宮本顕治がしたことの表裏・12のテーマ
戦後の最高権力者期間39年間、1958年〜97年
逆説の戦前・戦後日本共産党史
(宮地作成)
〔目次〕
〔第1区分、戦前1933年5月から12月検挙まで8カ月間の党中央委員活動〕
〔第2区分、50年分裂と五全協主流派への自己批判書提出復帰・武装闘争指導関与〕
〔第3区分、1955年六全協から1997年不破哲三による議長引退強要まで〕
6、第8回大会61年綱領めぐる問題 58年40%不支持大会から満場一致大会のカラクリ
7、宮本秘書団私的分派形成と上田不破査問・自己批判書公表事件
12、死語「自主独立路線」賛美合唱とその本質・前後経過の隠蔽
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wikipedia『宮本顕治』
google検索『宮本顕治』 yahoo検索『宮本顕治死去』 『宮本顕治』
赤旗『日本共産党元中央委員会議長・宮本顕治さん死去』07年7月19日
赤旗『宮本顕治さん死去にあたって−志位委員長、不破哲三前議長』7月19日
はじめに−戦前と、戦後2つの時期による3区分
2007年7月18日、宮本顕治元議長が98歳で死去した。以下は、逆説の日本共産党史としての宮本顕治批判ファイルのリンクと簡単な解説である。公式の評伝や、宮本賛美でなく、彼がしたことの表裏・歴史的事実を12テーマに分けて検証した。それは、彼による戦前・戦後党史の偽造歪曲・隠蔽を分析することになる。オーウェルが『1984年』の冒頭で描写したのと同じく、過去の党史を変造・隠蔽・支配できる者は、未来の党も支配できる。彼の党活動を3つの時期で区分した。
〔第1区分〕、1930年代の活動と大泉・小畑スパイ監禁査問・リンチ・死体遺棄事件、それによる逮捕、共産党壊滅までである。1930年代といっても、宮本顕治の党中央委員期間は、1933年5月から12月検挙までの8カ月間だけだった。〔目次1、2〕の内容である。
〔第2区分〕、50年分裂時期と、スターリン裁定「宮本らは分派」に屈服し、五全協前に自己批判書を提出し、五全協武装闘争共産党に復帰した時期になる。そこでの最大の党史偽造歪曲・隠蔽は、共産党の統一回復が1951年五全協か、1955年六全協かの歴史の謎解きとなる。〔目次3、4、5〕が該当する。ただし、顕治による宮本百合子への裏切り、百合子急死は1950年から51年1月までなので、まだ50年分裂期間だった。
〔第3区分〕、1955年六全協から1997年不破哲三による議長引退強要までの42年間をどう評価するのか。公式の最高権力者期間39年間と裏側の実態42年間の区別を検証した。さらに、六全協後における宮本顕治の(1)表側功績と、(2)個人独裁確立裏側手口の2つを解明する。これらの内容は、〔目次6〜12〕になる。
〔第1区分、戦前1933年5月から12月検挙まで8カ月間の党中央委員活動〕
〔小目次〕 1、戦前1930年代の宮本顕治と党史の偽造歪曲・隠蔽
『1930年代のコミンテルンと日本支部』志位報告の丸山批判
「反戦平和でたたかった戦前共産党」という党史偽造歪曲
『転向・非転向の新しい見方考え方』戦前党員2300人と転向・非転向問題
加藤哲郎『「日本共産党の70年」と日本人のスターリン粛清』宮本顕治への公開質問状
『逆説の戦前日本共産党史=コミンテルン日本支部史』他にファイル多数
戦前における宮本顕治の党活動をどう評価するか。彼は、1933年3月、25歳で、日本共産党中央委員候補になった。同年5月、中央委員になった。同6月、中央委員会政治局員・書記局員になった。候補→中央委員→政治局員になるにはどこが、誰が決めたのか。その時期の中央委員会は、山本正美検挙後の野呂体制である。再建中央委員会といっても、野呂・大泉・逸見の3人だった。スパイ大泉を含む3人だけの中央委員会が、新中央委員として宮本顕治と小畑を任命した。しかし、野呂11カ月間で逮捕、大泉12カ月で逮捕、逸見10カ月で逮捕された。
立花隆『日本共産党の研究』関係 野呂体制リストと宮本顕治の前後
宮本顕治は、1933年12月26日検挙された。小畑中央委員は、スパイ査問・リンチ事件で死亡したので、宮本・小畑の中央委員期間は8カ月間だった。『宮本顕治の半世紀譜』(新日本出版社、1988年、686頁のP.21)によれば、その間、7つの原稿を赤旗(せっき)他に執筆・掲載した。非合法・地下街頭連絡行動なので、25歳の8カ月間にしたことはアジトでの(1)7原稿執筆行為と、(2)大泉・小畑スパイ監禁査問・リンチ・死体遺棄行為だけであり、(3)大衆運動の直接指導を何もしていない。
その宮本顕治が、戦前の日本共産党史を、宮本秘書団私的分派の宇野三郎と組んで書き、戦後の中央委員会の正式討議も経ないで、『日本共産党の四十五年』から『七十年』までを何回も公表したら、どのような自画自賛、偽造歪曲・隠蔽党史になったのだろうか。「宮本史観党史」真偽の検証はこれからの課題になる。上記ファイルは、その検証の一部になる。
2、スパイ査問事件と袴田里見除名・逸見教授政治的殺人事件
『スパイ査問問題意見書』 『第1部2』暴行行為の存在、程度、性質の真相
高橋彦博 『逸見重雄教授と「沈黙」』逸見教授政治的殺人事件の同時発生
立花隆 『日本共産党の研究』関係『年表』一部、加藤哲郎『書評』
れんだいこ『宮本顕治論・スパイ査問事件』
