追悼・上田耕一郎 その歴史的功罪
共産党中央専従経歴に見られる多重人格性
(宮地作成)
上田耕一郎が、2008年10月30日、81歳で死去した。この追悼ファイルは、共産党の公式評価、マスコミ・ブログのリンクとともに、上田耕一郎の歴史的功罪と、彼の共産党中央専従経歴に見られる多重人格性を検証したファイルのリンクを中心にする。健一MENUに戻る
〔目次〕
2、マスコミ、ブログ
1、共産党中央専従以前の仕事−『戦後革命論争史』出版、ベストセラー
2、党中央専従時期における『戦後革命論争史』絶版→上田・不破査問事件
3、党中央幹部会員→常任幹部会員・副委員長時期の党内犯罪加担・遂行者
4、上田耕一郎の多重人格分析と犯罪的組織原則政党副委員長としての客観的役割
2、マスコミ、ブログ
yahoo『上田耕一郎』マスコミとブログ、有田芳生
google『上田耕一郎』マスコミとブログ
wikipedia『上田耕一郎』
有田芳生『共産党、上田耕一郎という「私の大学」』『日本共産党への手紙』私記
有田芳生『巨星逝く−上田耕一郎の想い出』
marbles『上田耕一郎氏死去』
3、宮地作成ファイル、石堂清倫・高橋彦博ファイル
上田耕一郎の歴史的功罪と、彼の共産党中央専従経歴に見られる多重人格性を、私や他のファイルに基づいて検証する。共産党公式評価や、マスコミ・ブログは、ありきたりの追悼パターンどおりで、彼の功績面しか書かない。彼が理論的に優れ、庶民的だったことは事実である。その面では、私も高く評価している。しかし、宮本顕治死去の功罪評価と同じく、上田耕一郎の問題点・誤り・党内犯罪の側面にたいし、沈黙・隠蔽することは間違いである。
『宮本顕治がしたことの表裏・12のテーマ』戦後の最高権力者期間39年間の表裏
というのも、彼は、地区専従を経ないで、いきなり共産党中央本部の理論幹部専従に抜擢され、幹部会員→常任幹部会員→06年まで副委員長を務め、宮本体制の中心幹部だったからである。よって、彼は、最高権力者期間39年間宮本顕治の問題点・誤り・党内犯罪の側面にたいし、半ば一心同体であり、彼の党内犯罪については、弟・上田建二郎=不破哲三とともに、兄弟揃って、共犯者の役割を果たした。
〔小目次〕
1、共産党中央専従以前の仕事−『戦後革命論争史』出版、ベストセラー
2、党中央専従時期における『戦後革命論争史』絶版→上田・不破査問事件
3、党中央幹部会員→常任幹部会員・副委員長時期の党内犯罪加担・遂行者
4、上田耕一郎の多重人格分析と犯罪的組織原則政党副委員長としての客観的役割
1、共産党中央専従以前の仕事−『戦後革命論争史』出版、ベストセラー
これが一番有名な仕事で、著書はベストセラーになった。しかし、その出版経緯が、私への石堂清倫の手紙3通で明らかになった。これらの手紙とともに、下記で、著書の絶版経緯と、宮本顕治が発動したネオマルクス主義研究者粛清事件=通称ネオ・マル粛清の一環として上田・不破査問事件の発生の謎を解明する。
著者上田耕一郎のみ、上下巻・各350円
石堂清倫『上田不破「戦後革命論争史」出版経緯』手紙3通と書評
2、党中央専従時期における『戦後革命論争史』絶版→上田・不破査問事件
宮本顕治は、最高権力者としての反党的分派活動=宮本秘書団私的分派を形成しつつも、一方で、党中央理論幹部の不足、レベルの低さに悩んでいた。そこで、上田・不破兄弟による『戦後革命論争史』の理論水準に目を付けた。しかし、他方で、それを討論・準備した石堂清倫ら反党分子を毛嫌いし、その内容に強烈な批判を抱いた。それだけでなく、上田・不破兄弟が、宮本綱領を歪曲し、構造改革理論家に逆戻り・変節することに恐怖と猜疑心を抱いた。
