星に願いを。

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 監督:冨樫森

 脚本:森らいみ、冬月カヲル

 製作:「星に願いを。」フィルムパートナーズ

 出演:竹内結子、吉沢悠、高橋和也、牧瀬里穂、中村麻美、伊藤裕子、國村隼






 あの「星願 あなたにもういちど」のリメイク作が.......



 2001年、私的映画ベスト1に選んだのは「星願 あなたにもういちど」(以降「星願」)という香港映画。
 この映画は私の香港映画に対する概念を根本から覆した映画と言っていい。(ちょっと大袈裟すぎるけど。)
そしてこの映画で女優、セシリア・チャン(張 柏芝)にも出会った事は自分にとって大きな収穫でもあった。
 「星願」の項でも書いたがセシリア・チャンのファーストカットで正に”一目惚れ”。結局、「星願」自体も同じ映画館で日にちを改め、2回見てそれでも飽き足らず、香港版VCD、DVD、それから日本版DVDと手に入れるまでになった。全く当時の「星願」に対する自らの熱狂ぶりが推し量れるというものだ。
 また「星語心願」という挿入曲でその年の香港のアカデミー賞にあたる香港 電影金像奨で主題歌賞まで受賞したセシリアは他の多くの香港明星(スター)と同様、歌手活動も活発である為、多くのCDも買い集めるなど近年稀にみるハマリようであった。
   当然、「星願」以降の出演作品も追っかけもした。
 「喜劇王」「東京攻略」「超速伝説」「少林サッカー」「十二夜」「老夫子2001」「鍾無艶」「情迷大話王」...etc
 だが セシリアの魅力が最も的確にフィルムに焼き付ける事に成功した作品と言ったら「星願」に他ならないと断言できる。


 それから

 今から2年ほど前、この「星願」が日本でリメイクされるという話を聞いた。
 タイトルは「星に願いを。」
 監督は「非・アンバランス」で当時、注目され始めていた冨樫森
 もっとも気になる主演は竹内結子 − という発表だった。
 竹内結子については 個人的には特に思い入れは無い。かと言って嫌いという女優でも無く、どちらかと言えば好印象がある程度。ゆえにそれなりの期待もしていた。
 だが、その後、製作状況も伝わらず、公開も発表にならなかった為、私は企画自体、オクラ入りとばかり思いこんでいた。
 おまけに「黄泉がえり」という「星願」とテーマが似通った映画に竹内結子も出演するというではないか。
 同じような映画に連続出演など考え難い為 ますます「星に願いを。」の実現性を疑った。
 それが ある日突然のオフィシャルHP立ち上げと公開の発表。
 これをきっかけに私は再び、映画雑誌等で「星に願いを。」関連記事を追っかけ始めたのだった。
 ただ、この過程で気になった事があった。
 それは 肝心の「星に願いを。」が香港映画「星願」のリメイク作品であるというのがほとんど触れられていない事。なぜだろうか?これは未だもって謎である。
 結果的に公式HPで公開直前になってようやく明記されるようになったが、監督や主役二人からオリジナルである「星願」についての意見が聞かれた事は今まで一度も無い。
 もしかして自分の見落としかもしれないが まるで映画会社はその事実を隠したがっているようで悲しくもある。
 (香港映画のリメイクだと観客動員に悪影響を与えるとでも思っているのだろうか?)



 前置きはこれぐらいにして「星に願いを。」本編について書くとします。



 都心部で上映する映画館が無く、仕方なく今回、始めて郊外のシネコンに足を運んだ。だが、これが辿り着くまでが非常に大変。おまけに雨模様で心もブルー。
 なんとか上映時間ギリギリに間に合い、もしかして定員以外は受け付けない(立ち見は認めないという事)なら満員で見れないかもと心配になりつつも 意外にもすんなりチケットも購入でき、入場も認めれたので拍子抜けする程であった。
 暗闇の中、劇場に入っていくと中央に配置された席のみ客が固まっている程度でほとんどガラガラという状態。
 これは全席指定の為、みな言われた通りの席に着席している為なのだが余計に閑散としている印象は否めなかった。
 然も本日は公開日初日なのだ。全くこの寂しさは何?という感じだ。

 唖然とする中、程なく始まった「星に願いを。」のあらすじはこうである。





 舞台は北海道・函館。

 3年前の交通事故により、失明し、それと同時に声も奪われてしまった青年、笙吾(吉沢 悠)。
 心にも深く傷を負った彼は、体の傷が治っても心を閉ざしなかなか立ち直る事が出来なかった。
 そんな時、献身的に看護に務め、笙吾にもう一度生きる希望を与えたのが担当の看護師・奏(竹内結子)だった。

