上田耕一郎副委員長の多重人格性

 

多重人格者を大量生産するシステム

 (日本共産党との裁判第5部2)

 

(宮地作成)

〔目次〕

   1、上田耕一郎副委員長の多重人格性

    第1人格 上耕人気、党組織民主化論文を発表する理論家の顔

    第2人格 幹部会委員、副委員長としての党内犯罪遂行者の顔

    第3人格 上田・不破査問、「自己批判書」公表における奇怪な屈従者の顔

           「ネオ・マル粛清」全経過とその中での位置づけ

   2、多重人格者を大量生産するシステム

   3、レーニン型前衛党の“引き裂かれた人格”

 

   4、『追悼・上田耕一郎 その歴史的功罪』党中央専従経歴 (別ファイル)

 

 ()これは、『日本共産党との裁判第5部』の一部です。ただ、内容が、“共産主義的人間”上田耕一郎の人格解剖になり、かつ、「ネオ・マル粛清」経過分析を含めることにより、長いファイルになったので、『第5部2』として、別ファイルにしました。

 

(関連ファイル)日本共産党との裁判           健一MENUに戻る

   第1部『私の21日間の監禁査問体験』 「5月問題」

   第2部『「拡大月間」システムとその歪み』 「泥まみれの拡大」

   第3部『宮本書記長の党内犯罪・中間機関民主化運動鎮圧、粛清』

   第4部『「第三の男」への報復』警告処分・専従解任・点在党員組織隔離

   第5部1『宮本・上田の党内犯罪「党大会上訴」無審査・無採決・30秒却下』

   第6部『宮本・不破反憲法犯罪、裁判請求権行使を理由とする除名』

   第7部『学者党員・長谷川正安憲法学教授の犯罪加担、反憲法「意見書」』

   第7部・関連 長谷川教授「意見書」

      『長谷川「意見書」批判』 水田洋、「大統領」、中野徹三、高橋彦博

   第8部・完結世界初革命政党専従の法的地位「判例」

 1、上田耕一郎副委員長の多重人格性

 上田氏は、(1)理論家、かつての“党民主化リーダー幻想・上耕人気”の側面で有名です。その庶民的人格を表すエピソードもあります。しかし、それとともに、(2)副委員長・常任幹部会委員であるからには、宮本・不破党内犯罪の加担者・積極的遂行者としての顔をもっています。(3)第3の人格もあります。それは、1982年、上田・不破査問、「自己批判書」公表における奇怪な屈従者の顔です。それら党最高指導者の一人としての“多重人格”を考察します。

 第1人格 “上耕人気”、党組織民主化論文を発表する理論家の顔

 人柄については、インターネットで、有田HPが、彼の一端を書いています。

    有田芳生『共産党、上田耕一郎という「私の大学」』『日本共産党への手紙』私記−査問・除籍

          『巨星逝く−上田耕一郎の想い出』

 党組織民主化論文については、藤井一行教授と田口富久治教授が著書で“わざわざ”引用し、一種の「エール」を送っています。ただ、2人の著書は、宮本・不破氏により、1976年、田口「朝日夕刊」記事批判で、すでに始まっていた、通称“ネオ・マル粛清(ネオ・マルクス主義者粛清)の最初の攻撃対象文献になっただけに、上田氏への「けん制」の意味も持ちます。ネオ・マル粛清の内容は、下記・第3人格で触れます。

 藤井一行氏は、上田・不破共著『戦後革命論争史』の一節を引用しつつ、次のようにのべています。『かつて上田耕一郎氏は、フルシチョフの「秘密報告」がもたらした、一生忘れえないであろう苦痛にふれながら、その「苦痛」が、マルクス主義者にたいして「過去を見直すことを強い」ていること、「すベてのマルクス主義者が例外なく信じている見解でさえ、まったくまちがっていることがありうるということを、苦渋とともに悟らされた」からには、「私たちの進路をさぐるため」にも、「すでに歴史的判定のくだったものと思われているもろもろの過去の足跡の、いくつかの曲り角について、捨て去った方向について、見えなかった道について、その隅々まで新しく自分の目で見直す」ことが必要であると主張したことがあった(『戦後革命論争史』、大月書店、上巻、一九五七年、Tページ)

 いま私ははしなくも若き日の上田氏のこの熱っぽいことばを深い共感の念をいだきつつ、思いおこす。この姿勢は、およそ創造的に思考し行為しようとするすべてのマルクス主義者が身につけてしかるべきものであろう』(藤井著『民主集中制と党内民主主義−レーニン時代の歴史的考察』、青木書店、1978年、「あとがき」(P.296))

 田口富久治氏は、著書において、上田論文『現代における前衛組織』(「今日の哲学U・組織論」(P.109))から、引用しています。『ところで、イタリア共産党が、その第八回党大会で打ち出した「新しい型の党」については、上田耕一郎氏の前掲論文「現代における前衛組織」に詳しい紹介がある。が、読者の便宜を考えて、必要最小限にかぎって、その論旨を要約しておけば〜(中略)。上田氏によるつぎの一節は、全文引用しておく価値がある。

