政治の季節
〔3DCG 宮地徹〕
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2022年2月22日 22時22分22秒(2という数字が12個連なる日)
2022年2月22日 22時22分22秒(2という数字が12個連なる日)
いまごろ気温の低い北国は、木や畑が紅葉できれいな朱色で輝いているだろう。
濃尾平野の広々とした平地のこの辺りにも、頭を垂れた稲穂の黄色が一面に広がる。淡いピンク色のコスモスはたけ、なんて自然界は美しくおしゃれなのだろう。
先日中日新聞(2020年10月14日)で、うれしいニュースに目が止まった。
『2022年 2月22日 22時22分22秒 2が12個重なるその瞬間に、東アジア各国の首脳が、もう戦争はしないと宣言を出そう』
発案者は元早稲田大学総長の西原春夫さん92歳だった。何より驚いたのは賛同した著名人の名がずらり。みんな85歳以上98歳までの長老ばかり。
作家の瀬戸内寂聴、澤地久枝、平岩弓枝など。かと思うと登山家の三浦雄一郎、茶道裏千家の千玄室 元東大大学長有馬朗人…などなど太平洋戦争体験者で著名人が並んでいた。
瀬戸内寂聴(98) 千玄室(97) 伊藤雅俊(96)イトーヨーカ堂創業者 大城立裕(95)作家 岡田卓也(95)イオン創業者
石原信雄(93)元内閣官房副長官 西原春夫(92)元早稲田大学総長 野村萬(90)人間国宝 谷口誠(90)元国連大使 澤地久枝(90)
有馬朗人(90) 明石康(89)元国連事務次長 花柳寿応(89)日本舞踊家(故人)
平岩弓枝(88) 三浦雄一郎(87) 森田実(87)政治評論家
有馬龍夫(87)元駐ドイツ大使 海老沢勝二(86)元NHK会長
「女たちの戦争と平和資料館」が東京新宿区にある。
そこで活動している渡辺美奈という女性が『市民の意見』という雑誌に書いていた。
「ユダヤ系の人たちは、強制収容所に連行されて10万2000人が殺害された。そのひとつで2005年から5年おきに、10万2000人の名前を5晩6日116時間かけて800人が読み上げる」そんな活動をしているという。死者の数ではなく、名前と顔をもった一人ひとりの生を思い起こすために。
そのオランダの取り組みに触発され、シベリア抑留の死者4万6000人余りの名前を読み上げるイベントがあった。今年8月新聞各紙で報道されていたそうだ。
前記の実績ある有名人たちの「2の戦争ノー宣言」も、シベリア抑留の犠牲者ひとり1人の名前をみんなで読み上げて、人の命の大切さを感じる運動も大切で嬉しい。
この貴重な動き努力こそ、庶民一人ひとりの平和な幸せ生活の源である。
われわれ庶民も、もっと世の中の動きに関心を持たないとそう痛感した。 (2020.10.23)
〔メニュー2〕2〜49は後
政権に批判的なら学術会議の候補者に任命しない
捨てたものじゃないよ、ウェブデモ 検事長が賭けマージャンで辞職
人生の冬に語りたいこと 昔話5つ 公安調査庁による尾行など
誰もがふつうに 生きられてこそ 萩原遼『北朝鮮−金王朝の真実』
世界記憶遺産になった山本作兵衛の絵文集『炭鉱〔ヤマ〕に生きる』
できないことをやった人、やらなかった人知事選、市長選、市議会解散
画期的判決が出た4月17日〔戦闘地域への自衛隊派遣は憲法違反〕
市民社会の力 ネットで実感『ニューヨークタイムズへの意見広告』運動
政権に批判的なら学術会議の候補者に任命しない
NHKの朝ドラ『エール』は評判がよく、視聴率も高いようである。
今朝、朝刊を読みながら観ていたら、女主人公がこどもたちに音楽教室を開きながら作った曲を軍の慰問団の女性が、「もっとお国のためになる曲でなきゃ…いまごろ音楽なんて」と、痛烈にけなされる。
そして、連れ合いの作曲家に赤紙(召集令状)が来たシーンにドキッとした。
それでなくても、この国が戦争に突入してから「お国のために」命を捧げる考えで、一面的に市民が縛られていく様子を大胆に放映している。
自分の子ども時代は戦争で、空襲を逃げまわり、郊外へ疎開した体験が苦しく甦る。
父に赤紙が来て戦地へ行かされ、幼い妹たちは父の顔も知らないほど。家を焼かれ空襲で逃げ回り、一人で子育てした母の大変さを想う。
食べる物があって、家で寝る場所がある平和な時代が当たり前ではない。どれほど恵まれた時代なのかを考える。
大胆に戦争時代を描いているドラマが、これからどう展開していくか…。戦争を知らない世代は仕事でテレビなど観ている時間ではないかも知れないが、何とかして観て欲しい。
もう一点今日の大きな事件は、優れた研究実績がある科学者から候補者を選考した学術会議の候補者から、6人が任命されなかった。
任命者は首相。政府の方針に異論をもつ学者だからと。首相は任命しなかった理由を言わないままである。
それは違憲だ。民主主義の根底が挑戦を受けている。学問の自由がなくなる。等々と批判が相次ぐ状態である。
任命されなかった候補者のひとりは発言する「学術会議が政府にさまざまな意見を述べることは、国民の生命や自由、安全にとって重要である」
1人の庶民として考える。そんなことが通ったら、今後政権に都合の悪いことは次々無視され続けるだろう。朝ドラで放映しているように、戦争という殺し合いは、そういう自由のない状態が続く中で、庶民が犠牲にならされたという苦い歴史体験だったのだ。
世の中のひとり1人が自由に考え、平和に暮らすことこそが願いである。
2020・10・4
もしも自分の連れ合いが、意にそぐわないことを上司から命令され悩みに悩んで自死したら、精神的にどうなってしまうのだろう。
2020年7月15日、大阪地裁へ訴えた女性がいた。「夫は死んでおわびしたのでしょう」涙声でそう訴えたその女性の件を新聞で読み、こころに響いた。
「森友問題の文書改ざんは『ぼくがやらされた』と連れ合いは言った」
近畿財務局職員だった赤木俊夫氏が手記を残して自死したのは、2018年3月7日である。
大阪府豊中市の国有地を森友学園に売却したとき、国が学園側に格安で土地を売った。
「夫は国有地売却問題への対応にあたっていた。そして優遇した記載を削除するなど公文書改ざんを複数回要求され、悩んでうつ病になってしまった」
連れ合いの自死を悩み続け、7月で2年4か月過ぎた。
その女性赤木雅子さんは我慢も限界になり「真実が知りたい」と、改ざんを命じた財務省と佐川元理財局長を相手に裁判を起こした。
佐川元理財局長は、既に辞任している。
あの大臣、この大臣と何人も問題ありで辞めさせられているいまの政治。最近も夫婦で議員だった二人が選挙の財政問題で辞めさせられた。これが政治とは呆れる。
「小難しい政治の話? 関心ないね」
いまの若い人たちや、忙しい現役世代の人たちにそう言われそうな政治の話である。
でも身近な人がその動きで命を絶ってしまったら…政治なんて無関心とも言っておられない。政治とは、ひとりひとりの庶民が、自由でよりよい暮らしをするためにあるのだから。
議員たちは、われらが懸命に働いて収めた税金で、考えられない高給を貰っているのだ。
政治に無関心な人が多ければ多いほど、勝手に自分たちでこの国を動かしていく。
『コロナ禍』で人間世界が大狂いしている。
しかし、この国の国会は開かれていない。首相もこの重要な時に発言なし。なぜ?
これがこの国のありのままの姿である。
庶民のひとりとして、可笑しいと感じた政治の現状を黙っているわけにはいかない。
2020・8・6 (ヒロシマに原爆投下された日)
検事長が賭けマージャンで辞職
新型コロナウイルスだ、コロナだ。「会うな、しゃべるな、出歩くな、三密だ」
妹は気の合う仲間たちと続けてきたマージャンを自粛していた。
世界中の大騒動が少しおさまりそうか? でもまだまだ、第二波、第三波が来そうで感染の不安は無くなっていない。
自然界は田の土が耕され、濃い茶色になっている。田植えが近い?
隣はレンゲ畑だった。薄い赤紫のレンゲが密集して美しさを競い合っていた。
自然界は何と静かで活き活き新鮮なのだろう。
そんな中で驚いた事件が起きた。それは『検察庁法改正案』が国会成立見送りになった。こんな難しそうな問題が、ふつうの庶民のツイッターでの抗議がスタートだった。
「政権の意のままに動く状態は、三権分立の否定につながる」と、元検事総長らも反対意見書提出した。
『SNSでの反対デモ』になり、抗議デモの数は、100万単位のびつくりする数字に膨れ上がった。
それにしても、スタートは30代の女性の抗議だった。こんな難しそうな問題に庶民がアッという間に反応した凄さ。
いつも安倍内閣の勝手な取り組みに、一人の庶民として抵抗を感じていた。しかし、いざ世論調査になると、内閣支持率は変わらない。
みんな政治なんか何とも感じていないのだ。としか考えられなかった。
それなのに、それなのに、今回黒川高検検事長の定年を勝手に政府が延ばしたこと。これは司法に行政が関与し始めた。
人事権まで政権に握られ、民主主義の危機だ。そういう捉え方だと思う。
でも、どうして? どうして、いままでと違ってきたのか…
やはり、森友問題、加計問題や桜を見る会問題…すべてまともに向き合わず、勝手に政治をやっている安倍内閣だった。ベラベラしゃべりまくる手法で真面に答えていない。
コロナ問題など、やっと政治に関心がいき始めた??
(2020・5・22)
83歳になり、人生を振り返るとき、やはりあの問題は触れない訳にはいかない。
60年安保闘争で、この国も強行採決にデモなど反対運動が盛り上がった。
日本共産党8回大会が開かれ、愛知県では女代議員は自分ひとりだった。組織のあやつり人形だったかも。
1976年から80年代、仕事と子育て、読書会それから世の中をよくする運動に必死の日々だった。インターネットなく、携帯もスマホもなかった40年昔である。
人生には思いもかけない事が起きる。活動家同士の結婚は毎日早朝から深夜まで追われっぱなし。連れ合いが職場を辞めて共産党の専従活動家として働いていた。
いつも泊まり込みの会議が多く、たまに帰ると、明け方うなされる声で目がさめた。
21日間も、長い監禁査問をされ続けたらしい。或る日突然「異見を言って専従をくびになった。納得できないから裁判で闘う」に驚く。40歳だった。 日本共産党との裁判
元々給料は遅配、欠配がよくあり経済的には公務員の自分が支えていた。
2年間は、毎月友人に借り、妹に借りてやりくりし、ボーナスが出ると早速返す。そんな苦しい日々が続いた。
歴史は大きく動き社会主義国ソ連、東欧が崩壊した。
経済的にどん底だったわが家も、学習塾を始め安定してきた。
その頃、自分は管理部門転勤になった。若い男の働き手たちとそれなりに愉しんで働いたが、どん底を味わっていた頃、ある男性が言ったことばはショックだった。
「あんな暗い顔した女は嫌いだ」
燃えた理想が失われた衝撃。唯一絶対の真理なんて無い。
「暗い顔が嫌いだ」はわが人生の教訓のひとつだ。
さて、人生のおしまいも遠くない歳になり、少しは人の役に立っているか?
自分と同じ83歳で6年前に逝った精神科医師のなだいなだ氏は言い残した。
『人生はくねくね道 とりあえず今日を生き、明日もまた今日を生きよう』
自分もとりあえず今日を、自由で平和な一日一日を大事に生きよう。
いい顔になるぞ。 (2019・11・17)
最近、暗いニユースばかり。「政治の話になると、安倍首相の発言が一方的でべらべらと弁論大会のようにしゃべりまくる。だからテレビを切ってしまう」そう話す友もいる。
「北朝鮮が核実験!」
「北朝鮮がまた核実験、日本上空をミサイルが…」に世界が注目する中で、この国の政府は突然の解散を決め、総選挙になった。
安倍一強のやりたい放題の自民党政府に対して、支持率は下がっていた。にも拘わらず、結果は野党が団結できないバラバラ状態で、自民党、公明党の連立が勝った。
選挙で当選した自民党の国会議員たちは「謙虚に、謙虚に」と口を揃える。なぜか…
「北朝鮮問題のお陰で勝てた」と、正直に口からことばを漏らした自民党幹部さえいる。
まさにその通り、「北朝鮮がもしも核を使ったら…」選挙中は、庶民のこの問題への不安と関心が一番になってしまった面もある。
「森友学園、加計学園」問題は、億単位の税金の不当な使われ方や、獣医学部新設についての一面的措置など、安倍首相夫妻が関係する大問題ありで報道された。
「森友、加計問題は選挙の中で丁寧に説明します」そう繰り返していた首相。
嘘ばっかり、何も触れないで選挙は終わった。
こころある研究者や、物書きの人たちは「ファッショ化する日本」を嘆く。
国会での質問時間は、いままでは政府側2対野党8の割合だった。それを5対5にすべきだなんて、驚くべき発想の自民党議員たち。ひとまず4対6の時間配分に落ち着いたようである。が、一市民として考えるなら、国民の疑問を政治を任せたときの政府に問い、より民主的な議論で国民の生活を守る。それが国会なのでしょ?
現在国会開催中で、重要な問題での質疑真っ最中なのに、「横綱が暴力をふるった事件」で大荒れの相撲界、マスコミ報道は「日馬富士暴力事件の不可解さ…」で持ちっきり。
おまけに、およそ人間のすることではない「自殺願望の人と連絡をとり、9人もの人を殺す男」のニユースに、道義心ない現代社会をあらためて考えさせられる。
製造業界(日産自動車、神戸製鋼、三菱マテリアルグループなど)の相次ぐ不正事件。
日本中が、いえ世界中がおかしくなっている。これからの人生を歩く若い人たちが、希望をもって生きて行く。そんな世の中にしたいのに…。
少しだけホッとしたのは、安倍首相が沖縄訪問し平和記念公園で「戦没者追悼式」に出席したときの報道写真が「沖縄の視線」と題して、優れた報道写真に選ばれたこと。
中日新聞で写真を見たが、知事も県民も鋭い眼で首相を睨んでいた。
来日したアメリカ大統領とゴルフでガチッと一致し、アメリカの軍備品(数10億円)を買うと言う日本の首相は、国民の暮らしを真剣に考えているのだろうか?
11月も下旬になり、急に寒くなった。垣根のサザンカがすっきりとした白の花を、ぼつぼつ赤の花も開かせ始めた。
澄んだ青い空の色を、浮き立たせるような白雲が、夕暮れを美しく演じてくれている。
平和だなぁ。平和がいいなぁ。 2017・11・28
稲穂が頭を垂れ始めた。秋のお彼岸の入り、名古屋市郊外のこの辺りは住宅も増えたが、まだ一面美しくみどりの田園風景が見られる。
「平和だなぁ」夕方、「目のために みどり眺めよ遠方の」子どもの頃よくやったかるたの文句を思い出しながら、みどりを愉しんで散歩出来る幸せ。
北朝鮮が何回も核実験をする。日本の上空を飛ばして太平洋へ落ちる。北国では、まるで子ども時代に逃げた「空襲警報発令」のような声がマイクで流れる。
「核実験です。建物の中に隠れてください…」「Jアラート」と言うらしい。
地球温暖化で異常気象、氷河が解ける。すると、海水の温度が高くなる。二度上がると台風も強烈になるそうだ。各地で猛暑、降るとなると激しい雨、風で水害や土砂崩れ…
日本が世界中が、地球がおかしくなった。
そんな中で、今度は「国会解散」の声ばかりに驚く。
安倍首相は、森友学園問題も、加計学園問題も庶民の疑問には何も答えていない。それなのに中身に、触れると折角内閣改造で少し支持率が上がったのに、また下がっては…と
「かけ水解散」とか「森 かけ食い逃げ解散」とマスコミを賑わす解散風である。
安倍首相は弁舌さわやかにしゃべりまくる。まるで弁論大会のようだ。さすが「森友学園」問題や「加計学園」問題では庶民が何か「変だ」「おかしい」と感じたから、内閣支持率が下がった。それをにわかに内閣改造して持ち直した。
恐ろしいと思うことがある。内閣記者クラブで東京新聞の女性記者が、菅官房長官に「森友、加計」問題を記者クラブのなれあいムードでなく、鋭く質問した。するとツイッターでその記者へ「死ね」というメールが爆発的に増えたそうだ。「『どうして政府の言うことに従わないのか』『殺してやる』という脅迫電話があった」(加藤哲郎HP)にドキッとした。
自由にもの言える世の中でこそ、平和であり続けることが出来る。子ども時代に戦争の世の中を味わい、ときの政府のいいなりばかりが通ると、どんな社会になるかを経験した者は「怖い世の中になりつつある」を実感する。
もう一点、「加計学園」問題で、なぜこの学園に「獣医学部」設置が急いで認められるのか? 首相ととても親しい加計氏。
獣医学はペットの診断治療だけではなく、獣医学の発達は戦争と深いつながりがある(加藤哲郎HP)
元高校教師は語る。「先の大戦で、亡父が細菌戦部隊『731部隊』にいて中国人に試験管を押し付けペストに感染させた。零下20度の戸外で凍傷実験もした」(朝日新聞ひと欄)
庶民は利口にならないと…。政治にも関心をもち続けないと…。凡夫を自覚はするが…。
誤魔化し、権力維持だけが目標で、憲法変えてどこまでも「戦争のできる国」を目指すのですか?
2017・9・23
この歳まで生きると、あの友がこの親族が次々この世を去り、寂しさがつのる。
そんな生活に、またまた優れた人生の大先輩の死亡ニュースが届いた。
元気な生涯現役で有名な105歳の医師日野原重明氏が、呼吸不全で旅立たれた。(7月18日)
医師である自ら「延命治療は望まず」人口呼吸器や胃ろうをつけることも拒まれた。
氏は1970年によど号ハイジャック事件に遭遇し、4日間命の危険を感じて助かり、生きる命に敏感になった。「これからは生かされた感謝の思いを他の人々に返していく」という使命感を覚えたと言う。
医療現場に立ち続けながら、著作や講演など幅広く活動し、特に子供たちに「いのちの授業」を続け「いのちは時間、時間を大切に」と訴え続けた。
もう一人、惜しい人が亡くなった。(7月13日)
「私には敵はいない。私には憎しみはない」 テレビや新聞でこの言葉を聞き、あまりにも立派で胸に響いた。「スゴイ人だナァ」と、このことばの発言者を確認した。
中国の民主的活動家、劉曙波(リウシアオポー)氏が61歳の若さで旅立たれた。
「『私には敵はいない。私には憎しみはない』。自分を弾圧した警察官や検察官も『みんな私の敵ではない』」。
2010年のノーベル平和賞に輝いたが、受賞式に参加出来なかった。
何度弾圧されても外国に活動の場を移さず、中国からの発信にこだわった人だった。
天安門事件のとき、非暴力での抵抗を貫くことが大事と訴えた。
中国当局は、葬儀の場所も民主化の聖地にされてしまうからと、遺骨は「海葬」にされた。
日野原氏もリウ氏も、深いところから人間性が滲み出てくる、とても素敵なお顔である。
日頃から、自分の表現下手、口下手を自覚している。意図した発言や行為を誤解され、結果的に敵にされた経験もある。青春時代からおよそ20余年間「世のため人のため」と信じて活動した。果たしてそうだったか?
専従活動家だった連れ合いが組織に異論を持ち、くびになって一人で裁判闘争までした。その10年後、東欧革命、ソ連邦崩壊で世界は大きく変わった。励まされたのも事実だ。
精神的、経済的にどん底を味わい、ひとつだけはっきり掴めた。それは「唯一絶対の真理はない」ということ。
だから、「いのちは生かされた感謝の思いを他の人々に返していく」「私には敵はいない。憎しみはない」のことばはなんとも、素晴らしく響く。
夫婦とも60歳で仕事を卒業し、必死でインターネットに夫婦のホームページを開いた。あれから更に20年が過ぎた。
「特選お勧めサイト」とHPで
励まし続けて下さった、一橋大学加藤哲郎名誉教授
継続する大きな力になった。
感謝の思いを忘れない。
「庶民の目線を忘れるな」と
「情報発信のボランティァ的要素もあるしネ」を
肝に銘じて20年
ささやかなわが人生も最終章なり。
立派な先輩のことばに刺激され、
後押しされて歩み続ける。
2017・7・26
名古屋の中心は、栄地域だった。ずっと長い間。一方最近はリニア新幹線の関係で、名駅周辺に高層ビルが建ち並び、大きなビル内に商店街が作られデパートの売り上げにも変化が現れているらしい。
栄地区は、戦後の再建時代にテレビ塔が建ち、公園でゆったりした気分になる。その辺りから南北に伸びる広い歩道の久屋大通り、端っこと真ん中に、みどりの木が歩く人たちに、やさしく日陰を作ってくれる。
栄交差点にはデパートがでんと構え、少し歩くと昔からの老舗デパートが客を待っている。
昔、むかしの青春時代、この近くに職場があった時期に友たちと人生の春を愉しみ、そして青春時代の恋こころを育んだ。
1960年安保闘争で世の中が騒がしくなる一年前、三池炭鉱で大量の指名解雇による三池争議が起きた。
そのとき、単なる正義感だけで、この栄交差点へ並び、みんなで支援カンパを訴えた事もあった。
友たちと「1万円カンパしてくれたわ」などと、感激し合った記憶が蘇り元気になる。
当時組合幹部から「三池へ応援に行ってくれないか」と頼まれ、社会党や労働組合が活発だったので、押せ押せムードで読書会の仲間二人と三池炭鉱まで応援に行った。若かったなぁ。
転勤などで、この繁華街とは違うムードの官庁街のある地域に変わったりしたが、ここで長年子育てしながらの楽しくて、苦しくて、やり甲斐のある職業生活を卒業した。
当時定年は55歳だった。
新たな気持ちで文章講座に通った。講師や仲間たちが素晴らしかった。2週間に1回だったと思うが、必ず原稿に朱書きの指導メモが記され楽しく学んだ。
60歳になり、夫が20年余り続けた学習塾をやめた。夫婦でパソコン技術の先輩に教わりながら、当時まだ珍しいインターネットに必死でホームページを開いて市民の想いを文章にした。
63歳からピアノレッスンを始めたから、週1回か2回はこの栄地区にくる。文章の訓練は月2回ほぼ無欠席だったから、自他ともに認める「出歩き女」になった。
先日、久しぶりにここを歩いた。
すると、やはり片手を上げ続けて350円の「ビッグイシュウ」を売っていた。この雑誌は1冊売れると180円が売っている人の収入になる。ホームレスの人たちを救うのが目的のこの雑誌はイギリスで1991年にスタートしたという。
今号は、アカデミー最優秀作品賞を取った映画「ムーンライト」の役者ナオミ・ハリスの紹介や、浜のり子や、池内了の文章を載せている。特集「ギャンブル依存症」なども読ませる。
「350円でしたね」「はい、そうです。ありがとうございます」
少しいい事ができた気分になる。
近ごろ戦前の治安維持法のような「共謀罪」をテロ防止に必要だと、名前を変えて強引に国会で通そうとしている。そこで若かりし頃の栄地区での深刻な体験が蘇った。
名古屋市東部のバス停を降りてアパートへ帰るとき、突然後ろから「あなたは今度、共産党の八回大会に出席されますね」の声に、天と地がひっくり返ったような気分で仰天した。
「あなた どなた?」と言うと、男性は「公安調査庁の者です」と言いながら、どこまでもついてくる。
やや登り坂になっているその道を、ぱっと駆け降りた。今来たバス停目指して。まだまだ尾行をやめない。栄方面行きのバスが来たので飛び乗った。と、その男も乗ってきた。
クソッと思って栄のバス停で降り、職場の正面玄関へ駈け込んで、共産党事務所へ電話した。「公安がどこまでも後ついてきます。助けて!」
近くの事務所から駆け付けてくれたのはOさん、外の通りで待っていた公安にきつい調子で抗議してくれ、追い払ってくれた。(当時60年安保闘争真っ盛りの時代、共産党の一員になっていた)
「自由のない世の中、何でも掴まれている世の中」戦争の出来る世の中に、いつの間にかなりつつある。
『この世界の片隅で』生かされた80歳、間もなくおしまいが来る。平和な世の中で生きて来た若い人たちに伝えたい。元気な栄地域での苦い思い出を。
名駅地域も栄地域も、通い慣れた庭のようなもの。両方とも元気がいい。
2017・4・23
いま、テレビ報道される番組を観ると、「殺した」とか「殺された」とか「いじめで自殺」とか簡単に人を殺す時代になってしまい、暗い気持ちになる。体調不良になりそうな人もあるのではないか。
国会討論の報道で、野党が何か質問する。と、首相は「そんなことは知りません。民主党政権のときもそうたったでしょう? 貴方がた民主党でも、共産党でもそうでしょ?」などと、質問の中身に答えるのではなく、弁舌さわやかに反論するばかりで、聞く気が失せる。
どうしたら庶民の暮らしがよくなるのかを考えるために、国民に選ばれたはずなのに。
森友学園問題についても、いろんな問題が出てきている。小学校建設のための国有地払下げで政治家が関わった問題、土地価格が違う3つもの計画書を提出して、建設許可を得ようとしていた問題。更に安倍総理の名前で寄付を募らせ、総理婦人と理事長婦人と親しくメール交換する仲であることも分かった。
理事長の国会証人喚問で「首相夫人から(首相名で)100万円寄付を戴いた」と差出人訂正の領収書ありの問題。これに対しても政府は「知らない」で逃げそう。
庶民は何を信じたらいいのか分からない。
何よりドキッとしたのは、幼い幼稚園児に「教育勅語」を暗唱させていたこと。「安倍首相ガンバッテ」とまで言わせている現実へ、恐ろしさを覚えた。
いまの世の中は、教育勅語なんて全く知らない世代が殆どになった。
1936年2・26事件の年にこの世に生まれた自分たちの世代は、1941年、5歳のときの国は戦争を始めた。国民学校入学から戦争、戦争で教育された。
教育勅語は「ちんおもうに わがこうそこうそ…」で始まる。「なんじしんみんは…」と天皇が「危急の事態になったら愛国心で天皇家の運命を助けなさい」と命じている。
わけも分からず、いつも聞かされ、覚えさせられた。
「欲しがりません勝つまでは」「一億玉砕」……空襲が激しくなり、逃げ廻った。
家を焼かれ親と別れ、子どもだけで縁故疎開した。何より父親が赤紙一枚で戦争にとられた。戦争とはいかに惨めな殺し合いかを、いまの若い人たちに伝えなければと真剣に思う。
教育勅語は1948年衆参両院の決議で失効が確認された。それを、いま幼稚園児に暗唱させている。
丸山真男のことば「戦争は一人、せいぜい少数の人間がボタン一つ押すことで一瞬にして起こせる。平和は無数の人間の辛抱強い努力なしには建設できない。このことに平和の道徳的優位性がある」…加藤哲郎HPより
2017・3・25
『拉致と真実』という情報誌が送られてきた。7号(2016年1月27日)編集責任者は萩原遼氏である。
氏は大阪外語大学朝鮮語科を出て、赤旗記者になった。1972年に赤旗平壌特派員として派遣された。しかし、1998年11月出版した『北朝鮮に消えた友と私の物語』に書いた友と連絡をとろうとして、スパイと疑われ2年後に追放された。その友とは大阪の定時制高校で知り合った在日朝鮮人である。
萩原氏は14年後の1988年、赤旗外信部副部長も解任された。
組織に異見をもった夫も専従をくびになり、似た体験をしたので、夫婦で一度会ったことがある。
萩原遼氏は『拉致と真実』に「核の恐ろしさが一般の人たちから遠くなっている」と、書いている。
ふつうの庶民である私たちは、確かに「北朝鮮が水爆実験に成功」というニュースを聞けば心配になる。
唯一の被爆国日本、広島長崎の原爆で20万人以上が瞬時に焼き殺された歴史があるから。さらに1954年には、米国の水爆実験で第五福竜丸の船員23人が被爆し久保山愛吉さんが死んでいる。福島の原発事故から5年過ぎても、10万人以上の人たちが仮設暮らしで故郷へ帰れない。核のごみの捨て場がない。
これらの歴史を考えれば当然である。
北朝鮮は2016年1月6日 水素爆弾実験成功の宣伝、2016年2月7日 ミサイル発射実験成功と発表した。
人類はどうなってしまうのだろう。新しい年がスタートしておよそ1ヵ月、明るいニュースなく健康にも悪いニュースばかり。 何人もの大臣が政治と金の問題で辞任する日本政府。安保関連法案を強行採決した政府。でも支持率が上がっている。何故?
