私の21日間の監禁査問体験
1967年「愛知県五月問題」(日本共産党との裁判第1部)
(宮地作成)
〔目次〕
1、機関紙拡大の一面的、成績主義的追及での准中央委員・地区委員長への批判活動発生
〔小目次〕
(関連ファイル)日本共産党との裁判
第2部「「拡大月間」システムとその歪み」 愛知県「泥まみれの拡大」
第4部「「第三の男」への報復」警告処分・専従解任・点在党員組織隔離
第5部1「宮本・上田の党内犯罪「党大会上訴」無審査・無採決・30秒却下」
第6部「宮本・不破反憲法犯罪、裁判請求権行使を理由とする除名」
第7部「学者党員・長谷川正安憲法学教授の犯罪加担、反憲法「意見書」」
第7部・関連 長谷川教授「意見書」
「長谷川「意見書」批判」 水田洋、「大統領」、中野徹三、高橋彦博
第8部・完結「世界初・革命政党専従の法的地位「判例」」
この文は、「日本共産党との裁判」の第1部になるものです。下記の各部が、それぞれ複雑な経過と内容を持っていますので、8部に分割して、掲載します。日本共産党内で発生した問題について、地区、県レベルのものは、ほとんど公表されていません。これが、政党学の実態研究資料として役立てば幸いです。
なぜ一党独裁国前衛党が10カ国で一挙に崩壊したのか。なぜヨーロッパで、ポルトガル以外の資本主義国前衛党すべてが、崩壊、転換、解党、民主主義的中央集権制放棄をしたのか。その前衛党システムの研究は、社会思想史の上でも重要だと考えます。
また、前衛党員が、前衛党内で起きた人権侵害事件に関して、前衛党中央委員会を民事裁判で提訴したケースは、日本共産党が私の裁判の第一声で叫んだように「国際共産主義運動史上一度もない。前代未聞のこと」です。
共産党の「すぐ却下を」という大声や、長谷川正安名古屋大学教授(当時)の「これは党内問題。司法審査権はないから、門前払いを」という共産党側「意見書」は、認められませんでした。私の訴えには憲法上の市民的権利問題が存在し、したがって司法審査権があると認定され、正式な裁判審理に入りました。そして、世界で初めての「判例」が出ました。
なお、この民事裁判提訴については、当時も、賛否両論いろいろありました。高橋彦博法政大学教授「川上徹著「査問」の合評会」で、その一つの位置づけがされていますので、ご覧下さい。
この「日本共産党との裁判」の文は、私にとって、レーニンとボリシェビキが、社会主義をめざす暴力革命組織・軍事規律組織として創設した前衛党についての考察の一部です。「ゆううつなる前衛」では、前衛党論の中の一章として、排除・粛清と査問システムを分析しました。この文は、そのまた一小節としての前衛党県・地区組織=中間機関篇に該当するものです。
1、機関紙拡大の一面的、成績主義的追及での准中央委員・地区委員長への批判活動発生
〔小目次〕
1、批判内容
1967年5月に、愛知県で、7人の党幹部への監禁査問と、その中での私への21日間の監禁査問、他の十数人への査問事件が発生しました。それは、1972年「新日和見主義」での川上氏への13日間の監禁査問の5年前でした。
1967年4月のいっせい地方選挙後に、当時の箕浦一三中北地区委員長(准中央委員、県副委員長を兼任)の党内民主主義から逸脱した、党勢拡大での一面的、成績主義的な官僚指導に対する地区常任委員会メンバー、多数の地区委員、細胞からの批判活動が発生し、約1カ月間展開されました。中北地区委員会とは、名古屋市の中部、北部全区をふくむ愛知県最大の地区委員会で、党勢拡大運動ではつねに全県の牽引車の役割を果たすことが求められていました。当時、共産党の基礎組織は、現在の「支部」でなく、「細胞」と呼ばれていました。よって、この文では「細胞」とします。
これは、愛知県党では、「五月問題」と呼ばれているものです。その批判内容は、4項目ありました。(1)、民主集中制の組織原則に基づく集団指導の確立か、それとも家父長的個人指導か。(2)、綱領・規約・大会決定の全面的実践か、それともその一面的歪曲か。(3)、同志愛にみちた明るい党か、それとも同志愛のとぼしい党か。(4)、事実から出発するマルクス・レーニン主義か、それとも願望から出発する形而上学か、というものでした。
この批判内容、批判活動の原因となったのは、以下のような状況や活動スタイルです。
箕浦地区委員長は、いわゆる「人民艦隊」北京密航組の一人で、その非合法地下活動時期に、袴田氏をはじめ党中央幹部との個人的つながりも深く、また全国でも党勢拡大の先進的な成果を上げて党中央の覚えもめでたい准中央委員で、県副委員長でした。愛知県党の拡大の成果を引き上げるために、従来の地区委員長を格下げして、県副委員長の地位を兼任しつつ、自らが拠点地区の地区委員長として乗り込んできたのです。
彼は、国鉄愛知県稲沢機関区の労働者出身で、県党の幹部内ではアジテーターとしての理論的説得力が高く、頭の切れもよく、また、強引な統率力を持っていました。ただ、後からこの数年間の活動総括結果として分かったことですが、異常なほどの成績主義=党内での出世主義を秘めていたのです。後述しますが、4000人の共産党専従者は、党内地位による中央集権的序列社会の仕組みに組み込まれています。専従役員内の党内地位上昇指向は、資本主義株式会社内のそれに匹敵するか、むしろ上回るほどです。それは、一党独裁国前衛党の指導者ランクづけや、その序列の頻繁な変動で証明されています。
強力な拡大指導を行うだけでなく、間もなく地区常任委員10数人中、4人を近くの喫茶店に、個々に、あるいは複数で連れていき、他に中北地区担当の県常任委員1人を加えて、箕浦グループを形成しました。そのメンバーは、愛知県稲沢市の箕浦氏の自宅に、他の地区常任委員にまったく秘密で、正月に数人がグループを組んで毎年、年賀詣でをして、結束していたのです。ただしこれは、数年後に初めてわかったことです。
地区常任委員会、地区委員会総会では、その4人は、箕浦氏の意向を代弁し、新しい拡大方針を提案したり、他の常任委員を批判しました。これはまさに集団指導から逸脱した私的グループを意図的に作り、それを利用した「家父長的個人中心指導」でした。このグループの存在と箕浦私兵的役割は、地区専従53人だけでなく、同じ事務所にいた県委員長・中央委員、県常任委員全員が知っていました。愛知県最大地区の専従53人の内訳は、地区常任委員、地区勤務員、赤旗分局員で、これはその合計数です。この箕浦私兵は、喫茶店グループとも呼ばれていました。赤旗配達・集金組織は、現在の「支局」でなく、「赤旗分局」と呼ばれていました。
そこから、誰も箕浦氏の提起する拡大方針、拡大活動スタイルに対して、批判的意見を出せられない状況となっていきました。
「ゆううつなる党派」で述べたように、民主主義的中央集権制という党内民主主義を抑圧する組織原則の下では、(1)一党独裁国において個人独裁者が形成されていく過程、(2)日本共産党中央委員会内において宮本秘書出身者や側近グループを利用して、下里正樹赤旗記者の手紙にあるような、宮本個人独裁が確立していった経過、そして(3)日本共産党の各県党組織、地区党組織においてミニ個人独裁が生まれる過程には、普遍的共通性があります。
当時、党全体としても、党勢拡大、とりわけ赤旗拡大を強力に進めていました。その論理は、「国際的にも、国内情勢からも革命の客観的条件は、成熟し、有利である。しかし主体的条件が立ち遅れている。それは党勢拡大の遅れであり、赤旗拡大で革命運動の遅れを取り戻そう」ということです。客観条件と主体条件を機械的に対比し、主体条件だけが遅れていると断定し、革命運動の遅れの克服を赤旗拡大に矮小化する論理です。これは党中央常任幹部会により、全党に徹底されていました。この論理は、現在まで一貫しています。
党活動の建前は、大衆運動と党勢拡大の二本足でしたが、その実態は、全党的に、機関紙拡大の成績主義的数字追及にどんどん一面化していきました。党中央による各県への日常的点検だけでなく、「赤旗・党生活欄」に常時掲載される「機関紙読者拡大の大会比と対有権者比の県別順位」表で、党中央はその成績主義的傾向を煽り立てました。それは、県レベルになると、地区別順位表、地区レベルでは、ブロック(行政区ごとの地区補助機関)別の拡大成績順位表となりました。中央招集の県委員長会議で、順位が低い県の県委員長がきびしく批判されると、その批判内容は、ストレートに県内全地区、ブロックへの批判として、その県委員長が行うのです。
中央、県、地区、ブロック、細胞レベルとも、拡大の成果順位と数字が大問題とされ、数字による成績主義的追及と、目標が達成されない場合の思想的、打撃的批判が普遍化していきました。
1960年代後半の全党的党勢拡大「月間」「運動」は、次の通りです。これは、1975年8月15日「赤旗」に掲載されたものです。この「年表」の同じページには、(1)、日刊紙読者大会比順位、(2)、日曜版読者大会比順位、(3)、日刊紙読者数の対有権者順位、(4)、日曜版読者数の対有権者順位という4つの県別順位表が掲載されています。党中央委員会幹部会は、この県別順位表を「赤旗」だけでなく、「党報」でも、何百回と載せることによって、全中央委員、准中央委員、都道府県委員長における機関紙拡大数字、県別順位を競争させる成績主義を煽り、助長させたことに対して決定的な責任があります。各県に派遣されている中央委員、准中央委員に、それによる個別の偏向や誤りが生じたとしても、幹部会は成績主義追及と機関紙拡大への一面化の責任、および個別的偏向を生み出した責任を免れることは出来ません。
