連作短編3

 

〔3DCG宮地徹〕

 〔目次〕

   1ゼロ歳児たち こんにちわ

   2、めだかのがっこう

   3、ひとねる

 

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   連作短編1『復活』つけられる女と男、復活

   連作短編2『政治の季節の ある青春群像』4・17半日ゼネスト、1964年

   エッセイ  『政治の季節』

 

 〔1〕、ゼロ歳児たち こんにちわ

 

 香は結婚4年目で長男を出産した。

 産後の回復は良かったが、ひる、よる関係なく、3時間ごとの授乳でぶっちぎれの睡眠が辛かった。

 

 1960年代、産前産後休暇は6週間だったので、産後休暇42日が過ぎると職場復帰した。

 バンバンに痛いほど張る母乳を与えるのは夜だけにし、上着まで染み出す栄養たっぷりの母乳を絞っては捨てるのは切なかった。やや太めになった体の大きな胸に、さらにタオルを巻いて出勤した。

 

 その朝は五月晴れだった。青い空を仰ぎながら、親子3人新しいスタートをした。

 香は、首の坐らない赤子を白いおくるみで包み、抱っこバンドでしっかり胸に抱いて、正志のオートバイの後に乗る。吹き抜ける5月の風が心地よかった。

 

 共同保育所は隣町にある。香の妹が地域の人たちと協力し合って民家を借り、乳幼児を共同で育てていた。子育てで頼りになる母はすでに他界し、香は働き続けたいという人たちの仲間入りをした。公務員、教員、看護婦それに、自営業の人たちが、行政に頼らず独自に保育所作りをしていた。

 

 母親1年生の香は、プロの保育者たちに多くのことを学んだ。それは香にとっては子育ての原点とも言えた。

 共同保育所には意欲的な保母さんが多かった。

 朝7時半、大急ぎで保育所に子どもを連れて行く。生後43日の子はまだ眠っている。そっとベッドに寝かせ「お願いします」と保母さんに挨拶して、私鉄の最寄駅へさあ急ごうと思うと

 「お母さん、ちゃんと子どもに挨拶して」

 「えっ、子どもはまだ寝てます」

 「寝てても、子どもは分かります。お仕事行ってくるねって、挨拶してやってください」

 

 民間企業では出産と同時にやむなく退職というケースが大部分だった。

 国や地方自治体の支援はなく、共同保育所の保母さんの給料は安かった。月1回、地域にある大きな団地にビラを戸別配布し、みんなで廃品回収をした。また、台所用の布巾、料理用のだし、石鹸などの物資を安く仕入れ、友人たちに売った。物資販売はささやかな利益を積み重ね、保育所の備品購入に役立った。

 土曜日は出勤がふつうで、香のような公務員の職場だけは比較的恵まれていて、勤務は昼までの半ドンだった。その親たちが、土曜日の代理保母をし、悪条件で働く共同保育所の保母さんの研修に当てた。

 

 初夏の土曜日、保育当番で、香は偶然ある光景を見た。長男が、ひと月早く生まれたひろちゃんに、隣のベッドから「バァー」と話しかけていたのだ。香が共同保育は子どもにもいいという確信をもったのはそのときだった。

 やっと、はいはいし始めた頃のゼロ歳児たちの交流だった。これが、その後苦労の多い共同保育の運動を、折りに触れ励ましてくれる出来事になった。

 ひろちゃんの母親は厚生省に勤務しながら、絵が好きで、余暇に絵を描いて職場コンクールによく入選していた。その人柄の良さで、香とは最も親しい友人の一人になった。

 

 月1回の保育懇談会で、共同保育の実態について意見交換をし合った。

 その日、職場から帰り、夕食もそこそこにして保育懇談会に出た。正志は相変わらず夜遅く、寝に帰るだけの共産党常任生活、会場の保育所は、家から自転車で20分ほどの距離だった。香は懇談会の帰り道、自転車の前の椅子にやっと坐れるようになった長男と薄暗い夜道を自転車で走った。

 

 秋めいて、夜風はまだ残る昼間の暑さから生き返る心地良さだったが、香は体に溜まった疲れで頭がぼんやりし、無意識に道路脇の電柱めがけて自転車がぶつかっていった。通行人もいない夜の県道に自転車ごと倒れて、香ははっきり目が覚めた。前の椅子に掛けていた長男も眠っていたのか、静かだったが泣きもせずきょとんとしていた。とんだ母親だったと、香は深く反省した。

