「拡大月間」システムとその歪み

 

1967年〜69年、愛知県「泥まみれの拡大」

(日本共産党との裁判第2部)

 

(宮地作成)

〔目次〕

  1、党中央の機関紙拡大方針と「月間」システム実態

  2、「拡大月間」システムの功罪 その歪み

  3、愛知県「泥まみれの拡大」 准中央委員の成績主義党内犯罪

     1)背景

     2)『先進』北守山ブロックと大量虚偽申請のからくり

     3)全地区的な細胞破壊、幹部破壊、財政破壊

     4)私(宮地)への報復継続

     5)私の指導の誤りと個人責任

 

(関連ファイル)日本共産党との裁判          健一MENUに戻る

   第1部『私の21日間監禁査問体験』 「5月問題」

   第3部『宮本書記長の党内犯罪・中間機関民主化運動鎮圧、粛清』

   第4部『「第三の男」への報復』警告処分・専従解任・点在党員組織隔離

   第5部1『宮本・上田の党内犯罪「党大会上訴」無審査・無採決・30秒却下』

   第5部2『上田耕一郎副委員長の多重人格性』

   第6部『宮本・不破反憲法犯罪、裁判請求権行使を理由とする除名』

   第7部『学者党員・長谷川正安憲法学教授の犯罪加担、反憲法「意見書」』

   第7部・関連 長谷川教授「意見書」

      『長谷川「意見書」批判』 水田洋、「大統領」、中野徹三、高橋彦博

   第8部・完結世界初革命政党専従の法的地位「判例」

 

 1、党中央の機関紙拡大方針と「月間」システム実態

 

 1、「拡大月間」設定と増減経過

 

 党中央は、1958年第7回大会以来、数十回に及ぶ「機関紙拡大月間」を設定し、全党運動として、“集中的拡大”スタイルをとってきました。1975年8月15日付「赤旗」で、『党勢拡大の「月間」「運動」の歩み』表を掲載しています。HNの最高時は、1980年の355万部で、それ以降は、一貫して減退しています。PHNという党勢の最高は、党員49万時点ではなく、1980年です。この判断の理由は、『日本共産党の党勢力』で書きました。

 

大会

回数

延月数

HN

1958

12

3万数千

61

8

12

30

(2倍をこえる)

64

14

80

20

60

10数万

66

10

13

100数十

30万近い

70

11

15

180

30

73

12

13

282

30数万

76

13

300以上

38

77

14

326

40万近く

80

15

355(最高)

44

82

16

339

48

85

17

317.7

48万強

87

18

317.5

49(最高)

90

19

286

54

232

48

94

20

250

50

200

36

97

21

230

40

190

37

2000

9

197

35

162

00

22

199

386517

04

23

 

 

173

 

 

 

06

24

 

 

164

 

 

 

10

25

 

 

145.4

 

 

 

 

 ()回数、延月数は、1975年8月15日付「赤旗」表の集計です。それは、次の党大会までのもので、その詳細は、「赤旗・縮刷版」でみることができます。第13回大会以後の「拡大月間」回数、延月数の表は出ていません。しかし、第22回大会近くまでは、同じやり方でした。他の数字も、すべて党中央公表数字です。

 

 2、党中央の「拡大月間」指導・追求システム

 

 1、常任幹部会決定と具体化、月間体制

 

 「月間」の時期、回数設定は、すべて最高執行機関としての常任幹部会が決定します。日本共産党という民主主義的中央集権制・上意下達組織においては、独裁的執行権限を持つのは、(1)常任幹部会20人⇒(2)47都道府県常任委員会47×10人から20人=750人⇒(3)三百数十地区常任委員会・三百数十地区×7人から10数人=3000人、という“縦系列”の約3800人の専従です。4000人の専従とは、この1、2、3執行機関メンバー以外の、勤務員、赤旗支局員を含みます。それを足すと、本当は、合計4千数百人になるのですが、地方議員で地区常任委員になるケースも多いので、私(宮地)の数字は、それを差し引いた最低値にしています。

 

 規約上の正規の各級機関は、その方針討論、決定権限を、事実上剥奪されています。(4)55人の幹部会、(5)約200人の中央委員会総会、(6)3500人の47都道府県委員会総会、(7)20000人三百数十地区地区委員会総会は、各級執行機関が決定し、具体化した方針を、形式的に“異議なし”承認し、それを遂行することを義務づけられ、その拡大成果を報告し合う「活動者会議」レベル機関に、押し下げられています。これは、スターリン以来の全世界のコミンテルン型共産党における党機関運営システムです。宮本・不破・志位氏らは、そのスターリン型機関運営を完璧なまでに踏襲しています。

 

 すべての中間機関が、常任幹部会決定に基づいて、瞬時に「自主的目標」を決め、集中的拡大の体制をとります。中間機関とは、47都道府県委員会と三百数十地区委員会ですが、実態として、地区補助機関としての「地区内行政区ブロック」も含みます。なぜなら、「拡大月間」中は、「ブロック」が、拡大指導、点検、追及、成果集約の最先端機関となるからです。「拡大月間」体制とは、月間推進責任者、日報・週報・月報による拡大成果集約・報告システムと、専従の「泊り込み」指示などです。

 

 2、拡大成果追求システム

 

 「2カ月間の拡大月間」中、『連日点検・集約システム』をとるよう、常任幹部会は、全中間機関に、中央委員会総会、都道府県委員長会議を通じて、“口頭・暗黙指令”を出します。上記表の月間回数は、いつも、ほぼ2カ月間でした。この時期は、28000細胞(当時は細胞)あり、2000年では26000支部になっています。

 

 月間中の党中央集約ルートは、次のとおりです。28000細胞 連日の深夜までのブロック点検会議 連日の三百数十地区常任委員会 連日の47都道府県常任委員会 連日の党中央報告というルートです。この間、随時、地区・都道府県「活動者会議」、「機関紙部長会議」、「地区委員長・都道府県委員長会議」を行い、かつ、党中央は、全都道府県委員会へ拡大督促・点検中央委員を派遣します。

 

 3、評価と批判という二面手法

 

 4つの全党的評価基準を、常任幹部会は設定し、日常的に、「赤旗」「党報(当時発行)」で、全都道府県委員会評価を公表しました。それは、(1)「H読者数の前大会比順位」、(2)「N読者数の前大会比順位」、(3)「H読者数の有権者比順位」、(4)「N読者数の有権者比順位」です。宮本・不破氏は、この評価表を、「2カ月間の拡大月間」約100回×数回=数百回にわたり、公表し、“党勢拡大・社会主義競争”を煽り立てました。これは、資本主義・大会社営業部門における「支店別・営業所別・営業社員別の売上棒グラフ」による点検・督促システムと同じです。

 

 宮本・不破氏は、中央委員会総会や都道府県委員長会議で、()拡大順位の良い都道府県委員長を、ことさらに、高く「先進」「典型」と評価し、その公表・宣伝をするとともに、一方、(2)順位の悪い委員長にたいして、打撃的・侮辱的批判を加え、自己批判と決意表明をさせました。宮本・不破氏は、この「先進業績」を誉め、「後進」を“打ち据える”手法によって、全党を引き締め、党勢拡大に駆り立てるという「思想動員手法」を、意識的に、数十年にわたって、とってきたのです。

 

 この宮本・不破式「思想動員二面手法」は、反民主主義的上意下達組織において、そのまま、ストレートに、全中間機関に“コピー” されました。都道府県・地区・ブロックという各中間機関の総会、会議、「活動者会議」などで、()先進地区、典型支部、拡大英雄を発表し、発言させ、高く評価します。それを、すべての党機関・支部が学ぶよう、「都道府県・地区党報、ニュース」でも普及します。いわゆる“典型づくり”です。一方、()拡大成果を挙げない地区、ブロック、支部にたいして、“見せしめ”の打撃的批判をくわえ、全員の前での“拡大の遅れ”自己批判と決意表明を強要します。

 

 4、「拡大月間」の延長強要

 

 「拡大月間目標」は、常任幹部会設定の通常2カ月間に合わせて、各中間機関が、“自主的に決定”する建前になっています。しかし、ここでも、宮本・不破氏は、(1)高い目標を掲げた機関を評価し、(2)低い目標を出した都道府県委員長に打撃的批判を加えます。その「指導スタイル」は、三百数十地区にたいして、同じく“コピー”されます。

 

