私が受けた「監禁査問」21日間の壮絶
24時間私語厳禁、トイレも通院も監視つき
歴史から決して消せない共産党裏面史
(宮地作成)
(注)、これは、国際情報誌『SAPIO、サピオ』(小学館、2007年8月8日発売、8月22日・9月5日合併号)に掲載された私の文(P.97〜99)である。題名と見出しは編集部が付けた。ただし、字数の関係で削除された文章や小見出しは、私が若干復元した。「6、日本共産党との民事裁判」は全文復元である。その「SPECIAL REPORT PART2」として、『共産党の寿命−歴史的役割は終わったのか!?』というテーマで、4つの論考が載った。それらの題名・筆者だけを最後に載せる。
〔目次〕
1、はじめに
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『前衛党式排除、粛清システムと査問の考察』ファイル多数
(日本共産党との裁判)
第1部『私の21日間の“監禁”「査問」体験』「5月問題」
第2部『「拡大月間」システムとその歪み』「泥まみれの拡大」
第3部『宮本書記長の党内犯罪・中間機関民主化運動鎮圧、粛清』
第4部『「第三の男」への報復』警告処分・専従解任・点在党員組織隔離
第5部1『宮本・上田の党内犯罪、「党大会上訴」無審査・無採決・30秒却下』
第6部『宮本・不破の反憲法犯罪、裁判請求権行使を理由とする除名』
第7部『学者党員・長谷川正安憲法学教授の犯罪加担、反憲法「意見書」』
第7部・関連『長谷川「意見書」』 『長谷川「意見書」批判』水田洋、中野徹三
第8部『世界初・革命政党専従の法的地位判例』
1、はじめに
2007年7月18日、20世紀後半のほぼ半世紀近く、日本共産党の最高権力者だった宮本顕治元議長が死去した。日本の共産主義運動の象徴だった半面、「査問」「リンチ」など、その影の部分でも耳目を集めた人物だった。宮本氏が築いた共産党の内部で、一体何が行なわれていたのか−。1960年代に日本共産党に青春を賭けて活動した元党員宮地健一氏が、「監禁査問」の体験を語った。
【PROFILE】 1959年名古屋大学経済学部卒業後、愛知県の損害保険会社に就職する。そこで労働組合幹部を経験、60年に日本共産党に入党。民青地区委員長を経て名古屋の共産党専従を15年務める。日本共産党愛知県名古屋中北地区常任委員・県選対部員だった。1975年、正規の諸会議において、赤旗の一面的拡大追及路線に関する党中央の誤りを批判した発言10数回にたいする報復として専従解任を受けた。それを不当として、党内で「意見書」「質問書」25通を提出し、1年8カ月間たたかった。それらは、100%無回答で握りつぶされた。1977年第14回大会に報復的専従解任不当の「上訴書」を提出したが、宮本顕治の指令を受けた党大会議長上田耕一郎が、無審査・無討論、30秒で却下した。
そこで、日本共産党中央委員会・愛知県常任委員会を、批判の自由権利にたいする不当解任・共産党内における市民権侵害行為として、名古屋地裁に民事裁判提訴、翌日、除名処分となる。それは、憲法の裁判請求権行使を理由とする除名だった。日本でも、世界でも、このような反憲法犯罪をした会社・組織・政党は、歴史的に見て一つもない。
第4部『「第三の男」への報復』警告処分・専従解任・点在党員組織隔離
第5部『宮本・上田の党内犯罪、「党大会上訴」無審査・無採決・30秒却下』
第6部『宮本・不破の反憲法犯罪、裁判請求権行使を理由とする除名』
1989年〜91年の東欧・ソ連10カ国とレーニン型前衛党のいっせい崩壊を体験した。そこで、1997年・60歳よりHP『共産党問題・社会主義問題を考える』(http://www2s.biglobe.ne.jp/~mike/kenichi.htm)を立ち上げた。現在、アクセスは39万件を超える。
2、宮本顕治の功罪と個人独裁確立の2つの裏側手口