 

 常任活動家には日曜も祭日もない。廃品回収などにもみんな夫婦で参加するが、正志は参加できなかった。来る日も来る日も活動に明け暮れる、基本的に母子家庭だった。

 電柱ぶつかり事件があったりしたが、香は妹を始め、同じように働く女性たちの助け合いで、長男2歳の誕生日までなんとか漕ぎ着けた。

 

 この頃の最大のニュース、それはおしめの洗濯からの解放だった。当時は、布で作ったおしめだったので、まず、うんちで汚れたおしめは選んで消毒液に漬け置く。その後その他のおしめと共に洗濯機で洗い、干す仕事は、子を育てる親の、毎日欠かすことの出来ない絶対に必要な仕事だった。

 正志と香は、夜遅く帰ってからの日課だったおしめをたたむ仕事もなくなり、思わず「あー、楽になったねー」と何度も確認し合った。

 香より出勤が遅い正志が、おしめを干すのを目ざとく見つけた近所のお年よりが「旦那さんがおしめを干してござる」と噂をし、評判だった。

 何ヵ月かに1度は子連れで正志の実家へ行ったが、明治生まれの正志の母親は「正志がおしめの洗濯するの?」と、目を丸くしていた。

 

 その頃になると職場の育児時間が1年の期限切れで、帰りが一般社員並みに遅くなっていた。それだけでなく、香に要求される党の活動も増え始めていた。

 子ども同士親しくなり、親も連帯感が育ってきて、保母さんとの信頼関係も深くなつたころ、「夜間も共同で保育すべきだ」という意見が、香の職場共産党細胞の指導部から出始めた。とりわけ、子どもを夜の活動に連れ歩いたり、あちこち預け合っている香には強力に指摘された。

 新米ママとして、職場と子育てに必死のうえ、活動も引き続いてしているつもりの香だった。しかし、香には出産以前のような夜に日を継ぐ活動が要求され始めていた。

 

 仲良しのひろちゃんや、いとこのちぐさちゃんもいて、情緒が安定していた長男には惜しかったが、ほどなく、名古屋市中心部の、職場に近い名古屋市立の保育園に変わった。

 昼間は公立の保育園、夜は夜間共同保育へ移行する予定だった。

 

 新しい保育園に変わって、香が夕方5時過ぎ近くの職場から一目散に駆けつけると、長男一人が淋しげに園長と門の脇で待っていた。

 子どもの影もない園で香は園長に尋ねた。

 「みなさんはもうお帰りですか?」

 「とっくです。3時半ごろに」

 「えっ、3時半ですか? じゃお仕事は?」

 「あなたねー こんなに長時間子どもを預かって、子どもは離れて行ってしまうものですよ」

 

 香は憤然として翌日休暇を取り、退園の手続きをした。

 そして、思わずつぶやいた。「子どもは離れて行ってしまうものですよ。か」

 

 

 〔2〕、めだかのがっこう

 

 名古屋の活動家たちが、民家を借り、昼間は共同保育所としてスタートさせた。

 香も長男をそこに入園させることにした。専任の保母さんがいる共同保育所で保育され、夜は親が当番で泊り込む夜間共同保育が始まった。

 夜間保育スタート時点の子どもは、香の長男が2歳で最年少、来年小学校に入学予定の7歳が1番の年上で7人だった。その親たちは、昼間の保育園から子どもを引き取り、この夜間の保育所へ預けてからそれぞれの活動の場に赴いて行った。

 当番の親2人は、暫く子どもたちと遊んだあと、小さい子を乳母車に乗せて、近くの銭湯へ連れて行く。大人2人に連れられた7人ほどの子どもを、銭湯に来る近所の人たちは好奇の目で眺めた。次々子どもを抱いて頭を洗い、背中を流してやる。早めに出た親はバスタオルでほいほいと受け止め、拭いて服を自分で着るよう誘導する。

 

 幼児は簡単だが、おしめの要る乳児は気が急く。

 全員が湯上りのいい気分で一緒に民家の保育所へ戻るひとときは、大仕事を成し終えた気分でホッとした。

 保育所での夕食が始まるころは、さすがにみな静かになり、夕食準備までの戦争が嘘のようになる。

 

 食事の後片付けは後回し、よく本を読んでやった。音楽と共に始まる『ピーターと狼』は大人気で、『くるみ割り人形』『はげ山の一夜』『泣いた赤鬼』など、何十回となく読んだ。

