『共産主義黒書』を読む

 

社会主義研究家 中野徹三

 

()これは、「労働運動研究2000.3、4号」に(上、下)で掲載された中野徹三論文の全文である。このHPへの転載については、中野氏の了解をいただいた。文中の傍点個所は太字にした。

〔目次〕

     はじめに

   一、本書の構成と著者たち

   二、クルトワの序章

   三、ロシア革命からソ連の崩壊まで

   四、コミンテルンと「大テロル」

   五、「宿敵」ポーランド

   六、アジアの共産主義体制のもとで

 

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   ニコラ・ヴェルト  『共産主義黒書−犯罪・テロル・抑圧−ソ連篇』

               第2章「プロレタリア独裁の武装せる腕」抜粋

   中野徹三教授   『「二〇世紀社会主義」の総括のために』

   塩川伸明教授   『「スターリニズムの犠牲」の規模』 粛清データ

   ブレジンスキー  『大いなる失敗』 犠牲者の数

   ソルジェニーツィン『収容所群島』第3章「審理」 32種類の拷問

 

はじめに

 

 ここでの私の課題は、一九九七年にフランスで出版された『共産主義黒書』(Le livre noir du communisme,Editions Robert Laffont,Paris,1997)を紹介することにある。しかし、フランス語の原版で八三〇頁、私がここで用いるドイツ語版も本文だけで八九四頁という大著であり、日本語による全訳以外にその全容を伝えることはもとより不可能である。なお本著の日本語訳は、東京の恵雅堂出版というところで数名の訳者により進行中ということであるが、当出版社の話では、当初昨年末刊行の予定がかなりずれてはいるが、本年中には刊行可能、ということであった。それで、それまでの間は、本稿のようなごく部分的な試みにも、それなりにひとつの意義がある、といえるであろう。

 紙幅がごく狭いため、ここでは著者たちが提出している無数の「事実」と論点のうち、本書の特徴を成しており、さらに私たちが今是非取り上げるべきであると思われる主要なもののいくつかを抽出して、ご検討に委ねる以外にない。

 

 昨年十一月号の本誌上の小論でも強調したように、二〇世紀の「現実社会主義」体制を支えた最大の決定的な力は、軍と広大な国家保安部門に体現された政治的・軍事的暴力であり、これを武器として独裁党が行使した各種テロル(物理的から心理的に及ぶ)の大規模かつ系統的な行使とその日常化であって、ここから私は、本書が提起している問題と内面的に深く対決することなしに私たちは、次の世紀の社会主義の根源的ありかたを明らかにしえないだろう、と考えている。

 

 もともとわが国においては、長くスターリン主義に馴らされていた社会主義政党の政治家や党員はもとより、ソ連史家や社会主義法学者、経済学者から哲学者・文学者の大部分にいたるまで、こうした問題については驚くほど鈍感であり、無関心だった。一九七七年に、当時日本共産党員だった私たちが『スターリン問題研究序説』を大月書店から刊行した時には、それまでは大月書店の刊行物はすべて『アカハタ』紙上で定期的に紹介されていたのに、この本の書名だけは、まるで存在しなかったかのように削除されていた。ペレストロイカからソ連崩壊までの時期には、本国でのスターリン主義批判の進行を前に、わが国でもこれまでスターリン主義についてはほとんど全く論じることもなかった諸氏が、おずおずとスターリン主義について語り始めたが、ソ連や東欧の「社会主義体制」が崩壊すると、その究明はほとんどの場合、――本来自分自身の問題であるはずなのに――あっさりと放棄された。

 

 また日本共産党は、それまでソ連等の体制を「生成期社会主義」と呼んでいたのに、突然「スターリン・ブレジネフ型政治経済体制」という奇妙な造語に置き換え、また九四年の第二〇回党大会では、それまで「一言の誤りもない」と誇っていた党綱領の文書を説明らしい説明もなしに、ソ連や東欧諸国は「・・・・・・社会主義に到達しえないまま、その解体を迎えた」と変更した。これらの無責任の全体系を通じて、特徴的なことは、ごく一部の例外を除いて、古典スターリン主義からネオ・スターリニズムにいたる全時期(レーニン時代についてはいうまでもなく)におけるすさまじい人民抑圧の実態について、またその被害規模についての問題意識が、ほぼ完全に欠落している、という点にあった。私には、このことが、(社会主義者を含めて)天皇制時代以降、普遍的な人間の権利という意識が定着することのなかった日本の国民意識基層の長期持続、に根源を持っているのではないか、と思われる。敗戦後も、私たちの「価値の源泉」が「国と家」から、「社会」(会社や結社、学会等)に移っただけだった()。「南京大虐殺」等を否定したり、極力その被害をミニマムに見立てようとする別の傾向も、同根の産物といってよい。

 

 しかも、古い意識と体制とは、瓦解したはずの旧ソ連の土壌でも、実に根強く再生を続けている。KGBの元将校で、チェチェンヘの武力進撃で人気を高め、近いロシア大統領選挙での最有力候補となったプーチンは、昨年十二月十九日の夜、ルビヤンカ(KGBとその後身SVR=対外情報局の本拠がある所)でKGBの元同僚の前で演説し、「諸君が政府に送りこんだ先遣部隊は、片づけるべき仕事の最初の段階を、成功裡に終えた。(次の段階は?・・・・・・という聴衆のひとりの質問に答えて)最終的には、我々のひとりが大統領になることである」、と述べたという()KGBに関するロシアの女性研究者エフゲーニア・アルバーツは、彼女の最近著の結論部分で、ルビヤンカはなお生きている、と強調し、「KGBは社会の国家であり、公共的良心の病いである。社会は、KGBが破壊された時にだけ、病いから解放されるだろう」という、反体制派チモフェーエフの言葉で結んでいる()。そしてこのKGBの活動が全開した恐怖の時間こそ、スターリン時代だったのである。

 

 

一、本書の構成と著者たち

 

 本書は、序章と終章を付した五部構成となっており、各部とそれを分ける各章の標題ならびにその著者は、次の通りである。(ここではドイツ語版による)()

序章 共産主義の犯罪 ステファン・クルトワ

第一部 自国民に敵対する国家 ニコラ・ヴェルト

第二部 世界革命、内戦、テロル

1、活動中のコミンテルン ステファン・クルトワ及びジャン・ルイ・パネ

2、スペインを蔽うNKVD(注・内務人民委員部=旧ソ連秘密警察)の長い影 同上

3、共産主義とテロル レミ・コファ

第三部 共産主義の犠牲者としての他のヨーロッパ

1、「宿敵」ポーランド アンドレイ・パツコフスキー

2、中・南東ヨーロッパ カレル・バルトセク

 