『拉致と真実』にあった『新潮45』― 2016年2月号―の記事
「北朝鮮に足を向けて寝られないな、安倍(首相)は。暗い経済ニュースのあれこれが、ひとまず水爆騒動の陰に隠れたもの。政府が喜んでいると思える」
政治のポイントを核実験ニュースで誤魔化す、利用する政府は支持率が上がる。いまの日本市民の政治感覚だ。
さらに、拉致問題について「北朝鮮による拉致の可能性を排除できない者が868人」と、日本の警察が2012年12月発表した。
萩原氏は「一人につき少なくとも5人の工作員が要る。ならば5千人から1万人の工作員が要る。大半は朝鮮総連のメンバーではないか」
氏は、朝鮮学校の一面的な歴史教科書を翻訳し、無償化に反対してときの鳩山内閣にそれをやめさせた。
「朝鮮総連は北朝鮮の核実験成功を激賞している。拉致被害家族は高齢で一刻の猶予も許されない」と記す。
世界の国々が、北朝鮮は身勝手な何をするか分からない国という。萩原遼氏は最近、がんで胃の摘出手術をされた。『拉致と真実』発刊(2年前)に載った氏の心をあらためて思った。
「私はこの2月で77歳になった。(私たち夫婦と同じだ) いつ死んでもおかしくない歳である。両親も妻子も孫も金も家も車もない。失うものは何もない」
2016年2月9日
秋のお彼岸、コスモスの薄いピンクや白色を引き立たせるように、彼岸花があちらにひとかたまり、こちらにひとかたまり真っ赤に、強烈に輝いている。
わが家の彼岸花、数十本も「秋だぞ、涼しい秋がきたぞ」と赤い声で叫んでいる。
おまけに、田の稲がこうべを垂れ始め、間もなく目が覚めるような一面黄金色の楽園が実現する。羽根伸ばせば2メートル近い白さぎが10匹もいる休耕田、雀たちも群れて飛ぶ。
先日のテレビで外国人観光客が言っていた。「初めて見たこうべを垂れる稲穂、一番すてきな景色」と。
「テント日誌」というメールが送られてくる。中心メンバーK氏と夫が市民運動で知り合いだから。
「4年半前の3月11日、原発事故が起きた。抗議のために経済産業省前の広場にテントを張ってから、9月末で1481日になる」とある。
「右翼のひどい嫌がらせは10回以上」とあった。並みの努力で出来ないテント生活。
国会前で連日繰り広げられる「安保法制」「戦争反対」の集会に参加する人たちも、テントに立ち寄ってくれるそうだ。
このテントを立ち上げたのは、4年半前の福島原発事故に黙っていられない人たちであるが、外国の人たちにも関心をもたれているらしい。
ベルギーの観光客「ベルギーにも原発ある。あなたたちgood job!」
ドイツの女性「ドイツの転換(原発政策の)よかった。まだ8基動いている」と、土産までくれる。
ドイツの人「原発は世界の問題だ」
安倍内閣が強行採決した「安保関連法案」、いつの間にか「武器輸出三原則」も撤廃された。戦争へ戦争へと、いつの間にか流れている。
連日国会前だけでなく、全国で抗議行動が続く。抵抗し継続し続けなければ…
「良い原発と悪い原発がないように、良い戦争と悪い戦争があるはずはない」
「放射能汚染さえなければ美しい山野なのに、目に見えない放射能に犯されている。
こんな状態を放置しながら、全国の原発を再稼働しようという原子力マフィアたちは人間ではない! 怒りと涙があふれた」とあり、思わず共感のメールを送った。
ふと思う。「戦争や原発で人類が死滅」したら、いま飛び廻っている蝶や雀、白さぎたちは、羽根で飛べるから、あちこち餌を求めて飛びまわるのだろうか?
いや、世界の果てまで飛んでも放射能まみれで、やがて人類と同じ運命になるのだろう。
2015・10・
満員の国鉄名古屋駅の上りホーム、国会請願に選ばれたメンバーは急いで列車に乗り込む。見送りの人たちの中にいたMが「帰ったら結婚しよう」と小声で言った。
えっ? プロポーズ?…「思想の一致、趣味の一致でいいけれど、それって『どさくさプロポ−ズ』っていうの?」
列車は走りだした。いまなら東京まで新幹線で2時間あれば着く。当時新幹線がなかったから3倍位時間がかかった。
体力も気力も十分だった23歳の私、逓信省から公社に変わった電気通信産業の職場は総評の中心のひとつで社会党が強かった。職場の有志が読書会や安保研究会などで勉強し合い、社会党、共産党などの活動に参加する中で、共産党専従活動家Mとも知り合った。
当時の首相が岸信介(安倍首相の祖父)で、日米安保条約改正のごり押しをしようとしていた。
米ソ対立の世界情勢の中で、アメリカの軍事パートナーとして「戦争が出来る国」にしようという岸内閣に、国民の多くが反対した。
全国の地域、職場で反対運動が盛り上がり、それが連日の国会周辺を埋めるデモになった。組合幹部から国会での抗議デモに参加するように指示された。
初めて日本の政治の中心である国会の廻りを、整然と行進し「安保反対の署名」を提出した。デモで国会周辺を取り巻いた感激は忘れない。
その後、政府に反対の学生が国会突入を試み、樺美智子さんが踏み殺された事件も起きた。当時共産党は、国会突入を党の方針に違反すると、この惨死を無視した。それが正しかったのか、政治的に幼かった私は分からなかった。
はっきり分かっていたのは、安保闘争で国民が抵抗したから、岸内閣は退陣に追い込まれ、「憲法を変えて戦争が出来る国」にという岸の構想は挫折した。
1960年の安保闘争から55年の月日が流れた。日本は戦後70年間、戦争という殺し合いをしなかったから、世界に信用されて来た。
しかし、安倍内閣が55年前の岸内閣と同じ事を企み、強引に「安全保障法案」を閣議決定した。学者研究者、知識人が違憲と言い、庶民がどれだけ反対の意志を表しても、耳を傾けない。
「まだまだ阻止できます」という若手弁護士会のブログに1日で32万件、「安保N0」京大有志の会に2週間で17000件など、ネットの反応が凄い。
2015年安保闘争が始まる(加藤哲郎ホームページ)。
個々の庶民が諸々の場で声を上げている。それぞれの持ち場で出来る事を続けようと思う。
「どさくさプロポーズ」で結ばれた2人は、2年前金婚式、苦労かけた子どもたちが祝ってくれた。
給料の遅配続き、異見を持って組織を追われた苦しみと闘った裁判。学習塾で経済的に立ち直り、考えもしなかったソ連邦の崩壊などなど、
喜びも悲しみも切り刻んだ50年だった。
黒澤いつき弁護士『『安保関連法案まだまだ阻止できます』明日の自由を守る若手 ...』一日で32万人に拡散
『学問は権力の下僕ではない…京大有志の声明、共感広がる:』2週間で17000件
2015・7・20
こんな政治が許されるのですか?
(1)
私鉄の改札口を出るとき、前を行くのは赤ちゃんを抱っこした女性だった。それを待っていた出迎えの女性が「あらっ 塾でお世話になりました」と挨拶された。
夫が20余年やっていた学習塾、辞めてからでも15年の月日が流れた。現役世代の中心で頑張る大勢の元塾生と会うこともあるが、この女性はまるで思い出せない。
すると、赤ちゃんを抱いたその女性が「高木です。お世話になりました。塾の3年間、あの時があって、いまがあります」と言った。
民間企業で働き、結婚、出産、子育ての苦労をしたからこその、人間味溢れる言葉が出たのだろう。口下手な自分には、咄嗟に出ない言葉だと思った。
「高木さん? わぁこんな可愛い赤ちゃんのお母さん? 赤ちゃん何歳?」と聞くと「1歳になったばかりです。もうすぐ職場に戻ります」と、ことばが交わせた。
真面目で優秀な生徒が多かったけれど、人と会ってパッと「あのときがあって、いまがあります」とは、中々言えるものではない。
「がんばってね」と言ってその母子と別れた。
ほのぼのとした気分に浸りながら、いまどきの政治家たち、特に安倍首相にいまの元塾性の1/10でいいから、謙虚な態度があれば日本の政治も少しは良くなるのにと思えてきた。
寒風が吹き荒れ、雪国では記録的な大雪で、雪かきの事故や、なだれ等災害続きの日本列島にも、暦の上では春が来た。しかし、世界中で戦争という殺し合いニュースが胸痛める。ウクライナで、中東地域で…
(2)
またまた、農林大臣が政治資金問題で辞任した。国の補助金を交付された企業からお金を貰っていたことがバレタ。(砂糖メーカーの団体が運営するビル管理会社から100万円、木材加工会社から300万円) その後の資料で、貰っていたのは約1000万円に増えた。
昨年秋、経済産業相の小渕優子と、法務相松島みどりという内閣自慢の女性閣僚2人が辞任したから、3回も続いて「政治とカネ」問題である。
いま国会開催中なのに…。辞任した農林大臣が「話しても分からない人は分からない」と言い、国民に申し訳ないとは、まるで思っていない。素人でもそれが分かる。
何故なら、国会で問題にした野党に、首相がヤジを飛ばした。
「日教組はやっているよ! それを貰った議員が民主党にいる!」と。
しかも、民主党から事実無根を追及されて、「記憶違いだった」「正確性を欠いた」と訂正した。これが日本の首相である。
それで許されるの? こんなレベルの政治家が、いつも、弁舌さわやかに弁論大会のように発言を続けている。
「幼い頃から長調で教育された者は勇壮活発の精神を発揮し、短調で教育された者は柔弱憂鬱(じゅうじゃくゆううつ)の資質を成す」
これは、朝日新聞天声人語欄(2月25日)に載ったもので、明治期の唱歌教育としてまとめられたものらしい。
戦争中「富国強兵をかかげた時代は、無謀な積極政策を提案しても、大抵は威勢がいいとほめられた」
仕事を終え、15年間ピアノを習い続けるのは、音楽が好きで下手でも続ける能力だけはあるから。その「50歳からのピアノ教室」の発表会で50回以上弾く体験をしたが、確かに長調の曲は威勢がよく、シューベルトの「死と乙女」(弦楽四重奏曲14番)のような短調の曲はしんみり、人生の哀しさ切なさを味わう。
どんな人間にも、いい所と欠点がある。まして国の政治を推し進めるには、いろいろな困難があって当然である。
でも、国の責任者として、あまりにも自分の考えを通すことのみで、無責任極まる。
お友達で周りを固め、選挙で与党が過半数になったから、憲法も変える。武器輸出もやる。自衛隊も他国派遣を増やす。等々その前段として、特定秘密保護法など何でも閣議決定で進めている日本。
世界の目も皮肉で、米国(NEWYORKTIMES2月8日)に一つの風刺画が掲載された
「日本人ジャーナリスト、ケンジ・ゴトーが殺されて、シンゾー・アベ首相はリベンジを呼びかけた」という風刺画の中に「憲法改正」が書き込まれている。…加藤哲郎HPより…
経済が良くなる。と言っても、実際は大手企業だけで大部分の中小企業は、景気良くないと言っているのに。
自分中心の考えで、どんどん戦争が出来る国にして行く首相。間違っていた野次まで飛ばし、真剣に国民に詫びたとは思えない。
3人もの閣僚が辞任する政府、支持率が下がらないのは何故だろう?
忙しい現役世代も、命が残り少なくなった年寄りも、みんなで考え合いたい。
2015・2・28
(1)、失うものは何もない
20年間赤旗記者として活躍し、北朝鮮特派員だった萩原遼氏が、最近『拉致と真実・第2号』という個人誌を出された。
発刊のことばの中で「日本の警察が北朝鮮による拉致の可能性を排除できない者が868人と発表した。900人近い被害者といえば1人につき少なくとも5人の工作員が要る。5千人から1万人にのぼる。その大半は朝鮮総連のメンバーではないか。しかもただの一人も刑を科されていない」
朝鮮総連幹部は全員が朝鮮労働党党員である。
「拉致は殺人事件に匹敵する犯罪、残された家族には生殺しである。…私は77歳、いつ死んでもおかしくない歳である。両親も妻子も孫も金も家も車もない。失うものは何もない。 …邪悪な組織は解散しなければならない。と主張し続ける…」とあった。わが家も車もない携帯も持たないが…。
氏は北朝鮮に帰国した友人を現地で探した。以後北朝鮮当局にマークされ、結果的に日本の共産党から党中央外信部副部長の職を奪われた。
何より創刊号を出してから胃がんで「余命2ヵ月」と宣告され茫然とした。手術をして医師に、1年間抗がん剤投与をと言われ、「1年間は命があるとも解釈でき、命ある限り季刊で出します」とあった。氏の執念を感じた。
77歳なら、わが夫婦も同じ歳である。氏とは一度夫婦で会ったことがある。名古屋駅だったが、同じような苦い体験をした夫は萩原氏に関心を深くし、ホームペ−ジに関連記事をいくつも載せて応援している。
いま拉致問題が注目されている。北朝鮮における拉致問題に関する特別調査委員会が発足した。
拉致事件は、解決の最後のチャンスとして相手と交渉中である。
横田めぐみさんが北朝鮮に拉致され、その両親がどんどん歳とっていくさまに心痛めている一人である。理路整然と話をされる母親が自分と同じ77歳と知れば、なおのこと安らぐことのない胸の中が思いやられる。
(2)、テントで抗議1107日
3年半前に起きた東電の福島第一原発事故以来、脱原発を主張して1107日も通産省前のテントに寝泊まりして抵抗している人たちがいる。3年以上になる。
その状況をインターネツトに載せ、全国に「テント日誌」として発信し続けている人たち。
わが家にも届いている「テント日誌」から
9月21日(日) テントひろば1107日、右翼の街宣車が何台も通る。
「乞食、早く出て行け、4年も不法占拠しているのか!」など私たちに罵詈雑言を浴びせて通ったが、実害はなかったので良かった。
23日にさよなら原発全国大集会をやるので、カナダの写真報道家が亀戸公園を訪ねてくる。スペインの放送局の人たちが通訳つきで取材に来る。
カメラマンがテントの写真をたくさん撮って帰った。
このように、世界からも注目されているテント抗議であり、励ましに来てくれる人も多そうであるが、3年も継続している苦労は並みではないと思う。
地下鉄出口でまいたチラシの主張は、
既に1年間私たちは原発なしで過ごしている。
原発は安全、安い、電力足りないは嘘だ。自民党政権は嘘の責任をとっていない。
福島ではいまも13万人もの人が避難し、仮設住宅で暮らし自殺者も出ている。…これらのビラの受け取りは20人に1人だという。
でも虎の門、霞が関に通う官僚を含めた人たちにメッセージを伝えることは出来た。
テント日誌の書き手三上治氏は77歳と知り、この年代のもつ何かがあると感じた。以前、三上治氏は夫に会うため、わざわざ名古屋まで来てくださり、お互いの状況を話し合ったこともある。
9月23日(祝日)に「さよなら原発全国大集会」が開かれ、1万6000人で盛り上がったことも伝えている。鎌田慧さん、澤地久枝さん、大江健三郎さんたちが「運動を持続させること」を訴えられた。
(3)、「徴兵に応ずる必要なし」と言った若い作家・諏訪哲史氏
「美しい国は戦争の国か」は6月26日の朝日新聞に載った「スワ氏文集(もんじゅう)」の題である。
その中で「日本は不戦の誓いを憲法に明文化した。しかし、不戦の誓いは踏みにじられ、投じた票を悪用し他人を殺す国にして、この銃口を見よと誇示したがる悪党がいる。…戦争には馬鹿自らに行かせよ。徴兵に応ずる必要なし…庶民の税を上げ、企業の税を下げ隣人に矛を向ける馬鹿の手から、日本を取り戻せ…」思いっきり書かれたこんな率直な文章を、載せる欄がある。
しかし、朝日新聞が「従軍慰安婦問題」と「吉田調書」の誤報で大きな問題になっている。謝罪も遅かったし、まともな社員たちは苦しいだろう。読者をやめてもいいが、販売店も困るだろう。
声欄などに投稿し何回も掲載された者として、いい記事や文章もあるから惜しいと思う。
特に「朝日新聞に読者のみなさまから」とする9月18日声欄の特集で、真摯に意見や批判を聴こうとする態度は良かったと思う。
週刊誌や他紙が「いまだ!」とばかり朝日バッシングで賑やかしい。が、こんな形で権力を批判的にも見る目をつぶせばどうなるか。それ位は庶民も理解出来る。
「積極的平和主義」といいながら「積極的軍国主義」に笑顔を振りまく安倍首相に抵抗を感ずるという人も多い。
いろんな意見があっていい。古賀茂明氏が『国家の暴走−安倍政権の世論操作術』(角川書店、2014年9月)において、仮予測として書いたような事もあり得ると思う。
それは「来年6月の国会会期末直前『集団的自衛権』法案を強行採決、その日に安倍首相北朝鮮へ行く。という段取りにして、その情報を少し前にリークすれば『何人帰国するか』などの情報が過熱し、集団的自衛権の法案はどうせ成立するのだからと、扱いはどんどん小さくなる。
今回の対象は特定失踪者だけでなく、日本人妻や自分で北朝鮮に渡った人も含まれるので、場合によっては100人の日本人を連れて安倍総理が羽田のタラップを降りる。その姿がテレビで大写しになる」
一庶民として私は真実を求める。大きな曲がり角に立たされていることを胸に刻み、抵抗し続けねばと思う。
2014・9・27
「殺さず殺させず」が世界の信頼だった
牛乳配達の小母さんが集金に来て言われた。「怖いねぇ、本当にまた戦争になるのかしら?」
長年牛乳の早朝配達をされているが、いきなりこんな話をされるとは思いもよらず驚いた。「ほんとうにそう、閣議決定とか何とか言って、どんどん戦争が出来る国に舵を取り出したよね」と言い合った。
先日も他の友人が「政府はせっせと戦争する国に作り替えようとしているけれど、子や孫を戦争なんかに取られてなるものか」と言った。
政治学者や研究者たちだけでなく、ふつうの庶民が、おばさんたちが、国民の過半数が近頃の政治の動きに戦争になりそうなものを感じている。憂鬱な悲しい気分にさせる政治家たちである。
集団自衛権で同盟国が攻撃されたら、日本の自衛隊も攻撃する。自衛隊員にも死者が出る。同盟国が世界でしている戦争という殺し合いに、自衛隊が駆り出されると、隊員不足で徴兵制になるだろう。
1941年生まれの妹は父を知らない。その年に父は一枚の赤紙で戦地に取られたから。
45年の敗戦までに他国への侵略もし、沖縄は直接の戦闘地になり庶民は集団自決さえ強要された。世界で初めて広島と長崎で原爆殺人が行われた日本である。
先の大戦が終わってから69年間、日本は世界のどの国とも「殺さず殺させず」戦争せず平和に過ごした。世界の信頼がそこにあったと思う。
閣議で決めて、それから説明する
7月1日の閣議で集団自衛権行使を決めた。行使容認に反対が過半数の世論調査が殆どなのに、庶民の多数意見を聴こうともせず、「支持が落ち目だからいまのうちだ」とばかりに、政権を監視するための憲法を解釈改憲なんて暴挙が許されるのだろうか?
その前に特定秘密保護法を作った。都合の悪いことは秘密にしてどんどん軍国主義に進ませる。その用意周到さ。
日本中のあらゆる場に顔を出し、弁論大会のごとくぺらぺらとしゃべりまくる首相。
世界へもいろいろな場で「集団自衛権の閣議決定しました」と、宣伝しまくる姿に顔をそむけたくなる。自ら戦争体験のないこの政治家たちや子弟に戦地へ行かせよと言いたい。
財界と結び武器輸出三原則をゆるめた。武器輸出は金儲けになる。
原発事故で故郷を失って苦しんでいる人たちがいるのに、平気で原発再稼働だの、原発輸出だの発言する政治が出来る国日本でいいのだろうか?
