新日和見主義「分派」事件

 

その性格と「赤旗」記事 メール意見追加

 

(宮地作成)

 〔目次〕

     はじめに

   1、新日和見主義「分派」事件とその性格  宮本側近グループ・私的分派リスト

      事件体験の現役党員 「分派存在の有無」に関するメール意見

   2、「赤旗記事・全文」(1998.1.20)の宮地によるHP復刻版

      『「新日和見主義」の分派活動とは何だったか―川上徹著「査問」について』

   3油井喜夫著『虚構』目次のみ

 

 〔関連ファイル〕                健一MENUに戻る

    『宮本・不破による民青破壊犯罪と民青壊滅の真相データ』第24回大会の真相

    川上徹   「同時代社通信」著書『査問』全文掲載

    加藤哲郎 『査問の背景』川上徹『査問』ちくま文庫版「解説」

    高橋彦博 『川上徹著「査問」の合評会』

    れんだいこ『新日和見主義事件解析』

    yahoo検索『新日和見主義事件』 Google検索『新日和見主義』

 

    はじめに

 これは、1972年「新日和見主義分派事件」の性格についての分析である。ただ、この事件の性格を浮き彫りにするために、私が体験した、1967年から1979年までの愛知県委員会問題も、必要な範囲で、そこから転載した。文中の「イラスト写真」は長男宮地徹作成のものである。この粛清事件の全経過と背景については、れんだいこ『新日和見主義事件解析』も詳細な研究をしている。

 事件体験の現役党員による「分派存在の有無」に関するメール意見が送られてきた。この内容は、今まであまり報告されていなかった事実など、貴重な現場体験を含んでいるので、本人の了解を得て、メールのほぼ全文を転載する。

 川上徹著『査問』を批判した「赤旗記事」(1998..20)は、共産党HPに載っていた。しかし、2000年6月の共産党HP大変身で、共産党はこの「記事」を削除してしまった。削除理由は何なのか。それを知って、何人かから「その記事」を再度確認、検討したいというメールがあった。よって、以下の〔目次2〕は、「赤旗記事・全文」の宮地によるHP復刻版である。ただ、『査問』批判の赤旗記事であるにしても、共産党は、1972年事件の26年も後になって初めて、査問・処分事実を公表した。

 しかし、査問者数・処分者数のデータを隠蔽したままである。それらの人数は、川上著書のデータしかない。よって、査問者・処分者の全体像は、依然とし赤い闇のなかにある。ソ連共産党崩壊によって、「レーニン秘密資料」6000点や、「野坂参三」ファイルが発掘・公表された。同じように、日本共産党の大転換か、それとも、崩壊によって、代々木新築80億円ビル内の党中央資料室に秘匿されている「新日和見主義分派事件」ファイルが発掘・公表される時が来るのだろうか。

 1998年1月、フランス共産党のユー全国書記は、「市民のための開かれた党」という路線を打ち出し、すべての歴史家、ジャーナリスト党の保管文書を公開した。

    『フランス共産党の党改革の動向と党勢力』

 油井喜夫著『虚構』(社会評論社)が、『汚名』に続いて、この事件の4冊目として、2000年7月に出版された。その目次のみ、このHPに載せる。

 1、新日和見主義「分派」事件とその性格

 〔目次〕

   1、新日和見主義事件で「分派」は存在したのか

        事件体験の現役党員 「分派存在の有無」に関するメール意見

   2、宮本私的分派を中心とした「分派」査問委員会 宮本側近グループ・私的分派リスト

   3、「分派禁止規定」の見直し―逆説「レーニンと1921年の危機」

   4、分派ねつ造のしくみとその背景

   5、宮本私的分派による三大クーデター事件の一つ

   6、権利停止処分以外の報復措置

 1、新日和見主義事件で「分派」は存在したのか

 〔小目次〕

   1、「分派」の存在有無とそのレベルの検討

   2、事件体験の現役党員 「分派存在の有無」に関するメール意見

 1、「分派」の存在有無とそのレベルの検討

 川上徹著『査問』(筑摩書房)、油井喜夫著『汚名』(毎日新聞社)、同『虚構』(社会評論社、2000.)、宮崎学著『突破者』(南風社)の出版は大きな意義を持っている。それらは、3つの意義を持っている。

 第一、「新日和見主義分派」という民青中央・県グループ処分100人、その他にたいする一大粛清事件の謎を解明した。

 第二、前衛党の監禁査問システムをリアルに暴露した。

 第三、所属党組織の籍を移動する転籍問題を悪用した宮本委員長の反党策謀を初めて浮き彫りにした。1998年2月、川上著書の合評会が開かれ、それは川上徹と加藤哲郎との対談や質疑形式だった。その内容については、手紙『川上徹著「査問」の合評会』を高橋彦博法政大学教授からいただいた。

    高橋彦博 『川上徹著「査問」の合評会』

 「新日和見主義事件」とは、1972年5月、民青中央幹部・都道府県幹部を中心として、600人から1000人の査問、100人処分の一大分派活動事件のことである。これは、日本共産党史上最大規模の「分派」粛清だった。

(表1) 「分派」処分規模と処分内容

対象

被査問者

処分者

処分内容

人事・党籍措置

民青

600〜

1000人

除名1人

権利停止約100人

1人除名

100人 党員権1年間停止、党役員罷免、同盟権1年間停止、民青中央委員罷免

内、中央常任委員7/15を同処分

内、中央委員30/108を同処分

 

処分者全員を

民青専従解任

中央、都道府県直属点在党員措置の“組織隔離”

民青外

3人

中央委員広谷俊二

党員評論家川端治

ジャーナリスト高野孟

中央委員罷免、党員権停止⇒のち除名

査問日数?⇒処分?

査問1週間⇒処分なし

党専従解任

「転籍届」握りつぶし

 前衛党の「分派」規定には、2つの構成要件がある。第一は、前衛党中央と異なる革命路線、あるいは、明白な対立政策を保有し、公然と表明することである。第二は、異なる路線、政策の下に結集する、明確な組織的グループを結成し、活動することである。1921年、レーニンは、ロシア共産党()第10回大会において、『党の統一について』決議を提案した。その7項目中における第2項によれば、「フラクション性の若干の兆候とは、特別の政綱をもち、ある程度まで門戸を閉ざし、みずからのグループ的規律をつくりだそうという志向をもった諸グループの発生」である。ところが、この1972年「新日和見主義分派」は、これら2つの要件のいずれも満たしていない。

 第一綱領路線、基本政策の違いはない。「赤旗記事」にある、人民的議会主義反対の研究、特異な情勢論、運動形態論などは、一部討論、話題になったとしても、その政策で処分者100人が賛同した事実もない。それらの話題は、民青以外でも、全国党組織に普遍的に存在した程度のものである。「赤旗記事」がいう、「それらを広めた党員評論家の主張」とは、そもそも「前衛」「経済」が、『川端治論文』、川端氏を含む『座談会、シンポジウム』として、何度も掲載した党中央公的認可ずみの見解だった。なぜなら、すべての『前衛』論文は、日本共産党の中心理論誌として、宮本顕治や党中央イデオロギー部門の幾重もの事前検閲をパスしなければ、掲載されなかったからである。

 油井著『虚構』では、6つの文献を挙げている。宮本顕治と党中央は、1970年1月から1972年3月までの間、川端治を「前衛」論文2回、「経済」論文1回、「前衛」座談会、シンポジウム3回の計6回も登場させ、彼の情勢論、運動形態論を公認していた。党中央専従幹部以外で、この2年間で6回も最高権威の理論誌に登用された人はいない。

 宮本顕治は、自分が、川端治論文、座談会を何度も認可し、推奨した個人責任を棚上げして、それを「特異な情勢論」ときめつけた。これは、丸山真男が、指摘しているように、「左の日本共産党に内在する、右の天皇制と同質の無責任体質」を示すものである。なかでも宮本顕治は、その責任転化体質、無責任体質の、もっとも偉大な具現者である。なお、川端治は、ペンネーム山川暁夫ともいい、大阪経済法科大学客員教授でもあった。有田芳生HP中の『時代を読む眼』の「方法としてのジャーナリズム」に、『山川暁夫さんが遺したもの』が載っている。

 第二、ましてや、それらの特異な情勢論、運動形態論で、組織的グループが結成されたこともない。「分派」の実態とは、宮本顕治のいう「ふたばのうちにつみとれ」状態や、茨城良和査問委員のいう「星雲状態」であり、その程度の党中央への不満、批判は、全国どの党組織にも存在したレベルのものだった。

 分派でないものを「分派」とでっち上げるのは、なかなか大変だった。そこで、ずる賢い宮本顕治は、「前衛党式分派基準」を変造し、「宮本式・新分派基準」を偽造した。党本部専従800人のかなりが、宮本顕治の手口・体質にたいし、「ずる顕」というあだ名の事実認定をしている。処分した民青幹部100人に分派活動があったか、なかったかを考える上で分派に関する3つの判定基準を検討する。

 〔第一の正統派基準〕は、日本共産党公式解釈としての『社会科学総合辞典』「政党の内部で、その綱領や方針と規約に反対してつくられる派閥的グループ」である。これは固定的中心メンバーによる継続活動を伴っている。また、世界のコミンテルン型共産党の共通基準は、上記レーニン提案の「第2項」である。

 〔第二の実態的基準〕は、14の一党独裁国のほとんどに作られた前衛党最高指導者私的分派である。それは前衛党の内部で、自己の独裁的権力保持・強化を目的とするもので、資本主義国前衛党の日本共産党における、下記「表」の宮本側近グループである。また、『私の21日間の監禁査問体験』で分析した箕浦「喫茶店グループ」も同じ性格である。

 〔第三の新基準〕は、1972年民青問題をめぐって、宮本顕治が鋳造した偽造分派である。偽札や偽造コインがある。宮本顕治は、50年分裂の徳田野坂分派、ソ連派、中国派など分派との闘争では大ベテランである。共産党中央忠誠派の民青中央委員会に置きかえるための対民青クーデターの決断をしたとしても、その口実がない。彼の豊富な経験から見ても、分派のふたばを嗅ぎ取れる程度だった。そこで彼は、正統派基準を破り捨てた。

 共産党常任幹部会は、「民青幹部年齢32歳→25歳への引き下げ方針」を、民青中央委員会に事前相談をしなかったが、正規に決定した。それに異論をもち、発言した民青幹部で、個人宅、喫茶店、居酒屋などでその異論を一回でも話した、またはそれに同調した2人、3人分派である。それは2人分派、3人分派であるとする新分派基準を偽造した。

 その偽札(的基準)を使用するよう全都道府県党組織に指令し、リストアップすれば、査問対象者などはすぐ600人になる。ただ、査問600人、内処分100人という数字は、川上徹の全国推計で、党中央は当然ながら公表していない。以上から見ると、「新日和見主義分派」は、宮本鋳造の偽造分派コインを使った、宮本式規律違反デッチ上げである。愛知県における指導改善民主化運動鎮圧、その後の2つのクーデター事件など、これほど見事な粛清手腕を発揮できるのは、資本主義国の前衛党指導者では他に見当たらない。

 したがって、新日和見主義事件で「分派」は存在したのかという問いかけには、正反対の2つの回答が出てくる。〔第一の正統派基準〕から見れば、「分派」など、まるで存在していなかった。〔第三の新基準〕「党中央への不満を一言でも漏らした2人分派、3人分派」という宮本偽造分派基準によれば、分派容疑者600人、明白な分派100人が、存在したことになる。

