ウクライナにおけるマフノー運動の本質について

1918〜21年

ヴィクトル・コンドラーシン (梶川伸一訳)

 

 ()、これは、奥田央編『20世紀ロシア農民史』(社会評論社、2006年、716頁)から、第2部「コルホーズ以前の農民」10論文のうち、第3論文である上記著者・訳者・題名の全文(P.153〜192)を転載したものである。ただ、原注は膨大で、76箇所あり、すべてロシア語なので省略したが、そこに書かれた文の出典を示しているので、文末の番号のみをそのまま残した。訳注は全文載せた。転載については、訳者梶川伸一金沢大学教授と社会評論社の了解を得ている。

 

 〔目次〕

   1、マフノー運動への新たな視座

   2、マフノー運動におけるアナキズム

   3、マフノー運動の理論的基盤

   4、マフノー運動の政治的立場

   5、マフノー運動とボリシェヴィキ

   6、反マフノー・キャンペーンの展開

   7、マフノー運動の悲劇

   8、訳注 (原注76箇所は省略)

   9、著者・訳者経歴

 

 〔関連ファイル〕            健一MENUに戻る

     『マフノ運動とボリシェヴィキ権力との関係』共闘2回と政権側からの攻撃3回〔資料編〕

     第3部『革命農民への食糧独裁令・第3次クーデター』9000万農民への内戦開始

     ヴォーリン『ウクライナの闘争−マフノ運動』1918年〜21年

     アルシーノフ『マフノ叛乱軍史』ロシア革命と農民戦争

     P・アヴリッチ『ロシア・アナキズムにおけるマフノ運動の位置づけ』

     梶川伸一『レーニン体制の評価について』21年−22年飢饉、ウクライナの悲劇

     20世紀の歴史『試練の大地−ウクライナ』ウクライナの歴史、全文

     ウィキペディア『ウクライナの歴史』 

     大杉栄『無政府主義将軍ネストル・マフノ』1923年

     google検索『クロポトキン』

 

 1、マフノー運動への新たな視座

 

 内戦史のもっとも鮮明でドラマチックな内戦史のページの一つはマフノー運動(マフノフシーナ)、同時代人と歴史家によってその指導者であるネストール・イヴァノーヴィッチ・マフノーの名前に由来する1918〜21年のウクライナでの農民運動である。本論考もこのテーマに充てられる。この資料的基礎はプロジェクト『ロシアにおける農民革命』の仕事で、それらの文書は筆者によって考察が加えられた1。

 

 関心の中心はウクライナ南部での事件であり、ドニエプルに沿って北から南にエカチェリノスラフからアレクサンドロフスクまで、西にクリヴォイ=ログにかけてのエカチェリノスラフ、ポルタヴァ、タヴリーダ県の領内で、強力な反乱運動が展開していた。

 

 マフノーとマフノー運動について広汎な歴史文献が存在する。ロシア人と旧ソ連の市民の一般的意識の中に、ソヴィエト時代のプロパガンダの影響や、作家や歴史家や映画関係者の苦心によって、バチコ[ウクライナ語での原義は愛情と尊敬を込めた父親への呼びかけ]・マフノーの確固とした伝説的イメージが形成された。ソヴィエト歴史学はマフノーを、平和な市民への掠奪と狼藉で悪名高く、ウクライナにおける白軍と民族主義的反革命に対する赤軍の闘争を根本から困難に陥らせた、無政府主義的クラーク的匪賊の首領として描いてきた。マフノー運動は反革命的、クラーク的、反ソヴィエト的という烙印を押され、そのようにして内戦期のソヴィエト・ロシア領内での「アントーノフ運動」[訳注1]やその他の反ボリシェヴィキ農民運動と並び称された。この「英雄的時代」[戦時共産主義期の別称、エリ・クリッツマンはこのタイトルでこの時期に関する有名な著書を公刊した]の政治的犯罪的匪賊運動の出現にマフノー自身が結びつけられた2。

 

 これと同時に、ソヴィエト歴史家の総じてイデオロギー化された一連の著作にもこのテーマに関して稀な例外があったことも指摘しなければならない。その一つがエム・クバーニンのモノグラフ『マフノー運動』である3。ネップ期に出版されたそれは、ウクライナにおけるマフノー運動の原因と規模についての豊富な信憑性のある資料を含んだ。反乱の基礎にボリシェヴィキの「戦時共産主義政策」への不満があり、マフノー運動自体は広汎な農民大衆を結集させた限りで、純然としたクラーク的ではなかったと、筆者は確言した。

 

 反ヂェニーキン闘争でボリシェヴィキの同盟軍としてマフノー軍を擁護する傾聴すべき声は、元ウクライナ戦線司令官ヴェ・ア・アントーノフ=オフセーエンコの覚書であった。その中で彼はヂェニーキン軍との戦闘でマフノー部隊の不抜とマフノーのたぐいまれな個性という事実を指摘する必要があると認めた4。

 

 ソヴィエト期には外国の歴史文献にのみマフノーとマフノー運動の別の評価を見いだすことができた5。まずマフノー自身が自身の名前と営為の擁護に立った。同志と国外アナキスト・グループの支援により亡命先で執筆され出版された回想録と論文で、彼は白衛軍と結びつけられる反革命性、民族主義、反ユダヤ主義の廉によるボリシェヴィキの非難を覆そうと試みた。彼は人民の自治の理念を実現するために闘い、農民の利益の擁護に全霊を捧げた革命家であり実践的アナキストであると自認した6。

 

 マフノー運動のもっとも熱心な擁護者は、その積極的参加者でマフノーの理念的指導者であったペ・アルシーノフであった。実質的に彼は内戦期のウクライナにおける農民反乱の最初の本格的歴史家であった。アルシーノフの著作の価値は、叙述されている諸事件に直接参加したことで、彼はマフノー軍の軍事政治指導組織の生の文書をそこに利用することができたことにある。アルシーノフの著書でマフノー軍戦士の政治綱領が明らかにされ、マフノーの身近な戦友に関する個人情報が与えられている7。だが筆者はバランスの感覚を欠いている。マフノー運動とマフノー自身を明らかに理想化しており、彼に対するアナキズムの影響を誇張し、マフノーとマフノー軍戦士がみすぼらしく見える多数の事実を著書から省いているからである。

 

 マフノー運動史の新たな段階が1990年代に訪れた。ロシアとウクライナでマフノーとマフノー運動に関して多数の出版物が出され、その中で著者たちはソヴィエト歴史学によるもっとも忌まわしい烙印に再検討を加えた8。その大部分で研究者たちはクラーク的、反革命的、反ソヴィエト的としてのマフノー運動の評価を否定した。ウクライナでマフノー運動に関する文書と回想の出版が始まった9。

 

 彼の英雄視がマフノーに関する現在の出版物の一般的基調となった10。多くの著作で研究者によってマフノー運動の外的側面に主要な力点が置かれている。マフノーの個性、マフノー軍戦士と敵対勢力との軍事的抗争の具体的展開に11。その結果、農民の領袖、新しい状況下でコサック的自由の民として甦り、剛胆に自覚的目的なしで当面の利益のためにあらゆるものと戦う、新たに出現したザポロジエ・コサックの特異なアタマン[コサックの隊長]の平板な相貌が描かれている。結局、「無思慮で情け容赦のない」民衆一揆としてのマフノー運動という結論が導かれ、農民自身は革命と内戦の中で国家権力との無益な戦争を押しつけた彼独自のユートピア的反国家的幻想に囚われた者として登場する12。

 

 マフノーに関する現在の文献のうち、われわれの見解によれば、多様な資料の山を深く全面的に考察した、ヴェ・エリ・ゴロヴァーノフの『南からの四輪馬車(タチヤンカ)』は特筆されなければならない13。

 

 研究史を分析すれば、原因、綱領、規模、政党と政治力への依存関係、指導部の構成、結果といったその基本的局面を全体として明らかにする内戦期におけるウクライナ全域での農民運動史の包括的著作が、現在までないことが分かる。このような公刊された著書の大部分は、通常は回顧的か公式的性格を持つすでに周知の資料に依拠し、地方アルヒーフ資料の活用は不充分である。本論文はある程度この空白を埋めることを目指している。

 

 まず、1918〜21年のウクライナ農民の反乱運動を、革命前とボリシェヴィキ権力の「戦時共産主義政策」で激変したロシアに起因する、全ロシア的農民革命の一環と見なければならない。

 

 農民革命のほかの震源地と同じように、マフノー軍叛徒戦士の農民的抵抗の源泉は、エカチェリノスラフ、ハリコフ、ポルタヴァ県の[ドニエプル]左岸地区における半農奴体制の温存と土地の狭隘さに根付いていた。それ故、[3月2日に釈放されて]監獄から[彼の故郷である]グリャイ・ポーレに帰還したマフノーが、すでにひとかどの革命家であり社会革命の支持者として、1917年春に農民大衆の先頭に立ち彼らの支持に依拠して、ボリシェヴィキの十月革命の勝利までにグリャイ・ポーレ地区における地主的土地所有の清算を実現したのは偶然ではない。彼がまず村と都市の貧困層の擁護者として農民の間で権威と崇拝を獲得したのは、まさにその時であった。マフノーは1917年の十月革命を受け入れ、故郷グリャイ・ポーレと郡でのソヴィエト権力の積極的組織活動家となった14。

 

