レーニン体制の評価について
21-22年飢饉から見えるもの
梶川伸一
(注)、これは、『論叢・梶川講演を聞いて』(4・16梶川伸一講演集会実行委員会、2006年7月)に掲載された梶川教授論文である。2006年4月16日、彼は、下記ファイル『十月革命の問題点』を講演した。そのパンフに9人の参加者が感想・評論を書いた。それを発行するにあたって、新たに寄せられたのが、以下の論文である。このHPに全文を転載することについては、梶川氏とともに、実行委員会の了解をいただいてある。これにより、著書3冊(抜粋)と講演3論文(全文)で、合わせて6編をこのHPに載せた。
〔目次〕
1、教会財産没収政策
2、秘匿された大飢饉
4、ウクライナの悲劇
5、秘密裡の宗教弾圧
〔関連ファイル〕 健一MENUに戻る
梶川伸一『飢餓の革命 ロシア十月革命と農民』1917、18年貧農委員会
『ボリシェヴィキ権力とロシア農民』クロンシュタット反乱の背景
食糧独裁令の割当徴発とシベリア、タムボフ農民反乱を分析し、
レーニンの「労農同盟」論を否定、「ロシア革命」の根本的再検討
『幻想の革命』十月革命からネップへ これまでのネップ「神話」を解体する
『レーニンの農業・農民理論をいかに評価するか』十月革命は軍事クーデター
『十月革命の問題点』2006年4月16日講演会レジュメ全文
1918年5月、9000万農民への内戦開始・内戦第2原因形成
『「反乱」農民への「裁判なし射殺」「毒ガス使用」指令と「労農同盟」論の虚実』
『聖職者全員銃殺型社会主義とレーニンの革命倫理』教会財産没収と秘密裡の宗教弾圧
『見直し「レーニンがしたこと」−レーニン神話と真実1917年10月〜22年』ファイル多数
ボリシェヴィキ権力が内外の反コムニスト勢力との闘争と戦争に勝利し、一応の安定政権を確立した1921年後半(タムボフ県のアントーノフ蜂起がほぼ鎮圧された時期)までを十月革命期と見るならば、まさにこの時期は飢餓で始まり飢饉で幕を閉じ、その被害だけでも数百万もの犠牲者を生み出す、きわめて異常な時期であったということができる。
これまではこの異常性がもっとも顕著に表出した時期として、ボリシェヴィキが採った戦時共産主義政策に焦点を当ててレーニン体制を論じてきたが、改めていわゆるネップ期の共産党指導部の資料を眺めてみると、おそらくは大方の予想に反して、この時期に「極秘」、「厳秘」文書の量が飛躍的に増加することに驚かされる。この事実は党中央での政策審議や決定過程における異常性がこの時から常態化したことを意味する。チェー・カー(後にゲー・ペー・ウー)報告書はその当初から殆どすべてが「極秘」扱いだったのでこれらを除外しても、クロンシュタット叛乱や農民蜂起、それに教会資産没収に関する党中央委への報告書や書簡までが「極秘」文書となってしまった。
この時期は同時に、プロレタリア独裁から共産党独裁に、次いで党中央委(政治局)独裁への移行期であるが、最終段階への移行は完全な密室政治体制が形成されるようになったのである。もちろんその中心にいるのは常にレーニンである。管見する限り戦時共産主義期でさえもこのような事態は存在しなかった。理念的にはソヴェト民主制を保証するはずのソヴェト体制は完全に形骸化され、全ロシア・ソヴェト中央執行委幹部会は事実上その存在意義を失った。以前『ボリシェヴィキ権力とロシア農民』(ミネルヴァ書房、1998年)の「はしがき」で、「戦時共産主義期は、いわば初期ソヴェト・ロシア史の中のミッシング・リンクであり、この部分だけは日本にいては執筆できないと思われた」と述べて、これまで秘匿されてきた事実の発掘には現地のアーカイヴ資料の利用が不可欠であると主張してきた。換言すれば、その後のネップ体制では戦時共産主義期に特徴的な抑圧的体制から解放され、情報の公開性という点でも前進があったと当時は素朴にも考えていたのであった。
しかしながら、ようやくネップ期を再検討する作業に入って、この考えが誤りであることが徐々に分かり始めてきた。まだこれについての精緻な分析はできていないが、ネップ期の情報(資料)の裏面には殆ど非公開的性格があり、従来の研究は公開された豊富な資料源(新聞、雑誌など)に基づき考察され、いわば「自由な体制=ネップ」の表の側面しか見てこなかったように思える。ネップ期にもレーニンの存命中でさえ、戦時共産主義期に劣らず、無数の隠された民衆の悲劇に満ち溢れている。残念ながら、ネップ期全体にわたりこれについて述べる材料は持たず、手持ちに些かの資料がある1921-22年飢饉について、簡単に触れようと思う(なお、この文章の性格上、基本的にはモスクワとスタンフォード大学フーヴァー研究所のアーカイヴ資料に依拠しているが、それらの典拠は省略し、なおかつ完成稿ではなくまだ予備的考察であることをお許し願いたい。参考文献も同じ理由で割愛してある)。
1、教会財産没収政策
飢饉援助を口実とする教会からの貴金属の没収問題に関しては、喉に刺さった小骨のように以前から気にはなっていたものの、民族と宗教問題は個人的にその歴史センスが無く、放置していたが、いくつかの資料を読み進めるうちに、これがボリシェヴィキ権力または革命体制またはレーニンを考える上で避けることのできない問題点を含んでいることに気づいたのがようやく最近のことで、良心的研究者ならばまだ原稿にできない段階なのだが、大雑把にこれにも触れようと思う(宮地さんのサイトで「聖職者全員銃殺型社会主義」として同じようなテーマが詳述され、宗教弾圧の具体的実例などを参照のこと。このことにも最近気づいたばかり)。詳細は以下に述べるとして、この問題をめぐり二つのポイントを指摘したい。まずはその目的である。いうまでもなく、宗教弾圧と、内戦で破綻した政府の財政再建を目論んでいたのは明白である。教会弾圧の好機を窺っていたレーニンにとって、教会財産の没収にとって飢餓民援助は絶好の機会となった。
マルクス主義者の一般的な宗教への否定的見解のほかに、この時期の殆どすべての反ソヴェト農民運動が共同体農民の一体性に基づく限りそこで鳴らされる教会の鐘(ナバート)は民衆が集結する合図となったことが、特にこの時期に教会への憎悪を深めさせたことは容易に想像できる。このような事実は無数にある。
18年夏のペルミ県オハンスク郡では、「クラーク住民は周辺農民に、特に反赤軍兵士の虐殺を吹聴するような情宣を始めた。穀物貯蔵の登録が引き金となった。村のクラーク分子からなる匪賊は、隣接の村々を回り、ナバートを鳴らし、赤軍兵士とソヴェトに対してけしかけた。そのようにして700人の群衆が集まり、彼らの何人かが赤軍兵士とソヴェト活動家8人を殺害した」(チェー・カー資料)。
トゥーラ県ボゴロディツク郡で同じ頃、食糧を徴収するために「赤軍兵士をともなってコミッサールがタヴァルコヴォ村に出かけた。この村の市民はナバートを打ち鳴らし、武装した民衆がはせ参じ、赤軍兵士に銃火を開いた」(新聞『勤労農民の声』)。こうして各地で教会の鐘が打ち鳴らされ、農民反乱が始まった。このため当時の食糧部隊の手引き書では、村に到着した部隊はまず教会の鐘楼を占拠するようにとの戦術が奨励された。
また、公的援助をまったく受け取れなくなった聖職者は教区住民の食糧を含む様々な寄進によって辛うじて生計を維持していたが、これらの物資が捜索する食糧部隊によって隠匿物資と見なされ、それらを押収しようとする部隊と阻止しようとする民衆との間の衝突は、この時期に頻発する現象となっていた。このような事実は、例えば18年11月にペンザ県から次のようなチェー・カー報告となって現れた。「サランスク郡ラダ村でのクラーク=エスエル蜂起。到着したコムニストの情宣活動家によって集会が召集され、そこで参加者の何人かは農民をソヴェト権力にけしかけた。なぜわれわれの信仰を奪うユダヤ人が権力にいるのか、なぜすべての教会が封印されるのか、などの挑発的質問が出された。ボリシェヴィキと内戦のために、われわれは今や穀物辺境地方と隔絶され、飢餓を蒙っている。穀物専売は強奪であるとの声は、群衆の憤激を引き起こした。
村に食糧部隊が到着すると、それらは教会を閉鎖し、イコンを外し、穀物全部を取り上げるとの挑発的風聞が住民の間に広がった。11月14日の朝に政治コミッサール・セミョーノフと女性情宣活動家ルースが滞在していた[接収した]僧侶の家近くのバザール広場で、興奮した女性の群れが白熱した議論を始めた。何時間か経ってナバートが鳴らされ、四方八方から駆けつけた群衆は僧侶の家を包囲し、セミョーノフとルースが居住していた部屋に押し入り、彼らを捕らえて通りに引き出し、殺害した」。引用が長くなったが、教会は権力にとって民衆反乱の明確なシンボルとなり、農民にとっては共同体的結束の要となっていたのである。