 この(1)1972年対民青クーデター事件は、(2)1983年対民主主義文学同盟クーデター事件、(3)1984年対平和委員会・対原水協クーデター事件とあわせて、共産党系大衆団体内・党グループを宮本忠誠派に総入れ替えするための三大クーデター事件と呼ばれている。(2)(3)については、『不破哲三の宮本顕治批判』〔秘密報告〕でくわしく分析した。

 こうして、宮本顕治と下記「表」の側近グループは、電光石火の600人査問と査問期間中の党員権停止をした。前衛党の査問システムと4つの容疑対象については、『ゆううつなる前衛』後半の『査問システム』で分析してある。この手口は、(1)「新日本文学」関係の分派粛清、(2)「社会主義革命論」分派粛清、(3)「構造改革論」分派粛清、(4)ソ連内通の分派粛清、(5)中国内通の分派粛清などにおいて、他の常任幹部会員、幹部会員、中央委員らにたいして幾度もやってきたことだった。

 宮本顕治、側近グループが、私的分派グループ会議を開いて、民青口封じ査問手口の細部にわたる私的合意をした。川上徹13日間にわたる査問継続・党員権停止とは何なのか。立花「年表」にあるように、波多然は、1934年無実のスパイ容疑で37日間、不破哲三ら3人は1951年無実のスパイ容疑で約60日間、私は箕浦ねつ造の無実の分派容疑で21日間、油井は宮本ねつ造の無実の分派容疑で4日間、ジャーナリスト高野孟氏の査問は1週間だった。高野HPに、その査問経過が書かれている。これらは、すべて監禁査問という形態の人権蹂躙犯罪だった。

 2、事件体験の現役党員 「分派存在の有無」に関するメール意見

 1、新日和見主義における「分派存在の有無とそのレベル」

 

 宮地さんの意見に少し異論がある。当時の私の経験では、分派の萌芽はあったということとである。この点については、「れんだいこ」新日和見主義事件の概観のなかでもうかがい知る事ができる。思想的に未熟な面もかなりあり、これが党中央の批判キャンペーンに一定の根拠を与えたと私は思っている。

 

 当時私は蛸足の地方大学でたこの尻尾学部にいたため、自治会執行委員長という立場にいながら、全学連や、中央の雰囲気が遅れてやってくる状況だった。全学連機関紙「祖学」や、「民新」などでは川端治や、香月徹、川上徹などが毎号登場し、「沖縄協定の締結によって日本のファシズムが急速に進む」「現在の情勢はナチスを台頭させた30年代と酷似している」などとし、「60年安保を上回る闘争を構築しよう」「やつらを通すな」(スペイン人民戦線スローガン)と主張していた。

 

 しばらくして、大学自連合の会議などで、「どっかの闘わない政党と違って自連合は最後まで戦おう」などの提起がされるようになった。「どっかの政党」が「共産党」であることは明白だったが、当時は「地区委員会や県委員会」への批判だと自分では捉え、中央批判だとは想像できなかった。あるとき、沖縄問題で、青年学生分野の運動を統一戦線的なものに発展させるための会議が招集され、私も参加する機会があった。自連合、民青、県連合青年団、少しばかりの労組青年部など全体で10名前後だったと思う。「どっかの闘わない政党」はここでも問題になり、「闘わない政党は期待せず、青年だけでまず大闘争を構築しよう」などの発言が続き、このとき初めてこれら批判が、学生だけでない青年運動全体の問題であること、地区や県の批判だけでなく中央も含まれていることなどを理解した。

 

 民主集中制の組織を是とすれば、これらは規律違反ということになる。(現在の私は是とは思っていないが)

 

 新日和見主義問題での党批判で「事実無根のでっち上げ」などがあるが、「双葉」だったり「星雲状態」だったりしていても党規約に従えば批判される根拠はあったと思う。同時にこの問題を、理論的思想的問題として論争によってあるいは説得的教育的に、民主主義的に解決する方法があったはずである。査問という強権を振りかざす半民主的、人権抑圧的方法は絶対にとるべきではなかったと思う。

 

 2、民青の組織後退が始まった時期とその原因

 

 新日和見主義の問題でもうひとつ気になっていることがある。それは民青の組織後退がこの事件をきっかけに始まったとするものである。確かにそうだったかもしれないが、それだけではなかったのでないかという気がした。

 

 民青の組織がこの問題を前後してどうなったかということは、それらをつぶさに知る立場になかったため一概に言えないが、学生の組織の中ではおそらく68年、69年ごろがひとつのピークだったのではないかと思う。その後徐々に後退していった、その流れの中でこの問題があったのではないかという気がした。2本足の活動といいながら事実上組織拡大と選挙中心で、大衆闘争を軽視あるいは組織的引き回しによって、そしてその路線が完成していくにつれて青年分野の後退が徐々に始まっていったように思う。

 

 73年か74年ごろだと思うが、幹部の若返りと称して、経験の浅い10代の地区委員長を作ったり、25歳で機械的に卒業させたりということが新日和見主義問題の中でおきたといわれている。確かにそうだったかもしれないし、当時、この事には僕も強い違和感を感じた。組織の中では中央の方針を積極的に受け止め、無条件に実践することが求められ、それが組織の発展方向であるなどと議論されていた。間違った決定も正されず、ただ中央の方針に従った、民主集中の組織のなせる業なのではないかと思う。私自身は民青とのかかわりを69年から82年まで続けたが、少なくとも70年代はまだ今日ほど深刻な後退でなく、十分修復可能だった様に思う。

 

 生活と仕事に追われ、時がたち、気がついたら民青は壊滅的な後退の中にあり、当然のこととして党の後継者が出来ず、組織が老齢化していた、いったい自分は何をしていたのかという思いがおきた。

 

 前大会の綱領改訂などを経、自分の考えもずいぶん変わってきた。今日の党にはあまり期待していないが、やはりいまだに籍を置き、週2回の早朝配達が党員らしい唯一の活動となっている。それが自分の正しい生き方なのかどうか自問しながら、模索しているところである。

 

 2、宮本私的分派を中心とした「分派」査問委員会

 )、査問委員会とは

 査問委員会とは、選挙(=前衛党式役員任命システム)による規約上の常設党機関ではなく、査問すべき規律違反が発生したとき、随時設立される。1972年「新日和見主義分派事件」のケースでは、常任幹部会が査問委員会のメンバーと査問委員会責任者を決めた。ただし、事実上の査問委員会責任者は宮本顕治である。査問の態様は、同志的、紳士的「調査」とは、まるで違っている。「分派」査問とは、革命運動への敵、反革命分子への、手段を問わない尋問である。その監禁査問スタイルは、私の21日間の監禁体験からみて、調査イメージをはみ出した、資本主義国前衛党・日本共産党による共産党員への、まぎれもない肉体的拷問そのものである。私自身、地区常任委員のとき、査問委員側になった経験が4回ほどあり、被査問側と査問側の両面の体験者として、彼らのやり方は手に取るように分かる。

 2)宮本私的分派を中心とした査問委員メンバー・リスト

 この時期、宮本委員長の権威、権限は、常任幹部会内だけでなく、書記局、中央各部局において絶対的なものだった。そのレベルは、14の一党独裁国前衛党システムと同質の個人独裁と呼べる状態にあった。それだけでなく、宮本顕治は、私的な最高指導者側近グループを形成してきていた。これは、『私の21日間の監禁査問体験』にも書いたが、1969年愛知県指導改善問題発生で中央から派遣されていた八島勝麿中央委員が「中央には茶坊主ばかりいる」と発言したこと、その他赤旗記者民主文学同盟元幹部も茶坊主、オールドワンへのイエスマン、宮本側近グループの存在」などと、いろいろ指摘していることからもうかがえる。

 代々木党本部内における「宮本秘書団」を中核とした側近グループのごく一部をリストアップする。以下のメンバーは、代々木本部専従・赤旗記者の800人、共産党国会議員秘書、党員文学者などの間では、「ごますり」「茶坊主」「イエスマン」と呼ばれ、公然の秘密である。その秘密度合いは、『私の21日間の監禁査問体験』で書いたように、愛知県での箕浦准中央委員・県副委員長・名古屋中北地区委員長が自ら形成した箕浦グループ、別名「喫茶店グループ」の県・地区最高指導者私的分派の公然度と同じレベルである。しかし、誰も表立っては言わない。愛知県党内でも、代々木党本部内でも、それを言えば、瞬時に密告され、規約第2条8項「党の内部問題を党外にもちだした」規律違反(=他の専従党員に話すこと)、または分派容疑で査問されるからである。

(表2) 宮本側近グループ・私的分派リスト

名前

出身

14回大会党内地位

1977

20回大会党内地位

1994

任務経歴

諏訪茂

宮本秘書

常任幹部会員

1972年、宮本捏造による民青新日和見主義分派査問委員、15回大会常任幹部会員。死去

宮本忠人

常任幹部会員

常任幹部会員

書記局次長、機関紙局長

小林栄三

宮本秘書

常任幹部会員(中央委員から2段階特進)

常任幹部会員

文教部副部長、袴田政治的殺人「小林論文」執筆と粛清担当、教育局長、法規対策部長、思想建設局長、書記局員、山形県猪口県委員の粛清担当、『日本の暗黒』連載中断での下里正樹赤旗記者解雇・除名の粛清担当

小島優

宮本秘書

幹部会委員

常任幹部会員

書記局員、日常活動局長、統制委員会責任者、長期に赤旗編集局・拡大部門担当

白石芳郎

宮本秘書

幹部会委員

常任幹部会員

書記局員、選挙・自治体局長、文化・知識人委員会責任者

宇野三郎

宮本国会秘書(宮本参議院議員時期)

中央委員

常任幹部会員

社会科学研究所長・党史資料室責任者、『党史』編纂責任者、宮本意向の理論化担当、党批判者・反党分子への反論部門担当、『民主文学四月号』問題での宮本意向を受けた民主文学同盟幹部粛清担当

金子逸

宮本秘書

常任幹部会員

宮本ボディガードで身辺防衛担当、書記局次長

佐々木陸海

宮本秘書、宮本議長室室長

常任幹部会員

国際委員会責任者、衆議院議員、書記局次長

上田均

宮本秘書

幹部会委員

常任幹部会員

財務・業務局長

有馬治雄

宮本秘書、宮本議長室室長

常任幹部会員

書記局次長、選対局次長

有働正治

宮本秘書

幹部会委員

選対局次長、『前衛』編集長、参議院議員

吉岡吉典

宮本秘書

准中央委員

幹部会委員

赤旗編集局長、政策委員長

 1977年の第14回大会とは、袴田副委員長・常任幹部会員の全役職剥奪をした大会である。小林中央委員・元宮本秘書は、袴田粛清担当で大活躍した。宮本顕治は、私的分派ボスの栄光と権威を守りぬいた功績を高く評価し、彼を常任幹部会員へと2段階特進をさせた。

 1994年の20回大会とは、宮本引退前の大会である。宮本顕治は、宮本秘書出身者のかなりを常任幹部会員に抜擢していた。側近グループ・私的分派を土台とする宮本個人独裁絶頂期に達していた。このメンバー以外にも、宮本側近グループと党本部内で言われている幹部が数人いる。いずれも宮本顕治に大抜擢され、幹部会員、常任幹部会員となり、党中枢部門を担当し、宮本顕治の周辺を固めた。

 これは、前衛党最高指導者が自ら形成する私的分派である。この現象は、宮本顕治固有のものではない。14の一党独裁国前衛党でも、そのほとんどで、この性質の分派が形成されていた。徳田・野坂も、『党史』で認めているように、50年分裂当時、党勢力の約10%の宮本分派を排除して、90%からなる主流派分派を作り、地下へ潜った。90%を分派と呼ぶのは変であるが、宮本式『党史』では、勝てば官軍で、徳田・野坂分派と規定した。その徳田書記長も、有名な家父長的個人中心指導という最高指導者私的分派を作っていた。