 よって、「月間」終了日を迎えても、ほぼ100%の中間機関が、“自主的目標の未達成”になっています。中間機関が、そこで、「月間」を終了しようものなら、大変です。なぜなら、宮本・不破氏は、『未達成分をどうするんだ』と、強烈な批判を加え、都道府県委員長を呼びつけて、面罵するからです。その都道府県は、地区委員長を面罵し、地区委員長は、ブロック責任者を面罵するという“将棋倒し・ドミノ”が起きます。一度面罵された体験をもつ各級中間機関委員長は、二度とその“ドジな誤り”をしません。したがって、全中間機関が、“自主的に”「月間」を延長し、点検・報告・専従泊り込み体制を継続します。上記表「のべ月数」の1.5倍を「機関紙拡大のみの一本足活動」に全党員が取り組むよう、党中央は、実質的に指令し続けます。

 

 しかし、宮本・不破氏は、これら4つの「拡大月間」指導システムを、党機関運営実態として執行するだけで、いかなる党中央決定文書にも載せません。よって、次にのべる「拡大月間」指導と活動の“歪み”が、各中間機関に発生しても、その中間機関の誤りと責任に矮小化し、なすり付け、党中央の責任を一切認めません。彼らは、「拡大月間」運動に関して自分たちの指導の誤り、責任を認め、それを自己批判したことは、一度もありません。ここにも、丸山眞男がいう『右の天皇制と同じ、左の日本共産党の無責任体質』が、見事に露呈しています。

 

 

 2、「拡大月間」システムの功罪、とくにその歪み

 

 1、功績

 

 表のように、党中央は、「拡大月間」を、1958年第7回大会以降、2000年第22回大会まで、「旧・規約」の民主主義的中央集権制の『上級の決定に従う』規律に基づき、42年間一貫して継続してきました。「赤旗」公表数字によれば、第7回大会から第12回大会までの15年間で、「月間」回数36回、のべ月数79カ月、実態延長1.5倍で、120カ月=10年間分になります。この1.5倍実態については、私(宮地)が1960年入党から、全損保細胞・細胞長、民青地区委員長、党地区常任委員として、直接取り組んできた体験によるもので、正確です。宮本・不破氏は、10年間分/15年間という66%期間を、「機関紙拡大のみの一本足活動」に全中間機関、全党員が取り組むよう、実質的に指令し続けたのです。

 

 もちろん、“建前”としての党中央方針は、『大量宣伝を先行させて、大衆闘争と拡大独自追求の二本足』です。したがって、『党中央は、つねに、正しい、全面的方針を出している』のに、『「一本足活動」に陥ったのは、その中間機関の指導の誤り、責任』と、下部に責任転化をします。宮本・不破氏は、「拡大月間」の功績だけを誇り、その歪みにたいしては、なんら自己批判する必要がありません。なぜなら、彼らの指導責任を批判、追求しようにも、“形のない”指導実態があるだけで、“形のある”決定文書としては、何一つ残っていないからです。

 

 功績としては、次があります。

 1、1980年第15回大会までは、“その指導実態”により、「赤旗」が増えつづけ、最高時HN355万部になりました。これは、国内他政党、および他の資本主義国共産党と比べても、抜群の党勢力でした。ただし、それ以降の20年間は、「拡大月間」を何度繰り返しても、一貫して“歯止めのきかない”減退をしています。

 2、「赤旗日曜版」の増加は、各選挙における「1N2票」という固い組織票となり、共産党議員の増大につながりました。

 3、HN増大は、政党財政を、強固で、安定したものにしました。政党機関紙は、税法上、ほとんど税金をかけられません。「日本革命遂行の職業革命家」4000人の「活動費(人件費)」支出の基本的部分を、その収入でまかなっています。豊富な宣伝費の財源にもなりました。

 

 2、歪み

 

 以下は、1966年10月第10回大会から、1970年7月第11回大会までの、3年9カ月間=45カ月間での拡大運動の実態分析です。この間、『日本共産党との裁判・第1部』での1967年『愛知県・5月問題』、および、下記にのべる、それ以降の2年間での『愛知県・泥まみれの拡大』運動がありました。ここには、愛知県の特殊的歪みもありますが、宮本・不破氏による全党的な歪みが基本です。

 1、指導・活動実態の歪み

 

『党勢拡大の「月間」「運動」年表』(「赤旗1975.8.15」の一部抜粋)

期間

「月間」「運動」名称

備考

10回大会66.10

「赤旗」読者100数十万

総選挙で約220万票、5議席獲得(67.1)。いっせい地方選挙、地方議員数1525人となる

67.5〜7.15

党創立45周年記念機関紙拡大月間

第6回全国活動者会議(68.4)

68.5〜6

参院選挙での躍進のための「大衆宣伝と機関紙読者拡大の特別月間

参院選地方区で約360万票。4議席獲得

68.10〜11

「党勢拡大と学習・教育月間

68.12.1〜12.20

党勢を拡大する月間の成果を発展させ、後半期目標の総達成と配達改善の「特別月間

69.2〜3

第3年度前半期計画の達成に向かって「2月、3月の党員拡大月間と機関紙読者拡大特別月間

第7回全国活動者会議(69.9)

69.9〜10

総選挙めざし大量宣伝、思想教育と党勢拡大の「月間

70..15〜4.15

第11回大会をめざす党勢拡大「月間

総選挙で約320万票、14議席獲得(69.12)

11回大会70.

HN180万部

 

 この45カ月間中、全中間機関、全細胞は、3つの重点課題に取り組みました。

 )、「拡大月間」7回、20カ月間

 「月間」は7回、のべ月数は13カ月間ありました。しかし、「月間」延長実態を含めると、その1.5倍の20カ月間を、党勢拡大「月間」だけに一面的に取り組み、その拡大数成果を追求・点検する党活動、党生活、職場・地域生活、家庭生活を続けることを、宮本・不破氏は指令し続けたのです。その全党的成果は、HN100数十万部から180万部への拡大でした。この20カ月間中、中間機関とその専従は、職場・地域での大衆闘争、大衆団体活動にたいする指導・点検を一切しません。一晩に、いくつかの細胞会議、LC会議の“はしご指導”をしなければならず、そんな“暇、余裕”などないからです。

 

 )、選挙活動4回、8カ月間

 「拡大月間」だけではありません。この間、総選挙2回、参院選挙1回、統一地方選挙1回という、全国規模の選挙戦が4回ありました。選挙前からの2、3カ月間は、大量宣伝ビラまき、票よみが最重点となり、その8カ月間は、選挙活動としてのビラまき達成度、票よみ数の点検・集約に一面化します。中間機関は、大衆運動なしの「選挙一本足活動」を指導・点検します。

 

 )、党中央決定の読了指導・点検14回

 この間、中央委員会総会は14回開かれました。すると、党中央は、中間機関を点検します。その都度、中間機関は、細胞にたいして、各中央委員会決定読了、第11回大会決議案読了指導と、その読了党員数点検・集約活動をし、党中央に報告します。

 

 したがって、45カ月間中、1)「拡大月間」で20カ月間の「一本足活動」、2)選挙4回での8カ月間の一面的選挙活動、3)党中央決定、党大会決議案読了活動などで、計28カ月間以上が、大衆運動・その討論なしに一面化します。

 宮本・不破氏ら常任幹部会にとっては、“党中央直接ルートでの宣伝・扇動・組織者”としての機関紙拡大、選挙支持者拡大、決定読了によって、彼らの方針、政策が、“上から下へ”ストレートに伝達されることに、大満足でしょう。

 

 しかし、細胞側、個々の党員にとっては、『(1)HN増やしたか、(2)何票よんだか、(3)ビラをまききったか、(4)決定、決議案を読んだか』という“員数調べ”の対象になってしまうのです。当時も、現在もそうです。その宮本・不破体制、現在の不破・志位体制と個々の党員の関係実態に、どれだけの党員が“共産党員としての生きがい”を感じているのでしょうか。

 

 2、数字追求偏重による歪み

 

 大衆運動、様々な要求実現闘争は、全国的数字としては、集計不可能です。(1)HN拡大数字、(2)票よみ数字、(3)ビラまき数字、(4)決定読了者数字は、全党的数字集約が可能です。党中央は、「月間」中、選挙中、それらを日報・週報体制で集計していきます。

 

