不破哲三の第2回・宮本顕治批判〔秘密報告〕
宮本秘書団を中核とする最高指導者私的分派の形成と解体(1)
(宮地作成)
〔目次〕
はじめに―宮地コメント
2、宮本秘書団を中核とする宮本私的分派の「満月の歌」、第20回大会
4、『戦後革命論争史』をめぐる大抜擢評価と猜疑心の二面性 別ファイル4・5・6に行く
5、「宮廷革命」=分派の平和的解体作業と新体制への転化、第21、22回大会
6、宮本逆旋回を半分否定・再逆旋回させた全面改定綱領、第23回大会
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『不破哲三の宮本顕治批判』〔秘密報告〕日本共産党の逆旋回と4連続粛清事件
『上田耕一郎副委員長の多重人格性』上田・不破査問事件の真相
『綱領全面改定における不破哲三の四面相』第23回大会
石堂清倫『「戦後革命論争史」の出版経緯』
はじめに―宮地コメント
〔小目次〕
このファイルは、第2回目の宮本顕治批判〔秘密報告〕です。第1回目の主要テーマは、1970年代後半から、85年頃までに、宮本顕治が行った日本共産党の逆旋回と、それを遂行するための4連続粛清事件でした。第2回目は、その中でも、彼自らが積極的に構築した宮本秘書団を中核とする最高指導者私的分派とその形成史を分析します。それに合わせて、不破哲三ら複数グループによる分派解体作業と、それを決断・実行する彼の面従腹背・二枚舌的人格の形成史も検討します。
ただ、第1回目は、〔秘密報告〕スタイルがフィクションでも、その内容は、ノンフィクションで、事実をできるだけ正確に書きました。それにたいして、第2回目は、宮本顕治と不破哲三という2人の思惑・狙い・二面的性格にまで踏み込んで分析するので、その一定個所は、いくつかの情報源に基づく私(宮地)の推察も含みます。よって、このファイルを読む人にとって、事実と推察とのはざまの判断が難しくなるでしょう。明記できない情報源もあるので、ここに書いてあることは、ホントかウソかと、まゆつばを付けて読んでください。
第1回目のスターリン批判
これは、1956年2月、第20回大会〔秘密報告〕『個人崇拝とその結果について』です。1953年3月5日スターリン死去の3年後でした。その批判内容レベルは、限定的なもので、ソ連共産党・国家の誤りと責任をスターリン個人の資質・独裁に転嫁・矮小化し、側近グループらの責任を棚上げした不充分なものでした。というのも、フルシチョフ自身、ベリヤ、ミコヤンらと並んで、スターリン別荘に入り浸っていた側近中の側近だったからです。ただ、一定の「雪解け現象」も起きました。
スターリン死去と同時に、側近グループ内で、指導権争いが起き、発足した集団指導体制の中でも、ベリヤが筆頭になりました。しかし、1953年6月、他側近たちが、スターリンの犯罪を責任転嫁する具体的いけにえとして、まず大粛清組織者ベリヤを逮捕・銃殺しました。
第2回目のスターリン批判
フルシチョフは、1961年第22回大会で、再び、スターリン批判をしました。彼は、同時に、その大会において、新綱領を採択させ、それによって、スターリンとの決別と自己のアイデンティティ宣言をしました。古今東西を問わず、綱領全面改定こそ、新指導部体制への転化を党内外にアピールする上で、もっとも効果的な、歴史的に試された手法です。
その間、1957年、フルシチョフは、第一書記として、モロトフ、カガノヴィッチ、マレンコフらスターリン側近の解体作業に手をつけ、反党グループ事件をでっち上げ、彼らを、ソ連共産党幹部会から追放または除名しました。スターリンの側近たちは、個人独裁者スターリンが意図的に形成した最高指導者私的分派と規定できます。スターリン以外にも、各国共産党で、そのような最高指導者私的分派のケースがいくつも見られます。
ソ連の実態は、共産党が所有した一党独裁国家でした。それは、党内において、最高指導者私的分派体制をほとんどの共産党に形成させる体質に変質しました。14カ国における私的分派形態はさまざまです。しかし、いずれも、その一党独裁権力維持システムとしての国家暴力装置の中核は、(1)共産党員コミッサールを通じて、共産党が所有する軍隊と、(2)最高権力者と直結した秘密政治警察という2つです。とりわけ、最高権力者と秘密政治警察との密着・一体化ぶりは、それを「党中党」を形成するまでに深化し、実質的な最高指導者私的分派になりました。
ソ連崩壊後に暴露された事実の一つは、レーニンと秘密政治警察指導者ジェルジンスキーとチェーカー指導部チェキストらの一体化の実態です。そして、ボリシェヴィキ党内から、チェーカー28万人体制による「党中党」形成と、レーニンによるチェーカーへの無制限の権限附与にたいする多数の批判が噴出していたことです。「党中党」とは、当時のボリシェヴィキ党内におけるレーニン・チェーカー批判の言葉です。1918年夏から21年、レーニンの根本的に誤った「市場経済廃絶」路線による「食糧独裁令」「穀物・家畜の軍事・割当徴発」政策にたいして、ソ連全土で農民反乱・労働者ストライキ・兵士反乱が勃発しました。ボリシェヴィキ一党独裁政権崩壊の危機に直面して、レーニンは、やむなく、「ネップ(新経済政策)」で80%・9000万農民にだけ譲歩し、資本主義市場経済への後退をしました。その一方で、党内引き締め・規律違反摘発で、1921年3月第10回大会から夏にかけて、党員の1/4に相当する136836人を規律違反・不活動で除名しました(ダンコース『ソ連邦の歴史1』新評論、1985年、P.223)。その大除名は、下部党機関に指令しただけでなく、チェーカーにも全党員リストを渡して、規律違反摘発を担当させました。この時点から、チェーカーは、国民にたいする数十万人殺人「赤色テロル」粛清機関という面だけでなく、「党中党」として党員に向けた秘密政治警察に変質したのです(シャルル・ベトレーム『ソ連の階級闘争』第三書館、1987年、P.217)。
ニコラ・ヴェルト 『共産主義黒書−犯罪・テロル・抑圧』プロレタリア独裁の武装せる腕
スタインベルグ 『ボリシェヴィキのテロルとジェルジンスキー』レーニンとチェーカー
ヴォルコゴーノフ『テロルという名のギロチン』レーニンとチェーカー
『「赤色テロル」型社会主義とレーニンが「殺した」自国民の推計』レーニンとチェーカー
スターリンと600万人逮捕・60万人処刑の大テロル組織者エジョフ・OGPUとの関係、1938年エジョフ粛清後の秘密政治警察指導者ベリヤ・NKVDとの関係も、レーニン型の「党中党」という点では同じです。1953年6月、スターリン死去3カ月後のベリヤ逮捕・銃殺と、その後におけるブレジネフと秘密政治警察KGBとの関係も、レーニンの伝統を守ったシステムでした。ソ連だけでなく、チャウシェスクと同族支配・秘密政治警察セクリターテ、ウルブリヒト・ホーネッカーと秘密政治警察シュタージも、また「党中党」としての最高指導者私的分派の性格を持ちました。シュタージの専任職員は約10万人、公式・非公式のシュタージ協力員を合わせると200万人と推定されています(桑原草子『旧東ドイツ秘密警察・シュタージの犯罪』中央公論社、1993年)。これらは、いずれも、レーニンがしたように、最高権力者と直結し、党員向けの規律違反摘発秘密政治警察機関としての役割も果しました。
3、日本共産党における最高指導者私的分派の前例
レーニンは、1921年3月、第10回大会を迎え、ソ連全土における農民・労働者・兵士の総反乱勃発という一党独裁政権崩壊の危機から逃れる作戦として、9000万農民への経済的譲歩政策「ネップ」採用の一方で、政治的な全面弾圧・引き締めを行いました。その政治的逆改革作戦の一つとして、Democratic Centralismと分派禁止規定とを結合させました。
大藪龍介『国家と民主主義』1921年ネップ導入と政治の逆改革
『レーニン「分派禁止規定」の見直し』逆説・1921年の危機
それは、マルクス主義前衛党全体の党内民主主義を抑圧・破壊した(する)だけではありません。その反民主主義的組織原則は、14の一党独裁国において、党中央指導部の中枢を、党規約に基づく法治主義から逸脱させ、人治主義的幹部システムに変質させました。その人治主義は、国家暴力装置をいまだ持たない資本主義国共産党でも同じように発現し、最高指導者私的分派を形成させます。党中央レベルと都道府県レベルという2つのケースを検討します。
1、徳田球一の「家父長的指導」「個人家父長制」
これは、名称だけが先行して、その実態が『日本共産党史』、その他でもあまり書かれていません。言葉としては、「徳田球一の家父長的指導」、志田が六全協前の宮本顕治に言ったという「徳田の個人家父長制もやめる」、志田についての「志田の派閥的な個人中心指導」があるくらいです。広辞苑は、「家父長制=家父・家長の支配権を絶対とする家族形態」としています。
その実態については、2つの見方があります。第1、主流派全体における彼の家父長的指導体制があったが、それは最高指導者私的分派とは言えない。第2、主流派内で、個人独裁者徳田球一と最高指導者私的分派グループができていた。そして、そのメンバーは、戦前からの幹部、または、府中の予防拘禁刑務所に入れられ、徳田とともに刑務所内で共産党活動をしていて、彼の親分肌に惹かれた獄中組幹部が中心である。そのリストは、春日正一、聴涛克巳、砂間一良、内野竹千代、河田賢治、紺野与次郎らである。西沢隆二(ぬやまひろし)は、徳田の娘婿で、伊藤律は予防拘禁刑務所で徳田に可愛がられた。これは、徳田球一の家父長的個人中心指導体制と規定できる。