(表3) 「分派」査問委員会メンバーの判明分

査問委員会責任者

形式上の責任者 ?  実質的な査問委員会責任者 宮本顕治

宮本側近グループで、査問委員

諏訪茂、宮本忠人、宇野三郎、小林栄三

側近グループ以外の査問委員

不破哲三、上田耕一郎、下司順吉、茨城良和、雪野勉、今井伸英

 この査問委員会とは、宮本私的分派が、分派ではない600人を「分派である」とでっち上げて、彼ら全員から「2人分派、3人分派だった」という密室・無期限監禁査問状況下での自白調書を書かせるための委員会だった。

 査問委員上田耕一郎副委員長が果たした、3つの犯罪的役割については、『日本共産党との裁判第5部(2)』で分析した。

    『上田耕一郎副委員長の党内犯罪事例』上田耕一郎の思想検事役

 3)、査問の実態

 前衛党による査問の実態については、ソ連、東欧で多数出版されている。(1)アンナ・ラーリナ著『夫ブハーリンの想い出』(岩波書店、1990年)(2)チェコ外務次官アルトゥール・ロンドン著『自白』(サイマル出版会、絶版)などがある。(3)『自白』は、『Z』のコスタ・ガブラス監督、イブ・モンタン主演の映画『告白』になっていて、ビデオ(東北新社)も3800円で入手できる。前衛党の査問がどのようなものかを、映像で、イブ・モンタンの熱演とあいまって、リアルに観ることができる。ビデオ・レンタルで借りることができれば、必見である。(4)ソルジェニーツィンは、『収容所群島』の『審理』で、それを「32種類の拷問」に分類、分析した。

説明: http://www2s.biglobe.ne.jp/My%20Documents/IMG00116.jpg

 大衆的な前衛党日本共産党による査問実態を解明した文献を、発生時期順に並べる。(5)1933年12月小畑・大泉スパイ査問事件についての、立花隆著『日本共産党の研究()(講談社文庫)(6)同、宮地HP『スパイ査問問題意見書』、およびそこに掲載した多数の参考文献、(7)1951年2月不破哲三ら3人へのスパイ査問・リンチ事件についての、安東仁兵衛著『戦後日本共産党私記・第七章』(文春文庫)(8)1967年「愛知県5月問題」での、宮地HP『私の21日間の監禁査問体験』(9)1972年民青問題の川上著書、(10)同、油井著書、(11)1982年「戦後革命論争史」執筆・出版に関する上田・不破査問についての、宮地HP『上田耕一郎副委員長の多重人格性』がある。(12)査問システム全体の分析は、宮地HP『ゆううつなる前衛』がした。

 よって、この文では、査問の具体的実態を書かない。

 ただ、共産党は、総選挙での「反共ビラ」への反撃として、2000年6月「赤旗号外」で、「共産党に査問という制度はない」とする、まったく欺瞞的ビラを全戸配布した。それが、いかに欺瞞的反論かは、『ゆううつなる前衛』の「査問システム」で分析してある。なぜなら、査問の実態と、ビラで言う調査という日本語イメージとは、まるで違っているからである。しかも、従来から、中央・都道府県・315地区専従4000人のほぼ100%が、査問という日本語を日常的に使ってきたからである。規律違反で調査・調査委員会などという日本語は、4000人専従の誰一人として使ってきていない。また、決定的証拠としては、『日本共産党の六十五年・上』のP.75で査問の途中でおこった小畑の急死」と、正式に記述しているからである。また、『日本共産党の七十年・上』のP.110でも査問中の予期しない小畑の急死」、P.111で「当時宮本ら党中央が査問した二人がスパイだったこと」と、正式に1994年時点でも『党史』に記述しているからである。

 よくぞ、これほどの真っ赤なウソをつけるものだと、感心するほどである。ソルジェニーツィンは、その全体験から、「ソ連は、ウソによって成り立つ社会」と喝破した。日本共産党は、さしずめ、「ウソによって成り立つ科学的社会主義政党」とでも言うべきだろうか。

 3、「分派禁止規定」の見直し―逆説「レーニンと1921年の危機」

 ところで、日本共産党史上最大規模の、この粛清事件では、宮本顕治は「分派だった」ときめつけ、川上、油井らは「分派などではなかった」とした。これらは、いずれも分派は前衛党にとっての絶対悪とする組織原則を前提にした。しかし、それを大原則とした一党独裁国前衛党は10カ国で一挙に崩壊した。そこで、その呪縛された思考を解き放って、1921年ロシア共産党()第10回大会でのレーニンが提案した「フラクション(分派)禁止規定」そのものは、正しかったのか、誤りだったのかを、根源的に問い直す必要がある。ヨーロッパ資本主義国前衛党では、ポルトガル共産党以外のすべての共産党が、「民主主義的中央集権制」とともに、その基本原則の一つである分派禁止規定」も誤りだったとして、それを放棄した。

 ただ、その根本的見直しとなると、1917年二月革命から1921年までのロシア革命全過程の分析、見直しが必要である。それは長大になりすぎるので、ここでは逆説の1921年問題だけにとどめる。逆説のポイントは、2つある。一つは、ロシア革命の最重要起点をツアーリ帝政を倒した二月革命と見るか、それとも従来どおり、十月ボリシェヴィキ単独武装蜂起・単独政権樹立に置くかである。

 もう一つは、1917年から1921年までのロシア革命勢力の捉え方である。二月帝政打倒の中心勢力は、労働者・兵士・農民ソヴィエトと、ソヴィエト内社会主義政党エスエル、メンシェヴィキ、アナキスト党派だった。ボリシェヴィキは、二月革命で、弱小党派のため中心的役割を果たさなかったことが、ソ連崩壊後の新資料でも一層明確になってきている。これら全体をロシア革命勢力と見るか、それとも十月単独武装蜂起・単独政権樹立、その後の一党独裁政権党としてのボリシェヴィキを中心とする革命勢力と見るかである。そして、レーニンのレッテル貼りどおり、他のすべてを反革命・武装反革命に転落した党派と見るかである。左翼エスエルとの連立は、3カ月間で破綻した。。

 この文では全経過を書かないが、その資料として、私は、HPに、いくつかの研究文献を載せている。

 第一、1917年10月、単独武装蜂起の是非、連立政権か一党独裁政権かをめぐる党内論争と、他のロシア革命勢力から強烈な批判、反発を受けたことは、R・ダニエルズ『ロシア共産党党内闘争史』が多面的な資料を駆使して解明した。。

 第二、1917年11月、ボリシェヴィキ政権が憲法制定議会選挙を実施したこと、そこで175議席、25%しか取れなかった少数派ボリシェヴィキ、レーニンが、1918年1月その憲法制定議会開会第1日目で武力解散させたこと、他の75%政党およびそれらに投票した国民、支援した諸ソヴィエトが猛反発し、ボリシェヴィキ政権は、二月革命以来のロシア革命勢力の中で一挙に孤立化したことは、中野徹三教授『社会主義像の転回』が詳細な分析をした。

 第三、1918年春から夏、ペトログラード、モスクワの飢饉が急迫し、レーニンが「食糧独裁令」を出し、ボリシェヴィキの食糧徴発隊と貧農委員会が、暴力で農民から食糧を徴発し、ロシア革命の中心勢力の一つであるロシア全土の農民ソヴィエト全体を、貧農を除いて、ボリシェヴィキ反対勢力に追いやり、内戦の主要原因を、ボリシェヴィキ自らが作った、レーニンの決定的誤りについては、ロイ・メドヴェージェフ『1917年のロシア革命』がある。彼は、ソ連崩壊後に発掘された新資料を使って、内戦の主要原因を、従来説の外国干渉軍、白衛軍ではなく、第一原因をレーニンの憲法制定議会武力解散の誤り、第二原因をこの「食糧独裁令」の誤りにあるとし、その時点での別の具体的選択肢があったと、画期的なロシア革命解釈を提起した。1920年、その内戦は、「戦時共産主義」体制の下、1000万人の犠牲者を出して終結した。

 1921年の危機は、1920年内戦が終わっても、赤軍、チェーカーを中心とするボリシェヴィキの「戦時共産主義」継続への不満、批判として、5つの分野で、勃発した。それは、ボリシェヴィキ一党独裁政権発足以来の最大の危機だった。内戦中、国民は、白衛軍将軍・旧地主たちの政治体制には戻りたくないという気持ちから、レーニンの上記2つの決定的誤りと「戦時共産主義」の暴力、抑圧への不満を沈潜化させていただけだった。

 第四、イダ・メット『クロンシュタット・コミューン』の「15項目のクロンシュタット綱領」が、その全階層の不満、批判内容を集約的に示している。白衛軍敗北により、レーニンの誤り、ボリシェヴィキ一党独裁政権への、国民全分野での不満、怒りが爆発した。

 ()ボリシェヴィキ「食糧独裁令」政権への広範な農民反乱、()ペトログラード労働者の大規模なストライキ、()クロンシュタット・ソヴィエト、水兵55000人の反乱、()農民基盤のエスエル・左翼エスエル、労働者基盤のメンシェヴィキ、クロンシュタット基盤のアナキストなど、レーニン、チェーカーによる逮捕、強制収容所送り、国外追放、銃殺から生き残っていたロシア革命党派の、それらへの参加、()それらのボリシェヴィキ党内への反映としての、レーニン主流派批判の「労働者反対派」「民主主義的中央集権派」らの3つの分派となっての表れだった。

 レーニンは、クロンシュタットの反乱に特別強い衝撃を受けた。なぜなら、それはまさに、ペトログラード十月単独武装蜂起における革命の栄光拠点ソヴィエトによるボリシェヴィキ一党独裁路線の否定だったからである。

 第五P・アヴリッチは『クロンシュタット1921』で、これら5つ全体を分析しつつ、レーニンによる、第10回大会への演説のための概況メモを公表した。レーニンは、そこに『クロンシュタットの教訓:政治学では――党内における隊列(および規律)の閉鎖、メンシェヴィキと社会革命党にたいする一層の闘争。経済学では――中産農民を可能なかぎり満足させること』と記していた(P.271)

 ただ、分派問題は複雑である。「1918年戦時共産主義」開始から、「1921年の危機」にいたる諸問題と、それをめぐる党内論争、そこから形成された意見対立と3つの分派の内容、規模を解明するには、長大な分析を必要とする。それには、(1)R・ダニエルズ『ロシア共産党党内闘争史』の第4章「戦時共産主義と中央集権化論争」、第5章「労働組合論争」、第6章「1921年の危機」が、膨大な関係資料を利用して、詳細な研究をした。私のHP転載は、第2章の一部だけである。

 こうして、レーニンは、1917年10月以来の誤った路線、政策の度重なる積み重ね結果による最大の危機を迎えた。その間におけるボリシェヴィキ一党独裁体制とは、1918年1月、議席獲得率25%少数派政党による議会武力解散独裁にもかかわらず、レーニン直属秘密政治警察チェーカーと赤軍という警察・軍隊赤色テロルによって、かろうじて支えられているシステムだった。

 第六中野徹三教授は、『共産主義黒書を読む』で、ソ連崩壊後の解禁された新資料の一例を引用した。それによれば、1919年1月24日のボリシェヴィキ党中央委の秘密決議は、「最後の一人まで根絶し肉体的に抹殺すべき富めるコザックに対する無慈悲な闘争、大量テロルこそが、唯一の正しい政治手段である」と記録されている。それら暴力的抑圧を基本手段とする少数派独裁への全国民的総決起にたいして、レーニンには、3つの選択肢があった。

