『第三の男』への報復
1976年警告処分・専従解任・点在党員組織隔離
(日本共産党との裁判第4部)
(宮地作成)
〔目次〕
1、密告と査問
1)、警告処分
2)、専従解任
3)、点在党員組織隔離
4)、脳波検査
(関連ファイル)日本共産党との裁判 健一MENUに戻る
第1部『私の21日間監禁査問体験』 「5月問題」
第2部『「拡大月間」システムとその歪み』 愛知県「泥まみれの拡大」
第3部『宮本書記長の党内犯罪・中間機関民主化運動鎮圧、粛清』
第5部1『宮本・上田の党内犯罪「党大会上訴」無審査・無採決・30秒却下』
第6部『宮本・不破反憲法犯罪、裁判請求権行使を理由とする除名』
第7部『学者党員・長谷川正安憲法学教授の犯罪加担、反憲法「意見書」』
第7部・関連 長谷川教授「意見書」
『長谷川「意見書」批判』 水田洋、「大統領」、中野徹三、高橋彦博
第8部・完結『世界初・革命政党専従の法的地位「判例」』
1、密告と査問
この題名『第三の男』とは、オーソン・ウェルズや映画との関係はなく、K氏・U氏専従解任に続く、3人目の宮地粛清の意味です。
1、県常任委員たちと県選対部活動
1)、県常任委員19人と3つの分散・不団結状況
県常任委員会は、第3部(添付資料)『県党会議決定』にあるように、箕浦“家父長的個人中心指導”体制を許した体質を、具体的に自己批判しました。しかし、宮本指令『清算主義三重唱』により、その問題点、内部関係改善は、棚上げされ、以前の作風に戻ってしまいました。当時、県常任委員は、党中央派遣・新役員3人、従来の常任委員13人、抜擢された(旧)箕浦分派グループ3人という19人構成に膨らんでいました。箕浦分派3人を抜擢したことにより、『愛知県指導改善問題』の逆転評価と逆転評価人事は、愛知県党内で完成していました。
その19人における分散・不団結とは、次の状況です。
第1グループ3人 問題点を抱え、それにたいして、地区、県事務所内から何度も批判・意見が上がってきても、本人が一向にそれを直しません。県宣伝部長Iは、宣伝部指導をさぼったり、よくウソをつく。県選対部長Sは、地区への様々な選挙指示で硬直的な言動、指導を繰り返す。労対部長Nは、熱心だが、労対グループ会議を招集しておいて、忘れてしまい、他に出かけてしまうことが度重なる。これら3人の言動にたいする批判は、地区、細胞からも、何度も出ていました。
第2グループ4人 それら3人の問題点を自分で体験しつつも、常任委員会内部で正規に批判したり、改善を図ろうとせず、一方、県事務所内外で、相手がいないときに、大声で、公然と、その“非難”発言を繰り返していました。それを言うのは、4人で、いずれもレッドパージでたたかって、その後、党専従になり、うち3人は、衆参院選候補経験者という古参専従たちでした。これら県事務所内外での言動とその発言内容を『規律違反』と認定するのなら、かれら4人で数十回の規律違反を犯しているのです。
第3グループ12人 2つのグループの問題点、言動を当然知り、日常的に見聞きしつつも、傍観者的態度をとり、“見て見ないふり”を続けていました。これには、井田県委員長・幹部会員も含まれます。党中央派遣・新役員3人は、県選対部員の私が知る限り、それらに一度もきちんとした批判をしたことがありません。
彼らが先に県事務所内外や地区で大声で言うのを聞いて、私の事実認識ができたといってもいいほどでした。とくに、県常任委員I、S2人は、私の県選対部任務と直接関係があり、各地区委員会、各地区選対部からの2人への批判は、彼らに行かず、私の所に直接くるのです。民主主義的中央集権制の上意下達システムでは、一介の県勤務員である私が直接県常任委員批判を言うことはできません。共産党中央・県専従体験者なら、この関係、直接言えない雰囲気を理解していただけるでしょう。地区委員会専従レベルではやや雰囲気は異なります。
仕方なく、私は、大声で言う県常任委員4人のだれかに、その都度、地区からの批判を伝え、県常任委員会内部で解決してくれるよう頼んでいました。しかし、その4人は、正規の県常任委員会会議で、I、S、N3人への正式な批判発言を一度もせず、卑怯な、ぬるま湯的“県最高執行機関”内関係を崩そうとしなかったのです。
2)、私の県選対部活動
私は、第3部でのべた『名大学生党委員会の自主的総括を中止せよ』との阿部准中央委員・新県副委員長命令を拒否して、党委員会とともに総括会議を強行した後、それを理由とする規律違反処分にはされませんでしたが、名大担当を解任されて、県選対部員に任務変更になっていました。それ以後の県選対部活動に取り組むなかで、たしかに、県党内、各地区内における井田県委員長、阿部副委員長、県常任委員会への意見・批判をよく知っていました。その理由は、4つあります。
一つは、愛知県内専従歴で、県常任委員の大部分を占めるレッドパージ経歴専従者を除けば、私は古参の一人で、顔や活動姿勢もかなり知られていました。東海地方全損保労働組合幹部3年、全損保経営細胞長・愛労評幹事2年、名古屋の民青地区委員長1年半、中北地区党専従4年で5ブロックとも責任者を担当し、尾西地区党専従も1年半やりました。中北地区各ブロックとは、平均で愛知県党の1/10党勢力を持つ行政区別地区補助機関で、「指導改善」後すべて地区委員会に昇格しました。箕浦氏の恣意的な幹部任務変更方針によるものですが、私は、実質的に、愛知県党の1/2党勢力の5つの地区委員長の経歴をもつことになります。