絶版の経緯と、上田・不破査問事件の異様さについては、不破哲三の口を借りて、詳述した。ただし、正確なデータは不足しているので、様々な基礎情報による私の推理に基づいている。日本共産党が、じり貧的瓦解5段階→国会議席ほぼ0という自然死→崩壊をし、代々木党本部内の極秘資料が発掘・公表されれば、この正確な謎解きができる。
日本共産党は、(1)東欧・ソ連10カ国とその前衛党がいっせい崩壊し、かつ、(2)ヨーロッパの共産党もほぼ全滅し、(3)共産党名を名乗るフランス共産党・ポルトガル共産党も、日本共産党以上のテンポでじり貧的瓦解をしている中で、資本主義世界で最後に残存する唯一のレーニン型前衛党=民主集中制・分派禁止規定という党内民主主義を抑圧する犯罪的組織原則政党である。よって、自然死に至るというこの将来展望は、加藤哲郎も提起しているように、あながち奇想天外な空想でもない。
『上田・不破査問、「自己批判書」公表における奇怪な屈従者の顔』
3、党中央幹部会員→常任幹部会員・副委員長時期の党内犯罪加担・遂行者
(1)党中央トップの一人となれば、しかも、(2)上田・不破査問に屈服し、屈辱的な自己批判書のみせしめ的な『前衛』公表をされたとなれば、(3)それ以降は、宮本顕治の誤り・党内犯罪への加担・共犯者とならざるをえない。加担・共犯という意味は、下記の党内犯罪の発動・指令者は、最高権力者宮本顕治であり、上田耕一郎自身が主導した党内犯罪ではないという実態を指す。
私の共産党専従13年間も同じだった。私の党内犯罪加担・共犯の部署は、愛知県党の半分の勢力を占める名古屋中北地区常任委員・5ブロック責任者(=現在では、地区分割による5つの地区委員長)だった。地区委員長・准中央委員・愛知県副委員長の異様なまでの党内成績主義・党内出世志向により、52人の地区専従が9カ月間も連続泊り込み体制で、赤旗の一面的拡大の数字追及をした。その過程で、私は、5ブロック責任者として、(1)多数の長期未結集者を生み出し、(2)専従12人を自律神経失調症にさせ、(3)かなりの支部を崩壊させ、(4)規律違反への査問委員としても党内犯罪を遂行した。
上田耕一郎が、党中央トップbRの地位・特権に留まろうとすれば、宮本顕治の党内犯罪指令の共同正犯としての人格が形成される。共産党専従をやめようとしない限り、私と同じく、彼も加担・共犯者とならざるをえなかった。以下それらを確認する。私にたいする宮本・上田の党内犯罪体験もあるので、上田耕一郎の党内犯罪を見過ごすことはできない。しかも、それ以前に、上田耕一郎は、愛知県のU専従への騙まし討ちの専従解任犯罪の加担者・共犯者でもあった。
上田耕一郎の理論水準・庶民的人柄という表面だけを高く評価し、犯罪的組織原則政党中央トップとしての裏側を見ることができない上耕ファンは、このファイルを見て、死者に鞭打つと怒るかもしれない。しかし、彼は、私の党内闘争・党大会上訴事件にたいする政治的殺人犯罪の共同正犯4人の一人だった。彼は、宮本顕治・不破哲三・戎谷春松とともに、私にたいする殺人者の一人となった。死去した彼を以下のように厳しく批判するのは、彼の殺人行為にたいし、私は生まれて初めての怒髪衝天になって、『日本共産党との裁判』を決断したからである。
〔小目次〕
〔党内犯罪加担・遂行者1〕、1971年、愛知県委員U氏専従解任事件での密告(?)・共犯者
〔党内犯罪加担・遂行者2〕、1972年、『新日和見主義分派事件』査問委員として中心的役割
〔党内犯罪加担・遂行者3〕、1977年、宮地「党大会上訴」の無審査・無採決・30秒却下議事の張本人
〔党内犯罪加担・遂行者4〕、1985年、東大院生支部「党大会・宮本勇退決議案」粛清事件の共同正犯
〔党内犯罪加担・遂行者5〕、1990年、『日本共産党への手紙』出版粛清事件における上田の犯罪加担
〔党内犯罪加担・遂行者1〕、1971年、愛知県委員U氏専従解任事件での密告(?)・共犯者
