この前は謎の大王 継体天皇 |
敏達(538-585) | 廃仏派 585年、仏教禁止令。(反蘇我氏系)
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用明(?-587) | 聖徳太子の父。(蘇我氏系)崇仏派。在位二年で病没。
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崇峻(?-592) | (敏達天皇、用明天皇、推古天皇の異母弟) 蘇我馬子によって推薦され即位。589年随,中国を統一 |
| その後、
馬子が東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)に暗殺させた。陵地は藤ノ木古墳説など諸説。
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推古(554-628) | 初の女帝(蘇我氏系)。敏達天皇の妃。甥の厩戸皇子(聖徳太子)に政治を摂行させた。遣隋使
を実施。
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舒明(593-641) | 推古女帝は後継を指定せず死去。蘇我馬子の子蘇我蝦夷が舒明天皇を擁立 |
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587年 | 蘇我馬子(崇仏派 )が 穴穂部皇子(敏達の弟)を暗殺。物部守屋(排仏派)を討滅。 |
600年 | 第一回遣隋使 / 607年 第二回 小野妹子 派遣 608年 第3回 / 610年 第4回 / 614年 第5回 |
618年 | 隋 滅亡。唐、建国。 / 622年 聖徳太子死去。 / 626年 蘇我馬子死亡 |
630年 | 第1回遣唐使派遣 |
641年 | 蘇我蝦夷が擁立した舒明天皇(=田村皇子、敏達系)死去。 舒明天皇の皇后、皇極(女帝)即位 |
643年 | 蘇我馬子の孫、蘇我入鹿 が 山背大兄王(用明系)を討滅。 |
645年 | 中大兄皇子(=天智天皇)らが宮中で蘇我入鹿を殺す 乙巳の変。百済派(藤原系)の勝利 |
(〃) | 皇極女帝の弟,孝徳天皇(=軽皇子)に譲位 古人大兄皇子を謀反の罪で処刑。蘇我蝦夷自殺。 |
653年 | 中大兄皇子、皇極(母)、間人皇女(妹)とともに、孝徳天皇(叔父)を捨てて倭飛鳥河辺行宮に移る。 |
(〃) | 第2回遣唐使派遣 |
655年 | 孝徳天皇死去(殺害?) / 皇極女帝,飛鳥板蓋宮で即位して斉明女帝になる。(重祚=2回目) |
658年 | 有間皇子(孝徳天皇の皇子)を絞首刑にする。18才。 / |
659年 | 唐 新羅が百済を攻撃 第3回遣唐使派遣 |
660年 | 7月、百済滅亡、10月,中大兄皇子(=天智天皇)、百済王子,豊璋を本国に送り返しテコ入れ。 |
661年 | 斉明女帝(=皇極女帝)、百済救援のため九州へ出陣中、急死(暗殺.?) |
663年 | 白村江の戦い敗北, 百済完全に滅亡。 / 664年 防人を置く / 665年 第4回遣唐使 |
667年 | 中大兄皇子(=天智天皇)大津遷都。そこで即位。戦争、戦後処理、遷都による膨大な負担発生。 |
(〃) | 第5回遣唐使派遣 |
668年 | 天智天皇(百済派)、琵琶湖畔、蒲生野に遊猟(宮廷あげて額田王らと遠足) |
(〃) | 唐 新羅により高句麗滅亡 / 草薙剣盗難事件 / 669年 藤原鎌足死亡 第6回遣唐使 |
670年 | (670年〜676年) 唐と新羅 抗争。 / 671年 大海人皇子(=天武天皇)吉野へ移動 |
672年 | 天智天皇死去(殺害?扶桑略記)。壬申の乱 勃発。瀬田橋の戦いで近江朝廷軍が大敗、大友皇子 自決(?) |
(〃) | (新羅派の勝利) 大海人皇子(=天武天皇)飛鳥浄御原宮へ遷都して即位。遣唐使廃止。新羅と緊密化 |
676年 | 新羅、朝鮮半島をほぼ統一 |
686年 | 天武天皇が死去。持統天皇(=天智天皇の娘であり天武天皇の妃)即位。反唐 親新羅路線 継続 |
(〃) | 持統女帝 天武と大田皇女(持統の姉)の皇子、大津皇子を処刑。23才。 |
689年 | 草壁皇子(天武と持統の皇子)死去。27才。 |
694年 | 飛鳥浄御原宮から藤原京へ遷都 (持統女帝) |
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奈良時代年表へ続く
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天智と天武の関係について / |
天武は、白村江の戦い (663年)以降突然登場する。それ以前の重要な局面には動静不明。 |
680年代まではヤマトの部族連合国家の首長は大王と号したが、天武朝(7世紀後半)飛鳥浄御原令以降から天皇と |
称するようになった。更に 大君(おほきみ)は、神にしませば、天雲の、雷(いかづち)の上に、廬(いほ)りせるかも |
(万葉集 巻3-235 柿本人麻呂)
というように神格化される程の強大な権力を持つようになった。 |
日本書紀も天武の時代に編纂した。 |
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天武天皇の妃 |
天智天皇の娘 大田皇女、鵜野讃良皇女、大江皇女、新田部皇女の四人。 |
天智天皇の妃 額田女王 藤原鎌足の娘二人。蘇我赤兄の娘一人。その他3人。 |
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新説・日本の歴史
井上友幸 /
日本独立の真相
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「日本」国名の真相
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古事記と日本書紀の真相 /
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