映画の連想
〔映画『青い凧』 3DCG 宮地徹〕
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アカデミー賞受賞した映画『パラサイト』半地下家族のこと
映画『パラサイト 半地下の家族』オフィシャルサイト www.parasite-mv.jp
今年世界が注目した韓国映画『パラサイト』を観た。
強烈な映画だった。映像も人々の感情表現も生々しかった。
アカデミー賞外国映画で作品賞に選ばれたのは、これは初めてだそうだ。監督賞、脚本賞、国際映画賞も受賞した。
自分の幼い頃の体験が甦る。名古屋城近くの家でアメリカ軍の爆撃にあう。国民学校2年で学校から「疎開せよ、一刻もはやく疎開せよ」と追立てられる。父は戦地、仕方なく母親の故郷へ始めは子ども3人だけで疎開した。空襲が激しくなり、幼い妹二人も母と一緒に押しかける。農家の一部屋へなだれ込む。迷惑も不便もない。
韓国では豪華な邸宅と、付随した半分地下の住宅という格差社会がある。
映画では、その酷さを現実生活で見つめさせる。半地下生活の奥に更に地下があり、借金に追われた家族が4年間もそこで隠れて暮らしていた。
36万人もの人が住んでいるという半地下生活。陽のあたらない半地下生活ではトイレの便器が床から1、5メートルほどの高さにあること。
貧困家庭と、豪邸に住む富裕層との格差である。
映画の衝撃的場面は、広々とした穏やかな敷地内のひろばでパーティが開かれている。
そこへ暗闇の地下から、借金が返せない光のない生活をしている貧しい生活者が、大きな刃物をもって襲いかかる。
未来のない暗い世の中で苦しんでいる貧困者が、豊かな社会でパーティや音楽で生活を楽しんでいる富裕層を襲う。止むにやまれず…。1人だけでなく、続いてもう一つの半地下生活者も切りかかる。
天国住民と地獄住民の激烈なぶつかり合い、殺し合いだった。
今年社会人としてスタートする京都在の孫も、名古屋で働く現役世代の娘も、共に「今年一番」の映画と言っていた。
若い世代でも、矛盾に満ちた格差社会が理解できるのだと安堵する。
2020年2月10日のアメリカの新聞NYタイムズは、現在の世界情勢について
『パラサイト』が、この不平等がただの冗談ではなく、悪夢へと変えているからだ。と記している。
2020・3・10
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出した音はすぐ消える。でも力強い音楽を ピアノを楽しんだ 映画『蜜蜂と遠雷』を観て
「俺たちは はぐれ者 互いのため音を奏でる…」
映画『ボヘミアン・ラプソディ』公式サイト 大ヒット上映中! 動画6番目2億3千回以上
北の桜守 : 作品情報 - 映画.com 映画『北の桜守』公式サイト
映画「沈黙」を観て アカデミー賞撮影部門にノミネート
映画「この世界の片隅に」の魅力
映画『エヴェレスト 神々の山嶺』公式サイト 岡田准一主演。世界
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映画「母と暮らせば」のつぶやきから 母と暮せば:公式サイト
映画『野火』を観て
映画「くちびるに歌を」を観て
映画『ふしぎな岬の物語』公式サイト →予告編も
映画「春を背負って」を観て感じた 木村監督の哲学
映画『永遠の0(ゼロ)』オリジナル予告編 - YouTube
永遠の0のオフィシャルサイトhttp://www.eienno-zero.jp/
風立ちぬ 公式サイト 風立ちぬ 劇場予告編4分 -
YouTube
なんであんたは生きとるの? 新藤兼人の遺作「一枚のハガキ」
『一枚のハガキ』公式サイト−コメント、予告編
「こんないい加減な子育てでもいいんだよ」映画「毎日かあさん」がくれる安堵感
胸打たれた 人としての信念−映画「沈まぬ太陽」を観て
悪口がんこじじいの真実 映画「グラン・トリノ」の感激 映画『グラン・トリノ』 予告編
映画「マンマ・ミーア」は物語にハートがある 『映画マンマミーア』
「死ぬ気になれなきゃ 食うしかない」「困ったことに」 ユーモア溢れる映画「おくりびと」
映画『おくりびと』検索 アカデミー賞外国語映画賞受賞
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涙の重み 映画「君の涙ドナウに流れ」を観て ハンガリー事件
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映画『亀も空を飛ぶ』のなみだ イラク戦争とクルドの子どもたち
私も観た『華氏911』Google『華氏911』
動く境界 映画『ブラザーフッド』と萩原遼 Google『ブラザーフッド』
総領事館逃げ込み事件と映画『イースト・ウェスト 遥かな祖国』
『シュリ』『JSA』『GO』 3つの優れた映画を観て想う、韓国のこころ
「こんな時代があった」 映画『ホタル』を観て
並木通りと映画『第3の男』 次の『くらしさまざま』へ行く
みんなが楽しんで観た映画『寅さん』、寅さんを演じ続けた俳優、渥美清が亡くなったのは1996年だから23年になる。この月日の流れの速いこと。
49作で逝ってしまった寅さんを『帰って来た 寅さん』で、50作目を作ろうとしていた山田洋次監督だった。
現役世代の忙しい娘夫婦は、子育てしながらから働き続けている。その娘から思いがけない電話があった。「年末に、映画『帰ってきた寅さん』をやるから一緒に観よう。」
娘や息子がまだ幼かった頃、秋の初めと正月の年二回ずつ毎年『寅さん』を観た。その何とも言えない楽しく、こころ休まるひとときをもう一度親子で味わおう。
そんな誘いが嬉しかった。
映画では懐かしい女優たちが、次々若々しい当時の顔で出てくる。その美しいこと。
そして、寅さんが、生々しく元気で映画に現れる。妹のさくらも。
父親とけんかして家を飛び出し、気の向くまま放浪生活を続ける寅、いつも故郷の葛飾柴又に帰ってきては騒動を起こす。でも最後はさっぱり憎めない。
映画の中で満男に求められて、いろいろアドバイスする。
「叔父さん、人間は何のために生きているのかな?」
寅はそんな大きな問いかけに答える。
「生まれてきてよかったと思える。そんな瞬間のために人間は生きているんじゃないのか」
満男にとって寅さんは「他人の哀しさや寂しさがよく理解できる」叔父さんだった。
それにしても渥美清という俳優は、何と素直な自然体で演じる事が出来る俳優なんだろう。
いろいろな分野で活躍する人たちの感想を読んだが、あるミュージシャンは書いていた。
「ああ 泣き過ぎて頭が痛い。試写室でこんなに大勢の人が涙する映画を私は知らない…
みんな寅さんに会いたかったんだ。ありがとう…」
映画館の隣の席だった連れ合いが、何度か目を押さえているのを見た。
過ぎし日への懐かしさか、まともな人間、家族関係への喜びなのだろうか…。
(2020・1・10)
映画『蜜蜂と遠雷』を観て
国際コンクールに出るようなピアニストの弾く曲を、映画でどうやって聴かせるのかしら。
そう思いながら新聞広告を読んだ。「誕生祝いに観に行こう」連れ合いの誘いで半年ぶりの映画館だ。
この映画の原作は少し前に読んだ。
作者恩田陸はこの作品で、直木賞(第156回)と本屋大賞(2017年)受賞した。本は150万部も売れているという。
映画で一番印象的だったのは、緊張する本番を前に必死で練習する二人の出演者、暗い空に月がやさしく光っていた。弾いた曲はドビュツシーの『月の光』、連弾が心に沁みた。
指揮者つきのオーケストラをバックに、それぞれが練習に練習を積み重ねたであろう曲に全精神を集中し、必死の手さばきで弾くピアノ曲は
プロコフイエフの『協奏曲第2番』とか、バルトークの『ピアノ協奏曲第3番』とか、クラシック音楽に関心ある人でないと理解できないかも知れないなとも思った。
映像は、強烈で繊細な演奏の連続だった。
映画を観て納得した点がある。「働きつつピアノ演奏をしている」と言う出演者のことばである。
「ピアノコンクールは『あっちの世界』だろう。が、ピアニストは天才ばかりじゃない。地に足のついた俺だからできる生活者の音楽を目指す」
家族もあるこの人は「1日休むと半分忘れ、3日練習しないと全てなくなる音楽…」と言う。…それってここにいる自分のことだ。
実は25日後に、ピアノ演奏会がある。60歳で仕事を卒業し『50歳からのピアノ』という場に縁が出来た。教授が病気で辞められたが、女先生たちで個々に続いている。だから、レベルはまるで違っても、映画で観る出演者の気持ちが理解できる。
天才少女と言われた女性が、突然ピアノを離れた苦い体験。でも、コンクールに再び近づき出場を決めた。しかし様々な想いから涙流しながら「やめた」と欠場を決める。
帰りながら考えに考えた。急に考えが変わりコンクールに参加した。3位入賞だった。
場内を圧倒するピアノだった。若いピアニストの励まし合い、音楽を深く味わった。
「人間同士でないと獲得できない成長できないもの、それが人の中にはある」作者は言う。
夕方の散歩で仰いだピンク色の空、細くて白い三日月が静かに光っていた。 2019・11・3
「俺たちは はぐれ者 互いのため音を奏でる…」
(その1) こわれそうでも まだまだあるよ やることが。…ロマンチックでいいね。
ほぼふつう生活ができている。が、大動脈瘤・心臓弁膜症・高血圧と、検査でいろいろな病名を見つけられた連れ合い。82歳の誕生日が迎えられた。連れ合いが素直に医者の指示に従っているのは、朝30分の散歩である。
二人で共に愉しんだ旅も 山歩きも 映画や音楽会も、ほぼ全面的にやめた82歳同士の老夫婦である。
苦労してインターネットに開いたホームページだけは20年余続けている。
「久しぶりに映画でも観たいね。誕生日だもの」と言うことで、自宅から最寄り駅までタクシーに乗り、私鉄駅から名古屋駅まで行けば、歩いて5分くらいに上映している駅前ビルに着く。
駅のホームで古い友にあった。「元気そうですね」と互いに挨拶を交わした。
「お出かけ?」「そう、82歳の誕生祝いに映画でもと思って…」「えっ 82歳で揃って映画なんてロマンチックね。羨ましいわ…」「でも…病気だらけよ」という次第で、夫をかなり前に亡くした友に、少し気を遣ったスタートだった。
(その2) 喜び 苦しみ 本ものの心を歌いきろうよ。みんなで。
映画館は超満員、アカデミー賞を貰った「ボヘミアン・ラプソディ」である。英国のロツクバンド「クイーン」のリードボーカル フレディ・マーキュリーの人生を描いている。上映開始から、猛烈な音響に片方の耳を塞ぎながら観た。「これは自分好みの音楽じゃないな」と想いながら…。しかしその騒々しい音楽を歌う主人公の歌手の巧いこと。
主人公はホモでバイセクシャルである。最後の方でエイズによる肺を患ったと、白状しながら 歌う。歌う。からだ中から絞り出す声の素晴らしさに圧倒された。
俺たちははぐれ者 互いのために音を奏でる
皆 部屋の隅でヒザを抱え 居場所がない
音楽が居場所
僕らは家族 個性はバラバラ
金で幸せは買えないが 与えることはできる。
アフリカの子どもたちを救う 誰も出演料はいらない
善き思い よき言葉 良き行いだ 父さんの教えと同じ …愛してるわ…俺も愛してる
観客に言葉が通じているか不安だった
すると…歌い出したんだ 会場中の観客が
君に歌ってた 真実の歌だから
まるでライブの会場、みんな みんな主人公と一緒に 歌う。歌う。その数何千人…
全体の言葉は分からなくても、腹のそこからトコトン歌う旋律と歌詞の字幕を読み、連れ合いは言う「涙が出た…」
(その3) 「ビッグイシュウ」がびっくりするほど売れて、大喜び
「ビッグイシュウ」という雑誌は、ホームレスの人が街頭で売っている。名古屋の繁華街でいつも買っていた。
1冊350円で売ると、180円が販売する人の収入になる。雑誌の中身も充実している。
今回その表紙に映画「ボヘミアン・ラプソディ」の主人公 故フレディ・マーキュリーを載せた。
すると雑誌は25000部完売、6000部増刷となった。在庫なしと言う。(中日新聞)
いつもは年配の人が買ってくれる。が、今回若い人たちが集まって飛ぶように売れたそうだ。嬉しかった。
格差社会で苦しんでいる貧しい人たちにも、もっと関心を持ちたい。
2019・3・17
映画『万引き家族』を観て 感じた家族の絆とは
人はひとりでは生きられない。触れ合うご縁があった人との絆を作り深めて生きている。生まれたときから自然体で育てられた家族なら当然と思う。何かの事情で血のつながりが無い家族もあり、支え合って生きているのが人の世と思う。
先日、人との絆、家族の絆についてあらためて考えさせられた映画『万引き家族』を観た。
乳がん手術後3ヵ月無事終了と82歳誕生祝い ふたつを祝って、老夫婦には久しぶりの映画館だった。
『万引き家族』上映の映画館は超満員、入場料の他に1000円を追加して何とか一番後の特別席が確保できた。
何よりカンヌ国際映画祭でパルムドール賞を受賞した映画であること、出演者のベテラン俳優樹木希林が旅立った追悼上映となったという理由が、関心を集めたと思う。
映画で始めのころは、出演者である子どもや夫婦二人とバァチャンの関係が分からず、家の中の荷物いっぱいのごたごたのように、ごちゃごちゃ感があった。
バァチャンのささやかな年金で生活している家族、それだけでは生活できないから、男の子が、いつも生きるために「父親」に万引きさせられている。
あるとき変化が起きた。
万引きした店主から「妹には万引きさせるな」と、とがめられ「家業」に疑問を抱き始めた。更に「父親」が車のガラス窓を割って中の袋を盗んだ。盗みを教える教育?のためもあった。男の子は「父」に始めて泥棒行為で抵抗を感じ、その場を離れた。そして、橋の欄干からわざと飛び降りて骨折した。
ある朝バァチャンが死んでいた。母は「葬式のお金なんかない」と、家の敷地内に穴を掘り死体を夫婦で埋めた。そこからいろいろ変化が起き出した。子ども3人は血のつながらない他人だった。
下の女の子はあるマンションで夫婦が喧嘩している。外で心細い顔していた子に声かけして連れて来た「妹」である。
死体遺棄の罪で警察に留置された妻は、万引き指導の生活を深く反省し何度も涙をぬぐいながら、けがした息子がもち始めた万引き生活への疑問と、けがで施設入りしたことに納得した女性になっていた。
この女優は、この秋始まったNHK連続朝ドラの主人公を演じていた。映画では猛烈な夫婦のセックス場面も熱演しており優れた女優らしい。
亡くなったバァチャン役の樹木希林は、髪を伸ばし、入れ歯を外して淡々とした自然の演技にも納得した。
世間では「親の介護したのは自分だから」と遺産分けで家族分裂という話をよく聞く。だから自分の家族についての私的体験を記そうと思った。
連れ合いは、男4人兄弟と長女だった。5人が祖先のお墓相続問題で意見が分かれた。父は「みんなが入ってもいい」という考えを言っていた。父葬儀の場で、長男が突然「お墓は長男だけが入るもの、他の兄弟は入れない」という意見を告げた。その固執に他4人が反対した。それにたいし、長男夫婦から絶交してきた。
更に末の弟とも縁切れている。国立付属中学2年だった弟の子は、強豪サッカー部のエースだった。付属高校への進学成績が届かず、弟は進学目的でサッカー部退部を強要した。様々なトラブルやいじめが襲った。彼は、近くのマンション8階から飛び降り自殺をした。この事件をめぐって、「それは他殺だ」と自殺を認めたくない弟と、自殺説を主張する当時検事だった義兄や他兄弟意見が分かれ、兄弟は決裂した。そして、弟側から絶縁してきた。
その後兄弟は、絶交のまま消息不明である。安定したいい育てられ方をし、血のつながりがあっても考えられない事態が起きる。
家族とは血のつながりがあればいいというものではない。
家族の絆、人との絆について、この映画の監督是枝氏は深い思考を重ねられた結果の、映画完成だったろうと思う。
「血か? 時間か?」という家族のつながりを巡る問いかけ、人は食べるとセックスで生きている。それを映画は自然体で表現した
血のつながりではなく、犯罪でつながった家族の姿を描いた映画の新作が、晴れて世界的に評価され、カンヌ映画祭のパルムドール賞受賞となった。
2018・10・8
さくら満開も近い季節に映画『北の桜守』を観た。
穏やかな桜咲く物語かなとおもいきや、どっしり重く史実に基づいて描き出す人々や、活き活きした風景に圧倒された。
子ども時代は戦争だったから、1945年8月15日に日本敗戦で終わりと教えられた。長年そう思って来たので、本当の歴史は8月20日,中立条約を破ってソ連軍が北国の南樺太へ攻めて来たということ。それを深く考えていなかった。
若い頃当時の電気通信省で2年間だけ電話交換手として働いた体験がある。だからソ連軍の銃声を聞きながら、業務を全うした女子通信員たちが集団自決した電話局がある話は有名で関心を持っていた。
更に、日本の敗戦から2日過ぎた8月17日、恵須取(えすとる)郊外の山中で若い看護師23人が集団自殺を図った。全員が実行しそのうち6名が亡くなっている。
南樺太を占領したソ連軍は、桜の木は日本を意味するということで、桜の木はほとんど切ってしまったという。今は現地にいる日本人の努力で、可憐な花を力強く咲かせているそうだ。
映画で観る桜は、よく見られるソメイヨシノとは種類の違うヤマザクラだそうなので、色がやや桃色っぽくて花びらがぼってりしているという。
映画では激しい爆撃の映像が怖かったので、強烈に頭に残った。
ソ連軍戦闘機の機銃掃射から逃げるてつたち母子の状態、映画に登場する小笠原丸は大泊港から8月20日に出航して22日国籍不明の魚雷の直撃を受け沈没。他の2隻と共に多数の死傷者を出した。恐怖の有様が映像で生々しく写し出される。
このように理不尽で残虐に、普通の庶民が殺されるのが戦争なのだろう。
南樺太への攻撃で民間人約4000人、軍人約1000人が犠牲になり、ソ連領内へ移住させられた。シベリアなど強制労働させられた歴史もある。
身が引き締まる流氷の北国、真冬と真夏二度にわたる北国での撮影が凄さと美しさを創り出したと想えた。
ある女性が監督に「今考えると不幸の連続だったけど、今生きていることはとても幸福です」と言ったとか。監督は「人が生きて行くということはすごいなぁ」と改めて思ったそうである。
『北の桜守』という映画は、何より吉永小百合の演技力と、自然な装いの美しさが光った。夫を亡くして白い喪服、こども連れて引き揚げる紺色のもんぺ姿、敵に銃撃され子を守る表情の切実さ、戦時下樺太での桜色の着物…、優れた表情とぴったりの衣装…さすが大女優と、素人が感服した演技だった。
上映館はウィークディなのにひとつの空きもなかった。舞台と映画の合作も新鮮な試みであった。
『おくりびと』の監督への信頼なのか、女優吉永小百合の人気なのかと思いつつ、久しぶりに映画館で観る映画にドスンと胸突かる想いだった。
心不全などの病で30分以上歩けない連れ合い、81歳の誕生祝いに優れた映画を共に味わえた。この幸せに感謝せねば。…ありがとう。
2018・4・3
映画「沈黙」を観て アカデミー賞撮影部門にノミネート
こころに響いたこと
第1に、撮影技術と出演者のレベルの高さ
世界的に有名な監督マーティン・スコセッシ氏に、実力派の俳優たちがオーディションを積極的に受けた映画である。観るのが苦しくなるような映画だった。
舞台は長崎、江戸時代初期、幕府がキリスト教信者に拷問をしたり、殺す、歴史の厳然たる事実である。
隠れ信者に、イエスの絵を踏ませる踏み絵。踏めない者は信者だと捕らえる。
(1)、水攻め(海辺の十字架に縛り付けて殺す)
(2)、縛りつけて海へ捨てる (体をわらで縛りつけ、船に乗せて海へ投げ捨てる)
(3)、逆さに吊り下げる(信者をぐるぐる巻きにして)
これらの目を背けたくなる拷問の凄まじさを、映像は空や海の大自然と一緒に写し続ける。
俳優たちの迫力ある演技力と撮影技術。撮影部門が評価されて当然と思う。
神を信奉してこのような目に遇う。神は沈黙である
こころに響いたこと
第2は 島の人たちのことば
島の人たちは言う。「けだもののような暮らし」と。けだもののような暮らしとは?
