
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漢が中国を統一すると漢が朝鮮を支配した。
漢の高祖(劉邦)は燕王を任命。その後、漢と燕は対立。
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燕の家臣衛満が、衛氏朝鮮を(BC195年頃)建国した。衛氏朝鮮は、BC108年に漢の武帝に滅ぼされ、 |
漢の直轄地となり、
楽浪郡、真番郡、臨屯郡、玄菟郡の四郡が設置された。朝鮮半島中北部は中国領となった。 |
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前漢の第7代皇帝
武帝
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匈奴を打ち破り、西域を漢の影響下に入れた。大宛(現 フェルガナ地方
)を征服。また南越国に遠征。 |
衛氏朝鮮を滅ぼして漢四郡を朝鮮半島に置いた。前漢の版図は最大となり、全盛期となった。 |
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漢四郡
wiki /
漢四郡
wiki-CN / Chronicles
ユーラシア 紀元前1世紀地図 |
高句麗(紀元前37年 - 668年)は中国東北部にあり、3世紀に朝鮮半島北部まで版図を拡大、668年、朝鮮半島南東部にあった新羅に滅ぼされた。 |
前漢
/
新
/
後漢
/ 中華思想により漢の東の国々は東夷(東の野蛮人)と呼ばれた。 /
東夷族
(三日月城通信) /
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漢の武帝
が北へ退けた匈奴
が、西へ移動。4世紀中頃黒海北岸にたどり着きヨーロッパの民族大移動を引き起こした。
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前漢を建国したのは、『史記』で知られる、劉邦。しかし対 匈奴戦では敗れ、七代目皇帝の武帝に至って、勝利した。 |
ユーラシア 1世紀地図
/
ユーラシア 2世紀地図
/ ユーラシア 3世紀前半地図 /
ユーラシア 3世紀後半地図 / |
アルサケス朝パルティア
前247年 - 228年 / 共和政ローマ
前509年 - 前27年 /
ローマ帝国
前27年 - 395年 / |
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辰韓は秦からの逃亡者が建国 |
『後漢書
』「初、朝鮮王準為衛滿所破、乃將其餘衆數千人走入海、攻馬韓、破之、自立為韓王。」 |
(
箕子朝鮮の最後の王、準王が馬韓で韓王となり馬韓を支配し、その馬韓が百済になった ) |
朝鮮半島北部は、燕、秦 、漢、衛満朝鮮と中国領、中国人国家が続いたが、南部は多民族の雑居地域であり |
ここに、秦、斉の逃亡者が三韓を建てた。もちろん北部にも、特に北東部には東夷各民族が雑居混住していた。 |
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『後漢書』辰韓伝 「辰韓、耆老自言秦之亡人、避苦役、適韓國、馬韓割東界地與之。其名國為邦、弓為弧、賊為寇、行酒為行觴、相呼為徒、 |
有似秦語、故或名之為秦韓。」(辰韓、古老は秦の逃亡者で、苦役を避けて韓国に往き、馬韓は東界
の地を彼らに割譲したのだと自称する。 |
そこでは国を邦、弓を弧、賊を寇、行酒を行觴と称し、互いを徒と 呼び、秦語に相似している故に、これを秦韓とも呼んでいる。) |
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【東夷】 中国が東方の民族を卑しめて呼んだ呼称 |
中華思想で、【東夷
】(とうい)は東方諸国、
【西戎】(せいじゅう)は西方諸国、
【北狄】(ほくてき)は北方の諸国、【南蛮】(なんばん)は |
南方諸国や西洋人などを指した。いずれも侮蔑的意味がある漢字で、現在は日常用語としては死語である。 /
九夷 八狄 七戎 六蛮分別是?
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【穢貊】わいぱく(後の、扶餘、高句麗、沃沮、東穢)、 【粛慎】しゅくしん (後の、女真、満洲族)、
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【東胡】とうこ (後の、契丹、鮮卑) いずれも満州
(中国東北)のツングース系民族だが、現在中国はこれを中国の少数民族として分類している。 |
濊
(ワイ) /
沃沮
(よくそ) /
粛慎
(しゅくしん) / 濊貊
(わいぱく) /
挹婁
(ゆうろう) /
靺鞨
(まつかつ) /
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220年 後漢 滅亡、高句麗が朝鮮半島北部に勢力を拡大。(高句麗はツングース系民族) 313年、楽浪郡・玄菟郡を滅ぼす。 |
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高句麗は朝鮮民族の先祖ではない |
高句麗は朝鮮民族とは関係がない。中南米の人達をスペイン直系子孫と言わないのと同様である。 |
朝鮮民族の祖は新羅からとされるが、統一新羅建国以後も近隣の強国の支配を受け続け、遺伝子レベルで安定し人種的に固定するのは、 |
16世紀になり、明の支配下になってからである。同様に東夷各民族も朝鮮人の直系先祖ではない。 |
朝鮮半島南半は、倭を含む多民族の雑居地域であった。 |
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日本の先史時代 |
日本列島の旧石器時代
日本列島での人類の足跡は9〜8万年前(岩手県遠野市金取遺跡)。旧石器時代の終わりは1万6000年前 / |
縄文時代
約1万6,500年前から約3,000年前 / 弥生時代
紀元前3世紀中頃から紀元後3世紀中頃 / 弥生時代の主な出来事wiki / |
「稲」は日本から朝鮮に伝わった
(解法者) / 稲作
- Wiki / 長江下流域における古代文明 /
金壇三星村遺址
- Google 検索 / |
1999年3月18日に、江南人骨日中共同調査団が 「長江下流域の古人骨と北部九州・山口の渡来系弥生人骨のミトコンドリア |
DNAが一致した」と発表した。 / 縄文人と弥生人
wiki / |
『論衡
』( 周の時、天下太平にして、倭人来たりて暢草を献ず。) / 周代は、ほぼ日本の弥生時代初期から前期。この当時から |
中国では倭人を、他と区別して認識していたと考えられる。暢草は香草 ( 薬草、スパイス ) と見られる。 |
『山海経
』
( 蓋国は鉅燕の南、倭の北にあり。 倭は燕に属す。) / 倭は燕に朝貢していたと書かれている。 |
山海経は伝説集、神話集であり記載内容が史実であるかについては疑問視されている。 /
倭・倭人関連の中国文献
- Wiki |
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1世紀の日本etc. |
紀元前後 倭は百余国に分立、一部は前漢の楽浪郡に朝献。『漢書』地理志 / 倭・倭人関連の中国文献wiki / |
57年 倭の奴国王、後漢に朝献、倭奴国王印を授けられる。『後漢書』光武帝紀、同東夷伝 / 奴国
/ 東夷伝
/ |
94年 後漢の班超が西域諸国を制圧。
/ 1世紀末 弥生文化が東北地方に波及する。 / 古代朝鮮半島関連の中国文献
/ |
中国史料に見る倭人(倭、倭国)
/ |
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2世紀の日本etc. |
107年 倭国王帥升、後漢に生口160人を献上。『後漢書』安帝紀、同東夷伝 / 魏志倭人伝
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魏書東夷伝にみる諸民族の記録
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117年 ローマが最大版図となる。 / 147年頃 倭国大乱
(〜189年頃)『魏志倭人伝』 |
2世紀後半、最初期の中国仏教文献翻訳家、安世高、支婁迦懺。 |
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中国では、新 :8年 - 23年、
後漢(東漢):25年 - 220年、三国時代 (中国);220年 - 280年。 ( 三国志の時代 ) |
【三国時代 (中国)】 後漢滅亡(220年)から、西晋による中国再統一(280年)まで。魏(曹丕)、蜀(劉備)、呉(孫権) |
三国時代_(中国)
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Category:三国時代_(中国)の戦闘
/ 楽浪郡・玄菟郡は4世紀まで存続した。 |
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3世紀 朝鮮半島の中国人国家に、ツングース系民族(高句麗)が侵入した時代 半島南部に三韓時代始まる |
3世紀頃、中国の遼寧省から半島北部には高句麗があり、
半島南部では、楽浪郡の支配下に三韓(馬韓、辰韓、弁韓)が分立していた。 |
220年 後漢が滅亡、高句麗が朝鮮半島北部に勢力を拡大。313年に楽浪郡・玄菟郡を滅ぼした。 |
244年に1回目の魏軍の高句麗侵攻、245年、2回目の高句麗侵攻で魏に服属した。355年には前燕から冊封を受ける。前燕が前秦に |
滅ぼされると引き続いて前秦に臣従した。 |
208年 中国 赤壁の戦い / 220年〜280年中国( 魏・呉・蜀 )の三国時代 / 280年 晋が中国を統一。 |
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3世紀
(日本では弥生時代末期から古墳時代初期) / 古墳時代
wiki
/
倭国大乱
wiki / 狗邪韓国
wiki /
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239年、邪馬台国女王を親魏倭王とし、金印紫綬を授ける「魏志倭人伝
」 / 266年、倭の女王(壱与?)が晋に朝貢。『晋書
』武帝紀 |
3世紀 朝鮮半島の南部に三韓 ( 馬韓
、 辰韓
、 弁韓
)、朝鮮半島の北部に高句麗の時代 三韩.png
/ 三韓征伐(歴史学上の解釈) |
サーサーン朝
226年 - 651年 / 三韓は、秦、倭、ワイ、韓など多民族の部族連合社会。4世紀に三国へ発展する。 |
辰韓
(しんかん)は、紀元前2世紀末から4世紀にかけて、朝鮮半島南部にあった三韓の一つ。
後の新羅となる場所にあった地域である。 |
もともと6国であったが、分裂して12国になった。そのうちの斯蘆が後の新羅になった。辰韓は秦韓とも呼ばれ、中国の秦の亡命者が |
建てた国であり、中国人の国家であった。 |
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百済は朝鮮民族の祖ではない |
284年に
漢字
の日本伝来説がある。『日本書紀』応神紀。なお伝えたとされる王仁は百済人であるとされている。 |
百済はツングース系扶余族である。朝鮮民族の祖は、新羅である。 /
王仁
漢人説もある。また、架空の人物説もある。 |
実際には銅鏡などと共に、2世紀には断片的に流入していたと考えられる。 /
漢文
-wiki ( 『古事記』応神記、『日本書紀』応神紀 ) |
百済は、応神天皇の命令を受けて和邇吉師という人を奉った。そして、論語10巻・千字文1巻のあわせて11巻をこの人に付けて献上した。 |
新聞配達員が、あるいは宅配業者が、届けてあげたと恩を売るだろうか。必要であるから取り寄せたのだ。 |
また、百済は朝鮮民族とは無関係である。朝鮮半島史と朝鮮民族の歴史は別のものである。 |
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晋(西晋)
(265年 - 316年) / 五胡十六国時代、南遷して東晋(317年 - 420年)となる |
中国、晋(西晋)が三国時代を終焉させる。匈奴(前趙)により一旦滅亡。南遷し晋(東晋)を建国。宋(五胡十六国)により滅亡。 |
中国の三国時代には魏が238年に楽浪郡・帯方郡を直轄地とした、265年からは晋が支配した。、 |
313年、晋領の帯方郡と楽浪郡が、高句麗領となる |
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4世紀 半島南部、三国時代 / ヤマト王権
の成立期(日) |
多民族国家の時代 半島北部はツングース系民族の 高句麗。『新唐書』高麗伝 :「高麗、本夫餘別種也。」( ※ 高麗=高句麗 ) |
朝鮮半島三国は、東夷諸民族、漢人などの混在地域であった。 |
4世紀中頃には馬韓を百済が、辰韓を新羅が統一、日本が弁韓に進出し、任那(伽耶)を支配した。
朝鮮半島の三国時代が始まった。 |
百済は高句麗と軍事対立にあったため、まず東晋と冊封関係を結び、次いで369年、倭国へ七支刀
を献上、友好関係を構築して、 |
高句麗に対抗しようとした。高句麗は、南進の圧力を強めていた。 |
新羅については、史実性があるのは4世紀以降であり、それ以前は伝説的なものである。3世紀ごろ、辰韓十二国の中に斯蘆国があり、 |
これが発展して356年ごろ新羅になったと考えられている。(中国社会科学院は、中国の藩属国であったと記述している。) |
高句麗、百済は朝鮮民族とは関係がない。朝鮮半島史と朝鮮民族の歴史は別のものである。 |
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高句麗が帯方郡、楽浪郡を滅ぼす。(313年) 377年 高句麗と新羅が前秦に入貢 |
313年、高句麗が帯方郡、楽浪郡を滅ぼし、朝鮮半島が中国の支配から脱した。元の帯方郡や楽浪郡南部に残された漢人の政権や都市は、 |
5世紀前半に百済が征服、5世紀後半 南下した高句麗が百済から奪い支配下へ置いた。 |
五胡十六国の一つ前秦
(350年 - 394年)は華北を統一。更に朝鮮半島の高句麗と新羅を朝貢国とした。 |
新羅は朝鮮民族のルーツではあるが、
その後も他民族との混血が続き、現朝鮮民族と同一民族とは言えない。 |
倭
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倭国
/
任那日本府
(369年から562年) /
任那
/ 百済史年表
/ 百済史
google検索 /
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中国、五胡十六国時代
316年 - 439年 北方遊牧民族国家の乱立 胡=蛮族 |
後燕
384年 - 407年 /
西秦
385年 - 431年 /
南涼
397年 - 414年 /
南燕
398年 - 410年 /
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【五胡十六国】 |
中国華北に分立興亡した
北方遊牧民族(匈奴・鮮卑・羯・氐・羌)国家の総称であるが
実際の国の数は16以上ある。 |
【南北朝時代】 |
439年、北魏 ( 鮮卑族 拓跋氏 )が華北を統一(北朝)。華南には宋、斉、梁、陳の4つの王朝(南朝)が興亡した。 |
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朝鮮半島南部 三国時代 倭と高句麗の抗争 三国は多民族混在社会 |
4世紀中頃には馬韓を百済が、辰韓を新羅が統一して、朝鮮半島南部の三国時代が始まった。 |
弁韓には倭国が進出、任那(伽耶)を支配した。新羅は他の二国と対立していた。高句麗は313年、晋から帯方郡と楽浪郡を奪ったあと |
南下を続け、半島南部の三国を圧迫していた。倭は百済と結んで高句麗の南下を抑えようとした。 |
391年、倭国が半島南部の三国を平定してしまい、高句麗と戦争になった。 |
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391年〜414年
好太王碑 (倭国vs高句麗の戦争) / 前方後円墳
(日本独自の古墳様式) /
空白の4世紀のヤマト王権
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4世紀後半、倭国は、
高句麗との戦争で敗退したが、その後も任那日本府 が6世紀後半(562年)まで存続。百済との関係は良好であった。 |
7世紀後半(663年)、百済再興戦争の白村江の戦い
で、唐、新羅連合軍に敗れ、半島から撤退した。 |
高句麗、百済はツングース系民族で、満州民族の祖。 朝鮮民族の祖は新羅から。 |
三韓征伐
Wiki /
神功皇后
Wiki / 伽倻
( 任那 ) Wiki / 高句麗の発展と滅亡
/
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日本書紀の朝鮮半島関連記事 / |
高句麗、百済は朝鮮民族とは関係がない。朝鮮半島史と朝鮮民族の歴史は別のものである。 |
朝鮮民族のルーツは?
(三日月城通信) /
朝鮮民族の形成
(三日月城通信) / 中国の華北では、五胡十六国時代
(316年 - 439年)
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4世紀の世界の出来事 |
310年 - クチャ出身の仏図澄が洛陽にて仏教を布教。 / 仏教東漸
google検索 / 313年 - ミラノ勅令、キリスト教を公認。 |
325年 - 第1回ニカイア公会議。復活祭の日付を制定。 / 376年 - ゴート系難民集団、ローマ帝国領内に侵入を開始 |
392年 - ローマがキリスト教を国教とする。 / 399年 - 中国の法顕がインドに赴く / 王羲之(303年 - 361年) |
ヨーロッパでは 4世紀から 8世紀にかけて、人類の大移住の時代であった。 395年 ローマ帝国が東西に分裂 |
ツングース系民族
/
女真
/
靺鞨
/
満洲民族
/ 高句麗 / 渤海 /
Chronicles
ユーラシア 4世紀地図
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東ローマ帝国
395年 - 1453年 /
西ローマ帝国
395年 - 476年 /
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372年、高句麗に中国北朝の前秦から仏教初伝。
384年、百済に中国東晋より仏教伝来、中国 梁から『涅槃経』など伝来。 |
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使持節都督 新羅 任那 加羅 秦韓 慕韓 六國諸軍事安東大將軍倭國王 |
5世紀 日本本土では巨大古墳時代 倭の五王
が中国(南朝)に使者を遣わした。 中国 南北朝時代
439-589 |
倭の五王の
朝貢の主な目的は、朝鮮半島での倭国の軍事行動や経済的利益の承認にあったとされる。 / 倭の五王
(解法者) |
倭は高句麗に敗北後も、7世紀まで朝鮮半島南部に影響力を維持していた。高句麗・百済・新羅の三国間の争いは7世紀まで続く。 |
451年 宋から倭國王、済(允恭天皇)が「使持節都督新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事安東大將軍倭國王」(『宋書』倭国伝
)にされる。 |
この段階、倭 高句麗 戦争の後も、倭が半島南部の三国を掌握していたことが判る。 /
宋書倭国伝
- Wikisource |
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倭と高句麗の戦争 400年 - 414年頃 |
部族連合社会であった半島南部の三韓が4世紀に、それぞれ統一を為し三国となった。半島北部には強大な高句麗があり、南下を進めていた。 |
391年 倭国が半島南部の三国を臣従させ、高句麗と直接対峙するようになり、倭 vs 高句麗の戦争となった |
Goguryeo controversies
- Wiki /
高句丽争议
- Wiki /
高句丽
- Wiki /
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【好太王碑 ( 広開土王碑 )】 広開土王=好太王
- wiki /
國岡上廣開土境平安好太王碑
- wiki |
百殘新羅舊是屬民由來朝貢而倭以耒卯年來渡海破百殘加羅新羅以為臣民 |
そもそも新羅 百残は高句麗の属民であり、朝貢していた。しかし、倭が391年に海を渡り百残 加羅 新羅を破り、臣民となしてしまった。 |
好太王碑(広開土王碑) |
これは高句麗側の言い分で、倭人は、中北部の旧帯方郡にもいることから、倭の勢力は中部まで及んでおり、南下する高句麗と衝突した。 |
倭は南へ退けられたが、7世紀中頃まで半島南部に影響力を残した。高句麗は6世紀末ごろから中国に対抗するため、日本に接近した。 |
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400年 高句麗、倭軍を破り加羅、任那に退却させる(好太王碑) |
404年 高句麗、もとの帯方郡の地域で倭軍を破る(好太王碑) この頃、前方後円墳が奈良盆地から大阪平野に移り、巨大化する |
405年 百済の人質名忽王の子、未斯欣
を百済王として送還。(日) / 倭・倭人関連の朝鮮文献
- wiki |
414年 高句麗の好太王(広開土王)碑建立。
/
高句麗と倭の戦争
/ 倭国は
加羅(任那)に後退した。 |
475年 高句麗により百済の首都・漢城が陥落。南へ遷都。百済は倭との関係強化を模索する。 |
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中国、439年の北魏による華北統一。五胡十六国時代終わり、南北朝時代
(439年 - 589年)になる。 |
北魏(386年-534年)、鮮卑族の拓跋氏が華北を統一、五胡十六国時代が終焉した。(戦国時代の魏、三国時代の魏とは関係がない。) |
南北朝の北朝にあたる。3代太武帝は廃仏を行ったが、
4代文成帝以降、歴代皇帝は仏教を信奉、 |
5世紀末から6世紀初めには雲崗や龍門のような巨大石窟寺院が建造され、唐代と並ぶ中国仏教の最盛期となった。 |
北魏式と呼ばれる寺院建築様式やアルカイックスマイルと呼ばれる仏像様式は日本にも伝来した。 |
なお、敦煌の莫高窟が作られ始めたのは五胡十六国時代。前秦の支配下にあった4世紀半ばとされる。 |
その後、千年に渡って彫り続けられた。 |
南朝は4つの王朝が興亡した。北朝の隋の文帝(鮮卑系氏族出身)が、589年に南朝の陳を滅ぼし、中国を統一する。 |
後漢の滅亡以来、約380年続いた魏晋南北朝の分裂時代が終わった。しかし、隋は618年に滅亡する。 |
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5世紀の世界の出来事 |
401年 - クチャの仏僧、鳩摩羅什が長安に来訪。 /
431年 - エフェソス公会議でネストリウス派が異端とされる。 |
450年頃 - アングロ・サクソン族、ブリテン島に移住。 / 476年 -西ローマ帝国滅亡。 /
Chronicles
ユーラシア 5世紀地図 |
法顕(337年 - 422年)渡印して『仏国記』を残す
/ 陶淵明(365年 - 427年) / 5世紀前半、新羅に高句麗から仏教伝来。
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張庚模本 梁職貢図
新羅題記 |
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斯羅國,本東夷辰韓之小國也。魏時曰新羅,宋時曰斯羅,其實一也。或屬韓或屬倭,國王不能自通使聘。 |
斯羅國は元は東夷の辰韓の小国。魏の時代では新羅といい、劉宋の時代には斯羅というが同一の国である。或るとき韓に属し、 |
あるときは倭に属したため国王は使者を派遣できなかった。 |
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中国、隋、中国統一 589年 南北朝時代終わる。しかし第2代煬帝の失政により滅亡。( 619年 ) |
589年、隋 (文帝は鮮卑系氏族出身)が中国統一 /
593年、聖徳太子、摂政となる(日) / 607年、第2回遣隋使小野妹子 を派遣(日)。
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聖徳太子の使節派遣は、『隋書』に記されている、その国書には「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙(つつが)なきや」 |
とあり、煬帝は「蛮夷の書、無礼なるものあり、また以聞(奏上)するなかれ」と言った。しかし、煬帝は高句麗討伐をめざしており、その |
後背地にある日本と結ぶことを考え、結局、聖徳太子の国書を受け取り、翌年、裴世清を日本に使わした。 |
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古代の倭と朝鮮半島
/ 日朝関係史
Wiki /
Chronicles
ユーラシア 6世紀地図 |
隋の高句麗遠征
隋は598年から614年まで4回にわたって高句麗へ遠征したが、3回は戦果なく。 |
第4次遠征で和議を結んだが、高句麗は和議の一つであった隋への朝貢を実行しなかった。 |
高句麗は隋との関係が緊張したのに伴い、倭との関係改善を計り595年、高僧の慧慈を倭に派遣。605年には黄金300両余りを送った |
倭では、崇仏派と排仏派が抗争しており、崇仏派への支援と倭国の内情視察であった。 |
