願わくば 花の下にて 春死なん その望月の如月の頃 |
西行 (1118年〜1190年) |
平安時代末期から鎌倉時代初期の武士・僧侶・歌人。1137年、鳥羽院の北面武士として勤務。 |
1140年、23歳で出家。諸国を巡る漂泊の旅で、多くの和歌を残した。 |
大阪府南河内郡河南町弘川寺に庵居し、文治6年2月16日(1190年3月23日)入寂した。享年73歳。桜の時期であった。 |
その無常観と生き様は、日本人の美意識に大きな影響を与えた。 |
|
弘川寺
- Wiki / |
河内 弘川寺 西行 入寂の地 座標:
34.474634,135.65345
|
|
大きな地図を表示
|
|
View texts by #19 Saigyo^ (西行法師).
/
Saigyō
- Wiki /
西行
- Wiki / 西行法師小伝
/ |
日本の神社・大阪府・番外( 弘川寺 )
/
佐藤義清(後の西行)の出家 / 西行の娘
- Wiki / 西行法師の生涯
/ |
753夜『山家集』西行
|松岡正剛の千夜千冊 /
西行
- Google 検索 / 西行桜
- Wiki / 二つの西行忌
/ |
|
西行は、平清盛とは同い年、崇徳天皇は一つ年下。面識のある関係である。 |
西行の生きた1118年〜1190年の年表 |
1119年 待賢門院
(藤原璋子)の子、後の崇徳天皇
誕生。 / 白河上皇 熊野詣5回目 |
1123年 鳥羽天皇(23歳)が譲位、崇徳天皇(4歳)が即位。 / 1124年 鳥羽上皇 熊野詣1回目 / 1128年 白河法皇 熊野詣12回目 |
1129年 白河法皇
が崩御。鳥羽上皇(29歳)が院政をはじめる。1137年、鳥羽院の北面の武士として勤務した記録がある |
1140年 西行、出家。 23歳 |
1142年 崇徳天皇(23歳)が譲位、美福門院の子 近衛天皇(2歳)が即位。政界は待賢門院派と美福門院派に二分される。 |
1152年 平清盛(35歳)、厳島神社を修造。 / 1153年 鳥羽上皇 熊野詣23回目 |
1155年 美福門院
の実子、近衛天皇(17歳)が崩御。後白河天皇
(28歳)が践祚。 / 久寿の飢饉 |
1156年 保元の乱
( 後白河天皇方と崇徳上皇方の武力衝突 ) 中世の到来、崇徳上皇は讃岐に配流、為朝は伊豆大島に配流 |
1158年 平清盛(41歳)が大宰大弐となる。後白河天皇(31歳)が譲位、二条天皇(15歳)が即位。 |
1160年 平治の乱
(後白河院政派vs二条天皇
親政派) / 清盛が正三位となる。 / 後白河 熊野詣1回目 |
1164年 平清盛(47歳)、平家納経を厳島神社におさめる。 |
1165年 二条天皇(18歳)が六条天皇(8ヶ月)に譲位。 /
延暦寺と興福寺の抗争。 /
僧兵 /
年表・平安後期.2 |
1167年 平清盛(50歳)、太政大臣となる。 |
1168年 六条天皇(3歳)が譲位、高倉天皇
(6歳)が即位。 / 平清盛が厳島神社の現在の社殿を造営。 / 福原に雪見御所を造営 |
1174年 平清盛(57歳)が神戸 大輪田泊に経ヶ島を築く。 |
1177年 後白河法皇の側近が鹿ケ谷の陰謀を企てる。 /
安元の大火
/ 1178年
治承の大火
|
1179年 平清盛、後白河法皇(52歳)を幽閉、院政を停止。(治承三年の政変
) |
1180年 高倉天皇(18歳)退位、清盛の孫、安徳天皇(1歳4ヶ月)即位。 / 福原行幸、福原京の造営。 / 治承・寿永の乱
が始まる |
1181年 1月、平重衡が東大寺などを焼き払う(南都焼討
) / 3月、平清盛(64歳)が死去。 / 院政派復活 /
養和の飢饉 |
1183年 平家都落、源義仲入京、後鳥羽天皇
(3歳)後白河法皇の院宣を受け即位 / 1184年 一ノ谷の戦い
。 |
1185年 屋島の戦い
、壇ノ浦の戦い
。 / 鎌倉幕府
が成立 ( 地頭・守護の設置始まる ) |
1186年 源義経、平泉に逃れる。 / 西行、河内弘川寺に庵居。69歳 / 後白河法皇 大原御幸
|
1189年 衣川の館で源義経(31歳)、死亡。( 奥州合戦 ) /
義経最期
|
1190年 西行、入寂。73歳 / 源頼朝
(43歳)上洛、後白河院と会談 / 後白河 熊野詣34回目 |
1192年 後白河院、崩御。66歳 / 源頼朝が征夷大将軍となる |
熊野三山 - Wiki / 熊野街道(紀伊路)
-Wiki /
白河上皇の熊野御幸 /
熊野御幸記録 / 熊野古道関係の古書等の資料 /
|
後白河法皇と保元・平治の乱 / 紀伊路
- Wiki /
渡辺津
- Wiki /
熊野古道
- Wiki /
|
|
|
西行庵 (円山公園音楽堂南、東山区高台寺北門前通下河原東入鷲尾町) |
|
京都円山公園西行庵座標:35.001826,135.780834
|
|