二つは、私は、「5月問題」愛知県第1次民主化運動で箕浦批判の中心の一人、「指導改善」第2次民主化運動での県常任委員会・中央委員会批判の中心の一人でした。その数カ月後から始まった『清算主義との闘争』キャンペーンにも、地区専従としての自己批判から、「数年間にわたる破壊指導から立ち直るためには、一定の猶予期間が要る」という細胞弁護の立場で、それに批判的姿勢を貫いていました。また、党中央派遣新役員3人にもすりよらず、“批判派”と見られていました。
三つは、県選対部の任務上各地区と常時ひんぱんに連絡をとり、各地区に中間選挙があると基本的に現地にはりついて、県としての支援活動をしました。その中間選挙全員当選支援レベルは、幾人かの地区選対部長から、『選挙の神様』とお世辞を言われたこともあるほど熱中してやりました。県党内のすべての地区に出かける頻度やのべ期間は、任務上県専従のなかでももっとも高い一人で、地区の実情や県への意見がよく耳に入る立場にありました。
四つは、地区、共産党系大衆団体からの県常任委員会への選挙・政策分野批判・意見を聞いたときの処理の仕方です。私の性格として、密告スタイルは嫌いで、そういう態度をとったことは一度もありません。したがって、地区と県との関係で発生した問題点を私が聞くと、まず関係専従や現地に徹底した裏付け調査をします。自己診断をすると、私は聞き上手タイプで、克明な調査をするタイプです。一定の調査の結果、県常任委員会側に問題点・誤りがある場合、地区からの批判としでなく、また、地区の誰それが言ったとせずに、私自身が直接見聞した問題点として、私個人の改善提案を関係、担当の県常任委員個々人に報告し、解決を要請します。すると結構スムーズに解決できた事例も多いのです。もちろん一介の県勤務員ですから、解決範囲に限界があります。そのときは、解決内容は今回そこまでと相手に納得してもらいます。問題点が解決されれば、地区関係者は私に一目を置き、私がけっして密告スタイルをとらずに限界つきだが問題処理をすると私を評価します。
地区と県常任委員会との異常な関係継続 そもそもこんなやり方でなければ、問題点解決ができないという県党内状況が異常なのです。地区側がその批判・意見を県常任委員会にストレートに言えない関係、雰囲気がありました。もし言えば逆に反批判され、にらまれた体験を何度も味わえば、もう率直に言う気になりません。その異様な事態は、県常任委員会と地区の関係で「5月問題」前から『箕浦家父長的個人中心指導』を放任し、「指導改善」で第3部(添付資料)の自己批判を一定したのに、宮本氏と党中央派遣新役員3人が『清算主義三重唱』で一挙に逆転評価・棚上げし、免罪にしてしまった誤りが継続していたのです。
以上4つの理由を総合すると、『宮地に言っても大丈夫、密告だけはされない』というような“いびつな”信頼関係ができあがって、県党内の選挙・政策分野の情報や、その分野での県常任委員会への批判・意見が、不思議と集まってくるのです。
2、『「党内問題」を「党外」にもちだした』規約第2条8項規律違反、その行為と発言内容
これ以降、私の問題の全経過は、第3部の継続としての<逆転評価・報復人事8>になります。
私への査問のきっかけとなる規律違反事項とは、次の行為と発言内容でした。1975年5月上旬、他2人の地区、県専従と、帰宅途中に偶然出会っての居酒屋における私の発言です。統一地方選直後で、愛知県議選全滅(3議席→0)、名古屋市議選不振など選挙結果について雑談しました。この選挙結果原因との関連で、私は県選対部員でしたので、県常任委員会の指導と活動のあり方について1分間程度話しました。
その内容は『I宣伝部長は指導をさぼったり、ウソをつく。S選対部長の指導は硬直している。N労対部長は会議を召集しておいてよく忘れる。その他のケースをふくめ井田さん(幹部会員、県委員長)はそれを知りつつ、直そうとしていない』というものです。この内容は事実に基づくものでした。しかも、3人の事例が度々起きるたびに愛知県委員会事務所内で公然とした話題となり、県常任委員10数人、県勤務員10数人、同一建物内名古屋中地区委員会専従らほぼ全員の共通認識になっていました。それだけでなく、古参県常任委員4人が自ら先頭をきって、おおっぴらに、何度も、口に出していたことでした。
3、密告と査問
8カ月後の密告 1975年12月、同席していたなかの一人が、別の問題が起きたとき、私の発言行為を“密告”しました。県常任委員会は、それを受け、直ちに私を査問したというわけです。私の8カ月前・1分間批判発言行為こそ、党中央批判10回を前後発言者した3人中、最後に残った『第三の男』を排除する絶好の口実となるものでした。この時期は、立花隆『日本共産党の研究』連載開始の1カ月前でした。
査問委員会 査問では、県常任委員2人が査問委員として私を詰問します。『8カ月前に2人と会っただろう』と言われて、それはすぐ思い出しました。『そこであんたが何を言ったか話しなさい』とにらまれても、そんな以前の発言内容などとっさには浮かんできません。いろいろ問答していると、『同席の一人が「宮地さんが言った」と報告したんだ』と、上記発言内容を告げ、『これを言ったか』と私に“自白”を迫りました。そこで私は、やっと思い出して、その発言行為と内容を認めました。査問委員たちは『あんたの行為は党内問題を党外(=他の地区、県専従)にもちだしたという党規約第2条8項にふれる重大な規律違反だ。それについての自己批判を書け』と指示し、直ちに査問部屋へ私を入れました。査問部屋といっても、1階と3階にある日本間8畳の宿直室兼小会議室を査問時に使うものです。「5月問題」の時は、3階の部屋で21日間の監禁査問を受けました。今回は1階の部屋でしたが、この査問は“自宅に帰さないという監禁査問”ではありませんでした。県常任委員4人の言動を無視し、切り離して、私個人の規律違反だけを追及するというやり方なので、私はそれを認め、8カ月前・1分間批判発言行為についてのみ自己批判書を書きました。
