作家森村誠一氏と「スパイ査問事件」

(宮地作成)

 〔目次〕

   1、『赤旗』連載開始と中断の真相

   2、「スパイ査問事件」の真相

   3、連載突然中断における民主主義、党内民主主義の真相

     (添付資料)、(1)、森村誠一氏の手紙、(2)、下里正樹氏の手紙

 

 (関連ファイル)

   (1)、『スパイ査問問題意見書(袴田・宮本陳述相違点の解決内容・方法)

   (2)、『スパイ査問事件と袴田除名事件…袴田政治的殺人事件の推理劇的考察』

   (3)、『スパイ査問事件の個人的体験』(宮地個人通信第十号)

   (4)、袴田自己批判・批判の共産党側資料、「3論文」と「党史」

   (5)、立花隆『日本共産党の研究』関係

      「『年表』の一部」、「加藤哲郎『書評』他」、「土佐高知『立花批判』他」

 『何をいまさらスパイ査問事件か』『それはすべて決着ずみ』という考えの方が多いでしょう。今までは、外部の、主として反共勢力が、共産党、宮本攻撃のために「スパイリンチ殺人事件」として使い、共産党側がそれに受動的に対応するという構図でした。しかし今回は、党外作家の森村氏が、それを党の側から取り上げることを提案し、党中央との合意により「スパイ査問事件」の真相に赤旗連載という形で、党自らが積極的に迫るという構図となりました。

 ただそれが好評連載中に、突如、理由不明のまま、連載中断、担当赤旗記者の査問、処分という党の内部論争、意見対立として浮上することになりました。従来の受動的姿勢からの根本的な転換があり、森村氏との絶縁問題にも発展した以上、『事件はすべて解明ずみ』ということでは見過ごせない性質を持つに至りました。ここには三つの問題が存在し、それぞれの真相はどうなのかを考えてみます。

  第一の問題は、「スパイ査問事件」の連載開始の経過と、その突然の中断の真相です。

 開始の経過は明白です。「日本の暗黒 実録・特別高等警察」は一九八九年十二月に、赤旗連載が始まりました。これは国会での浜田幸一議員の質問をテレビで見た作家森村氏が『この問題を徹底的に明らかにしたらどうか』と赤旗編集局に進言し、連載企画が進行しました。そして「日本の暗黒」の第一の柱として「スパイ査問事件」を取り上げることで、両者の合意が成立しました。連載の取材、執筆メンバーは三人で、森村氏と赤旗記者下里正樹氏、他一名でした。連載は好評で、一九九一年六月、いよいよ同事件に筆が進みそうになった直前に、突然の連載中断となったのです。

 問題は、一年半連載後の中断の真相です。

(1)、赤旗・・納得できるような中断理由を明らかにしていません。二回の「赤旗評論特集版」での下里氏批判の記事でも、それについて何ら触れていません。

(2)、森村氏・・提案者であり、題名の命名者でもあり、連載第一回からパネリストとして執筆してきたのに、中断について何の事前相談も受けませんでした。合理的理由もない突然中断に対して、森村氏は党中央に抗議し、党と絶縁しました。

(3)、下里氏・・宮本議長が、突然『スパイ査問事件を書いてはならん』と言って、無理やりの中断になった。そこには一九三〇年代の自分の事件について書かれたくないという一人の党指導者の変心と利己主義があり、宮本氏の突然の判断や利己心が優先するという党の体質がある、と下里氏はしています。

 はたして、中断の真相は何なのか、宮本氏の変心が原因とすれば、それはなぜなのかを、念頭に置きながら、次の問題に移ります。

   第二の問題は、「スパイ査問事件」の真相についてです。

 この事件でまだ未解明、未解決の問題が残っているのか。また、いまさらそれを党の側から赤旗連載で解明すべき必要があるのかという疑問が起きます。そこで、なぜ森村氏は『この問題を徹底的に明らかにする』ことを提案し、党中央、宮本氏はなぜそれに合意したのかということです。それは両者の間に、この問題には未解明の部分があり、国民の中にもそれへの疑惑がまだ残されており、今回は党自らが積極的に残された問題を解明していくべきという共通認識が存在していたことを示しています。