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【隋書倭国伝】 |
隋書倭国伝「新羅百濟皆以倭為大國多珍物並敬仰之恒通使往來」 /
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新羅や百済は皆、倭を大国で珍物が多いとして、これを敬仰して常に通使が往来している / 『隋書』倭国伝
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6世紀の出来事 |
531年 - サーサーン朝
ペルシア最盛期を迎える。 /
552年 - 突厥
が建国。 /
589年 - 隋が中国を統一。 /
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592年 - 崇峻天皇が暗殺され、推古天皇が即位。 / 達磨(? - 528年頃) / 聖徳太子(574年 - 622年) |
朝鮮人の誇大妄想 ( 日本に残る朝鮮人の足跡 ? )
(解法者) / |
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中国、隋滅亡、唐建国 618年 |
唐を建国した李淵(唐李氏)は鮮卑
系氏族出身 |
隋が589年中国を統一。高句麗は隋と冊封関係にあったが、戦争(隋の高句麗遠征
)になり、614年、独立した。 |
618年隋滅亡、唐建国。唐は3度に渡り(唐の高句麗出兵
)を行い、668年、羅唐連合軍により、高句麗は滅亡した。 |
この時期、朝鮮半島は、百済と高句麗の同盟が、新羅を圧迫、新羅の女王は唐へ救援を求め、同盟し、パワーバランスが崩れた。 |
高句麗内部が二派に分裂、続いて、百済でも政変が起った。羅唐連合軍は百済を滅ぼし、倭を追い出し高句麗を滅ぼした。 |
鉄勒
(テュルク系遊牧民)が、唐の太宗が高句麗第1次侵攻(麗唐戦争)中で不在の唐に侵入し、夏州を寇掠した。 |
650年 新羅、唐の冊封を受ける |
650年 新羅は独自の元号を廃し唐の元号を用いた。羅唐戦争の結果、676年、唐は撤退し、新羅が朝鮮半島の中南部を |
支配するが、一方、渤海が興り、高句麗の旧領土の大部分を支配した。(韓国では渤海まで朝鮮の一部として南北国時代
と称している) |
高句麗、渤海はツングース系民族で、朝鮮民族とは無関係である。( 南北国時代は韓国国内だけで通用する用語である ) |
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6世紀 新羅の圧迫を受けた百済は日本との同盟強化を計った。新羅と唐が同盟した為、高句麗も日本に接近を計った。 |
538年 日本に百済より仏教伝来
(欽明天皇の時代) / 562年、任那日本府滅亡 / (日本では古墳時代後期 古代国家の成立) |
527年、磐井の乱起こる(日) 継体天皇
/ 537年、新羅、任那に侵入。 / 古代から文化は朝鮮が上等だったのか / |
538年、百済は倭国との同盟を強固にするため、諸博士や仏像・経典などを送り、倭国への中国由来の先進文物の伝来に貢献した。 |
541年、百済に任那復興を命ずる(日) /
551年、百済(聖明王)、百済、新羅、任那の兵を率いて高句麗を討ち故地を回復 「日本書紀」 / |
その後、朝鮮半島情勢は、高句麗と百済の対立から百済と新羅の対立へと
変化した。百済は高句麗と同盟して新羅と対抗するようになった。 |
新羅は、唐と組むことで、高句麗、百済同盟に対抗しようとした。 |
553年、百済から、援軍要請。 /
556年、欽明天皇
、兵士1000名を送り百済を救援。 /
562年、任那日本府、新羅に滅ぼされる / |
|
百済は高句麗や新羅との対立のため、大和朝廷に何度も軍事援助を求め、この代償として、 五経博士、医博士、暦博士、採薬師施、僧侶など、 |
各分野の専門家を献上した。諸博士の中には名前から中国 ( 南朝 ) 人と分る者もいた。「五経」は儒教の易・書・詩・礼・春秋。 他の文物、 |
知識も中国伝来のものである。 /
仏教公伝と当時の国際環境 |
|
高句麗は、隋の文帝の恫喝を受けた5年後、595年、高僧、慧慈を聖徳太子の師として派遣した。対隋戦争に備えての大和朝廷への懐柔作戦で |
ある。慧慈と一緒に、百斉の僧、慧聡も渡って来たが、聖徳太子の師として採用されたのは、慧慈であった。この慧慈の助言によって飛鳥寺
の |
伽藍配置が百済式から高句麗式に換わった。飛鳥寺の建立にあたって、605年、高句麗は、黄金300両余りを送った。贈賄作戦である。 |
高句麗、百済はともにツングース系、朝鮮の祖ではない。朝鮮の祖は新羅からである。 |
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6世紀後半から7世紀初の日本 |
日本への仏教伝来 ( 仏教公伝
) |
『日本書紀
』は552年に百済の聖明王、釈迦仏像と経論を献ずるとしている。
『上宮聖徳法王帝説
』や『元興寺縁起』は538年に仏教公伝と |
しており、こちらが定説となっている。『上宮聖徳法王帝説』では,「志帰嶋天皇(欽明天皇)の時代、戊午の年10月12日,百済国の主明王 |
(聖明王)が初めて渡ってきて,仏像・経教,僧等を奉る。」とある。 |
『百済観音
』 |
「百済観音」という呼称は古いものではなく、大正6年(1917年)の『法隆寺大鏡』の解説が初出であるとされている。 |
作風からみて百済の仏像ではなく、また朝鮮半島では仏像の用材に用いられていない楠の木でできていることなどから、 |
日本で造られた像であると見られている。 |
『飛鳥文化』飛鳥時代 ( 推古朝 ) 592年から645年 / 589年 隋 中国統一 / 618年 唐 建国 隋 滅亡 |
飛鳥文化
の仏像、建築は北魏
や梁
の様式で作られている。
北魏の初期は、ガンダーラ、グプタなどインド仏教美術の影響が濃かったが、
|
やがて、写実性を排した中国風の様式を完成、広く東アジア諸国に伝播していった。但し、北魏は鮮卑族である。 |
『白鳳文化』飛鳥時代 ( 天武・持統朝 ) 645年から710年 / 663年、百済滅亡 / 676年、統一新羅 朝鮮半島をほぼ統一 |
日本では、飛鳥浄御原令や大宝律令が制定され、本格的な国家が始動した。 |
この時期の仏像は初唐文化の影響を受けてインドや南アジアの文化の影響が見られるものも存在する。 |
日本の仏像様式の変遷
/ アルカイク・スマイル
/ 渡来人
(帰化人のこと) /
|
この時代の寺院の建築、仏像の作成には百済人が活躍した、彼らは渡来し、日本人になった技術移民である。 |
シリコンバレーに世界中の優秀な技術者が集まるのと同じ理屈である。 また百済はツングース系扶余族である |
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任那日本府
wiki /
任那日本府:イザ!
/
『日韓理解への道』と歴史教科書問題−「任那日本府」の消長
/
任那日本府
/
|
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日朝古代交流史における朝鮮人の六大妄想——(解法者) |
新羅・百済の倭国への人質論
/
『古事記』および『日本書紀』の偽造造
/ 七支刀の偽造
/
|
高句麗の倭国への侵攻論 /
日本の参謀本部による広開土王碑文の偽造説
/
朝鮮の日本本土の分国論 / |
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漢籍資料 |
漢籍の書棚
( 漢書,後漢書,三国志,晋書,宋書,梁書,隋書,翰苑,通典,唐會要,新舊唐書などから東夷伝,倭人伝等を収録。) / |
和漢籍の書棚
( 古事記,日本書紀,古語拾遺 ,舊事本紀 ) / |
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中国語版 wiki 及び 中国語による Google 検索 |
百济复国运动
zh.wiki /
高句丽遗民复兴高句丽的运动
zh.wiki / |
新罗
- Google 検索 /
高句丽
- Google 検索 /
百济
- Google 検索 / 渤海国
zh.wiki / 高句丽争议
zh.wiki / |
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中国、唐の時代 (618年-907年) |
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唐の首都、長安
は国際都市であり、周辺諸国のみならず、オアシスルートの西方から来た使節・留学生・商人たちがいた。 |
長安にはマニ教・祆教(ゾロアスター教)・イスラム教・景教(ネストリウス派キリスト教)などの寺院が立ち並んでいた。 |
海路からも、大食と呼ばれたアラビア商人がやって来た。唐は漢人以外であっても官僚、軍人に採用した。 |
安史の乱
の安禄山は、サマルカンド出身のソグド人
と突厥系の混血であった。 |
正倉院には、数多くのペルシア製の宝物があり、天平時代に遣唐使に随行してペルシア人が来日した記録などもある。
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遣唐使(その歴史的経緯と役割)
/ 遣唐使
- Wiki /
唐 - 日本との関係
- Wiki /
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690年〜705年、則天武后
が『武周王朝』を建てたが、この時代も唐の歴史に含める。 |
『安史の乱』 ( 755年〜763年 )で、安禄山は、洛陽を陥落させ大燕皇帝と称した。ウイグルとの連合軍による洛陽奪回は
|
果たしたが、この乱により疲弊した唐は中央アジア(西域)も維持できなくなり、領土は縮小、世界帝国の力を失っていった。 |
874年頃、『黄巣の乱
』が起きる。黄巣は長安を陥落させ、斉を建て皇帝即位を宣言するが、
黄巣の部下、朱温(朱全忠
)は |
黄巣を見限り唐に帰順。907年、朱全忠は後梁を開き、唐は滅亡。 |
しかし、この時点で後梁は群雄の一つにすぎず、中国は五代十国の分裂時代に入る。 |
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7世紀の日本 |
600年、第一次新羅征討
任那を再興、新羅が倭国に朝貢することを約させたが、倭国軍撤退後、新羅は任那を攻略した。 / 第1回遣隋使
出発 |
602年、第二次新羅討伐遠征計画、来目皇子急死のため中止。 |
603年、冠位十二階制定 / 第三次新羅征討計画。来目皇子の兄当摩皇子が新羅征討将軍に任命されたが、これも中止となった。 |
604年、十七条憲法制定 (日) / 607年、小野妹子ら第2回遣隋使出発 / 614年第5回遣隋使出発 / 618年、唐 建国。 |
630年、第1回遣唐使
出発 / 646年、大化2年「改新の詔」発布 |
647年、新羅、金春秋(後の武烈王)を倭国へ国情視察のため派遣 (孝徳天皇の時代) 648年、金春秋 唐へ移動 |
649年、新羅、服制を唐のものに改め、唐の年号を採用。(唐の属国化) |
651年、新羅の使が築紫に来る、唐服着用を不快として追い返す / 660年、百済滅亡、残存勢力より救援要請 |
663年、白村江の戦い
百済再興戦争 白村江の戦いで唐 新羅連合軍に敗れ、半島から撤退した(天智天皇の時代) |
668年、高句麗滅亡 / 672年、壬申の乱
(日) / 673年、大海人皇子(天武天皇)、飛鳥浄御原宮にて即位。 (日) |
新羅、倭に大海人の即位を賀す使と天智天皇の喪を弔う使を遣使。 676年、統一新羅 朝鮮半島をほぼ統一 |
白村江の戦いで半島から撤退した後、倭は、九州に防人を配置し、律令制の整備など中央集権国家化を進めた |
白村江の戦いにおいて日本と新羅との直接的な戦闘がほとんどなかったこと。新羅が朝貢形式を取って使者を派遣してきたことなどから。 |
668年〜779年、統一新羅に対して遣新羅使
が派遣された。天智天皇時代に2回。天武天皇時代に4回。以後779年まで続けられた。 |
698年頃 旧高句麗領内に辰(後の渤海)建国。 727年、対唐 新羅 軍事同盟を求めて 渤海使、来日。 |
渤海(ツングース系民族)は朝鮮民族とは関係がない。 |
7世紀の出来事 |
610年 - ムハンマド、イスラム教 開教 / 622年 - ヒジュラ イスラム暦元年 / イスラーム教徒のペルシア征服
/
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義浄(635年 - 713年)『南海寄帰内法伝』を書く / 慧能(638年 - 713年)禅宗第六祖『六祖壇経』を残す |
ウマイヤ朝
661年 - 750年 / 7世紀後半の東アジア情勢・年表風
/
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満州民族の祖。ツングース系民族の国。高句麗とその後継国家、渤海。 |
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4世紀から7世紀 高句丽
Wiki-CN |
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7世紀末から10世紀 渤海
Wiki-CN |
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ツングース系民族
/
満州民族
/ 古代朝鮮半島関連の中国文献
wiki / 东北工程简介
(中国社会科学院中国边疆史地研究中心) /
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第2節 中国における民族政策 /
第一章 中国における民族・漢族・少数民族 /
「三観教育」と「東北工程」
/ |
高句丽争议 - 維基百科 /
歴史修正主義
- Wiki /
延辺朝鮮族自治州
- Wiki /
長白朝鮮族自治県
- Wiki /
中国朝鮮語
- Wiki / |
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靺鞨
ツングース系民族 /
吐蕃
チベット系民族 / |
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華北の浸透王朝の歴史
/ ソンツェン・ガンポ王と唐 / 匈奴
/ 月氏
/
西夏
/
羌
/
色目人
/ 征服王朝
- Wiki /
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8世紀の日本 奈良時代 8世紀初頭には国号を日本へと改めた。 |
710年、平城京、遷都 /
712年、古事記(日本最古の歴史書)ができる。 /
720年、日本書紀ができる。 /
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727年、対唐軍事同盟を求めて
渤海使
が日本へやって来た。 |
【渤海】(698年 - 926年)、満洲から朝鮮半島北部、現ロシアの沿海地方にかけて、存在した。高句麗遺民が建国、 |
ツングース系民族の国。渤海は、唐および新羅、黒水靺鞨と対立していた。日本と渤海との交流は渤海滅亡(926年)まで続いた。 |
契丹
( 遼 ) によって滅ぼされた。 /
渤海国
/
高句丽
Wiki-CN / 高句麗と渤海の歴史
/
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渤海は、713年から唐の冊封を受けていたが、唐が武則天の時期になり羈縻支配地域に対する収奪が激しくなり、2代目、大武芸は独立色を |
明確にし、唐と対立。唐・新羅・黒水靺鞨と対抗するために日本へ使者を送った。日本はこれを朝貢として、歓迎した。 |
後に渤海と唐は和睦、唐の冊封体制に復帰した。日本で8百年使われることになる宣明暦は、859年に渤海使がもたらした。 |
高句麗、渤海は朝鮮民族とは関係がない。 |
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新羅が次第に対等外交を求めるようになってきた |
735年、来日した新羅使が、国号を改称したと告知したため、日本に無断で国号を改称したことを責め、使者を追い返した。(聖武天皇) |
その後2国間の関係が悪化したが、752年、新羅が日本へ朝貢して関係は回復した。 |
745年頃から750年代後半にかけて新羅で大飢饉が発生し、流民及び、新羅王の勅命による国家規模の海賊が頻繁に対馬、北九州を襲った。 |
752年、東大寺の大仏ができる 天平文化
がさかえる。 / 新羅王子ら700余名の新羅使が来日し、日本へ朝貢した。 |
753年、唐の朝賀で遣唐使 大伴古麻呂が新羅の使者と席次を争い、唐は新羅が倭の従属国であった事実を認め新羅を下位においた。 |
758年、唐で安禄山の乱が起きた情報が伝わり、大宰府等諸国の防備を厳にする。 /
安史の乱
( 755年〜763年 ) |
759年、新羅が日本の使節に無礼をはたらいたとして新羅征伐の準備をはじめた。 / 万葉集ができる / 784年、長岡京に遷都 |
この新羅征伐計画は、渤海とも連携した大規模なものであった。 |
渤海は朝鮮民族とは関係がない。朝鮮民族のルーツは新羅から。 |
|
8世紀以来、新羅の海賊が、かなり頻繁に対馬、北九州を襲った 新羅では内乱、飢饉が続いていた |
新羅の入寇
/ 弘仁の韓寇
弘仁新羅の乱
貞観の韓寇
寛平の韓寇
延喜の新羅の賊
長徳の入寇 |
藤原仲麻呂の出兵計画 761年、藤原仲麻呂
は新羅遠征計画を建てたが、孝謙上皇との不和により実施されなかった。 |
780年、渤海と新羅 間が緊張、渤海が日本へ遣日本使を派遣、新羅と日本の間の国交は停滞した。 |
780年代から新羅滅亡(935年)までの期間を新羅(下代) と呼ぶ。王位簒奪、飢饉、農民反乱、地方政権の割拠が頻発した。 |
8世紀末、日本と新羅の国家間の関係は悪化したが、民間レベルの貿易は続いた。 |
日本史年表 ( 飛鳥 白鳳 奈良 ) /
日本の新羅や渤海との交易の形態 / 正史
/ 韓国・東北アジアの歴史
/ |
|
9世紀の日本 平安時代 |
794年、平安京、遷都 /
894年、遣唐使
を停止する。 / 以後、日本独自の文化が発達して行く。 |
遣唐使の停止
wiki /
遣唐使と地方の政治
/
|
ヨーロッパでは
ヴァイキング
の時代に入った(8世紀から11世紀) / Chronicles
ユーラシア 8世紀地図
/
ユーラシア 9世紀地図
|
中東、北アフリカから、イベリアまで、イスラーム帝国(
ウマイヤ朝
661年 - 750年)が版図を広げた。 /
唐領域図 |
アッバース朝
750年 - 1258年 /
イルハン朝
1258年 - 1353年 / |
|
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7世紀以降の中国辺境部 |
676年、唐軍が撤退し、統一新羅が朝鮮半島をほぼ統一。 |
唐は、百済を滅ぼし、次に高句麗を滅ぼし朝鮮半島の大半を支配。
鶏林大都督府を置いて、朝鮮半島の全域を支配した。 |
しかし、唐の西、吐蕃が興隆、唐軍が大敗。唐は西への防備のため朝鮮半島は放棄した。唐と吐蕃の戦いはその後も続き、 |
北の突厥との戦争、南の南詔との戦争、国内での反乱と続いたため
朝鮮半島直接経営に復帰することはなかった。 |
|
唐・吐蕃会盟の歴史的背景とその意義pdf /
西突厥西域吐蕃吐谷渾高句麗百済新羅pdf(657年〜696年) / |
吐蕃
チベット系 /
吐谷渾
鮮卑族 /
西突厥
テュルク系 / 南詔
チベット・ビルマ語族 /
|
東アジア文化圏の形成
/
激動チベット
/
唐蕃会盟碑
wiki / 唐の国際関係
wiki /
|
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中国辺境部のうち、唐に半島直接経営の放棄を決意させる原因となった吐蕃関連を年表にした。 |
吐蕃は、征服王朝にこそならなかったが、200年に渡り唐朝を圧迫した。 |
|
唐・吐蕃関連年表 |
641年(太宗) |
文成公主
、吐蕃へ降嫁 /
ソンツェンガンポ王の領土拡張
/ |
670年(高宗) |
唐軍、青海湖南の大非川にて吐蕃に大敗。 |
678年(高宗) |
唐軍、青海で吐蕃軍と戦い再び敗れる。 |
710年(中宗) |
金城公主、吐蕃へ降嫁。 |
713年(玄宗) |
唐朝、河西九曲の地(青海省東南部黄河曲部地方)を金城公主の斎戒沐浴地として吐蕃に割譲。 |
722年(玄宗) |
吐蕃、唐の安西四鎮(キジル、ヤルカンド、ホータン、カシュガル)を攻略。 |
755年(玄宗) |
吐蕃、安史の乱に乗じて唐西部の河西、隴右地区(青海東部と甘粛)を占領。 |
763年(代宗) |
吐蕃、十月に長安を占領、金城公主の甥を帝位に据えるが、半月後に長安から撤退。 |
781年(徳宗) |
吐蕃、敦煌包囲の末、これを占領。 |
846年〜851年(武宗) |
吐蕃の混乱に乗じて、唐は吐蕃に奪われていた故地を回復した。 |
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以上のように、7世紀以前の朝鮮半島の住人は、現朝鮮人とは無関係である。百済、高句麗、渤海は満州民族の祖である。 |
また新羅を含む朝鮮半島南半の古代国家は、倭を含む多民族の雑居する部族連合社会であった。 |
百済高句麗連合に対抗するため、唐を頼った新羅が朝鮮半島初の統一国家を樹立する
幸運を得た。高句麗も半島南半までは、 |
進出できなかった。逆に統一新羅も、現朝鮮半島の大半を手に入れたが、現北朝鮮の北部は渤海の支配領域であった。 |
暦、法制、官制は言うに及ばず、姓名まで中国に迎合した属国であった。人種的にもまだ安定しておらず、民族意識の |
萌芽が現れるのが高麗、人種的に安定をみるのは、
李氏朝鮮に至ってからである。 |
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朝鮮半島の歴史 ( 後編 ) 半島初の統一国家、統一新羅の成立 以降 |
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ここから半島史に戻る。統一新羅の成立である。 |
朝鮮民族国家のルーツという見方もあるが、まだ人種的に安定しておらず、そうとは言えないという見方もある。 |
後者の場合は、『三国遺事』が執筆されるなど民族意識の萌芽がみられる高麗からとしている。 |
人種的に安定をみて、現代朝鮮人の原型が形成されるのは、明の属国(李氏朝鮮)となってからである。 |
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7世紀後半からの半島史 |
676年 新羅の三国統一
/
三日月城通信 - 新羅
/ 梁職貢図 新羅・高句麗題起
/
梁職貢図 新羅・高句麗題起
google検索 |
百済史年表
/
疑われていた『日本書紀』の外交記事を見直す: 徐甫京「百済を媒介とする高句麗と倭との交渉」 / |
唐の力を借りて、高句麗、百済を滅ぼし、倭を半島から追い出したが、唐に属州化されてしまった。 |
旧新羅に鶏林大都督府を置き、大唐帝国の一部となる 668年〜676年 /
鸡林州都督府
/ 熊津都督府
/ 安东都护府 |
唐が高句麗と百済を滅ぼした後、旧高句麗領を安東都護府
、旧百済領を熊津都督府
、新羅を鶏林大都督府として |
半島全域を藩属国から羈縻州
とした為、一旦、朝鮮に国はなくなった。 高句麗遺民の反乱が起き、新羅はこれを援けて唐に抵抗した。 |
また倭に対しても新羅が朝貢形式を取って使者を派遣、頻繁な交流が始まった。 |
【鶏林】は新羅発祥の地で、現在の慶州である。 |
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初の朝鮮半島統一王朝。( 統一新羅 ) |
668年、大唐帝国鶏林大都督府とされるが、羅唐戦争で抵抗。唐は対吐蕃戦のため半島から撤退。 |
676年、統一新羅 朝鮮半島をほぼ統一、初の朝鮮統一王朝。(新罗统一朝鲜半岛大部分地区,成为朝鲜半岛第一个的统一王朝。) |
674年、唐は新羅に対する懲罰行動(羅唐戦争
)を起こした、新羅が唐に謝罪して終戦となり、676年、唐軍が半島から撤収した。 |
これにより、新羅が朝鮮半島をほぼ統一した。
高句麗の旧領土の大部分には渤海が興り、これを支配した。(713年 渤海は唐から冊封を受ける) |
新羅は、羅唐戦争中にも、3度も謝罪使を派遣、また唐との朝貢冊封関係を維持し、唐の年号を使い続けた。 |
統一新羅が朝鮮民族国家の始まりとする説もあるが、この段階ではまだ北朝鮮部分の一部は唐の安東都護府と渤海の支配下にあったうえ、 |
その後も近隣の強国の支配を受け続け、人種的(DNA的)に安定をみる15世紀からが朝鮮民族国家の始まりとするべきであろう。 |
渤海は高句麗の後継国家で、ツングース系民族。 唐、新羅と対立しており日本に接近、唐と関係改善後も国交は続き、その滅亡まで |
日本との関係は良好であった。 |
|
唐に服属して所領安堵されたが、宗主国唐の滅亡で統一新羅も滅亡、後継の高麗は宋、遼、金、モンゴルに次々服属することになる。 |
唐、宋、遼、金、モンゴル帝国、明、清に服属 ( 735年〜1897年) |
735年 新羅、
唐から再び冊封
を受ける。官制や衣服のみならず姓や名、年号、暦までも、唐に倣った。 |
780年
新羅国王死去後、王位継承問題から、内乱が起り、地方勢力の割拠、農民の暴動が頻発。韓冦が日本を襲撃した。
|
新罗 (衰落与灭亡)
-維基百科 /
新羅の入寇
-wiki / 韓寇
- 維基百科 /
|
9世紀末には新羅は分裂状態となり、後百済、後高句麗が建国、後三国時代となった。この後三国は元の三国とは無関係。新羅人の国。 |
唐 滅亡 ( 907年 ) 五代十国時代となる。唐が滅亡すれば新羅も滅亡していく。 |
918年に後高句麗の将軍王建が高麗をたて、朝鮮を統一した。 高麗は仏教を保護した。 |
|
中国、五代十国時代から宋、遼、金 遼 ( 契丹 )、金 ( 女真 ) |