 そこでの宮本・不破氏による47都道府県委員長にたいする指導・活動評価基準は、数字成果による評価に必然的に一面化、矮小化します。それは、数字のみ挙げればよい、という成績主義を、党内に派生、助長します。数字成果を挙げない中間機関委員長への批判は、『成果が出ない理由は、××同志の敗北主義、日和見主義によるものだ』とする宮本・不破式打撃的思想批判と自己批判の強要にエスカレートします。そのスタイルは、反民主主義的な民主主義的中央集権制によって、全中間機関に“コピー”されました。

 

 その宮本・不破式「評価と批判二面システム」は、4000人専従の中に、とくに、中央委員・都道府県常任委員・地区常任委員である3800人専従の中に、“ひそかなる成績主義、党内出世主義を製造”します。その“前衛党4000人専従内における出世主義を形成する異様な仕組み”は、第1部で分析しました。それは、国家権力を握った、14の一党独裁国前衛党専従内では、もっと剥き出しの“党内序列”として明白になっていました。

 

 3、拡大対象者縮小による歪み

 

 「拡大月間」になると、細胞会議では、対象者リストをあげ、検討します。60年安保、70年安保、ベトナム、沖縄問題を含んだ時代は、大衆的な政治闘争が、経済闘争とともに高揚し、多くの国民が、なんらかの運動や大衆組織に結集した時期でした。それは、共産党員による組織化、いわゆるレーニン式「上部、外部からの注入理論」的効果の側面があるとしても、基本的には、政治、生活にたいする国民の「自然発生」的な諸運動でした。その運動の高揚と広がり、大衆組織の中に、共産党細胞が次々と結成され、増大していったのが、1960、70年代でした。

 

 細胞の周りには、多様な大衆団体、サークル、学習会がありました。そのメンバーをHN読者にする“刈り取り作業”は、容易で、面白いほど、拡大成果が挙がりました。経営・居住・学生細胞での拡大成果は、そこでの大衆運動の高揚、大衆組織の広がりと連動し、比例の関係にあります。

 

 ところが、1960年代後半から80年にかけて、その高揚と広がりが停滞してきました。その理由は、いろいろあり長くなりますので、ここでは分析できません。この停滞状態では、“刈り取り”ができなくなるのは当然で、HN拡大対象者が、いなくなります。

 

 この対象者縮小段階においても、宮本・不破氏は、その変化を読み取らず、それまでの躍進にあぐらをかいて、“千編一律”の「拡大月間」を繰り返し設定し、同じテンポとスタイルで、拡大運動を指導・点検したのです。宮本・不破氏の党勢拡大論理は、従来どおり、『日本革命の客観的条件の発達に比べて、主体的条件(HN)の形成が立ち遅れている。拡大の条件は広がっている』とするものでした。そこには、その情勢・拡大条件変化にたいする認識が欠落していました。

 

 そうなると、地区、ブロックレベルでの拡大運動は、異様な形態にならざるをえません。その指導は、様々な歪みを発生させました。

 1、「宣伝紙の大量買取り申請」により、細胞が自腹を切って、対象者に配る。「買い取った宣伝紙」の未配布も大量に出る。

 2、「減紙申請」すると、専従から批判されるので、「未固定紙」として抱え、その機関紙代を、支部LCか機関紙係が、毎月自腹を切るか、あるいは、滞納する。

 3、連日の深夜までの地区・ブロック点検会議で、『拡大成果』と言うと、打撃的思想批判されるので、その場逃れに、『明日2部必ず拡大するから、今日2部拡大申請します』とする「決意申請」をする。

 4、点検会議で、“みせしめ”的に批判され、自己批判を強要されるのは、イヤだから、『1部増やしました』と言う「虚偽申請」をする。

 5、職場、地域に、対象者がいなくなったので、遠くの知人、同級生、親戚に、『1カ月間だけ読んで』と頼んで、「義理押し付け1カ月間のみ拡大」をする。それは、ほとんど、拡大した党員の自腹で支払う。

 6、電話で拡大したけれど、遠くて配れない「不配達」になる。その地域へ「配達依頼」をしても、そこの配達者が、紙代集金に行くと、かなりが「継続」を断られる。

 7、地区専従も、地区常任委員会の連日点検会議で、『ブロック全体で、昨日は、拡大成果0でした』などと言おうものなら、集中的批判を浴びせられ、“屈辱的な”自己批判と決意表明をさせられる体験を何度もしているので、専従自体が『ブロック3細胞で、H2部・N5部増やしました』と言う「虚偽申請」をする。ただし、「月間」がすんで、“ほとぼりがさめたら”、こっそりとその細胞の減紙申請を出してごまかす。

 

 細胞を直接担当する地区専従なら、これらの歪みを、細胞実態や細胞Capの態度から、すぐ見分けがつけられます。地区専従は、常任委員でない地区勤務員を含めると、三百数十地区×7人から10数人=2000数百人います。そこには、それらをあまり強要しない専従と、それを承知で、自己の成績のために、あるいは、自分が地区常任委員会で批判されないために、“目をつぶって、虚偽的・架空拡大”をさせる専従も出ます。

 私(宮地)自身は、下記にのべる『愛知県・泥まみれの拡大』で、箕浦准中央委員・地区委員長から、第1部での批判活動にたいする私への報復心もあって、いつも批判されていましたので、これら(1)から(7)は、直接体験・指導をしてきました。私が、次のファイル『第3部・愛知県指導改善問題』で、10数回も党中央の指導の誤り、指導責任を発言したのは、私の担当ブロック細胞、名古屋中北地区委員会の細胞にたいする私の指導の誤り、責任、与えた損害への反省に基づくものでした。

 

 都道府県常任委員約750人・党中央役員約200人は、それらの歪みにたいして、聞く耳をもたず、うすうす知っていても、改善しようとしません。1960年代末から70年代頃には、『宮本側近グループ・私的分派』が、形成され、それが絶対的な党内権力を握りつつありました。スターリンや14の一党独裁国のほとんどで『党最高指導者による私的分派』が、形成されたのと同じスタイルでした。(1)から(7)は、その党内絶対権力下での4000人専従機構における絶対的腐敗現象の現れでした。腐敗のもう一つの現れは、1972年民青『新日和見主義「分派」事件』でした。それは、600人査問・100人処分という日本共産党史上最大規模の宮本・不破式“でっち上げ「2人分派・3人分派」”粛清事件でした。

 

 「月間」中と後の、独特のHN増減リズムが、この拡大運動スタイルの結果、発生します。2、3カ月間の「月間」「月間延長」で、30万部から50万部の「HN増紙申請」を、党中央は集約します。その間「減紙申請」はほとんどありません。それを出すと、集中的批判をされるからです。「延長月間」が終わると、上記(1)から(7)が、「減紙申請」となって、どっと吐き出されます。虚偽・架空部数の機関紙代負担に耐え切れないからです。一方、その連続する「一本足拡大活動」に、嫌気がさして、「未結集」になった細胞LC、機関紙係、その他党員の「除籍申請」は出ません。地区委員会も、「未結集」党員分の党費を徴収できないからです。党費納入率は、72%より低くなっていきます。

 

 HN増減リズムは、冒頭「増減経過表」の2つに分かれます。

 ()、1980年時期までは、「月間」中40万部増えて、「月間」後34万部減るというスタイルで、全体として増加し、1970年HN180万部から、「月間」約28回×差引6万部増=168万部増で、1980年HN最高355万部になりました。

 ()、2000年までの20年間も、党中央は「拡大月間」を繰り返し設定し、指導してきました。その間、党中央公表はありませんが、少なくとも「月間」30回を設定していますが、一貫して減り続けています。2000年第22回大会では、156万部減り、減紙率44%のHN199万部に激減しています。そこでは、「月間」中30万部増えても、「月間」後35万部減るという差引5万部減という増減リズムになりました。

 

 4、党中央の指導上の誤り、歪み是正システム欠落による歪み増大

 

 党員、細胞によるこれら中間機関、党中央の誤りにたいする「集団的チェック・システム」は、党内横断的水平交流禁止の民主主義的中央集権制において、何一つありません。唯一のフィードバック・システムは、「党員個人による党中央への意見書」だけです。それも「拡大月間」への疑問、批判はすべて握りつぶされます。愛知県党においては、その歪みが、極端な、増幅した形をとって現れました。

 