上田耕一郎が、積極的粛清加担=密告によるU氏専従解任主張をしたのかどうかは、分からない。しかし、いずれにしても、彼は、唯一の当事者として、常任幹部会のU氏粛清方針に賛成した。「参院選政策党中央学習会」主催者として会場にいた彼が、U氏ら2人の発言内容・行為には、正規の党中央主催会議におけるものなので、なんの規律違反もなかったと主張すれば、そんな党内犯罪を阻止できたはずである。彼は、幹部会委員(当時)だった。この経過詳細は、『日本共産党との裁判』第3部で書いた。
〔党内犯罪加担・遂行者2〕、1972年、『新日和見主義分派事件』査問委員として中心的役割
彼は、このでっち上げ事件で、「3つの具体的犯罪行為」を遂行した。
(1)、ジャーナリスト高野孟と、川端治(山川暁夫)を、1972年5月、ジャパンプレス細胞総会にわざわざ出席して、総会終了と同時に、廊下の便所の横で、「査問招集状」を見せ、その場で、有楽町から代々木まで、査問への連行をした。高野HPにその6日間の監禁査問状況が書かれている。宮本・下司・上田らは、その2人を、ソ連分派、中国分派に次いで発生した、朝鮮労働党と結託し、民青グループ全体と結びついた一大反党集団=第3の外国党分派の中心人物と、予断と偏見の憶測で断定した。それに基づく2人直接連行・拉致という最重要任務を上田耕一郎は遂行した。
(2)、『沖縄闘争と新日和見主義』という長大な「分派」批判論文を執筆した。宮本・上田らは、新日和見主義の政治的・思想的偏向の画期が沖縄闘争にあった、ときめつけた。上田論文は、「赤旗」で、1972年6月28日から30日の3日間も連載された。彼は、『新日和見主義「分派」』批判の中心論文を書いた。
(3)、川上徹の監禁査問中における思想教育担当者だった。川上は、「赤旗記事」(1998.1.20)によれば、いろいろのグループのいわば結節点にいた中心人物の一人だった。上田耕一郎は、その結節点中心人物に、沖縄協定問題、沖縄闘争方針の講義をした。13日間監禁査問状態下に置いたままで、自己の中心論文に基づく“川上Private Lesson(特別個人講義)”を装って、理論・思想転向させるという最重要任務を分担した。
監禁・拷問下で運動中心人物の信仰・思想転向を強要する事例は、日本史で2つある。一つは、キリシタン弾圧下で、長崎奉行とその配下が、捕らえた、バテレンを拷問しつつ、棄教を説得し、キリシタン信仰中心人物を転ばせた手口である。二つは、治安維持法下で、思想検事が、佐野・鍋山を拷問しつつ、コミンテルン方針の誤り、天皇制打倒方針の放棄を説得し、コミンテルン日本支部最高指導者を転向させた手口だった。上田耕一郎のしたことは、その三つめにあたる反体制革命組織内の中核思想検事の役割だった。
600人査問・100人処分という日本共産党史上最大規模の党内犯罪において、下司順吉幹部会委員は、中心人物の高野孟6日間監禁査問、川上徹13日間監禁査問の直接担当者であるとともに、全体実務をこなす主任検事の役割を果たした。
それにたいして、上田耕一郎幹部会委員(当時)は、(1)朝鮮労働党分派疑惑の中心人物2人を査問に連行・拉致し、(2)中心論文を書き、かつ、(3)結節点にいた中心人物川上のPrivate Lessonを担当するという、ワンランク上の思想検事だった。
高野孟は、この連行・拉致と査問第1日目の結論として、次のようにのべている。この党にだけは権力を取らせちゃいけないと思った。スターリン粛清とか、いままでさんざん言われてたのと同じことが、日本共産党でもやっぱり起こると思った。まだいまは党内権力だから、このくらいですむけれども、これが国家権力だったら殺されてると(「川上・高野対談」、1998年「諸君5月号」)。
『新日和見主義「分派」事件』その性格と「赤旗」記事
加藤哲郎 『査問の背景』川上徹『査問』ちくま文庫版「解説」
