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イスラムの雑学、基礎知識 |
アッラーフ・アクバル |
الله أكبر Allahu akbar ( アッラーフ・アクバル ) = 神は偉大なり |
礼拝(サラート)への呼び掛けや祈りの時に使われる。また、ときの声、歓声、悲嘆、悲鳴の場合にも使われる。 |
礼拝(サラート)への呼び掛けをアザーン(اذان adhān)と言う。 / Adhan - The Timely Call to the Daily Prayers |
Allahu akbar |
アッラーの他に神はなし |
シャハーダ(信仰告白) / シャハーダ - Wiki / Shahada - Wiki / |
ラーイラーハイッラッラー ( アッラーの他に神はなし )、 ムハンマドゥンラスールッラー ( ムハンマドはアッラーの使徒である )。 |
lā ʾilāha ʾillā-llāh, muḥammadur-rasūlu-llāh ( There is no god but God. Muhammad is the messenger of God. ) |
ムスリムの義務としての5つの行為(5行)の第一項目目、 一日に5回、これを唱えて礼拝をする。 |
Shahada |
よく聞く挨拶言葉など |
إن شاء الله Inch Allah ( インシャラー )=神の思し召しのままに |
"インシャラー" は、"ノープロブレン" や "アスタマニャーナ" のような用法、語感で使われる。 |
Alhamdulillah アルハムド・リッラー ( アッラーに称讃あれ ) / Subhan Allah スブハーナッラー ( アッラーの栄光を称え奉る ) |
イスラームは偶像崇拝、聖者崇拝、聖像、聖画の類いを禁じたためコーランの言葉やアッラーを礼賛する言葉を書いたイスラム書道が |
発達した。 / イスラム カリグラフィー - Google 検索 / |
また聖堂を荘厳するアラベスクと呼ばれる幾何学模様も発達した。 / Arabesque - Wiki / アラビア模様 - Google 検索 |
islamic art - Google 検索 / Islamic geometric patterns - Wiki / |
patterninislamicart.com The Evolution of Style | Pattern in Islamic Art |
仏教も最初期は偶像崇拝を禁じていたため、仏足石や菩提樹の画像、卍のマークなどを礼拝していた。 |
ガンダーラなどで美しい仏像が作られるようになり、次第に仏像を礼拝するようになっていった。仏像が造られるように |
なったのは紀元後1世紀〜5世紀にインドを支配したクシャーナ朝の時代であることが定説となっている。 |
六信五行は、イスラームの根幹を成すもの。 五行は、ムスリムの義務としての5つの行為。六信は、ムスリムの6つの信仰箇条。 |
六信五行 |
五行は、ムスリムの義務としての5つの行為。 / Five Pillars of Islam - Google 検索 |
信仰告白(シャハーダ)、礼拝(サラート)、喜捨(ザカート)、断食(サウム)、巡礼(ハッジ)。 |
六信 / Aqidah - Wiki / Aqidah - Google 検索 / |
六信の第三項目。 |
アッラーの諸啓典を信ずること。 最も神聖とされているのが「クルアーン」。 |
次いで旧約の『トーラー』(「創世記」「出エジプト記」「レビ記」「民数記」「申命記」)。 |
新約の『福音書』(「マタイ」「マルコ」「ルカ」「ヨハネ」)と「詩編」。 |
六信の第四項目。 |
アッラーの諸預言者を信ずること。「クルアーン」には多くの預言者の名があり、特に重要とされるものが、 |
アダム、ノア、アブラハム、モーゼ、イエス、そしてムハンマド。 |
モーゼ以前は紀元前。イエスは紀元前後、ムハンマドは7世紀。 |
六信五行は、スンナ派。シーア派では、五信十行。 |
啓典 - Wiki / 啓典の民 世界史用語解説 / 三位一体説 世界史用語解説 / Islamic holy books - Wiki / |
このようにイスラームは、ユダヤ教、キリスト教の預言者と啓典を認める一方、過去の諸啓典は改変を被り、 |
啓示された元来の形を保っていないとして、新しいイスラームの法によりそれらの法を取り消し無効とする。 |
クルアーン以降は神の啓示が下ることはない。 預言者ムハンマドが最後の預言者であり、 |
クルアーンが最後の啓典であるとする。 |
スンナ派 とシーア派 |
正統カリフ時代 632年から661年 |
ムハンマドの死後、アブー・バクルが後継者、ムハンマドの代理人(カリフ)となったが在位2年で病死した。 |
アブー・バクルの死後、ウマルがカリフ位を継承した。ウマルはヒジュラのあった年を紀元元年とする |
イスラーム暦を制定、また後にイスラーム法(シャリーア)となる法制度を準備した。 |