何かに縋りたい。心の支えが欲しい
信奉心を持ち続けるが転ぶ人も出る。
第3に 日本は沼のようなものという見方
日本には神があり仏があり、信仰心は定着しない。特に深く仏教を信ずる者が多い多神教である。一神教は沼に沈み、根が枯れる。神父たちは次第に分かり、日本の弾圧の凄さを実感してくる。
第4に、この映画の監督や、『沈黙』の原作者 故遠藤周作がこだわったこと
「神がいるならなぜこの地上は暗いのか」
「信じることと疑うことは同時に進行していく。確信から懐疑へ、孤独へ、そして連帯へ」
「この映画で、物欲にまみれて忙しい世界で人々が何か考える機会になるかも」
「人として生きるということ、あるがままで自然の中にあることとの間に違いはない、みんなその中の一部なのだろう」
これら、人間社会のいまを考えることばが心に残る。
その他感じたこと 唯一絶対の真理はない。
青春時代、生産手段の国有化で、社会主義社会こそ平等社会が実現すると、真剣に考えた。マルクス主義を勉強し合った。専従活動家の道を選んだ連れ合いは、組織に異見を持ち専従をくびになった。その後の苦闘。1991年ソ連邦が崩壊して26年が過ぎる。絶対的真理はないと思う。
2017・2・1
映画「この世界の片隅に」の魅力
久しぶりに劇場で映画を観た。超満員だったのは日曜日だったからだけではなさそう。
日本のアニメは世界的にもレベルが高いと認められている。でも、アニメに弱い自分はその良さが理解出来ていなかった。
映画「この世界の片隅に」原作者のこうの史代氏は、予告編にもあったセリフ「ありがとう。この世界の片隅に、うちを見つけてくれて」このことばが特に印象的と言っている。
この世界の片隅に生き続けた一庶民として、納得できる。
女主人公のすずは、ボワーンとした性格で、全てを受け入れて生きる。観る者もそのままいろいろな事態を受け入れる。何より絵が巧い。「現代から地続きの過去」を表現するため、当時の広島、呉の景観を再現している。手書きのスケッチそのままの花、草、鳥、山々などの景色や人々が素晴らしく、こころ和む。
すずは、18歳で広島から呉に嫁に行く。
戦争が激しくなり、爆撃を受けた。そのスゴイ爆撃音、平凡な暮らしも段々生活はしにくくなり、呉も爆撃を受けるようになった。すずも、時限爆弾で右手を失ってしまう。
ついに広島に新型爆弾が投下される。
監督脚本の片淵須直氏は「広島への原爆投下を含む『戦争の爪痕』を題材にしながら声高な反戦メッセージや悲劇の誇張に陥ることなく、当時を生きた人々の生活を淡々と描く作風がファンの心に深く染み入り、高い評価を受けた」と言う。
確かにその通りだろう。更にこの映画製作を考え始めてから6年かかったという徹底ぶりに驚いた。
それに資金がなく、インターネット上で一般の人から製作資金を調達する「クラウドハンディング」によって、全国の3374人から3912万円余の支援を集めた事実は、原爆といえば広島、長崎とすぐピンとこない人も多くなった世の中で、やり切れない被害体験や戦争の無意味さを考える続ける人たちの叫びなのだろう。
すずさんが生きた時代、1936年(昭和11年)に二・二六事件が起きており、1941年(昭和16年)日本は真珠湾攻撃で、太平洋戦争を始めた。この歴史の事実。
人々はインターネットもスマホもない時代でも、喜びや悲しみがあり、誰にも大切な人がいて、日々の暮らしを繰り返していた。
理不尽な天災でみんな行く先に不安を覚える近頃、それでも映画を観て「苦もあり楽もあるこの世界だからこそ、何があっても生きるに値する」という気持ちになる。
何よりアニメだからか、この自然体の映画に若い人たちが溢れ、満員の映画館だったことが嬉しかった。
このアニメは、多くの賞を貰った。
(1)2016年キネマ旬報ベストテン日本映画第1位。(2)第40回日本アカデミー賞・優秀アニメーション作品賞。(3)第71回毎日映画コンクール日本映画優秀賞
全国拡大上映中! 劇場用長編アニメ「この世界の片隅に」公式サイト
2016・12・21
神々の山嶺(いただき)
映画「エヴェレスト 神々の山嶺」は、世界一高く聳える8848mの雪山の荘厳さに、身が引き締まる映画だった。
実際に5000mの山まで、10日間かけて登っての撮影だった。平山秀幸監督は命がけのロケだったと言う。
若い頃、山岳部(素人ばかりの)に入って基本的登山を教わった。夫とは日本の3000m級の穂高、立山、白山に登った。また北の利尻山、南の開門岳など日本百名山で名の知られた山にも登ったが、清々しい山々も厳しく、気を引き締めないと登れなかった。
「エヴェレスト 神々の山嶺」の5000mの危険度は想像以上だったろう。原作者 夢枕獏の小説で、映画化不可能小説NO1だったとか。
監督は「俳優 安倍寛と岡田純一がいなければ、この映画は出来なかった。伝説的な登山家を演じられる俳優は限られている。二人の共演が実現したのも奇跡」という。
登山家と山岳カメラマンの強い個性と、心の絆も強く胸を打つ。
10人のスタッフが、ネパールのカトマンドゥを出発し、寝泊まりを共にし、同じ物を食べ行動を共にした。一人の死者も出さなかった。
作者夢枕獏は「完成した映画を二回観たが、感涙し通しだった」と言う。
「子どものころから山を眺めて育った。21歳の頃、学生運動をしている人たちと口論になった。『みんながみんな学生運動をしたいわけじゃない。趣味の山にだって命をかけられるんだ』と言ったら『お前は殴る価値がない』と言われて見捨てられた気分になった。山に1ヵ月こもって小説を書いた。なぜ山に登るのか真剣に向き合わないとダメだと思った」
印象深い言葉だった。
1951年生まれだから、学生運動が活発な時代の70年安保世代である。
人生の終章期にきたわれらは、60年安保世代で岸内閣(安倍首相の祖父)が国民の意見を無視して、日米安保法案改正を強引に国会で押し通した。国会周辺は連日の抗議デモで溢れ、国会に突入しようとした樺美智子が踏み殺された。そういう時代だった。
夢や希望に満ちた若い時代に、人生どう生きるかは、みな真剣に考えなければならない。
「白い原稿用紙に書く道を選んだ」という夢枕獏。
1960年代に青春だったわが夫婦は、働き続ける、子育て、活動と、世の中を良くする活動に心血を注いだ。退職して、政治活動の専従活動家になった人が連れ合いだった。
世界には社会主義、共産主義という「理想国家」が実現していた。マルクス レーニン主義の基礎を先輩たちに学んだ。およそ70年経って東欧、ソ連の社会主義国が崩壊した。
無名の一市民ながら、いま想う。どの道を歩むにしろ、唯一絶対の真理という考えではなく、僅かでも違う考えが必要である。と。
殺し合いの戦争だけは絶対ダメだが…。
8000mの神の山々は、厳かに白く、今日も輝いているだろう。
2016・4・6
映画「母と暮らせば」のつぶやきから
映画「母と暮らせば」は、長崎の原爆で瞬時に死んだ7万4000人の中の一人、医科大学の男子学生とその母親が主人公、二人は死んでからも様々な場で話し合いを続ける。
原爆の犠牲になった人と、残されたひとりひとりがどう考えて生きるかを追い求める映画である。
スタート画面は強烈だった。
アメリカ軍の爆激機B29の機上から、九州の上空を飛びながら原爆を落とす地上を狙う。3日前の8月6日広島に世界初の原爆を投下し、さらに九州小倉に投下を狙うのだ。
しかし、雲に遮られて現場がよく見えない。止むを得ず長崎の上空に飛ぶ。曇っていた空が一瞬晴れる。その長崎に投下され7万400人が即、焼き殺された。
広島に投下され14万人が焼き殺された「ウラン爆弾」とは違う「プルトニウム爆弾」で、そのことが画面に表記されていた。
「人としてこんなことが許されるの?」のつぶやきに、いきなり涙が滲んだ。
学習塾をやっていた頃、小学生の社会科授業や塾ニュースで「ファットマン」と「リトルボーイ」と種類の違う原爆を落とされたと、何回も勉強し合った。
世界で唯一原爆投下されたのは日本だけである。一瞬のうちに万単位の人間が焼けただれて死んだ。
実験台の日本で投下実験は全国30カ所で50回も行われた。(愛知県の春日井市豊田市や大阪東住吉区など…それが8月14日、つまり敗戦前日まで続けられた。米国人アーサー・ビナード証言その他)
「母と暮らせば」の題名は親しみ易いし、俳優もベテラン吉永小百合、若手の二宮和也、黒木華など自然な演技で好感が持てた。
監督山田洋次はよく観た「男はつらいよ」風に庶民的な感覚の映画にしている。
しかし、この名監督に「生涯で一番大事な作品を作ろう」とこの映画製作に臨んだ。そう言わせるだけ、底に流れる情熱を感じた。
さらに
「突然息子に先立たれた母の悲しみがどんなに深いか。なぜそのような不幸が起きたか。これからは起きないのか」の言葉を噛みしめた。
付記 広島原爆死没者名簿 26万3945人〔平成21年〕
長崎原爆死没者名簿 15万2276人〔平成22年〕 2016・1・17
世界的な視野で現代の戦争や難民について考えさせる映画だった。
大勢のユダヤ人にヴィザを発行して避難民を救出した日本人がいた。杉原千畝は岐阜県八百津の出身、その程度は知っていて夫婦で記念館へ行ったこともある。
第1次世界大戦(1914年〜18年)後、1939年からの第二次世界大戦勃発の世界の様子が、生々しく写し出される。
舞台はリトアニア、西はドイツから、東はソ連から攻め込まれた。ナチスドイツに占領されたポーランドも。難民としてリトアニアに逃れてきたユダヤ人が、シベリア鉄道で日本に渡り、アメリカなどへ脱出する道しかなかった。
日本領事館へ難民が殺到した。杉原は1ヵ月間、昼夜なくヴィザを発給し続けた。領事館閉鎖でリトアニア出発当日も駅で列車発車まで、渡航証明書を書き続けた。
現地では杉原を「センポ」と呼んで信頼した。外務省外交資料館の文書で、ヴィザ発行で救われたのは2139人、家族含めると6000人とあり、その後生まれた人などで4万人を助けたという。
千畝は、何故こんなに必死に発行し続けたのか?