共産党 『袴田自己批判・批判』「3論文」と「党史」
宮本顕治が中央委員8カ月間での党内行為として一躍有名になったのが、大泉・小畑スパイ監禁査問・リンチ・死体遺棄事件だった。ただ、小畑がスパイだったという具体的な証拠はない。大泉はスパイだった。しかし、当時、スパイ潜入疑惑が、非合法・地下共産党に蔓延していた中で、小畑は根拠のない容疑で不当に監禁査問・リンチを受けた。無実の波多然と大沢武男にたいし、党中央がスパイ容疑により37日間づつの監禁査問・リンチ拷問犯罪をしたのは、数十例のリンチ査問事件の内で公表された2例である。
スパイ査問事件の経過・実態については、上記ファイルにある。その中でも、争点になり続けてきたのは、4人の中央委員会中、大泉・小畑中央委員にたいする宮本・逸見中央委員と袴田・秋笹・木島ら5人による暴行行為の存在、程度、性質の真相である。その解明のやり方はいろいろある。私は、木島隆明を含めた5人の当事者の警察調書・検事調書・公判証言の内容を詳細な表で比較分析した。
『第1部2』暴行行為の存在、程度、性質の真相
この問題は、立花隆『日本共産党の研究』(講談社、1978年)出版で再燃した。宮本顕治は、「犬は吠えても歴史は進む」という大キャンペーンで反論した。立花隆が特高史観の犬で、宮本顕治と日本共産党側が歴史の真実という意味である。
(1)、その中で、袴田里見の警察調書・検事調書が公表され、宮本顕治の公判証言との決定的食い違いが判明した。宮本顕治は、自分の証言を100%真実とし、袴田調書内容を誤り・特高への迎合ときめつけた。それは、袴田の抵抗を生み、彼の除名にまで至った。
(2)、さらには、法政大学教授になっていた逸見重雄調書の内容も全面否定した。それは、当時の中央委員逸見にたいする政治的殺人行為になった。ただ、彼は沈黙を貫いたままで死んだ。
(3)、また、作家森村誠一が、赤旗記者下里正樹とともに、戦前共産党史の連載を赤旗で始めた。ところが、執筆がスパイ査問事件にかかると、宮本顕治はストップをかけた。その結果、下里正樹はその措置に抗議し、記者解任・除名になり、森村誠一は彼を擁護し、宮本顕治と決裂した。これらは、スパイ査問事件の戦後第2段階であるが、宮本顕治は生前、それらを完全抹殺・否定し、自己の公判証言内容のみが真実とする歴史の偽造歪曲・隠蔽をし抜いた。
私の立場は次の2点である。第一、宮本顕治が、戦前の公判において、暴行行為の存在、程度、性質にたいし、全面否認=ウソをついたのは、治安維持法裁判という条件下で正当だった。第二、しかし、戦後第2段階において、そのウソを真実と強弁し、袴田里見ら他4人の調書・公判証言内容を事実に反する誤り、特高への迎合とすり替えたのは根本的な誤りである。他4人調書内容の通りだったと認めていた方が、事件の真相を自ら証言することになり、彼への信頼は高まった。彼は無謬人間であり続けることに執着した最高権力者だった。
〔第2区分、50年分裂と五全協主流派への自己批判書提出復帰・武装闘争指導関与〕
〔小目次〕 3、五全協武装闘争共産党と宮本顕治の自己批判復帰・関与
3、五全協武装闘争共産党と宮本顕治の自己批判復帰・関与
『「武装闘争責任論」の盲点』朝鮮侵略戦争に「参戦」した統一回復日本共産党
『嘘つき顕治の真っ青な真実』五全協共産党で中央レベルの活動をした証拠
『宮本顕治の「五全協」前、スターリンへの“屈服”』武装闘争実践データ追加
『武装闘争関連ファイル』他に多数
このテーマに関する宮本顕治の党史偽造歪曲・隠蔽は3点である。
第一、宮本顕治ら国際派中央委員7人全員と国際派党員のほぼ全員が、主流派の五全協武装闘争共産党に自己批判書を提出し、復帰した。しかし、彼は、自己批判書を志田重男に出したことを隠し通した。その事実は、亀山幸三・吉田四郎らの証言により、ほぼ証明されている。
それだけでなく、宮本顕治は、五全協共産党に自己批判・復帰後、武装闘争共産党の中央レベルの活動に関与し、途中から、武装闘争共産党の中央役員にも復帰した。彼は、それを否定してきたが、はからずも、彼自身が六全協に提出した『経過の概要』内容と、『宮本顕治の半世紀譜』内容とが、彼自身のウソを暴く証明になった。
第二、宮本顕治の行為は、スターリン裁定「宮本らは分派」にたいする無条件・即時屈服である。スターリン・毛沢東らの指令は、ソ中両党に隷従していた共産党、とくにスターリン崇拝者宮本顕治にとって決定的な作用をもたらした。スターリンに屈服し、国際派全員が復帰したことは何を意味するのか。それは、50年分裂・大分派闘争がそこで終結し、隷従下日本共産党はソ中両党の外圧・命令によって、五全協前に統一回復をしたという歴史的真実である。
それなら、六全協とは何か。六全協の準備は、不破哲三も証言・自白したように、モスクワで準備された。ソ中両党は、武装闘争でほとんど壊滅した日本共産党を、スターリン死後の冷戦再開情勢において、早急に再建する必要に迫られた。日本は、朝鮮戦争の後方兵站補給基地だったが、休戦協定後は、ソ中朝3党・国家の喉元に突きつけられたアメリカ帝国主義の浮沈空母として一段とその脅威が高まったからである。その日本本土において、アメリカとたたかえる勢力は、隷従下日本共産党しかいなかった。
主流派幹部がモスクワに呼びつけられ、六全協草案・人事体制を決めた。よって、「六全協で日本共産党は統一回復をした」というのは、宮本顕治特有の歴史偽造歪曲である。ただし、現在も、共産党員だけでなく、ほとんどの左翼が、彼のウソを信じている。