宮本顕治元議長が98歳で死去した。日本共産党における彼の最高権力者期間は、1958年の第7回党大会で書記長に選出されてから、97年に不破哲三委員長(当時)による引退強要まで39年間という長きにわたった。
50年代前半の武装闘争で壊滅状態に陥った共産党を立て直し、最高で40万人の党員を獲得、機関紙「しんぶん赤旗」発行部数を、1980年のピーク時点で355万部まで拡大した宮本の功績は確かに大きい。しかし、その党勢・赤旗拡大路線は一方で、党活動をいびつに変質させていった。それは、共産党を赤旗拡大成績追及組織という一面的体質に捻じ曲げた。しかも、その変質のつけとして、1980年以降は、赤旗が歯止めのない減退を続けてきた。
宮本死去の2007年時点、「しんぶん赤旗」は146万部までに減った。1980年ピーク355万部−共産党4中総146万部≒減紙209万部となり、58.9%読者が、宮本不破をトップとしてきたレーニン型前衛党から「大逃散」した。彼の功罪を総合的に見た場合、(1)党勢拡大成果功績と、それと表裏一体としての(2)一面的体質に捻じ曲げた罪と、その結果として党勢大激減をもたらした罪という功罪両面を正確に峻別して、見分ける必要がある。
『組織票とその歯止めのない党勢減退』355万部→146万部への激減
宮本は、50年分裂時期の孤立・不人気体験から、ひたすら党内権力の独占を欲した。その目的で使った裏側手口は2つある。
ひとつは、宮本秘書団私的分派を形成したことである。日本共産党史上、彼ほど強力な最高権力者私的分派を作り、個人独裁体制を築いた者はいない。最高権力者がそのようなレベルでの「党内党」分派を形成した共産党は、資本主義国になく、スターリン・毛沢東・チャウシェスクらによる「党の私的所有」反党分派型の前衛党しかない。
『不破哲三の宮本顕治批判』(秘密報告)宮本秘書団私的分派データ
ふたつ目は「監禁査問」である。第6回全国協議会(6全協)以降、宮本とその路線への異論・批判幹部に対して規律違反をでっち上げ、査問を行ない、除名・専従解任などで党内外排除を強行した。その査問形態は、家に帰さず一室に閉じ込め、分派活動の自白を強要するというものだった。
1958年の第7回党大会以降、それ以前と比べ、さすがに暴力行為・リンチはないものの、分派活動容疑党員・スパイ容疑に対する監禁査問は、宮本体制下で党中央、都道府県委員会などで全党的に行なわれてきた。資本主義国で監禁査問という拷問的手法を多用した共産党は日本共産党だけであろう。
この監禁査問の実態を公表しているのは、新日和見主義分派事件(*)における川上徹(13日間)、ジャーナリスト高野孟(6日間)、民青静岡県委員長油井喜夫(4日間)、そして監禁ではないものの長期査問を受けた元国会議員秘書の兵本達吉(5日間延べ20時間)である。私は1967年、21日間にわたって監禁査問という名の拷問を受けた。その体験と日本共産党の実態をこれから明らかにする。
『新日和見主義分派事件』宮本・不破・上田らが行った粛清犯罪
*、1972年5月、日本共産党の指導を受ける青年組織・日本民主青年同盟(民青)中央幹部および都道府県幹部を中心に600人から1000人の査問、100人を処分するという日本共産党最大規模の「分派」冤罪粛清事件。
3、毎日書かされた自己批判書−21通
1、損害保険会社・労働組合幹部→民青地区委員長→共産党専従
私は1959年に愛知県にある損害保険会社に就職した。そこで全損保労働組合幹部・愛知労働組合評議会幹事をやり、スト権投票などで全職場オルグに出かけた。60年安保で日本共産党に入党した。3年間で党員数十人・赤旗読者百数十部に拡大した。安保闘争では、名古屋の全金融機関労組に呼びかけ、名古屋栄町周辺のデモに数千人を動員・組織する側だった。