 「選挙制と報告制とだけでは、党内民主主義を充分に保証することは難かしい。とくに党組繊が巨大になればなるほど、指導部に小人数の強度に中央集権化された幹部組織が固定化する傾向が増大するため、党構造における民主主義選挙制だけではなく、党の運動の全局面において、民主主義の原則と中央集権の原則とを統一して実現することが、きわめて大切になってくる。これなしには、幹部の更迭の権利を含む選挙制さえも、真の実効性を発揮することはできないであろう。しかも重要なことは、党の内部生活の民主主義を尊重することは、党と党外大衆との関係における民主主義の尊重と結びついている。党活動の大衆路線は、その不可欠な組織的保障として党内の大衆路線を前提としている。

 したがって党内民主主義は、前衛党が宣伝団体から構造的改良の党へと成長するとともに、いっそう重要性を増す。大衆の毎日の生活における諸問題を知悉し、その無限の創造的エネルギーを汲みあげ現実の諸変化に絶えず適合した政治的指導を与えうる党は断乎たる集中制とともに、大衆との関係における民主主義と、党内民主主義とを二つながら保持しなければ、生存することができない」(前掲書、109ページ)(田口著『先進国革命と多元的社会主義』、大月書店、1978年、P.121)

 平和運動・原水協運動においては、1984年、宮本・金子満広による、対平和委員会・原水協クーデター前における、上田統一戦線部長による方針転換が、平和運動・原水爆禁止運動の現場から歓迎されました。この上田転換と宮本・金子逆転換・大粛清の詳細は、『不破哲三の宮本顕治批判』〔秘密報告〕で分析してあります。

 第2人格 幹部会委員、副委員長としての党内犯罪遂行者の顔

 )、1971年、愛知県委員U氏専従解任事件での“密告者()・共犯者”でした。上田氏が、積極的粛清加担=密告による専従解任主張をしたのかどうかは、分かりません。しかし、いずれにしても、彼は、唯一の当事者として、常任幹部会のU氏粛清方針に“賛成”したのです。「参院選政策党中央学習会」主催者として会場にいた彼が、『U氏ら2人の発言内容・行為には、なんの規律違反もなかった』と主張すれば、そんな党内犯罪を阻止できたはずです。彼は、幹部会委員(当時)なのです。この経過詳細は、第3部末尾で書きました。

 )、1972年、『新日和見主義「分派」事件』での査問委員として、中心的役割を果たしました。彼は、この“でっち上げ”事件で、「3つの具体的犯罪行為」を遂行しました。

 (1)、ジャーナリスト高野孟氏と川端治氏を、1972年5月、ジャパンプレス細胞総会にわざわざ出席して、総会終了と同時に、廊下の便所の横で、「査問招集状」を見せ、その場で、有楽町から代々木まで、査問連行しました。高野HPにその査問状況が書かれています。宮本・下司・上田氏らは、その2人を、ソ連分派、中国分派に次いで発生した、朝鮮労働党と結託し、民青グループ全体と結びついた一大反党集団=第3の外国党分派の中心人物と、予断と偏見の憶測で断定しました。それに基づく2人直接連行・拉致という最重要任務を上田氏は遂行したのです。

 (2)、『沖縄闘争と新日和見主義』という長大な「分派」批判論文を執筆しました。宮本・上田氏らは、「新日和見主義の政治的・思想的偏向の画期が沖縄闘争にあった」ときめつけました。上田論文は、「赤旗」で、1972年6月28日から30日の三日間も連載されました。彼は、『新日和見主義「分派」』批判の中心論文を書いたのです。

 (3)、川上徹氏の“監禁査問中における思想教育担当者”でした。川上氏は、「赤旗記事」(1998.1.20)によれば、『いろいろのグループのいわば“結節点”にいた中心人物の一人』でした。上田氏は、その“結節点”中心人物に、「沖縄協定問題、沖縄闘争方針」の講義をしました。13日間監禁査問状態下に置いたままで、自己の中心論文に基づく“川上Private Lesson(特別個人講義)”を装って、理論・思想転向させるという最重要任務を分担したのです。

 監禁・拷問下で運動中心人物の信仰・思想転向を強要する事例は、日本史で2つあります。一つは、キリシタン弾圧下で、長崎奉行とその配下が、捕らえた、バテレンを拷問しつつ、棄教を説得し、キリシタン信仰中心人物を“転ばせた”手口です。二つは、治安維持法下で、思想検事が、佐野・鍋山を拷問しつつ、コミンテルン方針の誤り、天皇制打倒方針の放棄を説得し、コミンテルン日本支部最高指導者を転向させた手口です。上田氏のしたことは、その三つめにあたる反体制革命組織内の中核思想検事の役割でした。

 600人査問、100人処分という日本共産党史上最大規模党内犯罪において、下司順吉幹部会委員は、中心人物の高野孟氏1週間監禁査問、川上徹氏13日間監禁査問の直接担当者であるとともに、全体実務をこなす主任検事の役割を果たしました。それにたいして、上田耕一郎幹部会委員(当時)は、“朝鮮労働党分派”疑惑の中心人物2人を査問に連行・拉致し、中心論文を書き、“結節点”にいた中心人物川上氏のPrivate Lessonを担当するという、ワンランク上の思想検事だったのです。

 高野孟氏は、この連行・拉致と査問第1日目の結論として、次のようにのべています。『この党にだけは権力を取らせちゃいけないと思った。スターリン粛清とか、いままでさんざん言われてたのと同じことが日本共産党でもやっぱり起こると思った。まだいまは党内権力だから、このくらいですむけれども、これが国家権力だったら殺されてると』(「川上・高野対談」、1998年「諸君5月号」)

