嘘つき顕治の真っ青な真実

 

宮本顕治が五全協共産党で中央レベルの活動をした証拠

現在の共産党は武装闘争に関係・責任もないと真っ赤な嘘

 

(宮地作成)

 〔目次〕

   1、はじめに―社会主義国家と共産党の嘘について

   2五全協武装闘争共産党に関する宮本顕治の言動データ

   3宮本顕治が五全協共産党で中央レベルの活動をした証拠 〔証拠資料14

   4嘘つき顕治の真っ青な真実

 

   5〔証拠資料5小山弘健『第3章、極左冒険主義の悲劇−6』 (抜粋)

   6、〔証拠資料6亀山幸三『一九五二から六全協にかけて』 (抜粋)

 

 (関連ファイル)          健一MENUに戻る

     小山弘健『コミンフォルム判決による大分派闘争の終結』五全協への自己批判・復帰

     『大須事件騒擾罪成立の原因(2)=法廷内外体制の欠陥』自己批判書提出の証拠

     『大須事件第5部・資料編』五全協への自己批判・復帰と五全協共産党での活動証拠

     『宮本顕治の「五全協」前、スターリンへの“屈服”』7つの資料

     『「武装闘争責任論」の盲点』朝鮮侵略戦争に「参戦」した統一回復日本共産党

     石堂清倫『コミンフォルム批判・再考』スターリン・中国と日本共産党との関係

     宮島義勇『中国密航と50年8月・周恩来との会見』統一回復・北京機関・武装闘争

     吉田四郎『50年分裂から六全協まで』主流派幹部インタビュー

 

 1、はじめに―社会主義国家と共産党の嘘について

 

 第一米原万里は、『嘘つきアーニャの真っ赤な真実』(角川書店、2001年)を出版した。このファイル題名は、その書名センスを拝借した。彼女は、共産党幹部会員米原昶の娘である。日本共産党は、米原昶を、プラハにあった国際共産主義運動の理論誌『平和と社会主義の諸問題』の編集局メンバーとして派遣した。そして、彼女は、プラハのソビエト学校に通った。

 

 著書の帯には、次のように書かれている。「激動の東欧を生きた3人の同級生の物語。一九六〇年、小学校四年生のマリは、プラハのソビエト学校にいた。男の見極め方やセックスのことを教えてくれるのは、ギリシャ人のリッツァ。ルーマニア人のアーニヤは、どうしようもない嘘つきのまま皆に愛されていて、クラス一の優等生はユーゴスラビア人のヤスミンカだ。三十年後、激動する東欧で音信の途絶えた彼女たちと、ようやく再会を果たしたマリが遭遇した真実とは―」

 

説明: yonehara

 

 この著書は、2002年、大宅壮一ノンフィクション賞を受賞した。彼女は、ロシア語の同時通訳とともに、豊富な東欧・ソ連体験に基づいて、多くの著書やコラムを発表している。2002年出版の『オリガ・モリソヴナの反語法』(集英社)は、さらに興味深い。それは、東欧・ソ連10カ国がいっせい崩壊した1989年から1991年以前の時期をテーマにしている。一党独裁型社会主義ソ連とソ連衛星国社会主義チェコとの支配・被支配という歴史的関係を背景として、プラハ・ソビエト学校教師オリガ・モリソヴナの人生の政治的な暗闇を、教え子の米原万里が探求していく小説である。

 

 第二ソルジェニーツィンは、ソ連を「嘘によって成り立つ国家」と規定した。1973年、パリで出版された『収容所群島』は、スターリンの4000万人粛清犯罪を告発しただけでなく、その源であるレーニンの嘘と大量殺人犯罪を暴露した。彼は、共産党が宣伝してきた大がかりな嘘に溢れた歴史の裏側=収容所群島実態を克明に記録し、公表した。を振り撒き、嘘の党史・国家史をねつ造した張本人は、レーニン・スターリン・ブレジネフら共産党の最高権力者たちだったことを、詳細な歴史的事実や無数の証言で証明した。

 