戦争に行かされた世代、或いは自分たちのように疎開や焼け出され体験、戦争の苦しさを子ども時代に体験した世代はどんどん少なくなっている。現役世代は生活に追われ、忙しさに追われて政治のことより、経済がよくなればと単純にしか考えられない現状かもしれない。が、考えなければ暗黒の戦争する国に巻き込まれてしまう。
6月26日の朝日新聞に載った「スワ氏文集」
「少数の馬鹿どものために不戦の誓いは踏みにじられ、投じた票を悪用されて、日本はまた安全装置のない銃を持つ国にされる。…恥をしれ。政府の人殺しども。」
作家諏訪哲史氏が思い切りよく書かれた記事を読んで、久しぶりに少しだけすっきりした。
2014・7・11
子どもの頃読んだ本によく出てきた「昔むかし、おじいさんとおばあさんがおりました。おじいさんは山へ芝刈りに、おばあさんは川へ洗濯にいきました」のお話、
10年ひと昔という言い方なら、いつつ(五つ)昔前のお話です。
〔お話その1 秘密を知っているのは何故?〕−公安調査庁による尾行
夕暮れどき、バスを降りて住宅街にあるアパートへ向かう。およそ5分の距離はゆるい坂道をゆったり登った。久しぶりに早い帰宅だった。
「あなたは吉田さんですね」
突然、後ろから声をかけられ驚いて振り向いた。まだ若い男性だった。
「あなたは?」「・・・私は公安調査庁の者です」「そんな方が私に何の用ですか?」
「今度共産党の8回大会に出られますね」
それを聞いていきなり今来た坂道を早足で駆け降りた。丁度来たバスに飛び乗った。するとその男も乗って来た。およそ8分で名古屋の中心地 栄町まで来た。賑やかなデパートの前で止まったバスから飛び降りデパートへ入った。
店内でその男をまくつもりだった。男は執拗に追いかけてくる。これは駄目だと、ここから近い職場へ行こうと覚悟した。人並みをかき分けて速足になると男も速足になり、ふつうに歩くと粘り強く自然体でついてくる。
職場のビルの前に来て、入り口で守衛さんに頼んで電話を借りた。必死で共産党の事務所へ電話した。
「いま、公安に追いかけられて困っています。電話は職場からです」公安は道路で通行人のようなふりして監視し続けている。
5分ほどして駆けつけてくれたのは、日中友好協会のベテランOさんだった。「そいつはどこにいる?」「あそこ」と言おうとしたら、その男はサッと姿を消した。
半世紀前の1961年、誰にも若さ体力と多少の美を貰える25歳だった。
乗り物は市電と市バスで地下鉄は未だない。勿論ケータイもなかった。
中堅幹部養成の試験に合格し、半年間三重県の寮生活で訓練を受けた。名古屋に戻ったばかりの職場では、当然ながら配属課の新米だった。上司に旅行理由で6日間の年次休暇を申し出た。ごく自然に許可された。
しかし、職場の先輩が「あの人は共産党の大会に出席する」と言ったと聞き、びっくりした。
何も言わないのにどうして分かったのだろう。不思議だった。係長クラスもみんな知っていた。それ以来「あの人がこの課に来るって。うれしい」と言ってくれていた人たちも、態度が変わり出した。
〔お話その2 何故賛成に手を上げない?〕
「感動したなー 野坂議長の演説は」8大会の議員席で隣の席にいたU氏がつぶやいた。他市の同じ官庁で、指導的組合活動家だった。
また、反対側の隣にいたベテラン党員が「県で代議員の女性は一人だけ、殆どは常任活動家だ」とか、壇上に並んだ委員の誰彼について、説明してくれる物知りだった。
代議員は約800名で7月25日から6日間の大会は、野坂議長の演説から始まった。静かな語り口の政治報告は説得力があった。そして綱領草案は宮本書記長が報告した。
「民主主義革命から、社会主義へ二段階革命を目指す日本、代議員に選ばれた諸君こそその原動力である」提案された綱領案は誰も反対意見を出さず、満場一致で採択された。
力強い拍手で会場は熱気に包まれた。
檀上に並んだ中央委員の中に、一人だけ知った名があった。作家の中野重治氏、よく見ていると綱領案に賛成の挙手もなく、反対の手も上がらなかった。
新入党員の自分は「保留なのか?」と、その理由も知らず、有名作家なので気にはなったが深く考えもしなかった。
ところが後になって分かった事は、中野重治中央委員は提案の綱領に反対のままだった。
宮本書記長は、中野を代議員に選ばせず、議決権のない評議員にして、彼の大会議決採択権を奪っていた。
初めてこんな大会に出て、何より満場一致、拍手がうれしく、中央幹部の中心である宮本書記長が頼もしく思えた。
〔お話その3 信じることはいいことか〕
大会が終わって職場に戻り、ふつうの職員らしく働き出した。職場、活動と希望に燃えた日々が始まった。そんな中でいくつか分かったことがあった。
その一つに、燃え上がるような熱い8回大会の前「7回大会には4割もの代議員が綱領路線に反対だったこと知ってる?」という人がいた。
それは知らなかった。当時は1952年から始まった朝鮮戦争が休戦し、働く者にとって希望の国だった社会主義国ソ連中国が毛沢東とスターリン指導で、日本共産党の極左冒険主義にも大きな影響力をもっていた。
その人は「それらの国からアメリカの支配と戦い、独占資本支配の国を社会主義の国にするという二段階革命を要請された。いろいろな意見や派閥がある中で宮本が委員長になり、 反対意見の委員たちから指導権を取ったのだ」と言った。
良心派の実力ある人たちは惜しいとは思ったが、前年1960年の「日米安保条約反対闘争」は全国規模で盛り上がった。日米安保反対とみんなで地域の署名活動をしたり、集めた署名を国会へ提出するため上京もした。安保研究会代表として国会周辺の大規模なデモにも参加した。
1963年には三池炭鉱で大事故が起きた。死者458人、患者は800人を超え、そのうち重症者555人以上という粉塵爆発事故だった。
組合も三池守る会で盛んに働く人たちを応援した。代表の一人として三池炭鉱社宅に住む人たちを励ましに行った。何故こんな悲惨な事が働く人たちを襲うのか、原因は保安体制の不備とか。悲しかった。
当時は労働組合の中心は社会党で共産党との共闘会議が活溌だった。そういう行動で真面目な講師を中心に勉強会などして、素直に共産党の綱領に納得した。
共産党中央は、自分のような何も知らない新入党員を大量入党させ、8大会に満場一致で綱領案を採択させた。綱領路線の反対者は全部追い出したのだよ。そういう見解も聞こえてきた。そうかも知れない
大会の日の前日まで党員拡大と機関紙拡大に毎日追われ続けた。支部指導部として機関紙と党員を増やすことの意義を支部会議などで報告すると、「貴女の話を聞いていると、やらなきゃいかんと思えてくる」支部の人たちはよくそう言ってくれた。
そうした中で仲間たちは職場のみんなと親密さを作って信頼関係にあった人たちを、党員や機関紙読者にどんどん増やした。
自分は特別人付き合いが上手な訳でもない。支部の責任者だったから県党会議、地区党会議や活動者会議など、党の会議で毎回活動報告をさせられた。ときには、中央幹部を招いた活動者会議を名古屋市公会堂で開催し、活動報告したこともあった。支部は通信産業の職場で、革命運動の拠点の一つとされていた。
県党の指導部にしてみれば、拡大運動の絶好の広告塔、悪く言えばあやつり人形だったのだろう。
混乱した7大会の反対意見者4割は全員追放し、8大会に無知の新入党員を活用し、女性も少数選んだ。自分はその中の1人だった。そして公安当局が秘密資料を掴みスパイにしようと企んだ。
こんな図式が出来上がった。
長い昔話になってしまったけれど、いま問題になっている「特定秘密保護法案」に自分流にドキッとしたのである。戦争体験者がいなくなるように、大事な歴史的事実を書かなければ忘れ去られ、世の中はどうなってしまうのだろう。
〔お話その4 ノイローゼ多発の中、くびだ!〕
あれから半世紀過ぎたいま、人間の世の中は相変わらず大変な事。
あの当時、世のため人のためと、若者は理想に燃えた。家族から勘当されても活動家になると、全てをなげうった人と結婚したが2人とも15年の党活動で追い出された。
夫は中央の方針に異見をもった事で連日の査問、ときには21日間も監禁査問され続けた。活動の会議で泊まり込みは毎度のこと、その時もいつもと同様の会議と信じて、事務所へ洗濯した衣類を届けた。
自分も仕事と育児と活動の戦争のような日々だった。
納得できないと解雇不当を裁判に訴えた夫、その妻は訴願委員会へ6回も質問や意見を送った。しかし完全無視の現実に組織というものを知らされた。
専従活動家の中に自律神経失調症で、体調不良の人が続出したのも、この時期である。
「反党分子」の妻は生死を共にしたはずの党の仲間に「何があったの」のひとこともなく孤独の空しさと闘い、貧乏と闘った。
1991年ソ連の崩壊という歴史的事件が起きた。夫婦は晴れ晴れと生まれ変わった気分になった。
真面目な心ある人たちと学習会など開いて意見交換などもした。
その中で、活動していた当時自分の発言で奮起した党員の方もあり「HPを読んで専従の夫は指導でいろいろ過ちがあったと認めているが、奥さんは反省していない」と意外な批判も頂いた。
自分はずっと被害者のような気でいた。現実は、良心的な真面目な党員の人たちが自分の活動報告や意見で奮起し、行動されたのである。
自分は悪いやつだ。加害者の側面もあったと指摘され、目が覚めた。広告塔、あやつり人形の過去を認め、謝罪するしかない。世の中、社会とは、自分の意志とは関係なく結果として人に迷惑をかけてしまうこともある。
凡才、一庶民は謙虚に事実に対して、反省しなければならないと思った。。
〔お話その5 ほんとの豊かさとは〕
2004年に自衛隊イラク派遣は違憲という裁判があり、全国で2300人が原告になった。夫婦も陳述書を書いて原告に加わり、多くの良心的弁護士たちの必死の活動で、2008年判決が出た。「自衛隊のイラク派遣は違憲」の勝利だった。
あれから5年過ぎて、要求どおり黒塗りで隠された事実を自衛隊は白状した。それは「中心任務はアメリカ兵の輸送だった」というものだった。
「自衛隊は人道福祉支援だけ」というのは嘘だった。そしてイラクに大量の核兵器はなかった。ここに、いま政府が考えている「特定秘密保護法」の恐ろしさを感じた。
経済的に豊かになって、まだ原発が要るという考えがなくならない現在、夫婦で放射性廃棄物の処理に10万年必要という映画「オンカロ」を観た。
ときには「じいさんは山へ芝刈りに、ばあさんは川へ洗濯に」という世界の方が、人間的なのかも知れない。
自然界は今真っ赤なもみじの紅葉や、黄色のいちょう並木が見事な季節である。やがて、木の葉が散り始める。いつつ(五つ)むかしの話をする平凡な庶民ばあさんの命も・・・。
人間社会 絶対の真理なんてないと考えた方がいい。
雨の日も、風の日も、仕事・育児・活動で我慢ばかりさせた2人の子は、まともに育ってくれた。現役の中心世代で活躍している。
誰の人生にも辛く苦しい事が必ずある。ふんばれば、また生きる喜びがくる。いろんな人のお陰です。
若い世代よ、どんな人にも生きる意味はあるのだよ。
お話は、この辺りでボツボツおしまいです。
「大阪発 オッサン政治にツッコミ」の見出しで、全日本おばちゃん党のことを報道した新聞記事〔5・14中日〕が、新鮮に目に留まった。
「オッサン政治はもう嫌や」。「政治に危機感を抱く女性たちが立ち上がった」。
交流サイトのフェイスブツクに書き込んだところ、全国で2200人がおばさん党に登録したとあった。
活動の中心はインターネツトでの意見交換で、思想信条や職業収入は一切関係なしとか。
全日本おばちゃん党が掲げるはっさく〔8策〕の
第1に うちの子もよその子も戦争には出さん!
第4に 将来にわたって始末できない核のごみはいらん。放射能を子どもに浴びさせたくないからや とあるのがいい。
いままでは「政治なんて難しいことはわからない」と言っていたおばちゃんたちでなくなり、シャレやユーモァでぐいぐいオッサン政治に入りこんでいくしかない。とある。
「従軍慰安婦は必要だった」と発言し、世界中で批判されると、ことば巧みに「参院選挙と市長選挙同日選挙で信を問う」とかわして、問責決議さえできなくした大阪市長。
口先だけ巧い政治家だなぁと感心する。
かと思えば、首相自ら「憲法を変える」だの、「96条改正」だのと、唯一の被曝国であり、福島原発事故の深刻な状態が解決のめどもたたないのに、その原発を外国へ輸出するとか、
経済さえ良ければで支持率を上げている現実が恐ろしい。
仕事に追われて余裕のない現役世代や若い人たちが、いままで通りの考えで棄権したり経済こそ中心との投票で、国が大きく曲がり角を曲がってしまう怖さを感じる。
参院選挙が来月に迫った。
平和が当たり前になった日本、子どもの頃「一億一心」とか「欲しがりません勝つまでは」と国を挙げて戦争に協力させられた世代である。
父を戦争に取られ苦労の連続だった母をみて育った76歳の自分であり、戦争ですべてを失くした苦難の体験者たちが死に行き、数少なくなっているこの国を思う。
代表代行の谷口真由美氏〔大阪国際大学准教授〕は「市民意見no138号」で、「会員も3000人に近付いた。3年後に全世界おばちゃんサミットを大阪で開催する予定」と書いていたのを読み、
ほんの少しホツとした。
「やるだけやった」人生の卒業生を自覚するわれも、おばちゃん党に加わった。
2013・6・4
日頃忙しい人たちが、3連休4連休に故郷へ行楽地へ行く。特に子どもは楽しみだね。いいことだと思う。
2年前夫が熱中症で倒れて以来、どこにも出かけられない。普通生活が出来るまでには回復したが、これが加齢ということなのかなと思う。
ローマ、スイスも歩いた。山歩きもした。孫たちと東京ディズニーランドや「いわくら合宿」も楽しんだからいいけれど・・・。
妹が電話で笑わせてくれた。「娘夫婦と孫2人と一諸に旅したら、小学2年の孫が『じいちゃんはいいね、頭がはげて夏涼しいもんね』と言った」それを聞いて、アハハアハハと大笑いした。
人生いろいろあるけれど、こんな大笑いが出来る幸せ、旅も出かけられるうちに行くのよ。どこも出かけられないときが来るからね。
わが家へ2つのうれしいおくりものがあった。
第1番のおくりものは、例年にない寒波の今年の5月、なんとか天気が晴れた3日は憲法記念日。今年はこの日がとりわけ注目される日になった。
新聞2面を使って大きな字で「意見広告」が載った。
「若者が、子どもたちがあぶない」「武力より平和力、9条の力」とあり、8150人の賛同者です。と色別にした氏名が並んでいた。その中に夫と私の名もあった。
「市民意見広告運動、市民意見30の会」が毎年カンパを募り、世間に訴えている。「この運動はいかなる政党、党派にも属さない市民運動です」が心強い。
代表のひとり吉川勇一氏はもう80歳くらいのはず。
「1945年敗戦にいたる戦争で2000万人以上の命が失われ、日本だけでも死者310万人を超えました」とある。戦争放棄に代えて国防軍と緊急事態宣言を新設し、戦争放棄を根本から覆そうとする政府への批判、抵抗運動に、ほんの少し参加できたことがうれしい。
その日はもう一面に「女性は戦争への道を許さず、憲法9条を守ります」との意見広告を102人の有名な女性が載せたことである。女性の力を信じたいと力が沸いた。
2番目のうれしいおくりものは、大手新聞社からメールと電話があり「投稿原稿を採用させていただきますから、近く載せます」と言われたこと。久しぶりに投稿した。
高齢者になってささやかでもいい。世の中に関心を持ち、庶民生活の平和を願い、危険な動きに抵抗できることは喜びである。
震災で肉親や家を無くした人がいる。原発放射能で故郷へ帰れない人たちがいる。
3人に1人は非正規雇用と言われる日本、3・11の災害地域は68年前の荒廃した戦後日本と同じ。
いいゴールデンウィークが過ごせたことに感謝しよう。
2013・5・4
札幌で『「白鳥事件」60年の集い』が開かれた。そして貴重な発言が載った『労働運動研究』誌が夫あてに届いた。
白鳥事件といっても、北海道と違って当地の新聞報道はないし、ほとんど知られていない。夫が再度関係者に資料を送って貰い、会の中身を読んだ。
白鳥事件とは、白鳥警部が射殺された事件で、朝鮮戦争など当時の社会状況の中、北大生や党の幹部が逮捕された。党は白鳥対策協議会などで冤罪を主張し続けた。
素人の私は講演者の高安知彦氏が語る事実の重さと、大石進氏の訴えの素直な真実味に胸打たれ、姿勢を正して読み返した。
高安知彦氏はこう述べている。
「白鳥事件は政治テロ。殺人事件に変わりはない。幼稚な考えで標的にしてしまい、白鳥警部やご遺族に申し訳ない気持ちで一杯だ。検察側証人として法廷でかつての仲間と激しい応酬を繰り広げたため『日本のユダ〔裏切り者〕』との批判も浴び裁判後は口をつぐんだ」
53年6月逮捕された高安氏は1ヶ月の黙秘後、脱党届を出して事件について知ること全て自供したという。
そして語った。「村上国冶さんの最期は可哀相です。あんなに党のために一生懸命やった国冶さんは党から見捨てられたのです。党は無常です。無常もいいところです。自転車泥棒事件で党から捨てられました。焼け死にした国冶さんは、もしかして自殺かもしれないとぼくは見ています。・・・あの頃国冶さんは飲みまくってアル中になっていたのです。党の立場と個人の立場で悩みに悩んで死んでいったと思っています」
大石進氏講演では次の部分に胸打たれた。
「5つの不幸、それは
1、真実を語った者に対する非難と社会からの抹殺の対象になった者の不幸、
2、真実を知るが故に中国に送られた10名の党員の不幸、
3、党への忠誠故に、偽りの生を演じ続けさせられ、英雄に祭り上げられそして捨てられた村上国冶の不幸、
4、被告人のためではなく、組織のための弁護を続けた弁護士たちの不幸、
5、今なお黙して語らない関係者たちの不幸。
組織は革命的熱狂の中ではなく、市民的誠実さの中に生きなければならないのだから、〔白鳥事件のもたらした無数の不幸について黙したままで素通りすることは許されないし〕賢明でもないと思っている。とはいえ出来ることは限られている。
亡くなった方には花を供え、なおご健在の方には心からの謝罪といたわりの言葉をそえる。人の世でこれ以上のことは出来ないと思っている」
どうしたら、こんなに実直なことば表現が出来るのだろう。
51年当時、貧しくて寮を追い出されそうな北大生たちが、米軍基地建設のバイトなら2倍の収入なのに我慢しようと不参加を呼びかけたり、党内の中核自衛隊に参加したり
理を通し、主義に生きた青春の清らかさが伝わってくる。
白鳥事件60周年の札幌集会を載せた夫のHP、なぜアクセスが急増したのか?
ふつう3日間で500から700なのに、急に3日間で1万以上アクセスが増えた。
なぜ北海道の人は60年も昔の事件に関心を持ち続けるのか?
わたしにもあった若き日。当時「村上国冶は冤罪」としたパンフを、仲間で奨めあった。村上国冶という人物を信じて疑わなかった。党が殺人を指令するなんて有り得なかった。
忘れられないのは、67年4月17日、公労協と交通運輸共闘は全国的半日ストを計画した。多くの共産党員が組合役員として、社民幹部と共に態勢を作り上げてきた。それは、47年にアメリカ占領軍に中止させられた2・1スト以来のゼネラルストライキだった。それにたいし、突然、「4・17は謀略」と決め付けた党。
私は職場の党支部の責任者として、ストに参加しないようにと早朝から、職場玄関で共産党の赤旗ビラを撒いた。怒った組合幹部と小競り合いしながらのビラ合戦だった。
中央が謀略と言えば謀略と信じて疑わなかった愚かさ、組織の怖さ。公労協のストライキは共産党のスト破りで中止に追い込まれた。あの混乱以来、職場の「三池守る会」「読書会」などのサークルや党組織が崩れ去った。電通支部だけでなく、友人たちの国鉄・全逓の職場支部も大量の党員が離党し、職場でもスト破り政党党員として孤立した。
スト中止後、共産党にたいし、総評・公労協から批判が噴出した。共産党の「4・17は謀略」宣伝は、まったく根拠がなく、でっち上げだったという真相も判明した。宮本顕治委員長への批判が集中し、激増した。彼は、「当時、中国に3カ月間療養していたので、何も知らされていなかった」と真っ赤なウソをついた。中国にいたとはいえ、委員長が知らないはずがない、中国から中止指令を出したにきまっている、との批判は収まらなかった。宮本顕治は、真っ赤なウソを強弁し続けたままで、やむなく、党中央労対幹部3人だけに自己批判書を発表させ、降格措置にした。それは、典型的なとかげのしっぽ切りだった。
六全協後に、白鳥事件実行犯ら10人を中国に逃亡させたのは、党内実権を握った宮本顕治しかいない。多くの人が証言しているように、彼と不破・志位らは、白鳥事件と3大騒擾事件について、「党が分裂していたので、現在の共産党はなんの関係も責任もない」とのウソ・詭弁を繰り返している。
あれから半世紀近くが過ぎた。すべてを捧げた党に異見を持ち、査問され、風呂敷包みひとつで夫が切捨てられ、反党分子と呼ばれ裁判で争った。
経済的貧困も体験した。社会主義体制崩壊で、苦しかった体験も無駄ではなかったと確信できた。
残り時間が短く貴重になったいま、人としてどう生きたかが問われる。
2013・2・17
〔関連ファイル〕 (白鳥事件、1952年1月21日)
高橋彦博『白鳥事件の弁護人岡林辰雄弁護士をめぐって』−大石進氏の『講演記録から』
河野民雄『歴史の再審のために真実の解明を』−「白鳥事件」60周年を迎えて札幌集会
今西一・河野民雄『白鳥事件と北大−高安知彦氏に聞く』小樽商科大学PDF
渡部富哉『白鳥事件は冤罪でなかった(1)−新資料・新証言による真実』 (2) (3)
wikipedia『白鳥事件』
高橋彦博『白鳥事件の消去と再生』『白鳥事件』(新風文庫)刊行の機会に
中野徹三『現代史への一証言』白鳥事件、(添付)川口孝夫「流されて蜀の国へ」
川口孝夫著(添付資料)『流されて蜀の国へ』の「終章・私と白鳥事件」抜粋
1年が終わる。こわーい年が始まる
1、オイオイ音楽会
何かと気忙しい年の瀬に、恒例の「オイオイ」ピアノ演奏会があった。
3ヶ月に1回あるそれは、1年で4回になる。しかも年末はヤマハホールという大舞台での演奏である。50代の美人たちもいるから「オイオイ〔老い老い〕」と言うと叱られるかもしれないな。
それでも、参加者の半数以上は70代以上と見られるから間違いとも言えない。
舞台の両脇に豪華な花々が飾られ、晴れやかな舞台である。待っている1000万円以上のグランドピアノを下から眺める。
高校までバツチリピアノを習ったという女性は、見せ場とばかり力強いタッチと速いテンポで弾く。その次が仕事を卒業して、63歳から始めた私の出番だ。
曲はトレルリの「嘆きのセレナーデ」、前回フォーレの「シチリアーナ」の暗譜を少し間違えたので、比較的簡単な曲にした。なんとか暗譜で曲の雰囲気が出せたか?
80過ぎて、真っ白になった頭の人が堂々とランゲの「花の歌」を弾かれる。
長年社会で働いてそれなりの地位だったろうと思われる男性が、講座の教授作曲「スぺインの幻想」を暗譜で聴かせる。発表会のためにみんな練習を積んできた。
まだまだ働いている70代もいるいまの時代に、或いは被災地で先の見えない不安で悩む年寄りも増えたというのに、自分も含めてメンバーは恵まれている人たちだ。
でも、老齢社会で若い人たちに迷惑をかけてはいけないから、頑張れ老人たち!