第四部 アジアの共産主義体制 「再教育」と大量殺害の間

1、中国・夜に向かっての長征 ジャン・ルイ・マルゴラン

2、北朝鮮、ベトナム、ラオス 龍の種(内部抗争の原因、の意) ピエール・リグロ

3、カンボジア・不可解な犯罪の国 ジャン・ルイ・マルゴラン

第五部 第三世界

1、ラテン・アメリカ、共産主義の試練 パスカル・フォンテーヌ

2、アフリカ共産主義の諸形態 エチオピア、アンゴラ、モザンビーク イヴ・サンタマリア

3、アフガニスタンの共産主義 シルヴァン・ブルク

終章 なぜ? ステファン・クルトワ

 

 なお、ドイツ語版には、このあとに、東独解体後のドイツに旧東独国家保安省(いわゆる「シュタージ」)の文書を管理する機関として生まれた連邦特別委託者(通称ガウク局)の長ガウク氏と、その「教育と研究」部門の主任ノイベルト氏による、次の章が追加されている。

 東独社会主義の批判的考察

1、東独の政治犯罪 エールハルト・ノイベルト

2、知覚との付き合いの困難さ ヨアヒム・ガウク

 

 このように執筆者は(ドイツ語版のガウク、ノイベルト両氏を別とすれば)総数十一名であるが、著者としては次の六名で、あとの五名は寄稿家ということになっている。

 ステファン・クルトワ フランスのCNRS(科学ナショナルセンター)の研究部主任で、共産主義、特にフランス共産党の専門研究者。

 ニコラ・ヴェルト 同じくCNRSの研究者で、ソ連史の専門家

 ジャン・ルイ・パネ フランス労働運動史と国際共産主義運動史の専門家。トロッキーの弟子で研究家でもあるボリス・スヴァーリンの伝記の著者。

 アンドレイ・パツコウスキイ ポーランド科学アカデミーの政治科学研究所副所長、内務省アルヒーフについての諮問委員の一員。

 カレル・バルトセク チェコ出身の歴史家。『文書は告白する。プラハ―パリ―プラハ』の著者。

 ジャン・ルイ・マルゴラン プロバンス大学の歴史担当講師で、東南アジア研究の専門家。

 なおクルトワが、彼の筆に成る序章のなかで、著者たちがこの本を書くに至った個人的動機について触れ、自分たちの多くがかっては正統派のマルクス=レーニン主義であれ、異端のトロッキズムまたは毛沢東主義であれ、コミュニズムの魅惑に惹かれ、その実現可能性に身を賭けたことのあったことを告白し、事後その無分別を熟考したことが、以後の研究分野の選択に影響を及ぼした、と述べたうえで、自分たちが近頃ますます目立つようになった極右に身を委ねるものでないこと、共産主義の犯罪は民族ファシズム的観念の名などではなく、民主主義的価値の名で分析され、判断さるべきであること、を強調している点も()、日本との比較を念頭に置いた上で、注意したい。

 

 

二、クルトワの序章

 

 クルトワは彼の序章「共産主義の犯罪」のなかで、二〇世紀が空前の暴力の世紀であり、そしてこの世紀に現実に存在するにいたった共産主義体制は、「組織的な抑圧が統治形態としてのテロルにまで導入された」ものであった、と指摘し、この書は「犯罪という次元の視点から共産主義を取り扱う最初の試みのひとつ」である、と記している。彼によれば、「テロルは最初から現代共産主義の根本様相のひとつ」であり、したがって彼らの研究は「共産主義の全体制を特徴づけるひとつの次元としての犯罪的次元」に向けられることになる。つづいて彼は、私が本誌十一月号で紹介したところの、この体制により殺害されたという市民の数の国・地域別の一覧を提示する。

 ソ連      二、〇〇〇万人

 中国      六、五〇〇万人

 ベトナム      一〇〇万人

 北朝鮮      二〇〇万人

 カンボジア    二〇〇万人

 東欧        一〇〇万人

 ラテンアメリカ    一五万人

 アフリカ      一七〇万人

 アフガニスタン  一五〇万人

 コミンテルンと権力を握っていない共産党 約一万人

 総計          約一億人

 

 続いてかれは、国家によって犯された種々の犯罪を分析する視点を得るために、ナチ犯罪の追及に際して平和に対する罪、戦争犯罪、人道(人間性)に対する犯罪の三つのカテゴリーを区分したニュルンベルク国際軍事裁判を回想するが、さらにそれにもとづいて一九九二年七月二三日に新たに可決されたフランス刑法に規定された「人道に対する犯罪」についての次の規定は、共産主義体制下の国家犯罪にも適用可能である、と述べる。

 

 「政治的・世界観的・人種的あるいは宗教的な理由から、文明国民のあるグループに対し向けられた、意図的に調整された目的にもとづいて行なわれるところの、強制移住、奴隷化、裁判の手続きを経ない処刑、同じくその後の消息不明となるか、拷問され、または非人間的に取り扱われるかする人々の誘拐の、大量かつ組織的な適用。」()

 

 クルトワは、別のところではここで叙述される犯罪なるものは「共産主義的独裁の立法により規定されるものではなく、文書に記されない人間の自然法によって規定されるものである」と述べているのだが、反面彼の主張が、現代ヨーロッパの刑法典に明記された新しい犯罪規定に依拠している事実は、日本の私たちによって改めて銘記さるべきである(日本の刑法典にはまだ「人道に反する罪」はない)。そしてベルサイユの重罪院は九四年四月二〇日、大戦中ナチに協力した民兵組織の責任者ポール・トウビエ被告に対し、この「人道に反する罪」で終身刑の判決を宣告した。彼はさらに、ナチがユダヤ人やロマニ(ジプシー)など特定の人間集団を絶滅しようとしたジェノサイドについてのフランス新刑法典の規定――「ある民族的・種族的(エスニック)・人種的または宗教的な集団あるいはなんらか他の基準で特定された集団の、完全ないし部分的な絶滅を意図して立てられたある計画を実行に移したもの」――が、ソ連で行なわれた「クラーク(富農)の階級としての絶滅」政策やある民族集団の強制移住等々にも適用できると説き、ナチの「人種ジェノサイド」に共産主義体制下の「階級ジェノサイド」を、対比させる。

 