レーニン型前衛党における「密告者」資質と「密告」システムを、ここで考察します。このような宮本・不破・井田県委員長体制においては、自分が上級機関に向けた批判・意見を言う相手が、密告者タイプか、そうでないかを見分けることは、日本共産党4000人専従世界の迷路を生きのびる上できわめて重要な資質になるのです。それは、14の一党独裁国前衛党専従世界では、はるかにきびしく、出世と生死をかけた、最重要の資質となりました。箕浦私的分派メンバー6人は全員が密告者タイプだったと私の直接体験から断言できます。宮本側近グループメンバーも当然そのタイプです。
14の一党独裁国ほとんどに結成された前衛党最高指導者私的分派メンバーは、全員が党内スパイ・密告者であり、最高指導者への批判・不満者を識別・摘発する特殊嗅覚保有者でした。一党独裁国では、そのメンバーだけでは足りません。前衛党最高指導者たちは、レーニンがボリシェビキ幹部内の反対を押し切って、強引に作り、裁判なしの逮捕・拷問・銃殺権限を無制限に与え、ふんだんに豊富な資金を注ぎ込んだチェーカーを率先模範事例としました。すべての前衛党最高指導者が、正規の国家保安省とは別に、直属のレーニン型秘密政治警察を保有しました。そこでは密告制度が、国家システムと不可分一体となり、文字通りの「オーウェル的世界」が現実化されていました。
ところが、8カ月前の発言行為への査問がなかなか終わらないのです。彼らは、査問を断続的に8回もしました。それは1分間発言行為だけで、他にはなんの規律違反容疑もありません。
1、査問委員入れ替えと査問方針転換
査問開始後24日経った第5回査問会議で、最初の査問委員2人が入れ替わりました。なんと新査問委員たちは、(旧)箕浦グループメンバーで、箕浦から井田幹部会員・県委員長らにボスを乗り換えて、“井田忠誠派”になり、第11回大会“下り”の県党会議で<逆転評価人事4>策謀が失敗し、県役員になれず、<逆転評価人事7>やその後、新県常任委員に大抜擢された2人でした。その顔ぶれを見て、なにかいやな予感がしました。
案の定、彼らは、早速『(8カ月前・1分間批判発言)行為が規約第2条8項違反の重大な規律違反というだけでなく、その発言内容がすべて誤りで、虚偽である』と断定し、『ありもしない虚偽の内容を話したことについても自己批判書を書け』と指示しました。その2人や県常任委員たちは、私と同じく、3階建て愛知県委員会事務所2階の同じフロアにいるので、彼ら自身、内容が真実であり、県常任委員4人がそのフロアで大声で言うのを何度も聞いているのです。私が、査問委員2人にそれを指摘すると、一人が『I、S、N同志について、そんな事実は一度もないし、他の常任委員がその内容を言うのを一度も聞いたことがない』と表情も変えずに、平然と言い放ちました。これほど鉄面皮なウソを面と向かって聞いたことがないので、どういう神経で言っているのかと、彼らの表情を凝視したほどです。『発言内容は真実』とする私の徹底した抗弁によって、その査問会議は、激論となり、午後1時から6時まで、5時間もかかりました。
2、私(宮地)の第1回反撃 「意見書」5通提出
“その時が来た” 私は、彼らの真っ赤なウソに驚くともに、彼らはK氏・U氏専従解任と同じように、幹部会方針に基づいて「指導改善」運動で党中央批判をした私を報復的専従解任するつもりだと察知しました。“その時が来た”ことに気付かざるをえませんでした。私は、泣き寝入りの道を拒否し、その査問内容への反論として、長大な「意見書1、2、3、4、5」を書き、県勤務員支部、県委員会総会、中央委員会宛に提出しました。その内容は、私の1分間発言内容が真実であること、井田県委員長・県常任委員会の指導の誤りを詳細に分析したものです。この「意見書」提出行為は、予想される報復的専従解任の急迫にたいする私の第1回反撃でした。
以下は、1976年3月、私への査問が『私の発言内容も事実でない』への査問方針転換時点から、第1回反撃「意見書」提出とそれへの4つの報復発生までの内容です。第2回反撃は、次のファイルで書きますが、それら報復にたいする反撃「党大会上訴書」提出など、1977年10月第14回大会での上訴却下までの8カ月間のことです。
「意見書」内容 ここでは、ごく簡単に触れておきます。「意見書1」は、8カ月前の1分間発言内容の真実性と他県常任委員4人の、私を上回る同一発言内容言動の論証です。他「意見書」4通の内容は、抽象的理論・政策の問題ではなく、愛知県党で数年間に発生した指導上の誤り、および井田県委員長・幹部会員と県常任委員会の指導責任を数十人の実名入りで、具体事例10数件について、年月・場所とも厳密に記述、分析したものです。指導の誤りと責任の論証に関する書き方は、「スパイ査問問題意見書」と同じでしたから、どのようなものかはおよそ想像していただけるかと思います。その分量は、長大なものとなり、書き上げるのに4カ月間かかりました。全部でB5版レポート用紙600枚以上になりました。その数十人については、私の「意見書」を口実とする査問を受けないよう細心の注意をはらって書きました。
