korean memes 6   /  1  /  2  /  3  /  4  /  5  /  6 / 
 / 20世紀初頭の韓国 / ソドムとゴモラを見る /  ハルマゲドンの地 メギドを見る /  蚩尤 と 檀君 /  特定アジア地図 /  朝鮮半島ソドムとゴモラ / 
 
 
 

 
 KOREAN COLORS
 
  韓国の時代劇や、民族服と称するものの特徴として、てらてらピカピカした衣装がある。朝鮮では、繊維を染める
 技術や染料を生産する能力がなく、色付きの服を着ていたのは、中国からの輸入衣料を買うことのできた高位の官僚
 貴族だけであった。明治時代に国策として多くの文化人が、朝鮮へ派遣され見聞を文書にして残しているが、朝鮮人の
 衣服は全て白であった。写真資料を見てもその通りである。染色技術を持ち得なかった朝鮮は特殊な例で、世界各国とも 
 泥、あるいは藍による染色は紀元前から存在していた。他の天然の染料もあった。今日のような化学染料、合成繊維が
 登場するのは、意外に新しいことである。化学工業の歴史は化学兵器の発展の歴史でもあった。
 化学染料の歴史は1856年、ウィリアム・パーキン博士が、マラリアの特効薬である合成キニーネを開発する過程で、
 世界初の人工染料、うす紫色の染料を発明したことに始まる。 染料を合成して生産できることが判り、1900年頃までに
  500種類もの新しい染料が開発された。染料の製造には火薬、爆薬、毒ガス製造に必要な硝酸、硫酸、塩酸等を多量に
 使用しており、染料製造工程で生ずる中間物質にも兵器製造に重要なものがある。
 1914年7月28日から1918年11月11日の第一次世界大戦は、化学兵器が広く使われたことも特徴の一つであった。
 化学兵器の使用はハーグ陸戦条約で禁止されることになったが、化学兵器の研究の成果と新たな染料の発明は同時進行
 した。合成繊維は、1935年(昭和10年)にウォーレス・カロザースが合成した 6,6-ナイロン が世界初の合成繊維とされる。
 一般に市販され普及するのは更に後のことである。日本の統治中には、繊維産業の興隆を計って色付きの服を着るように
 キャンペーンが行われた。庶民の白服と高官のくすんだ色付き服しか見たことのなかった朝鮮人には、化学繊維と  
 化学染料のてらてらピカピカした色彩は魅力的に映った。このことが下品な色彩感覚を持つ原因となった。
 このような色彩が発色できるようになったのは20世紀に入ってから、そして朝鮮で普及するようになったのは
 日本統治の1930年代に「白衣退散」「色服奨励」キャンペーンが行われた結果である。
 配色自体は寺院建築のものに似ているが、天然の顔料、染料ではこのような発色はできない。
 
 
1930年代、咸興府 白衣退散,色服奨励 キャンペーン
 
 
 Clown costumes ?
 
 
 
 朝鮮人の色彩感覚
 
   
 
  良質の絹糸と夾雑物の少ない良質な染料を生産する能力があればある程度の明るい美しい色をだすことはできる。
 しかしそれはこんなケバケバしいものではない。それに非常に高価である。
 朝鮮人は日本統治までは白衣の民族であった。白衣といっても日常着であり、洗剤、漂白剤があるわけでもなく、
 川で石の上に置いて棒で叩くだけであるから、薄汚れたものであった。
 合成顔料、合成染料の発明によって色数も増え、明度、彩度も自由になっていった。
 単独で緑色を発色できる天然染料はなく、藍と黄の2回染めで発色した。減色混合なので、色は濁り暗い色になった。
 明るい緑色は化学染料になって初めて実現した。
 
