『ゆううつなる前衛』
その粛清と査問システム
(宮地作成)
〔目次〕
1、党内排除、粛清システム ……(1)〜(7)
2、党外排除、粛清システム ……(8)〜(10)
3、社会的排除、粛清システム……(11)〜(13)
4、肉体的排除、抹殺システム……(14)〜(16)
6、おわりに
はじめに…前衛党理論と一党独裁
日本共産党だけでなく、全世界の前衛党にも共通した、普遍的な排除、粛清システムを16項目に分類して、考えてみます。
前衛党理論の本質は、自己を科学的真理の唯一の認識者、体現者であるとし、かつそこから実践上でも無謬者であるとする自己規定にあります。さらには前衛党以外の他者、他政党は、すべてその真理を認識できないものと断定し、一国には真理を体現できる政党は一つしか存在し得ないという「一国一前衛党理論」に固執することです。
したがって党外からの前衛党批判者、および党内での党中央批判者、異論者は、たんに“批判者”というだけでなく、前衛党と前衛党中央委員会が体現している科学的真理、科学的社会主義理論に反する“非科学的、非真理の思想を社会内部、党内部に波及させ、害毒を流す駆除すべき対象”、さらには“階級敵”という位置づけになるのです。そこにはその批判、異論者と対等、平等に議論し、合意するという民主主義の概念が入り込む余地はありません。
一党独裁は、14の社会主義国の政治、政党システムの基本的特徴の一つです。暴力革命による権力奪取後は、いずれの国でもまだ複数の政党が活動していました。ただ、その後、一党独裁に至る経過については、3つに分類されます。
第一、1917年、ボリシェビキは、武装蜂起による権力奪取の後で、すべての他党派を排除、粛清しました。
第二に、1945年、ユーゴを除く東欧7カ国と北朝鮮では、ソ連軍の戦車とともに、モスクワ、ソ連から帰ってきた共産党幹部による、ソ連衛星国型社会主義権力が樹立されました。
アンジェイ・ワイダは、映画『灰とダイヤモンド』で、その時点での、モスクワから帰ったばかりの共産党幹部と、地下水道でナチスとたたかって目を痛め、今度は彼を狙うサングラスをかけたテロリストの青年、反ソ・パルチザンとなった幹部の息子、市当局の動向など、ポーランドの悲劇を、鮮烈な映像で描き出しています。廃墟の教会での、逆さづりになった、はりつけのキリスト像のショットで、どきっとしたことを覚えてみえる方も多いでしょう。ワイダは、それによって、たんに宗教への弾圧、その崩壊を示しただけなのでしょうか。それとも、それだけでなく、ナチスとワルシャワ蜂起でたたかい、川の向こう岸にまで到達していたソ連軍に見殺しにされたポーランドの思想、精神が、蜂起壊滅後にようやく渡河してきたソ連軍の戦車とともに逆転させられたことを、象徴的に示したのでしょうか。
1944年8月、ポーランドの自力解放に立ち上がった地下組織軍4万人によるワルシャワ蜂起は、63昼夜にわたってたたかわれました。しかし対岸にいたソ連軍が救援の手をさしのべず、ナチスによって壊滅させられました。そして『地下水道』(ワイダ監督の映画)でも抵抗を続けた全員をふくめ、30万人の市民が殺されました。これは、“反ファシズム統一戦線の限界点、本質”を浮き彫りにし、さらに“冷戦の開始”を告げる象徴的な出来事でした。
その後、スターリンの指令によって、モスクワ帰り共産党と現地他党派との合同による“労働者党”が結成されました。そして、その政権内部で、共産党は、国内でたたかった「パルチザン派」、合同した他党派、その幹部、およびワルシャワ蜂起派を排除、粛清したのです。
他の東欧諸国での一党独裁の成立、その内部での粛清過程は、ポーランドと基本的に同じです。チェコとアルバニアは、最初は自力解放に成功しましたが、しばらくして、スターリンによって“ソヴェト化”されました。
北朝鮮では、満州での抗日パルチザン活動後、日本軍に追われて、ソ連沿海州にいた金日成が、ソ連軍とともに帰りました。スターリンの指令により、他党派と合同し、朝鮮労働党を結成しました。東欧と少し違うのは、ソ連軍のバックアップを受けた金日成らパルチザン派が、南朝鮮中心の国内派、中国から帰ってきた延安派だけでなく、モスクワ帰りのソ連派をも次々と排除、粛清したことです。こうして一党独裁の内部で、パルチザン派による一派独裁が確立され、その独裁度はさらにエスカレートして、金日成の異様なまでの個人独裁になりました。北朝鮮における一党独裁、一派独裁の成立過程については、徐大粛ハワイ大学朝鮮問題研究所所長が『金日成−思想と政治体制』(御茶の水書房)で詳細な分析、研究をしています。
ソ連に併合されたエストニア、ラトビア、リトアニアのバルト三国でも、状況は同じでした。
第三に、ユーゴ、中国、キューバ、ベトナムは、長期のパルチザン闘争、武装闘争を経て、自力で権力奪取しました。中国共産党は、その後、抗日統一戦線とその幹部を排除、粛清しました。ベトナム共産党が、南ベトナム解放戦線とその幹部にとった措置も同じです。
結果として、この前衛党理論は、党内、党外の批判者、異論者という個人の粛清だけでなく、前衛党以外の他党派、その幹部を政権から排除し、その政党の存在をも抹殺し、14カ国のすべてで一党独裁を完成させたのです。一党独裁は、多くの人を引きつけ、熱狂させた『社会主義革命』の名を裏切る、反民主主義的政権スタイルです。この反民主主義的権力でなければ、下記全体で述べる排除、粛清、肉体的抹殺は、とうてい遂行できませんでした。
よって、この文では、“社会主義国前衛党”という性格規定を使わず、『一党独裁国前衛党』という言い方をしています。ただし『14の一党独裁国』といっても、その内、1989年から91年にかけて、すでに10カ国が崩壊し、北朝鮮は崩壊のカウントダウンが始まっている状態にあります。コミンテルン型共産主義運動は、その“発生地”ヨーロッパでは終焉を迎えました。しかし、アジアで、『一党独裁国前衛党』3党と資本主義国前衛党1党の計4党が、“なぜ生き残っているのか”については、『コミンテルン型共産主義運動の現状』で、分析してあります。
世界政党史上で、これほどうぬぼれた、排他的な理念を持った政党は、前衛党以外にはないでしょう。この理論から、必然的に批判者、異論者を排除、粛清するシステムとその様々な形態が、世界の前衛党によって作られてきました。その政党理念を排他的組織原則化したものが、民主主義的中央集権制です。その粛清形態の一つ一つについてくわしい説明がいりますが、今回は項目のみの列記、分類にとどめます。詳細は、『なぜ民主集中制の擁護か』を合わせてお読み下さい。そちらにあまり書いてない項目だけを、やや細かく分析し、説明してあります。
ただ、資本主義国前衛党のシステムの内容は、日本共産党のものです。資本主義国他党の排除、粛清システムを包括的に分析した資料がほとんどありません。フランス共産党、ポルトガル共産党、スペイン共産党は、断片的な文献から見れば、コミンテルン型前衛党として、その粛清システムは日本共産党に類似しています。解党したイギリス共産党や転換前のイタリア共産党は、日本共産党のような典型的なコミンテルン型排除、粛清システムをとっていません。
〔小目次〕
(1)、党機関役員次期非推薦
(2)、共産党議員次期立候補差し替え
(3)、専従解任
(5)、点在党員措置
(6)、大衆団体役員の辞任強要
(7)、規約上の処分
(1)、党機関役員次期非推薦
党中央に批判的な中央委員、県委員、地区委員を次期党大会、党会議非推薦とし、党執行部作成の任命リストから削除します。
(2)、共産党議員次期立候補差し替え
党中央に批判的な国会、県会、市町村会議員を次回選挙非推薦とし、立候補者を“党派性の高い”党員に差し替えます。党執行機関内では『党派性の高い』という党員評価用語をよく使います。これは党中央への忠誠度と同義語で、批判的な言い方をすれば、『ゆううつなる党派』の第三で述べたように、水田洋名古屋大学名誉教授が言う『思考停止人間』のことを意味します。