 )、1977年、宮地「党大会上訴」の無審査・無採決・30秒却下議事運営張本人です。彼が、この党内犯罪手法の積極的提案者かどうかは不明です。しかし、彼が、党大会議長として、その犯罪的議事進行を進めたことは事実です。私(宮地)としては、上田氏が、この任務を“なんの良心の呵責もなく”果たしたかどうか聞きたいところです。

 )、1985年、東大院生支部「党大会・宮本勇退決議案」粛清事件において、東京都党会議で40分間にもわたって「院生支部批判の演説」をした粛清側・共同正犯4人の中心人物の一人でした。それは、「決議案」を掲げて、院生支部総会で正規に選出されたY氏の代議員権を『分派活動』ねつ造手口で剥奪するという上田・志位(現委員長)による“老齢・「10年間の停滞」責任を問われた宮本氏を絶対擁護する”反党活動でした。宮本顕治は、もともと、スターリン型粛清執行者の側面を持つと知られています。それにたいして、上田耕一郎は、“党民主化リーダー、「上耕」人気”の顔を持ち、党組織民主化の論文も発表していました。しかし、この粛清事件における彼の行為は、“卑劣!”の一語につきます。

 )1990年、『日本共産党への手紙』出版粛清事件における上田氏の犯罪加担です。この本が教育史料出版会から、1990年6月出版され、大きな反響を呼びました。そこでの加藤哲郎論文『科学的真理の審問官ではなく、社会的弱者の護民官に』と藤井一行論文に、宮本氏は激怒して、大掛かりな“報復”をしました。その編集をした有田芳生氏を査問し、除籍しました。さらに『党本部勤務員にふさわしくない』と専従解任をしました。「新日本出版社」社員は、有田氏を含め全員が共産党専従・本部勤務員扱いになっているのです。党員である、その教育史料出版社社長を査問し、党員権6カ月間停止処分にしました。

 上田氏は、有田氏にたいして、出版前の当初は『いい企画だよ』と激励していたのです。これは、企画段階にせよ、副委員長としての“個人的承認”を与えたことと同じです。ところが、その後は、手のひらを返すように態度を一変させ、この出版粛清執行に、副委員長として賛成し、粛清遂行者側に“転向・裏切り”をしたのです。その出版と上田氏との関係、有田査問については、有田HPにくわしく書いてあります。

 )、高橋彦博教授が、『上田耕一郎、不破哲三両氏の発言を求める』を発表しました。そこで、高橋氏は、「朝鮮戦争38度線突破者の事実誤認」問題、「戦後革命論争史の出版・絶版経緯」問題、「東大細胞の戸塚査問」問題などについて、両氏に真相解明の発言を求めています。

 第3人格 上田・不破査問、「自己批判書」公表における奇怪な屈従者の顔

        「ネオ・マル粛清」全経過とその中での位置づけ

 「自己批判書」公表

 1983年、上田副委員長、不破書記局長は、『前衛8月号』に、それぞれ6ページづつもの長大な「自己批判書」を公表させられました。その内容は、なんと「戦後革命論争史上・下」という1956、57年に出版した2人共著における「27年も前の誤り」にたいする自己批判でした。そして、その執筆内容・出版行為には『自由主義、分散主義、分派主義の誤りがあった』と認め、その12ページにおいて、2人でこの文言を11回も書かされているのです。その奇怪な公表意図、真因をめぐって、マスコミがいろいろ憶測しました。「赤旗」は、2人の「自己批判書」は、1982年12月に常任幹部会で承認した、と弁明しました。となると、なぜ、8カ月間隠蔽してから、あえて党内外に公然と公表する必要が宮本側にあったのかという再疑惑も発生しました。この奇々怪々な共産党No.2、No.3「自己批判書」公表事件の真相は、何でしょうか。

 査問委員会

 この党内地位にいる2人を、「27年も前の誤り」に関して査問し、「自己批判書」を書かせ、『前衛』で公表させうる人物は、No.1宮本顕治と「宮本秘書団」私的分派・常任幹部会グループ以外にありません。2人の「査問委員会」メンバーは、宮本側近グループでした。この奇怪な事件の背景・真因については、『不破哲三の宮本顕治批判』〔秘密報告〕で、“不破氏の口”を借りて詳しく書きました。ここでは、その位置づけを分析します。

 背景と真因

 このNo.2、No.3査問・「自己批判書」公表事件は、1973年以降における宮本氏のユーロコミュニズムへの急接近と、1977年、「宮地30秒殺人」をした第14回大会を転換点とするユーロ・ジャポネコミュニズムからの急速離脱=“日本共産党の逆旋回”の一環でした。宮本氏は、1975年9月、イタリア共産党と会談し、1976年には、スペイン、フランス共産党と会談を持ちました。同年第13回大会で、3つの大胆な旋回を打ち出しました。(1)「プロレタリアート独裁」訳語を「プロレタリアート執権」に、(2)「マルクス・レーニン主義」を「科学的社会主義」に変更し、(3)「自由と民主主義の宣言」を提起しました。これらは、党内外から「ユーロ・ジャポネコミュニズム」として歓迎されました。