 
 (注1)白衣の民族
  白衣というと純白を思い浮かべるが、天然繊維は植物繊維、動物繊維とも脱色加工していない場合、未晒し、 生成りといって淡いベージュ色をしている。
 昔はこのまま脱色せず染色した。化学工業の発展に伴い漂白してから染色するようになった。未晒し - Bing /  生成り - Bing / 
  日本では水に浸けたり天日にあてる「野晒」「天日晒」などの技法もあった。雪国では「雪晒し」もあった。ただ化学薬品漂白と違い純白にはならない。
 洗濯を重ねることにより色味が抜け多少は白くはなる。
 - Wiki /  雪晒し - Bing /    アラブ男性の着ている白衣は日本のシャツメーカーが圧倒的シェアを握っている。
 mochi thinking: 白衣の朝鮮 / mochi thinking: 白衣民族抹殺政策 / mochi thinking: 朝鮮の砧、洗濯棒 /
 
 
 
 
 
 
 KOREAN COLORS
 
 
 色は個人の好みの問題であり、また色は物理現象であるので、個別の色に良い色悪い色はない。
 熱帯地方では原色が好まれる、チベットやモンゴルのような、 寒冷乾燥の地でも好まれる。
 それは、気候風土、環境と調和している。 美は調和にある。ただし厄介なのは、美は破調、乱調にもある。
 従ってなかなか他人にその色使いはおかしいとは言いにくい。
 色は色面積や組み合わせによって、人間に感情の惹起をもたらす。
 冒頭のラインのように、全体に占める割合が小さいと、それほど違和感はない。
 このすぐ上の図位になると、ギラツキが気になりはじめる。
 朝鮮カラーが生理的に嫌悪感をもたらすのは、 朝鮮という属性に反応しているのではなく、心理的にも
 拒絶感情をもたらす配色だからである。特にこのケバケバしい青みのピンクを朝鮮ピンク という。
 ただこのような色使いが始まったのは近年のことである。 1950年の朝鮮戦争時の米軍撮影の写真をみても
 白服乳出しである。 朝鮮で伝統と称しているものは実は新しく作られたものである。
 
 この写真を併合前の写真として掲載しているサイトが多いが、 1951年、朝鮮戦争中に撮影されたものである。
 
April on 1951. Suwon - local farmer and his wife.
 
 朝鮮の乳出しの習俗  乳出しの習俗は日本統治時代に廃止させられたが、地方では1950年代でも続いていた。
 金日成が1982年の最高人民会議(国会)での演説で「女性が袖のないものを着たり、乳房を見せる服装をしたりするのは、社会主義の生活様式と
 合致しません」と言っている。つまり1982年でも、まだ乳出しの風習は残っていたということだ。
 朝鮮の文化(衣) - Wiki /  合成繊維 - Wiki /  化学繊維 - Google 検索 / 朝鮮人の色彩感覚 - Bing / 
 韓国の成年礼は始まってまだ17年の行事 : 在日朝鮮人から見た韓国の新聞 /  korean fashion : mochi thinking/ 
 mochi thinking: 「ミニ・チョゴリ」と「トップレス・チョゴリ」 part1 / mochi thinking: その後の「トップレス・チョゴリ」 part2 /
 衣装に見る20世紀初頭および朝鮮戦争中の韓国 
 
 併合前の朝鮮風俗
 
 
 
  近年スポーツウェアやイベントのスタッフジャンパー など がどんどん派手になってきているが、
 スポーツが盛んになってきたのは産業革命以降のことで、 登山ウェアも初期は、普通の街着の延長のようなもので
 あった。アウトドアウェアとして軍用の衣料が機能性があり、 登山ウェアに転用された。
 軍服自体、飾り物のついた赤色などが主流であったが、 一次大戦の塹壕戦で目立つ色彩は狙い撃ちにされたため、
 アースカラーや迷彩が採用されるようになった。 平時が続いた近年、登山、スキーなどで遭難した場合、発見され
 やすいことから原色化が進み、蛍光色も採用され、他のスポーツウェアにも広がっていった。日常にこれらの
 蛍光色ウェアを身に付けていると 色彩感覚が破壊され韓国面に落ちる こともありうるので避けるべきである。
  冗談はさておいて、問題は近年に他国から与えられたわずかの歴史しかないものを、古来よりの伝統であるとし、
 唯一無二、世界最古、最優秀の文化であるとする夜郎自大の愚かな民族性にある。
 謙虚さの欠如は、他国の真似をすることはできても、それを乗り越え創造することはできない。
 この愚かさだけが朝鮮民族の伝統であり、それで自縄自縛して自滅することを歴史上 繰り返しているのである。
 色彩心理学 | 疑似科学とされるものの科学性評定サイト /  蛍光色の石鹸や真っ青なケーキ… 日本とアメリカの色彩感覚の違い - ライブドアニュース / 
 