ユダヤ人なんか人ではない。ドイツ兵がそんな扱いで次々ユダヤ人を射殺する。それらを目の前にして、外交官として掴みうる情報を探し、人として後悔しない生き方を考え続けたのだろう。
英雄になろうとしたのではなく、自分がそのとき出来ることをしたのだと思う。
才能はあって早稲田大学に入学してもお金がなく、満鉄ハルピン学園の留学生になって世界を見つめた。
どんなことも体験しないと、「真実に近い理解」は出来ない。そう思った。
日本は1937年に中国へ侵攻した日中戦争、そして1941年12月8日ハワイ真珠湾攻撃で戦争に突入した。杉原は情報をつかみ、断固反対を主張する。しかし、戦争は国益だ、今まで勝ち続けた日本だから、など軍部やときの政府の一面的思考で強引に始まった。
1941年,ドイツがソ連に侵攻、世界中が戦争になる。
この映画の監督は日本人ではない。チェリン・グラックという外国人。主役の唐沢寿明が巧みな英語で熱演したのに驚いた。
撮影は全てアウシュビッツ収容所のあるポーランドで行われた。監督が英語や日本語、フランス語にも堪能で、この監督あって出来た映画だとも思った。日本だけでなく、ポーランド本国で絶大な人気の俳優たちも熱く共演していた。
戦争という殺し合いで多数発生したリトアニア難民が、現代のシリア難民に重なる。
戦後70年になる今年、「ナチスの手法を学んだらどうか」などと言う政府幹部がいるこの国である。
悲惨な戦争体験した日本人にこの映画を残したいと、頑張った映画人たちに拍手したい。
2015・12・13
福島原発事故が起きたのは、忘れもしない2011年3月11日
原発再稼働に反対。それだけで、直接行動を続けている人たちがいる。
「スタートは2012年3月29日、300人参加だった。当時の野田首相が『四大臣会合』後『再稼働します』と宣言した。それが2012年6月8日、まさか再稼働はないだろうと思っていた人は多かった。
それから、官邸前に人が来始めた。4月5月は1000人から2000人、マスコミも取り上げる規模でもなく報道はほとんどなし。
それが『大飯原発再稼働』直前の6月29日には20万人規模になった」
(首都圏反原発連合)調べ
「原発ゼロ」の方針は当時の野田政権のなかで、かなり進んでいたようである。結果的に閣議決定されなかったのは、アメリカ合衆国と経団連の申し入れ(圧力)という。
続けると言えば、経済産業省前でテントを張り、1500日以上原発反対を続けているメンバーもある。
庶民に出来ることは「続ける」という抗議 直接行動だけ。脱原発、反原発運動にしろ、戦争法案にしろ、時の政治のやり方に異論があれば庶民は粘り強く行動する以外ない。
異常な暑さの今夏、何とか秋を迎えた10月だった。連れ合いが「誕生日だから映画でも観よう」と言ってくれた。
3年前熱中症で意識不明になったが、何とか日常生活を持ち直したと言っても、医者に指示された1日30分の散歩以外、以前のような旅も山も歩けなくなった。
元気なつもりでも、山田風太郎のように貴重な『あと千回の晩飯』を噛みしめる夫婦である。
自宅から駅までタクシーに乗り、名古屋の映画館へ行く。
観たのが、小熊英二監督・編集の映画『首相官邸の前で』だった。
監督の「記録しておかなくては」という思いが貫かれた画面は、スタートから抗議デモ、次第々々に人が増えて行く。抗議デモに次ぐ抗議デモの人人人だった。
映画館には若い人の姿もあった。
テレビでやっていたように、捨て場のない放射能汚染された土、ごみの袋が延々と積まれたまま、原発再開するという哀れなこの国である。
直接行動を「続ける」以外道はなさそうだ。夫婦も約20年前開いたホームページを続ける。生きている証しだから。
2015・11・28
映画『野火』を観て
ジヤングルの中を歩く日本兵士たちの映像、食べる物なく飢えに飢えて、人肉を食す。
原作は、あまりにも有名な大岡昇平の『野火』。(原作では、主人公の敗残兵が飢えて人肉食の誘惑に追い詰められるとき、見えない神の手らしいものがそれを止める)
映画では飢える日本兵の主役、一等兵の激烈な演技に圧倒された。こんな俳優いたかな?と思いながら観たが、監督塚本晋也自ら主役と知り驚いた。
場所はフィリピンのルソン島、第二次世界大戦末期の敗色濃くなった日本軍隊が食の援助も無く、多くは飢えと負傷兵や病で負けて行った。
日本兵の戦没者はフィリピン全体で約50万人にのぼり、8割が飢餓や病気による戦病死といわれている。
人肉を食べて命をつなぐ、その激し過ぎるリアルな映像と音声に、何度も耳を塞いだ。
私(宮地)は、若い頃腎臓を患い、当時「断食がいい」と静岡の断食道場で一週間、水だけ飲んで断食した。あのとき、読書も音楽も頭に入らず、食べ物ばかりが頭に浮かんだ生々しい体験が蘇る。
映像では、大自然の青い空、みどりいっぱいの植物の美しさが印象的だったが、強烈な場面の連続の映画で思った。
子ども時代が戦争だった私たちは、殺し合いの戦争、飢えの戦争は、映像で表現すればこうだろうと。表現オーバーにし過ぎではない。
しかし、若者たち、平和の申し子たちには、あまりのむごさが理解できないのではないかとも考えた。
監督塚本晋也氏は、主役も果たしたが、「戦争反対」や「敗残兵」は扱うな。という暗黙の自粛まで感じたそうで、製作費調達が非常に困難だったという。
だから自身で主演し、小道具も手作りしながらフィリピン、沖縄、ハワイのロケ撮影をしたと言う。
「戦争は『絶対悪』と教えられたのに、それが変わっていく。今、戦争を映像で描かないと」という監督の執念が創り上げた作品、映画「野火」だった。
この映画の上映館は名古屋駅西にある。戦後、「駅裏、えきうら」といった場所である。
子どもの頃、母親とよく行った「えきうら」は、戦争で負傷した傷痍軍人や、親を亡くした戦災孤児がいっぱいいた。あれから70年が過ぎたのか…。
映画館の客は年寄も多いが、若い男性や女性も多かった。これらは、文学書『野火』の影響あり、国が戦争の出来る国に大きく曲がり始めた社会情勢もあるのではないかと思った。
若い人たちに、もっともっとこの映画を観て欲しい。
3年前、熱中症で倒れた夫と、何とかこの映画館まで来られた。戦争の時代をこどもたちに引き継ぐわけにはいかない。
映画「野火 Fires on the Plain」オフィシャルサイト 塚本晋也監督 ...
2015・7・31
映画「くちびるに歌を」を観て
1
「くちびるに歌を」の映画には、徳島県出身のアンジェラ・アキが書き下ろした曲「手紙 拝啓十五の君へ」が背景にある。蒼い海と、緑や黄緑の木々に輝く、目を見張るような美しい自然の長崎・五島列島も。
合唱コンクールに出場する五島列島の中学生と交流する様子が、テレビドキュメンタリーになり、曲は、NHK全国合唱コンクールの課題曲にもなった。
手紙〜拝啓 十五の君へ〜
〜拝啓 この手紙 読んでいるあなたは どこで何をしているのだろう
十五の僕には 誰にも話せない 悩みの種があるのです
……
今 負けそうで 泣きそうで 消えてしまいそうな僕は
誰の言葉を信じ歩けばいいの?
ひとつしかない この胸が 何度もばらばらに割れて
苦しい中で 今を生きている 今を生きている
〜拝啓 ありがとう 十五のあなたに伝えたい事がある〜
今 負けないで 泣かないで 消えてしまいそうな時は
自分の声を信じ歩けばいいの
大人の僕も傷ついて 眠れない夜はあるけど
苦くて甘い 今を生きている……
いつの時代も 悲しみを 避けて通れないけれど
笑顔を見せて 今を生きていこう 今を生きていこう
2
臨時音楽教師として赴任してきた女性ピアニストは、決して笑わなかった。美人なのに…。ピアノの演奏は拒絶し続ける。生徒に「十五年後の手紙」という宿題を出す。
少しだけ生徒の置かれた状況は分かり始めた。
母を亡くし、二度も父親に捨てられた暗い表情の女性徒がいる。教師は教会で一緒になった。
五島列島には50もの教会堂があるという。秀吉のバテレン追放令以降、キリシタン弾圧が激しくなった凄烈な歴史を感じた。(明治になり禁教が解かれると、祈りの場として建てられた)
映画の回想で、暗い顔の女子生徒の幼い頃、泣き続ける子に母親が「ド」の音を長く二回弾く場面がある。「これは船出の合図よ」と教える。
自閉症の兄を守りながら生きる男子生徒もいる。合唱団としてクラブ活動を続けるのも困難を感じるメンバーもいる。そんな中学生たちを任される。
しかし、音楽教師なのにピアノは弾かない。活躍していた有名なピアニストだから、いつも生徒たちはピアノの音を期待している。
「私のピアノは人を不幸にする」 という理由で暗い無表情を変えようとしない。
それでも、立派な先生に負けずに生徒たちはそれなりに合唱のための訓練を重ねる。
或る日、誰もいない音楽室で父親に捨てられたという生徒に「ピアノを弾いて欲しい」とせがまれた。苦しみを抱える女生徒の頼みも受け入れず、生徒は部屋を飛び出し屋上へ駆け上がる。
やがて先生がピアノの鍵盤で二音だけ押す。「ドー ドー」。
そして弾いた。曲はベートーヴェンの「悲愴 第二楽章」。合唱部員たちがその音の素晴らしさに圧倒され、次々集まり感動の表情に変わっていく。
暗い顔で現実に向き合い続ける先生は、誰にも言っていない。五島列島の同じ中学の恋人が事故で亡くなったことを。
苦難を抱えながら、それでもひたむきに生きる生徒たちと心がひとつになり始めた。
「逃げない」で、コンクールに向けて必死の練習を積んだ。
合唱コンクール当日、先生は「笑顔で」「笑って」を強調し、全員が笑顔で素晴らしい合唱を歌いあげ入賞した。
3
夫婦でよく映画を観たが、夫が体調不良(心臓弁膜症)で長らく出歩いていなかった。或る日珍しく「誕生祝いで映画でも観ようか」と言い出し驚いた。歩けないなら帰りはタクシーでもいい。見つけたのが「くちびるに歌を」だった。
まだ働き盛りだった私達夫婦、夫は理想とした政党の常任活動家として活躍していた。が、異見を持ち「くび!」と、風呂敷包みひとつで追い出された。
同じように理想を抱いて結婚し、子持ちで働き続けた自分にとって理想の崩壊は、孤独が貧乏と一緒に押し寄せた。
転勤した男ばかりの職場で技術系の男性に言われた。「あんな暗い顔した女は嫌いだ」と。
少し前、現役時代の友と久しぶりに話し合ったとき、彼女も同じ事を言われたと言った。離婚、必死の仕事、子育てをしていた頃のことである。
いまは、成長して共働きでがんばる娘夫婦や孫と、幸せな日々である。
いつの時代も、苦労なしの人生なんてない。あの地獄体験がなかったら、いまの幸せが分からない。
映画の中で音楽室に貼ってあった「くちびるに歌を」「こころに太陽を」こそが、今を生きる力の源なのだろう。
あの苦しみのときから30余年、苦しみは終わって自由な前向きの日々に感謝を忘れない。映画では苦難を抱える生徒がやや多すぎる感じがしないでもない。しかし、自分の表情は、毎朝仏壇に手を合わせる亡き義父の写真のように「目じりを下げて、口角上げて」になっているか?
長男の嫁が中田永一著『くちびるに歌を』の本を京都から誕生祝いに贈ってくれた。「感動。ありがとう」
若い人たちに伝えたい。生きる意味がない人なんていないよ。
近頃、電車の中でも暗い表情の人が多いなと思う。
みんな「心に太陽を、くちびるに歌を」の世の中になったらいいのにな。
2015・3・14
幸せとは 映画「ふしぎな岬の物語」を観て
「誕生祝いに映画を観に行こう」3年前夫が病で倒れるまではよく行った映画館、何とかふつうの生活が出来るようになった夫から言い出してくれ嬉しかった。夫婦で出かけた10月21日、久しぶりだった。
青春時代「10・21」といえば国際反戦デーだった。自分の誕生日がこの日だったので覚えている。戦時中この日は、「学徒出陣」の壮行会が東京明治神宮外苑競技場であった日であると知った。(10・21中日新聞)
70年前,軍は死を前提とした特攻で約4千人の若い命を散らせた。また国際反戦デーは、全国で百万人を超える参加者の年もあった(1966年)という。
10・21が歴史的な日である認識を新たにし、脳に刻み直した。
映画館は満員で、前の方のやや観にくい席しかなかった。題名の通り、海、波の音ススキや燃えるような夕日など、自然をたっぷり感じる画面だった。
主演の吉永小百合の好演、実力派の俳優たちオールキャストで、映画はモントリオール世界映画祭で、審査員特別賞とエキュメニカル審査員賞の2冠を受賞している。
映画『ふしぎな岬の物語』公式サイト - 大ヒット公開中!→予告編も
実際にあった話で、岬の先っぽにカフェがあり、離れた島から毎朝自然に湧く水を採りに行き、長年「岬カフェ」で心こめたコーヒーをつくり続ける女主人だった。決して多くない客との、誠実な人間的触れ合い物語だった。
1ヵ月前、妻を亡くした男性とその娘、母親代わりにしっかりその子を抱きしめる主人公。手遅れの胃癌で亡くなった男性が、東京から帰郷した娘に僅かのお金でかけ続けた保険証を残していた。彼女が大声で泣き続ける場面など心うたれる。
作者は「7年前、日本の海岸線を取材中このカフェを見て、これを小説にしよう」と思ったという。そして「人生の苦しみをもつ登場人物たちが主人公と出会い、ほんの少しものの見方を変えることで幸せになっていく。幸せとは『なる』ものではなく『気づく』ものだ」という。
監督は「人間本来の幸せって何だろう?が大きなテーマです」と言う。
「残された時間が多いとか少ないとか、お金をたくさん持っているとかいないとか、そんなことではなくそれぞれ苦労を抱えていても『大丈夫だ』『ひとりじゃないよ』と思い合える仲間がいること、人と人との温かなつながりこそがいちばんの幸せではないか」と言い切る。
幾度か 友をおくる日重なりて 辛さを人は長寿ともいう
この句は、過日現役時代の友と食事会をした時、友人の一人が「知り合いがくれたメモ」と言って、101歳の人の句を紹介した。
みんな70代後半、思いを共にした。
別の友は、長年にわたり3人も4人もの親族の介護をして、ホッとひと息の「いまが一番いい」と言った。
映画では、女主人公と親しかった客が転勤で去り、別の客は胃がんで旅立ち、カフェも火事で燃えてしまう。やはり人生は孤独なりと哀しむ場面が印象的。
大勢の岬の人たちが駆けつけカフェ再建を手伝う。女主人公は「もう一度やろう」と立ち上がる。
さぁ、誕生日に観た心温まる映画に励まされた78歳、新しいスタートですよ。
2014・10・24
映画「春を背負って」を観て感じた 木村監督の哲学
久しぶりに劇場で映画を観た。カメラマンで監督の木村大作氏の作品には、雪を冠った3000mの立山連山の雄大さ、夕日に輝く立山の優雅な美しさなど大自然の四季が写し出され、圧倒された。
それはガレガレの立山を雄山まで苦労して登った体験があるからかも知れない。同時に75歳という年でカメラ担いでの山道は考えられない険しさだったであろうと思いやられ、彼の人生哲学を感じた。
5年前「剣岳 点の記」を観たが、あの映画では、地図つくりの世界に剣岳の大自然の雄大さが活き、木村監督は最優秀監督賞を受賞している。
「春を背負って」は、大自然の厳しい山小屋生活を描きながら、人はみな心の居場所を求めて生きている。そんな哲学を、遭難など山の厳しい天候変動などで映像化している。
原作は笹本稜平の同名小説であるが、舞台を奥秩父から立山に移した。
「人は何かを背負って生きていくしかない」という木村監督の人生哲学を、3000メートルの大自然の山小屋で生きる人たちで具体化している。
主人公はときに虚しさを感じながら、株式、債券や為替など比較的短期に売買して、多額の金を動かす(トレーダー)の仕事をしているが、父親の死をきっかけに山小屋を継ぐ決心をする。
その小屋で働いている女性は、親が死んだとき妻子ある男と旅行中だった。心に深い傷をもった女性は、山で遭難しかかったときに、山小屋の主人に助けられてその小屋の住人になった過去を語る。その場面が圧巻で心を動かされた。
もう1人、世界を放浪してきた山男は、死んだ小屋の主に「息子を頼むと山小屋の主が夢枕に立った」という縁でこの小屋で働いており、3人とも人生の居場所として選んだ厳しい山小屋生活をしている。