644年、ウマルは暗殺された。ウマルの次の3代目カリフ、ウスマーンも暗殺された。 |
預言者ムハンマドの従弟で娘婿であるアリーが4代目のカリフになったが、661年ウマイヤ家によって暗殺された。 |
そしてウマイヤ家が教団の実権を掌握、カリフを称した。 |
シーア派の成立 |
しかし、アリーとその血脈が正統なイマーム(指導者)であるする党派(シーア)の人々はウマイヤ朝に反抗した。 |
シーア派は、預言者ムハンマドは生前、アリーを後継者に任命したとして正統カリフ3代も認めない。 |
預言者の正統性はアリーに継承され、アリーとその血筋をひく後継者のみが啓示の解釈権を有すると考える。 |
アリー・イブン・アビー・ターリブ 第4代正統カリフ。シーア派初代イマーム。 |
カルバラーの悲劇 680年 |
ウマイヤ家のムアーウィヤの死後、その息子ヤズィードがカリフ位につくのをシーア派は認めなかった。 |
このため、アリーの次男、第3代イマーム、フサインとその一族が680年ムハッラム月10日に、カルバラーで |
ウマイヤ朝軍に包囲され殉教した。 |
シーア派はムハッラム月10日(アーシューラー)に、フサイン一族の殉教を偲び、追悼行事を行う。 |
こののち、シーア派イマーム位の継承をめぐって、ザイド派、イスマーイール派などが分派した。 |
シーア派の多数派でも、イマームは12代までで途絶した。 |
第12代イマームは874年に姿を消したが、シーア派は「お隠れ(ガイバ)」状態にあるとし、終末の前に |
救世主(マフディー)として再臨すると信じている。 |
現在のカリフ位(スンナ派) |
1924年に、オスマン帝国最後のスルタンが追放されカリフ制が廃止されて以来、カリフはいない。 |
スンナ派 とシーア派の分布 |
イスラムには大雑把に分けてスンナ派 とシーア派がある。 | |
十二イマーム派 - Wiki / ムハンマドの死後〜スンナ派とシーア派 / | |
正統カリフ時代 - Google 検索 / イスラムの発展 / | |
■ Sunni_Islam / ■ Shia_Islam | |
イスラム文明の発展 / インドのイスラム化 / 東南アジアのイスラム化 / | |
イスラム世界の発展 (西方イスラム世界) / イスラム世界の発展 (東方イスラム世界) / | |
イスラム法学派 の分布 |
宗派はさらに学派に分かれ、学派によってイスラム法の解釈などでかなりの差がある。 | |
イスラム法学派 - Google 検索 / イスラム法学 - Wiki / イスラーム法 / 正統四法学派 | |
サウジアラビアの国教は、原理主義の源流ワッハーブ派である。 | |
http://en.wikipedia.org/wiki/File:Muslims_schools.png | |
中東の歴史年表 ? / 中東民族主義の歴史年表 ? / パレスチナ(イスラエル)年表 / | |
Islam_in_China (en.wiki) / Hui_people (en.wiki) / islamawareness / | |
Islam_in_China (muslimwiki) / East_Turkistan (muslimwiki) / Five_Ma (muslimwiki) / | |
Muslim_Chinese_Martial_Arts(muslimwiki) / Category:Islam_by_Country(muslimwiki) / | |
ウマイヤ朝の最大版図 |
ウマイヤ朝 - Google 検索 / 【ウマイヤ朝】イスラム史上最初の世襲イスラム王朝(661年 - 750年)。 【後ウマイヤ朝】アンダルスのウマイヤ朝(756年 - 1031年)。 |
ウマイヤ朝の最大版図:Wikipedia Commons | アル・アンダルスWikipedia Commons |
アッバース朝と後ウマイヤ朝 |
750年の革命でアッバース朝がウマイヤ朝を滅ぼし、ウマイヤ朝の領土はアッバース朝のものとなった |
756年、 アッバース朝に滅ぼされたウマイヤ家の一人がイベリア半島に逃れ、北アフリカの一部とともに、 |
後ウマイヤ朝を建国、アッバース朝から独立した。 後ウマイヤ朝 ( アンダルスのウマイヤ朝 ) |
後ウマイヤ朝は、都をコルドバに置き、コルドバは西欧最大の都市となり10世紀に最盛期を迎えたが1031年に滅亡。 |
イベリア半島のイスラーム勢力は多数の小王国が分立する時代になった。この分裂状態に乗じてイベリア半島北部の |
キリスト教徒が国土回復運動(レコンキスタ)を進めて行く。 |
Category:イスラム世界史 / 世界史の中のイスラム / イスラム雑観 / |
日本史との年代対照 | ||
622年 | 聖遷 ヒジュラ元年 | 622年 聖徳太子死去 |
630年 | メッカ征服 | 630年 第1回遣唐使派遣 |
632年 | 正統カリフ時代、661年まで | |
636年 | アラビア半島全域を支配。 | 646年 大化の改新 |
661年 | アラブ帝国、ウマイヤ朝、749年まで | 661年 斉明天皇、出陣中、九州で急死。 |