私は監禁査問当時、30歳で、愛知県の名古屋中北地区の常任委員・ブロック責任者だった。中北地区は、名古屋市中部北部の10行政区を範囲とし、愛知県党の半分の党勢力と専従52人を抱える巨大な中間機関だった。私は地区補助機関としての5ブロック責任者を体験したが、現在それは5つの地区委員会に分割・昇格したので、私は5つの地区委員長をしたことになる。
2、地区委員長・准中央委員・愛知県副委員長にたいする地区挙げての批判活動1カ月間
それは、1967年5月だった。ことの発端は、中北地区委員長・准中央委員が、地区常任委員会の席上で、赤旗拡大の数字成果を挙げない地区常任委員の1人を罵倒批判し、自分の足でその常任委員の足を蹴った事件である。10数人の常任委員は息を呑んで沈黙した。すると、他の1人が立ち上がって、「足で蹴るとは何ごとですか」と叫んだ。私と別の1人も地区委員長批判を発言した。その背景には、その准中央委員による成績主義的な赤旗拡大数字の一面的追及が数年間続いてきたことがある。
その中で、地区専従・細胞指導部数十人の自律神経失調症発病、大衆団体の破壊、地区財政の破綻が発生してきた。常任委員3人は、拡大月間運動をやりつつ、彼への批判活動を正規の常任委員会会議で続けた。彼は、北京機関帰りで、袴田里見と親密であり、拡大成績によって、中央委員への昇格を狙うという典型的な成績主義の共産主義的人間だった。彼にたいする批判活動が地区専従・地区委員・細胞長ら数十人に広がった。それが、地区委員会総会や地区活動者会議などでの批判発言の爆発などを含め、1カ月間続き、ついに彼が誤りを認め、公式に自己批判をするとの段階に至った。
3、密告・裏切りにより指導改善運動が分派活動にすり替え
ところが、彼は、宮本顕治の裏側手口に倣って、「喫茶店グループ」という地区最高権力者の私的分派を数人で作っていた。正月には、彼の自宅でグループメンバーの秘密の年賀会を数年間開いていた。自己批判をさせられたり、愛知県副委員長に戻されたら、彼の党内出世に汚点がつき、中央委員への昇格は絶望になる。彼は、その私的分派中心メンバーに指令し、最初の批判を叫んだ常任委員をひそかに説得・脅迫した。「あんたは宮地に引きずられているだけだ。このままでは地区党は大混乱する」と。その常任委員は、指導改善で決起した他2人と数十人を裏切り、裏側の批判活動経過とメンバーリストをすべて密告・自白した。
地区挙げての指導改善運動は、その密告・裏切りによって、瞬時に、常任委員3人と専従・地区委員・細胞長ら数十人による分派活動にすり替えられた。追い詰められていた地区委員長と私的分派常任委員たちは、査問委員会を作り、翌日から数十人を監禁査問にした。
4、私にたいする21日間の監禁査問
私は批判活動の首謀者と断定された。密告常任委員と他1人、および、地区専従数人は4日から7日間ほどの監禁査問で釈放された。私だけは、愛知県委員会・中北地区合同事務所3階8畳間の査問部屋で、21日間も監禁査問を受け続けた。ちなみに、監禁査問・拷問の実態を公表しているのは、1972年新日和見主義分派事件における川上徹、高野孟、油井喜夫である。スパイ査問事件での袴田里見も除名前は長期の監禁査問を受けた。分派容疑の監禁査問は全党的に発生してきた。多数あるスパイ容疑党員のケースは、すべてが監禁査問・拷問で自白を強要し、除名にした。
査問部屋8畳間では、被査問専従7人と監視役査問委員が4日間ざこ寝をした。食事は自腹による店屋物ですませ、24時間中私語禁止で、分派活動経過と自己批判書を毎日1通書かされる。トイレも監視役の許可を得、複数によるトイレ行きは厳禁である。8日目からの14日間は、私1人だけになった。
1、21日間での着替え下着の渡し方
21日間と長いので、下着の着替えが要る。すると、査問委員が旧NTT職場の総細胞指導部の妻に電話し、事務所の入口まで持ってこさせる。分派活動をした反党分子は、妻に直接会うことができない。妻は、長男を出産したばかりだった。私は、子どもの様子を聞くことも許されなかった。査問委員は彼女に私を帰さない、会わせない理由を言わなかった。彼女は、第8回大会代議員であり、出産前まで革命拠点経営の総細胞長だった。私は9カ月間にも及ぶ赤旗拡大指導の泊り込みが常態だったので、妻は帰らない夫に何の疑いも持たず、自分の職場と子育て、党活動に必死で、洗濯物を持ち運んだ。
