十月革命の問題点

 

梶川伸一

 

 ()、2006年4月16日、東京で、梶川伸一金沢大学教授の講演会が開かれた。主催は、梶川講演会実行委員会である。集会の内容・雰囲気については、主催者北山峻氏の短評にある。講演レジュメ全文と短評全文を、このHPに転載することについては、梶川氏と北山氏の了解をいただいてある。〔関連ファイル〕にあるように、梶川著作については、著書(抜粋)3冊、シンポジウム報告全文1冊とこの講演レジュメ全文で、5つをHPに載せた。

 

 〔目次〕

     はじめに

   1、社会主義とは何か

   2、ロシアにおける資本主義の発展

   3、階層分化論と共同体農民

   4、食糧をめぐる「階級闘争」

   5、プロレタリア独裁からボリシェヴィキ独裁へ

   6、労農同盟

   7、戦時共産主義体制

   8、ネップは融和策か

 

   9、北山峻『4月16日梶川講演会の盛況に寄せて』

 

 〔関連ファイル〕      健一MENUに戻る

    梶川伸一『飢餓の革命 ロシア十月革命と農民』1917、18年貧農委員会

          『ボリシェヴィキ権力とロシア農民』クロンシュタット反乱の背景

           食糧独裁令の割当徴発とシベリア、タムボフ農民反乱を分析し、

           レーニンの「労農同盟」論を否定、「ロシア革命」の根本的再検討

          『幻想の革命』十月革命からネップへ これまでのネップ「神話」を解体する

          『レーニンの農業・農民理論をいかに評価するか』十月革命は軍事クーデター

 

    第3部『革命農民への食糧独裁令・第3次クーデター』

       1918年5月、9000万農民への内戦開始・内戦第2原因形成

    『「反乱」農民への「裁判なし射殺」「毒ガス使用」指令と「労農同盟」論の虚実』

    『見直し「レーニンがしたこと」−レーニン神話と真実1917年10月〜22年』ファイル多数

 

 はじめに

 

 ちょうどマルクスが当時の資本主義システムを精緻に考察・分析し、その後の未来社会を展望したように、ソ連型、中国型などのいわゆる社会主義体制を批判的に検討し、われわれも新しい社会を展望しなければならない。そのためには、ソ連の崩壊という事実を社会主義体制全体の解体として捉えるのではなく、個別の事象として歴史的、社会科学的に具体的に分析する必要があり、そこでは、ソ連型社会主義の「歪曲」をスターリンの個人的資質に還元し、それを批判するような皮相的方法から決別し、より根本的、よりラジカルな批判的検討を行う必要がある。そして当然にもレーニンの支配するボリシェヴィキ権力そのものがその対象となる。しかしそれは同時に、現在のロシアの史学界で支配的な、ボリシェヴィキ体制の全否定と帝政ロシアの賛美に堕してはならない。

 

 このことを視野に入れつつ、問題提起の素材として以下の8点を指摘したい。

 * 以前は「大十月社会主義革命」と正式には呼称されていた十月革命も、近年は革命революцияではなく、蜂起восстаниеやクーデターповоротと呼ばれることが普通になっているが、ここでは「慣例」にしたがって革命なる用語を使用する。

 

 

 1、社会主義とは何か

 

 そもそも社会主義とは何かといった単純な問いに精確に回答するのは難しい(この問題について専門的に語る資格はないのだけれど)。周知のように、マルクスにせよエンゲルスにせよ、共産主義または社会主義に関する具体的記述は殆どない。一般的には、搾取関係のない平等社会が想定される。すなわち、労働の分だけ賃金を得る。ただし、この段階では熟練、非熟練、男女の性差による不平等が残るので、真の平等ではない。これを共産主義の前半と見る(後にこの段階を社会主義とする)。このための具体的措置として1875年に結成されたドイツ社会主義労働者党の「ゴータ綱領」に対する、マルクスが執筆した批判的コメント『ゴータ綱領批判』の中で、労働時間に応じて労働証書が発行され、労働者はこの証書により生産物を受け取るとの簡単な記述。それ以外に殆ど、具体的方策に触れていない。真の共産主義は、必要なものは欲しいだけ獲得できる完全な平等社会とされるが、それ以上の具体的記述なし。

 

 国有化の問題もマルクスは具体的に論じていない。搾取の基盤をなす私的所有の破棄は自明の前提であるが、それ以後の所有の問題には触れず。一般的には、私的所有の破棄=国有化と考えられているが、論理的には社会主義または共産主義社会では、国家の役割は弱まるか最終的には消滅するので、事実上は所有の問題は未解決。また、十月革命直後の諸政策は、大戦中に特にドイツで実施されていた戦時国家統制経済をモデルにしたことはよく知られている。また国家独占資本主義体制との区別も充分に実証されていない。要するに、所有の問題は基本的に未解決。土地の国有化の問題はその典型である。

 

 レーニンは一貫して土地の国有化を主張していたのに対して、エスエルは社会的所有、または人民的所有を視野に入れ、土地の社会化を構想していた。「土地についての布告」では土地の全人民的所有が表明されているが、18年1月の全ロシア食糧大会では、農民が生産する穀物は「国家資産であり人民資産」と規定され、5月の人民委員会議[レーニンを首班とする内閣]の訴えでは「土地と工場だけでなく穀物も全人民的資産とならなければならない」と述べられ、これが食糧徴発の論理的根拠となったように、実質的に社会化=全人民所有と国有化の区分は不明瞭であった(そもそも同年2月9日づけ『土地の社会化基本法』での規定が曖昧であった。すべての土地の私有権が廃止され、土地は全勤労人民の利用に移管すると述べられているものの(第1、2条)、同時に穀物の国家専売が宣言され(第19条)、社会主義を達成する目的で個人経営より集団経営に優先権が与えられ(第35条)、具体的土地所有の問題にまったく言及なし)。

 