711年 | ウマイヤ朝イベリア半島へ侵入 | 710年 平城京に遷都。 |
750年 | イスラム帝国、アッバース朝 、1258年まで | 749年 聖武、娘の孝謙天皇に譲位 |
756年 | アンダルスの後ウマイヤ朝、1031年まで | 756年 聖武天皇,死去 |
1096年 | 第1回十字軍 (十字軍の暗黒史)エルサレム攻囲戦 | 1090年 白河上皇 熊野行幸 |
1232年 | ナスル朝 グラナダ王国、1492年まで。 | 1246年 皇統分裂、持明院統と大覚寺統の両統迭立。 |
1258年 | モンゴル軍バグダッド攻略 、アッバース朝滅亡。 | 1259年 高麗、モンゴル帝国に服属 |
1299年 | アナトリアでオスマン朝 、成立。 | 1333年 鎌倉幕府滅亡。 |
1337年 | 英仏百年戦争 (〜1453年) | 1338年 室町幕府始まる。 |
1347年 | インドのデカン高原でバフマニー朝 成立。 | 1348年 南朝、賀名生へ脱出 |
(〃) | 西欧で黒死病 大流行始まる。 | 1350年 (〜1352年)足利幕府の内紛 観応の擾乱 |
1370年 | ティムール朝 (首都サマルカンド)成立。 | 1370年 高麗、明に服属 (親明派と親元派の抗争) |
1431年 | ジャンヌ・ダルク 火刑 | 1401年 李氏朝鮮、明から冊封を受ける |
1455年 | (〜1485)薔薇戦争(イングランド内乱) | 1467年 応仁の乱(〜1477年) |
1492年 | グラナダ陥落 「アル・アンダルスの悲劇」 | 1492年 コロンブス,大西洋横断,新大陸に到着 |
Al-Andalus / イスラーム原理主義とイベリア半島 / アル・アンダルス=アラビア語 / | |||||||||
イスラム開教から大帝国の形成 | |||||||||
【ムハンマド時代】( 570年頃 - 632年6月8日 ) イスラム開教。聖遷。メッカ征服。 | |||||||||
【正統カリフ時代】(632〜661年) 東方ではニハーヴァンドの戦いでササン朝を破ってメソポタミア、イラン高原を奪取。 | |||||||||
西方ではビザンツ帝国を破ってシリア、エジプトを奪った。第4代カリフのアリーが暗殺され終わる。 | |||||||||
【ウマイヤ朝 】(661〜750年) ムアーウィヤがシリアのダマスクスを首都にウマイヤ朝を開いた。 | |||||||||
ウマイヤ朝はカリフをウマイヤ家の世襲とした。ここでスンナ派とシーア派の分裂が起こる。 | |||||||||
ウマイヤ朝は、ジハードでイベリア半島の西ゴート王国を滅ぼすなど領土を拡大、大帝国を形成した。 | |||||||||
ウマイヤ朝では、征服地の非アラブ人がイスラーム教に改宗しても人頭税(ジズヤ)と地租(ハラージュ)は免除され | |||||||||
なかった。これに不満を持つ新改宗者はアッバース家の革命運動に協力、ウマイヤ朝を倒し、アッバース朝が成立した。 | |||||||||
【アッバース朝 】(750〜1258年) 751年、アッバース朝は中央アジアで唐と戦い大勝した(タラス河畔の戦い )。 | |||||||||
ティグリス川中流にバグダードを建設し、第5代カリフのハールーン=アッラシードの時代に最盛期を迎えた。 | |||||||||
アッバース朝でイスラーム教徒の平等が実現した。 | |||||||||
【後ウマイヤ朝】(756年 - 1031年) ウマイヤ朝の残党はイベリア半島にのがれ、756年に後ウマイヤ朝を開いた。 | |||||||||
アッバース朝は世界最大の大商業帝国となり、バグダードは世界最大の都市となった。 | |||||||||
アッバース朝では、エジプト、バビロニア、アラビア、ペルシア、ギリシア、インド、中国などの諸文明の融合がなされ、 | |||||||||
学問が発達し、近代科学に大きな影響を与えた。文化が隆盛し黄金時代を迎えた。 | |||||||||
アッバース朝と唐 | |||||||||
750年の世界地図 | |||||||||
File:The world in 750 CE.PNG - Wikimedia Commons | |||||||||
750年、アッバース朝成立。 751年、タラス河畔の戦い。 | |||||||||
752年、東大寺大仏の開眼供養。 753年、唐僧の鑑真、日本に着く。 755年、唐で安史の乱(〜763年)が起こる。 | |||||||||
【タラス河畔の戦い】 | |||||||||
751年5月から9月にかけて、現在のキルギス領タラス地方で中央アジアの覇権を巡って東西の世界帝国が直接交戦した。 | |||||||||
唐が敗れ中央アジアのイスラーム化が始まった。唐軍の捕虜によって製紙法がイスラーム世界に伝えられる契機となった。 | |||||||||
アッバース朝と唐 - Google 検索 / タラス河畔の戦い - 世界史の窓 / | |||||||||
アッバース朝は10世紀前半には衰えたが宗教的権威、カリフ位はその後も存続した。 | |||||||||