単独行の登山者が主人公の制止を無視して、土砂ぶりの中登り始めて遭難した。救助隊のお蔭で命拾いし、入院した事件があった。
また苦労を共にしている山小屋で突然、死んだ父に息子を頼まれたベテラン山男が倒れた。小屋の中で発見した女性に「もうおれは死んでもいいんだ」という場面もあった。
救助隊を待っていられない。隊のくる方角へ一歩でも近づこうと、主人公はその山男を背負っていくシーンは胸打たれる。「おれはまだ新米、あんたは死んだらだめだ」と大声で怒鳴りつつ、救助隊の来る方向へ歩く。
「人生は徒労の連続。一歩一歩自分のぺースで歩けばいい」
「人はみな心の置き場を求めている」
山小屋での厳しく、美しい大自然との触れ合いと、家族や人の温かさ、哲学が感じられた。
映画の中の会話。山小屋家族3人の中の一人、山男が「おれは、もう死んでもいいんだ」すると主人公が言う。「死んだら駄目だ、おれはまだ新米だ」が強烈だった。
不思議なことにその日の夕方、道路の端で人が倒れている現実に向き合った。
犬の散歩に行こうと自宅前の道路に出た。数歩歩くと隣の家の敷地の前で頭と顔は50センチ位に伸びた草の中、背中からお尻と足が動けなくなっていた。
最初、道路の側溝の掃除でもされているのかなと、通り過ぎようとしたがよく見ると、人がぶっ倒れていたのだ。驚いて、胸がドキッとした。
大変だ! 犬を道路脇の鉄柵につなぎ「誰か! 人が倒れています!」と叫んだ。
駆けつけてくれた女性と2人で、動きそうもない男性の体を何とかかつぎ、やっと横から縦にできた。低い椅子を持ってきて座らせた。
名前は言えない。小声で「家には誰もいない…」「救急車なんて呼ばないで…」
外出帰りの隣の若い女性たちが「救急車呼ばなきゃ…脳梗塞か何かだったら…」と強引に携帯から救急車を呼んでくれた。親しい人も、そうでない人も力を合わせた。
男性は駆けつけた救急隊員たちに助けられて、救急車は走り去った。
どうでもいい命なんてない。倒れた人の姿は明日のわが身なのだ
人は居場所を求めて生きている。徒労の連続かも知れない。が、一歩一歩歩けばいい。
貴重な一日が暮れた。
2014・6・25
平日の朝9時半、映画館は満員だった。
映画「永遠の0」は、1941年第二次太平洋戦争で日本がハワイ真珠湾攻撃した頃から始まる。開戦当時は「万歳々々」「勝った勝った」と威勢が良かった。この映画の山崎監督が「戦争末期は日本の国全体がある種の狂気に囚われ、追い詰められていた気がする」と言う。
それは出演したベテラン俳優たち全員のことばにも共通していた。
山本学 「戦時中は子ども、小学生だった。現代がどういう時代なのか改めて感じてもらえるのではないか」
平幹二朗 「戦争を知らない世代の人々にも見てもらって、いまの平和の中での暮らしを見つめ直してもらいたい。生きることの尊さを理解してもらいたい」
橋爪功 「僕は戦時中子どもでしたから、戦争をよく知らない。その僕が70歳ということはほとんどの人が戦争を知らない。やはり伝えていかなければならないと思います」
夏八木勲 「日本人である限り避けて通れない、歴史の重要な1ぺージですから改めて噛みしめないといけないし、この映画がそういうことを若い人たちに知ってもらえるいい機会になるんじゃないかと思います」。映画完成待たずに逝去された。
風吹ジュン 「『三丁目の夕日』と同じように温かいものを貰える作品だと思います。この映画は引き継いで伝えなければならない大事なテーマを描いていますから、若い人たちにもぜひご覧頂たいです」
これら勢ぞろいのベテランたちの意見をさすがだと思った。
この映画の監督は、人情味溢れると好評だった「三丁目の夕日」の山崎貴で、原作は百田尚樹の小説である。
実はこの作家が、「憲法を変える」「戦争のできる国」にしたいとも取れる強引な国会運営をしている安部内閣に協力。ともとれる行為で映画を観るのを迷っていた。が、観るだけ観て考えようとなった。
映画全体で何より考えさせられたのは「死との距離」「生きる意味」についてである。
今年の年賀のあいさつを書いたとき、とりあえず約20人の人に「加齢により来春から賀状欠礼」を加筆した。15年も20年も会っていない方たち、もうお会いすることもないだろう。とはいえ、おひとりおひとりにお世話になったのに・・・。でも間違いなく終わりがくる。迷いながら「死との距離」を考えいっとき感傷的にもなった。
増してや親や、愛しい妻や子と引き裂かれ、厳しい訓練と死の飛行。特攻隊で弾玉の一つになって死んでいく様は、虚しさに涙が出た。
満員の館内右隣の中年男性も左隣の老年男性もその隣の女性もみんな涙を拭いていた。
映像場面として印象的だったのは、特攻隊として死んだ祖父の真実を取材している孫が、大学の合コンのホテル会場でメンバー男女6人に「特攻隊を調べている」というと、みんな「特攻隊?知らない。自爆テロのこと?」「こんな場にふさわしくない」と言われ、怒って「僕帰る」とドンと机をたたき席を立つ場面だった。若い人たちにあまりにも遠い過去である。
この場面は原作にはない。
第二に印象的だった場面は、主人公が小隊長として特攻隊となるメンバーに飛行射撃の指導をした。その中の一人が技術不足で墜落した。上官は小隊長をバンバン殴る場面。
「なぜ特攻になる許可しないのだ」と死にそうに殴られても倒されても「あいつはいい奴でした」と言い続ける小隊長、教えている連中が小隊長の人間性を見なおす場面である。
第三に特攻隊として死んだ祖父がいつも「娘のために生きて帰らなきゃ」と言って意気地なしだと言われた。
取材に対して「死ぬ覚悟がない」「技術はあっても肝心の所で逃げる」などと言われ続けた取材の後、生死ぎりぎりの中で「あんたの祖父はまともで信頼している」と言う生き残りに逢った。
取材終えた孫が、現代の何の変哲もない男女や、高速を走る車に現在の世の中を見る場面である。それは当たり前ではなかった歴史の上に築いてきたのだ。若い人たちに考えてほしいと思った。
全体を通して、蒼い空にふんわり浮かぶ白い雲、繰り返される死闘。難しかっただろう大空を駆け巡る戦闘機ゼロの撮影に感心した。
百田尚樹のことばが、素直に胸に入った。
「自分がいま生きていることの素晴らしさに気づいて欲しい。自分の人生は自分一人だけのものではない。誰のために何のために生きているのかということを改めて知ってもらいたい」
2014・1・21
評判のアニメ映画「風立ちぬ」は観ない、と夫婦で決めていた。理由のひとつは新聞に載った批評にあった。
「ゼロ戦の飛行機を作る話、戦争に関係することもあり・・・」
それなら、今まで夏休みなどに共働きの息子や娘夫婦から孫たちを預かり、年寄り夫婦は孫の幼い頃から一緒に愉しんだ。
「となりのトトロ」「もののけ姫」や、「千と千尋の神かくし」「風の谷のナウシカ」「崖の上のポニョ」などなど、みんな飛ぶことに関係ありだけれど、夢のある楽しさを満喫した。
特に夫は宮崎駿の全作品を観ている。
だから特に「風立ちぬ」を観なくてもと思っていた。
「風立ちぬ」は、アニメ映画の傑作を数多く創った宮崎駿監督が自ら最後の作品と発言してから、余計評判になった。
とうとう映画館に来てしまった。
長い行列で買った切符でやっと満員の席に座れた。
画面はいきなり関東大震災で家々が揺れながら壊れる。方々で火事になり次々火の手が上がる場面から始まった。
その画面に描かれた絵の美しさ、巧みさに圧倒された。
実在の人物で美しい飛行機つくりに夢をかける堀越二郎と、堀辰雄の小説の悲恋を絡ませた筋だった。
風立ちぬ 公式サイト 風立ちぬ 劇場予告編4分 -
YouTube
大正から昭和へ変った当時の日本は、世界的不景気と貧乏、関東大震災と辛く苦しい時代で次第に戦争に突入して行った。
関東大震災の絵コンテが出来た翌日に3・11東日本大震災が起こったという。1カットも直さずに作れたとか。
素朴な日本の家並み、美しい野や山にホッとする。
美しい飛行機を作る夢を持ち続ける主人公だった。人へのやさしさがあった。
恋しあった女性が結核という不治の病で死んでいく悲恋と、「創造的人生の持ち時間は10年だよ」ということばのやりとりに、主人公だけでなく大勢の製作メンバーや監督の宮崎駿を感じ、人生を考えた監督最後の切実な想いが観る者のこころに響いた。
夫が病に倒れてから2年間、なんとか回復できたと言っても、どこにも外出していないことが、この映画を観ないもうひとつの理由だった。
京都に大事な用が出来、京都在の長男の家で2時間昼寝させて貰う約束で新幹線に乗った。何とか無事帰ることができたので、やはり映画館も行ってみようとなった。
「風立ちぬ いざ生きめやも」は私たち夫婦の心のことばにもなった。
2013・9・11
新藤兼人の遺作「一枚のハガキ」
赤紙一枚で突然平和な家族生活を奪われ、一人で5人の子育てをした私の母はもういない。B29の爆撃に逃げ惑い、学齢期の子どもだけ親類に疎開した。
名古屋大空襲で家を焼かれ、親類の助けがなかったら今日の命はない。母たちの苦闘を思い返しながら、映画「一枚のハガキ」を観た。
この映画は、99歳で逝った新藤兼人監督の遺作である。
赤紙が来たら、生活すべてが一変する戦争の時代、画面は出征の村人を送る行列、次の画面はすぐ折り返し反対方向へ向かう。戦死者の位牌を抱える行列となる。
そのテンホ゜感に驚いているうち、村の慣わしで長男が死んだら次男が後継ぎになる。愛していた夫の戦死を悲しむ間もなく、家のために次男と結婚する。間もなくその次男にも召集令状が来る。そして、次男の戦死の知らせ。それを悲観した義父が死に、義母も自ら命を断ってしまう。
なんであんたは生きとるの?〔うちの人は死んだのに〕
この言葉は、くじ引きの軍事作戦により行く先が決められた兵士たちが、100人中6人だけ生き残り、94人が死んだ。引き上げた兵士が、元の仲間が託したハガキを持って独りになった女主人友子を訪ねて来た。そのときに友子が思わず相手に投げつけたことばだった。
そのハガキには「今日はお祭りですが、あなたがいらっしゃらないので、何の風情もありません。友子」とあった。戦争にすべてを奪われ人生を狂わされた主人公たちは、それでも生きねばならなかった。
ハガキを持参した啓太は、復員したが家は空っぽだった。妻は夫は死んだと思い、義父と出来て家を出ていた。
失望した啓太はブラジルへ行こうと決めてから、預かったハガキのことを思い出し友子の家を訪ねた。
友子は訪れた相手に大声で怒鳴ったものの、愛していたのに奪われた亡き主人のことがいろいろ聞きたくて、話が終わらない。
訪れた啓太も、くじ運だけで生き残った自分に罪悪感を感じていて話合うが、日暮れて暗い山道を心配した友子が「せめて食事で腹ごしらえを」と勧め、五右衛門風呂にも入って泊まらせて貰った。
友子は離れた納屋に。
友子は3人目の男性啓太との結婚を決めた。朝、暖炉で位牌と手紙を燃やし一升酒を飲み、暖炉に流された酒から火は家屋に燃え移り、住む家も燃え尽きた。
戦争の理不尽さに振り回される様を、少しの甘さもなく体当たりで熱演する主演の友子と啓太〔大竹しのぶ、豊川悦司〕、戦争をしらない世代にぜひ観て欲しいと思った。
一夜明けて、突然の火事に呆然としながら2人は話し始める。「ブラジル行きはやめて、この地で一握りの麦をまこう」「二人でみんなの分まで生きていこう」と、立ち上がるラストシーンに救われた。
「一枚のハガキ」は、キネマ旬報作品賞、日本アカデミー賞優秀作品賞、ブルーリボン賞監督賞や毎日映画コンクール日本映画大賞など、数々の賞を受賞している。
『一枚のハガキ』公式サイト−コメント、予告編
山田洋次監督は「新藤さんの叫び声が、そのままフィルムに焼き付けられたような、これは本当に特別な、尊敬すべき作品なのだ」と絶賛している。
2012年8月24日
「こんないい加減な子育てでもいいんだよ」
映画「毎日かあさん」がくれる安堵感
映画全体を通して感じるのは、自然体。子どもとのやりとりも、男とのやりとりも、さらに女の気持ちの表し方も、全くの自然で・・・。無理なく納得して見続けられた。
日頃、漫画は読みにくいと敬遠派の方だが、映画の原作は、漫画家西原理恵子氏である。
文化庁メディア芸術マンガ部門優秀賞ゃ、手塚治虫文化賞、文芸春秋漫画賞など受賞している実力派らしい。日本アニメのレベルは世界的にも認められる高さとか。
主人公の夫は戦場カメラマンとして外国へ、帰国して文章を書くと言いながら、アルコール中毒になり、最後はガンで死亡する。
主人公は、母親の援助を受けながら子育てと、漫画家の生活を両立させている。
『毎日かあさん』予告編 映画『毎日かあさん』オフィシャルサイト
夜寝るとき、子ども二人に本の読み聞かせをする画面があるが、その本とは「はらぺこあおむし」「ぐりとぐら」など、自分の子育てのときと同じ絵本で、あの素敵な絵本と素敵なときが、とても懐かしく素直に馴染めた。
主人公のように、毎晩いっぱい飲みながらだけは違ったけれど・・・。
二人の子どもは、忙しい中で、きびしくてもやさしい母親の子育てに満足しているが、やはり母が離婚したので会えない父親の味も懐かしく、あるとき「この川は海につながっているから、父さんとこへ行ける」と、二人で小型ボートに乗ってしまう場面にはらはらした。
その様子を見つけた警察の人に助けられた。暗くなっても子どもが帰らないと大騒ぎになり、警察からの連絡で迎えに行く親。
もう一つは、難しいアル中の治療に挑んで何度も挫折し、病院へ入ったり外出が許されたりの状態が続く。闘病中にガン発病を知り、アル中と真剣に向き合いながら次第に衰えていく様が哀しい。
やせ衰えた体の夫に「もし、あんたがお酒やめられたら、うちに置いてやってもいいよ」と、希望をもたせる。「絶対むりだと思うけど」と、憎まれ口も忘れない。
6歳になってもオネショのくせが治らなかったり、1年生になったばかりのブンジを学校をさぼらせて虫取りを楽しませる父親、それに「おとしゃん」といって慕う妹フミである。毎日の保育園への送り迎え、ああやったやった、あの戦争のような忙しい毎日を。
映画では離婚していても、やさしい思いやりを捨てられない夫婦がよくわかる。これは漫画家、西原理恵子と夫だった鴨志田穣の実体験だけにリアルに迫る。
また、自然体で演じる役者、小泉今日子と永瀬正敏は離婚しているが、その状態のままで演じる演技は観客を納得させる。
そうなんだ。「こんないい加減な子育てでもいいんだ」に、みんな安堵し、「男はだらしないところがあるんだ」に納得し、「働いて、子どもを育てて、あんたを見送って。わたしのやってることは、世界中の全部の女がやっていること」。
そして、「お互いフォローしあって生きようよ。お母さんも働くのを辞めないで、働く苦労を知り、お父さんも子育ての苦労と喜びを知ろうよ」。
原作者が言いたかったことを、みんなごく自然に受け入れられる。
そんな現代の、素敵な映画でした。
映画「沈まぬ太陽」を観て
50年も経つと、いろいろな事件や出来事が単なる歴史になる。
国中が揺れた1960年の日米安保条約改定と反対闘争、若い人が「あれは関が原の戦い」と言ってのける。
その後の70年安保闘争さえ体験していない。まして、すべての悲劇の源になったあの戦争、飢えも恐怖も、家族を死なせ、何百万という人間の死も、遠い遥かな過去になりつつある。
「関が原の戦い」体験者は、1962年、群馬県御巣鷹山で起きた悲惨な飛行機事故現場の映像に圧倒された。
大作「沈まぬ太陽」は、3時間半近い上映時間なので、途中に10分間休憩があった。
原作が余りにも有名な山崎豊子で、現代航空業界に似たような現実があり、「これはフィクション」を強調していた。
しかし、御巣鷹山での悲劇的墜落現場と、520人の死者とその遺族、人の命こそ全ての土台、そういう立場を貫いていた。
第一に、労働条件悪化で、組合が立ち上がり激烈な団体交渉をする場面、「人の命に関わることだから、とことん戦う」。当時の雰囲気がよく出ていた。委員長、書記長はじめ組合員の頑張りで一定の前進はするが、人の命を預かる責任まで負えるところまでは成果が上がらない。
会社側は活動を止めさせるため、主人公の組合委員長にパキスタン、イラン、ケニアと9年間に3回も、遠い外国勤務を命じる。主人公は単身赴任を余儀なくさせられる。