(3)、専従解任
党中央批判提出者は即時解任します。同時に生活費(活動費)支給が打ち切られ、失業となります。元共産党専従という経歴では、一般的な再就職先は、まるでありません。
『なぜ民主集中制の擁護か』および『ゆううつなる党派』の第四で、この(1)、(2)、(3)について、詳述してあります。
名誉役員、顧問とは、定年退職あるいは引退した専従者の内で、党中央や各県党への貢献度の高い党機関役員が任命されます。日本共産党第二十一回大会で承認されたのは、188名です。宮本氏は名誉議長、幹部会員は名誉幹部会員、党中央委員は顧問となり、引退後も党内のランクに差がつけられています。各県党会議では、10名から30名の名誉県委員が任命されます。
共産党専従者の厚生年金支給額は、過去の給与比例ですので、基準額の半分程度です。長年の功労をねぎらい、それらの名誉役員に一定の企業年金的な手当をだすことは、悪いことではありません。
しかし、約4000名の共産党専従者の内で、それを貰えるのは、千数百名で、残りの大部分には、何の手当もありません。また、名誉役員のランクによって、その手当額にも差があります。14の一党独裁国前衛党と同じく、日本共産党も驚くべき、厳格なランク付けシステムで、上級下級が構築されています。
その名誉役員が、党中央に批判的意見を提出したり、党中央や県党との間に問題が発生すると、次期党大会や県党会議で名誉役員非推薦となります。そしてその手当の支給は、即座に打ち切られます。それは、別の言い方をすれば、党中央幹部が、定年、引退後でも自分の党内体験、党中央への批判的意見を、党外に絶対公表させないよう、“財政的な鎖”を付けているとも言えます。
上記で排除されると、議員、専従は居住する地域の居住支部、そして職場に勤務している県、地区委員は経営支部に戻るという、所属支部変更の転籍となります。規約では全党員が基礎組織の支部または党機関に所属することになっていて、所属組織なしの、一人だけの点在はありえません。しかし転籍先の支部でも害毒を流す恐れがあるとした予防的組織隔離措置のことです。
その手口は2通りあります。一つは『しばらく転籍させない。所属組織のない県直属、中央直属点在党員にする。どの会議にも出られないが、意見は個人として上級機関に提出することができる。他の党員とは一切会っても、話してもならない。党費はきちんと納入すること。いつ転籍させるかは言えない』と公然と宣告するやり方です。
もう一つは「転籍届」の文書は受け取るが、党機関がそれを党中央の指示で何年間も、あるいは永久に握りつぶすやり方です。その党員が転籍処理を何度督促しても、党機関からは『今調査中』という生返事しか返ってきません。
この2つとも『除籍、除名はしないが、党から自分で消えてくれるといい』という自然離党の強要で、下記の(15)、一党独裁国での精神病院強制隔離と同じ性質の、党中央による規約違反措置、宮本、不破氏らによる反党行為です。別の見方をすると、戦前の治安維持法に基づく共産党員の予防拘禁措置と同じ性質のものを、今度は共産党側が党内の反体制者に対してやっていると言えます。
民青、学生自治会、平和委員会、原水協、日本民主文学同盟等の役員人事に、党中央が直接介入する辞任指令です。これらの大衆団体は、共産党系と言われるものです。その団体の大会で選挙によって選ばれる被選出指導機関はほぼ全員が共産党員で占められ、そのメンバーで大衆団体グループという共産党の基礎組織を作っています。党中央とそのグループとは指導、被指導の関係にあり、その大衆運動、団体に対する党中央の政策、方針に、グループは無条件に服従する規約上の義務を負っています。
しかし情勢が変化、激動する中で、その大衆運動の進め方、大衆団体の運営のあり方をめぐって、両者の間に見解、意見の食い違い、あるいは明確に対立するというケースが時々発生します。党中央とグループとが何度党内会議で討論しても『運動の現場の状況判断からみて、党中央の方針は実情に合わない、教条的だ』として意見が一致しない場合も出ます。すると党中央が突然その議論してきた、まだ討論中の『党内問題』を『赤旗』『前衛』でそのグループの見解、態度への批判記事、論文として一方的に『党外にもちだし』て発表します。これは『党の内部問題を党外にもちだしてはならない』という規約に違反する党中央常任幹部会による一種の党私物化反党行為です。それは“常任幹部会にだけはその規約に拘束されない超法規的特権がある”という宮本、不破氏の恣意的規約解釈に基づくものなのでしょう。
それでも党中央方針に従わない時は、個々の党員に『大衆団体役員を辞任せよ。これは党中央の決定だ』と通告するのです。それを拒否すれば、『日和見主義、敗北主義』『大衆団体を私物化』というレッテルを貼りつけ、まだ党員である者に、呼び捨ての名指しで、批判大キャンペーンを展開します。グループの中でその辞任指令に従う者には、役員から追放した上で党籍だけは残してやり、指令に従わない者は共産党から除籍、あるいは除名します。その役員が、『党中央が党外に公表した以上は、こちらも反論権がある』として、マスコミに話したり、出版すると、党中央は自分が先に行った党外もちだし規約違反を棚上げして、その役員を『党外もちだし』規律違反として、査問にかけ、除名にします。
そして各県レベルで全国一斉に大衆団体グループ会議を緊急招集し、全国大会代議員にその役員を選出するなとの決定を伝えます。その県の代議員が党中央決定に不服を唱えれば、他の“党派性の高い”党員に急遽差し替えます。その上で開催された大会では、党中央方針通りの役員総入れ替えが成功します。これは文字通り共産党常任幹部会による大衆団体乗っ取りのクーデターです。こうして共産党常任幹部会の路線、方針に忠実な民主団体が“再生”され、事件は表面的には一件落着するのです。
常任幹部会は、共産党系大衆運動、団体に対する政策、方針が、そのグループにストレートに貫徹されるべき、即座に大衆団体の方針化されるべきと思い込んでいます。これは、スターリンの『ベルト理論』とまったく同じです。『ベルト理論』とは、大衆団体を前衛党と国民とを結ぶベルトになぞらえ、前衛党の方針が大衆団体というベルトを通じて、国民にストレートに伝わるべきという理論です。大衆団体の自主性、自立性をまったく無視し、前衛党の単なる“便利な道具”と見下す思想です。『ベルト理論』という前衛党用語は、スターリン批判とともに死語となりました。しかし、その思想は、日本共産党の中に、なお脈脈として受け継がれて、生きています。
そういう両者の関係がぎくしゃくする、あるいはかなり抵抗を受けるようになると、『分派活動の芽は、双葉のうちに摘み取れ』という宮本氏の信念に基づく大衆団体乗っ取りクーデターが発動され、それは様々な大衆運動分野で成功を収めてきました。
批判者を『分派活動の規律違反』あるいは『党規約第二条八項違反』として処分します。この2つの規律違反内容については、下記の5、査問システムで述べます。日本での党内排除処分項目は、規約第10章第66条で、訓戒、警告、機関活動の停止、機関からの罷免、権利停止の5項目が決められています。党内排除処分とは、その後も党籍は残る処分のことです。
党外排除処分として、除名があります。これは次に述べます。
〔小目次〕
(8)、除籍
(9)、離党届を受け付けない除籍
(10)、除名
(8)、除籍
規約に基づく処分ではない、実務的な粛清です。
(9)、離党届を受け付けない除籍
『離党届』を出してあるのに、本人の申し出に基づく離党でなく、党機関側が党から追放する除籍です。『なぜ民主集中制の擁護か』で、この(9)、(10)についての詳しい分析はしてあります。ただし、上記で、宮本、不破氏らの『党私物化反党行為』と書きましたが、それは1994年の第二十回大会以前までの数十人以上の批判者除籍という、規約にない党外排除粛清行為に対してのことです。この大会後は、改悪された規約第12条に基づく批判者の“合法的粛清”になりますので、『反党行為』にはなりません。