945年、ブワイフ朝 がバグダードに入城。 1055年、セルジューク朝 がブワイフ朝を滅ぼした。 | |||||||||
1258年にセルジューク朝はモンゴル帝国によって滅ぼされたが、カリフ位はマムルーク朝 に保護され | |||||||||
1518年、オスマン帝国 スルタンのセリム1世によって廃位されるまで存続した。 | |||||||||
【東ローマ帝国(ビザンツ帝国)】 / 東ローマ帝国 - Wiki | |||||||||
王政時代(紀元前753年 - 紀元前509年) 共和制時代(紀元前508年 - 紀元前27年) 帝政時代(紀元前27年 - 西暦1453年) | |||||||||
フランク人 - Wiki / 西ゴート王国 - Wiki / サーサーン朝 - Wiki / イスラーム教徒のペルシア征服- Wiki / | |||||||||
Spread of Islam - Wiki / The Rise of Islam / #124 The Spread of Islam, 622-750 CE / | |||||||||
イスラーム黄金時代 750年〜1258年 | |||||||||
イスラーム黄金時代は、750年のアッバース朝成立から、1258年のバグダードの戦いまで続いた時代の呼称。 | |||||||||
Islamic Golden Age - Google 検索 / イスラーム黄金時代 - Wiki / | |||||||||
House of Wisdom- Google 検索 / 1396夜『イスラーム文明史』ハミルトン・ギブ |松岡正剛の千夜千冊 / | |||||||||
知恵の館 世界史用語解説 / イスラーム文明の発展 / 中世ヨーロッパとイスラーム文化 世界史用語解説 / | |||||||||
4 イスラム文明の発展 / イスラム科学 - Wiki / イラン=イスラーム文化世界史用語解説 / | |||||||||
12世紀ルネサンス 世界史用語解説 / イスラム科学 - Wiki / Medicine in the medieval Islamic world - Wiki / | |||||||||
Timeline of science and engineering in the Islamic world - Wiki / Astronomy in the medieval Islamic world - Wiki / | |||||||||
ローマ教皇の支配したヨーロッパではユダヤ教徒は迫害をうけたがイスラム世界は彼らを受け入れた。 | |||||||||
このため知恵の館にもユダヤ人の学者も多数いた。 / 知恵の館 ユダヤ人 - Google 検索 | |||||||||
イスラーム黄金時代の終わり | |||||||||
バグダードの戦い1258年1月29日 - 2月10日 | |||||||||
1258年にチンギス・ハーンの孫、フレグのモンゴル帝国軍が 産業革命以前の世界最大の都市アッバース朝の首都、 | |||||||||
バグダードを包囲攻略し、略奪、破壊し尽くした。 / バグダードの戦い - Wiki | |||||||||
モンゴル帝国軍はアッバース朝を滅ぼして、さらに1260年、アレッポとダマスカスを占領した。 | |||||||||
アッバース朝のあとにはイル・ハン国 フレグ・ウルス (1258年 - 1353年)が成立した。首都はタブリーズ (現イラン)。 | |||||||||
1259年 モンゴル帝国 | |||||||||
Wikimedia Commons | |||||||||
1274年10月、文永の役。1281年、弘安の役。 | |||||||||
十字軍運動 | |||||||||
1096年(第1回)から1270年まで展開された、キリスト教勢力による、イスラーム教勢力に対する軍事攻撃。 | |||||||||
一時はエルサレム奪取に成功したが、結局はイスラーム側の反撃によって失敗、イスラーム文化の流入などで | |||||||||
中世ヨーロッパ社会が大きく変動する一因となった。 | |||||||||
十字軍運動 世界史用語解説 / 十字軍の暗黒史 / 十字軍 - Google 検索 / | |||||||||
セルジューク朝にアナトリア半島を占領された東ローマ帝国皇帝が1095年、ローマ教皇に傭兵の提供を依頼、 | |||||||||
大義名分として異教徒からの聖地エルサレムの奪還を訴えたことから始められた。 | |||||||||
十字軍の失敗によってローマ教皇の権威が低下、ルネッサンス運動が開始されて西欧の近代がはじまった。 | |||||||||
イスラムから見た十字軍 - Google 検索 / エルサレム攻囲戦 (1099年) - Wiki / | |||||||||
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古典的な知の遺産は、そのほとんどが8世紀から9世紀にかけてアラビア語に翻訳され、イスラム文化の発達に多大な | |||||||||
