算学絵馬

   [年代] 江戸末期 文化11年(1814)
   [法量] 板絵馬 縦!p 横!p
   [分類] 学問(算学)
   [奉納] 射水郡堀岡新村住 島崎十次郎政秋 鷹杉権右衛門尹壽
   [所蔵] 現存せず 石黒信由編著 算学鉤致(射水市博物館蔵)
   [解説] 算額絵馬
         草岡神社に奉納された算額の”問”の板絵馬に対し、”答え”も奉納された。

板絵馬:島崎十次郎政秋 鷹杉権右衛門尹壽

 北前船絵馬

   [年代] 江戸末期 天保12年(1841)
   [法量] 板絵馬 縦55.5p 横72.5p
   [分類] 生業(廻船業)
   [奉納] 古明神 佐治平
   [所蔵] 草岡神社奉賛会蔵
   [解説] 北前船
         交易を生業とし北前船の航海の無事を祈願して
         奉納された

板絵馬:佐治平

 木曽義仲と源義経 宇治川戦い絵馬

   [年代] 江戸末期
   [法量] 板絵馬 縦48.0p 横70.0p
   [分類] 武者(宇治川の戦い)
   [奉納] 不詳
   [所蔵] 草岡神社奉賛会蔵
   [解説] 木曽義仲軍と源義経軍 宇治川先陣の図
        「平家物語」巻第9 宇治川の戦いで、頼朝から名馬を賜わり、先陣争い
        をする頼朝の家来、佐々木四郎高綱と梶原源太景季(かげすえ)の宇治
        川渡りの図。

 「物語」 時は1183年(寿永2)、四国にいる平家軍は、義仲軍\を岡山県水島で破って力を盛り返し、翌年、旧都福原(神戸)で戦闘の備えを固め、近く京都に帰洛するとの噂が流れていた。  一方、源頼朝軍は後白河法皇から義仲追討(源氏の内紛)の要請を受け、京都に向け軍を進めます。窮した義仲は、平家側に和議を申し出ますが物別れに終わります。1184年3月2日(寿永3年1月18日)、義仲は、宇治川で義経軍の上洛を阻もうと橋板を外し、川底に杭を打って網を張り渡河阻止の作戦を立てますが、義経軍が渡河し瀬田も破られ、義仲は京都から敗走する途中近江の粟津(滋賀県大津市)で討ち取られます。その物語が宇治川の戦いです。  平家物語

板絵馬

 羅生門・鬼の図絵馬

   [年代] 江戸末期 弘化3年(1846)
   [法量] 板絵馬 縦55.5p 横84.0p
   [分類] 武者(羅生門の鬼退治)
   [奉納] 大統曳網 佐治平
   [所蔵] 草岡神社奉賛会蔵
   [解説] 羅生門・鬼の図絵
         羅生門に出没する鬼を、渡辺綱が退治をする場面の図。

『平家物語』剣巻には次のような話がある。 摂津源氏の源頼光(948〜1021)の四天王(渡辺綱・坂田公時きんとき・碓井貞光さだみつ・卜部季武すえたき)と酒を酌み交わしていた。羅生門で悪さをする鬼が出没する話しになり、筆頭 渡辺綱が鬼退治に出かけることになった。夜中、一条戻橋(洛中、洛外の境)のたもとを通りかかると、美しい女性がおり、夜も更けて恐ろしいので家まで送ってほしいと頼まれた。綱はこんな夜中に女が一人でいるとは怪しいと思いながらも、それを引き受け馬に乗せた。すると女はたちまち鬼に姿を変え、綱の髪をつかんで愛宕山の方向へ飛んで行った。綱は鬼の腕を太刀で切り落として逃げることができた。腕は摂津国渡辺(大阪市中央区)の綱の屋敷に置かれていたが、綱の義母に化けた鬼が切り取られた腕を取り戻したとされる話しの一場面の図である。  平家物語

板絵馬:佐治平

 壇ノ浦の戦い図絵馬

   [年代] 明治時代 慶応4年(1868)
   [法量] 板絵馬 縦100.0p 横176.0p
   [分類] 武者(源平合戦)
   [奉納] 網屋九右ヱ門
   [所蔵] 草岡神社奉賛会蔵
   [解説] 壇ノ浦の戦い図
         壇ノ浦の戦いは、元暦2年(1185)3月 屋島の戦いで敗れ、下関に退い
        た平氏軍を源氏軍が追撃し、栄華を誇った平家が滅亡に至る治承・寿永
        の乱の最後の戦いの場面で、平家を追撃する源氏方の図である。

