目 次  大阪から奈良、和歌山の山と霊場を見る Google Mapsで熊野那智を行く 近つ飛鳥を見る 大和飛鳥を見る平家物語の奈良を見る 謎の大王墓を見る アブラハムの宗教の聖地



   1837年(旧暦)2月19日、元大阪東町奉行所与力、大塩平八郎は、「救民」の旗を掲げ、決起した。大塩平八郎の乱の史跡を見る。(西暦では3月25日)
   大塩平八郎の乱の史跡を見る 


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大阪市北区造幣局宿舎北1号館 大塩平八郎の家塾 洗心洞跡ですが部外者は入れません。
画面ほぼ中央の道路脇にある小さな石碑が、大塩の乱槐跡の石碑です。
また、西(右)へ一筋目を南に行くと造幣局宿舎に隣接した滝川小学校前に川崎東照宮跡の碑があります。

 名称 座標 備考
 大塩平八郎追悼碑 34.683803,135.494663  大阪市西区靱本町1丁目
 大塩平八郎の墓 34.700192382540905,135.50995230674744    大阪市北区末広町成生寺
 大塩平八郎の家塾 洗心洞跡  34.696841,135.519224  大阪市北区造幣局宿舎北1号館
 ここより出発、天満宮へ向かう。
 天満宮 34.696152,135.512656  ここより南下する。
 天神橋 34.692536,135.511841  ここを渡ろうとしたが、橋が破壊されていたため迂回。 
 難波橋 34.693602,135.507698  ここを押し渡り、現.北浜2丁目へ向かう。
 北浜1丁目 34.691826,135.506664  難波橋を渡り、川沿いに西へ移動。
 北浜2丁目 34.692103,135.503708  ここより南下した後二隊に分かれ東進した。
(今橋隊と高麗橋隊)
 今橋 34.690127,135.50985   
 高麗橋 34.689272,135.509899   
 平野橋 34.687468,135.510135  平野橋東端で鎮圧軍と衝突した。
 堺筋淡路町 34.686828,135.50654  この付近で蹶起部隊は消滅した。

 (1)大塩平八郎追悼碑 大阪市西区靱本町(うつぼほんまち)1丁目。 / (2)大塩平八郎の墓 成正寺 大阪市北区末広町(南森町)
 (3)大塩平八郎家塾(洗心洞跡)大阪市北区造幣局宿舎北1号館。 / (4)天満宮 / (5)天神橋 / (6)難波橋
 (7)北浜1丁目 / (8)北浜2丁目 / (9)今橋 / (10)高麗橋 / (11)平野橋 / (12)堺筋淡路町
  大塩の乱の舞台となった、現在も大阪の司法、行政、経済の中心部である一帯。
 この地域は都会の中心部で何の面影もありません、しかし時空を超えれば、そんな事件と時代があったのです。
 



 関連情報リンク
 大塩平八郎の乱(文教大) 簡潔で要点を押えた良い説明です。 /大塩平八郎の乱(Wiki-ja) / 
 大塩平八郎の決起と乱の影響 /  貨幣経済の浸透と本百姓の消滅 /  大阪歴史散歩:大塩平八郎の足跡をたどる  / 
 大 塩 の 乱 資 料 館  /  檄文(大塩平八郎) /   大塩「檄文」収録一覧 / 与力の家計   /  与 力
  大塩平八郎の乱apedia  /  天保の飢饉 /  気象・天気のはなし 冷害と稲作 /  餓死供養塔 /  飢饉 / 
 当時の情勢 1830年代
  フランス7月革命1830年7月 /  アヘン戦争1839年〜1842年  /  天保の大飢饉1833〜39年   
 イギリスが機械輸出禁止令を1825年に一部解除、1843年には全面的に廃止。これにより1830年代にヨーロッパ諸国や
 アメリカでも産業革命 が始まった。 / 近代における世界の一体化 ( 産業革命〜パックス・ブリタニカ )
 1840年代の情勢
 1840年6月プルードン『財産とは何か』を出版 / 天保の改革1841〜1843年 / 天保暦に改暦(1844年) / 1848年革命
 1850年代の情勢
 1854年 ペリー来航 1856年 アロー号事件 1857年 セポイの乱 1858年 安政の大獄 捕縛始まる 1859年 ジョン・ブラウンの乱
 1860年代の情勢
 1861-1864年アメリカ南北戦争  / 1862年第一インターナショナル結成。    
 1867年 大政奉還 ,(近江屋事件)/1868年  鳥羽伏見の戦い(戊辰戦争) 神戸事件,堺事件,会津戦争,北越戦争,上野戦争,明治に改元
 1869年 戊辰戦争の終結 蝦夷地に開拓使を設置 
 1870年代以降の情勢
 1870年 大教宣布の詔 1871年 パリ・コミューン  1892年 クロポトキン『麺麭の略取』を出版