20年から各地で始まる旱魃などの異常気象はこの傾向に拍車をかけた。21年になるとサマラやニジェゴロド県など殆ど至る所で、イコンを先頭にした雨乞いの祈祷などの宗教的儀式が「伝染病のように」広まった。タムボフ県やシベリアでも、「旱魃に関連し、祈祷の波が方々に広がり、僧侶が活動し始めた」。飢饉に対して政府の援助がない中で、農民の最後の拠り所が教会であった。トヴェリ県では、虫害からの救済に祈祷が用いられた。21-22年飢饉で有効な対策を持たない党指導部は、教会への危機感を募らせ、確かに21-22年飢饉は飢餓民援助のために教会資産を没収するための絶好の口実となったが、政府内に教会を弾圧すべきとの切実な理由が存在していたのである。
したがって、教会や信徒からの押収された教会貴金属と同等な寄金の申し入れをボリシェヴィキ権力が拒否した事実から判断しても(22年3月17日の中央委員への極秘書簡でトロツキーは、貴重品を買い戻そうとする信者の提案をはねつけ、断固として没収を続けるよう指示を与えた)、財政面だけでこれを考察するのは不充分であろう。とはいえ、この時期に財政を再建しなければならない客観的状況が存在していたのもまた事実である。なぜなら、ネップ体制とは戦時共産主義幻想の中で模索されていた現物=貨幣無し経済(すなわち社会主義的交換関係)から貨幣交換=自由市場に基づく経済政策への転換を意味し、そこでは財政の健全化が最重要課題となったからである。詳しくは後段に譲るとして、この措置は教会弾圧と財政再建というボリシェヴィキ権力にとっての緊急課題が実に巧妙に絡み合い、タイミングの妙といい、この絡み合いを解きほぐすのは至難であり、本稿の考察もそこまでは及んでいない。しかし、これなくしてネップ体制の構築はありえなかったことだけは断言できる。
財政面でいうなら、革命直後の財政政策は銀行の国有化、より正確にはその資産10億6430万金ルーブリの没収から始まった。しかしながら、この総額のうちブレスト講和に基づきドイツに8億1220万金ルーブリが支払われ、残りの殆どすべて、2億3550万金ルーブリがコルチャーク軍に奪われた。こうして財政基盤のない革命政府は超インフレに見舞われたが、上述のように貨幣なし交換を夢想する戦時共産主義期の段階では、現物交換または現物支給が一般的で、国家の財政的破綻は問題視されず、むしろこの貨幣経済の崩壊現象は貨幣なし=社会主義経済への移行にとって有利な条件であると見られていた。
しかしながら、21年3月の第10回共産党大会で構想していた方針は、結果的に全国的市場の存在と貨幣取引の自由を招来させ、ネップ初期にはこの問題の解決をきわめて厳しく迫られたのであった。この大会の現物税に関する審議の際に、プレオブラジェーンスキィはフランス革命時のアッシニャ紙幣の減価をはるかに超えたソヴェト・ルーブリの減価を指摘し、われわれはフランス革命を40倍超えたと辛辣に皮肉ったように、安定通貨の創出が緊急に求められたのである。そこでアッシニャ紙幣が教会財産の没収を財源に発行されたように、教会貴金属を担保とした安定通貨を目論むのは自然の流れであった(革命の実践的経験を持たないボリシェヴィキ指導部は、住民への課税方法や反革命運動の処罰方法など実に多くをフランス革命から学んでいる。このことについては1923年にベルリンで出版され、崩壊後のロシアで再版された『赤色テロル』の中で詳しく論じられている)。こうして教会財産の没収は財政面からもボリシェヴィキ権力にとって不可避な任務として設定されていた。
ここで考察すべき第二のポイントは、そのやり方である。内戦期に農民のみならず労働者の経済的基盤を完全に崩壊させ、物理的にも肉体的にも民衆を生存の危機にまで追い込んだソヴェト政府は、飢饉というきわめて民衆が困窮状態にある時期に、その援助を口実に宗教弾圧を行ったこと、すなわち、物理的糧を奪っただけでなく、最後の拠り所であった精神的基盤へも襲いかかったのである。そもそも21年夏にマクシム・ゴーリキーに先駆けて、飢餓援助のアピールを最初に訴えたのは総主教チーホンであった。彼は大飢饉に襲われたヴォルガ地方への独自の援助を提案したにもかかわらず、ボリシェヴィキ指導者はそれを反革命と言い繕い、教会と信徒への暴力的弾圧を加えたのであった。これは、22年春に飢饉がもっとも厳しい段階に達したその時の出来事である。自国民の惨状からの救済は、彼らにとって決して最優先事項ではなかった。
2、秘匿された大飢饉
ウラルの都市チェリャビンスクでソ連崩壊後間もない1994年に、教師用補助教材として出された小冊子『死者の刈り入れ』(論文集)の中で、筆者の一人は「ソヴェト人の何世代かはこの飢饉について何も知らされなかったか、速やかに克服したとの文脈でしか言及されない歴史教科書で教育されてきた」と、この大飢饉がソ連時代に国民の間で秘匿されたか非常に過小評価されてきた事実を指摘する。
1930年代初頭にロシアを襲った大飢饉は、スターリンの強制的集団化との関わりで、ソ連時代にも一定の研究が認められたとしても、21-22年飢饉に関する実態的研究は皆無で、現在でも研究成果はそれほど多くはない。おそらく理由を二つ挙げることができる。第一に、この飢饉の原因を遡求すればレーニンを中心とする共産党上層部の責任に辿り着き、彼らの非人道的対応が犠牲者の数をいたずらに増やしたことも含めて、レーニンや革命体制への本質的批難に結びつくからである。第二は、当時のロシア政府には自力でこの飢饉を克服するだけの物質的余裕はまったくなく、外国援助組織、特にH・フーヴァーを議長とするアメリカ援助局(ARA)の援助がきわめて重要な意味を持ったからである。
だからこそ、ソ連時代には、ARA職員の多くはスパイであり、ARAはクラーク、聖職者、元特権階級幹部から構成されていたとか、「アメリカ合衆国はARAを通して食糧の軍事的備蓄の在庫を処分し、これによって国内の資本家が農産物価格を引き上げることができた」との議論が公然と主張されていた。その他の多くは宗教団体からなる人道的援助組織は殆ど完全に無視された。この飢饉との関係を明らかにすることなしに、ボリシェヴィキ権力の本質を語ることができないというのは、我田引水に過ぎようか。
この飢饉の原因は20年から始まる旱魃などの異常気象を原因とすることもできない。なぜなら、旱魃は例えば1892年にも1911年の飢饉年にも認められたが、被害はこれほどの規模とはならなかったからである。従来は「レーニンは、飢饉は内戦のとてつもない結果であると語った。飢饉はまた農業の大きな後進性、封建的地主体制の重苦しい遺産によって生み出された」と主張されてきたが、そのおもな原因は明らかにボリシェヴィキ権力による政策的過ち、それによる農村の完全な荒廃であることは、『ソヴェト権力とロシア農民』、『幻想の革命』(京都大学学術出版会、2004年)で詳述したので、ここでは繰り返さない。
ここではまさにこの未曾有の大飢饉の中で、ボリシェヴィキ権力が飢饉という大災厄にどのような対応をしたかについて焦点を当て、簡単に触れようと思う。
前掲書ですでに指摘したことだが、20年から各地で飢饉が顕在化していたにもかかわらず、ボリシェヴィキ政府はその認定にはきわめて消極的であった。
21年8月31日の全ロシア中央執行委下の飢餓民援助中央特別委幹部会会議は、バシキール共和国、チェリャビンスク県、ペルミ県サラプル郡を飢餓地域に認定するかの問題を審議し、正確な資料に欠けるとの理由で結論を次回に持ち越した(この時期に21年収穫はすでに確定しているのだが)。次回9月3日の同会議では、バシ共和国だけが飢餓地域に認定され、残りの結論は再度持ち越され、ようやく10月12日の同会議でチェリャビンスク県に関して結論が出された。それによれば、ヴェルフネウラリスク、トロイツク、ミアス郡全体とクルムィシ郡とチェリャビンスク郡の一部が飢餓地区と認定され、そこでは県内需要のための食糧税を宣告することが県執行委に認可された(このような認定を受けても、中央政府からの援助がないことに注意)。
だが、われわれはすでに夏季にチェリャビンスク県ゲー・ペー・ウーからの次のような報告を知っている。「7月4日。苦しい食糧事情に関連し、県の住民の気分は悪い。ミアス郡で餓死のケースがあった。ヴェルフニェウラリスク郡で、労働者の間で大量の仕事のさぼりがある[もちろん、食糧配給を受け取れなくなった労働者は衰弱のために仕事に出られないか、食糧探しに出かけているのがこの無断欠勤の理由である]。同郡の農民は家族全員で穀物の豊かな地方に出向いている。県では旱魃のために、森林火災が頻発した。トロイツク市では、コレラ感染が見られ、その死亡率は25%に達した」。「8月11日。播種面積の大きな部分が旱魃と蝗の被害を受けた。ミアス、クルガン、トロイツク郡の農民は大きな群れをなして県から逃げ出している。コレラ感染が強まっている」等など。