2、監禁査問のレベル=階級敵の反革命分子扱いの拷問
分派活動の経過・内容といっても、裏切った中心の1人がすべてを詳細に自白したので、私も全面的に認めるしかなかった。共産党の査問は、警察・検察が被疑者を拘禁し、自白を迫るのと同じやり方である。ただ、反党分子=階級敵の反革命分子の扱いになるので、その精神的拷問度合はむしろ厳しい。査問委員会は、数十人の経過・自己批判書をつき合わせ、誰と誰が、どこで会い、どうゆう発言をしたのかを書かせる。それが食い違うと、「おまえはウソをついている。正確に書け」と罵倒される。3日もあれば、分派活動の全貌は細部まで浮き彫りにされる。
3、批判活動内容と全地区的憤激
後は、准中央委員批判内容がまったくの誤りだったと認め、自己批判をするかどうかの段階になる。1カ月間の批判活動の内容は全面的になっていた。(1)委員長の独断・グループを創っての家父長的個人中心指導、(2)赤旗拡大だけへの一面的実践、(3)それを「敗北主義」「日和見主義」など思想問題として打撃的批判のやり方で数字的成果を追及、(4)幹部をどなり侮辱する態度、(5)地区専門部活動の破壊、(6)選挙指導の誤りなど具体的事例を挙げつつ、全地区的に憤激が巻き起こっていた。
4、自己批判書内容への示唆、忠誠者への思想転向狙い
私以外の専従6人は、それらの内容が完全な誤りだったと自己批判した。さらには、査問委員から示唆され、地区委員長は優れた党派性の高い、思いやりのある中央幹部だと自己批判書に明記した。ところが、私は、批判の分派行為だけを認め、毎日書かされる自己批判書21通に書いたが、(1)首謀者であること、(2)批判内容が誤りだったことを認めなかった。ましてや、(3)彼が思いやりのある中央幹部だとは示唆されても書こうとしなかった。実質的な査問委員長は、彼自身であり、彼は私の全面的な思想転向=彼への絶対忠誠者へと転向させようと狙った。批判行為の全貌が判明し、その経過を認めているのに、私だけを21日間も釈放しなかった理由はそこにある。
私はとくに抵抗していたわけでもない。ただ、批判のためのグループ行動事実を認め、自己批判すれば、釈放されると思っていた。しかし、彼は、私を忠誠者に思想転向させようとしたところが食い違った。私が他内容を自己批判しないのに、釈放したのはなぜか。向こうが根負けしたのか、それとも、ブロック責任者(現在の地区委員長)が21日間も不在のままで、そこの拡大運動成績が全面ストップしたことに怯えたかのどちらかが原因であろう。
1、査問中の水虫問題のエピソード
これは、監禁査問という拷問・自白強要システムの異様さ、犯罪性を証明するエピソードである。赤旗拡大の一面的追及連続のため9カ月間もの泊り込みが続いた。その状況の中で、私の足に水虫が初めて出来て、どんどん悪化した。薬局の売薬だけでは治らなくなり、時々皮膚科医院へ通って、光線を当てたり、きちんとした治療を受けないといけない程ひどくなっていた。その時点での21日間にわたる監禁査問だった。最初の1週間ぐらいは、監視要員つきで、薬局に水虫薬を買いにいって、塗っていたが、さらに悪化した。
そこで、査問委員会に通院許可を申し出たが、監禁査問中の分派活動をした反党分子などには、通院のための外出を認めない。分派活動容疑での被査問者は、前衛党がその査問期間中、階級敵として憎むべき反革命分子扱いにするからである。地区事務所には風呂もないので、足指を洗うこともできない。そのうちに、さらに悪化し、両足ともうみが出るようになったので、二度三度と強硬に申し出て、足指を見せたら、さすがにそのひどさに折れて、皮膚科へ3日おきの通院が許可された。ところが、その通院も監視要員つきである。私が50CCのオートバイで行くと、監視要員もオートバイで医院までついてきて、光線の照射や薬の塗布がすむのを待合室で待っている。
