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平安京の主な建物址を現在の地図に重ねてみた。 |
一番信頼性の高い、平安京探偵団と京都市情報館のサイトを参考にGoogleMapにマーカーを付けてみた。 |
文章で説明されるより視覚化しただけで相当判り易くなったと思う。 (2009/12/28) |
(1) 世界遺産 東寺 都の南玄関、羅城門の東 建立当初は迎賓館 後、真言密教の根本道場 |
(2) 西寺跡 都の南玄関、羅城門の西 建立当初は迎賓館 後、寺院にした。弘法大師と法力を争い負けたという。 |
(3) 綾綺殿跡 現、町家ショップ&カフェ 綾綺殿
。 舞や宴の舞台つき宴会場であった。 |
(4) 平安宮造酒司倉庫跡 下記、役所の倉庫 |
(5) 平安宮内酒殿跡 現,京都市出水ディサービスセンター 酒や酢の醸造をしていた役所 |
(6) 平安宮主水司跡 現, コンビニエンスストアー 飲料水、氷室を管理する役所 |
(7) 平安宮内裏内郭回廊跡 天皇の私邸である内裏を取り囲んでいた廊下 平安宮内裏を歩く
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(8) 紫宸殿 儀式や重要行事を行う正殿。 |
(9) 平安京朱雀大路跡 朱雀大路は、現,千本通。道幅、84mのメインストリート。 |
(10) 平安宮西限藻壁門跡 平安京大内裏外郭十二門の一つ。 |
(11) 平安宮朝堂院跡 朝堂院は、政治、儀式を行う官庁の建物群 |
(12) 大極殿遺址 大極殿が上記、朝堂院の中心、正殿。 |
(13) 神泉苑東端線 禁苑として天皇、貴族の遊宴地であったが、雨乞い、御霊会などを行う施設となった。 |
(14) 二条大路北築地(平安宮南大垣)跡 ここから北側が平安宮。 |
(15) 奨学院址 平安時代の貴族の教育機関。 |
(16) 平安宮朝堂院跡 朝堂院は、政治、儀式を行う官庁の建物群 |
(17) 平安宮内裏弘徽殿跡 平安宮内裏内の後宮七殿舎(承香殿・常寧殿・貞観殿・麗景殿・宣耀殿・弘徽殿・登華殿)の一つ。 |
(18) 平安宮内裏承香殿跡 平安宮内裏内の後宮七殿舎(承香殿・常寧殿・貞観殿・麗景殿・宣耀殿・弘徽殿・登華殿)の一つ。 |
(19) 平安宮内裏宜陽殿跡 累代の御物を納める施設。 |
(20) 平安宮内裏昭陽舎跡 平安宮(内裏)内の後宮の一つ 梨壺とも呼ばれる |
(21) 平安宮大蔵省跡 今制八省の一つ 出納、収納、度重衡、貨幣、金銀、雑物などを管理 |
(22) 大学寮址 大学寮は、国立大学、中央官庁の役人養成機関 |
(23) 平安京大内裏朱雀門址 宮城十二門のうち最も重要な門 中京区西ノ京小堀町 |
(24) 平安京朱雀大路と朱雀門 中京区西ノ京栂尾町 |
(25) 羅城門址 京都市南区千本通九条北東 羅城門の鬼
980年の台風で倒壊して以後、再建されませんでした。 |
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平安京 遷都 理由 |
transfer the capital from Nara to Kyoto. A.D.794 |
聖武天皇が、大仏を作り、国分寺を作り、自ら出家までしても、長屋王の怨霊を鎮めることができず、自然災害、疫病の流行、 |
地方の反乱を防ぐことができなかった。国家鎮護の宗教として(親.天武の) 奈良仏教は無効であった。 |
平安遷都(794年)を行った桓武天皇は、武装勢力を有し政治介入する奈良仏教を抑えるため、当時最新の密教を導入した。 |
結果的には彼らも、権力の信奉を受け、領地、荘園を持ち、武装勢力を抱えていくことになる。 |
また、天武の血統を絶つため、皇后(井上内親王)と、皇太子(他戸親王)を冤罪で殺害。皇位継承権を奪取して即位。 |
更に弟の早良親王を謀反連座の容疑で廃嫡。早良親王は断食死し、怨霊に祟られ、最初に遷都した長岡京は放棄せざるを得ず。 |
平安京も怨霊におそれおののくことになり、密教だけでなく、陰陽道、風水も動員した災厄回避が計られることになる。 |
風水に基づいて都市設計をし、方位神である大将軍神社を配置し、御霊会を執り行い、御霊神社を建立したが、怨霊信仰の |
拡大と共に怨霊は増えていった。
(需要があるから供給がある) |
後宮が異常に多いことからも判る通り、皇后、夫人の他、女御、宮人が多数、そのため皇子も大勢おり、後の薬子の変、両統迭立 |
さらには、南北朝へと繋がっていく。 |
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平安京神社仏閣 |
遷都とともに創祀もしくは、改装した寺、神社 |