 時が経つにつれ 二人の間は、言葉を越え心が通じ合う特別なものとなっていったが、幸せの時間はそう長くは続かなかった。笙吾が車にはねられしまったのだ。
 奏の病院に搬送されるものの既に虫の息の笙吾。手当の甲斐ももなく息絶えてしまった笙吾に奏はただただ泣き崩れることしか出来なかった。

 しかし笙吾は死んではいなかった。見慣れた市電の中で目覚めた笙吾は自分の体の変化に驚く。
 何ひとつ事故の傷は無く、おまけに目も見え、話すことも出来るのだ。
 だが車内スピーカーから流れてきた不思議な声で全てを悟る事になった。
 それは流星の力によって数日間だけ笙吾は再び生命を与えられたのだという事を。
 但し、生前とは全く違った人間として、それも自分が笙吾である事を他人に告げた時点でそのかりそめの命も終わりをむかえるという条件付きでである。

 それでも気持ちを抑えきれず急いで奏に会いに行く笙吾。
 ようやく事故現場で呆然と佇む奏を見つける事が出来たが当然のように彼を笙吾だとは判らない。奏にとって蘇った笙吾は笙吾でなく、声にして正体も明かすことが出来ない。
 なんとか笙吾の生命保険を担当する保険調査員という名をかたり奏に近づくものの ただの無神経な人間に捉えられるばかり。
 苦悩する笙吾、笙吾の死後、抜け殻のようになってしまった奏。
 ふたりの間に再び、心を通じ合える瞬間(とき)はくるのだろうか。


 残された時間は僅かであった。





「星願」の項でも書いたあらすじを読んで頂ければ判るが本作での基本的なプロットになんら違いはない。
 確かに「星願」ではオニオン(リッチー・レン演ずる香港版の笙吾に相当する役)の視点から中心に描き、「星に願いを。」では奏の視点で描くという違いはあるものの、「星願」でも後半はオータム(セシリア・チャン)の視点で描かれている為、本作と大きな違いはない。
 唯一、気になった違いと言えば「自分の正体を他人に告げた時、そのかりそめの命も終わる」という点だろうか。(「星願」では正体を告げようとすると急に声が出なくなるなどの現象が起こる)
それとStoryの重要な鍵となる笙吾の奏でる楽器がサックスからハーモニカへと変更されているのも見逃せない。
 しかし、この程度の違いならまだ良かった。
 残念ながら映画そのものの印象を変えてしまいかねない相違があったことは否めないのだ。

 ぶっちゃけ「星願」ほどの感動がなかったのである。

 ここでその相違点をひとつづつ挙げていくのはやめにしておくがハーモニカにからむエピソード(奏の心を唯一癒したハーモニカは誰が吹いていたのか?)が中途半端に明かされていたり、「星願」でエリック・ツアンが演じた友人役、ジャンボに相当する霧島(國村隼)自身のエピソードが抜け落ち笙吾を殴り「奏を追っかけろよ」という唐突な行動も納得できるものが無い。
 ジャンボ同様、霧島も蘇った笙吾の正体を見抜いているのだがその見せ方が巧いとは言えなかったのだ。
 細かい点を挙げれば色々あるのだが、これらラストの「星願」では涙なくしては見られない展開へつながる重要な要素がきちんと描かれていなかった事が私の感動のツボを刺激しなかったと思われる。
 それに決定的だったのは 笙吾の存在にようやく気付いた奏が函館中を彼を求めて探しまくる本作において最も盛り上がるシーン。(函館中って広範囲すぎるだろ?ってツッコミもありますが(苦笑))
 「星願」では自分の正体を伝えたくて四苦八苦するものの前述のジャンボに

 「蘇った事を伝えてどうする?その時がきて再びいなくなって一番悲しむのは彼女だろう」

 と諭され彼女を最後まで見守る事に徹し、たとえ彼女に正体が判ってもなかなか認めようしないという実にせつない展開になっていく。ここで多くの者が涙したのだが、「星に願いを。」は このあたりがあまりにもあっさりと描きすぎて(簡単に笙吾は自分を認めてしまい)心に響くものが無かったのだ。
 なにもキスシーンなど無くとも 二人の気持ちは十分に伝わってくるし、なにより「せつなさ」という情感がうまく表現出来ていなかったのは非常に残念であった。
 日本人には受け入れ難い香港映画的なテイストを薄くして、日本的なアレンジを加えた前半は結構気に入っていたのに肝心のラストが失速してしまったのはどこに責任があるのだろう?と思ってしまった程である。


 厳しい事を書き連ねてきたが、舞台となった病院、喫茶店、ちょっとした風景など「星願」を踏襲していた点ではオリジナルへの敬意は感じた。
 (函館って香港的な匂いを感じさせる街だったんですね。)
 いずれにしても今まであまり例の無い”香港映画のリメイク”が為された事は賞賛に値する事だと思います。





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