高橋彦博 『川上徹著「査問」の合評会』
れんだいこ『新日和見主義事件解析』
Google『新日和見主義』
〔党内犯罪加担・遂行者3〕、1977年、宮地「党大会上訴」の無審査・無採決・30秒却下議事の張本人
彼が、この党内犯罪手法の積極的提案者かどうかは不明である。しかし、彼が、党大会議長として、その犯罪的議事進行を進めたことは事実である。私としては、彼が、この任務をなんの良心の呵責もなく果たしたかどうか聞きたかった。
第14回大会最終日は、1977年10月22日の6日目に、「宮地上訴処理」を議題にした。
私の「上訴」は、党大会最終日、採決なしの30秒で却下された。
1)、戎谷統制委員会責任者 『本大会において、愛知県の宮地健一同志
から警告処分規律違反について再審査を求める上訴がありました。宮地
同志は規律違反の行為自体は自ら認めており、再審査を構成するような
新たな事実や主張は提起されておらず、処分の決定の承認や構成、手
続きともに再審査を開始するにたる欠陥はありませんでした。理由なく、
却下することが適当であることを確認し、承認を求めるものです』(拍手)
2)、上田耕一郎・党大会議長 採決を取ろうともせず『異議ありませんか』
3)、973人の第14回大会代議員 『異議なーし!』
4)、上田・党大会議長 『それでは統制委員会の報告
は承認されたものと確認いたします』 満場の拍手
この間、30秒で却下され、党大会で発言させよという私の「上訴書」も完全に無視され、握りつぶされた。30秒という時間の根拠は、党大会後27日も経ってから、愛知県党組織部長(=反党分子対策委員長)による口頭報告がされ、私が正確に書いたメモに基づいている。メモの文言、議事を私が朗読して測ると約30秒になるということである。
エイゼンシュタインは、映画『戦艦ポチョムキン』で、有名な「獅子が吠える」3カット・モンタージュを挿入した。彼は、それによって、ツアーリ圧制に抗して立ち上がったポチョムキン水兵とオデッサ市民を象徴させた。ザミャーチンは、1905年、この反乱とオデッサ・ゼネストを現地で目撃し、ボリシェヴィキに加入した。私は、この3カットを挿入し、「1977年第14回大会における宮地30秒殺人事件」シーンを表した。
『宮本・上田の党内犯罪、「党大会上訴」無審査・無採決・30秒却下』
〔党内犯罪加担・遂行者4〕、1985年、東大院生支部「党大会・宮本勇退決議案」粛清事件の共同正犯
上田耕一郎は、東大院生支部問題において、党大会に向けた代議員選出の東京都党会議で40分間にもわたって「院生支部批判の演説」をした。彼は、粛清側・共同正犯宮本・上田・志位・河邑ら4人の中心人物の一人だった。それは、「勇退決議案」を掲げて、院生支部総会で正規に選出されたY氏の代議員権を「分派活動」ねつ造手口で剥奪するという上田・志位(現委員長)による老齢・「10年間の停滞」責任を問われた宮本顕治を絶対擁護する反党活動だった。
宮本顕治は、もともと、スターリン型粛清執行者の側面を持つと知られている。それにたいして、上田耕一郎は、党民主化リーダー、上耕人気の顔を持ち、党組織民主化の論文も発表していた。しかし、この粛清事件における彼の行為は、“卑劣!”の一語につきる。
〔党内犯罪加担・遂行者5〕、1990年、『日本共産党への手紙』出版粛清事件における上田の犯罪加担
この本が教育史料出版会から、1990年6月に出版され、大きな反響を呼んだ。そこでの加藤哲郎論文『科学的真理の審問官ではなく、社会的弱者の護民官に』と藤井一行論文に、宮本顕治は激怒し、大掛かりな報復をした。その編集をした有田芳生を査問し、除籍した。さらに「党本部勤務員にふさわしくない」と専従解任をした。新日本出版社社員は、有田を含め全員が共産党専従・本部勤務員扱いになっていた党員である。その教育史料出版社社長を査問し、党員権6カ月間停止処分にした。