 誰も悲劇的事件を予言できなかったように思える。だがまさに1年後にグリャイ・ポーレとウクライナ南部全域は、200万の人口を持つ領土を覆い、白軍と赤軍に対して決起し、自由「マフノー占領地」*を創り上げた、農民革命の大きな震源地となり、それはボリシェヴィキが一目を置いて同盟しなければならなかった、革命と内戦における唯一の勢力となった。たとえ、あらゆる地域で多数の農民蜂起が燃え上がりそして衰微するにしても、広大な国土のほかのどこでもかような事態は起こっていない。だが、それらのうちもっとも知られている「アントーノフ運動」、「チャパン戦争」、「三つ叉蜂起」、西シベリア蜂起[訳註2]でさえ、マフノー運動のような政治的積極性、農民的自立性、軍事的勇敢さを参加者が発揮することはないであろう。

 

 *内戦期にマフノー軍が支配した領域をマフノー占領地(Махновия)と呼んだ。この場合はグリャイ・ポーレ地区のこと。このような合成語はこの時期に普及していた。例えば、「ソヴィエト占領地(Совдепия)」。白軍はボリシェヴィキが支配する領域を「ソヴィエト占領地」と呼んだ。この表現は「代表ソヴィエト(Совет дептатов)」の語句に由来する。「マフノー占領地(Махновия)」は文字通り「マフノーの国(Страна Махно)」を意味する。

 

 このような現象の原因は何処にあるのか。ドイツ軍によるウクライナの占領と、占領軍に一切を任して地主的、私的土地所有の復興政策を実施する中央ラーダの政策がその役割を果たしたと考えられる15。ドイツ人によって的確に呼称されたウクライナ共和国との「穀物講和」によって、1919年7月1日までウクライナはドイツに穀物7500万プード、生体家畜1100万プード、100万のガチョウ、3万の羊などの納付を義務づけられた16。

 

 地方権力の支持の下に始まったドイツ軍による徴発、ソヴィエト権力の崩壊後に元の地位に戻った旧地主と官吏の横暴が、権利を求めての闘争にウクライナ農民を決起させた。占領軍はテロル、絞首台、銃殺で応えた。

 

 まさにウクライナ農民にとって苦しいこの時機に、マフノーはウクライナに帰還し占領軍と彼らの手先との闘争のために反乱部隊を組織する決定を下す。彼はこれに成功し、最終的に彼の組織活動家的、軍事的才能のおかげで大規模で迅速に行動するパルチザン部隊の長に収まる17。しかも当時にあってはそのような部隊はウクライナ南部では少なくなかった。そのため、反乱運動での指導的役割にマフノーが抜擢されたという事実は、彼の実際に非凡な能力と才能を証明している。

 

 まさにその時、パルチザンと占領軍、ウクライナ防衛隊[スコロパツキー期の国家警察]との苦しい多勢に無勢の武力衝突の過程で、マフノーは戦友によって「バチコ」の名称を授かった。後年彼がソヴィエト権力の軍門に降り、彼に法の保護外が宣告されたとき、マフノー軍の兵士と指揮官は赤軍司令部に、人民がマフノーを「バチコ」の責務に登用し、彼らへの統帥権に彼は戦闘で報い、それ故、人民だけが彼を罷免することができると警告した18。そのように、外国占領軍に対するウクライナ人民の解放闘争が農民革命の領袖へのマフノーの登用を促した。

 

 すでに述べたソヴィエト歴史学における唯一のマフノー運動に関する本格的研究者、歴史家クバーニンは、マフノー地区の経済を分析して、1919〜21年に頂点に達した強力な農民運動が、なぜまさにウクライナ左岸で1917〜18年に発生したかを非常に説得的に説明した。クバーニンの基本的結論は、[第1次ロシア革命の]1905〜07年と同じく1917年にもっとも「革命的」であったウクライナの州が、内戦期に最大の政治的積極性を発揮したということにあった19。これらの州の経済的発展段階もこれに関わっていた。特に「マフノー諸県」では農民はウクライナのほかの地域よりも裕福で、大きな農業機械を持ち、積極的に穀物を販売していた。農民の経済活動を抑止していた要因は地主的土地所有であった。そのため革命の最初から彼らは、とりわけ貧農層は、積極的に「総割替」に加わり、まんまとそれを実現した。農民が豊かなために、この地区がウクライナで順次交替する権力の徴発政策の真っ先の対象に選ばれ、報復措置としての農民抵抗を必然化させた。

 

 クバーニンが見抜いたもう一つの特徴は、マフノー地区のロシアとロシア人との密接な関係であり、ウクライナにおける内戦の過程で認められるおびただしい反ユダヤ主義がこの地区で認められないことであった。隣接の州でユダヤ人は農民が憎悪する取立屋ブローカーを体現していたとしても、ここステップ諸県ではユダヤ人はウクライナ人として額に汗して土地を耕作し彼らとの関係は充分友好的であった20。

 

 このようにして、左岸ウクライナの農民の豊かさ、地主地の「総割替」への彼らの関与、ロシアと隣接する地区のロシア住民との相互関係、民族的反目の理由がないこと、異教への寛容によって、バチコ・マフノーの旗の下に自分たちの利害を擁護するための農民勢力を結集する客観的基盤が創り出された。

 

 この意味で状況は、農民革命のその他の震源地、タムボフ県、パヴォルジエ、西シベリア、ロシア南部と似ており、そこでボリシェヴィキ権力の強制徴発に対する蜂起の発生源になったのは、豊かで「力のある」商業村であった。それでもそこでは質的にマフノー運動に比肩する運動は発生しなかった。

 

 ウクライナ南部での反乱運動の「成功の要因」は1918年のドイツ軍による占領であり、それが農民の武装化を促し、それ以後のボリシェヴィキと白色反革命との闘争にとって必要な経験を積ませた。ボリシェヴィキの進軍の時までに彼らは武装し、優秀な指揮官を持ち、ある種の権力と見なすべき勢力となっていた。ウクライナ南部でのボリシェヴィキ権力の確立までにマフノー運動を結束させた要素は、1918年秋にドイツ軍がその領土から撤退した後、そこにたれ込めた白色反革命とペトリューラ軍[訳註3]の脅威であった。この時までにマフノー部隊は県市エカチェリノスラフを支配することができる勢力となっていた。

 

 このようにして、マフノー運動はウクライナでの革命の成果を浸食しようとする体制への農民の抵抗から成長した。ボリシェヴィキの進軍までに、それはすでに武装力として編成されていたが、例えば、内戦期におけるソヴィエト国家の政策に反対する「アントーノフ運動」やそれ以外の有名な農民蜂起の発生状況についてはこのようなことはいえない。

 

 

 2、マフノー運動におけるアナキズム

 

 マフノー運動はアナキストの積極的参加によって大きく特徴づけられた。そこで農民革命の重要問題の一つ、誰が誰を導いたかという問題が生ずる。農民たちが革命家を、なのか、または革命諸政党が農民を、なのか。ウクライナ南部の農民運動はどれだけ自覚的で組織的であったのか。独自の政治綱領を持っていたのか。あるいは、1917年のロシア国家体制の崩壊後に住民大衆に広く蔓延した、解き放された者のいつもながらの狂喜乱舞、やり放題のヒステリー状態にすべてが帰着したのか。

 

 最後の考えは現在の文献で広く流布している。1917年の革命的衝撃と内戦を一連の研究者は「赤い動乱期(スムータ)」と呼び、それを第1次大戦でのロシアの軍事的敗北と社会主義者の情宣による民衆の[社会的]「錯乱状態(умопомрачение)」によって説明している21。この概念は、ソヴィエト時代の歴史学と文献で形作られた、犯罪分子の徒党、死と破壊をまき散らす冒険と放埒な人生の探求者としてのバチコ・マフノーと彼の反乱軍のイメージと非常にうまくマッチする。マフノー運動のライヴァルたち、「白軍的事業」の参加者たち、ボリシェヴィキ権力の支持者たちとイデオローグの回顧録と文学作品から、通常は密造酒で酩酊し、「アナキーは秩序の母」といった無政府主義的スローガンを掲げた黒旗の下に軽四輪馬車[訳註4]でウクライナの村や都市を猛烈に疾走し、マフノーの「賛歌」「おい、リンゴっこ(ヤープロチカ)*を声高に謳うのである22。

 

 *この言葉は革命と内戦期に非常に口ずさまれた民謡、フォークロワの出だし。これには多くの替え歌があるが、出だしはいつも同じ。例えば、「おい、リンゴっこ、ヴェ・チェ・カ広場で乗り回すと、戻れないぞ」、「おい、リンゴっこ、盛りを過ぎたツァーリは要らない、レーニンは要るよ」など。

 

 アルヒーフ文書はこのステレオタイプを説得的に覆し、マフノー運動は農民の利害を反映した独自の綱領を持ち、マフノーはその領袖として広汎な人民の支持に依拠して、その実現に努めたことを明らかにしている。それら文書はマフノー運動におけるアナキズム理論とアナキストの役割をいくらか別様に眺めるべきであると示唆している。

 

 周知のように、ボリシェヴィキと彼らに続くソヴィエト歴史家は、マフノーの名とマフノー運動を一義的にアナキズムと結びつけてきた。そして実際に内戦史においてマフノー運動はおそらく、革命前からの経験を持つプロの革命家としてアナキストが積極的に関与した唯一の大衆的民衆運動であった。アナキストは革命的反乱軍の文化啓蒙委員会を指導し、マフノーの新聞や様々なビラと檄を発行し、その中で叛徒とマフノー支配下にある地区住民に戦況についての情報を提供し、彼らに反乱軍の政策やアナキズム理念の本質を解説した。そのほか、アナキストはマフノー軍の革命軍事評議会と参謀本部のメンバーとなり、単なる戦士としてその隊列で闘った23。