 朝鮮の美意識。
  朝鮮には、日本人が高く評価する高麗青磁、李朝の白磁がある。これは信長時代、茶の湯が戦国大名の間で流行し、
 その道具として評価されたことによる。朝鮮だけでなく、シャムなど東南アジアの日用雑器も茶道具として珍重された。
 日本人の美意識では、完璧なものよりは、少し欠けたる、侘しさ、残念さを尊ぶところがある。たとえば、月見の場合、
 満月よりは十三夜、雨で見られないときを「雨月」雲などのために月が見えないときを「無月」とよんで残念な風情を
 楽しむ。李朝の白磁も、中国の陶磁器のような完璧な美しさではなく、どこか残念な侘しさに美を感じたのである。
 中国では景徳鎮などの高度な技術水準の官窯で生産され、地方の民窯でも技術水準は高かった。中国の美術工芸品には、
 完成した美しさがある。朝鮮では、陶工の身分は賤民であり努力は報われなかった、色絵の技術の流入もなく、どう努力
 しても中国には及びもつかなかった。しかし日本は、この侘しさに美を見いだした。無作為の美である。
 茶碗一つに城一つに相当する値をつけ、割れた茶碗を修復する 技法を考案し、それもまた味として珍重した。
 朝鮮には朝鮮の惨めさ、侘しさに起因する美があった。 / Isabella L. Bird (Mrs Bishop) : mochi thinking/ 
  朝鮮には善政を敷く為政者はおらず、彼らの関心事は、ライバルを蹴落とし、再起できないように徹底的に殲滅する
 ことだけであった。
  中国の冊封国であっても、シャムは勝手に自前の元号を使い、近隣への侵略戦争を行った。ベトナムもまた独自元号を
 使い続け、度々反乱を起こし、不撓不屈の意気地を見せた。中国はこれらをよく認識し、朝貢さえすれば、内政には関与
 しなかった。 朝鮮だけは独自元号を許されず、国内向けに干支を元号の代わりに 使った。朝鮮の歴史事件に干支の
 タイトルがついているのはこのためである。
 琉球は貿易立国として、みかじめ料として、中国へ朝貢し、同時に薩摩へも朝貢したが、中国は干渉しなかった。
 朝鮮だけが国王の代替わりさえ中国の承認が必要であり、 献上する産品にも事欠く朝鮮は、女性を差し出すことを強制
 された。このような国では鬱屈した憤懣は、身分が下の者に対する暴虐非道の抑圧と、ライバルたる者の一族に対する
 徹底的な追い落とし工作に明け暮れることに費やされた。運良く権力者になれた者は、前任者の痕跡の徹底的な消去を
 行った。このため朝鮮民族は千年近い歴史を持ちながら伝統というものを持つことができなかった。
 すべての価値観は宗主国である中国に基づき、朝鮮独自の価値観、美意識をもつことができなかった。
 中華王朝の絢爛豪華、華麗華美な美は、国力からも技術的にも到底手の届くものではなかった。
 そこに突然降ってわいた開国、手の届く安価な衣料の色彩に朝鮮は席巻されることになった。
 人間の幼児期は感覚器官が未発達で色覚も、知覚できる領域が狭く原色に反応する傾向がある。
 朝鮮では千年にわたる中国の支配のもとで華美な色彩に触れることもなかったため色彩感覚が退化し、色覚も知覚できる
 領域が非常に狭くなってしまったことが考えられる。
  仏教国であった高麗を打倒した李朝は、廃仏をおこない、仏像、仏閣を破壊した。僧侶の身分を賤民として都城に入る
 ことを許さなかった。さらに高麗王家の残滓を消し去るため、王家の一族の者を全て抹殺した。王都を開城から京城へと
 移転した。これに類したことを数百年も続けてきた朝鮮には歴史的なもの一切が連続性を断たれ伝統と呼べるものがない
 現状となった。このことが歴史の捏造、虚構に基づく他者への罵詈雑言、自国民への圧政、前任の権力者への徹底的糾弾
 とその業績の否定という行動の源泉となった。平気で嘘をつき、他者を騙すこと、裏切ることへ何ら罪悪感を持たない
 現在の朝鮮人の民族性をもたらした。このことだけが強いて言えば朝鮮の伝統というものである。
(注2)1876年の朝鮮開国によって、日本から多くの仏教宗派の伝来が始まったが、僧侶の「都城出入禁止」が解除されたのは、1895年、日蓮宗の僧侶の
 嘆願を受けてのことであった。当然 京城市内に寺院はなく、韓国最大の仏教宗派 曹渓宗の総本山、曹渓寺は1938年の創建である。
 