今回出演者は35人、ソロ演奏が終わると次は連弾、2人組でテンポを合わせるのが難しい。それでも無事終了した。やれやれ。
と、突然壇上に呼ばれて驚いた。表彰されたのだ。
賞状には「本講座は演奏会50回出演が目標で、それを達成されました」とあり、この人生卒業生は、継続する能力だけはあるのだろうなと、過ぎた13年のときを思った。
何より、教授や講師たちの音楽への情熱を感じた。
こうして音楽会は終わった。同時にあわただしい年末総選挙も終わった。
結果は、「国防軍」だの「憲法変える」だの右傾化の怖い流れを感じる。
そして、安易に原発再稼動という神経の政治屋を見張らねばと、原爆、戦争体験者の老人は痛感する。
今朝も経済産業省前で472日もテントを張って反原発を主張している人からメールが届いた。「安部内閣成立でテントをめぐる権力との関係は変わるだろう」と。
命こそ第一、放射能から守らねばならない。子どもたちの未来を。そして経済が大切、そうあるべきだ。4割の得票で7割の議席になった自民党、みんなで見張り続けたい。
今年は金婚の集いも子どもたちが開いてくれた。
偶然ながら、50年と50回 お目出度いことだ。おおいに喜ぼう。
感謝忘れちゃ罰あたりだ。
「お前出来すぎだぞ。いい気になるなよ」と、耳元で声がした。
2、あたらしい年が始まる
新しい年のはじめの年賀状は、例年になく身を引き締めるものが多かった。
「『お父さん お父さん 魔王がボクをさらっていく』 ゲーテ」 千葉市山根献氏
「2013年頌春 東アジアに戦火をともし兼ねない政権が生まれました」 長崎県中里喜昭氏
上記のお二人は文章のプロらしい文面だと納得した。
「門松、〆縄など飾る気も起きない」と、ご自身のHPに書かれた法学者の加藤哲郎氏は「線量計をもって福島を廻りましたが、故郷に住めなくなった皆様の痛みはいかばかりか」と、東北出身で感じる思いが綴られ「12月総選挙、東京都知事選挙の結果に暗澹たる思いです」とあった。
埼玉M氏から「賀状はどうしても書けなかった」と、長い文章が送られてきた。
「千年に一度といわれるような東日本大震災・・・未曾有の放射能災害が続く福島において、原発再稼動を認める党が圧勝した事実を考えれば、憲法改正についてもその反対の人々を見捨てる可能性が高いでしょう」
さらに、仙台のS氏からメールでこんな便りも頂いた。
「被災地では震災後、農地が塩にやられ、工場は津波でやられ家を失い、失業者が溢れました。その一方国の予算で『がれき撤去、被災家屋撤去』という仕事が大量に持ち込まれ建設不況から関連会社が活気づきました。
多くの人がそれらの仕事に流れ、そこに自民党から公共事業の拡充が持ち出され自民党が被災者に浸透したのです。バラバラに自分の幸福を起点に行動しています」
心ある日本人なら、みんなが感じている日本の現状かもしれないと、夫宛に、或いは夫婦宛に送られてきた新年スタートのことばを噛み締めた。
「置かれた所で咲きなさい」という本が73万部も売れていた。その本の著者渡辺和子氏は、2・26事件で殺された渡辺錠太郎の次女でノートルダム清心学園理事長である。
私は2・2・6事件が起きた1936年生まれであり、錠太郎は愛知県小牧の出身、この岩倉という地にある正起寺という古い寺に墓があるのを知り親近感をもった。
何より渡辺は家庭が貧しかったので小学校を中退している。給料の大半を丸善書店の支払いにあてていたとも言われているリベラル派の教養人であったらしい。
優秀だったので陸軍士官学校入校以来、ドイツ大使館やオランダ公使館で働き、陸軍教育総監などしているが、「『勝っても負けても戦争は国を疲弊させるだけ、軍隊は強くてもいいが戦争だけはしてはいけない』と反対していた。
父は『おれが邪魔なんだよ』と母に洩らし、戦争にひた走ろうとする人々にとってのブレーキであり、その人たちの手によっていつかは葬られると覚悟していたと思われます」
1936年2月26日にトラックで乗りつけてきた兵士たちの怒号銃声、9歳の和子の目の前で父は殺された。
並みでない苦労をした次女和子のことばは率直で説得力がある。
「30代後半で学長に任命されたが、教職員や学生からあいさつされて当たり前と考え、そうしない相手にいきどおりを感じる傲慢な人間でした。ある日『ほほえみ』という詩に出会って変わったのです。その詩には『自分が期待したほほえみが貰えなかった時、不愉快になってはいけない。あなたの方からほほえみなさい。ほほえむことのできない相手こそ、あなたからのそれを本当に必要としている人なのだから』という内容でした」
「置かれた場所で咲きなさい」か。私自身の立ち位置は?と考えた。
日本が1936年から急速に右傾化し、1939年第二次世界大戦になり、戦争に次ぐ戦争でアジアや日本の何百万の人を殺し、殺された。
赤紙一枚で戦地にいかされた徴兵制度で、私の父も戦地へ取られ、母や親族の苦悩生活が始まった。名古屋大空襲では下二人の幼子を乳母車に乗せて逃げ廻り、兄姉と私、上の子3人は母のふるさとへ疎開させた。
1945年広島、長崎に原爆落とされて敗戦、壊滅的になった日本である。
住む家も焼かれ、疎開先の6畳一間に一家で寝起きした。食べる物もなく、同情した近所のお百姓さんが南瓜を持って来てくれたりして飢えをしのいだ。
戦争体験者がどんどん亡くなり、いつか来た道の残忍さを、苦しみを語れない。「政治はお任せする」だけはやめたい。
「放射性廃棄物の捨て場もなく、地震大国日本の原発は危険」を未来の若い人たちのために切実に思う。
68年間平和で戦争という殺し合いせずに来た日本である。
命あっての経済、命あってこその平和社会である。
2013・1・13
〔1〕、こわーい選挙 年末総選挙
12月まで10日余りあるのに街にはクリスマスツリーが飾られ、歳暮商品が並ぶ。
デパ地下のおせち料理の予約に長い列だったのには驚いた。未だそんな気分にはなれない。
昔から名古屋の街を東西に走る広小路通りは、名古屋の中心繁華街である。スタイル満点のケヤキが通り両側に、黒い木と枝を伸び伸びと泳がせている。通りの真ん中に時々黄色のイチョウの木が見事に彩りを添える。形をとるか、色をとるかだな、などと楽しみながら歩く。
15分ほど歩くと街の中心のひとつ栄に来る。今度は南北に走る久屋大通りが広々と連なる。青春時代よく歩いたこの道、あの頃はまだ背の低い幼い木々だった。背高ノッポになったケヤキ並木が続き、心和ませてくれる。
少し前、新聞投書欄に載った若い人の投書に目が止まった。「〔間もなく選挙公示がされ、年末16日総選挙だ〕。何かと忙しい政治家の方々、食事はご馳走でしたでしょう。年収200万円のわれは、昼欠食、夜カップラーメン」こんなような文だったと思う。
街を歩くと300円400円定食で過ごす若い人も多い。長年働いた年金生活者とは言え、そして金額の多い少ないはあっても働かないで年金が貰えることに申し訳ないような気分になった。
選挙が近い。原発、被災地復興やTPP、消費税増税問題に加え、沖縄基地問題と憲法など、いい加減に選べない。
優位といわれている自民党が憲法を変え、自衛隊を国防軍にして集団的自衛権の行使を可能にすると言う。戦争はもうやめようと決意したのに、海外へ自衛隊が行く。参戦して初めて自衛隊から死者が出る。すると隊員のなり手がいなくなり、徴兵制が復活する。
父は赤紙1枚で戦争にとられ、平穏な家庭は壊された。これでは「戦前に逆戻り」だ。
「憲法」と「原発」こそ、16日選挙の争点です、とあったのは、政治学者加藤哲郎氏のHP(12月13日)「昨年3月11日の原点に立ち返って『極右』暴走政権成立を阻止しましょう!」と結んでいた。その内容で驚いたのは、「本サイトに一挙に膨大な画像メールが波状に送られ、HPにも侵入が試みられた形跡あり、某外国からのハッカー攻撃のようです」とあったこと。日本の選挙は、外国からも注目されているからと思った。
選挙の結果がいままでなかったほど重い。結果によっては「怖い選挙〔中日新聞他〕」になる。「いつか来た道」はイヤだ。若者たちよ、忙しいけれど、よく考えて選挙に行こう。
新聞配達の人は朝4時半になるとバイクの音で分かる。郵便配達の人は自転車かバイクしか配れない。一軒一軒。寒いだろうなぁ。
早朝6時半、自転車で出勤の人が行く。
水道工事の現場で、立ちっ放しの車誘導している人がいた。髪や背の曲がり方から、かなり年輩に見た。この寒い風が吹く雨の日は歩きたいだろうに。目頭が熱くなった。
戦後の貧しい生活だった日本、中学時代に新聞配達をした。それは卒業式の日まで続けた。結婚しても働き続けたので、朝6時50分の電車で長男を保育園に連れて行き、職場に走った時期もあった。
忙しい現役世代の奮闘には頭が下がるが、若かった自分もやってきたなぁと、苦労が思い返される。「ゆとりのなかから文化が生まれる」というのは本当だ。余裕なきあの頃に文化の匂いはなかった。
〔2〕、年末にゆとりの素人ピアノ演奏会
職業生活を終え、関心のあった文学や音楽に触れる時間が多くなった。
音大名誉教授が世界の名曲を編曲したり、自作の曲を教科書にして、4人の音大出の先生たちと連弾やソロの個別指導をしてくれる。
3カ月に1回のピアノ発表会は、教授たちが精力的で15年以上続いている。年末は立派なホールでの演奏になり、発表会はもう70回を超える。
50人近い生徒のうち70歳以上が半数とみた。
「104歳の義母を看ながらはエライ」「先立った夫を悲しんでばかりいても」という人、「ここに来られるだけでも幸せよね」。或いは「以前のように暗譜ができない」「かなり難曲も弾けたのに、弾けなくなった」「すらすら暗譜したのに本番で間違えて自信をなくした」など、授業後の食事会で出る愚痴、ぼやき・・・
そうだよね。もうこの年でこんな舞台になんか縁ないもんね。これが最後になるかも知れないしね。 みんな音楽が好き、音楽の不思議な力に魅せられている年寄りたち。
「脳を刺激するピアノはボケ防止」だとか、「継続は力だよ」とか言い合っている。
わが家の朝の新聞タイムはCDタイム、名曲の数々に気分良好になりながら、ショパンはラフマニノフは、何を考え、どう表現したかったのだろうと想ったりして、文章とは違う脳に刺激をうけている。
いまは亡き音楽評論家の吉田秀和氏が某紙の「音楽展望」に書いていた。
『1954年のザルツブルク゛音楽祭、トスカニーニがNBC交響楽団で振っている最中に急に記憶が失われた。隅々まで暗譜していた彼が』『そしてその年ブルーノワルターが老齢で引退し、フルトヴェングラーが急逝した。一挙に3人の超有名指揮者を亡くした寂しさ』と、音楽の世界の損失を綴っていた。
みんな生きた。そしてみんな人生の卒業生になる。
「人生つかの間の舞台『マクベス』」とシェークスピアが言った。
素人演奏家のわれら凡夫、お陰でここまで生きさせて貰った。残りは少し、人さまにそのお返しできる日々あれと願う。
西の山々に沈む夕陽は、瞬時眩しく光り輝く。せめて終わりはあのようになりたし。
2012・12・12
60年安保デモに参加した者
毎週金曜日は、脱原発行動として抗議行動の日、首相は「大きな音ですね」とふざけた発言をしていたが、官邸付近の参加者は増え続けている。
特に7月16日は17万人の人が身動きできないほど集まった。新聞各紙も大きく一面で取り上げた。1960年の安保反対のデモに参加した者として、「イベントに参加される方は、列の最後尾に…」という警察官の誘導に思わずニヤリとした。
手弁当で参加している行動は「あじさい革命」と呼んで、目標は「脱原発」だけ。ツイッターなどで呼びかけ、個人意志での参加が半世紀前との違いを感じさせる。
1960年当時は社会、共産党や労組の共闘行動としてのデモだった。自然成立目前に、学生たちの国会座り込み突入があり、岸内閣は倒れたが東大生の樺美智子が圧死した。国会周辺を労組の一員として整然とデモをした。日米安保条約は改定され、社会党委員長浅沼氏が殺された。半世紀前の「政治の季節」を振り返る。
続く自民党政治で池田内閣が「所得倍増政策」を打ち出し、日本は高度経済成長の方へ舵をとった。
著名人たちが呼びかけ人となった「さよなら原発10万人集会」で、「福島の悲劇に学ぼうとしない政治家を、二度と国会に送らない。子や孫の最低限の責任」と言った経済学者内橋克人氏。或いは「1000万人署名のうち750万人分を渡したのに、すぐ大飯原発再稼動させ侮辱された」と話す大江健三郎氏など、真実味がある。
また、原発事故調査委員会の報告書は久しぶりに筋の通った報告だと思った。
「東電、政府、保安員、原子力安全委員会などの制度的体制的弱点を指摘し、『人災』と断定」している。解決していない福島原発事故の現実と、市民の目線で考えれば当然の報告だと思う。
脱原発にこだわる政治学者の加藤哲郎氏は、体調不良で静養中と言いながら、毎週金曜日は首相官邸周辺に行くと書き、HPで次のように表現している。
「1960年安保闘争当時30万人が国会周辺デモで囲んだが、今年6月の首相官邸前は20万人、毎週金曜日ごとに参加者が拡がっている。
しかも組織動員ではなく友からのメールやツイッターで、子連れママや、会社帰りも加わる市民の示威行動になっている。
『さよなら原発10万人集会』や、7月29日計画の『脱原発国会大包囲』は、音楽や踊りのパレードがどこまで入っているか、組合旗と手作りプラカードや横断幕が、どう共存しているか、若者や子連れ家族がどう溶け込んでいるか、日本の社会運動史の流れからすれば、興味深い実験です」
福島県双葉町の中心街に『原子力明るい未来のエネルギー』という標語が大きな看板で掲げられていた。これは双葉町の大沼勇治氏が小学校時代に書いた標語が選ばれて掲げられたものだった。
現在大沼氏は、福島原発事故で身重な妻と愛知県で避難生活を送っている。
26年経った今年「安全神話を疑わなかったことを後悔」して、警戒区域になった双葉町へ行き標語を書き換えた。「明るい」の上に赤で「破滅」という文字書いた。
故郷を奪われることが二度とあってはならないと話していた〔中日新聞〕
「原子力破滅未来のエネルギー」は、福島の人たちにとって心からの叫びだろう。
2012年7月20日
1989年の東欧革命、1991年ソ連邦崩壊という世界の大変動が世の中を動かした。
格差のない平等社会、理想社会は社会主義である。そう信じた人たちの理想が崩れた後、何かしなければと、大学研究者たちと定例の学習を始めた。
夫婦で参加した会場で連れ合いが、参加者の一人に「久しぶりです」と挨拶したらその人は言った。
「あの拡大〔機関紙〕運動のときの宮地君の点検はとてもひどかった。あんたの家に放火したろうかと思った」と言われた。その人が言うのは、連日の追求の中で耐えかねて日曜版100部を1ヶ月間買い取ると決意申請した。当時の幹部はそれを高く評価して、宣伝した。彼個人か、民商支部かで自腹を切ったものだった。
また、二次会の席で「貴方の文章には反省があるが、奥さんの文章にはそれがない」と、3人から言われたと夫は言う。数年間続いたその会も中止になった。
うちとけた場での言葉だったとは言え、3人もの人に指摘されたことを10年以上経った今頃知った。
夫の除名と裁判闘争、それと同時に始まった孤独と貧困で共産党活動の被害者と思っていた自分が甘かったのだろう。
3人はいつも活動者会議で発言している私の言葉を、真面目に聞いていた党員たちだった。
最近夫がHPに載せた「全活→全中間機関活動者会議連鎖システムの功罪」について、「書き終わって読み直してみると、これは遺書だなと思った」と言った。その言葉は、1年前熱中症と高次脳機能障害で入院し、よくなったといっても検査数値がよくないことも関係すると思った。
夫がHPで論じているように、「大衆運動と拡大の2本足」と言いながら、来る日も来る日も「党勢拡大、機関紙拡大運動」の1本足の追求が続き、多くの党員が神経症になった。「世のため、人のため」が、病気で人に迷惑をかけ、大衆の要求も取り上げず「自分のため」の党活動になって行った党員も多い。
他の支部で「夜中の12時に、いまからでも赤旗勧めに行けと言われた」という話、自分の経験でも、職場の親しい友人宅へ行き赤旗を勧めた。中々理解して貰えないのでついつい夕方近くなってしまい、年の瀬が迫った忙しい12月末に共感どころか、迷惑をかけ反感さえ持たれたと思う体験がある。
地区活動者会議、県活動者会議では、先進的成果を上げている支部としていつも指名され、発言させられた。泊り込みの会議も頻繁にやられた。
「支部会議に来た貴女に『大衆活動も大事、同時に意識的な組織の拡大があってこそ』と言われると、やらねばならないと思った」と言われた。
ときには指名されて発言するのはいやだなと思うときもあった。でも指名されたらその気になって、支部のメンバーの大衆に密着した取り組みを報告していた。
40歳になり、風呂敷包み一つで専従活動家としての生活を追われた。
2年間裁判で闘った夫。「君に迷惑をかけるから離婚する」「じゃ子どもは誰が育てるの」という深刻な話し合いをした。
中央の訴願委員会へ「解雇不当」を6回訴えたが、当然ながら「訴えを受け取った」という返事が形式的に来ただけで、訴えは無視された。
それ以来、孤独と自分の給料だけで4人の生活を支えた貧困との戦いが続いた。従って犠牲者だと思っていた。
ソ連崩壊から20年余り、夫婦で晴れ晴れと新しい時代を思い、拙文ながら書き続けた。そこには自ら党員として果たした誤った役割りの反省がない。そういう指摘は素直に認めざるを得ない。
非戦論者の荒畑寒村は、社会主義こそ自由で平等な理想社会と日本共産党創立に参加した。堺とし彦は日本共産党初代委員長になっている。なぜか党を離れているが非戦だけは貫いている。
その夢を描いての日々の活動だった。それなりにマルクス、レーニン主義を学んだ。
独身の頃は5時に仕事が終わると、市バス2区の党事務所へ行き書類を受け取り、それから方々の地域での支部会議に出席する、帰宅は毎日夜10時過ぎだった。
専従の夫と結婚して、子どもがうまれても保育所に預けて働きながら、会議、活動を続けた。戦争のような子育て期、泊り込みが当たり前の夫に何も期待できない生活。夫のHPにあるように「地区専従は9カ月泊り込み」。
ときには洗濯物を取りにきてと言われ、衣類を持って事務所へ行き、受付で渡して、それから活動に行く。そんな中で「夫の21日間の査問体験」もあった。
8回大会の代議員に愛知県党で女一人選ばれて、野坂参三の演説に「感動したね」と隣の席の代議員と言いあった。その野坂はスパイだった。
8回大会は、「反帝反独占の二段階革命」綱領を満場一致で採択した。しかし、それまでに、「反独占社会主義革命」とか「構造改革派」の反対意見の党員は全て除名、降格、専従解任などで追い出された後の大会だったとは知らなかった。
客観的に見れば、恥さらしの「あやつり人形」「ピエロ」だった。しかも党勢拡大の広告塔として、一定の影響も与え続けた。
今回、残り少なくなった命をあらためて考え直した。夫の「遺書だ」の発言や、鶴見和子の著書『遺書』にあるように「老いとか病気で静かな時間が与えられたら、ひとつひとつ掘り起こして新しいものを創造していく、それが生きることの意味ではないか」に刺激をうけて。
少なくとも、庶民の目線、立場だけは裏切らないで下手な文でも書き続ける。
かつてのあやつり人形はそう誓う。
2012年7月10日
映画「トラさん」の山田洋次監督が、以前「近ごろ、子どもたちの声が聞こえない」と新聞に書いていた。
確かに、そんな感じもある。でもこの地域の公園に行くとすべり台を下から上っていく子がいる。2台のブランコに乗っている子たちが、競って大空を泳ぐ。怖いほど高く遠く。
既に小、中学生になった孫たちもこうだった。エネルギー溢れて動き廻る子どもたち、子どもはそういう生き物なのだ。
父の日には、「イクメンパパ」が目についた。犬の散歩に歩くと、小さな子が「あっワンワン」と興味深そうに眺める。とりわけ男の子は「ワンワン」が大好き。つい「ワンワンだよ、こわくないよ」と笑顔で言葉が出てしまう。
長男が父親と、クワガタやカブトムシ採りに夏休みの早朝から虫取り竿やかごを持って喜び勇んで出かけた。40年もの昔の懐かしい思い出、こどもは自然が大好きなのだ。
あぁ、それなのに、被災地の子どもたちは外で遊べない。
新聞報道によると、「子どもたちに異常が出始めている。体重増加と動きが鈍くなっている。将来白血病の心配」とある。未来を担う子どもたちがこれでいいのか。
放射能が心配で、家族と離れて親類や慣れない地域に住む人たちも多い。戦争中に子どもだった自分たち、親と離れて無理やり疎開させられた。同じだ。
政府は大飯原発再稼動宣言した。
この夏の「電力不足」とか、「安全確保できたので」と言うが、国民の圧倒的多数が早急な再稼動に反対し「慎重に」を願っている。
しかし政府は原子力保安院の見解をうのみにしている。
さらにもう一点、大飯原発の敷地内に活断層があるという研究者の発言もある。調査もされていない。
働く場がなくなってしまうという。しかし、福島原発では仕事だけでなく、突然沢山の人が故郷や家族との暮らしを奪われた。そのことはどうなのだ。
名古屋市職員として1ヶ月間、陸前高田へ応援に行った娘婿が言うように、「現地は殆ど何も変わっていなかった。深刻さは現地へ行ってみないとわからない」それが現実なのだ。
さらに愛知県知事は、瓦礫処理の受け入れを了解したが、例えば、愛知県碧南市で「放射能で危険な瓦礫は、受け入れに反対」と、住民の総意として表明している。
「脱原発」という人たちは、粘り強く不自由なテントの中で抵抗しているし、1000万人の目標を掲げ、すでに800万人近い署名を集めて政府に提出している人たちもいる。
こういう庶民の声を、政治が握りつぶす権利があるのだろうか?