唐滅亡後、群雄割拠(五代十国時代)となり、中国は分裂状態となった。979年、中国は北宋により統一、満州では契丹族が遼を建国、 |
遼が高麗と北宋の間にいるという情勢であった。遼はウイグルや西夏とも対立していたため、朝鮮半島の直接経営には至らず、高麗の |
朝貢をうけるに止めた。遼は、勃興してきた女真族の金に滅ぼされた。金も南宋との戦争、契丹族の反乱があったが、朝鮮半島を |
高麗藩として、高麗は金の藩となった。 |
|
【五代十国時代】 |
唐 滅亡後50年間ほど中国は分裂時代に入った。主に開封を首都とした王朝( 後梁・後唐・後晉・後漢・後周 )と、地方政権の時代である。 |
【北宋
】が統一を為したが、満州には、契丹人、耶律氏の【遼
】が建国。華北の北京近辺(燕雲十六州)の割譲を受け,最初の征服王朝
となった。 |
女真族が【金
】を建国。遼・北宋を滅ぼし、チベット系民族タングート(羌)西夏
を服属させ、南の南宋と対立したが後、服属させた。 |
金は、燕京(現在の北京)に都を置いた。紹興の和議(1141年)を結び、南宋を朝貢国とした。 |
|
933年 、後唐の冊封。1016年、北宋の冊封。1126年、高麗は金の藩となった(高麗藩) |
918年 高麗 建国 935年、高麗に帰順して新羅滅亡。 後唐 - 宋 - 契丹 - 宋 - 契丹 - 金に服属 |
933年 高麗、後唐の冊封を受ける。 その後、宋、遼(契丹)、金に服属 |
(王氏)高麗は、(五代十国)が
宋(960年-1127年)によって統一されると、
宋に朝貢
した。( 963年 ) |
993年から1020年契丹の高麗侵攻
を受け、遼(契丹)に臣下の誓いと朝貢を行った。( 994年 ) |
1016年、北宋の冊封を受ける。 1022年、再び契丹に服属。 女真が1115年に金を建国、1125年に遼を滅ぼす。 |
高麗は、翌1126年に
金に服属、高麗は金の藩となった。(西夏藩・高麗藩・斉藩) 1170年、武臣の鄭氏が反乱。武臣政権の始まり |
1194年に高麗の武臣、崔氏が政権を掌握した。1220年からモンゴルへ朝貢したが、親元派と反元派の官僚の派閥抗争があった。 |
1170年から武臣政権の時代を経験したが、1258年、モンゴルの進攻に抗することができず、王政復古してモンゴルへ服属。 |
封建時代への移行は、挫折、中世の政治体制が続くことになった。 |
1258年 モンゴルに服属するまでの
高麗前期に漢族、渤海人、女真族など、23万8000人余にのぼる異民族が帰化し、高麗の発展に
|
寄与した。仏教は高麗初期から王族の支援を受け発展した。また道教も盛んであった。工芸においては高麗磁器、絵画では高麗仏画が |
制作され、仏教寺院も多く作られたが、後の李朝による崇儒廃仏政策によってほとんどの、寺院、仏像は破壊、棄却され消滅することになる。 |
1258年以降の高麗は、元末明初に離反するまでモンゴル帝国の中に埋もれてしまう。 |
朱子学は13世紀には朝鮮に伝わり、朝鮮王朝の国家の統治理念として用いられた。 /
朱子学 (朝鮮半島への伝来と影響) |
しかし、廃仏にまで至るのは、李朝になってからである。高麗時代は、儒、仏、道は共存した。 |
女性を朝貢品として献上する「貢女
」が高麗の時代に始まり、専門の役所が設けられ
李氏朝鮮時代も続いていた。 / 韓国 貢女
- Google 検索 |
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1126年、靖康の変
(せいこうのへん) 北宋の滅亡 |
北宋が金に敗れ、滅亡。残党が江南に逃れ、杭州で南宋を建国。その後1世紀半ほど存続、モンゴル帝国に吸収された。 |
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朝鮮最古の歴史書、『三国史記』 、1143年に執筆開始、1145年完成 / 日本では 1156年、保元の乱の頃 |
『三国史記』 巻23〜28 <百済本紀> /
『三国史記』第1〜12巻<新羅本紀> / 日韓がタブーにする半島の歴史
-新潮新書 /
|
南北朝鮮の国定教科書では、この本の記述を全て史実としている。その一方、都合の悪い記述は無視している。 |
しかし『三国史記』の成立は12世紀。新羅が国として成立するのは、4世紀代。従って新羅本紀の4世紀以前の記述は、信頼性が |
低いとされる。 また、新羅も 高句麗も百済も渤海も現在の韓国とは関係がない。朝鮮半島史と朝鮮民族の歴史は別のものである。 |
新羅は朝鮮民族のルーツではあるが人種的に安定するのは16世紀になってからである。 |
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三国史記に見る日羅関係
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新羅金氏王統の始祖瓠公
は日本人 /
新羅 雉林伝説(金氏の始祖伝説)
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『三国史記』新羅本紀「瓠公者、未詳其族姓。本倭人。初以瓠繋腰、度海而来。故称瓠公。」 |
(瓠公は、その族と姓は未詳。本は倭人。初め、腰に瓢箪をさげて海を渡って来たことから、瓠公と称される。) |
昔氏初代の昔脱解 ( 第4代脱解尼師今
) は日本人 /
新羅 脱解尼師今
/
新羅 阿珍浦伝説(昔氏の始祖伝説)
|
『三国史記』新羅本紀「脱解本多婆那國所生也。其國在倭國東北一千里。」 |
(脱解、本来は多婆那国で生まれた。その国は倭国の東北一千里に在る。) |
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1126年から高麗は金
に服属、金の高麗藩となっていた。金は、宋への介入に集中したため、高麗はそれほどの介入を受けずに済んだ。 |
これ以前の宗主国も同様であり、服属 すれば直接的な内政干渉はなかった。しかし、モンゴルは異なった。 |
中国、金(女真)から元(モンゴル) |
金は1234年、モンゴルにより滅亡した。高麗は1220年から1223年、モンゴルへ朝貢していたが、1225年にモンゴル使節を殺害。 |
1232年、72人の統治官(ダルガチ
)を殺害など、官僚の派閥抗争で、降伏しては講和内容を遵守しないという背信行為を繰り返したため
、 |
繰り返しモンゴルの侵攻を受けた。講和条件はその度に厳しくなった。1258年崔氏政権を倒し、王政復古、元へ服属した。 |
この戦渦と、元による強制連行で人口が激減。高麗は壊滅状態となった。 |
|
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モンゴルの侵攻で全土壊滅 ( 1259年) 大元帝国の一部となる ( 征東行省 ) |
1259年にモンゴルの侵攻
で高麗は実質的には滅亡状態となり、
モンゴル帝国に服属した。 |
服属後は姓や名までも、モンゴル風に改め、閨閥関係まで結んだ。そしてモンゴル軍の一部として、日本へ進攻した。 ( 高麗 忠烈王
) |
九州中世史・付論:「三別抄」とは何だったのか
1275年 耽羅国に耽羅軍民総管府
が設置され、東寧路総管府
、双城総管府
と合わせて
|
三つの総管府が置かれた。(完全植民地化) 1278年 胡服弁髪の令を出す。( 高麗 ) 完全なモンゴル化 |
1274年10月-11月、文永の役。1281年5月-7月、弘安の役。元寇の後も忠烈王は、何度も元に日本侵攻を進言(教唆 煽動)した。 |
3度目の日本への侵攻は行われなかったが、征東等処行中書省
は1289年、常設組織となり、高麗地区を直接統治する機関となった。 |
これにより国家の全機能が、征東行省へ移行。大元帝国の一部となった。 |
忠烈王はクビライの公主を娶り、王位についた。以降の王は元の宮廷で育ち、モンゴル人として高麗王に赴任した。 |
|
前期 倭寇
はじまる。 / 前期 倭冦は、元寇により甚大な被害を受けた壱岐 対馬 五島などの島民による報復の私戦であった。 |
『瀛環志略』徐継畭(清)、『東史綱目』安鼎福(李氏朝鮮) |
「倭人不過一二而本国之民仮著倭服成党作乱」(倭人は1、2に過ぎずして、本国の民、仮に倭服を着して党を成し乱を作す) |
Loxias 倭寇
/ 後期倭寇はほとんどが中国人や朝鮮人だった。『世宗実録』(李氏朝鮮) |
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【元寇】 |
元寇
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元寇と高麗 / 応永の外寇
/
高麗・李氏朝鮮の対馬侵攻
/ 朝鮮半島を中国とみなす記述 / Loxias 元寇と応永の外寇 /
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この元寇を中国では元日战争と言い。朝鮮では、日本遠征と呼ぶ。 /
元寇関連年表
/
朝鮮人はなぜ太平洋戦争を喜んだのか
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元軍、高麗軍襲来地をGoogleMapで見る |
鷹島
/
志賀島、能古島
/
平戸島
/
対馬、壱岐島
/ |
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『三国遺事』 檀君神話を創作 執筆は1270年代後半から1280年代中頃 / Loxias 檀君神話
/ 朝鮮の建国神話
(解法者) / |
官撰の「三国史記」は、12世紀中頃、金に服属している時期に書かれたが、13世紀末、歴代高麗国王の血にモンゴルの血が入り、征東行省に |
全ての権限が移行して完全に大元帝国の一部となった時期に、
檀君神話を創作するなど、現実逃避と妄想の、「三国遺事 」が一人の僧によって |
書かれた。執筆年代の特定できる古文書としての、価値はあるが、それ以上のものではない。
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1356年 元軍が高麗から撤退、双城総管府を回復。元の年号を止める。(独立) / 1370年 明の年号を用いる。(冊封) |
1359〜62年 紅巾の乱の兵が高麗に侵入、首都 開城を占領。 / 【 紅巾の乱
】元末期の宗教的農民反乱(白蓮教
) 白蓮教徒の乱は清代 |
中国、元(モンゴル民族)から明(漢民族) |
明朝の君主一覧
wiki / 朱元璋
(洪武帝) 中国はもとより全世界の帝王・王朝創始者の中でも最も悲惨な境遇から身を起こした人物 |
1368年、朱元璋(太祖・洪武帝)は南京に明を建国、
直ちに北伐を始め大都(北京)を陥落させ中国を統一。 |
二代目に洪武帝の孫、建文帝が即位したが、叔父で洪武帝の四男燕王が1402年、建文帝から帝位を簒奪し自ら皇帝に即位した。 |
(靖難の変
)これが永楽帝
である。永楽帝は、鄭和
に率いられた大艦隊を海外に派遣、国威を宣揚した。 |
永楽帝の子 洪熙帝
、孫 宣徳帝
の代に明は最盛期となった(仁宣の治)。洪熙帝は仁政を敷いた名君として知られるが在位は1年であった。 |
明の不幸は、名君の治世は短く、暗君の治世が長いことにあった。 |
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高麗滅亡、李朝建国。 明から朝鮮という国号を下賜される。 |
明が勃興、元が劣勢となった時。高麗王は元に援軍を出そうとしたが、女真族で将軍の李成桂が王権を簒奪、高麗王朝を倒して |
李氏朝鮮を興し、明に服属した( 1370年 )。元が滅べば、高麗も滅ぶ。 |
李成桂(女真族)が王権を簒奪したが新宗主国 明は、新王朝を第3代国王太宗の代になるまで認可しなかった。 |
明は、まだ北方へ逃れた北元
(韃靼) との戦いがあり、北元を滅ぼした後は新たに勃興してきたオイラート
、タタール
との戦争、 |
女真族との戦争があった。更には「北虜南倭」というように倭寇への対応もあったため
李氏朝鮮の直接経営には乗り出さなかった。 |
しかし政権基盤が脆弱であった李成桂は、積極的に明にすり寄り、儒教(中華思想)を導入した。 |
明は、最後まで李成桂を国王として承認せず、「権知朝鮮国事
(朝鮮王代理)」という称号しか与えなかった。 |
朝鮮王という称号が明から下賜されたのは、第3代国王太宗の代(1401年)になってからであった。 /
朝鮮王朝建国までの道程/wiki |
この明による建国許可を【大造之恩】という。 |
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142年間、朝鮮を支配した蒙古民族の元が後退し、漢民族の明が中原を支配した。 |
李成桂の王権簒奪 李氏朝鮮の始まり (1401年) 元から明へ乗り換え 国号を下賜され 明の属国となる |
13世紀以来、元の属国となっていた(王氏)高麗であるが、1368年に明が建国されると。1392年に高麗の武将李成桂
(女真人)が、 |
王権を簒奪。翌1393年に
明から権知朝鮮国事(監国=国王代理)に封ぜられ、国号を下賜され朝鮮と改める。 / traitor Taejo of Joseon
|
1394年に高麗王家の一族を殲滅。1401年、三代目の太宗が明から正式に朝鮮王として冊封を受けた。これが李氏朝鮮である。 |
李成桂は王姓を持つものを皆殺しにしようとしたため、王姓の者は改姓をした。全氏や玉氏、田氏などが改姓した王氏の
|
一族であると言われる。 崇儒廃仏政策をとり、仏教の抑圧を開始したが、一時中断。本格的になるのは第4代世宗の時代から |
になる。1418年に世宗が即位していたが、軍事の実権は父の太宗が握っており、1419年の応永の外寇
の指揮に当たった。 |
|
【慕華楼と迎恩門】 Loyalty toward China Hall. and Welcoming gate for obligation |
宗主国 中国の皇帝の臣下である朝鮮の王が、中国 皇帝の勅使を迎えるために、1407年に、現在の、迎恩門址の |
辺りに、「慕華楼」という迎賓館を建てた。1536年には「慕華楼」の
近くに「迎詔門」を建てた。 |
しかし1539年に明の使臣が門の名前がおかしいと言いがかりをつけ、朝鮮側は名前を「迎恩門」に変えた。 |
この「迎恩門」は1895年、日清戦争で清からの独立を得るまで、中国の皇帝の使者を迎えるために継続使用された。 |
慕華楼は、1429年、慕華館と改称した。現在の独立館は、1996年に復元したものというから、どこまで
原型に近いかは判らない。 |
元の位置は、現在の独立館より東南350mにあった。 なお、開化派の独立協会を弾圧したのは、守旧派の閔妃政権である。 |
第6話 『独立門に朝鮮人の独立自治の気概を見た』
/
独立協会
/ 徐載弼
- Wiki /
|
韓国指定宝物
の京畿監営図屏
左から5幅の上方に迎恩門と慕華館が描かれている。但し、この図は19世紀の作品である。
|
京畿監営図屏
Gyeonggi-gamyeong-do.jpg ( 1.36 MB ) 韓国語wiki / 韓国指定国宝
第284号 初雕本大般若波羅蜜多経 |
韓国指定国宝 第284号
- Google 検索 /
朝鮮半島から流出した文化財の返還問題
- Wiki / 朝鮮王朝実録
wiki |
文化財返還問題
- Wiki /
【仏韓】フランスは返還拒否 韓国からの“略奪文化財” 東亜news+
/
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【高麗史の編纂】 |
李氏朝鮮が中国(明)から建国を許可(大造之恩)された後、前王朝の正史を編纂する中国にならって紀伝体の『高麗史』を作成した。 |
歴代の高麗王の記述は天子を意味する「本紀」ではなく、諸侯をさす「世家」となっている。これは高麗王は中華皇帝の諸侯で |
あったからである。 /
正史
- Wiki |
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【応永の外寇】 室町時代の応永26年(1419年)に、倭寇撃退を名目に、17,285名の軍勢で対馬に侵攻したが、 |
600名の留守部隊に惨敗した事件。 / お笑い!応永の外寇
/ 三日月城通信 - 応永の外寇
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室町幕府は、事実究明のため朝鮮へ使者を送り、翌年には朝鮮から回礼使が派遣され、4代将軍足利義持に拝謁して日本と和解した。 |
9年後、足利将軍就任祝賀を名目に、朝鮮通信使が始められた。 |
なお朝鮮国内では、この侵略を第三次対馬島征伐、己亥征倭役、己亥東征などと呼び、勝利したことになっている。 |
戦果について対馬と朝鮮双方の発表に大きな隔たりがあるが、圧倒的戦力差に比して朝鮮側の史料でも戦死者数は拮抗しており、 |
大きな戦果のないまま早々に撤退していることなどから
継戦を断念せざるを得ない情況であったことが判る。 |
対馬と朝鮮は嘉吉条約(癸亥約条)を結び和睦する。
朝鮮は倭冦が沈静化すればよく、対馬は米が入ればよかったので、それぞれ |
対馬が臣従したので俸禄を支給した、朝鮮が対馬に朝貢し定期的に米を献上してくると喧伝した。 |
この時期の明の皇帝は、第3代皇帝
永楽帝
。明の最大版図を築き、鄭和の大航海などの事業を起こした。
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洪武帝(朱元璋 )とともに明の基礎を固めたのは永楽帝であると言われる。 |
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現代朝鮮人は16世紀に形成された |
中国版Wiki(朝鮮族/ー起源
zh.wiki) には、現代朝鮮人は16世紀に形成された ( 当代的朝鮮族在16世紀基本形成 )とある。 |
当代的朝鮮族在16世紀基本形成。在这个形成过程中,朝鮮半島北部的夫余、沃沮、東濊、鲜卑、高句丽人、渤海人、女真、契丹、 |
汉族等东北亚民族也有一部分融合進韓族(新罗人)中。与他们最近的民族是尼夫赫人
及科里亚克族。
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朝鮮族 - ( 維基百科,自由的百科全書 ) |
朝鮮人のルーツは7世紀後半の、統一新羅建国からであるが、その後も次々近隣の強国の支配を受け続け、人種的に安定を見るのは |
明の保護下に於いてであった。 日本では、朝鮮族と言うと中国少数民族を連想するが、日本語版Wiki の「朝鮮民族」に対応する |
中国版Wikiは、「朝鮮族」である。日本語版Wiki の「朝鮮族
」に対応する中国版 Wikiは、「
中国朝鲜族」である。 |
高句麗も百済も渤海も現在の韓国とは直接的な関係がない。新羅はルーツではあるが現在の韓国と同一民族とは言えない。 |
なお、日本語版Wiki (朝鮮民族/歴史/
) では、
『三国遺事』執筆年代の「13世紀後半に、現在の民族としての自己独自性の熟成と |
遺伝子的な一致がほぼ完成されたとみられる」
としている。 |
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豊臣秀吉、対 明 遠征のため朝鮮半島へ進攻 ( 日明戦争 / Ming-Japanese War ) |
日明戦争 (文禄・慶長の役、万历朝鲜之役) 当然、和平交渉も日明間で行われた |
朝鮮半島を戦場とした。日本と明との戦争。16世紀における世界最大の戦争であった。 |
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1592年 1598年 秀吉が、明の征服を計画、朝鮮へ出兵。秀吉の死をもって撤退、終結した。 文禄・慶長の役
(日) |
李朝の暴政に苦しんだ農民、非差別民の呼応決起もあり、短期間で漢城、平壌を制圧した |
「人心怨叛,與倭同心耳」(人心は怨み叛き、倭に同調するのみ)、「我民亦曰:倭亦人也,吾等何必棄家而避也?」 |
(我が民は言った倭もまた人である。どうして我々が家を捨てて逃げる必要がある?)『宣祖実録
』 |
「倭奴幾ばくもなし、半ばは叛民、極めて寒心すべし」『鶴峯集』金誠一(16世紀、李氏朝鮮の文官) |
文禄元年(1592年)4月12日、釜山に上陸。
5月3日、首都 漢城 陥落。
6月15日、平壌 陥落。 |
地図も絵地図程度、歩兵部隊の移動は甲冑で武装しての徒歩、なおかつ途中戦闘も交えてのこのスピードである。 |
秀吉軍撤退後、朝鮮の支配階級(両班)の間では、明のおかげで朝鮮は滅亡を免れたという考え(再造之恩)が興り |
明への恩義を深く意識し、従属を一層強めることになった。 / 1619年、
サルフの戦い
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1609年、李氏朝鮮と対馬の宗氏との間で慶長条約
が結ばれ、貿易が再開される。 |
歴史の勉強・宗氏
/
戦後交渉と徳川幕府
/ 偽使
- Wiki / 【黄文雄氏】 韓国知識人による歴史歪曲
|
この日明戦争時に於ける明の皇帝は、14代万暦帝
。明の退廃と爛熟の時期であった『明史』は「明朝は万暦に滅ぶ」と評している。 |
上陸開始から漢城占領まで - 文禄の役 /
全羅道への進撃 - 慶長の役
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文禄・慶長の役(主な戦い) - Wiki /
泗川の戦い
- Wiki /
露梁海戦
- Wiki /
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【明史 ・朝鮮伝】 |
前後七載、喪師数十万、糜餉数百万、中朝与朝鮮迄無勝算。至関白死、兵禍始休、諸倭亦皆退守島巣、東南稍有安枕之日矣。 |
秀吉凡再伝而亡。 / 『明史』卷三百二十二 列传第二百一十 外国三 |
『明史
・朝鮮伝』豊臣秀吉による朝鮮出兵が開始されて以来7年、十万の将兵を喪失し、百万の兵糧を労費するも、 |
明と朝鮮に勝算は無く、ただ関白が死去するに至り乱禍は終息した。 / 明はこの戦争もあって疲弊し約40年後、滅亡。 |
朝鮮は台頭してきた金に敗北、その後、反金・親明派のクーデターが起き、金(清)の侵攻を受け、清の属国となった。 |
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【李氏朝鮮の仏教弾圧と儒教の国教化】廃仏崇儒 |
儒教を国教とした李氏朝鮮は、徹底した廃仏政策をとり、寺院、仏像を破壊、僧侶を賤民とし、秀吉軍侵攻時には、 |
相次いだ弾圧で、全国で36の寺院しか残されていなかった。 / 朝鮮の仏教
/
李氏朝鮮時代の仏教弾圧
google検索 |
太宗による1407年の仏教弾圧の際、存続を許されたのは88寺院。世宗による1424年の弾圧の際に、存続を許されたのは36寺院。 |
※初代国王李成桂は、太祖。太宗は第3代国王。世宗
は第4代国王。 |
太宗は、李成桂が隠退した後、兄弟や功臣を排除し(王子の乱)国王となった。 |
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李氏朝鮮が儒教を国教とした理由は、前王朝の高麗が仏教に帰依していたからで、前体制の痕跡を一掃したかったからであると |
言われる。この選択が、以後の社会の停滞と小中華思想
(妄想世界観)の発生の原因となっていく。 |
日本では儒教は宗教ではなく学問であり、道徳、教養であった。このため、極端な原理主義に走ることなく、実学も重視され
、 |
特殊な技能を持つ名人、上手も社会的評価を受けた。仏教導入期と明治維新の一時期を除いて、
神、仏、儒は共存してきた。 |
この思想的柔軟さが、蘭学を生み、薩長を攘夷から開国へ転換させた。(教条に捕われることなく現実を見ることができた) |
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朝鮮朱子学
- Google 検索 /
性理学
李氏朝鮮の学問 -Wiki /
朱子学
-Wiki / |
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秀吉の朝鮮出兵を考える井上友幸 / 大航海時代 ( 海外侵略 ) wiki / 三日月城通信 - 車輪についての一次考察 /
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古代から文化は朝鮮が上等だったのか /
鉄砲伝来
/
火縄銃
/ 李氏朝鮮の文明水準
/
懲毖録
Wiki
|
日本式火縄銃は、1589年に対馬の宗義智が朝鮮国王に贈呈していたが、李朝はこの新兵器の意義を理解できなかった。 |
すでに妄想世界観に陥り現実に対応する能力が欠落してしまっていた。 / 種子島 鉄砲伝来の地を見る
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歴史資料室::李朝は韓民族をいかに歪めたか? /
歴史資料室::李朝500年と、徳川300年
/ |
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【小中華思想】 妄想世界観 朝鮮独自文化の発展を阻害 |
李氏朝鮮は、儒教を国教としたことで、受け入れ難い現実を見る事無く、妄想の世界に逃避し、諸悪の根源、妄想世界観(小中華思想)に |
よる、根拠のない、優越意識がここから一層強化されていった。またこの蔑視の対象は非両班の民衆にも及び彼らはシャーマニズムの |
世界へ退行していった。実学を軽んじ、非儒者を禽獣に等しいと見る思想は社会全体を退行させていった。 |
また、小中華思想は、中華に同化することを目指したものであることから、
朝鮮独自文化の発展を阻害することになった。 |
そして、外交上の一手段であった事大政策そのものが目的となって行った。 |
小中華思想
google検索 /
朝鮮人の小中華思想による蔑視
/
韓国における儒教・小中華思想
/
初めに
/
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小中華思想:イザ!