この規約改悪による“合法的粛清”については、『ゆううつなる党派』の第三、「排除、粛清システム」の文末でも、分析してあります。
規約の最高処分としての排除です。党中央批判者のケースは『特殊な事情』と党機関が勝手に断定し、支部での審議なしのケースがほとんどです。党からの追放後は、『反党分子』としてさらに社会的排除が永久に継続されます。
一党独裁国前衛党における党規約上の除名決定は、同時に法律上の『国家反逆罪』『反革命罪』となり、職場解雇だけならまだましで、ほとんどが強制収容所送り、銃殺の判決を意味します。
〔小目次〕
(11)、居住する地域での排除
それが通らない場合は共産党組織参加および全参加党員の脱退指令
(13)、就業差別
前衛党による排除は、その“敵”を党外に排斥するだけではとどまりません。
(11)、居住する地域での排除
その地域に居住する党員、地域民主団体からの、一種の“共産党式村八分”です。党上級機関が、他支部、他県の支部に所属している党員をふくめた居住地全党員会議を緊急招集して、『反党分子』との交際、街頭でのあいさつ断絶指令を徹底させます。その指示内容は『挨拶されても、挨拶を絶対返すな』というように、“きめこまやか”で、かつ居丈高なものです。
その後は、通りでばったり出会っても、共産党員の方が目を背けるか、道を変えます。『反革命の犯罪者』に出くわしたように、顔がこわばります。ついこの前まで仲良く立ち話をしていた党員が反対側の歩道へあわてて移って、顔を背けて立ち去る風景を想像できるでしょうか。顔を背けられる側と、顔を背ける側との、双方の心象をイメージできるでしょうか。さらにその理不尽な除名理由に納得できなくて、その断絶指令の逐一を報告しに来てくれる人達が何人もいる光景を思い描けられるでしょうか。地域民主団体からの連絡は途絶します。
これは資本主義国でも、一党独裁国でも全く同じスタイルで行われます。ソ連、東ドイツ、チェコ、中国でのこの体験は無数書かれています。もちろん日本でも完璧なまでに実行されています。
ただしこれも戦前の治安維持法下で国家権力や地域が、共産党員に対し『アカ』としてやってきたことを、今度は前衛党が同じやり方でやっていると言えます。体制と反体制、および反体制とまたその中の反体制との間の人間模様は、いかなる理論の違いとも関係なく、永遠に変わらないのでしょうか。
(12)、『反党分子』の大衆運動、大衆団体からの排除要求、それが通らない場合は共産党組織参加および全参加党員の脱退指令
『反党分子』とは、被除籍者と被除名者の2つをふくみます。それらは、共産党に対してだけでなく、民主運動に対しても『意識的破壊者』であると断定し、レッテルを貼ります。その上で、共産党側が、『反党分子』が参加している民主団体すべてに対して、『党から排除した以上、その団体からも排除せよ』と要求します。それは『反党分子』を、あくまで社会的にも排除しきるという方針のごり押しです。排斥要求は、職場、居住地域レベルだけでなく、県レベル、全国レベルでも行われます。“共産党が脱会するか、その『反党分子』一人を排斥するか、いずれかを選べ”との事実上の脅迫をします。
この前衛党の独善的な排除要求が通らない、あるいは拒否する運動、団体に対して、党機関は自らの組織参加を取りやめるだけでなく、そこの参加党員に脱退指令を出します。『その団体の世話人、呼びかけ人、幹事に反党分子が入っている以上、そこから手を引け。それは党の決定である』と一人一人の党員に指示するのです。それは、『民主運動の破壊者』と共産党が判定した者を排斥しないような運動、団体を、共産党は『民主的運動、団体とは認めない』という独善的論理に基づくものです。
『反党分子』が死去して、その追悼集会をする場合も同じです。その集会の世話人、呼びかけ人のリストをわざわざ捜し出し、手に入れ、その中の党員全員に『追悼集会から手を引け』との指示を出します。かなりの党員は党の決定に服従して、世話人から降ります。一部の党員が『そんな決定はおかしい』と言って、その指示を拒否すると、党執行部から呼び出され、査問され、決定に背いた者として除籍されます。その人たちも、こうして、「資本論」風に言えば“単純再生産”ではなく、“拡大再生産された『反党分子』”となります。
共産党が党中央批判者を除籍、除名するということは、このように『民主運動からの永久追放、排斥処分』をも同時に意味しているのです。
一党独裁国でのものです。1968年チェコの「プラハの春」では、50万人の改革派党員が、党からの追放だけでなく、職場を解雇されました。さらにその上に、共産党中央は追い討ちをかけ、その50万人の再就職活動を徹底して妨害、差別しました。最近評判の春江一也著『プラハの春』(集英社)では、チェコ共産党改革派とともにソ連、東ドイツ政権幹部の動向、考え方が、フィクションながら、きわめてリアルに描かれています。一党独裁国前衛党幹部が、前衛党改革運動やその幹部、活動家に対してどのような恐怖感と憎悪を抱くのかが、当時現場にいた現職外交官の視点で浮き彫りにされています。
14の一党独裁国全体で、そこの前衛党は、粛清活動の一環として、数百万人を越える前衛党員に対して、党からの除名とともに、職場解雇、再就職妨害、差別という社会的排除をしています。
〔小目次〕
(14)、強制収容所収容
(15)、精神病院強制隔離
(16)、銃殺
これは14の一党独裁国での、さらにエスカレートされた排除、粛清システムです。前衛党の“階級闘争”理論をつきつめていけば、暴力革命による権力奪取で樹立した革命国家において、党外排除した『階級敵』『国家反逆罪の裏切り者』を、生存させておく必要はない、むしろ危険だという結論に到達します。そこで当然の、正しい方式として『思想に基づく殺人』が発生します。
ロシアの大地において、ドストエフスキーが『罪と罰』『悪霊』『カラマーゾフの兄弟』で深く洞察した“政治思想に基づく殺人”“政治思想が正しければ、その殺人は許されるのか”というテーマが、レーニン、スターリンによって現実化されたのです。そして『正しいマルクス主義理論に基づく殺人』を犯す度ごとに、それを指令したレーニン、スターリンだけでなく、それにかかわった前衛党員たちの人間性、人格は、急速に腐敗、堕落していったのです。さらに前衛党思想、その階級闘争理論に基づく肉体的抹殺是認理念が、コミンテルンを通じて14カ国に広がりました。
突如、ドストエフスキーを持ち出して、申し訳ありません。ただ私のこの3冊、その他の読後感として、ドストエフスキーは“思想的殺人”というテーマを、具体的には“思想的殺人事件の全体像”“その性質の殺人を犯す人間の人格像”“「正しい」政治思想による殺人を行った人間の魂は救済されるのか”というテーマを一貫して追及したのではないかと考えているのです。私のこの読み方は、やや偏っているかもしれませんが、埴谷雄高のドストエフスキーの読み方に大きく啓発された面があります。ロシア革命のことだけでなく、そちらももう少し研究したいと欲張って考えているところです。
ソ連、東欧、中国、北朝鮮などで数百万人の共産党員および数千万人の国民を逮捕、監禁しました。その逮捕、尋問、拷問による自白の強要、監禁の経過や、収容所内部での様子については、ソルジェニーチン、ギンズブルク、ブハーリン夫人の作品や、中国の『ワイルド・スワン』『上海の長い夜』など無数の作品で、克明に記されています。藤井一行富山大学教授のホームページで、日本人の体験について、詳細な研究がなされています。
ジョレス・メドヴェーデフなど批判者、異端者を数千人規模で隔離、監禁しました。それだけでなく精神安定剤などの薬物を、意図的に使用限界量を越して、注射、投与し、前衛党批判者を廃人化させるシステムが、前衛党員医師によって実行されていました。