このような現状を党指導部は完全に知悉していても、飢餓地域の認定は再三持ち越されたのである。さらに、飢餓地域に認定されたとしても、共同給食などが組織されたのは21年12月以降であり、本格的救援活動は22年春に外国組織から援助物資を受け取るようになるまで待たなければならなかった。こうして、12月には同じく現地ゲー・ペー・ウーの報告によれば、「トロイツク郡では食糧がないために孤児院が閉鎖され、2708人の子供が見殺しにされた。孤児院の死亡率は60%に達している」惨状が引き起こされた。
上記の小冊子の筆者の一人は、おそらくこれまでまったく手つかずであった現地チェリャビンスク州のアーカイヴ資料から多数の人肉食やそれを目的とした誘拐事件についての多数の事実を引用する。「餓死と同時に飢餓のために飢餓による犯罪的行為の様々な形態が広がった。飢餓に起因する自殺、飢餓の苦しみを軽減する目的、または生きている者に多くの食糧貯蔵を残す目的で家族の殺害、盗みのための殺人、飢えからの窃盗、屍肉食、人肉食・・・・。全体として人肉食は県内で広く展開された。県内でもっとも苦しい飢餓郡であるヴェルフネウラリスク郡で特にそれは広がり、8月中に全部で86件の人肉食が記録された」。
さらに筆者は「飢饉の時に自分の子供を食べざるをえない者もいたが、砂糖、獣脂、茶、コニャックなどの潤沢な配給を得た者もいた」ことを指摘する。21年6月に全ロシア・ソヴェト中央執行委は、「ロシア共産党中央委書記局のもっとも責任ある活動家のきわめて苦しい食糧事情に鑑み、彼らのために食糧生産物の定期的な月別交付を確定するのが必要である」として、月間1人当たり「砂糖4フント、茶4フント、ライ麦粉20フント、バター3フント、チーズまたはハム4フント、乾燥野菜5フント、塩1フント、普通石鹸2個、化粧石鹸2個、タバコ500本、マッチ10箱」の配給基準を定め、「積荷目録にワイン、コニャック、ゆで豚、その他のデリカテッセンが記載された」荷物を載せた荷馬車やトラックが党参謀本部に向かっていた。
3、ボリシェヴィキ権力の飢饉への対応
ロシア民衆の餓死への脅威は、この時だけでなく革命直後からあらゆる地方から叫ばれ、それからの救済を求めたが、それらの殆どがボリシェヴィキ権力によって拒否された。19年1月の全ロシア食糧会議では、「人々が蠅のように餓死している」北部アルハンゲリスク県から穀物国家供給が要請されたが、それは中央工業諸県での労働者への配給を損なうとの理由で拒否された。割当徴発が実施されるようになると、餓死しないよう徴発の停止を求める無数の農民の叫びが中央に届けられた。19年3月にトヴェリ県ヴェシエゴンスク郡から、予定量が徴発されれば播種できなくなり、「われわれは餓死を運命づけられる」と訴えた。20年6月にカルーガ県コゼリスク郡執行委幹部会議長は郡内で餓死者が出たことを確認した。20年9月にリャザニ県エゴリエフスク郡から、働き手を失い殆ど収穫できなかった赤軍兵士家族は「来年夏まで家族はどうやって生き長らえるのか分からない」と餓死からの救済を求めた。
もうこれ以上の引用は不要であろう。要するに、二月革命以来の食糧危機はボリシェヴィキ権力の下で徐々に深まり、多くの農民は餓死寸前までに追い込まれていたのである。しかしながら、19年春と20年夏に提示されたARAからの飢餓民支援の要請は、ソヴェト政府(外務人民委員チチェーリン)によって、自力で飢餓民の援助をできるまでに経済力の回復が可能であること、現在はそれができないとしても純粋に人道的援助というARAの意図は疑わしいとの理由で、拒否されたのであった(ARAの目的を人道援助だけに還元することはできず、おそらくその目的の一つは戦争難民対策であったと推定できる。特に東欧で発生した大量の難民の群れは、戦後復興にとって大きな障碍になると予想されていたであろう。こうしてARAのおもな活動地は東欧であった。しかし、このARAの意図を認めたとしても、ソヴェト政府が援助を拒否した理由は正当化できない)。彼らにとって民衆の無辜の命は何に値したのだろうか。
ARA援助を拒否したソヴェト政府であったが、飢餓民援助のための食糧資源をまったく持っていないのは明らかであり、そのため21-22年飢饉の直接の発端となる、20年夏に確認された中央農業諸県での飢餓民に対しても中央政府からの援助はまったく想定されなかった。
20年の収穫を待たずして、ヴォルガ全流域地方で今年の収穫は非常に悪く、サマラやサラトフなどの多くの地方で熱風のために穀物が全滅したことが明らかとなった。それでも戦時共産主義政策によって幻惑されていたボリシェヴィキ指導部にとって、現行の割当徴発の破棄は考慮の対象外であった。9月に食糧人民委員部内で飢餓援助策が具体的に検討されるようになったが、そこでは割当徴発の完遂が飢餓農民の援助と結びつけられた。同月13日に県食糧委に対して凶作を蒙った飢餓農民への援助に関する指令が出され、その中で現地農民から割当徴発によって徴収された穀物資源を飢餓農民に再配分するよう指示された。同月29日には飢餓県と認定された、カルーガ、ブリャンスク、オリョール、トゥーラ、ツァーリツィン県に食糧人民委員部から放出される食糧特別基金に基づく共同給食を組織するための指令が出されたが、現地の情報によれば、実際には中央政府からの援助は殆どなく、共同給食は機能しなかったことを示している。
サマラ、サラトフ、タムボフ県などの穀物生産県から20年の凶作の情報が多数入っていたが、これらの地域での割当徴発の廃止は問題にもならなかった。タムボフ、サラトフ、ポクロフスク、ドイツ人コミューンの視察に赴いた食糧人民委員部参与スヴィヂェールスキィは10月11日の食糧人民委員部参与会会議で、そこには凶作がないことが判明した、割当徴発の縮小の要求は聞かれたが、飢餓災害はまったくなかったと述べ、そこでの割当徴発の完遂に向けてのいっそうの尽力を求めた。
しかしながら、そこではすでに恐ろしい飢饉が蔓延していた事実は多くの資料から確認される。例えば、サマラ県からの9月のゲー・ペー・ウー報告で、凶作のために農民は重苦しい気分にあり、何が何でも徴発する食糧部隊に対して農民は激しく抵抗していることが指摘された。凶作に見舞われたタムボフ県ではすでにアントーノフ運動が全県的規模で展開されていたのは周知の事実であった。つまり、1000万プード[1プードは約16キロ]以上の割当徴発対象県(突撃県と呼称されていた)は、凶作にありながら割当徴発を中央に搬出するために、決して飢餓県とは認定されなかったのである。飢餓認定県のうち20/21年度の割当徴発指定量は最大でトゥーラ県の550万プードで、ブリャンスク県は150万プードしかなかった。それに対して、タムボフ県には1150万プード、サマラ県には1600万プードが割り当てられていた。
旱魃の被害を蒙った県の収穫の結果を、サマラ県食糧コミッサールは1620万プードと評価した。すなわち、この量はほぼ20/21年度の割当徴発量に匹敵した。それでも同県での割当徴発の減量はまったく認められず、「何が何でも徴発する食糧部隊に対して農民は激しく抵抗」したのである(21年1月末で同県での割当徴発の遂行率は56%であり、凶作の下で収穫量の半分以上が徴発されることになる)。このような常軌を逸した割当徴発の結果は明白である。サマラやタムボフ県など、割当徴発が集中して実行された地域で、21-22年飢饉の犠牲者が特に甚大であった事実は偶然ではない。
すでに厳しい食糧危機が蔓延するロシア農村に飢餓を強いるのは、割当徴発の実施直後から認められた。19年1月の布告により穀物生産諸県に対する割当徴発が実施されたが、当然にも調達が進捗しない中で、7月に人民委員会議[閣僚会議]はそれらの県食糧委に、現地での需要を最小限にまで縮小し、現地での国家配給受給者の数をできるだけ削減し、割当徴発を完遂するよう命じた。同年9月30日にも収穫後も中央ロシアの飢餓が癒やされていないことを理由に挙げて、「生産諸県はその消費を最小限にする義務を負う。生産諸県は生産者から余剰を収用し、内部消費を極限にまで縮小し、もっとも短期間に飢えた者へ穀物を確保する義務を負う」ことが再確認された。ここでは農民への抑圧を強化し、できるだけ多くの穀物を汲み出すことが強調された。こうして穀物生産県の飢餓状況は、最大限の穀物の汲み出しを至上命題とする中央権力によって完全に無視された。このような方針は、「過酷な戦時共産主義」にのみ付随する固有な現象ではなく、ネップへの移行の際にも繰り返されるのを以下で見るであろう。
『幻想の革命』で詳述した、1921年3月の第10回ロシア共産党大会で採択された「割当徴発から現物税への交替」の意味を、実例を一つだけ挙げて示そう。通常はこの措置がネップの嚆矢と解釈され、軍事的抑圧をともなう戦時共産主義体制から自由な経済活動を保証するネップ体制への転換が行われたとされる。しかし、現実は農業の荒廃と農民の抵抗によって食糧割当徴発の遂行が不可能になり(正確にいえば、食糧割当徴発から種子割当徴発への転換がなされ)、その結果食糧供給源を失った中央権力はこれまで何とか維持されてきた食糧配給制を放棄し、民衆を飢餓の脅威に晒してしまったのである。
