宮本・上田の党内犯罪、「党大会上訴」

無審査・無採決・30秒却下

 

1977年第14回大会「上訴権」行使

(日本共産党との裁判第5部1)

 

(宮地作成)

〔目次〕

   1、「中央委員会上訴権」の行使 無審査・却下

   2、『スパイ査問問題意見書』提出 無回答

   3、「党大会上訴権」の行使 無審査・無採決・30秒却下

   4、妻の『質問書』6通提出とその処理 無回答・握りつぶし

   5、選択肢

   6、上田耕一郎副委員長の多重人格性 (第5部2 別ファイル)

 

(関連ファイル)日本共産党との裁判           健一MENUに戻る

   第1部『私の21日間の監禁査問体験』 「5月問題」

   第2部『「拡大月間」システムとその歪み』 「泥まみれの拡大」

   第3部『宮本書記長の党内犯罪、中間機関民主化運動鎮圧・粛清』

   第4部『「第三の男」への報復』 警告処分・専従解任・点在党員組織隔離

   第5部2『上田耕一郎副委員長の多重人格性』

   第6部『宮本・不破反憲法犯罪、裁判請求権行使を理由とする除名』

   第7部『学者党員・長谷川正安憲法学教授の犯罪加担、反憲法「意見書」』

   第7部・関連 長谷川教授「意見書」

      『長谷川「意見書」批判』 水田洋、「大統領」、中野徹三、高橋彦博

   第8部・完結世界初革命政党専従の法的地位「判例」

 1、「中央委員会上訴権」の行使 無審査・却下

 このファイルは、1976年8月警告処分・専従解任などの報復後から、1977年10月第14回大会における私の「上訴」30秒却下を経て、1977年11月末「民事裁判」提訴までの1年5カ月間の“たった一人の(党内垂直的)反乱”を内容とするものです。ここでいう「無審査」とは、『上訴書』にたいする本人直接調査・審理を一度もしないという宮本・上田式手法のことです。

 1、点在党員組織隔離・被処分者の闘争手段制約 単独かつ垂直的「上訴書」提出行為のみ

 1976年8月5日、宮本・不破氏と井田県委員長・県常任委員会は、私を(1)警告処分、(2)専従解任、(3)点在党員組織隔離にしました。私は、それらすべてに不服を表明するとともに、「上訴」することを伝えました。彼らは、私の机明け渡しと即日退去を命じました。8月30日、「中央委員会宛上訴書」を提出しました。

 以後、私の党内闘争は、“たった一人の(党内垂直的)反乱”になりました。愛知県第1次、第2次民主化運動は、地区、県党あげての合法的、かつ、集団的闘争でした。しかし、それにたいする報復的被処分者が、行いうる闘争スタイルは、一挙に限定されます。民主主義的中央集権制の下で、宮本・不破氏は、点在党員組織隔離・被処分者の不服意見表明手段において、水平的横断的党内交流をすべて禁止し、単独かつ垂直な「上訴書」「意見書」「質問書」提出行為以外の党員権を剥奪します。それに違反して、他党員に話せば、ただちに『分派活動』として再査問し、「上訴書」そのものを無効にしてしまうのです。

 2、規約「処分上訴権」と「党機関の敏速処理義務」条項

 ()規約第66条 『処分は、訓戒、警告、機関活動の停止、機関からの罷免、権利停止、除名にわける』とし、6段階の項目に定めていました。ただし、2000年「規約全面改定」によって、『()規約第49条 処分は、警告、権利(部分または全面)停止、機関からの罷免、除名にわける』と4項目にしました。

 ()規約第72条 『処分をうけた党員は、その処分に不服であるならば、再審査をもとめることができる。また、中央委員会および党大会にいたるまでの上級機関に訴えることができる。各級の党機関は、いかなる党員の訴えも、責任をもってすみやかに処理しなくてはならない』と、「処分上訴権」承認と「党機関の敏速処理義務」を定めています。

 ただし、不破・志位氏は、第22回大会「規約全面改定」で、驚くべき改悪をしました。

 『()規約第55条 処分をうけた党員は、その処分に不服であるならば、処分を決定した党組織に再審査をもとめ、また、上級の指導機関および党会議に訴えることができる。被除名者が処分に不服な場合は、中央委員会および党大会に再審査をもとめることができる』。

