連作短編2
〔3DCG宮地徹〕
政治の季節の ある青春群像
職場における4・17半日ゼネスト、1964年
(後半に3個所追加版)
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連作短編1『復活』 前編『つけられる女と男』、後編『復活』
連作短編3『めだかのがっこう』
エッセイ 『政治の季節』
朝7時半、香は仲間と3人で、広小路に面した10階建ての局社の前に立っていた。
青春の日にありがちな希望と虚ろの交錯、どんなに虚ろに暮れても、朝日に輝く春の街路樹を見ると気持ちが立ち直る気がした。
半年前、粉末ジュースの乾杯で大勢の仲間に祝福され、正志との新婚生活をスタートさせた香であるが、夫婦とも家賃3500円の安アパートへ帰るのが夜中の12時、近くの銭湯が閉まるぎりぎりに駆け込む毎日だった。神経質なくせに大雑把な性格は、いつも「いまが一番」と考えていたので、香の体からは幸せが滲み出ていた。
そのとき、「このビラ読んでクダサイ!」アカ鬼のような形相で「クダサイ!」に力を込めて、執行委員の青山がビラを香にぶつけてきた。出勤して来た組合員の前で、組合執行部と共産党がけんかしながらビラを押し付け合う光景は、まるで戦国時代の斬り合いのように、殺気さえ感じられた。
1964年4月17日、公労協(公共企業体等の労働組合約90万人)と交通運輸共闘会議(国鉄、私鉄、都市交通など約90万人)が中心になって、全国的に賃金引き上げを要求して、半日のゼネストを計画した。1960年代、未だ庶民の生活は貧しく、春闘は大幅な賃金の引き上げ要求が中心だった。全国的には総評が太田薫、岩井章という幹部中心にまとまり、職場毎に組合幹部のオルグがくまなく実施された。組合員も賃上げ要求では一致していた。
「ストライキといっても、世の中には組合もない人が大勢います。大企業の者だけが賃上げ闘争していても・・・」。
「そんなことを言っていたら何もできない。だから最低賃金制度の要求もしているんだ」。
香の素朴な質問に執行部はこう答えたこともあった。
職場委員の共産党員も組合員にきめ細かに働きかけ、オルグ参加状況もよく、オルグでの質疑も活発で、職場は静かな中にも引き締まって、4月17日にストライキに突入するのだというムードになってきていた。
ただ、職場のそのような雰囲気とは関係なく、共産党中央の発行する新聞「アカハタ」は、4月8日付けで『4月17日のストライキは賃金闘争一本で独占資本と闘おうとしており、アメリカ帝国主義と2つの敵と闘う姿勢がない。これでは労働者大衆を、弾圧と分裂の策略に身をさらさせることになる』と、いわゆる4・8声明を発表した。
それだけでなく、4月12日の「アカハタ」主張で、さらに4月14日付け「アカハタ」号外で、スト全体を反共的謀略と挑発的ストとして、全面的対決の姿勢を打ち出していた。
その頃、昼休みに同じフロアの同志辻峰子が、休憩室の片隅で「この小説読んで」と印刷物を香に渡した。
聞けば、書記長の田中が、どこかでその同人誌『青空』を見つけて、血相変えて怒ってきたという。短編なので香はさっと目を通したが、その小説は『書記長が職場活動家の原良江に近づいて、いい仲になろうとしている。かつて田中は、指導部の1人を党から引き離し、結婚までしたのに。これは組合活動を装いながら、不倫で、大きくなった党組織の撹乱をするのが目的である』というような内容の恋愛小説だった。
二人は小説の中身はいいとして、この小冊子を書記長はどこで手に入れたのか、そのことの方が問題だと言い合った。
ときは「4・17スト」めがけて全国的に盛りあがっていた。活動家原良江は庶民的な感覚が豊かで、職場のみんなと心を通じ合える達人だった。赤旗読者をどんどん増やし、その中から真面目な職員がかなり党に入ってきており、期待の新人だった。
党員作家で、実力派の辻峰子は直接原良江から抗議されたと、香に打ち明けた。
「原良江は『私は真面目に組合役員として活動をし、書記長とも親密になった。書記長は奥さんなんかより、ほんとうに信頼しているのは私だ』と言ったが、その様子は尋常ではなかった」と話す辻峰子も緊張していた。