 

 アナキストはマフノー防諜機関の創設に関与し、ア・エヌ・トルストイの小説『苦悩の中を行く』によって知られているレヴァ・ザドーフ(ゼニコフスキー)の指導の下に叛徒と農民の間でだけでなく、労働者の間でも積極的に活動した。マフノーはまさに彼らに同盟の締結に関してウクライナ・ソヴィエト政府と交渉し、それと今後の折衝を保つことを委ねたのであった24。

 

 上に引いた事実はマフノー運動におけるアナキストの重要な役割を白日に晒している。だが、別の事実は、この役割の修正、アナキスト運動としてのマフノー運動とそれへのアナキストによる決定的影響という定説を正すための完全な根拠も提示している。

 

 まず、アナキストを反乱軍とグリャイ・ポーレ地区に積極的に引き入れたのは、自分自身も筋金入りのアナキストであったマフノーの個性のおかげで可能となった。人民(ナロードの)「社会」革命と、常に搾取者の利益の側にあった国家権力の解体という理念が、彼をアナキズムに引き入れた。だが、特に彼には人民の自治という理念、アナキズムのイデオローグが理論的根拠を与えたその実現の可能性が重要であった。

 

 農民運動の指導者としてのマフノーの具体的行動を見れば、アナキズムとアナキストから、広汎な農民大衆の願望と合致し農民革命の目的を達成し彼の反乱軍が成功するのに寄与するものだけを取り入れたことが分かる。彼は農民の利益というプリズムを通してアナキズムを見て、彼が見るに、これら利益に相反してアナキストが行動する場合には、迷うことなく彼らとの衝突も辞さなかった、ということができる。

 

 だがすべてのアナキストが反乱軍内で実質的権力を持っていたわけでなく、それを指揮し、バチコ・マフノーを導いたのでもなかった。この点で特徴的なのはマフノーの副官であったチュベーンコの証言である。彼の言葉によれば、バチコはかって軍参謀部付きのアナキストについて、彼らは「参謀部で邪魔をしているだけ」で「彼らを参謀部から放逐する必要がある」と怒りにまかせて言い放った。この同じ手がかりに、叛徒の軍資金を勝手に処分しようとした著名な女性アナキスト・マルーシヤ・ニキーフォロワにまつわるエピソードがある。

 

 チュベーンコは次のように証言している。彼女の勝手な振る舞いを知ったときマフノーは彼女を射殺せんばかりで、毅然として彼女とその武装アナキスト・グループと袂を分かち、きっぱりと彼らに向けて表明した。「好きな所に行ってくれ、なぜなら、居候然として、何もしない諸君に、わたしはうんざりしているのだ。それでも全員を喰わせる必要があるのに、もっと金をくれとは!おれたちは君たち「テロリスト」がどんなかを知っている、できあがりのパンを食うだけだ!」25*

 

 別の場合には、マフノーはアナキストを長に戴く軍事革命評議会指導部との衝突で、迷うことなく防諜機関と軍参謀部の側に立った。評議会は軍隊と住民の中での政治活動に従事したが、軍の資金と防諜機関の活動をその統制下に置こうと試みたのである。1919年11月19日に開かれた会議でマフノーはこのような提案に同意しなかった。というのは、以前評議会の一連のメンバーが共同の金庫から「数万ずつを盗み、逐電した」からである。軍事革命評議会員からの非難にもかかわらず、バチコ・マフノーを含む参加者の大部分の意見によれば、マフノー防諜機関は「勤労者のために活動した」以上、その活動は適正と認められ、それを軍事革命評議会の特別な統制下に置こうとの構想は支持されなかった。さらにマフノーは軍事革命評議会の活動について批判的に評価し、それは同議長である有名なアナキスト、ヴォーリンの並々ならぬ不満を引き起こした。アナキスト的軍事革命評議会の現実の権力がどの程度のものであったかについては、同じ会議において、評議会メンバーが、軍事革命評議会のすべての決議を軍隊が実施するよう命じる特別命令を出してくれ、マフノーに要請したという事実が物語っている26。

 

 このようにして、マフノー運動へのアナキストの影響には限界があった。彼らに政治的活動家の役割があてがわれた。だが農民とマフノーを導いたのは彼らではなかった。マフノー運動は独特の基盤から生じ、その目的を充分に自覚し、それらを達成する一助となるアナキスト的要素のみを吸収した自立的農民運動として展開された。

 

 同時に、文書資料は何百人ものアナキストが自分の理念のためにマフノーの旗の下に献身的に戦ったことを物語っている。彼らの多くは戦死し、ボリシェヴィキによる弾圧の犠牲となった27。マフノー自身は死ぬまで固い信念を持ったアナキストであり続けた。だが彼に率いられた農民運動でも農民革命のほかの震源地と同様なものがあった。農民はボリシェヴィキ国家と白色反革命との闘争で革命諸政党とそれらの代表を利用したが、その逆ではなかった。

 

 ソヴィエト研究史と社会意識の中に定着した匪賊とアナキストとしてのバチコ・マフノーのイメージが、現実と、どれだけかけ離れているかは、エカチェリノスラフ県のマフノー軍支配下の地域における権力の組織化に向けての彼の行動を明記する文書に綴られている。

 

 それらのうちで農民に直接由来する文書がもっとも価値がある。それらの中に彼の目的についてのマフノー運動参加者の意見がはっきりと述べられ、マフノーと彼の政策に対する農民の実際の対応が示されている。これとならんで大部分がアナキストから構成されるマフノー軍の軍事革命評議会文化啓蒙委員会の資料がある28。情宣・プロパガンダ的文献の基本的内容は、マフノー運動の綱領、イデオロギー的敵対者であるボリシェヴィキとの論争、反乱軍と現地住民の日常的問題に充てられている。

 

 

 3、マフノー運動の理論的基盤

 

 マフノーと彼により指導される農民運動の鍵となる理念、綱領的方針は、人民の自治と農民の独立という理念、外部からのあらゆる権力の押しつけの拒否、自力による足場であった。この素朴な理念は様々なヴァリエーションで様々な程度に繰り返された。「バチコは全員が欲するように、そして人生そのものが命ずるままに自分の運命を決することを望んだ」、「農民自身がおのれの欲するように生活するがいい」、「農民と労働者だけが自らを解放し、自由で正しい人生を築くことができる」など29。

 

 人民の自治という理念を実際に実現するということは、反乱軍の庇護の下に勤労者の力によって下からソヴィエト権力を組織することであり、それが人民の法の創造能力*にもっとも適した形態であると、マフノー軍戦士は見ていた。ソヴィエトは、人民の社会革命の現実的な遂行、つまり資本と国家の抑圧から勤労者を解放するのを実現する唯一可能な形態として、マフノーによって無条件に容認されていた。

 

 *「法の創造能力」(правотворчество)とは、自己の問題を独自に解決し、自分の権力を組織し、自分の法令を定める人民、農民の能力。法(право)とは「法令(закон)」の文言に近い法律用語であるので、さらに「人民の法律創造」、すなわち、自己の利益のために法律、法的規範、国家権力の形態を考え出す人民の能力ということもできる。この場合は人民の利益になる政治体制としてのソヴィエト権力についてのこと。人民自身が「法」、「法律」の新しい形態であるソヴィエトを創設した。彼らは法の創造力を、すなわち、国家管理、権力の創設での独立した役割に向けての能力を発揮した。

 

 だがこれは、ボリシェヴィキ・ロシアで創出され、コムニストによってウクライナに移植されたソヴィエト権力とは別物であった。そのおもな相違は、形成と機能的特性の原則にあった。全勤労人民のための基本的国民経済的任務を定めそれらを実現する目的で、全勤労住民により選出される「自由ソヴィエト」(「権力のない」)がそれであった。そこでの決定的役割は政党ではなく、普通の人民に割り振られた。まさにそのようなものが、1917年に[二月革命によって]専制が転覆した直後にグリャイ・ポーレを含めてロシアとウクライナで生まれた最初のソヴィエトであった。そして、それらはアナキストの命令によってではなく、革命的大衆の政治的自立性の結果として生まれた。

 

 ボリシェヴィキのソヴィエトは、マフノーの見解によれば、その本質を歪め、官僚化され、人民から隔絶していた。ソヴィエト権力自体がボリシェヴィキ党によって天下りコミッサールと寄食者的官吏の権力に、最終的には独裁に堕落した。そのため、主要な政治的スローガンとしてマフノー運動は、「真のソヴィエト体制」、いかなる党の押しつけなしに農民と労働者によって自由に選出される「自由勤労者ソヴィエト」を求める闘争スローガンを掲げた。そこでは、政治活動の開始から最後の時期に至るまで、マフノー軍戦士は当面の任務として全ウクライナ・ソヴィエト大会の召集を提起した。それは勤労人民の最大の死活問題を決定するはずであり、この要求をマフノーはウクライナ・ソヴィエト政府に再三突きつけた30。

 

 マフノーによって支配された地域では、叛徒は真のソヴィエト権力を組織しようと試みた。このような目的でソヴィエト大会が召集され、全体集会、郷・村スホード[寄合]の民主的やり方であらゆる問題が決定された31。

 