(表1) 党勢拡大の「月間」「運動」の歩み
65.3〜7 |
拡大運動 |
参院選めざし全党員が日曜版一部、細胞は本紙一部拡大 |
65.10〜12 |
拡大運動 |
三中総−数十万の強大な大衆的前衛党を建設 |
66.1 |
拡大運動 |
党勢拡大の三目標を達成し…日曜版百万をめざす |
66.5 |
拡大運動 |
第九回大会の総合二カ年計画をやりとげる |
66.8 |
拡大運動 |
第十回大会めざし、党勢拡大総合二カ年計画の総達成 |
67.5〜7 |
「月間」 |
党創立四十五周年記念機関紙拡大月間 |
68.5〜6 |
「特別月間」 |
参院選挙「大衆宣伝と機関紙読者拡大の特別月間」 |
68.10〜12 |
「月間」 |
「党勢拡大と学習・教育月間」 |
68.12 |
「特別月間」 |
月間の成果を発展させ、後半期目標総達成「特別月間」 |
69.2〜3 |
「月間」 |
二月、三月の党員拡大月間と三月の機関紙拡大特別旬間 |
69.9〜10 |
「月間」 |
総選挙めざし大量宣伝、思想教育と党勢拡大の「月間」 |
70.2〜4 |
「月間」 |
第十一回大会めざす党勢拡大「月間」 |
この「年表」は全党的な拡大運動、月間です。しかし、中央に対して各県が、ほとんど達成不可能な、希望的目標を掲げるか、あるいは中央から強要されます。党中央設定の「月間」終了時点で、県委員会が機械的に拡大運動をやめれば、中央からきびしい批判がきて、県委員長としての自分の評価が下がります。したがって、結局、すべての県、地区が目標の未達成分を拡大するために、自主的に「月間」を独自に延長したり、設定するのです。個々の専従、細胞レベルでは、こうして年がら年中「拡大月間」をやっている実態となります。
細胞会議で、職場、地域の大衆運動の方針を検討する暇はなくなります。国内的政治状況が有利だったり、大衆運動が盛り上がっている間は、その成果を刈り取ることですみます。1980年、第15回大会までは、機関紙拡大に偏った一本足の活動でも、成果が上がり、HN355万部にまで到達しました。それ以後の今日までの18年間は、「日本共産党の党勢力」の増減分析にあるように、機関紙部数は一貫して減退を続け、2000年第22回大会ではHN199万部となり、最高時より44%が減りました。
その全党的な拡大運動、月間において、愛知県は、上記の箕浦体制に基づく機関紙拡大運動の先進県でした。そのやり方は、党中央にまず毎週数千部の「日曜版」宣伝紙を発注し、それを拡大の武器に使うというものです。党中央の箕浦氏への覚えは当然よくなります。その方法で、拡大の成果もあがります。
「日曜版」宣伝紙には、2種類があります。一つは、党中央が無料で各県に配るものです。その数はあまり多くありません。もう一つは、各県が自主的に、有料で買い取るものです。各県には、中央委員、准中央委員が1、2名はいます。大量に買い取り申請をして、拡大月間に積極的姿勢を示せば、党中央はその中央委員を高く評価します。「赤旗」や党中央の諸会議でも、その県と役員を先進県として広めます。この大量買い取り申請方式を、党中央自らが大いに奨励し、それをやらない県委員会を消極的で、遅れた県として打撃的批判を加えたのです。党中央の少部数の無料宣伝紙は、全党、全県、全地区にその方式をさせるための誘い水の役割を果たしました。したがって、「宣伝紙による大量宣伝を先行させつつ、読者にしていく」という集中的月間拡大システムは、愛知県特有のものでなく、これを煽り立てた党中央にまず基本的な責任があるのです。
党中央に評価されたいために、あるいは、批判されないために、買い取り申請部数が、その宣伝紙の現実的使用見通しから離れて、過大な使用不能な量にエスカレートしていきます。民主主義的中央集権制という上意下達式組織原則の下では、(1)党中央と県、(2)県と各地区委員会、(3)地区と各ブロックの間には、同じ「力学」が作用します。党中央と各中間機関は、その主観的願望申請ですみます。
しかし一方で実際にその宣伝紙を活用すべき細胞レベルではとても使い切れません。中北地区では、日曜版100部毎の梱包が地区委員会事務所前に山積みされていきました。1週間に10梱包余ると、1カ月で40梱包が、事務所前に山積みになるのです。すると廃品回収の業者を呼んで、トラックにまた山積みにして、梱包未開封のままでごみ処理をするのです。
もちろん、この宣伝紙は有料・自主申請で買い取ったものですので、未使用分もふくめて、党中央に支払わなければなりません。それは、地区財政を圧迫します。名古屋中北地区は、愛知県委員会と同じ事務所内にありましたので、県委員長、県常任委員全員は、この大量未使用宣伝紙のごみ処理が、目の前で何回も行われることを知りつつ、誰も箕浦氏を批判しませんでした。
この拡大運動、月間活動スタイルは、中北地区常任委員10数人と地区勤務員20数人を、長期に地区、ブロック事務所に泊まり込みでやらせるものです。地区勤務員とは、常任委員でない専従のことです。各ブロックには、常任委員の責任者一人と勤務員2、3人が配置されています。長期にわたる理由は、月間目標が未達成に終われば、それを延長したり、別に県、地区独自の月間・旬間をたえず設定するからです。
その拡大数字点検システムも、上意下達で必然的に決まります。月間中は、まず、党中央が各県に「日報」を電話で、「週報」を文書で要求します。党中央に、随時、県委員長、県機関紙部長を集めて、直接点検をします。したがって、県レベルでは、党中央に報告できるよう、地区からの「日報」「週報」とともに、毎週地区委員長会議や地区機関紙部長会議を招集して点検し、先進地区を評価し、その経験を広めます。一方目標達成度の低い地区に対しては、みせしめ的、打撃批判をし、地区委員長の自己批判と決意表明を強要します。地区レベルでは、毎朝地区常任委員会が招集され、県と同じスタイルで点検が行われます。ブロックレベルでは、全細胞から直接報告に来させ、連日夜1時、2時まで点検会議をし、拡大成果0なら、「相手がまだ寝ていないうちは、今からでも拡大に行ってこい」と追い立てます。
しかし、細胞レベルでも、ブロックレベルでも、時には、成果0の日もあります。そこでの打撃的批判とは、(1)「今日一日どういう拡大行動をしたのか」という詰問に始まり、(2)「現在の情勢をどう思っているのか、言ってみろ」となり、(3)「成果が上がらないのは、思想的に問題がある」として追及し、(4)「その考えは、日和見主義、敗北主義だ」という思想問題の批判になっていくのです。この点検システムと思想批判スタイルを全党的に作り上げたのは、まさに党中央常任幹部会です。そこから生じた県レベルの偏向、弊害に対しては、その県独自の誤りと責任はあるとしても、常任幹部会に重大な責任が存在するのは当然のことです。
こういう目に何度も会うと、細胞LCはかなりの部分が未結集になります。細胞LCとは、Leader Class=指導部のことで、一つの細胞には数人います。大きな細胞では、班キャップをふくめると、10人前後います。細胞長は、虚偽申請か、決意申請を出して、批判を逃れるようになります。虚偽申請とは、成果0なのに、日曜版2部を拡大したとして、申請することです。決意申請とは、その場逃れに、明日3部必ず増やすから、今晩事前に申請しますというものです。毎晩の夜11時頃からの点検会議の時に、2部か3部でも(たとえ虚偽申請であろうとも)成果さえあれば、他の細胞長の面前で、上記の思想批判をされたり、自己批判を言わなくてもすむからです。これらの大規模な具体例は、『第2部』での全県の先進例としての北・守山ブロックの大量虚偽拡大のからくりで詳述します。
月間中のある時、一人の地区常任委員の子供が保育園で高熱を出し、教員の妻から、「今日は、授業の関係で、時間休をとって早引きできない。頼む」という連絡が入りました。そこで、彼はブロックの点検・集約を勤務員にまかせて、夕方から保育園に迎えに帰ったことがありました。それに対して、箕浦氏は、地区常任委員会の点検会議で、彼を徹底して批判し、罵倒しました。それだけでなく、次回の地区活動者会議で、その事実を報告し、「革命運動をやっている時期に、職業革命家が何をたるんでいるのか。奥さんも職業革命家の妻としての自覚がまるでない」と大声で批判したのです。それ以来、長期の泊まり込み、深夜の点検会議のやり方への批判的意見は一切出せなくなりました。
私の方は、1966年から67年当時、情報産業の総細胞長をしていた妻が妊娠中でした。総細胞とは、その職場に10数人の細胞がかなりあり、それぞれに細胞長がいて、10以上の細胞の上級組織として、総細胞を作ります。妻は、1961年の綱領決定第八回大会代議員であり、当時も、総細胞長として、夫婦で連日夜中まで活動していました。妊娠で体調が悪い時期もあったので、夫婦で家事の分担を決めていました。しかし、この箕浦発言や長期の泊まり込みのため、その約束を守ることがまったくできなくなったのです。
そのような成績追及スタイルによって、地区内には、同志愛の雰囲気や明るい空気はどんどん希薄になっていきました。
このやり方は、准中央委員として、党中央から高く評価されたい、および早く中央委員に昇格したいという箕浦氏の成績主義的・出世主義的願望に基づくものでした。そこから過大な目標を党中央に自主申告し、それを達成するために、中北地区だけでなく、県副委員長として愛知県党の全地区を赤旗拡大の一面的活動にかりたてたのです。