 何より人気があったのは、押し入れの布団を全部放り出して、その山々を子どもたちが這い回る遊びだった。

 

 「夜間保育名古屋で試行」と、NHKテレビで報道され評判になって、間もなく5人6人と希望者が増えていった。

 共同保育の考えは、女性も働く時代の到来と共に急速に広まっていたが、それでも「小さな子を保育所で育てるなんてかわいそう」という声が多数を占める時代だった。

 趣味の音楽で気の合った管理職山井氏は、「共働きは貧乏だからするもの」と公言していた。女性自身も、共働きは世間体が悪いと考え、頑固に専業主婦のプライドを持って生活する友人もいた。

 

 高度成長期に生まれたと言われる「専業主婦」、友人たちはそれなりに満足していたように思えた。でも、と香は考えるときがあった。

 女性も男性並みに高学歴の者が増え、そういう人でも結婚と同時に退職し、社会から離れての孤立した子育ての明け暮れに、焦りに似た気持ちがあるのを香は雰囲気から感じた。

 

 その頃、寸暇を盗んで、久しぶりに研究者の道を選んだ秀子と夕食を共にした。子は産まない主義で「フェミニズム」の探求に燃えていた。

 「女性も子どもを産まないで、男性と対等にやるのが本筋よ」

 「男と対等にやるのは大賛成、当たり前だと思う。でも、子どもを産まないはどうかなあ」

 「だって、男女平等の理想をとことん突き詰めると、あなた、子どもなんて産んでいられる?」

 「それは、産む方が不利には違いないけど・・・もっと長い目で考えないとだめじゃないの?」

 「研究すればするほど、一夫一婦の家族制度には問題があることが分かってきた。やがて崩壊するわよ。というのも、それは私有財産の継承制度だからよ」

 「一夫一婦制度は私有財産の継承に過ぎない? そうだろうか? やや無理があるんじゃないの?」

持論を展開する秀子は自信に溢れていた。

 

 香はそうかも知れないとも思った。目の前の命をもった小さい生き物に翻弄され続ける乳児期、あの待ったなしのときを考える。

でも、命は成長し、親は忍耐力をつける。それは人生の無駄使いなのだろうか?

 秀子は研究者と結婚し、努力して夫婦とも社会的地位も得た。しかし、香にはやや片寄りが感じられ、人の反論も頑として受け入れないところに反発を感じた。

 それは、子育て体験がないことから来るのかも知れないと香は考えた。

 この考えこそ絶対的真理だ、そういう考え方は、若い香にもあり、とりわけ思想をもつ仲間はその傾向が強かった。

 

 香の親友で、大企業の社長秘書として活躍している裕美が、大学時代の同期生と結婚した。

 「ついに結婚したわね。おめでとう」

 「ありがとう、でも仕事は続けるわよ」

 「えっ、子持ちの秘書なんて、聞いたことない。第一、社長と海外まで行くなんて不可能でしょ?」

 「子どもは産まない。精いっぱい生活を楽しむわ」

 「産まないなんて結論出すの、早すぎない?」

 「少し前になるけど、父がね『いままでも言ってきたが、最後の忠告だ。やはり子は産むべきだ』って、真剣に私に言った」

 「で? 気持ちは変わらない? 彼はどういう意見?」

 「2人とも日本の首都を舞台に活躍でき、生活も楽しんで、子がなくても後悔はないって。もう結論出した」。

 

 もう一人の友人竹代は、その3カ月前に建築事務所の仲間と結婚していた。

 建築士の資格を持つ竹代だって同じだろう。香は現実の厳しさを思い知らされたある場面を思い出した。

 

 その日は出張で、午後4時ごろJR名古屋駅の構内を歩いていて、偶然、建築部の石田課長に会った。

 立ち話の雑談で石田は

 「女性の職場進出もいいけどさ、建築士の資格を取ったら、途端に『設計の図面を引かせよ、引かせよ』なんて要求されて困っている」と言った。香にはそれが誰かすぐ分かった。

 並み居る男性の職場で、押しの一手で有名な2人の女性、山の神とささやかれている人物である。

 仕事一筋、お酒にも強く、いろんな男性と噂が立つが、ずっと独身で通す2人から、香も1度ならず不本意なことばを浴びせられ、愉快ではなかった。が、それは家庭を持たない者のやっかみと受け流していた。

 