 ただ、その是正システムの欠落は、宮本・不破氏“創作”のものではなく、レーニン以来のものであり、コミンテルン型共産党すべてに共通する、というのが、私(宮地)の判断です。民主主義的中央集権制と分派禁止規定とを合体させた、レーニンの『1921年危機』での誤りは、党内民主主義を最後的に破壊する“犯罪的”なものでした。それは、1917年二月革命以来のロシア革命精神を窒息させただけでなく、日本共産党内における「全党員、細胞による党中央指導部統制」という理念、システムを奪っているのです。やや、論理が、飛躍しましたが、『レーニン「分派禁止規定」の見直し』に、それについての私(宮地)のレーニン批判が書いてあります。

 

 

 3愛知県『泥まみれの拡大』 1967年から1969年

       准中央委員の成績主義党内犯罪内容

 

 これは、第1部『5月問題』直後の1967年5月末から1969年5月『愛知県指導改善問題』発生までの、2年間の愛知県「拡大月間」スタイルの内容です。党中央の「拡大月間」システムの歪みが、もっとも先鋭的・集中的形をとって現れたものです。

 〔小目次〕

   1、背景

   2、『先進』北守山ブロックと大量虚偽申請のからくり

   3、全地区的な細胞破壊、幹部破壊、財政破壊

   4、私(宮地)への報復継続

   5、私の指導の誤りと個人責任

 

 1、背景

 

 私は、「監禁査問」前まで、名古屋中北地区委員会の名西ブロック責任者でした。中北地区内には、5つのブロックがあり、それは、名古屋市中村区・西区を範囲とする地区委員会補助機関・行政区ブロックです。

 以下の『泥まみれの拡大』運動2年間と、そこでの箕浦准中央委員の異様なまでの成績主義、出世意識には、若干の背景説明がいります。1963年総選挙で、名古屋全区5議席を1つの選挙区として、加藤進氏が当選しました。その後、それは、1区3議席と6区3議席に分割されました。3議席区における加藤再選は、きわめて困難なものでした。再選は、全党の願いであるとともに、箕浦氏にとって、最大の“出世ポイント稼ぎ”になる課題でした。彼には、再選を勝ち取って、党中央に評価され、“中央委員に出世したい”という基本願望がありました。4000人専従内における出世主義意識の形成要因は、第1部で分析しました。彼の成績主義、出世主義動機は、1969年中北地区党会議、愛知県党会議における「公式評価」です。

 

 彼は、その“公・私”目的のため、1964年11月、1区3議席内の名古屋2つの、名中・名北地区委員会を、“市町村合併”をするように、党内に反対意見があったのにもかかわらず、1つの名古屋中北地区委員会に合併させました。さらに、1966年には、准中央委員・愛知県副委員長を兼任しつつ、自らが中北地区委員長となって、乗り込んできました。その私的目的のためには、地区内の絶対的権力を掌握する必要があるとして、第1部の『箕浦・喫茶店グループ、箕浦私兵』という“最高指導者私的分派6人”を作る手段を採りました。目的と手段との乖離(かいり)、目的のためには手段を選ばない、とするのは、レーニン以来の、かつ宮本・不破体制の前衛党基本体質です。レーニンのその体質例は、『レーニン「分派禁止規定」の見直し、逆説“1921年の危機”』で書きました。

 

 ただ、1967年1月総選挙で、加藤議員は落選しました。彼は、次回総選挙での当選めざして、そのための党勢拡大に全力をあげました。その“出世ポイント稼ぎ”矢先、1967年5月に、『5月問題』が発生して、彼は、党幹部生活上最大の屈辱を“首謀者・宮地たち”によって、味わい、“泥にまみれた”のでした。彼が、『泥まみれ』になっても、あくまで中央委員に出世すると決意した根底には、この次回総選挙加藤再選可否がありました。

 

 名古屋中部・北部の2地区合併による名古屋中北地区委員会は、当時9行政区を範囲とし、その党勢力は、愛知県党の1/2を占有する巨大地区になりました。2地区内9行政区は、1地区内5つの行政区ブロック(地区補助機関)になりました。『愛知県指導改善問題』後、5ブロックは、5つの地区委員会になりました。私は、箕浦氏の恣意的幹部配置変更により、5ブロックとも責任者を体験しました。1ブロックは、平均で、愛知県党の1/10党勢力の地区委員会に匹敵します。いってみれば、私は、それら“5つの地区委員長を歴任”した党経歴をもつことになるわけです。

 他のファイルを見て、私があまりにも党組織や運営実態を知っているので、不思議に思われる方やメールもありました。しかし、民青地区委員長、実質的な“5つの共産党地区委員長”、愛知県選対部員を15年間も体験すれば、この程度の知識は、誰でも持っています。

 

 2、『先進』北守山ブロックと大量虚偽申請のからくり

 

 箕浦准中央委員・名古屋中北地区委員長・愛知県副委員長は、『5月問題』後の「拡大月間」を、自ら『泥まみれの拡大』運動と名付けました。

 1967年『5月問題』において、箕浦地区委員長の一面的拡大追求にたいする1カ月間にわたる全地区的批判活動は、中心の一人の裏切り・密告により、『分派・グループ活動』というレッテルによる抑圧に急転しました。箕浦氏は、私(宮地)を“首謀者”ときめつけ、地区常任委員3人、ブロック専従4人を「監禁査問」、地区委員10数人を査問し、他は1週間以内に“釈放”したのに、私にたいしてだけ「21日間の監禁査問」を継続しました。神谷中央委員・愛知県委員長と10数人の県常任委員は、同じ事務所内での「長期査問」を黙認していました。

 

 私の「監禁査問」継続中に、党中央は、「党創立45周年記念機関紙拡大月間、6月6日〜9月」を提起しました。箕浦准中央委員は、全地区的批判活動による自己の権威失墜挽回と、新「拡大月間」での成果を挙げるため、『5月問題』で、箕浦批判専従・地区委員が唯一出なかった北守山ブロックを、拡大の「突破口」に設定し、自らそのブロック直接指導に乗り出しました。そして、『5月問題』で出された強烈な箕浦批判を『拡大を回避する敗北主義、日和見主義である』と抑圧し、その批判を乗り越えて、突き進む『泥まみれの拡大』と命名しました。地区全体が、地区委員長指令により、瞬時に、日報体制、深夜までの連日点検会議、専従泊り込み体制に入りました。その体制・拡大システムは、実態として、1969年5月『愛知県指導改善問題』開始までの2年間続きました。

 

 彼は、直接指導で、まず北守山ブロックに、(1)『1週間に1回の拡大ピークを作れ』とし、それをエスカレートして(2)『2日きざみの拡大をせよ』と指令しました。(3)区画整理反対運動が起きている大曽根地域に共産党専従を配置し、『3軒に1部の日曜版を拡大せよ』と指示しました。(4)1968年「党中央提起・10、11月月間」では、『北守山ブロックで1日に600部拡大せよ』とし、そのための事前準備をし、数人の「箕浦分派・私兵」を全投入し、1日4回点検体制をとりました。箕浦氏は、これらの拡大スタイルを、地区、全県党の典型とし、「県党報」でも、全県に普及し、地区・県活動者会議で何度も報告させ、高く評価しました。党中央も、東海地方局(東海ビューロー)が、それを高く評価して、東海北陸の各県委員会に普及し、箕浦指導スタイルを奨励したのです。

 

 ところが、この『先進・北守山ブロック』には、驚くべき“虚偽拡大のからくり”が隠されていました。

 下記の表は、1968年「党中央提起・10、11月拡大月間」での2カ月間における、地区党内・県党内・東海地方局内で、高く評価され、普及された『先進ブロック』拡大実態です。ただ、このデータは、組織実態が明らかになりすぎるとの、党防衛上の理由で、地区委員会総会にも公表しませんでした。これを知っているのは、名古屋中北地区常任委員10数人、愛知県常任委員10数人、党中央関係者10数人だけです。このファイルでの公表も、30数年前のデータとはいえ、問題がありますが、あえて『情報公開』します。この公開なしには、“准中央委員の成績主義党内犯罪”を具体的に証明できないからです。このデータと分析内容は、「北守山ブロック問題調査委員会報告書」に基づいています。

 

先進・北守山ブロックの虚偽拡大からくりデータ

1968年10、11月

2カ月間

守山居住

細胞

A経営

細胞

大曽根

地域

北守山

細胞計

北守山

ブロック計

1、公表部数

  月間始期

  公表拡大数

  月間終了時

 

1074

+605

1679

 

371

+434

805

 

107

+231

338

 

6209

+2825

9034

2、実態

 1、始期未固定紙

 2、架空申請

 3、担当専従虚偽申請

 4、二重申請

  虚偽申請計

 

276

124

30

 

