目 次  大阪から奈良、和歌山の山と霊場を見る Google Mapsで熊野那智を行く 近つ飛鳥を見る 大和飛鳥を見る 謎の大王、継体陵を見る 平安京を見る朝鮮半島の歴史
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   1181年 平重衡 率いる平家軍が、東大寺、興福寺など奈良の寺院を焼き討ちした。南都焼討
  平重衡 終焉の地。安福寺はこの地図で北へJRの駅二つ、京都府木津川市(きづがわし)、木津駅の北にあります。
  神戸市須磨区、山陽電車須磨寺駅前、平重衡とらわれの遺跡で捕われ、鎌倉へ護送された後、南都大衆に引き渡され、木津で斬首されました。
 ピンポイント天気(奈良市)
   奈 良 を 見 る (平家物語と奈良)
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大きな地図を表示 正倉院
  
 名称 座標 備考
 興福寺 34.682937,135.832236  世界遺産
 東大寺 34.689113,135.839757  世界遺産
 般若寺 34.700801,135.836034   
 安福寺 34.741084,135.825691  「平重衡」終焉の地 
 旧大乗院庭園 34.677679,135.834382   
 奈良国立博物館新館  34.683264,135.837965   
 依水園(寧楽美術館) 34.685743,135.837654   
 正倉院 34.692086,135.83848  世界遺産
 春日大社 34.681389,135.848333  世界遺産
 元興寺 34.677803,135.831356  世界遺産
 薬師寺 34.668356,135.784311  世界遺産
 唐招提寺 34.675586,135.784833  世界遺産
 平城宮址 34.6904803,135.7971525  世界遺産
 春日山原始林 34.6825581,135.8630276    世界遺産





 東大寺 (大仏殿)  依水園 庭園 ☆☆☆☆大きな画像を見る
 奈良国立博物館レストラン 奈良ホテル
 旧大乗院庭園   興福寺 (東金堂)
 仏教美術資料研究センター 大きな画像を見る   茶室 八窓庵 大きな画像を見る
 
 
   平家物語 奈良炎上の部分は専門サイトへのリンクで済まそうと思って探したが、あるのは全てひらがな、これでは読みにくい
  一部、有名な段の読み下しはあるが、奈良炎上はない。(2009年10月現在)。そこで漢字まじりにすることにした。
  これで意味は取り易くなったが、音読するには、仮名書きを参照する必要がある。
  参考にしたのが 平家物語 巻第五 奈良炎上(流布本元和九年本)。他の巻や仮名書きは、こちらをご覧下さい。
  (2009年11月現在)その後、漢字まじりのものを複数見つけた。下の漢字割り振りは当サイト独自でおこなったもので他サイトや
  書籍を無断引用や参考にしたものではないことを申し述べておきます。全文ひらがな版に漢字を割り当てました。使用した辞書は
  広辞苑、所用時間は15分程です。漢字まじり文サイト/ 平家物語巻第五(University of Virginia Library)
  漢字まじり文サイトはどこも著作権を主張されていますので、念のため経緯を説明しました。最初の検索では見事にひらがな書きの
  ものしかヒットしなかったのでWeb上に漢字まじり文はないと思ってしまいました。
  漢字に直していない部分は直さなくても意味が取れるし、そのほうが原文の音感を生かせると思ったからです。
 
 
 
 
 
 
 巻5 奈良炎上(ならえんしやう)
 
   かけまくもかたじけなく、この入道相國は、たうぎんのぐわいそにておはします。
 それをかやうに申しける南都の大衆、およそは天魔のしよゐとぞみえし。
 入道相國、かつがつまづ南都の狼藉をしづめんとて、妹尾太郎兼康を、大和の国の検非所にふせらる。
 兼康500余騎で馳せむかふ。「あひかまへて、衆徒は狼藉をいたすとも、なんぢらは致すべからず。武具なせそ、
 きうせんなたいせそ」とてつかはされたりけるを、南都の大衆、かかるないぎをば知らずして、兼康が余勢64人からめとつて、
 いちいちに首を切つて、猿沢の池のはたにぞかけならべたりける。入道相國おほきに怒りて、「さらば南都をも攻めよや」とて、
 大将軍には、頭の中将重衡、中宮亮通盛、つがふその勢4万余騎、南都へはつかうす。
 南都にもらうせうきらはず7000余人、兜の緒をしめ、奈良阪、般若寺、二カ所みちをほりきつて、垣楯かき、逆茂木ひいて
 待ちかけたり。平家4万余騎を二手に分かつて、奈良阪、般若寺、二カ所の城郭におしよせて、ときをどつとぞつくりける
 