 ところが、翌1977年3月、イタリア・スペイン・フランス3党書記長会談が持たれ、そこでは、ユーロコミュニズムの方向が明確になってきました。それは、スターリン批判の徹底化と先進国前衛党組織のあり方、とくに民主主義的中央集権制規律の緩和と放棄を目指すものでした。3党いずれもが、後に、この組織原則は誤りとして、放棄しました。レーニン・スターリン主義者、宮本氏は、3党書記長会談の方向を察知し、それを嫌悪し、党管理・統制に強烈な危機感を抱きました。そこで、彼と「宮本秘書団」私的分派は、“自分たちの党”を逆旋回させることを決断しました。1977年、第14回大会において、前大会と打って変わって、『民主集中制の規律』を強調し、自由主義、分散主義との全党的闘争』路線への強行転換を図ったのです。それは、宮本氏と宮本側近グループの“転向”陰謀でした。

 「ネオ・マル粛清」発動

 その“宮本転向・逆旋回クーデター”を成功させる上で、当面する最大の邪魔者たちは、“党内に巣食い、ユーロ・ジャポネコミュニズム方向を紹介、宣伝、扇動する「ネオ・マルクス主義者」たち”でした。その宮本逆旋回クーデターに抵抗するであろう邪魔者とは、(1)ネオ・マルクス主義学者党員たち、(2)大月書店、青木書店等の共産党系出版社内党員、(3)「党組織民主化リーダー」と目され、“上耕”愛称で呼ばれる党最高幹部上田耕一郎でした。

 (1)学者党員では、田口富久治名古屋大学教授、藤井一行富山大学教授、中野徹三札幌学院大学教授らが、雑誌『現代と思想』・連続シンポジウム「スターリン主義の検討」で精力的にスターリン批判を展開し、それぞれ単行本も出版していました。(2)出版関係では、大月書店の加藤哲郎らが、田口著『先進国革命と多元的社会主義』の編集・出版を直接担当するだけでなく、青木書店とも連携して、イタリアのスターリン批判研究文献多数の翻訳・出版も企画していました。

 (3)”上耕”も、上記田口氏引用の論文を発表していました。彼の当時の論文、発言、行動は、党中央最高幹部内では、ユーロコミュニズム理論、方向にもっとも接近し、それを公然と目指していました。

 レーニン型粛清の理念

 “自分たち「宮本秘書団」私的分派の党”を逆旋回させるためには、すべての『邪魔者は殺せ』が、レーニン、スターリン以来の前衛党トップの鉄則です。レーニンは、自己生存中に、ボリシェヴィキ以外の他党派120万人を直属秘密政治警察チェーカーを使って、絶滅させ、一党独裁体制を完成し、1921年、クロンシュタット反乱では、党内3分派を粛清し、その時点における党員の1/4を除名しました。それによって、スターリンに先駆けて、『反革命・邪魔者は殺せ』の模範を示しました。秘密政治警察を使って党内外の粛清を貫徹する点で、レーニンは、スターリンにとって、「偉大な先駆者・教師」だったのです。

 有名な話ですが、レーニンは、亡命中に、フランス革命挫折の教訓を分析し、ジャコバン公安委員会システムを繰り返し研究しました。そして、少数派が暴力的権力奪取に成功した場合、ロシアにおける少数派独裁革命権力を維持・強化するには、秘密政治警察組織とそれによる暴力・赤色テロルが必要不可欠との信念を固めていました。レーニン、トロッキーが主張した10月単独武装蜂起に公然と反対したジノヴィエフ、カーメネフらに、すでに『反革命』レッテルを貼りつけて、攻撃していました。

 10月武装蜂起によるボリシェヴィキ単独権力を打ちたてると、2カ月後の12月に、党内の反対を押し切って、早くもチェーカーを創設しました。そして、チェーカーに裁判なしの逮捕・拷問・処刑権限を与え、豊富な資金を投入しました。レーニンとチェーカーが恣意的に認定した『反ボリシェヴィキ、反革命者は殺してもいい』というレーニンの粛清理念は、秘密政治警察創設のスタートから、『人道に反する犯罪』側面を備えていたのです。そこから、党内外の粛清は、コミンテルン型前衛党の基本的体質となりました。

 ユーロ・ジャポネコミュニズム方向と絶縁するためには、まず、日本共産党内におけるスターリン批判の研究・討論・出版を途絶させることが、第一歩でした。なぜなら、(1)(2)(3)の動向を放置すれば、スターリンとレーニンの継承性、断絶性の研究に深化し、それは、レーニンの民主主義的中央集権制放棄に向かうことが、明らかだったからです。それは、「マルクス・レーニン主義」の名前を騙った、スターリン主義的党運営者宮本顕治にとって、自分の党内権力を崩壊させる、恐るべき“反革命・人民内部の敵”と映ったのです。

 “宮本転向・逆旋回クーデター”期間と「ネオ・マル粛清」の位置づけ

 この期間は、1976年、田口教授『朝日夕刊』記事批判に始まり、1985年、東大院生支部粛清事件までの約10年間です。この逆旋回は、それに抵抗する5つの分野にたいする連続粛清事件を引き起こしつつ、強行されました。()1976年から1994年高橋教授除籍までの一連の「ネオ・マル粛清」事件、()1983年、民主主義文学同盟『民主文学4月号問題』粛清事件、()1984年、平和委員会・原水協問題大粛清事件、()1984年、日中出版の出版妨害事件と社長・社員4人全員除名事件、()1985年、東大院生支部の『党大会宮本勇退決議案』粛清事件です。「ネオ・マル粛清」事件は、その内の一つであり、上田・不破査問と「自己批判書」公表事件は、「ネオ・マル粛清」事件の一つという位置づけになります。これらの詳細は、“不破氏の口”を借りて、『不破哲三の宮本顕治批判』〔秘密報告〕で書きました。