 マフノー軍軍事革命評議会文化啓蒙委員会のアナキストは、運動のイデオローグとして、「マフノー占領地」内でソヴィエト権力を組織する具体的メカニズムを提案した。彼らの計画によれば、マフノー軍戦士によって解放された村と都市の農民と労働者は防衛反乱軍の下に労働組合、工場・農民委員会といった「自由な組織を再興し」、地区ごとに焦眉の問題を審議し解決するためにそれらの全体大会(協議会)を召集しなければならなかった。時の経過とともに協議会は労働者・農民組織の経済ソヴィエトに転化し、それは執行権を持つ恒常的組織として行動し、当該地区の労働者と農民の全体集会、スホード、会議、大会の意志や指示を遂行するであろう。さらに、マフノー軍戦士の権力の拡大に応じて、ほかの地域にも同様なソヴィエト機構が創り出されるであろう。「マフノー占領地」のすべての地区の間に現行の「自由ソヴィエト」は「商品ネットワーク」*を確立し、そのようにして「権力のない真のソヴィエト労農体制」が生まれるであろう32。

 

 *これは商品(必需品、食糧など)の交換の可能性。この語句を「経済的ネットワーク」の語句に置き換えることが出来る。この語句は「商品交換」に近い。

 

 マフノー運動は、ロシアとウクライナにおける農民革命の最大の問題であった農業問題の独自の案を策定した。その本質についての概念を、1919年2月10〜19日にアレクサンドロフスク市で開催されたエカチェリノスラフ県アレクサンドロフスク郡の第2回地区叛徒・農民ソヴィエト大会の資料が提示している。大会代議員は満場一致で、土地問題は最終的に全ウクライナ農民大会だけが解決することができる旨の決議を採択した。代議員は、「土地は誰のものでもなく」、それに直接勤労し自分の勤労でそれを耕作する者だけがそれを利用することができるとの原則に基づき、土地の私的所有に反対を表明した。土地は「均等勤労基準によって無償でウクライナの勤労農民の利用に移されなければならない。すなわち、自己の勤労状態に基づく消費基準を保証しなければならない」ことが宣言された。

 

 全ウクライナ的規模での土地問題の解決まで、大会は「すべての地主地、帝室領地、その他の土地を直ちに登録し」、それらを土地なしと小土地農民に分配し、彼らに播種材を保証するよう、地方土地委員会に勧告した。ここでは、差し迫った畑作業を損なわないように、土地の総割替は禁止された。

 

 一見すれば、この綱領は[十月蜂起直後に発布された]ソヴィエト権力の土地についての布告やその他の文書で掲げられたボリシェヴィキの農業政策と一致している。[訳註4]だが、上記の地区叛徒・農民大会の資料が示しているように、「マフノー占領地」農民はそのようには考えていなかった。土地に関する大会決議では、ウクライナ・コムニスト政府の土地国有化政策に関連して、同政府への抗議が宣言された。大会参加者は、「土地の共同耕作の自由な普及」を促し、均等原理で「農民の共同的ならびに勤労個人経営」に種子と農具を供給するのをコムニスト政府が拒絶した事実を苦々しく確認した。

 

 大会で土地分配の仕組み(メカニズム)が満場一致で採択された。栽培作物地経営(試験的模範農地、苗床、森林)は全人民の資産と宣告された。土地は郡土地委員会によって収穫ごとに両性の食い手ごとの基準で分配された。土地余剰を持つ郷は郡土地委員会が指示した面積だけに支配が及んだ。後者は残りの余剰地を管理した。もし農民が自分のまたは余所の郷で土地を賃借しこれが勤労基準を超えないなら、それ全部が彼の利用となった33。

 

 そのように、土地問題はもっとも民主的やり方で解決され、農民と叛徒の圧倒的多数の利益に応えた。まったく同様にして、農民革命の震源地となったソヴェト・ロシアのほかの主要な地域の農民もそれを解決した34。

 

 ウクライナ南部における農民革命の領袖としてのマフノーの関心の中心に農民への配慮があったとしても、彼と反乱軍管理組織は別の問題の解決にも努めた。

 

 例えば、1919年5月2日づけのウクライナ戦線軍司令官アントーノフ=オフセーエンコのウクライナ・ソヴィエト共和国人民委員会議議長ハ・ラコフスキーと軍事人民委員エヌ・ポドヴォイスキー宛の報告覚書は「マフノー占領地」の状態について非常に重要な情報を伝え、それは、占領した都市や彼らの活動地域を通行する旅客列車で掠奪にふけり、インテリ、文化、都市住人に軽蔑的態度を取るというマフノーとマフノー軍戦士に関するソヴィエトのプロパガンダと研究史のステレオタイプと食い違っている。

 

 もちろん、これらの事実は存在した。内戦は事件の展開と人間の行動に傷跡を残し、英雄と悪党を生み出した。そしてわれわれは赤軍にも白軍にも干渉軍の「文明化された軍隊」にも同様なクレームを付けることができる。アントーノフ=オフセーエンコの上記の覚書では別のことが話題となった。そこでは以下の驚くべき事実が確認された。「地区では組織的活動が認められ、子供コミューン、学校が構築されている。グリャイ・ポーレは小ロシアのもっとも文化的中心の一つで・・・・マフノーの尽力で負傷者のために10の病院が開設され、工場が組織され、武器を修理し、武器の発火装置を製造する作業場が組織された」35。

 

 さらにもう一つの文書も特異である。それはソヴェト政府に、歴史、労働者・農民問題、アナキズム、社会主義に関する「講義のために学術文献のセット」と革命的戯曲の原著、ゴーリキーの『どん底』、『敵』、『マルボ』、『ジャニ』、その他、ベールィの『失業者』、『ステップの人』、『葬られない人々』、ドミトリエフの『労働者街』を送るようにとの依頼を1920年11月14日づけでマフノー軍参謀部は南部戦線参謀部に要請した。

 

 1919〜20年にマフノー軍戦士によって白軍権力から解放されたベルヂャンスク、アレクサンドロフスク、エカチェリノスラフ市での反乱軍警備指令の活動に関する資料は特に関心を引く。その命令書や反乱軍のその他の文書によって、マフノー支配下にある地域の実情、彼の都市問題や都市民への対応を判断することができる。

 

 例えば、1919年10月14日づけのベルヂャンスク市警備司令官グランデリの命令書1号で、「叛徒同志全員は」「劇場の木戸銭を支払い」、家主は3日ごとに「家屋とそれに付属する敷地をしかるべき衛生状態に」しなければならない、と命じられた36。アレクサンドロフスク市警備司令官ラシケヴィッチは叛徒内部での酩酊と闘うために、「すべてのレストラン、食堂、そしてすべての家屋で酒精飲料の販売を停止する」命令を出した。エカチェリノスラフ市警備司令官ア・カラシニコフは最後に次のようにマフノー軍戦士に警告した。「菜園を馬で通ってはならない、道を通るべし」37。

 

 マフノー軍幹部と合同の軍事革命評議会会議の議事録も特に関心を引く。まさに軍事革命評議会とその委員会において後方問題の解決に関する基本的作業がマフノーに託された。

 

 例えば、エカチェリノスラフでの1919年11月23日の会議で軍供給部との「商品取引」の問題について協同組合大会からの代議員の報告が行われ、軍用の食糧生産物と馬の調達に対する公定相場が確定された。負傷した叛徒が治療を受けているすべての医院と病院の状態に責任がある軍事革命評議会衛生委員会の活動に特別な関心が払われた。医師ライフマンの報告後、治療を受けている市民、医療関係者家族に「負傷した叛徒と同等に」食糧生産物を交付する決定が下された。同会議で補助医療関係者には8時間労働日、医師には12時間労働日が承認された。このほか、「屍体の片づけに」5万ルーブリの額でエカチェリノスラフの労働者に補助金を交付するとの彼らの要望も認められた38。

 

 軍事革命評議会の議事録に記載されているように、1919年11月26日に社会委員会の提案によって、「1週間を超えず」「1人当たり」1日20ルーブリの額*で困窮市民に臨時救済を行うことが決定された。この委員会に「誰が申請したかを調査し、いかがわしい人物をできるだけ頻繁に検証する、すなわち、確認する」責任を負わせた。同日軍事革命評議会は「貨幣ならびに食糧生産物による補助の交付」についてのエカチェリノスラフ市の水道労働者、孤児院、養老院の要請を社会委員会の検討に委ねた39。

 

 *この金額は大きいとはいえないまでも、大麦が1プード50ルーブリであったことを勘案すれば、生活可能な額であった。

 

 多くの事実は、マフノー軍のもっとも深刻な問題は酩酊と平和な市民からの掠奪であったことを示している。だが文書資料は、マフノーと彼の軍幹部は、もっとも厳しい手段を含めてこれらの否定的現象と断固として闘ったことを明らかにしている。占領した都市でマフノーによって指名された警備司令官は市民の捜索と軍需向けの彼らの資産の徴発の手続きを整序するよう努めた。この目的で軍参謀部と防諜機関によって特別命令が発せられた。たとえ、実際には兵士の食糧と装備の問題を手っ取り早く解決するために、しかるべき命令の手続きで反乱部隊長は頻繁に捜索と徴発を行ったとしても40。

 

 因みに、マフノー軍戦士だけでなく、軍事行動地域の赤軍も白軍も同様な行為を行った。同時に叛徒による平和な住民からの掠奪というもっとも忌まわしいケースはきわめて果断にマフノー個人によって阻止された。例えば、マフノーの副官チュベーンコの回想によれば、掠奪で摘発された叛徒に対するマフノーの処罰が2件あった。そのうち最初のケースでは訪れた女性の訴えを聴いて、彼は彼女に掠奪を働いたマフノー軍戦士を自ら逮捕し、少し後に彼を銃殺し、2番目のケースでは鉄道従業員から金と財布を奪った一人の兵士をためらうことなくその場で射殺した41。マフノー軍の行動の比較的平穏な状況で、マフノーは、しんがりの騎兵が農民を掠奪できないように、自分のもっとも心の許せる戦友に隊列の最後に村から出るよう命ずることがしばしばであった。