この見解にたいして、増山太助氏から、手紙をいただきました。彼は、当時の共産党指導部の一人でしたから、貴重な証言として、関連個所のみを抜粋して、そのまま載せます。手紙を転載することの了解はいただいてあります。「『徳田の家父長的個人中心指導体制』というのは、不正確な表現です。党再建のとき、『家父長的指導』という非難がありましたが、『個人中心指導体制』という言葉は聞いたことがありません。宮地さんのファイルによれば、『個人独裁者徳田球一』と最高指導者の『私的分派グループ』になり、グループのリストまで挙げられていると余計真実味をおびます。そうではなく、党再建のよびかけに応じて集った連中が、戦前・戦中にどうしていたか、この点がはっきりしないので、所在がはっきりして、不(非)転向だった徳田が中心にすえられたのです。徳田が私的分派を作ったのではありません」。
増山太助『戦後期左翼人士群像』増山太助略歴
徳田球一は、宮本顕治と袴田里見を、治安維持法違反だけでなく、スパイ査問事件による刑法犯であるとして排除しました。徳田は、宮本を大衆運動をしたことがないインテリ評論家として嫌い、宮本顕治と宮本百合子の側は、徳田を野蛮人と呼んで、毛嫌いしていました。2人の性格の違いも、50年分裂の背景にあります。徳田球一は、宮本顕治と違って、アジ演説が巧みで、個人的人気もありましたが、その一方、規約を無視したような、剥き出しの家父長的指導による人治主義的幹部システムで党運営を行いました。
ここで、最高指導者が行う分派活動における野坂参三の役割と位置を考えます。宮本・不破は、1992年12月、野坂参三を、(1)山本懸蔵密告・銃殺の罪、(2)ソ連赤軍情報局工作員というソ連共産党スパイの罪によって、100歳で除名しました。彼らは、それまで「徳田分派」と呼んでいましたが、以後、「徳田・野坂分派」にレッテルを変えました。野坂の2つの罪は、ソ連共産党・NKVD・KGBの「野坂参三ファイル」によって証明された事実です。彼が、ソ連工作員として、ソ連共産党に定期的に日本共産党情報を送っていたのも事実でしょう。
ただし、彼が、中国延安から、ソ連経由で帰国して以後、自ら積極的に分派活動・工作をした痕跡がありません。その面では、影が薄く、神輿として、どちらの分派によっても担がれるような人の良さ・気の弱さが見られます。コミンフォルム批判後に、最初の武装闘争方針を書いたのは、野坂参三です。50年分裂時点では、徳田球一側に付き、北京機関を結成しました。
1955年、六全協後、今度は、排除していた宮本顕治と組んで、野坂第1書記・宮本書記長→野坂議長・宮本委員長体制を、議長引退の第16回大会まで、26年間続けました。この間も、宮本私的分派・側近グループに近づいていません。徳田球一と宮本顕治は、ともに、「愛される共産党」アイドルとしての野坂参三を、日本革命の神輿として、担いだ策謀家であり、野坂参三も、スパイとして、その方が居心地が良かったとも推察されます。宮本顕治は、野坂参三がソ連工作員であることに、うすうす気付きつつも、「徳田・野坂分派」ならぬ「宮本私的分派と野坂スパイとの双方見て見ないふりの分派」を、26年間続けていたという“スパイ抱え込み分派主義者”であるとも言えます。というのも、日本共産党きっての、戦前からの「スパイ・挑発者との闘争」権威者を自称する宮本顕治が、党本部内で、とかくスパイ嫌疑の噂があった野坂参三の正体に気付かなかったということは考えられないからです。
日本共産党史において、50年分裂当時、中央委員の80%(28人/35人中)・専従の70%・党員の90%を占めた主流派を「徳田・野坂分派」と規定するのは、実態にそぐいません。それは、武装闘争責任を彼らに転嫁するための、宮本顕治が得意とする詭弁です。しかも、彼は、武装闘争が実際に始まる五全協前に、スターリンの「宮本らは分派」というモスクワ裁定に屈服し、「新綱領を認める」という自己批判書を志田重男に提出して、主流派に復帰しているのです。
『「武装闘争責任論」の盲点』朝鮮侵略戦争に参戦した統一回復日本共産党
『史上最大の“ウソ”作戦』戦後処理パートの助監督宮本顕治
2、愛知県党における箕浦一三准中央委員の最高指導者私的分派
宮本顕治は、党中央レベルで、宮本私的分派・側近グループを、自ら積極的に形成しました。党本部勤務員800人や党中央役員百数十人全員は、宮本秘書団を中核とした私的分派活動の実態を見聞きします。誰もが、裏側では、分派メンバーを「ごますり」「茶坊主」と呼びました。最高指導者が「党中党」としての私的分派を作り、分派的党運営をするのありさまを見ていれば、任命されている47都道府県委員会出身の中央委員・准中央委員たちも、「トップの宮本議長がやっている。よって、自分にも都道府県委員会の党運営において自前の分派形成が許されている」と考えるのは当然でしょう。私(宮地)が直接体験した愛知県指導改善問題と最高指導者私的分派についてのべます。いくつかの都道府県委員会でも同じようなケースがあると思いますが、愛知県党問題以外は公表されていません。
箕浦一三は、愛知県の国鉄稲沢機関区の労働者で、人民艦隊で中国に密航し、北京機関党学校メンバーでした。その経歴から、若くして、准中央委員に任命されました。彼は、愛知県党の副委員長であるとともに、名古屋中北地区委員長にもなりました。中北地区委員会は、名古屋市の中部・北部全体を当時1選挙区とする愛知1区の党組織で、52人の地区専従者を抱え、愛知県の半分の党勢力を持つ、巨大地区でした。それは、大都市の都道府県を除く、県委員会の党勢力規模を持っていました。彼の野心は、愛知1区での総選挙当選と、そのために党勢拡大で全党の先進県になり、宮本顕治から評価され、准中央委員から中央委員に昇進することでした。
彼は、アジテーターとして優れた弁舌を持ち、組織運営能力もありました。一方、彼の出世主義・成績主義は、その野望実現にかきたてられて、エスカレートしました。彼が党勢拡大推進のために採った手法が、北京機関で学んだ毛沢東式スローガン「一点突破全面拡大」「風呂敷の両端を引っ張り挙げて、全体の成績をアップさせる」でした。しかし、通常のやり方では、党中央への日報・週報・月報において、宮本顕治から誉められ、昇進できるだけの機関紙拡大の数字が挙がりません。そこで、彼が採用したのが、宮本私的分派・側近グループの偉大な先例をそのまま取り込んで、愛知県、および中北地区委員会において、箕浦私的分派を作って、その内の1ブロック(地区補助指導機関)に、先進的成績を、虚偽拡大報告を含めて、赤旗拡大申請をさせ、「一点突破全面拡大」することでした。それをやり抜くために、10数人の中北地区常任委員会内に、6人からなる「喫茶店グループ」と言われる最高指導者私的分派を形成したのです。これらの詳細は、別ファイルで書きました。
『日本共産党との裁判第1部』「喫茶店グループ」と私の21日間の監禁査問体験
『日本共産党との裁判第2部』「泥まみれの拡大という」異様な機関紙拡大運動
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これは、私(不破)の第2回目の宮本顕治氏批判である。第1回目の日本共産党の逆旋回テーマにたいして、今回は、最高指導者私的分派のテーマを報告する。彼は、なぜ、そのような私的分派を必要としたのだろうか。形成前史とは、彼が、宮本秘書団を中核とする最高指導者私的分派を完成させようとする動機が形成されていった出来事の解明とその経過のことである。それを6つの時期で検討する。
〔小目次〕
第1期、敗戦後の共産党再建と、宮本氏の党内地位
第2期、コミンフォルム批判と宮本氏の五全協前、スターリンへの屈服
第3期、3年5カ月間の点在党員組織隔離という報復措置
第4期、六全協前の志田との手打ち・取引きと六全協後のチャンス
第5期、第7回大会に向けた宮本氏の陰湿な分派活動と綱領部分不採択の挫折
第6期、第8回大会で綱領の満場一致採択をめざした宮本氏の策謀
1945年10月、アメリカ占領軍は、8月敗戦後もなお獄中にいた共産党幹部9人を解放した。同年12月、日本共産党は、第4回大会を開き、14人の中央委員・同候補を選出した(『日本共産党の七十年上』P.157、158)。府中の予防拘禁所にいた徳田球一・志賀義雄ら7人は、出獄と同時に、あらかじめ獄中で用意してあった「人民に訴う」を発表した。刑期が切れたのに出獄させないという予防拘禁はまったく違法であり、それにたいして徳田らは、抗議・抵抗運動を展開していた。獄中での用意とは、所内で、共産党細胞活動をすることが、比較的大目に見られるまでに、徳田・志賀らが、所内活動の権利を実質的に勝ちとっていたことによるものである。治安維持法違反だけでなく、スパイ査問事件による刑法有罪犯であった網走刑務所独房の宮本氏と、宮城刑務所の袴田里見は、予防拘禁所グループに出遅れた。
