AD物語II 第15話 「チャイナ・タウン」



〜シャ乱Q・つんくのオールナイトニッポンの想い出〜
 1996年。松村邦洋さんのオールナイトニッポン(以下、ANN)が終了。  (注:松村邦洋さんのANNはその後、火曜1部で復活)  かわって、水曜1部のANNに登場したのが、  「シャ乱Q」のヴォーカル、つんくでした。
 1996年の暮れ。  このつんくのANNで、小さな問題が起こっていました。  後の世にいう「F−KISSの乱」です。  当時、ANNのチーフディレクター・節丸さんが、  つんくのANN担当ディレクターの松尾クンに、ひとつの企画を持ちかけたのです。  あ、ちなみにここで登場する節丸さんは、  「第3話・大槻ケンヂのANNの想い出」に登場した人物と同一であり、  もう一方の松尾クンは、  アニメ「アンドロイドアナ・MAICO2010」の準主役でおなじみ、  「松尾デンスケ」のモデルになった人物であります。  「松尾、おまえ、つんくのANNで、この企画をやれ。」  「え? なんです?」  「俺が思いついた、最高の企画だ。」  「へえ。『アルバイドル・オーディション』??」  「そうだ。時代は『アルバイドル』だ。」  「・・・なんです? 『アルバイドル』って?」  「『アルバイト』+『アイドル』で、『アルバイドル』だ。」  「・・・それだけじゃ、わかんないんですけど。」  「世の中にゃ、『アイドルになりたーい』って女の子がたくさんいるわけだ。」  「はあ・・・。」  「そんな女の子達に『アルバイト』感覚で『アイドル』やれる場を提供しようってのがこの企画だ。」  「ほほう。」  「ゆくゆくは、その『アルバイドル』をプロデュースしてCDも出す・・・と。」  「おお! おもしろいじゃないですか!」  「だろ!? イケそうな企画だろ?」  「で、誰がプロデュースするんですか?」  「は?」  「だから、CDデビューの時、誰がプロデュースするんですか?」  「そりゃ、決まってんだろ。」  「誰?」  「つんく。」  「は?」  「シャ乱Qのヴォーカル。」  「知ってますよ。そんなことは。」  「ああ、ビックリした。知らないのかと思っちゃった。」  「何、訳のわかんないこと言ってんですか。」  「つんくの番組でやる企画だもん、CDプロデュースも当然、つんくだろ。」  「いや、そりゃ、ムリでしょ。」  「なんで?」  「『アサヤン』見てないんですか?」  「『アサヤン』・・・??」  「あ、知らないんだ。」  「知ってるよ。『しがちゃん』の出てるヤツだろ?」  「それは『おはスタ』ですよ!」  「ふうん。ま、いいよ。で、その『アサヤン』がどーした。」  「その番組の中で、つんくがプロデュースするらしいですよ。」  「何を?」  「新しいアイドル。」  「へ?」  「思いっきりこの企画とネタかぶってるじゃないですか。」  節丸、轟沈!