 

 もちろん、このような措置は事態を緩和できただけであった。というのは、反乱軍は自給状態にあり、農民の支援によって存在したからである。それでもマフノーは、この手続きを整え、内戦の農民にとって避けられない支出を最小限に抑えるため、あらゆることを行った。

 

 反乱軍司令部によって軍馬を動員する手順が定められ、それはマフノー運動の全期間中は特別な変更もなしに効力を持った。通常、マフノー軍戦士は攻撃の際に農民の所で何頭かの疲れ切った馬を1頭の新しいのと交換し、馬匹の徴発は特別の証明書によりしばしば金銭で補償して行われた。

 

 村落を占拠した後のマフノー反乱部隊の通常の実践行動は、ソヴェト施設の資産(食糧、衣服など)を現地住人に分配したことであった。看護をうけるために残される負傷兵、馬の装蹄、軽四輪馬車[訳註5]やその他の軍装備の修理に対して農民に気前よく支払った42。

 

 このように、引用した事実は、犯罪者やあぶく銭を求める徒党というマフノー軍のイメージを覆す。自給の問題に関して平和的住民へのその行動は、それと敵対する赤軍や白軍の行動と大差はなかった。

 

 マフノー運動の綱領は、人民自治の理念に基づくソヴィエト体制の創出を見込んでいた。土地問題でマフノー軍戦士は土地の均等再分配とそこでの自由な経営という農民革命のスローガンを徹底的に実施した。

 

 マフノー運動のイデオロギーと綱領によって、マフノーをいくらか別様に、まず筋金入りの農民革命家、1917年に勝利した人民社会革命の支持者として見ることができる。その成果を擁護することにマフノーの政治的経歴のすべての意義があった。この目的のためにマフノーの軽四輪馬車がウクライナのステップを駆け巡り、血の川が流され、3年にわたって同胞が殺し合う内戦が荒れ狂った。

 

 マフノー運動史において自由マフノー占領地での平穏な生活はわずか2ヶ月間のエピソードである。残りの期間すべてで様々な敵対勢力との激しい軍事衝突があった。まさにそのために、マフノー軍を特徴づける政治綱領は実現されることはなかった。ウクライナにおける農民革命は、ロシアとまったく同様に、その成果を護ることを強いられた。

 

 

 4、マフノー運動の政治的立場

 

 1918〜21年に実際にウクライナ全土が農民蜂起の炎に包まれた。農民運動は目的、構成、スローガンについて同じではなく、地域的特徴を帯びていた。内戦期のウクライナ反乱軍の著名なアタマンとして、グリゴリエフ、ゼレーヌィ、アンゲル、ソコロフスキー、ストルークなどが広く知られている43。彼らのうち何人かは、独立ウクライナのために立ち上がったペトリューラ軍の積極的支持者であった。また政治的スローガンを隠れ蓑に地方住民から掠奪する単なる犯罪者や犯罪者に近い徒党も少なからずいた。だがマフノー運動だけは何万もの農民をその旗の下に集結させ、白軍と赤軍の正規軍部隊に対抗できる強力な軍事力に成長することができた。

 

 内戦期のウクライナではいくつかの権力が交替し、それぞれがマフノー運動とマフノー個人との関係を持った。ペトリューラ派、ヂェニーキン派、コムニストがこれであった。

 

 マフノーは、ペトリューラ派が、彼の見解では、勤労農民の利害に反する民族主義的ブルジョワジーと地主の利益を表明する限り、彼らの理念を共有しなかった。彼は独立ウクライナという彼らの理念を支持することができなかった。なぜなら、彼は、アナキストであり、反国家主義者であり、あらゆる国家権力への反対者であったので。こうして、マフノー軍戦士は再三ペトリューラ派部隊と軍事衝突を起こした44。

 

 マフノーは首尾一貫して国際主義者の立場を採り、民族主義と反ユダヤ主義に反対した。この事実は、ソヴィエト権力に対して叛乱を起こした師団長グリゴリエフとの事件の経過にもっともはっきりと現れた。マフノーはアタマンの反ユダヤ的「ポグロム[民族圧殺]的布令(ウニヴェルサール)」を断固として弾劾し、その根絶に個人的に加わった。もちろん、反ユダヤ主義や民族的反目のケースがマフノー軍にも認められたとしても、それらをマフノーは支持しなかった。彼は反ユダヤ主義者に籠絡された者を個人的にきわめて厳格に処罰した45。

 

 ロシア農民の圧倒的多数とまったく同様、マフノーと彼の反乱部隊は白衛軍に対して妥協なき立場を取った。彼らにとって白色運動の目的は、地主的土地所有、旧官吏、地主、ブルジョワジーの権力の復活という観念と強く結びついていた。

 

 ヂェニーキン[南部ロシアの反革命軍の総司令官]は農民の敵であるというのが、1919年のマフノー軍戦士の主要な政治的スローガンの意味内容であった。彼との闘争にあらゆる勢力が投入された。1919年夏にマフノーとボリシェヴィキの同盟が決裂した後でさえも、ウクライナにおけるヂェニーキン軍の戦略的攻勢というもっとも困難な時期にもマフノーは怯まなかった。逆に、赤軍の敗走と退却というきわめて混沌とした状況下で、彼は叛徒の勢力を組織することができ、目覚ましい機動戦を展開し、その結末はヂェニーキン軍精鋭部隊の壊滅と自分の故郷であるグリャイ・ポーレ地区への凱旋であった。

 

 マフノーは彼に提示された白軍との反赤軍同盟を一度も考えたことがなかった。1919年5月に彼はシクロ将軍のこのような提案を拒絶し、「決して白軍の同盟者になったことはなく、将来もない」と明言した覚書を添付して、彼から受け取った書簡を公表のために新聞に渡した46。

 

 ヴランゲリ男爵[訳注6]との同盟の提案への対応はさらに激しかった。これについては資料集で公表されたマフノー軍参謀長ヴェ・ベラーシの日記からの情報がある。その中で、1920年7月9日にヴランゲリからマフノーに送り出された使者が[同盟の提案への回答として]反乱軍により銃殺されたと、書かれている47。

 

 マフノーの白軍への対応については、アタマン・グリゴリエフの根絶のエピソードから判断することができる。マフノーにとってアタマンの運命を決するための重要な論拠は、ヂェニーキンへの反攻に彼は消極的にしか関与しなかったことであった。グリゴリエフは「戦線を持ち堪えず」、白軍将軍との同盟を求めた。文書から看取できるように、叛徒と白軍との間で、はなはだしい残虐の実例、多数の人間のドラマの実例に満ち溢れた、互いに殲滅し合う激戦が展開されていたのである48。

 

 

 5、マフノー運動とボリシェヴィキ

 

 マフノーとボリシェヴィキ権力との相互関係がマフノー運動史の中でもっとも悲劇的断章となった。勤労人民の利害の体現者としての役割を自認する2つのソヴィエト権力、党の独裁をともなうボリシェヴィズムと、党派性や権力のない自由ソヴィエトの理念を持つアナキズムという2つの革命理念が衝突したことに、状況のパラドックスがあった。彼らの間には原則的な意見の衝突だけでなく、何か共通なものがあり、それが彼らを暫定的同盟に近づけた。第1に、これは社会革命を目指す闘争であり、第2に、白軍反革命の脅威との闘争であった。

 

 ソヴィエト的プロパガンダのせいで、読者はマフノーをその政治的敵対者として見るのに慣れてしまった。彼は自分の同盟者であるボリシェヴィキを常に裏切り、白軍に防備を開けた、狡猾なアタマンとされる。だがそうではなかった。

 

 マフノーは3度にわたりボリシェヴィキと赤軍との同盟関係に入った。1918年末、1919年2月、1920年10月に。そこでのイニシアチヴはマフノーの側にあった。彼は自分が掲げた原則、勤労人民の権力、反革命との容赦のない闘争で、ソヴィエト権力との共闘を支持した。さらに、マフノーにとって、弾薬不足の問題がボリシェヴィキとの同盟を受け入れるのにおそらくもっとも重要な意味を持った。それを提供できたのが赤軍であった49。

 

 マフノーは同盟者としての自分の義務を決して裏切らなかった。決裂へのイニシアチヴを執ったのは常にソヴィエト権力の側であり、それは証拠もなしにマフノーを反革命的陰謀を準備したと弾劾し、戦線での敗北のおもな責任をマフノー軍になすりつけた。

 

 実際これはでまかせの非難であった。マフノー軍は赤軍のほかの部隊に劣らず白軍と闘った。1919年2月に正規軍として初めて部隊はウクライナ赤軍に編入され、ペ・エ・ドゥイベンコ麾下の第1ザドニエプル師団第3旅団を構成した*

 

 マフノーはこの旅団長に任命された。そこでは、後に元ウクライナ戦線司令官アントーノフ=オフセーエンコが書いたように、マフノーは指揮官の選任制を断念し、わが政治コミッサールを受け入れ、定められた手続きで供給とあらゆる種類の給与を受け取り、グリャイ・ポーレで彼が創設した軍事革命参謀部を解散するのを義務づけられた50。アントーノフ=オフセーエンコが『内戦についての覚書』でマフノー運動に与えた特徴づけをここで引用するのが当を得ている。「マフノー運動を」ウクライナ・ソヴィエト司令部は「ペトリューラ軍に対しても、ヂェニーキン軍に対しても真剣できわめて先鋭的で、ドイツ占領軍と白衛軍との倦まずたゆまぬ戦闘で英雄的な」運動であるとみなしていたと彼は書いた51。