  大塩檄文 口語訳「大日本思想全集」第十六巻〈1931年。先進社内同刊行会〉
  天下の民が生活に困窮するやうではその国も滅びるであらう。
 政治に当る器でない小人どもに国を治めさして置くと、災害が並び起るとは
 昔の聖人が深く天下後世の人君、人臣に教戒されたところである。
 それで、 徳川家康公も「仁政の基は依る辺もない鰥寡孤児などに尤も憐れみを加へることだ」と云はれた。
  然るに茲二百四五十年の間太平がつゞき、上流の者は追々驕奢を極めるやうになり、
 大切の政事に携はつてゐる役人共も公然賄賂を授受して贈り或は貰ひ、
 又奥向女中の因縁にすがつて道徳も仁義も知らない身分でありながら、立身出世して重い役に上り、
 一人一家の生活を肥やす工夫のみに智を働かし、その領分、知行所の民百姓共には過分の用金を申付ける。
 これ迄年貢 諸役の甚しさに苦しんでゐた上に右のやうな無体の儀を申渡すので追々入用がかさんできて
 天下の民は困窮するやうに成つた。かくして人々が上を怨まないものが一人もないやうに成り行かうとも、
 詮方のない事で、江戸を始め諸国一同右の有様に陥つたのである。
  天子は足利家以来、全く御隠居同様で賞罰の権すら失はれてをられるから下々の人民がその怨みを
 何方へ告げようとしても、訴へ出る方法がないといふ乱れ方である
 
  依つて人々の怨みは自から天に通じたものか。年々、地震、火災、山崩れ、洪水その他色々様々の天災が
 流行し、終に五穀の飢饉を招徠した。これは皆天からの深い誡めで有がたい御告げだと申さなければならぬのに、
 一向上流の人々がこれに心付かすにゐるので、 猶も小人奸者の輩が大切の政事を執り行ひ、たゞ下々の人民を
 悩まして米金を取立る手段ばかりに熱中し居る有様である。事実、私達は細民百姓共の難儀を草の陰よりこれを
 常に見てをり、深く為政者を怨む者であるが、吾に湯王 武王の如き勢位がなく、又孔子 孟子の如き仁徳もないから、
 徒らに蟄居して居るのだ。 ところがこの頃米価が弥々高値になり、 市民が苦しむに関はらず、大阪の奉行並に
 諸役人共は万物一体の仁を忘れ、私利私欲の為めに得手勝手の政治を致し、江戸の廻し米を企らみながら、
 天子御在所の京都へは廻米を致さぬのみでなく五升一斗位の米を大阪に買ひにくる者すらこれを召捕るといふ、
 ひどい事を致してゐる。 昔葛伯といふ大名はその領地の農夫に弁当を持運んできた子供をすら殺したといふ事で
 あるが、それと同様言語道断の話だ、何れの土地であつても人民は徳川家御支配の者に相違ないのだ、それを
 この如く隔りを付けるのは奉行等の不仁である。その上勝手我儘の布令を出して、大阪市中の遊民ばかりを大切に
 心得るのは前にも申したやうに、 道徳仁義を弁へぬ拙き身分でありながら甚だ以て厚かましく不届の至りである。
 
  また三都の内大阪の金持共は年来諸大名へ金を貸付けてその利子の金銀並に扶持米を莫大に掠取つてゐて
 未曾有の裕福な暮しを致しをる。彼等は町人の身でありながら、大名の家へ用人格等に取入れられ
 又は自己の田畑新田等を夥しく所有して何不足なく暮し、この節の天災天罰を眼前に見ながら謹み畏れもせず、と
 云つて餓死の貧人乞食をも敢て救はうともせず、その口には山海の珍味結構なものを食ひ、妾宅等へ入込み、
 或は揚屋茶屋へ大名の家来を誘引してゆき、高価な酒を湯水を呑むと同様に振舞ひ、 この際四民が難渋してゐる
 時に当つて、絹服をまとひ芝居役者を妓女と共に迎へ平生同様遊楽に耽つてゐるのは何といふ事か、
  それは紂王長夜の酒宴とも同じ事、そのところの奉行諸役人がその手に握り居る政権を以て右の者共を取締り
 下民を救ふべきである。それも出来なくて日々堂島に相場ばかりを玩び、実に禄盗人であつて必ずや天道聖人の
 御心には叶ひ難く、御赦しのない事だと、私等蟄居の者共はもはや堪忍し難くなつた。
  湯武の威勢、孔孟の仁徳がなくても天下の為めと存じ、血族の禍を犯し、此度有志のものと申し合せて、
 下民を苦しめる諸役人を先づ誅伐し、続いて驕りに耽つてゐる大阪市中の金持共を誅戮に及ぶことにした。
 