 また所有の主体である国家についていうなら、レーニンはエンゲルスの主張、国家=暴力装置論を受け入れ、ブルジョワ社会におけるこの機能を重視。1917年執筆の『国家と革命』では、官吏の選挙による登用などで国家の抑圧的機能を軽減する様々な措置が提言されているものの、十月革命後にはこの問題にまったく触れず。本書はレーニンの一連の作品の中でも極めてユートピア的傾向が強いと評価されている。むしろ、彼の本質はブルジョワ独裁が持つ国家=暴力装置論が強調され、社会主義初期段階に必然化されるプロレタリア独裁の役割の重視である。ボリシェヴィキ体制がプロレタリア国家でない以上、こうして全人民的所有と国家所有の乖離が発生する。

 

 国家もしくは社会について、ここで看過してならないのは、マルクス理論はすでに市民社会が形成されつつある近代社会における社会変革を目指したのであり、非抑圧階級の市民権などは自明の前提となっている。つまり、権利として平等なはずの市民の間で、支配と被支配、搾取と非搾取の関係が成立している資本主義体制が批判の対象となっているのである。

 

 またこの「未来社会」への道程も必ずしも共通の合意があったのでもない。晩年になるとマルクスはロシア語版『資本論』(1872年3月末に出版)を契機に、ロシア農民共同体に関心を抱くようになる。そこで実施されている「勤労原理」と「均等原理」に着目し、それを新しい社会の出発点になりうると評価。82年に出された『共産党宣言・ロシア語版』の中で、ロシア共同体から直接社会主義への移行の可能性を認め、そのための条件として「ロシア革命が西ヨーロッパにおけるプロレタリア革命の合図となり、そして二つの革命が相補うことが必要である」と書いた。これは同時に、マルクスがダニエリソーン、ヴェラ・ザスーリッチらロシアのナロードニキ系の理論家と接近したことを意味する。レーニンが、共同体を後進的ロシアの象徴と見て、その廃絶を目指していたのと好対照をなす、ねじれ現象である(この点でレーニンはストルィピンと同様に近代化論者である)。ただし、レーニンの生存中は1881年3月に書かれたロシアの農民共産主義を高く評価する『ヴェラ・ザスーリッチの手紙』の存在は知られていなかったことは配慮すべきであるが。

 

 

 2、ロシアにおける資本主義の発展

 

 古典的マルクス主義者にとって、高度に資本主義の発展した先進国においてまずプロレタリアート革命が起こるのは自明のことであった(例えば、『経済学批判序説』に基づけば)。したがって、ロシア革命を目指すためにはロシアにおける資本主義社会の成立が無条件に証明されなければならない。エンゲルスはマルクスと異なり、1883年以降「ロシアでは資本主義的生産様式の一切の基礎が築かれた」として、資本主義移行論の立場を採るようになった。それに対し、リベラルやナロードニキ系の理論家は、80年代に入るとロシア資本主義没落論を展開するようになる(ロシア二つの道論争)。ボロンツォーフの『ロシアにおける資本主義の運命』(1882)など。当時の国際的環境で国外市場はすでに西欧諸国に独占され帝国主義的分割競争に対抗できず、国内では雇用力が小さな機械工業は充分な賃金労働者を創り出すことができないために国内市場を狭隘化させ、ロシアにおける資本主義の発展には限界があると主張。

 

 マルクス主義的革命家は、この限界論を論破する必要があった。その最初の作業は1856年生まれのプレハーノフによって行われた。元々はナロードニキの思想から出発した彼は、ロシアにおける社会主義者の任務について次のようにいう。「わが国ではロシアの社会主義者の任務は西欧の同志の任務と本質的に異なっているとの確信が現在でも充分に流布している。しかし、すべての国の社会主義者にとって最終的目的は同一であることもさることながら、ロシアの経済制度の特殊性に対するわれわれ社会主義者の合理的態度は、西欧の社会主義発展の正しい理解によってのみ可能である」。すなわち、ロシア資本主義は西欧資本主義をなぞるとの主張である(82年の『共産党宣言・ロシア語版』の中で書かれた訳者序文)。これ以後ロシア社会主義者の課題は、ロシアで西欧型革命理論に基づく状況を創り出すことになり(この近代化論的立場をレーニンは引き継ぐ)、マルクスとは逆の論理展開となる。

 

 

 3、階層分化論と共同体農民

 

 革命家レーニンはしたがってブルジョワ=ナロードニキ系の資本主義非発展論に対して、ロシアでの資本主義の発展を論証する必要に迫られた。これが『ロシアにおける資本主義の発展』(1899)の主旨である。ここで再度指摘しなければならないのは、マルクスの、例えば、『経済学批判序説』に現れているように、後進国は先進国に倣って発展するという「発展論」に立脚したことである。この方向性に革命を展望する点で、レーニンは明らかにナロードニキ、後のエスエル(左翼エスエル)の立場とは異なる。この著書の中で、当時のゼムストヴォ統計に基づきロシア農村では上層農民と下層農民との比率が増加している事実を論拠に、国内では農民層の両極分解が進行していることを証明した。つまり、階層分化の結果、富農層は生産財市場を形成し、貧農=農村プロレタリアートは消費財市場を形成し、こうして国内市場が徐々に形成されることで、国外市場に依拠せずともロシアにおける資本主義の発展の可能性を示した。

 

 ここでの問題点は、第一に、そこで想定される貧農層とはレーニンの解釈では農村プロレタリアートでなければならなかったが、当時の大多数の共同体農民の現実からは、このような存在はごく僅かであった。すなわち、実態的にはレーニンが措定した貧農とは共同体農民のうちの零細農であり、彼らの生活様式や意識は決してプロレタリアート的でなく、明らかに農民的。実際の農村プロレタリアートは土地なし農民として確かに存在したが、彼らは基本的には共同体によって雇用される牧夫など共同体からは排除された存在であり、勤労農民から見れば「部外者」。第二に、上層農民とは、地主または富裕農民であり、レーニンはこれを貧農を雇用する農村ブルジョワジーと見た。だが、富裕農民とは多くの生産手段を保有する共同体農民であり、一般には多くの播種面積を持つ大家族で、もっとも活発な経済活動を展開する農民層であり、共同体の有力者であった。革命後の政策との関連でいえば、レーニンは共同体農民をまったく理解していなかったことは明白。別の言い方をすれば、近代化論的立場から農民の伝統的規範は完全に無視された。