また、近くの銭湯へ行くのも許可されたが、これも当然湯舟までいっしょに入る監視要員つきだった。私が自殺、逃亡するとかは思わなかったにしても、この措置は、私が批判派の誰かと連絡をとることを怖れたからであろう。長期の泊まり込み活動スタイルや、この屈辱的なシーンは、私の監禁査問体験の忘れがたい想い出である。水虫の方は、この間極度に悪化したので、2年後「5月・分派問題は正当な批判行為だった」と名誉回復をされても、治癒しなかった。その後完治するまでには6、7年かかった。21日間の監禁査問体験の苦渋を、私の脳だけでなく、両足の指でも鮮明に記憶しているという訳である。
2、日本共産党との民事裁判提訴と共産党が秘める犯罪的本質
2年後の1969年、また私は窮地に立たされた。准中央委員・地区委員長の指令で、赤旗宣伝紙の梱包を未開封のまま、大量にごみ処理業者に何度も売っていた事例が発覚した。党中央が乗り込んで、その調査と彼への査問が始まった。2年前は、愛知県党半分の党勢力を占める名古屋中北地区挙げての指導改善運動だったが、それは、裏切り・密告により、分派活動にすり替えられてしまった。今度は、准中央委員・県副委員長と愛知県常任委員会批判の第二次指導改善運動として、愛知県全地区を決起させた。その批判対象は、愛知県党に誤った一面的赤旗拡大をあおった党中央にもエスカレートした。
私は、またもや、地区常任委員会、拡大県委員会総会で、その党中央批判発言を10回以上行った。県党の誤りに関する総括の県党会議でも、その趣旨の発言を先頭に立って行い、数十人が批判発言に立ち上がり、宮本顕治の指令で骨抜きにされようとした文書を撤回させた。宮本顕治は、彼や党中央批判をした幹部・専従にたいし、執念深く報復することで有名である。彼は、私を含め党中央批判の先頭にたった専従3人を次々と任務変更・専従解任で党内外排除した。
第3部『宮本書記長の党内犯罪・中間機関民主化運動鎮圧、粛清』
私は、専従解任通告にたいし、党中央に「意見書」「質問書」など25通を出し、党内で1年8カ月間たたかった。それへの返事は一切なく、完全に握りつぶされた。1977年第14回大会にも警告処分撤回の「上訴書」を出した。ところが、宮本顕治の命令を受け、上田耕一郎党大会議長は、それを無審査・無討論・30秒で却下をした。私は、怒り心頭に発し、名古屋地裁に専従解任不当の民事裁判を提訴した。
第5部1『宮本・上田の党内犯罪、「党大会上訴」無審査・無採決・30秒却下』
6、日本共産党との民事裁判−共産党の三重犯罪
共産党専従は約4000人いる。日本革命を成功させることを本職とする職業革命家であるが、党機関が払う人件費で生活している。それは政党内部においても保障される憲法上の市民的権利である。
正規の地区・愛知県党の諸会議で、赤旗の一面的拡大追求の誤りとそれがもたらした地区党内の被害について党中央批判の発言を10回以上した。それらを発言した専従3人はすべて、専従以外への任務変更か専従解任という報復を受けた。それは、宮本顕治・不破哲三ら常任幹部会による二重の党内犯罪だった。さらに、報復的専従解任不当の民事裁判提訴を直接理由として、その翌日に私を除名した。これは、憲法の裁判請求権行使を理由とした反憲法行為であり、三重の党内犯罪となった。
〔第1犯罪〕、党内における正規批判の自由抑圧・粛清の規約違反犯罪
党内における正規の批判の自由権利は、規約が認めている。宮本顕治は繰り返しその権利が保障されていると公言してきた。しかし、3人中の2人目が専従解任報復を受けたとき、幹部会から帰った愛知県委員長は、常任幹部会=宮本顕治の秘密指令だとし、「党中央批判は一般党員には許されるが、専従には許されない」と伝え、愛知県専従会議で全員をにらみつけた。私はその場にいたので間違いない。