 「でも、やっと勉強が実って資格が取れたんだから、いままで通りの書類や図面の整理では不満でしょうね」

 「そうだけどさ、建築部には100人近い建築士がいるんですよ」

 「実績もないし、そう簡単に資格を取れたから、さあ、と任すわけにはね・・・」。

 結婚した建築士の竹代が働くのは、個人の建築事務所である。

 香は「子どもを産んでも育てる自信がない」というのも分かるなあと思った。

 

 香たちの必死の夜間保育がマスコミの波に乗ったのは、当時の進歩的といわれる保育研究者たちの後ろ盾もあった。

 賛否両論の夜間保育を発案した同僚の辻峰子は、社会主義の中国の例を出し、

 「女性が働く社会では、子どもと1週間離れて保育所に預かり、週末に引き取るというシステムを実施している」と言った。

 付け加えた「家事労働は女を愚鈍にする」の言葉は、香も日頃漠然と感じてはいた。

 

 実際、家事仕事はやってもやっても、際限なくあるのを香だけでなく、女たちは実感していた。

 しかし、その人民公社システムを理想とした現実の中国では、文化大革命がその精神を骨抜きにしつつあった。共同の精神を吐き違え、「食堂で食事は食べ放題」という事態が各所で起き、たちまち共同食堂閉鎖したという情報もあった。

 

 香たちの夜間保育は、希望者は泊まりこみの当番覚悟だったが、中には、専任保母さんがいる昼間の共同保育所に預けている親が夕方子どもを迎えに来て

 「夜9時ごろまでお願い!」

 「子どもが増えて手いっぱいなんだけど」

 「ごめんね。9時前には来るから」

などと、頼んで行ってしまう親もいた。

 

 1度だけ、1時間ほど預かった親は

 「夜間保育をやってる人はケツの坐った人ばかりだからいいね。夕食だけ頼めたら助かるんだけど・・・」

というような具合に、自分勝手に利用する人もいた。

 臨時保育は保育のリズムを壊してしまう。何より専任の保母がいなくて、当番が昼間1人前働いてきた者ばかりの夜間保育だから、肉体的な負担はきつかった。しかし頼む人はみんな意識の高い、忙しい活動家と思われる人たちだったので断れない事情もあった。

 夜勤など、仕事の現場で困っている人たちはほんの一部で、大部分は仕事より活動のための夜間保育だった。

 5歳のお姉ちゃんと一緒に入ったおさむは、まだおしめが要る乳児だった。

 

 当番の親は、洗濯の負担がおしめでぐっと増えた。おしめを始め、洗濯物を干し、連絡ノートに子どもの状態や食事の内容を書き終えると、時計は夜中の12時を廻っていた。

 でも若い母親たちは、きちんとご飯を炊き、おかずを作った。夕食には、子どもの好きなカレーライスやハヤシライスがよく出た。小魚や野菜も意識して食卓に出した。

 朝食もパンではなくご飯を炊いた。体には玄米自然食がいいという、ブームのような考えが影響したこともあった。

 香は夜遅く、当番の親が朝の味噌汁の具に椎茸を水でもどしているのを見た。当時、味噌汁に椎茸の具など、香は考えたことがなかったから、参考になった。

 また、ある親は「味噌汁の実はわかめだけで十分」と言っていた。それぞれに育った環境での体験を実行し、工夫し合った

 

 忙しいけれど、子どもたちに真剣に向き合い、こどもたちの笑顔に救われる思いだったが、とりわけゼロ歳のおさむの、あどけない笑顔に、当番の親だけでなく子どもたちみんなが救われた。

 香の長男は、それまでは子どもの中で1番年少だったので、すぐ香のひざに来たがった。

 そんなとき、「香さん、自分の子ばかり抱いててはいけないよ」と、他の親から容赦のない批判が飛んだ。

 香は何度かぐっと我慢したが、幼児と乳児の親との違いで苦しかった。それでも、数ヵ月後には長男も、かわいい弟ができた感じになっていた。

 

 朝8時、香は前日の夜遅く保育所に着いて泊まり込んだ正志と別れ、喫茶で出勤前のコーヒーが飲みたいと地下街に下りた。そこで、同じように出勤途上らしい小川と偶然出会った。小川とは共産党の8回大会で代議員として一緒になった縁があり、公務員組合本部の重要なベテラン活動家である。

 「昨晩、夜間保育の当番だったの。結構きついわ。もっとみんなの支援が欲しい」

 「あ、あの夜間保育ね。テレビで見たよ」

 「需要はあるけど、中々体制が整わなくて・・・」

 「アイデアはいい。でも・・・親の活動のための夜間保育だろ?」

 

 小川のそのひとことで、藁にでもすがりたかった香は、言葉が続かなかった。

 誰のための夜間保育なのか? 子どもにいいと思えばこそ、体を張って努力しているのではなかったのか?