 〔第1選択肢〕、レーニンが自ら上記誤りを認め、一党独裁を放棄して、他の二月革命以来のロシア革命政党と連立政権を組む、あるいは、少なくとも「15項目のクロンシュタット綱領」のいくつかを受け入れることだった。ただ、この選択は、一党独裁の誤りを認め、マルクス・レーニン型社会主義革命からの決定的後退となる。

 〔第2選択肢〕、赤軍とチェーカーの暴力を使って、5つの分野における反乱を全面弾圧するとともに、「戦時共産主義」の暴力、抑圧体制を、そのまま継続し続けることである。しかし、この選択は、他の二月革命以来のロシア革命政党、ソヴィエトによる反ボリシェヴィキ一党独裁のさらなる全国的総決起を惹き起こし、孤立した、議席獲得率25%少数派の一党独裁権力が崩壊してしまう危険が大だった。

 〔第3選択肢〕、あくまで一党独裁に固執し、それを維持し続けつつ、その危機を切り抜けるためには、5つへの異なった対策により、各個撃破作戦を採ることだった。革命労働者へは、懐柔策と弾圧の両面作戦を行ない、ストライキを鎮圧する。革命水兵へは、15項目要求受け入れを全面拒否し、赤軍50000人を派遣して、クロンシュタット・ソヴィエト55000人を武力鎮圧、殺戮、逮捕者の銃殺、強制収容所送りをする。ソヴィエト内社会主義党派へは全面弾圧、逮捕、銃殺、強制収容所送り、国外追放をする。ボリシェヴィキ以外の他党派すべてを、チェーカーの暴力で、最終的に殲滅する。

 党内には、、対ボリシェヴィキ反乱4つが党内に反映した3つの分派にたいする『党の統一について』決議の「フラクション禁止7項目規定」で、レーニン・フラクション以外のフラクションを解散させる。それら4つの作戦を成功させるため、国民の80%を占める農民にたいしてだけ「ネップ導入」による懐柔政策で、クロンシュタットの教訓:経済学では――中産農民を可能なかぎり満足させ、政権生き残りを画策することだった。

 レーニンは、〔第3選択肢〕を選んだ。レーニン・メモ「クロンシュタットの教訓:政治学では――党内における隊列(および規律)の閉鎖」は、クロンシュタットの衝撃と「フラクション禁止規定」の決断とが直結していたことを証明する貴重な資料である。第10回大会代議員たちは、一党独裁にたいする全面反乱によって、ボリシェヴィキ一党独裁権力が崩壊する恐怖におののきた。そこで、レーニン提案の5方面作戦に賛成した。

 レーニンは、それら各個撃破作戦に、大規模な粛清、赤色テロルを付随させた。以下は、P・アヴリッチ『クロンシュタット1921』および、中野徹三教授『共産主義黒書を読む』に載っているデータである。

 革命労働者へは、市内への大軍事力の集結以外では、ボリシェヴィキは一層の罷業者をかれらの工場からロック・アウトすることによって抗議運動を打破しようとした。それと同時に、広範な逮捕がペトログラート・チェカーによって遂行された。工場集会や街頭デモで体制を批判した演説者は拘留された。1921年2月の最後の数日間に、約500名の反抗的労働者と組合幹部が牢獄で絶え果てた。同様に検挙された学生、知識人、およびその他の非労働者はおそらく数千名を数え、その多くは反対政党およびグループに所属していた。それ以前に、「プラウダ」紙の1920年2月12日号には、「ストライキをする労働者、この有害な蚊の最良の場所は、集中収容所(KZ)である」という表現が、すでに現われていた。

 革命水兵へは、1921年3月のクロンシュタットの水兵反乱が鎮圧されたのち、4〜6月の間に2103名が死刑の判決を受け、6459名が投獄された。あとの数千名は、フィンランドに送られ、いつわりの恩赦の約束でロシアに帰されたが、すでに出来ていた北極海につながるソロヴェツキー島とアルハンゲリスクの収容所に送られ、その大多数は手を縛られ、首に石を付けてドビナ河に投ぜられた。

 社会主義他党派は、ペトログラートのメンシェヴィキ組織がチェカーの急襲によってとくに手痛い打撃を蒙った。それまで逮捕をまぬがれていた、ほとんどすべての活動的指導者が監獄へ護送された。1921年の最初の3カ月間に、党の全中央委員を含む約5000名のメンシェヴィキがロシアにおいて逮捕されたと推定されている。それと同時に、まだ自身を自由とみていた少数の著名なエス・エルとアナーキストが同じく検挙された。ヴィクトル・セルジュがその『一革命家の回想』において語っているところによれば、チェカーはそのメンシェヴィキ収監者をストライキの主要な教唆者として銃殺しようとしたが、マクシム・ゴーリキーが干渉して彼らを救いた。

 党内の労働者反対派へは、レーニンが、第2項で、いかに党内論争が反革命諸勢力によって利用されるかの実例としてクロンシュタットを引用した。その後まもなく、レーニンは信頼の置けない分子を排除するため「頂上から底辺まで」の党の粛清を命じた。1921年夏の終わりまでに、全党員のほぼ四分の一除名した。

 「党の統一について」決議は、もともと大会の議事日程で予定されていなかったもので、1921年3月16日大会最終日の会議で、レーニンがいわば緊急動議のかたちで提出したものだった。それだけでなく、「フラクション禁止」の第7項は、まさに前衛党そのものを変質させる根本的誤りだった。レーニンは、その7項目規定によって、党内での批判の自由、党内民主主義の実質的抑圧に決定的な一歩を踏み出した。あまりに誤った“非常事態”規定だけに、レーニン自身が、その第7項だけを、大会以外への公表を禁じ、「秘密条項」とするよう提起した。

 「秘密」第7項の内容は、「党内に、また、ソヴィエトの全活動のうちに厳格な規律を打ちたてるため、また、あらゆる分派結成を排除して、最も大きな統一を成し遂げるために、大会は、規律の違反とか、分派の発生や黙認とかの場合には、党からの除名をふくむあらゆる党処罰の措置をとり、また中央委員については中央委員候補に格下げするとか、非常措置としては党から除名さえする全権を中央委員会に与える」とするものだった。これは、党組織の歴史における転換点だった。党大会で選出され、したがって大会でしか格下げ、除名できない中央委員にたいする処分権を中央委員会に与えるという非常事態規定である。

 これらの規定によって、レーニンは、党内民主主義を抑圧する道をスターリンに先駆けて、切り開いたのである。スターリンは、3年後の1924年、レーニン死後、「秘密条項」を“解禁”した。それによって、この規定を公然とした恒常的規定に格上げし、政敵排除に全面的に活用した。それだけでなく、スターリンは、レーニンの「教訓」を受け継ぎ、それをエスカレートさせた。党大会だけにある処分権の一部を剥奪して中央委員会に全権移譲させることから、さらにスターリン支配下の書記局に全権を集中させた。それは、スターリン・側近グループの私的分派独裁に必然的に移行した。スターリンにとって、レーニンは、この党内民主主義抑圧路線における偉大な教師だった。

 大藪龍介教授は、『国家と民主主義』で、この1921年問題を「ネップ導入と政治の逆改革」と規定した。ザミャーチンは、SF小説スタイルの『われら』で、ボリシェヴィキの一人として、ソ連国内における、最初のレーニン批判・告発文学作品を1921年に書き、逮捕された。石堂清倫は、『二〇世紀を生きる』で、ロイ・メドヴェージェフとの一致点として、だから、ロシア革命は1921年をもって終わってしまったとした。もちろん、分派による弊害はいろいろある。私は、『イタリア左翼民主党の規約を読む』で、「分派禁止規定」を放棄した後の、党内における複数意見の潮流の横断的形成と、3つの潮流による3つの党大会議案への党中央の対応策を分析した。レーニンの誤り・大量殺人犯罪については、他にも多数のファイルで検証してある。

    『「スターリンは悪いが、レーニンは正しい」説当否の検証』ファイル多数

 この新日和見主義分派事件は、分派でないものを分派とでっち上げる誤りであるとともに、この党内民主主義を抑圧するレーニンのフラクション禁止7項目規定を、何の疑いもせず、科学的社会主義の組織原則として適用した、という二重の誤りだった。暴力革命のための軍事的集権を基本理念とする民主主義的・中央集権制と、この分派禁止規定とが、1921年に初めて合体した。それは、党中央批判意見の横断的、水平的交流・動向すべてに分派レッテル貼りをするという、世界政党史上もっとも反民主主義的システムをレーニン自らが完成させたことを意味する。その日本における具体的表れについては、『なぜ民主集中制の擁護か』と、『ゆううつなる党派』で書いた。

 4、分派ねつ造のしくみとその背景

 )、「規律違反」でっち上げ手口

 「新日和見主義分派」ねつ造の1年前、宮本顕治は、典型的な規律違反でっち上げ手口として、1971年春の愛知県県委員U専従解任事件を強行した。これは、その1年前という時期と規律違反でっち上げ手口から、「新日和見主義分派」ねつ造と密接な関係があるので、詳述する。

 1971年7月に参議院選挙があり、選挙前の春に伊豆学習会館で、党中央招集の各県政策担当者2、3人ずつを対象として、党中央選挙政策学習会が開かれた。愛知県党からは、県政策委員長・県委員Uと労働組合専従書記・県政策委員・県委員2人が参加した。Uは、1967年「五月問題」時期に、県委員として私たち地区の箕浦批判活動を応援し、県委員会レベルでで支援活動をした。その挫折後県委員としてただ一人査問された。「指導改善」運動では、拡大県委員会総会で県常任委員会批判とともに、党中央批判を10回前後発言した県専従である。

 学習会の主催責任者は上田耕一郎副委員長だった。その正規の会議上での討論で、2人が、愛知県党における県政・名古屋市政政策とその指導のやり方について、井田誠愛知県委員長・幹部会員批判発言をした。批判内容は、共産党愛知県議団・名古屋市議団から、それらの政策問題について県常任委員会に提起しても解決されず、議員たちや愛知県政・名古屋市政の政策担当者2人のなかに、井田県委員長への批判、不満として蓄積されていたもので、まったく正当なものだった。

 その場は何事もなく、2、3日後、党中央から、2人の井田幹部会員批判は発言行為、発言内容とも重大な誤りであり、査問し、自己批判させよ、との電話があり、2人は瞬時に査問された。2人は、中央招集の正規会議での批判発言であり、内容も正しく、なんの規律違反でもないからと、自己批判書提出を拒否した。2人の批判行為・内容を宮本顕治に密告したのは、上田耕一郎だった。

 ただし、彼の一般的報告を、宮本顕治がリストアップされていた「反中央専従」の絶好の粛清口実にねつ造したのかは不明である。すると中央から折り返しの指示があり、井田幹部会員はUに、自己批判書を書かなければ専従解任すると通告した。これは共産党専従者にたいするもっとも卑怯な最後通告的脅迫である。なぜなら解任された専従者の再就職先は皆無に近いからである。

 Uは、やむなく自己批判書を提出し、他の一人は党専従でないので、自己批判そのものも拒否し続けた。拒否した彼を規約上の処分にもできなかったことは、この批判行為がなんの規律違反でもなく、党中央批判発言専従を規約に違反して排除するための宮本・井田式粛清手口であることを示した。Uが自己批判書を提出すると、党中央は、Uは専従としてふさわしくないから、専従解任せよ、とだまし討ち解任を指令した。彼を専従解任措置だけで、規約上の処分にしなかったことは、これが規律違反ねつ造脅迫の宮本式反党行為であることを証明した。専従解任措置と規約処分とのちがいについては、『私の21日間の監禁査問体験』文末で分析してある。Uは、これまでの数百人の党中央批判発言専従の首切られ側作法どおり泣き寝入りした。その後、彼は再就職先もなく、しばらくして自宅で学習塾を始めた。