諸国を行脚し、草庵を営んだ西行には、西行草庵の地と伝えられる場所も多いが、京都には、円山音楽堂の南に西行庵がある。 |
明治26年(1893年)、富岡鉄斎が勧進文を書き、庵主小文法師が浄財を募り、再建(?)された。
茅葺きの母屋は、大徳寺塔頭真珠庵の |
浄妙庵を移築したものである。 /
大きな地図を見る
|
|
|
|
※ 日本国の大魔王、崇徳上皇。 / 日本一の大天狗、後白河法皇。 / 九尾の狐、美福門院。 |
白河天皇 |
1072年、20歳で即位
|
1087年、白河天皇は慣習を破り皇太弟ではなく、中宮:藤原賢子の第三皇子で実子である8歳の堀河天皇に譲位した。 |
1107年、堀河天皇崩御、その皇子で白河法皇の孫、鳥羽天皇即位。
更に曾孫の崇徳天皇と3代にわたって幼帝を擁し、 |
43年間の院政を敷いた。1129年、77歳で崩御した。 |
白河法皇の養女(愛人)である藤原璋子(待賢門院)は、白河法皇とその寵姫・祇園女御
に養われた。
|
白河法皇の孫の鳥羽天皇の中宮となり、崇徳天皇が生まれた。祇園女御の妹(白河法皇の愛人)も、清盛の父、平忠盛に下げ渡された。 |
崇徳、清盛は、白河法皇の実子であるとされる。 / 熊野詣12回 |
鳥羽天皇 |
白河法皇の死後、鳥羽天皇は、反白河法皇路線をとり、藤原得子(美福門院)を寵愛して、皇后とし、その子、近衛天皇へ譲位した。 |
また、もう一人皇后、藤原泰子(高陽院)がいた。皇后二人は極めて異例である。 |
近衛天皇が若くして病没すると、藤原璋子(待賢門院)の第四皇子、鳥羽天皇の実子、後白河天皇が即位した。 |
鳥羽院は、崇徳、近衛、後白河の三代28年に亘り院政を敷いた。崇徳上皇を疎んじたことが、鳥羽法皇 崩御 直後に |
保元の乱が勃発する原因となった。 / 熊野詣23回 |
保元の乱 1156年7月 |
後白河天皇(美福門院派、信西)vs崇徳上皇(待賢門院派) |
崇徳上皇は讃岐に配流、8年後1164年、現地で死去した。頼朝は、清盛の継母、池禅尼の嘆願で助命、伊豆大島に配流された。 |
摂関家の勢力は大幅に後退、信西派が伸長した。このことは、院近臣や貴族の反感を買い、反信西派が形成された。 |
また、院近臣も後白河院政派と二条親政派に分裂し、朝廷内は三つ巴となった。 |
二条親政派と後白河院政派は対立していたが、反信西という点では一致していた。信西は清盛の武力に依存していた。 |
三条殿襲撃 1159年12月 /
三条殿焼討
- Google 検索 |
清盛が熊野参詣で軍事的空白が生まれた隙に、反信西派はクーデターを起こし、信西
(54歳) は自害した。 |
平治の乱 1160年1月〜4月 /
平治物語絵巻
- Google 検索 |
後白河院政派vs二条親政派の対立により発生した政変。 乱後、後白河院政派は事実上壊滅。 |
信西打倒関係者は、後白河院政派、二条親政派とも政界から一掃された |
乱鎮圧の貢献者である清盛は双方の派に距離をおき、国家的な軍事、警察権も掌握。 |
平氏一門は、経済力、軍事力を増大確立して、平氏政権を形成していった。武家政権の先駆けである。 |
|
吉野山 西行庵 (奈良県吉野郡吉野町吉野山) |
|
吉野山 西行庵座標:
34.337979,135.880365
|
|
こちらは、吉野山にある西行庵。 /
大きな地図を見る
|
|
京都市内の西行関連寺院 |
|
勝持寺 京都市西京区大原野南春日町1194 花の寺とも呼ばれる。
西行は、この寺で出家した。 |
34.960694,135.651667 / |
|
雙林寺(双林寺 そうりんじ) 京都市東山区下河原通高台寺北門前鷲尾町527 |
双林寺には西行の墓とされるものがある。
西行庵は双林寺の飛び地境内にある。 |
35.002344,135.781684 / |
|
|
|
|
|
|
祇王とその母の墓 (祇王寺)
/ 一の谷海岸より鉢伏、鉄拐山を見る
/
秋の鉢伏、鉄拐山を見る
/
滝口寺
/
|
鉄拐山より眼下の須磨海岸を見る
/
須磨海岸より鉢伏山を見る
/ 監物太郎の墓
/
平忠度腕塚・胴塚
/ 敦盛塚(胴塚)
|
安徳帝内裏跡伝説地
/
敦盛首塚
/
萱の御所跡
/
清盛塚
/
平盛俊塚
/
平業盛の墓
/
平通盛と小宰相の墓
/ |
源平史蹟・戦の濱
/
平知章之碑
/
平経俊塚
/ 古代大輪田泊の石椋 / 妓王・妓女の塔 / 松王小児入海之碑
/ |
高取山より鵯越方面を見る /
高取山より大輪田泊を見る /
会下山より大輪田泊を見る
/ 六波羅蜜寺 平清盛公乃塚
|
晴明神社を見る
( 嵐山と平家物語 ) / 平家物語と神戸 / |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
Fudaraku Voice |
|
|
|
|
|
|
|
|
|