これは医学を悪用した、前衛党による“かんまんな薬物的殺人計画”です。様々な精神剤、神経剤の効果と限界を確かめつつ、薬物による廃人化実験をするという点では、731部隊の前衛党版と言えるものです。ジョレス・メドヴェーデフの告発文書『狂人は誰か』を見ると、その類似性は驚くほどです。それは『悪魔の飽食』ならぬ“前衛の飽食”とも言うべき、恐るべき前衛党犯罪なのです。彼の兄弟のロイ・メドヴェーデフが西側マスコミにも呼びかけるなど、懸命な救出活動を展開した結果、かろうじて、かんまんな薬物殺人の途中で、釈放されました。ただ大部分の実態は、731部隊同様まだ闇に包まれたままです。
14の一党独裁国で、百万人以上の前衛党員が、前衛党中央委員会の指示で、殺害されました。さらに数百万人以上の国民を、数百万人の前衛党員が“党中央決定の無条件実践という民主主義的中央集権制システムに従って”銃殺しました。ただしこの“前衛党の犯罪”件数の推定巾は大きく、その犠牲者数百万人説から二千万人説まで様々な説があります。
ソ連での粛清規模については、様々な見解があり、まだ定説はありません。
ロイ・メドヴェーデフ著『共産主義とは何か』(三一書房)によれば、1934年のソ連共産党第十七回大会で選出された中央委員と同候補139名のうち、110名、即ち中央委員総数の80%が粛清されました。日本共産党中央委員会が事実上編集した『社会科学辞典』(新日本出版)でも、その内98名が銃殺されたことを明記しています。
塩川伸明東大法学部教授は、『終焉の中のソ連史』の第三篇『「スターリニズムの犠牲」の規模』で、その推定幅について様々な見解を分析しています。それによれば、1)、コンクエスト『スターリンの恐怖政治』(三一書房)での死者推計は、2000万人です。その内訳は、1936年以前の集団化関係約350万人、収容所に送られ死んだ者約350万人、1936年から50年の間に収容所で死んだ者約1200万人、処刑約100万人となっています。
2)、ソルジェニーツィンは、1930年代末の収容所人口の見積もりを、1000万人から1200万人としています。
3)、ロイ・メドヴェーデフによれば、犠牲者総計4000万人で、その内党員は約100万人、除名されていた元党員は約100万人です。
東欧9カ国での犠牲者総数は、具体的になっていません。しかし、チェコのスランスキー粛清裁判以降、吹き荒れた粛清の嵐の中で、最低でも数万人の前衛党員が銃殺、あるいは収容所で死亡しました。
また、中国では、文化大革命当時、粛清によって処刑され、または収容所で死んだ者は、数百万人にのぼると言われています。1980年11月からの「林彪・四人組反革命集団」裁判の起訴状によると、被告らの犯罪の直接の犠牲者は、中傷、迫害された者729,511人、殺害された者34,800人に達したとしています。
中野徹三教授の『「共産主義黒書」を読む』では、さらに詳細な“前衛党の犯罪”が紹介されています。
いずれにしてもこの14の一党独裁国前衛党は、ナチス党による六百万人のユダヤ人ホロコーストを別とすれば、世界政党史上最大規模の自国民、自党党員の大量殺害犯罪を犯したのです。
〔小目次〕
1)、査問とは
第一、分派活動の容疑
第二、党規約第二条八項違反容疑
第三、スパイ容疑
1)、査問とは
『査問』という言葉の内容について、いろいろ誤解もあるようです。
まず、査問とは、上記で分析したような、16の排除、粛清項目の一つではありません。それは、排除、粛清、抹殺を前提とした前衛党式『調査審議』であり、排除、粛清のための手続きシステムを意味します。
ただ、『査問』という用語は、党規約、党文書のどこにも載っていません。党規約第11章第48条に『規律違反について調査審議中の者は、第5条の党員の権利を必要な範囲で制限することができる。ただ六カ月をこえてはならない』とあるだけです。文言としては、この『調査審議』が、日本共産党による正式用語です。
ところが、日本共産党内では、従来から『査問』という言葉が一貫して使用され、党中央幹部自らが何の疑いもなく、使っています。その実態は、紳士的で、“同志的”な『調査審議』どころではなく、下記に述べる4つの査問システムでの“反党分子、階級敵への調査問責”です。それは、警察による“犯罪者への取り調べ、尋問”と同じ内容、雰囲気を持っています。
「広辞苑」では、『査問』について、ただ「しらべて問いただすこと」としています。語源的には、はっきりしませんが、『調査』の『査』と、“問いただす、問責、尋問”の意味の『問』をつなげたとも考えられます。
川上徹著『査問』(筑摩書房)に対する日本共産党の反論でも、『査問』という言葉を一切使わずに、川上批判を書いています。日本共産党は、『独裁』『粛清』『査問』など悪いイメージを与える日本語を、ひたすら隠蔽しようとしています。なお、『突破者』著者、宮崎学ホームページでは、それに対して、『日本共産党のそらぞらしい「査問」批判』を掲載しています。1998年2月28日に、川上氏と加藤哲郎一橋大学教授との対談が行われました。それについて、私は、高橋彦博法政大学教授から『川上徹著「査問」の合評会』の詳細な内容、雰囲気を伝える手紙をいただきました。
それでは、排除、粛清手続きとしての査問システムは、どのような容疑を対象にし、どのような形態で行われるかを考えてみます。
査問の対象となるケースには、4つがあります。その規律違反項目のちがいによって、査問の形態も異なります。また、資本主義国前衛党による査問と一党独裁国前衛党による査問とでは、査問のやり方は大きな差があります。
第一、分派活動の容疑です。
分派とは、党内において、党中央とは異なる路線を公然、または秘密裏に掲げ、それに基づいて集まるグループ、党内派閥のことです。かっては、ソ連派、中国派などの分派がありました。現在では、そのような明確な路線を掲げていなくても、単に党運営での官僚主義批判、党勢力拡大や大衆運動問題めぐる党中央批判にまで、その『分派』概念が拡大解釈、拡大適用され、二人以上の党員が党中央批判を話し合えば、それは『分派活動』と認定され、査問の対象になります。
これはほとんどが“監禁”査問の形態をとります。
批判者に『分派活動の疑い』をかけ、“監禁”形式で査問(党機関による調査審議)をし、その間は党員権をはく奪します。“監禁”形式での査問とは、一党独裁国前衛党による粛清機関留置所、強制収容所での勾留、監禁と同じで、共産党中央委員会事務所あるいは県委員会事務所の一室または別の監禁場所で寝泊まりさせ、逃亡、自殺予防の見張り要員つき、三度の食事もその部屋でさせ、「査問通告」した瞬間から家族との直接の電話連絡も禁止し、長期になれば下着の着替え差し入れだけは認めるという前衛党式“調査”スタイルのことです。
その“監禁”査問期間は、各ケース、分派容疑程度によって様々です。1972年、「新日和見主義分派」容疑での、川上氏への“監禁”査問期間は、13日間でした。著書『査問』(筑摩書房)にあるように、川上氏の父親が『人権擁護委員会にすぐ訴える』と、党中央に電話通告しなければ、もっと長引いていたでしょう。
川上氏査問の5年前、1967年5月、「愛知県5月問題」の分派、グループ活動容疑では、数十名が査問され、そのうち私たち十数名が“監禁”査問されました。それは、党勢拡大の極度な、一面的追及、党内民主主義を踏みにじる指導での箕浦一三准中央委員・県副委員長・地区委員長への、1カ月間にわたる、地区党内あげての批判運動を、逆に切り返され、“分派・グループ活動”ときめつけられたものです。私は、地区常任委員として、その“分派・グループ的批判活動の首謀者”と見なされ、21日間にわたって、“監禁”査問されました。この詳細は、『私の21日間の監禁査問体験』で書きました。
このような査問スタイルを前衛党がするとはとても信じられないと思われる方が多いでしょう。しかし査問対象者は、その査問決定時点から、もはや『同志』ではなく、『党破壊者、反党分子』『スパイなどの憎むべき階級敵』という扱いに転落するので、査問をする側にとっては、『敵』に対する当然の、正しい措置となるのです。