共産党再建に関する宮本・袴田2人の主張は、戦前の党内地位を唯一最高の基準としたものであった。「出獄して、党活動に参加した党員のうち党中央委員は、宮本顕治、袴田里見の二人しかいなかった」(『日本共産党の七十年上』P.158)から、彼らこそが、戦前唯一の、かつ、最後の中央委員として、党再建指導部の中心、トップに選ばれるべきとするものだった。徳田・志賀らは、宮本氏ら2人の主張を退け、徳田球一が書記長になった。徳田らの反論は、宮本・袴田は、スパイ査問事件で、小畑を殺害した罪による刑法有罪犯であり、しかも、彼らは、その事件によって、日本共産党を最終的に壊滅させた張本人ではないか、というものであった。ただし、古畑再鑑定内容は外傷性ショック死であり、判決内容は、小畑殺人罪ではなく、傷害致死罪だったが、徳田らは、そんな区別を無視した。宮本氏は、たんなる政治局員の一人にとどまった。もっとも、戦前の党中央委員といっても、宮本氏の中央委員期間は、特高に検挙されるまで、わずか8カ月間だけだった。
『スパイ査問問題意見書第1部2』暴行行為の存在、程度、性質の真相
立花隆『日本共産党の研究』関係『年表』の一部、宮本顕治の中央委員期間
再建共産党のトップになるつもりだった宮本氏は、徳田ら多数派に負け、その怒りを胸に秘めた。これらの経過は、宮本氏にとって、自分に絶対的忠誠を誓う私的分派グループを持ち、それによる党内権力を確立する決意を形成していく第1歩となった。
第2期、コミンフォルム批判と宮本氏の五全協前、スターリンへの屈服
宮本氏は、戦前から、熱烈なスターリン崇拝・讃美者だった。彼の非転向・獄中12年は、徳田・志賀の獄中18年と並んで、英雄的な行為だった。しかし、それは、他の一面で、彼が、コミンテルンの32年テーゼ理論とスターリン理論の正しさを信仰し、獄中において、それを“12年間冷凍保存”していたとも言える。そして、出獄後、一政治局員となって、スターリン讃美が、再び花開いた。
1950年1月6日、コミンフォルム批判が出された。その受け止めをめぐって、日本共産党は、徳田・野坂らの所感派と宮本・志賀らの国際派に分かれた。ソ連崩壊後、わが党がモスクワで調査したソ連共産党秘密資料によって、コミンフォルム批判の性格が、ようやく明らかになった。その時点に、スターリンは、同年6月25日の朝鮮戦争開戦・38度線突破先制攻撃を事実上決断・準備をしていた。野坂参三は、ソ連赤軍情報局工作員だった。コミンフォルム批判を、スターリンが直接執筆したことも判明している。それは、朝鮮戦争が始まったら、日本共産党を後方基地武力かく乱戦争行動・武装闘争路線に転換させるために、野坂参三に、わざわざ名指し批判形式で宛てた秘密指令という謀略的文書だった。宮本氏らの国際派とは、アメリカ占領下の平和革命路線から暴力革命・武装闘争路線への転換という国際的なスターリン命令を即座に受け入れ、即時実践せよとする主張に立っていた。それが、国際派と呼ばれる所以である。その性格は、スターリンの国際的謀略命令にたいする盲従派だった。
『武装闘争責任論の盲点』2派1グループの実態と性格、国際派の本質
1950年5月、彼は、『前衛5月号』でも、『共産党・労働者党情報局の「論評」の積極的意義』を発表し、コミンテルン批判=スターリン命令への即時・無条件服従を説いた。「われわれはとくに、同志スターリンに指導され、マルクス・レーニン・スターリン主義で完全に武装されているソ同盟共産党が、共産党情報局の加盟者であることを銘記しておく必要がある。このソ同盟にたいする国際共産主義者の態度は、つぎの同志毛沢東の言葉によく表現されている。『ソ同盟共産党はわれわれの最良の教師であり、われわれは教えを受けなくてはならぬ』。単に、共産党情報局は一つの友党的存在という以上に、ソ同盟共産党を先頭とする世界プロレタリアートの新しい結合であり、世界革命運動の最高の理論と豊富な実践が集約されている」(『日本共産党50年問題資料集1』新日本出版社、1957年、P.33)。
1950年8月31日、宮本氏ら国際派は、全国統一委員会を結成した。8月末、徳田・野坂、西沢らが北京機関を結成した。これにより、日本共産党の分裂は、組織的にも確定した。しかし、その直後から、国際派の志賀・神山は、ソ連・中国共産党が徳田・野坂支持と見て、全国統一委員会を離れた。宮本氏は、さらに孤立化した(『日本共産党の七十年・年表』P.133)(以下『年表』とする)。
1950年12月末、宮本氏のスターリン讃美言動の一つとして、高杉一郎著シベリア抑留記『極光のかげに』内容の批判発言がある。宮本百合子を訪問し、抑留記内容について話し合っていた著者にたいして、2階から降りてきた宮本氏は「あの本は偉大な政治家スターリンをけがすものだ」と言い、間をおいて「こんどだけは見のがしてやるが」とつけ加えた(『征きて還りし兵の記憶』岩波書店、1996年、P.188)。宮本氏のスターリン崇拝と、すべてのシベリア抑留記敵視言動は、表裏をなす一体のものだった。彼は、抑留者60万人・内死亡者6万人という日本国民の悲劇・悲しみに共感し、スターリンの犯罪を糾弾する気配も見せず、日本国民の利益の上に、なによりもまず、スターリン擁護を置いた。彼は、戦前の活動・獄中を通じて、国際共産党(コミンテルン)日本支部の絶対的義務としてのソ同盟擁護を、なによりも最優先させるという信念を抱いていた。その言動は、1950年でも、同じ信念が彼の母斑に刻印されていたことを証明した。
『シベリア抑留めぐる日本共産党問題(2)』宮本顕治のシベリア抑留記批判
1951年4月〜5月、スターリンは、モスクワに、中国共産党代表と北京機関徳田・野坂らを呼びつけ、日本共産党問題で数回の会議を開いた。その当時、朝鮮侵略戦争による朝鮮半島の早期武力統一というスターリン・毛沢東・金日成らの陰謀が、アメリカ軍の仁川上陸作戦によって挫折し、37・38度線で戦線が膠着していた。スターリンは、すでに1950年1月、日本共産党にたいして、後方基地武力かく乱戦争行動への決起を指令していた。この会議は、日本共産党が、いまだに50年分裂で、朝鮮戦争に参戦していないことに、スターリンがごうを煮やしたことによるものである。スターリンは、その会議において、3つを決定した。(1)宮本氏らの側を分派と裁定した。(2)スターリン執筆の武装闘争路線の51年綱領(文書)を押しつけた。(3)宮本氏らの全国統一委員会の立場を説明するために、派遣されていた袴田を恫喝し、彼に自己批判書を書かせた(『年表』P.136)。
袴田は、スターリンに屈服しただけでなく、モスクワに3年間とどめ置かれた間に、ソ連内通者の一人となり、宮本派から北京機関幹部に鞍替えした(不破哲三『日本共産党にたいする干渉と内通の記録・下』新日本出版社、1993年、P.363)。
志賀・神山・袴田が離脱したことにより、残る国際派中央委員は、35人中4人、11%となった。しかも、崇拝するスターリンから、「宮本は分派」という裁定が直接下されたことにより、宮本氏が国際派として生き延びる道は、完全に閉ざされた。選択肢は、スターリンに屈服し、主流派に復帰するか、それとも、スターリン裁定に反逆し、国内・国際的に除名されるかのいずれかしかなかった。スターリン讃美者宮本氏の孤立もここに極まった。もっとも、熱烈なスターリン指令盲従者で、武装闘争即時開始の強硬主張をした宮本氏が、当のスターリンから「宮本らは分派」と、裁定されるとは、何という歴史の皮肉であろうか。
1951年10月初旬、「スターリン裁定の分派」となった宮本氏の全国統一会議は、宮本氏と蔵原中央委員の2人だけとなった。この時期、反徳田5分派からなる国際派の中央委員7人→2人/35人・6%、専従30%→数%、党員10%→ほぼ0%となっていた。宮本・蔵原中央委員は、2人だけによる「党の団結のために」文書を発表し、全国統一会議を解散した(『年表』P.138)。ここに、国際派という少数分派は壊滅した。彼ら全員が、徳田・野坂・志田らの主流派に、自己批判書を提出して、復帰した。宮本氏が志田重男に提出した自己批判書内容は、「新綱領をみとめる」という8字だけだったと言われる。「新綱領」とは、スターリンが直接執筆した武装闘争路線内容の綱領であり、それによって、宮本氏は、スターリンへの屈服とともに、徳田・野坂・志田らの主流派にも屈服し、かつ、武装闘争路線を承認した。そして、日本共産党は、反徳田5分派がすべて主流派に自己批判・復帰したことにより、組織上で統一回復をした。
『宮本顕治の五全協前、スターリンへの屈服』宮本顕治屈服を証明する資料7篇
吉田四郎『50年分裂から六全協まで』宮本顕治のたった8字の自己批判書
同年10月16日、主流派は、五全協を開き、「51年文書(綱領)」と武装闘争の方針を採択した。宮本氏も復帰した統一回復日本共産党は、中核自衛隊、山村工作隊などの武装闘争の活動を展開した(『年表』P.138)。宮本氏が「武装闘争は徳田・野坂分派がやったことで、現在の日本共産党はなんの関係も、責任もない」とするのは、宮本氏が主流派に復帰している以上、歴史の偽造・歪曲でしかない。