 ・・・かと、思いきや、  ANNチーフディレクター・節丸氏は、  この「アルバイドル」の企画を編成に通してしまいました。  さあ、大変です。  日本全国の「アイドル」になりたい女の子達から、番組にハガキが殺到しました。  でも、つんくさん的には、この企画、思いっきり後押しするわけにもいきません。  そりゃそうでしょう。  TVの方で、自分がプロデュースするアイドルの企画がすでにあるんですもん。  「アルバイドル・オーディション」は、すでに企画立案の時から、  暗雲立ちこめちゃってる状態だったのです・・・。  さらに追い打ちをかけるように、企画立案者の節丸氏が、  突如、何を思ったのか、  「1年間会社、休む。あと、よろしく。」  ・・・と言い残して、ニッポン放送に「休職願い」を提出すると、  単身、アメリカはニューヨークへと旅立ってしまいました。  事態は、悪化の一途です。  そこにとどめの一撃が入ります。  つんくのANNの担当ディレクターだった松尾クンに、  担当番組変更のおしらせが届いたのでした。  松尾クンの代わりに、つんくのANN担当になったのは、  「寅さんの息子」でおなじみの田所ディレクターです。  あれよあれよという間に、  「アルバイドル・オーディション」の企画に携わっていた人間が、  みーんないなくなってしまいました。  ファイティング原田もビックリのラッシュです。  アーネスト・ホーストもビックリのコンビネーションです。
 1997年。初夏。  訳がわからないながらも、田所クンの尽力により、  「アルバイドル・オーディション」は行われ、  5人の「アルバイドル」が決定しました。  この5人のグループは、「5つ(Five)のKISS」と言う意味で、 「F−KISS(えふ・きっす)」  と命名され、ニッポン放送と1年間の「アイドル契約」を結んだのでした。  ・・・とはいうものの、  ニッポン放送主催のイベントでコンパニオンのようなお仕事をするのが関の山で、  「アイドル」のようなお仕事は、いっこうに来ません。  それでも、編成部やイベント部からくる小さなお仕事を、  メンバーの女の子達が、一生懸命に、うれしそうに、こなす姿が、  ただただ、いじらしいのでした。  そうこうするうちに、つんくのANN自体が、 「番組終了」。  不幸を絵に描いたよう  ・・・という表現がありますが、それはまさにこのことです。  ニッポン放送との契約は「1年間」あっても、  母体となる番組「つんくのANN」が終わっちゃっては、  彼女たちの活躍の場は、もはや無いと言ってよいでしょう。  ああ、哀れなり、F−KISS。  F−KISSの「F」は、  不幸の「F」じゃねえのか?
 だが、しかし。  人間、あきらめちゃいけません。  「F−KISS」の噂が、某地方FM局のプロデューサーの耳に届いたのです。  「ギャラ出ないけど、その子たちで、番組作ってみない?」  そんな話が出てきたのが1997年暮れのこと。  年が明けると同時に、  「F−KISS/チェイス・マイ・ドリーム」  ・・・という30分のラジオ番組が本当に始まってしまいました。  「プロデューサーは、ああ言ってたけど、チョビッとぐらいは収入があるだろ。」  ・・・と、たかをくくってたんですが、  ふたを開けてビックリ。  ほんとーに、1円のギャラもない。  人手もない。  「F−KISS」の5人は「素人」です。おもしろいトークもできやしない。 「無い無いづくし」の番組です。  「将太の寿司」の「マグロづくし」じゃないんだから・・・。  ディレクションをしつつ、  「なんで、こんな得にもならないことやってんだろう。」  ・・・って、思ったことも、正直ありました。  でも、なんか・・・、  校内放送を一生懸命やってた中学生の頃が思い出されるような、  手作りっぽさのある、  やってて、あったかい気持ちになれる番組だったのは確かです。
 そんな「F−KISS/チェイス・マイ・ドリーム」も、半年間続き、  つい先日、1998年6月をもって、無事に番組終了。  「F−KISS」のニッポン放送との契約期間「1年間」も、  これまた先日「満了」となり、  5人の女の子達は「アルバイドル・F−KISS」の任から解かれたのでありました。   解散式は、都内のカラオケスナックでひっそりと行われました・・・。  今にして思えば・・・、  シャ乱Q・つんくが「アサヤン」からデビューさせようとしてた「アイドル」というのは、  皆さん、もうお気づきだと思いますが、「モーニング娘」だったんですね。  今や、CDも売れてて、TVにもいっぱい出てて、本当にすごいと思います。  ・・・でも。  「つんく公認」はとれなかったけど、  CDデビューできなかったけど、  メジャーには、まーったくなれなかったけど、  ボクの中では「F−KISS」は「アイドル」です。  「まだまだ解散じゃないです。この5人、これからも仲良くしていきます。」  解散式飲み会のさなか、「F−KISS」のメンバーの一人が、  ニコニコしながらそう言っていました。  ・・・その笑顔は、間違いなく「アイドル」でした。
続く  1998/07/21

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