上記でも触れたように、『査問』とは、ある党規律違反の容疑に関して、事実、真実を、客観的に『調査審議』することとは、まったく違うのです。党機関が、ある党員を『分派容疑で査問』すると決定したことは、その党員に上記16の排除、粛清、抹殺項目のいずれかを適用することを前提とし、その粛清手続きとして『査問』をするということです。『査問』招集前に、その党員の排除、粛清は“決定ずみ”なのです。
その“問いただす、問責、尋問”の態様は、資本主義国の刑事裁判と比較すれば、弁護士はいなくて、検事と裁判官が一体となった党側査問者が、刑事事件被告人たる“排除、粛清決定ずみ”容疑者に、分派メンバーの人数とその言動を、粛清前にできるだけ吐かせるためのスタイルになります。一党独裁国においては、これがブハーリンたちの粛清裁判、チェコのスランスキー粛清裁判のような“見せ物裁判”の態様もとります。
二人で党中央批判をしゃべって、意気投合すれば『二人分派』、三人なら『三人分派』となります。いったい、『三人分派』などという、この悲喜劇的な分派規定が生まれる歴史的、理論的根源はどこにあるのでしょうか。それは、1921年、第十回大会での、レーニンによる分派(フラクション)禁止規定以来のものです。この規定は、党の統一を維持する上では、一定の効果があります。しかし、それは他の一面として、“最近の世相風”に言えば、党内民主主義を、ナイフで刺し殺すという、両刃の剣だったのです。スターリンは、レーニンが鋳造してくれた、その分派禁止規定ナイフを、過激に、大規模に使って、数百万人を殺しました。その『犠牲の規模』については、下記の(添付資料)、および6つの粛清データをご覧下さい。
なお、レーニンの分派(フラクション)禁止をめぐる問題や1921年当時の党内状況については、藤井一行富山大学教授が『民主集中制と党内民主主義』(青木書店)で綿密な研究をしています。
(旧規約)第二条八項とは、『党の内部問題は党内で解決し、党外にもちだしてはならない』という内容です。この文言だけなら、当然の党規律に見えます。ところが、この『党内』『党外』という日本語の驚くべき拡大解釈がなされて、規律違反がでっち上げられるのです。
『党の内部問題』には、専従解任の事実から、『赤旗』、党の書籍で党外に公表された理論問題まで、共産党に関するすべての事実問題、理論問題が含まれます。ただそれらについての批判的見解、異論が、査問の対象とされます。党外の出版社から出された党幹部の理論問題も、『それは党大会で決定された内容に基づくものである以上、その書籍の内容すべてが“党内問題”となる』とこじつけられます。
『党外にもちだす』とは、日本共産党の外部というだけでなく、民主主義的中央集権制の垂直制組織原理の下では、共産党内の他支部所属の党員にその批判、異論を話すこともふくまれます。垂直制組織原理とは、縦割り構造のことで、日本共産党の組織の仕組みは、横どうしの横断的交流は規律違反で、上下関係しか認められないということです。日本共産党の一つの支部、あるいは一人の党員にとって、他の支部は『党外にあたる』という日本語解釈を理解できるでしょうか。批判、異論に基づく党内での水平的交流行為は、すべてこの党規約第二条八項違反の規律違反として、査問の対象にでっち上げることができるのです。分派活動容疑には、すべてこの条項違反が適用されます。
そもそも、政党内において、横断的、水平的交流を厳禁して、上下関係しか認めないという“垂直性組織原理”=政治組織の縦割り構造が生まれた歴史的由来は、どこにあるのでしょうか。
民主主義的中央集権制は、レーニンとボリシェビキが、ロシア・ナロードニキの系譜をひく陰謀的非合法秘密結社の「中央集権制」を基軸とし、それに選挙制、報告制、党内討論を加味したものです。陰謀的秘密結社の組織原理の基本は「(1)、暴力革命またはテロル遂行のための厳しい軍隊的規律、
(2)、組織への絶対的忠誠、 (3)、指導者、上級組織への絶対服従と水平的交流の排除、 (4)、組織決定の絶対性と権利なき義務の遂行、 (5)、脱退権の欠如と裏切者への死刑」などです。
横断的、水平的交流を厳禁した民主主義的中央集権制は、組織防衛が最重要課題となる非合法時代において、かつ武装蜂起、武装闘争、赤色テロル遂行という軍事行動時代において、それにもっとも適合的な組織原理=軍事的中央集権制として機能してきました。端的に言えば、武装蜂起組織、赤軍、人民解放軍の革命軍事組織にもっとも適合した「軍事的集権」規律として誕生し、運用されてきたのです。
戦前のコミンテルン日本支部は、天皇制の転覆と、暴力革命による権力奪取を基本路線とし、非合法政党でした。それは、武装蜂起前のボリシェビキと同じく、一種の非合法・革命軍事組織の形態になっていました。特高による絶えざる検挙とスパイ工作により、4度も中央委員会が壊滅しました。その状況では、党組織防衛上、横断的、水平的交流の厳禁は当然ながら絶対に必要でした。
ところが、現在の日本共産党は、合法政党であり、『人民的議会主義』路線をとっています。この条件下において、非合法・革命軍事組織の横断的、水平的交流を厳禁する組織原則を、今なお堅持し続ける必要がどこにあるのでしょうか。イタリア、スペイン、イギリス、フランス共産党は、すべてこの“時代錯誤的な組織原則”を放棄しています。資本主義国前衛党で放棄していないのは、ポルトガル共産党と、日本共産党の二党だけです。
合法政党になったのにもかかわらず、それを放棄しない理由として考えられるのは、一つです。横断的、水平的交流を厳禁し続ける方が、党内管理、党中央批判抑圧の面で最適だからです。この組織原則を堅持する以上、党中央批判が集団的になることは絶対ありえません。なぜなら、一人の意見は、上級機関に対して“垂直”にしか提出できず、それを握りつぶすことも、その批判者に規約外の“陰湿な報復”をすることも、常任幹部会の恣意的な裁量にまかされるからです。それだけでなく、集団で批判を話し合ったり、あるいは提出する動きがあれば、『分派活動容疑』『規約第二条八項違反容疑』で査問し、党内排除・党外排除の粛清をただちに遂行できるからです。常任幹部会の地位安泰にとって、これほどありがたい組織原則はありません。
横断的、水平的交流厳禁原則は、レーニン以来のものですが、この“時代錯誤的な組織原則”を維持しているのは、世界で、一党独裁国前衛党4党と資本主義国前衛党2党の6党だけになりました。
学者、文化人で、自己の学問研究や文化評論を党外出版物で発表した場合、その内容の一部に、共産党の路線、政策に関連した記述がふくまれることはよくあります。その内容が、党中央の路線に合致していれば、なんら問題にはなりません。むしろ高く評価されます。しかしそこに党中央と異なる見解、批判的意見があれば、“党内問題を党外にもちだした”規律違反と認定されます。そしてその学者党員、文化人党員に対して、査問の招集がかかります。ただこのケースは、“監禁”査問の形態をあまりとりません。学者、文化人への排除、粛清は、除名ではなく、最近では除籍がほとんどです。その除籍理由については、『なぜ民主集中制の擁護か』の『除籍』で詳細な分析をしてあります。
いずれにしても、党中央に対する批判、異論は、日本共産党の組織内であろうと、組織外であろうと、“一般党員の、一人だけの、垂直的意見書提出”以外は、すべてこの規律違反として査問の対象にすることができるのです。
専従、党議員、機関役員の党中央批判意見書の提出行為も、ストレートには査問の対象になりません。しかしその提出者に対して、専従の場合は即時解任、党議員、機関役員の場合は次期非推薦という党中央常任幹部会の陰湿な報復をうけます。これは、規約に基づかない報復処分ですので、党内でのそれとの闘争手段はまるでありません。どれだけ多くの党員が、この不条理な粛清に“泣き寝入り”してきたことでしょうか。
