表 紙 内モンゴル自治区地図 太平洋地図 宗教政策面から見た近代日本 (1867年から1945年の年表) 日本本土空襲 年表(1941~1945年の年表) 京都 原爆投下予定地点
 
   摩文仁の丘を見る (沖縄平和祈念公園)
 
 沖縄戦、ひめゆり部隊などの話は、戦争の記憶が生々しい1960年代ごろまでは誰でも知っている話であったが、
 次第に語られることが少なくなってきた。沖縄は二次大戦で、(現在の)日本国内唯一の地上戦の舞台となった。
 摩文仁の丘とその周囲は平和祈念公園となっている。 この丘陵は沖縄守備軍陸軍第三十二軍最後の地となったところである。
 1945年(昭和二十年)四月一日、米軍が嘉手納海岸へ上陸。五月中旬には、第三十二軍の司令部がある首里近郊にまで迫った。
 五月二十二日、沖縄守備軍司令部は首里放棄、南部後退を決定、各部隊は南部へ向かった。
 六月一日未明、第三十二軍司令部、摩文仁の丘の洞窟に設けられた戦闘司令部に到着。
 米軍上陸の時点で約十万であった兵力は三万になっていた。しかもその半数は臨時召集の沖縄県民であった。
 六月十八日、牛島軍司令官は、組織的抵抗は困難であると判断、軍としての最後の命令を下した。
 「…自今諸氏は、各々その陣地に拠り、所在上級者の指揮に従い、祖国のため最後まで敢闘せよ…」
 六月二十三日、牛島軍司令官が摩文仁司令部で自決したとされる。この日を日本軍の組織的戦闘が終結したとしてとらえ、
 アメリカ施政権下の琉球政府及び沖縄県によって沖縄慰霊の日が制定された。
 毎年この日は、糸満市摩文仁の平和記念公園において、沖縄県議会主催の「沖縄全戦没者追悼式」が行われる。
 また同時に、沖縄県内に散在する各地の慰霊塔などでも一斉に慰霊祭が行われる。
 七月二日、その後も米軍による掃討作戦が続き、七月二日、米軍の琉球作戦終了が宣言された。
 沖縄戦の日本側死亡者は、 1950年の沖縄県援護課の発表では以下の数値である。 / 沖縄戦 - Wiki
 沖縄戦の日本側死亡者:18万8136人
 A:県外出身日本兵戦死者 6万5908人
 B:沖縄県出身軍人・軍属(現地召集を受けた正規兵、防衛隊・鉄血勤皇隊など) 2万8228人
 住民犠牲(C+Dの9万4000人)
 C:戦闘参加者(準軍属と認定された人数) 5万5246人
 D:一般住民 3万8754人(推定)
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ひめゆりの塔
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