 そして右の者共が穴蔵に貯め置いた金銀銭や諸々の蔵屋敷内に置いてある俸米等は夫々分散配当致したいから、
 摂河泉播の国々の者で田畑を所有せぬ者、たとひ所持してゐても父母妻子家内の養ひ方が困難な者へは右金米を
 取分け遣はすから何時でも大阪市中に騒動が起つたと聞き伝へたならば、里数を厭はず一刻も早く大阪へ向け
 馳せ参じて来てほしい、各々の方へ右金米を分配し、驕者の遊金をも分配する趣意であるから当面の饑饉難儀を救ひ、
 若し又その内器量才力等がこれあるものには夫々取立て無道の者共を征伐する軍役にも使たいのである。
  決して一揆蜂起の企てとは違ひ、追々に年貢諸役に至るまで凡て軽くし、都べてを中興 神武帝御政道の通り、
 寛仁大度の取扱ひにいたし年来の驕奢淫逸の風俗を一洗して改め、質素に立戻し、四海の万民がいつ迄も天恩を
 有難く思ひ、父母妻子をも養ひ、生前の地獄を救ひ、死後の極楽成仏を眼前に見せ、支那では、日本では
 天照皇太神の時代とは復し難くとも中興の気象にまでは恢復させ、立戻したいのである。
 
  この書付を村々に一々しらせ度いのではあるが、多数の事であるから、最寄りの人家の多い大村の神殿へ張付置き、
 大阪から巡視しにくる番人共にしらせないやう心懸け早速村々へ相触れ申され度い、万一番人共が目つけ
 大阪四ケ所の奸人共へ注進致すやうであつたら遠慮なく各々申合せて番人を残らず打ち殺すべきである。
  若し右騒動が起つたことを耳に聞きながら疑惑し、馳せ参じなかつたり、又は遅れ参ずるやうなことがあつては
 金持の金は皆火中の灰と成り、天下の宝を取失ふ事に成るわけだ。後になつて我等を恨み宝を捨る無道者だなどと
 陰言するを致さぬやうにありたい。その為め一同に向つてこの旨を布令したのだ。尤もこれまで 地頭 村方にある
 税金等に関係した諸記録帳面類はすべて引破り焼き捨てる
 
  これは将来に亙つて深慮ある事で、人民を困窮させるやうな事はしない積りである。
 去りながら此度の一挙は、日本では平将門明智光秀、漢土では劉裕朱全忠の謀反に類してゐると
 申すのも是非のある道理ではあるが、我等一同心中に天下国家をねらひ盗まうとする欲念より起した事ではない、
 それは日月星辰の神鑑もある事、詰るところは湯武、漢高祖明太祖が民を弔ひ君を誅し、天誅を執行した
 その誠以外の何者でもないのである。若し疑はしく思ふなら我等の所業の終始を人々は眼を開いて看視せよ。
  但しこの書付は細民達へは道場坊主或は医師等より篤と読み聞かせられたい。若し庄屋年寄等が眼前の禍を畏れ、
 自分一己の取計らひで隠しおくならば追つて急遽その罪は所断されるであらう。茲に天命を奉じ天誅を致すものである。 
  天保八丁酉年 月 日        某
   摂河泉播村々
    庄屋年寄百姓並貧民百姓たちへ