 そのために、市民権を剥奪され、西側に追放された。『収容所群島』6部作は、社会主義国家と共産党が内蔵する嘘の体質を暴いたことを通じて、18年後のソ連崩壊とレーニン像数万体を引き倒した一因ともなった。彼が一党独裁国家・共産党とたたかった経緯については、別ファイルで書いた。

 

    『ソルジェニーツィンのたたかい、西側追放事件』社会主義国家の嘘を暴露した作家

 

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 第三宮本顕治は、42年間、日本共産党の最高権力者の椅子を占め続けた。彼は、1955年7月27日・46歳、六全協から、1997年9月27日・88歳、第21回大会まで、(1)常任幹部会責任者→(2)書記長→(3)委員長→(4)議長だった。資本主義国共産党における国際共産主義運動史上、これほど永らく共産党の最高権力を握り続けた者は、宮本顕治以外に、一人もいないであろう。

 

 88歳になっても、日本共産党の最高権力を手放そうとしないことからくる彼の老害が顕著になった。宮本退陣要求が党内外から噴出した。第21回大会では、不破哲三らによって、名誉議長に棚上げされた。2000年11月20日、第22回大会において、不破哲三らは、前大会に続いて、宮本秘書団私的分派の常任幹部会員・幹部会員らを退任・降格させた。さらに、「ごますり」「茶坊主」たちという手足をもぎ取った宮本顕治・92歳を、単なる名誉役員の一人に祭り挙げた。それは、宮本私的分派グループを宮廷革命手法で排斥するという不破・上田・志位・市田らによる静かなる党内クーデターだった。宮本顕治による嘘の党史などの党内犯罪事例と不破哲三の宮廷革命については、2つの別ファイルで分析した。

 

    『不破哲三の宮本顕治批判』〔秘密報告〕日本共産党の逆旋回と4連続粛清事件

    『不破哲三の第2回・宮本顕治批判』〔秘密報告〕宮本私的分派と不破式党内クーデター

 

 42年の間で、宮本顕治がついた嘘はいろいろある。その一つだけを記す。彼は「共産党や私(宮本)が、意見の違いで、党員の組織的排除をしたことは一度もない」と何回も公言してきた。これは、真っ赤な嘘である。彼は、党中央方針や宮本顕治路線に批判・異論を持つ数百人の専従・党員にたいし、なんらかの規律違反をねつ造し、それを口実として党内外に排斥をしてきた。それを証明する事実はいくらでもある。彼は、レーニン型前衛党が世界中で産み出した粛清の天才の一人である。

 

 粛清犯罪を覆い隠し、排除された相手の方が悪いとするには、嘘を大量生産する資質をたえず磨き鍛えなければならない。日本共産党において、42年間もの世界最長不倒翁たる地位・名誉を堅持できた根拠は、(1)嘘を上手につくという類まれなる才能と、(2)彼の嘘を隠蔽・援護するトップ集団=宮本秘書団を中核とする私的分派を意図的に創りあげた組織能力だった。

 

 第四不破哲三も、さまざまな嘘をつく才能を十二分に備えている。その一つは、全戸配布ビラや演説で行った真っ赤な嘘である。彼は、「共産党に査問はない。共産党が査問をした事実など一度もない。あくまで、規律違反にたいする調査審議である」と、日本国民・全有権者に嘘をついた。査問については、別ファイルにその実態を書いた。

 

    『「ゆううつなる前衛」、その粛清と査問システム』レーニン型前衛党が行う査問と実態

 

 第五このファイル『嘘つき顕治の真っ青な真実』は、宮本顕治が振り撒いた嘘のテーマ・時期を限定して検証する。その内容は3つある。(1)、宮本顕治が五全協前、スターリン外圧に屈服した事実。1951年11月五全協への自己批判書提出と復帰事実。(2)、五全協・武装闘争共産党における中央レベル活動の事実。(3)、「武装闘争は分裂していた共産党がやったことで、現在の共産党・私(宮本)は武装闘争になんの関係も責任もない」と大宣伝をした党史偽造歪曲と敵前逃亡犯罪事実などである。

 