2万人近い人たちが、一瞬のうちに命を奪われた津波。さらに追い討ちをかけるような、世界中が注目した原発事故である。
10万年消えないといわれる放射能廃棄物、原子爆弾を落とされて、散々苦しんだわが国なのに、国策として、安易に「原爆」と同じ「原発」に頼ってきた日本、政冶の安易な姿勢に大きな疑問をもつ庶民の一人である。
2012年6月20日
萩原遼著『北朝鮮−金王朝の真実』を読んで
北朝鮮が「金日成、生誕100年として4月12日から16日頃人工衛星ロケットを発射する」と言うニユースが、世界で注目されている。
北朝鮮の金正日が死に、世襲で若い金正恩が後継者になったが、この国がどう変化しようが関心がある人は多くないかも知れない。しかし、大切な家族を拉致され、自身も段々年を取っていく人たちは、何か変わって欲しいと願い続けておられると思う。
本のまえがきに、「心ではマンセー『万歳』と叫びたいのに泣かねばならぬ、泣く真似をせねばならぬ彼の地の人民を思って、私は〔金正日の死に〕心の底から万歳を叫んだ」とある。
この著書で一番衝撃を受けたのは、「金日成の急死は金正日が殺したから」と主張していることである。2000年5月からアメリカに行き、5年近く滞在してこの問題を調べ『金正日隠された戦争』と題して2004年11月に文芸春秋社から出版した。
「一国の最高指導者に、父親殺しの疑いをかけて断罪することにためらいもあった。人を斬れば自分も斬られる。その覚悟なしに軽々しい問題提起はできない」。
考え続けたが、いまのところ修正しなければならない点はないと記されている。それどころか著者の説を裏づけてくれる脱北者の証言などが次々出てくる状況という。
様々な資料とかなり確実な脱北者、北朝鮮の元指導部、その他ソ連、アメリカの言論人の発言を引用して証明している。
1989年の東欧革命、続く91年ソ連邦の崩壊が、北朝鮮の金日成・金正日親子など、金王朝一族に甚大なショックを与えた。独裁で庶民を縛ってきたルーマニアのチャウシェスクが、民衆蜂起で射殺されたので金親子は震え上がった。それが全てのスタートであるという。
金日成も独裁者だったが、金正日の残忍残虐さはケタ外れであるとして「父親殺し、何百万人の大量餓死殺人、テロと拉致、核による脅し、麻薬の製造販売とニセ札作りなどを見ると金日成がまるで神様のように見える」そうだ。
本の冒頭に韓国に脱出した男性のことばがある。「苦しくても首領様の生きておられるときは、飢え死にする人はいませんでした」と。
金正日と父親金日成との間に生きるか死ぬかの路線闘争があった。金日成の「改革開放」の流れがあり、金正日一派の「核ミサイルで内外を脅して生き残ろうとする」流れである。
「1994年7月7日に金日成は急死した。考えの違いは生き残りをかけた路線闘争、権力闘争に発展して行った」「金正日は真夜中に金日成に電話をし、耐え難いほどの暴言を浴びせ、強いショックを与えて心臓発作を起こさせた」
さらに「心臓病を患う金日成、死亡現場に心臓病の医師はおらず、死亡時に金正日腹心の幹部数人がそばにいたことは、死に何らかの関わりがあることをにおわせている」と。
二つ目の衝撃は、「餓死にみせかけた300万人余の大量殺人」についてである。
「『洪水だ、干ばつだ、雹が降った、あられが降った』と、天災が次々北朝鮮を襲ったのは金日成の死後である」として「大量の支援食糧が入りはじめてから、大量餓死が発生する。なぜなのか。著者は疑問に感じ、謎に迫る」
「韓国に亡命した元朝鮮労働党幹部は『1995年に50万人が餓死し、その翌年11月までに100万人が餓死したが、この状況でいくと97年にも200万人の餓死者が出るだろう』信じられない数字に茫然とした」とある。
この元幹部だけでなく、「米国政府高官の『北朝鮮の大飢饉』など読んでいくうち、鳥肌がたってきた」という。「北の特別な地域として威鏡北道と威鏡南道を切り捨て対象にし、1994年から食料配給停止したのだ」と書く。「金正日はわざと餓死者を作り出したのではないか」とあった。
私も何回か、思わずこの本を閉じた。
人が自由に平等に暮らせる理想郷と信じた社会主義、若い時代に私たち夫婦も働きながら、エネルギーを注ぎ込んだ。1950年の朝鮮戦争は南から攻め入ったと、信じて疑わなかった。権力維持のためには何百万という殺人も平気な理想社会とは何だったのだろう。恥多き人生だった。
活動から離れ、暗く孤立を迫られた生活が、ソ連邦崩壊で夜明けの光がさす感動を味わった。あれから20年が過ぎた。
「アメリカメリーランド州の黒人アパート一間に住み、知人も支持者もいない孤独ななかでもがき、悩み迷いながら4年半以上手探りの勉強をした」という著者の寂しさと執念が胸を打つ。
歴史とは、人間の幸せとは何なのか、考えさせられる貴重な著書だった。
2012年3月23日
山本作兵衛の絵文集『炭鉱〔ヤマ〕に生きる』
1、「下罪人」として生きた人の快挙
世界記憶遺産に選ばれているのが、世界では「アンネの日記」や「ベートーヴェンの第九草稿」「フランス人権宣言」など、世界的歴史資料であることを考えると、「炭鉱に生きる」の山本作兵衛の偉大さが分かる。
作者山本作兵衛は、明治25年〔1892年〕生まれ、7歳から炭鉱に入り50年余り生き抜いた。その昔、鉱夫は下罪人といわれた。
「水がなければ生きられません。・・・低地の湧き水を順番に並んで汲んだ。一滴も無駄にできなかった。さらに風呂も人間が入れるようなものではありません。男女混浴で煮詰めた味噌汁みたいな汚さでした」それを「入浴フロ」という絵にした。
あるいは「当時の採坑夫の仕事ほど惨めなものはこの世にありますまい。おなじ人間として生まれながら、なんの因果でこんな地の底でモグラ生活をしなければならぬのか情けない思いでした。朝は2時3時に起きて10時間も12時間も働くのが当たり前に考えられていた」そういう作者は、絵で描く。頭も上げられない鉱道もあり、座って斜めになりながら女も男もはたらく様を。
水害あり、ガス爆発あり、納屋制度で賃金をピンはねされる機構も作られた炭鉱。大正時代になると「ヤマの米騒動」もあり、軍隊に鎮圧される。
それらの絵が、生き生きと語るように描かれている。絵だけでなく、文章で補足もしてある。
2、青春時代に訪れた三池炭鉱
ここに一枚の絵はがきがある。
「この地域にも『三池守る会』の人10人が来て主婦会と親しく交流され、益々心強く頑張らねばと決心しています。が、政府、会社からの圧力は強まるばかりで、首切り、希望退職を露骨に迫ってきています。職場の守る会のみなさんにも、どうぞよろしくお伝えください。荒尾市大平社宅S生」。屋外大集会での、若き日の写真と共に懐かしく読んだ。
1960年は三池、安保と民衆が立ち上がった年だった。職場の労組も働く人たちの様々な要求を取り上げ、闘った時代である。「三池守る会」の一人として、炭鉱の社宅を訪れた記憶が、生々しく甦った。
今回、世界記憶遺産として認められた「炭鉱に生きる」は、三池闘争以前の貴重な歴史的記憶だと思う。
「ボタ山よ汝人生の如し 盛んなるときは肥え太り ヤマ止んで日々やせ細り 或いは姿を消すもあり あぁ哀れ悲しきかぎりなり」。
これは「ボタ山とボタ函」という絵に書かれていた。
金子光晴が40年以上も昔に、この絵と文に目をつけ、1968年に『文芸』に書いた文にはこうある。
「地下のくらい世界には、人目にふれないで非道や、残酷を保存させることができよう。非道や残酷だけではない、地下に保存されたものは、悲しいもの、切実なもの、おしころされてなおさら強い希望や、よろこびなど人間性のなまなましい噴出の数々があり、ユーモアにとりかこまれている。・・・この本のなかでは絵が大きな役割をしている」
40年以上も昔に、この絵と文に目をつけた金子光晴の文章である。
3、石炭から石油への転換、そして・・・
1970年代の高度成長期、発達した国日本である。一方、電力需要は急ピッチで、国を挙げて原子力発電に、政治も経済も頼った。
米国は「原子爆弾を使って、世界で初めて大量に人を殺した負い目を、『原子力の平和利用』で喜ぶ国」に安堵していたという。
ドイツ環境団体の代表は9月21日来日して講演した。「福島とチェルノブイリは、なすすべがないという点で同じ。今すぐ原子力をやめるべきだ」と。
「チェルノブイリ原発事故後の処理にあたった80万人の作業員のうち、2万5千人が死亡。30キロ圏内は現在も無人の状態が続いており、近隣の都市ではがん罹患率が40%近く上昇した」
福島原発事故で、放射能の危険に晒されて働く大勢の人たちがいる。被曝しても検査なしで、下請作業員として雇ってもらえる生きるための原発ジプシーである。
かつて「下罪人」といわれた貧しい労働者が、炭鉱から炭鉱へ渡り歩いた。現在の状況と同じではないか。
人間の世の中は、本当に進歩したのだろうか? 幸せとは豪華でなくてもいい。生きるために寝る所、食べる物が要る、そして人との絆である。
人間の歴史は何十年も経ってみて、初めて真実、本当のことが分かるのだろう。
2011年10月1日
県知事選、名古屋市長選、市議会解散住民投票のトリプル投票
昨年秋から、名古屋が元気だ。
プロ野球とサッカーで、地元チームが優勝した。
「COP10」生物多様性についての世界会議、「あいちトリエンナーレ」という国際芸術祭も開かれた。芸術祭の経済効果は78億円とか。
さらに、名古屋市長が自らの報酬2700万円を800万円に引き下げた。そして4年毎の市長退職金4220万円の廃止も決定し、減税10%を提案した。
議会解散のリコール運動を実施した。
このリコール運動は、市長主導だと批判もされたし、市の選管は「不明が10万以上ある」として、審査の1ヶ月延長を決めたりもした。
その結果リコール不成立を決定した。それは、選管4人のうち3人が市議OBで、リコール成立を阻止しようと審査を厳しくしたことが原因らしい。
それに対して、決起した市民の必死の戦いで、次々と無効が有効と変更になり、リコール運動は逆転で成立した。政令指定都市で始めてという。
市長提案の都度議会は反対し、市長を孤立させた。5回もの提案に反対で実行出来ず、やれ「独断だ」とか「ファシズムだ」とか批判され続けた。特に長年議員の座にいる議員たちは「報酬半減なんて、議員活動をできなくするのか」と、頑強に反対し続けた。
そして、市議会を解散して民意を問う。名古屋市長を選ぶ。愛知県知事を選ぶ。この3つのトリプル投票になった。民主的社会だから出来た。
選挙の結果、前回〔2007年〕は51万票余りだった市長の票は、今回〔2011年〕、66万票余りもの得票で当選した。
政令指定都市で始めてという。
これらは、全国報道で知らされており、いまは3月13日に市議会議員の投票が行われるのを待つだけなのだ。
ここでわれらは、市民感覚、庶民感覚でしゃべり合った。
寒風吹くなか、自転車で走ったのもいい。われらも、現役の頃、毎日名古屋駅から職場まで自転車で走ったよね。
ピンとくる大事なことは一つだけ、市長は自分の報酬を半減以下の800万円にした。これはなかなか出来ないことだよね。
勿論、減税問題や、組織の改革など、これから向かう問題はいっぱいだろうけれど・・・。
議員たちは報酬半減案を3回も4回否決した。それは長年、生活保障つきの議員席でお仕事されていた先生方、自民、民主、公明、共産、社民の全党であること。
それが、解散で市会議員のバッチがなくなり、ただの人になることが分かり出してから、変わり始め、ぎりぎりになって一転した党もあったよね。
出来ないことをやった人と、やらなかった人との違いを市民はしっかり見ていた。
庶民はそれをしゃべり合った。
年収800万でも縁がない、どんな人たち? というレベルだよね。
年収200万円未満という人が1000万人を超えている日本。高齢者や無職の所得が低い人たち〔20%〕は、年収129万円といわれている。〔平成18年国民生活基礎調査〕。
子ども貧困率はユニセフ調査〔2005年〕で、24カ国中10番目に高いと言うじゃない。
貯蓄なし世帯は23、8%〔2005年〕10年前の4倍とか。
政治は、これらのことを、庶民のことを考えることではないか。
そう思うのは私たちだけではないはずよね。
2011・2
新しい年が始まる 年の瀬の墓参
師走の冷たい風が吹き荒れる。夫と二人で平和公園にある墓参りを済ませた。
風に向かって歩き続ける。喉が痛くなり、バツグから襟巻きを出して首に巻きつけて歩く。二人が歩いてきた人生みたい。
連れ添って、いつの間にか半世紀近くになるなんて、ネ。
30分歩いたら、そろそろ地下鉄の駅が近いはずだけれど・・・・。
名古屋の平和公園は、戦争で焼け野ガ原となった名古屋市復興の際、広い道路を作り、市内の墓地をこの丘陵地に集中させた。名古屋の東山動物園といえば、東の市電終点の場所だったのに、その後どんどん東へ丘陵地が開発され、市街地が広がった。
その中で、道路と同じ高さの平坦な土地に、或いは崖を登るような急な斜面に、そして広々したその中間部分を墓、墓、墓で埋め尽くした。
大きな墓石、小じんまりした墓石、白っぽい石、黒い石と、種々様々な大中小の墓石が押し合うようにひしめいている。年に数回くる墓参、掃除して今年も新しい花に活け直した。
菊の白、千両の赤、それにアイリスの紫と、お正月らしさが匂う花々。今年も先祖の墓参りが出来た。
そのとき、ふと若い頃に聞いた話が甦った。「食べる物がなくて、お墓のお供え物を盗んで飢えをしのいだ」という人たちのことが。
非合法の火炎ビン武装闘争という地下活動に必死だった頃の先輩たちだ。
彼らは、戦後の日本共産党が非合法にされたときに、若かった党員たちである。
その人たちも社会主義国のソ連、中国、北朝鮮こそ人類の理想社会と信じて疑わなかった。だから1950年の朝鮮戦争のとき、南朝鮮や米国が38度線を越えて北へ侵攻したと、信じたそうだ。
米軍基地が多く、朝鮮戦争の後方兵站補給基地になっていた日本で、「後方かく乱戦争に決起せよ」との、スターリン・毛沢東の指令で、日本の党も武装闘争路線に走り、火炎ビン闘争などの方針で戦った。
いまでは、「北からの侵略だった」が、歴史的事実として証明された常識である。
さらに、1960年の安保反対闘争でたくさんの若者が、戦いの中で党員になった。安保研究会や、三池守る会の活動の中で、世の中を理想的な平等社会にするのは、社会主義しかないと信じて。
最近のニュースでは、共産党の党財政破綻により専従が900人ほどくびになったという。この不景気の時代に、どうやって食べていっているのだろう?
退職金なし、共産党は専従を労働者と認めていないので失業保険なしだそうだ。厚生年金はある。
党中央の役員は、退職金あり、名誉役員手当ありと聞いたのに・・・。
若き正義感で専従になったのに、大学の新卒でさえ50%近くが就職できない時代にいい転職先があるはずない。新たな悲劇は始まっている。
連れ合いが解任され、風呂敷包みひとつで放り出された当時を思い返す。
働き続けた私の給料と、知人、友人に少しずつ借金を重ねた。
理想社会実現の夢が壊されたショックと共に、生死を共にする覚悟で、日夜行動を共にした人たちが、誰一人「何があったの?」と訊いてこなかった。
中央の指導が全て正しいと信じて疑わない、忠実な下部党員たち。
その孤独、精神的ショックが、何よりこたえた。
尾行、張り込みもふくめた地獄から這い出せたのは、東欧、ソ連の社会主義国の崩壊だった。
私たち夫婦が生き返った、あの歴史的事件からだけでも既に20年とは。
冬の花、山茶花が今年も咲いた。
報道されないのはなぜ?
大きな声で電話がかかった。声の主は吉田嘉清氏。夫のホームページに載せた論文に賛同の感想だったが、大声が出るだけで元気さが分かる。かなり前のことである。
その吉田氏が、エストニア共和国からエストニア赤十字勲章を授与された。これはジャーナリスト岩垂弘のニュースが送られて来て初めて知った。
吉田氏が、長年にわたって続けてきたチェルノブイリ原発事故への支援活動に対するもので、エストニア独立記念日の2010年2月23日に大統領自ら手渡す予定だったが、彼が高齢を理由に招待を辞退された。
そのため、今年3月に駐日エストニア大使館にて授与されたとか。
チェルノブイリの事故犠牲者に、毎年ささやかなカンパを送っている者にとっては、うれしい知らせだった。
チェルノブイリ原発事故が起きたのは、1986年4月26日である。
旧ソ連ウクライナのチェルノブイリ原子力発電所で爆発が起き、放射性降下物が広い地域に降り注いだ。原発の運転員、消防士ら31人が死亡したほか、ロシア、ウクライナ、ベラルーシで住民数百万人が被爆した。
事故直後、放射能除去作業のために、ソ連全土から約60万人が事故現場へ動員された。その人たちも被爆したとされている。
この時、バルト3国の人たちも作業に動員されたので、リトアニア9000人、ラトビア7000人、エストニア5000人、合計2万1000人を超える人たちが被爆したと言われている事故である。
被曝したエストニアの人々へ、支援活動を続けて来られた吉田氏は84歳。原水協本部事務局長で有名な活動家だった。
勲章を授与されたとき、「活動を続けて来られたのは、基金のスタッフやご支援くださった皆さんのお陰、私は代表として受け取っただけ」と語った。この謙虚さを流石だと思った。
1990年に、元環境庁長官大石武一らが被爆者救援を呼びかけた。
市民団体「エストニア・チェルノブイリ・ヒバクシャ基金」がつくられたが、スタッフ7人で企業や団体にヒバクシャ支援を訴え、20年間で数千万円の募金や薬品、注射器など贈り続けてきた。
ヒバクシャ基金では、このエストニヤ赤十字勲章授与のニュースを、全国紙各紙や通信社、広島、長崎の新聞社に伝えたが、どこも記事に取り上げなかったそうだ。
そう綴った岩垂弘のニュースを読み、なぜだろう、考えても分からない。
バルト三国と言えば、旧ソ連に支配され、ヒットラーのドイツに占領された悲劇の歴史があり、ソ連崩壊前に独立した国であるが、それは別にして、大相撲の把瑠都〔ばると〕出身地方。把瑠都なら黙っていても何でもニュースにするだろう。
広島、長崎に世界で始めて悲劇の原子爆弾をおとされた国。核廃絶、被爆者に少しでも助けになるだろう努力が報道に値しないのだろうか?
きれいな核実験なんてあるの?
1964年、当時のソ連が核実験を行った。そのとき、共産党幹部の上田耕一郎が発言した。「ソ連の核実験はきれいな核実験だ」と。そして一大キャンペーンをした。
ソ連の核実験がきれいだという理由の一つは、米国に対する防衛的核実験であること。二つ目にソ連の核実験は死の灰が出ない核実験であるからと平気で語った。
下部組織は多少の疑問を感じながら、それを信じた。その活動家たちの一人に、愚かな恥ずべき自分もいた。
それほどソ連など社会主義国は人類の理想であり、そういう国の実現のためには、共産党という組織は絶対的に必要な要だと信じた周りの活動家も、みな共産党の指導に異議を挟まなかった。
ソ連邦が崩壊した現在、当然ながら「きれいな核実験」なんて笑い話にもならない。
原水爆禁止運動の活動家たちも、「原水禁」と「原水協」の分裂騒ぎに巻き込まれた。社会党、総評系の主張は「いかなる核実験にも反対」だった。誰が考えても、ごく当たり前の論理だと思う。
こうして1964年から1983まで、実に19年間も原水爆禁止運動は分裂状態で、世界で初の原爆による多くの死者を出し、被爆者を出した国で被爆者たちを苦しめている。
原水爆禁止の運動は、このように社会党が「原水禁」という組織を作って分裂させた。というのが共産党の長年の主張である。
根底には社会主義に対する信心にも似たものがあったのではないかと思う。
社会党系「原水禁」と、共産党系の「原水協」、統一して運動しようという主張に共産党中央は反対した。なぜなら、「原水禁運動の本流は共産党である。社会党が運動を分裂させた」という考え方かららしい。
当時の共産党は宮本委員長、金子満広路線とか。
中心的活動家の吉田氏は、様々な平和運動の中で「原水協」と「原水禁」は統一して行動すべきだと主張して、共産党を「除名」された。彼の主張に賛意を表した学者、文化人らも多く、公然と主張した哲学者の古在由重は共産党を「除籍」になった。
名古屋大学の代表として、会議でいつも分かりやすい発言をしていた森賢一は、地区や県の活動者会議でよく顔を合わせた活動家の一人だった。その後、平和委員会事務局長だったそうであるが、分裂を止めて統一して運動しようとしたのは、共産党中央の方針に対する規律違反だと「党員権停止」で、平和運動から実質追放されたと聞く。
歴史の真実とは
大先輩の、長年にわたる努力に光が当てられ、あらためて受賞をおめでたいと思う。
共産党を除名された吉田氏は、尾行や張り込みという精神的苦痛を舐めさせられたそうである。それと同じ地獄体験は、わが夫婦も痛いほど味わった。
評論家清水良典が、「政治思想の左右や主義主張を問わず、ある組織が強大化しそこに権力が発生するとき、個人の自由を抑圧するシステムが生じる」と、ある新聞に書いていた。
誰もが願うこと。それは最低でも「寝る所、住む所があって、食べる心配がないこと」である。そして「自由で平等な生活、その中から生まれる文化的芸術的な精神的ゆとり」みんなそれを目指して生き続ける。様々な不安とたたかいながら。
今回の吉田氏の受賞は、自由と真実探求の小さな国が、心から認めたと思える大きな勲章。
半世紀も流れた歳月を思い返し、歴史の真実は「唯一絶対」の信心からは生まれない。
このことを貴重な教訓として、あらためて考えさせてくれた。
(注)、1984年、「原水協」と「原水禁」との統一をめざす運動と共産党による統一反対・阻止方針、それに関係した平和委員会・原水協党員と学者文化人党員の大量粛清事件の経過詳細は、宮地健一HPにある。
『宮本顕治による平和委員会・原水協一大粛清事件、1984年』
2010年3月16日に「高校授業料無料化」が衆議院本会議で可決された。
それに関連して、朝鮮高校を対象外にしたのはおかしいという見解もある。
そんな中、私は反対ですと、明確に態度を表明し「まず実際に朝鮮高校現代史教科書を読んで判断してください」と、夫あてに日本語に訳した朝鮮高級学校の教科書が送られてきた。
例年になく寒い春5月だった。
送り主は「朝鮮戦争」の著者萩原遼氏で、「朝鮮高校への公費投入に反対する専門家の会」代表とも記してあった。
その本の最初のページに「日本の多くの論者が朝鮮語を読めず、中身を知らないままであれこれ述べ合っている段階である」とあった。
写真や、書かれた教科書の文章の位置も基本的に変えずにある教科書を開いて、写真の説明には必ず、「敬愛する金日成主席さま」とあり、数えたら13箇所で少々辟易した。
訳した萩原氏によると「史実において虚偽が多すぎます。たとえば朝鮮戦争は、韓国とアメリカがしかけた、北朝鮮にたいする侵略戦争であったと教えています。60年前に破綻した偽りをいまなお事実のように教えています。これでは『南北の統一を遠ざけ』、韓国とアメリカ、さらには日本に復讐しようとする若者を育てることになりかねません」とあり、貴重な意見に共感した。
私たちの青春時代は、1960年代「三池」と言えば「安保」という日本の激動の時期だった。
日米安保条約は、日本が米国と軍事的、経済的に従属関係になってしまうと、勉強し合った。仲間で安保研究会を作り、地域で署名活動などした。
国会へ集めた署名を持って請願に上京したり、強行採決した国会周辺を抗議のフランスデモで囲んだりした。
また、エネルギーの石炭から石油への転換で、大勢の炭鉱失業者や離職者が出た。九州の炭鉱住宅まで応援に行ったこともある。なぜ、こんな歴史体験を書くのか。
当時、進歩的とか左翼といわれた人々が「1950年、38度を挟んで熾烈に戦われた不幸な朝鮮戦争は、アメリカ、南朝鮮から侵略したからで、正義の北朝鮮から攻めてくるはずはない」と、長い間、信じて疑わなかったから。
