袴田自己批判・批判の共産党側資料

「3論文」と「党史」

 

〔目次〕

  1「スパイ挑発との闘争と私の態度 袴田里見」(「赤旗」1976.6.10)全文

  2「正義の闘争の光は消せない 袴田調書を悪用する策謀にたいして」(「赤旗」1976.6.24)全文

  3「スパイの問題をめぐる平野謙の『政治と文学』」小林中央委員(「文化評論」‘769月号)

  4「日本共産党の六十五年」「七十年」 スパイ査問事件、袴田批判の抜粋

 

〔関連資料〕

  (1)、『スパイ査問問題意見書(袴田・宮本陳述相違点の解決内容・方法)

  (2)、『スパイ査問事件と袴田除名事件…袴田政治的殺人事件の推理劇的考察』

  (3)、『スパイ査問事件の個人的体験』(宮地個人通信第十号)

  (4)、『作家森村誠一氏と「スパイ査問事件」』(添付)森村氏手紙、下里正樹氏手紙

  (5)、立花隆『日本共産党の研究』関係

    「『年表』の一部」、「加藤哲郎『書評』他」、「土佐高知『立花批判』他」

 ()他のHP文書では、1を「袴田論文」、2を「解説論文」、3を「小林論文」とし、それら3つを「3論文」としています。以下で太字個所は、私(宮地)がつけたものです。赤太字は真相と異なる、または誤った袴田自己批判個所および袴田批判個所です。青太字は袴田自己弁護個所です。4、「日本共産党の六十五年」「七十年」では、『六十五年』と『七十年』とを比較して、紫太字は『七十年』で削除された個所です。濃紺太字は追加されたものです。とくに紫削除個所は、共産党側に都合が悪い事項で、常任幹部会がなにを隠したいのかを明白に示しています。茶太字は1935年党中央委員会潰滅についての宮本氏の責任と自己批判をその前後でもまったく明らかにせず、袴田氏に責任転化した“見事な文”となっています。宮本氏の無責任と責任転化体質をこれほど露骨に表した党史記述はないでしょう。

『スパイ挑発との闘争と私の態度』

袴田里見 (「赤旗」1976.6.10)

 選挙ごとの自民党の後退、ことに田中金脈裳最近のロッキード疑獄事件などにみるように、対米従属と独占資本奉仕の自民党政治は、国民の批判をうけて危機的な状況にある。自民党勢力は、その危機を回避して反動支配を維持しつづけようと革新統一戦線の旗を一貫して高くかかげてかかげて自民党政治ともっともするどく対決する日本共産党が前進していることを恐れ、これに打撃をあたえて孤立させるために、各種の反共攻撃を強化している。

 しかし、日本共産党の政治路線は、広い国民の支持と理解をうけつつあり、それにたいする反共攻撃は、自民党などの反動性をかえって浮きたたせることにもなっている。そこで反動勢力は、わが党にかかわる過去のいろいろの問題をもちだしての反共攻撃にいっそう大きな力を注いでいる。とくに、治安維持法や特高警察に代表される戦前・戦時の絶対主義的天皇制の暗黒政治のもとで、その暴圧に屈せずたたかうわが党が非合法活動を余儀なくされていた条件のもとで生じた問題を、その客観的条件から切りはなして、また、事実をゆがめてとりあげて、それを一定の民主主義のある今日の日本の条件下にそのまま引きうつして、日本共産党が暗い恐ろしいものででもあるかのように逆宣伝している。

 『文芸春秋』の立花論文や民社党春日氏の違憲質問をはじめ、各種の反共勢力が、一九三三年のスパイ調査問題をとりあげて反共デマ宣伝を展開しているのも、その一つである。そのさいかれらは、若干の雑誌などで、警察署の取調べや裁判所の予審での私の調書や、戦後の私の著書『党とともに歩んで』の一部分を恣()意的にもちだしている。最近は私の予審調書や一部の公判調書が出版されてもいる。この問題について、すでに私自身、一月三十一日付「赤旗」に談話を発表したが、最近の状況もあるので、あらためて、これらについて必要な反論もくわえつつ、若干のことをのべておく。

 一九三五年の検挙以来一九四二年の控訴審までの七年間における私の陳述にかんする記録は、警察の聴取書や予審調書のほか、一審公判や控訴審公判のもある。陳述の内容としても、当時の情勢と党の活動、治安維持法や特高警察による弾圧の不当性、特高警察のスパイ挑発政策、スパイ挑発者摘発の正当性とそれについての党の方針、党中央に潜入していた特高警察の二人のスパイ挑発者(大泉兼蔵、小畑達夫)にたいする査問の経過等々、多岐にわたっている。