今日も全党的にこの党内民主主義抑圧犯罪の秘密決定が施行されている。その結果として、党中央批判を抱く専従は、4000人から一掃された。彼らは全員が党費納入28万党員の党中央批判・不満を抑圧する犯罪的組織原則政党のかなめ・尖兵となっている。(1)規約の文言と、(2)党内運営における民主主義抑圧の犯罪的実態との乖離は、民主集中制という犯罪的組織原則に基づく閉鎖性によって外部からなかなか見えない。
〔第2犯罪〕、政党内部における市民的権利侵害という法律違反犯罪
専従の人件費は、それで家族の生計を維持しているので、政党内部における市民的権利の一つである。それを正当な理由もなく、むしろ、党中央批判への報復として専従解任をすれば、憲法が保障する市民的権利の侵害行為になる。党中央批判専従私への報復としての専従解任通告は当時40歳の時点だった。党内で1年8カ月間たたかったのに、第14回大会への上訴が上田耕一郎党大会議長によって、無審査・無討論・30秒で却下された。
これによって、宮本顕治・上田耕一郎ら常任幹部会は、市民的権利を侵害する犯罪政党になった。党内闘争の道は、宮本・上田らによって100%閉ざされた以上、その法律・民法上の不当性を訴えるには、憲法の裁判請求権行使の手段しか残されていなかった。不当な専従解任は全党において数百人規模でなされてきたが、全員が泣き寝入りした。私は弁護士なしの本人訴訟の道を選んだ。
〔第3犯罪〕、憲法の裁判請求権行使を直接理由とした除名という反憲法犯罪
民事裁判提訴の翌日、宮本不破らは、愛知県常任委員会に命令し、私を除名した。その除名理由は、憲法の裁判請求権行使が、党内問題を党外にもちだした党破壊行為であるという反憲法理論だった。裁判の経過・結果は次である。
たしかに、専従解任をされた数百人で、その不当性と市民的権利侵害犯罪を裁判で訴えた者は一人もいない。共産党愛知県常任委員2人と党員弁護団2人は、裁判開始の冒頭において、「国際共産主義運動で、党中央を裁判に訴えた党員は一人もいない。よって直ちに却下せよ」と裁判長と本人訴訟の私一人に向かって大声を挙げて何度も叫んだ。党内における批判発言の自由権抑圧・粛清犯罪と、内部での市民的権利侵害犯罪とたたかうという気概で2年間の裁判を行った。
それにたいする共産党の犯罪的対応は、無数にある。共産党は、私たち夫婦にたいし、直後から、(1)1カ月間以上の尾行・張り込み、(2)愛知県岩倉市在住の全党員会議招集とデマ宣伝、(3)妻の職場細胞全員に指令されたシカトなどさまざまな犯罪行為を遂行した。現在も、日本共産党は、犯罪的組織原則政党というのみならず、憲法擁護の口裏で、いざとなると憲法違反犯罪をし、それを隠蔽する政党という体質を備えている。
第6部『宮本・不破の反憲法犯罪、裁判請求権行使を理由とする除名』尾行・張り込み
宮地幸子『尾行・張り込み』公安による尾行と共産党による尾行・張り込み
1)、宮地の主張
共産党県勤務員・宮地・40歳には、1977年3月時点で、基本給1律70000円、年齢給29500円、党専従歴給13000円(1年1000円の割合)で、合計112500円の給与支払事実がある。そこから、健康保険料3822円、厚生年金料4459円、所得税2820円、県市民税1650円が差し引かれている。手取りは99749円であり、ほかに夏・冬期に一時金として各112500円が、一般党員のカンパ金によってまかなわれていた。したがって、その支払・源泉徴収・差引実態は民法上の雇用契約として認められるべきである。
それにたいし正当な理由がなく、むしろ党中央批判にたいする報復としての専従解任=人件費支払い停止は、民法が保障する契約に違反した事件である。
2)、共産党の答弁
9回・9時間の仮処分審尋の途中では、これは司法審査対象外と主張するのみだった。《答弁書》では、被申請人、申請人間には労働基準法が妥当する労使関係は存在しないと主張した。学者党員・長谷川憲法学教授に命令し、即時却下の「意見書」まで出させた。