 その数日後、井田幹部会員は、数十人の県勤務員全員を緊急招集し、U専従解任報告とともに、幹部会方針であるとして、党中央批判は一般党員には許されるが、専従者には一切許されないと全員をにらみつけながら脅迫通告をした。この通告が、幹部会会議から帰った直後になされたことは、これが宮本指示により全党的な党中央批判専従粛清方針として決定されたことを示した。私は、これにたいして何もできなかった。Uと私とは、「五月問題」や「指導改善」運動で関係があり、前選対部員と現選対部員という関係もあり、私がその場で異議を唱えていれば、私も即座に専従解任されていたであろう。しかし、私は現在でも、自責の念をもって、その時点で私は何らかの発言・行動をすべきではなかったかと考える。

 私は、この1971年春のU専従解任経過を体験し、幹部会の党中央批判専従首切り方針を聞いて、彼らが次に狙うのは私であろうという予感を抱いた。なぜなら、私は、1967年「愛知県5月問題」で、箕浦准中央委員・愛知県副委員長・中北地区委員長の赤旗拡大指導の誤りに関して、地区常任委員として、他の常任委員、地区委員とともに、彼への批判活動を1カ月間にわたり行なっていたからである。さらに、1969年、愛知県第2次指導改善問題で、拡大地区常任委員会、地区委員会総会、拡大県委員会総会、中北地区党会議、愛知県党会議において、その都度、愛知県常任委員会批判とともに、指導の誤りの責任所在に関して、10回以上強烈な中央委員会批判、その責任追及発言をしていたからである。ただ、その時が来たら、私は絶対泣き寝入りをしないとの決意を固めた。

 )「分派」ねつ造のしくみ

 Uら2人への査問は、なんの規律違反もないのに、上田耕一郎密告()→宮本指令により、強行された。ただ、「新日和見主義分派事件」での疑問は、民青600人から1000人もの大規模な規律違反行為についての明確な証拠、密告もないのに、査問通告をして党員権停止ができるのかということである。これも『ゆううつなる前衛』で16項目にわたり、批判者排除システムと査問システムで分析したように、前衛党の党運営の深部で常時行われているやり方である。まず、職業革命家4000人のなかで、中央委員、県委員、地区委員という党機関役員は過半数いる。

 常任幹部会員、都道府県委員会常任委員、地区常任委員という3レベルの党執行機関役員は、事実上の上意下達式独裁執行権限をもち、千数百人から二千人いる。それらにおいて党内出世主義意識が形成される仕組みと実態については、『私の21日間の監禁査問体験』で書いた。資本主義社会の大会社と同じく、前衛党職業的思想信仰集団内においても、最高権力者にたいする忠誠派、中立派、批判派・面従腹背者が存在する。むしろ、民主主義的中央集権制という反民主主義的・上意下達的閉鎖組織の中では、出世主義意識はより強く形成される。

 最高権力者は、自分にすりよってくる、かわいい忠誠者と、党決定は実行するが自分を崇拝しない幹部との見分けはすぐつきる。自分への批判者がいれば、その仲間や同調者たちも、鋭い嗅覚で分別できる。民青新日和見主義分派問題をねつ造し、600人以上の民青、学生、ジャーナリスト幹部を一挙に査問し、自己批判書を書かせ、そのうち100人を無実の分派活動規律違反口実で処分、粛清した宮本顕治は、不満者・批判者をリストアップする嗅覚の点ではもっともすぐれた前衛党幹部だった。民青幹部600人に査問通告をする前、あるいは、口封じ査問通告をまずしておいて、そのリストのメンバーを個々に呼びつける。

 そしていきなり、規律違反の疑いで、または、他の同志から報告(=密告のこと)があったが、川上徹や他の同志に会ったり、電話した月日、どういう内容を言ったかすべて話しなさい。ただし、この事件は重大なので、あなたはしばらく自宅に帰れない。この瞬間から一切の電話も禁止する。手帳、ノート、持ち物すべて今出しなさい、と監禁査問通告をすればいい。600人以上いようが、このスタイルで査問すれば、半分以上は、直ちに、すべてを自白し、自白調書(自己批判書)を書く。川上徹や他の同志が話した不満・批判内容とその行為は、規約第二条八項違反(=他の専従という党外に批判を話した規律違反)とねつ造認定する。

 スターリン、エジョフ、ベリヤらは、ありもしない分派活動容疑で、ソ連共産党員100万人を、ソルジェニーツィン『収容所群島』によれば32種類の拷問にかけ、自白調書を書かせた。宮本顕治と宮本私的分派は、600人を無実の分派活動規律違反をねつ造して、全員に2人分派・3人分派活動をしたという自白調書(自己批判書)を書かせた。従来の分派査問経験と比べれば、この民青の青二才どもへの査問なら、宮本私的分派にとって、いとも簡単なことである。

 しかも、本物の最高指導者私的分派が、査問対象者たちのありもしない分派をねつ造し、自白させるわけだから、自分たちの分派経験によって査問追求のポイントもよく心得ている。民青新日和見主義分派問題では、民青中央・県レベルにおいて、共産党中央の対民青方針への意見、批判は存在したものの、いわゆる第一基準分派などなにも存在しなかったことは、川上徹著『査問』(筑摩書房)、油井喜夫・民青静岡県委員長著『汚名』(毎日新聞社)で、白日のもとにさらされた。

 )、背景(1) 「ゲバ民」武装闘争体験と民青20万人飛躍的拡大による、共産党中央盲従からの自立、自主志向の表れ

 川上徹や『突破者』(南風社)を書いた宮崎学らは、70年安保・東大紛争のとき、宮本顕治の直接指令により、共産党提供資金で、全国から1万人の民青・学生を動員し、1万本の鉄パイプ、ヘルメットを用意し、いわゆる「ゲバ民」(鉄パイプ、ゲバ棒で武装したゲバルト民青)を組織し、新左翼系学生と武装闘争を展開した。

 ちなみに、党内における「正当防衛反撃の正当性」理論は、宮本顕治が、70年安保、東大安田講堂封鎖のとき、積極的に提起し、その実行を直接指揮したものである。新左翼派学生が、封鎖反対・解除方針の東大民青を何度も襲撃したのを受けて、宮本顕治は、全国から1万人の民青、学生を動員し、全額共産党資金でその滞在費だけでなく、1万本のゲバ棒、鉄パイプを準備し、いわゆる「ゲバ民」を組織し、武力闘争を実行させた。「ゲバ民」とは、共産党提供の豊富な資金により、鉄パイプで武装した、全国動員のゲバルト民青1万人の略称である。

 その理論的基礎が「正当防衛」論で、論旨は、これは正当防衛なので、民青1万人を東大に動員し、1万本のゲバ棒で武装するという違法性は阻却され、鉄パイプで殴り返すのは法的にも正当である、とするものだった。これは、暴力革命路線理論の一種であり、いつも隠蔽している敵の出方論の応用編、実践編だった。敵の出方論については、『5つの選択肢』文末の第五選択肢で詳述した。宮本顕治は、その理論を「赤旗」で公然と言うのは都合が悪いので、1万人部隊に口頭で徹底させた。当時の「ゲバ民」行動隊長だった宮崎学は『突破者』(南風社)第一部「秘密ゲバルト部隊」(P.133)で、そのゲバ戦闘をリアルに描いている。宮本顕治の直接点検の様子、一夜でのゲバ棒撤収指令については、当時現地「ゲバ民」指導部責任者川上徹が『査問』(筑摩書房P.37)で具体的に記した。

 これは、敵の出方論という暴力革命路線の一種を、現綱領確定以後初めて顕在化させ、実践したものである。機動隊の安田講堂突入の事前情報をつかんだ宮本顕治は、再び川上徹に直接指令を出し、ゲバ民側の鉄パイプ、ゲバ棒1万本を一夜の内に隠匿、処分させた。新左翼系学生との闘争を通じ、ゲバ民のなかには、自分たちの青年学生運動のやり方に自信をもち、また他方で新左翼的思想傾向の一定の影響も出てきた。

 そして、共産党中央の上意下達式対民青方針への意見、不満も出るようになった。それは、ゲバ民活動から1年後の1971年12月、共産党による民青年齢引き下げ方針の一方的決定と民青への強引な押し付け問題をめぐる、民青中央委員会側の共産党中央委員会への疑問、批判噴出で浮き彫りになった。この間、民青は飛躍的拡大を続け、同盟員は20万人という巨大組織に発展してきていた。

 民青の「年齢引き下げ問題」とは次の内容である。従来の民青は、加入28歳まで、民青幹部は32歳までだった。それを超えると民青を卒業する。それは、労働組合青年婦人部の年齢とも対応していた。民青内の指導・活動経験継承システム上でも合理性があった。それにたいし、党中央は民青中央に事前相談もせず、()加入を25歳まで、()民青幹部の年齢を25歳に引き下げる、()必要とする幹部でも30歳と一方的に決定し、民青中央グループに伝え、民青大会で決定させようとした。その強引なやり方への疑問、批判、共産党方針実行には一定の経過措置・期間が必要などの意見が噴出し、民青中央委員108人の半数以上党中央決定に異論をもつ事態となった。

 この民青側意見の正当性根拠は、油井喜夫・民青静岡県委員長著『汚名』がくわしく分析した。私の民青地区委員長1年半の経験、その前の全損保労働組合青年婦人部役員3年の経験からみても、民青側意見はまったく正当である。しかし、これらに宮本顕治の嗅覚は、分派のふたばを嗅ぎ取った。彼は、これに強烈な危機意識をもった。彼は、共産党系大衆組織における最大規模の、かつ、共産党の指導を受けると規約に明記している民青20万人が、制御不能になる恐怖に怯えた。

 )、背景(2) 共産党専従・民青専従からの党中央批判者、異論者強制排除・粛清方針決定と執行

 1971、72年当時、すでに共産党専従は、党員30万人にたいして4000人近くいた。民青専従は、飛躍的に拡大してきた同盟員20万人にたいして1000人をはるかに超える次世代職業革命家軍団を形成してきていた。一方、共産党専従内の正統派分派とその幹部たちの強制排除は、ソ連派、中国派追放の時期までで、完全な成功を収めていた。そこから、その1000人以上の現・次世代職業革命家軍団を、同じく形成・強化されてきた宮本私的分派の一声で、一糸乱れず行動する、統制・制御された職業革命家軍団に作り変えることが、一枚岩の党・満場一致の党大会・宮本顕治と宮本秘書団の党にヴァージョンアップさせる上で、当面する緊急課題に浮上してきた。そのためには、まず、現・次世代「職業革命家」軍団における党中央批判者、異論者強制排除・粛清が絶対必要条件となった。

 1969年愛知県「指導改善」運動・県レベル党民主化運動が党中央統制を乗り越えようとし、党中央批判に収斂する気配をみせ、それに再三にわたる、卑劣な宮本式鎮火活動でようやく弾圧し、1971年からの「清算主義三重唱」をまだ大声で披露している最中だった。党中央批判者3人中2人は専従解任したが、まだもう一人の私が未排除だった。しかも、この民青問題発生直前の1971年春には、U専従解任問題でのべたように、井田幹部会委員・愛知県委員長は、幹部会方針である。党中央批判は一般党員には許されるが、専従者には一切許されないと、幹部会から帰って、すぐ県勤務員全員を緊急招集して宣告していた。この宣告内容は、その場で、私が直接聞いて、その日の日記に書いたので、一字一句間違いない。