貢献をもたらした。830年にアッバース朝第7代カリフによってバグダードに設立された「知恵の館」において膨大な | |||||||||
翻訳作業が行われ、人類の知的遺産の継承が進んだ。 / 知恵の館 -世界史用語解説 | |||||||||
西洋では紀元380年にキリスト教が国教化された後は、異端、異教、聖書の記述に合致しないとされたものが迫害を受け | |||||||||
社会の表舞台から消えさった。西洋では人類の知的遺産は断絶消滅した。 | |||||||||
十字軍がスポンサーの学僧から依頼され略奪してきた古典的文献、科学的知識。イスラムの哲学者、科学者たちが | |||||||||
加えた注釈がラテン語に、さらにヨーロッパの言語に翻訳され、印刷技術の発達によってヨーロッパ全土に普及した。 | |||||||||
イスラム文化の衰退の時代と入れ替わり西洋が世界史の表舞台に登場した。 | |||||||||
16世紀の前半、ドイツのルター、スイスのカルヴァンらの教会改革から始まった新旧二派の対立は、宗教戦争に転化し、 | |||||||||
ほぼ17世紀まで続く。この宗教戦争によってヨーロッパに近代国家が形成されていく。 | |||||||||
ルネサンス -世界史用語解説 / 宗教改革 -世界史用語解説 / | |||||||||
※ 第1回十字軍は、1096年。モンゴル帝国によるバグダード陥落は、1258年。 | |||||||||
第七の封印 (映画) - Wiki | |||||||||
暗黒時代 (中世ヨーロッパ) - Wiki / 西ローマ帝国滅亡後、ルネサンスの前までのヨーロッパ中世を指して暗黒時代と | |||||||||
呼ばれてきた。 現在では、1000年頃までの中世初期を暗黒時代と呼ぶことが多いが、中世ヨーロッパ全体を暗黒時代 | |||||||||
文化的停滞時代とする見方は否定されてきている。 | |||||||||
1096年、第1回十字軍出発。この年、白河上皇が出家。 永長の大田楽が流行。 | |||||||||
「ヨハネ黙示録」と中世ヨーロッパの終末思想 / | |||||||||
レコンキスタ | |||||||||
718年から1492年までに行われた、キリスト教国によるイベリア半島での巻き返し活動の総称。 | |||||||||
ウマイヤ朝による西ゴート王国の征服から、1492年のグラナダ陥落まで。 | |||||||||
国土回復運動/レコンキスタ 世界史用語解説 / 国土回復運動 レコンキスタ - Google 検索 / | |||||||||
イスラーム勢力の後退(914年–1492年) Wikimedia Commons | |||||||||
Reconquista - Wiki / グラナダ陥落 - Google 検索 / | |||||||||
大航海時代 - Wiki / トルデシリャス条約 - Wiki / 大航海時代 ( 1415年〜1648年 ) | |||||||||
フランク王国 / トゥール・ポワティエ間の戦い / プレスター・ジョン - Google 検索 / 東方見聞録 - Wiki / | |||||||||
1492年。この時代の天皇は後土御門天皇。室町幕府将軍は足利義材。 | |||||||||
スペインの歴史 / イスラーム・スペイン.pdf / アル・アンダルス=アラビア語 - Wiki / | |||||||||
アル=アンダルス - Google 検索 / Zorac歴史サイト - グラナダの陥落 - レコンキスタの完了 / | |||||||||
グラナダの悲劇 - Google 検索 / グラナダの陥落をイスラム側の視点ではグラナダの悲劇と呼ぶ。 | |||||||||
15世紀、ポルトガルとスペインでは民族主義が勃興、中央集権制度が他のヨーロッパ諸国に先駆けて確立した。 | |||||||||
一方イスラム側は小国に分裂しており、各個撃破されていった。 | |||||||||
イベリア半島でイスラム勢力が押されつつあった15世紀、モンゴル帝国が衰退すると、オスマン朝トルコが1453年に | |||||||||
東ローマ帝国を滅ぼし、イタリア諸都市国家の連合艦隊を撃破、地中海の制海権を握った。 | |||||||||
オスマン帝国 1299年 - 1922年 |
File:Japanese-Ottoman1683.PNG - Wikimedia Commons |
15世紀に東ローマ帝国を滅ぼしてコンスタンティノポリスを征服、やがてイスタンブルと改称する。 |
東ヨーロッパ諸国、西アジア・北アフリカの諸国を征服して世界帝国、オスマン帝国へと発展した。 |
17世紀、最大版図は、東西はアゼルバイジャンからモロッコ、南北はイエメンからウクライナに及んだ。 |
「トルコの脅威」を前に神聖ローマ帝国は、中世封建体制から絶対王政へ移行することになった。 |
しかし17世紀末頃からオスマン帝国は次第に衰退、領土は縮小していった。 |
第一次世界大戦に参戦、敗戦により帝国は事実上解体した。 |