 必死の夜間保育は、親の活動のためか。いや違うと打ち消したり、そうかも知れないと思ったり香は揺れた。

 香自身、夜間保育に本当に自分の意志として、確信をもって参加したと言えない部分があったからかも知れなかった。

 

 数年前、共同保育のアイデアを、進歩的な大学研究者らと市営住宅の一室で果敢に実践に移した辻峰子は、背に腹は変えられなかったとはいえ、優れた資質と戦闘性があった。それは誰もが認めた。

 夜間保育は、それより更に進んだ実行力と体力が要った。

 香は共産党員だから、指導部だから呼びかけを断れない。そんな無理があった。

 

 事実、香の呼びかけで、何年ぶりかでやっと産まれた長女と共に参加した洋子は、当番を2度ほどやって、冷えからくる胃腸病ですぐ脱退した。

 同じく、活動家の和代は、1度だけ夫婦で当番の泊まり込みをした。

 「彼がね、子どもと1週間逢えないなんて淋しいと言うの」

 「子どもと離れる1週間はみんな淋しいよ」

 「そーよね。でも、彼の方が私より年下で活動歴も浅いでしょ? 夜間保育などおよそ理解出来ないのよ」

 

 香に悩みを打ち明けた和代は、職場の幹部養成機関に挑戦し香と一緒に合格していた。全国から集まった研修者たちとその施設で、1年間寮生活を送った仲間でもあった。

 仲良しの和代は、そっと隠れるように夜間保育のメンバーから抜けていった。

 

 香は和代のように、個人的理由で辞められたらどんなにいいか知れないと思った。でも、立場上、それは出来なかった。まして、連れ合いの正志は共産党の専従活動家である。ならば、なおのことこの夜間保育を何とか維持しなければ、香も身動きができなかった。

 そんな明け暮れの中で、香は倒れた。蓄積疲労が、急性腎炎という病気を産んだ。腎臓炎はこじらすと慢性化するからと、1ヵ月近く入院療養することになった。

 「香さんが倒れたんだって」

 「えっ、どうするの? 明日の夜から」

 「どうしょう。またまた大変、私たちの負担が増える・・・」

 

 夜間保育のスタートから、中心になってきたメンバーの不満がくすぶった。

 入院した香は、風の便りに聞こえてくるそんな話を聞いて、余計気が滅入った。

 「私には体力なんてない。もともと無理な話だったのだ」

 「かわいい盛りの子と別れ、職場を休み、仲間に迷惑をかけて何が世の中の革新だ」

焦りと悔しさが香を襲い、どんどん消極的な考え方になっていった。

 正志は、間もなく3歳になる長男を抱えて、専従活動を続ける夜間保育の当番だけは続けた。

 

 病床で香はある言葉を反芻した。

 「あなたは子どもを産まないで活動して欲しい」

香に進言したのは辻峰子だった。

 「子を持つことなく、党と革命に全力を注いで欲しい」

 「わたしは常任活動家と結婚したのよ。全生活が党活動で給料も遅配続きの。自分は母になりながら、人には子の親になるなって言うの?」

 「活動と仕事、それに子育ての共存は厳しい。それを体験したからこそあえて言うわ」

 「あなたは立派すぎるのよ」

 

 辻峰子は、乳児保育などどこにもやっていない時期に、名古屋で初の共同保育を始めた。自宅の市営住宅の一室で。進歩的保育研究者たちの、強力な助言を受けながら積み上げた実績は大きかった。

 辻峰子は仕事と活動を両立させ、それに文学活動にも意欲的な活動家だった。ただ、辻峰子の結婚相手が専従活動家でないという条件は、時間的にも経済的にも大きく違っていた。それでも、進言は重く香にのしかかった。

 

 青春をどう生きるか、多くの若者が悩んだように、香も考えた。

 よりよい人生とはどうあるべきか、個人の読書や読書会での討論などの機会にも恵まれていた。人間がほんとうに自由で、平等に暮らす社会を。封建制から資本主義社会に発展したように、世の中は社会主義、共産主義社会になる。それが社会発展の法則である。