 「ネオ・マル粛清」範囲と規模

 ()まず最初に、1976年7月、田口富久治教授の「朝日夕刊」・デュヴェルジェ理論紹介記事『さまざまな「傾向」が党内部で共存する権利』にたいして、個別党内批判・詰問をしました。1977年には、田口・雑誌論文『先進国革命と前衛党組織論』にたいする「関原利一郎」名の批判論文を発表しました。「関原一郎」とは、榊夫、上田耕一郎ら4人共同執筆のペンネームです。田口氏が、2度の批判にも屈しないので、1978年、『田口・不破論争』を公然と開始したのです。このとき、田口教授の下に、大月書店を退社した加藤哲郎氏が、法学部助手として、後房雄氏が院生としていました。この2人とも後に、「ネオ・マル粛清」の対象になりました。

 ()1976年、藤井一行論文『民主主義的中央集権制と思想の自由』にたいして、榊が批判論文を発表しました。1978年、著書『民主集中制と党内民主主義』にたいして、不破が、党中央理論部門研究会で、その全面的批判を報告しました。()1980年、中野徹三教授が、『田口・不破論争』参加の論文を発表し、また、不破論文批判の学術論文『マルクス、エンゲルスにおけるプロレタリアートのディクタトゥーラ概念』研究発表にたいして、“党内問題を党外にもちだした”規律違反ときめつけて、査問し、後に除名しました。()水田洋教授のマルクス理論一部批判論文にたいして、反批判論文を発表しました。

 ()1982年、上田耕一郎・不破哲三査問、その8カ月後の1983年8月、“27年前に犯した誤り”にかんする2人の「自己批判書」を公表させました。()1990年、さらに、『日本共産党への手紙』企画・出版粛清事件で、有田芳生査問・除籍など3人を処分をしました。()1994年、高橋彦博教授が、『左翼知識人の理論責任』を出版したのにたいして、規律違反とでっち上げて、除籍しました。

 上田・不破査問、「自己批判書」公表事件の本質と位置づけ

 この査問は、宮本指令ですでに絶版させていた共著執筆・出版行為を、27年後に自己批判させるものでした。この異様な査問は、上記藤井氏、田口氏に「引用」され、“反共市民運動”レッテルの小田実と対談を持つような上田耕一郎を、“日本共産党の逆旋回”という“宮本転向・クーデター”の道連れに引きずり込むための「ネオ・マル粛清」の一環として捉えないと、その本質を理解できません。『田口・不破論争』、藤井批判もそうです。

 “粛清にかけては、きわめて頭のいい”宮本氏は、これらを、各個撃破作戦で遂行し、公表、非公表手法を使い分けました。その同質性の一例を挙げます。(1)田口批判は、『自由主義、分散主義、党内複数主義の誤り』でした。(2)藤井批判は、『自由主義、分散主義、解党主義の誤り』でした。(3)第15回大会決定は、『自由主義、分散主義の克服』です。(4)1982年、上田批判は、『自由主義、分散主義、分派主義の誤り』でした。党内複数主義、解党主義、分派主義とは、説明するまでもなく、同一思想批判の日本語です。そして、自由主義、分散主義の日本語はすべてに共通しています。

 「ネオ・マル粛清」の本質

 これは、党内理論・学問分野において、宮本氏・宮本側近グループと異なる異論が発生したときに、宮本氏がレーニン型「政治の学問にたいする優位性」理念で、異論学者党員たちを、粛清手法で党内排除、党外排除した手口のことです。レーニンは「政治の優位性」を一面的に強調する誤りを犯しました。スターリンは、その誤りをさらに発展させて、有名な「ベルト理論」に歪曲させました。それは、すべての大衆組織、各分野の研究活動、運動は、党・スターリンの方針・決定を人民に伝達するベルトの役割を果たさなければならないとする内容です。

 スターリン「ベルト理論」信奉者宮本氏は、“宮本転向・クーデター”の全過程を通して、その歪曲理論を貫徹しました。宮本・不破・榊氏らは、『日本共産党への手紙』加藤哲郎論文『科学的真理の審問官ではなく、社会的弱者の護民官に』にあるように、“異端審問官”という宮本教司祭の地位にまで、自らを高めたのです。そして、司祭たちは、“日本共産党の逆旋回の全過程を通して、『民主主義的中央集権制問題に触れることを一切許さない』とする“新たな宗派的タブー”を創出しました。そのタブー脅迫効果は絶大で、以後20年間にわたって、それを破ろうとする学者党員は一人も現れず、数万人いる学者・文化人党員は、『羊たちの沈黙』を守りました。

 上田査問の真相

 27年も前の誤りを認めさせるという、奇妙奇天烈な「自己批判書」の裏に潜む本質は、「ネオ・マル粛清」全経過から、宮本氏の狙いが、その共著内容などにはなく、田口教授が引用した上田論文『現代における前衛組織』内容、その他言動にあったのです。『前衛8月号』では、No.2不破−No.3上田の「自己批判書」掲載順になっています。しかし、石堂清倫氏が、『戦後革命論争史』出版経緯で書き、かつ、上田氏も認めている「戦後日本の分析」研究会において、“たんなる学生出身の筆記役”として参加し、討論ノートをとったのは、上田氏だけでした。