430

 

80

57(9回)

 

 

170

 

 

70

 

 

180

 

17細胞

7細胞

専従4人

 

1658

343

70

93

2164

3、結果

  始期からの減紙

  1969年5月残部数

  紙代滞納額(万円)

  経営細胞崩壊

 

−815

259

125

 

−99

272

50

 

15細胞

 

 

11細胞

 

−4366

4668

 

()、空白個所は、調査時点で不明のものです。未調査細胞もあります。

 

 この「先進・からくりデータ」の結論は、以下です。ブロック全体数字は、分局帳簿により正確です。

 )まず、月間始期6209−始期未固定紙1658=始期実部数4551部となります。その未固定紙1658部も、それ以前から『先進的拡大実績』として高く評価してきたものです。

 )1969年5月残部数4668−始期実部数4551=拡大実部数117部となります。

 )月間中増やしても、月間後すぐ減紙になった読者数、それ以前の読者の減紙数を入れても、せいぜい実質拡大したのは1000部未満の数百部で、公表拡大数+2825になるはずがありません。

 )となると、2、3、4の虚偽申請数は、表合計506部だけでなく、2000部近くになります。

 )ところが、箕浦氏と北守山ブロック担当常任委員は、+2825部拡大報告を、『泥まみれの拡大』成果として、大々的に宣伝し、その数字を基準として、他細胞、他ブロック、他地区委員会を批判しました。

 

 ()箕浦准中央委員・地区委員長、()北守山ブロック担当常任委員、()北守山専従3人、()2カ月間臨時投入の箕浦私兵常任委員4人、()北守山ブロック地区委員・細胞長数人は、それらの実態を知りつつ、共謀的に隠蔽し、“1000部未満しか増やしていないのに、2825部拡大した”と発言、宣伝し、地区全体、愛知県党全体をペテンにかけたのでした。これは、まさに“党内犯罪”そのものです。

 

 彼が、虚偽拡大を承知の上で、『先進』を宣伝し、他にその成果を強要した証拠は、「報告書」に、いろいろあります。その一例のみ挙げます。

 彼は、「表」の守山居住細胞を、地区、全県の模範、先進とし、地区活・県活で毎回報告させました。ところが、月間終了時1679−残部数259=減紙1420部となり、そのほとんどが虚偽拡大だったのです。そこでの“拡大英雄づくり”思想批判・拷問システムは次のとおりです。その細胞長自身が最初はウソの虚偽拡大報告をします。次の点検会議で成果がないと、北守山ブロック常任委員が強烈な、“見せしめ”的思想批判を他の細胞長の前で加えます。その細胞長は、批判され、自己批判を強要されるので、次回から虚偽拡大報告をエスカレートさせます。拡大成果数字さえ“報告”されれば、その常任委員は、虚偽拡大と知りつつ、地区常任委員会に報告します。しかし、虚偽拡大ですから、紙代の自腹を切るにも限界になります。そして、紙代滞納が急増するなかで、「赤旗」分局員が『減紙申請』提出を薦めました。

 

 守山居住細胞の450部『減紙申請』が表面化したとき、箕浦准中央委員は、それを『減紙』と認めず、『読者がいるのに、配達されない「赤旗」』と断定し、『草の根を分けても読者をさがせ』と指令しました。さらに、実態としての“虚偽拡大”を承知で、『栄光に包まれた細胞を汚してはならん』という名目で、まるごとその450部『減紙申請』を抑え、担当分局員を批判し、分局員の配置代えまでしました。これは、アンジェイ・ワイダ監督『大理石の男』で暴露された、社会主義労働英雄ねつ造のからくりと、「英雄にされた男」の悲劇と類似しています。

 

 したがって、この『泥まみれの拡大』運動の中での、いくつかの『先進細胞』拡大報告、『先進・北守山ブロック』ねつ造、その裏にある虚偽拡大のからくりは、准中央委員の直接指導との関係で発生し、彼自身が、その虚偽拡大を承知で、地区全体、全県党に、その数字成果を強要したのです。

 

 3、全地区的な細胞破壊、幹部の健康破壊、財政破壊

 

 “ねつ造された『先進』”レベルの拡大成果と、「波型の拡大」「2日きざみの拡大」スタイルが、全ブロック、全県に強制されました。それによる細胞、幹部、大衆組織などの破壊範囲と規模は、犯罪的ともいえるものになりました。ただし、以下について、私(宮地)は地区常任委員の一人として、全面的責任があります。私の誤り、責任は、後で、くわしくのべます。

 

 1、細胞破壊

 

 昭瑞ブロックのB教員細胞は、次の内容の「意見書」を地区に提出しました。これは、名古屋市昭和区・瑞穂区を範囲とする行政区ブロックです。下記のS常任委員は、『5月問題』で、最初に箕浦批判の口火を切りましたが、その批判活動の決定的瞬間に裏切った専従です。以後、彼は、『先進・北守山ブロック』虚偽拡大を支える、第2ブロックの役割を果たしました。

 

 「B教員細胞意見書」

 『わが細胞において、前細胞長は、S常任委員によって、長いときは1カ月余りにわたって、ひどい時には、深夜1時、2時、夜明けの出勤前等々、緊急に呼び出された。夜11時前に報告に行ったりすると、まだ活動できるのになぜきりあげてきたのかという態度で追求され、早く報告に行くのが苦痛だったと言っている。その後の2人の細胞長も含め、夜11時からの細胞長会議は普通のことであり、終われば3時を過ぎることも度々あった。S常任が追求する中味は、ほとんど拡大の数、目標と期限であり、まず細胞長がそれをやり切る立場に立つかどうかであった。

 

 この指導の中で、細胞長やLCの家庭は、次第に不正常になり、それが固定していった。

 前細胞長の奥さんは、このため昨年来、強度のノイローゼ症状となり、現在全治の見通しもなく、今だに、彼が家を留守にすることに何よりも恐慌を感じるという状況を続けている。

 次の細胞長は、ブロックの協力委員にされ、連日家庭をまったく放棄せざるをえず、学校勤務も不正常となった。授業途中で、常任が学校へ拡大の点検に来たり、勤務途中に呼び出されたり、毎日授業が終わると、すぐ学校を飛び出す状態を強いられた。それは、深刻な家庭破壊を生み出し、現在も長期未結集になっている。

 あるLCは、連日のように、夫婦げんかとなり、時には、自動車の前に立ちふさがって、夜の会議に出ることを止めようとする奥さんを、はねのけながら、会議に出るということさえあった。

 

 これに類する家庭破壊、あるいは、肉体的精神的破壊は、全LC、班長、一部班の同志にまで及んでいる。B細胞で、もっとも戦闘的な2名の同志が自律神経失調症になったのをはじめ、他に6名の病気状態の同志を生んだ。他に現在10名以上の不結集がある。これらの同志たちは、教育労働者として、教育の破壊、軍国主義化とたたかおうという動機から入党しながら、その後の拡大の一面的指導に疑問をもつなかで、戦列から離れていったのである。』

 

 『大衆闘争や労働組合運動の指導が、S常任委員によってなされたことは、皆無に近かった』として、大衆組織問題を分析しています。

 全体5ページにわたって、地区常任委員会批判、神谷県委員長・中央委員批判、と合わせて、B細胞としての誤りの自己批判も列記しています。

 

 その結論として、次をのべています。『箕浦・前地区委員長の犯してきた犯罪的行為は、規約上からも党を破壊する最悪の行為である。B細胞は細胞総会の決定として、党がこの犯罪の中心人物、箕浦・前地区委員長を、即刻、党から追放することを怒りをこめて要請する。1969年7月31日。B細胞総会。』

 

 このB細胞の例は、特殊なものでなく、地区全体の細胞に共通して発生しました。箕浦准中央委員は、県副委員長も兼ねており、この『泥まみれの拡大』スタイルと成果を、全県に強要したので、愛知県党全体の細胞でも同じ事例が無数発生しました。

 

 2、幹部の健康破壊

 

 病気、自律神経失調症という幹部破壊も広がりました。愛知県党の1/2を占める、巨大な名古屋中北地区委員会には、「赤旗」分局員も含めて、専従53人がいました。この『泥まみれの拡大』2年間で、22人が病気になり、内12人は自律神経失調症にかかりました。

 