恥ずかしながら、活動家だった自分たち夫婦も例外ではなかった。
歴史というのは、何10年も経って始めて真実が分かることもある。
かつて赤旗記者として活躍した萩原遼氏は、「北朝鮮に消えた友とわたしの物語」を著したが、理由も言わずに外信部副部長を解任され、怒りと共にアメリカに渡り公開文書を徹底的に調べた。
執念で資料を調査し尽くし、「北からの侵略」を探り出した。そして「朝鮮戦争 金日成とマッカーサーの陰謀」を著した。それは1993年出版だったが、5刷を重ね、いまでは当たり前の歴史的事実になっている。
朝鮮高校の教科書を、「現代朝鮮歴史 高級1」として、日本語に翻訳までしてしまう、真実への執念に脱帽した。
実際に教科書を手にして、また過去の氏の誠実な行動経過を知る者として、最後のまとめにも納得できた。
まとめ。「朝鮮学校が日本の公費を要求する以上、まず日本語に翻訳し、公表すべきではないか。それをやらないどころか、朝鮮学校やそれを指導する在日朝鮮人総連合〔朝鮮総連〕は、教科書を隠しまわっています」。
画期的判決が出た4月17日 〔戦闘地域への自衛隊派遣は憲法違反〕
5年前の2004年1月に札幌で「自衛隊イラク派兵差し止め訴訟」が始まった。
仙台、東京、静岡、大阪、京都、岡山、熊本など全国的裁判闘争になった。しかし、各地の提訴は、次々却下された。
「2006年7月20日、大阪地裁で『イラク派兵訴訟』に対して、裁判官が却下を言い渡した。所要時間はおよそ3分。言い渡しが済むと、3人の裁判官は判決文を読み上げることもせず、そのまま背後の扉のむこうに姿を消した。
原告は小田実ほか1048名だった。判決文は、当然代表の私に手渡しされると思ったのに・・・。これは市民に対する侮辱だ。裁判所は何のために、また誰のためにあるのか・・・」 著書『中流の復興』より
ここ名古屋でも、提訴した人は3268人になった。若い弁護士が「派兵反対」で一致する人をネットで募った。学者や有名人が沢山原告に加わり、意見陳述に立った。
学士院会員の水田洋氏は、5年前既に80代半ば、夫の師でもある。市民運動に熱心に取り組んでいる氏から聞いて、私たち夫婦と友人、3人でこの裁判の原告に加わった。
市民団体の人たちや若い弁護士たちの粘り強い闘いは、出される立派な会報をみるだけで、その手間と努力に感心しながら、傍聴はできる限り夫婦で続けた。
意見陳述書も書いた。しかし、何と言っても、中心になった市民運動の活動家と、弁護士たちの努力の積み重ねがあってこその勝利である。それと戦争体験者が、二度とあんな戦争はごめんだという執念で勝ち取った違憲判決だと思う。
判決が言うように、バクダットは戦闘地域だから、自衛隊イラク派遣は違憲である。
6年前の3月20日、米国が「大量破壊兵器かある」と、イラクに攻め入った。
開戦からわずか13時間後、日本の首相小泉は米国支持の立場を表明した。
当時、外務省レバノン特命全権大使だった天木直人氏は、公電で「国連が容認していないのに、初めに攻撃ありきでは中東の真の平和は望めない」と、辞職覚悟2度も意見具申をした。が、無視され、当然のように辞職させられた。
著書『さらば外務省』を読むと、無視された意見具申を読んで、「男泣きした。血を以ってかかれた書」とメールが届いた。
いまの外務省で、意見具申をする者は誰もいない。天木氏は唯一人の反応に励まされた。
そして5年という月日が流れ、大量破壊兵器は見つからず、市民の多くが殺された。
解散会で池住会長は「この4・17判決に関わった者の歴史的責任」と言われた。「解散は新しいスタート。90歳までがんばる」とも。90歳にはドキッとした。
わが夫婦は、共に高貴な高齢者資格が近づきつつあり、いままで何でも夢中で取り組んできたが、ボツボツやろうに切り替えなければ・・・。などと考えていたから。
そして、若い弁護士たちの一言の中にあったことばを繰り返し思いだす。
「小さ積み重ねが、やがて歴史を動かす大河となる」
「幸運の神は努力した者にほほえむ」 09年3月25日
名古屋訴訟原告団HP『自衛隊イラク派兵差し止め訴訟』
水田洋『原告意見陳述』
google『空自イラク派遣は違憲−名古屋訴訟』
なぜ4人なのか。
今、東西の未解決事件の代表のようにいわれる、世田谷一家殺人事件。そして愛知県豊明市の一家皆殺し後の放火事件も、犠牲者は4人だった。
日本では、4は死に通じると嫌われる。アパートやマンションの部屋、それに病院などで、4号室はわざと作らない。4は死に直結している。
それを感じたのは、中国の「文化大革命」での4人組である。
「文化大革命」は、1965年、毛沢東の4人目の妻である紅青夫人が、4人組をつくり10年もの長い間、体制建て直しのため、毛沢東らが下放運動と名づけて仕組んだもので、インテリとその家族を徹底的に追放し、殺した血塗られた中国の歴史である。
あんな無能な一握りの暴君どもに、9億もの中国人民が長い間蹂躙されたのかと書いているのは、『ワイルド・スワン』の著者ユン・チアンである。
「走資派」と書かれたステッカーを首にぶら下げて、市中をひきまわされ、公開処刑された沢山の人たち、「毛主席万歳!」と叫び続けたもっと沢山の民衆、公式発表では、殺されたのは80万人となっているが、実際には殺され、抹殺されたのは4000万人とも、5000万人とも言われている。
現在、経済は発展したが、共産党の一党独裁あって、社会主義なしといわれている中国は、北京オリンピックで沸いた。
世界のスポーツ選手たちは、このオリンピックのために、涙ぐましい訓練をし、技を磨いて世界と競い合った。それは一つ一つ感動物語であった。
一方で、チベット問題や新疆ウイグル問題は放置され、超近代的な「鳥の巣」建設のために、炎天下で農民工たちが重労働の出稼ぎで働いた。
或いは、オリンピック施設建設のために、無理やり立ち退きなどさせられた人たちが、反対や保障問題で集会を開こうとしても、一切禁止であった。
中国は、経済の発展と共に、インターネットとケータイが物凄く普及している。そこで、インターネットの話。
およそ10年前、仕事を卒業したわが夫婦は、老骨に鞭打ってインターネットにホームページを開いた。残りの人生でいままでの政治活動の真実を探りたい。その思いで必死に勉強した。
やっとの思いで開いたホームページは、現在流行りのブロクではない。難しかった。
それをネット上で見つけて励ましてくれたのが、政治学者のK教授や、H田中氏という、ベテランたちだった。
北京オリンピックが始まる前から、中国にいたK教授は、アクセス110万の自分のホームページがインターネットにつながらないことに気づいた。それは2008年3月のことだった。
テレビでも活躍している有田芳生のホームページは、200万のアクセスで盛況である。
有田芳生は「テレサ・テン」に関する本を出した。
テレサ・テンの歌う『何日君再来』が反中国的と受け取られ、評判の有田ホームページを調べたら、これもつながらない。
アクセスが1900万を超えた、H田中氏のブログも通じないことを知った。改めて独裁の怖さを知ったK教授だった。
彼らとホームページでリンクしている私たちも、知る自由のない国、権力維持のためには、どんな事でもする怖さを知った。
1976年9月毛沢東が死に、1ヵ月後4人組は監獄行き、江青女史は91年に自殺したが、熱狂した民衆で4人組を守ろうとした者は誰もいなかった。
毛沢東と4人組で5人、まさに5−1=4で死滅した。
日本でも、最近民主党から5人が新党結成と立ち上がった。1人の女性が取りやめ、難しくなった。
やはり4=5−1
4は死に結びつくのかも知れない。
私も歩いた、500人と。「チベットに自由を」
その日は土曜日、週1回のわが家の清掃日だった。
昼12時近くに夫は掃除機を出す。雑巾がけの準備をしながら、耳に残っている数日前の夫のことばを考えた。
「ネット上で、中国のチベット弾圧に抗議しようという動きがあるよ。名古屋でも主婦が言い出したらしい」。
フランスなどで、北京オリンピックの聖火行進にあんな激しい抗議があるのは、やっぱり人権意識が高いからよね。その点日本人はわりとノーテンキというか、事なかれ主義だし、何より生活に追われて忙しい。
そんな会話を交わした。関心があったのは、中国はいろいろな国の人たちの、抗議の動きを庶民に報道していないという事実だった。デモまでは考えていなかった。
雑巾をしぼりながら、念のため言ってみた。「デモ、行ってみる?」すると、「行くか。時間は・・・」と、早速パソコン開いて「午後1時だ」とテンポが速い。
そうなのだ。夫の感覚と自分のそれには、ずれがあったのだ。
自ら選んだ政党の理想に異見を持った。心ある同志に話したら、分派活動だ、反党活動だと、21日間も監禁され、査問された。
執拗に自己批判書を要求された体験で、「ノイローゼになるか、自殺までいかなかった方が、むしろふしぎなくらい」といった友人のことばが甦る。
よし、行こう! 行って、名古屋でどんなデモがやられるか、見てみよう。
名古屋の繁華街、栄に近い地域。地下鉄「矢場町」で降りて、公園がある所までは近い。道路が高架になっている下で、少し前まではホームレスの人たちのテントが並んでいた所だと思う。
見たこともない旗で、公園方面へ誘導している若者がいた。それがチベットの旗だった。10分ほど時間が過ぎていたので、大勢の人たちが並んでいた。殆どが若い男女で、わが夫婦のような「前期高齢者」は少なかった。しかし、報道陣は、新聞、テレビ局が何局も目についた。
みんな個人参加だよね。うん、右も左もない、ネットで知り合っただけの人たちだ。こんなに大勢、よく集まったわね。警察関係もすごく多いね。
私たち夫婦のそんな話を、頷いている人がいた。その人に案内されて、列の後ろに並んだ。
1人で手製のハガキを、静かに渡す人がいて、私にもくれた。そのハガキには、笑顔のダライ・ラマの写真があった。そして書いてあった。
「ひとりの人間として、不正や暴虐に抗議の声をあげる精神と行動は、自由で平和な世界をつくるうえで大きな貢献となるのです」。
壇上の若者の挨拶が始まった。
「社会情勢もあり、念のため傷害保険はかけました。が、何もしないでください。静かにデモ行進しましょう。組織も団体も関係なく、個人の自由意志のデモです。シュピレフコールは『チベットに平和を』『チベットに自由を』です」。
およそ500人は4列になって、静かに歩き出した。
天気快晴、生まれたての、匂うような柔らかな緑の並ぶ公園は、身も心も、体中を元気にしてくれる。
青春真っ盛りの1960年安保のときも、この公園の辺りをこうやってデモ行進した。あの時は組合や、政党の支持どおり行動したなぁ。
およそ半世紀後の、この若者たちとのデモ、いまは亡き本田靖春は著書の中で、「・・・日本には、もう二度と安保闘争のような高まりはないだろう」と言って、あの世へ逝ってしまった。
ささやかでも、こんなデモが出来た。この若者たちは真剣で明るい。
集会届けなど、雑用はいっぱいあっただろう。でも、よくインターネットでの呼びかけだけで、こんなに自発的に、500人を超えるような人が集まったものだ。
整然としたデモに、土曜日の歩道の人たちからもカメラがむけられたり、関心と好意の眼差しを感じたりしながら歩いた。
チベットに自由を。チベットに平和を。
大声は1時間半近く中心街に響いた。
〔08・4・19〕
夫は、耳鳴りがして、なんだか聞えにくいと言って病院へ行った。受診した結果「いまからすぐ入院してください。3週間安静にして、毎日4時間ほど点滴です」と医師に宣告された。
病名は「突発性難聴」。インターネットで調べると「原因不明で,発病してすぐ手当てすれば治癒の確率高く、1ヵ月経っていたら直らない」とあった。
久しぶりに夫婦で世界遺産「白神山地」の山登りをし、2泊3日だったので、受診までに11日ほど過ぎていた。
1週間以上過ぎたら治る確率は3分の1とあった。
原因が脳の腫瘍のときもあるので、MRIの検査もすると医師は言った。
帰宅して入院準備を急ぐ夫を見て、突然の事態に気が散って困った。特に「脳腫瘍が原因のときもある」と明言されたと聞いてから、疲労感に襲われ、他人の体のようだった。
日頃、この歳になって検査を受ければ、どこかは悪くなっている。調子が悪くなって、余命何ヵ月と言われたら寿命なのだ。そう思っているから、夫婦とも15年余り住民検診も受けていなかった。
素人では耳の具合が悪いと、なぜ安静なのかさえも分からなかった。
こうして、元気だった夫がベツドに横になって毎日4時間の点滴、安静が日課の病院生活になった。その様子を見舞いながら、毎日着替えを運び、洗濯物を受け取って帰る日々になった。
ある日、夫がぽつりと言った。「21日間の入院は、監禁査問受けた21日間と同じだな」。
「あっ! そうなのだ」と私も遠く過ぎ去った「21日間」を思った。
あれは30歳、長男出産の年だったから、もう40年前のことになる。
請われて共産党の専従になった夫は、会議会議で毎晩帰りが遅く、よく泊まり込みになった。アカハタ拡大が活動の中心だった。
当時、女が子どもを産んでも働き続けようとすると、恵まれていた公務員でも産前産後休暇は42日。産明け43日にフラフラしながら出勤した。近頃、少子化でかなり理解され、よくなった現在でも女が働き続けることは難問が多い。公務員でさえそうなのだから、民間企業での困難さは想像がつく。
40年前、産明けから半年過ぎ、勤務にも慣れた頃から仕事が終わると、党の活動が待っていた。
保育園から子どもを引き取り、子どもを連れて、或いは子どもを友人に預けて会議や活動に飛び廻った。
「宮地同志は暫く帰れないから、着替えを持ってきて欲しい」という連絡が共産党地区委員会からあった。衣類を事務所に持っていくと、夫は出て来ないので、他の地区委員に渡した。そして、代わりの洗たく物を渡された。何の疑いも持たなかった。
それを持って会議や活動に行き、終わると友人宅へ子どもを引き取りに行って帰る。帰りは殆ど10時過ぎだった。
1週間経ち、10日過ぎても夫は泊り込み続きなのか帰らなかった。それでも、職場に働く自分たちが必死で活動しているように、専従の人たちも不眠不休で活動しているものと、信じていた。
宮地健一『私が受けた「監禁査問」21日間の壮絶』24時間私語厳禁、トイレ通院も監視つき
『私の21日間の“監禁”「査問」体験』1967年5月愛知県指導改善問題
「夫は忙しくて泊まりこみで家へ帰れないから、毎晩私たちだけが風呂に入ったお湯を流すの」と職場の同僚たちにいうと、みな考えられないという顔をした。人が羨む国立大学を出て就職したのに、あっさり退職して政党の専従活動をしている。そんなところまでは、みんな知っていた。
「浮気じゃないの?」「お湯なんて、毎晩落とさなくてもいいのに・・・」と言われたのを、昨日のことのように思い出した。
国中がまだ貧しく、60年の安保、三池闘争が終わったが、世の中は社会主義社会に変えなければならない。社会主義社会から、共産主義社会へ、それが社会発展の法則である。
取り敢えず、民主連合政府という理想社会を創るには、中心になる共産党が要る。もっともっとアカハタ読者を増やして、党員を増やさなければならない。地区が会議の指導で言うとおり、普通の党員は素直にそう考えた。絶対の信頼をもって活動に献身した。みんな若かった。
炭鉱労働者が大量に解雇される事態に「三池守る会」なども活発に活動した。現地の三池炭鉱に行って応援もした。それらを受け入れる、労働組合の活動もまだ活発だった。
読書会や安保の学習会、休みを取ってみんなで地域に署名活動に入ったりもした。上京して安保反対署名の請願をし、フランスデモに感激しながら参加した時代から数年経っていたが、時代はいまより、もっとよくしたいという希望に溢れていた。
いままでの生活や活動で、親しくなった人たちがいる間は、アカハタ拡大運動や党員を増やす運動の成果は上がった。職場党組織の責任者として多くの班を指導し、活動者会議では、いつも報告させられた模範であった。
そのうち、「みんなの関心のある問題や要求は何か」ということにはあまり関心を持たず、自分たちの言い分を主張して、新聞を読んで欲しい、党に入って共に活動しようと勧誘することが多くなった。
刈り取るもののない職場での苦痛と孤立化に悩みながら、なお、多面的に考えなかったのは、若い情熱というより、宗教の信者になっていたのだろう。信頼していた友人にも「偏りたくない。中庸でいきたい」とアカハタ読者を断られたように、相手にされなくなり始めていた。
当時、専従者の中で「自律神経失調症」が多発した。いまで言う「うつ病」だろうか。「絶対的真理」と現実との矛盾に悩み、真面目な人ほど症状がひどくなっていた。
夫は専従として指導する立場だったが、数人の委員と「アカハタ拡大一辺倒の指導に、下部では諸々の問題が起きている」と酒席で話し合った。
その中の一人が「これは分派活動ではないか」と、責任者に密告した。民主集中の組織原則に違反していると、話し合ったとされる人たちが査問された。
その中でも、中心になったのは夫だと、21日間共産党事務所に監禁査問されたのである。
毎日、自己批判書を書かされ提出しては、再批判されてまた書く。トイレに行くのも監視つき、長期間お風呂に入れないので近くの銭湯へ行くが、査問員も湯舟まで入って監視された。
21日経って、やっと解放されて活動に復帰したが、10年後、再び中央批判でくびになるという歴史が待っていたのである。
今年、久しぶりにいい映画を観た。「夕凪の街 桜の国」である。
原爆投下された広島で、肉親を奪われた主人公が何年か経って原爆症で死ぬとき「やったぁ、また一人殺せたって〔原爆を落とした人は〕思ってくれとる?」と言った。
戦後何年か過ぎてプロポーズされる。すると、幸せな気分のはずなのに、いつもの光景が頭に浮かび、苦しくなる。それは、一瞬のうちに焼け爛れて、熱さに苦しみ「水!みず!」と呻きながら死んでいったたくさんの人、人、人の群れだった。
自分だけ生きていていいのだろうか? 私は生きていてはいけないのではないかと苦しむ。或るとき、相手にその悲しみのことを、全部話した。それを黙って聴いた男性は言った。「生きとってくれて、ありがとうナ」と。
映画を観て以来、私は心のなかでその言葉を夫に言った。さすがに、面と向かっては照れて言えなかったが、「生きとってくれて、ありがとうナ」と繰り返した。そうすると、あの出来事以後の40年の月日が様々に思い出され、素直に感謝の気持ちが沸いてきた。
「21日間の監禁査問」体験を知った友人が言うように「よく自殺しなかったわネ」。うつになっていたら・・・。精神的な病気になったり、死んでしまったりという可能性もあった事態だった。
あのとき、夫が黙って自殺していたら・・・。神経を病んでしまっていたら・・・。私は、2人の子どもたちは、ほんとうに、どうなっていただろう。
その後の試練や、精神的地獄があったから、自由で穏やかな現在のありがたさが分かる。
40年経って、まだ下々の良心派は党活動に努力している。世の中問題だらけだから気持ちは分かるけれど、なぜ、社会主義体制が崩壊したのか、疑ってみることも必要ではないか。
夫は30年前、退職金もなく、風呂敷包みひとつで放り出された。「このままでは、絶対悔いが残る」と、必死で法律の勉強をして、解雇は不当の裁判をした。40歳だった。
「党員である君に迷惑がかかるといけないから離婚する」「じゃ、子どもはどうするの?」「子どもはひきとる」
「給料も入らないのに、そんなこと出来るわけないでしょ」
自宅を張り込みされ、散歩には尾行された。反党分子に挨拶は要らないとばかりに、かつての同志に道で逢っても挨拶はなし、直接関係のなかった私にも、電話一本もかからなかった。生死を共にするほどの気持ちで、活動した仲間たちだった
「貴女には、子どもを生まないで活動して欲しい」そう言った人もいた。素直に従っていたらと思うとぞっとする。
あの2年間の孤立、精神的地獄は凄まじかった。1989年東欧革命のおよそ10年前の出来事であった。
友人、知人に数万円ずつ借金をして足りない分を補ったが、私の給料だけでは2人の子どもと4人食べていかれなかった。裁判を打ち切ったのは、借金が専従者給料の8ヵ月分以上にふくらみ、夫自ら、親しい友人たちに借金を申し込んで断られたから。
提訴から2年が経っていた。
子どもが多い時代という幸運に恵まれ、必死で開いた学習塾は次第に生徒が増え、100人を超す子どもが真剣に学び、経済的にも立ち直った。1989年の東欧革命、1991年のソ連邦の崩壊という感激の歴史が、ここ15年来の穏やかな生活と無関係ではないだろうと思う。幸せになることも大切だと思う。
苦労は決して無駄ではない。でも、出来るなら苦労は若いときにしたい。
世のため人のためと思って真剣に活動したつもりでも、気がきく方でもなく、誤解されることもあった。素直だけが取り得の性格で、思いあがりはなかったか。
随分恥を晒した人生だった。綱領を決めた1961年共産党8回大会への出席者で若い女性の代議員は珍しいと、公安調査庁の尾行、職場管理者からの監視など、苦しいことが多かった。が、満場一致は感動的だった。
しかし、その前に綱領に異見を持つ者は、すべて追い出されていた。後で分かったことであるが・・・。
壇上にいた中央委員中野重治は、どうして挙手しないのか、分からなかった。
場内は、「反対→ゼロ」保留→ゼロ」「賛成→全員」だったのに。
これも後で知ったが、宮本委員長は、綱領草案反対の中央委員中野重治ら2人を各県の党会議で選ばせなかった。都道府県党会議で党大会代議員にならないと、中央委員の中野重治でも代議員でなく、議決権を奪われた評議員だったから。
1958年共産党7回大会では綱領草案反対代議員が40%いた。それらが宮本委員長らによりすべて排除され、残った中野重治もそのような手口でさらし者にされた上で、満場一致党大会が演出されたとは。
そういうことに気付づいた人はいないのではないか。
夫がくびになったことで、5回も6回も訴願委員会へ質問状を送ったが、無回答。共産党の民主集中制とは、そういうものであった。
でも、それも良かった。自由がどれほど貴重なものか体でわかったから。心の余裕、ゆとりの大切さが理解できた。
絶対の真理なんてあり得ない、それが分かった代償なのだから・・・。
芭蕉の句ではないが、「さまざまこと思う21日間」であった。
〔2007・11・4〕
金正日の徒然草
広大な敷地に建つ別荘で、ときにはざわめく心のまま、終日机に向かうこともある。信じられんだろうが。
おれにはちょっとした秘密がある。それをつれづれなるままに綴るのもこの別荘だ。
2月に、国中で盛大に祝ったおれの誕生のことさ。白頭山で生まれたとする「白頭山伝説」は真っ赤な嘘で、おれはソ連生まれだ。
おやじ金日成は、確かに旧満州でバルチザン闘争に参加し、ソ連の中尉だったが、1949年旧ソ連から北朝鮮に送り込まれたのだ。それは東欧諸国にソ連衛星国の社会主義を成立させたのと同じだ。
毛沢東が中国、ホーチミンがベトナム、カストロがキューバのように、長期の武装闘争で国を社会主義にしたのとはまるで違う。だから、祖国解放の信頼と権威がないから、「白頭山伝説」で、旧ソ連の衛星国成立を覆い隠す隠れ蓑にしたのだ。
そのとき14あった社会主義国が10も崩壊して、いまではたった4カ国だ。おれは焦っている。
おやじから世襲で受け継いだ権力を守ることこそ、長男の使命、「金正日態勢の維持と延命」これこそ最高の国家目的だから。
そのためには、平気で嘘つき外交もする。拉致問題だっておれ個人の判断で、きのうまでは「拉致などあり得ない、でっち上げだ」と交渉の席を蹴ったが、成り行き次第で「事実だった」と認めた。認めれば、相手を「本気で話し合う姿勢に変わった」と騙せるだろ?
