〔個人通信第十号〕

下里正樹氏権利停止処分、赤旗記者解雇

とスパイ査問事件に関する個人的体験

 

(宮地健一  1994年12月)

 ()、〔個人通信〕とは、1989年の東欧革命以降、私のホームページを開設する1997年秋までの間に、共産党問題、社会主義問題についての私の見解を書いて、友人、知人に配布したもので、これはその〔第十号〕です。HP目次、その他HP文書では、『スパイ査問事件の個人的体験』としてあります。

 (関連ファイル)

(1)、『スパイ査問問題意見書(袴田・宮本陳述相違点の解決内容・方法)

(2)、『スパイ査問事件と袴田除名事件…袴田政治的殺人事件の推理劇的考察』

(3)、『作家森村誠一氏と「スパイ査問事件」』(添付)森村氏手紙、下里正樹氏手紙

(4)、袴田自己批判・批判の共産党側資料、「3論文」と「党史」

(5)、立花隆『日本共産党の研究』関係

     「『年表』の一部」、「加藤哲郎『書評』他」、「土佐高知『立花批判』他」

 別紙同封の手紙を下里氏からもらいました。そこで下里氏は、処分、解雇の背景にはスパイ査問事件での党内意見の対立があるとしています。その事件について私も「意見書」提出という形での個人的体験があります。

 赤旗評論特集版no.926(19941024) 「下里正樹元赤旗記者の規律違反の内容について」と文芸春秋十二月号の手記「私が見た『赤旗』の暗黒」が公表されていますが、その処分、解雇の本質がどこにあるのか、わかりにくいところがありました。しかし、手紙にあるように、「弘前民主文学」の小説内容や市川正一「聴取書」の真偽の評価はあくまで口実であり、その基本原因は、赤旗連載の「日本の暗黒」でのスパイ査問事件にふれる段階になっての宮本氏の『スパイ査問事件を書いてはならん』という突然の中止命令、連載中断と、そこでの宮本氏、党中央と森村誠一氏、下里記者、担当の同僚記者との連載継続の是非についての意見の対立にあったようです。

 宮本氏の突然の中断指示の根拠はまだ不明ですが、その連載継続を主張した側が、反抗者、中央批判分子として排除、処分の対象になり、党中央の側が上記小説の内容を、きっかけ、口実として排除を実行したのであろうことは、私の体験からも十分うかがえるところです。

 私も、スパイ査問事件で長文の「スパイ査問問題にかんする袴田陳述と宮本陳述との相違点の党の現在の解決内容、解決方法についての意見書」(以下「意見書」という)を袴田除名の8カ月前の1977年4月13日に党中央に提出しました。その基本要旨は「個人通信第8号」の11ページから13ページの中で述べましたが、「意見書」そのものは今まで公表していません。しかし下里氏の今回の件のように、このスパイ査問事件での党内意見の対立によって、党中央批判者を不当ないいがかりをつけて、排除、処分することが発生する以上、私も再度これについて発言せざるをえません。

 そこで重複になりますが、私の「意見書」要旨部分のみを再度お送りし、私の主張の根拠として「意見書」の199ページ、98種類の分析、対比表のごく一部を添付します。これらの表は「意見書」各項目の結論を意味するもので、表の根拠となる警察聴取書、予審調書、公判記録、古畑鑑定書、確定判決文とそれへの私の評価は、「意見書」にすべて書いてあります。この一部の表だけでは、バラバラで意味不明でしょうが、私の主張の根拠の一端はご理解いただけるかと思います。

 私の「意見書」でのスパイ査問事件の事実関係についての結論は、「個人通信」にあるように、系統的リンチ、殺意、殺人はなかった。しかし査問会場での斧、針金などの諸器具は存在し、その若干の使用はあり、多少の非系統的ななぐる、ける等の行為は当然あったというものです。これは何らスクープ的なものでもなく、平凡で、常識的な結論で、合法政党の現段階で各資料が出版されている以上、それらを認めるという選択をすべきという主張です。政党としての国民への政策選択として、それらの全面否定という宮本氏の選択は誤りだという内容です。

 しかし、宮本氏、小林栄三幹部会員は『すべて事実無根のでっちあげ』という全面否定政策を選択し、そのために袴田氏を政治的に陥れ、今回また下里氏や同僚記者がそれに触れようとすることを抑圧し、排除したものです。

 1976年「日本共産党の研究」連載から、1978年1月袴田除名までの反共攻撃、宮本攻撃への対応において、いくつかの選択肢が存在した中で、宮本氏が「意見書」に述べたような誤った選択をしたために、彼の悲劇が継続しているといえます。その選択において彼や小林氏の側には、袴田政治的殺人という権力犯罪を犯した犯罪者心理が残っており、とくに森村誠一氏という党外作家にその事実関係を、特高資料、裁判資料をふくめて客観的に検討された場合、彼らの誤りが、ウソが、その詭弁が明らかになること、さらにそこから彼らの権力犯罪が見抜かれることを恐れたのではないでしょうか。なぜなら森村氏や下里氏らがスパイ査問事件の事実関係資料を調べれば調べるほど、私のいう常識的な結論に到達する筈であり、彼らの選択した政策とは決定的な矛盾が生ずるであろうことは、宮本氏が当事者として一番わかっていることだからです。それが今回の「日本の暗黒」連載の突然の中断指示と下里氏らの排除の一因になったと私は判断しています。