宮本氏は、自分や国際派の主張が誤りとは思わなかった。しかし、崇拝するスターリンから、「宮本らは分派」と裁定され、それでも、あくまで抵抗し、国際・国内的な除名を選ぶか、それとも、涙を飲んで、屈辱的な自己批判書を提出するのかで悩んだ。他の反徳田4分派が続々と、スターリン・中国共産党=主流派に屈服する中で、彼が、柔道で鍛えられた二枚腰で、五全協直前まで、宮本分派「全国統一会議」の解散を引き伸ばしたのも、彼のくやしさと抵抗を示している。これは、彼が初めて、自己の身で直接体験した、外国共産党の誤った干渉だった。この体験は、後に、彼が、ソ連共産党・中国共産党・朝鮮労働党による日本共産党への激烈・陰湿な干渉とたたかい、自主独立路線を打ち立てる上で、潜在的な意識を形成した。
これは、1951年10月初旬、宮本氏の主流派への自己批判・復帰から、1955年3月15日宮本氏が、六全協4カ月前の段階において、中央指導部員に返り咲くまでの期間の問題である(『年表』P.146)。この間、国際派中央委員7人はどうなっていたか。袴田は、モスクワに3年間滞在中、ソ連共産党内通者になった後、中国に行き、北京機関幹部になっていた。志賀・春日庄次郎は、地下に潜行した。宮本・蔵原・神山茂夫・亀山幸三らは、地下に潜らなかった。宮本氏は、もっぱら、百合子全集の解説を執筆していた。蔵原中央委員は、浮世絵研究をした(亀山幸三『戦後日本共産党の二重帳簿』現代評論社、1978年、P.174)。
主流派の国内非合法ビューローのトップは、志田重男だった。彼は、宮本氏の「新綱領をみとめる」という自己批判書を受け取ったが、宮本氏に地下潜行を指令せず、何の任務も与えず、いかなる党組織にも所属させなかった。これは、いわゆる「点在党員組織隔離措置」である。これは、志田らによる宮本氏にたいする陰湿な報復だった。それは、3年5カ月間続いた。主流派内部では、「宮本顕治を除名すべき」という声が強かったから、この間、もし、宮本氏が、国際派のなんらかの分派活動を再開していたら、彼らは、宮本氏を直ちに除名したであろう。彼は、その報復に堪えて、ひたすら、百合子全集解説を執筆した。
『宮本顕治の五全協前、スターリンへの屈服』点在党員組織隔離という報復措置の性格
『日本共産党との裁判第4部』点在党員組織隔離という報復措置の性格
この完全孤立の3年5カ月間は、獄中12年間に続いて、宮本氏の強靭な忍耐力を鍛えただけでなく、徳田・野坂・志田ら主流派への逆報復心を育んだ。彼は、国際派の中央委員たちや専従・党員らが、いとも簡単に、宮本氏を裏切り、多数派に鞍替えしていくのかを、目の当たりにした。彼がそこから得た、歯ぎしりするような教訓は、いつの日にか、指導部に復活するチャンスが再来したら、宮本氏が絶対的中心となる逆の多数派を作ること、宮本氏を裏切ることがなく、彼個人のみに絶対的忠誠を誓う私的分派を形成する以外に、安定した党内権力を勝ち取ることができないということであった。
第4期、六全協前の志田との手打ち・取引きと六全協後のチャンス
1953年3月5日、スターリンが、74歳で死去した。スターリンは、朝鮮戦争の休戦会議を持ちつつ、その成立を拒否していた。
同年7月27日、スターリン死去を受けて、朝鮮休戦協定が成立した。これは、最初に侵略戦争を仕掛けた側のスターリン・毛沢東・金日成の事実上の敗北だった。
同年10月14日、徳田球一が、59歳で、北京において死去した(『年表』P.141、142)。
ソ連共産党・中国共産党・朝鮮労働党・日本共産党は、朝鮮侵略戦争の敗戦処理と、日本共産党の武装闘争という侵略戦争参戦路線の事後処理を迫られた。日本共産党は、火炎ビン闘争などで、国民から見放され、党員も大量離脱し、ほぼ壊滅状態に陥っていた。スースロフ・毛沢東は、完全従属下の日本共産党にたいして、六全協を開き、党を再建するよう指令した。ソ中両党は、アメリカ帝国主義との熱い戦争から、再び冷戦を世界的に構築し直す必要に迫られていた。日本経済は、朝鮮戦争特需によって、不死鳥のように甦り始めた。その結果、日本本土は、ソ連・中国の鼻先で、アメリカの不沈空母となった。そこから、日本における従属下共産党を、六全協で建て直すことは、ソ中両党にとっても、緊急課題となったからである。
1954年夏、ソ中両党は、北京機関の野坂・紺野・河田・宮本太郎・西沢隆二を、モスクワに呼びつけ、六全協の決議案を、ソ連主導で作成した。まだ、モスクワにいた袴田も部分的に参加した。
1955年1月、志田が、岩本巌を介して、宮本氏に会見を求め、宮本氏は、志田・西沢と会った。志田は、「極左冒険主義もやめる」「徳田への個人家父長制もやめる」「従来の党の弊風は全部改める」などとのべ、モスクワ指令の六全協計画を伝えた(『年表』P.144、145)。
これら一連の主流派行動は、ソ中両党の命令に基づく、日本国内における志田と宮本氏との手打ち・秘密な個人的取引きだった。志田らが取引き対象にしたのは、国際派中央委員全員ではなく、ソ中両党が名指しした宮本氏一人だけだった。取引きの秘密交換条件内容は、3つだった。(1)六全協で、宮本氏を指導部に復活させ、常任幹部会の責任者に遇する。ソ中両党の命令により、野坂参三を第1書記にするが、いずれ、宮本氏を書記長にする。(2)そのかわり、志田ら主流派の武装闘争方針の個人責任を問わず、「極左冒険主義」という抽象的な総括にとどめる。武装闘争の具体的内容は一切公表してはならない。(3)武装闘争におけるソ中両党との関係・指令内容を絶対に公表しない。さらに、「極左冒険主義」の誤りを認めるが、スターリンが執筆した武装闘争路線の「51年綱領は正しかった」とする。それは、スースロフの命令である。六全協の裏側は、ソ中両党、主流派と宮本氏一人との秘密契約に基づく手打ち式となった。
『武装闘争責任論の盲点』ソ中両党は戦後処理助監督に宮本顕治を起用
1955年3月、宮本氏は、中央指導部員となった。
同年7月27日、六全協で、宮本氏は常任幹部会の責任者になった。
同年8月17日、中国から帰国したばかりの野坂参三を、第1書記にした。
同年9月14日、常任幹部会は、伊藤律の除名を発表した(『年表』P.146、147)。
今日、伊藤律の除名理由には、なんの根拠もなく、そのほとんどがでっち上げであることが判明している。それは、朝鮮戦争敗戦の責任を一部幹部に転嫁して、他幹部の侵略戦争参戦責任を免罪にしようとする党内犯罪の性格を持つ。この時点、日本共産党、朝鮮労働党、ソ連共産党において、同種のでっち上げ粛清事件が発生している。(1)伊藤律除名と徳田球一の家父長的個人中心指導の誤り規定は、野坂・志田らの武装闘争責任から目を逸らし、北京幽閉者伊藤・病死者徳田2人にその全責任を転嫁する上で、絶好の材料となった。それは、(2)金日成が、朝鮮労働党内で、朝鮮侵略戦争敗北の責任を追求され、南労党出身の朴憲永ら12人を逮捕・銃殺して、彼らに責任転嫁したこと、(3)マレンコフ・フルシチョフらが、スターリン死去の3カ月後に、ベリヤを逮捕・銃殺して、スターリンの4000万人大粛清犯罪と朝鮮侵略戦争敗北の責任を、彼に転嫁した手口と同じ性格だった。六全協における伊藤律の除名発表は、常任幹部会責任者の地位と取引きをした宮本氏が、秘密交換条件どおりに同意したものである。
六全協後、宮本氏が日本共産党の実質的なトップに踊り出る上で、願ってもないような絶好のチャンスが訪れた。
1956年1月、志田重男常任幹部会員・書記局員が突然、失踪した。六全協後、志田は宮本氏と2人で、全国の党会議を行脚していた。その諸会議において、武装闘争の誤りにたいする責任追求の大あらしが巻き起こっていた。志田は、その批判にたいして、旧指導部を代表し、形式的に自己批判し、あたまを下げる役割を負わされていた。宮本氏は、点在党員組織隔離措置により、武装闘争の直接責任がないので、反対に開き直って、秘密取引き条件どおりに、批判を押さえにかかった。彼は、責任追求と批判にたいして、「うしろむきの態度だ」とか「自由主義的いきすぎ」とか「打撃主義的あやまり」と逆批判した(小山弘健『戦後日本共産党史』P.194)。
旧地下指導部にたいする党内からの強烈な批判は、彼らの地下生活態度や財政疑惑に発展した。とくに、志田・椎野の女性関係や待合「お竹さん」問題に追求が向けられた。志田は、そこで失踪した。宮本氏らは、その原因や経過を公表するのをしぶった。
1956年9月15日、党員の経営する雑誌『真相』が、特別記事「志田重男はなぜ消えたか」を発表した。それは、志田の料亭豪遊ぶり、女や酒に数年間で数千万円を使った腐敗を暴露した。党中央で、志田除名を主張したのは、春日庄次郎だけで、宮本氏を含む全員が除名に反対した。春日正一統制委員会議長は、雑誌『真相』内党員にたいして、「党内問題を党外にもちだした」「明白な規律違反」と非難した(小山弘健『同』P.196)。
結果として、徳田球一の正統後継者としての志田・椎野は、政治的に葬られた。徳田は死去し、伊藤律は除名した。残るは、ソ連工作員野坂参三と宮本氏だけとなった。この絶好のチャンスをものにできないようでは、前衛党最高指導者になりえない。宮本氏は、野坂第1書記を、徳田球一がしたのと同じように、祭りの神輿に棚上げし、紳士的風貌とともに、「愛される共産党」アイドルとして、利用しつつ、党内の実権を宮本氏一人が完全掌握することを決断した。もし、宮本氏が、野坂をソ連スパイと疑ったとしても、野坂はソ連共産党スターリン・スースロフが直接送り込んでいるからには、下手に手を付ければ、自分が大やけどを負い、逆に排除される危険が高かったであろう。野坂のアイドル的・棚上げ利用こそ、宮本氏の党内権力掌握・維持システムにとって、もっとも無難で、かつ、ソ中両党と事を荒立てない安全な選択肢だった。