/
韓国という病
/
反日の言説
/ 歴史資料室::第2章 「醜い韓国人」は如何にして生まれたか
/ |
本家中国の中華思想は、文明の先進国であり、広大な国土と強大な軍事力を
背景にした傲慢であったが、 |
朝鮮のそれは、何らの根拠を持たない妄想でしかなかった。 |
韓国の民族主義
- Wiki /
士林派
- Wiki / 四色党争 (
儒教 朝鮮 2 とおいひのうた いまというひのうた
)
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自国優越思想というものは、どこの国にもあるが、この妄想世界観(小中華思想)は、隣の大国、宗主国の自国優越思想(大中華思想)を |
全面的に真理として受け入れた上で、その真理を最も正しく遵守信奉しているから、四夷八蛮より優越しているとする鬱屈したものである。 |
この宗主国の重しが無くなった結果、妄想が無限大に膨張を始めてしまった。 この妄想世界観(小中華思想)こそが、朝鮮の発展を阻害し、 |
世界への適応を妨げ
てきた。 中国の場合、一般大衆は別にして、国家指導部は解った上で
政策として、中華思想を実行しているが、 |
朝鮮の場合、正気の人間を、親日=犯罪として弾圧し、
軌道修正の効かない暴走状態となってしまっている。 |
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【坤輿万国全図】 |
明代 (万暦帝) の世界地図「坤輿万国全図 」には以下のように書かれている。 |
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国指定重要文化財 1602年、北京にて刊行、マテオ・リッチ撰「坤輿万国全図
」部分 |
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朝鮮乃箕子封國漢唐皆中國郡邑 今爲朝貢屬國之首古有 三韓穢貊渤海悉直駕洛扶餘新羅百濟耽羅等國今皆併入 (坤輿万国全図) |
(朝鮮は箕子の封国であり漢代も唐代も皆中国の郡邑であった。今は朝貢属国の筆頭である。 |
古くは三韓・穢貊・渤海・悉直・駕洛・扶余・新羅・百済・耽羅等の国があった。今は皆朝鮮に含まれる) |
明の国際関係
/ |
漢、唐、元と違い明、清は朝鮮半島を直轄領にはしなかったが、扱いは、冊封国中、最低ランクのものであった。 |
しかし、朝鮮は妄想世界観(小中華思想)から、自らが、華夷秩序の中心にあるという幻想をもって現実を直視することから逃避した。 |
|
中国東北部にいた女真族は、明に服属していたが、秀吉軍の侵入で明軍が朝鮮半島にはりついている間に、
急速に力をつけ、 |
1616年には後金国を建国して、明と対立するようになった。1644年、李自成 農民反乱軍により北京陥落。崇禎帝 は自殺、明滅亡。 |
明朝最後の第17代皇帝は、
崇禎帝
。清は、明の後継者となって李自成を討伐することを「入関
」の口実としたため、
崇禎帝に、 |
独自の廟号・諡号を贈り、陵墓を造営した。少数派の満人が多数派の漢人を支配する大義名分とした。 |
|
|
中国、明(漢民族)から清(満民族) |
244年間、朝鮮を支配した漢民族の明が滅亡し、満民族の清が中原を支配した。 |
女真族が満州に興隆、後金を建国。この後、金は清に改名。当初はまだ明が健在。明が滅亡したのはそれから約20年後、その後も |
旧明軍の反乱があった。ジュンガル
のガルダン・ハーン
が勃興、戦争となりロシアとも戦争となった。 |
国内では地方民族の反乱が続いた。しかし、西方に進出してチベットを征服。ロシアとは和睦。中国の領土は過去最大となった。 |
あえて、飢饉、自然災害の続く朝鮮半島を直轄領にする必要はなかった。朝鮮王朝が事実上の地方行政機関であった。 |
|
|
|
|
清軍、侵入5日で城を包囲、40日余りの篭城の末に降伏。(1637年)明から清へ宗主国交替 |
後金(清)は1627年(丁卯の乱)以後、対明戦の軍糧、兵船などの貢物を毎年徴収していた。 |
1637年
丙子之役で
李氏朝鮮は
清の冊封国となり(『清史稿
』 列伝 三百十三 属国一)、この時、大清皇帝功徳碑
を建てさせられた。 |
この宗主国交代によって、精神的にも政治的にも心の支えであった明(大中華)の滅亡を経験した。 |
清は50万の朝鮮人を捕虜として強制連行、盛京の奴隷市場で売った。 /
中国の奴隷制
- Wiki |
|
清からの勅使は、257年間に161回におよび、そのたびごとに朝鮮国王は迎恩門
で、三跪九叩頭の礼
により迎えた /
属国・植民地の朝鮮
|
明代に明の海禁政策に従い、海禁を行ってきたが、清の冊封国となってからは、外国との接触を絶って「隠遁の王国」となった。 |
また、清に服属した途端に、手のひらを返して明人虐殺の先頭に立った。元から明の時も同様であった。(恩を仇で返す国) |
なお、「迎恩門 」は、明時代に建てられたものであるが、これ以後は清の勅使を迎えるために使用される事になった。 |
「迎恩門 」は1895年、日清戦争で独立を得た時に取り壊され、独立門が建てられた。「大清皇帝功徳碑 」は三度渡碑と名前を変えられ |
漢字教育を廃止して国民大多数が読めなくなったため存続していたが、2008年、碑文を削り取った上で、ロッテワールド裏へ移転させた。 |
|
大清皇帝功徳碑 (漢文) タイトル部分拓本 1637年建立 |
|
漢文、蒙古語、満州語で彫られていたが、2008年に韓国政府によって削り取られた。 |
また、満州語、モンゴル語、漢文の原文を掲載しているサイトがあり、以前は閲覧できたのだが、
|
移転、閉鎖の公告もなく不通状態になっている。2012年6月下旬から「サーバーが見つかりません」になった。 |
|
大清皇帝功徳碑 大意 |
愚かな朝鮮王は、偉大な清国皇帝に逆らった。清国皇帝は愚かな朝鮮王をたしなめ、己の大罪を諭してやった。 |
良心に目覚めた朝鮮王は自分の愚かさを猛省し、偉大な清国皇帝の臣下になることを誓った。 |
我が朝鮮はこの清国皇帝の功徳を永遠に忘れず、また清国に逆らった愚かな罪を反省するために、この石碑を建てることにする。 |
|
|
【清朝下に於ける小中華思想の変容】 |
中原の支配者が、明から清へ移り、禽獣に等しい蛮族と考えていた清の支配を受けたことで 妄想世界観 は更に鬱屈していった。 |
宗主国清へ事大の礼を尽くす一方、中華の正統は。
朝鮮に移ったなどと妄想を更に増大させ、無為徒食の両班の暴政は |
社会の停滞と逆行をもたらした。儒教原理主義に陥ることで現実への対応能力を全く喪失してしまった |
自身は無謬であり、非は全て他者にあるとする、非論理的、
小児病的思考様式は、この妄想世界観(小中華思想)に由来するものである。 |
清王朝における儒学的な中華思想(華夷秩序)の変質と雍正帝による中外一体(一君万民)の原則
/
|
清朝皇帝は漢民族優越思想の無根拠を痛烈に指摘。また中国儒学は、陽明学が発展したが、朝鮮儒学は、朱子学を護持した。 |
陽明学や西学(西洋知識)、北学(清の学問)の流入もあったのだが、朱子学派によって押さえ込まれ、発展することができなかった。 |
詭弁と空理空論の世界で党争のみが続いていった。 / はかなく消えた朝鮮の実学:イザ! / |
|
【大報壇】 「大造之恩」「再造之恩」「 事大慕華」 |
1705年、朝鮮王 粛宗は、秀吉の朝鮮出兵のとき助けてくれた明の万暦帝の恩徳(再造の恩)に感謝する祭壇、大報壇
を建立した。 |
このような明崇拝を「尊明義理」という。粛宗の子で2代後の王、英祖はさらに1749年に、朝鮮の創業を承認し、国号を定める |
「大造の恩」を施した、明の初代皇帝・洪武帝と明最後の皇帝・崇禎帝の2皇帝を追加した。祭祀は1894年まで行われ続けた。 |
清に支配されている現実は別にして、妄想の世界では中華の正統、明を奉じている朝鮮こそ世界の中心 中華になった。 |
日韓近代史資料集
- 韓国の小中華思想(2) /
大報壇
- Google 検索 / 歴史資料室::9章 いまに続く朝鮮の宿痾
/
|
事大慕華
- Google 検索 /
尊明義理
- Google 検索 /
朝鮮尊明貶清的理論
- Google 検索 /
|
大報壇は昌徳宮
の北西部にあったが、1921年になって、取り壊した。 |
|
冊封国は、宗主国の暦の使用を義務付けられているため、清朝に提出する正規の公文書は、清の暦を使用したが、李朝内部では |
密かに明の暦(明最後の崇禎紀元や、南朝の年号)を使い続けた。 ( 從正朔看朝鮮王朝尊明反清的正統意識 ) |
南明
- Wiki /
鄭氏政権 (台湾)
- Wiki / など明滅亡後も、明の残存勢力や、反中国周辺民族の抵抗が続いたが、全く明復興の |
可能性が無くなった後も、明崇拝を続けた。明と明の属国である朝鮮が中華世界であるという妄想世界観(小中華思想)だけが |
李朝の正統性と優越性を証明する唯一のものだったからである。もはや実態の無くなった明を偲ぶため大報壇 は建てられた。 |
【圜丘壇】 ソウル市中区小公洞87 ウェスティン朝鮮ホテル ( 旧朝鮮ホテル ) 内 /
圜丘壇
- Wiki
|
朝鮮は中国の属国として、国王が天を祭る資格が与えられなかったが、1897年、李氏朝鮮が大韓帝国になり国王が皇帝を |
称した為、歴史上初めて作られた。中国の天壇に相当するもの。現在はホテルの庭に八角堂と門などが残っている。 |
|
【明清交替】 朝鮮では、清に事大しながら裏では「胡虜」「犬羊」と呼び蔑視するという異様な時代が始まった。 |
明清交替
/ 華夷変態
/ 清朝第5代皇帝
雍正帝
は、1730年
大義覚迷録
を執筆出版した。 |
清は漢民族優越思想を否定する一方、少数派の満民族が多数派の漢民族を支配するために、李自成ら逆徒を誅し中華の正統を継いだとした。 |
日本の思想界にも大きな影響を及ぼした。五畿内志
wiki /
尊王思想の研究5—華夷変態
- Google 検索 / |
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中国帝王一覧
- Wiki / |
清、四代康熙帝
。在位1661〜1722。
康煕年間は清代でも乾隆年間とならぶ盛時、康煕帝は中国歴代最高の名君とされる。 |
清、六代乾隆帝
。在位1735〜1795。
清朝の最大版図を形成。、清朝の絶頂期であった。 |
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1653年-1666年 |
『朝鮮幽囚記』Hamels Journal Description Kingdom of Kore 1653-1666(Hendrick Hamel) 1653年〜1666年の李氏朝鮮 |
日本へ向かう途中、難破。朝鮮に幽閉され、13年後、日本へ脱出することに成功したオランダ人。ヘンドリック・ハメルが書いた。 |
ヨーロッパに初めて、李氏朝鮮時代の朝鮮に関する詳細かつ正確な記録を残した。 日本では、第4代将軍徳川家綱の時代。 |
18世紀以前の朝鮮に関するまとまった唯一のレポート。徳川幕府は残りの生存者の救出も行った。 清は康煕帝の時代。 |
「彼等は盗みをしたり、嘘をついたり、だましたりする強い傾向があります。彼等をあまり信用してはなりません。」(朝鮮幽囚記) |
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朝鮮幽囚記
- Google 検索 /
Amazon.co.jp: 朝鮮幽囚記 (東洋文庫 132): ヘンドリック・ハメル, 生田 滋: 本
/
|
The Journal of Hamel and Korea
/
Hendrick Hamel's journal
- Google 検索 / |
Hamels-Journal-Description-Kingdom-1653-1666
amazon /
mochi thinking: Hendrik Hamel
/
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1805年 |
『晝永編』1805年に鄭東愈(정동유)という儒者が書いた本 / 李氏朝鮮の経済
- Wiki /
Korea Issue Ninja Fraud and Cult / |
朝鮮に無いものが三つ、それは羊と車と針。針は衣類に穴が開くくらいの粗雑なものでしかなく、中国から買って来ていた。 |
Korea Issue Ninja Fraud and Cultというサイトに晝永編
の当該ページの画像があります。読めるサイズです。 |
この時代、日本では1804年11月14日、華岡青洲
が、実例として証明されている最古の全身麻酔手術に成功しています。
|
この時代、中国では白蓮教徒の乱
(1796年〜1804年) 弥勒下生を唱え反乱。清朝の威信が失墜した。 |
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東インド会社と植民地経営競争
/ |
19世紀 世界の一体化と民族国家 |
19世紀
/ |
産業革命
wiki /
帝国主義
wiki /
植民地帝国
google検索 / アジア植民地
- Google 検索 /
近代における世界の一体化
- Wiki /
|
現在の "国家、民族" の概念が現れたのは19世紀からである。 |
近代国家
- Google 検索 /
近代国際法
- Google 検索 /
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列強の清への進出と大規模宗教反乱 |
阿片戦争(第一次アヘン戦争) 1840年〜1842年 / アロー戦争 (第二次アヘン戦争)1856年〜1860年 |
太平天国の乱 1850年〜1864年 清末の大規模宗教反乱 (洪秀全を天王とずるキリスト教系新興宗教) |
1858年、ロシア帝国とアイグン条約
を締結。 / 1860年、英仏と北京条約を締結。 |
この一連の西欧との戦争で洋式軍備の優秀性を知った清は、洋務運動で軍の近代化を図ることになる。 |
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幕末から明治の世界 |
幕末の砲艦外交
/ 1861年
ロシア軍艦対馬占領事件
/ 明治開化期の日本と朝鮮(1)
/ 第三部 列強圧迫下・苦悩のドラマ - / |
海外と幕末そして明治
/
1870年代
wiki / 第二次産業革命
wiki /
大不況 (1873年-1896年)wiki /
|
江戸時代の日朝関係は、対馬藩の朝鮮貿易を認める形で続いていたが、新政府成立に伴い朝鮮にも開国を求めた。 |
1875年(明治8年)江華島事件
明治新政府は、8年間、国交を求めてきたが朝鮮は応ぜず、ついに武力衝突事件が発生した。 |
|
日朝修好条規 |
1876年(明治9年)日朝修好条規
日本は朝鮮を清の属国としてではなく、独立国として扱おうとした。 |
日本が朝鮮を清の属国ではなく自主の邦として認めた世界ではじめて、唯一の国であった。 /
朝鮮の独立
|
日朝修好条規
wikisource これをきっかけに、朝鮮は西欧各国と、修好条約を結んだ。但し、 日朝以外は全て、清の裁可を仰いだ 。 |
第一款 冒頭部分 |
朝鮮國ハ自主ノ邦ニシテ、日本國ト平等ノ權ヲ保有セリ。(朝鮮は自主の国であり、日本と平等の権利を有する国家である。) |
|
然るに、清は朝鮮の独立を認めず、また朝鮮の実態は驚くべき状態であった。 |
1876年(明治9年) |
宮本大丞朝鮮理事始末 朝鮮政府接遇記略及風俗概要 作成者:陸軍大尉 勝田四方蔵、陸軍少尉 益満邦介 |
明治開化期の日本と朝鮮(9)
宮本小一外務大丞、朝鮮国京城に行く / |
|
1879年(明治12年) |
釜山港貿易景勢及び朝鮮国情に付き建白 外務省上申として提出された建白書。 |
建白書執筆時点で6年に渡り日本の公館に勤務した人物が提出した。 ( 在釜山港管理官 外務三等属山ノ城祐長
明治十二年一月十五日 ) |
「(朝鮮の)政府が人民を虐げること甚だしく、人民塗炭の苦しみは真に見聞するにも堪えない惨状である。」 |
|
1882年(明治15年) |
朝鮮善後六策 |
朝鮮では国王の父、大院君と国王の妃、閔妃の敵対によるクーデター合戦が続いた。 宗主国の中国では、1882年の壬午事変の鎮圧の後 |
張謇
が、東三省から朝鮮省をも含めて『東四省』とし、"李朝国王"を廃して"監国"にする案を出した。『朝鮮善後六策』 |
李朝を廃止して朝鮮省に改変する(直轄支配)案である。これを大中華への昇格として歓迎する動きすらあった。 |
|
なお、壬午事変の鎮圧後、清は朝鮮に中朝商民水陸貿易章程を結ばせ、清領租界を設けた。 |
「日朝修好条規」で朝鮮は独立国だと明記されたため、「商民水陸貿易章程」で再び、朝鮮は中国の属国であると再確認した。 |
翌年の下関条約で商民水陸貿易章程は無効となるが、1910年3月に新たな租界章程を結び租界を維持した。 |
日韓併合後も清領租界は清国が確保している。 /
朝鮮半島の中国租界
/
朝鮮(韓国)の租界
/ 朝鮮は清国の属国である
|
清は、清仏戦争
の天津条約
(1885年6月)で、ベトナムをフランスに奪われており、朝鮮だけはどうしても手放したくなかった。 |
清から見て不可分の属国であった。 中朝商民水陆贸易章程
wikisource / |
※ 朝鮮の歴史的事件に干支が使われている訳は、属国には独自元号の使用が認められていなかったからである。 |
|
1884年(明治17年) 19世紀の世界的秘境であった |
隠遁の王国 THE HERMIT KINGDOM George Foulk |
1884年、アメリカ人ジョージ・クレイトン・フォーク
が朝鮮国内を旅行、
「INSIDE THE HERMIT KINGDOM」を書いた。 |
George Foulk - Inside the Hermit Kingdom photos 1
/
George Foulk - Inside the Hermit Kingdom photos 2
/ |
よく見かける一輪車の他、彼が旅行に使用した"輿"の写真もある。日本では平安時代にすでに牛車があった。これが19世紀末朝鮮の実態。 |
中国では秦の始皇帝の軍に馬で引く戦車があった。古代エジプトにも、マケドニアにも、古代ローマにもあった。 |
二輪の荷車を持たなかったのはインカ帝国ぐらいなものである。しかし、インカは壮大な石造建築を残した。 |
中国からの流入はおそらくあった筈であるが、車輪を補修し、制作する技術者が賤民扱いであったため技術の伝承、改良などが行われる |
ことなく消えていったのだろう。朝鮮通信使は室町時代以来の来日のたびに、水車の作り方を調べ、図解して帰ったが、とうとう |
最後まで作ることができなかった。高麗の青磁、李朝の白磁も陶工を賤民扱いしていたため、それ以上の発展はなかった。 |
また、青磁、白磁は、中国伝来である。そして朝鮮磁器の芸術性を認めたのは、日本の戦国時代の茶人、武将であった。 |
また、彼らが評価したのは、朝鮮磁器だけではなく、シャム(タイ)やルソン(フィリピン)の雑器もあった。勿論、唐渡りもあった。 |
あらゆるものに美を認め、技術を評価する文化がなければ、技術は定着、発展することなく消えていってしまう。 |
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Amazon.com: Inside the Hermit Kingdom: The 1884 Korea Travel Journal of George Clayton Foulk
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1893年(明治26年) 日本の浪人、本間久介(如囚居士)が、半島を探査した。 |
朝鮮雑記 /
朝鮮雑記
Googleブックス |
釜山、京城から、京畿道、 黄海道、京畿道及び忠清道一帯を踏破。その不潔、懶怠、腐敗を観察した。 |
「汚い」というのが、朝鮮を訪れた外国人の共通した感想
朝鮮歴史館 /
日本の浪人が見た1893年の朝鮮の風景〜『朝鮮雑記』本間久介著