 それは、“機関紙拡大の一面的追求を主因とする精神障害”です。患者の症状は、頭が重い、もうろう感、注意集中・持続困難、記憶力低下、本を読みつづけられない、不眠、常時微熱が出る、などです。その治療法は、専従活動を離れる、軽減するなどをしつつ、各種の精神安定剤を服用します。その副作用として、顔が、「月」のようにふくれてくる“ムーンフェイス”になります。その自覚症状は、他人からは、まったくわかりません。いわゆる神経症の「不定愁訴」にあたります。

 それを機関内で訴えても、『日和見』と疑われ、よりきびしい思想点検、批判が浴びせられるだけです。真面目で、それを我慢して活動しているうちに、その症状が全部現われます。

 

 地区専従12人以外に、上記B細胞の2人、地区内全細胞で数十人規模の自律神経失調症患者を発生させました。私(宮地)も、地区常任委員として、その大量発生に決定的な責任があります。なぜなら、『5月問題』での「21日間の監禁査問」直後からの2年間において、この『泥まみれの拡大』システムに一度も反対したことがなく、それを推進する側にいたからです。

 

 細胞における、もう一つの幹部破壊の例を挙げます。

 名古屋大学学生党委員会は、第10回大会当時赤旗3000部をもち、当時全国的にも最大・最強の学生党・民青・自治会・県学連拠点校の一つでした。地区内では、北守山ブロックと並んで“拡大、選挙活動での突破口”と位置付けられていました。私の前の3年間担当は、箕浦グループのうちの3人が連続担当し、箕浦氏も随時直接指導していました。その結果、3年間で党幹部16人が自律神経失調症になり、内9人が城山精神病院や民医連診療所での治療を受けざるをえない症状になっていました。党委員会・名大出身愛知県学連中心幹部26人中では、自律神経失調症8人、他の病気3人、任務放棄7人、自信喪失1人、箕浦による排除1人でした。ある学年度の名大医学部党員20人中卒業後の勤務病院転籍者は3人だけでした。箕浦氏は、名大党委員長を地区任命制として、“拡大突破口”役割を果たせなかった責任をとらせ、7回も恣意的に首をすげ替えました。箕浦氏とグループ3人による“拡大突破口”役割を強要するための規約違反事例は14件にのぼりました。これらは、文字通りの、彼ら4人の成績主義目的による名古屋大学学生党組織破壊の“指導”以外の何ものでもありません。これは、私が分担・調査した「名大問題レポート」80ページに基づく内容です。

 

 専従以外の地区委員、地区委員候補者においても、この間12人が病気となり、5人は党に「うらみ」をもって離党しました。ある電通拠点細胞では、LC13人中、10人が離党、未結集となりました。

 『先進・北守山ブロック』虚偽拡大のからくりは、そのブロック内部でも深刻な破壊を作り出しました。経営細胞11が壊滅しました。「壊滅」とは、細胞長を含め、そこの全党員が離党、未結集となったのです。ブロック内の民青組織も崩壊しました。大手工作機械班で、この間、37/40、大手繊維班59/60、鉄鋼業班23/30が民青を離れました。6つの経営民青班が崩壊しました。

 

 3、財政破壊

 

 以下は、「財政問題調査書」で明らかにされたデータです。

 膨大な未結集党員を、『泥まみれの拡大』運動は、地区内で発生させました。1969年『愛知県指導改善問題』中の7月時点で、4カ月前の3月分党費納入率は55.8%でした。電通関係の6細胞でも、党費納入帳交付は、54.7%にとどまり、ある市交通細胞には、20%しか交付できていません。これらの細胞崩壊は、それぞれの「拡大月間」で、『先進成果』『拡大英雄』を出した細胞にいちぢるしく現われていました。

 

 地区財政、細胞財政も破壊しました。1969年6月分党中央上納紙代は、290万円以上不足しました。それは、数カ月間続きました。箕浦准中央委員は、それ以前からその報告を受けつつ、拡大成績を上げるために、大量の「宣伝紙買取り」と「北守山ブロック」虚偽拡大からくりを続け、財政を破壊しました。上記「表」で、「北守山ブロック」全体の紙代滞納額が、出ていませんが、それは数百万円になるとの、口頭報告がされました。当時の当面の不足分を、選挙カンパからの流用310万円、地区経常財政からの流用290万円で補っています。当然、専従53人への活動費(生活費)は遅配です。

 

 細胞機関紙部の財政も、様々な虚偽拡大申請、宣伝紙買取り申請などで破綻し、それらを機関紙係、LCの自腹で払いきれず、対地区への滞納がかさみ、多くの機関紙係LCが未結集になりました。これらの機関紙財政を無視した箕浦准中央委員と北守山ブロック常任・地区委員たちの行為の性質は、刑法上の“未必の故意”による党破壊犯罪としかいいようがないほどです。

 

 これらの党、民青、幹部破壊の具体事例は、このファイルで書ききれないほど、無数にあります。その『調査資料』は、私が分担・作成した『名大レポート』80ページを含めて、100数十枚になります。

 

 4、これらの破壊を阻止できなかった地区常任委員会の原因、責任

 

 この問題は、常任委員会として、くりかえし討論し、地区委員会総会でも批判され、常任委員会および10数人が個々でも、自己批判を表明しました。

 箕浦准中央委員は、「人民艦隊」密航者として、北京機関で、(1)徳田家父長的個人中心指導体制スタイルを学び、「白山丸」帰国組2000人の一人として、帰国後は、10%宮本分派に採り込まれて、若くして准中央委員に抜擢され、愛知県委員会副委員長になりました。今度は、(2)宮本側近グループ形成を見習って、1966年名古屋中北地区委員長乗り込みと同時に、(3)自らの「喫茶店グループ・箕浦私兵5人」を組織し始めました。毎年、正月には、愛知県稲沢市の自宅に、他5人の“年賀詣で”を秘密裏に組織し、グループの結束を固めていたのです。ただし、第1部『5月問題』で書いたように、、この“年賀詣で”を彼も、他の5人も、『愛知県指導改善問題』で“告白”しなかったのです。

 

 彼の家父長的個人中心指導体制が、“完成”したのが、1967年『5月問題』での、“宮地を首謀者と断定した分派活動への切り返し・鎮圧”だった、というのが、中北地区常任委員会の「統一見解」です。

 

 上意下達の民主主義的中央集権制と分派禁止規定規律の下では、徳田分派、宮本側近グループ・私的分派と同じく、その“最高指導者が自ら組織する私的分派”を克服する、同一機関内、および、下部からの「横断的批判勢力」を組織することはできません。私(宮地)も、「21日間の監禁査問」以降の2年間は、これらに気づきつつも、この『泥まみれの拡大』方針を遂行せざるをえませんでした。

 その「喫茶店グループ」体制と、恣意的・出世主義的成績志向が、2年間続いた結果が、上記全体の状態を生み出しました。

 

 私が、他のファイルでも繰り返して、レーニンが1921年に、分派禁止規定と結合させた民主主義的中央集権制とは、(1)閉鎖的、(2)党内民主主義抑圧、(3)上意下達、さらに、(4)最高指導者私的分派、その独裁を生み出す犯罪的な組織原則であると規定し、強調しているのは、ロシア革命、『レーニンのしたこと』の研究からだけでなく、日本共産党における4000人専従機関運営実態の体験15年間に基づくものです。

 

 4、(宮地)への報復継続

 

 1、『先進』と『遅れ』の報復的対比方式

 

 『5月問題』での監禁査問から“釈放”された時点では、党中央の「45周年記念拡大月間」が始まっていました。箕浦准中央委員は、『泥まみれの拡大』と名付けた運動において、「典型を作って普及する」「風呂敷の両端を握って全体を引き上げる」とする、(1)『先進』評価、(2)『遅れ』への打撃的批判という指導スタイルを採りました。

 

 『先進』は、「北守山ブロック」虚偽拡大からくりの先進ねつ造宣伝です。『遅れ』は、私担当の名西ブロック(名古屋市中村区、西区)と、中ブロック(中区)でした。私は、彼が断定した“『5月問題』首謀者”でした。中ブロック担当常任は、その時の中立派の地区副委員長で、箕浦批判を何度も発言した常任委員・県委員でした。

 

 まず、第1部でのべた「喫茶店グループ」が、地区常任委員会会議前に、喫茶店で、常任委員会運営の“私的分派打ち合わせ”をします。「月間」中における毎日の常任委員会点検会議になると、北守山担当常任が、虚偽拡大を“成果”として報告します。名西、中担当常任が報告しても、その拡大成果数字は、北守虚偽拡大数字には当然ながら及びません。そこで、箕浦地区委員長とその私的分派メンバーが、2人に集中的批判を浴びせ、自己批判と決意表明するまで、批判を続けます。