 ()規約第55条改悪内容は2つです。、処分不服提出機関を「党大会」から、(地区・都道府県)党会議」レベルに限定し、「党大会」提出を除名不服のみに絞りました。、「党機関の敏速処理義務」条項を全面削除してしまいました。

 「中央委員会宛処分上訴権」行使実態 党史上で、この行使ケースはあるでしょうか。第10回大会で、党中央は、一度だけ報告しました。『第10回大会前衛』(P.118)によれば、第8回大会から第9回大会の間に109件、第10回大会までに22件がありました。それ以降は一切報告せず、非公開にしました。合計131件は、50年分裂期間での徳田分派・宮本分派間における除名、処分乱発の事後処理が大部分を占めます。

 よって、私の「中央委員会上訴権」行使が、第10回大会以後、初めてのケースになるかどうかは、不明です。

 3、宮本・不破「党機関の敏速処理義務」違反の党内犯罪

 規約上では、「上訴権」は、()規約第66条処分に関する党員権です。私のケースでは、3点が同時に行なわれ、それらは規約処分と同じ性質の措置なので、3点についての再審査を請求しました。この「上訴権」は、党員権のなかで、きわめて重要な条項であり、それにたいする“敏速処理”を機関に義務づけるという、党機関義務条項と不可分一体のものでした。

 私は、中央委員会に、この間、「意見書」5通、「上訴書・再審査請求書」2通、「要請書」「質問書」8通、「再審査討議開始申入書」2通を提出しました。通常は、これらにたいして、訴願委員会は、「受領書」をその都度出す機関義務があります。しかし、この17通にたいして、党中央は、一回も私に「受領書」を送ってきませんでした。

 私の「上訴権」行使にたいする「党機関の敏速処理義務」が発生したにもかかわらず、党中央は、その17通を以後10カ月間無視し続けました。ただ、私への専従解任報復とは、宮本・不破幹部会“秘密・口頭指令”『党中央批判は、専従には許されない』という党中央批判発言専従粛清方針の一環であり、かつ、『愛知県指導改善問題』での粛清対象3人中、残っていた最後の一人の排除でした。したがって、全党的粛清方針の対象者には、「上訴権」など存在しない、とする宮本・不破氏による10カ月間握りつぶし党内犯罪でした。

 10カ月後、彼らは、県組織部を通じて、「中央委員会宛上訴書」への“無審査却下・口頭通知”をしました。その経過と内容は次にのべます。

 2、『スパイ査問問題意見書』提出 無回答

 1、「意見書」作成の時間的条件と経過

 1976年8月、県常任委員会は、私への専従解任通告とともに、県委員会事務所即刻退去を命じました。私は、それ以後、自宅で「上訴書敏速処理」を待機する環境になりました。その間、上記10数通を党中央に郵送した以外は、地域の日曜版配達と「赤旗」を読むことだけが、党員としての任務でした。読書・研究などの時間的余裕はたっぷりできました。

 まさに、その時期、立花隆『日本共産党の研究』が、1976年1月から1977年12月まで21回にわたり「文芸春秋」に連載され、共産党側からは、『犬は吠えても歴史は進む』キャンペーンが、連日、大々的に展開されていました。スパイ査問事件に関する書籍、陳述調書も多数発行されました。当初は、私も、党中央側の見解、主張に賛同していました。1976年6月平野謙著『「リンチ共産党事件」の思い出(袴田調書全文添付)(三一書房)が出版されました。その袴田里美予審尋問調書、公判調書を読んで、党中央の主張、反論に強烈な疑問を持ちました。それ以降は、その疑惑を解明するために、公表されている書籍、出版物を基本的にすべて読みました。

 その判断として、党中央委員会、とくに宮本委員長、袴田副委員長、小林栄三中央委員・元宮本秘書ら3人は、重大な誤りを犯していると確信するようになりました。それら文献を収集、読破、ノート取り、分析、「意見書」作成をする私の時間的余裕を、宮本・不破氏は、「上訴書の敏速処理義務」違反・党内犯罪によって、皮肉なことに、たっぷりと与えてくれたのでした。

 その内容が、『スパイ査問問題意見書(袴田・宮本陳述相違点の解決内容・方法)』です。ただ、それは長いので、HPでは、「スパイ査問問題意見書」「連続・7分割ファイル」に改訂しました。それを、1977年4月13日、私は中央委員会宛に提出しました。その時は、袴田除名の8カ月前で、宮本・不破氏らが、袴田氏をすでに長期にわたる査問をしていた時期でした。