戦前は、特高とつながったスパイでしたが、戦後は公安調査庁との関係でのスパイです。公安調査庁は、様々な巧妙な手口でスパイ工作をしてきます。その一例は、妻のホームページの『政治の季節』の「尾行」にあります。スパイ容疑での査問は、当然“監禁”査問の形態をとります。
1951年春先には、東大細胞における、戸塚、不破哲三、高沢寅男への、約2カ月間の“監禁”にわたる「スパイ査問・リンチ事件」があります。『突如武井の手が不破の顔面に飛び、なぐり飛ばされた不破の眼鏡がコンクリートの床の上で音を立てて滑った』『「貴様!」武井は殴打しながら不破をなじった』『戸塚と不破の顔が変形してきたが手はゆるめられるどころかはげしくなった』『不破の兄、上田耕一郎が急に連絡がなくなってしまった弟の消息を尋ねて細胞の部屋に来た。もちろん誰もことの次第を彼に話すはずもない』『査問はもはやリンチと呼ぶ他はない様相を呈してきた』『「未だ吐かない」「しぶとい奴だ」いら立てばいら立つほど交替で追及する者のリンチは強くなっていった』『私もついに戸塚に数発手を下した。「手を下す」などといった生易しいものではなかった』……と、安東仁兵衛氏が『戦後日本共産党私記』(文春文庫、1995年)の「第七章」でその経過と結末を詳述しています。
以上は資本主義国前衛党における“監禁”査問です。ただ1951年春の東大細胞による不破氏ら3名への「スパイ査問・リンチ事件」のような“暴行を伴う、2カ月間もの監禁”査問は、1950年からの党が分裂していた時期を除けば、戦後では例外的なものでしょう。
第四、一党独裁国では、反革命、国家反逆罪容疑、西側のスパイ容疑などです。
一党独裁国前衛党による“監禁”査問は、例外なく“暴行、拷問を伴う”ものとなっています。下記の強制収容所送り、銃殺された百数十万人以上の前衛党員は、その判決の前に、不破氏への暴行どころではない残虐な拷問を受け、『分派活動をした』『西側のスパイだった』と虚偽の自白を強要され、その上で銃殺されたのです。そこから生き残った者の証言は何百となくあります。
それらの証言にある、前衛党指導部、前衛党が牛耳る国家治安機関による、前衛党員への拷問の程度やテクニックは、戦前の日本の特高よりも、場合によっては、はるかに残虐で、悪質なものです。なぜなら、様々な戦前の日本共産党員の手記によれば、日本の特高は、非合法での街頭連絡場所、時間やアジトを吐かせるために、最初の三日間は、小林多喜二が『一九二八年三月十五日』で描いたような、ひどい拷問をしました。連絡が三日間途絶えれば、連絡相手が検挙されたものと判断し、未検挙者側が連絡ルートを断ち切り、アジトを替えてしまうからです。それは“連絡ルート、アジト場所などの真実”を吐かせる拷問でした。
しかし、14の一党独裁国での拷問の目的は、何百という証言にあるように、『トロッキストだった』『党破壊工作をした』『西側のスパイだった』という“虚偽の供述”をさせることでした。ブハーリンをはじめとする百戦錬磨の革命の闘士たちに、『西側のスパイだった』という虚偽の自供を、昨日までの同志だった前衛党側がさせるには、どのような拷問が必要だったかお分かりになるでしょうか。前衛党による拷問の手口は、ソ連だけでなく、東ドイツ、チェコ、中国、北朝鮮などすべて共通しています。
以前に、東欧の一連の粛清裁判めぐって、逮捕、査問、拷問されたチェコ共産党員の手記に基づく、イブ・モンタン主演の映画『自白』が上映されました。そこでは、前衛党治安機関による拷問の様々な手口が、映像で、正視に堪えられないほどリアルに描かれていました。フランス共産党員であるイブ・モンタンに対して、フランス共産党中央委員会は『そんな反共映画に出演して』とクレームをつけました。しかし、その手記も、映画もスターリン批判、スターリンの粛清裁判批判とその査問、拷問手口告発として、衝撃的ですが、きわめて真摯なものでした。
『虚偽の自白』をサインさせるための、前衛党式“科学的”拷問の手口を一つだけ紹介します。前衛党員の容疑者を逮捕すると、すぐ約40センチから50センチ四方のコンクリート壁の独房に監禁します。すこし大きめのスチールロッカーがコンクリート製になっているようなものです。そこでは身動きも、座ることもできません。顔の前面に500ワット以上の電球があり、24時間中顔を照射します。食事は黒パンと水のようなスープが差し入れられます。大小便は、ほとんどたれ流しになります。電球のため眠ることもできません。電球は容疑者が割らないように、頑丈な金網で防護されています。48時間か、72時間そのまま放置された後で、査問室に呼び出され、前衛党員査問官が『自白』を迫ります。一回目は、その監禁時間中立ちっぱなしで、かつ光線で一切眠れず、意識はもうろうとしていても、拒否します。それに対して、前衛党は、日本の特高のように、逆さづりにして、竹刀でめった打ちにはしません。拒否すれば、またその“窓なしの、コンクリートロッカー”独房に帰して、2日、3日と放置します。この査問スタイルの目的は、前衛党の言うなりの『自白』をさせるために、まずそれによって人間の理性と人格を破壊しきることです。人間としての尊厳、プライドをその前衛党員から剥ぎ取ることです。立ちっぱなしにより膝、腰に激痛が走り、不眠のため意識ももうろうとしてきます。ついには、この“科学的”拷問に堪え切れなくなり、どんな『自白』にでもサインしてしまいます。どんな荒唐無稽の『反革命行為、スパイ活動』『分派グループリスト』でも、査問官の言いなりに『自白』し、サインします。
この文を読まれる方は、この前衛党式査問スタイルに“何時間、あるいは何日堪えられる”でしょうか。『サインさえすれば、あの“40、50センチ四方”独房からは出してやる。しなければ、またそこへ戻るだけだ』と査問官から言われても、それを10数日以上も拒否し続けられる自信があるでしょうか。これ以外にも前衛党式“拷問”査問の手口はいろいろあるのです。ソルジェニーツィンは『収容所群島』第3章「審理」でその32種類の拷問を分析しました。
“見せ物裁判”が、その『自白』に基づいて開かれます。そこでは、西側マスコミが目を光らせます。しかし『党破壊活動をした』『重工業のサボタージュを組織した』として、虚構の分派グループリストで芋づる式に逮捕され、告訴された被告たちの顔面にも、体にも拷問の痕跡はまったくありません。その法廷で、『自白』内容は拷問によるものとして否定し、無実を訴えても、無駄です。なぜなら、査問官と同じく、その裁判の検事も裁判官も全員が前衛党員だからです。しかも、判決は、裁判の前に、前衛党上級機関で“決定ずみ”だからです。検事も裁判官も“上級機関の脚本に基づく、見せ物の演技者”にすぎません。弁護士もいますが、それも前衛党員です。弁護内容は、『自白』はすべて真実であると、検事論告求刑内容をさらに“第三者側から補強”します。その上で、『真実を自白したのだから、情状酌量を』と弁護し、“反革命分子にも思いやりのある前衛党”を演じます。それだけでなく、多くの場合、被告までもが“その裁判劇の俳優の一人”を演じさせられます。それは、あらかじめ前衛党員検事から暗唱させられた『自白』を法廷において、迫真の弁説で陳述するという“配役”の演技です。それは『熱意を込めて、自白を陳述すれば、お前は銃殺だが、同時に逮捕されている妻、子供の命だけは助け、強制収容所送りにしてやる』という前衛党の“空約束”にすがりつく思いで、必死で演ずる“死の舞踏”です。
判決内容はかなりが粛清データ、表8にあるように、『反革命罪による銃殺』です。上告制度はなく、直ちに銃殺刑が執行されます。銃殺刑でない前衛党員には、10年ないし15年の強制収容所送り・強制重労働判決がなされます。
それが具体的にどのようなものか、一例だけ上げておきます。