いつのまにか、そう信じるようになっていた。

 

 香は、戦前からの革命家夫婦は「子を産まない」が一般的だったことも知っていた。が、いまの時代に党と革命のために献身あるのみと、子どもまで産まないのが正しいのかどうか疑問だった。

 香は結婚して3年間、「子を産まないで」という言葉にこだわった。そして、子の親になった。それは間違っていないと思った。

 それが人として自然なのだと。

 

 香たちの夜間共同保育は、このようにしておよそ1年で幕を下ろした。

 

 夜間保育のために、名古屋の共同保育所に変わったころ、家に近い小川でめだかが泳いでいた。それを見て、1歳の長男がはっきりした言葉で言った。

 「メダカノガッコウ アルヨ センセイイルヨ」

 

 保母さんが早速、1歳6ヵ月の子の口頭詩として保育だよりに載せた。

 香はその便りを読んで、感性豊かな保育者でなければ恐らく聞き逃しただろうにと、その保母さんへの感謝と信頼の気持ちを抱いた。

 2歳になったばかりの頃、散歩に行って鯉のぼりがだらりとしているのを見て、もうすぐ3歳の子が

 「けんかしてるよ」と言った。

 長男は「ちがう、けんかしてないよ」

 3歳児「けんかしてるみたいだね」

 「うん、みたいだね」

こんなかわいい会話が聞けた。

 

 2歳も終わろうとしていた頃のある日曜日の夕刻、珍しく早く家に帰れた正志が長男を「タカーイ、タカーイ」した。大喜びの父と子をカメラに収めた香が

 「いま、子どもはこんなに可愛い。もうこれ以上大きくならないといいね」と言った。

 「いや、子どもの可愛さは変わらないよ。大きくなったら別の可愛さに変わっていくだけだよ」

正志は男親らしく冷静に言った。

 

 3歳になった香の長男は、やっと、「めだかの学校」のある名古屋市郊外の自宅に近い、公立保育園に落ち着くことになった。家から自転車で15分のその公立保育園は、草の匂いがした。

 毎日、清々しいみどりいろの空気を吸いながら、さくら並木を駆け抜けて通った。

 ある日の帰り、その日は土曜日だった。

 川原で自転車を止めようとして、自転車が倒れてしまった。保育園用の上履きがゆっくり流れ始めた。

 「ぼく、拾ってあげる!」

 長男は走って行ってすくい上げた。

 命が育つ。深いこの喜びを味わわないのはもったいない。香は心からそう思った。

 

 「字を教えるよりどろんこ遊びを」

 「ハモニカ教えるよりみんなと遊べる子に」

 夕方迎えに保育園に着くと、まだ子どもたちの一部が、どろんこ遊びに夢中のときもあった。

 「めだかのがっこうはー かわのなかー」

 春の宵、自転車に長男を乗せて家路を急ぎながら、二人で歌った。

 

 香は、保育者たちに、生きて行く力をどうつけるかという大事な、レベルの高い意識性を感じた。

 香も父母の会の役員に推され、日常の保育だけでなく、夏祭りの「竹馬づくり」や「おばけ屋敷」など、父母も子もみんなで、思いっきり楽しんだ。

 

 

 〔3〕、ひとねる

 

 「田中先生のお話、どうでしたか?」

 「何かご要望おありですか?」

 香は妊娠6ヵ月、少し肥えた感じのスタイルで、買い物客で賑わう名古屋の北区商店街を、街頭取材記者よろしく聞き歩きした。

 

 衆議院議員選挙が告示され、大学教授田中女史は、共産党革新共同の推薦候補者として立候補した。個人演説会の会場でも、その学者らしい面白い話と人柄で人気が高く、当選ほぼ間違いなしと言われていた。

 その会場から30人ほどが、候補者と一緒に商店街を歩いて支持を訴えた。商店街の人たちの田中女史への人気も期待もまずまずだなと、歩き取材しながら香は思った。

 

 その日、名古屋市中心部の職場から、遠い演説会場、更に商店街での取材と続いた行動で、下腹部がやや張るのを感じた。

 香は1年前、仕事を終えてから長男を迎えに保育園へ向かう途中で同じような状態になり、妊娠3ヵ月で流産した。その悲しみは、同じように幼い子を抱えて働く友人の多くが体験した。