 ここから彼は、やがて同じ著者たちの間を含めて、種々の批判を呼んだ歴史家の使命をめぐる次の言明へと進む。

 歴史家の仕事は「理解すること」に努むべきであって、「判断する」ことにない、という一九世紀型の歴史理解がこの期に及んで妥当すべきなのか? 「歴史家は、特定のイデオローギ的・政治的観念からひきおこされた恐るべき悲劇を目前にして、私たちのユダヤ的=キリスト教的文明ならびに民主主義的文化と深く結びついたヒューマニズムとのかかわりを、人間の尊厳との関連を無視できるのか?」

 「こうして、この概念(「人道に反する犯罪」crime contre l’humaniteを、共産主義体制のもとで犯されたある特定の犯罪の特徴づけのために用いることは、許されないことではありえない()」(傍点筆者)

 

 ドイツのジャーナリストであるベルンハルト・シュミットとベルリン自由大学の現代史教授ヴォルフガング・ヴィツパーマンは、『共産主義黒書』を批判した著書の一章でこのクルトワの文章について「これが歴史家の課題か?」と問い、「常にまたいたるところで犯罪的な共産主義に対するこうした《起訴状》が、歴史科学的な作品と見なされうるか?」という疑問を投げかけている。()

 

 「非政治的」=実証主義的門戸に閉じこもるのが好きな日本の歴史家たち(だがこういう歴史家たちは逆説的ながら、実にしばしば愚かな政治の奴隷でもある)の多くは、すぐにこの疑問に賛意を表するであろう。もちろん、どんな体制のもとであれ、こうした犯罪の認定には十分厳密な学問的検討が必要であることは、いうを待たない。しかし、ナチス・ドイツや帝国主義日本の軍隊の犯罪に「人道に反する罪」を認めないことが、まっとうな歴史家に許されないと同様に、ソ連や中国、北朝鮮やカンボジアなどでおこった特定の犯罪に、この概念の適用を拒否することは、およそ「人間性」(人道)という概念の普遍的性格を歴史家が否認するという、致命的な矛盾を犯すことになるのである。丸山真男氏のいう「絶対者がいない」わが国の思想風土ではとりわけ、こうした無責任な「歴史主義的」発想が繁茂し、唯物史観の卑俗な理解にも通底しているのだ。

 

 なお、ヴィツパーマンたちは、他の同じ著書の著者たちもそうだが、『黒書』の著者たちが、共産主義体制のもとで生じたすべてが犯罪以外のなにものでもないかのように描いている、と非難する(「共産主義」「犯罪の帝国」というレーガン的レベル)が、それは当たっていない。先に引いたクルトアの文が示すように、この本では犯罪という特定の次元からこの体制を研究しているのであり、また「人道に反する罪」は、さらにその特定の犯罪についてのみ、適用されると述べているのである。私は、こうした視点から「現実に存在した(一部にはまだ存在する)社会主義」の歴史を研究することは、歴史家として許されるのみならず、この悲劇を悪質な「歴史家」たちや極右の政治ゴロたちに悪用させないためには、まさに必要であり、不可欠でもある、といいたい。そしてクルトワがこの章の末尾でもいうように、「どんなテーマも歴史家にとってタブーではない()」のであり、ただその史実の究め方については、開かれた論争が常に用意されねばならない。

 

 

三、ロシア革命からソ連の崩壊まで

 

 「国民に敵対する国家」と題する第一部は、ロシア革命直後からソ連の解体にいたるソ連史を、ヴェルトが国民に対する政治権力の抑圧を主軸に叙述したものであるが、ここではその特徴的な諸点にごく簡単に触れるだけですまさねばならない。

 

 一〇月蜂起の直後、官吏のゼネストに直面した政府は、一二月六日ジェルジンスキーにチェーカー(反革命・サボタージュ取締まり全ロシア非常委員会)の創設を委託するが、当初は比較的控え目に規定されていたこの機関の活動が、やがてどんな法的基礎も持たず、また制約を受けない全能の抑圧機関に成長していったかが、まず描かれる。つづく穀物徴発の強行――農民との衝突、アナーキスト、エス・エル、メンシェビィキなど反対派の弾圧、内戦と赤色テロルの開始は、各種の大量弾圧を恐るべき規模にまで拡大したが、レーニンがそのなかで指導的役割を果した多くの事例も、解禁された新資料を用いて紹介されている。一例として、一九一九年一月二四日のボリシェヴィキ党中央委の秘密決議は、「最後の一人まで根絶し肉体的に抹殺すべき富めるコザックに対する無慈悲な闘争、大量テロルこそが、唯一の正しい政治手段である」と記録されている(10)

 この「非コザック化」政策を担当したのは、オルジョニキッゼであるが、ドンとクバンのコザック地帯の人口は、一九一九〜二〇年の間に、三〇〜五〇万人が殺害されるか強制移住させられ、全人口は三〇〇万人以下に減少した、とされる。

 

 著者によれば、「プラウダ」紙の一九二〇年二月一二日号に「ストライキをする労働者、この有害な蚊の最良の場所は、集中収容所(KZ)である」という表現が現われた、という(だが「人民の敵」を「集中収容所」に隔離する計画は、すでに一八年九月の「赤色テロル」政策のなかにある)が、二一年三月のかのクロンシュタットの水兵反乱が鎮圧されたのち、四〜六月の間に二一〇三名が死刑の判決を受け、六四五九名が投獄された。あとの数千名は、フィンランドに送られ、いつわりの恩赦の約束でロシアに帰されたが、すでに出来ていた北極海につながるソロヴェツキー島とアルハンゲリスクの収容所に送られ、その大多数は手を縛られ、首に石を付けてドビナ河に投ぜられた。

 

 GPU(チェーカー廃止後の二二年に設置された国家政治保安部)は翌二二年にこのソロヴェツキー群島とアルハンゲリスクに大規模収容所を建設することを決定したが、これがSLON(ソロヴェツキー群島特別収容所)の始まりであり、またやがてソ連全土に、「癌腫のように転移」(ソルジェニーツィン)して拡大した収容所群島の悲惨な歴史の始まりであった。

 内戦の結果として一九二一〜二二年に生じた飢饉は、ほぼ五〇〇万人の人命を奪ったとされる。

 

 次にスターリン時代に入っての最初の大規模な弾庄は、農民に対する強制集団化といわゆる「階級としてのクラークの絶滅」政策であるが、強制移住させられた農民の数は三一年末で一八〇万人に達した。またその結果としての三二〜三三年の大飢饉で犠牲となった住民数は、六〇〇万人以上とされる。