第5期、第7回大会に向けた宮本氏の陰湿な分派活動と綱領部分不採択の挫折
ところが、宮本氏が全権力を掌握するには、まださまざまな障害が立ち塞がった。第7回大会開催と「党章」採択問題である。「党章」とは、中国共産党が綱領・規約を一つにしているのを模倣したもので、51年綱領を廃棄し、綱領全面改定と規約全面改定とを一本化したものであった。
六全協後、国際派幹部は息を吹き返した。綱領改定案策定をめぐる論争が巻き起こった。宮本・蔵原・亀山らと志賀、神山、春日(庄)らとは意見が対立した。袴田は、まだ北京機関に残っていた。一方、旧主流派は、五全協前、中央委員の80%、専従の70%、党員の90%以上を擁していたが、五全協後は、宮本氏のスターリンへの屈服・主流派への復帰を最後として、ほぼすべてが100%近くとなっていた。しかし、徳田・伊藤・志田・椎野がいなくなったことにより、四分五裂した。そこは、国際派幹部たちにとって、草刈り場となった。ただし、主流派幹部たちも、その将来性で選択して、約60%が、実権派の宮本氏に、風見鶏式になだれ込んだ。
なかでも、宮本氏の多数派形成のための分派活動の陰湿さ、苛烈さは抜きん出ていた。彼は、常任幹部会責任者の地位と幹部配置権限を最大限に利用し、宮本氏になびく者を抜擢し、武装闘争批判にこだわる幹部を徹底的に排斥した。彼自身だけの分派活動だけでなく、彼の下になびいてきた旧主流派幹部にも指令して、「宮本部屋」拡大運動を展開した。
ここに、一つの証言がある。これは、第7回大会当時、党本部細胞キャップだった増山太助が書いた。「戦後、多田留治は、五、六回の党大会で中央委員候補に選出され、私が関西に派遣されたときには兵庫県委員・関西地方委員として大車輪の活躍ぶりであった。そして、志田重男を尊敬する有力な側近といわれていた。六全協後、久し振りに会った多田は相変わらず大声を発して、宮本さんと志田君が組めば鬼に金棒や、とはしゃいでいたが、志田重男が失踪するとこんどは、宮本を中心に党をつくり直すのだ、とひとりで張り切っていた。そして、多田は原田長司を誘って私を呼び出し『ぜひ宮本部屋に入ってくれ』と口説くので、私が『相撲部屋みたいなものをつくる気か』と言うと、二人は『宮本を取りまく組織が必要なのだ。宮顕は監視していないと何をしでかすかわからない』と、亀山幸三と同じようなことを言っていた。七回大会が近づくと、私は本部細胞のキャップに選ばれ、大会の代議員選挙に専念しなければならなくなったが、地方組織に足を持たない本部員は、なんとしても代議員にならなければ自分の首があぶない、と思ったのであろうか、選挙運動は陰湿な熾烈さをきわめ、多田も関西と中央のあいだを往復して忙しそうに飛び回っていた」(増山太助『戦後期左翼人士群像』つげ書房新社、P.192)。
「党章」草案については、その綱領部分をめぐる対立が中心だった。宮本氏ら中央主流が提起した内容は、61年綱領内容と同じで、日本の現状規定を「高度に発達した資本主義国であるが、アメリカへの事実上の従属国」とし、革命路線を「反帝反独占の民主主義革命から社会主義革命」とする二段階革命としていた。反対派の路線は、「アメリカへの従属状態はあるが、従属国規定はその過大評価の誤りで、日本独占資本は自立している」とし、そこから「社会主義革命」路線を主張した。中央委員会の討議は、最後まで紛糾し、中央委員の25%が、宮本綱領路線に反対した。第7回大会の代議員も40%が反対していたために、「党章」を、綱領部分と規約部分に分離し、規約のみ採択し、綱領採択を第8回大会にまで持ち越した。
宮本氏は、挫折した。彼は、今回も、絶対的多数派になり得ない悲哀を味わった。そこから、彼に絶対的忠誠を誓う私的分派の必要性を痛感した。その後、彼は、「宮本部屋」拡大運動に、一段と拍車をかけた。
第6期、第8回大会で綱領の満場一致採択をめざした宮本氏の策謀
宮本氏は、「党章」採択めざす強烈な分派活動を展開したのにもかかわらず、中央委員25%反対と党大会代議員40%反対という結果に衝撃を受けた。しかし、彼は、戦後、再三にわたって体験してきた極限的な孤立状態から見て、そんなことで挫けなかった。ただちに、第8回大会に向けて、「党章」綱領部分の内容を変えることなく、そのまま満場一致採択に持ち込むための大分派活動を、さらに強化し、展開した。
そのための方針は、反対派中央委員と代議員を、あらゆる口実・手口を駆使して、党内外排除し、そのメンバーを賛成派に総入れ替えすることだった。宮本氏が遂行した党外排除とは、「宮本部屋」メンバーによる密告システムを作り上げ、反対派が分派活動をしたとする規律違反をでっち上げ、除名、または除籍し、共産党そのものから追放する手口である。党内排除とは、規律違反レッテルによる専従解任措置、党内部署の任務変更をして、合法的に、中央委員の地位や代議員選出資格を剥奪する手口である。とにかく、緊急の課題は、第8回大会招集前までに、反対中央委員と反対代議員を一人残らず、党内外排除し、満場一致党大会を演出することだった。この作業は、日本共産党始まって以来の、大掛かりな、最高指導者が組織した党中央主流による大分派運動だった。この経過の詳細は、今日、かなり明らかになっている。
小山弘健『61年綱領採択めぐる宮本顕治の策謀』宮本顕治の大分派活動
小山弘健『第8回大会・61年綱領の虚像と実像』宮本顕治の大分派活動
平尾要『61年綱領決定時の「アカハタ」編集局員粛清』宮本顕治の大分派活動の一例
宮本氏は、この満場一致大会の演出・監督をする中で、彼に絶対的忠誠を誓い、彼の意図をくんで、宮本擁護のために無条件で奮闘する側近グループの質の低さと量の少なさを痛感した。第7回大会で書記長になってからは、宮本秘書が付いた。しかし、彼らは、若く、まだ経験不足だった。六全協後、旧主流派から宮本氏に鞍替えした幹部たちには、心から信用できなかった。なぜなら、状況の変化によって、彼から離れたり、裏切ったりした幹部は、無数にいたからである。戦前のスパイ査問事件の同志袴田さえも、スターリンにいち早く屈服して、主流派に寝返ったからである。
結局、心から信用できるのは、宮本氏に秘書として密着する中で育てる、子飼いの宮本秘書団だけとなった。それを、ねばりづよく育成・拡大し、自分の最高指導者私的分派・側近グループを形成し、彼らを一人また一人と、中央委員、書記局員、幹部会員、常任幹部会員に送り込み、党内の絶対的権力を掌握する道こそ、自己の路線・政策を自由自在に遂行できる最良の方策であることを悟った。そして、旧側近グループを使いつつ、漸次、宮本秘書団を中核とするように入れ替えて、最高指導者私的分派の質的量的強化を図った。
戦後、彼が味わった、厳しい孤立体験から見れば、子飼いの宮本秘書団以外は信頼できないという彼の心情を分からないでもない。秘書以外の幹部にたいする猜疑心のレベルは、下記にのべるように、No.2・3であった私(不破)たち兄弟への査問と「自己批判書」公表事件において、象徴的に現れている。この猜疑心の異常さは、スターリンのそれに匹敵するが、彼の性格からくるものとも言える。徳田球一には、いろいろ問題点や誤りがあるが、彼は、親分肌で、親切さもあって、慕われ、大衆的人気があった。それにたいして、宮本氏は、理論的に優れているが、冷たさと人間的な暗さが表情に出た。そして、慕われたり、人気が出るタイプでなく、むしろ、まわりに威圧感を与えた。例えば、彼が、参議院議員だったとき、国会の廊下を歩く様子は、あたりを睥睨しつつ、自分は偉大な人物だと誇示するような姿勢だったことは、共産党国会議員秘書内だけでなく、他党内でも噂になるほど、有名な話だった。私(不破)にたいする不当・不条理な査問という直接体験からしても、私は、彼にたいする怒りとともに、No.2・3さえも信用できないという人間の哀れさをも感ずる。
2、宮本秘書団を中核とする宮本私的分派の「満月の歌」
1994年、第20回大会
〔小目次〕
(表1) 宮本私的分派・側近グループリスト
(表2) 常任幹部会内の宮本秘書団・側近グループリスト
(表3) 第20回大会における4つの誤り
これについては、第1回〔秘密報告〕で分析したので、簡潔にする。私的分派リスト(表1)を再報告する。ただし、(表2)は、新しいデータである。
これは、一種の“党中央内・党”という宮本私的分派である。赤旗記者をふくむ党本部専従800人、大衆団体の党中央グループ内で「ごますり」「茶坊主」といえば、そのリストが想い浮かぶほどの状況になっていた。それは、徳田球一が自ら作った最高指導者私的分派=家父長的個人中心指導と同質のものである。徳田体制、宮本体制の両者とも、その態様は、たんなる個人中心指導、個人独裁とは異なり、それと私的分派が結合したものである。
(表1) 宮本私的分派・側近グループリスト
名前 |
出身 |
14回大会党内地位 1977 |
20回大会党内地位 1994 |
任務経歴 |
諏訪茂 |
宮本秘書 |
常任幹部会員 |
/ |
1972年、宮本捏造による民青新日和見主義分派査問委員、15回大会常任幹部会員。死去