一方で会社は、第二組合など作って組織破壊を企む。
アフリカ行きを命ぜられた主人公が、反抗し続けていた息子の成長もあり、人として自然体で話す場面で、ホツとするシーンもあった。
第二に、組織にいると上を目指さざるを得ない。仕事なんてと、簡単に職を辞するわけにはいかない。それらの日本的な風土が、高度な経済成長を作り上げてきた昭和という時代だったように思う。
そういう点で、主義を曲げない主人公は、遠い外国へ左遷され、当時の書記長は仕事を与えられず、一挙手一投足を監視されて苦しむ。 やがて自ら死を選ぶが、その直前、上級幹部に登りつめた、元組合幹部の不正行為を警視庁に告訴する郵便物を投函する。
映画のラスト近くこの書記長は、主人公の元委員長と会い、最後のことばを交わす。そして自殺の名所である東尋坊に身を投げる、この場面はジーンと来た。
その後、幹部になった組合の元幹部が逮捕されるシーンも安堵できた。
原作が、しっかりした土台と社会性をもっているので当然であるが、見応えあるこの映画が、2009年の日本アカデミー賞を受賞した。
さらに作品賞、監督賞、主演男優賞など12部門に輝く賞を受けたこの映画は、原作者が「映画になるまでは死ねない」と言ったほどの渾身の一作である。映像化までには10年の歳月を要した。
あえて言うなら、組合活動など衰退の一途の現在、あの頃の鉢巻締めた活発な団体交渉のような事態は、若い人たちにはやや違和感があるのではないかとも思った。
印象的な映像シーンとして
何度もの単身赴任で、家族の心はバラバラの状態があった。しかし、再度のアフリカ行きのとき、成長した息子に話すと、息子は近くの牛ドン屋で父と一緒に食事しようと言い、父親は驚きながら従う。そして食べ始める。紅しょうがを山盛り、息子のどんぶりに盛る場面、理解し始める親子がしっとり伝わる。
墜落直前の機内で、ガタガタ揺さぶられながら、指示どおり避難器具を身につける乗客、小さな子どもの必死な姿、激震する機内で親族への遺書をメモする乗客・・・壮絶な場面だった。
さらに、事件後墜落した御巣鷹山に、木の墓標が何百と立ち並ぶ様は身が引き締まった。
映画を観終わって、2年前急死した義兄が、日本のトヨタ車販売のため、若い頃から赴任したアフリカの風景、キリン、ライオンなどの出てくるシーン、特に象の親子が十頭ほど、正面向いて歩いてくる場面、そして「象をうつ」。
大自然の場面が強烈に目に焼きついた。
そして、一家で赴任したポルトガルや、受験期の子たちを日本に残して、10年もの間、ドイツの責任者として生きた人生が重なってしまった。
2010年3月
映画「グラン・トリノ」に観るアメリカ社会
映画の主人公ウォルト・コワルスキーは、妻に先立たれ一人孤独に暮らす。
離れて住む息子が2人いるが、その連れ合いにも孫にも、偏屈ガンコジジイは悪口雑言、言いたい放題で嫌われている。
年寄りがまだ生きているのに、形見だと言って、妻のダイヤを持っていく家族でもある。
ガンコジジイは、それらの孤独に耐えている。
コワルスキーが、自慢の車を盗まれそうになった事件が起き、隣に住むモン族の家族との交流が生まれる。老人はその若者や家族と心が通じ始める。
モン族はラオス高地に住み、アメリカCIAが傭兵として密かに使った民族である。戦いが終わり難民としてアメリカに入って来たとは、まるで知らなかった。
グラン・トリノは、繁栄の象徴フォード社の、車名だったとは。初めて知った。
コワルスキーは、朝鮮戦争で自らの意志で人を殺している。繁栄を謳歌した大国アメリカだったが、アメリカ人らしく働き老年になった主人公の住む町は、移民が来て、親戚などが寄ってくる。町はすぐ異民族だらけになった。
白人は主人公一人だ。
衰退し始めたアメリカで、働かない若者たちが不良仲間になる。隣に住むモン族の若者が、真面目に生きようとしていたので、コワルスキーは大事な道具まで貸して、その若者を育てようとした。
ある日、その若者タオは不良仲間に道具を奪われ、暴力を振るわれて、頬に深く、ひどい傷を負わされた。タオの姉は、勇敢にも一人で不良仲間に抗議に行く。と、仲間に強姦されてしまうのである。人の心はここまで荒むのか、
それを知ったコワルスキーは、それらのぐれた若者を断固として撃つ、と立ち上がる。
無信仰、ヘビースモーカーで血痰が出ており、先の短い自分が、人に役立つことは何か、熟慮した上で、一味のアジトへ乗り込んだ。撃つ気はない。
コワルスキーは、自分を殺させ、殺した者たちが長期の刑罰を受けるようにしたいと考えた。
ポケットからライターを取り出す。途端、若者たち3、4人が銃を乱射して殺した。
壮絶なラストシーンだった。
人の役に立つのに、こういうやり方があるのだ。
人は誰でも死ぬときが来る。死に向き合うとき、引き継ぎたい何かを考える。
「やるだけやった。これでいい」と、満足して旅立てる人ばかりではない。まして、人の役に立つ死に方を考える人は、多くはないのではと思う。
口の悪いガンコジジイが残したもの、それは人への深い愛だった。
朝鮮戦争やベトナム戦争で精神的マイナスの影響を受けたアメリカ人は多い。モン族がベトナム戦争で、たくさんの兵士や一般人の命を奪ったことは秘密にされている。
それらを考えると、人の死を真摯に考え、かつ、社会性のある眼でしっかりと歴史をとらえた映画に脱帽した。
78歳の名優クリント・イーストウッドが、顔も声も老いた表現での体当たりの演技だった。
これが俳優として最後の役、そんな意志が感じられた。
この映画で、神を、神業を感じたという有名人もいた。
全席満杯、最前列の端っこで、私たち夫婦も感慨深く観終わった。
〔2009年5月〕
映画「マンマ・ミーア」は物語にハートがある
子は育つ。そして進学、就職や結婚で離れていく。その寂しさと喜びは、どんな親もさまざまな形で体験する。喜びに浸り、それ以上の寂しさに耐えて・・・。
わが家の子たちも、いまはそれぞれ、2人の子どもに恵まれ、夫婦ともに働きながら時代を生きている。
長男が京都に進学するまで共にした18年余りの年月、親子が別れて、いつの間にかそれより長い年月が過ぎた。
娘が結婚する時、早過ぎるという親の意見を無視して、自分で決めた。
「長い間育ててくれてありがとう」の置手紙を見つけてから、暫くの間すべてが虚しかった。
というのが正直なところだった。あれからでもおよそ10年の月日が走り去った。
そして、「疎開児童もおばあさんになりました」。
映画「マンマ・ミーア」の主人公は、シングル・マザーの肝っ玉かあさん。
娘が好きな人と結婚するという試練の転機がきた。
20年前、当時3人の付き合っていた男性がいて、娘の父親は誰かわからない。
これだけで、もうこの音楽物語の質が解った。というのは早とちりだった。
「マンマ・ミーア」は、世界170以上の都市で、3000万人以上の人に大人気のミュージカルといわれている。ミュージカルの舞台は観ていないが、どんな映画かと、期待しないで映画館へ行った。
気分転換のつもりで観た映画は、踊り、歌い、話しながら、伝わってくるものがあり、ハートに響いた。
映画の舞台はギリシヤ、エーゲ海に浮かぶカロカイリ島。その大自然の見事さに、気分が完全に解き放たれる。
結婚する娘が、自分の父親は、母親の男友達3人のうちにいる。一緒にバージンロードを歩きたいと、母親に内緒で、3人に結婚式の招待状を送る。
愉しい結婚式まで、涙ぐましい冒険物語並みの事件がおきる。
それはさておき、この映画の主人公は、すばらしい踊りと、歌で人生をなぞってくれた。
50歳なんて遠い昔と言う、主演女優メリル・ストリーブは1949年生まれの60歳。その姿、体力の若々しさはともかく、吐き出すことばがいい。
「この物語にはハートがある。他人を許すこと、若いときにミスを犯したこと、でも後悔しないこと。」
「それに仕事を一生懸命することや、人生をエンジョイすることが語られるから」。
過去2回アカデミー賞に輝き、ノミネートされたのは14回という、演技派女優である。
さあ、私も長年の仕事も卒業したし、この映画に登場する人たちのように、他人にやさしい温かい目をもち、後悔しない人生をエンジョイするのだ。
映画「私は貝になりたい」の執念 戦争は悪い
映画「私は貝になりたい」で自然に涙が滲んだのは、映画より自分の戦争体験というのが正直なところである。
それは私の母親が、夫を赤紙一枚で戦争に取られて5人の子どもを育てた、不運としかいいようのない人生に重ね、理不尽な戦争への怒りに対してである。
この映画は「戦争はわるい」に徹していた。監督や、脚本家橋本忍氏の執念は、それをどう表現するか、かつて大ヒットしたドラマ、フランキー堺演ずる「私は貝になりたい」の1人称を、妻や息子、或いは軍隊での上官や、キリスト教信者など、3人称に広げたという。
二番目に感じたのは、撮影場所がすばらしく美しいこと。景色にこだわり、日本中を歩き廻って探した。その結果、讃岐の諸島、西の島に決めたと知って納得した。心に残る日本の風景である。
そのようなこだわりを出演者にも求め、主役の中居正広には徹底してやせることを要求した。戦争中、食べる物もろくにないのに、現代のような恵まれた食事では、およそイメージが違う。中居もその気になり、9キロも減量したが、そのために最後は断食になったという必死さだった。
映画の終盤、予想に反して死刑が決まり、手紙を書くシーン。それと絞首刑の太い縄と一緒に映った顔、あのやせこけた顔と虚ろな目こそ、普通の演技ではとても出来ないものだった。
突然の赤紙で、ふつうの生活を奪われた理髪屋が、戦争中に上官の命令で捕虜を殺した。戦後、戦勝国の一方的な裁判でBC級戦犯にされ、捉えられ死刑になる。その不条理。
1948年、連合国側はあの戦争を起こした責任者として、A級戦犯28人を裁き、7人を死刑にした。ショー的雰囲気の中で日本人の注視を集めた。
元防衛大学教授の見解によれば、それこそが連合国軍の狙いで、この間に大量死刑、大量長期禁固刑のBC級裁判が大車輪で行われた。
1951年6月、BC級の戦犯としての5644人のうち、934人が死刑に、3413人が終身刑になった。この歴史的事実がこの映画の大前提にある。
房江、健一、直子、さようなら
お父さんは、もう2時間ほどで死んで行きます。
お前達とは別れ、遠い遠いところへ
行ってしまいます・・・
もう一度会いたい・・・
もう一度みんなと一緒に暮らしたい・・・
中略
お父さんは生まれ変わっても
もう人間にはなりたくありません。
人間なんて嫌だ、
こんなひどい目にあわされる人間なんて・・・
牛か馬のほうがいい・・・いや、牛や馬なら、
また人間にひどい目にあわされる・・・
いっそのこと、誰も知らない、
深い、深い、海の底の貝?
そうだ、貝がいい!
深い海の底なら・・・戦争もない・・・兵隊もない・・・
房江や健一、直子のことを心配することもない。
どうしても生まれ変わらなければいけないのなら・・・
私は貝になりたい・・・
人は集団でしか生きられない。人は個人と家族、個人と職場、個人と社会、
国の枠の中でしか生きられない。
そのしがらみに抵触し、ぶつかることのいかに多いか。
生活は便利になった。よくなった・・・けれど・・・。
いっそ貝になりたい。
こんな「貝志向」の人が、今はもっと増えていると思う。
あの理不尽な戦争が終わって63年、戦争を知らない人がほとんどになった。
不穏な動きもある。
映画館は、中高年の人たちで満員だった。
「死ぬ気になれなきゃ 食うしかない」「困ったことに」
ユーモア溢れる映画「おくりびと」
『「おくりびと」観た?』「観ない。暗そうだから」。
友人たちの会話を聞きながら、予定通り映画館へ行った。
「おくりびと」は、しみじみと人間同士のやさしさを、音楽の不思議な力を、そして東北に聳える雪を頂いた月山や、白鳥など自然のすばらしさなどを、ユーモアを散りばめて私たちに届けてくれた映画の傑作だ。
主人公のチェロ奏者は、楽団解散で仕事を無くした。仕方なく故郷東北に戻る。
旅立ちのお手伝いという広告で、旅行社か何かと訪れたのが、納棺師の仕事。
面接の社長は、履歴書も見ず、即決、感で納棺師に採用する。
戸惑う間もなく、社長と共に納棺師の仕事を実地経験させられ、次第に人の旅立ちへの仕事を、やさしく納得していく。
しかし、結婚相手は、「けがらわしい! どんな仕事でもいいから、納棺師だけは辞めて!」と、家を出てしまう。
映画『おくりびと』紹介、映像、モントリオール映画祭グランプリ
映画『おくりびと』検索 アカデミー賞外国語映画賞受賞
日本の現状は、年々葬式仏教に反発して、近親者だけの葬儀で簡素に済ます人が増えている。また、自然に散骨する自然葬、植樹葬など人が安らかに旅立つようにと、人の旅立ちは多面的になってきている。
そんななかで、納棺師が、きちんと清拭し、美しく化粧をして旅立ちを手伝う風習が、地方だけではなく、増えてもいるらしい。
映画では、自殺した若い人や、死後長い間発見されずに腐敗した状態の独り暮らし老人の、臭気の中での仕事も写していた。
しかし、普通の状態で死者の旅立ちに立会い、丹精込めた手裁きで体を清め、肌を見せずに着替えさせ、見事な美しい化粧をして旅立たせる技は、人に安らぎを与え、芸術的感じさえ抱かせた。
なにより、人はおくりびとも、おくられるひとも、みな最後の時間を慈しむやさしさに溢れていた。
家を出た妻も、知人の死の旅立ちで、夫の技を目の当たりにして、次第に考えが変わっていった。
中でも、こころ苦しいときに主人公が奏でたチェロの音色、暫くの間続いたその旋律に、私は涙を誘われた。
人として永遠に生きることはできない。死は誰にでも平等に訪れる。
製作者たちがいうように、死は平等、普通のことである。そして、死は哀しいだけではなく、生前の輝いていた頃を思い出させる、感情を噴出させるのだ。
美しい自然と、出演者の巧い演技で、暗くなく散りばめられたユーモアに、笑いながら楽しめた。
最後に「死ぬ気になれなきゃ食うしかない」「困ったことに」と言いながら、納棺師の仕事の後で、食べ、語り会う場が、また納得した笑いを誘った。
(2008年10月)
映画「母べえ」を観て こころ揺さぶられた戦争の時代
ゆがんだ戦争の時代が終わって何十年か過ぎ、死の床についた母べえに、「あの世で父べえに会えるから」と、成人した娘たちが慰めるシーンがある。
母べえは言う。「あの世でなんか会いたくない。生きている父べえに会いたい」。
このことばが、いちばん強烈に胸に響いた。
吉永小百合は、人違いかと思うほど、別人のような老け顔で好演した。
母べえの時代は、小さなちゃぶ台を囲んで、わずかのおかずを分け合って食べた。狭い家、粗末な部屋で、袖触れ合っての生活だった。
『母べえ』公式サイト 動画、フラッシュ多数
夫を思想犯で連行され、そのまま獄中生活を送り、死んだ父べえ。母べえはそんな苦境で、2人の子を健気に育てた。父べえの教え子や、おじの、明るい支援もあった。
軍国主義日本が、太平洋戦争を開始した1941年「言論出版集会結社等臨時取締法」が公布され、厳しい言論統制がされた。
いまの若い人たちには、「治安維持法」も、ぴんと来ないかも知れない。
1925,年に制定されたこの悪法は、自由な考え、進歩的な考えの人たちを、徹底的に取り締まった。戦争遂行のために。
この悪法は、1945年の敗戦でGHQにより、やっと廃止になった。
山田洋二監督が言うように、あの時代は「膝つき合わせて生活することで、愛を通わせてきた時代」だった。
わたしたち母子も、赤紙一枚で父をとられた。辛酸をなめさせられた母と、その時代の子供だった。
「母べえ」の母子は、まさに自分たちである。
この映画の原作は、長年映画界で活躍してきた野上照代氏〔80歳〕である。
「父へのレクイエム」で読売の女性ヒューマン・ドキュメンタリー大賞、優秀賞を受賞している。
映画のラストでタイトルロールになって、父べえの長い詩の朗読が続く。
「妻に与える詩」
こよいは君をうたおう
これが君に与える最初の詩だ
まだ十時半だというのに
帰ってみるともう君たちは寝ていた
・・・わが妻がなんと衰えたことか!!・・・・
と嘆き、憤る想いが淡々と、語り続けられる。