 それは、宮本顕治が、党中央批判発言専従の排除方針を決定し、全党的に秘密裏の粛清開始を指令したものだった。それは、宮本顕治と側近グループの思いのままになるコミンテルン型一枚岩の党を作り上げ、満場一致型党大会を継続させる荒療治だった。その粛清方針を分派のふたばを芽生えさせた民青・学生・ジャーナリスト600人に拡大適用するのは、宮本顕治の思考スタイルとして必然のことだった。

 なぜなら、共産党と民青とは、民青規約で指導・被指導を明記する関係にあり、4000人共産党専従内粛清方針と千数百人の民青専従内粛清方針とは、不可分一体の同時進行形として、中央、全都道府県で貫徹されたからである。したがって、民青「新日和見主義分派事件」=100人処分・民青専従解任は、それ独自の孤立した粛清事件ではない。ただ、党中央批判発言の共産党専従粛清人数は、1930年代後半のスターリン・大テロルの正確な犠牲者数が今尚不明のように、不明である。

説明: http://www2s.biglobe.ne.jp/My%20Documents/IMG00126.jpg

 5、共産党系大衆団体内・党グループへの三大クーデター事件の一つ

 共産党中央と共産党系大衆団体との関係についての宮本顕治の思考スタイルは、1930年前後スターリン全盛期に育っただけに、スターリンの「ベルト理論」とほぼ同質のものである。その理論とは、共産党の方針・決定は共産党系大衆組織というベルトを通じて、国民に貫徹・浸透させるとするものである。党中央と大衆団体内共産党グループとは、上意下達の民主主義的中央集権制原則が貫徹される。

 今回のケースでは、共産党中央委員会が1971年12月、6中総で決定した「民青の対象年齢引き下げ方針」への民青中央グループの批判、不満、意見は許さないとするものである。この思考スタイルは、平和委員会・原水協組織や民主主義文学同盟分野でも貫徹されていた。グループとは、大衆団体内の被選出機関にいる共産党員で作られる共産党基礎組織の一種である。

 その宮本顕治にとって、70年安保闘争、大学紛争、ゲバ民後の川上徹らの民青中央委員会108人の過半数や民青中央グループの態度は、分派ではないものの、反中央傾向に発展する危険性をもつと映った。そこで、宮本顕治は、彼らの傾向を直接観察するための場として、川上著『査問』(P.11)にあるように、共産党代々木中央本部で党本部幹部多数と民青中央常任委員の合同レセプションを開いた。その場の宮本顕治について、川上徹は次のように書いている。

 私の眼は、会場のいちばん角の薄暗くなっている一角にじっと座っている、大きな人影を見つけだした。…私はそれまで人間の視線を恐ろしいと感じたことはなかった。冷たいものが走る、という言い方がある。そのときに自分が受けた感覚は、それに近いものだったろうか。誰もいない小さなその部屋で、私は、あのときの視線を思い出していた。その視線は、周囲の浮かれた雰囲気とは異質の、じつと観察しているような、見極めているような、冷ややかな棘のようなものであった(P.14)。自らの直接観察による直感に基づいて、宮本顕治は、民青側の批判、意見がこのままでは、反中央の分派的傾向に発展する、それはふたばのうち摘み取らねばならないとの決断を下した。

 『査問』『汚名』『突破者』『虚構』4冊出版によって、日本共産党史の謎の一つであった民青新日和見主義分派問題の本質が明らかになった。

 〔第一次クーデター〕1972年、「ゲバ民」武装闘争体験者であり、青年学生運動の自主的方針を考え始めた、川上徹らの民青が邪魔になってきたので、600人を全国一斉に査問し、邪魔者100人を一挙に殺した。かわりに、共産党中央忠誠派の民青中央委員会に置きかえるための、宮本顕治による対民青クーデターだった。

 〔第二次クーデター〕、1983年、宮本顕治は、その後、このスターリン「ベルト理論」型思考に基づいて、「民主文学四月号問題」で、対民主主義文学同盟クーデターを発動した。そこでは、文学運動とまるで関係のなかった、元宮本国会秘書・宇野三郎常任幹部会員を粛清担当につけた。

 〔第三次クーデター〕、1984年、原水協と原水禁・総評との統一行動問題で、対平和委員会、対原水協クーデターを強行した。この対民青クーデターをふくめて、宮本顕治は、共産党系大衆団体内・党グループへの3大クーデター事件を成功させた、「ベルト理論」の偉大な実践者である。(2)(3)については、『不破哲三の宮本顕治批判』〔秘密報告〕で詳細な分析をしてある。

 6、権利停止処分以外の報復措置

 規約による処分とともに、他の報復措置を必ず添付するのが、宮本・不破式粛清スタイルである。私の警告処分に添付された専従解任・点在党員措置と、民青権利停止処分者100人への民青専従解任・点在党員措置とは、同質のものである。ただ、川上・油井著書には、それらの経過がほとんど書かれていない。よって、『日本共産党との裁判第4部』から私の〔報復(2)〕の一部、〔報復(3)〕ケースを転載する。そこでの〔報復(1)〕は、私への警告処分、〔報復(4)〕は、脳波検査問題であるが、それは、この民青粛清とはやや性質が異なるので、この文への転載をしない。

 )、宮地共産党専従解任=100人民青専従解任

 〔報復(2)〕、宮地を警告処分と同時に専従解任せよ。ただ、専従解任理由として、8カ月前の1分間発言行為では無理があるので、「意見書」内容を逆用した理由をねつ造せよ

 1976年8月5日、私を警告処分にするための県勤務員支部総会は、私が発言内容の真実性を主張するので、また他県常任委員4、5人も同じ規律違反者として同時に査問すべきと要求するので紛糾し、午前11時から午後3時まで4時間もかかった。彼らは相談し、結局『、密告によって判明した』8カ月前の1分間発言行為のみによる警告処分とした。その直後の午後3時10分、今度は県常任委員2人が私を呼びつけて、専従解任を通告した。

 警告処分は、党規約第66条に基づく規律違反処分である。それにたいして専従解任は、党規約とは一切関係なく、共産党人事方針による4000人の専従採用・解任・定年退職措置の一つである。ただ、この人事方針は、どこにも文書化されていず、その施行実態は宮本、不破氏らの恣意的裁量という人治主義の闇のなかにある。4000人の専従問題については、『ゆううつなる党派』第四で分析してある。

 私は、解任の理由を言ってください、と聞いた。彼らは()あなたにたいしてのみ、多くの同志が県への不平・不満を言うというふきだまり状態にあなたがなっていること。()そういう状態の規律違反が長いことから、専従としての資質に欠けると答えた。私は直ちに、専従解任とその解任理由に不同意を表明した。彼らの本音は、1969年愛知県「指導改善」民主化運動時点での何度もの党中央批判発言専従3人中の残り一人への報復、「党中央批判発言専従の全員粛清」幹部会方針による排除だったが、それを露骨に言うわけにもいかない。8カ月前(総会時点では1年3カ月前)の1分間発言行為だけでは、発言内容の真実性を争っているので、解任理由にするには、やや無理がある。

 そこで彼らは苦労して、「意見書」の数十人実名入りの批判内容を逆手にとって、そこからこの()()解任理由をねつ造した。そもそも「意見書」内容を、()そういう状態の規律違反が長いと歪曲するなら、専従解任通告10分前までの警告処分・支部総会で10数件の規律違反事例として追加すべきである。それをしないのは、その解任理由がねつ造であると自分たちでも分かっていたのである。県への不平・不満のふきだまり状態になっているなどとは、よくぞデッチ上げたものだと感心するほどである。彼らがつけたふきだまり状態というレッテルの解明は、愛知県指導改善民主化運動の全経過と関連しているので、日本共産党との裁判・第二部で行った。

 県常任委員会は、「意見書」5通で克明な問題点事例を暴露されて、なんで宮地がこんなに知っているのかと驚き、それを逆手にとって、県への不平・不満のふきだまり状態になっているとする専従解任理由をデッチ上げた。規約に基づく正規の「意見書」内容を、解任理由に仕立て上げるのは、井田県委員長・幹部会員と県常任委員会のまったく悪質な規約違反反党行為である。

 )、宮地愛知県委員会直属点在党員措置=民青100人都道府県委員会直属点在党員措置

 〔報復(3)〕、宮地を警告処分、専従解任だけでなく、同時に点在党員組織隔離という格子なき党内牢獄へ閉じ込めよ。それにより上級機関への「意見書」垂直提出権以外の党員権を事実上すべて剥奪せよ

 専従解任通告を受け、それへの不服表明をした後、私は彼らに転籍問題を聞いた。それへの不服表明もあって、その通告儀式は、同日午後4時半までかかり、この3つで、私は5時間半も粘ったことになる。点在党員措置については、少し説明がいる。「点在党員」とは、所属組織がまだ決まっていない党員のことである。それは、ある職場、地域で党員が3人以上になり、支部が結成できるまでの時期、あるいは、転勤、専従解任・引退後、先方の支部へ所属組織を移動する間の、過渡的・一時的措置としては存在する。その場合、通常は、先方の組織へ移動する「転籍書」を直ちに書く。

 専従解任への不服を言うとともに、私は、それでは居住支部に転籍させるのかと聞いた。県常任委員らは、いや転籍させない。あんたを県直属の点在党員にしたと返答した。私は、専従解任問題が決着ついたら、転籍させるのか。いつなら転籍を認めるのか、と問いただした。すると彼らは、いつ転籍させるかは言えない。転籍させるかどうかも言えないと何か表情をこわばらせて答えた。その返事の態度や口調は、「意見書」を取り下げなければ、あんたのような反中央分子は永久に転籍させないというニュアンスだった。結局、後述の第14回大会「上訴書」却下後も転籍を認めなかったから、永久に点在党員のままにする方針だった。

 この私への「点在党員にしたままで転籍させない」特殊措置は、規約にない党中央批判専従への組織隔離であり、格子なき党内独房である。なぜなら、様々な党員権は、なんらかの基礎組織か党機関に所属して初めて行使できるもので、この県直属点在党員は、水平的・横断的交流全面禁止の民主主義的中央集権制の下では、単独で、かつ垂直に、党中央に「意見書」を提出する権利以外はすべて剥奪されるという党内独房状態に強制的に収監されることになるからである。

 しかも、その「意見書」提出権を行使しても、私の「意見書」など22通が、通常発行される「受領書」が1通も来ないままで、1976年10月党大会までの1年8カ月間1度の審理、問合せもなく、すべてが完璧に握りつぶされるという状況だった。その本質は、「8カ月前・1分間発言」規律違反程度からみて宮地をまだ除名、除籍できないので、党籍を独房に閉じ込めてしまい、格子なき牢獄からたとえ「意見書」が出てこようとも、それを従来どおり無視することによって、実質的に宮地の党員権を全面剥奪せよという、宮本、不破、井田らのもっとも卑劣な規約違反反党行為である。

 専従解任後、強烈な汚染・伝染力をもつ党中央批判保菌者宮地を居住支部へ転籍させ、野放しにすれば、宮地がそこでも汚染・伝染言動をより活性化するのを恐れたからである。そこで彼らは、私の批判言動を完全に封殺するため、特高の予防拘禁式組織隔離を真似した。そもそも、治安維持法なるものが、天皇制打倒、資本主義体制の暴力的転覆を目指す非合法暴力革命政党コミンテルン日本支部、日本共産党員、シンパの言動を封殺するための予防拘禁的な格子ある牢獄、独房隔離措置法律だった。

 その天皇制の組織隔離独房に、宮本顕治12年、袴田10年、徳田・志賀らは18年収監されていた。宮本顕治は、自分が体験した「格子ある治安維持法独房」の言動封殺手口を、今度は合法的革命政党・前衛党最高権力者として、党中央批判者を専従解任後も転籍させない点在党員措置という格子なき牢獄手法で逆用した。