 

 「拡大月間」思想動員のため、「地区活動者会議」を夜、または、泊り込みで開きました。1966年10月第10回大会以後、159回、年平均50回以上招集しました。他に「ブロック別活動者会議」「ブロック別全党員会議」が100回近くありました。

 『5月問題』後は、箕浦氏は、公式の場で、必ず、北守山『虚偽・先進』と対比させて、私に『拡大遅れ』の自己批判・決意表明発言を強要しました。それは、地区常任委員会、地区委員会総会、地区活動者会議において、2年間で、数十回にのぼりました。

 

 ところが、『北守山ブロック問題調査委員会』の上記「表」で、判明したことは、その虚偽拡大数字を差し引けば、名西ブロックの実質拡大成果数字は、北守山ブロック実質成果を上回るか、ほぼ同等だったのです。その成績主義的卑劣さと彼の報復心のすざまじさには、怒りとともに、“あきれる”想いでした。ただし、『ほぼ同等だった』事実は、私も『泥まみれの拡大』遂行・常任委員として、上記「破壊」に全面的責任を負うものです。

 

 2、私の『こわれる』発言問題

 

 私の『こわれる』発言内容が、その中で、大問題にされ、2週間近く、連日、集中批判を浴びました。ある地区活で、私は、自己批判のつもりで、『名西ブロックの拡大が遅れている。そこには、誤った思想があった。それは、このような一面的拡大を強行し続ければ、「細胞がこわれる」「職場の関係、大衆組織がつぶれる」「体や家庭がこわれる」という考えがあった。今後、この日和見主義思想を克服して、拡大目標をやりぬく』と決意表明したのです。

 

 翌日の地区常任委員会が大変でした。「喫茶店グループ」全員の顔付きが違っているのです。箕浦分派メンバーの一人が、口火を切り、『宮地同志の地区活発言は大問題だ』『あれは、自己批判の名をかりて、地区委員長批判を再展開している』ときめつけました。分派メンバー5人全員が、『宮地同志は「5月問題」を何も反省していない』『相変わらず、拡大運動を批判し、それをむしかえそうと、地区活参加者を扇動した』とわめき立てました。箕浦氏は黙っていて、最後に『宮地君はどうなんだ』と“とどめの発言”をするのです。

 

 私の側には、そんな「再批判」の意図はなく、『こわれる』実態が念頭にあったので、思わず口に出ただけでした。もっとも、彼にとっては、“宮地が再び「反乱」を企てた”と思ったのかもしれません。なぜなら、当時、次の「拡大月間」が始まってしまっており、“ブロック責任者なので、やむをえず、わずか21日間の監禁査問だけで釈放”したが、『宮地は、21日間監禁しても、グループ活動事実を自己批判しただけで、自分を批判した5つの対立点内容で何一つ自己批判しなかった』ことを想いだしたからでしょうか。

 

 その後も、ことあるごとに、私の『こわれる』発言が批判の対象になりました。他にも、明らかに、彼による報復事例が多数ありますが、これ以上書きません。『5月問題』後の2年間は、“監禁から釈放された状態での、一種のかんまんな「査問継続」中ともいうべき実態”で、思い出したくもないほどの屈辱的なストレスを受け続けました。

 それでも、共産党専従をやめたい、と思わなかったのは、我ながら不思議なことです。やはり、マルクス・レーニンの文献内容や日本革命を信じていたからでしょう。

 

 3、「私の妻・査問」と担当ブロック「細胞・査問」という規約乱用報復

 

 ただし、別の“間接的”報復事例として、以下の規約乱用・査問をのべておきます。

 2年後の『愛知県指導改善問題』で、地区組織部保管の「査問ケース・ファイル」も明らかになりました。それは、『規約乱用に関する調査委員会』資料として、常任委員会内部だけに公開されました。その間に発生した、「思想・政治的査問事件」5件のすべてが、「私の妻」と「名西ブロック細胞」のものでした。

 

 (1)、1967年8月、中ブロックK総細胞LC・宮地妻ら2人査問ケース

 私(宮地)の妻は、長男出産により、電通総細胞長を降り、総細胞LCでした。次の総細胞長と打ち合わせしたとき、「拡大月間」方針、目標をめぐって、意見が合わず、妻が相手を『主流』と発言しました。その後、自分の細胞党員と話したとき、『みんなと意見が違うので、自信をなくした』と言いました。その報告を総細胞長から受けた担当常任が、2人の会話は、『派閥』『反党行動』と断定したのです。その常任は、『5月問題』での査問委員側の一人でした。

 それは、箕浦氏に報告され、彼は、他に2人の常任委員も参加させて、3人の「査問委員会」を作り、妻と他の一人を査問しました。そして、事実上の「権利停止処分」として、『2人は自己批判が主要な任務だから、LCに出席しなくてもよい』と通告しました。この経過は、箕浦氏を含む常任委員4人で、“私的に処理”され、私(宮地)が出席している地区常任委員会にも報告されませんでした。

 

 (2)、1967年11月、名西ブロック浄心居住細胞長・査問ケース

 浄心居住細胞は、地域での「アカハタニュース」上映運動を強化していました。そのために、8ミリ映写機を、地区からその都度借りるのでなく、細胞独自で購入することを決めました。その時期は、地区からの年末カンパ目標を受け取る前で、購入費6万円を集めるために「奉賀帳」を作って、読者向けてカンパ活動を進めていました。

 

 地区年末カンパ目標6万円を聞いて、細胞と細胞長は、その購入があるから、地区カンパは半額の3万円にしてほしいと要請しました。私(宮地)と居住細胞担当常任は、それを了承して、地区常任委員会に報告しました。その細胞長は、古参党員で、『5月問題』のとき、箕浦批判の先頭に立って発言していました。

 

 箕浦氏は、私の報告を聞くと、『それは、細胞長の「独断専行」だ。カンパ目標額引き下げは認められない』と決定したのです。浄心細胞は、それに反発して、当初カンパを収めませんでした。すると、箕浦氏は、『地区決定に従わない行為だ。重大な規律違反だ』として、常任委員3人を派遣して、「査問委員会」を開き、追求しました。

 私は、「引き下げ」は認めてよい、という考えだったので、何度も私自身の「自己批判書」を書かされました。査問の結果として、浄心細胞はカンパ目標全額を納入することで決着しました。

 

 (3)、1968年4月、名西ブロックM経営細胞LC・査問ケース

 細胞LCの一人が、「地区委員会への意見書」として、『大衆闘争にたいする指導が弱い。活動者会議や日報形式による拡大の一面的追求について』を内容として提出し、担当の私が受け取り、地区常任委員会に出しました。箕浦氏は、それを無視して、取り上げませんでした。

 その後、細胞総会で、前細胞長が落選し、地区からなんの返事もないので、そのLCは「意見書」コピーを配り、細胞で討論しました。箕浦氏は、『そのLCは、党の総路線に反対する文書を党内でばらまいた』ときめつけました。そして、規律違反として、彼の「党員権を停止」し、「LC選出を無効」とし、担当の私を含む査問委員会3人を任命して、彼を査問しました。結果として、彼のLCを解任し、前細胞長を復活させました。

 

 (4)名西ブロック専従R同志・査問ケース、(5)名西ブロック西区居住細胞A同志・査問ケース、が他にあります。A同志も、『5月問題』で、箕浦氏を、「地区活動者会議」などで、強烈に批判した古参党員でした。

 

 これら5件の規律違反・査問事件は、1969年『愛知県指導改善』で、『5月問題』と合わせて、すべて「箕浦准中央委員と地区常任委員会の誤り」と明白に認定され、査問対象者全員が“名誉回復”しました。

 ただ、5件ともが、(1)私の妻、(2)(3)(4)(5)とも私担当の名西ブロック細胞であり、(2)(5)は『5月問題』で私とともに地区委員会総会、地区活動者会議で、強烈な箕浦批判発言をした古参党員でした。これらは、査問の対象になるような性質の問題ではありません。

 

 他ブロックでは、このような種類の査問事件は一つもないのです。1カ月間にわたる私たちの『5月問題』箕浦准中央委員批判活動、その“首謀者”ときめつけた宮地への報復継続としか考えられないような規約乱用事件でした。