21年4月19日づけのヴャトカ県執行委から党中央委への書簡はこの事実を明確に指摘する。「20年秋以後ヴャトカ県食糧委は一連の報告書で県の破滅的食糧事情への食糧人民委員部の配慮を促してきた。県食糧委は、穀物の搬入なしでは新収穫まで県は生き長らえることができないことを指摘した。送付した報告の結論は、県の食糧事情、特に北部郡では月ごとに急速に悪化していることを明白に述べていた。[県は穀物を受け取らないだけでなく]ヴャトカ県は現在までに搬出命令を受け取っている。[・・・]全部でこの2ヶ月半で100万プード余りの搬出命令を受け取った。県は文字通りの飢餓の局面を迎え、そこには約100万プードの穀物(または200万プードのオート麦)が不足しているにもかかわらず、それでもヴャトカ県はこれら命令を受け入れ、[・・・]県食糧委は食糧人民委員部によって与えられた搬入の約束が実現されるのを期待して、県に残された資源の利用をできるだけ長く引き延ばすために、再三消費を縮小するのを余儀なくされた」。
こうして中央への穀物の搬出を命じられた同県では3月以後軍需工場の労働者を除く市民へのパン配給は完全に停止した。「穀物の供給を食糧人民委員部が拒否したため、危機が一面を覆っている。この県北部地区の部分的危機は、すでに訪れ始めている全県的危機の予兆である」。6月には県執行委によって配給が停止されたため、住民には餓死が迫っているとして、その救済を村は党中央委に訴えた。ここに挙げたヴャトカ県の例は決して特異なのではなく、このような実例は多数アーカイヴ資料に残されている。
こうして、割当徴発の廃止は通常想定されているのとは逆に、全ロシアに飢餓を蔓延させる結果を招いたが、このことについては殆どの研究者は沈黙している。
しかしながら、20年秋から始まるロシア生産諸県での飢饉の存在は、調達対象地域の変更を余儀なくさせた。ロシア共和国のほぼ全域を襲った旱魃は、割当徴発による農業の解体が著しかったサマラ県などのヴォルガ流域やタムボフ県を含む中央黒土諸県またヴャトカ県を含むウラル地方に特に被害を集中させた(従来は、この飢饉の原因をことさら旱魃と結びつけようとして、もっぱらヴォルガ流域での旱魃の事実が強調されてきたが、実際にはあらゆる地方から旱魃に関する情報が寄せられた)。こうして、ロシア中央生産諸県での現物税徴収の達成はきわめて困難が予想され、21/22年度の穀物調達では、シベリアとウクライナと並んで、辺境地方が特に重要な意味を持つようになった。
20年8月26日づけロシア共和国布告によって、キルギス自治ソヴェト社会主義共和国が形成され、そこにはオレンブルグ、セミパラチンスク、アクモリンスク、ウラリスク県などが含まれた。21年春のロシア共和国食糧人民委員部による調査で、セミパラチンスク県では家畜は全滅し、播種のための種子は60万プード不足していたと指摘されるような状態で、旱魃に襲われたキルギス共和国の食糧事情はきわめて厳しいことが充分に知悉されていた。しかし、共産党中央委の提案を受けてロシア共和国人民委員会議は6月21日づけで、キルギス食糧人民委員部に対してセミパラチンスクとアクモリンスク県の穀物は中央のために確保されたことを通知した。キルギス食糧人民委員部は当然にも凶作に見舞われた自国の住民に対して比較的収穫の順調なこれら両県での穀物調達を実施しようとしたが、それは中央権力によって厳禁された。
8月6日づけのレーニンの署名になる電報は、「もっとも困難な政治的時期に、中央の供給に予定されている穀物をそのように利用するのは許し難い」として、両県に出されたキル共和国向けの穀物搬出命令を即座に破棄し、キル食糧人民委員部に課せられた中央への穀物の確保に全力を注ぐよう同食糧人民委員部に命じた。8月26日づけのレーニンのキルギス食糧人民委員部宛の電報はより直裁にこのことを指示した。「アクモリンスクとセミパラチンスクですべての穀物は中央への搬出のために確保された。[・・・]現地での資源を再配分する権限はキル共和国の組織に与えられていない。ロシア共和国食糧人民委員部以外によって与えられた、アクモリンスクとセミパラチンスクの穀物の利用に関するあらゆる訓令を破棄する。これら地方[からの]穀物の搬出はもっぱら中央の命令によって行われ、その際に当該地方の県内消費を縮小することで、調達した[食糧]資源のしかるべき搬出が求められる」。飢餓にあるキルギス住民の生存権を蹂躙しても、中央への穀物の確保を命じたのである。
この結果は、キルギス共和国での未曾有の飢饉である。キルギス地区ゲー・ペー・ウーは22年初頭の実状を次のように報告している。アクモリンスク県:「住民は飢えている。湖の水苔を乾燥させ粉にして麦粉に混ぜている。そのような食事のために病気と死亡が広がっている。住民、特に貧農の気分は危機的で打ちひしがれている」。ウラリスク県:「農民の気分は飢饉のために著しく悪化した。ルベジンスカヤ郷では飢えた住民は猫を食用にし、ステップで集めた骨を粉にして、食用にしている」。オレンブルグ県:「気分は沈鬱。農民は援助を受け取ることができると考えて、都市を目指している。飢餓民の間でチフスの感染が広まっている。オレンブルグ市では毎日150-200人の死者を数えている」。「アクチュビンスク県で農民とキルギス人はパニック状態にある。彼らのうちキルギス人は死から逃れようとキャラバンでトルケスタンに向かい、別の一部(ロシア人)は仕事とパンを求めてウクライナに向かっている。飢饉のために郷では馬泥棒が蔓延し、殺人が行われ、コレラ、赤痢、チフスが広まっている。アクチュビンスク市では毎日孤児院で10-15人が死んでいる」。
文字通りの飢餓輸出を強いられたキルギス共和国での罹災者は甚大な規模に上り、22年1月には公式資料によれば飢餓民の数は160万に達し(人口の約34%)、その後も急速に増え続けた。21年12月のロシア共和国食糧人民委員部によるキルギス共和国の穀物バランスは、約1590万プードの穀物不足であり、飢餓地区に認定された。しかしながら、ここでの飢餓地区にセミパラチンスク県とアクモリンスク県は含まれなかった。きわめて厳しい飢饉でありながら、両県は中央向けの穀物を搬出するため、飢餓地区から除かれたのであった。
4、ウクライナの悲劇
このような最大の悲劇をウクライナで見ることができる。そもそもウクライナは二重の意味で革命後はロシアに比べていっそう厳しい運命に晒された。第一に、何度も繰り返される政変によって農民経営はきわめて不安定な状態に置かれた。二月革命以後はケレンスキー政府、次いで十月革命から18年3月まではボリシェヴィキが支配していたが、ブレスト講和に準じてドイツ軍が侵攻し、19年1月まではその傀儡政権であるスコロパーツキィが支配し、ドイツ軍の撤収にともなって19年3月までは民族主義的ブルジョワ体制がペトリューラによって採られた。この時期から特に内戦が激化し、パルチザン軍を率いたネストル・マフノーがボリシェヴィキと共闘し、再三裏切られる舞台が整えられる時期である。こうして19年3月から8月までボリシェヴィキの支配下にあったが、その後フランス、ギリシア、イタリア軍に支持されたヂェニーキンの占領からボリシェヴィキによってウクライナが解放されたのが20年1月であった。だがこれは悲劇の始まりでしかなかった。
第二に、マフノーの運命が象徴するように、ボリシェヴィキ政府の支配はウクライナ農民にとって厳しいものであった。ウクライナの解放以前に反革命政権の支配下に置かれていたことにも関連し、ウクライナでの穀物調達はクラークが支配的と想定された農村での階級闘争が特に強調され、そのためロシア共和国では早々に挫折した貧農委員会の指揮の下に調達が実行され、ロシア以上にそれは暴力的であった。
ウクライナ史研究者、中井和夫はこの時期の飢饉について、「これまでの研究者は旱魃を直接の原因とする。しかし、21-22年の飢饉は全ウクライナに及んだのに対して、ステップ地域だけが飢餓状態を味わった。また、ステップ地域は従来体験した旱魃でこのような結果を招かなかった。疑いもなく、旱魃はその年の不作の原因であったが、それは飢饉の原因ではなかった」と、適切に指摘する。
ウクライナの解放はボリシェヴィキ権力にとって、食糧危機が深刻化するロシア共和国のための穀物獲得源以上を意味しなかった。19年初めにウクライナ食糧人民委員に任命されたシリーフチェルとともに、総勢2500人の87個の食糧部隊がウクライナに出発し、別の部隊もそれに続いた。そしてこのウクライナ食糧人民委員部の設立は、ウクライナ食糧人民委員部のロシア食糧人民委員部への完全な従属の下に行われた。ウクライナ人民委員会議議長ラコーフスキィとシリーフチェルの署名になる19年2月2日づけ命令書第1号は、ロシアへの供給をウクライナ・ソヴェト政府の最大の任務と宣告した。