 そこでは私は、共産主義と日本共産党の正しさ、それを治安維持法で弾圧することの不当さなどを主張するとともに、一九三三年の大泉、小畑の査問を「党内派閥の指導権争いによるリンチ殺人」に仕立てようとする特高警察の筋書きにたいしても、当然断固としてたたかっている。同時に、査問状況についての警察や予審での私の陳述記録にはいろいろ不正確な点があり、一審や控訴審の公判陳述でかなり訂正もしたが、根本的な是正にまではいたらなかっにことも否定できない。私の陳述のこうしに全体的特徴については、「赤旗」党史班の論文に引かれてもいるように、すでに私や他の関係被告の判決確定(一九四二年十二月)後に再開された公判で、宮本同志も指摘している。そして宮本同志は、自分の公判で私を証人に喚問することも要求したが、これは裁判所によって拒否された。

 私が検挙された一九三五年三月四日までにはスパイ調査問題の関係者はすべて検挙され、警察での取調べの手続きも終わり、起訴されて予審が開始されていた。特高警察は、スパイの大泉の報告をもとに「党内派閥の指導権争いによるリンチ殺人」というデマをねつ出して大々的に宣伝し、検事もその線で起訴していた。小畑の死因についても、警察べったりの裁判所医務嘱託の宮永学而らによって、頭部に斧などで強力な打撃をくわえにための脳震盪による即死だという、「殺害」なるものを裏付けるかのような、でたらめな鑑定が出されていた。さらに、宮本同志はハ完全黙秘でたたかっていたが、関係被告の多くは転向して、特高警察の創作した筋書きに迎合する陳述をおこなっていた。転向者の陳述は大泉や小畑へのスパイ容疑の根拠が薄弱だったかのようにのべたり、宮本や袴田には殺意があったかもしれぬというようなまったく荒唐無稽のことをのべるなど、自分らは非転向の宮本同志や私の意見に追随しただけであるかのように印象づけようとする傾向を多分にもつものだった。

 こうした状況だったので、私は自己の主張をのべるべく、取調べに応じた。私は、共産主義と日本共産党の正しさへの確信が微動だにしない態度を明確にして転向に毅然として反対した。同時に、スパイ調査問題については、当時の状況のもとで、私の陳述の力点は、いきおい、スパイ挑発にたいするわが党の闘争を根本的にゆがめる「指導権争い」とか「殺害を共謀」とかいう特高警察の作った虚構に反論することにおかれた。どうしても、これらの点だけは特高警察の虚構を打破しようという意図であった。同時に、その結果、「暴行」うんぬんといった式の特高の主張については、それをいちいち反論してただすという点はきわめて不十分となった。

 私が、大泉や小畑にたいするスパイ容疑が多くのたしかな根拠にもとづくもので、査問によってそれが明白となって大泉と小畑も特高警察のスパイだったことを自認したことを明らかにし、スパイ挑発者の摘発の正当性を主張したことは、私の陳述記録をみてもわかる。また、査問にのぞむにあたっての基本方針として、党中央委員会が、スパイ挑発者にたいする党の最高の処分は党からの除名であって「殺害」などははんら党の方針ではないこと、大泉と小畑がスパイ挑発者であることを明確にしたうえで特高警察のスパイ挑発政策の実態を把握すること、査問を安全におこない、スパイ挑発者と連絡をもっていた党組織や党員を弾圧から避難させるために、一定期間スパイ挑発者を拘束するが、その後は釈放すること、を確認していたことも私は主張した。さらに私は、小畑が急死するときの実際の状況も、小畑の逃亡をとりおさえようとしただけであって、脳震盪をおこすよう事態ではなかったことを強調した。私の一審公判の記録をみれば、特高警察の言うままのでたらめな鑑定をした耗判所医務嘱託の宮永が私たちの反対尋問になんらまともな答えができなかった状態もわかる。

 私のこれらの主張点は、結社の自由にもとづく日本共産党の存在自体を治安維持法で禁圧し、特高警察が卑劣なスパイ挑発政策をもちいて迫害をくわえるようなことこそ、許しがにい犯罪だとする今日の民主的常識からみれば、きわめて当然のものであった。こうして、裁判の独立がない当時の反動的な暗黒裁判でさえ、査問を「指導権争い」として描くことはできず、「殺人」 「殺人未遂」といった特高警察の主張をしりぞけざるをえなかったし、私たちの主張をいれて古畑種基氏による再鑑定もおこなわれた。

 戦前の刑事訴訟法手続きでは、警察の取調べの記録である聴取書をもとに裁判所の予審がなされ、その予審調書を基礎に公判が進められた。また、裁判官人事も司法省が握るなど、事実上裁判の独立もなく、予審判事らは特高警察や思想検事の判断に依拠した。

 警察の聴取書は、一般的には、拷問、脅迫、長期の警察拘留による精神的肉体的衰弱につけこんで、被疑者や「共犯者」なるものに「自白」させ、それらをもとに警察が、どういう事件として送検するか、なにをその被疑者の「犯罪事実」とするかについての“構想”をまとめてから、それに合わせた尋問をして作られていく。関係者の検挙の約一年後に検挙された私の場合には、スパイの大泉の報告や他の関係者の陳述をもとに事件の筋書きがすでに作られていた。私は、前述のような意図から、取調べに応じた。