|
宮本忠人 |
宮本秘書 |
常任幹部会員 |
常任幹部会員 |
書記局次長、機関紙局長。立花隆・袴田里見問題対策での「スパイ査問問題第1委員会」10人のトップ、反論大キャンペーンを組織・指導、兵本達吉もその委員メンバーだったと証言 |
小林栄三 |
宮本秘書 |
常任幹部会員(中央委員から2段階特進) |
常任幹部会員 |
文教部副部長、袴田政治的殺人「小林論文」執筆と粛清担当、教育局長、法規対策部長、思想建設局長、書記局員、山形県猪口県委員の粛清担当、『日本の暗黒』連載中断での下里正樹赤旗記者解雇・除名の粛清担当。2001年死去 |
小島優 |
宮本秘書 |
幹部会委員 |
常任幹部会員 |
書記局員、日常活動局長、統制委員会責任者、長期に赤旗編集局・拡大部門担当
|
白石芳郎 |
宮本秘書 |
幹部会委員 |
常任幹部会員 |
書記局員、選挙・自治体局長、文化・知識人委員会責任者
|
宇野三郎 |
宮本国会秘書(宮本参議院議員時期) |
中央委員 |
常任幹部会員 |
社会科学研究所長・党史資料室責任者、『党史』編纂責任者、宮本意向の理論化担当、党批判者・反党分子への反論部門担当、『民主文学4月号』問題での宮本意向を受けた民主文学同盟幹部粛清担当
|
金子逸 |
宮本秘書 |
/ |
常任幹部会員 |
宮本ボディガードで身辺防衛担当、書記局次長
|
佐々木陸海 |
宮本秘書、宮本議長室室長 |
/ |
常任幹部会員 |
国際委員会責任者、衆議院議員、書記局次長 |
上田均 |
宮本秘書 |
幹部会委員 |
常任幹部会員 |
財務・業務局長 |
有馬治雄 |
宮本秘書、宮本議長室室長 |
/ |
常任幹部会員 |
書記局次長、選対局次長 |
有働正治 |
宮本秘書 |
/ |
幹部会委員 |
選対局次長、『前衛』編集長、参議院議員 |
吉岡吉典 |
宮本秘書 |
准中央委員 |
幹部会委員 |
赤旗編集局長、政策委員長、参議院議員団長 |
1977年の第14回大会とは、袴田副委員長・常任幹部会員の全役職剥奪をした大会である。宮本氏は、袴田粛清担当で大活躍し、私的分派ボスの栄光と権威を守りぬいた小林中央委員・元宮本秘書の功績を高く評価し、常任幹部会員へと2段階特進させた。1994年の20回大会とは、宮本引退前の大会である。宮本秘書出身者のかなりを常任幹部会員に抜擢し、側近グループ・私的分派を土台とする宮本個人独裁は絶頂期に達し、完成していた。このメンバー以外にも、宮本側近グループと党本部内で言われている幹部が数人いる。いずれも宮本氏に大抜擢され、中央委員、幹部会員、常任幹部会員となり、党中枢部門を担当し、宮本氏の周辺を固めていた。
分類 |
リスト 宮本秘書団と側近グループで、13人/22人 |
宮本秘書団10人 |
宮本顕治、宮本忠人、小林栄三、小島優、白石芳郎、宇野三郎、金子逸、佐々木陸海、上田均、有馬治雄 |
側近グループ3人 |
金子満広、河邑重光、聴濤弘 |
それ以外9人 |
不破哲三、志位和夫、立木洋、上田耕一郎、荒掘広、市川正一、市田忠義、新原昭治、浜野忠夫 |
これは、第20回大会の常任幹部会員22人の分類リストである。側近グループ3人は、宮本秘書出身でない。それ以外の9人の中に、側近グループに入れるかどうか、判断が難しい常任幹部会員もいる。この党大会で、宮本秘書団と側近グループは、常任幹部会22人中13人となり、その59%を占めた。
この〔第2回・秘密報告〕を聴く人は、宮本秘書団・側近グループが59%を占める常任幹部会の会議が、どう運営されるかを、イメージできるだろうか。宮本氏は85歳になっていた。当然、私(不破)が、基本報告をし、諸会議の司会をした。第20回大会決議草案の討論において、私が作成した報告にたいする意見は、当初、活発に出た。その中で、宮本氏は、〔第1回・秘密報告〕で分析したように、4つのテーマについて、修正・挿入意見をのべ、それらをすべて草案や規約に取り込むよう、強硬に主張した。それらは、すべて根本的な誤り、または時代錯誤的な内容だった。草案作成・報告者の私は、それにたいして、一応批判的意見をのべたが、宮本氏から一蹴され、意見は否定された。上田耕一郎同志も、宮本修正・挿入意見にたいして、若干の批判を言ったが、同じく無視された。すると、宮本秘書団と側近グループの12人は、宮本意見の全面支持を表明するか、沈黙した。むしろ、彼らの一部は、虎の威を借りる狐のように、私たち兄弟に、宮本意見をそっくりそのまま延引して、批判を浴びせた。上田・不破以外のその他7人は、日和見の見物客に廻った。
その雰囲気は、12年前、1982年の上田・不破査問において、宮本氏を事実上の査問委員長とした常任幹部会員が構成する査問委員会の様子と同じになった。あの不条理な査問内容とやり方への屈辱感と怒りを、私(不破)たち兄弟は、一生忘れないであろう。下記でものべるが、その時、私(不破)は、怒りを胸に秘めて、宮本氏と宮本秘書団・側近グループにたいし、「その日が来るまで」、面従腹背・二枚舌の姿勢を採ることを決断したのである。彼らが私的分派の「満月の歌」を、いくら謳歌しようとも、85歳の宮本氏は、すでに体調を崩しつつあった。彼らに報復し、宮本議長を引退に追い込み、宮本秘書団を中核とする最高指導者私的分派を解体できるチャンスが到来するのは、そんなに遠い未来ではなかった。というのも、宮本氏の健康状態・病状に関する代々木病院からの報告を、私は幹部会委員長の立場から、いつも目にして、チェックしていたからでもある。現に、この3年後の1997年、第21回大会を前にして、宮本氏は、ついに脳梗塞で倒れ、政治活動が不能になった。「粛清者は、粛清される」―これは、スターリン式党運営の国際的法則である。
(表3) 第20回大会における4つの誤り
テーマ |
内容 |
1、社会主義国家規定 |
綱領部分改定で、従来の社会主義国規定を、(1)社会主義をめざす国ぐにと、(2)社会主義をめざす道にふみだした国ぐにと2つに腑分けし、性格をすりかえた。 |
2、ソ連崩壊による冷戦崩壊を否定 |
冷戦構造の一方のソ連が崩壊した以上、米ソ冷戦も消滅した。それにたいし、「冷戦は崩壊していない」と大キャンペーンを行った。 |
3、丸山眞男批判キャンペーン |
丸山真男批判大キャンペーンを、「前衛」「赤旗」「党大会決定」「改定綱領」「日本共産党の七十年」等で13回も行った。 |
4、規約改定 |
党規約改定で、(旧)規約前文(三)に「誹謗、中傷に類するものは党内討議に無縁である」とする文言を入れ、それにより、宮本引退要求・意見を抑圧・排除した。 |
『不破哲三の宮本顕治批判』〔秘密報告〕第20回大会における4つの誤り内容
この内容は、第1回〔秘密報告〕でのべたので、項目だけの(表3)にした。「満月の歌」とは、いうまでもなく、絶対的権力を確立した時点における、最高権力者の満足と傲慢さの心情を表す歌である。その傲慢さは、3つの腐敗を絶対的に生産する。
第一、最高権力者は、自分の私的分派・側近グループを拡大・強化するだけでなく、「ごますり」「茶坊主」に堕落したスタッフの報告・密告しか受け付けなくなる。反面の逆効果として、彼らの「満月の歌」権勢は、そのため組織全体から浮き上がり、他者・下部のやる気を萎えさせる。それらが、実質的な組織分裂状態を内部に生産していることに、彼は気付かない。
第二、最高権力者の情勢判断能力や思考力が、自己満足と傲慢さによって、歪み、低下し、政治路線や政策上の誤りを次々と引き起こす。内外情勢の激変が起きると、思考停止状態に陥り、過去の路線・政策に固執し、その時代錯誤性に目を閉ざす。自分への批判者にたいする大々的、かつ、異常な反批判キャンペーンを展開する。最高権力者は、ついに、自らを大異端審問官の地位に昇華させる。それは、あらゆる理論・路線・政策の正否・適否に関する解釈権を、最高権力者が一人占めにすることである。
第三、彼にたいする批判・不満や異論を、ことごとく敵視し、自分を追い落とす策謀をしていないかと、病的な猜疑心を拡大再生産する。そして、彼らをすべて、査問し、または合法・非合法的に党内外排斥する。その過程において、規約を無視し、最高権力者が行う反党的規律違反を犯す。この性格は、最高権力者による人治主義的な党内犯罪と規定できる。一方、自らの陰湿な犯罪的手法は、かえって、反党分子たち、最高権力者にたいする確信犯的な批判者たちや、その支持者たちを大量に生み出す。
3、絶対的権力の絶対的腐敗現象としての党内犯罪歴
〔小目次〕
国家権力を握った共産党における絶対的権力は、スターリンの例を引くまでもなく、その絶対的腐敗現象の一つとして、さまざまな党内犯罪を引き起こす。それは、資本主義国共産党においても、同じである。宮本氏は、1994年の第20回大会、85歳になって、「満月の歌」を詠んだ。しかし、彼の絶対的権力が基本的に確立した時期は、もっと早い。それは、1958年第7回大会における25%の反対中央委員、40%の反対代議員を、ことごとく党内外排除することに成功し、彼らを賛成派中央委員・代議員に総入れ替えする策謀において画期的な成果を収め、1961年第8回大会で、宮本綱領を満場一致採択させた時点である。それ以降、彼は、第20回大会までは、33年間も、「満月の歌」時代を謳歌した。その間、宮本秘書になった者は、数十人にのぼる。その勤務状態から、党派性(=宮本氏への盲従度)が高く、彼を絶対に裏切らないと勤務評定した秘書を、彼は、次々と大抜擢した。