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1894年(明治27年) 1894年から97年、イザベラ・バード( isabella lucy bird bishop ) は4回、半島を旅行した。 |
朝鮮紀行 Korea & Her Neighbours sabella lucy bird bishop |
バードは、朝鮮の問題点として国家システムの崩壊、官僚の腐敗、吸血鬼のような貴族(両班)階級を挙げた。 |
また、朝鮮の町の不潔、悪臭、インフラの不備を指摘。ソウルを「都会であり首都であるにしては、そのお粗末さは実に |
形容しがたい」と記述した。 歴史資料室::朝鮮紀行 イザベラ・バード
/ |
korea-and-her-neighbors
/
朝鮮紀行
(講談社学術文庫) [文庫] / 朝鮮紀行
- Wiki / 4人の外国人が見た韓国併合前の朝鮮 / |
Korea And Her Neighbours in 1898 /
Korea and her Neighbors(この本には1頭だてのpassenger cartの図が載っている |
1897年には、馬で引く"2輪車"が導入されていたことが判る。ロシア人入植者の写真もあり、輸入品であろう。) |
|
1894年(明治27年) |
対韓政策に関し意見上申之件 在京城日本領事館の二等領事、内田定槌 |
十分に当国内政の有り様を観察すると、中央政府を始めとし、百般の行政機関は実に腐敗の極点に達し、民力の困弊は実に名状すべからざる |
状態に陥っている。当国政治上の実権は常に国王または王妃の近親である二三の門族に帰することが例となり、各族は互に権力を競争し、 |
その競争に当っては、各自家の利益を図ることに汲々としているのみで、国家の安危、王室の栄辱を眼中に置く者は無い。 |
役人は皆その在職中、職権を濫用して貪欲に行動し、公然として賄賂を収めて私曲を行う。それに逆う者がある時は、残忍酷薄の処置をして |
毫も顧みることはない。
観察使を始め、その他の地方官は皆、人民の生殺与奪の権を有する。百般の農工商業は全て萎靡してしまい、 |
開発することはない。 /
日清戦争前夜の日本と朝鮮(23)
/
原文
|
|
1894年(明治27年) |
日清戦争 / 1895年(明治28年) 下関条約 |
日清戦争について 日清戦争下の日本と朝鮮(14)
日清開戦までの両国交際略史 / (1895年)下関条約で、清より独立 |
日露戦争前夜の日本と朝鮮(7)
/ 「今日の如く王妃跋扈しては国家滅亡すべし」明治28年 大院君の言 |
日露戦争 (1904年〜1905年) 明治37年〜38年 |
公文書に見る日露戦争
/
ポーツマス条約
/
Category:日露戦争
- Wiki / 日露戦争の原因
/ |
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1905年(明治38年 ) 刊行 |
「裏面の韓国」沖田錦城
「裏面の韓国」 沖田錦城
- Google 検索 / |
「裏面の韓国」 沖田錦城・著 輝文館・刊 明38.4 (1905)
|備忘録 / 豚犬的生活
- Google 検索 / |
実に不潔な真実の朝鮮人
- フレディのブログ / 朝鮮半島を踏査した著述家 沖田錦城が書いた |
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1906年(明治39年 ) 刊行 |
「最近朝鮮事情」荒川五郎 / 最近朝鮮事情
wiki / 「最近朝鮮事情」荒川五郎 - Google 検索 / |
朝鮮半島を視察した当時の衆議院議員荒川五郎が書いた。 |
|
1912年 出版 1904〜1905年、日露戦争の取材のため朝鮮に入ったスウェーデン人ジャーナリストが目撃した李朝最期の真実 |
「悲劇の朝鮮」I Korea ; Minnen och studier fran "Morgonstillhetens land". William Grebs |
アーソン・グレブストのI Korea原文発見
/ (因果関係)「悲劇の朝鮮」
/
|
この本の内容に関してWeb上で、色々、論争があるが、日本語訳が"朝鮮大学"の教授 高演義と助教授 河在龍による共訳であることに |
留意が必要。 /
Lying as Korean culture Ninja Fraud and Cult
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1904 年〜1945年 朝鮮軍は、大日本帝国陸軍で朝鮮を管轄した軍。 |
「朝鮮軍司令部1904 1945」
Amazon.co.jp: 朝鮮軍司令部 1904‐1945: 古野 直也: 本
/ |
朝鮮軍司令部1904 1945
- Google 検索 /
朝鮮軍 (日本軍)
- Wiki / ブログテーマ[朝鮮人の実態] / |
朝鮮軍司令部で出した朝鮮兵の注意書
- Google 検索 / |
|
「日本政府から朝鮮総督府への通達 」なる文書について |
朝鮮総督府官報
- Wiki / 三百代言 別館(朝鮮総督府官報置き場) /
朝鮮総督府編纂教科書
/ |
アジア歴史資料センター 収蔵データ一覧 /
朝鮮総督府への通達
- Google 検索 /
|
ネット上でよくみる朝鮮人の扱い方に関する「日本政府から朝鮮総督府への通達 」の...
- Yahoo!知恵袋 /
|
上記、解答者の指摘の通りで、これは、創作であろうと思われます。 |
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李氏朝鮮の時代とは 日欧にはある封建時代を経由しておらず、中世的世界であった /
李氏朝鮮 インカ帝国
|
日本統治時代の朝鮮
/ 李氏朝鮮の時代
李氏朝鮮
google検索 / 4人の外国人が見た 韓国併合前の朝鮮 /
客妾
Wiki |
李氏朝鮮末期の史実(1):イザ!
/
李氏朝鮮
/
李氏朝鮮
/ 15世紀初め李氏朝鮮
耽羅
(済州島)を併合。 / |
韓国時代劇ドラマ年表google検索 / 大朝鲜帝国史google検索 / 三日月城通信 - 大航海時代が素通りした朝鮮半島
/
|
朝鮮半島+歴史
google検索 /
朝鮮半島の歴史
/ 大清国属高麗国旗
google検索 / 三日月城通信 - 李氏朝鮮史
/ |
日本統治前の朝鮮
(テキストエンコーディングはEUCで書かれています) / 日韓併合の真実
/ 李氏朝鮮時代の仏教弾圧
/
|
朝鮮紀行-イザベラ・バード
講談社学術文庫 /
日本の浪人が見た1893年の朝鮮の風景〜『朝鮮雑記』本間久介著、初の完訳
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「文明開化に失敗した李氏朝鮮」を認めない韓国史観 / 韓国人の歴史観
(文春新書) / 朝鮮の正しい歴史認識その他 / |
一般大衆の生活レベルは、19世紀末ではあり得ない世界最貧国の状態であった。 |
朝鮮没落の主犯は、国際情勢に疎かった指導者層だけか?:イザ!
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朝鮮人の民族性:イザ! /
欧米から見た朝鮮
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李氏朝鮮の呪い
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地獄の李氏朝鮮 / 「李氏朝鮮末期の社会」に関する資料集
/ 眠り続ける朝鮮半島、近現代史の旅 NO16
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妄想世界観による両班暴虐支配500年に、社会は退行し人心は荒廃してしまっていた。 |
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李朝悪政論に対する韓国の学者の反論として李泰鎮「韓国近現代史認識の歪曲と錯乱」.pdfが出ている。
しかし、これは非両班庶民の
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圧倒的な悲惨な状況を、全く無視したものである。 / 韓国近代史家のご苦労が偲ばれる「日本帝国の申し子」からちょっと:イザ!
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エコロジー都市 江戸
明治維新が成功したのは、それを受け入れる土壌があったからである。 |
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日本との違い |
日本では安土桃山時代から町人文化が花開き、
商人階級が力をつけ、商工業のギルドが発達した。 |
たしかに、時代の制約、封建制に由来する理不尽な問題はあった。
飢饉、農民暴動、宗教反乱もあった。 |
しかし、暗黒面のみを取り上げて
全否定できるものではない。西欧の各国も同様の社会進化を遂げてきた。 |
町人文化が存在せず、商工業は発達することもなく萌芽段階から衰退、退行、消滅し、法治体制や貨幣経済まで崩壊して |
しまっていたのが李氏朝鮮の姿であった。軍事外交も清に依存し、国王就任の承認も清の認可を必要とした国家の体を為さない |
状態であった。 |
日本では江戸時代には、諸国大名に金を貸し、先物取り引き、投機をする金融資本があり独自の資本主義が発達していた。 |
藩を超えた物流のネットワークがあり、マスメディア業者もあった。
幕末明治に流入した東洋思想にはなかった概念用語に新たな訳を付け、 |
漢字文化圏に広がった。人民共和国、社会主義なども和製の漢語である |
现代汉语中的日语“外来语”问题 /
中国語の中の日本語
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日本から中国へ伝来した和製漢語
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江戸時代の伝統文化と誇るべき学問の水準
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江戸は世界に類例のないエコロジー都市であったことは知られているが、
これは、日本の気候に関係がある。奈良時代の平城宮は、 |
中国に倣って築かれたが、遷都の原因説の一つに下水、ゴミ処理説がある。乾燥地帯にある中国の都市は下水、ゴミ処理対策 |
をすることが無かった、大河が全て流してくれた。これは緯度の高いヨーロッパも
同じで、ヴェルサイ宮殿にトイレが無かった |
ことは有名である。下水、ゴミ処理対策が行われるようになるのは、近代になってからである。 |
これに対して日本は奈良、京都が温帯にあり、大河も無く、下水、ゴミ処理対策をすることなしに、
都市機能の維持が不可能であり、 |
人口が増加するに従い、対策は進化し、清潔が常識となった。 |
このため、明治期、朝鮮を旅行した日本の知識人が、その不潔に驚くことになる。 |
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新井白石と朝鮮通信使 |
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夫れ朝鮮は狡黠にして詐り多し。利の在る所、信義を顧みず。 蓋し(けだし)穢貊の俗、天性固(もと)より然り。( 新井白石 国書復号経事) |
【狡猾/狡黠】こうかつ / 【穢貊】わいばく。:古代、中国東北部から朝鮮北東部にかけて居住していたツングース系 種族であるが |
ここでは具体的な民族名ではなく、東夷(東の野蛮人)という意味である。 / 【俗】ならい。 |
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朝鮮通信使
wiki /
朝鮮通信使
google検索 /
朝鮮通信使?朝貢団?
/ 朝鮮通信使の真実
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三日月城通信 - 朝鮮通信使
/ |
日東壮遊歌
wiki /
日東壮遊歌
-東洋文庫 / 日東壮遊歌
google検索 / 1764年に書かれたものだが、李朝末期でも何ら変わりはない。 |
金仁謙 著『日東壮遊歌』 ー 日本の繁栄を羨み恨む朝鮮通信使の記録 / 鶏を盗んで、町人と 喧嘩をする 朝鮮通信使 / 朝鮮通信使ソウル
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一国を代表する使節団のこの民度の低さ、羨望と嫉妬と同居する不思議な優越意識。全く理解の範疇を超えた精神構造。 |
日韓がタブーにする半島の歴史-新潮新書 /
やっかいな隣人韓国の正体-祥伝社 /
「やっかいな隣人韓国の正体」から
/ |
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This picture depicted the scene where an officer of Tsushinshi who stole a chicken
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kept by a townspeople was fighting with Japanese while escaping with the chicken. |
朝鮮聘礼使淀城着来図
wiki
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1748年に朝鮮通信使が淀藩(京都市伏見区)の城下を訪れた際の様子を、淀藩士 渡辺善右衛門が描いた。 |
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応永の外寇の世界史上類例のない大敗北の9年後、足利幕府の要求に応じて始められた |
室町期朝鮮通信使は、3回行われた。足利将軍の襲職を慶賀する名目であるが、同行した書記官による『海東諸国紀
』では、日本の国情視察と |
先進技術の導入が目的であることが書かれている。日朝貿易のメリットが無かったため中止された。(宗主国は明) |
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歴史に学ぶことなく再び根拠なき優越意識に耽っていたが、秀吉軍が半島を経由して対明戦争を計画している情報が入った。 |
豊臣秀吉時代の朝鮮通信使は、2回行われた。1回目は、朝鮮侵攻の真偽を確かめるために派遣された。2回目は、日本と明の休戦交渉の明使に |
通信使が同行した。明使の交渉は失敗、慶長の役の再出兵が行われた。(宗主国は明、江戸時代は清が朝鮮の宗主国) |
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日本に安定した全国統一政権が出来たため、再びの進攻を恐れ、徳川幕府の要求に応じて始められた。 |
江戸時代の朝鮮通信使は12回。1〜3回は、捕虜返還交渉が目的。 以降は、将軍就任等の祝賀使節で、当初から日本人は、朝鮮通信使を |
朝貢使節団として捉えていた。12回目は、対馬に差し止めとなり、以後、再開されなかった。 / 朝鮮通信使
wiki
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朝鮮通信使と水車
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朝鮮聘礼使淀城着来図は、1748年 徳川家重 襲封祝賀のために派遣された際のもの。日東壮遊歌 は、1764年 徳川家治襲封祝賀の際のもの。 |
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《海東諸国紀》日本国対馬島之図
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『境界の考古学』俵寛司 松岡正剛の千夜千冊・遊蕩篇
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朝鮮通信使招聘は、参勤交代と同じく西国大名に費用負担させ、その財力を削ぐこと、また娯楽の少ない時代に珍しい見せ物を |
行列行進させることで、将軍代替わりの祝賀宣伝を庶民に至るまで知らしめることが目的であった。第4回目の通信使は、1636年。 |
1641年には長崎に出島が開かれオランダとの貿易が始まり、8代将軍徳川吉宗の時代にはキリスト教関係以外の洋書を解禁。蘭学が |
興り、科学的合理的思考が浸透していった。儒教を国教としている国からの儒者ということで、儒者の間では当初は需要があったが、 |
国学が盛んになり、教条的、原理主義的朝鮮儒学は受け入れられなくなり、また、夜具、食器、置物を盗み、乱暴狼藉を働く通信使は |
接待担当の各藩にとっても非常な負担であった。しかし、他藩への見栄もあり過剰な接待が行われた。 |
何事も先例主義の官僚社会では、改善されることなく
過剰接待が続いていたが、地方小藩の下級武士とは言え、幕藩体制の末端の |
官吏が、増長著しい見せ物の通信使に暴行を受けるに至り、以後差し止めとなった。 |
朝鮮通信使は、圧倒的な国力の差を見聞しながら、
妄想世界観(小中華思想)と、官僚同士の派閥抗争から、自国の発展のための |
施策に生かすことができなかった。 |
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江戸期朱子学者の 「武国日本」 認識と朝鮮観
pdf /
新井白石と正徳の治
/
新井白石
wiki / |
対馬観光物産協会|歴史年表(江戸時代)
/
対馬府中藩
wiki /
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歴史投稿朝鮮通信使
/
朝鮮通信使の実態|江戸時代の真実 /
京都新聞が自爆記事で通信使を逆擁護:イザ! / |
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朝鮮のキリスト教伝来 |
大航海時代、地の果て、ジパングまで、ローマ法王の手先がやってきたが、世界唯一朝鮮は素通りであった。 |
朝鮮史上初のキリスト教礼拝所は1784年に平壌で設立されたが、この段階でも宣教師は朝鮮に派遣されなかった。 韓国のキリスト教
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礼拝所設立以降、徐々にカトリックが流入したが、1791年、最初の弾圧が起き、1795年に至って中国人神父の密入国事件が発生 |
両班のカトリック容認派が失脚排除されることになった。 (この時代。1789年 フランス革命 / 寛政元年) |
収奪に値する一切が、存在しなかったのである。収奪に値するものがあれば、彼らは宣教師や獲得した信者の命などものともせず |
スペインあるいはポルトガル国王とローマ法王の為に万難を排して浸透を計ったであろう。 |
もっとも、この時代にはすでに、スペイン、ポルトガルの時代は終わり、イギリスとフランスが綱引きをしている状態で、 |
アメリカ合衆国の独立があった時代である。 |
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朝鮮の食べ物 |
唐辛子は南米原産で、大航海時代にスペイン、ポルトガルにより世界に伝播した。朝鮮半島へは、秀吉軍が防寒用として持ち込んだ |
ものが最初である。 /
唐辛子
/ 図録▽世界のトウガラシ消費(世界地図) / |
唐辛子のアジア伝来が、大航海時代であることは、インド料理、タイ料理、四川料理の価値を減ずるものではない。由来の捏造など |
する必要もなく、それぞれの独自の文化伝統にもとづく優れた食文化である。 /
チャングムの嘘 韓国に宮廷料理などない?