 裁判所の予審では、予審判事が聴取書をもとに尋問し、裁判所書記に調書を書かせていく。警察の取調べはもちろん、予審尋問でも、弁護人はつかず、「共犯者」なるものや証人を出席させて被告人からの反対尋問にさらすこともなく、予審判事が自分の都合に応じて、だれそれはこういっているがどうか″といった質問をするだけである。当時は公判も、予審調書をもとに裁判長が被告人を尋問する形ですすめられ、被告人の陳述もどうしても予審調書によって制約される。

 その結果、特高が作った事件の構想にもとづく尋問の内容の記録が、訴訟全体の出発点となり、また、密室の審理である予審の調書が、決定的意味をもった。こういう密室の審理では、取調べ側の主張が全体の基調となり、取調べ側の主張の矛盾の追求とか被告人に有利な事実や主張の解明とかはほとんど不可能である。その暗黒性は、治安維持法裁判ではとくにはなはだしい。

 査問状況にかんする私の不正確な陳述は、警察の取調べや予審という密室の審理のもとで生まれたものである。転向者への反発や、「指導権争い」とか「殺意」なるものの否定ということに主な力点をおいた陳述が、取調べ側の構想による問答の流れのなかで、結局、系統的は「暴行」なるものを自認するかのよう陳述になった。そして、公判での陳述も、以前の陳述をかなり訂正はしにものの、密室のなかでの予審調書による制約をまめがれなかった。エンゲルスは「予審では、いっさいの調書は被告の陳述をすりかえ、いろんに手管をもちいて被告を説得し、署名させるようにつくられるものだ」とのべたことがあるし、宮本同志は、警察の取調べや予審におけるいっさいの陳述を拒否してたたかった。

 私は、転向に反対し、スパイや転向者の供述をもとに特高警察が作りあげた「指導権争い」 「殺人」といった主張に反論する意図から、警察の取調べや予審に応じたのだったが、不正確な陳述を必然的にともなう密室の審理に応じたことは誤りであり、私はその教訓を明確かつ厳正にうけとめている。四十年前のことではあるが、私が非転向であったことも逆用しつつ、私の調書の一部が現に反共宣伝に使われてもいるので、私の反省を明確にしておくものである。

 スパイ調査問題の事実問題についての私の見地は、一九四六年一月に宮本同志と連名で発表した「われらは抗議す」や、一九四七年一月に東京地方検察庁に資格回復措置を宮本同志とともに要求したさいの「申請理由」などにしめされている。そこでは、「官憲が捏造的に発表した『私刑(リンチ)行為』なるものは基本的において秘密警察の悪意の創作にすぎない」(「われらは抗議す」)、「小畑は殺害されたものではなく、特異体質にもとづく死あるいは心臓死によって予期されない死亡を遂げたものである。政治犯人に何等の好意を持たない鑑定医さえ、脳震盪を起こすよう損傷も打撃もないと証明してショック死と推定した。われわれは、むしろ心臓麻痺と推定する方が妥当だと公判廷で主張したのである」 「この事件は治安維持法のほか、不法監禁その他幾つかの罪名をつけられたが、これらは共産党の活動そのものが非合法であり不法であるという前提に立ったものである」 「『傷害致死』という罪名について見るに・・・・・・とくに重大な損傷のなかったことは鑑定書さえ証明したのであるから、この罪名も結局、変節者の陳述によって推定的に加えられたものに過ぎない」(「申請理由」)等々のことがのべられている。

 私の陳述記録をもちだして「リンチ」なるむのをうんぬんしても、それは、スパイ調査問題の真実をゆがめての反共宣伝であり、戦前・戦時の暗黒政治の背骨の重要な構成部分であ治安維持法と特高警察、不公正な司法制度に無批判な点でも、論者の反民主主義的姿勢をしめすにすぎない。

 一部の反共分子たちは、私の著書『党とともに歩んで』から、大泉や小畑の査問状況についてのべた部分や、解剖検査記録や古畑再鑑定についてのべている点などを恣意的に引用することもやっている。

 しかし、これらの点についての私の著書の叙述には不正確な点もあるが、論者たちの手法は、主に、自分の主張に好都合とみえるところだけを恣意的にとりだしただけである。このことは、すでに「赤旗」党史班の論文「反論を避けた『反論』」(「赤旗」一月十一〜十六日付)でも指摘しているとおりなのでくりかえさない。

 戦後、宮本同志や私が釈放されたときの経過についての私の著書の著述の一部をひきあいに出すものもある。この点についても、すでに一月三十日の私の談話(「赤旗」一月三十一日付)で明らかにしている。最近発表された当時の連合軍文書によって、政治犯釈放などにかんする一九四五年十月四日の連合軍覚書が、治安維持法違反のほかに刑法上の罪名があれは釈放しない趣旨だったという議論がまったく誤っており、宮本同志や私につけられた刑法上の罪名が治安維持法を前提にして付随的につけられたもので、二人とも連合軍覚書で釈放すべき政治犯として釈放されたという経過が、いっそう明かになった。