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(1) 大原野神社 京都市西京区大原野南春日町1152 /
Ōharano_Shrine |
(2) 上賀茂神社(世界遺産) 京都市北区上賀茂本山339 /
Kamigamo_Shrine
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(3) 藤森神社 摂社 大将軍社(重要文化財) 京都市伏見区深草鳥居崎町609 |
(4) 岡崎神社(厄除けの神) 京都市左京区岡崎東天王町51 |
(5) 青蓮院の将軍塚大日堂 京都市山科区厨子奥花鳥町7-5 |
(6) 五条天神宮 京都市下京区西洞院松原南入ル 大和国 宇陀郡から天神(雷神と水神)を勧請。 |
(7) 延暦寺(世界遺産) 滋賀県大津市坂本本町4220 (伝教大師 最澄) /
Enryaku-ji
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(8) 勝持寺 京都市西京区大原野南春日町1194 |
(9) 上御霊神社 京都市上京区上御霊前通烏丸東入上御霊堅町495 |
(10) 日吉大社 滋賀県大津市坂本 "近江京"遷都の翌年 "大津京"鎮護のため奈良県桜井市三輪大神神社の神を勧請 |
(11) 狸谷不動尊 京都府京都市左京区一乗寺松原町6 鬼門守護として、桓武天皇勅願により祭祀 35.042479,135.799384 |
(12) 幸神社 京都市上京区寺町今出川上ル西入幸神町303 平安京鬼門守護として創祀 35.030796,135.766841 |
(13) 剣神社 京都市東山区新熊野剣宮町 王城鎮護のため創祀 34.983632,135.7771 |
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その後の怨霊慰撫の神社など |
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(1) 安井金比羅宮 元、崇徳天皇の妾(烏丸殿)邸 京都市東山区東大路松原上ル 悪縁切りのご利益。 |
(2) 深泥池 京都市北区 植物群落が深泥池水生植物群として天然記念物に指定。京都で有名なミステリースポット |
(3) 崇徳天皇廟 祇園 花見小路 甲部歌舞錬場裏 崇徳院の怨霊のゆくえ
/ 崇徳天皇 |
(4) 下御霊神社 中京区寺町通丸太町下ル 下御霊神社が祀る八所御霊
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(5) 北野天満宮 京都市上京区馬喰町 創祀は947年 /
Kitano_Tenman-gū
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(6) 六道珍皇寺 京都市東山区大和大路通四条下る4丁目小松町 地獄へ通ずる井戸があります。 |
平安前期の風葬地 |
蓮台野(北区紫野蓮台野、左大文字山麓 ) / 化野(右京区嵯峨鳥居本化野) / 鳥辺野(五条坂から今熊野、泉涌寺あたり) |
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北野天神縁起絵巻(承久本) 清涼殿霹靂時平抜刀 930年 清涼殿落雷事件 |
Kitano Tenjin engi emaki ( a picture scroll depicting the chronicle of the Kitano Shrine ) |
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京都市上京区 北野天満宮 所蔵 国宝 |
日本最古の天神、與喜天満神社(奈良県櫻井市初瀬 與喜山)菅原道真公の神像
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平安京の、怨霊、妖怪、鬼。 |
日本国の大悪魔 九尾の狐 日本一の大天狗 鬼 etc. |
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崇徳天皇
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日本最大の怨霊 崇徳天皇 保元の乱で敗れ讃岐(崇徳上皇ゆかりの地)へ流罪となり現地で死去(暗殺?) |
父は鳥羽天皇。母は白河法皇(鳥羽天皇の祖父)の元愛人、中宮璋子(待賢門院)。鳥羽天皇の第一皇子。 |
しかし鳥羽天皇の実子でなく、白河法皇と、璋子との間にできた子であったとされる。 / 国立公文書館内閣文庫所蔵半井本 |
今者 後世迄ノ敵ゴサンナレ 我願ハ五部大乗経ノ大善根ヲ 三悪道ニ抛テ 日本国ノ大悪魔ト成ラム (保元物語) | |