 教員の静江も、看護婦の勝子も、公務員の優子もみんな、働きながら幼い子を育て、2人目の子をと願いながらの、悲しい流産体験者だった。

 1年前の経験から、香は妊娠初期を慎重に行動した。妊娠6ヵ月は一般的には安定期だったから、今回の任務もあえて引き受けたのだった。

 

 異変はその夜起きた。

 少量の出血があった。それが止まらずわずかずつではあるが、その量は次第に増えていった。夫に緊急の連絡を入れ、長男をみるために帰るよう無理に頼んだ。

 夜8時半、馬鹿でかい音響と共に救急車が着いた。救急車のサイレンを聞きつけて、隣近所の人たちが道路に出てきた。

 「救急車のサイレンが聞こえたけど・・・」

 「救急車なんて初めて町内に止まったけど、誰がどうしたの?」

暗がりの中、あの人、この人の声をこだまのように遠く感じながら、香は下腹部の気だるさをかばいながら、救急車で産院に運ばれた。

 

 香が自宅に帰ったのは夜12時近かった。

 医者の「こりゃ駄目だ」のひとことで、緊急手術、6カ月女子の死産だった。

 女だけが体験する、精神と肉体の拷問だった。

 香はぼんやりした夢の中で、霧の中をさまよっていた。果てしなく続く草原、西も東も分からない。ただ歩き続けた。

 

 香はその夜、商店街を一緒に歩いた辻峰子から電話を受けた。

 「え? 流産? 困ったわあ」

 「香さんが書けた分だけの原稿でいいから送って。赤旗の新聞記事に載せたいから」

 体のことは何も聞かれず、欲しいのは街頭の聞き書き原稿、困るのはその原稿が届かないこと。

 それ以外何もなかった。

 この流産事件で、香は理想だった党の任務と、人間性との矛盾にぶつかり、大きな疑問をもつようになった。

 

 それからしばらくして、香は管理部門に転勤になった。

 官庁街の外れに位置したビルは、他のそれと同じく夜中まで電気が消えることがなかった。不夜城は圧倒的に男性の職場だった。が、独身を通して仕事に生き甲斐を求める女性もいた。

 そんな中で香は、妊娠し切迫流産で休み、辛うじて長女を出産した。

 3年前、流産を経験してからは、もう一人産みたいという思いは一層つのった。年齢的にも今を逃したらもう産めないと、職場の非難覚悟で居直った。そして待望の長女が産まれた。

 

 長かった冬が去り、再び明るい陽射しの春が巡ってきた。

 4月1日、丁度、産後休暇42日が明けて出勤した日だった。

 保育園の入園式には、職場を休めない香に代わって正志が出た。1970年代、抱っこバンドで小さな赤子を抱く父親は好奇の眼差しで見られた。正志は帰宅した香に言った。

 「父母の会の会長にされてしまった」

 「えっ? 何? 会長?」

 「うん、やっぱり男が行くと狙われるよ」

 「あなたやるの? 私は仕事もこれから大変で、とても無理よ」

 「・・・・」

 

 常任活動家に会長が出来るはずはなく、香は、また大きな荷物を背負うことになった。

 香は会長を引き受けるために正志と話合い、約束した。保育園の送り迎えのうち、「朝の送りだけは、どんなに夜遅くてもやる」と。

 

 香が住む地域の保育運動は、愛知県でも先進的だった。大きな団地があり、その住民は圧倒的に若い世代で、長年の運動の積み重ねがあった。

 朝7時半から夜6時半までの長時間保育は、何より働く親たちの努力によって勝ち取られたものだった。名古屋への通勤圏である、この地域の働く父母たちはおおいに助かった。それは父母の会活動が活発で、何度も市役所の福祉課と話合いを重ねた結果である。

 

 さらに、乳児保育と産後休暇明けからの保育は、他の市では未解決のまま無認可の共同保育所で切りぬけている現状があった。それは親たちの切実な問題になって来ており、みんな手探りで子を預かってくれる所を探し求めた。

 香の長女が産まれた春に、親たちの熱意に押されて、市は、県下で初の試みとして公立保育園での産休明け保育を実施した。保母、看護婦等の人員、ベッドなどの設備面から、6人が第1期の人員として認められた。

 子どもは生まれたが、預かってくれるところがない香夫婦も、何度も市役所に足を運んだ。

 「定員6人の、最後の1人に決まった!」

その夜は、文字通り赤飯を炊いて祝った。産休明けからの乳児保育に入園できることは、それほどの大事件だった。

 