 2、「意見書」提出理由と内容

 提出理由 なぜ「意見書」を提出したか。それは、これらの出版書籍やマスコミの宣伝にたいする党の対応の基本に賛成しながらも、その一部に重大な誤りがあると考えたからです。それは袴田・宮本陳述相違点について、宮本委員長、小林栄三中央委員・元宮本秘書が、真相を歪曲、ねつ造し、袴田副委員長の政治的抹殺、犠牲の上に立って、自己の栄光、権威の保身を図ろうとしているという判断に基づくものです。それだけでなく、その対応は合法・議会主義政党として国民にウソをつくという点で、国民への政策選択としてもさらに重大な誤りを犯していると考えたからです。

 「意見書」内容 「スパイ査問問題意見書」にあります。ただ、それは、長すぎるので、その抜粋と一部表を『袴田政治的殺人事件』に載せました。

 3、10カ月ぶりの無審査・却下・口頭通知と党本部での面会

 「スパイ査問問題意見書」を提出したことが、理由かどうか分かりませんが、10カ月間、上記17通にたいして「受領書」を一つも出さず、本人になんの調査、審理もせず、握りつぶしていた態度を、ころりと変えて、党中央は3回の対応をしました。

 )、第1回無審査・却下・口頭通知 1977年5月28日

 県常任委員会組織部長(反党分子対策委員会)は、私を呼び出して、「党中央決定の口頭通達」を伝えました。その内容は、『(1)警告処分の上訴を却下する。(2)専従解任の県常任委員会措置を了承した』でした。ただ、審理内容と却下理由を何一つ回答しません。これでは、上訴処理になならないと不服を表明しました。

 )、党本部での面会 8月8日

 その後も、私の「処分・解任不服の意見書」「回答督促書」「党大会上訴書」等22通と妻の「宮本委員長宛質問書」6通の、計28通にたいして回答はなく、完全に握りつぶされたままでした。そこで、無回答・無審査にしびれをきらした私から中央統制委員会、書記局へ直接電話をかけました。『愛知県委員会の宮地健一です。私の「上訴書」処理はどう進行しているんですか。なんの調査、審理もありません』と抗議しました。書記局の返事は『今、検討中』でした。それでも本人との審理をしません。そこでまた、6月9日、書記局宛に、『「質問書」2通の回答を聞くための面会申入書』を郵送しました。その内容として、「党中央機関の敏速処理義務違反」をきびしく追及しました。

 それによって党本部での面会許可が出ました。その面会は、「個人通信第10号」『スパイ査問事件の個人的体験』にあるように、同年8月8日、代々木党本部でありました。党中央側の2人は、私の「上訴書」処理について回答らしいものを、1時間半の面会時間中何も言いません。返事は『今、検討中』のままでした。そして、帰り際に、大声で(スパイ査問問題で)党委員長を批判するとは何事だ』と詰問したのです。この面会は、まったく無内容で、無駄でした。党中央の面会許可の真意については、「通信」に書きました。

 )、第2回無審査・却下・口頭通知 8月26日

 県常任委員会組織部長は、私を呼び出して、「党中央決定の口頭通達」を伝えました。その内容は、『党中央は、(3)点在党員措置の県常任委員会決定を了承した。(4)党中央として「中央委員会宛上訴書・意見書」5通の処理を完了した』でした。第1回通知と同じく、審理内容と却下理由を何一つ回答しません。私は、その無内容に抗議するとともに、『「党大会上訴書」について本人との審理を始めるよう』要請しました。

 10カ月間無視後の3回対応の真意 私の「中央委員会上訴権」行使にたいして、宮本・不破氏は、10カ月間無回答、本人への直接調査、審理握りつぶしという『党機関敏速処理義務違反』を続けていました。それが、一転して、3回の対応をしてきました。その真意は何でしょうか。私が、()握りつぶしに腹を立てて、「中央委員会上訴権」行使から、「党大会上訴権」行使にエスカレートさせたことによるものでしょうか。それとも、()『スパイ査問問題意見書』を、袴田氏への秘密裏の長期査問中に、それと知らず、私が提出したからでしょうか。私は、その「意見書」で、宮本委員長、小林栄三中央委員・元宮本秘書、袴田副委員長を批判し、「問題処理の誤り、国民・有権者にウソをつく誤り」に関して3人に自己批判を求めていました。