 
  パソコンを買い替えたときに、色が前と違うと感じたことがあるかもしれない。
 仕事で多数のマシンを扱っていると、同じメーカーの 同じ機種でも色にばらつきがあり、キャリブレーションしても、
 全く同じにはならない。モニターによって、さらに出力機によっても色が変わる。
 こういうトラブルをなくすためにマンセル等の色の規格やPANTONのような国際的に広く使用されている色標がある。
 それでも、同じ顔料を同一条件で使用しても、その時の気温、湿度などの影響を受け微妙に差がでる。
 塗料、絵の具自体でも、同じ原料を同じ機械で調合しても、ロットにより微妙にズレがある。それを微調整して製品を
 出荷している。また飲料メーカーでも最終製品の味が変わらないようにテイスティングして微調整する。
 香水メーカーの調香師、ワインのソムリエなどのように、特定の感覚に傑出した人物がいて、それを行う。
  聴覚に絶対音感があるごとく、可視光線とされる範囲であっても、感知している範囲には個人差もある。
 知覚範囲が狭いからといって他人を非難することはできない。
 外国の色彩感覚の中には、思わず絶句するようなものや、度肝を抜かれるようなものもある。
 その中でも朝鮮カラーは、国名を隠した意識調査をしても、軽薄、悪趣味、安物のイメージを持つ色彩である。
 だからといって非難することはできないが、実に良く民族性を表しているとも言える。
 
 《女医明妃传》:中国抄袭韩国?这个可以入选2016年度冷笑话了 - 简书 / 韩剧真的抄袭了中国古代服饰吗? -baidu / 
 揭秘古代朝鮮婦女為什麼愛穿露乳裝 - GOOREAD /  采访韩国人: 你知道高句丽大帝国吗? - 环球风云 - 铁血社区 / 
 
  色彩心理学は疑似科学であるが、 エスニック集団の文化における色彩の嗜好傾向はある。
 ヨーロッパでは上品な色使いがみられる。また北欧、中欧、南欧でも傾向が少し異なる。
 これは生まれ育った環境の影響があり、先天的なものではない。
  韓国で派手な色彩が使用され伝統色などと 公言するようになったのは、ほんの近年のことである。
 しかも、その色が合成染料、合成繊維によるものであった。
 
 
 
 
 (注3)世界各国とも泥、あるいは藍による染色は紀元前から存在していた。他の天然の染料もあった。
  藍を含有する植物の種類は多く、世界中に分布している。藍の発色に必要なアルカリ性の水、あるいは石灰岩も世界中でみられる。
 また木材を燃やした灰なども使われる。天然染料は、その名のとおり天然の主に植物から抽出した染液を用いるが、 染液単独では染着しない。
 鉄、銅、アルミなどを含有した液で処理することで 発色、染着する。
 
 
 (注4)繊維を染める技術や染料を生産する能力がなく
  染色に限らずあらゆる技術水準が未開のままであった。 朝貢使節団(朝鮮通信使)のたびに、水車を作りたいと、 観察していったが、
 とうとう自力で作ることができなかったことなどは他サイトでも紹介されているが、これは、儒教(朱子学)原理主義により、現場労働を卑しみ、
 然るべき評価をすることなく、従事する人を賤民として扱ってきたことが大きい。
 併合前の写真でも、民家の藁葺き屋根は大きくゆがみ、両班の家の瓦屋根もガタガタである。
 染色技術そのものは、宗主国中国から伝わったことはあったろうが、 設備、職人を擁した産業として社会に定着存続できなかった。
 無為徒食の両班階級が庶民に寄生する社会構造は、貨幣経済すら破壊していた。
 日本人なら知っておきたい「朝鮮通信使」の嘘と真実 - NAVER まとめ / 朝鮮通信使の実態 - Bing / 朝貢使節団 朝鮮通信使 - Bing / 
 