 これと平行して始まった「社会的異端分子」に対する抑圧のサイクルは、一九三六〜三八年の「大テロル」で頂点に達したが、三七〜三八年の犠牲者数について、著者ヴェルトはグラーグ=ラーゲリ当局の統計的資料など各種の資料を総合したうえ、次の彼自身の推計を示している。

  被逮捕者       一、五七五、〇〇〇人

  うち判決を受けた者 一、三四五、〇〇〇人

  うち処刑された者     六八一、六九二人(11)

 

 この期の弾圧が、特に教養のある層、知識人と専門家に向けられたことにヴェルトは注意を促しているが、大テロルの目的としては第一にスターリンの出すすべての命令を受けれる若い民間と軍の官僚層をつくること、第二にスターリンにとって「社会的に危険な分子を根絶すること」にあった、と述べる。一九三〇年代の死者と強制移住者の総数について、ヴェルトは飢饉の死者六〇〇万人、被処刑者七二万人、ラーゲリでの死者三〇万人、強制移住中の死者六〇万人(合計死者七六二万人)と、強制移住の対象となった二二〇万人という数字を挙げている。また、ラーゲリ(広義)に収容された囚人の数については、一九三〇年代の半ばにはおよそ一四万人、三五年には九六.五万人、一九四一年には一九三万人と増大し、スターリンの死んだ一九五三年には二七五万人に達した、としている。この数は、『収容所群島』でのソルジェニーツィンの推測(一〇〇〇万人ないし一五〇〇万人)よりはるかに少ないが、塩川伸明氏が引いているゼムスコフの数字(二四七万人)(13)にかなり近い。

 

 なおラーゲリには三つのタイプがあって、ひとつは約五〇〇の労働コロニー、一〇〇〇人から三〇〇〇人規模、通常の刑事犯(非政治犯)だけで、半数は五年以下の刑であること、次は約六〇の労働ラーゲリで、国の北部と東部に集中し、刑期一〇年以上の刑事犯と政治犯を収容していること、最後に一五の特別懲罰ラーゲリがあり、特に危険とされた政治犯を収容するところで、およそ二〇万人が収容されていた、等が記されている。またこのラーゲリは、五〇年代末から六〇年代初めにかけても存在しており、なお約九〇万人が収容されていた、といわれる。

 

 最終章 スターリン主義の終焉では、スターリンの死後に現われたグラーグ制度の改革と特別ラーゲリでの囚人反乱(これはソルジェニーツィンの本が実にヴィヴィッドに描いている)を経て、この体制が終末に向かう様相がまとめられている。

 

 第一部の終わりでヴェルトは、ソ連史の最初の三五年間には、一九一七〜二二年末と、一九二九年〜五三年という二つの「暴力と抑圧のサイクル」があったこと、そしてこの期間が全体として、「社会政治の永続的形態としての極端な暴力の行使」をきわ立たせていること、を強調している。そしてこれはその通りである、と思う。第一のサイクルはレーニン時代に属しており、スターリン体制の成立とともに暴力の行使が始まったのではもともとなく、まさに革命後ほどなく始まった内戦期の双方のテロリズムが、第二のサイクルの土壌を整えたというべきであろう。

 

 しかし、私見によればヴェルトのこの研究は、全体として十分成功しているとはいえないように思われる。そしてそれは、もっぱら権力犯罪としての抑圧の変遷を解明する、という視点からとらえようとする余り、抑圧を生み、肥大化させるソ連社会の全動態をとらえる全体としての歴史像がはっきりしていない、というところにあるのではないか。

 

 例えばロシア革命をテロルの血の海に導いた内戦は、なぜ生じたのか。レーニンは一〇月蜂起の一カ月前に書いた「ロシア革命と内戦」のなかで「もし絶対に争う余地のない・・・・・・革命の経験があるとすれば、それはボリシェヴィキとエス・エルおよびメンシェヴィキの同盟だけが・・・・・・ロシアにおける内戦を不可能にするということにほかならない」と述べて、条件付きながらもソヴェト三党の三党同盟を提議したが、やがて切迫しつつある世界革命、という幻想にひきずられてこの思想を放棄し、単独武装蜂起、さらに制憲議会選挙での民意を無視した制憲議会の解散、食糧独裁、ソヴェトでの他党派の抑圧等への道を――内戦への道を直進した。これら一連の政策選択は、単純に権力犯罪に帰することは許されないが、しかし内戦の結果生じた犠牲のすべて(飢饉や病死を含めて市民の死八〇〇万人、双方の軍人の死者およそ二五〇万人、他に約二〇〇万人が国外に去った)は、第一義的にはレーニンはじめボリシェヴィキ党幹部が負うべきものである。したがって問題は、こうした政治的誤りと政治犯罪、テロル等々を区別した上でその責任を、ソ連史の全体の中で立体的、相互関連的に解明するところに求めらるべきである。 (上おわり。下につづく)

 

  上の注

() 中野徹三「『戦後五〇年』と社会主義論の現時点をめぐって」、『月刊フォーラム』一九九五年九月号、七三頁」

() Wer ist PutinSpiegel Nr.2,2000.S.118

() Yevgenia Alberts:KGBState with in a State.I.B.Tauris Publishers.London,New York,1995,P.359

() Das Schwarzbuch des Kommunismus,Unterdruckung,Verbrechen und Terror.Piper,Munchen/Zurich,

() ibid.,S.42-43

() ibid.,S.19

() Roter Horocaust? Kritik des Schwarzbuch des Kommunismus,Kokret Literatur Verlag,Hamburg,1998,S.16

() ibid.,S.23

() ibid.,S.40

(10) ibid.,S.114

(11) ibid.,S.213

(12) 『収容所群島』、新潮文庫二八五頁

(13) 塩川伸明「終焉の中のソ連史」朝日新聞社、三六一頁

 

 

四、コミンテルンと「大テロル」

 

 第二部「世界革命、内戦、テロル」は、クルトワとパネの共著の部分で、コミンテルンとそのもとの各国の共産主義活動家から、ナチの追及を逃れてソ連に亡命した各国人にまで及んだスターリンと彼の政治警察による種々の暴虐とテロルの、戦慄すべき様相を包括的に明るみに出している。

 

 いうまでもなく、コミンテルンは西欧を含めて例外なしにロシア型の革命(ボリシェヴィキ的前衛党が指導する武力によるソヴェト型革命)のみが可能であるとしてこれをめざす単一の世界党であり、ソ連共産党が「民主的中央集権主義」にもとづきコミンテルン各国支部を全面的に掌握・指導するための組織であったから、各国支部の党活動は、程度の差はあれ、ソ連党と一体化したソ連の国家権力機構、とりわけその「国家保安機関」の支配下に次第に組み入れられた。そしてこれは、スターリンの関心が集中するヨーロッパにおいて、特に顕著だった。