第三、1952年度を中心とした火炎瓶武装闘争の性質である。白鳥警部射殺事件・メーデー事件・吹田事件・大須事件は、五全協武装闘争共産党の党中央軍事委員会が出した武装闘争指令で発生した。それらは朝鮮戦争2周年目の事件である。この性質は、朝鮮侵略戦争の後方兵站補給基地日本において、ソ中両党と金日成の指令に基づく隷従下日本共産党による武力撹乱作戦行動=朝鮮侵略戦争への「参戦」行動だった。スターリン死去直後の朝鮮戦争休戦協定で、日本共産党が武装闘争をぴたりと止めた事実・データこそがその証明になっている。朝鮮戦争と日本共産党との関連、その武装闘争との連結について、歴史家はなぜ分析しないのか。
4、謎とき・大須事件と裁判の表裏=宮本顕治の敵前逃亡犯罪
第4部『騒擾罪成立の原因(1)=法廷内闘争の評価』 『第4部・資料編』
第5部『騒擾罪成立の原因(2)=法廷内外体制の欠陥』 『第5部・資料編』
被告人永田末男『大須事件にたいする最終意見陳述八・九』宮本顕治批判
これは、4大武装闘争事件の最後の一つである。3大騒擾事件で唯一有罪・実刑5人になった。これを指令したのは、軍事委員長志田重男と党中央軍事委員岩林虎之助である。宮本顕治は、1955年六全協から実質的に、1958年第7回大会から書記長として正規に党内権力を全面掌握した。当時、日本共産党と宮本顕治らは、ソ中両党に隷従していた。不破哲三が証言・自白したように、ソ中両党は、50年問題=武装闘争の総括とそのデータ公表を禁止する指令を出した。
宮本顕治とソ連NKVDスパイ野坂参三は、その指令に隷従し、3大騒擾事件公判においても、火炎瓶武装闘争の実態を全面否認・沈黙せよと指令した。それだけでなく、彼は、五全協武装闘争共産党に復帰し、そこでの武装闘争指導に関与していた事実を隠蔽し、現共産党と宮本顕治は、それに一切関係がないと公言し始めた。彼の言動は、公判中の被告人らを見殺しにし、党史の偽造歪曲によって、警察・検察・裁判所からの敵前逃亡犯罪をしたものである。宮本顕治は、彼の裏切り犯行を公判などで批判した被告人永田末男・酒井博ら2人を報復除名にした。
白鳥事件を含む4大武装闘争事件の経過は、ほぼ正確に判明してきている。しかし、騒擾罪公判と法廷内外体制における共産党・宮本顕治指令の誤りが解明・公表されたのは、大須事件だけであろう。とりわけ、宮本顕治の敵前逃亡犯罪の経緯と態様は、彼が武装闘争共産党に自己批判・復帰し、中央レベル役員にも復帰していた事実から見れば、これほどの反国民的反党的な裏切り犯罪はないと言えよう。
5、宮本百合子と顕治との関係破綻とその隠蔽
志保田行『不実の文学−宮本顕治氏の文学について』顕治の百合子への裏切り
『プロレタリア・ヒューマニズムとは何か』顕治の裏切り・不倫問題の続編
『シベリア抑留めぐる日本共産党問題』「抑留記」への百合子と顕治の言動の違い
志保田行は、国鉄労働組合専従であり、松川事件の支援運動に加わっていた。その関係から、1950〜60年代の共産党中央幹部とも交流を持っていた。彼の調査・インタビューによる宮本百合子と顕治、百合子秘書である大森寿恵子との関係証言は詳細である。50年分裂中、宮本顕治は、百合子を裏切って、百合子秘書との不倫関係になった。当時の党中央幹部は、ほとんどがその事実を知っていたが、全員が沈黙し、隠蔽に加担した。1951年1月の百合子急死後、2人が結婚したこともあって、宮本顕治の裏切り・不倫行為は隠蔽され、口封じされた。
ただ、五全協途中から、宮本顕治は、志田重男ら主流派にたいするソ中両党の秘密人事指令によって、武装闘争共産党の指導部に復帰することができた。六全協人事は、多数の証言があるように、志田重男と宮本顕治との個人的手打ち・野合による。六全協トップは、(1)フルシチョフ命令による野坂参三第一書記・ソ連NKVDスパイ、(2)軍事委員長志田重男、(3)常任幹部会責任者に復帰できた宮本顕治と、(4)武装闘争共産党の合法面委員長椎野悦郎だった。
ところが、宮本顕治は、六全協後まもなく、次の手口で党内権力の全実権を奪った。(1)野坂参三を愛される共産党アイドル・演説専任者に祭り上げ、実権のない第一書記→委員長に棚上げした。(2)志田重男を「料亭お竹さん」問題での女性問題・党地下軍事資金1000万円注ぎ込み・流用犯罪を雑誌で暴露させ、除名にした。(4)椎野悦郎の女性問題を暴露・追及し、除名した。(1)(2)は女性・不倫問題の公表による除名である。宮本顕治は、5年前だったにしても、宮本百合子への裏切り・不倫問題を口封じし抜いて、志田・椎野の不倫問題だけを査問・公表し、党から追放した。彼自身の裏切り・不倫の隠蔽・口封じ措置と、他トップ2人の不倫への査問・公表による追放措置の違いにおける宮本顕治の人間性をどう考えたらいいのか。
また、大森寿恵子の兄・高杉一郎が出版したシベリア抑留記『極光のかげに』にたいする百合子と顕治の対応の格差から何を読み取るのか。シベリア抑留への受け止めの違いとともに、50年分裂時期の1950年末における宮本顕治のスターリン崇拝度は、まさに異様である。彼の言動には、日本国民60万抑留者と死者6万人にたいする思いやり、同情のひとかけらも見られない。彼は、フルシチョフによるスターリン批判後も、その異常思考を秘密保持したままで、引退までを生きたのではなかろうか。