 なお、私のこの著書のなかで事実問題などでの不正確な個所はいずれ適当な是正をするつもりであることも、一月三十日の談話でのべておいたとおりである。

 民社党春日氏や稲葉法相らの、治安維持法や特高警察を擁護する一連の発言などによって、一九三三年のスパイ調査問題や私たち戦後の釈放と復権をめぐるかれらの議論が、真実の究明などとはまっにく無縁で、反共の党利党略に立って、治安維持法や特高警察やそれらによる暗黒裁判を「復権」させようとするものであり、日本型ファシズムヘの道をすすむ意図に結びついたものであることは、今日ではいよいよ明白となっている。反動勢力やそれに呼応する民社党春日氏らのこうした危険な陰謀にたいして、われわれは今後とも断固としてたたかわなければならない。

 一九三三年のスパイ調査問題の直接の当事者で現在も党員として健在なのは、宮本同志と私の二人であり、この問題をめぐる今日の闘争で私がもつ責任は当然大きい。暗黒政治の復活を許さないために、私は、これにたいして今後ともいっそう断固としてたたかっていくものである。

 

『正義の闘争の光は消せない

袴田調書を悪用する策謀にたいして』

 

(赤旗解説論文 1976.6.24)

 

侵略戦争、暗黒政治の時代遅れの弁護者たち

 戦犯政治擁護の立場に立つ反共デマ宣伝

 問い 戦前のいわゆるスパイ調書事件について、民社党などがさかんに反共宣伝をやり、自民党や公明党も演説会などで同じようなことをいっていますが……。

 答え このスパイ調査事件について忘れてならないことは、戦前において反戦平和と民主主義のためにたたかう唯一の党である日本共産党にたいして、これを弾圧、破壊するために、特高警察が卑劣なスパイ挑発の策動に訴えた公明党特高警察に、最大の問題があるということです。特高警察によって当時の党に送りこまれたスパイ挑発者は、党員を検挙させて小林多喜二の場合のように虐殺の道に追いやったり、特高の命令で銀行強盗までやって、共産党を破壊しようとしていました。

 こういうことはけっして許されない暴挙であり、現在ではだれであろうとこれを当然視することはできないはずです。宮本現委員長や袴田副委員長らの党中央委員会は、そのスパイ挑発者を摘発して、日本共産党の正義の旗を守ったのです。民家の一室でおこなわれたその摘発、調査も、スパイ挑発者にたいする「党の最高処分は除名」という節度ある態度でおこなわれたのです。そのなかで、スパイの一人が突然急死するという不幸な予期せぬ偶発事がおこったのです。これらは、宮本氏の公判記録でもわかることです。こういう全体を見失って、スパイ調査事件を正しくみることはできません。

 当時の特高警察は、この事件を「リンチ共産党事件」などとでっちあげて謀略的なデマ宣伝をおこないましたが、民社党、自民党や公明党などは、そのデマ宣伝を四十年後の今日くりかえしているのです。治安維持法で日本共産党を「国賊」とよび、卑劣なスパイ挑発活動、でっち上げとデマ宣伝までして共産党を弾圧した勢力は、あの無謀な侵略戦争に日本国民をかりたてて、三百万の日本国民を死に追いやり、何千万ものアジア諸民族にはかりしれない犠牲をしいました。自民党や民社党などはその戦犯勢力によってつくられ、戦犯勢力を今日もうけついでいる政党です。今日、特高警察の権力犯罪は問わずに、スパイ調査問題をもちだして反共デマ宣伝をくりかえしているものたちは、戦犯政治を擁護し現憲法の民主主義の原則に反対する側に立っているといわなければなりません。

 法医学的にも否定されたことを持出して

 問い そのスパイ調査事件について、袴田里見現副委員長の調書が雑誌や単行本などに「資料」としてのせられ、それを引用して、これが真相などというものもありますか、どうなのですか。

 答え 袴田同志の警察での調書などがあるのは事実です。袴田調書の全体的な特徴や問題点などについては、袴田里見副委員長自身、最近もみずから明らかにしています(「赤旗」六月十日付の「スパイ挑発との闘争と私の態度」)。

 当時宮本委員長らが調べた大泉兼蔵と小畑達夫の二人が特高警察が党内に潜入させていたスパイ挑発者であったことや、処分として「殺害」などなんら意図されていなかったことは、袴田調書でも強調されています。査問の経過などについては、袴田調書には不正確な部分が少なくなく、袴田調書からその部分だけをもち出して、「真相」などといっている一部の人びとがいますが、それはまったく不当です。

 問い それにしても、袴田調書を読むと、「斧(おの)で頭を殴(なぐ)った」、「硫酸を腹にかけた」、「錐(きり)で腹を突いた」など、すいぶんひどいことをしたようになっていますが……。