弁明するが、宮本氏は、私(不破)たち兄弟を、1964年に大抜擢したが、私たちは宮本秘書出身ではない。彼は、私たちの理論幹部としての能力を高く評価して、『戦後革命論争史』を絶版にすることを条件として、取引を申し入れたのである。私たち兄弟は、その秘密交換条件を呑んで、共産党中央理論幹部専従となった。
もちろん、それ以後、ソ中両党の干渉により、ソ連共産党系分派・中国共産党系分派が現れた。しかし。第7回大会から第8回大会にいたる大分派活動指導者である、偉大な粛清者宮本氏は、見事に彼ら全員を党外排除し、かつ、ソ中両党と絶縁して、自主独立路線を確立した。同じ時期、ルーマニアのチャウシェスクは、ソ連共産党にたいする自主独立路線を打ち出し、1968年の五カ国軍戦車のチェコ侵略に反対した。他方、国内にたいしては、同族支配と秘密政治警察セクリターテによって、国民抑圧と党内異端弾圧という二面的な国内外路線を強化していた(イオン・パチェパ=アメリカに亡命したセクリターテの最高指導者『赤い王朝』恒文社、1993年)。対外的な自主独立路線とは、国際的な民主主義関係の要求である。それと党内の民主主義抑圧・破壊路線は、両立しうることを、チャウシェスクと宮本氏は、現実政治で証明した。宮本氏が、チャウシェスクに共鳴し、二面的路線を遂行し合う唯一の同志として、2回もルーマニア訪問をし、チャウシェスクへの絶賛演説をしたのは、そこに理由の一因がある。
ちなみに、ルーマニア訪問に関する宮本氏のウソ問題がある。チャウシェスクが銃殺され、ルーマニア社会主義が崩壊したとき、党内外から、宮本氏は訪問当時からチャウシェスクの犯罪を知っていたのではないかという、強烈な批判が出た。彼は、「訪問は正しかった」「当時は、(秘密政治警察の実態や犯罪など)知らなかった」と強弁した。しかし、当時ルーマニアにいた巌名康得赤旗特派員が、宮本氏は特派員報告で、事前に十分知っていたと、内部告発したので、宮本氏のウソがばれた。しかし、宮本氏は、巌名氏を報復処分にする一方で、ウソであることを否定し続けた。古今東西、政治家がウソをつくのは、常識であろう。20世紀史上、最大のウソの一つは、スターリン・毛沢東・金日成による「アメリカ・李承晩が先に38度線を突破して、北朝鮮に侵略戦争を仕掛けた」とするウソである。彼ら3人は、死ぬまで、そのウソをつき通した。それと比べれば、宮本氏のウソのレベルは、たかがしれている。
当時、ルーマニア問題に関するウソを大問題にしたのは、日本の反共風土に原因がある。宮本氏のウソは、日本共産党最高指導者として、許されてしかるべきレベルでなかろうか。私(不破)は、その面では、彼のウソに同情する。というのも、チャウシェスク銃殺の1989年当時、東欧革命で9カ国の社会主義国家・マルクス主義前衛党がいっせい崩壊しつつあった。日本共産党も、ドミノ的崩壊に巻きこまれる危険があった。党内外の動揺が激しく、宮本氏は、思わず「腰を抜かす党員がいる」と気合を入れる発言をした。その発言にたいして、マスコミは、党員蔑視だと、またまた非難を浴びせた。日本共産党が崩壊するよりも、ウソをついて、党内の動揺を治める道を、私だって選択する。
マルクス主義前衛党にとって、党の団結擁護と党防衛こそが、最優先課題であって、その目的のためには、ある程度のウソや犯罪という手段を採ることは、最高権力者のみに許されている。最高指導者となった現在の私(不破)にも、許されてしかるべきである。それは、レーニンが打ち立てた、革命権力の維持強化目的のためには、反革命分子の大量殺人や他のあらゆる秘密政治警察チェーカー活動という手段が許されるという、目的と手段との関係に関する革命倫理である。
宮本氏と宮本秘書団・側近グループが犯した党内犯罪は、いろいろあるが、その内、解明されている、重大な6つの犯罪例のみ挙げる。未解明・未公表のケースは、もっと多い。もちろん、私(不破)も、さまざまな形とレベルで、これらの党内犯罪には関与しているので、責任の一端を負うことを否定しない。
1、1968年、スパイ査問事件めぐる袴田・逸見教授の政治的殺人事件
スパイ査問事件を含む立花隆『日本共産党の研究』を、マスコミが好奇心と共産党攻撃の意図で大々的に取り上げた。共産党も、『犬は吠えても歴史は進む』とする大反撃キャンペーンを行った。その反撃は、基本面で正しかったが、袴田除名問題、逸見教授問題では、宮本氏は重大な誤りを犯した。
『スパイ査問問題意見書』 『第1部2』暴行行為の存在、程度、性質の真相
高橋彦博『逸見重雄教授と「沈黙」』 (宮地添付文)逸見教授政治的殺人事件
立花隆『日本共産党の研究』関係『年表』一部、加藤哲郎『書評』
れんだいこ『宮本顕治論・スパイ査問事件』
共産党『袴田自己批判・批判』3論文と党史
2、1968年、中間機関民主化運動の抑圧・粛清事件
これは、愛知県指導改善問題である。この時期、宮本氏は、一面的・成績主義的な機関紙拡大運動と、その「拡大月間」スタイルを全党的に展開し、拡大成果について、日報・週報・月報システムで、中間機関や全細胞を点検・追及していた。それは、全国の中間機関や細胞にさまざまな歪みを発生させた。その中で、犯罪的な誤りが表面化したのが、愛知県党問題と熊本県党問題だった。愛知県党の指導改善のために、党中央が4人を派遣したのは正しかった。その誤りの総括過程において、愛知県常任委員会の誤りと責任追求が、県内全地区委員会と細胞から噴出した。ついには、その批判の矛先が、党中央の一面的拡大指導の責任追求にまで発展した。
宮本氏は、一転して、愛知県党における党中央批判の傾向を弾圧し始めた。精算主義レッテルを貼って、指導改善運動にストップをかけるとともに、いつもの手口で、党中央批判の先鋒となっている県委員1人と地区常任委員2人を粛清した。なぜなら、中間機関による、党中央批判を放任すれば、第7回大会前後の党内状況に逆戻りし、党分裂の危機を生み出すからである。彼は、「党中央批判をすることは、一般党員には許されるが、共産党専従4000人には許されない」という、幹部会による秘密の鉄則を創作していた。愛知県の3人の専従は、宮本氏が創作した日本共産党のタブーに触れたため、党内外排除をされた。しかし、そのやり方は、上からの一方的な弾圧と排除であり、宮本氏による党内犯罪の一つである。
日本共産党との裁判
第1部『私の21日間の“監禁”「査問」体験』愛知県5月問題
第2部『「拡大月間」システムとその歪み』愛知県党の泥まみれの拡大
第3部『宮本書記長の党内犯罪・中間機関民主化運動鎮圧、粛清』
第4部『「第三の男」への報復』警告処分・専従解任・点在党員組織隔離
第5部1『宮本・上田の党内犯罪、「党大会上訴」無審査・無採決・30秒却下』
3、1972年、新日和見主義分派事件
当時、民青は、20万人の規模となっていた。宮本氏は、同盟員年齢・民青幹部年齢の引き下げ方針を、民青中央委員会や民青内共産党グループにたいする事前相談抜きで決定し、民青に通告した。民青中央委員会は、突然の一方的な共産党決定にたいして、抗議し、反対した。共産党の指導を受ける大衆団体となっていても、彼らは、その方針内容と通告のやり方に納得しなかった。私(不破)も、方針の説得に赴いたが、彼らは、異論・批判をのべ、会議は、紛糾した。共産党中央と民青中央との関係で、共産党にたいするこんな反対・批判が出たのは初めてだった。
民青は、新左翼系学生とのゲバルト闘争の経験を積み、ゲバ民(=ヘルメット、ゲバ棒で武装したゲバルト民青)とも呼ばれていた。1972年、基地つき・核つき沖縄返還問題をめぐって、大衆運動が盛り上がり、20万民青も大きな役割を果しつつあった。その過程から、民青中央幹部たちは、自信を強め、共産党中央からの自立指向も現れた。宮本氏は、フルシチョフのスターリン批判後も、その思想傾向や党運営スタイルの面において、なお典型的なスターリン主義者だった。彼は、共産党系大衆団体にたいして、スターリンのベルト理論と同じ思想を持っていた。民青、民主主義文学同盟、平和委員会、原水協などは、共産党の路線・方針を守り、大衆団体内共産党グループは、それをベルトとして、大衆の中に共産党中央方針を貫徹させる役割を果すべきという思想である。党中央から自立しようとしたり、党中央の路線・方針と異なる運動をすることは、最大のタブーであった。
新日和見主義分派事件とは、その宮本・スターリン式タブーに触れた民青幹部にたいする粛清事件である。しかも、粛清規模は、600人を査問し、100人を党員権1年間停止処分・民青役員機関罷免という、日本共産党史上最大の粛清・冤罪犯罪となった。
『新日和見主義「分派」事件』その性格と「赤旗」記事
川上徹『同時代社通信』著書『査問』全文掲載
加藤哲郎『査問の背景』川上徹『査問』ちくま文庫版「解説」
高橋彦博『川上徹著「査問」の合評会』
れんだいこ『新日和見主義事件解析』
4、1978年〜85年、日本共産党の逆旋回と4連続粛清事件
これらの内容は、〔第1回・秘密報告〕で詳細にのべたので、項目のみ挙げる。これらの4連続粛清事件を強行しなければ、宮本氏は、ユーロコミュニズムと絶縁して、日本共産党を逆旋回させるクーデターに成功しなかったであろう。