 しかし、No.2、3兄弟共著となっているので、No.1宮本氏は、2人ともに「自己批判書」を書かせました。弟・哲三は、「戦後日本の分析」研究会の討論に一度も参加していないのにもかかわらず、とんだ“とばっちり査問”を受けたわけです。なぜなら、弟・哲三は、党内複数主義、解党主義、分派主義を臭わせる兄・耕一郎まがいの論文を書いたこともなく、田口批判、藤井批判において、多数の詭弁を駆使して、「ネオ・マル粛清」の先頭に立っていたからです。

 そして、“読みの深い”宮本氏は、『現代における前衛組織』内容での「自己批判書」を直接書かせ、公表することは、まずいと判断し、それを避けて、無理矢理、27年前の誤りでの公表という“迂回作戦”をとりました。そうなると、建前上、共著の弟・哲三を見逃すことはできなかった、というのが、事件の真相です。

 上田氏の査問への対応

 問題は、この不可解、不当な査問、「自己批判書」公表という強制にたいして、著書執筆中心の上田氏が、なんの抗弁、抵抗もしなかったかということです。そもそも、5人+筆記役上田1人の「戦後日本の分析」研究会は、(1)共産党系・大月書店からの討論内容出版という限定目的を持つだけであり、(2)5人全員が、宮本分派「国際派」の青年学生対策委員で、(3)出版後に研究会を解散したという経過でした。その会議、内容には、分派主義のかけらもありません。

 上田氏は、副委員長として、常任幹部会内で、徹底してたたかいうる立場にありました。彼が抗弁したかどうかは不明です。結果として、彼は、宮本氏への奇怪な屈従をし、弟・哲三も“とばっちり屈従”をして、兄弟2人で、11回も『(27年前に)分派主義の誤りを犯した』と、屈辱的「自己批判書」を書かされました。その共通文言を上田5回、不破6回も、その「自己批判書」に書いたことは、査問において、よほど『自己批判内容不十分で書き直せ』と、何回も命令されたからです。常任幹部会は、1982年12月、ようやく自己批判内容を承認しました。

 「自己批判書」公表の宮本真意

 それを、8カ月も経ってから、1983年8月、わざわざ公表したのはなぜでしょう。宮本真意は、『上田耕一郎は、宮本とともに“転向”したぞ! 彼は、党組織民主化の信仰を投げ捨てて“転んだ”ぞ!』と、転向公開することでした。それによって、今なお、“棄教”しないネオ・マルクス主義の連中にたいして、“転びバテレン上耕のさらし首”を見せる必要があったからです。こうして、上田耕一郎は、第3人格としての、奇怪な屈従者の顔を党内外に公開しました。その2年後、1985年、彼は、宮本氏に奇怪な屈従をしたままで、東大院生支部Y代議員の東京都党会議代議員権を、でっち上げの分派活動名目によって剥奪するという、日本共産党史上もっとも卑劣な党内犯罪を、副委員長として遂行しました。

 2、多重人格者を大量生産するシステム

 上田氏の人格規定

 彼は、三面相ともいうべき、複雑な顔を持つようになりました。その人格はどう規定できるでしょうか。日本語としては、偽善者、偽悪者、多重人格者があります。上田氏を「偽善者」とする場合、第2人格が基本で、「党組織民主化」理論を唱える第1人格は、偽善的仮面にすぎないことになります。それは、実態とは違います。上田査問の真の対象となった『現代における前衛組織』内容は、彼の一面の本心を表しています。「偽悪者」でもありません。3つの顔は、いずれも彼の本質的人格であり、第1人格ともども、上田耕一郎は“引き裂かれた多重人格者”となったのです。

 人格破壊システム

 問題は、彼のような「多重人格人間」が、前衛党において、特殊的事例でないことです。第2部で書いた愛知県『泥まみれの拡大』2年間における私(宮地)は、上田氏と同じような「三重人格人間」でした。私の場合、愛知県第1次民主化運動が、裏切り・密告に敗れて、21日間の監禁査問をされて以降は、“引き裂かれた人格”でした。もちろん、宮本・不破・志位体制下の4000人専従が、すべて多重人格になるわけではありません。しかし、そこには、様々な人格の歪み・破壊が発生しました。

 (1)単純な宮本・不破盲従・信奉者、(2)ごますり、茶坊主、イエスマンなどの党内スパイ・密告者、(3)面従腹背者、(4)人格のまた裂きに対応しきれない自律神経失調者、(5)多重人格者、(6)党中央批判意見を出して専従解任される者、(7)中立派などです。ただ、地区−都道府県−党中央と、上級機関専従になればなるほど、(7)中立派でいつづけることが許されない事態、事件が発生します。そこでは、自分の首をかけて=専従解任を覚悟で、自分の理念・思想に忠実であることは困難になります。とくに、地区常任委員−都道府県常任委員−常任幹部会員という、前衛党の独裁執行権限を占有する専従には、「保留」態度はありません。方針遂行、粛清執行に「賛成」かどうかです。「反対」は、専従解任に直結します。