 
よく見かける写真のオリジナルを見つけた。撮影は1904年。中央の人物は将軍。撮影地はソウル。
 
One wheeled dart of a Korean General of the old regime - Seoul,Korea.copyright 1904 by Underwood
 後ろの建物の屋根瓦は大半が無くなり崩壊寸前の廃屋のようである。地面には雑草が茂っている。
 1904年(明治37年)日露戦争の始まった年。
 
 
 併合前の朝鮮風俗
 
Sorcerera putting the crown of "good luck"on the head of the painted bride . Seoul Korea. copyright 1904 by Underwood.
 1904年、両班の婚礼衣装、色付きの正装をしている。独特の化粧と頭の飾り物は幸運のおまじない。
 一応、屋根瓦は無事だが、瓦自体の作りが雑、障子がボロボロである。また手前の土塀とみられるものも、相当傷んでいる。
 李氏朝鮮時代の身分制度- Google 検索 /  李氏朝鮮の時代は本当に韓国人にとって良い国といえたのか? - ねずさんのひとりごと 
 旧正月特集、韓服(ハンボク)復活(100年前は「白衣民族」) : テレビにだまされないぞぉⅡ / 
 
 
 併合前の朝鮮風俗
 
 
 併合前の朝鮮風俗。日常風景ではなく写真館での撮影。説明文には「中流以上の衣装」とある。
 男性は士大夫階層(文官官僚)の士大夫帽(程子冠)を被っている。 このような階層でも衣装は白衣であった。
 子供が防寒着を着ていることから冬場の撮影と見られる。
 
 
 
 
 こちらも中央の男性が士大夫帽を被っている。妻子と両親の家族写真で自宅前とみられる。屋根は藁葺きである。
 
 
 
 
 
 1890年〜1923年 街中の小川、排水溝の横で洗濯をする婦人達。
 
Women washing laundry in stream, Korea (between 1890 and 1923)
 おそらく1910年以前であろう。日本は衛生上の観点から上下水道、共同洗濯場を作った。 /  朝鮮婦人の洗濯
 
 
 オーストラリアの宣教師の目に映った1890〜1920年の韓国 - Google 検索 / 
 「オーストラリアの宣教師の目に映った1890〜1920年の韓国」に、あまりにも酷いボロ橋の写真があったので色々探してみたところ、
 これはソプダリと言い、小枝などを利用した仮設の橋で冬から夏まで使用し、梅雨に流れる伝統工法のもので、今もソプダリ祭りなどを催して
 ソプダリの伝統を伝えているとのことであった。しかしこれでは梅雨でなくても事故が起こりそうに思えるのだが・・・・。
 진주 섶다리 - Google 検索 / いくら仮設でも10ヶ月使用するのに これはないだろう。
 
 
オーストラリアの宣教師の目に映った1890〜1920年の韓国
 
 1890年(明治23年) 1890年代 - Wiki / 1920年(大正9年) 1910年代 - Wiki / 
 
 
 (注5)色の見え方
  色は材質、光源などによっても大きくイメージは変わる。 同一色でも、組み合わせ、配色、面積によってもイメージは変わる。
 被験者の体調や心理状態といったものでもイメージは変わる。
 【流行色】
  流行色は毎年フランスの流行色協会が選定する色がリードしており、各国の流行色協会もこれを参考に独自選定している。
 流行色には大きな周期があり、ある程度の予測ができる。売りたい色を他業種とのコラボでコマーシャルなどで流しイメージを植え付ける
 ことも行われている。
 