 大衆は、徒立打物なり。官軍は、むま(馬)にて駈けまはし駈けまはし攻めければ、大衆、数をつくして伐たれにけり
 卯の刻より矢あはせして、いちにち戦いくらし、夜に入りければ、奈良阪、般若寺、二カ所の城郭ともに敗れぬ。落ちゆく衆徒の中に、
 坂四郎永覚といふ悪僧あり。これは力の強さ、弓矢打物取っては、七大寺十五大寺にも優れたり。
 萌葱縅しの鎧に、黒糸縅しの腹巻き二領重ねてぞ着たりける。ばうし兜にごまい兜の緒をしめ、
 ちのはのごとくにそつたるしらえの大長刀、黒漆の大太刀、双の手に持つままに、どうしゆく10余人ぜんごさうにたて、
 天蓋の門より打つていでたり。これぞしばらくささへたる。多くのくわんびやうらむまのあしながれて、多く滅びにけり。
 されども、官軍は大勢にて、いれかへいれかへ攻めければ、永覚がふせぐところのどうじゆくみな伐たれにけり。
 永覚、心はたけうおもへども、後あばらになりしかば、力およばず、只一人、南をさしてぞ落ちゆきける。
 
 夜戦になつて、大将軍頭の中将重衡、般若寺の門の前にうつたつて、暗らさは暗らし、「火をいだせ」とのたまへば、
 播磨の国の住人、福井の庄の下司、次郎太夫友方といふ者、盾を割り松明にして、ざいけに火をぞかけたりける。
 ころは12月28日の夜の、戌の刻ばかりのことなれば、をりふし風は激しし、火元はひとつなりけれども、
 吹き迷う風に、多くの伽藍にふきかけたり。およそ恥をもおもひ、名をもをしむほどの者は、奈良阪にて討ち死にし、般若寺にして
 伐たれにけり。ぎやうぶにかなへるものは、吉野十津川のかたへぞ落ちゆきける。歩みも得ぬ老僧や、尋常なる修学者、稚児ども女童は、
 もしや助かると、大仏殿の二階の上、山科寺のうちへ、われさきにとぞ逃げいりける。大仏殿の二階の上には、
 1000余人のぼりあがり、敵のつづくをのぼせじとて、はしをひきてげり。みやうくわはまさしうおしかけたり。をめき叫ぶ声、焦熱、
 大焦熱、無限阿鼻、炎の底の罪人も、これには過ぎじとぞみえし。興福寺こは淡海公のごぐわん、とうじるゐだいの寺なり。
 東金堂におはします、ぶつぽふさいしよの釈迦の像、西金堂におはします自然湧出の観世音、瑠璃をならべし四面のらう、
 朱丹をまじへしにかいのろう、九輪空にかがやきし二基の塔、たちまちにけぶりとなるこそかなしけれ。東大寺は常在不滅、
 じつぱうじやくくわうのしやうじんの御仏とおぼしめしなぞらへて、聖武くわうてい、てづからみづからみがきたてたまひし
 金堂16、10の廬遮那仏、うしつたかくあらはれて、半天の雲にかくれ、白毫あらたにをがまれさせたまへるまんぐわつの
 尊容も、みぐしは焼けおちて大地にあり、ごしんはわきあひてやまのごとし。
 