党中央は、点検と激励のために、党機関の正式ルートとともに、時々、「人民艦隊」北京密航組の時の上級幹部であった袴田氏や他の幹部会員が個人的にも、直接、箕浦氏に電話をかけてきました。地区常任委員会の会議中にもあり、私は数回目撃しましたが、私たちへの批判の態度とは180度変わって、電話で相手の袴田氏や幹部会員に向かって、語調も変え、ぺこぺこおじぎしながら、返事をしているのです。相手によってころりと態度を変えるという、資本主義社会の本店−支店長−営業所長の関係で、どこにもあるような典型的な人物でもありました。
前衛党内における出世主義というと、ありえないような誇張と思えるでしょう。
専従以外の党員には、この党内出世主義の意識はありません。支部レベルの序列にはあまり差別扱いがないからです。しかし、4000人の専従の党内地位は、12段階に分かれ、その間には、表面からは見えないような実態的差別扱いが存在します。(1)、常任幹部会委員、(2)、幹部会員、(3)、中央委員、(4)、准中央委員、(5)、非役員・中央勤務員、(6)、県委員、(7)、県委員候補、(8)、非役員・県勤務員、(9)、地区委員、(10)、地区委員候補、(11)、非役員・地区勤務員、(12)、地区・赤旗分局員…です。
幹部会員−中央委員−県委員−地区委員の4機関役員メンバーで見れば、それぞれ2ランクづつに分割して、8つの党内格差を作り、「科学的社会主義」的階級序列が完成しています。これらは、全世界の前衛党に共通する党内序列、党内階級システムです。中央委員と准中央委員とでは、党内での権威、発言力、役割が、軍隊内序列と同じく、まるで異なるのです。もっとも、前衛党と民主主義的中央集権制そのものが、「なぜ民主集中制の擁護か」の第三で分析したように、暴力革命、武装蜂起を遂行する軍事組織、およびそのための軍隊的規律として誕生した訳ですから、前衛党内序列と軍隊内のそれには基本的類似性があるのは当然のことです。
さらに細分化すれば、非役員・勤務員を除く、役員内序列には20段階あります。(1)、議長、(2)、委員長、(3)書記局長、(4)、副委員長、(5)、常任幹部会委員、(6)、幹部会員、(7)、書記局員、(8)、中央委員、(9)、准中央委員、(10)、県委員長、(11)、県副委員長、(12)、県書記長、(13)県常任委員、(14)、県委員、(15)、県委員候補、(16)、地区委員長、(17)、地区副委員長、(18)、地区常任委員、(19)、地区委員、(20)、地区委員候補です。
ここには、様々な兼任があります。箕浦氏の兼任は、(9)准中央委員、(11)、(13)、(14)、(16)、(18)、(19)の7つもあります。しかし、彼には、(8)中央委員への出世願望が強固にありました。序列ワンランク昇格を手に入れるためには、「人民艦隊」北京密航組の非合法地下活動時期の袴田氏をはじめとする党中央幹部たちに、電話でぺこぺこしたり、個人的に取り入るだけでは、不十分でした。なんとしてでも、拡大先進県としての成績が欲しかったといえます。その出世意識を根底にした、成績主義的指導スタイルの異常さは、党中央の成績主義的追及・評価スタイルとの相乗作用で、どんどんエスカレートしていきました。5人の箕浦私兵・喫茶店グループを使った家父長的個人中心指導体制を強引に作り上げてでも、中央委員昇格にふさわしい先進的拡大実績を、彼は必要としたのです。
20段階の中で、方針の決定権、執行権力は、上記赤色の3執行機関が独占しています。 幹部会、中央委員会総会、県委員会総会、地区委員会総会は、その執行機関が決定、提起した方針を形式的に討議するだけで、それぞれの活動報告をするための一種の活動者会議に実態として格下げされています。
党専従4000人は、日々の活動で、この序列差別扱いを体験するにつれて、党内出世主義が徐々に形成されていきます。次回の文で述べる、1969年の「愛知県指導改善問題」のとき、数人の中央役員が、愛知県に数カ月間派遣されていました。八島勝麿中央委員もその一人でした。ある時、たまたま、事務所内で彼と私が二人だけだったとき、私が「今回の愛知県問題には、党中央にも責任があるのではないですか」と質問しました。それに対して、八島氏は「中央には、茶坊主ばかりいる。その点の解明については、どうにもならん」とかなり具体的に、吐き棄てるように言いました。この「茶坊主」の存在については、他にも元赤旗記者が、書いたり、言ったりしていますから、党中央内では陰で、かなりささやかれていたのです。
「茶坊主」のことを、「広辞苑」では「権力者におもねる者をののしっていう用語」としています。八島氏や赤旗記者の上記使用法における、この「権力者」とは、党中央レベルにおいては、当然宮本氏を指します。そこに19人の常任幹部会員もふくまれます。それほど、この20段階の役員内序列システム、および3執行機関による方針決定権、執行権の独占が、出世主義者=茶坊主を製造しているのです。
県レベルにおける、箕浦准中央委員の対中央出世主義だけでなく、箕浦グループに加わった5人は、地区レベルでの対県ミニ出世主義者でした。その内2人は、周りから「箕浦の腰巾着」と呼ばれていた程です。「腰巾着」のことを、「広辞苑」では「常にある人につき従って離れない者」としています。2人の日常は、周りから、軽蔑と同時に、気の毒がられる程、この規定通りの様子でした。ただし、その基本原因は、箕浦氏が家父長的権限で2人に絶対服従を要求していたことによるものです。
これらを製造した決定的な責任は、下里正樹元赤旗記者の手紙にあるように、典型的な前衛党式個人独裁権限保有者となった宮本氏にあります。彼の責任は、それだけにはとどまりません。自分の個人独裁権限とその行使のやり方を、幹部会内、中央委員会内でひけらかすことによって、県レベル、地区レベルにも無数のミニ個人独裁者をも製造しました。ただし、これらは、14の一党独裁国前衛党では、ありふれた現象で、それと異なる宮本氏固有のものではありません。
このように書くと、「いかなる組織も、巨大化すれば、出世主義、個人独裁を本質的に生み出す」という結論になりがちです。それは相対的真理でしょうが、そこにはやや論理の飛躍があります。民主主義的中央集権制という反民主主義的、上意下達式組織原則=軍事規律を持つ世界の前衛党が、本質的に内在させる、きわだった組織特徴の一つということです。前衛党が持つ、批判者排除・粛清と査問システムというもう一つの組織特徴については、「ゆううつなる前衛」で分析しました。前衛党執行機関幹部の多くは、自らの思考スタイル、行動性向の中で、批判者排除・粛清と出世主義の2つを表裏の関係として、ワンセットに統合していくのです。
〔小目次〕
この状況と箕浦氏の指導のやり方に対して、地区常任委員だけでなく、地区委員、細胞LC、さらには、県常任委員の間にも、陰ではかなり不満、批判が出されるようになりました。県委員会と中北地区とは同じ建物内にありました。3、4人の県常任委員は、私たちとの個人的話では、露骨なほどに箕浦批判を言うのです。そんなに思っているのなら、県常任委員会できちんと箕浦批判をやってくれと、こちらは考え、また言うのですが、県常任委員は誰もその口火を切りません。
ある時、たまたま彼が、私の担当の名古屋市中村区の中村民主商工会にいっせい地方選挙指導で来ました。彼がその事務所のトイレに入っているときに、それを知らずに後から事務所に入って来た事務局の党員が「あのワンスリーの選挙指導のやり方はなっとらん」とトイレに届くような大声で、ぼろくそに箕浦批判を言ったのです。「ワンスリー」とは、箕浦一三(かずみ)の名前の方の英語読みあだ名ですが、侮辱的に使用されたもので、地区内の各共産党民商細胞内では、当時かなり使われるところまできていました。箕浦氏もトイレから出るに出られず、かなり経ってから出てきたとき、そこにいた全員が硬直して、真っ青になりました。箕浦氏は必ず陰湿な報復をしてくるだろうと全員が思ったのです。箕浦氏が帰った後、何人かが「宮地さん、悪かったなー」と私に謝りました。それまでの彼の言動から、彼は、まずそのような発言者、発言細胞を担当していた私に報復すると分かっていたからです。
しかし、冒頭に述べたような経歴の、党中央の覚えもめでたい准中央委員を批判し、官僚指導を改めさせることは、個人ではとてもできません。准中央委員である地区委員長から、どんな抑圧的、侮辱的批判を受けても、それに反論すれば、彼と喫茶店グループから、いっせいに、それに輪をかけたような報復的、集団的攻撃が返ってくるので、彼ら以外の全員が我慢して、服従するしかありませんでした。それを全員が何度も経験していたからです。
ある日の会議で、彼が他の常任委員を、党勢拡大での成果を上げないことで、批判し、さらに足で蹴ったという行為が起きるにおよんで、ついに別の一人の常任委員が、その行為に怒り、彼の批判に立ち上がりました。足で蹴ったというのは、箕浦氏が自分の足で、彼の横に座っていた常任委員の足を、批判を口汚く言いつつ、思い切りひどく、蹴飛ばしたということです。一瞬のことで、あまりにもひどいやり方に対し、全員が硬直し、しばらくシーンとなりました。すると、別の常任委員が突然立ち上がり、「委員長、足で蹴飛ばすとはどういうことですか。そんなことは絶対許せない」と叫びました。私ともう一人も、その行為を詰問しました。その偶発的な出来事と批判をきっかけとして、これ以上黙っていられないと、私をふくめて3人が相談し、地区常任委員会の内外で批判活動を始めました。