 

 フランス共産党史と労働運動史の専門家であるクルトワとパネは、トロッキーのもとで赤軍第四部として創設された「情報部総局」は、将来のヨーロッパ革命での内戦を遂行すべき軍隊の育成をその「教育的」課題として持ち続け、実に一九七〇年代においても、フランス共産党の若い幹部たちは、ここで射撃やスパイ技術・サボタージュ組織法などを学んでいた()、と記している。各国支部に非合法の情報・軍事機関を設置するというコミンテルン第二回大会の方針は、翌二一年の第三回大会で創設されたOMS(国際連絡部−中央執行委員会が各国支部に指令を発し、財政的支援も行う地下機関)に具体化される。一九三二年からフランス共産党は、自分たちが疑わしい、または危険と見た人物の情報を集めたが、一九三二〜三九年の間に、同党は一〇〇〇人以上にのぼる「ブラックリスト」を公刊した(その一部は、党の路線に敵対するとみなされた党員を含んでいた)。同じ三二年、多くの共産党がボリシェヴィキ党のモデルにならって幹部局を設置したが、これはコミンテルンの中央人事部に従属しており、フランスの党だけで戦争勃発時までに、幹部ひとりひとりの社会的出自はじめくわしい伝記的事実を記載した五千以上の書類を、モスクワに送った。これらはコミンテルンの幹部政策に利用されるとともに、不法弾圧の「根拠」をつくる基礎資料となった。

 

 一九三七年に始る「大テロル」は、歴史家ミハイル・パンテレーイェフのコミンテルン本部の種々の部局の資料にもとづく調査によれば、同本部の役員四九二人中、一三二人の犠牲者を生んだ(二七%)。一九三七年一月一日から九月一七日までの間に、三七年五月一日にコミンテルン中央執行委員会書記局に創設された特別統制委員会により、二五六件の譴責案件が決定されたが、この委員会を構成したのは、ゲオルギィ・ディミトロフ、ミハエル・モスクウィン(MA・トリーリサの変名。三五年ピアトニツキーを継いでOMSの長となり、またこの変名でコミンテルン中執幹部会の一員となった)、ドミトリー・マメイルスキーの三人だったが、ここで譴責された者の大部分は、やがて逮捕される。トリーリサ自身もすぐにスターリンのテロルの対象となり(三七〜三八年に行方不明)、また彼の前任者ヨシフ・ピアトニツキーもOMS初代の長であり、三四年までマヌイルスキーに次いでコミンテルン第二の人物だったが、三七年六月の党中央委員会総会の席上NKVD(内務人民委員部――四一年までのソ連の政治警察の総元締め)の長官エジョフを抑圧の強化と独裁の故に非難したために、スターリンの逆鱗に触れて解任、逮捕され、三八年七月の軍事法廷で日本のスパイであるという自白を拒否して死刑の判決を受け、三九年一〇月射殺される。

 

 大テロルの実行機関だったNKVDの幹部もまた、テロルの対象だった。エジョフの前任者ヤーゴダは二年の在任後三六年に解任され、三八年の裁判ではドイツ、日本、ポーランドのスパイ機関のために働いていたと「自白」して処刑されたが、大テロルの責任者エジョフも在任二年にして三八年末に解任され、イギリス、ドイツ、日本、ポーランドとの共謀という大逆行為の罪を負わされて四〇年に処刑される。スターリン時代に特徴的な、いわば「粛清のマトリョーシュカ」構造ともいうべき奇怪な事態の典型である。

 

 外国のコミュニストで、最大の犠牲を払った党の一つはドイツ共産党(KPD)であった。当時、ソ連に亡命していたドイツ人活動家の総数は、後の東独社会主義統一党の調査では、一、一三六人にのぼるが、そのうちで三七〜三八年の大テロルの対象となった犠牲者の顔ぶれは、当時のKPDの指導者だったヴィルヘルム・ピーク(のち東独大統領)、ヴィルヘルム・フローリン(コミンテルン中執・幹部会員で前述の「特別統制委員会」の一人)、ヘルベルト・ヴェーナー(四四年転向してのち西独社民党幹部)が作成し、テロルの適用に際し利用された「幹部リスト」によって明らかであり、三七年の逮捕のピーク時には被逮捕者は六一九人に達し、四一年までに総数六四〇人に及んだ、とされる。先の調査にもとづけば、五六%が逮捕されたのである。

 

 被逮捕者のその後の運命については、うち八二人が処刑され、一九七人が牢獄または収容所で死亡し、さらに一三二人がナチに引き渡され、残りのおよそ一五〇人は、過酷な刑を終えたのち、ソ連を去った、という(ここで著者たちが挙げている数字については、細部で疑問の点もあるが、今は触れない()

 

 しかし、スターリン主義体制の反人間的・反社会主義的性格をもっともあからさまに示すものは、ナチとの合意にもとづいて、ドイツの反ファシスト活動家をナチに引き渡すという、途方もなく犯罪的なことを彼らが平然と行ったことにあろう。すでに一九三七年に、ソ連指導部はドイツの反ファシストをヒトラー引き渡すことを決定し、同年二月には一〇人がその対象になったが、七年五月ナチ・ドイツのソ連大使シューレンブルクは引き渡しを要求するドイツ人の二つの新しいリストをソ連側に手交し、その結果三七年には一四八人、三八年には四四五人がポーランド、リトアニア、フィンランドとの国境でゲシュタポに引き渡された。これはスペイン内乱とフランス人民戦線が世界の耳目を集め、反ファシズムの機運が世界的に高揚しつつあった時期に、である。三九年八月の独ソ不可侵条約と九月のポーランド分割ののちには、独ソ両国が共通の「国境」を持つにいたったため、この引き渡し――ワイスベルクのいう「魔女たちの交歓」――は、直接ゲシュタポとNKVDの間で行われた。著者たちによれば、三九年十一月からヒトラーの対ソ電撃戦が始まる前月の四一年五月までの間に、三五〇人(うち八五人はオーストリア人)が引き渡されたが、その一人はオーストリア共産党の創設者のひとりであるフランツ・コリチョナー(かのヒルファーディングの甥)であり、彼はウィーンに移送されたのち、拷問され、四一年六月七日にアウシュヴィッツで処刑された。