 

 このような理論は、本来的にはロシアにおいてプロレタリアート革命を成功させる理論的根拠でしかなかったが、より深刻な問題は、この階級(分化)理論が十月革命後もそのままの形で踏襲されたことである。ロシア社会、特に農民社会の激変があったにもかかわらず。上記の点に沿っていうなら、第一に、「土地の布告」により共同体に土地配分がなされたために共同体から土地を受けることで、すでに300万程度いたと思われる土地なし農民=農民プロレタリアートは、小土地共同体農民として再編された。こうして皮肉なことに、十月革命は農村革命の支柱としてレーニンが想定した農民プロレタリアートを消滅させる結果となった。第二に、私的所有の廃止によって地主が消滅したため、革命後は富裕農民、クラーク、または農村ブルジョワジーは完全に富裕共同体農民と同義となった。要するに、これまではストルィピンの改革によって共同体農民からの離脱があり、70%以下であった共同体的土地利用が革命後は約98%にまで上昇し、共同体的関係が著しく強まり、共同体的農民の一体性がこれまで以上に高まった。

 

 

 4、食糧をめぐる「階級闘争」

 

 二月革命と同様に十月革命も飢餓が主要な原因の一つである。蜂起直後に開催された全ロシア・ソヴェト大会で、間もなく束の間の夢と判明するまでは民衆が渇望し臨時政府では実現できなかった講和と土地の問題に決着が付けられた。しかし、食糧危機に関する問題は中央政府で議論の対象にもならず、食糧在庫の無秩序な掠奪と穀物を求めての都市住民の担ぎ屋行為が全国に溢れ出た。こうして、十月革命後の「内戦」はまず食糧をめぐり展開された。食糧を持つ側=農民(共同体農民)と食糧を持たない側=都市労働者との対立である。20世紀初頭の都市住民(都市に移住した第1ないしは第2世代)は依然として何らかの形で故郷の農村との関係を保持し続け、そのためペトログラードでは収穫期になると一定の工場は操業を停止し、労働者が農作業のために帰村するのを認めていた。こうして、農村との紐帯を色濃く保持していた都市住民であったが、17年に特に厳しくなる食糧危機の中で、農村と関わりのある都市住民は食糧を求めて故郷に戻った(この点でも革命後に共同体は強化された)。

 

 その結果、後に残された都市住民は独自に食糧獲得の手段を持たない純然たる都市プロレタリアートとして、穀物生産農民と対峙することになる。農村に「余剰」穀物が存在していたならば、もちろん対立は発生しないが、都市と同様に多くの農村も飢餓状態であった(大戦による労働力と役畜の動員などにより、農業生産は減退していた。ただし、地方によっては大量の備蓄があり、要するにこの時期の飢餓は生産よりも流通に大きな原因があったと推定)。こうして多くの農民は自発的な穀物の供出を拒否するようになり(安い公定価格より高い闇市場に流れる可能性も含めて)、ボリシェヴィキの唯一の支持基盤である都市労働者が解体するおそれが生じた。また、食糧と交換するために工業資財、完成・半完成品の窃盗が頻出したこともあり、中央政府は労働者を調達部隊として組織し武装化させるようになった。

 

 このようにして少ない穀物の取り分をめぐって都市と農村との「内戦」が勃発。ボリシェヴィキ権力は「余剰」の自発的供出を拒む農民をクラークと認定し、彼らとの断固とした武装闘争を指示した。この典型的実例をここでも引用しなければならない。18年夏に中央農業県ペンザ県を席巻した中央の食糧政策に反対する農民蜂起に関する電報を受け取ったレーニンは、現地ソヴェト議長宛に次のように回答した。「同志諸君!クラークの5郷の蜂起を容赦なく鎮圧しなければならない。革命全体の利害がこのことを要求している。というのは、今や至る所でクラークとの「最後の決定的戦闘」が行われているので、手本を示さなければならない。1、100人以上の名うてのクラーク、富農、吸血鬼を縛り首にせよ(必ず民衆が見えるように縛り首にせよ)、2、彼らの名前を公表せよ、3、彼らからすべての穀物を没収せよ、4、昨日の電報にしたがって人質を指名せよ。周囲数百ヴェルスタ[数百キロメートル]の民衆がそれを見て、身震いし、悟り、悲鳴を挙げるようにせよ」。

 

 この蜂起はレーニンの指令が実行されることなく平定されたが、富農やクラークが何者であるかの規定は一切なされないままに、人質や公開処刑は戦時共産主義期に頻繁に見られる現象となった(これらはスターリン時代の専売特許ではない)。ここにはボリシェヴィキ権力の二重の誤謬を見て取ることができる。第一に、この運動を農村ブルジョワジーの反革命的行為と認定したこと。第二に、飢えた農村による生存を賭けての抵抗である事実を見落としたこと。その結果が「農村における階級闘争」である。

 

 レーニンによっても旧ソ連史学界でも「クラーク反乱」と規定されたこれら農民の抵抗は、その手続きや方法から見れば明らかに共同体的運動であった。このような行動はスホード[村会]で決議され、農民は一丸となって共同体的秩序にしたがって行動した、モラル・エコノミーの世界である(詳細は拙著『飢餓の革命』)。20年代の農民史研究者は中央黒土で18年後半に発生した54件の大規模な「クラーク反乱」を分析し、これらの殆どが「自然発生的性格」を帯びていたこと、すなわち、共同体農民の自発的行動であったことを指摘する。これを撲滅するために「農村での十月」が標榜。そこではプロレタリアート独裁体制での強力な国家権力論を引き継ぐレーニンは、容赦のない農村への武力闘争を指示した。階級闘争とプロレタリアート独裁の絶対視がそこにある。

 