〔第3区分、1955年六全協から1997年不破哲三による議長引退強要まで〕
〔小目次〕 6、第8回大会61年綱領めぐる問題 58年40%不支持大会から満場一致大会のカラクリ
7、宮本秘書団私的分派形成と上田不破査問・自己批判書公表事件
12、死語「自主独立路線」賛美合唱とその性質・前後経過の隠蔽
6、第8回大会61年綱領めぐる問題 58年40%不支持大会から満場一致大会のカラクリ
小山弘健は、被除名者であるだけに、党本部内部事情・経緯に精通し、戦後日本共産党史研究の第一人者となった。六全協から3年後、1958年までに、宮本顕治は、党内個人権力をさまざまな表裏手口を駆使し、一段と強化した。1958年第7回大会に向けた人事工作で、彼が書記長になることが決まった。党内トップの地位をバックにし、宮本路線を明らかにした規約案を含む党章草案と、1958年第7回大会提出した。ところが、(1)書記長地位と(2)規約案は通ったが、(3)党章草案中の綱領部分は党大会代議員40%の不支持者が出て、採決できなかった。構造改革路線や他理論を支持する代議員との対立だった。
1961年第8回大会は、再提出された党章草案=61年綱領案を満場一致で採決した。3年前の不支持代議員40%はどうなったのか。そこの表裏問題において、表側の宮本顕治と裏側の袴田里見の連携排除行為は見事とも言えよう。袴田里見は宮本顕治の指令を受けつつ、異論・批判代議員を一人残らず、(1)党内排除・任務変更、(2)分派活動などの規律違反でっち上げによる除名、(3)脅迫と懐柔による宮本派への転向強要で大活躍した。これは、宮本・袴田らによる第1次党内クーデターだったと規定できる。
袴田里見は、かくして六全協後共産党の「初代代々木のベリヤ」になった。袴田里見の除名後は、宮本秘書小林栄三が、常任幹部会員に二段階特進させられ、「二代目代々木のベリヤ」として、党内粛清の先頭に立った。彼の死後、「三代目代々木のベリヤ」は、副委員長に昇格し、筆坂秀世粛清を初めとする党内粛清を手がけている浜野忠夫である。民主集中制という名前による党内民主主義抑圧の閉鎖的中央集権制は、批判・異論者を党内外排除する粛清仕事人を次々と生産する。
7、宮本秘書団私的分派形成と上田不破査問・自己批判書公表事件
『不破哲三の宮本顕治批判』〔秘密報告〕日本共産党の逆旋回と4連続粛清事件
『不破哲三の第2回・宮本顕治批判』〔秘密報告〕宮本秘書団を中核とする私的分派
石堂清倫『上田不破「戦後革命論争史」出版経緯』手紙3通と書評
宮本顕治は50年分裂での孤立・不人気で自分の側近がいなかった。第7回大会での不支持40%代議員などの体験から、子飼いの秘書団を次々と大抜擢し、宮本秘書団私的分派を形成するしか、党内権力を独占できないと悟った。日本共産党史上、これほどの規模で最高権力者私的分派を形成したのは、宮本顕治だけであろう。
1970年代後半になると、東欧・ソ連10カ国の経済停滞・自由抑圧など「現存する社会主義」の破綻が表面化し、その悲惨な情報が資本主義ヨーロッパになだれ込んだ。亡命者も激増した。その情報浸透につれて、ヨーロッパの資本主義国共産党から有権者が大量離脱し始めた。選挙での連敗が続いた。東欧・ソ連の誤りを繰り返さないための展望として、かつ、資本主義国共産党として生き残りを賭けて、ユーロコミュニズムがすべてのヨーロッパ共産党で勃興した。
東方の島国日本にもその新しい波が押し寄せた。学者党員、出版社党員を先頭とし、その紹介・研究・出版活動が、抑圧されていたスターリン批判研究を含めて活発になった。日本共産党中央委員会も、イタリア・フランス・スペイン共産党と相互交流を深めた。それは、ユーロ・ジャポネコミュニズムとまで言われるレベルに進化した。しかし、スターリン信奉者宮本顕治は、その内外動向に危険な匂いを嗅ぎ取った。それを放任すれば、Democratic Centralismの放棄、共産党の解体に進むと認識した。しかも、彼の硬直したスターリン型の理論的権威が急速に低落し始めた。そこで、彼と宮本秘書団私的分派が企み、決行したのが、ユーロコミュニズムとの決裂=日本共産党の逆旋回の荒業だった。
その逆旋回は、必然的内容として、4連続粛清事件を伴った。
第1、ユーロコミュニズム、スターリン問題の研究・出版活動粛清事件、これは、通称としての「ネオ・マル(ネオ・マルクス主義者)粛清事件」である。「田口・不破論争」1978年〜「高橋彦博除籍」1994年を含む。上田不破査問と自己批判書公表事件1982年は、逆旋回の裏側としての4連続粛清事件の一環である。
第2、民主主義文学同盟『4月号問題』事件1983年。
第3、平和委員会・原水協一大粛清事件1984年、古在由重も除籍による粛清。
第4、東大院生支部の党大会・宮本勇退決議案提出への粛清事件1985年。ここには、当時党中央青年学生対策委員だった志位委員長の「汚れた手」出自がある。
これらは、彼と最高権力者私的分派による第2次党内クーデターとなった。それは、日本共産党を、Democratic Centralism放棄に至るはずだったユーロ・ジャポネコミュニズムから、スターリン型の犯罪的組織原則政党に逆転換させた。
8、党内民主主義抑圧の閉鎖的中央集権制システム完成・強化
『ゆううつなる党派』民主主義的中央集権制の4システム