 

 「引き渡し」の対象となったマルガレーテ・ブーバ=ノイマンは、自身の体験をこのように描いている―「(一九三九年の大晦日の夜、ゲシュタポが待ち受けるブレスト・リトウスクの橋に着いた)。三人が、橋を渡ることを拒んだ。一人はブロッホという名のハンガリーのユダヤ人、一人はナチスにより有罪の判決を受けている若い共産主義労働者、もう一人は、その名を私が忘れたドイツ人の教師だった。三人は、橋を渡るように追い立てられた。・・・私たちは、ルブリンでゲシュタポに引き渡された。そこで私たちが確認できたことは、私たちは単にゲシュタポに引き渡されただけではないこと、NKVDはナチスの親衛隊に、私たちに関する書類をも手渡していた、という事実だった。私の書類は、たとえば私がノイマンの妻であり、そしてノイマンはナチスのもっとも嫌いなドイツ人である等のことが、記されていた。」()(強調引用者)。

 

 こうした事実はワイスベルクはじめ体験者たちの証言により以前から一部には知られており、私も七七年の共著『スターリン問題研究序説』(大月書店)の序言でこの点を指摘したが、改めて今回本書に接するなかで、その意味するものの深刻さを、戦慄をもって体感した。著者たちはここで「このなかにこそ、(ナチス・ドイツとスターリン時代のソ連という二つの――中野)全体主義体制の真の本質同一性があらわに示されている」というヨルグ・ゼンプリンなる人物の言葉を引いているが、これに誰が、いかに反論できようか?

 

 本書はさらに、ロシアに次いで第二番目の規模の被害を受けたポーランドの党はじめ、オーストリア、ユーゴ等々の党と活動家の被害状況が詳述されているが、ここでは紹介するいとまがない。スターリンの指令により、コミンテルンの各党の間で競って行われ、スペイン内乱期に頂点に達した「トロッキスト狩り」の狂宴を記した部分で著者たちは、「私はGPUをうたう 今フランスに生まれたGPUを・・・プロレタリアートの敵とたたかうGPU万歳」とうたったルイ・アラゴンの奇怪な詩「さくらんぼうの時代の序曲」を引いている(GPUは二二年にNKVDに設置された国家政治保安部のこと)。三〇年代は、左右の全体主義双方にとって、狂気の時代だったのである。

 

 

五、「宿敵」ポーランド

 

 第三部は、第二次大戦の結果ソ連の支配下に入った東・中欧諸国でのスターリン主義による犠牲の、ポーランドとチェコの学者による叙述であるが、ここではポーランドに絞って紹介したい。

 

 ポーランドはチェーカー(反革命・サボタージュ取締まり全ロシア非常委員会)の創設者ジェルジンスキーの母国であるが新生ポーランドが世界革命を夢見てワルシャワに迫った赤軍を撃退して以来、同国はソ連にとっての長い宿敵となり、東・中欧の諸国のなかで、最も強く抑圧される歴史を体験した。三〇年代のPOW(ポーランド軍事組織)事件はその最初であるが、独立前の一九一五年にヨセフ・ピルスーツキーがつくったPOWは、三〇年代にはもはや存在しなかったにもかかわらず、ソ連内のポーランド人に嫌疑をかけ、弾圧する口実として、最大限に利用された。三八年七月一〇日のNKVDの報告によると、ポーランド出身の被逮捕者の人数は二年間に実に一三万四五一二人にのぼり、うちおよそ五三%がウクライナかベロルシアに属していた。そして、その四〇〜五〇%(五万人ないし六万七千人)が射殺されたと推定されている。「大粛清の犠牲者の一〇%以上が、ポーランド人であった。」()。この間に、ポーランド共産党の中央委員四六人と中央委員候補二四人が射殺され、ポーランド党は壊滅的な打撃を受ける。

 

 ナチス・ドイツと共謀しておこなわれた三九年のポーランド分割後は、ソ連の政治警察が直接ポーランド人民を支配した。ソ連の捕虜となった約二五万人のポーランド軍人のうち、約一万人の将校とほかに六千人の警官が三カ所の特別収容所に収容され、四〇年三月五日の政治局決定によりひそかに処刑された(カチン四、四〇四人、ハリコフ三、八九六人、カリーニン=現在トヴェーリ六、三八七人、合計一四、五八七人。しばしば誤解されているが、カチンだけではない)。ほかにドイツが占領したポーランド領から避難してきたポーランド人や、逆にソ連占領地域からリトアニアやハンガリーなどに脱出しようとしたポーランド人の多数が逮捕され、ソ連各地のラーゲリに送られた。また四〇年二月以降、ソ連占領地域からのポーランド人の強制移住が始まり、およそ一四万人の農民がロシア北部や西シベリアに送られた。この強制移住の波は独ソ戦勃発直前まで四波にわたって続き、受難者の総数は四〇万人から五〇万人に及んだ。「併合されたポーランドでのソ連支配の二年間に、およそ一〇〇万人、すなわち住民の一〇人中一人が、種々の抑圧手段の犠牲となった。」()

 

 独ソ戦が末期に近づいた四四年三月、ソ連軍と協同してドイツ軍と戦い、それによってポーランドの主権をソ連に主張しようと意図したポーランド人の反ナチ・ゲリラ部隊AK(アルミア・クラヨーバ=郷土軍)の活動が始まったが、ポーランド人の非武装化を狙っていたNKVDは、AKの活動を一部利用しながら、その武装解除あるいはソ連の命令下に置かれる「新ポーランド軍」への編入を強制しようとした。四四年八月一日にAK司令部はワルシャワ蜂起を指令したが、これは赤軍のワルシャワ占領を八月八日と予想した上であった。しかしスターリンが、ヴィツスワ河岸で赤軍を停止させ、二カ月に及ぶワルシャワ市民の英雄的闘争をナチの軍隊のじゆうりんに委ねた事実は、すでによく知られている。その後、NKVDの特殊部隊がAKのおよそ二万五千人の兵士と三〇〇人の将校を拘束し、武装解除してラーゲリに送るという事件が起こった。このラーゲリには、ポーランドのパルチザンとともに、ドイツ軍の捕虜も収容されていた。そして「新ポーランド軍」への編入を拒んだAKの兵士と将校は、他の強制収容所に送られたが、その総数は不明であるといわれる。

 

 ソ連支配下の戦後のポーランドでは、四五年にMBP(公共保安省)が組織されたが、それは二万名の職員を擁するとともに、KBW(国内保安部隊)という約三万人にのぼる準軍隊的武装集団をも保有して、NKVDとソ連軍の政策遂行に協力した。