1年ほど前、書記長は共産党総細胞の指導部だった白井きくと恋仲になり、彼女は、仲間や地区委員会の時間をかけた説得に傾ける耳を持たず、離党していった。
「うしろ足で党に土をひっかけて去って行った」という地区委員会の指導によれば、書記長の出身地である渥美半島には、反党分子で有名な「みんぺい(杉浦明平)や、きよた(清田)」がいる。ましてや、社民幹部と共産党員の恋愛などもってのほかと非難され、白井きくは職場も辞めてしまった。別の仲間の恋愛・不倫事件のモデル小説と、共産党中央の『4・17ストは謀略と弾圧の危険がある』との「アカハタ」などの指導で、党総細胞は二重に混乱した。
1964年4月2日、総評は臨時大会を開いて、ストライキ態勢を固めていた。
香たち共産党組織も、ストライキ成功のために、組合の動員にも積極的に協力し合った。今度のストは、その規模から1947年の2・1スト以来のゼネラルストライキと一般に考えられていた。香は当時小学生だったが、2・1ストを当時のアメリカ占領軍に中止させられ、共闘会議の共産党井伊弥四郎が、涙ながらにラジオ放送で、『断腸の思い』で官公吏と教員の組合に中止指令を出し、国民に『一歩後退二歩前進!』と言った有名な話を聞いたことがある。
スト決行の2日前、突然共産党地区委員会から連絡があり、「公労協が計画した4月17日のストは謀略の恐れがあるから、中止すべきである」と、夜、緊急に会議が開かれた。指導部は一様に「信じられない」を連発した。あまりにも唐突なスト中止指令だった。しかし、総細胞長だった香は、組織の一員として従わないわけにはいかなかった。
一方、正志は共産党地区常任委員として、国鉄労組の「ストを中止させる」指導に駆けつけていた。当然のように組合執行委員の共産党員から「謀略と挑発というけど、国鉄の現場にはそれらしい何もない」
と猛烈な反対に遭っていた。
深夜になっても収拾の見込みがなく、あちこちで大混乱が起きていた。深夜帰宅した正志は香につぶやくように言った。
「『これは党中央の決定だ。それに従え』と、“ご老公の印籠だ、頭が高い”式の言葉で混乱を押さえ込んだ」。
国鉄の各細胞を、中央の方針に従わせようとすれば、そう言うしかなかっただろう正志の立場が、香には理解できた。
(追加個所)
郵政関係の職場の混乱もひどかった。
共産党の「4・8声明」が出されてから、香の職場と同じように名古屋中央郵便局前で共産党員が、手作りのビラを配っていた。
組合幹部は、共産党によるストライキ妨害ビラと思い、ビラ配布を止めさせようと、あわててとんできた。読んでみるとそのビラには、ストライキ支持の立場が書かれていたので、その組合幹部は驚いた。
「共産党の『4・8声明』は誤りである。
第1に、労働者は賃上げを中心とするストライキの中でこそ『訓練され、結合され、組織される』という原則を忘れている。
次に、政党と労働組合、大衆組織とを混同している。『労働組合は社会主義の学校』であり、労働組合内での活動は重要である。
わが日本共産党中郵細胞は、労働者階級、人民大衆のために戦い続ける」
ビラの文章は理論的で、筋が通っていた。
このビラを作った人たちは、戦後レツト・パージを体験しどん底を味わった。共産党が分裂していた当時から、社会の革新を願い、苦労して党活動を続けてきた。
安保入党党員と言われる香たち、60年安保闘争の中で党活動に参加し始めた者とは違って、歴史をふまえた思考が多面的な古い党員がいた。
香は、党勢力が急増した職場から、第8回大会代議員に選ばれた1人だった。綱領は満場一致で決まった。しかし、それ以前に、綱領についての意見は大きく違っていたことを知った。
その違いで多くの共産党から排除された人達がいた。その中に、安部公房、野間宏、杉浦明平ら21人の文学者たちがいた。そのことを真剣に考える時間もなく、何より宗教信者的思考を自ら疑う気もなかった。
香の職場総細胞指導部では、「謀略の恐れありと党中央が判断したのなら、それだけの根拠があるのだろう」となり、あっけないほど素直に会議を打ち切り、翌朝のビラ配りの態勢作りに話題を変えた。
香は、昨夜のことを反芻しながら、2人3人と出勤してくる職場の人に「おはようございます」と言いながら、ビラを手渡した。