 

 *アルシーノフはこの時期を3月としているが(Аршинов П.А. История махновского движения.С.90.それは誤り。1919年2月19日づけのザドニエプル・ウクライナ・ソヴィエト師団設置に関する命令書には次のように書かれた。「同志ドゥイベンコ、マフノー、グリゴリエフの指揮下にある部隊から単独の歩兵師団を編成し、ザドニエプル・ウクライナ・ソヴィエト師団と命名する。この師団長に同志ドゥイベンコを任命する。・・・19、20連隊から同志マフノー指揮下の第3旅団を編成する」。

 

 同じところで、アントーノフ=オフセーエンコは1919年3月初めまでにマフノー旅団で行われたウクライナ軍事人民委員部の政治点検によって導かれた結論を引いている。それらの行間にこの運動の力と意義を物語るようなものがある。「マフノー部隊にヂェニーキン軍が占領するドンバスから逃げ出した何千もの労働者が加入し、彼らは軍全体にとって見事な中軸となることができた。専従員と武装のみが不足している。この勇猛な雰囲気を身につけ、強力で党とソヴィエト権力に従属する正規軍を創設するため、マフノー地区に軍事人民委員部と党の全勢力を投入しなければならないであろう」52。

 

 ウクライナ正規軍の部隊としての初陣の日は、1919年3月19日であった。もっとも、マフノー旅団は、この日以前に、彼の部隊はペトリューラ軍に対する戦闘においてウクライナ・ボリシェヴィキと協力して行動していたし、1918年12月にはエカチェリノスラフを占領にも、1919年1月にはハリコフを攻撃と解放にも参加した。1919年3月の初陣の日には、ソヴェト軍の一員としてマフノー旅団はマリウポリを占領した。1919年春のウクライナ南部で創り出された非常に錯綜とした戦況の中で、マフノー旅団は数百キロにわたる戦線を持ち堪え、再三作戦報告の中で彼らの勝利が指摘された。敗北も退却もあったが、そのすべての原因がマフノー軍戦士にあったわけでもなかった。

 

 例えば、1919年5月にマフノー旅団が[ドネツク近くの]モルデ・モスピノ駅方面に攻勢をかけたとき、旅団参謀長は次のように報告した。「・・・・わが部隊はモルデからモスピノ駅方面への攻撃に移った。攻撃は順調に展開し、主要な拠点が占領された。実包の円滑で速やかな配布がないために、多くの陣地を放棄し攻撃を中断せざるをえなかった。おまけに、部隊は実包をまったく持たず、前進しても、敵軍の恐ろしい反攻に遭うおそれがある。われわれは責務を執行したが、最高組織は軍への実包の支給を妨げている。これを排除し定期的に充分な量の実包を送付するよう要請する、そうすればわれわれは任務を完全に遂行するだけでなく、それ以上のことを行うであろう」53。

 

 アントーノフ=オフセーエンコは『覚書』の中でマフノー旅団が編成下に入って戦った第2ウクライナ軍司令官ア・イ・スカーチコの報告書を引いているが、それはマフノー旅団の困難な状況を余すところ無く示している。「・・・・・5月11日わが指揮下にあるマフノー第1反乱師団[同じく赤軍に編入されたマフノー軍の名称]は、わずかな数の機関銃の下に歩兵2万人、騎兵2000人、軽砲5門、48ミリ曲射砲2門を持つ。これら部隊は、前線に大砲7門の下に約歩兵9000、騎兵1000人を置いて、グルズフからノヴォニコラエフスカヤまでの河岸を防衛し、ノヴォニコラエフスカヤからグルズスキー・エランチク川に沿ってポクロフスキー・クリレエフまで、さらには北西のモスピノ駅まで陣地を護っている」54。5月21日に彼はまた報告している。「マフノー師団は小銃の実弾と砲弾を必要としている」。

 

 1919年5月17日、これら2件の報告の小さな合間に、報告者の著者が警告していたことがモスピノ地区での戦闘で起こった。弾薬補給や新兵の増員による必要な援助を受け取らなかったマフノーはシクロ軍騎兵の攻撃を持ち堪えることができなかった。マフノーの2個連隊は戦闘でほぼすべての兵員を失い、敵の強襲に耐えられず、勝利を重ねる敵軍によってマフノーの残りの部隊は駆逐された。

 

 マフノー軍の実状を特徴づけるもっとも重要な文書は、1919年5月2日にウクライナ・ソヴィエト共和国人民委員会議議長ハ・ラコフスキーと軍事人民委員エヌ・ポドヴォイスキー宛に送ったアントーノフ=オフセーエンコの報告覚書である。その中で前線司令官はソヴィエト・ウクライナ指導部に、マフノー旅団へ出張した際の個人的印象について通告し、そこで次のように言及した。マフノー自身と彼の連隊は「反革命的なコサックと将校を屈服させようとの願望に貫かれ」、マフノーと女性アナキスト・マルーシヤ・ニキーフォロワは「反革命に対する統一戦線を創り出すためのアジテーションをおこなっている」。アントーノフ=オフセーエンコは、マフノー軍部隊の状態、ヂェニーキン軍に対する軍事作戦行動への彼らの関与を肯定的に評価した。

 

 アントーノフ=オフセーエンコの報告の基本的結論は、「マフノーはわれわれに敵対しないだろう」、「マフノーへの中傷を停止しなければならない」であった55。その後もアントーノフ=オフセーエンコは自説を変えることなく、遺憾の意を込めて述べている。「われわれに欠けている機関をわれわれが持っていたなら、われわれは・・・・・マフノーをうまく利用することができた。[赤軍司令官]ドゥイベンコ麾下となったザドニエプル師団第3旅団の筋金入りの旅団長として、マフノーは自分の部隊を徐々に改造した。部隊の委員会は解散させられ、政治委員会が導入されたが、それらは脆弱で、軍幹部はおらず、全般的理由で適正な供給を構築することができず、マフノー軍部隊は不安定な状態に置かれていた。だが、それらのいくつかはコサック軍と見事に戦った。もし彼らが実弾をもっていたならば、疑う余地なく、もっと長く自分の地区を守り抜いたであろう(実際に彼らは第2軍に移管されたが、彼らの多くが武装していたイタリア式ライフルに実弾は供給されなかった)」。

 

 だがウクライナ戦線司令官の具申にボリシェヴィキ権力の政治・軍事的指導部は耳を傾けなかった。マフノーは法の保護外を宣告され、同盟は反故にされた。この理由はマフノー部隊の軍事的敗北ではなく、バチコ・マフノーの政治活動にあった。マフノーによるグリャイ・ポーレ地区での自由ソヴィエトの組織化政策、共産党の合意なしで人民自身によるソヴィエト大会を実施するという人民のイニシアチヴの支持は、ボリシェヴィキの大きな苛立ちと不満を引き起こした。[軍用列車で発行されていた]機関紙『フ・プチー[途上にて]』で1919年6月2日に公表されたロシア共和国軍事革命評議会議長エリ・デ・トロツキーの論文「マフノー運動」で次のように述べられた。

 

 「ソヴィエト・大ロシアがあり、ソヴィエト・ウクライナがある。それらとならんで一つの小さな国家がある。これはグリャイ・ポーレである。そこをマフノー何某の参謀部が治めている。最初に彼はパルチザン部隊、それから旅団を、次いで師団を持っていたようだが、現在はそれが特殊な反乱「軍」にほとんど色が変わっている。誰に対してマフノー叛徒は決起しているのか。この疑問を提起し、明瞭な回答を与える必要がある。言葉と行為による回答を。マフノーともっとも身近な共謀者はアナキストと自称し、これに基づき国家権力を「否定している」。であるから、彼らはソヴィエト権力の敵である」56。

 

 マフノーは、ボリシェヴィキによって導入された革命委員会とチェ・カの、彼の支配地域における活動に不信感を抱いた。その理由を、彼は、そのような組織は人民によって選出されたのでなく、共産党によって上から任命されたのだという状況から説明した。それらを構成したのは、地方の特性をまったく知らないのに大きな権力を手に入れた天下りであった。農民と叛徒は、一緒に反革命との闘争に参加したこともない天下りがなぜわれわれを指揮するのか、とのもっともな疑問を呈した。白軍への勝利の後になぜ自分たちは派遣されたコミッサールに従わなければならないのか、ボリシェヴィキは勤労人民の権力を宣言したではないか。したがって、この権力をつくりあげなければならないのは、われわれである、と57。

 

 

 6、反マフノー・キャンペーンの展開

 

 状況のパラドックスは、ボリシェヴィキが真の人民の権力という原理に基づくソヴィエト権力を望まなかったことにあった。彼らは言葉で人民の権力を語っただけであった。実際にはソヴィエト権力は、彼らにとって党独裁に好都合な形態となった。

 

 このことを裏付けているのは、マフノーはボリシェヴィキの同盟者から突然彼らの不倶戴天の敵に変わった1919年5〜6月の諸事件であった。彼はソヴィエト権力を転覆する目的で反革命的陰謀を準備している、それはソヴィエト大会召集の力を借りて実行されるはずであったと、彼は非難された58。実際、そのような72郷の[地区農民・叛徒]大会を[6月15日に]開催することが決定されたが、ソヴィエト権力と戦争を始めるためでなく、逆に、ヂェニーキンの攻勢の脅威からそれを防衛するためであった。大会では白軍の脅威を撃退するため「自発的動員」を宣告することが計画されていた。だが、ボリシェヴィキによってこのような下からのイニシアチヴは反革命的行動と評価されたのである[訳注7]