作者が言うように、為政者のさじ加減ひとつで、戦時中のようなああいう状況にダーッと雪崩を打つようになっていく。
山田洋次監督は「世の中のずっと明るい場所を歩んできた人には、影を歩いている人の悲しみが分からない」と言う。
あの時代の息苦しさ、理不尽さを知る者ほどそれを感じる。
庶民の何気ない生活で、歴史を刻むいい映画だった。
涙の重み 映画「君の涙ドナウに流れ」を観て
映画の題名から、ロマンチツクな悲恋を想像した。原題は愛国詩人が書いた「自由、愛」。50年もの歳月が経って、なお歴史の真実が胸に迫る。
ハンガリー事件は1956年に起きた。日本では1960年に日米安保条約をめぐって、国中が揺れた。その4年前の事件である。
ソ連によって共産主義国にされたハンガリーは、国情を無視した工業化、集団農場化が進められた。抵抗する者には血の弾圧が行なわれた。AVO〔秘密警察〕に常に監視され、密告される日々の生活だった。
映画は1956年12月に、実際にメルボリンで行なわれたオリンピックでの水球試合で、ソ連に勝ったハンガリーの試合を効果的に使って臨場感を出している。
さらにその試合の花形選手と、祖国の革命に燃える女主人公との恋が、結果的に片やオリンピツクの優勝、もう一方は逮捕されて死刑場に歩く女性の悲劇を結び、東欧で最も美しいと言われるハンガリーのブタベスト、「ドナウに流れる涙」の重さをひしと感じた。
迫力ある水球の試合のシーンと、抵抗する庶民とソ連軍戦車との殺し合い、銃の撃ち合いは凄まじく、これがほんとうに女性監督の作品かと疑ってしまうほどのシーンが多く、力作である。
映画公式サイト『君の涙、ドナウに流れ-ハンガリー1956』 『you tube』
ハンガリー事件には人それぞれ考え方がある。
はっきりした事実は、小国ハンガリーが、共産主義国ソ連の鉄の支配に抗議して立ち上がり、必死の抵抗に、一旦は引き揚げたソ連の軍隊が実は偽装撤退で、1週間後に再び戦車で攻め入った。
戦車、軍隊と、素人の庶民が武器を持って戦う悲劇であった。3万人が死傷し、20万人の人が祖国を見限って亡命した。
12歳で祖国から亡命したプロデューサーが、アメリカで長年活躍しながら、祖国の悲劇的事件を忘れることが出来ず、50年後に映画化を企画したものである。
日本での60年安保闘争、70年安保闘争、それが青春時代と重なった者は、激動の歴史に想いがある。
70年安保を闘った後輩が、あるとき「60年安保は僕たちにとっては『関が原の戦い』くらいのものだ」と言った。その言葉に、自分の歳を自覚した。
同時に、遠い異国の「ハンガリー事件」は当時、自身も関心が薄く、「社会主義は理想社会」の夢を描き、安保闘争にものめり込んだ者として、少し年長者の進歩派、世界中の良心派の心を捕らえた事件であったことを思うと、恥ずかしくなる。
「日本と米国が軍事的同盟だけでなく、経済的にも従属関係になってしまう」という趣旨で、署名活動やデモで意志表示した。国会周辺が働く人たちや学生のデモの波で埋まり、女子学生の樺美智子が殺されたあの頃の日本の激動を思う。
国会での強行採決に国民が怒ったのがスタートになったが、結果的には日米安保条約は通った。
そして国会突入した無防備な学生たちの多くが負傷し、踏みにじられて死者まで出したが、警官が警棒で殴る蹴るの乱暴を働き、頭を割られる者、血だらけになって虫の息になる者続出で、激突ではなく学生たちが一方的に叩きのめされただけだった。
〔保坂正康著『60年安保闘争の真実』〕
彼らの行動にはいろいろ意見があったにしても、厳粛な事実は消せない。
国民の統一行動で、米国大統領の来日も中止になった。
歴史の何が真実かは、何十年も経って初めて分かることもある。
映画出演者から「1956年の事件は反革命運動と教えられたが、1989年の共和国宣言〔東欧革命〕から、信じがたい事実が明らかになった」との発言もあった。自由になるために、実に33年の歳月が必要だった。
映画の女主人公の信条が固かったのは、AV〇〔秘密警察〕に両親を殺された辛い過去があったから。それだけに、涙の重さが真実味を帯びて迫ってきた。
自由の国に生まれた者には理解も及ぶまい
だが私たちには何度でも繰り返し噛み締める
自由がすべてに勝る贈り物であることを
天使のうた マライ・シャーンドル〔ハンガリー人の作家〕
〔2007・12〕
ドイツ映画「善き人のためのソナタ」は、題名からロマンチックな映画を想像した。が、映画終了まで緊張の連続だった。意外だったのは、場内はほぼ満席で、若い人も多かったことである。
物語は、ベルリンの壁崩壊の5年前、1984年の東ベルリンである。
国家保安省〔シュタージ〕局員が、反体制的と目をつけられた劇作家の行動を探れと命令され、アパートに盗聴機をつけて、屋根裏部屋で盗聴を続ける。
盗聴中、劇作家の恋も性行為も、全て監視し続けたこのシュタージ局員が、盗聴機を通して、初めて芸術や美しい音楽や愛情にふれ、作家の部屋から盗んだブレヒトの詩を読むうちに人間らしい感情に目覚め、変わり始める。
同じく反体制と目をつけられ、仕事も当局によって奪われた脚本家が贈った「善き人のためのソナタ」を聴き、ひと筋の涙を流すところが一番印象深いシーンだった。
音楽のもつ不思議な力を感じた。その脚本家は、間もなく自殺する。
劇作家は、東ドイツで自殺が多いことを記事にして、西ドイツの雑誌記者に渡してしまう。劇作家と恋に落ちた女優も、初めは相手を監視し情報を探りだす任務だった。主人公のシュタージは、次第にこの2人を助けようとし始める。
劇作家の恋人は、人を愛することと、国から強要された密告の任務とのジレンマに苦しみ、自ら車に轢かれ死を選ぶ。
ベルリンの壁が崩壊して、劇作家は恋人を失ったが、自由になった社会で新作を発表する。助けてくれたシュタージの秘密コード記号、それへの献辞が書かれた本である。
いまは郵便配達をしている元シュタージは、その本を1冊買い、黙って立ち去る。印象的なシーンである。この主人公は国家権力に反対する者を、監視し、生活の全てを盗聴することに何の矛盾も感じなかった人物である。
人類は理想を追う。世の中は矛盾だらけだから。長い間、私たち夫婦は社会主義体制に人類の理想社会を夢みた。しかし、この映画の舞台旧東ベルリンのような監視、盗聴が当たり前の「怯えの社会」は、考えただけでゾッとする。
人間の本能的なものに、人の生活をのぞき見たい、ということがあり、シュタージなどはそれを活用していたとも言われている。
30年近い昔になるが、そんな個人的体験をした。
真面目な党員として、地域の離れたところに住むアカハタ読者に、週1回日曜版を配っていた。自転車の前に赤子の長男を乗せて、15分くらい自転車で走った。近くの人につけられているのも知らずに。
私を尾行して、「日頃は勤めで留守が多く、日曜はあんな遠い地域までアカハタを配りに行っている」と言っていた。そんな話を、他の友人から聞いて驚いた。尾行した人を怖いと思った。
また、共産党第8回大会代議員になったとき、自由なはずのこの日本で、公安調査庁に執拗に尾行をされた体験や、ときが経って逆に、夫が共産党からの尾行・張り込みをされた経験もある。
あの当時のいいようのない、絶望感に似た不安な気持ちは、生涯忘れることが出来ない。
先日の新聞〔中日新聞3月10日〕は、モスクワからの報道として「ロシアプーチン政権に批判的な記者が、軍事機密暴露の直前、自宅アパートから転落死したこと」を報じ、93年以来批判的ジャーナリストの死者は、214人になると報じていた。
映画「善き人のためのソナタ」は、それらの記憶を生々しく呼びさました。
この映画は、人が人らしく生きる根本に触れた、魂を揺さぶる映画である。(2007年3月23日)
政治の季節『私への公安による尾行と、夫への共産党による尾行・張り込み』
連作短編1『復活』つけられる女と男、復活
この映画は、女主人公が、2人の子と共に車で家を出るシーンで始まる。夫に殴られ続けた顔には、くっきりあざのような痕がある。
この女性は、高校生のころ教官にレイプされて妊娠した。そのときの男の子と、父親が違う幼い女の子を連れて両親の所へひとまず帰る。 炭鉱で働く父親は、それを快く思わないし、母親も我慢すべきだとくり返す。
この映画は1989年、アメリカ、ミネソタ州で起きた、炭鉱のセクハラ裁判第1号になったと言う、実話がもとになっている。
女権がしっかりしていると思われるアメリカで、女が、子を育てながら、自分で稼ぎ、生き抜く大変さを生々しく映像化している。
炭鉱は男の職場、女なんかという風潮の中で、生きるために仕事はきついが、給料がいい炭鉱をあえて選ばねばならない女性たちだった。ただ、その数は少なく89年当時でも、男女比は30対1、目を背けたくなるセクハラの連続だった。
採用時に婦人科の診断を受けさせられたこと、主人公が仮設トイレ使用中に男たちでトイレを揺すり、中にいた主人公が汚物と一緒に倒れて投げ出されるシーン、きわめつけは仕事中に他人が立ち入れない高所でレイプされることだ。
『スタンドアップ!』とは、このような絶望的な状態から、誰かが立ち上がらなければ悲劇は続くという、勇気の要る呼びかけなのだろう。
これほどまでのセクハラシーンは、監督が女性だったから描けたと思った。
さらに、主演女優の実体験〔15歳のとき父親が酔っ払って妻と娘に暴力を振るおうとして、母親がその夫を正当防衛で射殺してしまったという悲劇〕を踏まえた、迫真の演技と、美しさが際立っていた。
この女優は2003年『モンスター』でアカデミー主演女優賞を受賞している。
映画は、度重なるあくどいセクハラシーンを撮っているが、単純な女性に対する性暴力というものではない。ミネソタの男たちは、生きるために炭鉱で働いた。祖父も父も息子も。その鉱山に女性が進出した、男と女が生き残りをかけた戦いの映画でもある。そういう意味で、監督や、この性格俳優といわれる女優のことばが重い。
がら空きの映画館は、月曜日の第1回上映だからか、私たち夫婦を入れても観客6人はもったいくらいだった。
当初は正直、戸惑いもあった。労働組合さえ、活動も組織率も停滞している日本の現状に通用するのかと。
次第に映画に引き込まれてしまったのは、人としてなんとか真摯に生きたい。そういう誠実さに打たれたからである。主人公がひとりで訴訟に立ち上がる。裁判風景も、すべて孤立、孤独のなかで進行する。
公判中、会社側と、訴えた主人公やその弁護士のやりとりの状況は息詰まるほど緊迫する。
訴える人が3人以上ないと集団訴訟にならず敗訴となる。
励まし続けてくれた先輩が、難病の筋萎縮側索硬化症で命の終わりも近い状態のなか、訴訟人の1人になる意志表示をする場面は感動的だった。
親が理解を示し、1人2人と訴訟に加わるシーンが胸を打つ。
そのとき、私の頭の中で、およそ30年前、夫が政党から一方的に解雇を宣告され、その理不尽さを訴えて、ひとり裁判闘争に立ち上がったときのことが甦った。その後は除名宣告。それと共に始まった無給貧困生活、尾行、張り込みと、試練が続いたわが夫婦の歴史だった。
一方、夫は言う。君が長男出産後、43日目から出勤し始めて、約2週間後始まったボーナス差別、あの闘いのことがパッと頭に浮かんだと。その事件からも、40年近い月日が流れた。
当時、公務員は全員一律のボーナス支給だったのを、「1%の額を成績不良者から減額し、1%の成績優秀者へ増額する」というものだった。
仕事に自信をもっていた当時、無事産後休暇42日を終え、子を産めた喜びで生き生きと出勤してきた女への、初めての差別だった。
みんなの不安そうな顔が、安堵の表情に変わるとき、確かに1%減らされているのを確認した。瞬時に席を立ち、当時の上司にボーナスをつき返した。
それからの1週間、睡眠不足の体に鞭打って、夜、ビラで不当さと、根拠のあいまいさを書き、友人に刷って貰う。
毎朝、全職員に玄関で配り続けた。あの孤独、あの苦闘は忘れられない。
闇が深ければ深いほど、明けた光りが明るい。
絶望的だったわが家も、東欧革命に続くソ連邦の崩壊で、見えないものが、よく見えてきた。
ボーナス差別は、全国の職場でも様々な抵抗が起こり、労働組合も取り上げざるを得なくなった。そして、次の年末ボーナスからは廃止された。まさに苦しみからの「スタンドアップ」だった。
映画のラストシーンは、裁判に勝った主人公と息子が、明るく笑いながらドライブする道路だった。
どんな人の人生にも「立ち上がれ!」というときがあるのかも知れない。
この映画はそんなことを考えさせてくれた。
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映画『亀も空を飛ぶ』のなみだ イラク戦争とクルドの子どもたち
「これって映画?」「それともドキュメントの映像?」と、心のなかで繰り返しながら観た。冒頭の画面は、思いつめた表情の少女が崖の上から空へ飛ぶ。その少女の目は決して笑わない。涙が出ていなくても、身が震えるような哀しい目があることを知った。その哀しみの深さが、この映画の象徴だと感じた。
イラク映画『亀も空を飛ぶ』は、子どもたち主役の哀しく、逞しい映画だった。子どもたちは、表情も行動も生き生きしていたが、厳しい現実そのものが迫ってくる。力作だった。
笑顔を失った表情の少女は、サダムのイラク兵に暴行され、盲目の子を産んだ。いつもその子どもを背負っている。兄と3人で難民キャンプに暮らす。
兄は両手がない。妹は生んだ子を厭う。なぜ、この子を育てなきゃいけないのか・・・と。
「今、この子を捨てなきゃ、その子が育って物心がついたとき、他人にどう説明するの? その子になんて言うの?」
「村においていくのが一番いいの。あたしひとりでもこのキャンプ出ていくわ」
「毎日同じ文句の繰り返し、もう聞き飽きたよ」兄妹は、貧しく狭いテントの中で言い争う。
大きな岩陰にその子を座らせ、ロープで木に巻きつける少女、捨てられたその子は、「ママどこ?」と見えない目で探す。少女はその子の顔にキスをし、毛布をかぶせ、涙を手で拭いながら立ち去る。このシーンがひとつのやまとみた。
アメリカがイラクに攻めてくる。そう予言したのは、両手がない兄。リーダーの少年は、情報が欲しい村人たちの頼みで、パラボラアンテナを取り付けたり、地雷を集めて、売る世話などして、こどもたちに信頼されている。そのリーダーは、村人たちを丘の上へ避難させる。
そんなとき、仲間のひとりが「手のない子の弟が、地雷原にいる」という知らせを持ってくる。
驚いたリーダーの少年は、「僕が助け出すから腕のない子に知らせに行け!」と言って丘を駆け下りる。大勢の子どもが後に続く。
地雷原に着くと、捨てられた子がロープを手にして立っている。リーダーの子は「動いちゃだめ! じっとしてろ!」と叫びながら、地雷原の中に入る決心をする。みんなが「やめて!」「僕が代わり行く!」などと泣きながら止めるが、その子は助けに入って爆発で足に大けがをする。これが2つ目のやま。実は、リーダーの子は、笑いを奪われた少女に恋心を抱き始めていた。
親を失った子が地雷を探し、地雷で足を失った子が松葉杖をつきながら、元気に走る。子どもたちは、地雷を売って逞しく生きる。
地球の裏側で、毎年、1万人近い子どもたちが手足や命を奪われている。
彼らは教育も、遊びも、一切の子どもらしいことはしていない。「子ども時代」はないのである。あるのは、生まれた途端、大人を頼らず生きねばならない現実だけである。
ゴバディ監督は、記者会見で「決して政治的な映画ではありません。クルドの現実生活を描いている映画です」と言っているが、アメリカのイラク侵攻を圧倒的な臨場感で描いている。
監督は「1個5ドルの地雷、壊れた戦車などを集めて売る子どもたち。地雷は、仲買人を通して国連事務所に売られる。イギリス、フランス、イタリア、ドイツ、アメリカに送られ、再び地雷が作られ、同じ地域に埋められる」とも話す。
悲痛なイラクの現状を、ユーモアも忘れないで描き、サンセバスチャン国際映画祭グランプリ、ベルリン国際映画祭平和映画賞など28もの賞に輝いている。