当然そこには、県との関連で党中央批判もかなりふくまれています。党中央、井田県委員長と県常任委員会は、それを読んで、『なぜ宮地が、こんなにも県党内の状況、地区レベル、各大衆団体レベルでの県常任委員会への批判、不満を知っているのか』と衝撃を受けたようです。それは、直ちに“宮本・不破式党内危機管理マニュアル”に従って、党中央の指示を受けつつ、私への報復を決め、執行したことで分かります。
〔小目次〕
1)、警告処分
2)、専従解任
3)、点在党員組織隔離
4)、脳波検査
〔報復1〕、他県常任委員4人の同一規律違反言動は不問にし、不公平であろうとも、宮地一人だけを警告処分にせよ
1976年8月までに、「意見書」5通を提出し、その間、断続的に7カ月間で8回査問を受けました。8月5日、最終「意見書」提出後に、県常任委員会は県勤務員支部に指示し、支部総会で『8カ月前の1分間発言行為は、「党内問題を党外にもちだした」重大な規律違反である』として、私を警告処分にしました。この処分時点では、1分間発言行為は1975年5月でしたので、1年3カ月前行為になります。発言内容の真実性については、私が「意見書」で全面的に争っているので、宮地が認めている8カ月前の1分間発言行為の規約第2条8項違反だけで処分したのです。この1分間発言行為以外の規律違反事例は、何一つありませんでした。規約上の処分項目は6ランクあり、訓戒、警告、機関活動の停止、機関からの罷免、権利停止、除名です。警告処分は第2ランクです。
私は、「意見書」で、県常任委員4人の同様の言動とそれらを直接何度も聞いている県常任委員数人の名前について、「スパイ査問問題意見書」のように、詳細に分析した数種類の表をつけて、論証し、党中央と県常任委員会に証拠として突きつけました。この警告処分にかんする私の不服は、やや複雑ですが、次の論旨です。
『8カ月前の1分間発言行為は認める。しかし、発言内容はすべて真実である。そして、その1分間発言行為と同じ行為は、他の県常任委員4人が、私より以前から、私以上の回数と大声で、愛知県委員会事務所内外で行っている。私の8カ月前行為が「党内問題を党外(=他の専従2人)にもちだした」規律違反とするなら、それも認める。しかし、同時に他県常任委員4人も同じ規律違反者として査問・警告処分せよ。それを不問にするのは、不公平な処分であり、その本質は党中央批判発言専従への報復処分にほかならない。このような報復のための不公平警告処分は許されない』。
しかし、井田県委員長・幹部会員、と県常任委員会は、自分たちの身内4人の言動を不問にし、査問もしなければ、なんの処分もしませんでした。“党中央批判発言専従宮地の首だけ切ればよい。あとは不問にせよ”とする宮本指令は、K氏・U氏専従解任と同じく、“党中央批判者を一人残らず排除した、一枚岩の4000人専従体制”を強引に作り上げる日本共産党専従幹部政策によるものでした。
〔報復2〕、宮地を警告処分と同時に専従解任せよ。ただ、専従解任理由として、8カ月前の1分間発言行為では無理があるので、「意見書」内容を逆用した理由をねつ造せよ
1976年8月5日、私を警告処分にするための県勤務員支部総会は、私が発言内容の真実性を主張するので、また他県常任委員4人も同じ規律違反者として同時に査問すべきと要求するので紛糾し、午前11時から午後3時まで4時間もかかりました。彼らは相談し、結局『(密告によって判明した)8カ月前の1分間発言行為のみによる警告処分』としました。その直後の午後3時10分、今度は県常任委員2人が私を呼びつけて、『専従解任』を通告しました。警告処分は、党規約第66条に基づく規律違反処分です。それにたいして専従解任は、党規約とは一切関係なく、共産党人事方針による4000人の専従採用・解任・定年退職措置の一つです。ただ、この人事方針は、どこにも文書化されておらず、その施行実態は宮本、不破氏らの恣意的裁量という人治主義の闇のなかにあります。4000人の専従問題については、『ゆううつなる党派』第四で分析してあります。
私は『解任の理由を言ってください』と聞きました。彼らは『(1)あなたにたいしてのみ、多くの同志が県への不平・不満を言うという“ふきだまり状態”にあなたがなっていること。(2)そういう状態の規律違反が長いことから、専従としての資質に欠ける』と答えました。私は、そのメモをとると、直ちに、専従解任とその解任理由に不同意を表明しました。彼らの本音は、1969年愛知県「指導改善」民主化運動時点での何度もの党中央批判発言専従3人中の残り一人への報復、「党中央批判発言専従の全員粛清」幹部会方針による排除でしたが、それを露骨に言うわけにもいきません。8カ月前(総会時点では1年3カ月前)の1分間発言行為だけでは、発言内容の真実性を争っているので、解任理由にするには、やや無理があります。
そこで彼らは苦労して、「意見書」の数十人実名入りの批判内容を逆手にとって、そこからこの(1)(2)解任理由をねつ造したのです。そもそも「意見書」内容を『(2)そういう状態の規律違反が長い』と歪曲するなら、専従解任通告10分前までの警告処分・支部総会で10数件の規律違反事例として追加すべきです。それをしないのは、その解任理由がねつ造であると自分たちでも分かっていたのです。『県への不平・不満の“ふきだまり状態”になっている』などとは、よくぞデッチ上げたものだと感心するほどです。