 答え そういう査問状況にかんする個所こそ、袴田調書のなかでいちばん事実と違うところなのです。

 特高べったりの裁判所医務嘱託(かつて、十五歳の少年の死体を警察のいうままに五十歳の成人男子として鑑定した経歴の持主)の鑑定によっても、そんな痕跡は全然ありませんでした。大泉のひどい傷などというのも、当時の裁判所さえ認めなかったのです。

 いま質問であげられたような点は、袴田氏自身、のちの公判で取消しや訂正をしていることです。

 “密室審理”の調書に無批判のデマ

 問い 小畑をとりおさえたときの状況について、袴田調書では一人が小畑の頚(くび)をしめたなどとあり、また、袴田氏の戦後の著書では皆で小畑をとりおさえると小畑はぐっにりとなってしまったなどとあって、皆でおさえつけて死にいたらしめたような印象をうけるのですが……。

 答え 小畑の頚をしめたというのは誤りで、袴田氏自身、のちに予審や公判で訂正しています。小畑がぐったりというのも、小畑が結局は不幸にも死んでしまったことが明らかになってからの印象をのべたもので、小畑がとりおさえられて静かになったそのときには、小畑の様子がおかしいなどとはだれも思わず、逃亡を断念したのだと思ってひと安心していたというのが、実際です。

 特高警察は、最初は、頚をしめて殺したといい、つぎには頭部を斧などでなぐったための脳震盪(のうしんとう)死だといいましたが、いずれも法医学的にも否定されました。古畑種基氏による再鑑定は「外傷性ショック死」と推定しましたが、「外傷性ショック死」の原因となる筋肉挫滅(ざめつ)がなく、結局、特異体質によるショック死(普通の人ならこたえない軽い心理的その他の刺激で死ぬ「神経性ショック死」)、あるいは急性心臓死とみるのが妥当です。だから、「死にいたらしめた」などというのも成りたたないのです。この点は、『前衛』七六年九月号に載った中田医師の詳細な研究論文でも主張されています。

 問い 袴田氏は、なぜ、そういう事実と相違する陳述をしたのですか。

 答え そういう陳述は、当時の制度としての、特高警察の取調べや予審という密室での審理によって生まれたのです。警察の取調べや予審は、弁護人もつかず、証人を同席させて反対尋問にさらすということもしない、つまり密室の審理であり、そこで取調べ側が、「リンチ共産党事件」などという一方的“構想”にもとづいて尋問し、それに応答したことや書いたのが、調書です。

 袴田氏は、「党内派閥の指導権争いによるリンチ殺人」という特高のデマに反対して自分の主張をのべようとして取調べに応じたのですが、陳述の力点は「指導権争い」とか「殺害」とかに反論することにおかれ、「残虐なリンチ」うんぬんといった特高の主張への反論はきわめて不十分となりました。それが、密室の審理のなかで、系統的な「暴力」なるものを自認したかのように書かれていったのです。

 戦前の刑事訴訟手続きでは、警察の調書によって予審がなされ、予審調書にもとづいて公判がすすめられましたから、袴田氏も、公判で以前の事実と違う陳述をかなり訂正したものの、以前の調書に制約されて、根本的な是正にはいたらなかったのでした。

 こういう訴訟手続きだけとってみても公正な裁判でないことは明らかなので、戦後は、現憲法の施行とともに予審制度は廃止され、密室で作った調書は証拠能力がないものとされています。こういうことに無批判で警察の取調べや予審の調書をもち出すのは、民主的常識に反することです。

 当時は、多くの人びとが警察や予審の取調べに応じており、袴田氏が特高のデマに反論してたたかったことはもちろんですが、袴田氏は、それで自分のとった態度をすべて当然視するようなことはせず、警察や予審の取調べに応じたことが正しくなかったことを、みずから率直に明らかにしています。

 戦前から真実を主張した宮本陳述

 問い 袴田調書が事実と違うということを、共産党はいまになっていいだしたのではないですか。

 答え そうではありません。すでに当時のこの件にかんする裁判のなかで、戦時下の暗黒裁判でしたが、それとたたかって宮木顕治氏が明らかにしています。

 宮本氏の公判は、氏の病気のため中断され、一九四四年(昭和十九年)に再開されたときには、袴田氏ら関係被告の裁判はすべて終わっていました。宮本氏は、全関係被告の陳述記録や一審、二審の判決はもとより、各種の鑑定書や証言など、訴訟に関係ある全記録を丹念に調べ、具体的に検討、批判を加え、反動権力のでっちあげを科学的に暴露しました。宮本氏のこの公判での陳述は、『前衛』八月号に発表されており、近く単行本も発行されます。

 宮本氏は、袴田氏の陳述の事実に反する点についても、具体的に指摘しています。検事も裁判長も、そういう宮本氏の陳述にたいして、反論はおろか、質問一つできませんでした。宮本氏は、袴田氏の陳述をただす意味もあって、袴田氏を四人の証人の一人として喚問するよう公判で要求しましたが、裁判所は四人余部を却下して、真実究明をこばみました。この経過をみても、宮本氏の陳述こそ、スパイ調査事件の真実を知る出発点となるものなのです。