医師の鎌田実氏は、イラクの医師たちの声として「助けてください。病院は壊れ、点滴セットも、注射針も飲み薬も、みんな足りません。医師として辛い毎日です」と涙ながらに訴えてくると言っている。そして、昨年10月、約4500万円分の光学顕微鏡、遠心分離機などを隣国のヨルダンの首都アンマンに届けたことも。増白血球剤はクーラーボックスに入れ、保冷剤を入れ替えながらバクダットの小児病院に運んだという。本物の人道支援とは何かを世に示したいとの心意気である。
自衛隊は400億の税金を使い、他国の軍隊に守られながら、わずかな水を配っている。
映画のラストシーン、両手のない少年が亀と共に水中を漂う夢をみる。少年は泉へ走って、水中に飛び込み2歳の子の死体を見る。そして、冒頭に出た画面の崖の上には、身を投げた少女の靴があった。
手のない少年も、足をけがしたリーダーの少年も、ほんとうに悲しそうな目を潤ませた。観ていた私も、ここで、初めて心の奥深くがうずくように、涙が滲んだ。
映画『亀も空を飛ぶ』は、東京の岩波ホールと名古屋のシネマスコーレ
で〔05年11月11日まで〕上映された。全国でも上映中
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何といっても圧巻は、議事堂前で議員を待ち伏せし「あなたたちの息子や娘をイラクへ出征させませんか」と署名を求める場面である。その皮肉と迫力。
うっかりインタビューに応じてしまい、心の戸惑いが顔に出る議員、そそくさと逃げる議員たち、彼らの中で、こどもを出征させているのは1人だけという。議員のこどものような金持ちはめったに軍隊にいない。生活に苦しむ下層階級が兵隊になり、石油などでうまく儲けるブッシュとその同類たちのために戦い、死んでいる。
マイケル・ムーア氏の突撃インタビューにみせた気力、貧しい人たちへの思いと、戦争反対の姿勢は観る者の共感を呼び、感動させるものがある。
2番目は鋭いカメラの目である。
ムーア氏の元で働く、フリーのカメラマンの何人かを戦地イラクに送り、生々しい戦場を写す貴重な映像は、アメリカで巨大ネットワークが送る夕方のニュースでは観られない。
目の前で起こっていることへの疑問を語るアメリカ軍の兵士。幻滅や失望を語る彼らの本音は、貴重な証言である。
9.11テロ発生のとき、ブッシュ大統領はこどもたちの絵本を読んでいた。
側近が事件発生を耳うちしても、7分間もポカンとしていた。あの映像は学校側がビデオで撮っていたのではないかと、問い合わせた結果手に入ったという。この感覚とドキュメントへの執念が凄い。
ラスト近いナレーションで、「戦争を続けることの目的は勝利にあらず、国内で戦時体制を維持すること」とジョージ・オウエルの小説『1984年』を引用している。
ただ、映画の前半では解りにくいところもあった。それは、アメリカ人にはよく理解できると思うが、4年前の選挙の不正ややり直し、あるいは石油資本やオサマビンラディン一族との関係などである。息子が戦死した一家の、悲しみを訴える姿、そして反戦活動に取り組む実話は胸を打つ。
しかし、アメリカの兵士が100人死んだ。200人死んだ、という切ない場面はあるが、大量破壊兵器も見つからず、アメリカの10倍もの死傷者といわれるイラクの死傷者が触れられていないことに、やや違和感があった。
新聞報道によると、8月31日、ニューヨークで開かれた反戦の集いでは、イラク市民の死者約1万5千人、連合軍兵士の死者約1100人の名前を読み上げた。そこではイラク市民15人の氏名を読み、米兵1名を読むということで、市民の被害の多さを際立たせたという。
カンヌ国際映画祭で、パルムドール賞と国際批評家連盟賞を受賞したこの映画は、重い内容なのに、ユーモアと皮肉で歯切れよく、面白い。それはムーア監督の姿勢と力量なのだろうと思った。
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動く境界 映画『ブラザーフッド』と萩原遼
〔1〕、映画『ブラザーフッド』
先日、評判の映画『ブラザーフッド』を観た。
韓国で観客動員数が空前の、1200万人を超えたという。映画は、貧しくも活気に溢れた街ソウルから始まり、突然の雷雨のような戦争勃発での混乱と、兄弟愛を映し出す。
1950年6月25日、北から人民軍が240輌の戦車と共に、怒涛の進撃で、南の韓国に攻めてきた。1輌の戦車もなかった韓国に比べ、戦車を先頭にした北の人民軍は瞬く間にソウルに達した。
突然、戦いに巻き込まれた庶民の混乱の中で、韓国軍は釜山、大邱など南東の端に追い詰められ、境界は大きく南へ移動した。
北朝鮮、韓国とも強制徴兵の未熟な若い兵士主力の、悲惨な激戦だった。
9月15日、国連軍が反撃に出て、38度線すぐ南の仁川に上陸した。支援する米軍の戦車部隊と、韓国軍の協同作戦で北朝鮮の平壌まで追い上げ、平壌市街戦で建物の残骸から抵抗する北朝鮮軍を掃討した。
さらに、国連軍と韓国軍は北の端を流れる鴨緑江に向かって北上し、境界は北へ動いた。北朝鮮軍は退却しつつ、途中の村人たちを多数虐殺した。
10月25日、すでに北の鴨緑江、白頭山近くに達した韓国軍が、突然、100万の中国軍不意打ち攻撃に遭い、混乱状態に陥った。ソウルは再び北朝鮮人民軍に占領された。
ローラーのように、北に南に境界は移動し、国中が戦場になった。
3年後、休戦条約締結で休戦になったが、南北合わせて500万人が戦死、負傷、行方不明となり、悲劇の民族朝鮮を分割する境界は残った。
映画は史実に基づいて激しく、感動的に描かれていた。終りは冒頭と同じく、朝鮮戦争犠牲者の骨の発掘調査現場だった。
■赤い範囲は北朝鮮占領地域
■青い範囲は韓国(国連軍)占領地域
「朝鮮戦争による戦死を含めた死者総数は、(1)北朝鮮250万人、(2)中国志願軍100
万人、(3)韓国150万人、(4)米軍5万人にのぼった。戦争により南北に引き裂かれた
「離散家族」は、1000万人以上、当時の朝鮮半島人口の1/4になった。その内訳は、
韓国676万人、北朝鮮300万人である」(『現代韓国・朝鮮、岩波小事典』No.791)。
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〔2〕、萩原遼氏と朝鮮戦争
『北朝鮮に消えた友と私の物語』で、1999年大宅荘一ノンフィクション賞を受賞した萩原遼氏が來名し、中表紙に私たち夫婦の名前と氏のサイン入り最新著書を贈られた。
5年前、インターネットのHPで私が氏のことを載せたお礼とかで、突然だったし嬉しかった。
韓国でも、朝鮮戦争を知らない人が多数になったというが、私は、1950年の朝鮮戦争は、当時の軍事政権が北緯38度の境界を越えて北へ進攻したと信じ込んでいた。マスコミや革新的と言われる人たちは、みんなそのように受け止めていたと思う。
萩原遼氏は、朝鮮にこだわりその常識を打ち破った人である。
萩原氏は赤旗平壌特派員として1972年着任早々、帰国運動で北に行った友の消息を尋ねた。
北朝鮮では日本からの帰国者はスパイ視され、連絡をとること自体悪質なスパイ行為とみなされた。
以後、厳重な監視の下におかれ、身の危険を感じながらの特派員生活だったが、2年後北朝鮮を追放された。
北から追放されても、外信部副部長として職務についたが、いままで当然のように考えられていたことに素朴な疑問をもった。
朝鮮戦争は南から攻めたのか、北が先攻したのか。萩原氏は悲劇の境界にこだわった。
1988年、突然外信部副部長解任を宣告され、理由を質したがノーコメントだった。氏は辞表をたたきつけた。
そして翌年、真実を探す旅に出た。
米国立公文書館で1977年から公開されている「北朝鮮からの奪取文書」が、ダンボール1350箱あった。これを調べる作業に取り組んだ。100箱調べても、出てくるのはがらくたばかりだった。
朝鮮と米国の言葉ばかりに囲まれ、孤独と焦りの日々に、宮沢賢治の詩を取り出す。
「すべてさびしさとかなしさとを焚いて ひとは透明な軌道をすすむ」
そんなある日、大発見があった。朝鮮人民軍第6師団が出した「戦時政治文化事業」という極秘文書が見つかった。
日付は1950年6月13日、次々出る資料をパズルのようにつなぎ読み解いた。
1950年6月23日までに、人民軍全7個師団のうち、5つが、38度線の500メートルから数キロのところまで進出し、進攻命令を待っていることが確認できた。氏は世界ではじめて確認できた資料に胸が躍った。
朝鮮にこだわり、フリーの物書きとなって10年、調べた資料を基に4冊の本を出した。30万人が購読し、図書館などで読んだ人はその倍以上だろう。
命の危険を感ずることもある。妻と別れ、子もなく失うものは何もない。著書のあとがきにそう書く氏は多くを語らない。いまも米国で北朝鮮の「餓死殺人300万人政策」に関する、公開文書発見に取り組んでいる。
映画『たそがれ清兵衛』の主人公は、労咳で、長患いの妻を亡くした。残されたのは2人の幼い娘と老母だった。その母は、息子に「あなたはどなた?」と言う。痴呆が始まっていた。加えて、下級武士の貧しさで夜は遅くまで内職する。
清兵衛は下城の太鼓が鳴り響くと、直ちに家路につく。「たそがれ清兵衛」の名はそこからつけられた。
上役や同僚との酒の誘いに一切付き合えない。しかし「2人の娘が日々育つ様子は、草花の成長を眺めるに似て、楽しいもんでがんす」と、着物が継ぎはぎだらけなことも、陰口も、気にしていない。「帰りに1杯やって、憂さの捨て所に」する余裕はないが、ゆったり、のどかに草花や子どもの成長を見守る清兵衛の時はしなやかに流れる。
時は使いようによって、ゴムのように伸び縮みする。
この映画の物語は、藤沢周平の「たそがれ清兵衛」「竹光始末」「祝い人助8」という3つの小説を、1つの物語に組み替えているという。
清兵衛には、友人の妹で幼なじみの朋江と結婚したいという夢があった。それがいろいろな事情では果たされないまま、朋江は嫁いだ。そして相手の日常的な酒乱と暴力に悩んで離婚していた。
朋江の兄は、朋江が離婚した男に決闘を申し込まれた。剣では勝てそうにない兄に代わって清兵衛が戦い、勝った。それをきっかけに、朋江との縁談を勧められる。
それは朋江の希望でもあったが、身分の違いと貧しさから、清兵衛は断ってしまう。
ときは幕末、都は混乱しており、時代は変わりつつあった。清兵衛に「改革派のひとりを討て」と藩命が下る。
自分の意に反した命令でも受けて立たねばならないのは、現代のサラリーマンにも通じる切なさがある。
悩んだ挙句、藩命を受ける以外生きる道はないと決心した清兵衛は、その朝朋江に使いを出し、果し合いの身支度を頼んだ。
駆けつけた朋江は事態を察し、きびきびした動作で身支度を助ける。
「幼い頃から、あなたを嫁に迎えることは、私の夢でがんした。これから果し合いに参ります。必ず討ち勝ってこの家に戻ってきます。そのとき、私があなたに嫁に来ていただくようにお頼みしたら、受けていただけるでがんしょか」。
一刀流の剣客との果し合いを前に、清兵衛はプロポーズした。しかし、朋江は数日前持ち込まれた縁談を受けてしまっていた。力なく笑った清兵衛は戦いに向かった。
命をかけた斬りあいのシーンと、このプロポーズのシーンで穏かな時の流れは、一気に縮み、時間のゴムがひきちぎられて激流となった。
戦い終わり、よろけながら自宅に帰った清兵衛を待っていたのは2人の娘だけではなく、プロポーズを受け入れる決心をした朋江がいた。
「あなたがいてくださるとは」「よかった」清兵衛に抱きついていつまでも泣き続ける朋江だった。
新しい幸せな家庭は、戊辰戦争で清兵衛が死に、3年で幕になる。
映画のラストシーンで、大人になった清兵衛の下の娘が語る最後のことばに、安らぎと救いを感じた。
「『たそがれ清兵衛は不運な男だった』とおっしゃるのをよく聞きましたが、私はそう思いません。父は出世など望むような人ではなく、自分のことを不運だなどと思っていなかったはずです。私たち娘を愛し、美しい朋江さんに愛され、充実した思いで短い人生を過ごしたに違いありません。そんな父のことを誇りに思っております」。
そこには、幼なじみから夫婦になるまでの長い時があり、長短で図れない時の重さがあった。
この映画は、山田洋次監督が初めて取り組んだ時代劇であるが、映像にも凝り、新緑の庄内平野と川に手を合わせて死体を流すシーンを映す。その貧しさから生まれた月山信仰、東北の冴え冴えとした青空に浮かぶ鳥海山と月山などを、繰り返し映した。
山々の美しさは、昨秋登った月山をあらためて思い出させた。
映画『イースト・ウェスト 遥かな祖国』
2002年5月9日の新聞各紙は、北朝鮮の3歳の女の子をふくむ5人が中国の日本領事館に駆け込み、中国の警察官に力づくで引っ張り返されている写真を掲載している。「助けて!」という声が聞こえるような写真である。
その後のテレビでも繰り返し、動物同士が争っている泣き声を思わせる絶叫と、かわいい幼児の戸惑った顔などを放映して、世界中が注目する事件になった。
その後の事実関係調査で、日本外務省の問題だらけの対応が浮き彫りになったが、この痛々しいシーンは、先頃観た映画『イースト・ウェスト 遥かな祖国』でカトリ−ヌ・ドヌ−ブ演ずるフランス女優の誘導で、女主人公が必死でブルガリアのフランス大使館へ逃げこむシーンそのものだった。
左は、フランス大使館へ逃げ込む女主人公と息子を追いかける警官
右側は、脱出を支援したカトリ−ヌ・ドヌ−ブ演ずるフランス人女優
映画『イースト・ウェスト』では、フランスへ亡命した人たちが1946年スターリンの特赦を信じて祖国ソ連に帰国する。その数3000人から1万人以上と数字は揺れているというが、ソ連は「こんなに帰国者が多いのは、西側の策略にちがいない」という妄想から、「厄介なスパイ問題が起きる。彼らを排除しなければ」と、裁判なしの処刑、強制収容所送り、弾圧のあらゆる手段を使えというスターリンの考えだった。
帰国した船から希望に満ちた表情で下りる人々の中に、ロシア人医師アレクセイとフランスの女性マリーの夫婦とその子がいる。帰国したその日に、マリーは西側のスパイと疑われてパスポートを破られてしまう。そして外国人は自由のない監視つきの生活をさせられる。
夫婦間の誤解や葛藤、新たな恋などがあるが、解決までに10年の苦痛に満ちた歳月が要った。しかし、映画ではひとりの人間の命が、他人の犠牲的精神で救われる。
中国の日本領事館逃げ込み事件は、ぎりぎりまでの飢えと迫害と闘って中国へ逃げた家族を、他国の領事館へ踏みこんでまでひきずり出す。その様子を、手をこまねいて見ている日本の副領事だった。護民官としてのわずかな人権感覚もなく、外交の主権意識などおよそ感じられなかった。日本はそういう国なのだ。
映画『イースト・ウェスト』の監督レジス・ヴァルニェ氏は次のように語っていた。
「他国へ亡命した人たちは、スターリン時代の恐怖政治や、2000万人もの人が死んだことを知っていたが、だからこそ、特赦でも帰国して新しいロシアをという真の理想主義者たちだった」。
この映画のフランス公開では50万人の観客動員、ロシアでも「タイタニック」の動員記録をぬりかえる大ヒットとなったという。
3つの優れた映画を観て想う、韓国のこころ
サッカーW杯の南北交流試合が、数万人の観客を集めて行われようとしている。韓国諜報機関の男性と北朝鮮特殊部隊員の女性が、それとは知らず愛し合う仲になったが、それぞれの使命のために試合会場で撃ち合いとなり、男性の銃弾が女性に命中する。韓国で600万人の観客動員したという映画「シュリ」の終盤である。
また、「シュリ」以上の客を集めた映画「JSA」。板門店で北と南の兵士が対立して向き合う。ここで人間らしい友情が芽生えるが、1発の銃声で結びつきは全て破壊される。韓国の若者は「なぜ僕らは兵役で軍隊に行くのか。同じ民族に銃をむけるのか」と悩む。緊迫した事態が日常的に起こりうる国である。
さらに「GO」は、在日韓国人が、学校、就職、恋愛、あらゆる差別に苦しみながら、恋を実らせる物語で、日本アカデミー賞をほぼ独占した。3つの優れた映画から、韓国の涙が溢れていた。
朝鮮戦争が勃発したのは50年6月、「10万人の人民軍が、一気に南の仁川まで侵攻してきた。3ヵ月そのままにさせて、国連軍(米軍)が突如上陸して無差別爆撃を開始した。死屍累々の人民軍だった」・・・萩原 遼著『北朝鮮に消えた友と私の物語』より