 

 反共産主義的反抗との闘争を任務とするMBP第三部の資料によると、一九四七年中の衝突で、反対派の一、四八六人が死亡したが、これに対して共産主義勢力の側の人名損失は一三六人にとどまった。反政府勢力に属していて、四五年から四八年の間に殺害された者の総数はおよそ八、七〇〇人に達した、といわれる。また、一九四七年の四月から六月の間に、「ヴィツスワ作戦」と称する措置により、ウクライナに住むポーランド人およそ一四万人が、以前のドイツ領でポーランドに帰属した地域に強制的に移住させられた。四八年から始まったチトーとスターリンとの対立は、全東欧に「民族主義的偏向」との闘争キャンペーンの波を呼び、ゴムウカの逮捕など、各国共産党内部にも粛清の嵐が吹き荒れることになる。ソ連式のラーゲリも導入され、四五〜四八年には一〇、九〇〇人、四九〜五二年には四六、七〇〇人、一九五四年には実に八四、二〇〇人が労働ラーゲリに収容されていた、とパツコウフスキーは述べている()

 

 この体制、本章のパツコウスキーによれば「普遍化されたテロル」の体制は、スターリンが死んだ五三年以後に若干の変化が現われ、MBPは再組織されてMSW(内務省)と改名し、ゴムウカも解放されて再び指導部に帰り咲き、抑圧は一部緩和された(この体制を著者は「現実に存在する社会主義または選択的抑圧の体制」と呼ぶ)が、七〇年のスト、八〇年の「連帯」の闘争によって、体制の危機は深まり、遂には休戦から降伏――権力の解消へと進む(八六〜八九年)。なおパツコウスキーの次の指摘は、二〇世紀の共産主義体制の本質と歴史を考察するうえで、第一義的な意味を担っている、と私は考える。

 

 「この体制とそのイデオロギー的起源の評価の試みに際し目を離してはならない極めて重要な点は、この体制に内在する抑圧機構の集権的体制、という点である。四五年続いた共産党の独裁の期間は、抑圧が種々異なる五つの局面に区分することができる。しかし、そのすべての局面に共通するものは、直接には党のある決定にかかわるグループまたは若干の少数の党指導者の管轄下にあるところの、政治警察の存在にこの独裁が依拠している、という事実である。」()

 

 国家が端的には「棍棒」である、というレーニンの言葉は、国民がなんらかの形で「主体」として参加する政治生活がなかった「現実社会主義」体制の巨大な抑圧機関のうちに、端的な「実体」として実現した。そしてこの「棍棒」を自身の体験として体験しなかった者が、この体制の非人間的本質を真に理解することができないことは、アウシュヴィッツやマイダネック等を生き抜いた人間でなければ、ホロコーストの恐怖を真に知っているということができないことと、同じである。その間にどれだけの深淵があるかは、人はただそれを想像することができるにとどまる。しかし私たちは、この現実を直視し、それが数十年にわたって存続したばかりでなく、正当化もされてきた諸条件とその「イデオロギー的起源」をも見究め、そしてそれが崩壊するに至る(または、その過程にある)根拠を追求することはできるし、またそれを私たちと後の世代の魂にしっかりと記録させることはできる。そしてこれは、犠牲者たちに対する私たちの人間的義務であり、この努力をしない者が、次代の社会主義像を正しく描くことのできないことも、また確かと思われる。

 

 

六、アジアの共産主義体制のもとで

 

 アジアの共産主義体制のもとでの「政治犯罪」を対象とした第四部は、北朝鮮を除いて、ジャン・ルイ・マルゴランが執筆している。残された紙数も少ないので、ここでは中国に絞って、要点の紹介にとどめざるを得ない。第四部の冒頭でマルゴランはアジアの共産主義体制はソ連占領下で成立したヨーロッパのそれと比較して、(朝鮮戦争前の北朝鮮を例外として)自力で成立し、自身の政治体制を構成しえたこと、したがって強い民族主義的性格を有すること、これらの諸国では――カンボジアではかなり変質したが――共産主義者がなお権力を握っていること、等の特質を挙げており、最後の点の故に、最重要のアルヒーフが入手できないという研究上の困難性を指摘している。だが他方、これらの地域への旅行や種々の資料へのアクセスはこの一〇年程で飛躍的に容易になり、私たちの知見はかなり拡大された、とも述べている――残念ながら、日本の私たちのこれらの諸国についての理解水準はかなり低いといわざるをえないが。本書第四部のような研究が、やはり欧米人によって書かれたということは、本来私たち日本の社会主義研究者にとって、まことに恥ずべき事態ではないだろうか。

 

 中国の章の初めで著者は、ほぼ信頼できる数値として、内戦期を除いた犠牲者の数を、次のように総括的に提示している。

 体制によって暴力的に死に至らしめられたひと  七〇〇万〜一、〇〇〇万人(うち数十万人はチベット人)

 「反革命派」としてラーゲリに収容され、そこで死亡したひと  約二、〇〇〇万人

 五九〜六一年の「大躍進期」に餓死したひと  二、〇〇〇万ないし四、三〇〇万人

 

 マルゴランは、「暴力の伝統?」と題する節で、中国には古くから儒教と道教という二つの世界観が存在し、うち道教は民間信仰と結びついて危機の時代に非合理主義的性格をあらわにし、多くの民衆反乱と大規模テロルをひきおこしてきた、と述べている(中国革命後の事態の「原因」を古代以来の宗教的世界観にひそむ「暴力の伝統」に帰着させようとするこのマルゴランの思考には、大きな問題があると思われるが、ここではひとまず保留しておく)。

 

 内戦期(一九二七〜四六年)の初期、中国共産党は農村地帯にソヴェトを形成したが、ここではスターリンの大粛清に時間的にも先行するテロルが実施された、という。「いくつかの評価によれば、江西省だけでも一八万六千人が、戦闘による死者を除いて、犠牲になった。」()。反革命派や地主に対する「報復カニバリズム」(その心臓や肝臓を食う)も人民裁判で行なわれた、という。浮浪者や無法無産の若者などを多く含んで都市から来た赤軍と農民出身の地元党員との間の矛盾の激化を背景に、AB団(反ボリシェヴィキ集団)等の形成とそれに対する血の弾圧などもおこつた。バラ色に描かれた中国革命の道も、無数の犠牲者の血に彩られていたのである。

 