 私(宮地)は、大須事件など3大騒擾事件について、調査・取材期間を含めると、3年がかりで事件を調べてきた。そして、2005年6月、『謎とき・大須事件と裁判の表裏、第1部〜第5部』を完成させ、HPに公表した。名古屋生れの名古屋育ちという立場・自覚もあり、かつ、大須事件公判中の13年間は名古屋市・愛知県の共産党専従だった。そのこともあって、1952年度のメーデー事件・吹田事件・大須事件などの武装闘争事件の中で、なぜ大須事件だけに騒擾罪が成立したのかという疑問を解き明かす必要性と義務を痛感してきた。ファイル『第4部』『第5部』を分析するにつれて、宮本顕治の犯罪的言動が騒擾罪成立の副次的要因となったことに確信を持った。

 

    『大須事件騒擾罪成立の原因(2)=法廷内外体制の欠陥』 『第5部・資料編』

        第5部、宮本顕治のソ中両党命令隷従と敵前逃亡犯罪言動

 

 『第5部』の内容だけでなく、彼の党史偽造歪曲をさらに詳しく論証する必要があると判断した。というのも、五全協共産党の武装闘争を遂行した党員たちの内で、ほとんどが離党するか、当時の幹部は、口をつぐみ、真相を墓場まで持ち込んでいったからである。そして、現役党員の圧倒的多数は、宮本顕治による党史偽造歪曲の嘘を信じているからである。

 

 しかも、その性質は、日本共産党史の偽造歪曲という範疇にとどまらない。それは、1950年代の日本史や社会労働運動史そのものに影響する偽造歪曲史となる。ほとんどの歴史書が、宮本顕治の嘘を根拠として、「武装闘争は分裂していた一部が遂行した。六全協で共産党は組織統一回復をした」と記述している。大須事件を研究した者としては、このファイルを、大須事件5部シリーズの延長と位置づける。

 

 『嘘つき顕治の真っ青な真実』を、彼自身が図らずも自己証明してしまった文献証拠は2つある。

 (1)宮本顕治が、1955年7月、六全協に提出した自筆文書のコピー写真『経過の概要』(日本出版センター編『日本共産党史、私の証言』、1970年、絶版、P.47〜59)である。これは、そのテーマに関して公表された唯一の宮本顕治自筆文となった。コピーの該当個所全文は下記に載せる。

 

 (2)『宮本顕治の半世紀譜』(新日本出版社、686頁、1988年、絶版)である。ただ、これは、なんとも異様な文献と言える。宮本顕治の言動事実を、半世紀にわたって、年月日ごとに克明に記録しただけの内容である。約700頁にもわたる、このような個人の『半世紀譜』を出版させた共産党指導者は、資本主義国共産党において皆無であろう。それは、1988年において彼がどれほどの個人独裁度に到達していたのか、かつ、いかに多数の「ごますり」「茶坊主」たちをはべらせていたのかを自己証明した。もっとも、『半世紀譜』の記録事実によって、彼の嘘が暴かれることになるとは皮肉なことではあるが…。

 

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 2五全協武装闘争共産党に関する宮本顕治の言動データ

 

 〔小目次〕

   1、五全協と六全協の規定―組織統一回復はどちらか

   2、武装闘争を遂行した組織―分裂した一部か統一回復組織か

   3、五全協共産党期間中の自己の行動

 

 1、五全協と六全協の規定−組織統一回復はどちらか

 

 第一、1958年7月23日野坂参三第一書記が、第7回大会で中央委員会政治報告を行った。以下は、政治報告における「第六回党大会以後の諸問題」からの抜粋である。全文は『日本共産党五〇年問題資料文献集4(別冊)』「日本共産党の五〇年問題について」(P.20〜32)に掲載された。

 

 「八月十四日のモスクワ放送を契機として、全国統一会議の結成を準備していた中央委員たちは下部組織を解体して、臨中のもとに統一する方向にすすんだ。一九五一年十月にひらかれた第五回全国協議会も、党の分裂状態を実質的に解決していない状態のなかでひらかれたもので不正常なものであることをまぬがれなかったが、ともかくも一本化された党の会議であった(P.26)

 