250万人国民が飢え死にしようが、軍備を増強し、核開発もする。
騙すと言えば、わが愚民たちを騙すのはわけない。核心層、動揺層それに敵対層の3分割で万事巧くいく。家系を3代さかのぼって51類に細分化した。
核心層は3割(6〜700万人)で朝鮮労働党党員とその家族だな。最高級ランクの金日成バッチをつけさせ、いわばおれの私有財産だ。400万人の党員は『100人の村』式に直すと100人中19人てとこか。
動揺層5割(1000万人)、残り2割が敵対層(400万人)、ちゃんと分類は出来あがっている。もちろん出身階層による分類だけじゃない。金日成首領様、金正日将軍様に対する忠誠度を合わせた分類だ。
いままでこの分断方式は順調だったが、近ごろ河を渡って逃げ出す不埒な奴が増えた。トッ捕まえたら、勿論リンチと一生の獄舎住まいだが、神のように将軍様と崇める民がいる限り、わが国はまだまだ大丈夫だ。
とりとめもなく、こんなことを書き綴っていて、ふと「果たして、おれ正気でこれ書いているのか?」と我ながらいぶかしくなるときもあるが、独裁権力の座は、まことに捨て難い美味である。
(注)、データの出典は、『岩波現代小辞典現代韓国・朝鮮』(2002年)、『朝鮮を知る辞典』(平凡社、2000年)、重村智計著『最新・北朝鮮データブック』(講談社、2002年)
北朝鮮の金正日総書記が日本人の拉致を認め謝罪したが、5人の方の帰国が実現しただけで、家族はまだ離ればなれという事態が解決せず、死亡と発表された方たちの詳しい事情も明らかにされていない。
そんな折、インターネットである呼びかけを読んだ。
まだたくさんの被害者や行方不明者がいて解決もしていない。このまま闇の中に葬り去ってはならないという趣旨で、ニューヨーク・タイムズに意見広告を出したい。拉致問題を世界に知ってもらいたい、というものだった。
費用は日本円で約600万円という。夫婦で相談してささやかなカンパをしたが、そんなに集まるか疑問だった。
1月12日に、ネットで次のような結果報告を見て驚いた。
「募金総額1396万5千円、参加者2473人。昨年12月23日に英文で意見広告が掲載されました。運動へのご協力ありがとうございました」。約700万円を広告費に充て、残りは拉致被害者家族連絡会へ寄付された。
日本の市民社会の力はたいしたものだと思った。立案、実行された方々のご苦労は並大抵ではなかったはずだ。インターネットを庶民の武器に、わずかの期間でこれだけのことが出来たことに、自信を持ちたい。
2003年1月19日(朝日新聞 声欄掲載)
加藤哲郎さんに、この「声欄」記事を送ったメールの返信
ええ、ちょうど宮地さんの「声」投書を、記録用にスキャナーしてアップされた岐阜県の方がいて、今晩「イマジン」トップに入れるところでした。「投書」も一つの勇気です。ご支援ありがとうございました。
http://www.sekaiheiwa.net/bbs/minibbs.cgi 『「意見広告」の掲示板』
http://www.domm.net/june/coe/coe1.html 『岐阜県のJUNEさんの転記メール』
その日の二次会は、若い人で賑わうイタリア料理店だった。二次会のいいところは、裸の人間性に触れ合えることである。ここ10年あまり参加している学習会は、S氏が煩雑な連絡事務やテーマ、講師の依頼など誠実にこなしてくれるので、10年も続いている。その中心メンバーの一人、T教授退官記念講演の日だった。
メンバーはおよそ20人、私は夫婦で参加している常連、やや色落ちした紅一点である。その日は、他に女性の大学教授と小学校教師が参加して、女性3人になり賑やかだった。
乾杯は、いつもの赤いオレンジジュースと、赤ワインである。真っ赤なのにオレンジとは、謎解きのようであるがこれがとても美味しい。「赤いオレンジの実なんだ」とイタリー留学体験者が言う。オニオンスープがしっとり喉を潤したころ、長さ1メートルほどのウインナ2本と、直径50センチ位のピザが2枚並んだ。
それぞれ食を楽しみながら話しこんでいると、突然「講演で、これからの10年は、憲法問題が最重要といわれたが、護憲も大切だが、もっと利権問題と闘うべきだと思う」。そう言ったのはK教授だった。
型どおりの祝いの宴になりそうな、ほんわかムードが破れた勢いがあった。60年代の三池闘争を闘った後、イギリスで勉強して教授になった人だけに実践的な発言が多い。「護憲とさえ言っていれば革新というような気配もあるが・・・」。
私もその点については、『9条を守るのはいいが、現実の自衛隊が、強力な軍隊になっている。現実との乖離(かいり)をどうするか』と、真面目に考えている研究者の文を読んでなるほどと思うことも多い。そして、9条に歯止め条項を入れて改憲する、ということを主張する人々もいることを知った。それらを、単純に『改憲論者』と決め付けるだけではなく、庶民も真剣に考えなければならないと思う。
政治不信で無関心になっているうちに、こんな大事なことが一部の人たちだけで、いいように決められてしまって、いつの間にか戦争に巻き込まれたらたまらない。いつも泣くのは、普通の市民や女、子どもなのだ。
そのことと、利権問題等の政治腐敗の根っこのところとどう闘うかは、車の両輪ではないかと自分なりに考えていた。
「利権問題も大事だが、やつぱり重点は憲法問題だと思う」。そうくり返す教授のことばで、話し合いは時間切れになった。
汚職、横領、殺人事件が次々起きて、人心が荒廃している。社会正義なく、展望もない日本に未来はあるのだろうか?国内総生産(GDP)の2倍の負債で破たん状態、でも政権交代も崩壊もない日本である。
そのときK教授が「Tさんも定年で終わりだなあと思ったが、弟子たちがいたわ」と言った。
不肖の弟子というU教授は、イタリー留学中に、左翼民主党中心の政権交代を直接体験した、「政権交代のある民主主義」を主張して、野党政策のバックボーンである。市民運動でNPO(民間非営利組織)の非課税を認めさせる闘いなど、気軽に社会に飛び出している、40代の若きホープというところだ。
女性のI教授も弟子のひとり、子育てしながら『議会に女性を』と市民運動の中心になっているのは立派である。
東京の弟子K教授は、インターネットを縦横に使いこなして、政治学の分野で八面六臂(はちめんろっぴ)の活躍をしている。意外にも、わが家と同じく12年間保育所通いで子育てをされた。苦労された分目線が庶民にあり、それだけに親近感がある。最近の労作『人民』についての論文を、興味深く読んだ。当然ながら、T教授の弟子たちが、みな市民派なのがいい。
小学校女教師Hさんは、「『君が代』『国旗』問題で教育現場は息苦しい」。「反戦市民集会の集まりが悪い」。と悩みを訴えた。
近頃は諦めムードで、私自身「庶民が主権者」という気概を、失ってしまっているのではないかと自省した。
宴は活気に満ちて真剣な意見交換の場になった。時代の節目で、真面目に考えようとしている人々が寄ったこの宴が、私にはことのほかうれしかった。
(1)、インターネット
「年代物のパソコン、買い替えようよ」と言ったのは私だった。
夫は、20年間小中学生の学習塾を開いてきたが、少子時代で大手学習塾が次々とこの地域に進出して来て、個人の学習塾はどこも店じまいの時期を考え始めていた。見栄坊の私の、「惨めはいや」というだけの思いつき発言だったが、そのひとことが思わぬ生き甲斐を創り出した。
2台のパソコンを買い換えたのは3年前、60歳から夫婦で悪戦苦闘しながら、インターネットに二人それぞれの部屋をもつという、二世帯風のホームページを開いた。それは、長年胸に秘めたものを、私はエッセイ、夫は政治論文で表現したい、そういう希望が二人にあったからできたと思う。
2年半の月日が経ち、ネット上のささやかなわが家に、二世帯で約30000人もの訪問客があった。
この春、40万字という長い夫の原稿の校正を手伝った。それは、夫のホームページに掲載済みの『21日間の監禁査問体験』や、『袴田政治的殺人事件』などである。校正を手伝いながら、久しぶりに、暗い陰鬱なあの頃に浸った。
あらためて夫の文を読むと、知らないことがたくさんあった。
(2)、試練
30余年前のあの頃、「専従は泊り込みが当たり前」という生活だったので、喜びの長男出産後、産後休暇42日が過ぎて職場復帰したが、夫の協力は頼りにできず、仕事と子育てと活動に必死の日々だった。家に帰れない夫の下着や洗濯物を運んだりもした。職場で「お風呂の湯も夫が帰らないので、きれいなまま流すの」などと話すと、驚いて「男はそんなものではない、浮気じゃないの?」と真剣に忠告してくれた。
夫が、長期の屈辱的査問に遭っているとは夢にも思わず、私も情報産業の職場の指導部として、宗教のように党を信じて、連日夜遅くまで活動に献身した。いま思い返せば、夫も監視され、監禁査問という拷問に、21日間も必死に耐えていた時期だった。
1970年代の半ば、夫は共産党の専従だったが、党中央や県の一面的な赤旗拡大の方針や、指導の実態に疑問をもった。県と党中央の指導を、正規の会議の場で、徹底的に批判したら、たちまちマークされ始めた。
夫婦はお互いに、世の中の革新を夢みて青春を燃やした「模範党員」だった。新婚時代は、家賃3600円の安アパートに住み、帰宅は近くの銭湯が閉まる夜12時ぎりぎりに滑り込む毎日だったが、明るい理想で充実感いっぱいだった。
それから10年が走り去り、相変わらず仕事と子育て、それに活動の忙しい月日だった。夫婦でも党の組織問題は、自分の所属する組織以外には話してはならないという原則を、忠実に守っていた。そのため夫が専従をくびになったことを知ったのは、そのことを不服として、共産党相手にひとり裁判闘争をする段階になってからで、青天の霹靂とはこういうことを言うのだろう。
それ以後毎日、胃が痛くなるような夫婦の話し合いをした。
私は党中央へ矢継ぎ早に質問状を6通も提出したが、すべて無回答で無視された。地区委員長から、憎むべき仇敵に対するような電話を、何回も受け、何の罪も犯していない「模範党員」だった私は、組織的に徹底して攻撃された。
つまるところ、「党員ならなぜ裁判をやめさせない」という委員長と、「何回も出した質問に対する返事をどうして貰えない」という私で、平行線が続いた。
除名され、「反党分子」とされた夫と離婚して、いままでのように、献身的活動をしていたら革命の英雄、と高く評価されただろう。かつて全国活動者会議で、私たちの活動報告が『全党の鏡』ともてはやされたように、党内の士気高揚に貢献できたことだろう。
党員となって、このときほど真剣に悩み、人としてのまともな道を手探りした時期はなかったように思う。そして除籍になった。
夫は、退職金もなく、風呂敷包みひとつに身の廻りの物を包んで、事務所からゴキブリのように放り出された。請われてなった専従活動家が「政治的殺人事件」でこの世から抹殺された。専従生活約15年、40歳だった。
2年間、裁判という方法で弁護士にも頼まず、ひとり抵抗したが、専従の貧乏生活で蓄えもなく、女の稼ぎだけでは親子4人生活ができなかった。私の知人友人だけでなく、夫も3人の旧友に借金を申し込んで、2人から断られた。『金の貸し借りは友情を壊す』という考えだったと思うが、夫はその現実の厳しさに直面して、借金が80万円になったところで裁判を打ち切った。そして、学習塾を開いて生計を建てなおすことにした。
党内では、突然、模範党員の夫婦が反党分子に転落したと、地域、職場で徹底的な指導がなされ、関係組織での報告集会が催された。多くの苦楽を共にした党員たちは「何があったのか」と聞くこともなく、瞬時に絶縁状態になった。
とくに印象的だったのは、かつて指導部として、日々苦労を共にした民主文学同盟の作家から、ひとことの質問もなかったことである。
また血の通った姉妹でも、党に関係する者は、差し障りないことは話し合うが、一度も、何の疑問も聞いてこなかった。ひたすら党中央は常に正しく、反党分子は悪と信じているのだろう。
職場だけでなく、地域の子育てを共にした仲間も、OBで子どもの保育園卒園を機に『美女の会』と称して定例の、母親息抜き食事会を約束していた。これを地域の党組織の責任者が聞き『反党分子の奥さんを励ます会』だと決め付け、解散させられた。ここにこの組織の真面目さと、怖さを感じた。
それからの10年間、夫婦とも政治的沈黙時代を過ごしたのは、話せば自らの理想を、自分で壊すことになると悩んだからである。しかし、事件からおよそ10年後、東欧に民主革命が始まった。
1989年、私は永年勤続の職場を辞め、女が「外さま」で、男が「奥さま」という先進スタイルに終止符を打った。それまで夫は、残業で夕食どきに帰れない私のために、昼間の小学生の授業が終わる午後6時、二人の子どもに手伝わせて同居した義父も含めて、5人の食事を作り、食べさせて夜7時からの中学生の授業に出るという超繁忙の日々だった。
手伝った子どもたちは、「いつも簡単なハムステーキか、ビニール袋の中で鶏肉と粉をまぶしたすぐできる唐揚げだった」と言うが、子どもたちの順調な成長もあり、暗闇に閉じ込められたような監禁査問、裁判の時期を耐えぬいた後の、さわやかな明るいわが家だった。
私は退職後、家事能力も著しく向上した塾長の夫と、塾で、文字通り共働きした。そして苦しんだあの頃の思いをつたない文に綴り始めた。
時代にも味方され、学習塾が順調で塾生が増え続けたので、授業準備やバイト先生の指導などに追われながら、夫も社会主義崩壊原因の研究を始めた。
1991年のソ連邦崩壊という歴史の激動から6年、夫は、インターネットという近代兵器で、「あの世」から甦った。20年以上も前に、誰が今のインターネット社会のことを考えただろう。どんな組織や個人とも対等な双方向通信、地位もお金もない庶民にとって、民主主義の力強い武器が生まれた。夫は黙して語らなかった政治体験を、ホームページで語り始めた。
夫の文を校正し、20年以上も昔の悪夢のような「あの頃」を強烈に思い出した。私もどうしても書かずにいられない気持ちにさせたのは、「あのような意見を言うのは、頭がおかしいからではないか」と疑われて、脳波の検査をされた個所である。
(3)、脳波検査
文芸春秋2000年3月号に『密告・査問日本共産党の暗黒裁判』という手記が載った。それを読んである虚しさに襲われた。
25年経っても、何も変わっていない。夫はそのとき、正規の会議で党中央批判、愛知県常任委員会批判をしたことへの報復として専従を解任された。また、長大な党中央批判、宮本委員長批判の「意見書」を提出した。党は「そんな内容の意見書を出すのは頭がおかしい」として民主診療所に指示し、夫の脳波検査をさせた。
夫と同じように脳を疑われた古い活動家とは面識もないが、『代々木病院の精神科に担ぎ込んで検査された』とあるのを読んで、どんな理由があろうと、人の脳を勝手に検査するという、人格を抹殺する行為は許せない。どんな組織にもそのようなことをする権利はないと、あらためて思う。
日本共産党は庶民の味方、権力と徹底的に闘う党ではないのか。テレビなどで見るその様は小気味いいほどだ。共産党は変わったという。笑顔の陰で旧態依然の人権無視が、自由と民主主義を目指す党に許されるのか? 崩壊した東欧の社会主義国やソ連邦で、異見をもった者は、次々精神病にして精神病院に閉じ込めた歴史と重ねて考えると恐ろしい。
これらは秘密に行われるが、断じて覆い隠してはいけないと思う。知人に聞いた話では、その後赤旗の報道で『本人が査問を嫌がって、体調が悪いと検査を希望した』と載っていたとのこと。そうすると真面目な党員たちは、そのとおり信じて、やはり党は正しくて、「文春」は反共雑誌と思うだろう。疑いもなく。かつて自分がそうだったから、手にとるように分かる。
先日、良心的と信頼する、別の知人に「夫が脳まで疑われて脳波の検査をされたことは許せない」と話したとき、「党に対してどこまでを望むのか、考えようだね」との返事に驚いた。人間は勝手な生き物だから、自分が体験しなければ何事も真剣に考えられないのかも知れない。しかしこの程度の人権意識は、人として最低限の想像力で考えられる人間でありたいと思った。
もっとも、夫は変っているといえばいえるかも知れない。折角就職した職場で期待されながら、党から要請されると、いとも簡単に退職して専従活動家になったことは、よくいえば理想主義、別の見方をすれば、滅法素直なお人好し、ともいえるから。
出世意欲とはまるで無縁、兄弟が経済界や研究分野でそれぞれの働きをしているが、若い頃から地位、名誉、お金がないオレが一番と言っていた。
大した力もない妻を、下から支えたり教えたり、人さまにもそんな態度で接することが多い。
中学生の頃、花の苗を売りにくるといつも僅かなお小遣いで買って、夢中で育てるので、「変わった子ね」と義母が言っていたとか。花づくりにかけては異常さを感じるほど無我夢中になる。やはり変わっていたのだ。
以前、私の友人が、夫の解任や裁判のことを書いた私の文を読んで、「そんな目に遭ってよく自殺しなかった」と言ったことがある。
若い頃からのクリスチャンで感性鋭い彼女が、ある時家に遊びにきた。「初めてご主人にお目にかかって驚いた。何十年も昔、京都南禅寺でお遭いした柴山管長にそっくり。三大宗教家の一人といわれた人です。あのときのお顔を思い出すと心が和みます」と恐れ多い手紙をくれた。勿論それは誉め過ぎであるが、以来、何かあると「なんてったって南禅寺の管長さんだから」と持ち上げている。
(4)、排除された人たち
党を離れて20年、私たち夫婦は、東欧の民主革命や74年間で崩壊したソ連邦など、刺激的な出来事で「政治の世界」に復帰した。その中で、「党を辞めた人や、排除された人は100万人いる」とある研究者が言っていたが、排除された多くの党員、学者、文化人の方々を知った。その誠実な人々の、それぞれ事情は異なるものの、共通する2つのことを感じた。
@、実際に除名とか除籍という屈辱を味わった人、なかでも除名になった人は、当然ながら、その後の行動や研究に執念を感じる。党を批判して異見を言っても、自分の持ち場や、党籍があり続ける人の批判は常識的である。
A、いろいろな行き違いで党から離れたが、党を理想とした過去から、批判活動には批判的で、沈黙し勝ちであり、それはかつての自分たちをみるようであり、とくに年配の方に感じた。
ソ連邦崩壊の年に岩波書店から、アンナ・ラーリナ著『夫ブハーリンの思い出』が出版され、それからもう10年が過ぎた。1936年、37年は、私たちが生まれた年、絶望的なスターリンの粛清が荒れ狂った時期でもあった。著者は夫を銃殺され、自分も収容所生活で命の危険に晒されながら、奇跡的に救われた状態を驚異的な暗記力で思い出し、綴った。その記録を、胸ふさがる思いで読んだ。
その少し前、東欧の民主化の空気がこの日本にも流れこむ頃、『日本共産党への手紙』に率直な党への意見と批判を載せたK教授は除籍になった。その後の粛清などの研究での新しい発見は、目を見張るばかりである。
また94年に突然、既刊の『左翼知識人の理論責任』に党から「堕落、変質」などと攻撃されて、除籍になったT教授など悪罵への反論は一切拒否されている。
これが「真理を探究し、無謬主義をとらない」と公言する共産党の実態である。
党を除名になつたN教授から、最近『共産主義黒書』なるものの、ドイツ語版からの紹介を載せた論文が夫に送られてきた。社会主義で犠牲になった数千万人のデータである。これはすでに夫のホームページに載っているが、このような大量の検挙、投獄、銃殺の犠牲者を出す『理想』が果たして人類の夢なのだろうか?