1、ネオ・マルクス主義者粛清事件
2、民主主義文学同盟「4月号」問題事件
3、平和委員会・原水協の一大粛清事件
4、東大院生支部の宮本勇退決議案問題粛清事件
『不破哲三の宮本顕治批判』〔秘密報告〕日本共産党の逆旋回と4連続粛清事件
3、宮本秘書団私的分派メンバーの個別的犯罪責任の検討
(表1)のように、宮本氏が構築した最高指導者私的分派において、宮本秘書団が常任幹部会員・幹部会員になったリストは、1977年14第回大会で6人→1994年第20回大会で10人と拡張した。(表2)は、第20回大会の常任幹部会において、宮本秘書団を中核とする宮本私的分派・側近グループが、22人中、13人・59%を占め、「満月の歌」絶頂期を迎えたというデータである。
宮本氏の上記6つの党内犯罪において、その私的分派メンバーの個別的犯罪責任が存在するのかどうかという問題がある。その前に、最高指導者私的分派内での、宮本氏と宮本秘書たちとの上下関係の性質を検討する。宮本秘書は、宮本氏が直接抜擢するか、書記局が推薦・決定する。彼らは、宮本秘書室内で、宮本秘書室長の指導の下に勤務する。秘書室内会議があり、宮本氏も随時出席し、指導・点検する。状況によっては、宮本宅でも会議を開く。その懇親会では、酒も飲む。そうこうする内に、公私の区別がなくなり、親密な、かつ、宮本信奉・絶対擁護の雰囲気が醸成される。
党内外にいる宮本批判者・異論者は、宮本氏にとってだけでなく、宮本秘書団にとっても共通の敵、反批判・排除すべき異端となる。批判・異論の党内外情報を積極的に入手し、秘書室長や宮本氏本人に直接報告するようになる。宮本氏が、それを喜び、鼓舞激励するにつれて、宮本秘書団は、党内密告者集団に変質していった。絶対的権力者の支援・奨励を得ているので、彼らの態度は、目に見えて、横柄になる。そこから、党本部800人の専従・赤旗記者・国会議員秘書たちは、彼らを「ごますり」「茶坊主」と呼び、彼らを裏で操り、表向きはきれいごとを言う宮本氏に「ずる顕(=ずるがしこい宮顕)」というあだ名をつけた。党外では、たんに「宮顕」と言われているが、党本部内では「ずる顕」が一般的な陰口である。
宮本氏は、1961年第8回大会以降、事実上の絶対的権力を掌握し、33年間にわたり、絶えずそれを拡大強化してきた。子飼いの秘書しか信頼できないというのは、宮本氏の度重なる、極度な孤立体験によって刻印されたトラウマ(心的外傷)とも診断できよう。その点では、哀れな最高権力者ともいえる。それだけに、彼は、私的分派内でも、冷たい、無条件の絶対服従を要求した。そして、秘書たちの絶対的忠誠度を、指令任務の遂行状況、彼にたいする言動、密告情報の質量で判定した。結果として、心から信用できない、言動で忠誠心を表現しない秘書を、どんどん解任した。その反面、宮本指令を忠実にこなし、功績を挙げた秘書を抜擢し、漸次、中央委員・幹部会員・常任幹部会員に登用した。常任幹部会において、宮本氏が提案する各党大会の幹部登用リスト中の宮本秘書出身者にたいし、私(不破)を含め、異論を唱えうる者は、一人もいなかった。
中央役員に昇格した宮本秘書たちは、当然のように、宮本秘書団OBとして、最高指導者私的分派の構成員であり続けた。彼らは、現役秘書・OBを含めて、分派的会合を、宮本秘書室、外部、または、宮本宅で、幾たびも、秘密裏に開いていた。正月になると、彼らは、宮本宅へ年賀訪問に訪れ、分派的懇親を深めた。もちろん、私(不破)たち兄弟は、宮本宅で開かれた正規の常任幹部会に行った以外、一度も彼への年賀訪問などしたことがない。下記にのべるが、私(不破)たち(複数)は、それらの具体的証拠を入手した。彼らの行動の性質は、宮本氏本人も含め、明白な反党的分派活動であった。
民主主義的中央集権制は、党内における横断的水平的交流を、分派活動と見なし、全面禁止している。そのような組織形態において、絶対的権力者が意図的に行う規約違反の私的分派活動は、他者・下部が、それを上回る規模の、これまた規約違反の対抗分派をつくって、返り討ちを覚悟して立ち向かう以外に、抑止できない。そして、現実に、そのレベルの私的分派を解体し得るチャンスは、彼が死去するか、それとも、病気で政治的活動が再起不能になる時点だけである。それは、14カ国の一党独裁型前衛党を含め、スターリン式党運営の法則である。
徳田球一の家父長個人中心指導体制の実態は、宮本氏の私的分派のそれとは、かなり異なっている。彼は、ずぼらで、思いつきの指導をした。家父長というように、徳田と側近グループとの関係は、おやじと子分との間柄に似ており、または、娘婿の西沢隆二(ぬやまひろし)や伊藤律を可愛がるという人情的な面があった。徳田私的分派体制、宮本私的分派体制といっても、その面では、2人の性格の差を現している。
その宮本秘書団私的分派メンバー個々人は、宮本氏との関係において、解任されるか、絶対的盲従の忠誠を誓うしかなかった。面従腹背や二枚舌的態度をとる余地はなかった。というのも、それらを見分ける彼の嗅覚は、スターリンと同じく、熾烈な党内闘争体験によって、異様なまでに研ぎ澄まされていたからである。だからといって、私的分派個々人の犯罪加担責任を免罪することはできない。そこで、個人的犯罪責任が明白な2人の宮本秘書を検討する。
小林栄三同志
彼は、宮本指令に基づき、多くの粛清事件を遂行してきたので、党本部内で、「代々木のベリヤ」と呼ばれていた。彼は、1970年第11回大会、42歳で准中央委員に抜擢された。1973年第12回大会、45歳で中央委員に昇格し、文教部副部長となり、『文化評論』編集責任者になった。そして、1977年第14回大会、宮本氏は、彼を2段階特進させ、いきなり常任幹部会員に大抜擢した。さらに、彼を、書記局員にし、教育局長に据えた。
2段階特進させた功績は、いうまでもなく、『犬は吠えても歴史は進む』というスパイ査問事件での宮本氏絶対擁護=袴田批判・除名の件である。袴田は、それ以前は、宮本氏の背後にあって、宮本氏の粛清指令を遂行する粛清担当者だった。小林同志は、たんなる一中央委員だったが、スパイ査問事件に関して、宮本氏の陰謀どおりに、ありとあらゆる詭弁・ウソを駆使して、袴田を追い落とし、第14回大会前に、袴田を査問し、党大会における袴田の役職を全面剥奪する粛清に成功した。宮本氏は、彼の詭弁術と策略にいたく感激し、その論功行賞として、常任幹部会員にしたのである。
『スパイ査問事件と袴田除名事件』小林中央委員の詭弁とウソ
『作家森村誠一氏と「スパイ査問事件」』下里正樹赤旗記者の査問・解任・除名
それ以後、彼は、袴田に取って代わって、一手に党内粛清を指導する担当者になった。袴田を粛清した小林同志が、「代々木のベリヤ」と呼ばれるのなら、さしずめ、袴田は、その前任者の「代々木のエジョフ」と言えよう。公表された担当ケースのみ挙げる。(1)、1988年、萩原遼赤旗記者を外信部副部長から、理由も告げず、解任し、萩原同志が赤旗記者を退職するように仕組んだ。彼は、北朝鮮駐在の「赤旗」特派員だった。もっとも、直接の通告者は、側近グループの一人である河邑重光赤旗編集局長だった。萩原同志は、退職後、共産党員として、朝鮮戦争の真相や北朝鮮の実態を批判する著書も出版した。(2)、1990年、山形県党の猪口信男県委員が、第19回大会に、民主集中制問題の欠陥について、意見書を出した。小林常任幹部員は、下りの県党会議で猪口同志を、県委員に再選させないため、山形まで飛んで、彼の再選を阻止し、排斥した。(3)、1994年、下里正樹赤旗記者が、戦前の市川正一聴取書のデータを勝手に公表したとして、査問し、権利停止処分と赤旗記者解任の粛清をした。(4)、1998年、兵本達吉国会議員秘書を、彼の「宮本独裁30年」と書いた年賀状文言問題で査問し、そんなことを書くのは精神病だとして、代々木病院に精神鑑定を強要し、その後の言動でも査問し、彼を除名した。これらは、すべて、彼が、宮本氏の指令を受けて、担当した「ベリヤ」的党内犯罪である。
宇野三郎同志
彼は、宮本氏が参議院議員のとき、宮本国会議員秘書だった。1977年第14回大会、宮本氏は、46歳の彼を、准中央委員を経ずに、いきなり、中央委員に大抜擢した。さらに、1982年第16回大会、常任幹部会員にし、教育・イデオロギー担当の書記局次長とした。1983年、宮本秘書団OBとして、最初の粛清事件遂行の中心人物となって担当した。それは、民主文学4月号問題である。
『不破哲三の宮本顕治批判』〔秘密報告〕宇野三郎が遂行した民主文学4月号問題
1985年第17回大会、宮本氏は、彼を幹部会員とし、担当部署として、社会科学研究所所長・党史資料室責任者・問題別委員会責任者の3つを兼任させた。その部署において、彼は、宮本氏と組んで、『日本共産党の六十五年』『七十年』を実質的に作成し、宮本史観党史の拡充に大きな役割を果した。
以上 別ファイル4・5・6に行く 健一MENUに戻る
(関連ファイル)
『不破哲三の宮本顕治批判』〔秘密報告〕日本共産党の逆旋回と4連続粛清事件
『上田耕一郎副委員長の多重人格性』上田・不破査問事件の真相
『綱領全面改定における不破哲三の四面相』第23回大会
石堂清倫『「戦後革命論争史」の出版経緯』