 
 (注6)すべての価値観は宗主国である中国に基づき、朝鮮独自の価値観、美意識をもつことができなかった。
 朝鮮は統一新羅の建国以来、唐、宋、遼、金、モンゴル帝国、明、清に服属してきた。
 中でもモンゴル帝国の支配は露骨であった。このときにモンゴルの色彩感覚を注入され、李氏朝鮮の服制で白服が大半の国民に強制された時代に、
 底流として存在し、日本統治で着衣の色の制限が撤廃されたことにより、噴出、異常に増殖したことも考えられる。
 朝鮮の忠烈王は、クビライの皇女の降嫁を賜り、1278年、辮髪胡服令を出し、辮髪、モンゴル服を強制した。このときクビライは、強制を戒めた。
 朝鮮 忠烈王の元へのへつらいであった。胡服弁髪令は1387年まで続いた。 朝鮮の忠烈王は、1274年と1281年に二度の日本侵攻(元寇)を行った。
 『高麗史』には忠烈王が元に日本侵攻を働きかけたとの記述がある。日本侵攻失敗後、高麗王は日本侵攻のために設けられた元の征東等処行中書省の
 長官となった。忠烈王以降の高麗王家はクビライ皇帝の諸侯のひとつとなった。  この頃、現実逃避のファンタジー『三国遺事』(檀君神話)が
 一人の僧によって創作された。元が滅べば、高麗も滅ぶ。女真族の李成桂が王権を簒奪、高麗王朝を倒して李氏朝鮮を興し、明に服属した( 1370年 )。 
 明による建国許可を【大造之恩】という。儒教国教化により"小中華思想"などというものが興り、朝鮮は儒教原理主義に陥ってしまった。
 この小中華思想により、朝鮮は自己を中華の一部であると自己規定し、さらには明滅亡後は清に服属しながら中華の道義的正統性は朝鮮に
 移ったなどと妄想を膨らませていった。このことで朝鮮は独自の価値観、美意識をもつことができなかった。
 7世紀後半からの半島史  /  モンゴルの侵攻で全土壊滅、大元帝国の一部となる / 辮髪/弁髪・辮髪令/弁髪令/薙髪令 - 世界史用語解説 / 
  辮髪 - Wiki /  胡服弁髪の令 - Google 検索 / 三国遺事 - Google 検索 /  忠烈王 - Wiki / 
  色彩に関して言えば、五方色などと言って、五行思想で権威付けしようとしているが、 五行思想は言わずと知れた中国伝来である、
 しかし韓国系サイトでは一切言及がない。太極、八卦を朝鮮発祥と言い出す国である。五行思想も朝鮮発祥と言うつもりの可能性がある。
 朝鮮では、支配層の宗教は仏教そして儒教と変遷したが、大多数を占める民衆の間では、迷信の塊である陰陽五行思想やシャーマニズムが
 広く深く浸透し存続してきた。在日の間でもシャーマンの祈禱所がある。李朝最後の王妃、閔妃もシャーマニズムに国費をつぎ込んだように
 それは、王族の中にも影響を与えてきた。現在の韓国のもはやキリスト教、仏教とは言えない異常な宗教状況の根もここにある。
 五行思想の五つの要素に割り当てられた色も、本来下品なものではなかった。
 五方色 - Wiki / 陰陽五行思想 - Wiki / five elements - Google 検索 / 韓国 シャーマニズム - Google 検索 / シャーマニズム 閔妃 - Google 検索 
 儒教も本来は高潔な哲学で日本では道徳素養として受容された。朝鮮儒学(儒教原理主義)が異常な方向へ発展したものである。
 
 
 (注7)アラブ男性の着ている白衣は日本のシャツメーカーが圧倒的シェアを握っている。
  これは、日本のシャツ生地の速乾性、防汚性などが評されたためだが、近年の機能性生地の進化も著しい。
 繊維産業は産業革命の自動紡績機、自動織機の発明と、綿花プランテーションの拡大によって花形産業となったが、化学繊維には代用品のイメージが
 つきまとった。久しく繊維産業は斜陽産業と言われてきたが、繊維イコール衣料ではない。近年は産業用繊維の分野が時代の先端に位置している。
 繊維産業 - Bing /  産業用繊維の世界 -アパレルだけが繊維じゃない-  / 
 