2、地区常任委員会内の批判活動と地区全体への広がり
1967年4月のいっせい地方選挙が終わり、泊まり込みもやっとなくなり、地区、ブロックで選挙総括をする時期に入っていました。常任委員会の開催は、連日ではなくなりましたが、その選挙総括の討議と並行して、3人が毎回、徹底した箕浦批判を展開しました。1回の会議時間では、批判・反論の討議不十分で、3人が会議終了時に「継続討議」を提案して、確認されていました。
3人が時々集まって、批判の進め方を打ち合わせました。箕浦氏への要求を冒頭の4項目にまとめ、それを実現させるために、中北地区委員会内で、地区勤務員、地区委員にも呼びかけることや、その分担も決めました。ただ、この4項目について、批判活動当初は、(添付資料)「3、第七回地区党会議への報告(案)」に、2種類あるように、もっと具体的なテーマで始まりました。
地区常任委員会は、1)箕浦一三准中央委員・県副委員長・地区委員長と、2)批判者3人、3)地区副委員長をふくむ批判への同調者あるいは中立派が数人、4)彼といつも喫茶店に行き、正月には毎年彼の自宅にひそかに集まる箕浦グループ4人および、そのグループの一人の中北地区担当県常任委員の計5人に分かれました。即ち、批判者3人に対して、相手側は箕浦氏を入れて6人いるという常任委員会内の力関係です。3人の箕浦批判発言に対して、グループの5人は箕浦弁護、箕浦擁護の反論を熱心に展開します。3人と6人のどちらの論理が、同調・中立派を説得できるかということになってきます。常任委員会内部だけでの討論、批判では、実際の指導を改善させるところまで行かないことは、明白でした。不満が高まっていた地区勤務員、地区委員、細胞長の批判活動への参加なしには、その改善は不可能でした。
ただ、常任委員会内の力関係については、別の見方も出来ます。愛知県最大の名古屋中北地区は、5つの行政区ブロックに分かれていました。ブロックとは、地区補助機関のことで、地区に準ずる指導機能を果たします。名古屋市昭和区・瑞穂区の昭瑞ブロック、千種区、東区の名東ブロック、中区の中ブロック、北区・守山区の北守ブロック、中村区・西区の名西ブロックの5つです。ブロック責任者は、地区の月間運動の中心になります。塩野七生「ローマ人の物語W、X。ユリウス・カエサル」風にいえば、箕浦氏がカエサルかアントニウスかは別として、ブロック責任者は5つの軍団長に相当するものでした。批判者3人は、昭瑞ブロック責任者、名西ブロック責任者、地区事務局長・財政部長でした。また、約20人の地区勤務員、および常任委員、勤務員以外の約40人の地区委員は、百人隊長に相当します。
(表2) 批判活動1カ月間中の常任委員会内の力関係
1 |
批判派3人
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昭瑞ブロック責任者 名西ブロック責任者(私) 事務局・財政部長
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3人とも専従歴古い方
私は5ブロックとも担当経験
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2 |
批判同調派1人 |
副委員長中ブロック責任者 |
副委員長は、箕浦批判発言をした |
3 |
中立派4人
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名東ブロック責任者+3人 |
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4 |
箕浦グループ6人 (別名)
喫茶店グループ |
准中央委員・県副委員長・地区委員長 北守ブロック責任者+2人 元県常任委員で地区派遣常任委員 中北地区担当県常任委員
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北京密航組で、幹部会員ともつながり
専従歴、年齢とも私たちより若い
箕浦氏の“腰巾着”
と呼ばれる 同じ呼ばれ方
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この表のように、単純な人数的力関係では、まったく不利でした。しかし、地区内の軍団長の人数では、5ブロック中、批判同調派をふくめると、3ブロックが批判派となり、箕浦グループには1ブロックしかないという別の力関係がありました。批判同調派の1人は、私たちとは打ち合わせはしませんでしたが、常任委員会内の討論では、同じく箕浦批判の発言をしていました。当時でも各ブロックは、郡部の地区委員会に匹敵する規模を持ち、現在ではそれらはすべて、ブロックから地区委員会に昇格しています。したがって、5軍団中、3軍団長が反旗を翻したことになります。
しかも地区勤務員の内、4人が私たちとは別レベルで批判活動を展開し始めました。地区勤務員とは、地区専従で、常任委員ではないが、約70人の地区委員の一人であり、常任委員と同じく細胞担当をし、指導をします。その4人中3人は、中ブロックと名東ブロックの専従であり、指導力があり、ブロック内の信頼もありました。今まで不満、批判がたまっていた専従以外の地区委員もかなり発言を始めました。箕浦グループの一人が担当する北守山ブロック以外では、この百人隊長たちも、20数人が指導改善要求に立ち上がったのです。こうして、実質的には、4ブロックが箕浦批判・指導改善で結束し始めました。
3、県常任委員会と党中央への援助要請と無視
箕浦氏は党中央から評価されているとしても、その時点のやり方は、県常任委員の一部も強く批判しており、党中央の方針から逸脱していると考えたので、地区内だけでなく、県、党中央にもこの批判活動に対して援助を求めることも決めました。偶発的にせよ、いったん始まってしまった、この批判活動が中途半端におわったり、あるいは、失敗すれば、彼らからどのような報復を受けるかは、およそ想像がついていましたので、こちらも必死でした。指導を現実に改善するという状態になるまでやりぬくしかありません。
もちろん、この打ち合わせと、批判活動を組織するやり方は、規約に厳密に照らせば、規律違反のグループ活動と言われても仕方がないものでした。ただ、党中央の方針どおりに指導を改めてほしいとして、上級機関に援助を求めるという点では、規約に基づく、正しい行為とも言えるものです。
神谷県委員長(中央委員)にはひそかに伝えました。箕浦氏のやり方に批判的な県常任委員にも、県常任委員会で中北地区の指導改善問題を正式に取り上げてくれるよう頼みました。党中央にもこの批判活動の真実を伝え、援助してくれるよう、党中央幹部会員と逓信省レッドパージ組で、個人的に親しい人による別のルートでひそかに連絡しました。なぜ「ひそかに」かといえば、正規のルートで要請すれば、箕浦氏が裏工作でそれを妨害するであろうと予測がついていたからです。
箕浦氏は、地区活動者会議で、「県、地区や私に批判があれば、党中央訴願委員会に文書を出さずに、こちらに直接出せばいい。なぜなら訴願委員会からそのコピーが県に送られてきて、問い合わせをしてくるからだ」と公然と発言していました。それによって、党中央へ訴えたって、無駄だ、と箕浦批判抑圧の脅しを地区全体に宣告していたのです。
しかし、県も党中央も、党勢拡大での先進的成果を上げている准中央委員に遠慮したのか、それとも県よりもさらに下級機関の地区専従風情が中央委員批判をすること自体がけしからんと思ったのか、それを全く無視したのです。討議の過程で、3人は、地区常任委員会への神谷県委員長の出席を要請し、その提案は確認されました。ところが県常任委員会は、その出席は必要ないと否決したのです。この地区常任委員会の正式要請を否決するとはとても考えられないことでした。それだけ准中央委員・県副委員長の箕浦氏の権威、権限が、県常任委員会内でも、強固だったのです。その結果、県常任委員会は無視というよりも、半ば批判活動の抑圧側に回りました。
要請した県、中央の援助も得られず、孤立した状況の中でした。しかし、地区常任委員会、地区委員会総会、地区活動者会議での、いっせい地方選挙総括の討議を通じて、地区委員会全体を巻き込んだ、1カ月にわたる批判活動が、ねばりづよく続けられました。
4、地区活動者会議における地区委員長批判の爆発
そして、いっせい地方選挙総括のための地区活動者会議が、知多半島の新舞子で、約200人が参加し、泊まり込み形式で開かれました。当時は、泊まり込み形式活動者会議が頻繁に招集されていました。それは方針を伝えるだけでなく、拡大についての「日和見主義」「敗北主義」の思想点検を全地区的にやり、思想動員をはかる上できわめて効果的な方法と見られていたからです。
会議冒頭、箕浦地区委員長が若干の自己批判をふくんだ報告をした後、選挙総括の中で、各地区委員、各細胞から、いっせいに箕浦批判発言が出されたのです。「委員長の選挙指導はまるで血が通ってない」「拡大に指導が偏り過ぎている」とか「選挙結果に対する自己批判が足らない」など、痛烈な批判が続出し、会議は夜中まで紛糾しました。この会議を通じて、箕浦氏は、自分の指導のやり方に対して、地区全体にいかに根強い不満、批判が蓄積しており、それらが爆発的に表面化してきたことを悟らざるをえなかったのでした。