その宣言は、第3回全ウクライナ共産党大会で承認され、その決議では、できるだけ多くの食糧をロシアに発送するよう命じられた(ロシアとウクライナの関係を象徴するエピソードを一つだけ挙げよう。同年3月に開催された第3回全ウクライナ・ソヴェト大会で、ある代議員がウクライナ語で話し始めるたびに、大部分をロシア人が占めるホールはざわめき「おれたちには分からないぞ」と叫びはじめ、登壇者はロシア語に替えるのを余儀なくされた。ラコーフスキィは両語の平等を宣言していたが、大会のすべての公式文書はロシア語で作成され公表され、逓信人民委員部によって、電報で打たれるすべての公式通信はロシア語で伝えられなければならない旨の指令が出された)。
ロシアの殆どの諸県で21年2月に割当徴発は停止されたが、ウクライナでの穀物調達は継続された。しかしながら、燃料不足で穀物貨物列車は至る所で立ち往生し、マフノー運動の主要な攻撃対象となった食糧活動家と食糧機関は崩壊し、実質的にウクライナでの割当徴発も停止した。そして3月末に自由取引の認可に関するロシア政府の布告が公表されるや、担ぎ屋の群れや労働者組織が堰を切ったようにウクライナを含む穀物生産地方に溢れた。4月には「最近ウクライナの運輸を根本から解体し、未曾有の大量の担ぎ屋が溢れている。特にウクライナに隣接するヴォロネジ、クルスク、ゴメリ、さらにはトゥーラ県から、多くの個々の担ぎ屋、様々な組織は、ロシアの食糧組織と県執行委の通行許可証を持っている」、「緊急措置が執られないなら、担ぎ屋の波は、ウクライナの主要な穀物諸県での調達活動と、軍隊とドンバスへの供給を最終的に崩壊させる」など、ウクライナ共産党中央委から再三このような非組織的穀物獲得を停止させるようにとの要請が出されたが、5月末にはゲー・ペー・ウー議長によって、ウクライナでの穀物調達活動がこれらの組織によって完全に解体されたことが確認された。ロシアの飢餓民によって、ウクライナにある余剰はこうして、すっかり汲み出されたのであった。
これに追い打ちをかけたのが、ウクライナの特にステップ諸県に忍び寄る異常気象であった。20年の夏は早霜で、冬は積雪が少なく突風が雪と大地とともに秋蒔き穀物の根も吹き飛ばし、21年の凶作を予想させるのに充分であった。春が訪れても降水量は異常に少なく、4月末以後2ヶ月以上も一滴の雨も降らなかった。それに猛暑が続いた。すべての穀物は干上がり、通常の丈にまで成長せず、多くの場所で春蒔き穀物から実も藁も収穫できなかった。播種面積が大きく減退する中で、秋蒔きライ麦の収穫率は、例えば、ザポロジエ県では1デシャチーナ[約1ヘクタール]当たり1914年の平均75プードが21年には6プードになった。
ウクライナ全体で1人当たりの食糧用穀物量は戦前に18プードであったとしても、21年には10プードしかなく、飢饉地区では5プードを超えなかった。ここでもロシアの飢饉と同様な光景が見られた。戦前時の凶作年は前年までの穀物備蓄で賄われていたが、この時には家畜と備荒用穀物が清算された。ザポロジエ県では16年に66万頭以上数えた馬は21年には18万頭に満たず、22年には12万頭にまで激減した。
飢饉の問題で難しいのは、平均的数値が余り意味を持たないことである。当時の様々な条件によって穀物は偏在し、輸送手段の欠如も相まって、同じ県内や郡内でもたとえ平均収量が平年並みであったとしても、飢餓地区が存在したからである。クバーニンの『マフノー運動』(1927年)には、革命以来樹皮を噛んで飢えをしのぐほどの飢餓に喘ぐウクライナ民衆の姿が描かれている。それでも権力は現物税の実施を強行した。その結果、例えば、1人当たりの穀物と馬鈴薯の平均収量が5.7プードしかないドネツ県で、税の支払いと播種の後では0.12プードしか残らなかった。
未曾有の大凶作の下でも、ボリシェヴィキ権力は農民からの現物税の徴収に躊躇しなかったが、そこでの徴収は二重の負担を農民に強いることになる。第一に、もちろん、飢餓民から最後の食糧源を奪うことはいうまでもないが、それだけではない。第二に、この時の現物税は殆ど根拠のない収穫予想に基づいたために実際よりはるかに高い税率が設定されたことである。戦前のウクライナの穀物総収穫は11億2500万プードであった。21年の収穫を政府は7億5000万プードと見積もったが、実際には4億5000万プードの収穫であった。後に飢餓県と認定されるステップ5県は、戦前の平均収穫量4億プードに対し8200万プードの収穫しかなかった。こうして設定された現物税はきわめて重い負担としてウクライナ農民に降りかかったのである。ロシア農村でも同様である。大凶作は自然災害であったとしても、大飢饉は人為的である。
21年夏からウクライナでの飢饉は顕著になった。それまでは都市部では非常に高価であったとしてもパンを手に入れることができ、郡部よりもましな生活であったが、8月からおもに馬鈴薯の不作による食糧の困窮が始まった。郡部は都市に何も提供しなくなった。パン価格の上昇とともに飢餓民の数も増え、彼らは襤褸を纏い通行人に施しを請うていた。寒さの到来とともに、凍てつく大地に横たわる彼らは骸に変わり果て、誰もそれを取り除こうとせず、犬がそれを食いちぎるに任せた。農村も同様な惨状にあった。すでに山羊、羊、豚などは屠畜され食い尽くされた。彼らの何人かはキエフやポドリスク、さらにはその先のどこかを目指して、家を捨て離村した。殆ど何も食べず、飢えが強まり、彼らは途上で病に倒れ、その多くが約束の地に辿り着くことなく列車内で死んだ。そもそも約束の地などどこにも存在していなかった。鉄道駅、特に乗換駅では、このような死から逃れようとする大勢の飢餓民の群れを見ることができた。
飢餓は村落内で急速に広まり、荒廃した農村には何も残されず、猫や犬、それに油粕やトウモロコシの芯などの代用食が通常の食事となった。粘土や雑草も食べた。これら食糧がなくなったとき、飢饉の最終局面が訪れる。人々は農家の屋根に葺かれた藁、長靴、馬具の革を食べ始める。彼らが耐えている非人間的苦痛は彼らを非人間的にし、そのように野獣になった人々は屍肉を食用にし、カニバリズムに至る。民衆の悲劇は常に至る所で同じ光景で幕が閉じられる。
飢饉は人為的=政策的段階から、次いで犯罪的段階へと移る。21年8月に飢餓民援助のためにロシア政府とARAとの間で行われたリガ交渉で、そこは相対的に豊作であるとの理由で、援助対象地域にウクライナは含まれなかった。21年6月に開かれた第3回全ロシア食糧会議で、21/22年度穀物調達の以下の方針が確認された。ヴォルガ流域の凶作は6000万プード以上の食糧税収入の減退を意味し、そのため政府はほかの地域での徴収を強化しなければならない、という。すなわち、ボリシェヴィキ政府の構想とは、ヴォルガ流域諸県の飢饉だけを認め、その援助はARAを含む外国組織に任せ、ほかの地域での穀物徴収を強化するというものである。その際に当該地域が飢餓地区であるか否かは斟酌されなかった、正確にいえば飢餓地区であったとしても容赦はしなかった。
こうして、飢饉に喘ぐキルギス共和国のうちアクモリンスクとセミパラチンスク県は調達対象県になったために飢餓地区に認定されなかったように、ウクライナもそこがシベリアと並んで21/22年度の主要な穀物調達対象地域に設定されたため、リガ協定には含まれなかった。ARA代表は21年11月23日づけ飢餓民援助中央特別委議長宛の書簡で、ロシア政府のARAへの統制を強めようとする様々なリガ協定違反を指摘した後、ウクライナでの飢饉を調査しようとのARAの提案に対してロシア側は(具体的に誰かは言及なし)、ウクライナには飢饉は存在しないとの理由でそれを拒否した事実を挙げてロシア政府の対応を非難した。11月29日にハリコフを訪れたARA代表団は、ウクライナ当局からウクライナは独立国であり、ロシアと締結されたリガ協定にウクライナは含まれていないとの説明に驚きを隠さなかった。ロシア政府はそこでの飢饉の存在を認識しながらも、ウクライナ民衆への飢饉援助を妨碍し続けたのであった。
ウクライナのステップ諸県、ザポロジエ、ドネツ、ニコラエフ、オデッサ、エカチェリノスラフ県が飢餓地区に認定されたのは、22年1月1日のことである。22年8月に出されたARAの報告書はニコラエフ県の飢饉の惨状に触れた後、次のように指摘する。「ニコラエフ地区で飢饉を引き起こした原因を以下に纏めることができる。21年の凶作、前年までの収穫からの貯蔵の欠如、ニコラエフ地区自体が飢饉であることが判明する以前にヴォルガ流域に引き渡すため割当徴発が実施されたことであり、中央ウクライナ政府は22年1月1日までニコラエフ地区を飢饉地区に認定しなかった」。