 資本主義社会のどの会社、組織においても、下部からトップへの批判者にたいして、トップによる報復心・行為は存在します。しかし、次に書く第3部『愛知県指導改善問題』全経過においても、幹部会員、中央委員は、愛知県党の誤りに含まれる党中央側の責任所在追求・批判にたいしては、顔色を変えて、強い拒否反応を何度も見せました。前衛党の党中央役員のほとんどは、民主主義的中央集権制という閉鎖的・上意下達システムの中で、下級組織党員からの批判発言・行為には、恣意的な報復で応えるという心情、性格が形成されるというのが、私の党専従体験15年間全体から言わざるをえません。ただ、こういう党体質認識に到達するということは、哀しいことです。

 

 4、私の体調悪化

 

 私は「体育会系」人間で、体力には自信がありました。しかし、さすがの私も、2年間の上記環境により、『泥まみれの拡大』末期には、体調、精神とも不安定になってきました。すでに、地区常任委員十数人中、4人が自律神経失調症になり、内2人は「喫茶店グループ」メンバーでした。

 年中、風邪をすぐひく。血便が出て、病院で精密検査を受けました。第1部での「水虫」も一向に治りません。『拡大の遅れへの集中批判』の夢をよく見る。夜中にその悪夢にうなされて、妻に起されることも度々になりました。

 もし、この拡大スタイルが、あと半年も続いていれば、多分私も自律神経失調症になっていたでしょう。

 

 5、私の指導の誤りと個人責任

 

 1、『5月問題』後、箕浦指導方針に一度も反対せず

 

 上記地区全体で発生した細胞・幹部破壊にたいして、私は地区常任委員として、その誤った方針に賛成し、遂行したことで、全面的個人責任があります。

 たしかに、1967年『5月問題』で、1カ月間にわたり箕浦氏の一面的拡大方針に批判活動をしました。しかし、21日間の監禁査問後は、2年間いつも、『先進・北守山ブロック』(虚偽拡大)との比較で、批判され自己批判を強要されていましたが、その『泥まみれの拡大』スタイルに反対したことはありません。

 

 ただ、『こわれる』発言は、私の現状認識、潜在意識下の危機意識が、おもわず口に出たものです。しかし、それを箕浦分派グループが“過剰反応”したようには、『5月問題』に続いて、再度私が“たった一人の反乱”を再開するだけの勇気がありませんでした。その選択肢もあったでしょうが、そこで『こわれる』発言を正式に主張していたら、多分、間違いなく、専従解任になっていたでしょう。

 率直に言って、専従を首になるのを怖れて、誤った方針に賛成するだけでなく、地区全体と名西ブロック全細胞に重大な損害を与えた責任を免れません。

 

 次の第3部でものべるように、宮本・不破幹部会“口頭伝達・秘密指令”『党中央批判は、一般党員には許されるが、専従には許されない』とする専従社会の鉄則と施行の前には、専従4000人内では、党中央批判の自由が完全に剥奪された組織運営実態になっているのです。

 

 弁明になりますが、私は、『先進・北守山ブロック』虚偽拡大からくりのスタイルをしませんでした。

 1、名西ブロックでは、あのような虚偽申請を指導していません。箕浦氏、北守山ブロック専従4人、主要細胞長数人、「喫茶店グループ」全員は、『拡大は申請書に書いてから初めて成果だ』『未固定・減紙と拡大との相殺は許さない』『減紙でなく、未配達だ。その減紙申請を認めない』などとする“共謀虚偽拡大スタイル”でした。私は、未固定・減紙が出れば、拡大成果との相殺を当然のこととして認めていました。したがって、「調査書」で判明した結果では、名西ブロックは、北守山ブロックより拡大実数は同等か、上だったのに、「月間」「2日きざみの拡大」申請数では、いつも下で、自己批判を強要されていたのです。

 

 2、打撃的思想批判は、細胞にたいしてしませんでした。北守山ブロック担当常任は、拡大成果が出ない細胞長にたいして、上記守山居住細胞長にしたように、『敗北主義、日和見主義』批判をし、箕浦氏と彼は、私にたいしても地区常任委員会でも同じ思想批判を浴びせました。私は、『拡大の遅れ原因は、思想問題だ』とする彼らの認識に反対で、『5月問題』での箕浦批判をしたのです。“わずか21日間の監禁査問で釈放”したので、箕浦氏は、私の認識を変えられませんでした。私の考えは、『もっと綱領など理論武装、情勢認識を高めることこそカギ』として、「月間」中も、ブロック独自で「綱領」「赤旗・評論員論文」などの学習会を、私が講師で開いていました。箕浦氏にとって、それも“宮地の抵抗行動”“懲りない男”と映ったのかもしれません。

 

 3、紙代滞納細胞は一つもありませんでした。私は、紙代を、分局と共同して積極的に集めていました。北守山ブロックの実質滞納額は、数百万円になります。その一方で、平気で『先進』報告を発表していたのです。彼らの“暗黙の虚偽拡大共謀”事実もひどいものです。しかし、それを『先進』成果として、地区活、県活で何度も発表する神経の異様さは、今でもよく理解できません。

 

 2、細胞、党員にもたらした損害

 

 とは言っても、細胞から見れば、私は、一面的拡大方針を押し付け、連日深夜の点検会議を招集し、職場・自宅へも目標と成果の点検電話をかける地区常任委員の一人にすぎません。名西ブロック細胞からの担当常任宮地への批判は根深くあります。

 1、元経営細胞LC婦人党員 県選対部へ任務変更になって、中間選挙では、いつも、はり付きで応援していました。ある時、候補者と私が、連れ立って、「赤旗」読者の家へ選挙支援活動要請にまわっていました。ある家で、以前担当のLCが出てきたとき、彼女は、いきなり、『箕浦とあんたの顔なんか見たくない。帰ってください』と言って、戸をばたんと閉めてしまいました。

 

 2、元中村民商細胞機関紙係 裁判での除名十数年後、ある研究集会で、たまたま、その機関紙係の人と会いました。彼は、私の連日追及の中で、耐えかねて、『日曜版100部を1カ月間買取る』と「決意申請」しました。箕浦氏は、その行為を「拡大の先進英雄」と、地区活で高く評価し、宣伝しました。その100部分の紙代は、中村民商細胞か彼個人の自腹を切ったものでした。それを承知で、私はその「拡大申請」を受け取ったのです。その研究集会討論のみんなの前で、彼は『宮地君の点検はとてもひどかった。あんたの家に放火してやろうかと思ったほどだ』と発言しました。

 

 3、大学新卒・転籍党員 彼は、ブロック内の機械工業会社に入社し、「転籍書」がきました。そこに党員はいなかったので、他の点在経営党員と一つの細胞を結成し、彼を細胞長にしました。ところが、「月間」と「各種選挙」が年中続くなかで、私は、連日のように、新入社員の彼を点検会議、地区活に呼び出し、職場へも拡大の点検電話を入れました。新入社員に連日、私用電話が入れば、職場の雰囲気もおかしくなります。彼は、半年ほどで、会社も辞めて、蒸発してしまいました。細胞も崩壊しました。これは、文字通り、私の指導、点検との関係で発生させたことでした。

 

 こうして、私は、『泥まみれの拡大』2年間の名西ブロック内細胞指導においては、地区常任委員の一人として、箕浦氏と基本的に同じ誤りを犯していました。これらの誤りは、箕浦氏による陰湿な報復継続という事実があったとしても、免罪されるものではありません。

 これらの個人責任内容については、次の第3部『愛知県指導改善問題』のときに、地区委員会総会や地区党会議で、私の自己批判として発言しました。

 

第2部・以上  健一MENUに戻る

(関連ファイル)日本共産党との裁判

   第1部『私の21日間監禁査問体験』 「5月問題」

   第3部『宮本書記長の党内犯罪・中間機関民主化運動鎮圧、粛清』

   第4部『「第三の男」への報復』警告処分・専従解任・点在党員組織隔離

   第5部1『宮本・上田の党内犯罪「党大会上訴」無審査・無採決・30秒却下』

   第5部2『上田耕一郎副委員長の多重人格性』

   第6部『宮本・不破反憲法犯罪、裁判請求権行使を理由とする除名』

   第7部『学者党員・長谷川正安憲法学教授の犯罪加担、反憲法「意見書」』

   第7部・関連 長谷川教授「意見書」

      『長谷川「意見書」批判』 水田洋、「大統領」、中野徹三、高橋彦博

   第8部・完結世界初革命政党専従の法的地位「判例」