その結果、箕浦氏も、しぶしぶながらある程度誤りを認め、「きちんと自己批判をし、発表する」と常任委員会で約束するところまできました。また批判の過程で、3人は「箕浦委員長は、県副委員長としての任務があるから、県委員会へ帰るべきではないか」という提案も出していました。この数年間の彼の指導体質から、彼が自己批判を発表したとしても、実際の改善がいずれ棚上げされてしまうという見通しもありました。その棚上げの体験もすでに2回ほどあったからです。こうして、彼は、絶体絶命の窮地に追い込まれたとも言えます。
ところが、その段階まで来て、箕浦グループの一人が、批判者3人のうちの最初に箕浦批判の口火を切った一人を裏で猛烈に工作、説得し、「3人が相談しながら批判活動をやっている」ことを自供させたのです。これは、私と他の常任委員一人への裏切りというだけでなく、上記の指導の誤りを改善しようと立ち上がった多くの地区委員、細胞指導部への裏切りでした。後からの情報を総合すると、グループの一人は「あんたが口火を切った批判のせいで、地区が大混乱に陥っている。このままでは地区全体の団結が崩壊してしまう。そうなればあんたはどういう責任を取るんだ。委員長はそんなに悪い人ではない。一応自己批判しているからもうここらでいいではないか。あんたは宮地と他の一人に引きずられているだけだ」と、脅迫、説得、懐柔を織り交ぜて、裏切りをさせたのです。これには、当然グループ側の対策会議と、箕浦氏自身による直接の指示がありました。箕浦氏の打った、土壇場での起死回生の逆転の一手が成功したのです。
愛知県稲沢市の箕浦氏の自宅に、他の地区常任委員にまったく秘密で、それ以前から、正月に数人がグループを組んで毎年、年賀詣でをして、結束しているなどとは、想像もできなかったのが、こちらの甘さとでもいうのでしょうか。ただ、この 年賀詣での事実は、数年後に、一回だけ誘われた地区勤務員から私が打ち明けられて、わかった話です。箕浦氏もその喫茶店グループも、次回『第2部』の1969年の「愛知県指導改善問題」時期には、党中央にも地区常任委員会にも、それをひた隠しにして、責任追及を免れたのです。その時点での箕浦氏と彼らの自己批判が、いかにいいかげんで、私たちを欺いていたかの証明となるものです。
〔小目次〕
次の日から、箕浦批判は突如一転して、「3人の地区常任委員および多数の地区勤務員、地区委員のグループ活動」「反党活動」「特定幹部の組織的排除活動」への監禁査問となりました。「特定幹部の組織的排除活動」とは、私たちの「県副委員長の任務があるから、県に帰るべき」という提案の性格規定です。批判活動の内容全体を、その規定にすり替えてしまったのです。こういうすり替えが、瞬時にできるというのは、彼がいかに頭が切れるかを証明するものです。
十数人が査問され、私たち3人と勤務員4人は、地区事務所三階別室での監禁査問でした。勤務員4人は2、3日で釈放されました。自供した一人は、その自首行為を評価されたのか、4日前後で、釈放されました。他の一人も1週間で釈放されたのに、私に対してだけは、3週間の監禁査問が続行されました。その理由の一つは、私が上記の箕浦批判内容を分析、整理したので「首謀者」とみなされたこと、他の一つは今回の批判活動での私の批判内容、やり方、その批判活動の組織のしかたから彼が「宮地は、危険思想の持ち主だ」と断定し、公言していたことです。
21日間の監禁査問の経過は、川上氏の受けた状況とまるで同じですので、これ以上書きません。川上氏の13日間に対して、私のはそれよりも8日間長いという違いがあるだけです。「分派活動」の事実経過は、十数人の自己批判書に書かれた言動の、(1)日時、(2)場所、(3)相手、(4)会話内容などの克明な照らし合わせを検察官並みにするので、3日間位ですべて分かってしまいます。残りは被査問者の思想点検、自己批判が毎日毎日延々と続けられるのです。
箕浦氏の「自己批判し、発表する」という約束は、当然ながら棚上げされ、彼に対して地区全体から噴出した批判内容は抑圧され、雲散霧消させられてしまいました。
ところで私の「危険思想」改造になぜ21日間もかかったのかということです。私が書いた自己思想点検内容は、もっぱら「分派活動がいかに規約に違反しているか、いかに党破壊活動に相当するか」というものでした。ところがその後何年も経ってから、思い当たったのは、他の2人は、その内容だけでなく、「箕浦同志のような優れた、党派性の高い、思いやりのある中央幹部を、まったく誤解してとらえ、批判したこと自体が根本的な誤りであった」という内容も明記していたことです。
私も「お前の自己批判はまったく不十分だ。もう一度よく反省して書き直せ」と十数回も自己批判書の書き直しを命令されていたとき、査問者側からそのような趣旨の批判を受けていたのですが、私の勘がどうも鈍くて、要領が悪いのか、他2人の党派性が高いのか、そんな趣旨の自己批判を書くべきなどとは、考えも及びませんでした。
しかし、この「宮地、お前が首謀者だろう」ということと、「箕浦委員長は優れた、党派性の高い、思いやりのある中央幹部である。それを認めるかどうか」という2点だけでは、なぜ私を21日間も監禁しなければならなかったかの理由としては不十分です。常任委員会内での箕浦氏の絶対的権限からみれば、私の釈放を3週間も許可しなかったのは、彼一人の強固な意志によるものです。
箕浦氏と私との党活動、拡大運動のやり方についての対立点は、1カ月間の批判活動でかなり浮き彫りになってきていました。上記の査問内容の2点をふくめて、5つの対立点を表にします。監禁査問中の査問官は、すべて批判派、批判同調派以外の地区常任委員で、箕浦氏はその監禁室には、一度も顔を出しません。しかし、「お前の自己批判が不十分だ」という批判内容は、彼の発言だということは、今までの経験から明白でした。
査問委員会とは、常設の機関ではなく、査問を必要とする規律違反が生じた時点ごとに、随時設立されるものです。この査問では、中立派の地区常任委員を査問委員長とし、中立派と箕浦グループの内の地区常任委員数人で査問委員会を構成しました。批判されていた箕浦氏は、査問委員にはなっていませんが、事実上の査問委員長でした。私たちの査問内容、自己批判書内容を彼がすべてチェックし、私たちへの翌日の批判内容を細かく指示し、その完璧な追及を査問委員に要求します。その指示通りの自己批判内容が上がってこなければ、査問委員が箕浦氏からきびしく批判されるという関係になっていました。これは、私も、以前他の1、2件で、査問委員側になったことがあり、その時の箕浦氏との関係から、手に取るように分かるのでした。「それなら、実質的な査問指導をしている箕浦氏が直接、査問部屋に来ればいい」となります。しかし、そこが彼の頭がいいところで、後で自分が責任追及されたり、あるいは恨まれるような場所に出ない、表向き役割を演じないというのが、彼の出世主義的・自己保身的党内遊泳術の一つでした。この県レベルの関係は、5年後の「新日和見主義分派」査問における、宮本氏と下司、諏訪、上田耕一郎、宇野三郎ら査問委員との中央レベルの関係とまったく同じだと思われます。
21日間も、私を長期監禁した理由は、「県へ帰れ」と1カ月も彼への批判活動を組織した首謀者への報復心とともに、この対立点の内容を、本当に「危険思想」と思ったからなのでしょう。
(表3) 箕浦氏と私との党活動、拡大運動のやり方
についての対立点
対立点 |
箕浦准中央委員・地区委員長 |
私、地区常任委員・名西ブロック責任者 |
1、批判活動
の首謀者 |
批判4項目をまとめたし、批判活動を組織した。宮地が首謀者。 |
批判の口火を切ったのは、私ではない。3人は平等な関係で打ち合わせ。私が首謀者とは違う。 |
2、箕浦氏
への評価 |
「箕浦委員長は優れた、党派性の高い、思いやりのある中央幹部」と、自分のことを査問委員に代弁させる。 |
それを認めないわけではないが、自己批判書にわざわざ書くまでもない。(実際はそれを書くことがピンとこなかった。) |
3、党内
民主主義 |
民主を軽視して、中央集権制の側面を強化する。箕浦指示への無条件服従を要求。 党内民主主義を一面的に強調する意見は、民主主義的中央集権制の否定に発展する危険がある。 宮地は、民主主義的中央集権制そのものに異論があるのではないか。 |
党内民主主義を強調。自由に討議し、民主的に話し合えることが必要。意見を抑圧するやり方をただす。 拡大の遅れで自己批判させるのも、それは自発的なものでなく、“自己批判の強要”であって、党内民主主義に反する。 (私は、学生時代、水田洋教授の社会思想史ゼミに所属し、そこでの私個人の研究テーマは、J・S・ミルの「自由論」「経済学原理」だった。) |
4、二本足の
活動 |
建前では二本足を言うが、実際の指導は拡大成績への一面的追及。 革命の客観条件の有利さに対して、主体的条件の立ち遅れは重大である。その遅れを赤旗の集中拡大によって克服するという論理。 |
方針通りに二本足を指導すべき。細胞指導、点検ても大衆運動、組織について討論すべき。 (私は、専従以前は、全損保で労働運動をやり、そこでの60年安保闘争を組織した。分会副書記長、東海地区協議会青年部副書記長、愛労評幹事を経験。その中で、入党し、全損保内で初めて共産党細胞を結成。細胞長として、百数十人の党員、数百部の赤旗という党組織に拡大した。) |
5、拡大への動員方法 |