 革命後の対立の構図は、基本的には都市対農村であったが(またそれぞれの生存をめぐる闘争であった)、レーニンはそれを「階級闘争」に歪めてしまった理由をいくつかを挙げることができる。まずに、彼は農村または農民の実態を知らなかった(農民に対する潜在的偏見は無視できない要素)。ましてやそこでの飢餓の現実に極めて疎かった。第二に、そこで彼はこの時期における対立の構図を階級闘争論を根拠として説明する以外になかった。なぜなら、十月革命が民衆の意志が反映された革命である限り、農民大衆が革命権力に反対する状況は彼の想定を超えていた。実際、18年春に地方で多数の農民蜂起が勃発し、それが穀物生産地帯に集中した事実は、これが都市労働者による抑圧的穀物調達に起因するのは明らか。また、これら「クラーク蜂起」の徹底的弾圧は階級闘争の深化として完全に正当化され、その徹底化は階級闘争の勝利として肯定された。第三に、次の問題とも関連し、この時期は地方で左翼エスエルの支持率が上昇し、地方ソヴェトの地方分権的傾向が強まり、ボリシェヴィキ権力の危機的状況が生まれていた。これを克服するには農村でプロレタリア的基盤を強化し、左翼エスエルと決別する必要性に迫られた。これが「農村での十月」の推進である。

 

 

 5、プロレタリア独裁からボリシェヴィキ独裁へ

 

 この時期(18年春)はまたソヴェト史学で「ソヴェト体制の成立期」と規定され、県から郷、または村に至るまで殆どの地方でソヴェト機関が設置された。多くの県・市レヴェルのソヴェトは外部から暴力的に地方ゼムストヴォ・参事会が解散させられ、それに替わるソヴェト権力が制定された(「勝利の凱旋期」である)。またそれ以下のレヴェルでは旧権力組織の看板換えにすぎないケースが一般的であった。これら地方ソヴェトは特に下級に至るにつれ地方的利益を反映。既述したように農村地方も同様に食糧危機に見舞われている状況で、多くのソヴェトは地域外への穀物の搬出に抵抗した。この傾向は食糧危機が深刻になるにつれ深まり、ツァーリツィン、サラトフ、カザンなど多くの県ソヴェトで穀物専売の廃止が決議され、中央への搬出命令が破棄された。

 

 ボリシェヴィキの食糧政策への不満は特に中央穀物生産諸県で顕在化し、そこでは地方独自の食糧政策が断行され、国家的食糧調達は大幅に損なわれていた。食糧人民委員[食糧大臣に相当、食糧の調達と分配の最高責任者]はこの事態を次のように表現した。「多くの地方で「すべての権力をソヴェトへ」のスローガンは、あらゆる権力が地方にあるソヴェトに属すべきと理解されている」。このような自立的ソヴェト体制を破棄する必要がある。官報『イズヴェスチャ』で「穀物を受け取れない最大の障碍は農村ブルジョワジーである。われわれは農村に武装部隊を派遣するであろうし、それらは富農に穀物を販売させるであろうし、これは犠牲者と死に物狂いの抵抗が出る戦争である」と彼は農村への宣戦布告を行った翌5月13日に発布されたのが、いわゆる「食糧独裁令」である。

 

 この法令は地方ソヴェトの自治を否定し、中央集権的ソヴェト体制にそれらを再編することを目的としていた。こうして、本来ソヴェトが内包していた自律性は葬られ、ソヴェトの国家機関化と骨抜きが始まる。地方権力は中央から派遣される全権を長とする執行委と、その後は地方党委員会に支配されるようになった。ジノーヴィエフはペトログラード・ソヴェトでこの現象を「多くの者は、われわれの抑圧は余りにも厳しく、余りにも強く、われわれはプロレタリア独裁を適用しすぎているというが、われわれは逆の方に罪がある。われわれには独裁はなく優柔不断があるというレーニンは、何千倍も正しいと思われる」。

 

 この農村への宣戦布告が中央政府内での左翼エスエルとの分裂を決定的にしたのはよく知られている。食糧独裁令をめぐる論争以来尖鋭化された対立は、最終的に6月に布告される貧農委法令によって左翼エスエルを中央政権から離脱させ、ボリシェヴィキ独裁が始まった。ソヴェト体制を完全に変質させ、ボリシェヴィキ独裁体制を確立させたという意味で、「食糧独裁令」を戦時共産主義期の開始と考えることができる。通説に従うなら、スターリン体制とレーニン体制との差異を強調するために、「革命直後の内戦体制は、既成事実化した内乱と外国の反革命への支援とにより崩壊の危機に瀕した革命権力が自己防衛のためにとった窮余の策であった」(溪内譲『上からの革命』、岩波書店、2004年)と、いわゆる戦時共産主義体制は免責されている。

 

 だが歴史的に自明の事実は、西シベリアでのチェコ軍団の反乱を契機とする欧米諸国、日本の軍事力による干渉戦争と、白軍を中心とする反革命運動の展開に、この措置は先行していたことである。このような解釈は完全に誤っている。すなわち、外的条件が農民との戦争を強いたのではなく、農民への抑圧システムとそれを支える国家構造、すなわちプロレタリア独裁体制はボリシェヴィキの内在的論理の帰結であった。それだからこそ、当時の中央政府内でボリシェヴィキと左翼エスエルとの間で、プロレタリアート独裁か農民同盟かの革命路線をめぐる熾烈な闘争が繰り広げられたのである。このような歴史過程は完全に無視された。内戦期には、白軍と外国干渉軍との戦闘を除き、革命後のロシアの「内戦」は階級対立に起因するものは極めて少なく、対立の基本的構図は、都市対農村、労働者対農民、中央対地方である。

 

 

 6、労農同盟

 

 このような革命後の構図を眺めるなら、労農同盟の実践を認めるのは極めて困難である。周知のように、「労農同盟」の概念は住民の80%以上が農民である特殊ロシアにおいて民衆革命を遂行するための担保であったが、そこでは二つの条件が含意されていることを見逃してはならない。第一に、農民よりも労働者の卓越性であり(プロレタリアートの範疇に入らない農民は労働者によって指導されるべき存在)、第二は、プロレタリアートの絶対的優越性である。労農同盟論は決して労働者と農民との対等な関係を意味しない。