 この事件の性質のとらえ方には、二種類があります。

 第一の種類は、反共勢力の側からの『スパイリンチ、殺人事件』というとらえ方です。

 それに対し党は、『スパイ査問』であり、(1)、リンチも殺意もなく、(2)、小畑は査問中での内因性の急性心臓死であったという対応です。

 第二の種類は、一九七六年、立花隆「日本共産党の研究」が発表された時期でのとらえ方です。

 他のマスコミもこの事件を大々的に取り上げた中で、平野謙氏などによる、袴田陳述と宮本陳述との相違を突いた、査問中の暴力行為の有無をめぐる応酬です。

1)、平野氏、マスコミ・・ピストル、針金、斧、硫酸が存在し、リンチがあった。

2)、袴田陳述・・それら器具の存在を認め、多少の殴る、蹴るを認める内容。

3)、宮本陳述・・自分のピストルの存在は認めるが、他の器具の存在は知らないとして、殴る、蹴るなどの暴力行為は一切なかったとする内容。

 そこでの共産党の反撃大キャンペーンは、袴田陳述内容を全否定し、宮本陳述が100%真実であるとする内容で貫徹されていました。

 事件の当事者は、宮本、袴田(非転向)、秋笹(当初非転向、公判途中から転向)、逸見、木島(転向)、大泉、小畑(スパイ査問対象者)ですが、その六人の警察聴取書、予審尋問調書、公判記録、確定判決文、古畑鑑定書等の膨大な量の資料がほとんどすべて公表されました。その出版状況のなかで、宮本氏や共産党のいう『器具はピストル以外は存在しなかったし、その使用もない』『殴る、蹴るなどの暴力行為は一切なかった』という説明に対し、多くの国民は『スパイ査問が、そんなきれいごとですんだのか』との疑惑を持ち、共産党の反論に不自然さを感じたのです。

 一九七六年時点での応酬は、宮本陳述と袴田陳述との比較だけにかたよっていました。今回は、関係者六人の陳述内容の比較で考えてみます。ただ宮本氏は、第一審の二十一回の公判陳述のみであるのに対して、他の五人は公判陳述以外の警察聴取書、予審尋問調書での陳述内容も含まれます。

 第一の器具の存在についてです。

1、細引の存在・・宮本を含め六人全員が一致。

2、ピストルの存在・・・宮本を含め四人が一致。

3、斧、硫酸瓶、針金、タドンの存在・・・宮本以外の五人が一致。

 第二は、それらの器具の使用の有無、および殴る、蹴る等の暴力行為の有無とその程度です。

 ただ六人の陳述内容は微妙に異なり、また自己行為の自認陳述と他人行為の目撃陳述の区分があります。それらの詳細を書けば膨大になりますので、基本的に一致か、不一致かだけを述べます。

4、斧の軽い使用、小突く、コツンと叩く ・・・宮本以外の五人が一致。

5、硫酸瓶の存在と、それを垂らすと脅かす・・・宮本以外の五人が一致。

6、タドンを足の甲に一回のせる、くっつける・・宮本以外の五人が一致。

7、殴る、蹴る、ただし三回から数回   ・・・宮本、秋笹以外の四人が一致。

 ただし、秋笹は「殴る、蹴る」を否認したのではなく、陳述内容で触れていないということです。

 この六人の陳述内容を比較検討すれば、そして袴田非転向、秋笹公判途中までは非転向の立場を考慮に入れれば、宮本氏一人の陳述内容よりも、五人一致の陳述内容の方が真相に近いという判断が成り立ちます。

 そこで問題となるのは、この 4から 7の四つの行為の性質、程度をどう規定するかということです。特高、反共勢力は、それを一貫して『リンチ』としてきました。共産党は、宮本陳述どおりに『殴る、蹴るなど一切なかった』『すべて事実無根のでっち上げ』と四つの行為を全面否定し、宮本陳述内容を100%真実としました。一方でその論理的帰結として、袴田陳述内容を全面的に批判、否定しました。その論調は『袴田陳述内容は、系統的計画的な暴行を自認するかのような陳述』『事実無根のでっち上げへの迎合』と断定し、袴田氏にその趣旨で自己批判書を書かせ、赤旗に発表させました。

 しかし六人の陳述内容を比較した結果では四つの行為についての五人の陳述内容は、細部では異なっていても、基本的に一致しており、しかも五人の誰も計画的な暴力行為、系統的な暴力行為を認めていません。即ち、五人が認めた四つの行為の程度は、リンチといえるものでは決してありません。一九三〇年代のスパイ査問では、当然の程度の非計画的で非系統的な、かつその付随的手段としての暴力行為といえるものでした。

 スパイ査問事件の二つの未解明問題の真相が、上記の判断どおりとすると、次に別の問題=政策選択の適否問題が、三つの点で発生します。

 一つは、一九三〇年代当時の、その全面否認の宮本陳述は、真相とは異なるが、反動的な治安維持法裁判への抵抗政策としては、まったく正しく、英雄的なものでした。

 二つには、一九七六年の、議会主義に転換した合法政党の時期では、その二つの真相程度のことは事実であったと認め、その上で反共攻撃に反撃をするという政策、道を選択すべきではなかったかということです。