思想点検、思想批判を中心に据えるやり方。思想的に問題があるから、拡大の成果を上げられないという認識。 拡大における「日和見主義」「敗北主義」との闘争を強調。 地区常任委員会の点検会議は、最後には、遅れたブロック担当常任への思想批判と、その常任の自己批判、“思想問題”決意表明に行き着く。 |
情勢認識、情勢学習を強化し、思想問題追及に偏った拡大動員を改める。私の担当ブロック内では、思想批判による動員方法をあまりやらず、綱領学習、党文献にある情勢の討論を独自に何度も行った。 (私は、党専従以前は、2年間民青専従で、地区委員長だった。そこでは、同盟内外とも学習運動を強化し、全班が学習サークルを作るようにした。同時に班で大衆運動、労働運動を必ず討議した。その取り組みを通じ、この地区は、民青同盟の拡大率でつねに県内でトップクラスだった。) |
この時、私は、30才、職場経験・労働運動経験3年、党歴8年、民青専従期をふくめ専従歴5年でした。
私たちの批判活動が、グループ活動、分派活動であることは認めて、自己批判書にくり返し書きました。またそれが、「特定幹部の組織的排除活動」であったという断定については、「県副委員長の任務で県へ帰るべき」という提案で、その側面は一部あるとしても、それだけが目的、本質と言われるのは心外でした。しかし、早く釈放されたいために、やむをえず認め、自己批判書に書きました。21日間も事務所三階の8畳間一室に監禁されっぱなしというのは、しかも他の6人がすべて釈放された後の14日間は私一人だけというのは、精神的にかなりきついものでした。
表の5点について、査問中いろいろ批判されました。しかし、第1点での批判は、事実とは違うので「私が首謀者でした」とは一度も書きませんでした。3、4、5点での私の意見、箕浦批判内容は、党中央方針を建前どおり全面実践することを主張しているので、査問者側も「それが誤りである」とははっきり言えません。
自己批判書の内容が、前日のものとあまり変わらなければ、「宮地、お前は一日中何を反省していたんだ」と怒鳴られます。こちらも釈放されたい一心です。したがって、「分派活動」「特定幹部の組織的排除活動」問題については、ある程度批判に迎合的に書きます。しかし、それ以外の上記5点については、いくら言われても、自分では「私の意見が誤り」とはまったく思わないので、「誤った考えでした」とは書けません。私は、べつに査問に抵抗していたわけではありません。この2つの問題を自己批判すれば、釈放してくれると思ったのです。そこに、箕浦氏の釈放許可基準=「5点全部が誤りだったと、宮地に認めさせること」と、私の判断とのずれがあったともいえます。
この5点のいずれに対しても「私が間違っていました」とは何も書かないのに、釈放されたのは、私の担当ブロック指導の21日間空白による影響が生じたからでしょう。あるいは、査問者の側が3週間経っても、私が一向にその趣旨の自己批判書を書かないので、根負けしたのかもしれません。
したがって、中央役員個人を賛美しない、崇拝しないというのが、私の「危険思想」の内容なのか、それとも上記の他の内容があるのかは、不明のままです。もっともその10年後、1977年に「日本共産党との裁判」を提訴し、そして30年後、1997年に、この「共産党問題、社会主義問題を考えるホームページ」をインターネットに登録したという行為から、結果論的に見れば、箕浦氏は、私の「危険思想」に対して驚くべき嗅覚と先見性を持っていたのかもしれません。ただし、「危険思想」への嗅覚の鋭さの点では、「新日和見主義分派」事件をねつ造した宮本氏の右に出る人はいないでしょう。
〔小目次〕
もう一つは、本来は、夫婦で力を合わせる「出産、子育て」のこと
川上氏の「査問」を読んで、査問の様子が実にリアルに書かれていること、私の査問3週間の態様と全く同じであることに驚きました。3度の食事とも査問部屋ですること、トイレへ行くにも監視要員の許可がいることや、下着の着替えの妻からの差し入れも許可申請を出し、しかも直接の手渡しは認められないことなど、監禁にまつわる日常生活のことは、同じです。
もちろん、川上氏と異なるエピソードもいろいろあります。ここでは、そのうちの2つだけを、監禁査問のやり方を象徴的に表すものとして、触れておきます。
当時、一面的な「赤旗」拡大運動、および選挙闘争で、夜中1時、2時までの連日のブロック点検会議をやり、その後ブロック専従間の翌日の段取りを打ち合わせました。それが何カ月間も続きました。地区専従は、全員当然家に帰れず、ブロック事務所に泊まり込み、風呂へも入れず、一週間に一度ぐらい深夜に下着を着替えに帰宅するか、または、妻に着替えを持ってきてもらうという日常でした。
33年前の、1966年から67年「五月問題」前までの私の日記での、「年間のまとめメモ」には、次のように書かれています。
(表4) 日記の「年間のまとめメモ」
66.8〜11 |
第十回大会決議案学習活動と拡大月間。連日泊まり込みで、ほとんど帰らず。毎晩3〜4時まで点検会議と専従間の翌日の打ち合わせ。
妻に着替えを持ってきてもらう。妊娠中の妻とは事務所近くで、その時に話し合う。家事はまったくできず。 |
66.12〜67.2 |
総選挙闘争。連日泊まり込みで、まったく帰らず。
毎晩3〜4時まで取り組む。 |
67.3〜4 |
いっせい地方選挙。3月頃は、少しは帰る。しかし、3月中旬〜4月15日までは泊まり込み。健康に異常なし。
長男誕生。
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67.5 |
家には帰ったが、ほとんど家事できず。
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年間のまとめ |
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学習 |
「唯物論と経験批判論」を読んだだけで、空白。革命文学選集「不敗の村」「愛国者上下」2冊と「マルクス・レーニン主義の文化論」。他に小説4冊。「前衛」「文化評論」「世界政治資料」「労働運動」は毎月きちんと読む。マルクス、レーニンの文献を読めなかった空白の原因は、9カ月間にわたる泊まり込みにある。 |
夫婦の
話し合い |
8月〜4月まで、泊まり込みの連続で、深い話し合いできず。下着着替えを持ってきてもらう時に、月に1、2回彼女の活動、出産の準備を話し合うだけ。
しかし、家事は、すべて彼女に押しつけ。 |
健康 |
良好。
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その状況の中で、私の足に水虫が初めて出来て、どんどん悪化しました。薬局の売薬だけでは治らなくなり、時々皮膚科医院へ通って、光線を当てたり、きちんとした治療を受けないといけない程ひどくなっていました。その時点での21日間にわたる監禁査問です。最初の1週間ぐらいは、監視要員つきで、薬局に水虫薬を買いにいって、塗っていましたが、さらに悪化しました。
そこで、査問委員会に通院許可を申し出たのですが、監禁査問中の“分派活動をした反党分子”などには、通院のための外出を認めません。分派活動容疑での被査問者は、前衛党内では、その査問期間中は“階級敵としての反党分子扱い”になるからです。前衛党が被査問者をどのように取り扱うのかについては、「ゆううつなる前衛」の「査問システム」に詳述してあります。地区事務所には風呂もないので、足指を洗うこともできません。そのうちに、さらに悪化して、両足ともうみが出るようになったので、二度三度と強硬に申し出て、足指を見せたら、さすがにそのひどさに折れて、皮膚科への3日おきの通院が許可されました。
ところが、その通院も監視要員つきなのです。私が50CCのオートバイで行くと、監視要員もオートバイで医院までついてきて、光線の照射や薬の塗布がすむのを待合室で待っているのです。1960年代当時は、専従の足は皆オートバイでした。教員細胞の党員は、すでにかなりがマイカーに乗っていましたが、専従にとっては、それはまだ夢でした。その頃、日本共産党は、イタリア共産党を「修正主義」として、批判していましたが、「イタリア共産党がいかに堕落しているか」という根拠の一つとして、「イタリア共産党の専従は、全員がマイカーを持っている」ということが、県・地区活動者会議で、軽蔑口調で言われたほどです。これは中央委員会の会議での小話です。幹部会員の誰かが、ソ連共産党、中国共産党、あるいはイタリア共産党など批判している前衛党に対して、このような小話をすると、このようなルートで瞬時に全党に浸透するのが、日本共産党のシステムです。そして、それを無批判に受け入れ、信じてしまうのが、ほとんどの党員の思考スタイルになっています。私も、それを聞いて、「イタリア共産党は、なんと堕落した、修正主義政党か」と思ってしまったものです。
また、近くの銭湯へ行くのも許可されましたが、これも当然湯舟までいっしょに入る監視要員つきでした。私が自殺するとか、逃亡するとかは思わなかったでしょうが、この措置は、私が批判派の誰かと連絡をとることを恐れたのでしょう。
長期のこの泊まり込み活動スタイルや、この屈辱的なシーンは、私の監禁査問体験の忘れがたい想い出です。
水虫の方は、この間に極度に悪化しましたので、2年後、1969年に「5月問題」の名誉回復をされても、治癒しませんでした。その後完治するまでには6、7年かかりました。31年前の、21日間の監禁査問体験を、私の脳だけでなく、両足の指でも鮮明に記憶しているという訳です。