 84000のさうがうは、秋の月はやくごぢうの雲にかくれ、しじふいちぢの瓔珞は、夜の星虚しうじふあくの風にただよひ、
 煙は中天にみちみちて、炎は虚空にひまもなし。目の当たりみたてまつるものは更に眼をあてず、かすかにつたへきくひとは、
 胆魂をうしなへり。法相三論の法門しやうげう、すべて一巻も残こらず。わが朝はまうすにおよばず、
 天竺震旦にもこれほどの法滅あるべしともおぼえず。うでんだいわうのしまごんをみがき、びしゆかつまがしやくせんだんをきざみしも、
 わづかにとうじんの御仏なり。いはんやこれはなんえんぶだいのうちには、ゆゐいつぶさうの御仏、ながくきうそんのごあるべしとも
 おもはざりしに、いまどくえんのちりにまじはつて、ひさしくかなしみをのこしたまへり。ぼんじやくしわう、りうじんはちぶ、
 みやうくわんみやうしうも、驚き騒ぎたまふらんとぞみえし。
 
 ほつさうおうごのしゆんにち大明神、いかなることをかおぼしけん、されば春日野のつゆも色かはり、三笠山の嵐の音もうらむる
 さまにぞ聞こえける。炎のなかにて焼け死ぬる人数をかぞへたれば、大仏殿の二階の上には1700余人、山科寺には800余人、
 ある御堂には500余人、ある御堂には300余人、つぶさにしるいたりければ、3500余人なり。
 戦場にして伐たるる大衆1000余人、少将は般若寺の門にきりかけさせ、少将は首ども持つて都へのぼられけり。
 あくる29日、頭の中将重衡、南都滅ぼしてほくきやうへかへりいらる。およそは入道相國ばかりこそ、いきどほりはれてよろこばれけれ。
 ちうぐう、いちゐん、しやうくわうは、「たとひ悪僧をこそ滅ぼさめ、多くの伽藍をは滅すべきやは」とぞ御嘆きありける。
 日頃は衆徒の首、大路をわたいて、獄門の木にかけらるべしと、公卿、詮議ありしかども、東大寺、興福寺の滅びぬるあさましさに、
 何の沙汰にもおよばず。ここやかしこの溝や堀にぞ捨ておきける。聖武くわうていの真筆のごきもんにも、「わが寺こうぶくせば、
 天下もこうぶくすべし。わが寺すゐびせば、天下もすゐびすべし」とぞあそばされたる。されば天下のすゐびせんこと、
 疑ひなしとぞみえたりける。あさましかりつるとしもくれて、治承も五年になりにけり。
 
 
 


   法 隆 寺 を 見 る (聖徳太子ゆかりの寺を見る)
 

 名称 座標 備考
 法隆寺 (世界遺産 : 法隆寺地域の仏教建造物)  34.614017,135.7356129  奈良県生駒郡斑鳩町
 中宮寺 34.6149548,135.7395277  奈良県生駒郡斑鳩町
 法起寺 (世界遺産 : 法隆寺地域の仏教建造物)  34.622986,135.746222   奈良県生駒郡斑鳩町 
 法輪寺 34.6225,135.738853  奈良県生駒郡斑鳩町
 橘寺 34.47007,135.817484  奈良県高市郡明日香村
 広隆寺 35.0155,135.707308  京都市右京区太秦
 京都最古の寺院
 四天王寺  34.6539,135.51645  大阪府大阪市天王寺区四天王寺 
 日本仏教の最初の寺
 小墾田宮推定地 34.484203,135.812752  奈良県高市郡明日香村豊浦
 聖徳太子時代の京推定地
  
  奈良と言えば、世界遺産 法隆寺も見たい。そこで生駒郡斑鳩町を中心とした、聖徳太子関連の寺院を取り上げます。
 この画面では4ヶ所しか見えませんが、明日香村の橘寺、聖徳太子時代の京、小墾田宮推定地。日本仏教の最初の寺、大阪の四天王寺。
 京都最古の寺、広隆寺もマーカーを付けました。明日香村については明日香を見る。大阪南河内近つ飛鳥については 二上山を見る
 まとめています。