 第二、1989年2月宮本顕治議長は、第18回大会第4回中央委員会総会において、党大会決定をたんなる中央委員会決定で事後削除・訂正するという規約違反の暴挙を強行した。というのも、党大会決定を事後に削除・訂正する権限は、規約上、党大会にしかないからである。宮本顕治は、削除決定内容を『日本共産党の七十年』において、次のように載せた。「大会の政治報告は『五全協』を『ともかくも一本化された党の会議であった』としたが、『五全協』は徳田派による党規約に反したものであり、この評価は正しくなかった。この点について第十八回党大会四中総(八九年二月)は、この部分を『正式に削除されるべきものだった』ことを明確にした」(P.269)。

 

 2つの対比と五全協で組織統一回復をした事実、宮本顕治の暴挙の性質と意図については、別ファイルで詳しく分析した。五全協が「一本化された会議」ではなかったと嘘をつけば、「六全協以降の現在の共産党は、武装闘争になんの関係も責任もない」という彼の詭弁が成り立つ。なぜなら、彼は、六全協において、ソ中両党の秘密人事指令により、中央委員に復帰でき、さらに常任幹部会責任者という指導部トップになれたからである。六全協後の党活動には自分も関係と責任があるが、五全協=武装闘争共産党には関係も責任もないと開き直ることができる。

 

 これほど精緻な詭弁論理を創作し、かつ、それを共産党員だけでなく、日本史・社会労働運動史の学者・左翼知識人のすべてを騙す宣伝テクニックも保有する幹部は、日本共産党史上で宮本顕治以外にないであろう。彼は、日本共産党が生んだもっとも有能な詭弁家・形式論理の使い手であろう。

 

    小山弘健『コミンフォルム判決による大分派闘争の終結』五全協で統一回復をした事実

 

 2、武装闘争を遂行した組織−分裂した一部か統一回復組織か

 

 大須事件被告人・名古屋市委員長永田末男は、『控訴趣意書』において、宮本顕治が行った3回の言動、その年月日データを挙げた。3回の全文は『第5部2・資料編』に載せたので、ここには、最初2つの言動事実のみを載せる。

 

 第一、一九六七(昭和四十二)年七月「朝日ジャーナル」誌記者とのインタビューの中で宮本書記長は次のように語った。「極左冒険主義の路線は、以上の党の分裂状態からみれば、党中央委員会の正式な決定でなかったことも明白です。当時、分裂状態にあった日本の党の方で指導的な援助をもとめたということはあるにしても、ソ連共産党と中国共産党が、当時の党の分裂問題にかんして、四全協決議を一方的に支持して、それに批判的な側を非難したり、あるいは極左冒険主義の路線の設定にあたって、これに積極的に介入したということも、今日では明白です。」(「赤旗」一九六七・七・二八第二面掲載)と。

 

 第二、一九六八年六月二十九日には、参議院選挙を前にしたNHK東京12チャンネルの選挙番組「各党にきく」に出席し、臆面もなく次のように述べたのである。「いわゆる『火炎ビン事件』というのは、これははよくいろいろなときにもち出されるのですが、あのとき、共産党は実際はマッカーサーの弾圧のなかで指導部が分裂していて、統一した中央委員会でああいう方針をきめたわけではないのです。ですから、党の決定にはないわけです。一部が当時そういう、いわば極左冒険主義をやったので、それは正しくなかったといって党はこれを批判しています。したがって党が正規にああいう方針をとったことはなかったのです」(「赤旗」一九六八・七・一付三面掲載)。

 

 1967年とは、1952年度の3大騒擾事件の15年後であり、共産党が遂行した武装闘争事件としてすべて公判最中だった。

 1967年以降、宮本顕治は、事あるごとに、「武装闘争は分裂した一部がやった。それは組織統一回復をした共産党中央の方針ではない。よって、現在の共産党と私(宮本)は、それになんの関係も責任もない」と公言してきた。不破・志位・市田らも同じ言動を継承している。

 

 3、五全協共産党期間中の自己の行動

 