N教授の手紙に『私たちの体験や歴史を真正面から問い直し、歴史の偽造を正す仕事は、次世紀への人間的責務』とあったが、熱い思いで共感した。
ソ連邦の粛清、恐怖時代からおよそ60年、私たち夫婦の苦しい冬の時代から20年、そしてK教授たちの除籍から10年、人それぞれの苦闘を知らぬ気に月日は流れ去る。
最近『北朝鮮に消えた友と私の物語』の著者萩原遼氏が、近著『朝鮮と私 旅のノート』で、突然赤旗記者を辞めた経緯を書いている。とことん朝鮮問題にこだわって、真摯に研究表現活動をする筆者に、事実上の赤旗記者のくびを宣言する党に、私は多くの疑問をもつ。
(5)、こどもたち
「おじさん、二階で何やってるの?」「インターネットだよ」「フーン、おばさんは?」「インターネット」「ヘェー」近所の小学生たちが、毎日のように遊びに来る。
塾をやめて、目下は空きになっている教室に入ったり、庭で遊んでいく。ときには、犬の散歩についてきたり、「おばさん何かおやつない?」と言うときもある。
旅行に行ったからと、お土産くれたり、「この手紙を読んだおじさんとおばさんはとても幸せになります」などと手紙を添えて、バレンタインデーにチョコをくれたりもする。孫のような子達と話していると、気分転換になり楽しい。
塾の最後の卒業生が、『はばたこう われら』と書いた色紙をくれ、みんな「インターネットがんばってください」と書いて、中年を大いに励ましてくれる。
長男は京都に住む。いま33歳で一児の父になった。父母が共産党の活動家だったため、赤ん坊の子どもをあっちこっちと預けたり、小学生低学年の頃まで何かと苦労をかけた。共産党の専従で子どもがぐれたという人は結構いるから、長男は、あんな生活で、よくぐれもせず育ってくれたと思う。
夫の長文を読んで電話をくれた。「読んだよ。小学生の頃、お母さんが電話で泣きしゃべりして喧嘩してた理由がよく分かった」と夫に言っていた。そして文が長いので、CG(コンピューター・グラフィックス)で何枚かのイラスト写真を描いてホームページにプレゼントしてくれた。あの頃4歳だった長女も、もう27歳、共働きしながら、この秋には母になれそうだ。生きていてよかったな。
私は子どもたちに手紙を書いた。「苦労かけたけど、あなた達の父は、インターネットで完全に復活しましたよ」と。
(注)、夫への共産党による「脳波検査」事実については、『日本共産党との裁判第4部』〔報復C〕にくわしく書いてあります。
1973年、転勤になった私は、退職までの14年間を名古屋駅から中区三の丸まで自転車で通った。その途中の幼稚園に、素晴らしい山茶花の垣根があった。毎朝鮮やかな紅と白の山茶花 が氷点下の寒さのなかで可憐に咲いていた。
1978年ごろからの数年がわが家の「冬の時代」だった。理想に燃えて共産党の専従になっていた夫は意見の違いで20年いた党を追われた。子供は10歳と4歳だった。経済的貧困はイワシばかりでもしのげたが、理想の崩壊は堪え難かった。
生きねばならない私は、毎朝自転車を走らせながら「自由な日本でよかった」と、連日の党からの電話や張り込みの圧迫から逃れて、心底思った。
そんな中で、通勤途上に見つけた山茶花は胸を打つ美しさだった。久しく笑いを忘れた冬の時代の、心を和ます冬の花だった。
私は夫がくびになった経過が納得出来なくて、党中央のM委員長に6回にわたって質問状を出したが握り潰され、絶望して離党した。夫は小中学生の学習塾を始めた。教える事が性にあっていて、大勢の生徒との生活が喜びになっていった。
1985年、わが家は道路拡幅計画で立ち退き移転になった。最大限のロ−ンを組んで買った160坪の土地に、迷わず山茶花を植えた。前面24メートル、両側20メートルすべて山茶花の垣根にした。
よその垣根を楽しませて貰っていたときは分からなかったが、手入れはなかなか大変だった。年2回の消毒、絶えずつくカイガラ虫をとる仕事、一本一本の根元に穴を掘り、肥料を埋める仕事等々、花大好き人間の夫がせっせと励んでいる。
今年も紅白の山茶花が、咲き初めのころは可憐に、満開になるとわんさと賑やかに咲いている。それは11月から2月まで続く。「素晴らしいですね」「きれいですね。毎日楽しませて貰っています」。そう声をかけて下さる方があると「ああよかった」とかつての自分を思い出すのである。
1980年、自宅の裏の借地に間口3間奥行き4間のささやかな教室を、借金で建てた。
それまでの2年間、暗く絶望的な日日を送っていただけに、そのときの槌音が感動的に耳に甦る。1960年の安保闘争時代に青春を過ごした私達夫婦は、理想実現の為により良い人生を過ごそうと共産党員になった。
大企業に働いていた私は、 請われて党の専従になった夫の、給料の遅配欠配をものともせず、仕事、子育て、活動と充実した日日を送っていた。
ある日、夫から「党の異見処理に納得出来ないので裁判で闘う。君に迷惑がかからないよう離婚する。2人の子供はひきとる」と突然宣告された。党内の秘密は夫婦であっても守らねばならなかった。まさに青天の霹靂(へきれき)だった。
夫は既に党内での意見の違いで、専従をくびになっており、それを不服として裁判にもち出したことで除名になっていた。私達は、裁判や離婚問題でくり返し話し合った。連日党の張り込み、尾行などにあっており話合いになると、胃がキリキリ痛んだ。
いままでも私の給料を柱に生活して来たのに、「2人の子供をひきとる」離婚なんて不可能であるし、ひとりの人間として冷静に考えれば、次元の違う問題だと思った。ただ党員としての私の立場を思いやっての提案であることは、いままでの温かい思いやりに溢れた生活態度から理解できた。
私は早速信頼していた党中央のM委員長宛に、ことの次第とそれらへの疑問を質問状として出した。合計6回にわたる質問状に返事はなく、党のいう民主集中は異見の握り潰しである事を知って私は離党した。
1990年、あれから10年の月日が流れた。
昨年末から新年にかけての東欧諸国の激動に胸が躍った。民主主義の大切さ、同時に権力をもつ人間がどう変わるかを目のあたりに見て、10年の胸のつかえが下りた感じがした。
あと10年、世界はどう変わるだろうか。夫婦で築いたわが塾の教室は、移転と共に大きく二階建になった。親の苦しい闘いを見ながら育った子供2人は、国立大学、高校への進学を果たし、青春を謳歌している。
1970年代の終わりに、私は予想もしない出来事で、多くの友人を一挙に失った。
請われて共産党の専従になって20年近い夫が、党内の意見の違いで専従をくびになり、ひとりで裁判闘争をして除名された。
1960年の安保闘争のころ、私達夫婦は一度しかない人生を、理想実現の為に努力しようと共産党員になった。同志と呼んでいた友人達は、長男出産のときは連日の活動で帰宅しない夫の代わりに、自宅に泊まりこんでくれた。また子育てのころは、共同で夜間保育をして生活を支えあい、共通の目標に向かって苦楽を共にした。
友人の党員達は誠実で善良な人々だったが、夫が除名されると党中央の言い分を鵜呑みにして、私に事情を尋ねることもなく、瞬時に背をむけて離れて行った。
同じ志をもつ多くの友人とは一挙に断絶し、みんな「縁なき衆生」となり、人間と人間の関係はいかにもろく、はかないものかを思い知らされた。
そんな頃、事情を知った田舎の中学の友人達が、女の収入だけでは厳しかろうと一人五千円ずつのカンパをしてくれた。
お嬢さん育ちでおっとりしたKの強い正義感を知った。夫と共に劇場照明の仕事をこなし「男と対等に働く事ばかり考えて来た」というHが「40代になったらこの程度の経済力はあるものよ」と言ってくれた。固辞する私にカンパは毎月届いた。
洋裁歴30年のベテランのMや、筆の立つSなど「女の幸せは結婚にあり」が持論で、 私とは逆な、むしろ保守的な友人達だった。
「貴女の家からの帰り、貴女の事を話しながらSやMが涙を流すの。それを見た私も涙がこぼれました」。恩師からの手紙を読んで私はまだ「涙を流してくれる友がいる」と心が潤んだ。
1989年、東欧諸国民主化のうねり、その映像で権力をもつ人間が腐敗して行く姿を見て、10数年間の胸のつかえがとれた。
春江一也著『プラハの春』の中で、「尾行」という章が目にとまった。
「3日前、大使館からアパートに戻る途中、ソ連製の黒い乗用車につけられた。そして白昼、市内を歩いていて尾行された。
カレル橋の上で気配に気づいた。何気なく振り返ると10メートルほど後を中年の男が歩いてくる。聖フランシスコ・ザビエルの像まで来た所で立ち止まった。見上げるふりをして窺うと、その男はいつの間にか反対側の歩道でプラハ城を眺めていた」。
1968年ソ連軍侵入に遭遇した著者が、現役外務官僚として体験したことをドキュメントタッチで書いている。
著者は「最終的には50万人の良心的な党員が追放されたのだが、歴史としての『プラハの春』にかかわり、挫折し、苦悩し、絶望しながらも、生き、希望し、苦闘した人々の生きざまは一つ一つがドラマであった」と「プラハの春」の死を熱い心で描いている。
それを読んで35年前、執拗に尾行されたことが生々しく思い返された。
その日、初夏の明るい陽が夜の闇に消されるには少し間がある時刻だった。久しぶりに早く職場から帰ることができたので、くつろいだ気分で市バスから降り、アパートまでのゆるい坂道を歩き始めた。
5分も過ぎたころ「Yさんですね」と後ろから声をかけられた。反射的に「はい」と答えて振り返ると、年のころ30代半ばと見える気の弱そうな男性だった。「今度共産党の8回大会に出られますね」。「あなたどなた? いきなり失礼でしょ」と言いつつ胸がドキドキした。無防備に自分の名前に返事をしてしまった愚かさが、悔やまれた。
「公安調査庁の者ですが・・大組織の中での活動は・・・」。その後、何を言われても無言で通した。男は私が急ぎ足になると急ぎ、停まると同じように足を停める。時間にすれば数分間だったろう。私はくるりと踵を返すと、いま来た坂道を駆け降りた。電車通りまで一気に走って、ちょうど来た市バスに乗った。
と、男も動き出したバスに飛び乗った。
普通の乗客がかなりいたので、気持ちは先程より落ち着いたが、民主国家でこんな事が許されるのかと、怒りがふつふつ沸いて来た。
およそ10分も乗っていると名古屋市の繁華街になった。デパート前の停留所でさっと降りた。降りる客が多く男もその中にいた。デパートの一階を歩いて男をまくつもりだった。しかし男は執拗に私をつける。思いついてこの近くにある自分の職場のビルへ向かった。それでも男は諦めずまつわりついて来た。
私は抗議の応援を頼もうと、職場の玄関へ駆け込み守衛室で共産党地区委員会へ電話した。ほどなく百戦錬磨の地区委員Oさんが、おっとり刀で駆けつけてくれたが、男の姿はいつの間にか消え、やっと平常心に戻った。1961年、25歳の初夏だった。
1960年の安保闘争で国の動脈と言われた国鉄と共に、通信産業は日本の中枢神経、革命の拠点として、読書会、安保研究会、三池守る会など、学習や署名活動などが活発に積み重ねられ、党の組織も飛躍的に伸びた。
そして、私は拠点職場の総細胞長として綱領決定の共産党第8回大会の代議員に選ばれた。
その頃、安部公房、大西巨人ら党員文学者21名が除名になり、野間宏の権利停止などあったが、日々忙しく深く考えなかった。
皮肉にも、それから17年後の1977年、再び尾行で悩まされた。今度は夫が。日本共産党の執拗な張り込みと尾行によって。
批判的な見解はもたず、ただひたすら中央の方針を信じて活動している間はいいが、少しでも異なる意見をもって自主的に考えると、たちまちレッテルが張られる。専従活動家となると悲劇である。
20年近い日々を誠実に活動してきて、そのような状態になった夫は、専従をくびになった。納得できず、お金もなく、たった独りで法律を研究し、専従解雇不当を裁判で訴えて除名になった。たちまち「反党分子」のレッテルを張られ、党内の各機関で反党分子キャンペーンが行われた。
誰とも連絡をとらず、毎日家で法律と四つに組んだ。当時小学校4年生だった長男が、学校の授業で親の職業を聞かれた。
「お父さんは毎日家で勉強、お母さんは毎朝早く勤めに行きます」と言ったので、先生に「変わった家だ」と言われたという。
そんな頃、家から10メートルほどの所にある中部電力の社宅わきに、不審な乗用車が停まり、毎日わが家を監視していることに気づいた。監視要員が見張り続けていたのである。2人組で来て、1人は一定個所で玄関の出入りを見張り、他の1人は家の周辺をぐるぐる廻るというやり方である。夫はその監視があまりに執拗なので、家から出て行って「あんたは毎日誰の指示で見張るのだ」と抗議した。
その若者は返答に困った様子だったが、停めてあった車で逃げるように走り去った。車のナンバーを書き留めて陸運局へ行って調べたら、トヨタ自動車支部所属の県直属党員が、党の要請で監視要員をしていた事が分かった。
県直属とは、最重要拠点のトヨタ自動車支部を地区の所属にせず、このような秘密活動に動員するのである。夫はわざわざ豊田市の工場に行って、その自動車ナンバーの人に面会を求めた。しかしその人が夜勤明けで休みだったので、会社で調べた電話番号で自宅に抗議すると「あ」とか「え」とか困った様子がうかがえたという。
これは『プラハの春』に出てくる『ソ連軍の兵士が深く理由も分からないまま、指令どおりチェコへ進入し、真剣なチェコ市民の抗議に戸惑う状況』にあまりにも似ている。
こんな状態でかれこれ1週間が過ぎたころ、その日も、玄関が見える位置に1人と、家の裏側から少し離れた所に1人が張りこんでいた。夫は学校から帰った長男に「変な人がいるから」と玄関から靴を持って来させ、逃げられないように、裏側の窓から飛び下りて監視要員に近づき、「卑怯な監視を続けるなら、法的措置に訴えると県委員長に伝えよ」と抗議した。その時も、その車のナンバーを陸運局へ調べに行った。今度は日本共産党の県委員会所有の車であることが分かった。
当時職場支部に在籍した私が、支部責任者にこの事を抗議したら「県委員会としては全く関与していません」という返事が返ってきて、あらためて怒りが沸いた。このような張り込みは、毎日、延べ1カ月間ほど続いた。
また、夫が時間を決めて散歩に出ると、執拗に尾行を繰り返し、これも精神的破綻を待つかのように組織的に尾行要員を投入した。
裁判所で共産党側は「共産党中央に対して、党員が裁判を起こすのは前代未聞のこと。国際共産主義運動史上一度もない。すぐ却下を」と大声を上げた。その夫の毎日の行動とともに、支援者や支援弁護士の有無をさぐり出すための張り込みと尾行だった。
権力による人権侵害に徹底的に抗議する党が、党員を使い、「反党分子」には平気でこのような人権侵害をしたのである。
当時、毎日帰宅後その状況を聞き、理想とはまるで違う実体に、日本が共産党独裁の社会でなくて本当に良かったと心底思った。
生来のんびり型の夫は、子供たちには平静を装っていたが、裁判に出す前、連日査問を受けていた時期は顔色がどす黒く、苦渋が滲んでいた。
1989年からの社会主義の崩壊は、起きるべくして起きたと思えてならない。
最近夫は「あんたさん、いいお顔していなさるね」そんな言葉をかけられる。1度や2度ではない。年相応に、広い額は益々広くなり、髪も白いものが多くなったが、小中学生相手に、長年楽しんで学習塾をやってきたせいか、或いは、近頃夫婦で参加している学習会のメンバーから、若いエネルギーを浴びているせいなのかも知れない。
何しろ彼ら団塊の世代は「安保と言えば70年安保、三池争議は関が原合戦くらい歴史上の昔の事件」そういう感触という世代だから。
でもやはり夫の表情は、納得できないことはできないと行動した精神的安らぎからではないかと、共に闘った人生の戦友は嬉しくお褒めのことばを味わうのである。
「異なる人が認め合い、違う人と付き合わないということは本当に惜しいことだ」。NHKテレビETV特集『21世紀への遺言』での丸山真男氏のことばに深い共感を覚えた。
1997年、苦しかった裁判闘争から20年の歳月が走り去った。「真面目に働く人みんなが、人間らしく暮らせる世の中に」は現在も変わらない私の理想社会である。
かつて求めた理想社会は、70年で崩壊した。若い頃、自分が活動家として多くの人に迷惑をかけた事もあったと、忸怩(じくじ)たる思いを抱くときもある。
不完全な人間同士がつくる社会では、民主主義的感性を持ち続けること、これが最低の、人としてのつとめではないかと更めて思う。
散歩に出た田舎道、影絵のように家々を浮かび上がらせて、師走の太陽が真っ赤に燃えながら沈んで行った。〔1997・12・13〕
(注)、「尾行・張込み作戦」の背景、システムについては、健一HP『日本共産党との裁判第6部』で、分析してあります。
かつて、私が一番見たいものは、社会主義国日本、共産主義国ソ連だった。
若さもあって「搾取のない社会」「能力に応じて働き、必要に応じて受け取る」という、人民が主人公のユートピアの未来を信じていたのだ。
1960年の東京は、西から東から馳けつけた市民、学生、知識人らがフランスデモで電車を止め、「日米安保条約反対」「岸内閣打倒」を叫び国会へ請願した。夜行列車で上京、次々デモに参加する人で街は埋まった。見知らぬ人と握り合った手と手。何もいわなくても、温もりが伝わってきた。私が初めて体験したフランスデモだった。
あの時は多くの人達が運動に参加し、革新的社会の実現を願った。とりわけ統一戦線の中心だった社会党、共産党への関心を深め、理論だけでなく実践こそ必要と共産党へ入党した。名古屋市内を2人1組で手分けして安保反対の署名に歩いたとき、「ソ連はシベリア抑留で酷いことをしている」と、署名を拒否した男性がいた。私たちはそんな事実はほとんど知らず、党のどの文書にもそれは載っていなかった。
1964年4月、公労協のストが切実な経済要求で立ち上がったとき、共産党はなぜか突然ス ト中止を呼びかけ、公労協の職場は大混乱しストは中止になった。あの「4・17スト」中止以来、職場の社会党幹部の共産党への怒りで、統一や一致はすべて消えた。党がすることは、ことごとく正しいと信じ誠実に活動する日々だったが、考えてみればそれは半ば宗教のようなものだった。その10年ほど後、政治の季節に共に青春を燃やし、請われて共産党の専従になっていた夫が、党の方針に疑問をもち、異見をもったため専従を首になり、それを不服として裁判闘争をした。夫の党からの除名と、それらへの疑問から私も20年近くいた党を離れた。
『政治など専攻せざりしを幸と思うと言い合いし後共に寝つかれず−近藤芳美』の心境で10年が過ぎた。
安保闘争から30年の月日が流れた。東欧革命以来、より一層社会主義に関心を持ち、学んだ。 NHKスペシャル「社会主義の20世紀」が、農業集団化で600万人が死に、強制収容所で100万人、「カチンの森」でポーランド将校1500人殺害を報じていた。映像の迫力は凄かった。党を離れたいま目からうろこが落ちたように真実がみえてきた。
かつて青春の情熱を燃やした日々に悔いはない。が、私がいま一番見たいものは、皮肉にも「ソ連で共産党が政権から転落する日」である。
〔1991・8〕
−−−−数カ月後ソ連邦は崩壊した−−−
今年は2010年。前世紀末まで、一家に2台も3台も車をもった時代があった。しかし、二酸化炭素が増えつづけ、オゾン層の破壊が進み、環境が極限まで傷ついた頃、やっとその深刻さに車社会が見直された。
車には「空気環境税」が市民合意のもとにかけられ、一方でドイツが取り組んだ路面電車化が、日本でも各地で急速に進んだ。スープの冷めない距離に住む娘のYが、一年間の育児休職を終えて出勤し始めた。体にふくらみが増し母となった喜びに満ちている。
前世紀末、子供の数がどんどん減り続けたが、今世紀になって保育所や育児休暇など、女性が働きながら子育てするシステムが充実した。徐々に子供の数も増え、女性も働いて、税金や社会保険料を納める人が多数派になった。
何より喜ばしいのは、子供たちが元気になった。いじめ自殺が相次いだ前世紀末が嘘のようだ。 あの暗い時代を経て、教員資格は社会生活体験者のみに限られる大改革があった。ハイレベルの学校を目指す競争も、かつてのように低学年からの異常さはなくなり、小中学生はスポーツを楽しみながら、ボランティア活動も義務付けられた。高校生からは、福祉や職人の専門コース、学術や芸術のコースなど、選択の幅が広く、多面的になってきた。
親しくしていただいた先生が95歳で他界されたが、最後まで1人暮らしができたのは、昼夜とも、きめ細かいホームヘルパーの派遣だった。軍事費の僅かの削減で、社会的弱者への援助が飛躍的に伸びた。なかでも9万人程度だったヘルパーが、高給保証によって希望者が殺到したため、先日の新聞では、30万人が確保されたという。こうなったのも、いろんな市民運動の積み重ねで、「政権交代のある民主主義」が確立したからだ。世紀が変わって10年、老い先短いわが身も、このユートピアがまずは嬉しい。
ギリシャ語ではユーは「ない」、トピアは「場所」のことと聞く。前世紀初め「どこにもない」理想郷「社会主義」を世界の良心が求めた。女優岡田嘉子が杉本良吉と国境を越えて、ユートピアと想像した旧ソ連に亡命したのは1938年1月であるが、そこはユートピアどころか杉本は銃殺刑、岡田も長い間牢獄につながれた。ちょうどその頃生まれた私は、その事件に関心を持った。
前世紀半ば、私も20年近くその状況の実現に青春の情熱を傾けたが、1989年の東欧革命の10年前、すでに夢破れて苦しんだ。それから10数年の歳月を経て、民主主義の理想を求める市民、研究者達に出会えた。その喜びが、現在の私を支えている。
20世紀の壮大な実験「社会主義」、これほど世界中の多くの人をとらえた夢があっただろうか。そしてその夢は21世紀を待たずに崩壊した。私もその理想とする「平等」と「正義」に 夢中になった1人であった。資本主義社会は、人間が欲望に満ち、権力におぼれるが、社会主義社会になればそれらはなくなり「能力に応じて働き、必要に応じて受け取る」ユートピアになると学んだ。
しかし、マルクス主義は、人間に対する見方に致命的欠陥をもつ「夢」だったように思う。
崩壊後の旧ユーゴ紛争はその証拠ではないか。また、スターリン時代の粛清の犠牲者が、ナチスの殺戮した犠牲者と同じ数千万人という事実は、夢どころか、今世紀最大の禍とさえ言える。
夫は若い日20年近く、共産党専従活動家として過ごした。しかし、組織と見解を異にして専従を解任された。裁判闘争をしたのは、1989年の東欧革命の15年も前だった。その頃、明け方近くになると、寝床の中で毎日しぼるようなうめき声をあげていた。意に反して自己批判を迫られ、夢にまでそれらが連日追いかけてきたのだ。
人間は道理に合わないことに自分を無理に合わせると、精神や神経に強烈なダメージを受ける。かつての友人だったM、Kたち、10人近い優秀な頭脳が、当時専従の職員に多発した「自律神経失調症」になり、その中の数人が考える事も出来ない廃人同様になったと聞いた。20代、30代だった彼らが抱いた夢が崩壊したいま、どう生きているだろうか。
哲学者梅原猛は「社会主義は人類の負の遺産」と書いていたが、彼らは個人的に「負の遺産」を背負う事になったわけだ。
夫は解任になったのが40歳と若かったのが幸いして、学習塾が評判をとり、子供達との生活を楽しみながら、生活を軌道に乗せた。人は、理想とか夢があってこそ、生きる甲斐のある人生が創れる。けれど、人生とは夢が次々破れていく過程なのかも知れない。
私たち夫婦は10年間、政治に背を向け続けたが、誰にも頼らず、1人で裁判をした事が縁で、政治学者らの真面目なグループと知り合った。思いがけず、人生終盤にまた新たな夢を育み始めた。
若い頃「恋に恋している」ときがあった。恋をすると女は美しくなる。
しかし恋は苦しみにもなる。当時強制された「忠、孝」のモラルに逆らってこそ、自由奔放な恋が貫けるのだと思い、道ならぬ恋に燃えた時期もあった。
しかし、所詮は人を傷つける恋で、自らの幸せはあり得ないことを知るべきであった。思いっきり流した涙が多かった分、別れの決断が出来た。
ときが流れて、政治の季節になった。恋とは「人生いかに生きるべきか」の問題となり、仕事にサークルにのめり込んだ。多くの友人の中に、愛で包みこんでくれる人ができた。政治や社会科学を共に学んで職業革命家の道を選んだその人は、長身を粗末な服で包み、素足に下駄ばきだった。友人との下宿生活は、夜ラーメン、朝は残りのスープにトーストと聞いた。安い給料が遅配続きでも、苦にならなかったのは恋の力、夢は大きかった。
「せつかくいい大学を出て、いい所に就職したのに、勝手に職場を辞めて共産党の専従なんて許せない」と両親は怒り、当然のように勘当された。
それが恋心を一段とつのらせた。共に向上し合う恋、打算でない恋、私はそれを求めた。交換日記を交わし、行動し、音楽喫茶で心を潤した。価値観の一致が恋の土台、政治や文学、音楽や映画、スポーツなど趣味の一致で人生は充実してくる。
社会的活動や政治活動で行動を共にしながら、個人的にも意気投合し、結婚を決めた。
勘当した親に意志を伝えようと、彼の実家を訪れたとき、母親と弟とは面会したが、襖1枚奥にいた父親は頑として会ってくれなかつた。
彼の親族は欠席のまま、大勢の仲間が会費300円の結婚式を盛り上げてくれた。演劇あり、コーラスあり民謡ありで、1960年代の貧しくも心のこもった、広い会場に若さと熱気が溢れた結婚式となった。結婚後は、春秋2回の大掃除に必ず夫婦で彼の実家へ応援に行くうち、孫も生まれ、いつの間にか勘当は自然消滅した。
後年、1人暮らしになった高齢の義父と、亡くなるまでの5年半同居した。息子を勘当した親の気持ちが分かったのは、親を亡くし、自分の子たちが大学を出てからだった。 現代、親の権威や社会の矛盾に立ち向かう対象もない若者たちは、どんな恋をするのだろう。家族とか愛というものの意味が希薄になった社会で、30年前の恋愛観などおよそかびくさいしろものと一蹴されるだろうか?
けれど、広い宇宙から見れば、あぶくのような人生で、男女が知り合い愛し合う。この偶然でしかない出会いが、人生に花を咲かせる。
男の陰に女あり、女の陰に男ありである。
不況の風が強く、暗い話題が多かった年ももう年の瀬、1カ月も早く10月から山茶花が咲いた。
雪中花ともいう真冬の花、水仙が満開で、地球上の生物も何かあわただしく咲き急いでいる感じである。
この1年は、私にとって記念すべき貴重な年だった。若い日の20年余り、世の中の革新について、真剣に考え行動したが、ここ10何年間、政治に背を向け続けた。それは信頼したある政党に裏切られ、強烈な政治不信に陥ったからだ。それと似たような体験をした東京の某政治学者を 本で知り手紙を出した事で、ある集まりを紹介された。
夫婦で出たその会では、現在の政治について、活発な話し合いがあり、10数人の参加者は超真面目集団だなと、久しぶりに強烈な好奇心が沸いた。会議のおしまいに「愛知選出の国会議員が、 学歴詐称で当選している。これは県民の恥だ」という趣旨での署名運動を依頼された。これが年末の「禁固四年の求刑」に結びついた。またある友人の奥さんが市役所の女性部長を退職後、無報酬で「名古屋市民ネットワークセンター」をつくり、会費制で多くの文化事業や現代文化の学習会を続けているのを知った。そこでは大学の教授を呼んで、14、5人の学習がこまめにやられ、ときにはアフリカとの連帯と称した、大規模のイベントが催されている。
さらに、送られてくる雑誌で知ったあるサークルでは、女流文学賞を受賞した作家を中心に「自分史と私小説」についての率直な討論がなされていた。参加人員は20名ほどだったが、長い間書き続けた人達の話の中で、「自分を合理化しないこと」ということが度々話題になった。頭では分かっても、中々難しい問題だなと思いながら関心をもった。
数年前から知った「市民のリサイクル運動」の会では、全国的に有機野菜の販売や環境を守る運動を繰り広げていた。また世界の難民に衣料を送る運動を粘り強くしている「日本救援衣料センター」という会も着実にやられていた。どれも献身的で、長い間それらの活動から遠ざかっていた者には、とても新鮮に感じられ、この1年「いま浦島」の気分でそれらのエネルギーを浴びた。そして、これが新しい政治の流れとの接点かも知れないと思った。
12月、以前観て感動した映画「きけわだつみの声」が観たくて、講演と映画の会へ行った。「学徒出陣50周年」を記念したその会場は、300人近い人で満員だった。首相の「侵略戦争」発言以来、盛況とのこと。夫婦でやっている塾の、社会科特別授業に来て貰った元学徒兵は、72歳でかくしゃくたるものだった。50代の私が弱音を吐いていられない。新たな出会いが多かったこの1年を、しみじみ振り返る年の瀬である。
三池炭鉱が閉山になるという。それを聞いて、私の心は37年前の、あの春の宵に飛んだ。 あの公園は梅も桜もないけれど、アベックが多く、甘い春色を演出していた。
両側にベンチが無造作においてあるだけの広い公園で、道路との境に楠を連続して植えてあるが、おおらかですっきりしている。
「待った?」約束の六時きっかりに、この近くの職場から駆けつけた。「いま来たところ」 とSが答えた。Sとは2年前風邪をこじらせて肋膜炎で入院したとき、同じ公務員共済組合の病院で知り合った。「連絡できなかったけど、今日6時半から栄の交差点で街頭カンパなの」「久しぶりなのに、そんな事どうでもいいじゃないか」不満そうなSに悪いなと思って、私は黙った。
「春の宵っていいわね、冷たかった空気にそっとやわらかさが加わって。陽が明るいせいか木も街も輝いて見える、値千金ね」「そうかなあ、春はあけぼのっていうよ」。
こんな風な皮肉屋のSに興味があった。世の動きに関心をもつようになったのは、彼の影響が大きい。楽しい会話も時計が気になった。6時半、「カンパはパスするだろ?」自信ありげな彼に「ごめんね」と大声で言って、道1本北の栄交差点へ走った。
交差点に着くと6、7人の仲間が「三池の1500人首切りにご支援を」と訴えていた。安保と言えば三池とまさに政治の季節だった。仰いだ南東の空に、淡い藤色の雲が浮かんでいた。
素通りする人の方が多かったが、7時近くなり、サラリーマン風の人が増え始めた頃から、ごく自然に募金に応じてくれ出した。
誰かが「みんな仲間だ炭掘る仲間…」と口ずさんだ。それが若い男女14、5人のハーモニーとなって街角に響き、春の宵は次第に暮色が濃くなっていった。夜8時前、集計した金額は1万3千円余りと分かり、歓声が上がった。あれから37年、新聞はヤマの男たちが涙ぐむ写真と共に、三池炭鉱閉鎖を伝える。世の中は進歩したのだろうか。別れたSの事も、訪れた炭鉱住宅も、春の宵のまぼろしのように思える。
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