県常任委員会は、「意見書」5通で克明な問題点事例を暴露されて、『なんで宮地がこんなに知っているのか』と驚き、それを逆手にとって、『(1)県への不平・不満の“ふきだまり状態”になっている』とする専従解任理由をデッチ上げました。規約に基づく正規の「意見書」内容を、解任理由に仕立て上げるのは、井田県委員長・幹部会員と県常任委員会のまったく悪質な規約違反反党行為です。
〔報復3〕、宮地を警告処分、専従解任だけでなく、同時に点在党員組織隔離という“格子なき党内牢獄”へ閉じ込めよ。それにより上級機関への「意見書」垂直提出権以外の党員権を事実上すべて剥奪せよ
専従解任通告を受け、それへの不服表明をした後、私は彼らに「転籍問題」を聞きました。それへの不服表明もあって、その通告儀式は、同日午後4時半までかかり、この3つで、私は5時間半も粘ったことになります。点在党員措置については、少し説明がいります。「点在党員」とは、所属組織がまだ決まっていない党員のことです。それは、ある職場、地域で党員が3人以上になり、支部が結成できるまでの時期、あるいは、転勤、専従解任・引退後、先方の支部へ所属組織を移動する間の、過渡的・一時的措置としては存在します。その場合、通常は、先方の組織へ移動する「転籍書」を直ちに書きます。
専従解任への不服を言うとともに、私は『それでは居住支部に転籍させるのか』と聞きました。県常任委員らは、『いや転籍させない。あんたを県直属の点在党員にした』と返答しました。私は『専従解任問題が決着ついたら、転籍させるのか。いつなら転籍を認めるのか』と問いただしました。すると彼らは『いつ転籍させるかは言えない。転籍させるかどうかも言えない』と何か表情をこわばらせて答えたのです。その返事の態度や口調は、“「意見書」を取り下げなければ、あんたのような反中央分子は永久に転籍させない”というニュアンスでした。結局、次回ファイルの第14回大会「上訴書」却下後も転籍を認めませんでしたから、“永久に点在党員のままにする”方針だったのです。
“格子なき党内独房”組織隔離 この私への「点在党員にしたままで転籍させない」特殊措置は、規約にない党中央批判専従への組織隔離であり、“格子なき党内独房”です。なぜなら、様々な党員権は、なんらかの基礎組織か党機関に所属して初めて行使できるもので、この県直属点在党員は、水平的・横断的交流全面禁止の民主主義的中央集権制の下では、単独で、かつ垂直に、党中央に「意見書」を提出する権利以外はすべて剥奪されるという“党内独房”状態に強制的に収監されることになるからです。しかも、その「意見書」提出権を行使しても、私の「意見書」など22通が、通常発行される「受領書」が1通も来ないままで、1976年10月党大会までの1年8カ月間1度の審理、問合せもなく、すべてが完璧に握りつぶされるという状況でした。その本質は、「8カ月前・1分間発言」規律違反程度からみて宮地をまだ除名、除籍できないので、党籍を“独房”に閉じ込めてしまい、“格子なき牢獄”からたとえ「意見書」が出てこようとも、それを従来どおり無視することによって、実質的に宮地の党員権を全面剥奪せよという、宮本、不破、井田氏らのもっとも卑劣な規約違反反党行為です。
特高の「予防拘禁式組織隔離」を真似 専従解任後、強烈な汚染・伝染力をもつ党中央批判保菌者宮地を居住支部へ転籍させ、野放しにすれば、宮地がそこでも汚染・伝染言動をより活性化するのを恐れたのです。そこで彼らは、私の批判言動を完全に封殺するため、特高の「予防拘禁式組織隔離」を真似しました。そもそも、治安維持法なるものが、天皇制打倒、資本主義体制の暴力的転覆を目指す非合法暴力革命政党コミンテルン日本支部、日本共産党員、シンパの言動を封殺するための予防拘禁的な“格子ある牢獄”、独房隔離措置の法律でした。その天皇制の組織隔離独房に、宮本氏12年、袴田氏10年、徳田・志賀氏らは18年収監されていました。宮本氏は、自分が体験した「格子ある治安維持法独房」の言動封殺手口を、今度は合法的革命政党・前衛党最高権力者として、党中央批判者を専従解任後も転籍させない、点在党員措置という“格子なき牢獄”手法で逆用したのです。
党籍剥奪の党外排除 党中央批判者への宮本氏の策動は、『なぜ民主集中制の擁護か』や『ゆううつなる前衛』に書いたようにいろいろあります。一番の邪魔者は、除名、除籍の党外排除で党籍剥奪します。党籍剥奪してしまえば、後処理は簡単で、彼らに『反党分子』というレッテルを貼って、各都道府県党組織部(=反党分子対策部を兼ねる)から「反党分子監視報告書」を定期的に報告させればいいのです。「監視報告書」で情報入手すれば、例えば、被除籍「反党分子」哲学者古在由重氏1990年死去での追悼集会呼びかけ人リストにある現役共産党員を個別に呼び出し、「中央委員会決定である、参加するな」と通告し、“手を引かせる”ことをすればいいのです。さらに、「古在由重先生を偲ぶつどい」に1400人が参加し、古在死去黙殺の「赤旗」への批判が高まると、逆に「赤旗」で、1984年宮本氏の対平和委員会・原水協クーデターにたいする共産党員古在氏の「反中央規律違反言動」をねつ造暴露して、“死者に鞭打つ”仕打ちをすればいいのです。