 そこでの問題の基本は、『宮本vs袴田』ということでなく、どういう対応が国民の支持と信頼を得られるかということでした。小林多喜二が虐殺されるという当時の非合法の下で、他の五人の一致した陳述にあるような二人への多少の軽い殴る、蹴る程度の行為の存在は、それを一九七六年時点で認めても何らおかしくありません。宮本氏は、反動的政治裁判への抵抗として、一人だけ否認したのであり、五人の陳述程度のことは事実であったが、それ以上のことはないとすればすむことでした。それは宮本氏の権威を下げるどころか、逆に当時の毅然とした態度、姿勢に称賛さえ起きたでしょう。さらに『リンチ、殺意、殺人』への反撃として、はるかに国民に対しリアルな政策的説得力を持ちえました。

 しかし宮本氏は、その選択肢を拒否しました。五人と異なる自分の陳述内容の訂正を拒み、『それらの器具は何もなかった』『スパイ査問はしたが、殴る、蹴るなど一切なかった』『すべて事実無根のでっち上げ』としたのです。宮本氏は、自己の過去を完全に正当化し、完全黙秘(公判陳述以外)、獄中十二年、非転向の栄光ある歴史を、その公判陳述内容を含め100%真実にしようとしたのです。宮本氏の選択した『すべて事実無根のでっち上げ』説は、六人の資料がすべて出版されているという状況の下では、党員以外の国民への政策的説得力はなきに等しく、それどこ ろか逆に国民の反感をかい、国民の疑惑という未解明の部分を残したのです。

 三つには、一九八九年から連載が始まった「日本の暗黒」の中で、その真相を認め、その上で、四つの行為の『リンチ』性の有無を争うという政策を選択することが、尚可能でした。森村氏の提案は、そこにも一つの真意があったと思われます。

 そこで、宮本氏はなぜ変心し、中断を指示したのかということです。それは、党外作家の森村氏ら三人が、事件資料を客観的に調べれば、上記 1から 7の常識的な真相に到達する筈であり、自分の選択した政策とは決定的な矛盾が生ずるであろうことは、宮本氏が当事者として一番わかっていたからです。そこから自分の選択の誤りが、ウソが、その詭弁が明らかになることを恐れたのです。

 第三の問題は、連載中断における民主主義と査問、処分における 民主主義の真相です。

 まず森村氏と共産党との間の民主主義の真相です。

 森村氏は「悪魔の飽食、三部作」で赤旗記者下里氏と共同取材、執筆しました。党とその関係の中で、森村氏側が提案したものです。一年を越す準備期間を経て、必要な手続きを踏み、森村氏と赤旗編集局長との間で合意が成立しました。そこには連載期間、連載の基本方針が含まれています。これは党外作家と党との民法上の契約です。作家と新聞社との共同執筆による連載契約です。

 ところが、連載一年半後に、スパイ査問事件にいよいよ入る直前に、合理的理由のないまま、連載中断を党側が突然、一方的に決定し、森村氏へはその事後通告となりました。これは民法上の契約の党側による一方的な破棄であるとともに、契約相手への信義にまったくもとる行為といえるものです。これは連載契約した作家と他の新聞社との間では絶対起き得ないような反道義的、反社会的行為です。森村氏は、直ちに抗議しましたが、納得できる理由を告げられないので、共産党と絶縁しました。赤旗講読も中止しました。

 共産党は「自由と民主主義の宣言」の「改訂版」まで出して、民主主義を守るとしています。しかし、この契約破棄行為は、党と党外個人との民主主義を、党指導者の変心によってたやすく踏みにじる体質を、共産党が持ち続けていることを、天下に明らかにしたものといえます。

 さらに森村氏は、下里氏査問、権利停止処分、赤旗記者解雇の党発表文に対し、次の内容の抗議文を赤旗編集局に送りました。『この文言には多年日本共産党に貢献した同志に対する愛情の一片も感じられず・・一個人を攻撃しています。いわば党を挙げてのいじめです。党の公器である機関紙をいじめの道具に使うとは論外です』。この森村氏の心情は宮本氏や党指導部に届いたでしょうか。

 次には、下里氏ら二人の担当記者と党指導部との間の党内民主主義の真相です。

 強引な中断決定に対し、二人が反発し、指導部批判を行い、担当常幹、赤旗編集局長と激論しました。下里氏の同僚記者はそこで査問と統制処分を受けました。中断の合理的理由がないので、二人が推測したのは、宮本氏が『スパイ査問事件は書いてはならん』と変心したということです。『「宮本さんの意見もあるが、皆で議論して決めてきたことの方を大事にしよう」と進言する幹部が、宮本氏の周囲に一人もいないのが党の現実です』と下里氏はある手紙で嘆いています。

