フランス共産党の党改革の動向と党勢力

 

「進歩のための統一協定」運動とその結果

 

(宮地作成)

 

 ()以下の党改革内容は、さまざまな文献、マスコミ報道による。ただ、1990年代以降の基本部分は、「労働運動研究No.373」(2000年11月号)掲載の福田玲三論文『フランス共産党の前例−いずれ日本共産党が歩む道』におけるデータに基づく。これと『日本共産党の逆旋回』過程と期間(1977年〜94年)とを比べれば、党改革ディバイド(逆方向格差)が浮き彫りになる。

 

 このファイルは、従来、アルチュセール『共産党のなかでこれ以上続いてはならないこと』の添付文にしていた。その一部を改定した上で、独立したファイルにした。

 

 〔目次〕

   1、1970、80年代における党改革と知識人党員の集団的抗議

   2、1990年代における党改革 1994年「進歩のための統一協定」運動

   3、2000年代における党改革と党勢力のじり貧的瓦解のような激減

   4、いわなやすのりHPのデータ−フランス共産党の党勢力

 

 (関連ファイル)          健一MENUに戻る

     福田玲三『民主集中制の放棄とフランス共産党

     福田玲三『史上初めて対案提出』フランス共産党32回大会

     『イタリア左翼民主党の規約を読む』添付・左翼民主党規約

     柴山健太郎『政権を奪還したイタリア中道左派連合の苦闘の奇跡』

     柴山健太郎『ドイツ連邦議会選挙における左翼党躍進の政治的背景』

     アルチュセール『共産党のなかでこれ以上続いてはならないこと』

     加藤哲郎『ローザ・ルクセンブルクの構想した党組織』

     『コミンテルン型共産主義運動の現状』

     『ゆううつなる党派』その動態的・機能的党勢力

     『なぜ民主集中制の擁護か』

 

 1、1970、80年代における党改革と知識人党員の集団的抗議

 

 1976年 フランス共産党は、第22回大会で「プロレタリア独裁」理論を放棄した。それまでのフランス共産党は、ソ連べったりで、「ソ連共産党の長女」とも呼ばれていた。

 

 1978年3月 総選挙の結果は、左翼連合の敗北、挫折だった。定数491議席のうち左翼野党勢力は全体で201議席しか獲得できなかった。それまでの左翼の経過から、選挙の争点は「左翼連合政権」がついに成立するかどうかにあった。その前の1977年9月に「政府共同綱領」改定交渉が決裂し、左翼連合は分裂していた。それに関する党中央の選挙総括は、(1)共産党の成果、()反共攻撃の激しさ、(3)共同綱領にたいする党の一貫した忠誠と社会党の裏切り、を内容とするものだった。

 

 その総括にたいして、多くの知識人党員が党外のマスコミ、新聞、ラジオで党指導部批判意見を続々と発表し始めたルイ・アルチュセールなど個人にとどまらず、「6人の知識人党員の手紙」、「100人の党員の声明」、「300人声明」が公表された。党中央がルイ・アルチュセール個人攻撃に絞り、彼を孤立させようとした策謀にたいして、集団的抗議に立ち上がり、それぞれ『ユマニテ』掲載を要求したのにたいして、党中央が掲載を拒否したので、マスコミ公表に踏みきった

 

    アルチュセール『共産党のなかでこれ以上続いてはならないこと』

 

 1985年 第25回大会頃より、党中央は、党外マスコミにおける党員の批判的意見発表を規制することもできなくなった。党中央の規制・圧力と知識人党員、多数党員との力関係が激変した。

 

 1989年1月 1979年1月の党員数は70万人だった。しかし、この時点の党員数は、党中央の対応の誤りとそれへの反発により、20万人激減した。

 

 

 2、1990年代における党改革

 

 1990年12月 第27回大会で、ルポール元国務相ら改革派は、民主主義的中央集権制廃止の要求を執拗に提起した。それに対して、マルシェ書記長は「党の運営で、長い間、満場一致を追求してきたことが、決定や指導者に対する異議の表明に、悲劇的展開をみちびいた」としながらも、「民主主義的中央集権制の原則については、その可能性がまだ汲みつくされていない」と要求を拒否した。