 根拠地時代から革命後にかけて強行された土地革命と都市の粛清も、すさまじい規模の人命を犠牲にして進められた。住民はいくつかの階級に区分され、厳しい差別がのちの世代まで続いた。「地主」と規定された者は、すべてを没収され、多くの場合人民裁判に付されたが、その基準は多くの場合あいまいかつ恣意的であって、貧農に憎まれた富農や中農もその犠牲になったのは、ロシアのクラーク狩りと共通している。土地改革での犠牲者数については、最低で一〇〇万人、大多数の研究者は二〇〇万〜四〇〇万人という数を挙げている、という。都市では一連の「大衆運動」を組織しながら、住民のさまざまな層をそのうちに組み入れてゆく「サラミ戦術」(サラミを薄く切るように少しづつ小さな要求を受け入れさせながら、最終的に目的を達する戦術)が採用されたが、この間に強力な保安機関が整備されている。一九五〇年には、五五〇万人の民兵と一二〇万人の要員を持つ保安機関が全国に配置された。五〇年から始まった「三点運動」、「五点運動」、「思想改造運動」等のなかで、多数の住民が逮捕され、処刑された。「上海」ではある夜一夜で三千人(四カ月で三万八千人)が逮捕され、北京では一月に二二〇人が死刑の判決を受け、ただちに公開処刑された。……五七年には毛沢東自身がこの期間(四六〜五七年)に八〇万人の反革命派が処刑された、と語った。」(10)

 

 五九年から六一年にかけておこつた大飢饉は、毛の幻想的な「大躍進」・人民公社キャンペーンがひきおこした人為的災害であったが、(本誌三五六号で紹介した川口孝夫氏の著書は、この時期の川口氏自身の体験を語っている)マルゴランは、J・ベッカーの最新の研究(11)などにもとづき、この災害の犠牲者総数を、中国当局自身が八八年以来半公式に称している二〇〇〇万人から四〇〇〇万人の間と推定している。規模についてはなお不明であれ、まさにこれは短期間におこった人類史上最大の人為的飢饉であったことは間違いない。

 

 労働を通じて人間を「改造」し「再教育」するという新中国の「労働改造制度」(Laogai-system)は、ラストエンペラー溥儀の実例などでその意義は大いに喧伝されたが、著者によればこれは「隠されたグラーグ」にほかならない。大部分の被収容者がいる大規模な「ラオガイ」は、北満、内モンゴル、チベット、新彊ウイグル自治区、青海省などにあり、特に青海省は、真の「監獄省」、中国のコルイマである、といわれる。そして「政治犯」から一般の犯罪者を含めて、ここに送り込まれた被収容者の数は、八〇年代で平均約一〇〇〇万人、年間死亡率は五%であり、獄中で死亡した人数は累計二〇〇〇万人にのぼる、とマルゴランはいくつかの研究にもとづいて推計している(12)。この推計が過大であるかどうかは、今後の研究の課題であるが、旧ソ連のグラーグに匹敵する規模の惨劇がここに存在したことは、今や十分に予期できるといってよいであろう。

 

 最後に「文化大革命」による人的被害であるが、毛沢東と「革命派」に激励され扇動された紅衛兵たちは、それを利用した勢力とともに、市民に対するリンチや財産の略奪、破壊を全土で行ったが、ここでは党や国家機関の各級幹部、知識人が攻撃の対象となった。

 「国家保安省の粛清は、一、二〇〇人の処刑に及んだが、劉少奇に対する捜査の過程では二万二千人が尋問され、その多くは逮捕された。中央委員会メンバーの六〇%と党書記の四分の三が打倒された(通常は投獄された)。文革の全局面を通じて(およそ総数一八〇〇万人のうち)三〇〇万〜四〇〇万人の勤務員と四〇万人の軍人が逮捕された。知識人の場合は、一四万二千人の教師、五万三千人の技術者と科学者、五〇〇人の医学教授、二六〇〇人の作家と造形芸術家が迫害され、その多数が殺害されるか、自殺に追い込まれた。」(13)

 

 マルゴランが「無政府主義的全体主義」と命名したこの「文化大革命」は、中国を混乱と無秩序のどん底に突き落とし、ジレンマに陥った毛沢東は六八年後半以降、秩序の回復のため、軍に依拠して紅衛兵を解体させ、一九七〇年までに五四〇万人の若い世代を地方に送り出した。彼らは今度は、地方の軍と民兵の復讐テロルの対象となった。「南部では特に最悪だった。江西省だけでおよそ一〇万人、広東省で四万人、雲南省で三万人の死者が出た。紅衛兵は残酷だったが、実際の大量殺害の責任は、彼らの死刑執行人、つまり党の奉仕者としての軍と民兵に属したのである。」(14)

 

 ケ少平の時代には、テロルの体制のゆっくりとした解体が進み、大量の釈放や名誉回復が行われた。

 しかし、八九年の天安門事件では、一千人を越える死者とおそらく一万人の負傷が生じ、北京で一万人、全国で三万人が逮捕された、と著者は述べる。この数については当然異論はありうるが、しかしその真相は、今なお私たちにとっては不明なのである。(紙面の都合上、紹介はここで終わらざるをえないが、この間題をめぐる議論は、機会が与えられればさらに続けたい、と考えている)。

 

下の注

() Das Schwarzbuch des Kommunismus,Piper,Munchen/Zurich,1998,S.312

() 一例として被逮捕者の総数は六六六人とされているが、その運命別の列挙の合計と比較すれば、五六一人となり、恐らくは誤記か、誤植であろう(ibid.,S.330

() ibid.,S.332

() ibid.,S.401

() ibid.,S.407

() ibid.,S.418

() ibid.,S.411

() ibid.,S.511

() ibid.,S.521

(10) ibid.,SS.533534

(11) Jasper Becker:Hungry GhostChina’s Secret Famine,London,1996 マルゴランによれば本書はこの期の大飢饉の全体像を伝える唯一つの研究である、とされる。

(12) ibid.,S.554

(13) ibid.,S.583

(14) ibid.,S.594

 

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(関連ファイル)

   ニコラ・ヴェルト  『共産主義黒書−犯罪・テロル・抑圧−ソ連篇』

               第2章「プロレタリア独裁の武装せる腕」抜粋

   中野徹三教授   『「二〇世紀社会主義」の総括のために』

   塩川伸明教授   『「スターリニズムの犠牲」の規模』 粛清データ

   ブレジンスキー  『大いなる失敗』 犠牲者の数

   ソルジェニーツィン『収容所群島』第3章「審理」 32種類の拷問