もう一つは、本来は、夫婦で力を合わせる「出産、子育て」のこと
上の表で触れたように、4月中旬に長男が生まれました。9カ月間泊まり込みが続いたので、妊娠中はほとんど家に帰っていません。約束した家事の分担もまるでできませんでした。5月は、いっせい地方選挙総括と批判活動中で、泊まり込みスタイルはなく、家には帰れました。当時、産後休暇は6週間で、妻は産後43日目から出勤を始めました。朝7時ごろに、共同保育所へ、まだ首がすわらない息子の頭をダッコバンドで支えながら、私鉄に2区乗り、駅から20分近く歩いて、連れていきます。私が監禁査問される以前で、家に帰っていた時は、私の50CCオートバイの後に乗せて、親子3人乗りで共同保育所へ数回連れていきました。
家に帰るといっても、夜12時前にはとても着きません。赤ん坊を風呂に入れることや、産後の体調も十分でないことから、職場の総細胞LCと細胞長たちが交替でわが家に泊まり込みに来て、手伝ってくれました。その様子と友人達の、私が除名になった後の態度については、妻のホームページ「政治の季節」−「友人」にも書いてあります。
その時点での21日間の監禁でした。監禁査問中は、川上氏の「査問」にもあるように、妻とは電話で直接話すことも許されません。下着の着替えも、査問委員が妻に連絡し、そしてその受け取りも地区事務所入口で査問委員が行います。妻の方も、党大会代議員、地区委員、総細胞長を経験しているので、“私の身に何が起きているのか”について、“党が言わないかぎり、聞いてはならない”ことは十分理解しています。
川上氏のように「息子をすぐ家に帰せ。帰さないのなら、人権擁護委員会に訴える」と、党中央に電話する父親はいませんでした。なぜなら、私が、党地区委員会から工作されて、民青専従になると決断したとき、父母から、そんなことを思いとどまるよう、涙ながらに説得されても、決意を変えず、「親の話が分からない、おまえのような冷血動物はすぐ出ていけ」と勘当されていたからです。
私が、生後1カ月を過ぎた息子の様子や、妻の産後、出勤再開後の体調を直接聞きたいと思っても、査問委員会が、そんな理由で“分派活動で監禁査問中の反党分子”に直接電話を許可する筈もありません。そもそも「水虫」での通院でさえも当初は、何度も却下したのですから。結局、私は査問委員会に対して、出産理由での直接連絡、状況問い合わせ要請を一度も申し出ませんでした。
妻は、出産後、総細胞長の任務を外して貰いましたが、総細胞LCとして連日連夜の活動に戻りました。毎朝7時ごろに共同保育所へ連れていって、電車に飛び乗るようにして出勤し、勤務後、名古屋市郊外の保育所に連れに行って、電車で名古屋市に戻り、おしめ、着替えと活動用具を入れた大きなかばんを持ち、1才未満の長男を抱いて、赤旗拡大に走り、また、彼を横に寝かせて、総細胞LC会議や細胞会議をやるのです。妻の情報産業細胞は、“革命の拠点”と言われていましたので、地区全体の一面的拡大運動下での“先進的拡大成績”を常に要求され、党活動は激しいものでした。
しかも、その喜びの産休明け時期、合理化政策による「企業初の、人員1%のボーナス減額支給」が、妻を直撃しました。それは、「職場の1%の成績不良者から1%減額し、1%の成績優秀者へ上積みする」というもので、アカ攻撃の面とともに、正規の産前産後休暇を取った者を、1%の減額対象者にしたものでした。ボーナス袋を開いて、青ざめた妻は、課長席に行って「なぜ私が対象者になるのですか。理由を言ってください。こんなボーナスは受け取れません」と、袋ごと返上しました。総細胞で討議して「この不当な差別、このくやしさをビラで訴えよう」と決めました。勤務と保育所迎えの後、毎晩夜中までチラシの原稿を書きます。別の細胞長たちが徹夜状態でガリを切り、謄写版で印刷します。妻は、名古屋の友人のアパートに泊まり込んで、長男を見て貰い、出勤前に会社入口でビラを配ります。数人の“公然党員”も一緒に配ります。配り終わると、会社の中に入り、仕事をします。息子を母乳で育てていたので、勤務中にお乳がぽんぽんに張ってきます。すると、洗面所へ行って、お乳を搾ります。「なぜこんな差別にあうのか」と、止まらない涙とお乳が混ざります。このようなビラまきを、連日一週間以上続けました。労働組合も、「ボーナス差別反対」に立ち上がり、半年後、全国のすべての職場から、差別支給を撤廃させました。この時、私は、“釈放”後でしたが、再び長期の泊まり込み活動スタイルが再開されていました。妻が泊まり込んでいるアパートにも行けないので、妻のチラシ原稿づくりをまったく手伝えません。会社入口でのビラまきに、泊まり込んでいたブロック事務所から、オートバイで駆けつけて、2回ほど協力できただけでした。
今でも、長男出産当時の話が出ると、妻からは、きまって「あの頃、あなたはまったく帰ってこなかった。子育ては、私一人でやった。職場での仕事、ボーナス差別とのたたかい、総細胞LCの党活動、そして、保育所運営活動で、ぶっ倒れそうだった」と宣言されるのです。しかも、次回の第二部「愛知県指導改善問題」が始まる1969年3月までは、上記表のような長期の泊まり込みが一貫して続きました。つまり、妻の妊娠−出産−長男1才11カ月の2年9カ月間泊まり込み活動スタイルが継続しました。
その約3年間は、実質的な“母子家庭”状況で、その期間の子育ての話になると、今でも私は妻に頭が上がりません。今省みると、私たち夫婦が、それぞれ最大の試練を受けていた時期だったと思えます。時々長男に、上記の活動・生活スタイルをリアルに話して、「おまえも、あの頃はよくがんばったなー」と、彼の“1、2才時期の健闘、協力”を、心からたたえています。
もっとも、数年後に長女が生まれたときは、私は県勤務員・県選対部員に任務変更になっていて、毎日家には帰れました。今度は私が、首のすわらない赤ん坊をダッコバンドで支えながら、50CCのオートバイの片手乗りで、生後43日目から、市立保育園に連れていきました。長女は、住民運動の高揚で実現した「0歳児保育」の第一期生でした。首がすわってからは、オートバイのオイルタンクの上に、自転車の後に付けるのと同じ、子供を乗せる籠をつけ、それに乗せて行きました。変な形のオートバイになりますが、籠を後に付けるよりも、オイルタンクの上の方が、子供とおしゃべりしながら行けるからです。冬には、それではすぐ風邪をひいてしまうので、背中に背負って、ネンネコを羽織り、オートバイで走りました。この“珍妙なスタイル”は、保育園や街でもかなり評判になりました。妻もそのスタイルにはやや抵抗を感じたようですが、「風邪をひかせるよりはまし」と思って、私自身はあまり気になりませんでした。妻のホームページ「女がはたらく」の「ネンネコオートバイ」に、息子のイラスト付きで、この様子について書いてあります。
長女の卒園まで、このスタイルを続けました。したがって、1967年監禁査問前後の、長男の出産・子育て期の“失地回復”を、これによって多少とも果たすことができたという訳です。
1カ月間にわたる箕浦批判活動が、“裏切り”によって一転し、「特定幹部の組織的排除を目的とする分派活動」への査問に切り替わり、私は21日間の監禁後にやっと釈放されました。
通常はここで、それだけのスケールの分派活動に対して、規約上の処分がなされます。ところが、「規約上の処分は一切なし」という奇怪な結末になりました。規約による処分には、(旧)規約第66条にあるように、(1)訓戒、(2)警告、(3)機関活動の停止、(4)機関からの罷免、(5)権利停止、(6)除名の6段階があります。私をふくめ、10数人の被査問者の誰も処分されなかったのです。
県常任委員会も、私たちへの抑圧者側に回った以上、査問の全経過を知っていました。「ゆううつなる前衛」の「査問システム」で述べたように、査問とは、批判者の排除、粛清のための党内手続きです。査問終了時点で排除、粛清項目が決定されます。そこでの奇怪な結末の理由はどこにあったのでしょうか。
批判的専従への報復措置には、次の3つがあります。
(表5) 批判的専従への査問と終了時の報復措置
措置 |
第一 専従解任 |
第二 除籍 |
第三 規約66条処分 |
第四 措置なし(異例) |
規律違反有無 |
ないときもある
|
有 |
有
|
有 |
排除形態 |
党内排除。党籍残る (1)転籍させず、点在党員。(組織隔離措置)
(2)居住支部へ転籍
|
党外排除 “反党分子”扱い |
(1)党内排除−訓戒、警告、機関活動の停止、機関からの罷免、権利停止 (2)党外排除−除名。“反党分子”
|
|
措置の性格 |
党実務としての専従採用と解任
|
規約第12条に基づく排除。規約第66条による処分ではない
|
規約に基づく
処分
|
評価を下げることは党中央に報告したくない |
規約との関係 |
関係なし
|
規約第12条除籍 |
規約第66条
|
|
党中央報告の必要性 |
なし |
なし
|
あり。統制委員会の適否審査 |
査問だけなら、報告の必要なし |
箕浦氏は、上記の査問経過、査問指導から見れば、一面では、私たちを規約に基づく処分、あるいは専従解任をしたかったと思われます。