 その後、「市川聴取書」の真贋の評価や小説発表の件で、下里氏は、一九九四年に、査問、権利停止処分を受け、赤旗記者を解雇されました。この経過を公表し除名処分になりました。下里氏は、『それは排除の口実に過ぎず、強引な中断措置をした党中央指導部を正面から批判する者を、徹底していじめ、排除するというのが党の体質です』とその手紙で述べています。

 この中断措置で党指導部と激論し、正面から批判した二人の記者を査問、処分、解雇したという事実、それらにおける党内民主主義の有り様には、森村氏と同じく、強い怒りを覚えるものです。

                                 以上

(添付資料(1))森村誠一氏の手紙

  (注)、これは、1994年10月14日付『赤旗』での、下里氏の規律違反内容公表文に対する、赤旗編集局に送られた抗議文です。森村氏から転送されたものを、下里氏が同年12月号『文芸春秋』で掲載しました。

  『承前

 この文言には多年日本共産党に貢献した同志に対する愛情の一片も感じられず、自党の機関紙をあげて一個人を攻撃しています。

 いわば党を挙げてのいじめです。党の公器である機関紙をいじめの道具に使うとは論外です。

 この文言には日本共産党が日本の平和と民主主義のために築き上げてきた、党の輝かしい歴史と伝統に足る見識のかけらも見当たらず、ただ感情的な個人の誹謗に終わっています。

 こんな文章を戦前、戦中、長靴の底に忍ばせて反戦平和を訴えた赤旗に載せたら、赤旗が泣きます。

 いまや赤旗は、日本共産党が所有する一機関紙にとどまらず日本の民主主義を守る象徴紙となっていることをお忘れなく。

森村誠一』 


(添付資料(2))下里正樹氏の手紙

(注)、『赤旗』連載中断問題の関連部分のみ

『謹啓

 唐松の落葉が金色に輝き、山道を埋めています。山鳥の鳴き声が谷を渡る季節となりました。ここ信州の仕事場は、冬がすぐ玄関口まで来ています。

 先日は、「文芸春秋」誌に載りました拙文について、心のこもったお手紙を有難うございました。何度も読み返させていただきました。

 今回の件は、担当していた連載の突然の中断に端を発した出来事でした。

 何の問題もなく、万事順調に進んでいた連載「日本の暗黒」が、なぜ突然中断になったのか。この背後には、一九三〇年代の自分の事件――スパイ査問事件について書かれたくないという、一人の党指導者の変心と利己主義があります。

 しかし、そもそも「日本の暗黒」は、宮本氏の同事件を書く目的で始まった連載でした。国会での浜田幸一議員の質問をテレビで見た作家・森村誠一氏が、「この問題を徹底的に明らかにしたらどうか」と赤旗編集局に進言し、それがきっかけで連載企画が進行したものです。

 党の内部で集団的に長時間をかけて検討し、何度もの会議と決済文書を積み重ね、「日本の暗黒」の第一の柱として「スパイ査問事件」を取り上げることが決まり、これを元に、党外作家と赤旗編集局長の合意が成立し、一九八九年に始まった連載です。

 上級の集団的チェックを受けた原稿によって、多くの読者を獲得して進んでいたものが、いよいよ同事件に筆が進みそうになった直前の一九九一年六月の時点で、突然中断となった――ここに、現在の「赤旗」と共産党の内包する大きな問題があると、私は考えています。

 つまり、集団で議論を積み上げてきた結論よりも、一人の指導者の突然の判断や利己心の方が優先して行くという体質です。それを正面から批判する者を、徹底していじめ、党から排除するという体質です。

「宮本さんの意見もあるが、皆で議論して決めてきたことの方を大事にしよう」と進言する幹部が、宮本氏の周囲に一人も居ないという、党の現実です。

 地方同人誌に私が書いた小説の件は、排除の口実に過ぎません。市川「聴取書」は現存する捜査資料であり、偽物ではないからです。

 民主がなく、官僚的集中だけが優先するのでは、組織の活力が無くなります。そう考え、私は私なりに内部で主張すべきことはすべて文書と口頭で明確に主張し、党の機関紙上での意見発表を求めましたが拒まれ、今回の事態となりました。私の取った行動に悔いはありません。

(後半略)                              敬具

    一九九四年十一月二十二日

    宮地健一様 』

 (関連ファイル)

   (1)、『スパイ査問問題意見書(袴田・宮本陳述相違点の解決内容・方法)

   (2)、『スパイ査問事件と袴田除名事件…袴田政治的殺人事件の推理劇的考察』

   (3)、『スパイ査問事件の個人的体験』(宮地個人通信第十号)

   (4)、袴田自己批判・批判の共産党側資料、「3論文」と「党史」

   (5)、立花隆『日本共産党の研究』関係

      「『年表』の一部」、「加藤哲郎『書評』他」、「土佐高知『立花批判』他」