 
 (注8) 色彩感覚は民族固有のものではなく、その所在する文化に属している。
  在日でも異様な色使いの民族衣装を着る者もいるが、それは過剰な自国意識によるもので、日本生まれの在日は、日本人と大差ない色彩感覚をもっており、
 色彩の専門職の人々もいる。 自身のルーツへの愛着は誰にでもある。朝鮮半島の場合、千年の中国属国であった ために固有の文化、美意識を
 もつことがなく、急遽捏造した歴史伝統なるものを 持ち出してみたが、それが底の浅いものであることが露呈してしまった。
 しかし、この捏造した歴史文化なるものが朝鮮人のアイデンティティの根幹にあるため決して認めようとはしないのである。
 朝鮮人に民族意識の萌芽がみられるのがモンゴル支配下の高麗時代。 人種的に安定し朝鮮民族の祖型が形成されたのが明支配下の李氏朝鮮時代。
 朝鮮に民族主義が現れたのが二次大戦の終結による日本の半島撤退からであった。 朝鮮は第三世界と呼ばれた集団に入る新興国であった。
 朝鮮は自らの出自を粉飾して国民を鼓舞してきたが、それが現実との乖離を 拡大し続けてきた。漢字を廃止することによって歴史研究の能力を喪失し、
 史実を知らず現実世界から眼を背けてきた。
 
 
 (注9) 水車をとうとう自力で作ることができなかった
  水車だけでなく、車輪もまた同様であった。上掲写真に一輪車があるが、二輪でなければとうてい実用でなはい。
 車輪は古代文明初期の最重要な発明であり、 その起源は紀元前5千年紀の古代メソポタミアにさかのぼる。
 車輪は紀元前4千年紀にはヨーロッパや西南アジアに広まった。また古代中国では紀元前2000年ごろには車輪つきの乗り物があった。
 東漸か独自発明かは不明である。車輪を製造するには車大工を必要とし、そのような職業が成立する社会が必要だった。
 朝鮮では職人の技量を評価し相応の待遇を与えるということがなかった。
 車輪が使われるようになるには、平坦な道路が必要だが、開国期の朝鮮には平坦な道路がなく、 日本が全て建設した。
 他国でも、このように平坦な道路がない国では、20世紀に入るまで車輪を持つことがなかった。
 開国前の写真を見ても判る通り、大量の荷物を背負子に積み人力で運ぶか、牛の背に積んで運ぶかしかなかった。
 大八車があれば、牛車が使えたのだが、朝鮮の道路は単に汚いだけでなく凹凸が激しく馬車も走れない状態だった。
 Wheel - Wiki / sumerian wheel - Google 検索 / 併合前の朝鮮 /
 
 
 
 (注10) 朝鮮には、日本人が高く評価する高麗青磁、李朝の白磁がある。
 高麗青磁は、宋の越州窯の青磁の技術を導入して焼き始められた。  李朝白磁は、元、明の白磁のコピーとして17世紀以後始められた。
 李朝では、磁器の製造は官窯で奴婢階級である陶工が行っていた。
 李朝白磁 - Wiki /  高麗青磁 - Wiki / 
 
 
 
 
 
 
 (補足) 
 唯一朝鮮伝統食品とされるキムチの原型は中国の四川泡菜で、これに唐辛子を大量に加えたものである。
 唐辛子はメキシコ原産でコロンブス交換 (Columbian Exchange) によって世界中へ拡散した。
 アジアへはポルトガルの侵略者によって16世紀に持ち込まれた。朝鮮半島へは、16世紀末秀吉の対明戦争の際、防寒薬剤として
 秀吉軍によって持ち込まれた。近年朝鮮人は唐辛子朝鮮半島自生説を唱え始めている。
 
 
 
 
 
 
ソウルの歴史と地図 ソウル地図  /  釜山の歴史と地図 釜山 地図  /  平壌の歴史と地図 平壌地図  /  隣の半島(朝鮮半島)の歴史  /
 
 
 