 コミンテルンの多重人格者

 上田氏(宮地)のような執行機関専従だけでなく、学者党員でも、党機関『決定』がくれば、その態度選択を迫られます。第7部でのべる長谷川正安名古屋大学法学部憲法学教授も「三重人格人間」になりました。日本共産党だけではありません。コミンテルン関係でも、その症例は無数にあります。有名なディミトロフは、()社会民主主義主敵論を反ファッショ人民戦線方針に路線転換させました。同時に()コミンテルン最高指導者として、スターリンのコミンテルン関係者大粛清の共同正犯だったことが、ソ連崩壊後資料で明らかになってきました。

 ()一方で、少なからぬ各国党員を粛清から救いました。トリアッティも、コミンテルン執行委員として、()だけでなく、()スターリンによるポーランド共産党解散弾圧に賛成し、ポーランド共産党員5000人の逮捕・銃殺に加担しました。()他方、粛清からの救済にも手を貸しました。ただ、彼は、イタリアに帰ってから、それらの犯罪加担事実をすべて告白して、自己批判をしました。コミンテルン執行委員・野坂参三も典型的な多重人格者に追い込まれました。よって、前衛党最高幹部の“引き裂かれた”多重人格性は、上田氏のケースだけでなく、国際共産主義運動全体からも、無数に証明できます。

 多重人格者を大量生産するシステム

 他のファイルでも、専従の自律神経失調症患者、密告者については書きました。しかし、このような“引き裂かれた人格”には触れていません。問題は、これが、個人的資質・性格ではなく、前衛党システムを原因とする人格破壊として捉えるかどうかです。資本主義システム、大会社も、当然、これに類似した人格破壊を生産しています。それは、資本主義的生産関係の中で発生します。それにたいして、上記例は、反体制革命組織、および、現存した社会主義国前衛党の中で発生しています。

 そこでは、分派禁止規定と結合した民主主義的中央集権制という、反民主主義的・閉鎖的・上意下達システムこそが、このような「多重人格人間」を生産するのです。レーニンが、1921年、民主主義的中央集権制と分派禁止規定とを合体させたことは、党内民主主義を破壊する犯罪的誤りでした。スターリンは、それをさらに、極限状態の反動的党運営システムに発展させました。スターリンが粛清したソ連共産党員百万人の罪名のほぼ100%は、レーニンがレールをひいた「分派禁止規定違反」でした。宮本顕治は、そのスターリン型党機関運営を厳格に踏襲してきたのです。

 粛清・銃殺執行をした共産党員の人格分裂

 宮本・不破氏は、スターリンの粛清を『民主集中制からの逸脱が原因』と強弁してきました。こんな説明を、ヨーロッパの共産党に言ったら、“物笑いの種”になるだけでしょう。ヨーロッパでは、スターリンによる約4000万人粛清事実と民主主義的中央集権制システムとが、一体不可分のものと理解が進んだからこそ、ポルトガル共産党以外の、すべての資本主義国共産党が、民主主義的中央集権制を放棄したのです。

 そして、粛清執行システムが、粛清側共産党員の人格破壊を、当然のように引き起こします。共産党員が、同志としての共産党員を“深夜のドアノック”で逮捕し、32種類の拷問にかけ、でっち上げ分派リストを自白、サインをさせ、銃殺執行をするとき、あるいは、上田耕一郎が、上記党内犯罪を執行するとき、その粛清執行者側に人格分裂が生ずるのは、人間としての必然的生理現象です。ソ連、東欧、中国を含め粛清命令・執行側共産党員数百万人は、完全な多重人格者でした。オーウェルは、人格破壊を大量生産するシステムを『1984年』で浮き彫りにしました。

 3、レーニン型前衛党の“引き裂かれた人格”

 政党の目的、手段、組織体質の一致と乖離・不一致

 政党とは、ある種の「人格」をもつ私的結社です。政党の(1)目的、(2)手段、(3)組織体質が、『民主主義』という点で一致していて、その関係に矛盾がなければ問題はありません。ところが、『目的と手段の乖離(かいり)』『目的のためには手段を選ばない』ということが、レーニン型前衛党体質・倫理であると、言われてきました。現在、ヨーロッパでは、第2インター系・社会民主主義政党が、10カ国以上で、政権党になっています。そこでは、第3インター・コミンテルン系前衛党の10カ国での崩壊も教訓の一つとして、『目的と手段の一致』が強く主張されています。その3つを貫通する『民主主義』という点での一致を、崩す理論をもち、実践をしたとき、その政党は、“引き裂かれた人格”になります。

 レーニン型前衛党10カ国での崩壊原因

 この原因と、その分析視点はいろいろあります。ここでは、(1)目的、(2)手段、(3)組織体質の乖離、不一致という視点から検討します。まず、『目的と手段の乖離』については、マルクス・エンゲルス・レーニンの「プロレタリア独裁」理論と、レーニンによるその歪曲的実践に原因があります。ヨーロッパでは、すべての資本主義国共産党が、その理論と実践は、強権的、反民主主義的な誤りであった、と明確に認めて、ポルトガル共産党を筆頭として、1970年代に公然と放棄宣言をしました。

 よって、一定の影響力を持つ資本主義国共産党では、世界で、日本共産党だけが、『プロレタリアートのディクタトゥーラ』理論の『プロレタリアートの独裁』訳語を、『プロレタリアートの執権』訳語にし、さらに『労働者階級の権力』訳語に、歪曲変更しつつ、隠蔽・堅持している政党になりました。ヨーロッパでは、この理論・実践内容は、「プロレタリアートによる、他階級の抑圧、民主主義的権利剥奪という反民主主義的な支配階級独裁のことであり、それは、共産党という権力奪取政党による一党独裁という反民主主義的政治体制となった」ととらえて、その面でのマルクス・レーニンを全面否定、批判したのです。