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日本の浪人が見た1893年の朝鮮の風景〜『朝鮮雑記』本間久介著、初の完訳 / 三日月城通信 - 李氏朝鮮の食べ物 / |
朝鮮泡菜
- Google 検索 / 韓食の世界化
wiki / 韩国料理
/ Корейська кухня / Korean cuisine
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キムチはいつからキムチか : 疑似科学ニュース /
朝鮮半島の料理本「是議全書」 : 疑似科学ニュース /
是议全书
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焼き肉文化と韓国の肉食の歴史
食の雑学 / |
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文明開化に失敗した李氏朝鮮 |
1884年、甲申政変。 / 1894年、金玉均の暗殺。福沢諭吉が脱亜論を書くに至った。同年、甲午農民戦争が起こり、 |
日本は朝鮮に出兵。日本の圧力で、開化派を中心とした金弘集政権が誕生、改革が進められた。(甲午改革 )。日清戦争の勝利により、 |
高宗も改革へ振れたが、この後、三国干渉が起き、閔妃を中心に親露派の力が強まった。再びロシアへの揺り戻し「露館播遷」によって |
改革は水泡に帰すことになる。李氏朝鮮は自力での文明開化に失敗した。 |
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金玉均 ( きん ぎょくきん ) |
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日本に遊学、福澤諭吉の支援を受け、慶應義塾や興亜会に寄食。日本の明治維新を範とした清からの独立、朝鮮近代化を目指したが、 |
閔妃の刺客に暗殺されたうえ、遺体はバラバラにされ朝鮮国内数カ所に晒された。この事件が、福沢諭吉が、脱亜論を書くきっかけとなった。 |
朝鮮独立党の処刑
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何が「脱亜論」を有名にしたのか /
福澤諭吉「朝鮮人民のために其国の滅亡を賀す」と文明政治の6条件
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須永元とその時代
/ 金玉均
/ 金玉均の朝鮮独立運動
/ 日本と朝鮮の因縁の歴史
/ 「朝鮮維新」敗北史
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大院君は、世界情勢の見えない頑迷固陋な攘夷主義者であった。その一方、自身と一族の贅沢三昧のために国費を浪費し、国庫を |
空にした閔妃一派を排除しようとした。 閔妃は、大院君を排除する目的だけで、次々、日本、清国、ロシアと組んだ。 |
これにより日清露が争うことになった。高宗は、閔妃一派に操られる一方であったが、開化派の一本釣りで一時、開化路線に傾いた。 |
しかし三国干渉で親露派が優勢になり、再び閔妃一派に操られ、親露路線へ転じた。 |
両班官僚は、ただ自派の利益のみを計り、国家国民はいずれの目にも写っていなかった。唯一の希望であった開化派は、弾圧虐殺 |
され潰えてしまった。国家国民のため、世のため人のためという発想自体が妄想世界観には存在しないのである。 |
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福沢諭吉の脱亜論 朝鮮の文明開化を支援した諭吉も匙を投げた。 |
日本の不幸は中国と朝鮮だ。
この二国の人々も日本人と同じく漢字文化圏に属し、同じ古典を共有しているが、もともと人種的に異なる |
のか、教育に差があるのか、 日本との精神的隔たりはあまりにも大きい。地球規模で情報が行き来する時代にあって、近代文明や国際法に |
ついて知りながら、 過去に拘り続ける中国・朝鮮の精神は千年前と違わない。 |
国際的な紛争の場面でも「悪いのはお前の方だ」と開き直って恥じることもない。
もはや、この二国が国際的な常識を身につけることを |
期待してはならない。 |
「東アジア共同体」の一員として その繁栄に与ってくれるなどという幻想は捨てるべきである。
日本は、大陸や半島との関係を絶ち、 |
欧米と共に進まなければならない。ただ隣国だからという理由だけで特別な感情を持って接してはならない。 |
この二国に対しても、国際的な常識に従い、国際法に則って接すればよい。
悪友の悪事を見逃す者は、共に悪名を逃れ得ない。 |
私は気持ちにおいては「東アジア」の悪友と絶交するものである。 / 脱亜論 現代語訳 抄訳 1885年 (明治18年) 3月16日 |
原文と現代語訳の全文は、
脱亜論
(wikisource) / 清朝・李氏朝鮮の近代化の挫折と福沢諭吉の脱亜入欧(脱亜論)
/ |
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脱亜論
wiki /
脱亜論
wikisource /
脱亜論
/
Datsu-A_Ron
en.wiki /
個人現代口語訳『脱亜論』 /
文明政治の六条件
/
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独り歩きする「脱亜論」 /
「読福沢諭吉『脱亜論』有感」 / 朝鮮独立党の処刑
- Wikisource / 最近朝鮮事情
1906年 /
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中国観の分裂と悲劇
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勝海舟
- Wiki /
日清戦争と勝海舟
/
日本の明治時代のアジア主義と脱アジア主義
/
興亜会
- Wiki / |
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「今朝鮮の有様を見るに、王室無法、貴族跋扈、税法さへ紊乱の極に陥りて民に私有の権なく、啻に政府の法律不完全にして |
無辜を殺すのみならず、貴族士族の輩が私欲私怨を以て私に人を拘留し又は傷け又は殺すも、人民は之を訴るに由なし。 |
又その栄誉の一点に至ては上下の間、殆ど人種を殊にするが如くにして、苟も士族以上、直接に政府に縁ある者は 無限の |
権威を恣にして、下民は上流の奴隷たるに過ぎず」 |
福沢諭吉 朝鮮人民のために其国の滅亡を賀す |
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他にも、新渡戸稲造「枯死国. 朝鮮」1906 年、山路愛山「韓山紀行
」1905年、等々、
多くの、知識人が併合前の朝鮮半島を旅行し、 |
その国の停滞、怠惰と不潔を観察し慨嘆した。 |
恒屋益服著「朝鮮開化史」博文館、1901年
/ 朝鮮人民のために其国の滅亡を賀す 1885(明治18)年08月13日『時事新報』 |
福澤諭吉「朝鮮人民のために其国の滅亡を賀す」と文明政治の6条件
/ 新渡戸稲造の朝鮮亡国論
.pdf / |
学校現場が危ない吉田松陰も福沢諭吉も侵略者? 解体される日本人
/ 新渡戸稲造の植民思想と中国観
pdf / |
「朝鮮亡国の原因は、気候にあらず、 土壌にあらず、朝鮮民族という人間にある。」新渡戸稲造 |
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李氏朝鮮第三期(終末期)時代 |
李氏朝鮮は、244年に及ぶ明の属国であった時代(1393年 - 1637年)と、257年間の清の属国であった時代(1637年 - 1894年) |
そして、1894年の日清戦争以降の終末期時代(1894年 - 1910年)という3つの時代区分に分けられる。 |
この内、最後の第3期の国際情勢を年表にまとめてみた。 |
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前国王に男児なく死去、高宗
に王位が転がり込んだ。その父親は、大院君
となった。大院君は外戚縁故主義の弊害を廃しようと |
親戚の少ない閔妃を高宗の妃に選んだ。しかしこれは大誤算であった。王家内の争いと、両班の党争で朝鮮は崩壊状態となった。 |
この李朝終末期に、日、清、ロシアが争ったのは、それぞれの自国の安全保障上の問題からである。 /
韓国略史72
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また、この時代は西欧列強による植民地獲得、世界分割競争の時代であった。 |
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前史 |
明治6年(1873年) | 閔妃一派による宮中クーデター成功、高宗の親政を宣言、大院君は追放。 閔氏一派は、大院君の攘夷政策から、開国政策に切り替える。
日清修好条規
発効 / 明治六年政変 : 征韓論政変(日) |
明治9年(1876年) | 日朝修好条規
(江華島条約)を締結。米、仏、露とも通商条約を結ぶ。 開化派と鎖国.攘夷派の対立深刻化 |
明治15年(1882年) | 壬午事変
、大院君の煽動で、漢城(ソウル)で大規模な守旧派兵士の反乱 清に鎮圧を要請、大院君は、清へ連行、幽閉される。 閔氏政権は、開化政策(親日)から鎖国.攘夷政策(親清)へ転換
英埃(エジプト)戦争
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明治17年(1884年) | 甲申事変
開化派のクーデター失敗、開化勢力を虐殺 大弾圧。 仏越 第二次フエ条約 /
清仏戦争
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1894年から1911年の国際情勢 |
明治27年(1894年) |
開化派の中心人物
金玉均が閔妃政権に暗殺される。 東学党の乱(甲午農民戦争
)
この乱の鎮圧がきっかけで日清戦争が始まる 日清戦争
開戦 甲午改革
開化派政権による近代化政策。 |
明治28年(1895年) | 日清講和条約下関条約
調印。(李氏朝鮮を清から独立させた) 清弱体化、ロシアの朝鮮への影響力増大 閔妃ロシアに接近 閔妃殺害事件(
乙未事変) /
乙未改革
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明治29年(1896年) | イギリス領マラヤ成立(英) / マダガスカルを植民地化(仏) (露)、朝鮮への駐兵権、財政への干渉権獲得、満州で鉄道敷設権獲得
露館播遷 親露派の反改革クーデター |
明治30年(1897年) | モザンビーク,征服 (葡) / 李氏朝鮮,国号を大韓とする |
明治31年(1898年) |
(英)、清より威海衛、九龍半島を租借。
(独)、清より膠州湾を租借。
(露)、清より旅順、大連を租借。
(独)、バグダッド鉄道敷設権獲得。
ファショダ事件(アフリカで英仏が衝突)
(米)米西戦争
、フィリピン、グアムなどを獲得 / ハワイを併合
(米) |
明治32年(1899年) | (米)、清に対し門戸開放宣言。
(仏)、清より広州湾を租借。
(英)、南アフリカ(ボーア)戦争(〜1902年) |
明治33年(1900年) | 義和団の乱
(清)。列強8カ国共同出兵 (露)、東清鉄道保護の名目で満州全域を占領 |
明治34年(1901年) | キューバ,アメリカの属国となる(米) |
明治35年(1902年) | 第二次ボーア戦争終結。南アフリカ領有 (英) 日英同盟締結 (対露) |
明治36年(1903年) | (露)、満州を占領。
(独)、バグダッド鉄道会社設立。 |
明治37年(1904年) | 日露戦争
(〜1905年)。 オランダ領東インド (インドネシア) 成立(蘭)
英仏協商(勢力圏を相互に承認)
第一次日韓協約
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明治38年(1905年) | 桂・タフト密約。米と日本は、フィリピンと韓国の支配権を相互 承認。 第二次日英同盟 締結。イギリス、朝鮮に対する日本の権益を承認。 ポーツマス
(日露戦争 )講和会議 日本は朝鮮半島の権益を確保 第1次モロッコ事件(独、仏の対立)
第二次日韓協約
(韓国統監府設置 1910年 朝鮮総督府に改組)
仏領インドシナ成立 (仏)
ロシア第一革命
(〜1907年)
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明治39年(1906年) | (独)、新海軍拡張案
(日)、南満州鉄道会社設立 |
明治40年(1907年) | 伊藤博文 朝鮮初代統監、併合反対の訓示。
京城で大韓帝国軍隊解散式。義兵
闘争始まる。 ハーグ密使事件
/ 第三次日韓協約
/ 日仏協約
調印(清の独立,領土保全を確認)。 / 英露協商(勢力圏を互いに確認、英仏露三国協商の成立)
日露協約
(勢力圏を互いに確認)日本の朝鮮における権益を認める。 |
明治41年(1908年) | 愛新覚羅溥儀,皇帝.即位 (清) / 青年トルコ革命(土) オーストリア・ハンガリー帝国がボスニアとヘルツェゴヴィナを併合
ベルギーがコンゴ自由国を併合 |
明治42年(1909年) | 併合慎重論者
伊藤博文が暗殺される |
明治43年(1910年) | 日韓併合条約締結、韓国を併合
詔勅により元皇帝を昌徳宮李王とする 京城に朝鮮総督府 設置。
臨時土地調査局 設置、土地調査事業に着手。 |
明治44年(1911年) | 辛亥革命/武昌蜂起(清)
日米新通商航海条約
調印、(日本の関税自主権が回復、不平等条約撤廃)
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1945年以降の朝鮮半島の年表は朝鮮半島を見る(1)
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清朝末期の改革政策 洋務運動
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当時の清は、決して大きいだけの張り子の虎ではなかった。 |
アヘン戦争
(1840年〜1842年)、アロー戦争
(1856年〜1860年)により、西洋の軍事的優位が認識され、
1860年代より清朝は、 |
西洋技術、特に軍事技術を導入した近代化を推進した。これらは、明治維新より早く、近代軍備の質、量でも日本を上回っていた。 |
しかし、明治維新は、封建制から西欧型の立憲君主体制への転換を目指したのに対して、清の洋務運動は、封建制を維持したままの |
改革であったところに違いがあった。また、対外関係はそれまで華夷秩序に基づいて行われてきたが、アロー戦争の敗北により |
条約を通じた対等な国際関係である主権国家体制に組み込まれ、外交を管轄する総理各国事務衙門が設置された。 |
李氏朝鮮に対しては、内政、外交への干渉を強化した。「朝鮮善後六策」の如く、李朝を廃止して朝鮮省に改変する案もあった。 |
この洋務運動のスローガンは、「中体西用」 。中心人物 は、曾国藩、李鴻章ら漢人官僚 であった。 |
洋務運動は日清戦争の敗北により挫折が明らかになった。そこで、明治維新に範を取って政治制度も含めた改革をしようとする
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戊戌の変法
が康有為、梁啓超 らによって上奏、布告された。しかし、急進的な改革に対し西太后が、戊戌の政変と呼ばれる |
クーデターを決行。変法派の主要人物は処刑され、これにより、変法運動は挫折した。「百日維新」と呼ばれることもある。 |
近代化の最後のチャンスを逃した清は、辛亥革命による滅亡へと向かって行く。 |
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長崎清国水兵暴動事件 清国、日本を威嚇、挑発。 |
清国は日本を威圧しようとして、1886年(明治19年)8月、ドイツ製の世界最大級の戦艦、「定遠」「鎮遠」を含む、
清国海軍 |
北洋艦隊の四隻の軍艦が長崎港に艦艇修理のためと称して入港した。上陸した水兵が暴動を起こし日清双方に死傷者が出た。 |
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1885年、
第一次露朝密約事件
1886年、
第二次露朝密約事件 5.清と朝鮮事変
/ 露朝密約が発覚して清は高宗の廃位を考えた |
1886年 清国水兵長崎暴動事件の概要
/ 日清戦争前夜の日本と朝鮮(14)長崎事件
/ 日清戦争
- Wiki / |
壬午事変
(1882年) /
長崎清国水兵暴動事件
( 1886年 ) / 甲申政変
(1894年) / 日清戦争
/
露清密約
(1896年)
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日清戦争 ( 1894年〜1895年 ) |
257年間、朝鮮を支配した清が日清戦争で日本に敗れた。日本は朝鮮を独立させることを要求した。 |
戦争は国家間のエゴの衝突であり、正義の戦争など存在しない。 |
日本が朝鮮の独立を求めたのも、それが日本の安全保障に必要であったからではある。 |
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中国の属国からの初めての解放 |
下関条約で、清より独立 (1895年) 朝鮮半島の急速な近代化が急務であったが・・・。 |
1895年、日清講和の下関条約で清の冊封体制からの解放、独立を達成。国号を大韓(大韓帝国
)と改称した。 |
属国には、帝国、皇帝を名乗ることが許されていなかった。冊封国
が中国王朝に対し負っていた義務は一律ではなかったが、 |
朝鮮だけは新国王の就任に至るまで中国の事前承認を得る形を取っていた。 |
1897年、清からの独立を祝って迎恩門を取り壊し、新たに独立門を同じ場所に建てた。
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大清皇帝功徳碑も廃棄されたが、発掘、再廃棄を繰り返し、2008年、ロッテワールドのビルの裏手に移築、このときに、碑文の文字は |
全て削り取り、仁祖がホンタイジの前で土下座している銅板は、文化財的な価値はないとして、廃棄された。 |
清の初代皇帝、ホンタイジの中国 瀋陽にある陵墓は、ユネスコ世界遺産、明・清王朝の皇帝墓群の一部として登録されている。 |
折角、独立できたのに、政治は大混乱。ロシアが触手を伸ばしてきた。世界情勢から朝鮮半島は急激な近代化を必要としたが、
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朝鮮王朝は、清からの自主独立と近代化をめざす 開化派
を弾圧した。自力での早急な、近代化は不可能となった。
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親日派のための弁明
google検索 /
教科書が教えない朝鮮の歴史
/ 朝鮮半島の近代化に尽力した日本
/
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コーネル大学 Willard Straightコレクション (Flicr)
— 1904-1905年の大韓帝国の写真集 /
大韓帝国
- Wiki /
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朝鮮の独立
(テキストエンコードはEUCです) /
日清戦争下の日本と朝鮮(10) /
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Georges Ferdinand Bigot (1887年) 韓国併合
wiki / 魚は朝鮮、人物は、日本、清、ロシア。 |
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下関条約
wikisource / 第一條 |
清國ハ朝鮮國ノ完全無缺ナル獨立自主ノ國タルコトヲ確認ス因テ右獨立自主ヲ損害スヘキ朝鮮國ヨリ |
清國ニ對スル貢獻典禮等ハ將來全ク之ヲ廢止スヘシ |
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Article 1: Independence of Korea. Treaty of Shimonoseki
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China recognizes definitively the full and complete independence and autonomy of Korea, and, in |
consequence, the payment of tribute and the performance of ceremonies and formalities by Korea to |
China, in derogation of such independence and autonomy, shall wholly cease for the future. |
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清は日清戦争に敗れてなお、朝鮮半島の宗主権を手放すことに抵抗したが、日本が押し切った。太極旗
は、この交渉の結果作成された。 |
独立を達成できたにも係らず、閔妃政権は、清を見限り今度はロシア帝国に事大しようとした。 |
列強の中国分割が始まり、ロシアが満州を占領する情勢の中、国家の自主 独立 近代化が急務であることを理解できなかった。 |
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大清国属高丽国旗
"Empire of the Great Qing's tributary state
: Flag of Goryeo" |
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Source : Wikipedia Commons |
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(左) 時事新報(日) 2 October 1882. (中) 清国外交文書(通商章程成案彙編) March 1883. (右) ソウル大学収蔵品 |
2004年に、この太極旗が発見された際、『朝鮮日報』韓国語版は、大清國属の部分をカットした写真を使用した。 |
【大清属国】 八卦図は太極旗のパクリだと妄言吐いたので宗主国様が怒っている模様
/ タイトルがすごいけれど内容はまともです。 |
太極 八卦 韓国起源
google検索 / 太極旗が属国旗であることが判ると今度は太極、八卦、韓国起源を言い始めた。 |
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歴史的建造物の破壊と損壊 迎恩門 大清皇帝功徳碑 |
清からの独立を祝い、16世紀の歴史的建造物を取り壊した。(1895年) 文化財の破壊と証拠隠滅 |
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取り壊し前の迎恩門 | | 迎恩門を取り壊し独立門を建てた |
大清皇帝功徳碑の碑文も、2008年、移転する際、削り取り、土下座のリレーフ
は廃棄した。 |
現在では、中国の植民地であった事など無く、日本からの独立を記念するものだという誤解を煽っている。 |
大清皇帝功徳碑
wiki /
三田渡の盟約
wiki /
三田渡碑
/ 大淸皇帝功德碑
wikisource /
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こうやって、宗主国が替る度に、前宗主国の文化遺産、痕跡を破壊し無かったことにしてきた。 |
このことで、文化の蓄積や、独自文化の形成をすることが出来なかった。 それにも係らず、 |
朝鮮に見るべき文化財がない原因は、秀吉の朝鮮出兵と日本の植民地経営が原因だとしている。 |
※ ( 取り壊し前の迎恩門の写真で左端手前の人物は非常に大きな荷物を背負子で運んでいる。 |
首都の一角でありながら荷車はおろか、牛馬も使わず人力に頼っていたことが判る。) |
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三国干渉
1895年 |
1894年から1895年日本の圧力で
開化派を中心とした金弘集政権が誕生。
改革が進められた。( 甲午改革
)。これが成功すれば |
あるいは自力での近代化の可能性もあったのだが、三国干渉の結果、朝鮮での日本の影響力が弱まり、閔妃ら親露派の力が強まり、 |
改革は挫折した。1896年、ロシアは清より満州での鉄道敷設権を獲得。そして朝鮮への駐兵権、財政への干渉権を獲得した。 |
高宗をロシア公使館へ移す親露派のクーデターも発生。ロシアの影響力が増大した。 |
下関条約のなかに、中国から日本へ、遼東半島、台湾、澎湖島を割譲するという項目があったが、ロシア帝国、ドイツ帝国、 |
フランスの三国が、日本の利権を抑え、自国の植民地を確保するため、
日本に圧力をかけ、遼東半島を中国へ返還させた。 |
列強はこの干渉以降、中国の分割支配に本格的に乗り出した。この三国干渉の結果、朝鮮では日本の軍事的、政治的権威が低下、 |
閔妃一派はロシアへ乗り換えようとし、明治維新に倣った近代化を進めようとした開化派を弾圧した。 |
開化派の目標は自主独立の近代国家の樹立であったが、親露路線は、宗主国を落ち目の清からロシアに変更するだけのもので |
自ら、ロシアの植民地になろうとするものであった。 |
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朝鮮の宗主国、清の崩壊 |
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清朝末期1850年〜1864年「太平天国の乱」では「滅満興漢
」のスローガンが唱えられた。 |
日清戦争敗北後、西洋列強による中国侵略によって清朝は半植民地になった。そこで、義和団の乱は「扶清滅洋」をスローガンとした。 |
辛亥革命
によって、古代から続いた君主制が廃止され、アジアで初の共和制国家である中華民国が樹立された。 |
1910年代には世界中で君主制国家が相次いで崩壊したが、辛亥革命はその共和制革命の先駆けになった。 |
辛亥革命のスローガンは「駆除韃虜、恢復中華、建立民国、平均地権」=(打倒清朝、回復中華、樹立民国、地権平等)であった。 |
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清は列強の植民地となる |
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閔妃
に殺された朝鮮の坂本龍馬 金玉均
/
金玉均の朝鮮独立運動 /
日本と朝鮮の因縁の歴史
/ 一進会
/
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列強による中国分割
/
アジア諸国の変革と民族運動 /
支那分割論
wiki /
閔妃
google検索 /
李氏朝鮮末期の社会 /
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この時代の世界地図を捜したところ100年前(1911年)の欧州地図を眺める
というサイトと、Red Fox シナ人と呼んで何が悪い?
|
というサイトを見つけた。後者のサイトには、1899年 (明治32年)、
1904 (明治37年)、
1908 (明治41年)等のアジア地図が |
掲載されている。 |
閔姫に裏切られた大院君:イザ!