 問い そうすると、袴田氏の闘争の意味はどういう点にありますか。

 答え 当時、検挙され裁判にかけられた人びとの多くが転向するなかで、袴田氏が、終始一貫、共産主義と日本共産党の正しさを主張し、どんなことがあっても革命運動をつづける決意をたえず毅然(きぜん)として表明してたたかったことは、歴史的に大きは意義をもっており、今日のわれわれをはげますものです。スパイ調査事件をめぐる闘争においても、「指導権争い」だの「殺害を共謀」だのという特高警察のデマを粉砕するためにたたかいました。

 宮本氏や袴田氏らのたたかいによって、「指導権争い」だの「殺害を共謀」だのというデマはくずれ、さすがの反動裁判も「殺人」「殺人未遂」を認定することはできませんでした。しかし、反動裁判は、時の政府を批判するものをすべて禁圧する治安維持法によって、日本共産党の存在そのものを重罪視し、証人喚問拒否など暗黒裁判によって特高警察のねつ造した筋書きを大筋ではうけて、「治安維持法違反」のほかに「不法監禁」だの「傷害致死」だのという罪名を勝手にくっつけて、治安維持法にもとづいて無期懲役(宮本氏)や懲役十三年(袴田氏)という重刑を不法にも科しました。民社党などは、治安維持法のもとでの特高のデマ宣伝や暗黒裁判の判決などをよりどころにして、いま反共デマ宣伝をやっているのです。

 このように、治安維持法、特高警察、暗黒裁判という全体をよくみる必要があり、そういうなかでの所産である袴田調書の、事実と合致しない一部だけを勝手にとりだしても、スパイ調査事件の真実を知ることはまったくできず、反共宣伝になるだけであり、そういうことをする民社党や自民党や公明党などの、戦前の暗黒政治を事実上免罪する、反民主主義的、後進的姿勢をしめすだけです。

 

「スパイの問題をめぐる平野謙の『政治と文学』」

 

小林栄三中央委員・元宮本秘書

 

(「文化評論」19769月号)

()この内容は、平野謙批判の形をとりながら、2つの事実問題での宮本陳述内容と1976年時点での『すべて事実無根のでっち上げ』発言の100%擁護、袴田陳述内容の全否定をしたものです。その否定において、驚くべき卑劣な詭弁を多用しています。「スパイ査問問題意見書」の第二章『詭弁的論理使用』で、その詭弁批判を全面的にしてあります。ただし、「小林論文」は長文ですので、「意見書」文末に〔資料(1)、(2)〕部分のみを抜粋掲載してあります。


『日本共産党の六十五年』『七十年』

スパイ査問事件と袴田除名事件の抜粋

〔目次〕

  11933年12月スパイ査問事件 『日本共産党の六十五年』(P.75) (1988年発行)

  21933年12月スパイ査問事件(2) 『日本共産党の七十年』(P.107108) (1994年発行)

  31978年1月袴田除名事件 『日本共産党の六十五年』(P.393395) (1988年発行)

  41978年1月袴田除名事件(2) 『日本共産党の七十年』(P.7172) (1994年発行)

 ()以下で太字個所は、私(宮地)がつけたものです。赤太字は真相と異なる、または誤った袴田自己批判個所および袴田批判個所です。『六十五年』と『七十年』とを比較して、紫太字は『七十年』で削除された個所です。濃紺太字は追加されたものです。とくに紫削除個所は、共産党側に都合が悪い事項で、常任幹部会がなにを隠したいのかを明白に示しています。茶太字は1935年党中央委員会潰滅についての宮本氏の責任と自己批判をその前後でもまったく明らかにせず、袴田氏に責任転化した“見事な文”となっています。宮本氏の無責任と責任転化体質をこれほど露骨に表した党史記述はないでしょう。

1933年12月スパイ査問事件

『日本共産党の六十五年』(P.75) (1988年発行)

 警察当局は、自分たちのスパイ・挑発政策が暴露されたことへの報復として、査問の途中でおこった小畑の急死(一九三三年十二月)という予期しない偶発事をとらえて、三四年一月から、これを「共産党内の派閥争いによる殺人事件」だとするデマ宣伝を大々的におこない、共産党非難の世論をつくりあげようとした。すでに軍部に屈服して侵略戦争をあおるキャンペーンの具となっていたジャーナリズムは、党への弾圧についても、特高の発表をまるのみにした報道に終始し、日本共産党を国賊、強盗、殺人鬼でもあるかのようにえがきだした。しかし、このデマ宣伝はその後の公判において、全面的にうちやぶられた。

 最後の中央委員であった袴田里見にもこの時期、セクト的、官僚的な態度をとり、スパイでないものまでスパイあつかいして連絡を切断し、党組織を解体するなどの重要な誤りがあった。