「源平合戦」  平氏は総帥平宗盛が安徳天皇と神器を奉じ、源義経を総大将とした源氏軍を迎撃、激戦の後に宗盛は生けどられ斬首、平氏は滅亡。 二位の尼(平時子/平清盛の妻で安徳天皇の祖母)は安徳天皇を抱いて入水した。船の数は平家500艘、源氏700艘といわれている。三種の神器(草薙剣、勾玉、鏡)は、海に沈み、源氏の捜索により、勾玉と鏡は見つかったものの草薙剣は発見できず、そのため以後、草薙剣は清涼殿昼御座の剣で代用することになる。 吾妻鏡

    源平合戦
  1. 治承4年(1180年) 5月 宇治川の戦い
  2. 治承4年(1180年) 8月 石橋山の戦い?
  3. 治承4年(1180年)10月 富士川の戦い
  4. 寿永2年(1183年) 6月 倶利伽羅峠の戦い?
  5. 寿永3年(1184年) 1月 宇治川の戦い
  6. 寿永3年(1184年) 2月 一ノ谷の戦い
  7. 元暦2年(1185年) 2月 屋島の戦い
  8. 元暦2年(1185年) 3月 壇ノ浦の戦い


板絵馬:網屋九右ヱ門

 出雲神話 八岐大蛇(やまたのおろち)図絵馬

   [年代] 明治以降
   [法量] 刺繍絵馬 縦51.0p 横60.0p
   [分類] 神仏(出雲神話 八岐大蛇図)
   [奉納] 精一長女 中島よ志由 女
   [所蔵] 草岡神社奉賛会蔵
   [解説] 出雲人身御供神話 八岐大蛇図
         八岐大蛇とは「蛇」であり「水神」である、また人身御供にされる姫の名
        前が「稲」であることなどから、田を荒らす邪悪な者を退治する説話である。
        女性の刺繍絵馬の奉納は、習い事の上達祈願と考えられます。

「やまたのおろち伝説」  斐伊川の上流にたどり着いた素戔嗚尊は、流れてきた箸をみて河上に人がいるに違いないと河上を目指していくと娘を中に泣いている老夫婦に出会いました。老夫婦に名を問うと父親は「私は大山津見神の子足名椎(あしなつち)、妻はは手名椎(てなつち)、娘は奇稲田姫(くしいなだひめ)と申します。」と答えました。 泣いている訳を聞くと、八頭八尾の途方もなく巨大な八岐大蛇という怪物が娘を食いにくると言います。そこで素戔嗚尊は怪物退治に挑むことにし、まず娘を櫛に変身させ自分の髪に刺し、次に強いお酒を作らせて八つの頭に飲ませるため、八つの甕に用意させました。すると、やってきた八岐大蛇は、思惑通りそのお酒を飲み酔って眠ってしまったので、素戔嗚尊はやすやすと八岐大蛇を斬り殺すことができました。この時大蛇の尾から一本の剣が出てきて、これを素戔嗚尊は天照大神に奉りました。剣の名を「天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)」と言いますが、その後日本武尊がこの剣で草をないで危ないところを助かることから、後に「草薙剣」と呼ばれるようになります。天皇の御位の印「三種の神器」のひとつです。  【拡大】  平家物語  古事記

刺繍絵馬:中島よ志由

 八幡太郎義家 勿来の関(なこその関)図絵馬

   [年代] 明治以降
   [法量] 刺繍絵馬 縦45.0p 横60.0p
   [分類] 武者(勿来の関図)
   [奉納] 不詳
   [所蔵] 草岡神社奉賛会蔵
   [解説] 八幡太郎義家(源頼朝の先祖) 勿来の関図
         奥州攻めで勿来の関を越えて、戦いに向かう義家が詠んだ和歌 「吹風を
        なこその関と おもへども 道もせにちる 山桜かな」
 の風景場面である。
        女性の刺繍絵馬の奉納は、習い事の上達祈願と考えられます。

刺繍絵馬

 一ノ谷の戦図絵馬

   [年代] 明治以降
   [法量] 刺繍絵馬 縦43.0p 横60.0p
   [分類] 武者(一ノ谷の戦図)
   [奉納] 谷川きくい
   [所蔵] 草岡神社奉賛会蔵
   [解説] 一ノ谷の戦図
         寿永3年(1184年)2月、一ノ谷の戦【平敦盛(左)と熊谷直実(右〜扇持つ)】
        女性の刺繍絵馬の奉納は、習い事の上達祈願と考えられます。