 
   奈 良 時 代 年 表  
 

平城京の時代 710年〜784年  
 694年 持統女帝、飛鳥浄御原宮から藤原京(奈良県橿原市高殿町)へ遷都。 / 696年 唐と渤海 開戦
 702年 遣唐使再開 / 
 707年 文武天皇、25歳で死去。文武の母親,元明天皇(女帝)即位。
 708年  和同開珎 鋳造
 710年 藤原京から平城京に遷都。藤原不比等が事実上の最高権力者となった
 715年 元明天皇(女帝)の娘、元正天皇(女帝)が即位。 / 717年、第九回遣唐使 ( 阿倍仲麻呂・吉備真備 ) 
 724年 聖武天皇が元正女帝より皇位を譲られて即位。国政は橘諸兄が掌握。  
 729年 長屋王の変  藤原四子政権の時代となるが、長屋王の怨霊で次々死亡。
 732年 唐と新羅の関係改善 / 735年 新羅、唐から冊封を受ける(姓や名も、中国風に改める)
 740年 藤原広嗣の乱  恭仁京へ遷都、平城京は一時的に放棄。 
 741年 国分寺・国分尼寺の建設がはじまる
 743年 墾田永年私財法。律令制の崩壊、荘園の発生。
 744年 (後期)難波京,遷都
 745年 紫香楽宮,遷都
 745年 再び平城京に遷都。大仏制作が開始
 749年 聖武、娘の孝謙天皇(女帝)に譲位
 752年 東大寺の大仏 開眼供養会
 754年 鑑真が来日。 第十二回遣唐使帰国船
 756年 聖武天皇,死去。光明皇太后が正倉院を作る。 橘諸兄が失脚 / 757年 橘奈良麻呂の変
 758年 藤原仲麻呂が後見する大炊王が即位して淳仁天皇となる。(クーデター)孝謙女帝は退位.  
 759年 万葉集ができる。 藤原仲麻呂が渤海との連携による新羅遠征計画立案。
 760年 光明皇太后死去。 / 孝謙上皇 平城京に帰還。淳仁を廃位。称徳天皇として即位(重祚)。  
 764年 恵美押勝の乱 (=藤原仲麻呂=光明皇太后の甥) 
 765年 道鏡が太政大臣禅師となり、権力をふるう。(称徳女帝)
 769年 宇佐八幡宮神託事件  和気清麻呂を大隅国へ配流
 770年 称徳女帝 病臥、100日余で死去(暗殺?)。 道鏡 失脚 下野国に配流 和気清麻呂らを召還
 770年 藤原永手や藤原百川の推挙によって天智天皇系の光仁天皇が即位 
 772年 井上皇后を光仁天皇呪詛事件で廃后。他戸皇太子も廃太子。幽閉後死亡。天武系血統断絶。 
 780年 渤海、新羅間が緊張、渤海が日本へ遣日本使を派遣。新羅と日本間の国交は停滞
 781年 光仁天皇が譲位し、桓武天皇が即位。
 784年 長岡京に遷都。
  平安時代年表 へ続く
 
   奈 良 の 怨 霊 
 

 聖徳太子 622年死去
 長屋王  729年死去 藤原四子は疫病で次々死亡。
 藤原広嗣 740年死去 聖武天皇は都を次々造成、移転。
 741年 聖武天皇、諸国に国分・国分尼寺を建立。(国分寺・国分尼寺建立の詔)
 743年 聖武天皇、盧舎那大仏像の造顕を発願(盧舎那仏造顕の詔)
 749年 聖武天皇、光明皇后ら、菩薩戒を受け出家。娘の孝謙天皇に譲位。
 淡路廃帝 765年死去。孝謙上皇が復権。配流先で逃亡を計り死亡。
 井上皇后、他戸皇太子を廃后、廃太子。772年幽閉後死亡。後の桓武天皇が立太子
 怨霊、御霊信仰は日本独自のもので、平安時代から始まるが、これらのケースが原型となった。
 162 田中聡 妖怪と怨霊の日本史/モナ丼/本読 /  聖武天皇略年表  / 







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