 最後の党中央委員袴田里見が、あとをつぐべき中央委員をもうけないまま一九三五年三月に逮捕され、中央委員会は消滅した。


1933年12月スパイ査問事件()

『日本共産党の七十年』(上P.107〜108) (1994年発行)

 スパイの手引きによる一連の弾圧にたいして、調査委員会を組織して党組織の被害状況とその原因を調査し、党中央委員会に潜入していた大泉兼蔵、小畑達夫の摘発(一九三三年十二月)をはじめ、重要なスパイの一群を摘発することができた。

 スパイ活動の詳細を調査中、小畑の内因性の急性心臓死とみられる不幸な急死という予期せぬ突発事がおこり、調査は中止された。

 獄外にのこされた最後の中央委員であった袴田里見にもこの時期、セクト的、官僚的な態度をとり、スパイでないものまでスパイあつかいして連絡を切断し、党組織を解体するなどの重大な誤りがあった。(P.113)

 袴田里見が、あとをつぐべき中央委員をもうけないまま一九三五年三月に逮捕された。


1978年1月袴田除名事件

『日本共産党の六十五年』(P.393〜395) (1988年発行)

 この時期に、袴田里見はもっとも悪質な党攻撃を開始した。

 七七年十二月下旬、かねてから規律違反で調査中の袴田里見が、『週刊新潮』(七八年一月十二日号)に「党規違反を承知上で」党と宮本委員長を攻撃する反共手記を発表しようとしていることが判明した。統制委員会は、ただちにこの問題を審議し、十二月三十日、袴田を除名処分することを決定し、常任幹部会はこの決定を承認した。七八年一月三日、書記局は「袴田里見の除名処分について]を発表、「赤旗」(一月四日)に「袴田里見の党規律違反と反党活動について」とあわせて掲載した。袴田は、七六年十二月の総選挙直後の常任幹部会会議で突然党と党指導部を攻撃したが、まもなく、無規律な言動などかれの規律違反問題があることがあきらかになってきた。この規律違反について調査をすすめていく過程で、袴田が以前から党にたいするひぼう中傷を各所で無規律におこない、党中央に反対する自分の同調者をつくろうとする分派活動をおこなっていた事実、さらに重大な規律違反として、党にかくれて七七年一月、ソ連共産党中央委員会(当時、日本共産党への大国主義的干渉の全面中止と両党関係の回復をめぐって緊張した交渉がおこなわれていた)に個人的使者をおくっていた事実、野坂議長をスパイとしておとしいれる陰謀を、一九七〇年から七年間にわたって、日系米人ジェームズ・小田なるあやしげな人物(元米軍情報部員)と組んですすめてきた事実などがしだいにあきらかとなった。党は古い幹部である袴田に反省の機会をあたえ、その晩節をまっとうするよう努力をつくしたが、袴田は、党に打撃をくわえようとして、七七年十二月、ついに名うての反共週刊誌に党をひぼうした“手記”を発表するにいたった。

 袴田は、戦前の治安維持法等被告事件での獄中闘争で、当時の党の決定に反して警察や予審で黙秘をつらぬかず、党の組織について供述したり、事件についても特高のでっちあげに乗ぜられるような不正確な供述をしたりする弱点があったが、非転向はまもった。党は、袴田が学習をおこたり、理論水準が低く個人中心主義がつよいなどさまざまな欠陥をもっていることを知っていたが、戦前からの数少ない非転向の幹部として配慮をくわえてきた。ところが袴田は、愛党の念からの周囲の一定の敬意や配慮にたいして、みずからをいましめるのでなく、それにあぐらをかき、幹部としての地位を「身分」のように心得て、慢心をつのらせた。袴田は、党の発展とともに、若い幹部の抜てきと古くからの幹部の保全との結合という党の幹部政策にもとづいて、若い幹部が中央指導部にはいるようになってくると、みずから副委員長の重責にありながら、職責を発揮できる能力に欠けてきたことを反省せず、自分が直接党機構を、うごかす中心にいないことに陰湿な不満をもつようになった。

 戦前の獄中闘争での非転向を自己の最大の栄光として周囲に誇示してきた袴田は、立花論文など治安維持法等被告事件についての反共攻撃がいっせいに展開されるなかで袴田の調書の一部が反共勢力に利用され単行本などに掲載され、獄中闘争の弱点があきらかになると、自己のかっての弱点をすすんで明確に自己批判して反動勢力の攻撃にき然としてたちむかおうとはせずに、逆に、みずからの弱点を合理化するうえで最大の障害になる、もっとも原則的な態度で不屈の獄中闘争をたたかった宮本委員長に不満のほこさきをむけ、個人的なえん恨をいだくにいたった。

 袴田は、こういう立場から、党の総選挙での後退を最大の機会と考え、ここで公然と攻撃の旗をあげれば、あれこれの不満分子が自分を支持するだろうとの目算で、突然、無軌道な党攻撃を開始した。しかし、その目算はみごとにはずれた。