 (1)共産党の目的

 その内容は、労働者・人民・被抑圧民族の解放、社会正義、自由、平等、民主主義実現など、人類の理想を高く掲げたものでした。その目的の宣伝・扇動は、他政党と比べて、もっとも強力で、情熱的でした。それは、世界中の人々の心を揺り動かし、目的実現活動に立ち上がらせました。

 (2)共産党の手段

 それにたいして、共産党のとった手段は、権力奪取時点における暴力使用だけには収まりませんでした。当然の事ですが、「暴力で勝ち取った少数派独裁権力は、暴力でしか、その革命権力を維持することが出来ません」。その少数派独裁権力維持・強化のためには、暴力、赤色テロル、粛清、秘密政治警察の肥大化という暴力的・反民主主義的手段を日常的に使用せざるをえませんでした。14カ国における一党独裁政治体制とは、すべての他党派粛清という、「政党間民主主義の抑圧・破壊手段」貫徹の結果でした。

 レーニンの『政治の優位性』一面的強調の誤りを、スターリンは『ベルト理論』に歪曲しました。「すべての大衆組織は、共産党、または党中央の決定、指令を国民に伝達するベルトの役割を果たさなければならない」という理論を、宮本・不破氏は、日本共産党においても、忠実に実践しました。大衆組織内党グループを通じて、「フラクション活動」を強化し、党と大衆組織との関係を「指導・被指導」関係に変質させ、大衆組織内民主主義を抑圧・破壊してきました。党グループが、党中央の方針・指令に抵抗・反発すると、『共産党系大衆団体クーデター』を、3つの分野で、強行して、その大衆団体を共産党の従属下におきました。

 「民主主義目的を実現するために、反民主主義的“独裁・粛清”手段を一時的に使用することは、必要悪、あるいは、正当」とする、マルクス・レーニンの“パラドックス(逆説)”理論と、レーニンの“一時的どころか永続的”実践、“他党派粛清による一党独裁”という反民主主義的政治体制への歪曲は、『目的と手段の乖離』を拡張し続け、その乖離が極限状態に到達したことによって、必然的に、内部崩壊したのです。

 (3)共産党の組織体質

 政党内組織運営実態は、レーニンが、1921年、『分派禁止規定と合体させた民主主義的中央集権制』により、閉鎖的、上意下達式、党内民主主義抑圧・破壊の体質になりました。それは、最高指導者私的分派や個人独裁を生産しました。その体質は、「党中央による、中央批判発言という党員権行使者粛清体質、市民的権利行使者粛清体質」に発展します。党外異論者にたいする粛清と、党内批判者にたいする粛清とは、不可分一体のものです。

 ヨーロッパでは、ポルトガル共産党以外の、すべての共産党が、「レーニンの組織原則は、たしかに派閥主義的堕落を阻止した。しかし、さまざまな思想や綱領の自由な表明を行うためには常に不可欠な、指導部を統制のもとにおくという点において大きな限界をもっていた」としました。民主主義的中央集権制の功罪を明確に総括し、「それは、党内民主主義を抑圧・破壊する誤った組織原則である」として、その面でのレーニン理論を否定・放棄したのです。

 今や、資本主義国で、日本共産党とポルトガル共産党2党だけが、「Democratic Centralism」というレーニンの反民主主義的組織原則を堅持する政党になりました。なかでも、宮本・不破氏は、それを『民主集中制』と略語変更し、その日本語によって、『民主と集中の統一』解釈に歪曲して、堅持しています。

 “引き裂かれた人格”政党と“引き裂かれた多重人格幹部”の関係

 こうして、(1)目的、(2)手段、(3)組織体質における『民主主義の貫通性』という点で、恐るべき乖離と矛盾が発生しました。それは、すべてのレーニン型前衛党、その一つとしての日本共産党を、“引き裂かれた人格”をもつ私的結社に変質させました。それは、必然的に、前衛党幹部、日本共産党幹部において、“引き裂かれた多重人格者”を大量生産するシステムになったのです。

第5部2以上   健一MENUに戻る

 

(関連ファイル)日本共産党との裁判

   第1部『私の21日間の監禁査問体験』 「5月問題」

   第2部『「拡大月間」システムとその歪み』 「泥まみれの拡大」

   第3部『宮本書記長の党内犯罪・中間機関民主化運動鎮圧、粛清』

   第4部『「第三の男」への報復』警告処分・専従解任・点在党員組織隔離

   第5部1『宮本・上田の党内犯罪「党大会上訴」無審査・無採決・30秒却下』

   第6部『宮本・不破反憲法犯罪、裁判請求権行使を理由とする除名』

   第7部『学者党員・長谷川正安憲法学教授の犯罪加担、反憲法「意見書」』

   第7部・関連 長谷川教授「意見書」

      『長谷川「意見書」批判』 水田洋、「大統領」、中野徹三、高橋彦博

   第8部・完結世界初革命政党専従の法的地位「判例」

 

   『追悼・上田耕一郎 その歴史的功罪』党中央専従経歴 (別ファイル)