 
 南朝鮮の呼称について
  『韓国を南朝鮮と呼ぼう』なんて人もいますが、韓国を南朝鮮と呼ぶのは北朝鮮の公式見解。アナタは北の回し者ですか?と問いたいですね」
 (倉山 満氏)という意見の人もいるが、諸外国では South Korea ( 英語 )、Südkorea ( 独語 )、Corea del Sur ( スペイン語 )、La Corée du Sud ( 仏語 )
  というように「コリア」に南をつけただけ、北には北をつけただけで表記している。「コリア」は日本語では朝鮮であり、南朝鮮の要求をのんで韓国と
  呼ぶようになった。定着したのはごく近年のことである。朝鮮は蔑称だなどという言い草もあったが、朝鮮日報、朝鮮大学(韓国)、朝鮮看護大学(韓国)、
  朝鮮理工大学(韓国)があるように単なるいいがかりにすぎない。北も正式な国名は北朝鮮ではない、外交文書ならともかく、日常会話や国内向けニュース
  であれば、判る通じる呼称で十分である。日本では半島人を朝鮮人とよんできた。戦後南北に分裂した後も、一貫して呼称は朝鮮人であった。
  盧武鉉大統領のころから韓国、韓国人と新聞、ニュースで呼ぶようになり、定着するに至った。韓国の地名人名も漢字表記の日本語読みであったが、
  全斗煥 大統領が来日した際 要望があり、それ以降、朝鮮語読みに切り替えられた。しかしピョンヤンとピョンチャンのごとく、ピョンピョン、チョン
  チョンばかりで識別がしづらく、漢字で注釈をつける必要が生じている。朝鮮だけでは、どちらか判らないので、南北をつけるだけであって、 北の意向に
  添っているわけではない。日本での通称と現地での呼称が違っている例はいくらでもある。ンで始まる言葉の多いアフリカの言語などは、発音が難しいので、
  言い易い言葉に置き換えていることが多い、これは、諸外国でも同様である。またカタカナ表記にしたところで、現地の発音とは、差がありそのまま
  読んでも通じない。日本国内では、判る通じる呼称で十分である。韓国が朝鮮と呼ぶな韓国と呼べと要求したからそうしているだけである。
  こんどは「カンコク」と呼ぶな、「テハンミングク」と呼べ、発音が違うなどと言い出すかもしれない。
  いちいち相手にせず、国内でなら、国内で通じる呼称で十分ではないか。
 
 「われわれが真に一大民族の中興を期するなら、まずどんなことがあってもこの歴史を全体的に改新しなければならない。このあらゆる悪の倉庫のような
  わが歴史はむしろ燃やしてしかるべきである。 」 「朴正煕 選集 2国家・民族・私」-我々は今何をいかになすべきか- 
  まことに正論である。日本人なら当然、これは、これまでの歴史は惨憺たるものであったが、皆で力を合わせ子孫のために明るい未来を切り拓いていこう
  という決意表明に読める。しかし朝鮮人は違った。歴史を書き換えればいい。外国から正しい情報が入らないように漢字使用を止めればよい。あり得ない発想、 
  そして実行。嘘に嘘を重ねた自己正当化。無限に繰り返す金銭と謝罪の要求。等々等々等々。
  朴正煕 『国家と革命と私』 - Google 検索 / 
 
 
 韓国は日本にとっての「我慢の限界」をついに超えてしまった -msn news/ 
 韓国へのフッ化水素輸出禁止 - Google 検索 / 韓国への「支払い信用状」の発行停止- Google 検索 / 
 2019/3/13 米国からの提言「韓国製品に報復関税をかけよ」 朝鮮半島問題の専門家の見方、非は韓国側にある | JBpress / 
 2015/7/1 韓国の「反日」メカニズムが米国で明らかに 本当は北朝鮮に向かうはずだった矛先 | JBpress / 
 恩に仇する韓国の「日本隠し」-ironna / 
 韓国の歴代政権が“求心力”高めるため植えつけた「歪んだ復讐心」 慰安婦像、徴用工像を道端に設置 - zakzak / 
 韓国“反日洗脳”の実態! 人気タレントがテレビで「日本は敵だ!」 聴衆も納得して盛り上がる異様 - zakzak /