また、22年に発行された飢饉に関する公式資料集では、「ウクライナ全土で[21年の]主要穀物の総収穫は平年(16年)の30%しかなかった。個々の凶作県では、オデッサは16.5%、ドネツは12.3%、エカチェリノスラフは5.1%、ザポロジエは5.1%、ニコラエフ県は3.9%しかなかった」とその厳しい現状を示すが、飢餓の認定が遅れたことは「12月まで情報が入らず、飢餓民の数に関する正確な情報はなかった。そのような情報はようやく12月に多少なりとも正確に入るようになった」と説明するが説得的ではない。なぜなら、この同じ資料集ですでに21年秋から始まる農業の崩壊が指摘されているからである。21年秋には飢えた農民の殆どが播種することができなかった。
「冬の訪れまでにエカチェリノスラフ、ザポロジエ、ドネツ県では家畜の半数以上が失われた。20年秋と21年秋の家畜総頭数を比較するなら、ザポロジエ県が最大で58%を失い、ドネツは56%減少した。農民によって豚が真っ先に清算され、初秋で70-80%が屠畜された。家禽も同様であった」。要するに、ウクライナでの飢饉は政策的に隠蔽され、飢餓にもかかわらず穀物は強制的に供出させられ、さらに飢餓民援助の遅れはウクライナでの飢饉の被害をきわめて甚大にした。ソヴェト政府の公式資料集によれば、22年5月にはザポロジエ県では飢餓民は74.5%に達した。「ヘルソン[飢饉地区に認定されていない]では7万人の人口のうち3万人しか残らず、後は死につつあるか四散した。時には村全体が死滅した。オデッサ県統計局の資料によれば、22年4月で生誕69人に対し死亡は3749人であった」。
大凶作であることを知悉しながらも現物税を徴収し、飢餓民援助を拒絶し続けた結果がこれであった。
5、秘密裡の宗教弾圧
教会資産を飢餓民援助に活用しようと構想するのは、あらゆる物質的資源が枯渇しながらも国外からの援助に懐疑的であった当時の中央権力にとって当然の成り行きであった。だがすでに述べたように、この時まで権力と教会の関係は、例えば戦時共産主義期に、ヴォルガドイツ人コミューンで、教会の維持のために自発的な寄付制度が取り入れられ、穀物や麦粉の寄付が集まったとき、食糧人民委員部は聖職者から摘発されたすべての穀物と麦粉は没収されると言明したような事例が散見されるとしても、多くの場合教会そのものはまだ攻撃対象とはなっていなかった。ヤロスラヴリの村牧師によれば、「農民は以前のように教会に忠実で、宗教行事への支払を続けていた」。例えば、21年7月に最大の飢饉罹災地の一つサマラ県では、教会調度品を教会評議会に販売し、その売り上げを基金にすることが認められた。
これまで繰り返される飢饉の際に、教会がその援助に奔走するのはいわばロシア社会の伝統になっていた。飢饉の惨状が最早動かし難いものになり、それでも遅々として進捗しないロシア政府の援助活動を目の当たりにして、総主教チーホンは1921年7月11日にロシアの信徒、世界の民衆、国外のキリスト教会に向けてロシアを襲っている災厄からの救済を訴えた(マクシム・ゴーリキーのアピールはこの翌日に出され、これを受ける形でリガ交渉が始まった)。さらにチーホンは8月22日づけの書簡で、教会は自発的に飢餓民を援助し、そのための寄付集めを組織する用意があることを中央権力に訴えた。
総主教の指導の下に組織的寄付集めと寄付の分配を行うための教会委員会が設置され、地方でもこれに倣って宗教管区で聖職者により同様な飢餓民援助管区委員会が創られ、8月以後教会による自発的寄付の徴収が始まった。7月18日の全ロ中央執行委幹部会決定により設置された飢餓民援助中央特別委(議長カリーニン)は、その幹部会臨時会議で教会委員会の設置を妥当と認めたが、ほかの多くのボリシェヴィキ指導者はこの活動への教会の関与に強く反対し(公式には18年8月30日づけ、宗教組織による慈善活動禁止に関する法務人民委員部指令を根拠として)、チーホンからの様々な飢餓援助の呼びかけを完全に黙殺した。
だが、徐々に深まる飢饉の破滅的状況は、教会の寄付にも依存せざるをえないような状況を創り出し、様々な制限を設けながらも21年12月8日に全ロ中央執行委は飢餓民のための資金集めを教会委員会に公式に認可した。地方当局からの様々な妨碍の中で、教会は22年2月までに、貴金属や食糧を含まず892万ルーブリ以上の寄付を集めることができた。
だがこのような活動の背後で、教会弾圧の態勢は秘密裡に進行していた。この策動がいつ始まったのかを正確に特定するのは難しいが、その中心人物がトロツキーとレーニンであること、22年2月16日づけの、教会資産から金銀宝石のあらゆる貴金属を収用し、それを飢餓民援助のために財務人民委員部に引き渡すことを命じた布告よりはるか先立つことは確実である。トロツキーは、教会からの資産の没収を急ぐこと、この遅延は犯罪的であるとした22年1月12日づけのレーニンへの極秘書簡に続き、1月30日づけのレーニン宛の極秘書簡で、ゲー・ペー・ウー報告書によれば現在使われていない修道院から金銀が押収されているが、現在機能している教会からの収用は特に重要な任務であることを喚起させた。
この措置はタタール共和国で先行し、すでに1月24日づけ同共和国ゲー・ペー・ウー議長の極秘草案では、飢餓民援助の基金を形成するため「赤色商人」からの営業税の徴収や罰金の強化と並んで、教会資産を没収する方針が確認された(ただし、3月15日の政治局会議は、地方のイニシアチヴでこれを行った廉で同ゲー・ペー・ウー議長を解任した)。いずれにせよ、教会貴金属の収用に関する布告の構想と審議は、党指導者間の極秘文書の往復によって行われたのである。きわめて異常な政策決定過程である。
総主教チーホンは教会貴金属の収用について2月28日づけで次のように訴えた。21年8月に「われわれによって飢餓民援助全ロシア教会委員会が創設され、すべての寺院と残りの信徒グループの間で飢餓民援助に予定された金銭の徴収が始まった。だがかような教会組織はソヴェト政府によって余計なものと見なされ、教会によって徴収されたすべての金は政府委員会への引渡しを要求された(そして引き渡された)。だが12月に政府はわれわれに、教会管理部組織(最高宗務院、最高教会会議、主教区会議、宗教管区、教会教区会議)を介して、飢餓民支援のために金銭と食糧の徴収を行うように提案した。
飢饉で死に絶えつつあるパヴォルジエ住民へのできる限りの援助を強化しようと願い、われわれは礼拝に必要のない値打ちのある教会の装飾品と物品を飢餓民の需要のために犠牲にすることを教会教区会議と集会に認可するのが可能であると見て、このことについて今年2月19日に特別のアピールとして教徒住民に通知した」と、これまでの教会の活動を総括した後、チーホンは、「神聖でない礼拝に必要のない教会物品を寄付する可能性を容認した」にもかかわらず、実施されようとしている、「教会の精神的指導者に対する政府新聞での激しい攻撃に続く、聖なる什器、その他の礼拝用教会物品を含むあらゆる貴重品の寺院からの収用」は、「教会の観点からかような行為は神聖冒瀆の行為」であるとして厳しく論難した。
この時からボリシェヴィキ権力と教会との対立は決定的となった。飢餓民援助がボリシェヴィキにとって絶好の機会になったというのは、単に飢餓民援助基金が教会資産を没収する際の表向きの理由となっただけではない。飢饉が頂点を迎えようとする22年春になると、殆どの民衆には教会弾圧に抵抗する力は残されていなかった。このため、教会資産の没収過程で個々の抵抗は認められるとしても、これを原因とする大規模な民衆の直接行動はまったく発生しなかった。まさにレーニンとトロツキーは絶好のタイミングを計ったといえる。
特定の地方を選抜して多くの地方で没収すべき財産目録作りの作業が3月に始まったが、このカムパニアは、中央委書記モーロトフの言葉によれば、「余りにも僅かで、遅々として進んで」いなかった。各地からこれに対する民衆の抵抗についてのゲー・ペー・ウー極秘報告が送られた。「タムボフ県(3月8日)。農民の気分は教会資産の収用に関する布告のために思わしくない。エラチマ郡のある村で教会資産の登録に関する特別委は、農民によって放逐された。別の村では農民は聖職者と一緒に、教会資産収用に関する特別委議長を殺害することを決議した。聖職者とクラーク分子は、教会資産の収用を許さないとの強力な情宣を行っている」。「カルーガ県(3月9日)。教会資産の収用に関する特別委は至る所で活動に着手した。聖職者は反革命的情宣を行っている。タルサ郡の郷の一つで農民の公然とした直接行動があり、部隊が派遣された。リフヴィン郡である村団は教会資産の替わりに市場価格により穀物を引き渡すことを提案した。特別委はこの請願を拒絶した」。「ノヴゴロド県(3月10日)。大衆からの教会資産収用への対応は敵対的」。もちろん、これに抵抗したのは農民だけではない。オデッサでは労働者だけでなくコムソモール員の間でも、これに対する憤激の声が挙がった。ペトログラードでは教会貴重品収用に関する特別委は集まった信徒の群れによってカザン寺院から放逐された(3月14日)。