 ()()のいずれに真意があるかの解答は、『スパイ査問問題意見書』、または『袴田政治的殺人事件』を読んでいただいた方の受け止めによって大きく変わるでしょう。その唯一の判断材料は、『スパイ査問事件の個人的体験』に書いたように、無内容な面会終了で、私が立ちあがった瞬間に、原誠次郎・党中央組織局次長(武装闘争時の元軍事委員会Y指導部の一人)も立ちあがって、私にいきなり、声を荒げて、(スパイ査問問題で)党委員長を批判するとは何事だ』と詰問したことが一つあるだけです。私の返答と判断は「通信」に書いてあります。

 3、「党大会上訴権」の行使 無審査・無採決・30秒却下

 1、前代未聞の反宮本・反逆行為

 不当な規約処分にたいする「中央委員会上訴権」と「党大会上訴権」は、基本的党員権の一つです。私の「中央委員会上訴権」行使にたいする“問答無用”の無視、握りつぶしは、警告処分・専従解任通告後、7カ月間以上続いていました。そこで、私は、「党大会上訴権」行使による“本人との直接審理要請、党大会出席・発言要請”をすることを決断しました。

 党史上の「党大会上訴権」行使ケース 私は、それを『党大会特集・前衛』で調べました。その結果は以下です。これを「党大会上訴書」でも明記しました。

「中央委員会上訴」件数と「党大会上訴」件数

党大会

中央委員会上訴件数

党大会上訴件数

統制委員会

第7回大会

(報告なし)

10件

第8回大会

(報告なし)

0件

7人

第9回大会

109件

0件

8人

第10回大会

22件

0件

9人

第11回大会

(報告なし)

0件

5人

第12回大会

(報告なし)

0件

8人

第13回大会

(報告なし)

0件

6人

 ()「中央委員会上訴」件数は、『第10回大会前衛』(P.118)にあります。その内容は、50年分裂時代の徳田「武装闘争・北京機関」90%分派、宮本10%分派間での、かつ、「六全協」後から「現行綱領」採択までの4分派抗争における相互除名、処分にたいする名誉回復を求めるものがほとんどでした。4分派抗争と、そこでの宮本氏の陰湿、天才的な“最高指導者”分派活動の一端は、『不破哲三の宮本顕治批判2』〔秘密報告〕「上田・不破査問事件」で書きました。

 前代未聞の反宮本・反逆行為 したがって、中間機関専従・宮地健一の「党大会上訴権」行使は、1958年第7回大会「規約」決定以来、初めての反宮本・反逆行為でした。私は、1977年10月の第14回大会に向けて、上記()をつけた「党大会上訴書」3通、「本人との討議・審理申入書」4通を提出しました。これら7通にたいしても、宮本・不破氏は、「受領書」を1回も出さず、本人への調査・問い合わせ・審理・回答を一度もしませんでした。『党大会前、党大会会場での「上訴者発言」を認めよ』という要請も無視しました。

 党大会最終日 第14回大会は、10月22日の6日目に、「宮地上訴処理」を議題にしました。

 2、党大会での無審査・無採決・30秒却下

 )、無審査・無採決・30秒却下

 私の「上訴」は、党大会最終日、採決なしの30秒で却下されました。

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)、戎谷統制委員会責任者 『本大会において、愛知県の宮地健一同志

から警告処分規律違反について再審査を求める上訴がありました。宮地

同志は規律違反の行為自体は自ら認めており、再審査を構成するような

新たな事実や主張は提起されておらず、処分の決定の承認や構成、手

続きともに再審査を開始するにたる欠陥はありませんでした。理由なく、

却下することが適当であることを確認し、承認を求めるものです』(拍手)

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)、上田耕一郎・党大会議長 採決を取ろうともせず『異議ありませんか』

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)、973人の第14回大会代議員 『異議なーし!』

)、上田・党大会議長 『それでは統制委員会の報告

は承認されたものと確認いたします』   満場の拍手

 この間、30秒で却下され、『党大会で発言させよ』という私の「上訴書」も完全に無視されました。“30秒”という時間の根拠は、党大会後27日も経ってから口頭報告され、メモした、この文言、議事を私が朗読して測ると約30秒になるということです。