説明: http://www2s.biglobe.ne.jp/My%20Documents/IMG00117.jpg

 しかも、宮本顕治は、この4年前の1972年、民青新日和見主義分派事件で、処分した100人近くの民青中央・都道府県機関内共産党員にたいして、この転籍措置を悪用した大規模な最高指導者が自ら行う反党活動をしていた。党中央批判者への宮本顕治の策動は、『なぜ民主集中制の擁護か』『ゆううつなる前衛』にあるようにいろいろある。一番の邪魔者は、除名、除籍の党外排除で党籍剥奪する。党籍剥奪してしまえば、後処理は簡単で、彼らに反党分子というレッテルを貼って、各都道府県党組織部(=反党分子対策部を兼ねる)から「反党分子監視報告書」を定期的に報告させればいい。

 「監視報告書」で情報入手すれば、例えば、被除籍反党分子・哲学者古在由重1990年死去での追悼集会呼びかけ人リストにある現役共産党員を個別に呼び出し、「中央委員会決定である、参加するな」と通告し、手を引かせる。さらに、「古在由重先生を偲ぶつどい」に1400人が参加し、古在死去黙殺の赤旗への批判が高まると、逆に赤旗で、1984年宮本顕治の対平和委員会・原水協クーデターへの共産党員古在の「反中央規律違反言動」をねつ造暴露して、死者に鞭打つ仕打ちをすればいい。その党籍剥奪口実をねつ造できない者は、共産党、民青、平和委員会・原水協などの専従を解任し、そこの所属党組織、グループから追放する。

 その場合、すべてのケースで転籍問題が発生する。新日和見主義分派事件とは、上記のように宮本式対民青クーデターだった。しかし、事件には分派そのものが宮本偽造分派基準によるだけで、存在していなかった以上、監禁査問・帰宅査問600人、内処分100人を除名、除籍の党籍剥奪をする口実までは、さすがの宮本顕治もねつ造できない。そこで、少なくとも、監禁査問後の被処分者100人の民青グループ所属党員の転籍問題が生じ、そこでは一応除名1人を除く全員に「転籍書」を書かせた。宮本顕治は、100人の転籍処理を3分類して指令した。

 〔転籍分類1〕宮本偽造新基準2人分派、3人分派についての自己批判不足、今後も党中央批判を保有しそうな民青幹部は、提出された「転籍書」を握りつぶし、転籍先党組織への移送処理をしない。その党員から催促されても、今、処理中と生返事しておく。これは意図的に「転籍書」を宙に浮かせた空中独房である。これは、高野孟へのケースである。

 〔転籍分類2〕いつか党中央批判活動を再開する危険性のある民青幹部は、2、3年間の県直属点在党員組織隔離後、要注意人物の「口頭」秘密ラベルつきで相手方党組織へとりあえず転籍させる。ただし、処分事実という「転籍書」必須記入欄に本人が記入した「新日和見主義分派事件での処分ランク」は、党中央事前検閲黒塗り封印をした上で、転籍させる。川上、油井は第二類メンバーだった。

 〔転籍分類3〕、4年後、私にしたように、最初から「転籍書」も書かせない永久に転籍させない格子なき党内独房隔離である。宮本顕治が、第三類措置を広谷俊二中央委員、党員評論家川端治にしたかどうかは不明である。また、民青グループ内被処分共産党員100人のうちでの、第一類転籍、第二類転籍の割合は、閉鎖組織のに隠れて不明である。

 これら権力批判言動封殺の予防拘禁隔離は、特高や宮本顕治だけでなく、一党独裁国でも権力者たちが愛用する常套手段となっている。ソ連反体制遺伝学者ジョレス・メドヴェージェフは、ソ連共産党に逮捕され、反体制意見の彼は狂人であると烙印を押され、格子ある精神病院に強制隔離された。この方法は、1960年代以降ブレジネフが数百人規模で広汎に悪用した。病院内では、薬物による反体制派廃人化計画という、恐るべき前衛党犯罪によって、大量の精神安定剤、その他薬剤を投与、強制注射する。双子兄弟の反体制歴史学者ロイ・メドヴェージェフサハロフの国内だけでなく、西側マスコミ、国連にまで訴えての、必死の救出活動によって、彼は廃人になる寸前の体調で、格子ある精神病院牢獄から釈放された。

 メドヴェージェフ双子兄弟は、共著『狂人とは誰か』で、狂人レッテルを貼る手口、薬物廃人化計画の実態を告発した。それは『悪魔の飽食』ならぬ前衛の飽食というべきもので、これほど悪質な政党犯罪は、世界政党史上でもかつて見られないものである。ただ、731部隊同様、ソ連崩壊後もその全貌は闇のなかにある。

 中国共産党は、1989年6月の天安門事件の日が近づくと、今でも毎年、事件関係者数十人を予防拘禁独房に収監した。特高、宮本顕治、ソ連共産党、中国共産党は、権力形態、場所、格子有無の違いこそあれ、権力者が批判者にたいして行う批判言動封殺の予防拘禁隔離行使という卑劣さで共通点を持っている。

 私は、彼らの〔報復(1)(2)(3)〕のなかで、この点在党員組織隔離にはとりわけ強烈なショックを受けた。なぜなら、彼らの報復において、こういう手口があるのを、それまでまったく知らなかったからである。川上徹ら被処分者100人への転籍悪用手口を知ったのは、1997年『査問』が出版されてからである。警告処分、専従解任は、従来の粛清事件から予想可能なものだった。しかし、転籍させない点在党員措置とは、格子なき党内独房収監だった。

 これらの3つの報復は、党籍がある私にたいする三重殺というべきものである。それは、「寅さん」映画のせりふ「そこまで言っちゃーおしまいよ!」のように、“そこまでやっちゃーおしまいよ!”というほど私を追い詰めた。想定外のあまりのショックで、頭が破裂するかと思うほどの頭痛に見舞われた。このままでは、気が狂うかと思った。ソ連共産党員で、長期の査問・拷問・監禁によって、数千人が気を狂わせたという著書も読んでいた。そこで、防御策として、トリスウイスキー角瓶の一気飲みをし、意図的に二日酔いをしたほどだった。こういう目にあって、こんな党をやめよう、と思ったら良かったのかもしれない。彼らの狙いはまさにそこにあった。

 しかし、私はそれまでにマルクス、レーニンの文献もかなり読み、60年安保入党世代の一人として、まだ社会主義と日本革命実現に幻想を持っていた。まだ共産党員としての活動をし、批判も続けようと思っている者にとって、この〔報復(3)〕は格子なき牢獄そのものだった。したがって、午前11時から午後4時半までの1日のうちに行われた三重殺に会って、文字通り「怒髪天を衝く」という心境に、生まれて初めてなった。私は三重殺の現場で、「そんな理由の警告処分、専従解任、点在党員措置には納得できない。不服なのであるぐ意見を提出する」と発言した。その後、〔報復(1)(2)(3)〕にたいして『第14回大会への上訴書』を提出した。処分問題での「党大会への上訴」とは、司法制度での最高裁上告と似ている。ただ、「党大会への上訴」行為は、それ以前の第9回党大会以降で、誰もやっていない前代未聞の反逆だった。

 宮本顕治と側近グループは、この「新日和見主義分派事件」と命名した、対民青クーデターによって、党中央批判・異論を持つ民青専従100人を民青から追放し、かつ、共産党員として点在党員措置=格子なき党内牢獄への収監にも完璧な成功を収めた。それだけでなく、民青中央委員108人の過半数が異論を唱えた、民青加入を28歳から25歳、民青幹部を32歳から25歳にする、党中央の「民青年齢引き下げ決定」を即時実行した。それにより、青年運動の豊な経験がある26歳から32歳の民青中核専従幹部約2万人以上も自動的に強制排除した。

 民青静岡県委員長油井喜夫『汚名』(毎日新聞社、1999年、P.52)は、次のデータを載せている。当時、全国平均で25歳以上の同盟員は13%・約2万人だった。静岡県では、25歳以上9%・453人の同盟員によって、5000人からなる組織の指導体制の相当部分が維持されていた。対民青クーデターは、それら指導部の根幹を一挙に追放し、その必然的な結果として、民青を破壊した。

 私の1960年代初頭における民青地区委員長・愛知県委員1年半の体験から見ても、それが、民青同盟胎内にどのような「劇薬効果」をもたらすかをありありと思い浮かべることができる。それにより、20万民青は、1970、80年代の青年たちに、日本共産党・宮本路線をストレートに伝達する「スターリン式・宮本式ベルト」として、立派に再生させられた。

 宮本私的分派の功績は、それだけにはとどまらない。民青は、60年安保闘争前は、数千人だった。それは、大躍進を続け、この「分派」事件が起きるまでには、同盟員20万人、民青専従1000人以上を擁する巨大組織に成長していた。そして事件後、「宮本式ベルト」に再生させられてからは、1994年時点までの22年間で、同盟員2万3千人未満、地区委員会組織も廃止になる、というストレートな縮小再生産を成し遂げた。その潰滅ぶりに驚いた共産党は、従来の経営支部、居住支部以外に、「青年支部」新設方針を打ち出したほどである。

 日本民主青年同盟は、同盟員を20万人から2万3千人未満へと飛躍的に拡大させた宮本顕治・日本共産党委員長の偉大な功績を忘れず、末永く顕彰すべきであろう。2006年第24回党大会時点、民青の事実上の潰滅実態については、別ファイルで分析した。

    『(真相データ12)、宮本・不破による民青破壊犯罪と民青潰滅』

 

「新日和見主義」の分派活動とは何だったか

――川上徹著『査問』について――

 

「赤旗記事・全文」(1998..20)の宮地によるHP復刻版

 昨年末、川上徹著『査問』という本が筑摩書房から出版された。

 著者の川上徹は、一九六〇年代後半から七〇年代にかけて日本民主青年同盟(民青)の中央常任委員として活動していた人物で、一九七二年、日本共産党の党史上で「新日和見主義」とよばれる分派活動の中心メンバーの一人となり、規約をふみにじった規律違反行為で党の調査をうけた。川上徹は、分派活動の誤りを認めて自己批判し、党員権停止一年の処分をうけたが、党にとどまりた。しかし、九〇年、日本共産党員の資格に欠ける言動があって、党から除籍された。

 今回出版された本は、このときの「新日和見主義」の分派活動について川上徹か党から調査をうけたことについて書いたものである。その大きな特徴は、川上徹が「分派活を理由にしてやられた。だが、それは「別件逮捕」と同じようなものではなかったか」と書いているように、この本を読んだ人に“自分は不当な処分をうけた被害者だ、分派活動というような実体はなかった”という印象をあたえるところにある。

 ここでいう分派とは、日本共産党の内部で、党の方針に反対したり、自分たちの方針や考えを党に押しつけるなどのためにつくられる派閥的グループのことである。

 日本共産党は、党の規約でこういう派閥活動、分派活動を禁止し、党員は「全力をあげて党の統一をまもり、党の団結をかためる。党に敵対する行為や、派閥をつくり、分派活動をおこなうなどの党を破壊する行為はしてはならない」(第二条)とさだめている。これは、一九五〇年に当時の徳田書記長らの分派活動によって党中央委員会か解体され、全党が分裂と混乱に投げこまれた「五〇年問題」という党自身の痛切な体験を教訓にして確立されたもので、統一と団結を保障する日本共産党の大事な組織原則の一つであり、国民に真に責任を負おうとする近代政党なら当然の原則である。