こうした混乱と行き詰まり状態の中で、22年3月28日に官報『イズヴェスチャ』でイヴァノヴォ=ヴォズネセンスク県シュヤ市の事件が以下のように詳細に報じられた。3月3日シュヤ郡執行委の決議により教会貴重品の収用に関する布告に準じて、特別委が設置された。小さな教会から貴重品の収用を始め、3月13日に特別委は大寺院からの収用に取りかかろうとしたが、信者グループの激怒に遭遇し作業を3月15日まで延期を余儀なくされた。当日は大寺院広場に夥しい群衆が集まった。近づいた騎馬民警に脅し、石礫、棒切れが浴びせられた。鐘楼ではナバートが打ち鳴らされた。146歩兵連隊半個中隊と機関銃付きの2輌の自動車がその後到着した。群衆から拳銃の射撃がなされ、群衆は半個中隊を包囲しようとしたその時、赤軍兵士の隊長のプリカースにより空への銃撃が行われたが、これは効果がなく、2度目の一斉射撃で群衆は四散した。4人が死亡し10人が軽傷を負った。
夜までに広場で商人、教師などが逮捕された。その晩に信者代表が郡執行委に大寺院の貴重品のうち3.5プードの銀を引き渡した。3月23日に特別委と信者代表は大寺院貴重品の収用に取りかかった。約10プードの銀は郡財務部に、貴石、真珠の付いた僧服、その他の貴重品は国家貴重品保管所に引き渡された。すべての押収物は飢餓民援助中央特別委により特別の登録が行われた。あえて官報で報じられたこの顛末も、同様な騒擾が各地で展開される中で、特に人目を引くことでもなかった。現地ゲー・ペー・ウーの極秘報告も、「イヴァノヴォ=ヴォズネセンスク県(3月20日)。イヴァノヴォ=ヴォズネセンスク郡で教会貴金属収用に関する特別委が活動に取りかかった。シュヤ郡で教会貴金属収用に関する特別委に民衆の群れは活動をさせず、特別委メンバーに乱暴を働こうとの試みがあった。紛争は収められ、近日中に活動に取りかかる」と、この事件を簡潔に伝えている。
だが、1990年に初めて公表された、この事件に関する22年3月19日づけ中央委書記モーロトフへのレーニンの極秘書簡はきわめて異常である。この時中央委員に配布され、レーニンの判断の根拠となった事件の資料は以下のイヴァノヴォ=ヴォズネセンスク県委書記から3月17日に発信され、翌18日に入電した暗号電報である。「県委は、シュヤで3月15日に教会貴重品の収用に端を発した、修道院僧侶とエスエルの影響の下に扇動された群衆によって民警への襲撃と赤軍兵士の出動が発生したことを通知する。赤軍兵士の部隊はデモ隊によって武装解除された。特殊部隊と146連隊赤軍兵士の機関銃とライフルにより群衆は蹴散らされ、その結果病院側で死者5人と負傷者15人が記録された。[・・・]3月15日11時半にこの同じ理由で2工場が決起した。夕刻までに市内で秩序が整えられた。16日朝には労働者は通常通り作業に取りかかった。住人と労働者の一部の気分は意気消沈だが、苛立ってはいない。県執行委は事件の調査のために特別委員会を選抜した」との事件の推移であった(これを補足する暗号電報が以下で述べるように3月21日に入電している)。
事態は完全に沈静化されていたが、この事件の調査のために特別委をシュヤ市に派遣する事案を検討する翌3月20日の中央委政治局会議にレーニンは出席できず、そこで中央委員にこの事件への対応の指針を表明したのが、この書簡であり、末尾に、決して写しを取らず、政治局員全員に回覧して賛成か反対をメモ書きして戻すようにとの注意書きが付けられた。
この手続きだけでも異常であるが、その内容はさらに異常である。
シュヤ事件を教会貴重品の没収に関する新聞報道や総主教チーホンの非合法的アピールと比較すれば、チーホンを頂点とする黒百人組[極右集団の代名詞]的聖職者が決戦を仕掛けようとして、練りに練られた計画であると、この中でレーニンは断罪し、次のように指示する。「わたしが思うに、わが敵対者にとってそれが特に絶望的で特に不利益なときにわれわれに決戦を挑もうとして、大きな戦略的過ちを犯している。逆にわれわれにとって、とりわけまさにこの時期は絶好機であるだけでなく、一般的にいって敵軍を一人残らず粉砕しこの先何十年もわれわれにとって必要な地盤を確保するのに完全に成功する機会が九分九厘あるという唯一の好機に恵まれている。まさに現在、飢饉地域で人が食べられ、通りで何千でないとしても何百の屍体が横たわっている現在だからこそ、犯罪的抵抗を弾圧するのに躊躇することなく、もっとも苛烈で容赦のないエネルギーでわれわれは教会貴重品の収用を行うことができる(そのため、そうしなければならない)」。結論でレーニンは次のようにいう。「われわれはまさに現在黒百人組的聖職者へのもっとも断固として容赦のない戦闘を行い、彼らが数十年にもわたりこのことを忘れないような厳しさで彼らの抵抗を弾圧しなければならない。この計画の実施カムパニアをわたしは次のように示そう。
公式には同志カリーニンだけが何らかの方策を持って着手し、決して同志トロツキーは紙上にも公衆の前にも出てはならない[教会弾圧に関する様々な中央委への提案はトロツキーによって行われ、彼が中心人物であったが、この事実の秘匿を命じているのである]。
収用の一時停止に関して政治局名ですでに送られた電報を破棄してはならない[3月16日の中央委政治局決定により、地方によっては準備不足であることを理由に挙げ、活動の延期を指示する電報が送られた]。それはわれわれにとって好都合である。なぜなら、敵対者の中に、あたかもわれわれが動揺し、われわれを脅すのに成功したと思わせるので。[・・・]シュヤで教会貴重品収用に関する全ロ中央執行委布告に反対する暴力的抵抗の事案に直接的間接的に関与した嫌疑で、できるだけ多く少なくとも数十人の現地聖職者と現地小ブル階級の代表を逮捕すること。[・・・政治局全権の]報告に基づき政治局は、飢餓民援助に抵抗したシュヤ叛乱者に対する審理が最大限に迅速に行われ、シュヤ市、できればこの市だけでなくモスクワやその他のいくつかの聖職者センターのもっとも影響力がある危険な黒百人組を非常に多数銃殺刑で終わらせるよう、司法当局に詳細な指示を口頭で与える。
[・・・]党大会でこの問題に関わる代議員全員はまた殆ど全員が、内務人民委員部下国家政治管理局、法務人民委員部、革命裁判所の主席活動家と合同で秘密会議を持つ。この会議で、特に富裕な大修道院、修道院、教会の貴重品の収用がもっとも容赦のない決意と、無条件に躊躇なく最短期間で行われなければならない旨の大会秘密決定を行う。これを根拠に反動的聖職者と反動的ブルジョワジーをわれわれができるだけ多く銃殺するほどよい。何十年にもわたって彼らがいかなる抵抗をも考えつかないよう、まさに現在この連中を懲らしめる」。この極秘書簡の精神は、各地で食糧徴発に反対する農民蜂起が猖獗する1918年夏に出された、クラークとの決戦が行われているときに、100人以上のクラークを人質に取り絞首刑にし、周囲数百キロにわたって見せしめにせよ、できるだけ多くを銃殺にすればするほどよいといったレーニンの指示とまったく同一である。農民蜂起への残虐な弾圧指令がボリシェヴィキの内在的論理から導き出されたように、戦時共産主義からネップへの政策転換は、この本質を些かも変更させる要因とはならなかった。
そしてこの極秘書簡の最後の異常性は、教会資産没収の目的にも現れた。「われわれは是非とももっとも断固としてもっとも速やかに教会貴金属の収用を行う必要があり、それによりわれわれは数億金ルーブリの基金を確保することができる(いくつかの修道院と大修道院の巨万の富を想起する必要がある)。この基金なしに、一般にいかなる国家活動、いかなる経済建設、特に、ジェノヴァでのいかなる立場の堅持もまったく考えられない」と、経済再建のため、特にジェノヴァ会議での交渉を有利に進めるために、財政基金を確保する必要が明示されている。この極秘書簡では飢餓民対策にはまったく触れられなかった。
民衆の間では、没収された貴重品がコムニストの間で分配されているなどの風聞が飛び交い、ペトログラード県飢餓民援助特別委は府主教への22年3月5日づけ声明で、「寄付された貴重品は実際に飢餓民に送られる」ことを明言していたが、それは完全な虚偽であった。トロツキーは3月23日づけ党中央委員への書簡で、「飢餓民用の穀物を受け取るため押収された教会貴金属を決済して、直ちに100万ルーブリを割り振る」と提案したが、2月までに教会が自発的に徴収した寄付総額900万ルーブリ弱に比べて、その金額は余りにも少なすぎた(押収された貴金属を国外で現金化する問題もこの時期頻繁に議論され、そのため極秘にトロツキーを長とする貴金属の現金化に関する特別委が設置され、例えば、22年3月22日の同特別委の極秘議事録では、現金化のためにヨーロッパでシンジケートを形成するのが必要であり、それまでは内部人民委員部によって現金化が行われ、ジェノヴァ会議の開催期間にその形成を交渉するため外交特権によって多数を出張させることが決定された。現金化された総額やその具体的方法は不明)。