 エイゼンシュタインは、映画『戦艦ポチョムキン』で、有名な「獅子が吠える」3カット・モンタージュを挿入しました。彼は、それによって、ツアーリ圧制に抗して立ち上がったポチョムキン水兵とオデッサ市民を象徴させました。ザミャーチンは、1905年、この反乱とオデッサ・ゼネストを現地で目撃し、ボリシェヴィキに加入したのです。私(宮地)は、幸子HP『映画の連想』と同じ思考で、この3カットを挿入し、「第14回大会における宮地30秒殺人」シーンを表しました。

 )、私の「上訴趣旨」と戎谷・上田の却下運営

 私の「上訴趣旨」 戎谷常任幹部会委員の「統制委員会報告」内容もひどいものでした。私の上訴趣旨は、〔報復1、2、3〕にたいする3点の不服、再審査請求でした。

 〔警告処分〕 県常任委員4人を不問にするという処分の不公平さとその点での党大会再審査請求です。8カ月前の1分間発言行為にたいして警告処分するのであれば、同一内容で、私を上回る回数・時間・大声での県常任委員4人発言行為も等しく、公平に警告処分すべきとする要求です。それをしないやり方は、不公平、かつ、報復的な警告処分として無効である、とする再審査請求です。

 〔専従解任〕 規約に基づく正規提出の「意見書」内容を逆用した解任理由の規約違反性の告発です。それとともに、U氏解任のように、正規の会議での党中央批判発言をした専従への、報復解任という宮本・上田ら常任幹部会の専従幹部方針の規約違反性です。その宮本・不破・上田氏の反党的専従人事政策の撤回要求です。

 〔転籍させない点在党員措置〕 宮本・不破氏の転籍悪用反党行為の告発とその是正要求です。ただし、この党大会時点では、1972年新日和見主義「宮本偽造2人分派3人分派」問題において、査問600人、内処分100人中、その被処分数を大幅に上回る党員にたいして、彼らが転籍悪用反党行為を犯し、全党に指令していたことを、私はまだ知りませんでした。私個人のケースだけでの告発です。

 戎谷統制委員会責任者は、私の「上訴書」趣旨を何一つ報告せず、隠蔽しました。この3点の不服、再審査請求が、宮本不破体制と4000人専従幹部政策へのあまりにも根源的批判なので、「くさいものにふた」をせざるをえなかったともいえます。そして、『再審査を構成するようなあらたな事実や主張は提起しておらず』とし、『理由なく、却下することが適当』とだけまったく抽象的に報告し、承認を求めました

 上田副委員長は、党大会議長として、採決を取ろうともせずに承認を求め、宮地30秒殺人『汚れた手』の一人となりました。上田氏が理論的にいくらいいことを書いても、これはスターリン粛清に加担したボリシェヴィキ幹部たちと同じく、私個人にとっては、上田氏のこの運営は党内民主主義を抑圧した党内犯罪行為です。

 結局、彼らは、宮地「第14回大会上訴」を、事前、当日も私の不服・上訴趣旨を直接聞くことは一度もなく、30秒で却下しました。彼らは、私への1分間発言査問以降の1年10カ月間で提出した「意見書」等6通、「上訴書」3通、「質問書」「審議申入書」等13通の22通、および妻の「夫宮地健一の専従解任での宮本委員長宛質問書」6通の合計28通にたいして、本人との何の審議・内容問合せもなく、握りつぶしました。私は、これが民主主義的中央集権制の本質であることを、その直接体験を通じて認識しました。このとき、私は40歳でした。

 「大会日誌第六日」記述 『前衛第14回大会特集』(P.355)の「大会日誌第六日(10月22日)」上段に『ひきつづき、大会は、戎谷春松常任幹部会員から上訴処理についての報告をうけ、これを承認しました』とあるだけです。そこには、上訴者宮地の個人名も載せていません。

 却下処理経過「口頭通告」 処理経過は、党大会が終了して、“27日間も経ってから”、県委員会事務所で「口頭通告」を受け、メモした内容です。「上訴」却下について、私が『却下通知の文書を下さい』と言うと、県組織部長は『そんなものはない』と返事しました。『文書を渡さないやり方はおかしい』と私が何度抗議しても駄目です。県が『口頭で通告する』と読み上げたものを、私がノートにメモしました。『拍手』『異議なし』を含めて、読み上げるからには、県側に文書があるのに、上訴者にそれを渡さないという不当なやり方でした。

 4、妻の『質問書』6通の処理 無回答・握りつぶし

 妻は、この間、私の専従解任問題を中心内容として、党中央、宮本委員長宛に『質問書』6通を提出しました。1977年4月18日付の5通目『質問書』では、私の脳波検査問題に関する疑問、質問も書きました。