 

 マフノーとマフノー軍を中傷する破廉恥なキャンペーンが展開された。ボリシェヴィキの行動で破廉恥なのは、マフノーと彼の軍隊にウクライナと南部戦線でのソヴィエト軍のすべての敗北の汚名を着せたことにあった。トロツキーはマフノー旅団を「堕落、瓦解、憤激、腐敗分子」の寄せ集めと呼んだ59。ドン・ビューロー書記スィルツォーフは同じ調子で、1919年初夏の南部戦線における敗北の理由に関するレーニンとトロツキーへの書簡の中で、前線部隊がマフノー部隊と接近することにより、それらの「兵役忌避、パルチザン的精神、反ユダヤ主義による汚染」が促されたと、指摘した60。マフノーは彼の旅団から師団への改称を不当にも拒否され、それは彼の自尊心への打撃であったし、叛徒の抗議を呼び起こした61。このマフノーの歴史の中で今度は、自分の過ちに対する責任を政治的敵対者に転嫁するという、後年スターリン主義者とスターリン個人によって武器として積極的に利用された典型的なボリシェヴィキ流のやり方があらわれたのである。

 

 この錯綜とした状況でマフノーは非常に立派に振るまい、忍耐強く最後の瞬間まで叛徒と赤軍との武力衝突を回避ようとした。このことについては1919年6月8日づけの国内最高の軍事・政治指導部、レーニン、トロツキー、エリ・ベ・カーメネフ、ゲ・エ・ジノーヴィエフへのマフノーの電文で説得的に示されている。その中で彼はソヴィエト権力に対する陰謀とアタマン・グリゴリエフとの共謀を無条件に否定した。彼に対して組織されている宣伝キャンペーンにおいて、彼が「へトマン[コサック軍の首領]と地主の圧政に対する農民蜂起の最初の日々」以来闘っている「苦しい白衛軍戦線」についても、彼が指揮する反乱運動が「無数の犠牲をともなったし現在もともなっている」ことについても[トロツキー論文は]一言も触れていないという惨めな事実を、彼は悔しい思いで確認した。

 

 マフノーは、「革命によって達成された労働者と農民の権利」とは、「公的ならびに私的な性格を持つ問題を審議するための大会を自分たちが召集する」権利であることを、ボリシェヴィキ上層部に想起させるのが必要であると考えた。それでも、彼はボリシェヴィキが彼の名をおのれの脅威と結びつけていることを自覚し、事態がこれ以上尖鋭化するのを避けるため、旅団長の職務を辞任することを決意した。

 

 この電文でマフノーの次の言葉は予言的に響いた。「わたしが指摘する反乱運動に対する敵対的で最近の攻撃的な中央権力の態度は、わたしが深く確信するところでは、勤労人民内部での流血事件を招き、敵対する双方に勤労者と革命家しかいないような独特の内部戦線を勤労者の間に創り出すのはまったく必定である。わたしはこれを勤労人民と彼らの社会革命に対する最大で未曾有の犯罪と見なす。わたしはこの悪を防止するため、できる限りのことを行うのを自分の義務と見なす。アナキスト革命家としてわたしは13年間社会革命の理念のために闘ってきたし、これらの理念のために現在も闘っている。迫り来る犯罪を防止するためのもっとも確実で信頼できる手段は、わたしが就いている職務から去ることであると見なす」62。

 

 マフノーは、みずからの名誉を傷つけるることを望まず、ボリシェヴィキが彼を旅団の資金を着服した廉で非難しないよう配慮して、職を辞した63。その際、彼は、事態を尖鋭化し、彼を擁護してボリシェヴィキに対する叛徒の直接行動を誘発するようなことは何もしなかった64。何よりも彼は、始まった白軍の攻勢の状況で持ち堪えなければならない前線の利益を配慮した。

 

 だがこれらの行動も悲劇を防止できなかった。マフノーの辞職をボリシェヴィキは、双方にとっての妥協的解決としてではなく、屈服と弱さの現れとして捉えた。1919年6月7日にトロツキーが南部戦線第14軍司令官カ・エ・ヴォロシーロフに送った電報の中で、次のように書かれた。「マフノーから電報を受け取り、その中で彼は師団司令部を譲り渡す用意があることを明言している。いかなる妥協をおこなうことも、すなわち、何らかの仲裁を受け入れることや何らかの譲歩をおこなうことは最大の過ちとなろう。マフノーの屈服を戦果に記録し、今後はマフノー運動との戦闘で全力を持って行動する必要がある」65。

 

 この時期マフノーは白軍との交戦を続ける叛徒の中で戦闘態勢にあり、ボリシェヴィキとの闘争は思いもよらなかった。彼が非常裁判所によって捕らえられた参謀部員たちが銃殺されたことを知った6月19日の後に、すべてが急変した。マフノーは[ボリシェヴィキとの戦闘を避けるため]800人の部隊を随行してドニエプル右岸に移る。同時に叛徒の圧倒的多数は[マフノーの訴えに従い反白軍の]前線に残っている。マフノー運動の新たな段階が訪れようとしている。

 

 

 7、マフノー運動の悲劇

 

 このようにして、マフノーとボリシェヴィキとの関係における統一原理は、白色反革命の脅威との闘争しかなかった。共産党の権力としてのソヴィエト権力というボリシェヴィキの概念と相反するマフノー運動の政治綱領も、彼らを排斥しなかった。その結果、革命陣営内での分裂という悲劇が生まれ、この分裂がネップの導入によって1921年にようやく終了した内戦の新たな段階がもたらされた。内戦がおわったのは、ようやく1921年、ネップの導入によってである。

 

 1919年の夏から秋にかけてはウクライナにおけるマフノーと反乱運動の歴史の中の英雄的時期である。ヂェニーキン軍精鋭部隊との死に物狂いの抵抗によって、彼らはマフノー排斥の口実としてボリシェヴィキが自分たちに投げかけた臆病と裏切りという告発を振り払った。多数の事実だけでなく、ヂェニーキン自身がこのことを明らかにしている。「かくも広汎なこれらの蜂起はわが後方を攪乱し、もっとも苦しい時機にわが戦線を弱体にした」と、彼はウクライナにおけるマフノー反乱を視野に入れ回想録に書いた66。ヂェニーキンのモスクワへの夏攻勢の頓挫におけるマフノーの役割は歴史学では様々に評価されている。だが、その積極的性格を認める点では一致する。マフノーはウクライナ農民を擁護し、ボリシェヴィキがヂェニーキンを粉砕するのを助けたのである。

 

 白色脅威のために20年秋に反ヴランゲリ男爵でもう一度マフノーとソヴィエト権力との同盟が形成された。だがこの時までにマフノーはウクライナの白軍だけでなく、ウクライナにおけるボリシェヴィキの「戦時共産主義政策」に対しても激戦を展開していた67。勤労者と革命家同士が殲滅し合うとの彼の予言は完全に現実となった。マフノーの反乱部隊はウクライナ農民の肩に重い負担をかけた割当徴発や様々な賦課の遂行に関わるソヴィエト権力機構におもな打撃を与えた68。

 

 1919年末までにマフノー部隊は、多くの点で赤軍の構造と活動原理を踏襲する正規軍の原理で組織的に構成される戦闘能力のある部隊となっていた。このようにしてそれは1919年に編成され、赤軍の懲罰部隊がそれを粉砕することに成功しなかった限りで、1920年にその効力を証明した。

 

 まさにこの理由によってボリシェヴィキはクリミアから進撃するヴランゲリ男爵に対する軍事同盟というマフノーの提案を受け入れた。1919年にも見られたように、マフノー部隊は積極的に軍事行動に参加した。そこではバチコ・マフノーは[1920年10月に]自軍の優れた部隊と優れた指揮官を戦線に送り出した。1919年と同様にマフノーは同盟者を裏切ることなく再びその陰謀の犠牲となった。ボリシェヴィキはマフノー軍を利用し、[11月半ばで]そこで敵の粉砕が達成されると、マフノーとの同盟を破棄し、以前のやり方を繰り返し、軍上層部と軍幹部に突然襲いかかった69。ここでも再度、マフノー軍戦士の政治的行動、党の認可なしに下から選出される「自由ソヴィエト」の助けを借りて真のソヴィエト体制を創り出そうとする試みが口実となった70。ボリシェヴィキはその権力が完璧であるとの問題についてどんな歩み寄りも望まなかった。そのためなら彼らは同胞が殺し合う内戦の継続を含めてあらゆる覚悟があった。

 

 戦闘で疲弊した軍隊をポーランド戦線に送り出すのを彼が拒否したことがマフノーとの同盟を決裂させるための口実となった。マフノー軍の部隊の実状を見ればこれは実現不可能な任務であった。それには休息、新たな予備役の補充、負傷兵の回復などが必要であった。

 

 1920年末からマフノー運動史の最終段階、ボリシェヴィキ国家との容赦のない激戦が始まる。その根本は、すべてのロシア農民とまったく同様にソヴィエト権力の食糧政策へのウクライナ農民の不満であった。これはロシアとウクライナにおける農民革命全体としても、マフノーとマフノー運動の経歴の中でも、もっとも悲劇的ページである。暴力が暴力を生み出した。流れた血が川となった。双方からの暴力という無数の事実が文書に綴られている。ここでもマフノーとマフノー軍の病的残虐性と、それに対する彼の敵対者の犠牲的献身というステレオタイプの既成概念から抜け出さなければならない。叛徒に対する政治的テロルは、同盟を決裂させ、彼らの指導者への弾圧を強めたボリシェヴィキによって開始された。