 川上徹は、この規約をふみにじって「新日和見主義」の分派活動をおこなったために、党の調査をうけた。具体的な事実のあらましをみてみましょう。

 「新日和見主義」分派は、七〇年代初頭に党と民青同盟の一部にあらわれ、七二年五月に発覚した。

 川上徹らは、当時、党中央委員だった広谷俊二(元青年学生部長)らを中心に、人民的議会主義の立場をより鮮明に打ちだした第十一回党大会決定(七〇年)に反対するための「研究会」を党にかくれて継続的にもち、広谷らがふりまく党中央や党幹部へのひぼう・中傷などを「雲の上の情報」などといって、民青同盟内の党員や全学連その他にひろげ、党への不信をあおりた。

 川上徹らは、その活動のさい、ある党員評論家を、「新日和見主義」の理論的支柱としていた。この評論家らは、ニクソン米大統領の訪中計画の発表(七一年七月)や、ドルの国際的な値打ちを引き下げたドル防衛策(同年八月、“ドル・ショック”といわれた)、七二年の沖縄返還協定の締結など、内外の情勢の変動をとらえて、特異な情勢論を展開し、党の路線、方針に反する主張をひろめていた。アメリカが中国との「接近」「対話」を始めたのは、アメリカの弱体化のあらわれだとして、べトナム侵略をつよめるアメリカの策動を軽視するアメリカ「ガタガタ」論、沖縄返還協定で日本軍国主義は全面復活し、これとの闘争こそが中心になったとして、日米安保体制とのたたかいを弱める「日本軍国主義主敵」論、さらには革新・平和・民主の運動が議会闘争をふくむ多様な闘争形態をもって発展することを否定し、街頭デモなどの闘争形態だけに熱中する一面的な「沖縄決戦」論など、どの主張も運動に混乱をもちこむ有害なものだった。

 川上徹らは、こうした主張の影響をうけて、“日本共産党は沖縄闘争をたたかわない”“人民的議会主義はブルジョア議会主義だ”などと党にたいするひぼうと不信を民青同盟内にひろげた。しかも自分たちの議論を党や民青同盟の機関の会議などできちんと主張するようなことは避け、党や民青同盟の機関にかくれて「こころ派」などと自称する自分たちの会合を、自宅や喫茶店、温泉などで継続的にもって、党の路線に反対する勢力の結集をはかりた。

 とくに、民青同盟の活動における学習活動の重視、幹部の年齢制限など、民青同盟の発展のために党が提起した方針七一年十二月、第十一回大会六中総決定)を大衆闘争軽視だなどとねじまげ、これに反対するため、民青同盟中央内での多数派工作、地方にいる役員へのはたらきかけ、民青同盟中央委員会の会議が開かれる前の発言内容の意思統一や“票読み”活動、さらには民青同盟三役の不信任問題や次期委員長候補の選定を話し合うまでになりた。

 「新日和見主義」の分派には、広谷俊二らのグループ、「新日和見主義」の理論的支柱とされた評論家たち、川上徹らの民青同盟中央の一部集団などいくつかのグループがあったが、それぞれの行動が、党の方針に反対することを目的に、党規約をふみにじった分派活動であることは明白である。彼らは互いに講師活動や執筆活動などで気脈を通じていたが、とくに川上徹はいろいろのグループのいわば“結節点”にいた中心人物の一人として、この分派活動で重要な役割をはたした。川上徹自身、当時、この状況を「多角的重層共闘」とか「問題別共闘」とか称していた。

 七二年五月、党中央は川上徹らの分派活動の動きを知り、常任幹部会の決定のもとに、ただちに調査と事情聴取をおこない、事実の究明にあたりた。その結果、全員が分派活動の誤りを認め自己批判し、規約にもとづく処分をうけた。広谷俊二も、当時は分派活動という党規律違反をおかしたことを認め、党中央委員の罷免、党員権停止の処分をうけたが(七二年十二月、第十一回大会九中総で決定)、党中央は広谷がこんごも党員として党規律をまもり党の決定にしたがうと表明していることを考慮して、彼の処分を党外に公表することはしませんだった。しかし広谷は、七七年、参議院選挙の闘争のさなかに『中央公論』『週刊文春』などの党外の雑誌に登場し、公然と日本共産党を攻撃したため、除名処分となりた。

 党が「新日和見主義」の分派活動の組織的実態や構成メンバーなどについて、これまで具体的に発表してこなかったのは、参加者がすべて誤りを認めて自己批判し、党にとどまる態度をとっていたからである。党は、彼らがそれぞれ党員として立派に再生の道を歩むことを期待し、その見地から、分派活動の組織的実態の暴露や参加者への糾弾などを控え、批判は彼らの行動の前提となった誤った情勢論や方針などの理論的な批判に重点をおいてきた。

 実際、この分派活動にくわわった党員のなかでも、多数の同志たちが、その自己批判を生かした態度をとり、今日まで、党の一員として、いろいろな分野で活動した。

 川上徹の著作は、党のこうした配慮ある態度を悪用して、あたかも事件は「冤罪」であったかのようにいつわったものである。当時の関係者の氏名や調査の過程のやりとりなどをあれこれ書きながら、川上徹か実際にとった具体的な行動についてほとんどふれていないのは、それが党規律違反の分派活動であることがあまりにも明白だからである。

 こういう不誠実では、組織人の立場以前に、責任ある文筆家としての資格とも両立しがたいものである。事実をいつわらず、自分の言葉と行動に責任を負うことは、文筆家の最低限の資格にかかわることだからである。(菅原正伯記者)

油井喜夫著『虚構』

まえがき一部と目次

()これは、「新日和見主義『分派』事件」に関する、4冊目の著書である。この日本共産党史上最大規模の分派粛清事件は、謎に満ちていて、著書副題のように「日本共産党の闇の事件」だった。の理由は、上記の分派正統派基準に照らして、2つある。一つは、この処分100人分派が、綱領路線や党中央政策と対立する、どのような路線を一致して掲げたかである。二つは、査問600人、処分100人が、上記レーニンの分派規定の組織形態を採っていたかである。二つ目の実態は、2人分派、3人分派という宮本式偽造分派基準によるでっち上げ分派だった、ことは明らかになっている。一つ目の内容は、なお不明だった。今回の『虚構』は、その謎を解明するものである。このHPでは、まえがきごく一部と、目次すべてを紹介する。

 まえがき

 党中央によれば、新日和見主義者は民青を党に対抗する反党分派活動の拠点に変質させようとしていたという。そして党中央が提起した()学習活動の比重をたかめる活動や、()民青同盟員の対象年齢引き下げに反対したり、()大衆闘争唯一論や、()自然成長の党建設論、()アメリカ帝国主義美化論や、()日本軍国主義主敵論を唱え()結局トロッキストに通じる「左」の日和見主義におちいったと断罪した。だが本当にそうだったのか。本書は、それらを文献的に検証することにした。

 新日和見主義事件はわかりにくい事件といわれる。その理由の一つは、党の批判が綱領上のテーマからアナーキズム論・青年同盟論・学生運動論・労働組合論・党建設論に至るまで、広い理論的・実践的問題をふくんでいるからだろう。党中央はこの事件を、当時党の内外にあった各種の見解を批判する機会に利用する意図がなかつたか。片言隻句をよせ集め、本質論議と切りはなして非難しなかったか。そして、このような手法をとったうえ、それらを新日和見主義の「理論」として再構成しなかったか。被処分者に意見があっても、党の決定に従ったことをいいことに「分派」の会合でなされたように扱わなかったか。

 事件の特異性は、被処分者の反論が最近までなかったところに象徴される。これまでの反党分派事件とのちがいはここにある。一方、ふたばのうちにつみとった事件でありながら、党の批判文献は膨大に発表、集積された。しかし、それらは被批判者の名前も出典もあきらかにされない不思議な文献であった。となると批判されたと思われる文献を探索し、それをとおして究明するしかない。本書はそれを徹底して試み、党の決議・報告、党最高幹部の発言、個人論文などと比較・検証した。一章から三章は、事件の契機と党中央のきめつけた新日和見主義の「罪科」−政治傾向を党の決議・報告、党最高幹部の発言、党史的文書から論じた。また四章から十一章は個人論文をとおして検証した。うち四章・五章・六章・七章は運動論、八章・九章・十章・十一章は情勢論である。序章では『汚名』出版後によせられた感想・意見、終章では日本共産党の今日的問題をとりあげた。

 目次

 まえがき

 序章『汚名』について 一、よせられた感想や意見 二、体験

 第一章 新日和見主義事件の契機 一、継続審議になった年齢引き下げ案 二、迅速な措置 三、査問

 第二章 国際共産主義運動の干渉者 一、干渉主義から一部の干渉者へ 二、変転する国際的干渉者 三、消えた国際的干渉者

 第三章 新日和見主義に冠せられた「罪科」 一、「罪科」その一 二、「罪科」その二 ()「左」の日和見主義 ()大衆闘争唯一論 ()自然成長主義の党建設論 (四)個人主義的打算 三 党史的文書

 

 第四章 新日和見主義と青年同盟論 一、党にかわる前衛組織 二、学習と総括、一般教養 三、年齢問題 四、労働組合問題

 第五章 新日和見主義と学生運動論 一、大衆闘争=社会発展の原動力論 二、前マルクス主義的革命思想、テロ・リンチと学生戦線の統一 三、学生運動=軽騎兵論、労学提携論 四、大学=民主主義の砦論 五、先輩の援助論 六、学生運動史概観

 第六章 アナーキズム論 一、ミニマムとマキシマム 二、「反党的」出版物 三、情念論−その一 四、情念論−その二 五、未定形の情念 六、ヒトラー・ユーゲントの“研究”

 

 第七章 人民的議会主義論 一、反議会主義は毛沢東派 二、査問と心のゆるせる仲間

 第八章 新日和見主義と沖縄問題 一、いま沖縄は 二、アメリカ帝国主義論 三、本土の沖縄化、本土なみ返還論 四、沖縄協定の良い面・悪い面論、批准反対か阻止か

 第九章 新日和見主義と日本軍国主義主敵論−その一 一、いまアメリカ戦略は 二、ハロラン論文 三、ニクソン・ドクトリン 四、米軍撤退論、日本肩代わり論 五、自衛隊の防衛領域の拡大とアジア進出 六、沖縄ステッピング・ストーン 七、コンピュータ・コンプレックス、ミリタリー・コンプレックス

 

 第十章 新日和見主義と日本軍国主義主敵論−その二 一、日米帝国主義同盟論、核従属論 二、帝国主義復活論 三、いま日本帝国主義論は 四、日本軍国主義復活の諸段階をどうみるか 五、アジア安定主役論、新軍国主義論

 第十一章 一九三〇年代論 一、ローゼンベルグとナチスの一撃 二、ドイツ、フランス、日本

 終章 党改革はいかに 一、廃絶すべき手法 二、なぜひどい査問をやったか 三、レーニン「国家と革命」を否定する不破論文 四、民主集中制論−『新日本共産党宣言』などから 五、民主集中制論−民主的システムの確立 六、レーニンに学ぶ−悪しき体質の清算・廃絶を

 あとがき

 

以上  健一MENUに戻る

 〔関連ファイル〕

    『宮本・不破による民青破壊犯罪と民青壊滅の真相データ』第24回大会の真相

    川上徹   「同時代社通信」著書『査問』全文掲載

    加藤哲郎 『査問の背景』川上徹『査問』ちくま文庫版「解説」

    高橋彦博 『川上徹著「査問」の合評会』

    れんだいこ『新日和見主義事件解析』

    yahoo検索『新日和見主義事件』 Google検索『新日和見主義』

    『日本共産党との裁判第4部』権利停止処分以外の報復措置