 

 1994年1月 第28回大会で、民主主義的中央集権制を放棄した。放棄に()賛成1530人()反対52人()棄権44人という採決結果だった。この大会を機にマルシェ書記長は引退した。代わったユー全国書記は、「民主主義的中央集権制は、統一と画一性を混同し、誠実な共産主義者でも意見が異なれば、これを打倒し、隔離すべき敵であるかのように扱った」自己批判した。

 

 1994年4月 臨時全国委員会で、「進歩のための統一協定」を呼びかけるユー全国書記の提案が了承された。これは「すべての左翼・進歩勢力を結集して議会と政府の多数派になる新しい政治組織がなければ、民衆に有利な政治的出路は考えられない」とし、雇用、平等、社会的・人間的進歩、経済発展、教育、環境、民主主義、新欧州計画、平和、新国際秩序をめぐる対話を呼びかけるものだった。

 

 このアピールは、社会党、市民運動、左翼急進運動、環境世代、緑の党、赤と緑の選択、民主主義と社会主義のための選択、革命的共産主義者同盟(トロツキスト)の政治組織の他に、労働組合や市民団体など全左翼勢力に送られた。

 

 1996年4月 このアピールに基づくフォーラムが1年をかけてフランス全土で行われた後、パリでこれら一連のフォーラムを締めくくる最後の集会が共産党の主催で行われた。1万人を結集したこの集会には社会党のジョスパン党首、「市民運動」のシュベーヌマン議長(元社会党、国防相)、緑の党のヴォワネ代表、「革命的共産主義者同盟」(トロツキスト)のクリヴィン代表らが参加した。それは、ユー全国書記によれば「歴史的」なものに、ジョスパン氏によれば74年のミッテラン大統領選挙運動以来のものとなった。

 

 1996年12月 第29回大会で、「ミュタシオン」(変化)を提唱し、党改革を図った。そこで、ユー全国書記は、要旨次のような提案を行った。「共産党の新たな社会的政治的役割は、第三インターナショナル型のものではなく、現代的で、開放され、ダイナミックで、民主的な新しい型のものである」。

 

 1997年4月 社会党と統一戦線を組み、総選挙に取り組んだ。与党が惨敗し、左翼が躍進した。()社会党の下院議員56人は245人と4倍に伸び、()共産党も24人が37人に、()環境派はゼロから8人になった。()左翼の総合計は議席総数577人の過半数30議席超えた。共産党は、ジョスパン新内閣に3人の閣僚を送り込んだ。

 

 1998年1月 ユー全国書記は、『市民のための開かれた党』という路線を打ち出し、すべての歴史家、ジャーナリストに党の保管文書を公開した。1月24日、党中央委員会大広間には、党史を研究しているあらゆる傾向の歴史家が招待された。ユー全国書記は、来会者を前に挨拶を行った。「私たちは、自身の歴史に対して全政治責任を負わなければなりません。私たちはすでにソ連モデルの後遺症を明らかにしましたが、それが終わったとは思っていません。これらの硬化症がなぜ、どのように党内で横行したのか、スターリン主義がなぜ、どのように党に痕跡を残したのかについてもまた、述べなければなりません。レーニン主義そのものも、ドグマ的、教条的マルクス主義として、歴史研究の対象になりました」。

 

 彼はさらに語を継いだ。「一番緊急を要するのは」、ある人々に対する審理再開である。それは政治的、道徳的義務である以上に、「指導部としての責任」であり、全国委員会がこのことについて「できるだけ速やかに」態度を表明する必要がある。ユー書記は、非難、除名、排除された6人の名前を挙げた。

 

 1998年11月 フランス共産党全国委員会は被処分者を一括復権する決定を行った。フランス共産党は、それを「歴史的決定」と規定した。「政治的意見、組織原則、あるいはフランス共産党が変革を決めて以来変更を決定した原則に基づいて行われたあらゆる処分、除名あるいは隔離無効とする」ことを発表した。この決定の提案者であるラザール夫人は「わが党に資料の保管されているすべての人は、それを調べに来ることができる」と述べた。