1922年11月17日トルコ革命。メフメト6世が亡命(オスマン帝国の滅亡) |
1924年(大正13年)、トルコ民族の国民国家、トルコ共和国が成立した。 |
オスマン帝国 - Wiki / 第一次世界大戦 - Wiki / 第一次世界大戦の原因 - Wiki / 第一次世界大戦の賠償 - Wiki / |
Lesson 4 - Middle East Oil Development & the Rise of Automobiles & Gasoline / |
1890年(明治23年) エルトゥールル号遭難事件 - Google 検索 / エルトゥールル号遭難事件 - Wiki / |
クリミア戦争(1853〜56年) - Google 検索 / 赤十字国際委員会 - Wiki / |
太平天国の乱(1851年 - 1864年)。 1853年、黒船来航。1855年2月、日露和親条約。インド大反乱(1857年)。 |
イスラム世界の歴史 |
イスラム世界の歴史 1 ムハンマド(マホメット)によるイスラム教の成立とその特徴 |マナペディア| |
イスラム世界の歴史 2 /正統カリフ時代とアラブ帝国 |マナペディア| |
イスラム世界の歴史 3 / ウマイヤ朝とアッバース朝 アラブ帝国からイスラム帝国へ |マナペディア| |
イスラム世界の歴史 4 / アッバース朝と後ウマイヤ朝 イスラム帝国の分裂 |マナペディア| |
イスラム世界の歴史 5 / ファーティマ朝、ブワイフ朝、セルジューク朝、アイユーブ朝ほか |マナペディア| |
イスラム世界の歴史 6 / マムルーク朝、イル=ハン国、ティムール帝国、オスマン帝国、ムガル帝国ほか |マナペディア| |
オスマン帝国 世界史用語解説 / 落日のオスマン帝国 / |
サウジアラビア王国 世界史用語解説 / サウジアラビア、王国の崩壊は間近か? - ザ・ニュー・スタンダード / |
イスラムの二大聖地の守護者サウジアラビア |
サウジアラビアの国教は、ワッハーブ派。18世紀に興ったイスラム原理主義の源流。 宗派としてはスンナ派に属する。 | ||||||
預言者の誕生日を祝うことを禁じている。聖者崇拝、スーフィズムも、異端とする。 | ||||||
1870年代には一旦消滅したが、 20世紀に入ってサウジアラビア王国建国に伴い ワッハーブ派が復興した。 | ||||||
サウジアラビア王国 - Google 検索 | ||||||
マレーシア首相口座の6.8億ドル、サウジ王室からの寄付 | ロイター / | ||||||
マレーシア首相資金疑惑、「サウジ王室寄付」に疑念 - WSJ / Saudi Arabia | Human Rights Watch / | ||||||
Saudi Arabia - The New York Times / Saudi Arabia country profile - BBC News / The World Factbook - CIA / | ||||||
サラフィー主義ワッハーブ派 - Google 検索 / サウジアラビア テロ支援 - Google 検索 / | ||||||
クリントン氏、「サウジ、カタール、クウェートはテロ支援を停止すべき」 - Pars Today / | ||||||
サウジアラビア、地域のテロと部族主義の根源 - Pars Today / Pars Todayはイラン・イスラム共和国放送のWebサイト | ||||||
Modernizing Holy City of Mecca-1 (財)中東協力センター / Modernizing Holy City of Mecca (財)中東協力センター | ||||||
荘厳で神聖、知られざる「メッカ巡礼」の姿【サウジアラビア】 | TABIZINE / | ||||||
『開発という名の聖地破壊それでいいのか』 -中東TODAY / | ||||||
姦通したサウジ王女の公開処刑事件 「怒りの日」を前にサウジアラビアの勉強 - Market Hack / | ||||||
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メッカの歴史 Mecca - Wiki / | ||||||
10世紀末にエジプトのファーティマ朝がメッカとメディナの支配権を握った。 | ||||||
その後もアイユーブ朝、マムルーク朝とエジプト王朝のメッカ支配が続いた。 | ||||||
1517年、マムルーク朝を滅ぼしたオスマン帝国がメッカを掌握した。その後はオスマン帝国の支配が続いた。 |
第一次サウード王国(ワッハーブ王国)1744年-1818年。 ワッハーブ派イマームが国王を兼任した。 |
メッカとメディーナは1517年以来、オスマン帝国が聖地の守護者であった。 1802年、第一次サウード王国は |
イスラームの2大聖地、メッカとメディーナを奪取した。イスラム原理主義のワッハーブ派により、多数の |
聖廟が破壊されシーア派住民が虐殺された。オスマン帝国は、エジプト総督に命じてサウード王国を攻撃。 |