ブハーリンに対する『反ソ右翼=トロッキスト・ブロック』事件裁判は、1938年3月2日に開始され、同月13日には死刑判決が確定し、その2日後の15日にブハーリンは銃殺されました。ブハーリン夫人のアンナ・ラーリナも、逮捕、査問され、刑期8年の強制収容所送りが決定され、さらに刑期満了後15年の流刑が追加されました。ブハーリンの妻という、事実上ただそれだけの理由で、23年間の刑期になったのです。二人が『無実だった』として名誉回復したのは、夫人が1956年で、ブハーリンはようやく1989年になってからでした。二人の粛清に至る経過、原因、査問の形態、政治裁判の実態、内容については、アンナ・ラーリナが『夫ブハーリンの想い出、上下』(岩波書店)で克明に記しています。
1950年前後に吹き荒れた、東欧の一連の粛清裁判についても、一言触れておきます。1948年、スターリンの指揮権に反抗するチトーのユーゴスラヴィアが、コミンフォルムから破門されました。それとの関係を疑われ、チェコ共産党のスランスキー書記長たち指導部9名が逮捕、査問され、裁判にかけられ、その内7名が処刑されました。さらに東欧社会主義国すべてで『チトー主義に加担した』という、いつわりの罪科をなすりつける粛清裁判が展開されました。その政治裁判の目的は、各国の前衛党指導部の中心部分を、大キャンペーンをはって粛清する中で、各国をさらに徹底して“ソヴェト化”=ソ連の衛星国化することにありました。逮捕後の査問のやり方、粛清裁判というものがどのように準備され、演出されるのか、ソ連の介入・指令の実態については、1968年、プラハの春の時点に、チェコ共産党が作成した『粛清と復権――チェコスロバキアにおける1949年−1968年の政治裁判および「復権」に関するチェコ共産党特別委員会報告書』(三一書房)が、270ページにわたる詳細な分析をしています。
したがって、査問と“見世物裁判”とは、粛清手続きという点で共通の性質を持っています。査問とは、党内において(1)から(13)、および(15)精神病院強制隔離の14項目の前衛党員粛清を行うための、内部的・私的手続きです。それに対して、“見世物裁判”は、一党独裁国家が、国家権力という暴力装置を使用し、(14)強制収容所送り、(16)銃殺の2項目の肉体的排除、抹殺処理を行う、公的手続きなのです。前衛党中央委員会が“見せ物裁判”によって肉体的抹殺処理をした前衛党員、国民は、ソ連一国だけでも、表8にあるように、799,455人にのぼります。
塩川伸明東大法学部教授は、『終焉の中のソ連史』(朝日新聞社)の第三篇『「スターリニズムの犠牲」の規模』において様々なデータを批判的に分析しています。それによれば、1992年夏のロシア保安省の公式発表では、1917年から90年のソヴェト政権全期間を通した反革命罪による抑圧者総計は385万3900人で、うち死刑になったのは、82万7995人です。これらはすべて反革命として、前衛党の査問、あるいは前衛党員のKGBによる尋問を受けたのです。そのうち今までに約200万人が『無実だった』として、名誉回復されていますが、これは前衛党が、そして前衛党の査問がいかに事実無根のでっち上げを行う体質を持っているかを示しています。
粛清犠牲者総数の中で、14の一党独裁国前衛党中央委員会が、銃殺および収容所で死亡させた前衛党員の合計は、100万人を越えることは間違いありません。そして“党中央の決定、指令に服従し、それを無条件に実行する”という民主主義的中央集権制の組織原則に基づいて、仲間の前衛党員の逮捕、査問、拷問、殺害を遂行した数百万人の前衛党員がいたことも間違いないのです。この一党独裁国においては、民主主義的中央集権制は、文字通り“20世紀で最悪の、犯罪的組織原則”なのです。
この文の冒頭では、前衛党理論がもつ世界政党史上もっともうぬぼれた独善性は、その双生児のように、当然ながら排他性をもつと述べました。そしてその前衛党中央の排他性は、具体的には、前衛党の外部に対してだけでなく、前衛党内部、下部に対する排除、粛清システムとなったのです。さらにそのシステムは、1)党内排除、粛清→2)党外排除、粛清→3)社会的排除、粛清→4)肉体的排除、抹殺システムへと、限りなく“進化”および“深化”しました。
この(1)から(16)の排除、粛清システムを、前衛党が実行するにあたっては、そこに思想的、理論的境界線はなんらありません。あるのは社会的排除システムおよび肉体的抹殺システムの起動を可能にする暴力装置=国家権力を、その前衛党が所有しているかどうかの違いだけです。日本共産党が、“国家権力という暴力装置をまだ獲得していないレベルの前衛党”として実行しているのは、(1)から(12)までですが、その実態については、『なぜ民主集中制の擁護か』の方にも分析してありますので、そちらもお読み下さい。
“暴力装置をまだ獲得していない前衛党”などと書くと、もってまわった大げさな言い方と思われるかもしれません。しかし、宮地幸子のホームページの『政治の季節』の「尾行」にあるように、日本共産党による、1カ月間もの連日の尾行、張り込みを体験したときは、日本が前衛党一党独裁国家だったら、私たち夫婦は、間違いなく、銃殺か強制収容所送りになったであろうと、実感したのです。ただ、この感覚を話しても、とうてい理解されないと思い、今までほとんど言ったことがありません。そこでの私たち夫婦にたいする共産党の5つの作戦全体像については、『日本共産党との裁判第6部』にもくわしく書きました。
ところが、最近出版された、川上徹著『査問』(筑摩書房)で、1972年の「新日和見主義」における13日間の“監禁”査問からの実感として、川上氏は次のように述べています。『翌朝、私は初めて査問部屋から解放された。……茨木良和と今井伸英が入ってきた』。『今井が、「川上君、君、どっか籠るようなところない?」「君、君が消えてくれるのがいちばんいいんだけどな。ネ、茨木さん、ネ」』『私は後年、何度か、今井が何気なく吐いたこのときのことばを思い出し、もし日本がソ連・東欧型の社会主義国になっていたとしたら、間違いなく自分は銃殺刑に処せられていただろうと思った』(P.109)。
さらに、同じく「新日和見主義」で“監禁”査問された、当時、党中央直轄の細胞が支配する通信社ジャパン・プレス・サービスでジャーナリスト活動をしていた高野孟氏は、1998年5月号『諸君』の『「日共」の宿痾としての「査問」体質』において、『それで僕は査問第一日目の結論として、この党にだけは権力取らせちゃいけないと思った。スターリン粛清とか、いままでさんざん言われてたのと同じことが日本共産党でもやっぱり起こると思った。まだいまは党内権力だから、このくらいですむけれども、これが国家権力だったら殺されてる』と述べています。
他にも、私の知人で、日本共産党による批判キャンペーンを体験して、『身の危険を感じた』『日本共産党の、言葉による殺人』を実感した人がいます。
まったくの少数ですが、川上氏、高野氏、知人、私たち夫婦の5人は、理論からでなく、1972年以降の自らの日本共産党による査問、批判キャンペーン、尾行、張り込み体験を通じて、“日本共産党は、国家権力という暴力装置を握ったら、14の一党独裁国前衛党がやってたのと同じく、私たち5人を銃殺するであろう。その共通の体質を持っている”と実感したのです。
“戦争と革命の世紀”と言われる20世紀に、戦争による数千万人にのぼる膨大な死者以外に、革命の内部で、即ち自国民、自党党員をこれほどまでに大量殺害をするという『前衛党の犯罪』は、どのような思想、理論に基づいているのでしょうか。
(1)、スターリン、毛沢東など各国の前衛党権力者の個人的資質、思想的、理論的誤り、(2)、個人独裁者をたえず再生産し、その独裁者からの粛清決定の無条件実践を強要する民主主義的中央集権制システムの存在、(3)、マルクス・レーニン主義の階級闘争理論に本質的にふくまれる、階級敵への怒り、憎しみと、階級敵の殺害是認思想があります。もちろん、この中のいずれか一つではなく、その複合的な絡み合いによるものです。ここでは、(3)の階級闘争理論についてだけ考えてみます。