上田耕一郎は、有田にたいして、出版前の当初はいい企画だよと激励していた。これは、企画段階にせよ、副委員長としての個人的承認を与えたことと同じだった。ところが、その後は、手のひらを返すように態度を一変させ、この出版粛清執行に、副委員長として賛成し、粛清遂行者側に転向・裏切りをした。その出版と上田耕一郎との関係、有田査問・除籍経緯については、有田HPにくわしく書いてある。
有田芳生『共産党、上田耕一郎という「私の大学」』『日本共産党への手紙』私記
有田芳生『巨星逝く−上田耕一郎の想い出』
加藤哲郎『科学的真理の審問官ではなく、社会的弱者の護民官に』
4、上田耕一郎の多重人格分析と犯罪的組織原則政党副委員長としての客観的役割
〔小目次〕
2、宮本顕治と常任幹部会員・副委員長との関係−党内犯罪での共同正犯
これについては、別ファイルで、3つの多重人格人間としての評価を書いた。
第1人格、上耕人気、党組織民主化論文を発表する理論家の顔
第2人格、幹部会委員→常任幹部会員・副委員長としての党内犯罪遂行者の顔
第3人格、上田・不破査問、「自己批判書」公表における奇怪な屈従者の顔。「ネオ・マル粛清」全経過とその中での位置づけ
2、宮本顕治と常任幹部会員・副委員長との関係−党内犯罪での共同正犯
上田耕一郎は、上耕人気、党組織民主化論文を発表する理論家として著名であり、庶民的人柄でも慕われている。そこから、宮本顕治・不破哲三を批判する左翼・元共産党員でも、上耕批判をするのはほとんどいない。しかし、彼は、宮本顕治の誤り・党内犯罪時期に、常任幹部会員・副委員長として、その誤り・党内犯罪に賛成し、共犯者としての共同責任を負っている。
その期間、上田耕一郎が宮本顕治の路線・政策・方針に反対したり、異論を唱えたという言動は、漏れ出てきていない。筆坂秀世『日本共産党』の証言においても、不破哲三による志位和夫いじめシーンはあるが、上田耕一郎が宮本顕治に異論を唱えたという証言はない。宮本顕治が犯罪的な誤りを犯してきたとすれば、上田耕一郎も常任幹部会員・副委員長として、下記第3区分における8〜12に関する共同正犯者だった。
〔第3区分、1955年六全協から1997年不破哲三による議長引退強要まで〕
8、党内民主主義抑圧の閉鎖的中央集権制システム完成・強化
9、各種除籍・除名など党内犯罪としての他粛清事件
10、丸山眞男批判大キャンペーン
11、晩節85歳、1994年第20回大会における四重の誤り
12、死語「自主独立路線」賛美合唱とその本質・前後経過の隠蔽
『宮本顕治がしたことの表裏・12のテーマ』8〜12の党内犯罪・誤りに関する共同正犯
上田耕一郎は、2006年まで、常任幹部会員・副委員長だった。よって、現在の日本共産党路線・政策・方針への全面的な共同責任者でもある。彼は、民主集中制・分派禁止規定という党内民主主義を抑圧する犯罪的組織原則を放棄すべきと主張したこともなかった。彼のトップ責任を棚上げし、上耕ファンとして、一面的な賛美追悼をすることは正しいのか。
日本共産党における現在の左翼反動路線という誤りの責任は、志位・市田・不破らだけなのか。上田耕一郎だけにはその責任がないのか。左翼反動路線政党とは、次の内容を指す。
(1)、政権交代阻止戦略=自公政権存続支援戦略政党。上田耕一郎を含め、共産党は、有権者の政権交代要求を支持したことがないし、主張したこともない。民主党批判の根底には、政権交代阻止戦略=民主党案への恐怖が透けて見える。なぜなら、上田耕一郎も、野党選挙協力拒絶戦略を推進した一人であり、その結果として、小選挙区は全滅・比例代表11ブロックでしか当選できない。もし、政権交代になり、別ファイルのように民主党案が通れば、共産党は、4議席という泡沫政党化し、自然死→共産党内部崩壊に近づくからである。