 難波橋を渡って北浜へ

  二月十九日、老中(水野忠邦)の実弟、大坂町奉行の跡部良弼に新任の西町奉行が挨拶に来たところを 
 襲撃する計画であったが、決起直前、計画が発覚。当日の朝、自らの屋敷に火をかけ決起した。
 天満(てんま)に火を放った大塩勢は難波橋(なにわばし)を渡って南下した。(滝川小付近を出発)
 天満宮を経由、大川を渡った対岸は大阪市中央区北浜(きたはま)1丁目
 大阪証券取引所 江戸時代には大阪金相場会所があった。周辺は証券会社が集中している。
 その南の道修町(どしょうまち)は製薬企業が集中、その南から広がる船場(せんば)は繊維商社の街。
 戦闘のあった淡路町(あわじまち)は船場の最北端に当たる。
 一旦、西の北浜2丁目に集結。二隊に分れ高麗橋筋と今橋筋を東へ向かった。
 そして現在、阪神高速道路の橋脚の下になっている、東横堀川の橋を渡った。
 このまま大阪城へ向かって直進すると、現在の大阪合同庁舎1号館あたりにあった東町奉行所に至る。
 大阪八百八橋一覧  /  OLD PHOTOS of JAPAN: 難波橋 1880年代の大阪 / 
 豪商等所在地図[大塩の乱 資料館] / 



  1837年、旧暦2月19日(西暦3月25日) 
  卯ノ下刻(6時半頃) 
  計画発覚、即時決行を決定、屋敷の門を閉じ、出陣準備。 
  自邸に火を放ち、通り向かいの朝岡屋敷を砲撃(東照宮砲撃は疑問)。 
  西下し天満宮 に至る。天満宮から南へ進路をとり天神橋に進んだが、 
  橋板が外されていて渡ることができず、川沿いに西下し、破壊作業中の難波橋を渡る。 
  午ノ上刻(11時過ぎ) 
  北浜二丁目に出て、二隊に分れる。一隊は平八郎が指揮して高麗橋を渡り、一隊は今橋を渡った。 
  今橋筋、高麗橋筋に集中していた富商豪家を放火、破壊。東横堀川の東岸を南下して二隊再び合流。 
  未ノ上刻(13時すぎ) 
  初めて大坂町奉行の部隊と平野橋の東端 で衝突した。平野橋を渡り西に退却、平野町でも撃退され、 
  淡路町堺筋 で部隊は崩壊、消滅した。大塩父子は八軒家浜 から逃亡した。 
  参考資料 
  大塩の乱 資料館『大阪市史 第2巻』 http://www.cwo.zaq.ne.jp/oshio-revolt-m/sisi5.htm 
  この資料を見ると、いかに江戸時代とは言え、大都会の日中の騒動に、この対応の遅さの原因も
  よく判る。
   






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 大阪中央公会堂  大阪府大阪市北区中之島1丁目1番27号
 大阪証券取引所  大阪府大阪市中央区北浜1丁目8-16(難波橋)
 日蓮宗 成正寺  大阪府大阪市北区末広町1-7(大塩平八郎墓所)
 市立滝川小学校  大阪府北区天満1丁目24-15(川崎東照宮跡)決起集合場所
 天理教飾大分教会 大阪市西区靱本町一丁目一八番一二号(顕彰碑)潜伏自決の地
 鴻池旧邸跡    大阪市中央区今橋2−4−5(大阪美術倶楽部)豪商屋敷跡
 東町奉行所跡   大阪市中央区大手前1-5-44 (大阪合同庁舎1号館前)
 橋本忠兵衛屋敷跡 大阪市旭区清水5−10−19 付近(大塩平八郎 門弟)
 洗心洞跡     大阪市北区天満1−25 造幣局宿舎北1号館(大塩私塾)
 飛田墓地跡    大阪市西成区太子1−5−2(刑場跡)
 千日墓地跡    大阪市中央区千日前2丁目 付近(刑場跡)



 難波橋より見た中央公会堂  大きな画像を見る  大阪証券取引所
 天満橋より見た大川  大きな画像を見る 大塩の乱、槐跡
 淀屋橋より見た日本銀行大阪(旧館)大きな画像を見る 大塩終焉地碑 大きな画像
 大塩父子の墓(日蓮宗 成正寺)南森町 大きな画像を見る大塩の乱に殉じた人びとの碑
 水都の新名所「八軒家浜」船着場 大きな画像を見る 川崎東照宮跡(市立滝川小学校)
 土佐堀川に面した旧住友銀行本店 大きな画像を見る 淀屋橋近くの淀屋屋敷跡碑




 ジョン・ブラウンの乱 

  大塩平八郎の乱 1837年3月25日(新暦換算)の22年後、1859年10月17日、奴隷制度廃止主義者のJohn Brownが決起した。 
 大塩平八郎 ( 1793年3月4日-1837年5月1日 ) 。John Brown ( 1800年5月9日-1859年12月2日 )
 この事件が、1861年から始まったアメリカ南北戦争のきっかけの一つと言われている。







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