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| 壬申の乱 ( 672年 )、万葉集関連人名 |
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有間皇子 | 孝徳天皇(天智天皇の叔父)の皇子。母は左大臣・阿倍内麻呂の娘・小足媛。658年処刑 19才 |
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天智天皇 | 大海人皇子の兄(?)=中大兄皇子。同母妹、間人皇女は孝徳天皇の皇后。持統天皇の父。 |
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天武天皇 | 大海人皇子=天智天皇の弟(?)壬申の乱勝者 「日本書紀」編纂の中心人物が天武天皇の息子の舎人親王 |
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大友皇子 | 弘文天皇=天智天皇の皇子(壬申の乱敗者 死没672年8月)、妃は十市皇女 |
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持統天皇 | 鵜野皇女=天智の娘=天武の皇后=大田皇女の妹 |
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大田皇女 | 天武の皇后=持統天皇の姉、667年死亡、その時、子供の大伯皇女は7歳、大津皇子は5歳 |
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草壁皇子 | 天武天皇と持統天皇の子供(689年、皇位に就くことなく薨去。) |
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大津皇子 | 天武天皇と大田皇女の子供、686年処刑。妃の山辺の皇女(天智天皇皇女)も殉死。 24才 |
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十市皇女 | 天武天皇の第一皇女。母は額田王。678年、斎王に任じられ、出立の当日朝に急死。 大友皇子の正妃。 |
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額田王 | 天智天皇、天武天皇の妃。十市皇女の母。 |
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| 額田王,大海人皇子らの歌 |
| 天皇(天智天皇=大海人の兄=中大兄皇子)の蒲生野に遊猟(みかり)したまへる時(=668年)、額田王のよみたまへる歌 |
| 茜さす紫野ゆき標野ゆき野守は見ずや君(大海人皇子=天武天皇)が袖ふる (額田王) |
| 紫のにほへる妹(額田王)を憎くあらば人妻ゆゑに我恋ひめやも (大海人皇子) |
| 当時、都は大津(663年遷都)。天智天皇はこの年1月即位、3年後没。この歌は、蒲生野(近江八幡)に宮廷あげての遠足を |
| した際の相聞歌。額田王を大海人皇子から奪った中大兄皇子は、自分の娘4人を大海人に与えた。その中大兄皇子の歌。 |
| 香具山は畝傍を愛しと耳成と相争ひき神代よりかくなるらし古へもしかなれこそうつせみも褄を争ふらしき |
| 19才で刑死した有間皇子の歌 |
| 磐白(いはしろ)日高郡南部町の、浜松が枝(え)を、引き結び、ま幸(さき)くあらば、また帰り見む (有間皇子) |
| 家にあれば笥に盛る飯を草枕旅にしあれば椎の葉に盛る (有間皇子) |
| 24才で刑死した大津皇子の歌 |
| 大船(おほぶね)の、津守(つもり)が占(うら)に、告(の)らむとは、まさしに知りて、我がふたり寝し (大津皇子) |
| あしひきの、山のしづくに、妹(いも)待つと、我れ立ち濡れぬ、山のしづくに (大津皇子) |
| 石川郎女の返歌 |
| 我(あ)を待つと、君が濡れけむ、あしひきの、山のしづくに、ならましものを (石川郎女=大津皇子の恋人)
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| 大津皇子の姉、大伯皇女が刑死した弟を偲ぶ歌 |
| うつそみの人にある我れや、明日よりは、二上山(ふたかみやま)を、弟背(いろせ)と我が見む (大伯皇女 大津皇子の姉) |
| 磯の上に生ふる馬酔木(あせび)を、手(た)折らめど、見すべき君が、在りと言はなくに (大伯皇女 大津皇子の姉) |
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