藤原璋子 No74鳥羽天皇の中宮で、 No75崇徳とNo77後白河天皇の母。No76
近衛天皇即位、得子の
皇后"冊立"時に |
得子を呪った呪詛事件 (日吉社呪詛事件と広田社巫呪詛事件)が発生、璋子が裏で糸を引いているという噂が流されるようになる。 |
墓所は自ら開基した法金剛院
の北、京都市右京区花園扇町 藤原璋子花園西陵 中宮璋子(待賢門院)は熊野詣12回 |
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藤原得子(美福門院) 鳥羽上皇の皇后。類まれな美貌。 保元の乱のきっかけを作り、卓越した政治的手腕をみせた。 |
44歳で崩御。女人禁制である高野山に遺骨が納められた。 近衛天皇 (2才で即位、藤原頼長の呪詛により17才で死去) の母。 |
九尾の狐 玉藻前
(日本三大妖怪) のモデルとなった。 熊野詣4回 鳥羽上皇は熊野詣21回 | |
京都 白峯神宮は 明治天皇即位に間に合わせて急ぎ作られたが、神宮にしては、いかにもしょぼい。境内にも風格がない。 |
陰陽寮を廃止し、怨霊が跋扈する時代の終わりに、締めくくりとしてとりあえず作ったのだろう。 |
天狗覚書陰陽道から修験道へのトレンドの変化を天狗を切り口に考察している。
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保元の乱
1156年 /
平治の乱
1159年 |
この保元の乱で平清盛が頭角を現し、平治の乱で朝廷の軍事力、警察力を掌握。太政大臣に任ぜられ、娘の徳子
をNo80高倉天皇に |
入内させ、孫の安徳を天皇に即位させ、平氏全盛時代を築いた。高倉天皇の"宮人"の一人に小督局
がいる。 |
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平清盛
伊勢平氏の頭領、平忠盛の嫡子、平氏棟梁となる。母は白河法皇晩年の寵妃、祇園女御
の妹とされる。 |
祇園女御の下で育てられ、清盛の実父は白河法皇との説がある。また祇園女御は待賢門院(崇徳上皇、後白河法皇の生母)を養女と |
していた。 / 平氏滅亡に至る 治承 寿永の乱については、
神戸と阪神間を見るを見て下さい。 |
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西行 鳥羽上皇の下で
北面の武士となり、23歳で出家。諸国を行脚。河内国 弘川寺
に草庵を結び。1190年入寂した。 |
仁和寺に籠もった崇徳上皇を訪ね、
崩御後の1167年、讃岐国の崇徳上皇の陵を訪れている。1118年生まれ 平清盛と同い年。 |
平泉に藤原秀衡を訪ね、 鎌倉に立ち寄り頼朝に会い。
諸国行脚、五十年、人生の三分の二を旅に送った。 / 西行法師小伝 |
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後白河天皇 源頼朝に"日本一の大天狗"と呼ばれた。崇徳の同母(待賢門院璋子)弟。鳥羽天皇の第四皇子。 |
"今様"の熱狂的愛好家で『梁塵秘抄
』を撰した。 異母弟 近衛天皇が16才で急死(?)により皇位を継承。 歴代上皇の中で最多 |
34回の熊野詣を行った。保元,平治の乱、治承,寿永の乱と戦乱の続く時代、在位は3年だが、その後5代に渡って院政を敷いた。 |
墓所は、京都市東山区法住寺三十三間堂廻り法住寺内 後白河天皇陵 34.9875039,135.7732219 |
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酒呑童子
平安京には、怨霊だけでなく、魑魅魍魎、妖怪、そして鬼も出た。その最も有名な鬼が酒呑童子である。 |
人間が武力で討ち取っているところからみて夜盗集団であろうが、西京区と亀岡市の境に酒呑童子の首塚がある。 |
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日本三大怨霊
菅原道真 / 平将門 / 崇徳天皇 |
日本三大悪妖怪 酒呑童子
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白面金毛九尾の狐
(美福門院 藤原得子) /
崇徳天皇怨霊伝説
(日本国ノ大悪魔) /
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大江山と酒呑童子の首塚 |
Shuten-doji is a gigantic ruler of the Oni, creatures of Japanese folklore.
In popular culture.
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