最高指導者が自ら行う反党活動 宮本氏は、この4年前の1972年、民青新日和見主義分派事件で、処分した100人近くの民青中央・都道府県機関内共産党員にたいして、この転籍措置を悪用した大規模な最高指導者が自ら行う反党活動をしていたのです。その党籍剥奪口実をねつ造できない者は、共産党、民青、平和委員会・原水協などの専従を解任し、そこの所属党組織、グループから追放します。その場合、すべてのケースで転籍問題が発生します。新日和見主義分派事件とは、宮本式対民青クーデターでした。しかし、事件には分派そのものが“宮本偽造分派基準”によるだけで、存在していなかった以上、監禁査問・帰宅査問600人、内処分100人を除名、除籍の党籍剥奪をする口実までは、さすがの宮本氏もねつ造できません。そこで、少なくとも、監禁査問後の被処分者100人の民青グループ所属党員の転籍問題が生じ、そこでは一応除名1人を除く全員に「転籍書」を書かせました。宮本氏は、100人の転籍処理を3分類して指令しました。
第一は、“空中独房”です。宮本偽造新基準“2人分派、3人分派”についての自己批判不足、今後も党中央批判を保有しそうな民青幹部は、提出された「転籍書」を握りつぶして、転籍先党組織への移送処理をしない。その党員から催促されても『今、処理中』と生返事しておく。これは意図的に「転籍書」を宙に浮かせた“空中独房”です。この時、同一分派として査問されたジャーナリスト高野孟氏にたいして、このやり方をしました。
第二は、“黒塗り封印”転籍です。党中央批判活動をいつか再開する危険性のある民青幹部、ジャーナリストは、2、3年間の県直属点在党員組織隔離後、“要注意人物の「口頭」秘密ラベルつき”で相手方党組織へとりあえず転籍させる。ただし、『処分経歴』という「転籍書」必須記入欄に本人が記入した「新日和見主義分派事件での処分ランク・党員権1年間停止、かつ、機関罷免」は、党中央事前検閲ですべて“黒塗り封印”をした上で、転籍させる。川上、油井氏は第二類メンバーでした。もっとも、この“黒塗り封印”行為には、別の解釈も成り立ちます。この事件そのものが、まったくのねつ造、でっち上げ粛清であったことを、日本共産党史上最大規模の党内犯罪張本人宮本氏自身がよく分かっていて、『事件処分者』の存在を、その形で、隠蔽・抹殺したかったとする見方です。
第三は、“格子なき党内独房”隔離です。4年後、私にしたように、最初から「転籍書」も書かせない、永久に転籍させない“格子なき党内独房”隔離です。宮本氏が、第三類措置を党中央委員広谷氏(後に除名)、ジャーナリスト川端治氏、他の民青幹部にしたかどうかは不明です。また、民青グループ内被処分共産党員100人のうちでの、第一類転籍、第二類転籍の割合は、閉鎖組織の闇に隠れて不明です。
『悪魔の飽食』ならぬ“前衛の飽食”というべき政党犯罪 これら権力批判言動封殺の予防拘禁隔離は、特高や宮本氏だけでなく、一党独裁国でも権力者たちが愛用する常套手段となっています。ソ連反体制遺伝学者ジョレス・メドヴェージェフは、ソ連共産党に逮捕されて、『反体制意見の彼は狂人である』と烙印を押され、格子ある精神病院に強制隔離されました。この方法は、1960年代以降ブレジネフが数百人規模で広汎に悪用しました。病院内では、薬物による反体制派廃人化計画という、恐るべき前衛党犯罪によって、大量の精神安定剤、その他薬剤を投与、強制注射します。双子兄弟の反体制歴史学者ロイ・メドヴェージェフやサハロフの国内だけでなく、西側マスコミ、国連にまで訴えての、必死の救出活動によって、彼は廃人になる寸前の体調で、“格子ある精神病院牢獄”から釈放されました。メドヴェージェフ双子兄弟は、共著『狂人とは誰か』(三一書房)で、狂人レッテルを貼る手口、薬物廃人化計画の実態を告発しました。それは『悪魔の飽食』ならぬ“前衛の飽食”というべきもので、これほど悪質な政党犯罪は、世界政党史上でもかつて見られないものです。ただ、731部隊同様、ソ連崩壊後もその全貌は闇のなかにあります。中国共産党は、1989年6月の天安門事件日が近づくと、今でも毎年、事件関係者数十人を予防拘禁独房に収監しています。特高、宮本氏、ソ連共産党、中国共産党は、権力形態、場所、格子有無の違いこそあれ、権力者が批判者にたいして行う批判言動封殺の予防拘禁隔離行使という卑劣さで共通点を持っています。
私は、彼らの〔報復1、2、3〕のなかで、この点在党員組織隔離にはとりわけ強烈なショックを受けました。なぜなら、彼らの報復において、こういう手口があるのを、それまでまったく知らなかったからです。川上氏ら被処分者100人への転籍悪用手口を知ったのは、1997年「査問」が出版されてからです。警告処分、専従解任は、従来の粛清事件から予想可能なものでした。しかし、転籍させない点在党員措置とは、“格子なき党内独房”収監でした。これらの3つの報復は、党籍がある私にたいする“三重殺”というべきものです。それは、「寅さん」映画のせりふ『そこまで言っちゃーおしまいよ!』のように、“そこまでやっちゃーおしまいよ!”というほど私を追い詰めました。
こういう目にあって、こんな党をやめよう、と思ったら良かったのかもしれません。彼らの狙いはまさにそこにありました。しかし、私はそれまでにマルクス、レーニンの文献もかなり読み、60年安保入党世代の一人として、まだ社会主義と日本革命実現に幻想を持っていました。まだ共産党員としての活動をし、批判も続けようと思っている者にとって、この〔報復3〕は“格子なき牢獄”そのものでした。したがって、午前11時から午後4時半までの1日のうちに行われた“三重殺”に会って、文字通り「怒髪天を衝く」、「怒り心頭に発す」という心境に、生まれて初めてなったのです。私は“三重殺”の現場で、『そんな理由の警告処分、専従解任、点在党員措置には納得できない。不服なので、すぐ意見を提出する』と発言し、その後、〔報復1、2、3〕にたいして『第14回大会への上訴書』を提出しました。処分問題での「党大会への上訴」とは、司法制度での最高裁上告と似ています。ただ、「党大会への上訴」行為は、1961年第8回大会以降の党大会では、誰もやっていない、前代未聞の反逆でした。そして、「上訴書」提出後に、さらに別の報復が始まりました。『党大会上訴』とその結末は、次のファイル第5部で書きます。