「南から北へ侵攻してきた」 これは左翼、進歩的といわれる人たちの常識だった。少なくとも、私は信じきっていた。
なぜなら、正義の国社会主義国が攻めてくるはずはない。まして、南は軍事政権だったから。社会主義体制の崩壊後、萩原遼氏は89年12月から92年8月までワシントンに滞在し、160万ページの国立公文書館秘蔵の米軍奪取文書を読破して、上記の著書などにあらわした。
第2次大戦での日本への強制連行や、従軍慰安婦など、ことばに表せないほどひどい目にあった朝鮮、やっと戦争が終わり解放されたら、38度線で祖国を分断され、3年間無差別爆撃の戦場になった国。
そのとき日本は、重要な米軍基地として戦争特需で大儲けし、戦後の荒廃から立ち直った。
私にとって朝鮮は、申し訳ない気持ちでいっぱいになる悲劇の国である。
「こんな時代があった」 映画『ホタル』を観て
1年前の丁度今ごろ、夫婦で鹿児島県の知覧へ行った。平和記念館で、特攻隊員として南の海に飛び立った人たち、17歳から22歳の若い写真と、彼らの遺書を読んだ。
また、計器もないボロ飛行機で、沖縄までの2時間半を飛ぶ隊員たちが、必ず目印にしたという開聞岳にも登った。
薩摩富士と言われるその山は、美しい円錐形で見事な姿を海に突き出していた。
映画では、特攻隊の生き残りとして、重い人生を歩く主人公夫婦の愛情を中心に描いていたが、映画の始めに、平和記念館にずらり並んだ遺影と、すっきりと3角形を描いたような開聞岳がいきなり現れ、ぐっと胸に迫ってきた。
漁業に従事する主人公夫婦と、海に沈む大きくトマト色をした太陽、静かに噴火し続ける桜島など、素晴らしい日本の自然の美しさが、この物語の切なさを余計、深く現していた。
人生がこれから始まる若い命が、何のために次々南の海に消えたのか? こんな時代がほんの、5〇年前にあった。
明日、特攻隊として死んでいく韓国の青年が、「大日本帝国のために死ににいくのではない。家族の幸せのため、愛しい彼女のため・・・」と、最後に歌う『アリラン』の哀調は日本の隊員たちが歌う『故郷の空』とともに心に沁みた。
初日の観客は、戦争体験者らしい年配の人が多かったように思ったが、若い世代にぜひ観て欲しい、命について考える、清らかな想いが残る映画である。
〔朝日新聞『声』欄掲載 2001年6月25日〕
テレビで、戦争中の言論不自由な時代の苦しさを放映していた。それを観て、戦争が終わったとき、文学、映画、演劇と、表現者たちはさぞ鬱積(うっせき)した気持ちを思いっきり表現したかっただろうなあと思った。
その想いに触れたくて、ビデオの棚から、そのころの映画『わが青春に悔いなし』を探し出し、久しぶりに半世紀前の懐かしい映画を観た。
画面は、平和な時代の京都、「くれない燃ゆるおかの花…」のんびり寮歌を歌いながら、学校近くの山(吉田山と思う)を若い学生たちが飛び跳ねる。
そのなかに1人の女性がいた。それがこの映画の主人公で、次第に暗雲広がる時代に、自由主義的発言をして捕らえられる、京都大学教授の1人娘である。若い原節子が、魅力的な瞳で演じている。
教授が学校から追放されたことに、学生たちが抗議行動を繰り広げる。「滝川事件」(1933年7月)である。
もうひとつ、この映画は国際スパイ事件、「ゾルゲ事件」(1941年10月)も取り上げている。主人公が想いを寄せる男子学生が、スパイ容疑で捕らえられ、投獄、転向、そして若くして死んでいく。自由な考え方や生き方がまず弾圧され、国全体が次第に戦争1色に染まっていく時代の悲劇である。
順調に世の中に迎合していく人を伴侶にする道があり、そうではなく刺激的であり、苦難も多そうな道という選択肢があった主人公は、あえて後者を選んだ。それは、いつも父親に言い聞かされていたことばの影響が大きかった。「自由には苦労と責任がともなう」。
主人公は、田舎で百姓をして待つ両親に、白木の箱を持ってその息子の死を知らせに行く。そしてそのまま親を助けて、嫁として共に百姓をする覚悟を決める。
1番印象的な場面は、草深い田舎でスパイ事件に関わって死んだ者の、家族へのさげずみの眼、その眼を逃れて夜中に田植えをする。すっきりした気分で帰った後、見回った田に「スパイは田に入るな」などのいやがらせの立て看板が立てられ、整然と植えられた苗が、引き抜かれたり、踏み荒らされたりした田の光景だった。
必死の形相で、義母と共にそれらを取り除く主人公の顔である。「省みて、悔いなく…」泥田に入って田植えをし直す主人公が、呪文のようにくり返す独りごとで試練に耐えていた。
やっと戦争が終わり、人々と共に農村にあって、生活改善運動に生き甲斐を求める主人公だった。
黒澤明の理想主義がほとばしる、戦後の第1回作品、監督は民主主義日本としてこの国が立ち直るには、自我を尊重するそういう女性や男性が必要と、創り上げたダイナミックな映画だった。その年のキネマ旬報2位の意欲作である。
あの時代から半世紀が過ぎても、古さを感じない『わが青春に悔いなし』である。
世紀が変わって、近々、重要な個人のプライバシイを守るためと、『個人情報保護法』が国会に提出される。
それは、情報技術社会のなかで、個人情報が流出している事件を背景に、それを保護する体をとりながら、「メディアの活動」を制限しようとするものだと、危惧するマスコミ関係者は多い。
巧妙に「国民の知る権利」が奪われる危険、言論活動が制限されそうな動きが出てきたことに注意を怠れば、この映画のような「いつかきた道」につながるのではないか、そう思った。
この春、京都に住む息子や孫と、吉田山を歩いた。
映画の主人公が、苦境と闘うときつぶやき続けたことば、「省みて、悔いなき…」をわが身に投げてみた。
わが青春に悔いなきや。
20年近い共産党員としての生活、それが「自由と民主主義」の実現の道、「社会発展の法則」との、信仰に似た気持ちだった。そのきっかけは、1960年の安保闘争だった。
職場活動と職業生活、子育ての両立では、病気で倒れたり、子どもに無理を強いたり、みんなに迷惑をかけたりもした。それらは、職場を辞めて専従活動家として、理想に生きる人を人生の伴侶にしたこととも関係か゛あったと思う。
給料の遅配、欠配続きという経済的負担、夜中まで、或いは深夜までの活動が続く物理的負担の大きい、厳しい道だった。当時は若さもあり、「非合法時代は、お墓の供えものを盗んで食べた」という、精神主義的指導を受けて、明るく乗り越えてきた。
忠実な模範党員夫婦も、やがて弾き出され、汚名をきせられる時がきた。それから辛い、沈黙の10年の月日が流れた。そして、胸躍らせた東欧の民主革命が始まった。
わが恥多き人生は、それでも「わが青春に悔いなし」といえる人生である。
1950年代、映画は私の青春だった。暗くなった映画館の中で、開始のブザーを聞く瞬間の喜び、体中が映画に吸い込まれていく。恋の物語に感動の涙を流し、ディートリッヒやバーグマンなど好きな女優にのめりこんだ青春があった事は、なんと幸せだったろうと思う。仕事や子育てに忙しくて、いつの間にか映画と疎遠になっているうちに、テレビの普及で、映画は痛々しいほど落ち目になった。
しかし、子供たちも成長したいま、最低月1回は映画館でいい映画を観よう。これがともに映画が青春であった私たち夫婦の、10年前の約束である。だがこのところ見応えのあるものが多く、それでは間に合わないのは、映画ファンとしてうれしい。
先日観た中国映画『青い凧』もそういう中の1本である。
この映画は、主演女優と子役が迫真の演技で、敬遠されがちな「政治問題」を、テンポの速い芸術作品に作り上げていた。東京国際映画祭でグランプリを獲得したのも納得がいく。「反右派闘争」「大躍進運動」「文化大革命」で3人の夫を次々亡くした女教師、狂気の政治や時代に翻弄される人達が、子供の目を通してよく描かれていたと思う。
政府幹部のダンスの相手を拒否し、反革命分子として投獄された女性の話や、家事の社会化を目指して公営食堂にしたら、みんな無秩序な無駄食いをし、その後の食料危機の一因になった話なども、人間を考える上で興味深い。
両親を紅衛兵に連れ去られ、自分も抵抗して口から血を流して倒れるラストシーンに、破れた青い凧が木にひっかかっていた。澄んだ幼い声で「カラスは木の上、空を飛ぶ、老いたカラスはもう飛べない・・・」 とファーストシーンに出た歌が、再びゆっくり流れ、涙をこらえきれなかった。
私たちは年老いても、映画館へ足を運ぶだろう。心揺さぶられる名画に身を委ね、映画館の片隅で感動の涙を流すだろう。映画はこころのふるさとである。
敗戦間近いころ、私たち兄妹3人は名古屋市郊外の親類へ縁故疎開した。のどかな田舎だった。 ところがそこでまさかの機銃掃射を受けた。警戒警報は出ていたが、連日爆撃を受け続ける名古屋の市街地とは違い、のんびりした田舎である。こんな所を爆撃するはずがないと高をくくり、8歳の私は祖母と近くの小川へ少し洗い物を持って出た。無事洗濯を終え帰ろうと立ち上がったとき、近くの変電所を目印に飛んで来たらしいグラマン戦闘機が、突然、猛烈な音をたてて撃ってきた。祖母と私を動く標的と見たのかも知れない。
私たちは小川沿いの桑畑へうつ伏せに逃げたが、すぐ横の道に土煙が上がり、2本の掃射の線が突き抜けていった。「ナンマンダブツ(南無阿弥陀仏)ナンマンダブツ」 震えながら繰り返す祖母と私はよろけながら、走って数分の家にたどり着いた。家に入ってからも、胸は早鐘を打ち、広い農家の10畳間をうろうろ走り回るだけだった。足がふらついて、暫くはどうしようもなかったのだ。
あれは確かに戦闘機から私と祖母を目撃したのだ。もう撃ち返す力もなくなっていた日本軍を見くびり、 紀州沖あたりの航空母艦からゆうゆうと本土へ乗り込み、 低空で人間目がけて機銃掃射をくり返したのに違いない。あの恐怖の1瞬を共にした祖母も鬼籍に入って久しく、あの時の恐怖を話し合う人はいない。
後年、映画『禁じられた遊び』で同じような光景を観た。南フランスの田園地帯を南へ向かう避難者の列、突然ドイツ軍の爆撃機が飛来する。土煙が上がる。犠牲者が出る。そしてまた避難者が動く。2機目が現れ、また機銃掃射をする。映画では動かなくなった母の顔を、不思議そうになでる少女の動作が涙を誘った。
そのころ父は戦地、名古屋の家では母が連夜の空襲で、幼い妹2人を乗せた乳母車に毛布を被せ、恐怖の一瞬をくぐりぬけ続けた。 唸り飛び交う焼夷弾であの区この地域が焼け、 燃え上がった。やむなく一家全員が疎開した後、自宅の防空壕に焼夷弾が落ち燃え尽きた。
理不尽な戦争の、恐怖の一瞬を体験した者が、次第にこの世から消えていく。
アクセサリーには全く無関心、「シンプル・ザ・ベスト」がおしゃれの基本と心得、1度もイヤリングなどつけたことはなかった。
昨年旅行で、イタリアのフィレンツェを2日間歩き回った。有名な2層構造のベッキオ橋の1階に、貴金属、宝石の店が延々と続いていたのには驚いた。橋の両側におよそ百店舗もあったろうか。
小さな店先をのぞくと、5万円から20万円もするカメオのブローチが、淡いブルーややさしいピンクなど、さすが本物の気品を漂わせて並んでいた。サンゴのネックレスやイヤリングもあった。店の奥では、実際に職人が作っている姿を見ることが出来た。
橋を出てアルノ川沿いに少し歩き、橋の全体像を改めて眺めた。前日、最後に入ったベッキオ宮殿で、パネル4〜50枚に掲示されていた第2次大戦末期の、この辺り一帯の写真に強烈な刺激を受けていた。
ロベルト・ロッセリーニの映画『戦火のかなた』では、レジスタンスのリーダーである元恋人を気づかった看護婦が、仲間と命をかけてこのベッキオ橋を渡るシーンがある。当時ドイツ軍 によってすべての橋は破壊され、唯一の連絡通路が、ウフィツィ美術館の廊下でもある、この橋だったのである。
市街戦の中で、その看護婦に抱かれた負傷兵は死に、元恋人も亡くなった。戦争の悲惨さと虚しさを考えさせる映画の、実際の舞台を飽かず眺めた。必死で姿を隠しながら橋を渡る2人、あの時の銃声が聞こえるようだ。
50年たった現在、平和なこの古都に世界中の観光客が押し寄せている。ドイツの前大統領ワイツゼッカーは『過去に目を閉ざす者は、現在にも盲目となる』と言った。
ルネッサンスの芸術にどっぷりつかった旅の最後に、第2次大戦の激戦地でもあったフィレンツェの歴史を肌で感じた。私は心の旅が出来た記念にと、ベッキオ橋でネックレスとイヤリングを買った。 以来、無関心だったアクセサリーを見直し、 外出時には必ずイヤリングをつけるようになった。
『第3の男』のラストシーン、ウイーンの並木道を縦に奥深くとらえた画面の中に、ジョセフ・コットンが待っている。アリダ・バリは見向きもせず通り過ぎる。ジョセフ・コットンがゆっくりとつけた煙草のけむりが画面をおおい、チターのテーマ音楽が心をうつ・・・・・・・。
映画の余韻を楽しみながら、私はその主人公になったような気持で並木通りを歩く。古い名画を観る会に通っているが、近くの白川公園を歩くのがもう一つの楽しみだ。
出来て30年近くなるこの公園は小さかった木々も成長し、見上げるばかりの大木になった。なかでもケヤキ並木は、今頃になると茶色の葉が舞い風情がある。冬、すっかり葉を落とした線状の梢が大空にりんと伸びて、シンプルな美しい姿をきわだたせる。毎月歩く度に「名古屋も捨てたものではないな」と思う。
ところが昨年初めてのヨーロッパ旅行でライン河のほとりの巨木並木に出合い、圧倒された。樹齢数100年のイチョウとポプラ並木が整然と続き、2本の細い道がのびていた。
1方は自転車で走る道、一方は散歩する道なのである。朝散歩をすると、昨夜遅く沈んだ太陽が背の高い木々の葉をゆっくり照らし始め、ときおり大きな犬を連れた人が歩く他は人影もまばらだった。ゆったりとしたこの巨木の並木は、ちまちました日本の風景とは対照的で羨ましかった。
ドイツから足をのばしてオランダのゴッホ美術館へ行った日、驚いたのは入場券を買ってから美術館までの道の長さだった。うっそうとした林の中を30分以上も、緑のアーチを楽しみながら歩くと、やっと小さい公園があり、そこに目指す美術館があった。
30年余企業で働いて、退職記念に訪れたヨーロッパだったが、600年かかって完成させたという「ケルンの大聖堂」といい、巨木並木といい、そのスケールの大きさに、新しいスタートを大いに力づけられた私だった。
近所の小学生が「これ、家のポストに入っていた」と、ドサッと私宛の手紙を持ってきた。見ると5通、どれも消印から3週間近く過ぎている。手紙の中には、Kさんが多感な青春時代、家族崩壊などで悩んだ軌跡などを、便箋10枚に赤裸々に記した手紙や、長年の付き合いである恩師のはがきもあり、もしもこれが届かなかったらと思うと、ゾッとした。
郵便局は何をしてるのと、直ぐ受話器を取って抗議し、調査を依頼した。
数日後、映画『セントラル・ステーション』を観た。母を交通事故で失った9歳の男の子が、遠くの父を尋ねる物語だ。その旅に、手紙の代書をした縁で、元教師の女性が付き添う。
字が書けない人々が、貧しい中からお金を払って、恋人や、離れて住む肉親への思いを、この代書屋につつ゛ってもらう。しかし彼女は、手紙を自宅に帰ってから平気で破り捨て、切手代をネコババしてしまう。それでも、やましさを感じない。敗戦直後の日本のような、貧しいブラジルの生活で、心がまひしているのだ。しかし、少年のひたむきさにあい、お互い孤独を抱いて続ける旅のなかで、思いやりの心が生まれる。映画は、豊かな自然とその、心の揺らぎを映す。
98年度、ベルリン国際映画祭のグランプリ受賞など、各種の賞を受賞したこの映画を観て、私の気持ちは徐々に変わってきた。
ま、いいか。手紙は届いたのだ。捨てられなかった。
瞬時に世界中を飛び廻る電子メールは便利だ。同時に、人と人の心のきずなを紡いでくれる手紙は、味噌汁とあつあつのご飯のような味わい。私はこれからも手紙主流でいくだろうと、あらためて思った。
〔1999年4月4日 朝日新聞 『ひととき』欄掲載〕
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