そしてシュヤ事件以後、司法を含めた教会弾圧の全過程が党中央委の管轄となった。実際にはシュヤ事件を報じた県委書記からの電報に続き、それを補足する3月21日入電の暗号電報では、赤軍兵士の負傷者4人、市民の負傷者8人、赤軍兵士の死者なしの事実を報告した後、「3月16日に労働者の代議員集会は事件の意義を明らかにするよう決議し、収用に賛意を表明した。17日の労働者集会で郡執行委と郡委から群衆に参加した者が報告し、集会は権力の行動を僧侶の行動に対する適切な抵抗と認めた。その他の一連の労働者協議会も同様な対応を示し、速やかな収用を要求し、イヴァノヴォでの守備隊、工場での集会、テイコヴォ、キネシマでの赤軍兵士、労働者の集会は収用の決議を出している。レジネヴォで直接行動があり、それはまだ没収されていない貴重品を速やかに首尾よく清算した。本日の県農民無党派協議会は僧侶をポグロム煽動者として弾劾し、収用法を承認した」と、イヴァノヴォ=ヴォズネセンスク全県で収用に向けての措置が順調に進んでいることを指摘する。シュヤでの活動は順調に進行し始めていたのである。
だが権力にとってこの現実は規定の方針を些かも変更する理由にはならなかった。教会弾圧の口実に飢饉が利用されたように、党中央委または中央委政治局、そしてレーニンとトロツキーにとってシュヤ事件は教会弾圧の絶好の口火となった。ゲー・ペー・ウーは総主教の逮捕を直ちに行うよう勧告したが、同日付け中央委議事録には、「1. 今ではなくおおよそ10-15日後に、主教会議と総主教の逮捕を必要と認める。2.シュヤに関する資料を公表し、責任ある僧侶と俗人を一週間以内に裁判所に送致する(張本人を銃殺)」などの措置が附則として掲げられた。
レーニンの先の極秘書簡で指示されたように、このカムパニアでの裁判も完全に党中央委の統制下で行われた。モスクワでの直接行動についての審理で5月8日に、11人(司祭、教区監督僧、市民)に最高刑、27人に5年から1年の禁固刑が下された。同日カーメネフはこの判決を不服とし、減刑の提案を中央委に提出したが、中央委によりこの提案は却下された。最高刑を受けた被告は最高裁上告部に控訴するとともに、全ロ・ソヴェト中央執行委に減刑を請願し、それは同幹部会会議で審議され、判決を受けた5人に関して請求を棄却し、残り6人に対して革命裁判所の判決を自由剥奪5年に変更する旨が決議された。5月11日にカーメネフは既決者の恩赦の問題を中央委に提案し、それに対して5月14日にトロツキーは、「11人全員に対して公平な判決を実現するため」6人の減刑を停止するとの結論を提出し、5月18日の中央委政治局会議はこの結論に合意した。党中央委政治局決定が、形式的には最高権力機関である全ロ・ソヴェト中央執行委幹部会に優先する構造を、この過程ではっきりと読み取ることができる。
22-23年で2691人の司祭、1962人の修道士、3447人の修道女が処刑された。モスクワ、ペトログラード、シュヤ、イヴァノヴォ=ヴォズネセンスク、スモレンスク、スタラヤ=ルサ[ノヴゴロド県]で貴重品の収用に抵抗した聖職者とその参加者の司法審理が開かれ、大量銃殺で結審した。ペトログラードでは80人の有罪判決と府主教ヴェニアミンを含む4人の死刑判決、モスクワでは154人の有罪と11人の死刑判決が出された。
モスクワ裁判は22年4月26日から5月8日まで開かれ、主要な証人として総主教チーホンが再三召還された。この裁判も当然ながら、5月4日づけ党中央委政治局の「1.直ちにチーホンを裁判にかける、2.僧侶に懲罰の最高措置を適用する」との決定に導かれていた。レーニンが極秘書簡で手を付けないようと勧告した総主教も、3月20日のスケジュールより若干遅れたものの、5月9日にドンスキー修道院に軟禁され、夏に監獄に収監された。精神的支柱を失った信徒の打撃は大きく、これによって教会弾圧はシュヤ事件を契機に、ボリシェヴィキ権力の完全な勝利に終わった。
22年10月21日にカリーニンが飢餓民援助中央特別委の活動の終了を宣言したとき、a)33プード32フント36ゾロトニクの金、b)2万3997プード23フント24ゾロトニクの銀、v)112プード35フント18ゾロトニクの少額貨幣、g) 3万6500個、1614カラットの金剛石とダイヤモンド、d) 4550個28連、14プード32フント3ゾロトニクと100カラットの真珠、e)その他の宝石7万1762個5連、108カラット、4プード31フント9ゾロトニク、j)銀貨2万7215枚、金貨2606枚、1プード12フント29ゾロトニク、z)物815個、52プード30フント4ゾロトニクという、膨大な貴金属が教会資産から押収されていた。これが僅か半年間で行われたことだけでも驚歎すべきである。
これらの資産のうちどれだけが実際に飢餓民援助に向けられたのかを示す資料は持っていないが、しかし次の二つの事実だけは明らかである。第一に、この資産の徴収は無数の聖職者と民衆の犠牲をともなっていること。第二に、この間ネップの必要条件としての財政の健全化は着々と成果を挙げ、通貨改革としては、22年7月に発行額の25%は貴金属によって、75%は短期債券などの流動資本によって保証される新しい安定通貨、チェルヴォネツ銀行券が発行されたことである。この銀行券は旧来のソヴェト紙幣と併存した1年を経てネップ期の基本的通貨となった。まさにネップはこれら民衆の無数の悲劇と犠牲の下に将来の発展を約束されたのである。
何度も繰り返すことではあるが、われわれは、戦争と内戦によって余儀なくされた過酷な戦時共産主義と、民衆、特に農民への一定の譲歩を示した健全で安定した政策としてのネップとを対比させることに慣れてしまっている。21-22年の飢饉の大惨事さえもロシア革命の歴史の中で葬り去られてきた。このような誤った歴史解釈を導いたもっとも大きな要因は、いうまでもなくレーニン時代のボリシェヴィキ政策は誤謬がなかったとする認識である。この時の飢饉を決定づけたのがボリシェヴィキの政策であることは、すでに論じているのでここでは触れなかった。
それはそれで犯罪的行為なのだが、むしろより重要なことは、この国家的大災厄に直面した権力が執った行動であろう。その意味で中央ロシアの救済のために、実際に飢饉の惨状にあった穀物生産地域に、飢餓を認定することなく、そこからも穀物徴発をし続けた行為は国家的犯罪であり、その決定の頂点にレーニンがいたことをわれわれは決して忘れてはならない。特にウクライナを含めて非ロシア民族地域(自治州であれ自治共和国であれ)にきわめて苛酷な負担を強いた事実をここでも強調しなければならない。
レーニンの「神聖冒瀆」が本稿の目的ではないとしても、彼を頂点に戴くロシア共産党中央委決定によって、何世紀にもわたる夢が革命によって実現されることを期待した農民は、それが革命後の歴史過程の中でボリシェヴィキ権力によって暴力的に解体されるだけでなく、最低限の生きる権利さえも完全に蹂躙されてしまった事実に決して目を背けてはならない。マフノーがこの夢のために闘い、常にボリシェヴィキによって裏切られてきたウクライナでこの傾向が強かったのは決して偶然ではない。たとえそれがレーニンの「神聖冒瀆」になったとしても、ボリシェヴィキ支配の現実を直視し、それへの正当な評価を下すことがわれわれに残された課題であり、そこでの何百万もの犠牲者を無駄にしないためにも、このような歴史的事実の解明をわれわれは求められているのである。
以上 健一MENUに戻る
〔関連ファイル〕
梶川伸一『飢餓の革命 ロシア十月革命と農民』1917、18年貧農委員会
『ボリシェヴィキ権力とロシア農民』クロンシュタット反乱の背景
食糧独裁令の割当徴発とシベリア、タムボフ農民反乱を分析し、
レーニンの「労農同盟」論を否定、「ロシア革命」の根本的再検討
『幻想の革命』十月革命からネップへ これまでのネップ「神話」を解体する
『レーニンの農業・農民理論をいかに評価するか』十月革命は軍事クーデター
『十月革命の問題点』2006年4月16日講演会レジュメ全文
1918年5月、9000万農民への内戦開始・内戦第2原因形成
『「反乱」農民への「裁判なし射殺」「毒ガス使用」指令と「労農同盟」論の虚実』
『聖職者全員銃殺型社会主義とレーニンの革命倫理』教会財産没収と秘密裡の宗教弾圧
『見直し「レーニンがしたこと」−レーニン神話と真実1917年10月〜22年』ファイル多数