 訴願委員会は、妻『質問書』にたいしてのみ、6通とも『受領書』を送ってきました。私の22通にたいしては、ただの1通も出しませんでした。しかし、党中央は、妻にたいして『受領書』のみで、第14回大会までの1年2カ月間にわたって、妻に一度も回答せず、完全に無視し、握りつぶしました。

 これが、中央委員会任命・下部機関である「訴願委員会」「統制委員会」システムの実態です。この2つの『任命』機関だけでなく、宮本・不破氏や常任幹部会20人を“統制・チェック”する機構は、日本共産党内において一つもありません。私の「党大会上訴」処理方式も含めて、これらの全経過が、宮本・不破式民主主義的中央集権制の運用実態になっています。

 5、選択肢

 1、党内における“垂直的な闘争”すべてを実行

 “四重殺”目 「泣きっ面に蜂」ということわざがあります。しかし、〔報復1、2、3〕にたいして、私は泣いておらず、「怒りっ面」でした。この党大会処理形式と報告内容は、「三重殺への怒りっ面に熊ん蜂」でした。熊ん蜂の問答無用の毒針は、私を“四重殺”目にしたのです。日本語としてきつい言い方になりますが、これは、それまでの全経過を含めて、宮本・不破・上田氏の、日本共産党員・私にたいする“精神的虐殺犯罪”でした。私は文字通りの「怒髪衝天」となって、民事裁判提訴を決断しました。私は、自分で言うのも変ですが、生来、おっとり、のんびりタイプで、映画・文学好き、よほどでないと怒らない性格です。県・地区同居事務所では、月3回ほど受付・宿直当番をします。受付を通る党員たちは、ほとんど顔見知りで、彼らの幾人かから、『宮地さんはいつもにこにこしているねー』と、何度も言われていたほどです。

 宮本・不破・上田氏などの“党内犯罪者”たち 2001年、私も64歳になりました。妻HP『復活』にあるような経緯で、60歳からインターネットHPを開設し、40歳除名以後、20年ぶりに、ようやく“見解発表の自家製・武器”を手に入れました。これまでの人生で、この時点、この“虐殺”にたいするほどの「怒髪衝天」を味わったことは、一度もありません。宮本・不破・上田氏などの“党内犯罪者”たちは、『インターネットは民主主義的中央集権制を超える』というIT社会が出現するまで、14の一党独裁国前衛党トップと同じく、党中央批判専従に『反中央分子』のレッテルを貼りつけ、規約違反の党内排除・党外排除をしたい放題にする機関運営ができました。しかし、今や、インターネットHPなどにより、彼らの党内犯罪歴が、一つまた一つと暴かれつつあります。

 党規約で行いうる党内での“垂直的な闘争”すべてを実行 私は、最高裁上告に匹敵する性質の、第8回大会以降誰もやったことがない、前代未聞の「党大会上訴」を含め、考えられるすべてのことを実行しました。“垂直的な”という意味は、〔報復1、2、3〕への不服意見を、他の党員に話すことは、“水平的、横断的な”行動となり、宮本・不破式日本語解釈では『党内問題を党外にもちだした』規律違反、あるいは、分派活動と断罪されるので、一切できないということです。

 水平的、横断的党内交流を全面禁止 レーニンが、1921年、分派禁止規定と合体させた、この組織原則では、『党外』とは、日本共産党の外部だけでなく、自分の所属支部・機関以外の党員は、すべて『党外』であり、党中央賛成意見ならよいが、党中央批判意見を話す行為は、()規約第2条8項違反、分派活動となります。正規会議での党中央批判発言は、規約上の党員権ですが、U氏ケースのように、実態は規律違反とデッチ上げられ、専従解任されます。その上、党員の「意見書」提出は、水平交流を禁止した上で、上級機関に、党員が単独で(=複数で出せば分派活動)、“垂直に”提出するルートしかありません。しかも、今回の私と妻のように、28通すべてを党中央が握りつぶせば、党内闘争の他の方法はまったくないという党運営システムになっています。この民主主義的中央集権制システムは、14の一党独裁国前衛党と同じです。資本主義国前衛党では、イタリア共産党は左翼民主党に転換し、スペイン共産党、フランス共産党は、いずれも、この犯罪的組織原則を放棄しました。よって、今や世界で日本共産党とポルトガル共産党の2党が、レーニン“創作”の反民主主義的システムを堅持しているだけです。この意見提出・処理システムは、『ゆううつなる党派』でくわしく分析してあります。