日本共産党における彼の公式の最高権力者期間は、1958年第7回大会書記長から、1997年不破哲三委員長による議長引退強要までの39年間だった。宮本死去に当たって、すべてのマスコミ報道が書いたように、たしかに、火炎瓶武装闘争でほぼ壊滅した共産党を建て直し、最高で40万党員・355万赤旗読者にし、赤旗新聞社の黒字経営を確立した上で彼の表側功績は大きい。しかし、その計画的党勢拡大路線は、数字追及に偏っていった。赤旗拡大運動だけへの一面化は。党活動をいびつに変質させた。マスコミは、その量的拡大成果とそれに伴う党体質の質的劣悪化という表裏の功罪二面性を見落としている。その裏側を検証すると何が見えてくるか。
50年分裂で排除され、孤立した宮本顕治は、ひたすら党内権力の独占を欲した。宮本顕治がその目的で使った党内手口は2つある。第一、彼は少数派だった苦い体験から、宮本秘書を次々と抜擢・昇進させ、宮本秘書団私的分派を形成した。これほど強力な最高権力者私的分派を作り、個人独裁体制を築いたのは彼しかいない。第二、六全協以降、彼とその路線への異論・批判幹部にたいし、規律違反をでっち上げ、査問をし、除名・専従解任などで党内外排除を強行した。その査問形態は、一室に閉じ込めて、家に帰さないで、分派活動の自白を強要する監禁査問だった。
戦前や六全協前まで、それはリンチ・暴行を伴った。彼が党内行為として一躍有名になったのが、大泉・小畑スパイ監禁査問・リンチ・死体遺棄事件だった。六全協前、東大細胞による不破哲三ら3人へのスパイ監禁査問・リンチ事件が発生した。宮本顕治は国際派指導者として、安東仁兵衛から不破らへのリンチ査問を知らされても、中止の措置を指令しないで、3カ月間の監禁査問を黙認した。
彼が愛用した第二手口は、彼にたいする異論・批判幹部や専従を分派規律違反だと決めつけ、分派の自白を強要する拷問システムである。ソルジェニーツィンは、レーニンのチェーカー、スターリンのNKVDがソ連共産党員に行った32種類の拷問を分析した。資本主義国で、監禁査問という党内拷問犯罪を多用した共産党は日本共産党だけであろう。
高橋彦博『論争無用の「科学的社会主義」』高橋除籍問題
有田芳生『共産党』査問→除籍、上田耕一郎の関与
いわなやすのり『チャウシェスク問題での宮本顕治批判』元赤旗特派員の告発→除籍
(日本共産党との裁判)
第3部『宮本書記長の党内犯罪・中間機関民主化運動鎮圧、粛清』
第4部『「第三の男」への報復』警告処分・専従解任・点在党員組織隔離
第5部『宮本・上田の党内犯罪、「党大会上訴」無審査・無採決・30秒却下』
第6部『宮本・不破の反憲法犯罪、裁判請求権行使を理由とする除名』
(新日和見主義事件、600人査問・100人処分の冤罪・粛清事件)
『新日和見主義「分派」事件』その性格と「赤旗」記事
川上徹 「同時代社通信」著書『査問』全文掲載
加藤哲郎 『査問の背景』川上徹『査問』ちくま文庫版「解説」
高橋彦博 『川上徹著「査問」の合評会』
れんだいこ『新日和見主義事件解析』
宮本顕治は、党内で批判の自由が保障されていると何度も公言してきた。しかし、その裏側の実態は、彼や党中央にたいする批判・異論者を除籍・除名で党外排除する党内犯罪の遂行である。これほどの二枚舌を駆使した最高権力者は宮本顕治が筆頭である。高橋彦博・有田芳生・いわなやすのりらにたいする除籍は、二枚舌の裏側部分である。ただし、公表をしないで、泣き寝入りをした幹部・専従は数百人にのぼる。
その中で、私のように、(1)党中央批判にたいする報復の専従解任にたいし、党内で「意見書」「質問書」25通を出し続け、1年8カ月間たたかった中間機関専従はいないと思われる。また、(2)1977年第14回大会に専従解任不当の「上訴書」を出したのも、第8回大会以降で、私一人だけだった。そこでの上田耕一郎党大会議長は、宮本顕治の指令に基づき、それを無審査・無討論・30秒で却下した。(3)私は怒り心頭に発し、名古屋地裁に解任不当の民事訴訟を起こした。
(4)宮本顕治は愛知県に命令し、瞬時に私を除名した。その除名理由は「党を裁判所に訴えたのは、党内問題を党外に持ち出した党破壊犯罪である」としていた。憲法の裁判請求権行使を理由とする除名は、世界でも、日本でも皆無であり、日本共産党は、まさに反憲法犯罪政党であることを剥き出しにした。(5)愛知県常任委員2人・共産党員弁護士2人は、本人訴訟で弁護士のいない私一人と裁判長とに向かって、「国際共産主義運動史上、共産党員が党中央を裁判に訴えたケースは、前代未聞で一つもない。よって、直ちに門前払い却下をせよ」と理由にもならない口実を挙げ、声を揃えて何度も怒鳴った。監禁査問以降の詳細な経過と裁判判決は、上記ファイルで分析した。
新日和見主義分派事件は、600人査問・100人処分という日本共産党史上最大の冤罪粛清犯罪である。この全体像は、日本共産党が瓦解したとき、88億円代々木新築ビル内の秘密資料室から、「レーニン秘密資料」6000点と同じように発掘・公表されるであろう。
宮本顕治 『94新春インタビュー、11中総冒頭発言の丸山批判』
志位・不破『1994年第20回大会の丸山批判』
共産党 『日本共産党の七十年』丸山批判・党史公式評価
丸山眞男 『戦争責任論の盲点』(抜粋)
石田雄 『「戦争責任論の盲点」の一背景』
『共産党は丸山眞男の何を、なぜ批判するのか』ファイル他に多数