1813年1月にはメッカの奪還に成功した。1818年4月、サウード王国の首都ディルイーヤを包囲。 |
9月18日にエディルイーヤ陥落。ディルイーヤは徹底的に破壊された。 |
サウード家の生き残りは、リヤドに本拠地を移し、第二次サウード王国((1824年-1891年)を建設する。 |
1891年、最後の王がラシード家からの実権回復に失敗、リヤドを追われ、滅亡した。 |
第二次サウード王国の滅亡後、クウェートに逃れ生き残った王子が1902年にリヤド奪還に成功した。 |
1908年の青年トルコ人革命でオスマン帝国が崩壊した後、メッカのシャリーフが「ヒジャーズ王国」を建国。 |
ヒジャーズ王国はナジュドのサウード家に敗れてナジュド王国に併合されメッカは現サウジの支配地となった。 |
1932年 サウジアラビア王国建国、1938年 石油掘削に成功 |
1932年(昭和7年)にサウジアラビア王国が建国された。現在のサウジアラビアは第三次サウード王国となる。 |
王国再建には成功したが国は貧しい状態であった。1938年3月、ダーランで石油掘削に成功(ダンマン油田)。 |
1980年、サウジアラビア政府による完全国有化を実現した。 |
近年巡礼客は増加の一途をたどっており、メッカも急成長が続いている。 |
マスジド・ハラームの向かいには、アブラージュ・アル・ベイト・タワーズ が建設され、2012年に開業した。 |
この場所にはオスマン帝国時代の歴史的建造物アジヤード砦が建っており、トルコやサウジ国内などからも |
反対の声が上がっていたが、取り壊されてしまった。 |
サウジアラビア政府は偶像崇拝につながるとして1985年以来、メッカの歴史的建造物の95%以上、 |
1000年以上の歴史を持つもののほとんどを破壊した。 |
超高層ビルに囲まれた「メッカ巡礼」 :ギャラリー- ライブドアニュース / |
サウジアラビアという国「外交関係樹立60周年」 :外務省 / |
ナジュド・ハッサ王国 (1902年 - 1921年) →ヒジャーズ王国 (1916年 - 1925年) →ナジュド・スルタン国 (1921年 - 1926年) → |
ナジュド・ヒジャーズ王国 (1926年 - 1932年) → サウジアラビア |
1917年、バルフォア宣言 。1920年、セーヴル条約 。1922年、オカイル議定書 。1927年、ジッダ条約 。 |
中東問題がどうしてこうなったか歴史的経緯がよく分かるまとめ - NAVER まとめ / 三枚舌外交 - wiki / |
1928年 赤線協定 - Wiki / カタール - Wiki / クウェート - Wiki / |
サウジアラビアの国旗 - Wiki / サラフィー・ジハード主義 - Wiki / |
アルカーイダ - Wiki / ターリバーン - Wiki / アル=ヌスラ戦線 - Wiki / |
Category:サラフィー・ジハード主義組織 - Wiki / |
サウディアラビア、メッカ のカーバ神殿 |
Masjid al-Haram マスジド・ハラーム Kaaba カーバ |
Inside the Masjid Al-Haram, Mecca Wikimedia Commons, 2006 |
Top Ten Biggest Mosque in the world | Top of ten / Abraj Al Bait - Wiki / |
カーバ座標: 21.42237,39.826169 View Larger Map |
アブラージュ・アル・ベイト・タワーズの一番高いタワーは601mで、全館ホテル棟になっており、 |
ホテル棟の上部に設置された時計は世界最大で30km先からも視認できるように設計されている。 |
ロンドンにある英国国会議事堂に付属する大時鐘ビッグ・ベンは、時計台の高さ96.3m。 UTC ± 0 の |
協定世界時 を告げており、これを意識したと言われている。( 建設当時はロンドンが世界の中心であった。 ) |
アブラージュ・アル・ベイト・タワーズの大時計はドイツ製で、ビッグベンの約6.5倍の大きさがある。 |
メッカの大時計 - Google 検索 / 世界の時間 / |
資源 人口 |
石油産業 |
3編1章1節 近代石油産業の勃興 | 石油便覧 / 3編1章2節 国際石油会社の誕生と発展 | 石油便覧 / |
3編1章3節 中東石油資源の発見と共同支配 | 石油便覧 / 世界の石油利権を狙う巨大メジャー「セブン・シスターズ」 |
バクー油田からスエズ運河へと続く歴史 - NAVER まとめ / 国際石油資本 - Wiki / 石油 - Wiki / |
産油量ランキング - Google 検索 / 原油の生産量・国別順位 - BP 世界エネルギー統計2015 / |
石油産業年表|1926年〜1938年 | 石油便覧 / |
History of the oil industry in Saudi Arabia - Wiki / Chronology of world oil market events - Wiki / |