しかし、他の面として、規約上の処分をすれば、党中央にその経過報告書を提出し、中央統制委員会による処分の適否の審査を受けなければなりません。もしそうなれば、地区全体から噴出した箕浦批判の内容が党中央にわかってしまい、彼の評価にマイナス点がつきます。彼として、それは避けたいところでした。彼にとって、下策になります。
規約に基づく処分をせずに、3人または私だけの専従解任措置だけなら、党中央に報告せずにすみます。しかし、それを強行するのは、その報復的性格が、あまりにも丸見えになってしまいます。批判活動抑圧直後では、それも下策でした。
結局、彼が選択したのは、これだけ大がかりな査問をやったのに、上記表第四の「査問後の措置、処分なし」という、まったくの異例の結論でした。神谷県委員長・中央委員や県常任委員全員も、そのうやむや結末に追随したのです。
ここでも、彼は、「対中央で自分のマイナス評価点だけは取りたくない」「臭いものにはふたをする」式の出世主義者的=自己保身的性向を存分に発揮したのでした。
この前衛党執行機関幹部内の出世主義的性向、あるいは自己保身的性向は、丸山眞男が「戦争責任論の盲点」「日本の思想」「忠誠と反逆」などで一貫して指摘している日本共産党の無責任体質を生み出す根源の一つとなっています。ただし、前衛党型出世主義・自己保身主義と前衛党式無責任体質との関係については、「日本共産党との裁判」最終で検討します。
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(関連ファイル)日本共産党との裁判
第2部「「拡大月間」システムとその歪み」 愛知県「泥まみれの拡大」
第4部「「第三の男」への報復」警告処分・専従解任・点在党員組織隔離
第5部1「宮本・上田の党内犯罪「党大会上訴」無審査・無採決・30秒却下」
第6部「宮本・不破反憲法犯罪、裁判請求権行使を理由とする除名」
第7部「学者党員・長谷川正安憲法学教授の犯罪加担、反憲法「意見書」」
第7部・関連 長谷川教授「意見書」
「長谷川「意見書」批判」 水田洋、「大統領」、中野徹三、高橋彦博
第8部・完結「世界初・革命政党専従の法的地位「判例」」
〔小目次〕
(注)、これらは、すべて1969年「愛知県指導改善問題」総括の県党会議、地区党会議決定文書です。そのうち、1967年「五月問題」関連部分の抜粋です。1969年「愛知県指導改善問題」で、「五月問題」被査問者は全員、名誉回復されました。それまでの二年間の体験、およびその総括での二転三転の経過と私の中央委員会批判については、次の「第2部」で述べます。
日本共産党愛知県委員会 一九六九年一〇月
第四章、一、(三)県委員会の指導の誤り……「五月問題」関連部分抜粋
一九六七年四月のいっせい地方選挙のあとに、中北地区党で指導改善をきめた地区委員会総会の決定や多数の細胞や党員の要求を反映して、一部常任の同志によって、これまでの地区指導部のあやまった指導にたいし、第十回党大会決定の実践にたちかえることを要求する批判活動がおこつた。
これが「いわゆる五月問題」である.
そのときの批判の中心は、
(1) 民主集中制の組織原則にもとづく集同指導の確立か、それとも家父長的個人指導か。
(2) 綱領・規約・大会決定の全面的な実践か、それともその一面的歪曲か。
(3) 同志愛にみちた明るい党か、それとも同志愛のとぼしい党か。
(4) 事実から出発するマルクス・レーニン主義か、それとも願望から出発する形而上学か。
を内容とするものであり、それは正しい指導改善の要求であった。
党中央も、重要な指摘と助言をあたえたのに、これが県常任委員会の集団討議にかけられなかった。このなかで県常任委員会の一部の同志は、この指導改善にたいする批判活動を規律違反にすりかえ、これを徹底的に抑圧し、こうして規約に反して、指導改善をもとめる同志に大きな打撃をあたえたのである。
これにたいして県常任委員会は、自己の指導の問題として即刻、事実を調査し、これが根本的解決をはかる指導態度をとらず、一部県委員の同志から質問と意見がだされたにもかかわらず県委員会総会の討議にもかけず、小委員会をもうけ、一部の常任の同志の意見を一方的にうけいれ、反対にこれを抑圧したのである。
これは、県委員会の集団指導の破壊と極端な家父長的個人中心指導の弊害をしめすものであり、県党はこの教訓から真剣に学ぶ必要がある。
「五月問題」関連部分……口頭報告メモを文章化したもの
「1、中北地区の一部常任の同志たちによって、地区委員長への批判活動が起きた。それは正しい内容であった。
2、地区常任委員会で神谷県委員長の出席要請を決定した。しかし、県常任委員会はその出席を否決した。これは、重大な誤りであった。
3、県常任委員会は、中北地区の指導改善問題で小委員会を作ったが、その委員会は結果として、地区全体の正しい批判活動を抑圧した。
4、ある同志は、三週間も査問にかけられたが、県常任委員会はそれを知りつつ、放置した。」
日本共産党名古屋中北地区委員会 一九六九年十一月
第五章 指導改善問題について
(一)あやまりの経過について
一九六七年の総選挙と一斉地方選挙をつうじて家父長的個人中心指導のもとでの地区委員会とりわけ地区常任委員会の一面的行政的官僚的指導にたいして、一部の常任委員、地区委員、細胞長の批判が強まり、選挙後は選挙結果ともからんで指導改善を要求する党内の意見はさらに強まった。こういうなかで地方選の総括と、当面の方針を明らかにする任務をもってひらいた第十九回地区委員会総会で批判が出され指導改善にとりくむことを決定した。
この指導改善の斗いは、ただ総選挙と地方選挙との関係だけでおきたものではない。それは同時に三中総と都道府県委員長会議の報告と結語にもとずいて一九六六年五月の第四回地区委員会総会における指導改善が不徹底におわり、一年前の参院選やその後の年末年始の党勢拡大運動における機関内部にあつた家父長的個人中心指導と結びついて地区党組織の中に生じてきた指導上の諸問題が根本的には全く解決されずにきた歴史的諸条件を基礎にしておきた問題であり、指導改善の闘いの必然的な発展でもあつた。
批判の中心点としては、一部の同志は、(1)、委員長の独断について、第十回大会後の大量の氏名不詳のままの除籍問題、総選挙のときの減紙申請問題、幹部採用における問題、(2)、作風上の問題として幹部をどなる威圧する、ぶじょくする問題、(3)、実践上の一面性、専門部活動の破壊の問題、(4)、地区党の活動評価にかんして前進と後退の面をとくに党建設上で明らかにする問題を提起した。
他の一部の同志は、(1)、家父長的個人指導か、それとも民主集中制にもとづく集団指導か、(2)、中央の方針の全面的実践か、それとも一面的な実践か、(3)、事実から出発する唯物弁証法かそれとも主観主義か、(4)、ごうまんな態度か、それとも共産党員として謙虚な品性ある態度か……をあげたがこれらは批判の主な内容であつた。
このような批判活動は常任委員会内部においても、ブロック常任、地区委員、細胞の中でも広汎におこなわれていた。このような動きのなかで地区常任委員会の一部の同志は、他の一部同志が、特定の同志を排除する目的のために分派活動を行なつたとして批判活動を規律問題にすりかえ、これを抑圧し、それを通じて細胞やブロック常任から広くだされていた正しい批判活動を抑圧した。そして一部の批判者にたいし長期にわたる不当な査問を行なつた。
しかしこの内容は、指導改善を求める正しい要求であつた。また特定幹部の排除を目的としたものでもなければ、党の路線に反対する政治集団をつくるという分派活動でもなかつたことは明らかである。この指導改善の斗いが貫徹できなかった問題は重大である。
それは、(1)綱領と大会決定、党中央の諸決定にもとづく「政治的、理論的武装の弱さがあり、これらの原則にてらして誤りを政治的理論的に明確につかむことができなかつたこと、(2)地区委員会が中間機関としての性格と任務から逸脱し、党中央と細胞にたいして責任を負う立場にたちえなかったこと。(3)「県常任委員会は、自己の指導の問題として即刻事実を調査し、これが根本的解決をはかる指導態度をとらず……一部の常任の同志の意見を一方的にうけいれ反対にこれを抑圧した」ことによるものでもあるが、集団指導の破壊と家父長的な個人中心指導の弊害を示すものである。
この「五月問題」は一面では地区党の新しい前進の基礎をきりひらく可能性をもっていたがそれが抑圧される結果となったことによってその後、党内民主主義は大きく破壊された。そして、四中総にもとずく拡大運動の中で細胞は積極的戦斗的にとりくみ一定の貴重な前進をかちとつたが、機関の指導を中心として、これを「泥まみれ」の拡大として指導改善の要求を抑圧する結果となつた。こうして地区委員会が形骸化され、常任委員会は家父長的な個人中心指導のもとでその集団指導を自ら破壊していった。
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(関連ファイル)日本共産党との裁判
第2部「「拡大月間」システムとその歪み」 愛知県「泥まみれの拡大」
第4部「「第三の男」への報復」警告処分・専従解任・点在党員組織隔離
第5部1「宮本・上田の党内犯罪「党大会上訴」無審査・無採決・30秒却下」
第6部「宮本・不破反憲法犯罪、裁判請求権行使を理由とする除名」
第7部「学者党員・長谷川正安憲法学教授の犯罪加担、反憲法「意見書」」
第7部・関連 長谷川教授「意見書」
「長谷川「意見書」批判」 水田洋、「大統領」、中野徹三、高橋彦博
第8部・完結「世界初・革命政党専従の法的地位「判例」」