1994年第20回大会前後、宮本顕治85歳と最高権力者私的分派の「ごますり、茶坊主」たちは、代々木権力を私的独占し、満月の歌を謳歌していた。彼の戦前活動の栄光に疑いを抱き、批判する者は、うぬぼれきった彼にとって学問的・社会的排除と抹殺キャンペーンの対象になった。立花隆を「特高史観の犬」扱いし、反撃の大キャンペーンをしたのもその典型である。丸山眞男の短文は、戦前において、天皇制の対極にいた共産党が戦争突入を阻止できなかった結果責任について検討し、その総括を公表する必要があるという内容だった。
その執筆の背景には、1952年メーデー事件において、人民広場突入の軍事方針を指令し、多数の負傷者や死者を出した共産党が、指令の存在を隠蔽し、総括も結果責任も明らかにしない対応にたいする批判があった。政治は結果責任であるというのが、政治学者としての彼の理念だった。
その短文にたいし、宮本顕治は、自分と秘書団私的分派の宇野三郎が製作した戦前党史における偽造歪曲・隠蔽が暴かれる契機になるとの恐怖と怒りに打ち震えた。そこから、狂気のような丸山眞男批判キャンペーンを大展開した。マスコミも呆れ果て、共産党は頭がおかしくなったかと揶揄した。この手口に怒って、政治学者党員のほとんどか離党した。絶対的権力は絶対的に腐敗するというテーゼを象徴するような事件だった。
11、晩節85歳、1994年第20回大会における四重の誤り
日本共産党綱領一部改定案の提案説明(1994年5月18日)
日本共産党綱領の一部改定についての報告(1994年7月23日)
1994年の第20回大会は、4つの内容を柱とするイデオロギー大会だった。その4つともがすべて誤りであった。
〔第一の誤り〕、綱領部分改定で、従来の社会主義国という規定を、(1)社会主義をめざす国ぐにと(2)社会主義をめざす道にふみだした国ぐにと2つに腑分けし、社会主義国家の基本性格をすり替えた。
これは、1989年から91年東欧・ソ連10カ国社会主義と前衛党のいっせい崩壊を原因として、日本共産党がドミノ的に内部崩壊する危険を避けるための欺瞞・策略だった。社会主義国とは、抽象的な概念ではなく、14の現存した(する)社会主義国を指し示す歴史的現実的用語である。この舌を噛みそうな日本語への変更については、党外からも馬鹿にされたが、今や党費納入28万党員でこのすり替えた分類用語を使う者は一人もいない。また、国際的に見ても、このような作為的にあいまい化した規定を綱領に取り入れた共産党は、どこにもなかった。宮本顕治85歳は、この腑分けを指令し、綱領の根幹部分を改変した。
『コミンテルン型共産主義運動の現状』東欧・ソ連崩壊とヨーロッパでの終焉
日本共産党と彼自身の生き残りを謀る目的のため、彼は、(1)意味不明な日本語にすり替える欺瞞手段を使った。それだけでなく、(2)1989年東欧革命にたいし、「あれは革命ではない、資本主義への逆行だ」と全面否定した。(3)ソ連崩壊にたいし、「ソ連は社会主義でなかった。ソ連崩壊をもろ手を挙げて歓迎する」と唱え、その変わり身=自己保身の速さで党内外を唖然とさせた。(4)東欧・ソ連10カ国いっせい崩壊で動揺する党員には、「腰を抜かす党員がいる」と叱咤した。(5)その一方で「安心立命の境地に立て」と宗教用語まで持ち出し、大量離党の食い止めを図った。
〔第二の誤り〕、また、「冷戦は崩壊していない」と大キャンペーンを行った。
それには「共産党は頭がおかしくなったか」と党内外から罵倒され、まったく不評だった。冷戦は、抽象的な用語ではなく、第二次大戦末・終了後以来の「米ソ冷戦」という歴史的具体的概念であり、冷戦構造の一方であるソ連が崩壊した以上、米ソ冷戦も消滅したのである。この冷戦崩壊否定論を論証しようと、アメリカ帝国主義の威圧、膨張を力説した。しかし、アメリカ単独覇権には別の日本語を使うべきで、ソ連崩壊3年後の1994年時点で冷戦は崩壊していないなどという情勢認識はナンセンスだった。
宮本顕治85歳と「ごますり、茶坊主」たちがひとり相撲のキャンペーンを張っただけで、当時の36万党員も誰一人として、心の中ではそれに賛同しなかった。学者党員への大会決議案説明会では、全員から強い反対意見が出され、党中央の説明を納得させられないままで会議を終えたほどである。
〔第三の誤り〕、もう一つ、丸山真男批判大キャンペーンも展開した。
「前衛」「赤旗」「党大会決定」「改定綱領」「日本共産党の七十年」等で13回も丸山批判を行ったが、これも誤りだった。社会主義10カ国崩壊によって、1930年代のコミンテルンの対日本支部方針や日本支部自体の活動にかなり根本的な誤りがあることが明らかになってきた。それへの一定の総括とその公表を求めた丸山眞男の当時の論旨にたいして、宮本顕治はスターリン全盛時代の1930年代における自己の栄光を擁護するために、過剰なまでの拒絶反応を示した。これがあのキャンペーンの本質である。
しかも、丸山眞男の(1)戦争責任論批判だけでなく、(2)彼のプロレタリア文学運動論批判、(3)天皇制認識批判まで広がり、(4)ほとんど丸山真男政治学業績の全否定にまでつき進んだ。宮本顕治85歳の狂気・精神異常反応にたいし、党内外の学者、マスコミは強烈な批判、揶揄を発表した。
志位和夫は、宮本顕治が創作した85歳居座り目的の欺瞞語「老壮青の重層的指導部構造」による青年代表40歳として、党大会政治報告デビューをした。彼は、戦前の共産党活動にたいし「真理」だったと11回も強調し、丸山眞男批判において、ありとあらゆる詭弁を駆使し、宮本顕治85歳を弁護・擁護した。その内容は、志位和夫の「汚れた手」出自の延長線上にある。