 

 したがって、第一に、当時の共同体農民の固有の条件は殆ど考慮されず(総じて、ボリシェヴィキ理論は教条的で空疎な観念論に終始し、民衆の実状に極めて疎く、民族問題はその典型)、第二に、必然的にプロレタリアートを創出するための階級分化論に依拠し、そのため十月革命の際に階級闘争が基本的に存在しなかった農村での「社会主義革命」の必要性が特に強調された。こうして18年夏以後、都市プロレタリアートから構成される貧農委員会が農村での政治活動を指導し、それらは階級闘争と穀物調達を実施する際の拠点となるはずであった。例えば、18年6月の全ロ中央執行委、モスクワ・ソヴェト、労組合同会議における「飢餓との闘争についての報告」でレーニンは、飢餓を克服するためにプロレタリアート部隊を農村に派遣し、無知で隷属的貧農を覚醒させる「穀物獲得の十字軍」を訴えた(『レーニン全集』、大月版、第27巻)。

 

 そこでは「余剰持ち農民」が農村ブルジョワジーと規定されたが、当時の中央政府の認識では90%の農民が余剰を持ち(つまり、播種用、家畜の飼料、また備荒用の蓄えは農業経営には不可欠)、まさに左翼エスエルが主張したように、食糧独裁は「農村に差し迫った危機」「本質的に農村への宣戦布告」であった。ソ連史研究者はこうして「労農同盟」は食糧独裁によって終止符を打たれたと主張する。だが、そもそもそのようなものが存在していたかは疑問。ネップの導入後に開かれた1921年末の第9回全ロシア・ソヴェト大会でカーメネフは、戦時共産主義は内戦と反革命によって余儀なくされた結果であるとして、18年春の政策について次のようにいう。「もし諸君が18年春の労農政府の政策に注意を払うなら、現在いわゆるわが新経済政策によってわれわれが吹き込んでいるすべて同じ内容[労農同盟路線]が当時既に示されていたことが分かるであろう」と、彼はいう。この論拠として、農民との「連帯を表明した」(和田春樹『岩波講座 世界歴史』第24巻)土地についての布告が挙げられる。

 

 しかし、当時の政治情勢では「土地の社会化」以外にボリシェヴィキ政権にとって選択肢はなく、何より、この内実が極めて曖昧であったことはすでに触れた。そして、農村への宣戦布告は白軍との内戦の開始に先行したように、この措置はすでに述べたようにボリシェヴィキの内在的論理の帰結であったからこそ、穀物をめぐるボリシェヴィキ権力と農民との対立の構図は、スターリンによって暴力的に農村が解体されるまで続くのである。

 

 7、戦時共産主義体制

 

 戦時共産主義の本質は割当徴発制度である(実際上も理念的にも)。割当徴発制度とは中央政府が県ごとに穀物余剰量を定め、その無条件の供出を地方権力と農民に義務づけ、軍事的手段により農産物を徴収するシステムである。19年1月に生産諸県を対象としたこの規程は、20年8月には消費諸県にも拡大された。消費県とは県内の穀物消費量が生産量を超えるために、穀物の搬入を必要とする県を意味する。さらに、消費県の多くは18年にノヴゴロド県から「わが住民は凶作に遭い、農村の半分は飢饉に晒されている。すでに種子用のオート麦の多くは食い尽くされ、畑へは播種されないままに残された」と報告されたような厳しい現実に直面していた(北部諸県ではすでに革命直後から飢餓状態で「蠅のように」餓死者が出ていた)。

 

 「余剰」の正確な規定なしにこの制度が実施されたため、当然にも多くの農民から自家消費分が暴力的に徴発されるのは明白であった。余剰も残さず一切合切食糧を奪われたり、最後の馬を徴発されたりした貧農の泪ながらの訴えが多数公文書館資料に残されている。赤軍留守家族はもっとも悲惨な経営であったが、そこでも何も斟酌されなかった。これらの権力による農民経営の崩壊は手紙などによって赤軍兵士に伝えられ、20年7月にサマラ県で発生したトルケスタン師団の叛乱(サポジコーフ蜂起)や21年2月のクロンシュタット蜂起の原因となった。割当徴発が進捗しない中で19年7月には生産諸県に、現地での食糧配給を最小限にまで縮小することでその完遂を命じた。こうして割当徴発は飢餓を全国的に拡大させた(詳細は拙著『ボリシェヴィキ権力とロシア農民』)。

 

 割当徴発体制の帰結は、単に農民の抵抗だけではない。播種用種子や役畜を奪われ、まず物理的に農業生産が低下した。そして心理的にも「どうせ取られるのだから」と、農民は自家消費分にまで生産を縮小した。21年12月に開催された全ロシア農業部大会で、ある代議員はロシアの優れた農業地区の解体を、ヴォルガ流域地方を例に挙げ、「旱魃と100%の食糧割当徴発がそれを破滅させた。これは誰にとっても秘密ではない。そこでは収穫の時しか農民は穀物を食べられないだけでなく、穀物が虫に食い尽くされた大斎期[復活祭前]から飢餓が始まった。全部を旱魃のせいにすることはできず、それと同等に食糧人民委員部に責任がある」と発言した。

 

 21年2月に送られた報告書、「チェレポヴェツ県[北西部]キリロフ郡に休暇で出向いて、ずっと中央で活動していたわたしは、農村での経済的ならびに政治的状況に衝撃を受けた。経済的な点で農村は信じ難いほどの崩壊を見せ、[・・・]農民たちの経営は惨めで、現在既に牛を2頭持つ農民は稀で、昔はこれはもっとも貧しい農民であった。この原因は疑いもなく農民への不適切な対応である。農民の資産から割当徴発の徴収を始めた時、農民固有の小ブル的利己的心理から3頭の牛の替わりに1頭しか持たなければ何も取り上げられないので、[・・・]家畜を清算して、経営を放置し始めた。飢餓の影響下で働いても、一定の割合が徴収されなければならなくなったとき、その時自らの過ちを悟り生産物の徴収に対する権力への憎悪が現れ始めた」が、割当徴発による農業の荒廃を端的に物語っている。このような文書は多数ある。