 職場の仕事と活動で手いっぱいの香夫婦に、父母の会の会長は重荷だった。

 正志が引き受けたのもやむを得ないと理解しつつも、香には不満が残ったまま、現実生活との両立に立ち向かう外なかった。それは、父母たちから波のように押し寄せる、保育への不満や意見だった。

 

 「夏なのに、おしめが1日1回しか換えてなかった」

 「保育ノートにほとんど記録がない」

 「誰々はよく泣く。誰々は眠らないと子どもの悪口を他の親に言う保母がいる」

 「わたしたちはプロとしての仕事を求められる。保育者としての自覚をもって欲しい!」

 

 保母の配置は、正規が1人、新卒が1人あとは、保健婦とパートという状態に、父母全員が参加して、度々市役所の福祉担当課と話合った。

 年齢6ヵ月以下の組は生きるぎりぎりの問題が出された。また、6ヵ月以上の子の組からは、着替えや散歩にいたるまで、次々意見や苦情が寄せられる。子どもが小さいだけに親たちのことばも必死さがあふれていた。

 市当局も緊張した、初実験としての産休明け保育と乳児保育だった。

 

 職員などの不充分な配置を、市は父母との話し合いの後、直ちに専門職の資格のある看護婦や専任保母に切り替えを約束した。

そして、クラス懇談会の定例化も約束した。

 その態度と手腕は、鮮やかとさえ言えた。その対応を香はとても良心的に感じ、小さな光りが少しずつ、大きく、明かるくなったように思えた。

 

 休憩のわずかの時間に、香は市役所の部長と言葉を交わした。

 「遅くまですみませんね。うるさい親で」

 「いや、みなさんの熱意は見事ですね。みんな、いちもくおいていますよ」

疲れた体に鞭打って、日暮れから夜8時近くにまで及んだ交渉、その中心メンバーの親たちに、香は深い信頼と連帯の気持ちを持った。

 こうして公立保育園での乳児保育は大きくその第一歩を踏み出した。

 1970年代半ば、第2次ベビーブームだった。

 

 子ぼんのうな正志は、夜遅く帰宅して産湯を使わせた。また、ひまを見つけては子どものベッドをのぞいて、寝ている子をあやした。

 10ヵ月過ぎたら、発育に必要だといわれる這い這いもさせず、伝い歩きするよう導いてしまった。長女が早々と、11ヵ月で歩いたのはそのせいである。

 正志は、毎朝オートバイで保育園に通った。

 長女の首が坐るまでは、片手でだっこバンドを抱き、片手でハンドルを握って、ゆっくりポンコツオートバイを走らせた。寒い冬は、ねんねこでおんぶしてオートバイに乗った。

 「今度は女の子らしいよ」と、また、地域で評判になった。

 「ギーヨン(牛乳)チョーダイ」「カニニ(蚊に)ササレタ」など、長女のことばも出始めた。

 

 子どもは見る見る成長する。

 大事だといわれる子どもとの触れ合いは、時間の長短ではなく深さ、これは、香が抱き続けた信念だった。

 香は、死んだ母がよく言っていた言葉を繰り返し思い返す。

 「子どもをひとねるのは、苦労が多いけど、ほんとうにかわいいから、乗り越えられる」。

 

 子どもは社会的なもの、長い目でみればわずかの子育て期である。

 香たちの夜間保育のような苦労は、もっと大きい目さえあったら、必要なかったのではないか。

 多様な価値観で、それぞれが自分の責任を、誠心誠意果たせばいい。

 

 女は自分のパンは自分で稼ぐ気概をもたなきゃ。それで始めて男の苦労を理解できるのではないか。

 香はあらためてそう思った。

そして男も子育ての苦労を体験し、命が育つ喜びを味わうべきだ。

それが、男と女の絆を深めることになる。

香は自分なりの結論を出して、ひとり納得していた。

 

おわり

 

 

 (注)、1、「ひとねる」は、いつくしみながら、日を重ね、育てるという意味の名古屋弁

    2、少子時代を数字で見ると、2000年の特殊出生率は1、35人

    3、「子育ては楽しいか」の問いに、「楽しい」と回答した母親の割合

                 アメリカ 67、8%

                 韓国   51、9%

                 日本   20、8%     以上、資料は内閣府調査による

 

 

 

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