共産党4議席惨敗シミュレーション 朝日新聞記事
政権交代阻止戦略の本音=民主党案への恐怖とスローガン変遷
(2)、野党選挙協力拒絶戦略=うぬぼれた自主孤立戦略政党。自公連合と民主党・社民党・国民新党・新党日本の4野党連合という2大政党連合による国政選挙の実態を、2大政党制問題にすり替える詭弁を使い、有権者・党員を騙している。上田耕一郎も合わせ、拒絶の言い分は、わが党と国政選挙の基本政策で一致できる他政党は皆無ということである。憲法改悪阻止議席獲得を目指す平和共同候補実現運動との協議も拒否してきた。この誤った、傲慢な戦略を続けるかぎり、今後とも、300小選挙区での当選は100%不可能になる。
そこから、選挙協力他政党がないとしたので、やむなく、共産党と国民との共同という意味不明のスローガンを大宣伝している。憲法改悪阻止を唱えるが、国会における憲法改悪阻止議席獲得の具体的展望を示すことができない。憲法改悪阻止運動を推進・強化する上で、(1)共産党の野党選挙協力拒絶戦略は、または、(2)日本共産党が存続すること自体は、重大な障害物になりつつある。この深部の真相・見通しを、有権者がどこまで認識するのかに、憲法改悪阻止運動の未来がかかっている。共産党の敵対方針への認識度合が、有権者に問われている。
『「平和共同候補」実現運動、それへの共産党の敵対方針』ファイル多数
(3)、党内民主主義を抑圧する民主集中制・分派禁止規定という犯罪的組織原則堅持戦略政党。有権者向けには、民主的政策や民主主義を主張する。しかし、党内向けには、党内民主主義を抑圧する犯罪的組織原則を手放そうとしない。党外への民主的政党仮面と、党内への反民主主義体質を維持するという二面的で欺瞞的な仮面政党である。
しかも、民主集中制・分派禁止規定堅持の秘めた真意は、党中央トップの自己保身目的だけである。この犯罪的組織原則を手放さないかぎり、彼ら党中央トップは、(1)いかなる誤りをしようとも、(2)国政選挙6連続惨敗をしようとも、(3)欺瞞的な選挙総括で、党内外を馬鹿扱いしても、党内下部からの批判で、指導者交代に追い込まれることは一切ない。
ヨーロッパの共産党も、ポルトガル共産党を除いて、すべてが民主集中制・分派禁止規定は、党内民主主義を抑圧する犯罪的組織原則だったと認定し、党大会で放棄宣言をしている。
『日本・フランス・イタリア共産党と民主主義的中央集権制』ファイル多数
1921年クーデター政権崩壊危機とレーニン選択の4作戦
レーニンがしたこと=少数分派転落・政権崩壊に怯えた党内クーデター
これらは、日本共産党が、誤った左翼反動路線政党である実態を証明する。上田耕一郎は、常任幹部会員・副委員長として、宮本・不破・志位らとともに、これらの左翼反動路線を確立し、堅持してきた党中央トップの一人だった。それらの誤りについて、上耕だけを免責にし、他3人への責任転嫁をする欺瞞的な追悼でいいのか。
東北・近畿3人目落選=じり貧的瓦解第5段階への転落
『じり貧的瓦解4段階経過と第5段階への転落方針』08年7月6中総方針の表裏
『共産党じり貧的瓦解〔段階4〕赤旗新聞社経営破綻・選挙財政破綻』
01年以降7年間で、党費収入24.6%ダウン、機関紙収入24.0%ダウン
以上 健一MENUに戻る
石堂清倫『上田不破「戦後革命論争史」出版経緯』手紙3通と書評
『上田・不破査問、「自己批判書」公表における奇怪な屈従者の顔』
『新日和見主義「分派」事件』その性格と「赤旗」記事
『宮本・上田の党内犯罪、「党大会上訴」無審査・無採決・30秒却下』
有田芳生『共産党、上田耕一郎という「私の大学」』『日本共産党への手紙』私記
有田芳生『巨星逝く−上田耕一郎の想い出』
加藤哲郎『科学的真理の審問官ではなく、社会的弱者の護民官に』