/
李氏朝鮮後期の農民反乱
- Wiki / 日露戦争前夜の日本と朝鮮(2 /
|
ねずきちの ひとりごと 閔妃殺害事件に関する報ステのウソ /
朝鮮日報(韓国語) 日"電信網掌握ために王妃を打て"
/ |
「今日の如く王妃跋扈しては国家滅亡すべし
」大院君 (明治28年) / 閔妃 売官
- Google 検索 / |
韓国の国母 閔妃 と夫が売り払った【朝鮮国土】
エラ通信のチラシの裏 /
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日清戦争の結果、清の弱体ぶりが明らかになり、列強は利権の獲得に乗りだした。
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列強による中国分割の風刺画(フランスの絵葉書) アメリカが参加していないのは当時、米西戦争に忙殺されていたためである。 |
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20世紀 |
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20世紀はじめのロシア帝国
の支配領域は世界の陸地の1/6に及び、イギリス帝国に匹敵した。 |
日露戦争開戦時の海軍戦力はイギリス、ドイツに次ぎ世界第三位であった。 そして何より、大航海時代以降、有色人種が西欧と戦い |
勝利したことがなかった。ムガール帝国も大清帝国もそしてオスマン帝国も敗れた。 |
ロシアは、19世紀末以降の産業革命により工場労働者階層が増加。
封建専制時代から資本主義社会にゆっくりと移行しており、 |
一連の改革も行われたが、ロマノフ王朝は、絶対専制(ツァーリズム)を維持し、社会の変化に対応することができず、工場労働者、 |
農民の不満と抗議行動が発生していた。1881年には皇帝アレクサンドル2世が「人民の意志」に暗殺された。 |
ニコライ2世は1894年に皇帝に即位したが、政治改革を一切認めなかった。 |
1905年、日露戦争中の首都サンクトペテルブルクで「血の日曜日事件
」が発生。続いてオデッサで「戦艦ポチョムキン
の反乱」などが |
起った (ロシア第一革命)。そして1917年の、2月革命と10月革命により、世界最初の社会主義国家となる。 |
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ロシア帝国の南下政策 ロシアは満州を手に入れ、着々と朝鮮支配の詰めに入っていた |
1896年 ロシア、朝鮮への駐兵権、財政への干渉権獲得、満州で鉄道敷設権獲得。 朝鮮で露館播遷
(親露派クーデター) |
1898年 ロシア、清より、旅順・大連を租借、旅順に太平洋艦隊の基地を建設。 |
1900年 北清事変(義和団事変)
乱後も、ロシアは撤兵せず東清鉄道保護の名目で満州へ展開
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1902年 日英同盟
/
日英同盟
/
日英同盟
- Wiki / 日英の利害が一致した
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1903年 龍岩浦軍港化
ロシア、満州を占領。 / 情勢は悪化する一方であった |
1904年 日露戦争
- Wiki / |
1905年 ロシア革命 |
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日露戦争 (1904年〜1905年)の勝利で主導権が日本に移った。 |
1905年、7月、桂・タフト協定(アメリカ)、
8月、第二次日英同盟条約(イギリス)、
9月、ポーツマス条約
(ロシア)により、
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日本の韓国に対する排他的な指導権が列強によって承認され、11月の第二次日韓協約で大日本帝国の保護国となった。 |
日本は朝鮮を保護国としたが、併合に関しては、国論が二分していた。 |
1909年、併合反対論者で元老の 伊藤博文が朝鮮人に暗殺されたことで、併合論に弾みがついた。 |
韓國併合ニ關スル條約
- Wikisource /
韓国併合ニ関スル条約
- Wikipedia /
韓国の独立と主権を確立したのは日本だった (1)
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妄想世界観(小中華思想)による両班の暴虐支配で、文明のレベルは停滞、退行していた / 停滞、怠惰、不潔 世界の秘境 |
中世的世界の終焉、近代化始まる( 1910年 ) 日本の税金投入による文明開化 /
日本統治時代の朝鮮
wiki |
1910年の韓国併合ニ関スル条約調印によって日本に併合され、李氏朝鮮は消滅した。 鉄道、道路、都市、工場、学校などの |
社会インフラが整備され、貴族階級(両班)が無権利の国民から収奪する中世的世界から一気に近代国家の基礎が築かれた。 |
朝鮮の人口は1910年に1313万人であったものが1942年には2553万人と倍増、平均寿命も1910年、24歳だったものが、 |
1942年には45歳まで伸長した。日本はこれらのインフラ整備に日本国内の税金を投入した。この結果、東北のインフラ整備が遅れた。 |
李王家とその一族には、王公族
の身分が与えられ、李王の血族で王公族とならなかった者及び門地又は功労があった朝鮮人には、 |
朝鮮貴族という身分が与えられた。また、日本軍の将校を養成する陸軍士官学校や陸軍幼年学校にも、朝鮮人へ門戸を開放
していた。 |
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私説・朝鮮併合
井上友幸 / 古代の倭と朝鮮半島
/
真面目に韓国考察
/ 日本の朝鮮統治1
/ 日本の朝鮮統治2
/
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日本から見た韓国併合1 /
日本から見た韓国併合2 / 両班の乗り物「猫車」。なぜ二輪でないのかと言うと、 /
|
前書き
/
日韓併合以前
/
日本の朝鮮統治期 1
/
日本の朝鮮統治期 2
/ 日本統治前の朝鮮
google検索 /
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画像で見る日本による朝鮮半島統治の真実: 依存症の独り言 / 朝鮮没落の主犯は、国際情勢に疎かった指導者層>だけか?:イザ!
|
朝鮮の正しい歴史認識その他
/
韓流歴史観を正す
/ 併合時の日本政府から朝鮮総督府への通達
/
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カーター・エッカート『大日本帝国の申し子』(草思社)書評:イザ!
/
李栄薫
- Wiki / 歴史資料室::呪われた帝国の最後
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1910年代初頭、全世界の4/5の地域が、西欧列強の占領下にあった。 |
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1910年の東アジア地図と世界地図 |
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チマチョゴリの真実
/ 韓国の歴史教科書、デタラメの理由
/ 日本が好きなだけなんだよ - 朝鮮半島
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朝鮮総督府・封印された証言 /
日本帝国の申し子高敞の金一族と韓国資本主義の植民地起源 1876-1945
/ |
三日月城通信 - 李氏朝鮮の身分制度 /
李氏朝鮮の身分制度
wiki /
李氏朝鮮の経済
wiki /
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韓国併合
wiki /
「収奪論」批判 日韓近代史資料集
/
朝鮮の歴史観
wiki / |
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1898年の世界分割状況:植民地帝国の時代 |
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1910年代から1941年の世界情勢 |
1910年代 列強諸国は覇権争いに躍起となっており、一触即発の国際情勢となっていた。 |
1914年 第一次世界大戦はじまる。 / |
1917年 十月革命、ソビエト政府樹立。 /
1919年 一次世界大戦の終結 ヴェルサイユ体制、アメリカの大繁栄が始まる |
1920年代 世界経済の中心はロンドンからニューヨークに移った。 /
中国では軍閥が割拠、植民地支配も続いた。 |
1937年 日本と中華民国の間で日中戦争が起こる / 1941年 太平洋戦争勃発 米、英、蘭に宣戦布告 |
アジアの地図(1933年)
/ 第一次世界大戦
- Wiki /
第一次世界大戦下の日本 - Wiki /
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1936年のアジアはこのような状態であった。 |
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East Asia in 1936
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Category:第二次世界大戦 - Wiki /
第二次世界大戦の背景
- Wiki /
第二次世界大戦
- Wiki /
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第二次世界大戦の終結 太平洋戦争 ( 1941年から1945年 ) |
大日本帝国からの分離 米ソによる軍事占領 |
1945年8月、日本がポツダム宣言を受諾し第二次世界大戦は終結した。朝鮮半島に進駐して来た米ソの間で線引きが行われ |
北部はソ連、南部はアメリカの軍政下に置かれた ( 1945年 ) 軍政の次は国連の信託統治が提案されていた |
1945年、日本の敗戦により敵国領土としてソ連、アメリカの進駐を受け、各々の軍政下に置かれた。 |
米軍は、朝鮮人団体を当事者とは認めず、日本軍との間で引き継ぎを行った。 |
1943年11月のカイロ会談の際、蒋介石はルーズベルト大統領に高麗の返還を要求し拒否されている。
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冷戦下、分断国家としての独立 ( 1948年 ) またしても、与えられた独立 |
当初、国連の信託統治
が提案されていたが、1948年、アメリカ、ソ連が、直接対決を避けるため、南北にそれぞれ傀儡政権を樹立した。 |
金日成はスターリンに南進統一の許可を求めた。李承晩も北進を米国に打診したが、米国に拒否されていた。 |
歴史上一度も自力で独立を達成したことのない民族の、半島を二分した戦争も民族独立戦争ではなく米対中ソの代理戦争であった。 |
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朝鮮戦争 南北内戦 米vs中ソの代理戦争 1950(昭和25)年6月25日〜1953(昭和28)年7月27日 |
北朝鮮軍が大韓民国に侵攻、3日でソウル陥落 釜山まで追いつめられたがアメリカのおかげで南半分を奪回、休戦 |
朝鮮戦争
- Wiki /
中国人民志願軍
- Wiki / Category:朝鮮戦争
- Wiki /
Korean War
- Wiki /
朝鲜战争
- 維基百科 /
|
済州島民の蜂起
と韓国による鎮圧が、現在の在日朝鮮人の日本への大量密航の原因となった。 |
朝鮮戦争時、南北ともに自国民虐殺をおこなったが、李承晩の保導連盟事件では、20万〜30万人が殺害された。 |
List of massacres in South Korea-wiki(南朝鮮の虐殺事件) / |
1953年休戦後、韓国では1993年初の文民政権が実現するまで長く軍事政権が続いた。 |
北朝鮮では、朝鮮戦争後、金日成が、反対派を次々粛正、個人独裁を作り上げ、権力世襲の道を拓いた。 |
韓国戦後史年表
(1945年2月〜50年6月) (日共系人物のサイトで、ページによるが割合客観的で詳しい。) |
在朝鮮アメリカ陸軍司令部軍政庁
wiki /
連合軍軍政期_(朝鮮史)
wiki / 引き揚げ時の韓国人の蛮行
google検索 /
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朝鮮
/
在日朝鮮人運動
/ 朝鮮戦争年表 その2 /
朝鮮戦争
- Google 検索 /
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(左)日章旗を下ろし、星条旗を掲揚する米軍、1945年9月9日、
朝鮮総督府前。(右)朝鮮総督府庁舎 / Source : Wikipedia Commons
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南朝鮮では、たまたまアメリカに亡命していた反共主義者、反日主義者、両班、李承晩が、傀儡として担ぎだされた。 |
1948年、 9月 反民族行為処罰法
(反親日法)制定、
12月 日本統治時代の治安維持法をそのまま法制化した国家保安法成立。 |
二次大戦は、日本の一部として、日本軍として戦ったにも係らず
戦勝国として振る舞おうとしたが、連合国から認められず |
第三国(部外者)と呼ばれた。1952年、4月サンフランシスコ講和条約発効を目前にした1月、国際法上無効の李承晩ラインを宣言、 |
竹島を不法占拠し、日本漁船の拿捕を始めた。李ラインは1965年に廃止されたが、竹島は占拠したままである。 |
また不法行為により、多数の日本の漁民が死亡、漁船が接収される等、多大の損害を受けたが、これら大戦終結後に行われた |
不法行為にたいする謝罪、補償は行われていない。 |
北朝鮮では、スターリンの指名によりソ連軍大尉、金日成が傀儡として送りこまれた。朝鮮戦争の敗北、中ソの対立、 |
スターリン批判などの混乱のたびに、反対派を粛正、個人独裁体制を創り上げ、金王朝の始祖となった。 |
1945年以降の年表 隣の半島(朝鮮半島)を見る(1)
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李ライン
- Google 検索 /
日本人が忘れてはいけない歴史 李承晩ライン
/
李承晩ライン
- Wiki / |
北朝鮮全体主義支配体制 - Google 検索 / |
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日本から韓国への戦後補償 |
日韓基本条約の関係諸協定,日韓請求権並びに経済協力協定
/
韓国戦後補償
/
日本の戦後補償条約一覧 /
日韓基本条約
/
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日本から韓国への戦後補償と謝罪 / 日本の戦後補償問題
/
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朝鮮半島を引揚げる日本市民に対する暴虐 |
朝鮮半島 引き上げ
- Google 検索 /
二日市保養所 引揚げ
- Google 検索 /
竹林はるか遠く-日本人少女ヨーコの戦争体験記
- Wiki /
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So Far from the Bamboo Grove
- Google 検索 /
竹林はるか遠く
- Google 検索 /
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朝鮮半島の歴史図表 |
朝鮮半島に対する中国の認識 |
朝鲜半岛诸国为中国的附属国,中国与朝鲜半岛关系属于册封与朝贡关系 ( 中韩关系 ) / |
朝鮮半島諸国は、中国の付属国であった。
中国は朝鮮半島に冊封を与え朝貢を受けた。 |
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古朝鮮 |
辰国 (民族系統不明) |
檀君朝鮮(神話、13世紀に創作) 箕子朝鮮(伝説、中国人国家) 衛氏朝鮮(実在、中国人国家) |
原三国 |
三韓 ( 秦、倭、濊、韓 ) |
濊(ワイ) (ツングース系) |
沃沮 (ツングース系) |
漢 四郡 (漢 直轄) |
高句麗 (ツングース系) |
三国
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伽倻 (任那) |
百済 (ツングース系) |
高句麗 (ツングース系) |
新羅 |
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鶏林州都督府 |
唐 直轄( 熊津都督府、安東都護府 ) |
南北国
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統一新羅(唐に服属) |
安東都護府 |
渤海 |
後三国
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新羅 |
後百済
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後高句麗
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渤海 (ツングース系) |
高麗
(宋、遼、金、モンゴル帝国.征東行省に服属) |
双城総管府
(元直轄) |
東寧府
(元直轄) |
耽羅総管府
(元直轄) |
李氏朝鮮
(明、清の属国) 1392年 - 1897年 |
大韓帝国
日清講和で清よりの独立を日本から与えられる 1897年 - 1910年 |
日本統治時代
1910年-1945年 日本の税金による文明化、社会基盤の一切を与えられる |
連合軍軍政期
1945年-1948年 |
大韓民国
1948-1993 軍事政権 1993〜文民政権時代
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北朝鮮
1948-1972 党、国会が機能した時代 1972〜金王朝個人独裁の時代
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高句麗、渤海は満州民族の祖である。朝鮮民族の祖は新羅からである。但し、現代朝鮮人は16世紀(明代)に形成された |
古朝鮮と称する檀君朝鮮は13世紀に創作した神話、箕子朝鮮は伝説かつ中国人国家、衛氏朝鮮は実在したが、中国人国家であった。 |
辰韓を作ったのは中国人であり、三韓は多民族国家であった。 |
古代高句丽民族和现代韩国人根本就不是一个民族,属于古扶余人,应该是东胡的一部分
|
( 古代高句麗人は根本的に現代朝鮮人とは違う民族である。高句麗は東胡の一部である扶余人である ) |
靺鞨部落构成渤海国民族的主体 靺鞨が渤海の主体的民族である。(Wiki-cn) |
『隋書』百済伝「百濟之先、出自高麗國。其人雜有新羅、高麗、倭等、亦有中國人。(百済の先祖は高句麗国より出る。そこの人は新羅、 |
高句麗、倭などが混在しており、また中国人もいる。)」 |
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朝鮮半島を勢力圏においた中国の歴代王朝 ( 韩国是中国的千年属国 ) |
漢
BC206年-220年 /
三国時代
220年-280年 /
晋
265年 - 420年、五胡十六国時代
/
南北朝時代
439年 - 589年 /
|
隋
581年 - 618年 /
唐
618年 - 907年 /
後梁
、
五代十国時代
/
北宋・南宋
960年 - 1279年 /
遼
916年 - 1125年 /
|
金
1115年 - 1234年 / 元
1271年 - 1368年 /
明
1368年 - 1644年 /
後金
1616年〜、
清
1636年 - 1912年 /
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历史上中国和朝鲜半岛有着密切的关系,长期以来维持着册封与朝贡的关系, /
中韩关系 wiki-cn
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歴史上、中国と朝鮮半島は密接な関係にあり、冊封、朝貢の関係が長年月続いた。 / 韩国是中国的千年属国 google検索 |
朝鲜半岛问题在历史上就拖累中国
- Google 検索 / 朝鮮半島問題は歴史上、中国の足手まとい(拖累
)だった。
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朝鮮半島史の真実 |
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朝鮮半島史は一貫して周辺の強国に侵略、占領され、事大する歴史であり、朝鮮の歴代王朝は外交も安全保障も完全に中国の歴代王朝の |
支配下にあった。 年号、暦、風俗、風習も宗主国に合わせ、宗主国に倣って創氏改名も行った。 |
そんな風に大中華の辺境にあって虐げられた歴史を歩んできた悲惨な民族の心を支えてきたのが『中華文明に属さない日本のほうが |
野蛮だ』という差別感である。この妄想世界観(小中華思想)による根拠なき優越意識だけが支えであった。 |
ところが、この優越意識は妄想に過ぎず、現実によって裏切られてきた。
そして、現実を受け入れることが出来ない以上、妄想に妄想を |
重ねた非現実の世界へ逃避するしかなかった。妄想と現実の軋轢の場では、妄想をこそ、現実と信じて
主張、行動するようになってしまった。 |
朝鮮民族の反日、対日蔑視は、日本の植民地支配に起因するものではなく、実に妄想世界観(小中華思想)によるものである。 |
15世紀の儒教国教化、それも朱子学に特化した原理主義による妄想世界がもたらしたものである。 |
※ 朝鮮半島は統一新羅の建国以来、中国の華夷秩序体制の下にあった。日清戦争で中国の支配から離れた |
この100年、ことに関係を全く絶った朝鮮戦争以降が変則的な時期であった。 |
四夷八蛮は、全て中原に入った。
契丹、女真、モンゴル、満民族は中原に王朝を建てた。チベットも、ウイグルもその他の周辺民族も |
辺境を脅かし、
中原に侵入し、首都を攻略した。ただ朝鮮だけが、宗主国に事大し従っていた。 |
宗主国の交替の際だけ、新宗主国のご機嫌とりのため、
滅亡直前の前宗主国を過酷に攻めたてた。とりあえず、忠義は褒めてやっても、 |
このような信義のない民族が信用されることがないのは
当然である。19世紀末のこの国の有様は、宗主国からも
完全に捨て置かれた、 |
世界の秘境状態であった。朝鮮は独立国であると主張し、戦争までして中国に認めさせたのは日本である。 |
朝鮮の歴史観 /
海老国家
( 日韓ワールドカップ
当時の自国認識 ) / |
「朝鮮半島を中国とみなす記述」参照 |
日本の税金による文明開化
( 日本の朝鮮統治 ) |
植民地統治の検証1
/
植民地統治の検証2
/
植民地統治の検証3
/ 日韓併合の真実
/
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幕末の日本とは違い、一切の社会インフラ、国家システムの崩壊欠落した"世界の秘境"を日本の税金で文明開化させた。 |
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韩国人的病态心理 ( 朝鮮人の病的心理 朝鮮の歴史詐欺 ) |
朝鲜民族是一个不断被其他外来民族凌辱的民族 (朝鮮民族は、不断に外来民族の凌辱を受け続けた。) |
朝鲜文化是直接嫁接和移植中华文明的结果和产物 (朝鮮文化なるものは、中華文明を直輸入もしくは移植したものである。) |
韩国的历史传销主义
( 百度贴吧 ) |
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中国の辺境史研究文献 |
【先秦時代】 |
《尚書
》《詩経
》《春秋
》《左伝
》《国語
》《山海経
》《禹貢
》
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【両漢時期】 |
《史記
》「匈奴列伝」「南越列伝」「東越列伝」「朝鮮列伝
」「西南夷列伝」
《漢書
》「地理志
」 |
【魏晋以降】 |
《水経注
華陽国志
》《洛陽伽藍記
》 |
【唐、宋、元】 |
《通典
・辺防典》、《文献通考
・四裔考》、《蛮書
》、《契丹国志
》、《大金国志
》、《黒韃事略
》、《桂海虞衡志
》、 |
《北辺備対
》、《通志・四夷伝
》 |
【明、清】 |
《辺略》、《辺政考
》、《九辺図録》、《天下郡国利病書
》、《馭倭録》、《籌海図編
》、《皇朝武功紀盛
》、《/読史方輿紀要
》、 |
《皇朝藩属輿地叢書》、《皇清職貢図
》 |
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三人の韓国大統領 |
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朴正煕 ぼく・せいき |
1961年、5・16軍事クーデターで政権を掌握。1972年、非常戒厳令(十月維新)など独裁強権政治を行った。 |
その一方、1965年日本との国交を回復(日韓基本条約)し、経済建設にも尽力、一応の成果をみた。 |
朴正煕は、朝鮮の歴史と民族の問題点を正確に認識していた、そのおかげで、今日の発展の基礎を築いた。しかし、彼は、民族統合の |
基礎を反日に置く李承晩以来の路線を、政府批判の矛先をかわし、軍事独裁による上からの民族自立を目指すために継続した。民族に、 |
誇りを持たせようとした路線は、彼が否定した李朝両班の蒙昧、傲慢、誇大妄想へ回帰してしまった。 |
日韓基本条約で、莫大な、賠償金を半島を代表する唯一の正統政権として(北部分も含めて)受け取る一方、国民には知らせず、 |
国民に還元(個別補償)することもなく、経済建設に振り向け、またアメリカのベトナム侵略戦争に加担し、多くのベトナムの非戦闘員を |
虐殺し、多くの混血児を残しながら戦争特需を享受することで、漢江の奇跡と自称する経済発展をもたらした。
この時、初めて、南北の |
経済水準が逆転した。また国内の民主化運動への、手段を選ばぬ弾圧も過酷を極めた。 |
生活水準が上がれば、民度も上がり、事実関係を冷静に判断できるようになる筈であったが、極端な学歴重視は、新たな両班階級を生み、 |
低賃金と、通貨安で、日本が稼いでいる部門に特化した、模倣戦略は一応の成果をみているが、
国内の矛盾を全て、日本統治を原因とする |
方法は安易な上、受け入れられ易いこともあって、一向に改まることがない。 |
ここまで、膨らんでしまった誇大妄想と対日蔑視は、どういう破綻を迎えるのだろうか?。 |
朴正煕が、生きていれば、きちんと幕引きができただろうか?。 |
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「わが民族史を考察してみると情けないというほかない。」「われわれが真に一大民族の中興を期するなら、まずどんなことがあっても、 |
この歴史を改新しなければならない。このあらゆる悪の倉庫のようなわが歴史は、むしろ燃やして然るべきである。」朴正煕「国家と革命と私」 |
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日本ならこういう発言は、これから我々の新しい歴史を作っていこうという前向きな発言と捉えるだろう。 |
しかし朝鮮は違った、ある筈のあった筈のあるべき歴史を捏造し、検証を逃れるために漢字の使用を廃止した。 |
整合性を保つため嘘に嘘を塗り重ねた。およそあり得ない虚構を構築し、自己の主張こそ真実と思い込んでしまった。 |