 

 コムニスト、ソヴィエト・食糧活動家に対するマフノー軍の厳しい制裁は広く知られた事実である。だが懲罰組織はそれに劣らず残虐であった。1921年7月2日づけウクライナ共和国人民委員会議秘密情報部通報からの一つのエピソードだけを掲げよう。「すでに5月に・・・・・・匪賊を隠匿した農民に対する厳格な措置が適用された。カジミルチュークの申し立てによれば、地方で懲罰的政策が実施された。『われわれはスホードを召集し、5人のクラークまたは5人のそれと疑わしい人物を選び、スホードのまっただ中で彼らを軍刀で斬り殺さなければならなかった。そのような措置が農民に作用し匪賊を密告させるようになった』」71。

 

 マフノー運動最後の年にマフノーは司令官、パルチザン指揮官として完全に才能を発揮した。国内防衛軍、チェ・カ、赤軍の多数の部隊も伝説となったバチコを捕虜にすることも殺害することもできなかった。マフノーは戦争遂行でパルチザン戦術の卓越性を巧みに利用した。一昼夜で100ヴェルスタ[約100キロ]である72。

 

 1921年夏にはウクライナ・ソヴィエト指導部は、モスクワからの一貫した助言と支援を得て、全兵力を動員し、迅速で経験豊かで見事に武装した何倍も優れた部隊を創り上げ、マフノーに深刻な敗北をもたらし、彼を国外[ルーマニア]に逃亡させた73。長年に及ぶ殺戮と内戦のために反乱運動の基本的支柱であるウクライナ農民は衰弱し消耗していた74。農民は戦争で疲弊し、ネップが彼らに解き放った新しい生活に期待をかけた。そのようにしてボリシェヴィキの政策変更という状況下でマフノー運動は衰微し、反乱運動は停止し、半ば犯罪者の小さな徒党としてその残党はまだしばらくの間農民と権力を脅かした。だが反乱運動を再生させる地盤はすでに無くなっていた。

 

 上述のことから、マフノー運動が主力となったウクライナでの反乱運動は、その原因、目的、帰結に関して、自分の土地で自由な主人となる農民の権利を侵害するボリシェヴィキ国家とその他の体制に反対する内戦期の全ロシア的農民運動と一致すると、結論づけることができる。ウクライナでもタンボフ県でもシベリアでも、農民は農民革命のこの主要な目的を求めて闘い、反乱勢力の瓦解にもかかわらず、ボリシェヴィキ権力にその政策を変更させ、ネップという短い期間に彼らに自由な経営権を与えさせて、その目的を達成した。

 

 マフノーは、おそらくロシアとウクライナの歴史上もっとも著名な勤労人民の擁護者と比肩できる、もっとも傑出したウクライナの農民革命の領袖の一人であった。彼は人民自身によって統治される社会という何世紀にもわたる人民の夢を実現できなかったことを悔やみながら、最期まで農民であり続けた。パリでのマフノーとの出会いを回顧して、著名な女性アナキスト・イダ・メットは彼の大きな夢について読者に語った。「彼は自分を農民と見ていた。彼は自分を若輩と見ていた。彼は昼に若い妻と連れだって自分たちが育てた作物を一緒になって売りさばいて、バザールで楽しく過ごして夜に、わが家のグリャイ・ポーレに戻る自分を想像した。・・・・・彼らは街で土産をどっさり買った・・・彼は立派な馬と見事は荷馬車を持っている」とメットは回顧した75。

 

 彼の戦友の一人、元ウクライナ・バチコ・マフノー反乱軍軍事革命評議会議長ヴォーリンは「マフノー運動について語られることを一言も信じてはならない」と語った76。何十年もの間マフノーの名前は犯罪的匂いのする政治的匪賊運動の代名詞となったという意味で、彼は正しかった。だがマフノーの全貌と彼の営為ははるかに複雑で矛盾に充ちている。われわれが本論文で述べようとしたのはこのことである。

 

 

 8、訳注 (原注76箇所は省略)

 

 [訳注1。154頁。アントーノフ運動] 農民からの収奪が集中していた農業県タンボフで1920年8月に勃発した、アントーノフを指導者とする農民蜂起。1921年2月に党中央委員会からアントーノフ=オフセーエンコの派遣により中央からの介入が開始され、その後鎮圧軍司令官としてトハチェーフスキーが赴任し、軍事力が強化され、毒ガスが使用されるなど、その鎮圧は凄惨を極めた。

 

 [訳註2。157頁。「チャパン戦争」、「三つ叉蜂起」、西シベリア蜂起] 「チャパン戦争」とは1919年3月に革命税や割当徴発の徴収に反対してシムビリスク、サラトフ、サマラ県などヴォルガ一帯の農民が決起した大規模な蜂起。これらの地域は東部戦線の後方にあり、特に過酷な徴発が実行されていた。農民は都会風なジャケットと区別して農民のジャケットであるチャパンを反乱の象徴とした。「三つ叉蜂起」とは1920年2月にウファー県での食糧部隊の狼藉に対する農民の決起をきっかけに、カザン、サマラ県にまで拡大したこの時期の大規模な農民蜂起。1921年1月末に西シベリアのチュメニ県イシム郡の村で、シベリアで頻発した過酷な割当徴発とその不履行への厳罰に対して農民が決起し、この運動はたちまち拡大し、参加人数とその規模で当時最大の農民蜂起となった。

 

 [訳注3。159頁。ペトリューラ軍] 1918年3月に締結されたブレスト講和後のウクライナの運命は錯綜を極めた。講和締結後独墺軍が占領し旧地主制が復活した地域で農民が決起し、同軍とスコロパツキー傀儡政権が1918年末に崩壊した後、ウクライナ社会民主労働者党のエス・ヴェ・ペトリューラを中心に民族主義的ブルジョワ体制を目指す、ウクライナ人民共和国政府が樹立した。同政府は労働者ソヴィエトの解散を断行して、ボリシェヴィキとの対立が鮮明となり、この局面ではマフノー軍とボリシェヴィキは共同戦線を形成した。

 

 [訳註4。160頁。ボリシェヴィキの農業政策] 一般には「土地についての布告」によって土地の社会化、全人民所有が宣告されたと解釈されている。しかし、1918年1月の全ロシア食糧大会で、農民が生産する穀物は「国家資産でもあり人民資産でもある」と規定され、5月の人民委員会議の訴えでは、「土地と工場だけでなく穀物も全人民的資産とならなければならない」と宣言されたように、実際には社会化=全人民所有と国有化の区別は不明瞭であり、戦時共産主義期には殆どのボリシェヴィキは土地は国有化されたと理解するようになり、ウクライナではこの傾向が強かった。

 

 [訳註5。167頁。軽四輪馬車] タチャンカと呼ばれるこの馬車はウクライナ南部で一般的乗り物。マフノー軍は騎兵と歩兵で構成されたが、歩兵はこの馬車を操り騎兵とともに行動したために、きわめて迅速な移動が可能であった(時には1日100キロに及んで)点に、マフノー軍の特徴があった。まさにこれはマフノー軍の一つの象徴であった。

 

 [訳注6。173頁。ヴランゲリ] 1920年春のヂェニーキン軍の崩壊後、クリミア半島から南部ウクライナの奪取を図ろうとしたのがヴランゲリ軍で、同年11月半ばには赤軍とマフノー軍との共同戦線によりこの反革命勢力もクリミアで壊滅した。

 

 [訳注7。179頁。ボリシェヴィキとマフノー] 6月に開催予定の第4回グリャイ・ポーレ地区大会はトロツキーの命令によって反ソヴィエト的として禁止され、6月8日に赤軍に対してマフノー運動根絶に関する命令が出された。

 

 

 9、著者・訳者経歴

 

 コンドラーシン ヴィクトル1961年)

 

 ペンザ国立教育大学・歴史学部・教授。『19181922年における沿ヴォルガの農民運動』(モスクワ、2001年);『飢饉:ソヴェト農村における19321933年(沿ヴォルガ、ドン、クバンの史料による)』(共著、サマーラ−ペンザ、2002年);「大祖国戦争期におけるソ連の農民と農業」(『ロシア科学アカデミー・サマーラ学術センター・イズヴェスチヤ』2005年第7巻第2号所収)など

 

 梶川伸一 かじかわ・しんいち1949年)

 

 金沢大学・文学部・教授。『飢餓の革命一ロシア十月革命と農民』(1997年);『ボリシェヴィキ権力とロシア農民−戦時共産主義下の農村』(1998年);『幻想の革命−十月革命からネップへ』(2004年)など

 

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 〔関連ファイル〕

     『マフノ運動とボリシェヴィキ権力との関係』共闘2回と政権側からの攻撃3回〔資料編〕

     第3部『革命農民への食糧独裁令・第3次クーデター』9000万農民への内戦開始

     ヴォーリン『ウクライナの闘争−マフノ運動』1918年〜21年

     アルシーノフ『マフノ叛乱軍史』ロシア革命と農民戦争

     P・アヴリッチ『ロシア・アナキズムにおけるマフノ運動の位置づけ』

     梶川伸一『レーニン体制の評価について』21年−22年飢饉、ウクライナの悲劇

     20世紀の歴史『試練の大地−ウクライナ』ウクライナの歴史、全文

     ウィキペディア『ウクライナの歴史』 

     大杉栄『無政府主義将軍ネストル・マフノ』1923年

     google検索『クロポトキン』