きよしこ
“きよしこ”……このひらがな4文字を見た最初の瞬間、あなたは何を想像しましたか? 想像力豊かな人ならば、「えっ、オカマ?」と思ったかもしれません。半分だけ当たっています。それは“きよしこ”が名前であるということ。「きよし」なら男だけど、そこに「こ」がついたら、やはり女? でも、そのどちらでもありません。
重松清の短編小説『きよしこ』。本当に不思議なタイトルです。著者の名前・清と関係しているのだろうか? はじめはそう思いました。でも、なんで「清」に「子」がついているんだろうという疑問の答えは出ませんでした。とりあえず、その本を買ってみることにしたのです。
部屋に帰ってから、最初のページをめくりました。いいえ、本当はページをめくるほんの一瞬前でした。「これはクリスマスの物語だ」……わたしはそう思いました。イヴが近づくと、この言葉で始まるきれいな曲を、誰もが1度は聴いたり、口ずさんだりしたことがあるはずです。『きよしこ、の夜』――決して、読点の打ちまちがいではありません。この物語の少年には、そう聴こえたのですから。
なぜ、わたしが読む前から、これはクリスマスのお話だと思ったかには、ちゃんとした理由があります。それは著者の重松清さんと同じ悩みを、わたしも子供のころから抱いていたからに他なりません。……話したい言葉が口からなかなか出てこない。フレーズは完璧に頭に浮かんでいるのに、最初の言葉がつっかえてしまう。だんだん焦ってくる。表情からは笑顔も消えている。周りの人はそんなに気にしていないのに、本人だけは「なんで自分は言葉をスムーズに発音できないのだろう」と悲しく切なくなる。
どもりの子は、たったひとりで、いつもそれに悩んでいます。……厳密には、機能的に発音できないわけではないのです。歌を唄うときや、まわりに誰もいないところで、ひとりごとを話すときには、まったくどもることはありません。だからこそ、やっかいなのです。本当はしゃべれるのに、人に何かを伝えようと思うと、言葉が喉と唇より先へは出なくなってしまうのです。空気すら出ないくらいの言葉の緊張です。
だから、わたしはこう想像しました。「きっと主人公の少年は『きよしこの夜』と言おうとして、「きよしこ」のところで止まってしまったんだ。あとは「の夜」と発音すればいいだけなのに、どうしてもその言葉が出ない。そんな少年を描いたお話だろう」と思いました。ここでも半分だけ当たっていました。
主人公の少年は、やはり話すときにどもるようです。でも、途中でつまって「きよしこ」までしか発音できなかったのではなく、最初にこの曲を聴いたときに「星の光る夜、“きよしこ”という子が、我が家にやってくる歌なんだ」と少年はたしかに思ったのです。
わたしが驚いたのは、そこからでした。その少年は、幼いころのわたしにあまりに似ていたのです。少年はひとりっ子でした。3歳になる少し前までは……。そう、妹が生まれたのです。その前の数ヶ月だけ、少年は祖父母の家に預けられました。もちろん少年はおじいちゃんとおばあちゃんが好きでした。
その最初の日、朝早く目が覚めたので、両親を驚かせてやろうと全ての部屋のドアや襖を勢いよく開けては「おはよう!」と大きな声を投げかけながら、家中を走りまわった少年。でも、いつもそばにいたお父さんとお母さんの姿は、どこを探しても見当たりませんでした。そのときの小さな不安が、どもり始めたきっかけ……。
わたしにも同じ記憶があります。3歳下に妹がいます。妹が生まれるとき、わたしも祖父母の家に預けられました。わたしもおじいちゃんとおばあちゃんが大好きでした。ただ、預けられた理由は何も知りませんでした。……その年のクリスマスに、わたしは1番ほしかった超合金のイヌ型メカ“ヤッターキング”を、サンタクロースからもらいました。わたしは大喜びでした。
「さとしは、今年、本当によいこにしていたから、きっとサンタさんも見ていてくれたんだよ」……そう言われたことをしっかりと憶えています。わたしは本当に嬉しかったのです。でも心のどこかに、お母さんに会えない寂しさが残っていた気がします。妹が生まれたのは、それから数ヶ月後のことでした。
少年は小学1年生の冬、お母さんにクリスマスプレゼントは何がほしいかと訊かれたとき、2番目にほしいものを口にしていました。遠慮したわけではありません。1番ほしいオモチャの最初の言葉が発音できなかったのです。ただそれだけの理由。……少年はクリスマスイヴにプレゼントをもらったとき、ふいに悲しさでいっぱいになりました。気がつくとオモチャの飛行船の入った箱をタンスに向かって投げつけていました。
目には涙がウルウル溜まってきます。そして止めどなく流れていきます。少年は謝ることができませんでした。意地をはっていたわけではありません。「ごめんなさい」の「ご」が、何度言おうとしても、どうしても発音できなかったのです。
その夜、泣きながら眠ってしまった少年の前に“きよしこ”が現れました。他の友だちのようにからかったりせず、少年の話をちゃんと聴いてくれた“きよしこ”は、最後に「いいことを教えてあげる」と言いました。
「誰かになにかを伝えたいときは、そのひとに抱きついてから話せばいいんだ。抱きつくのが恥ずかしかったら、手をつなぐだけでもいいから」そしてこうも言いました。「それが、君のほんとうに伝えたいことだったら……伝わるよ、きっと」
きよしこは、いました。その少年の心の中にいて、1度だけ会ったことのある友だち。男の子か女の子かもわからない“きよしこ”と、少年はたしかに話をしたのです。 ……雪が降ってきました。今年はホワイトクリスマスになるのでしょうか。12月24日が近づくと、きっと少年は『きよしこ、の夜』に、そっと耳を傾けていることでしょう。
「メリークリスマス!」
少年のはっきりとした声がここまで聴こえてくる気がします。
2002.12.24
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