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1961年の韓国はアフガニスタンやジンバブエよりも貧しかった
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朴正煕
- Wiki /
「朴正熙選集」我々は今何をいかになすべきか /
韓国の偽史と歴史問題 / 朴正煕選集 全3巻
/ |
朴正煕選集 〈1〉 韓民族の進むべき道 /
朴正煕選集 〈2〉 国家・民族・私 /
朴正煕選集 〈3〉 主要演説集 / |
日韓条約批准書交換に関する朴正煕韓国大統領談話
/ /日本国と大韓民国との間の基本関係に関する条約
wiki / |
日韓基本条約の真実(漢江の奇跡とは・・)
/
日韓基本条約
/ 韓国の戦後発展の理由
/ 漢江の奇跡
wiki / |
外務省: [ODA] 国別援助実績 (1991年〜1998年の実績) 韓国
/
日本から韓国への戦後補償と謝罪
/ |
国家再建最高会議
/
第三共和国
/
第四共和国
/ 日本の国家主権の重大な侵害である
金大中事件
も朴政権下である |
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1965年 朴正煕の夢 |
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ソウル近郊の村落の道路脇(1904年) | | 朴正煕の書(1965年) |
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朴正煕の書は、
乙巳 (いっし)とあるから1965年の書であることが判る。 |
虐殺独裁者李承晩の悪政は、日本統治のおかげで日本本土と同等であった文明水準を、引き戻し停滞させていた。 |
1965年の開発独裁者、朴正煕の夢は祖国の近代化であった。 |
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全斗煥 ぜん・とかん |
軍人、韓国大統領 陸士11期。第9師団 29連隊長としてベトナムへ派遣。
粛軍クーデターで、政権を掌握。 |
光州の民主化要求デモを陸軍特殊部隊で鎮圧、市民多数を虐殺(光州事件)した
マイナスイメージが強いが、 |
1981年8月15日の光復節記念式典演説では、「我々は国を失った民族の恥辱をめぐり、日本の帝国主義を責めるべきではなく、 |
当時の情勢、国内的な団結、国力の弱さなど、我々自らの責任を厳しく自責する姿勢が必要である」と述べた。 |
また、1982年の記念式典においても、「異民族支配の苦痛と侮辱を再び経験しないため確実な保障は、我々を支配した国よりも |
暮らし易い国、より富強な国を作り上げる道しかあり得ない」と「克日」を主張した。 日本から40億ドルの円借款で |
対韓経済協力を得ることに成功。1984年、戦後の韓国元首として初めて日本を訪問した。 (wikipedia 全斗煥) |
また、就任当初は、経済成長率はマイナス4.8%、物価上昇率は42.3%、44億ドルの貿易赤字であったが、 |
1987年の経済成長率は12.8%、物価上昇率0.5%、貿易黒字は114億ドルと、主要な経済指数を改善することに成功した。 |
第五共和国
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全斗煥
/ |
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盧泰愚 ノ・テウ |
軍人、韓国大統領 陸士11期。1990年、ソビエト連邦と、1992年、中華人民共和国と国交樹立。 |
1991年、北朝鮮との同時国連加盟を実現させた。民政移管を実現させ、最後の軍人出身の大統領となった。 |
盧泰愚大統領歓迎の宮中晩餐会での答辞。 「今後のわれわれ両国関係もこのような相互尊重と理解の上に、共同の理想と価値を |
目指して発展するでありましょう。世界のなかの韓日関係を志向する巨視的視点に立ち、誠意と信頼に基づいて共に努力すれば |
韓日関係の未来は限りなく明るくなるにちがいありません。」 /
中野文庫 - 勅語(平成2年) |
第六共和国
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盧泰愚
/ |
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三人の大統領の発言は、非常にまともである。
まともな発言をする韓国人は非常に偉い人のように見える。 |
この世代にはまだ正気が残っていたとも言える。
しかし、軍事独裁政権は、民主化運動を弾圧する一方、
ガス抜きとして反日を利用した。 |
反日なら何を言っても、何をしても安全であることから、
司法も学会も言論界も、反日の度合いを競う情況となった。
|
後進国には、よくある政治手法であり、民主化されれば、
正常化するだろうと考えられてきた。 |
歴代の大統領が職を去るとすぐに弾劾、刑事被告人となる、
それも最初は、韓国にも民主主義が根付いたのかと思ったが、 |
そうではなく、権力を持っている人間には、卑屈にすり寄る一方、権力を失った者には、過酷を極めた対応をする両班の党争の延長である |
思考様式が続いて
いるだけであった。軍政後の政権も、内政への不満や支持率の低下に、反日を切り札に使った。 |
このことでもはや、正常な判断をすることのできる人間は、いなくなってしまった。 |
人を侮辱し、ゆすり、たかりを続けながら、どうして友好的な関係を築くことができるだろうか。 |
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「韓国(盧武鉉政権)、米政府に日本を仮想敵国
と表現するよう要請」 2006年10月18日 朝鮮日報
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盧武鉉(
ノ・ムヒョン
) 歴代で初めての、日本統治時代を経験していない世代の大統領。任期:2003年2月25日 − 2008年2月24日 |
2004年
日帝強占下反民族行為真相糾明に関する特別法
/ 2005年親日反民族行為者財産の国家帰属に関する特別法
/ |
大韓民国国軍 -(対日本政策)wiki / 2007年 金成萬前韓国海軍司令官が韓国政府に対馬軍事侵攻計画立案を要求 |
平常心では読み通せない盧武鉉の告白
/ 『韓国が世界に誇る ノ・ムヒョン大統領の狂乱発言録』
- Google 検索 / |
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李明博韓国大統領、韓国が不法占拠中の島根県竹島に上陸。 2012年8月10日 |
李明博(イ・ミョンバク
) 在日朝鮮人出身としては初の大統領。盧武鉉前政権の極端な反日路線から転じ、日韓関係は好転するかに |
見えたが、2012年8月。政権末期のレームダック状態を脱する為に竹島上陸を強行した。 /
李明博大統領 竹島上陸
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竹島については日本が1954年にICJ
への付託を提案。1962年にも提案したが、韓国側は応じなかった。 |
日韓基本条約
締結以降は、韓国への配慮により日本政府はICJ提訴を封印してきた。 |
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朴槿恵 韓国大統領、オバマ大統領に、「日本は正しい歴史認識を持つべきだ」。 2013年5月8日 |
北朝鮮問題を話し合うため、訪米中のパク・クネ韓国大統領がオバマ大統領に、「日本は正しい歴史認識を持つべきだ」と述べた。 |
米議会での演説でも日本を非難。
喫緊の課題である北朝鮮問題を差し置き、同盟国を非難。 |
2013年6月29日、日本を飛ばして訪中、日本の歴史認識を非難。中国に安重根 記念碑建設を要求。 /
朴槿恵大統領の異常な要請
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2013年9月28日、朴槿恵の妹が詐欺罪で罰金判決
- Google 検索 / |
韓国が誇る潘基文国連事務総長「歴代最悪」の烙印押された
- ZAKZAK / 朴槿恵 無能
- Google 検索 /
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“統一大当たり論”—バラ色の夢に酔う韓国(1)
/
バラ色の夢に酔う韓国(2)
/
バラ色の夢に酔う韓国(3)
/ |
2013年3月の3.11東日本大震災の追悼式には、140余か国の外交団が参列したが、中国と韓国が欠席した。 |
中国は台湾の扱いに関するクレームであったが、韓国は反日からであった。外国訪問のたびに、告げ口外交を展開した。
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朴槿恵2013年 - Google 検索 /
朴槿恵2014年 - Google 検索 /
朴槿恵2015年 - Google 検索 / |
朴槿恵の低レベル発言を嗤う
-ironna / |
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きままに歴史資料集
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明治期に日本と朝鮮が交わした外交文書、公文書を集めたサイト。 |
明治開化期の日本と朝鮮(1)から
明治開化期の日本と朝鮮(25) /
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日清戦争前夜の日本と朝鮮(1)から
日清戦争前夜の日本と朝鮮(25) /
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日清戦争下の日本と朝鮮(1)から
日清戦争下の日本と朝鮮(14) /
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日清戦争後の日本と朝鮮(1)から
日清戦争後の日本と朝鮮(3) /
|
日露戦争前夜の日本と朝鮮(1)から
日露戦争前夜の日本と朝鮮(7) /
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日本と朝鮮半島関係資料集
/ |
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『きままに歴史資料集』が上記のリンクで繋がらなくなっていた。
/ AAA!cafe は終了いたしました。
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「AAA!CAFEは、2001年より無料ホームページサービスを提供させて頂いておりましたが、2011年12月1日(木)を持ちまして、 |
サービスの提供を終了させて頂きました。」ということでアーカイブ化されサーバが使用不能(筐体障害等)となるまで公開を継続 |
するが予告なく公開が終了となる可能性があるということで移転するか書籍化してほしいものである。 |
新たな総目次は「きままに歴史資料集
」。 2016年2月12日 |
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wikipediaの「朝鮮半島を中国とみなす記述」が削除された。 (2012年4月27日 (金) 01:47 削除) |
朝鮮半島を中国とみなす記述 - Google 検索で捜すと、まだ若干の魚拓サイトで記事が読める。 2012年5月1日 |
韩国是中国的千年属国 google検索 / |
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日韓関係見直しの好機
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■ 2009年11月 釜山の病院が被害者の遺体変換に1000万円要求。 /
韓国 射撃場 火災
- Google 検索 |
除鮮
- Google 検索 /
【 NO!KOREA 】
/
世界の迷惑 韓国人
- Google 検索 / |
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■ 売春させろデモ 韓国
2011/09/23 - Google 検索 / 売春 - 韓国の事情
wiki / 韓国 売春
- Google 検索 /
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■ 愚かな慰安婦像と自民党の日韓首脳会談に関する決議:イザ![2011/12/15]
/
ウィーン外交関係条約
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■ 慰安婦博物館に3500万円拠出 韓国政府に抗議
2012.5.18 |
■ フランス製の衛星、日本のロケットのアリラン3号を韓国による打ち上げと捏造報道 (2012年5月18日、打ち上げ) |
アリラン3号 捏造
- Google 検索 /
アリラン3号
- Wiki |
■【日韓】ソウル新聞社説〜政府は「強制徴用賠償」大法院判決の実現に出ろ[2012/05/26]
/ |
■ ソウルの在韓日本大使館に韓国人がトラックで突入
2012/7/9 / 今こそ日韓断交
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ODA 韓国 返済
- Google 検索
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■ 韓国政府は来年から、全国民を対象に精神疾患の検診を実施する。2012/07/29 /
韓国 精神病
/ 妄想性人格障害 |
■ また条約無視か 駐韓大使館火炎瓶投げ込み犯の中国人被告 日韓引き渡し条約不履行?
2012/7/31 / |
■ 韓国大統領 竹島上陸
2012/8/10 /
「日韓通貨スワップ協定の破棄」「日本製品の対韓輸出制限」
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■ 2012年8月22日 非礼! 韓国外交通商省が野田首相の韓国大統領宛ての親書を送り返す。親書返送
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■ アップル全面勝訴 サムスンに825億円賠償命令:2012/08/25 / |
■ 2012年10月7日 韓国紙、弾道ミサイルの射程制限を300kから800kに延長することで米韓が最終妥結と報道。 |
同心円で距離を測る ( Ground Zero ) /
韓国軍基地を見る
/ |
■ 2013年1月3日 靖国神社放火中国人引き渡し条約不履行 韓国高裁決定 |
外務省: 犯罪人引渡しに関する日本国と大韓民国との間の条約
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条約不履行
- Google 検索 /
犯罪人引渡し条約
- Wiki |
■ 2013年1月30日 日本の重文を盗んだ窃盗団韓国で逮捕。今回は逮捕したが文化財についても実に朝鮮らしい事件がある。 |
別黄字銃筒捏造事件
/ これは亀甲船の砲筒と称するものが発見され国宝に指定されたあと、捏造が発覚したもの |
高麗版大般若経 (安国寺) / 長崎県壱岐市の安国寺に伝わる仏教経典(日本の重要文化財)が盗まれたあと韓国の国宝に指定されたもの |
■ 2013年2月26日 昨年 対馬から盗まれた仏像について 韓国裁判所は、日本への返還差し止めの決定を出した。 |
盗難仏像返還差し止め 対馬も「我が領土」 慕華侮日の韓国 / |
■ 2013年5月8日 韓国の朴槿恵(パク・クネ)大統領はオバマ大統領との会談で、「日本は正しい歴史認識を持つべきだ」と述べた。 |
朴槿恵大統領 正しい歴史認識
- Google 検索 / 韓国“性産業輸出”驚きの実態… 売春婦「世界に10万人」
/ |
■ 2013年5月22日 大阪市生野区連続通り魔事件 「日本人か?」と聞き、刺す |
在日韓国人による日本人無差別殺傷テロ 生野区連続通り魔事件 wiki - Google 検索 / wiki から「生野区連続通り魔事件」を削除 |
■ 2013年6月2日 来日中の韓国人国連事務総長が日本の一野党党首発言を批判 |
日本のあり方を考える 韓国破滅への道まっしぐら
/ 日本を貶めている韓国に対して、あなたができる7つの行動
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日韓関係は修復不能と思われます。「韓国は中国の手先だ」との認識が広まったことです
/ |
■ 2013年6月 朴槿恵大統領、日本を飛ばして訪中。日本を「域内の対立の原因」と牽制、安重根の記念碑建設を中国に求めた |
朴槿恵大統領訪中
- Google 検索 /
朴槿恵大統領の訪中
| キヤノングローバル戦略研究所 / |
■ 2013年7月 朝鮮戦争 休戦協定締結60年 式典に、日本政府関係者を招待せず。 |
朝鮮戦争休戦協定
- Google 検索 /
朝鮮戦争 休戦協定締結60周年記念式典
- Google 検索 / |
■ 2013年7月6日 アシアナ航空214便着陸失敗事故
- Wiki / |
アシアナ機事故
- Google 検索 /
アシアナ機事故に見る韓国人の国民性 - Google 検索 /
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■ 2013年8月26日 韓国人の国連事務総長が、ソウルで記者会見、「日本政府と政治指導者は自らを深く顧みて、国際的な未来を |
見通すビジョンを持つことが必要だ」と中立性を欠く異例の発言をした。 /
UN総長・潘基文の漫遊…中東激震よそに妄言行脚
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潘事務総長の品格なき履歴書 韓国社会の灰汁にドップリ漬かった両班
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■ 2013年9月6日、オリンピック東京招致妨害を意図、韓国、不可解なタイミングで福島の水産品を禁輸。 |
朴正煕が設計した国家売春
/ 封印解かれた慰安婦調書
/ 東京招致妨害から“手のひら返し”のあきれた厚顔ぶり
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韓国 経済、文化、法治、歴史認識などの面で後進国のまま
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■ 2013年9月22日 靖国神社放火爆破テロ未遂事件 |
靖国神社放火爆破テロを目的に、神社内に潜伏していた韓国人を逮捕。 /
靖国放火未遂事件に街宣右翼の連中が反応しない件
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釜山から800kの到達範囲 |
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おさらい |
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高句麗は現代朝鮮人とは関係がない(人種が違う)。
5世紀、倭は朝鮮半島を勢力下に置いており、高句麗との戦争の後も7世紀中頃まで |
半島南部に勢力を維持していた。百済は現代朝鮮人とは関係がない(人種が違う)。
渤海は現代朝鮮人とは関係がない(人種が違う)。 |
新羅は朝鮮民族のルーツではあるが人種的に安定するのは16世紀になってからである。
(まだ同一人種と言える状態ではない)。 |
現代朝鮮人 は16世紀に形成された。 朝鮮半島の歴史と朝鮮人の歴史は別のものである。 |
新羅は、内乱、自然災害による大飢饉から度々、日本へ襲撃、略奪を行った。 |
統一新羅 |
7世紀後半、新羅は、唐の力を借りて、高句麗、百済を滅ぼし、倭を半島から追い出したが、
唐は鶏林大都督府を置き、 |
属州化してしまった。唐は吐蕃(チベット系)に圧迫されており、兵力を西に裂くため半島の建国を許し、統一新羅が |
朝鮮半島をほぼ統一した。統一新羅は官制、服装、暦も唐に倣い、名前まで中国風に改名した。 |
唐滅亡後、中国は分裂状態となり、宗主国の衰亡から統一新羅も衰退、935年、勃興した高麗に帰順して新羅は滅亡した。 |
高麗 |
高麗は、後唐 - 宋 - 契丹 - 宋 - 契丹 - 金と次々服属させられ、
1258年 モンゴルに服属。高麗の王は元の宮廷で育ち、モンゴル名を名乗った。 |
国土は壊滅状態となり、萌芽段階にあった武家政権は潰え、封建社会へ移行できなかった。 / 胡服辮髪の令(1278年) |
服属後は宗主国モンゴルの歓心を買おうとして、
モンゴルに日本侵攻を教唆煽動し、造船、兵員、食料、武器を調達提供した。 |
1289年、征東等処行中書省が常設組織となり、高麗の国家の全機能が、征東行省へ移行。高麗は大元帝国の一部となった。 |
1368年 元が滅亡、明が中原を支配した。宗主国の衰退で高麗も滅ぶ。 |
李氏朝鮮 |
1393年、李成桂(女真族)が王権を簒奪、高麗を滅ぼし、明から朝鮮という国号を下賜される。 |
1401年、三代目太宗になって初めて国王と称することを、明から許可される。 |
室町時代の応永年間に、17,285名の軍勢で対馬に侵攻、600名の留守部隊に惨敗した。この戦後処理から朝鮮通信使が始められた。 |
1592年と1598年、豊臣秀吉軍が、明 遠征のため朝鮮半島へ進攻した日明戦争の戦場が朝鮮半島であった。 |
この戦争の捕虜返還交渉のため朝鮮通信使が再開された。 |
1636年、244年間、朝鮮を支配した明が清によって滅亡、明から清へ宗主国が交替した |
40日余りの篭城の末に降伏。国土は壊滅、以後257年間に及ぶ、屈辱的条件での臣従を強いられることになる。 |
1637年 、李氏朝鮮は 清に完敗、この時、大清皇帝功徳碑 を建てさせられ、外国との接触を絶って「隠遁の王国」となった。 |
1705年、清の支配下で中華の正統、明の皇帝を祭る「大報壇」を建立、現実と無関係の妄想、自尊、対外蔑視の小中華思想が |
国家の基本理念となった。このことで、社会は中世の状態のまま停滞、貴族階級の党争のみが続くことになる。 |
また中華に同化することを理想としたため独自文化の発展が阻害され固有の文化を持つことができなかった。 |
大韓帝国、日韓併合、米ソ軍政、独立 |
19世紀末、帝国主義列強のアジア侵略により、朝鮮の宗主国、清は弱体化、日清戦争に敗北、日本は日清条約で、朝鮮を独立させた。 |
しかし、今度はロシアが中国の弱体化に乗じて、
満州を占領、更に南下を計って日露戦争となった。ポーツマス条約とその後の各国 |
との条約で、日本の朝鮮に対する権限が国際的に承認された。朝鮮の状態は自立した近代国家に自力で短期に到達できる状態にはなく、 |
次善の策として朝鮮併合を決定した。李氏朝鮮は両班の暴虐支配で、文明のレベルは停滞、退行、中世的世界であった。朝鮮に日本は |
国税を持ち出し、近代国家としての社会インフラの全てを建設した。 |
1895年、下関条約。 1905年、ポーツマス条約。 1910年、日韓併合。 1912年、清朝滅亡、中華民国成立。 |
1945年8月、日本がアメリカの物量に敗北、ポツダム宣言を受諾し第二次世界大戦は終結。
朝鮮半島は、敵国領土として北がソ連、 |
南がアメリカの軍政下に置かれた。( 1945年9月9日、日本軍より連合軍に統治権移譲の調印。) |
1948年、米ソが直接の戦争を避けるため、南北にそれぞれ傀儡政権を樹立した。 |
1948年以降の年表、隣の半島(朝鮮半島)を見る
(1) |
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こりゃびっくり!
半島問題の基礎知識 /
朝鮮人
‐ 通信用語の基礎知識 /
/ 定型文 / Category/21 Ninja Fraud and Cult /
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善隣友好は、当然あるべき姿ではある、しかし、そのためにも隣人がどういう人間であるのかの見極めが必要である。 |
恩を仇で返す民族
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予断と偏見を排して事実だけは、押さえておく必要がある。 |
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( mp3 3.4M )> /
黄禹錫
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平成24年中の薬物銃器情勢
(外国人による薬物事犯別、国籍・地域別の検挙人員).pdf / 趙承煕
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South Korea: Most Hated Countries
| TheTopTens.com / 【 NO! KOREA 】
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韓国 詐欺 件数
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韓流時代劇と朝鮮史の真実
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いい加減にしろ 韓国
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テロ国家 韓国
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「韓国人は世界一の嘘つき民族だ」 室谷克実
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在日韓国文化人の「妄言」を嗤う
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韓国こそ世界一の売春輸出大国だ
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輸入韓国魚介類は糞尿まみれ
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「パクリ無罪」の韓国
- Google 検索 / 韓国経済を支えているのは日本
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ヤミ金で成立する韓国経済
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中国でもめちゃくちゃ不人気な韓流ドラマ
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韓国 重水炉 月城原発
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35.716667,129.477778
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/ ベトナム戦争関連外交文書公開 アメリカ「外人部隊」の報酬交渉
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朝鮮カルタ(アクチョンカルタ) /
韓国人の実態を反映している「朝鮮カルタ」
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暴鮮膺懲
嫌韓の時代は終わった
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