 

 しかしながら問題なのは、破滅的農村の実状が早くから指摘されていたにもかかわらず、そのことが一切中央政府によって考慮されなかった事実である。19年春に地方を視察した全ロ中央執行委幹部会員の一人は農村の現状について次のような報告がある。「純粋に農民的な県では、われわれソヴェト権力一般、特に共産党は社会的基盤を持っていない。そこでは、われわれを信頼し、わが綱領を理解し、われわれを擁護するつもりのある広汎な住民大衆を見いだすことができない。わたしは、クラークやブルジョワジーの残党のことをいっているのではない。彼らは殆ど残っていない。[・・・]事態は悲劇的になっている。[・・・]農民は敵意を抱くようになった。わたしは、そこに意識的な反革命家がいるといおうとしているのではない。そんなのはいない。反革命家は取るに足らないグループがいるだけで、残りの住民は無関心な気分か、わが党に対して敵対的気分である。

 

 多くの地方でコルチャークが待望されている。実際、コルチャーク軍が進軍すると気分はわが方に変わったが、それも長くは保たなかった。この理由は多数ある。このおもな理由は、ロシア全土で、われわれは農民に実質的に否定的なもの以外、何も与えなかったことにある。かつて、都市は農民にとっては搾取者であり、何も与えなかったが、残念なことに、ソヴェト=ロシアでも同じことが繰り返されている。織物も塩もタールも与えずに、おぞましい事態が発生し、そのことでわれわれに刃向かうクラーク、中農、貧農が団結している。[・・・]ヴャトカ農民は完全に零落した。馬は17世帯に1頭だけが残され、四輪荷馬車はほとんどない。軍隊がそれら全部を取り上げ、勝手に供給している。個々の師団、個々の連隊がその隊員に資格証明書を与え、彼らは村々を訪れ、革命委も軍事委も考慮せず、種子に至るまで全部を取り上げている。赤軍が種子を没収したために、多くの地方で畑は播種されていない。ツァーリ体制の最悪の時でさえ、共産主義的ソヴェト=ロシアで行われているような狼藉はなかった。われわれはテロルによってのみ維持されている。[・・・]どんな社会的支柱もない。テロルが支配し、遠征隊は農民を銃殺し、農民は現在までこれを忘れなかった」。このような上申は最高権力によって完全に無視されただけでなく、それ以後もいっそう暴力的農村支配が続いた。

 

 

 8、ネップは融和策か

 

このような農村支配がボリシェヴィキ権力の内在的論理の帰結である限り、内戦の停止は「戦時共産主義」の中断を意味しなかった。20年秋に白軍勢力は基本的にロシア領内から駆逐されたが、戦時的抑圧政策も、共産主義的幻想理念も内戦の停止によって破棄されず、より深化した(その理念的意味については拙著『幻想の革命』を参照)。

 

 一般的にはタムボフ県など全土で猖獗する農民蜂起をきっかけに、農民への宥和政策としてロシア共産党によって自覚的にネップが導入されたと解釈されている。しかし、この解釈は誤っている。この時の命令書では、食糧割当徴発は廃止されたのではなく停止されたのであり、それに替わる種子調達のための割当徴発が導入されたにすぎない。20年秋以後ようやく党中央で農業生産の減退が問題視され、計画された土地面積への強制播種が実施され、そのための種子調達を春の畑作業までに遂行することが当時の最優先課題となり、種子割当徴発への転換が行われただけである。奪われる側の農民にとって割当徴発からの軽減はまったくなかった。農民蜂起との関連でいえば、21年1月12日に党中央委によって農民の気分についての審議がなされ、タムボフ県に特別全権が派遣されたのはようやく2月10日(16日に現地に到着)で、この時すでに一連の諸県で割当徴発は停止されていた。すなわち、農民への融和策として割当徴発が停止されたのではないことは事実関係から明らか。

 

 21年に入ると内戦終了後に漲っていた直接的に共産主義への移行を目指す楽観的気分は完全に一掃された。割当徴発は30%程度しか遂行されず都市住民への配給量は激減した。ペトログラードではことさら寒い冬も相まって住民の生活条件が極度に劣化し、ストや騒擾が相次ぎ、まさに17年の二月革命前夜の様相を呈していた。工場は操業を停止し、労働者は食糧を求めて四散し、こうしてボリシェヴィキ権力の基盤と目されていた都市プロレタリアートもチシャ猫のように消失した。

 

 これまでのネップ導入に関する解釈では、3月の第10回ロシア共産党大会の決議にあるように「割当徴発が現物税に交替」したとされ、これは一定の「自由取引」の容認と同義と理解されている。この解釈は、カーメネフが12月の第11回党協議会で、この政策は農民への譲歩であることを繰り返し強調した報告を引き写したにすぎない。このような革命直後から続く政策の転換を僅か1ヶ月足らずで策定できるはずもない。2ヶ月半ばかり前の第8回全ロ・ソヴェト大会でボリシェヴィキが非難の嵐を浴びせたエスエル=メンシェヴィキの主張と同じ方針が採られることがありえるだろうか。通常の解釈ではこのような素朴な疑問に応えることはできない。

 

 現物税とは通説のように2月8日のレーニン執筆の予備的草稿で初めて案出されたのではなく、制度的には異なるが実態的には事実上税としての性格を持つようになっていた割当徴発を現物税として制度化し、未来の貨幣なし取引への移行措置はすでに20年11月から始まっていた。これが現物税の直接的起源である。したがって、割当徴発から現物税への交替自体は新路線ではなく、戦時共産主義理念の延長上にある。だがこのことが看過されるようになったのは、これが持つ当初の構想が大きく変化したためであり、この変質をもたらした最大の要因は農民と地方的枠を超える自由取引の容認である。これがネップの最重要な要素と見なされているが、レーニン構想では市場の容認は二重の制限を受けていた。第一は、プチブル農民に取引の自由を認めることであり、労働者がこの「プチブル心理」に染まることは厳禁されていた。第二は、地方的市場との限定。