 2、残された4つの選択肢

 〔選択肢1〕、宮本・上田党内犯罪に泣き寝入りして、他の就職先を捜し、『県直属点在党員』のままで残る。その場合、党中央への「意見書」垂直提出権以外をすべて剥奪された『党籍があるだけの“組織隔離”党員』となる。ただし、28通握りつぶし手口からみて、その唯一の党員権を行使しても、同じ目に会うだけである。

 〔選択肢2〕、泣き寝入りして、離党する。他の就職先を捜し、党内組織隔離措置をされてしまった以上、党内での今後の闘争は不可能であり、かつ、ばかばかしいとして「離党届」を出す。特高・検察が宮本氏を12年間も“格子ある独房”に入れたことと、その宮本氏が私を「点在党員」という党内の“格子なき牢獄”に期限なし収監したこととは、同質であり、“前衛党独房内”でのたたかい継続は不可能である。

 〔選択肢3〕、マスコミに発表してたたかう。即座に除名になる。ただし、何の知名度もない一専従が発表しても、マスコミ自体が取り上げない。なぜなら、袴田氏の手記、インタビューは、マスコミにとって、売上増が期待できる商業的利用価値があるが、私のケースにはその価値はないからである。

 〔選択肢4〕、まったく新しい形態としての民事裁判に訴えてたたかう。民法、民事訴訟法に基づいて、名古屋地方裁判所に専従解任不当の民事裁判を提訴する。彼らは、私を即座に除名するだろうが、それともたたかう。

 3、民事裁判提訴・選択の理念

  私は〔選択肢1、2〕の泣き寝入りの道を拒否し、〔選択肢4〕を選びました。専従解任不当の民事裁判仮処分申請をし、彼らは私を直ちに除名しました。ここで、民事裁判提訴の理念を、少しだけのべます。

 『「指導改善」運動における正規の会議での党中央批判への報復、および正規「意見書」内容への報復として、専従解任をするのは、政党内部での重大な党員権侵害である。ましてや、専従には、基本給・年齢給・党専従歴給、所得税・厚生年金保険料・健康保険料源泉徴収の生活費が支払われており、専従者はそれで生計を立てている。その不当な解任は、党員権侵害にとどまらず、市民的権利の侵害にあたる。

 政治結社内で1年8カ月間、結社規約に基づいてたたかったのに、解決されず、訴えが最終的に却下された以上、その前衛党は市民的権利侵害結社となった。専従者数百人が同じ性質の報復にあって、泣き寝入りしてきたが、私は泣き寝入りの道を拒否する。最終却下後の段階として、民事裁判で侵害回復を求めてたたかいを継続するのは、自分の人権を守るための、一市民としての正当な市民的権利行使である。

 市民的権利侵害回復を求める裁判請求権は、憲法上当然一結社の自律権より優位に立つ。資本主義体制内合法政党・日本共産党の結社の自由権は、無制約なものではなく、この結社内部市民的権利侵害ケースの裁判請求権により制限を受ける。そもそも、日本共産党自体が、サンケイ裁判、袴田住居追出し裁判などいくつかの民事裁判を自ら積極的に提訴して、その資本主義体制裁判形式を利用している』。

 これだけでは、説明不足で、理解しにくい点がいろいろあると思います。この理念と経過の詳細は、次のファイル第6、7、8部で書きます。

第5部1以上  健一MENUに戻る

(関連ファイル)日本共産党との裁判

   第1部『私の21日間の監禁査問体験』 「5月問題」

   第2部『「拡大月間」システムとその歪み』 「泥まみれの拡大」

   第3部『宮本書記長の党内犯罪、中間機関民主化運動鎮圧・粛清』

   第4部『「第三の男」への報復』 警告処分・専従解任・点在党員組織隔離

   第5部2『上田耕一郎副委員長の多重人格性』

   第6部『宮本・不破反憲法犯罪、裁判請求権行使を理由とする除名』

   第7部『学者党員・長谷川正安憲法学教授の犯罪加担、反憲法「意見書」』

   第7部・関連 長谷川教授「意見書」

      『長谷川「意見書」批判』 水田洋、「大統領」、中野徹三、高橋彦博

   第8部・完結世界初革命政党専従の法的地位「判例」

 

     『スパイ査問問題意見書』連続・7分割ファイル