 

 

 3、2000年代における党改革と党勢力のじり貧的瓦解のような激減

 

 2000年3月 第30回大会に向けて、一層の改革を進めるために、7つのテキストを決定した。それへの党員の意見表明は3万人以上に上った。一番批判が集まったのは、「(6)共産党の役割」における新たな党の建設と指導部の構成についてだった。大会は、代議員約1000人、来賓約500人を集めて開催され、トロツキスト組織「労働者の闘争」代表もフランス共産党大会に初めて参加した。

 

 2001年5月 機関紙「ユマニテ」は、第2次大戦後40万部だった。しかし、60年代から80年代まで15万部、1997年では6万部、2001年現在は45000部に落ち込んだ。

 

 2002年6月 総選挙第一回得票率は、4.76%であり、それは1997年総選挙得票率.84の半分激減した。フランス下院議席は、35議席から、21議席減った。これらの結果は、大統領選挙「ルペン問題」の影響があったとはいえ、フランス共産党史上最大の敗北だった。

 

 2007年 大統領選挙とフランス国民議会(下院)の選挙結果を()にする。すべての選挙でじり貧的瓦解のような減り方をしてきた。

 

()、大統領選挙での共産党得票率

1981

1988

1995

2002

2007

得票率

15.48

6.86

8.73

3.37

1.93

 

()、フランス国民議会(下院)選挙での共産党得票率・議席

1981

1986

1988

1995

1997

2002

2007

得票率

16.13

9.69

11.15

9.14

9.84

4.76

4.62

議席

35

21

18

議席増減

-14

-3

 

 直接には、フランス共産党ホームページがある。

 

 

 4、いわなやすのりHPのデータ−フランス共産党の党勢力

 

 国際資料 フランス共産党の党勢の推移について

 フランス共産党は、1994年、第28回党大会で党規約から民主集中制をはずした。当時、日本でも、それほど強力ではないが,共産党の内外から党名変更と民主集中制の放棄を求める声があった(今もある!)。これに対し、日本共産党の指導部は、「そんなことしたら、イタリア共産党(左翼民主同盟に党名変更)やフランス共産党の二の舞いになってしまう」とかたくなに党改革を拒否した。結果は、選挙のたびごとに国会の議席を減らし、党員・機関紙読者の数も大幅に下降線をたどっているようである。

 問題のフランス共産党の党勢の推移に関し、最近、偶然、ル・モンド紙のデーターベースで資料を発見したので、ここに紹介する。ただし、これから先の展望については、歴史の推移を見守るしかない。

 

    いわなやすのり『日本の明日のために』憲法問題、時評・エッセイ

 

                     1981年        2006年
 地方議員              28,000       13,000
 上院議員                    23           23
 下院議員                    44           22
 人口3万以上の都市の市長        72            30
 欧州議会議員               19            2
 党員                710,000      134,000(2004年が最低で125,000。その後、微増)
 得票率
   大統領選       1981年   1988年    1995年    2002年
                15.48    6.86      8.73     3.37
   下院選        1981年  1986年  1988年  1995年  1997年  2002年
                16.13   9.69   11.15   9.14    9.84   4.76

 

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 (関連ファイル)

     福田玲三『民主集中制の放棄とフランス共産党』

     福田玲三『史上初めて対案提出』フランス共産党32回大会

     『イタリア左翼民主党の規約を読む』添付・左翼民主党規約

     柴山健太郎『政権を奪還したイタリア中道左派連合の苦闘の奇跡』

     柴山健太郎『ドイツ連邦議会選挙における左翼党躍進の政治的背景』

     アルチュセール『共産党のなかでこれ以上続いてはならないこと』

     加藤哲郎『ローザ・ルクセンブルクの構想した党組織』

     『コミンテルン型共産主義運動の現状』

     『ゆううつなる党派』その動態的・機能的党勢力

     『なぜ民主集中制の擁護か』