 

 なぜ変質したのか。既述したように、ペトログラードを含め21年春の都市労働者の生活条件は破滅的であった。割当徴発の停止が農民の生活条件を改善しなかったのと同様に、食糧配給を奪われた都市住民の食糧事情も悲惨であった。タムボフ県の労働者の状態について、「[20年]11月になると、パンの交付は完全に停止され、12月と1月は計画された配給を受け取らなかった。この間われわれの工場では無断欠勤が大幅に増え、労働者は担ぎ屋行為に専念し、計画的交付で受け取った履物、織物などを穀物との交換に差し出すのを余儀なくされた。だが、地区防衛のために司令部側が執った厳格な措置との関連で、通行証なしでラスカゾヴォから出るのは禁止され、周辺村との交通は断たれ、この自給の最後の手段も不可能になり、労働者は完全にパンを奪われた」と報告された。

 

 タムボフ労働者は中央に発送される食糧貨物列車の連結を切り離し、穀物を獲得するまでになっていた。このような状況はほかでも同様である。こうして、配給制度が機能しない以上、労働者の生存を保障する唯一の手段として都市住民にも自由交換を即座に容認する必要に迫られ、現物税法令策定に関する特別委員会によって、労働者に対しても地方的枠を超えての自由取引を認める3月28日づけ布告が出された。繰り返せば、都市労働者の窮乏からの救済を最優先課題とし、国家的配給制度が瓦解した以上、労働者が自力で食糧を獲得できなければ工業の全面的崩壊が間近に迫っているとの認識があり、これを回避し国民経済を復興するための措置がネップ体制であった。

 

 ネップへの移行の本質は飢饉であり、食糧危機である。革命後から続く農業生産の低落は、20年に中央農業地区を襲った旱魃でさらに深刻となった。これら諸県を飢餓県に認定しても飢餓援助の資源は中央政府にはなく、県内の食糧資源を内部再分配するよう命じたが、凶作に襲われた多くの地方ですでにそれらは枯渇し、この措置はまったく機能していなかった。3月15日のタムボフ県テムニコフ郡当局は、「想定されている余剰から飢餓住民に多少なりとも計画的に供給するのは完全に不可能である。というのは、郡にはそのような残余はもうないので。郡の住民は大部分が50%以上に団栗を混ぜた代用食の摂取に移り、いくつかの村落ではそれらもすでになくなり、住民は食用のための馬の屠畜と澱粉工場などの廃棄物の摂取に移った。飢餓住民は徐々に増加している」との決議を採択した。このような農村の飢餓民も自由交換の布告が発布されるや、郡外や県外に穀物を求めて溢れ出た。こうして、担ぎ屋が全土で市場の制限、本来のレーニン構想を打ち破ったのである。

 

 21年には例年より早い春が旱魃とともに訪れ、ヴォルガ流域を中心に殆どの穀物生産地帯が飢饉に見舞われた。戦時共産主義期の農業政策によって疲弊し、過酷な割当徴発を履行した農村にそれを克服すべき余力はまったく残されていなかった。穀物割当徴発を完全に遂行した郡の食糧事情は春の訪れとともに一連の村落や郷でも破滅的になり、春蒔き穀物の播種にともない食糧用の穀物はまったく残されていない。同じく種子材の著しい不足も明らかとなり、毎日郷から郡執行委に種子と食糧物資の要請を持った農民代理人が来ている。郡の需要のために国家集荷所の管轄にあるすべての食糧・種子材を残すようにとの郡執行委と郡執行委の請願にもかかわらず、[割当徴発によって]すべて搬出された」と、4月にヴャトカ県ウルジューム郡執行委はその惨状を訴えた。

 

 県執行委は搬出命令を執行したが、中央から食糧援助をことごとく拒否されたその悲惨な結果を次のように指摘する。「県の食糧事情は恐ろしいことを強調する。県内には農民に食べるものがまったくない一連の地区がある。[・・・]郡から頻繁に何百もの経営の完全な崩壊、家畜の絶滅、農具や建物さえもの投げ売り、よその土地への県からの脱出などについての情報が入っている。いくつかの地域では自分の馬を執行委に連れて行き、柱に括りつけ、置き去りにしている」。

 

 それでも権力は現物税の徴収に容赦しなかった。現物税=融和論の根拠の一つに半減された税負担が挙げられる。だが、割当徴発の実際の遂行率は60%以下であり、穀物生産地方はこの割合を大きく下回ったことを勘案すれば、厳しい飢饉の下で前年並みの負担であった。また地方によっては昨年の負担を超えた。したがって、現物税の徴収にも武力が頻繁に行使された。8月の国防会議政令は、徴税への抵抗や納付の遅延の兆候が現れているため、県食糧委に強制的性格のもっとも断固とした措置を即座に執り、抵抗する郷と村に軍事部隊を導入し、革命裁判所巡回法廷を直ちにそこに派遣するよう義務づけ、この指令は県食糧コミッサールへの回状で繰り返された(食糧年度は8月から始まる)。事実、飢饉の下での現物税の徴収は戦時共産主義期とほぼ同数の軍事部隊によってロシアとウクライナ共和国で実施された。この構図の中に戦時共産主義期とネップの断絶を見いだすのは難しい。

 

 21-22年の大飢饉に関してここで詳述する余裕はない。しかし次のことだけは指摘したい。アメリカ援助局ARAからの飢餓民支援の要請は19年春と20年夏に提示されたが、ソヴェト政府(外務人民委員チチェーリン)は、自力で飢餓民の援助をできるまでに経済力の回復が可能であること、現在はそれができないとしても純粋に人道的援助という意図が疑わしいとの理由で、この援助に拒否回答を行った。また、ウクライナは厳しい飢饉にあるにもかかわらず(後に、「ウクライナでは1人当たりに算定される平均穀物量は年間僅か10プードしかなく、飢餓地区では5-7を超えなかった。その結果は家畜と備荒用穀物の清算であった。