拡大するイスラム世界と石油の地政学 / |
2050年のムスリム人口 | |
ピューリサーチセンターの推計によると、現在の傾向が2050年まで継続した場合、イスラム教徒の数は、 | |
ほぼ世界中のキリスト教徒の数と等しくなる。ヨーロッパでは、イスラム教徒は総人口の10%を占めるようになる。 | |
インドはインドネシアを抜いて、世界最大のイスラム教徒人口を持つことになる。 | |
The Future of World Religions: Population Growth Projections, 2010-2050 | Pew Research Center / | |
In 2050, India’s Muslim population will be largest globally - The Hindu / | |
Islam in India - New World Encyclopedia / muslim population in india 1930 - Google 検索 / | |
| |
pewforum.org/2015/04/02/muslims/pf_15-04-02_projectionstables74 | |
ムスリム人口比 | |
World Muslim population by percentage (Pew Research Center, 2014). | |
ムスリム人口 | |
A map of Muslim populations by numbers, (Pew Research Center, 2009). | |
List of religious populations - Wiki / Islam by country - Wiki / Muslim population growth - Wiki / WikiIslam WikiIslam / | |
Islam in Europe - Wiki / | |
ムスリムの服装 | |
Islam and clothing - Wiki / イスラム圏の女性の服装 - Wiki / | |
アラブの男性の服装 Thawb - Wiki / アラブの女性の服装 Abaya - Wiki / | |
マレーシア、インドネシアなど東南アジアの女性の服装 Hijab - Wiki / Types of hijab - Wiki / | |
ムスリムの女性形はムスリマだが、アラビア語社会以外では基本的には区別しない。 / ムスリム - Wiki | |
インドネシア、ブルネイ、マレーシアのイスラム教男性ファッション〜Peci(ペチ)〜 / | |
islam cap - Google 検索 / Kufi - Wiki / Taqiyah (cap) - Wiki / 回教帽 - Google 検索 / | |
伊斯蘭教帽子圖片 - 淘寶網 / | |
イスラム過激思想 |
1973年制定版サウジアラビア国旗 / サウジアラビアの国旗 - Wiki |
文字は「アッラーの他に神はなし、ムハンマドは神の預言者」。剣はサウード家の権力。 |
サラフィー・ジハード主義 - Wiki / Salafi jihadism - Wiki / Category:サラフィー・ジハード主義組織 - Wiki / |
The evil empire of Saudi Arabia is the West’s real enemy | The Independent / サウジアラビアにおける女性の人権- Wiki / |
カショギ殺害事件に投影された中東政治力学の変動と歴史の終わり/高橋和夫氏(国際政治学者) - Yahoo!ニュース / |
アルカイダの旗 |
文字部分はサウジアラビア国旗と同じ / アルカーイダ - Wiki / |
ISISの旗 |
文字は「アッラーの他に神はなし」 白い丸はムハンマドが使用していた印鑑(Seal)。 |
中の文字は「アッラー、預言者、ムハンマド」。 |
Islamic fundamentalism - Wiki / イスラム原理主義 - Wiki / |
国際テロ情勢 | 警察庁 / Religious terrorism - Wiki / 宗教テロ - Wiki / 宗教過激派 - Google 検索 / |
なぜ過激派や原理主義はグローバルに成功するのか?:元イスラム原理主義者が語る | THE NEW CLASSIC / |
図で見る「イラク・シリア・イスラム国(ISIS)」 : CNN.co.jp/ |
東南アジアのイスラム過激派 |
日本の近くにある脅威:東南アジアに潜むISILの影 | JBpress(日本ビジネスプレス) / |
地域別国際テロ情勢 東南・東アジア・オセアニア | 国際テロリズム要覧(Web版) | 公安調査庁 / |
イスラム国(IS)と東南アジアのテロ情勢 | ユーラシア情報ネットワーク(-2014) | 東京財団 / |
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