『平家物語』によれば、この戦いで良き敵を探し求めていた直実は、波打ちぎわから騎馬で海上の船に逃げようとした貴公子平敦盛(17歳)に「敵に後ろを見せるのは卑怯でありましょう、お戻りなされ」と呼び止め、一騎打ちをする。直実が敦盛をむんずと取っ組んで、馬から落とし、首を取ろうとすると、ちょうど我が子小次郎ぐらいの年の若武者だった。直実が「私は熊谷出身の次郎直実だ、あなたさまはどなたかな」と言うと、敦盛は「名乗ることはない、首実検すれば分かることだ」とけなげに答えた。これを聞いて直実は、一瞬敦盛を逃がそうとしたが、背後に味方の手勢が迫る中、「同じことなら直実の手におかけ申して、後世のためのお供養をいたしましょう」といって、泣く泣くその首を切った。この後首実検して平敦盛と判明、やんごとない貴公子であったと分かった。このことがあってから、直実の仏門に帰依する思いは、いっそう強くなったという。  平家物語

刺繍絵馬:谷川きくい

 川中島の戦い図絵馬

   [年代] 明治以降
   [法量] 刺繍絵馬 縦50.0p 横75.0p
   [分類] 武者(川中島の戦い図)
   [奉納] 雪子
   [所蔵] 草岡神社奉賛会蔵
   [解説] 川中島の戦い図
         第4回 川中島の戦いは1561年8月、長野県千曲川と犀川が合流する三
        角地帯で両軍合わせて3万3千の軍勢がこの川中島で激突。武田信玄(兜)
        と上杉謙信(頭巾)の一騎打ちの場面の絵馬である。
         女性の刺繍絵馬の奉納は、習い事の上達祈願と考えられます。
        
【拡大】

刺繍絵馬:雪子

 日露戦争図絵馬額 

   [年代] 明治39年5月
   [法量] 板絵馬 縦49.0p 横66.0p
   [分類] 戦争(日露戦争図)
   [奉納] 古明神村の二俣・岩井・谷川・稲井・松下含め20名
   [所蔵] 草岡神社奉賛会蔵
   [解説] 日露戦争図 
神社に残る戦利品御下附願 (明治三十九年五月)
         戦争は明治37年2月8日〜38年9月5日。出征軍人に勲7等・八等が捧げら
        れています。 日清戦争(明治27年7月〜明治28年3月)

板絵馬

 鶏図絵馬 

   [年代] 明治以降
   [法量] 鏝絵馬 縦51.0p 横74.0p
   [分類] 鳥(鶏図)
   [奉納] 不詳
   [所蔵] 草岡神社奉賛会蔵
   [解説] 眷属(鶏図・伊勢図)
         ニワトリの図は、お伊勢さんを表します。奉納者がお伊勢廻りの無事を祈っ
        て奉納されたものか?当神社の鏝絵は余り繊細ではありませんが竹内源造
        の技巧集団の作品と考えられます。明治初期は漆喰の土蔵が盛んに立て替
        えられた時期で、近隣の神社本殿にもその姿を見ることができます。

左官鏝絵馬

 恵比須大黒図絵馬

   [年代] 大正14年
   [法量] 紙絵馬 縦68.0p 横100.0p
   [分類] 神仏(恵比須大黒図)
   [奉納] 東岩瀬町 杉本庄次郎
   [所蔵] 草岡神社奉賛会蔵
   [解説] 恵比須大黒図
         大漁旗願と海上の安全祈願から奉納されたと考えられます。

紙絵馬:杉本庄次郎


 二見浦 化粧まわし絵馬

   [年代] 昭和以降
   [法量] 刺繍絵馬 縦95.0p 横73.0p
   [分類] 芸能(化粧まわし図)
   [奉納] 地方力士 若湊関(四股名)〜菊 太吉(明治29年〜昭和13年) 
   [所蔵] 草岡神社奉賛会蔵
   [解説] 二見浦 化粧まわし図
         越中國射水郡地域は昔から青年相撲が盛んに取られた。神社境内にも
        土俵が造られ奉納相撲が盛んに行なわれた。引退後、屋号 菊の”太助さ”
        (三代目 太吉:村議会議員)より神社に奉納されたと伝えられています。
         化粧まわしは、夏至の太陽が赤く金色に染めた波がうち寄せる伊勢市二
        見浦の夫婦岩が描かれています。

刺繍絵馬:菊太助


【草岡神社奉賛会】
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