〔報復4〕、このような過激な党中央・県常任委員会批判内容や「意見書」「上訴書」等22通もの提出のやり方は狂っている。とくに党委員長を直接批判した「スパイ査問問題意見書」はまさに“狂人的文書”である。『彼は頭がおかしい』とのレッテルを貼れ。民医連に指示して、宮地の脳波検査をせよ
この頃、私は、「頸肩腕症候群」に罹っていました。私は、県選対部任務に熱中し、自ら申し出て、1972年総選挙での愛知1区「田中美智子・革新共同候補」選挙支援や中間選挙支援活動で、選挙期間中私の上記立場を生かして、選挙事務所にはりついて、選挙情報を集めました。それらを分析した『選挙情勢ニュース(部内資料)』を、そのまま大量印刷できる形で、手書きで書き、連日発行・即日配布する仕事を引き受けていました。それを原因とする「頸肩腕症候群」に罹ったのです。その手、肩のこり、しびれ治療で民医連診療所に通っていました。
1976年8月末、「上訴書」提出後から、県常任委員会は私への新たなレッテル貼りを始めました。提出後しばらくして、民医連診療所待合室で、県勤務員の一人と偶然顔を合わせました。診療待ちの間で、雑談をしていた終わり頃に、彼の方から『「宮地同志の意見書は県・中央批判の内容が過激すぎる。彼は頭がおかしいのではないか…」と言われている』と知らせてくれました。誰がこの口コミを流しているかすぐ分かりました。その後の一言が衝撃でした。『さっきから話していて、宮地さんが別に頭がおかしくないことが分かった。安心した』と言ったのです。『安心した』と言われても、私は複雑な気持ちで、返す言葉もありませんでした。
しかも、さらにショックなことに、1977年1月26日、「党大会上訴追加書」提出後しばらくして、通院している民医連診療所で脳波検査をされたことです。筋電図検査を受けたことはありますが、頸肩腕のしびれにたいし、一体脳波検査が必要でしょうか。私が検査目的を聞いたのにたいして、検査理由の説明や医師の態度も不自然でしたので、党が共産党員である民医連医師に『宮地の脳がおかしいかどうか検査せよ』と指示したのではないかと疑いました。この件は私も県常任委員会に追求し、妻も1977年4月第5回目の『宮本委員長宛質問書』で書きましたが、いずれもなんの返事もなく、握りつぶされ、解明できませんでした。
検査時点に、どうも変だと感じたので、その検査医師名・看護婦名も日記に記入したほどです。当時カルテはありましたが、そこまでは調べられませんでした。後にのべる私の民事訴訟で、私は病状証明と脳波検査事実証明をするために、裁判所に「宮地カルテの証拠保全申請書」を提出し、裁判所はそれを認め「証拠保全決定」をし、カルテ提出命令を出しました。ところが、なんと、民医連診療所は、党の指令を受け、『宮地「頸肩腕症候群」カルテ提出を拒否します』とする対応に出ました。彼らは、一体何を隠蔽したかったのかということです。
他にも、「スパイ査問問題意見書」提出後に、入党以来の知り合いの県委員に、別の民医連診療所入口で出会ったとき、私が『私の、県委員会総会宛にもした「意見書」は審議されたことがあるんですか』と尋ねました。その県委員は『井田さんが、かなり前の県委員会総会の日に、机の上に、あんたの「意見書」をでんと積んで、「宮地同志からこの長い意見書が出ている。とても読めたものではない。しかし読みたい人は来なさい」と、あんたが頭がおかしくなっているというニュアンスで話した』と知らせてくれました。私が『誰か読みに行った人はいるんですか』と聞くと、彼は『そんなことしたら、どえらい目に会うがや』と答えました。この名古屋弁は今でも鮮明に記憶しています。専従解任されたとはいえ、民事裁判提訴以前で、組織隔離という“格子なき党内牢獄”に入れられていようと、日本共産党員としての党籍はあるのです。全面的な県常任委員会批判「意見書」5通や宮本委員長批判「スパイ査問問題意見書」を提出したことで、井田県委員長・幹部会員は、私に“気狂い”扱いレッテル貼りを始めたのです。ソ連共産党が、ソ連反体制遺伝学者ジョレス・メドヴェージェフら数百人に“狂人”レッテルを貼ったのと同じ、権力者側の思考スタイルでした。ただし、〔報復1、2、3〕がすべて会議や直接通告だったのにたいし、この〔報復4〕は間接的な状況証拠であって、その真相は闇のなかにあります。しかし、後述の同一事例をふくめると、なんらかの“宮地は頭がおかしい”というレッテル貼りをしたと私は推定しています。
もっとも、ほぼ同時期に提出した「スパイ査問問題意見書」、その抜粋「袴田政治的殺人事件」データを読んで、『こんな内容の「意見書」を書く宮地氏の頭はおかしい』と思われた方にとっては、井田幹部会員の“精神鑑定”のほうが正しく、それはレッテル貼りでもなんでもないということになるでしょう。
4、中央派遣役員3つの“援助・統制”任務
『愛知県指導改善問題』における党中央派遣役員は、のべ6人いました。第1次メンバーは、4人でしたが、『第1次草案』作成後、宮本指令により、阿部准中央委員以外の3人が“理由なき召還”をされました。県党会議時点から井田幹部会委員、阿部准中央委員、佐々木党中央勤務員らが、新・県役員になりました。