ビラには『明日実行される予定の4、17ストライキは謀略の恐れがあり、実行したら労働者は甚大な被害を受けるので、共産党はスト中止を訴えます』とあった。総評と180万の労働者は、共産党の「スト中止・不参加」決定という直前撤退行為に出会い、涙をのんでストを中止した。
すべてはあのときから始まった。職場の共産党組織やサークル崩壊が。
誰に話しても、訴えても、共産党の主張は真剣に聞いて貰えなくなっていた。
「私は中庸でいきたい」。
「共産党はスト破りしたのではないの?」
「人間的にはみんないい人ばかりだけど、どれが正しいか分からない」。
ここ数年、職場の中を掘り起こし、創り出した政治的ムードが音を立てて崩れて行く。
盛況だった「三池守る会」も、「安保研究会」も「読書会」も、火が消えたようにしぼんでいった。
香は、書記長田中と三池守る会で協力し合った関係があり、その後も多発した職業病で田中は協力的であった。
また、アカ鬼のように怒り心頭だった執行委員の青山は、香の夫正志の高校時代、クラブ活動も同じ部の仲良しだった。
党員作家として期待され、後に「多喜二百合子賞」を貰った辻峰子の、「4・17スト」当時書いたモデル小説は、事実に反していた。そのことが、大混乱に拍車をかけた。プロレタリア作家として、中央が、ストは謀略と言えば、それにそった作品を書いてしまったのではないかと、香は考えた。
それだけでなく、社会党主導の組合活動の中で、県段階の組合執行部として明快な指導力は県下一で、全ての組合員から信頼の厚かった共産党員の川辺保が党を離れて行った。支部段階の組合執行部だった加藤豊も、原良江も、あのときを最後にみんな党を去ってしまった。
離党した人たちに共通していたのは、説得力ある大衆性と温かい人間味だった。そして、彼らは組合主義だとか、日和見主義だとか非難された。香は、そのことが何より切なかった。
組合の指導権は社会党が握り、社会党への献金も組合費同様、給料から天引きされていた。
共産党は『この政治献金は政党支持の自由に反する』と主張し続けた。その結果、組合へ共産党支持と意志表示した者のみ、政治献金を免除するということになった。
香たち指導部は、多くの非公然の党員たちと区別して活動していたが、公然党員として、自ら共産党員と名乗り堂々と申請した。
若い香にはそれが誇りでもあった。
『死んだ眼』という短編で、作者倉橋由美子は「60年安保闘争で国会突入した女子大生が殺されたとき、踏みつけられて失明という重症を負う主人公にこう言わせている。『逃げることを考えている。私の自由を、死さえ要求する政治のために提供しないことを』」。
香は、官側と組合双方からのアカ攻撃が、次第に激しくなってきたことを肌で感じながら、そこから逃げたいとは思わなかった。
社会主義社会になってこそ、人々は自由に生き、平等で幸せになれる。世の中が、封建制社会から資本主義社会に発展してきたように、次は社会主義社会になるのは、歴史的法則である。
香はその社会実現の運動をすることにこそ、生きる甲斐があり、青春をいかに生きるべきかの答えがあると信じて疑わなかった。それは、その思想を「絶対的真理」と宗教のように確信し続ける、マルクス、レーニン信奉者の姿であった。
「4・17問題」によって、公労協関係の職場党組織は、壊滅的打撃を受けた。
(追加個所)
名古屋中郵細胞の中心的活動家3人に、共産党地区委員会から「除名」通告書が届けられた。日付は1964年6月22日とあった。
それは共産党による4・17スト破りの2ヵ月後であり、共産党が自己批判を公表する1ヵ月前だった。
あの大混乱から3ヵ月経った7月、共産党中央は、社会党、総評労働者の猛反発に遭い、「スト中止指令は誤りであった」という自己批判をした。
おわり
(追加個所) 註
その後、共産党から除名された3人のうちの1人に偶然、直接取材の機会があった。〔3人のうち1人は既に故人であった〕
その取材によれば、共産党の自己批判公表後、3人を除名した愛知県常任委員会は3人に会い、次のような提案をしたという。
(1)、3人の除名は誤りだったから取り消す。
(2)、3人のうち1人を共産党県委員会専従、労対部長にする。
3人はその提案を欺瞞であるとして断固拒否した。
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