 

 さらに恐ろしい図式がドネツ地区に見られた。そこでは1人当たり穀物と馬鈴薯の平均は5.7プードにしか達せず、税の生産物支払と播種の後では0.12プードしか[残らなかった]」と報告された)、ウクライナからロシア中央への穀物供給を必要としたロシア共和国政府はウクライナでの飢饉の存在を認めず、21年8月に締結されたARAの援助協定(リガ協定)にはウクライナの援助は含まれなかった。この大飢饉の原因にボリシェヴィキの誤った農業・農民政策が関わっただけでなく、飢餓民援助で適正な対応が遅れたことでいたずらに犠牲者を増加させた。ロシア革命の悲劇は、それが常に貧しい民衆に凝縮されているためにいっそう悲劇的なのである。

 

 

 9、4月16日梶川講演会の盛況に寄せて 北山峻

 

 ()4月16日()午後1時半より5時まで、東京で、「十月革命の問題点」と題する梶川伸一金沢大教授による講演会が行われた。
 新年度の様々な行事と重なるという悪条件にもかかわらず、東京近郊ばかりだけでなく遠く富山や北海道や名古屋などから、経験溢れたつわものたち31名が参集し、熱気溢れる講演と討論が行われた。

 

 ()梶川氏は、この10数年にわたるロシアで公表されたアルヒーフ資料に立脚した丹念な研究に基づく、四百字詰め原稿用紙45枚にも及ぶレジュメに基づいて、()社会主義とは何か、()ロシアにおける資本主義の発展、()階層分化論と共同体農民、()食料をめぐる「階級闘争」、()プロレタリア独裁からボルシェヴィキ独裁へ、()労農同盟、()戦時共産主義体制、()ネップは融和策か,という内容で順次講演を進められた。だが、その内容は豊富で、予定時間を超える1時間40分を超えても7割方しか終える事ができず、「残りは各自読んで下さい」という事で終えられた。

 

 ()その後1時間半余に及ぶ質疑・討論も、「一人3分・一つの問題について」という司会の制限にもかかわらず、発言者は発言し始めたらとどまる事を知らず、延長につぐ延長で、多くの人が発言できない憾みは残ったが、しかし発言者それぞれの人生を掛けてきたロシア革命についての熱気が伝わるものであった。

 

 ()夕食後に行われた交流会にも半数を超える人が残り、終電にいたるまで、侃々諤々(かんかんがくがく)の論議が行われた。途中からは方々で分散会が始まる騒がしさで、遂には日を超えて論議は続き、梶川氏が寝たのは午前1時近くであったろう。疲れ果てて皆が寝たのは3時であった。

 

 ()しかし、大十月社会主義革命といわれてきたロシア革命の内実は一体どういうものであったのか? 労農同盟はあったのか? 今まで隠されていた「100人以上のクラーク、富農、吸血鬼を縛り首にせよ。人質を指名せよ。民衆がそれを見て、身震いし、悟り、悲鳴を上げるようにせよ」というレーニンの指令の意味は何なのか? エスエルやメンシュヴィキなども全て弾圧し、ボルシェヴィキ独裁を実現したレーニンの真意は何なのか、ネップの意味は? そして社会主義とは? などなど、梶川氏が提起した数々の問題は、労働者や農民の解放を目指す我々にとって非常に深刻な意味を持っているだろう。

 

 ()考えてみれば、20世紀から現在に至る世界の革命運動は、このレーニンとボルシェヴィキの指導したと言われる「十月社会主義革命」の圧倒的影響の下で繰り広げられてきました。
 ところが現在、その社会主義の祖国と言われたソ連や東欧はすでに崩壊し、中国は「共産党」の指導の下で、膨大な労働者や農民の犠牲の上に日本の二倍のGNPを持つ巨大な資本主義国として台頭しつつあります。

 こうした中で、ロシア革命や中国革命というものが、又そこで行われた社会主義といわれたものが、本当に労働者や農民を解放するものだったのだろうか、という根本的な疑問を引き起こし、それはまた世界の労働運動や農民運動や被抑圧民族の解放闘争の前途を一時的にせよ暗雲で覆い、アメリカの横暴やイスラム原理主義などの台頭を許しています。

 

 ()この世界の労働者や農民、さらに被抑圧民族の前途に垂れ込めた暗雲を一掃し、帝国主義と様々な反動勢力を一掃し、労働者・農民・被抑圧民族の解放闘争の前進をなしとげていくために、我々はマルクスの原点に戻って、ロシア革命も中国革命も俎上に載せて検討し、政治論、組織論とそして社会主義の再生を勝ち取らねばなりません。

 

 ()今回の講演会が、この世界的な規模で進められている新しい道のさらなる一歩であると我々は感じていますが、多くの参加者が述べておられたように、我々も一層認識を深めて、そう遠くない日に、梶川講演会の第2ラウンドを開催し、さらに突っ込んだ論議をしたいものと思っています。互いに体に気をつけて、頑張りましょう。 再見、4月19日

 

 赤々と一本の道とおりたり たまきわるわが命なりけり (茂吉)

 

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 〔関連ファイル〕

    梶川伸一『飢餓の革命 ロシア十月革命と農民』1917、18年貧農委員会

          『ボリシェヴィキ権力とロシア農民』クロンシュタット反乱の背景

           食糧独裁令の割当徴発とシベリア、タムボフ農民反乱を分析し、

           レーニンの「労農同盟」論を否定、「ロシア革命」の根本的再検討

          『幻想の革命』十月革命からネップへ これまでのネップ「神話」を解体する

          『レーニンの農業・農民理論をいかに評価するか』十月革命は軍事クーデター

 

    第3部『革命農民への食糧独裁令・第3次クーデター』

       1918年5月、9000万農民への内戦開始・内戦第2原因形成

    『「反乱」農民への「裁判なし射殺」「毒ガス使用」指令と「労農同盟」論の虚実』

    『見直し「レーニンがしたこと」−レーニン神話と真実1917年10月〜22年』ファイル多数