 勿論、もう一つの要因としては、スパイ査問事件を党の側から赤旗連載で積極的に解明しようとしても、現情勢では結局はまたそれを歪曲した反共攻撃に利用されるだけで、党および宮本氏にとって不利になるだけ、という彼の政治判断があると思われます。ただしこの要因は、赤旗連載開始時点での集団討論で、むしろ有利という一致が宮本氏もふくめてされている筈ですから、やはり要因は下里氏の指摘するように宮本氏のなんらかの利己心、利己的変心によるものではないでしょうか。

 私のこの「意見書」の取扱は、それ以前の22通の私の警告処分、専従解任についての「意見書」、「質問書」、「回答督促書」、「第14回大会上訴書」、および妻の宮本委員長宛の6通の「質問書」の計28通と同様にぎりつぶしでした。

 一回だけ反応がありました。第14回大会上訴中、何度要請しても何の事情聴取もないため、中央統制委員会、中央委員会書記局に直接電話して面会を求めました。するとやっとその許可が出て、代々木の党本部の受付のすぐ横の小部屋に通され、鈴木善蔵中央統制委員、原誠次郎中央組織局次長の2人と鈴木愛知県常任委員が現れました。私は早速私の22通の「意見書」、「上訴書」の処理経過を問いただしました。中央は『最初は訴願委員会で検討したが、そこでは処理できないので、今書記局へ回って検討している』の一点張りの回答で、こちらが何を聞いても具体的な回答を一切言いませんでした。中央の側からは私の「上訴書」等の内容について何の質問もしないのです。質問するのは、私が私の問題を誰かに話すなどの規律違反をしていないかどうかという査問めいたことだけです。それなら面会許可を出さなくてもいいと思うぐらい中身のないもので、わざわざ東京まで行って一時間半ちかくもいたのに、何の成果もなく終わってしまいました。

 ところが私が席を立って帰ろうとすると、中央は突然『党の委員長(当時の宮本氏のこと)を批判する意見書を出すのは問題だ。いったいどういうつもりだ』と声を荒らげて詰問しました。

 私は『委員長でも誤りがあると思えば、それに対して批判を出すのは当然です。あのスパイ査問問題での対応のやり方には重大な誤りがあります』と答えたところ、中央は反論せず黙ってしまいました。私はそこで、面会許可したのは、私の処分問題よりも、「スパイ査問問題意見書」での私の態度、反応を見るためだったのかと考えたものです。なぜならこの面会は、1977年8月8日で、「犬は吠えても歴史は進む」の立花隆批判の大キャンペーン中であるとともに、袴田除名の4カ月前で、スパイ査問事件での袴田切り捨てによる宮本擁護政策に基づいて袴田排除が党中央内で着々と進行していたという微妙な時点だったからです。その「意見書」を書記局の一部とともに、宮本氏、小林氏も直接見たと思いますが、そのひと言以外は一切反応はありませんでした。

 ただ私の「個人通信第8号、日本共産党との裁判」の11ページから13ページの要旨に関しては、何人かの方から賛否、疑問等貴重なご意見をいただきました。ここでお礼申し上げます。

 (添付資料)

1、下里正樹氏の手紙(この手紙コピーの私の個人通信範囲内への配付については下里氏の了解を得てあります。)

2、「個人通信第8号、日本共産党との裁判」の11ページから13ページ スパイ査問問題での「意見書」要旨

3、スパイ査問問題「意見書」の表の一部(1977年4月、党中央委員会宛に提出)B4版レポート用紙199ページ、68種類の分析表の中の13ページ分の表のみ

以上   1994年12月   宮地健一

(この「個人通信第十号」のホームページ掲載時点での注)

 袴田「自己批判論文」(「赤旗」1976.6.10)後、袴田氏が常任幹部会で、39議席から19議席への総選挙惨敗結果での宮本、不破氏への批判、個人責任追及発言をしたのは、1976年12月総選挙直後でした。宮本、不破、小林氏らは、それへの報復と直後に開催予定されていた幹部会、中央委員会総会での同種の袴田発言の口封じとして、即座に袴田氏への査問通告をして、査問期間中の党員権(会議出席権、発言権)を剥奪しました。その査問は、1977年10月の第14回大会まで10ヶ月間継続されました。そして『日本共産党の六十五年』(P.395)にあるように、『党は、七七年十月の第十四回党大会で、袴田が中央役員として不適格であることが明確なので、かれを中央役員に選出しなかった』のです。

 私のスパイ査問問題「意見書」提出は、まさに袴田査問継続中の1977年4月でした。私はそんなことはまるで知らずに、宮本、小林、袴田の3人への批判を書いたのです。

 私の上記中央との面会は、1977年8月8日で、「犬は吠えても歴史は進む」の立花隆批判の大キャンペーン中であるとともに、第十四回党大会での袴田全役職剥奪報復措置の2ヶ月前、袴田除名の4カ月前でした。

 その時期には、『党大会決議案』も完成し、宮本、不破、小林氏らの間では、この報復措置も事実上決まっていたでしょう。(1)私の「上訴書」内容への無回答と、(2)「スパイ査問問題意見書」への詰問という党中央の二つの反応はそこからも説明できます。

 この詳しい経過分析については、『スパイ査問事件と袴田除名事件』をご覧下さい。

 (関連ファイル)

(1)、『スパイ査問問題意見書(袴田・宮本陳述相違点の解決内容・方法)

(2)、『スパイ査問事件と袴田除名事件…袴田政治的殺人事件の推理劇的考察』

(3)、『作家森村誠一氏と「スパイ査問事件」』(添付)森村氏手紙、下里正樹氏手紙

(4)、袴田自己批判・批判の共産党側資料、「3論文」と「党史」

(5)、立花隆『日本共産党の研究』関係

     「『年表』の一部」、「加藤哲郎『書評』他」、「土佐高知『立花批判』他」