志位・不破『1994年第20回大会の丸山批判』
『志位報告と丸山批判詭弁術』「汚れた手」出自とその延長線
〔第四の誤り〕、党規約改定で、(旧)規約前文(三)に「誹謗、中傷に類するものは党内討議に無縁である」とする文言を入れた。
それは、党内民主主義の抑圧を一段と強化する否定的役割を果たした。党大会準備の過程で、宮本議長85歳高齢による引退要求、意見が党内外から多数出された。マスコミでもほとんどが引退勧告を打ち出した。党内で大会決議案への正規の文書意見が367通提出された。そのうち327通を「赤旗評論特集版」で6回にわたり掲載したが、不掲載40通・11%のほとんどが宮本退陣意見書だった。宮本顕治85歳はその意見内容を誹謗、中傷と断定し、不掲載を強烈に主張した。この経緯は、代々木党本部からの極秘情報で確認されている。
高橋彦博法政大学教授著書『左翼知識人の理論責任』にたいし査問をし、党大会前なのに、この「誹謗、中傷との断定」を事前適用し、彼を除籍=実質的な除名処分にした。それ以後、党内では、党中央批判意見にたいして誹謗、中傷レッテル貼りが乱発されるようになった。党中央批判の抑圧にとって、これほど簡便な規約用語はない。
高橋彦博『論争無用の「科学的社会主義」』高橋除籍、誹謗・中傷レッテル
第20回大会直前まで、85歳の宮本顕治が健在で、これらすべてを議長=綱領・規約・キャンペーン・粛清に関する決定権独占者として強力に主張、指令した。これら四重のイデオロギー的誤りは、最高権力者高齢化による老害・知的後退に原因の一つがある。彼は、党大会7月直前の1994年・85歳と1997年・88歳に2度、脳梗塞で倒れた。その事実は、不破哲三が朝日新聞・中日新聞インタビューで、別々に2度答えている。また、筆坂秀世への反論でも書いている。筆坂秀世が『日本共産党』において証言したように、不破哲三は、引退決定後の常任幹部会会議において、「宮本さんには知的後退が見られる」と語っていた。ただ、これら精神異常的な四重の誤りが、宮本顕治の知的後退から直接に惹き起されたのかどうかは分からない。
『宮本顕治引退経過の真相−筆坂証言と不破反論』党大会7月直前に脳梗塞
しかし、それだけではない。第20回大会の基本評価を逆転させるにあたっては、宮本顕治とともに満月の歌を謳歌し、代々木権力を私的独占した「ごますり、茶坊主」たちによる宮本秘書団私的分派の党内犯罪事実が問題となる。赤旗外信部副部長だった萩原遼も、著書において「ごますり」と言えば、党本部の誰でもそれらの名前が思い浮ぶと書いている。その解明には、今後ともそれらを暴露・摘発する代々木幹部がどれだけ現れるかにかかっている。それとも、上田耕一郎のように、他幹部も沈黙・隠蔽のままで引退するのか。
高橋彦博『上田耕一郎・不破哲三両氏の発言を求める』上田の沈黙・隠蔽
『上田耕一郎副委員長の多重人格性』『日本共産党との裁判・第5部2』
東欧・ソ連10カ国とその前衛党いっせい崩壊は、スターリン主義者宮本顕治の精神・頭脳に強烈なダメージを与え、そのトラウマ(精神的後遺障害)が、その3年後と6年後に脳梗塞として発症したのか。それとも、党内権力に執着し、引退時期を見誤り、85歳という高齢での単なる知的後退による最高権力者の末期的現象が四重の誤りとして発症したのか。
1997年第21回大会前に、不破哲三によって引退を強要されたので、丸山眞男批判キャンペーンを含む精神異常的な四重の誤りが彼の最後の仕事になった。
12、死語「自主独立路線」賛美合唱とその本質・前後経過の隠蔽
不破哲三『日本共産党中央委員会の弔辞』自主独立路線賛美
志位和夫『葬儀委員長のあいさつ』自主独立路線賛美
Wikipedia日本共産党『自主独立路線』経過と内容
yahoo『宮本顕治共産党葬』
宮本顕治が死去し、2007年8月6日党葬があった。志位・市田・不破らは、宮本顕治の主要な功績として、自主独立路線の賛美大合唱をしている。党葬でも、また全党もが、宮本批判に口をつぐみ、その賞賛に終始している。マスコミ報道も必ず触れている。まず、自主独立路線は正しい行動だった。そこでの彼の役割は一定評価できる。
その上で、自主独立路線とは何だったのかを、21世紀の現在、再検証するとどのような評価になるのか。
第一、「自主独立路線」はすでに死語である。それは、国際共産主義運動が存続する期間中だけ生きている日本語だった。ところが、1989年〜91年東欧・ソ連10カ国と前衛党がいっせい崩壊し、それと同時に、国際共産主義運動も壊滅した。以後、一度も国際会議は開かれていない。よって、自主独立路線そのものも消滅し、死語となった。国際共産主義運動の栄華と消滅に沈黙したままで、切り離し、その内部での期間限定的有効性を持った自主独立路線だけを賛美大合唱するのは、志位・市田・不破らによる国民騙しの宮本神格化ペテンである。
第二、志位・市田・不破らは、中国共産党・ベトナム共産党・キューバ共産党を個別訪問し、朝鮮労働党の日本支部である朝鮮総連との個別交流再開をした。しかし、その一党独裁という政治的犯罪システムに執着するレーニン型前衛党4つによる国際会議はない。日本共産党は、宮本顕治を含め、他党派結成を禁止・抑圧する一党独裁システムを政治犯罪として批判したことが一度としてない。よって、宮本顕治の自主独立路線は、一党独裁犯罪を事実上容認する枠内にある。それが、自主独立路線の決定的限界・ごまかしである。相手党の一党独裁犯罪を容認し、それに干渉しないから、日本共産党にも干渉・分裂策動をしかけるなという犯罪的組織原則政党同士の政治的取引き路線が、自主独立路線の本質である。