 党は七七年十月の第十四回党大会で袴田が中央役員として不適格であることが明確なので、かれを中央役員に選出しなかった。袴田は、これを自己反省する機会としてとらえず逆に、えん恨と焦燥をつのらせ、分別をまったくうしない、公安当局筋に射おとされて、反共週刊誌で党を攻撃するという決定的転落にふみだした。かれは、一般紙やテレビにも登場して、ひぼう中傷を党にくわえ、マスコミも、商業的投機主義から大々的に袴田問題をあつかい、党について誤解をうむ不正確な記事や袴田の一方的ないい分を報道した。さらに袴田は、『週刊新潮』七八年一月十九日号て野坂議長を戦前からのスパイ呼ばわりし二月二日号やサンケイ新聞(二月二日)では宮本委員長を殺人者と断定して、名誉棄損の攻撃にまでうったえるなど反共毒素を広範にふりまいた。


1978年1月袴田除名事件(2)

『日本共産党の七十年』(下P.71〜72) (1994年発行)

 この時期に、副委員長袴田里見がもっとも悪質な党攻撃を開始した。七七年十二月下旬、規律違反で調査中の袴田が『週刊新潮』(七八年一月十二日号)に「党規違反を承知の上で」党と宮本委員長を攻撃する反共手記を発表することが判明した。統制委員会は、十二月三十日、袴田を除名処分することを決定し、常任幹部会はこの決定を承認した。七八年一月三日、書記局は「袴田里見の除名処分について」を発表、「赤旗」(一月四日)に「袴田里見の党規律違反と反党活動について」とあわせて掲載した。

 袴田は、七六年十二月の総選挙直後の常任幹部会会議で、突然、党と党指導部を攻撃したが、まもなく、規律違反問題があきらかになってきた。調査過程で、袴田が以前から党にたいする誹謗中傷を無規律におこない、党中央に反対する同調者をつくる分派活動をおこなっていた事実、さらに重大な規律違反として、党にかくれて七七年一月、ソ連共産党中央委員会 (当時、日本共産党への覇権主義的干渉の全面中止と両党関係の回復をめぐつて緊張した交渉がおこなわれていた)に個人的使者を送っていた事実などがあきらかとなった。党は古い幹部である袴田に反省の機会をあたえ、その晩節をまっとうするよう努力をつくしたが、袴田は、党に打撃をくわえようとして、七七年十二月、ついに反共週刊誌に党を誹謗する“手記”を発表するにいたった。

 袴田は、戦前の獄中闘争で、当時の党の決定に反して警察や予審で黙秘をつらぬかず、党の組織について供述したり、特高のでっちあげに乗ぜられるような不正確な供述をしたりする弱点があった。袴田は、理論水準が低く、個人中心主義がつよいなどさまざまな欠陥をもっていたが、党は変節しなかった戦前からの数少ない幹部として配慮をくわえてきた。ところが袴田は、周囲の一定の敬意や配慮にたいして、みずからをいましめるのでなく、それにあぐらをかき、幹部としての地位を「身分」のように心得て、慢心をつのらせた。しかも、袴田は、五〇年問題以降、資金提供をふくむソ連との内通関係を継続し、党員としての原則的見地をうしなっていたことも、その後あきらかになった。

 袴田は、立花論文など治安維持法等被告事件についての反共攻撃がいっせいに展開されるなかで、戦前の袴田の調書が反共勢力に利用され、獄中闘争の弱点があきらかになると、自己のかつての弱点をすすんで明確に自己批判して反動勢力の攻撃に毅然としてたちむかおうとはせずに、逆に、もっとも原則的な態度で不屈の獄中闘争をたたかった宮本委員長に不満のほこ先をむけ、個人的な怨恨をいだくにいたった。袴田は、党の総選挙での後退を最大の機会と考え、ここで公然と攻撃の旗をあげれば、あれこれの不満分子が自分を支持するだろうとの目算で、突然、無軌道な党攻撃を開始した。しかし、その目算はみごとにはずれた。

 袴田は、一般紙やテレビにも登場して、誹謗、中傷を党にくわえ、マスコミも、大々的に袴田問題をあつかい、党について誤解をうむ不正確な記事や袴田の一方的ないい分を報道した。さらに 『週刊新潮』七八年二月二日号やサンケイ新開(二月二日)で宮本委員長を殺人者と断定して、名誉棄損の攻撃にまで訴えるなど反共毒素を広範にふりまいた。

〔関連資料〕

  (1)、『スパイ査問問題意見書(袴田・宮本陳述相違点の解決内容・方法)

  (2)、『スパイ査問事件と袴田除名事件…袴田政治的殺人事件の推理劇的考察』

  (3)、『スパイ査問事件の個人的体験』(宮地個人通信第十号)

  (4)、『作家森村誠一氏と「スパイ査問事件」』(添付)森村氏手紙、下里正樹氏手紙

  (5)、立花隆『日本共産党の研究』関係

    「『年表』の一部」、「加藤哲郎『書評』他」、「土佐高知『立花批判』他」