1、問題発生中間機関にたいする党中央派遣者3つの任務
第1任務、中間機関の誤り、“行き過ぎ”是正 『愛知県指導改善問題』では、「拡大月間」のやり方を一部是正しました。長期日報体制、「拡大月間」とその長期延長、連日の深夜までの点検会議、専従の長期泊り込み体制などです。これらは、箕浦准中央委員が名古屋中北地区委員長になって以来、多少の断続があるにしても、事実上3年間続きました。『5月問題』を初め、第2部で書いた報復的処分にたいして、「名誉回復」をしました。
ただ、これらの「拡大月間」システムとその実態は、愛知・熊本県党(宮本報告)ほどでないにしても、第2部で分析したように、党中央指導により全党的に行なわれていました。しかし、宮本氏は、表面上で、その誤りを愛知・熊本県党問題、その中間機関責任だけに矮小化しておいて、裏では、全都道府県委員会に指令して、“なしくずし”的に、一定の改善を図りました。党中央側の誤り、責任について、きちんとした総括をしないで、“なしくずし的転換”を画策するのは、第22回大会まで続く宮本・不破・志位体制の一貫した基本手法になっています。なぜ、明確な総括をしてから、路線・政策・方針の転換をしないのでしょうか。それは、党中央側・トップの誤り、責任を“告白、自己批判”すれば、それを契機として、水平的横断的党内交流禁止の反民主主義的な、前衛党の下級組織統制・支配システムにたいする批判が暴発するのが怖いからでしょう。
第2任務、全党の「集中的拡大」運動に、直ちに取り組ませること 党中央成績主義指導を原因とする中間機関の一面的拡大の誤り、支部・幹部破壊が起きていようとも、“行き過ぎ”総括さえ済めば、直ちに「拡大月間」に立ち上がらせます。大量減紙が止まらない、拡大成果が挙がらないときは、『清算主義』キャンペーンを大々的に行って、成績を求めます。虚偽拡大問題があり、批判された幹部であろうとも、拡大運動を『先進』的にやった幹部を大抜擢します。拡大実績を出すという目的のためには、手段を選びません。「拡大月間」方式による集中的拡大という宮本・不破路線にたいする抵抗、批判的雰囲気が党内に形成されることは、絶対避けなければなりません。
第3任務、中間機関の“掃除”=党中央批判専従の『始末』 党中央の一面的拡大指導を原因とする誤りが、中間機関に発生しても、党中央側の誤り、責任を一切認めない立場を貫徹します。しかし、党中央責任を追及、発言する役員、専従も必ず発生します。そこで党中央派遣者の資質が問われます。党中央側の誤り、または、「家父長的個人中心指導」などという最高指導者私的分派・宮本側近グループを連想させ、連結批判の芽を残す規定を、現地で承認する派遣者は、直ちに“理由なき召還”=粛清をします。
派遣者のもっとも重要な任務は、“援助・統制”の指導改善過程で派生した「党中央批判専従」を『始末』することです。宮本・不破批判専従を『掃除』して、日本革命を起すことを職業とする「職業革命家」集団を“純化”し、『一枚岩の党中央、47都道府県、三百数十地区の4000人専従体制』に作り変えることです。
2、愛知県党派遣者3人の任務完遂と党本部帰還、昇進
1)、井田誠幹部会員 彼は、党中央派遣者として、(1)「指導改善」第2次民主化運動の逆転評価と逆転評価人事を見事に成し遂げ、『清算主義との闘争』に成果を上げました。さらに、(2)党中央批判者3人を粛清・排除し、「党中央批判専従のいない一枚岩の愛知県党」を再建する任務を立派に果たし、代々木党本部に凱旋帰還しました。そして、次の1980年第15回大会で、統制委員となり、かつ、訴願委員会責任者に抜擢されました。党中央批判をふくむ「意見書」「質問書」を受け付け、処理する上で、彼の“精神鑑定医”“異端思想審問官”としての鑑定能力、粛清手腕を宮本、不破氏らが高く評価したのでしょう。
2)、阿部泰准中央委員 井田氏の代々木帰還後、彼は愛知県委員長になりました。宮本・不破氏は、彼の「3つの任務」完遂をたたえ、次の1977年第14回大会で、『中央委員』に昇格させました。まもなく、彼も代々木に帰還しました。後に、彼を『幹部会委員』にしました。
3)、佐々木季男中央勤務員 派遣と同時に、愛知県常任委員、県政策委員長になりました。宮本・不破氏は、彼を次の1977年第14回大会で、『准中央委員』を飛び越して、いきなり『中央委員』に大抜擢しました。1977年末から79年、宮地健一の『反党・反革命・党破壊、前代未聞の謀略行為、国際共産主義運動史上一度もない』という「民事裁判」において、共産党側中心専従として、仮処分審尋9回にすべて出席し、たたかいました。宮本・不破氏は、党中央批判専従3人粛清と宮地裁判との闘争を評価し、代々木に帰還させ、彼も『幹部会委員』にしました。
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(関連ファイル)日本共産党との裁判
第1部『私の21日間監禁査問体験』 「5月問題」
第2部『「拡大月間」システムとその歪み』 愛知県「泥まみれの拡大」
第3部『宮本書記長の党内犯罪・中間機関民主化運動鎮圧、粛清』
第5部1『宮本・上田の党内犯罪「党大会上訴」無審査・無採決・30秒却下』
第6部『宮本・不破反憲法犯罪、裁判請求権行使を理由とする除名』
第7部『学者党員・長谷川正安憲法学教授の犯罪加担、反憲法「意見書」』
第7部・関連 長谷川教授「意見書」
『長谷川「意見書」批判』 水田洋、「大統領」、中野徹三、高橋彦博
第8部・完結『世界初・革命政党専従の法的地位「判例」』