マルクス、レーニンの階級闘争理論は、支配階級が被支配者を搾取、抑圧するだけでなく、体制反逆者、批判者を大量に殺害してきたという歴史的事実を土台にしています。それとたたかって、被支配者側の労働者階級、被抑圧民族の解放という理論、展望を打ち出した面では、すばらしい進歩的側面をもち、偉大な成果を上げました。
しかし、その方法論として、階級敵への憎悪、怒りとその駆逐、即ち階級敵の肉体的抹殺=敵の殺害を、『革命』の名において、是認する思想を当然のように伴っていました。それは階級闘争の歴史的反映というだけでなく、他の神の存在を一切認めない、不寛容な“キリスト教的”“イスラム教的”『目には目を、歯には歯を』の精神的思想構造を背景に持っているとも言えます。
この外部の階級敵の抹殺=殺人是認思想は、革命後の、資本主義国に包囲、攻撃される状況の中では、内部に発生する“階級敵”への絶えざる恐怖と憎悪が発生します。それは、さらに内部に巣くっているかもしれない“人民の敵”の摘発とその殺害是認思想に容易に転化します。
その“人民の敵”の幻影は、内部に向かって、どんどん“深化”していきます。
(1)、レーニンは、ソ連の内戦とは関係ないソ連国民の排除、粛清指令を大量に出しています。ソ連崩壊後に明らかになった、レーニンの6724点もの未公開秘密資料に基づくドミートリー・ヴォルコゴーノフ著『レーニンの秘密』(NHK出版)で、その内容が詳細に書かれています。赤色テロルをもっとも強硬に主張し、悪名高いKGBの前身のチェーカーの育成、強化に努め、強制収容所作りを積極的に推し進めたのは、レーニンなのです。
(2)、スターリンは、ソ連国民だけでなく、前衛党内部にも粛清指令を大規模に出しました。
(3)、それは、1934年のソ連共産党第十七回大会で選出された中央委員と同候補139名のうち、110名、即ち中央委員総数の80%が粛清され、その内98名が銃殺され、またトハチェフスキーなど赤軍中枢の粛清にまで“深化”していきました。
(4)、粛清の嵐は、さらにエジョフなどKGBという粛清機関中枢にまで及んだのです。
(5)、毛沢東も、同じでした。東欧各国でも、北朝鮮でも同様です。
マルクス、レーニンの階級闘争理論は、一方で、外部の支配、敵対階級の横暴、抑圧や搾取とたたかう進歩的性格を持ちつつも、他方で、国内、党内、政権中枢内の“人民の敵”排除、抹殺へと求心的な殺人衝動を引き起こしました。
それは、『敵は殺せ』『人民の敵も殺せ』のスローガンに疑いを持たない、20世紀最大の殺人是認理論という側面を合わせもつ両刃の剣だったのです。
それは、ヒットラーのアーリア人種の優越理論、そこからその純血を守るためのユダヤ民族絶滅=約600万人のホロコースト是認理論に匹敵する殺人肯定理論です。ホロコーストによる犠牲者の規模は、アウシュビッツで約150万人、全体で約600万人というのが、ほぼ定説になっています。
小田実がベトナム戦争から悟ったことは、『殺すな』ということでした。
グラムシの『ヘゲモニー理論』は、強烈なレーニン批判、スターリン批判として、レーニンの敵および反対者の排除、粛清必要(悪)理論、殺人是認理論への対抗理論=オルタナティブ(もう一つの選択肢)だったと考えられないでしょうか。
グラムシについては、石堂清倫『ヘゲモニー思想と変革への道』(『世界、1998年4月号』)、および加藤哲郎一橋大学教授ホームページ掲載の、(1)、グラムシ没後60周年記念国際シンポジウム参加記(2)、グラムシからポスト・グラムシ主義へ、(3)、ポスト・フォード主義論争、あるいは、(4)、赤間道夫愛媛大学教授ホームページマルクス主義リンク10、グラムシ研究文献、国際グラムシ協会のニューズレター(英語)をご覧下さい。
そして、上記で述べたように、ドストエフスキーが『罪と罰』『悪霊』『カラマーゾフの兄弟』で追及した“思想的殺人”のテーマは、彼が、シベリア流刑中に熟読したと言われる、ブランキやロシア・ナロードニキの“革命理論”“革命運動”の中にある“理論、目的が正しければ、殺人は許される”“革命目的が正しければ、いかなる手段も許される”という思想に深い危惧を感じ取ったからではないでしょうか。埴谷雄高が言うように、『ドストエフスキーは、革命の四重底、五重底を洞察していた』のです。私が上記全体で使っている『殺人』という言葉は、きつい言い方ですが、すべてこの“政治思想に基づく殺人”という意味です。
最後に、『粛清』と『銃殺』と『殺人』という日本語のニュアンスを考えてみます。
私は、言語学を研究したことはありません。しかし『ゆううつなる党派』や他の文でも、日本語にいろいろこだわるのは、歴史的事実や党運営の内容、実態と、それに対して使用される前衛党側の日本語と、その日本語本来の意味、語感との格差が、あまりにも大きすぎるからです。
まず前衛党の『粛清』には、上記のように、16項目がふくまれます。党内排除項目も、批判者、異論者への粛清行為です。「広辞苑」では、「不正者、反対者などを厳しく取り締まること。独裁政党などで、方針に反対する者を排除すること」と述べ、『粛清』をきわめて広い概念として説明しています。
ところが、日本共産党中央委員会が事実上編纂した「社会科学総合辞典」(新日本出版社)では、『粛清』は単独項目でも、細部にわたる事項索引でも、一切載っていません。日本共産党は、どうもこの『粛清』という日本語をお嫌いなようです。
次に、『銃殺』という日本語です。『粛清』の究極の形態としての『殺人』の執行方法の一つとして、『銃殺』があります。ただ、日本語として見ると、それは『有罪な者に対する銃殺刑』という語感です。「広辞苑」では、それを「軍律による死刑執行の方法として小銃で射殺すること」としています。
しかし、前衛党によって『銃殺』された100万人から数百万人の国民、党員は、ほとんどが無実の罪によるものです。しかも、『銃殺』以外に、収容所で死亡した者は、数百万人から最低でも1000万人にのぼります。
したがって、私は、『前衛党による大量殺人』『思想的殺人』『前衛党の犯罪』という日本語を、意識的に使用しています。
また、マルクス、レーニンの階級闘争理論に対して、前衛党によって殺された一人一人の立場、および粛清犠牲者総数からのスポットライトをあてた場合、それは『ヒットラーの600万人殺害をもたらした、ホロコースト奨励理論と並ぶ、20世紀最大の殺人是認理論』の側面を持つと、私は考えます。14の前衛党が『無実の罪で殺害した』人たちは、数百万という数字だけでなく、当然ながら一人一人がその固有の顔を持っています。加藤哲郎一橋大学教授は、そのホームページの『旧ソ連日本人粛清犠牲者一覧』で、28名の粛清確認者リストを掲載しています。その内訳は、銃殺15名、強制収容所5名、国外追放3名、逮捕後行方不明4名、釈放1名です。加藤氏は、旧ソ連秘密文書だけでなく、日本国内でも出身地まで出かけて、その足跡をたどり、一人一人の顔の克明なスケッチを描いています。
このスポットライトは、上記の前衛党式拷問の500ワット以上の裸電球24時間顔面照射と同じく、現マルクス主義者や「科学的社会主義」者の視神経や脳細胞への刺激がきつすぎるでしょう。しかし、別ファイルの6つの粛清データは、『20世紀最大の殺人是認理論の側面の存在、遂行』を証明する決定的な証拠を突き付けています。
以上
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塩川伸明著書の一章『「スターリニズムの犠牲」の規模』(抜粋)
(注)、この資料は、独立したファイルにしました。これは、塩川伸明東大法学部教授著『終焉の中のソ連史』(朝日新聞社、朝日選書483)における、『Y、「スターリニズムの犠牲」の規模』(P.321〜P.407)の冒頭部分(P.321〜325)の抜粋です。
そこには、「犠牲」の規模に関する11の表があり、それぞれについて詳細な分析、検討がなされています。このホームページでは、その内下記の6表だけを引用させていただきました。ただ、表には、出典がすべて記されていますが、ロシア語表記のものは省略しました。