第三、日本共産党創立以来、レーニンのコミンテルン21カ条にある鉄の規律という上意下達の犯罪的組織原則によって、コミンテルン日本支部は、一貫してソ連共産党隷従政党だった。中国革命後は、1964年頃まで、ソ中両党への隷従実態を続けた。日本共産党は、(1)中ソ論争でソ連側隷従→(2)次に部分核停条約問題で、ソ連隷従をやめ、中国側隷従路線に転換した。(3)文化大革命における毛沢東の日本共産党攻撃・分裂策動犯罪を体験し、中国隷従をやめた。1968年前後からの自主独立路線とは、日本共産党にたいするソ中両党の不法な内政干渉、ソ中両党支持分派を作っての分裂策動犯罪とたたかって、ソ中両党への約46年間にわたる歴史的隷従をやめた路線選択のことである。よって、その路線は、ソ中両党の社会主義犯罪にたいし、隷従路線から離脱したという当然の、遅すぎた行為だったという本質になる。
Wikipedia日本共産党『自主独立路線』経過と内容
第四、しかも、志位・市田・不破らによる自主独立路線の賛美大合唱は、日本共産党史記述に関する根本的な矛盾を露呈する。党創立1922年以来の約46年間は、ソ中両党指令と鉄の規律・Democratic Centralism命令に無条件服従・執行させられる関係にあった事実を自白することになる。東方の島国における日本共産党の活動は、46年間にもわたって自主的でなく、独立してもいず、ソ中両党への隷従路線だったと自ら証言することになる。1968年以降の党史を自主独立路線として記述するのはよい。それなら、それ以前の日本共産党史を隷従路線史として、全面的に書き換える必要が発生する。
国際共産主義運動史とは、反民主的な社会主義犯罪の関係史だったという立場から、それに盲従した日本共産党を位置づけ、180度逆転した隷従史記述にならざるをえない。(1)宮本顕治と秘書団私的分派宇野三郎による『日本共産党の四十五年』から『日本共産党の七十年』まで、(2)宮本顕引退強要後の不破哲三による『日本共産党の八十年』が記述した46年間の党史内容は、隷従路線に関し、まったくの偽造歪曲・隠蔽党史だったことを自己宣言したことになる。自主独立路線を賞賛すればするほど、その自己矛盾は増殖し、日本共産党史の信憑性を失墜させる。党史という志位・市田・不破らの居座り・続投証明書の信憑性が破綻すれば、日本共産党はじり貧的瓦解の道に一気に踏み込む。志位・市田・不破らは、その自己矛盾に気付かないほど、頭が悪いのか。
第五、たしかに、隣接する3つの社会主義国家とソ連共産党・中国共産党・朝鮮労働党という3つものレーニン型前衛党から、分派・分裂攻撃犯罪を受けたのは、資本主義ヨーロッパ共産党になく、日本共産党だけだった。そもそも、その社会主義犯罪は、レーニン型前衛党が秘める犯罪的本質をむき出しにしたものだった。それこそ、その時点で、14カ国のレーニン型前衛党とは、犯罪的政党であり、共産党という犯罪的組織原則政党を廃止・大転換すべきだったと言えよう。しかし、宮本顕治らが批判したのは、社会主義そのもの否定、共産党否定でなく、上っ面の「大国主義・覇権主義」批判にとどまった。これも、自主独立路線の本質的な限界だった。
第六、日本共産党は、自主独立路線の前後経過に関し、一部を公表しただけで、ほとんどを隠蔽している。隠蔽項目・内容は、上記リンク内で詳細に検証した。
(1)、戦前について、32年テーゼや社会ファシズム論の理論的誤りだけは、1994年に初めて認めた。しかし、それに隷従した誤りにより、戦争反対の国民運動・他党派組織を攻撃・分裂させる行動に狂奔し、戦争突入を許したという結果責任については沈黙した。それどころか、その結果責任の総括・公表を求めた丸山眞男短文にたいし、狂気・精神異常のキャンペーンで応えた。
(2)、戦後の武装闘争問題についても、ソ中両党による「武装闘争の総括も公表も禁止する」という命令に隷従し、自主独立路線後も完全隠蔽してきた。上記で検証した宮本顕治の敵前逃亡犯罪は、大須騒擾事件を有罪にさせた重要な要因となった。
(3)、ソ中両党隷従の末期、ソ中両国の核実験にたいし、上田耕一郎を先頭とし、「ソ連・中国の核実験はきれいで、防衛的であり、支持する」とした。それは、「いかなる核実験にも反対する」という被爆・日本国民の要求を裏切り、反国民的なソ中両党隷従の犯罪政党の本質を露呈した。宮本顕治を最高権力者とした共産党こそが、日本の原水禁運動を分裂させ、今日までその誤りを自己批判しない政党である。
前衛62年10月号『ソ同盟核実験を断固支持する上田耕一郎』隷従犯罪の証明
『部分核停条約賛否問題と中国共産党への隷従継続』1964年隷従最後の証拠
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〔関連ファイル〕
wikipedia『宮本顕治』
google検索『宮本顕治』 yahoo検索『宮本顕治死去』 『宮本顕治』
赤旗『日本共産党元中央委員会議長・宮本顕治さん死去』 07年7月19日
赤旗『宮本顕治さん死去にあたって−志位委員長、不破哲三前議長』 7月19日