第7部『学者党員・長谷川正安憲法学教授の犯罪加担、反憲法「意見書」』
第7部・関連『長谷川「意見書」』 『長谷川「意見書」批判』水田洋、中野徹三
3)、仮処分決定内容
名古屋地裁民事裁判長は、(1)共産党と長谷川正安憲法学教授らの「専従解任は党内の任務変更にすぎず、市民的権利侵害問題にならないから、直ちに却下せよ」との主張を退けた。(2)裁判提訴を「党内問題を党外にもちだした規律違反」との反憲法的理由で即座に除名にし、もはや党員でなくなったから、裁判の当事者能力がないから却下せよとの姑息な犯罪理由も退けた。そして、9回の裁判を行った。
その判決決定内容は次である。本件のような有償委任契約の解除については委任者が任意にこれを行使することはできず、相当の事由を要すると解せられる。ただし、県勤務員は、その勤務の実態に即して考えると、労基法の適用を受ける関係にあるとすることは困難であって、むしろ、委任契約ないしこれに類似する法律関係と認めるのが相当である。本件解任処分は法的には有償委任契約の解除権の行使である。原告が行った主張・適用法律が誤りなので却下する。
上記の有償委任契約とは、弁護士・会社役員・不動産業者との関係と同じであり、宮本顕治ら党中央が専従4000人にお金を支払って、党活動を有償で委任するという性質になる。私は、裁判長が決定した法律適用は誤りであるとし、今度は、本訴訟において、適用法律を(1)雇用契約と(2)有償委任契約との2本立て主張で再提訴した。
第8部『世界初・革命政党専従の法的地位判例』
これは、共産党内で発生した市民権侵害犯罪事件を初めて民事裁判という外部に持ち出した事例として、当時マスコミ他でも注目を集めた。日本国内でも、また、共産党が怒鳴ったように、国際共産主義運動内でも最初の民事裁判だった。しかし、生活の道を閉ざされ、生活費・裁判費用を捻出することが困難になった。専従解任で無給となり、妻の給料だけで家族4人の生計は厳しい。
裁判支援のカンパを石堂清倫を初めとし多数の方からいただいたが、裁判の2年間で借金が80万円=専従人件費の8カ月分に膨らんだ。そのままでは、生計が破綻するので、涙を呑んで、裁判を取り下げざるをえなかった。その後、自宅で小中学生相手の学習塾を開いた。それを63歳まで21年間続けた。現在の日本共産党は、憲法擁護を謳う裏で重大な市民権侵害を犯し、それを隠蔽するという当時の体質を脱却したのだろうか。
7、他3つの論考−山口二郎、編集部、兵本達吉
【SPECIAL REPORT〈PART2〉】歴史的役割は終わったのか!? 共産党の寿命
[提言]共産党よ、「たしかな野党」の安楽椅子から降りて「左翼の公明党」として政権を狙え−山口二郎
[告発]私が受けた「監禁査問」21日間の壮絶−宮地健一
[勢力図]「共産党宣言」から160年 マルクスも予想できなかった「世界の共産党」のいま−本誌編集部
[墓碑銘]スパイ査問事件、火炎瓶闘争、そして中ソ論争―怨念と粛清のミヤケン「愛と幻想のマルキシズム」−兵本達吉
以上 健一MENUに戻る
〔関連ファイル〕
『前衛党式排除、粛清システムと査問の考察』ファイル多数
(日本共産党との裁判)
第1部『私の21日間の“監禁”「査問」体験』「5月問題」
第2部『「拡大月間」システムとその歪み』「泥まみれの拡大」
第3部『宮本書記長の党内犯罪・中間機関民主化運動鎮圧、粛清』
第4部『「第三の男」への報復』警告処分・専従解任・点在党員組織隔離
第5部1『宮本・上田の党内犯罪、「党大会上訴」無審査・無採決・30秒却下』
第6部『宮本・不破の反憲法犯罪、裁判請求権行使を理由とする除名』
第7部『学者党員・長谷川正安憲法学教授の犯罪加担、反憲法「意見書」』
第7部・関連『長谷川「意見書」』 『長谷川「意見書」批判』水田洋、中野徹三
第8部『世界初・革命政党専従の法的地位判例』