 第一、宮本顕治は、『「私の五十年史」から』(『日本共産党の五〇年問題について』、新日本出版社、1981年)を公表した。そこで、次のように書いている。

 

 「私たちは活動を中止し、結局組織を解散した。当時まだ私たちは、コミンフォルムの批判―ソ連共産党や中国共産党の批判を不可抗力視する傾向をまぬがれていなかった。私は、不本意だが、この状態で活動を続けても道理は通らないだろうと考えざるをえなかった。

 そのころ、私は河出書房の『宮本百合子全集』の解説を書いた。私は党機関とのつながりはなかったが、『人民文学』や『新日本文学』に現われたセクト主義があまりにひどいので、一評論家としてその批判を精力的に書いた。

 翌一九五五年のある日、顔を知った使いの者が来て、志田重男らが会いたいと告げた。彼は党の分裂以後地下活動に入り、徳田に一番近い一人と思われていた人物だった」(P.190)

 

 第二、亀山幸三は、『戦後日本共産党の二重帳簿』(現代評論社、1978年、絶版)で、宮本顕治の発言を載せた。

 「宮本はのちに自ら書いているように、『当時、党籍はあったが、党のどの組織にも所属していないという、普通ならばあり得ない状態におかれていた』」(P.179)

 

 私(宮地)は、大須事件を調べる以前、これら2つの発言しか知らなかった。そして、「党機関とのつながりはなかった」「党のどの組織にも所属していない」とする内容から、その状態を点在党員組織隔離措置と解釈していた。そこから、宮本顕治は、五全協期間中、武装闘争共産党の中央レベルの活動を何一つしていないと判断していた。

 

 しかし、大須事件ファイルを書く中で、上記2つの文献証拠を発見した。それらは、「党機関とのつながりはなかった」どころか、スターリンの排斥人事命令によって、分派宮本らが五全協中央委員になれていなかっただけで、武装闘争共産党の中央レベルの活動をしていたことを証明していた。それらの行動は、五全協が組織統一回復をした武装闘争共産党だったことを証明するとともに、宮本顕治の嘘を自らが暴露する自己資料ともなった。その活動内容は次に検証する。

 

 

 3宮本顕治が五全協共産党で中央レベルの活動をした証拠 〔証拠資料14

 

 〔小目次〕

   1、五全協前後をめぐる事実関係の再確認6点

   2、宮本顕治が公表した証言と沈黙・隠蔽した事実

   3、宮本顕治が五全協共産党で中央レベルの活動をした証拠 〔証拠資料14

 

 1、五全協前後をめぐる事実関係の再確認6点

 

 五全協前後をめぐる事実関係については、2つの別ファイルで、証拠資料を挙げて詳しく証明した。よって、ここでは、その再確認だけを簡単にする。

 

    小山弘健『コミンフォルム判決による大分派闘争の終結』五全協への自己批判・復帰

    『大須事件騒擾罪成立の原因(2)=法廷内外体制の欠陥』自己批判書提出の証拠

 

 第一1951年8月14日、スターリンによる「宮本らは分派」としたコミンフォルム判決(論評)がモスクワ放送で伝えられた。1951年10月上旬、宮本顕治は、スターリン判決に屈服し、宮本分派組織「全国統一会議」を解散した。宮本分派の中央委員は、国際派5分派・7人中、宮本と蔵原2人のみだった。モスクワに行った袴田里見は、スターリンに一喝されて、瞬時に主流派に自己批判・復帰した。よって、宮本分派「全国統一会議」といっても、第6回大会中央委員35人中、その中央委員は2人だけで、6%しかいなかった。

 

 第二1951年10月上旬五全協前、彼は、主流派志田重男宛に、分派を認めた自己批判書を提出し、五全協という武装闘争実行の共産党に復帰した。ただ、スターリンが、分派宮本らを中央委員から排除せよという国際的秘密人事指令を出したと推測し得る。そのレベルの人事介入指令は、1950年代当時において、ソ中両党と隷従下共産党との関係として常識的な慣行だったからである。そのスターリン人事命令に隷従して、主流派は、第6回大会中央委員7人の誰も、五全協中央委員に選ばなかった。

 

 第三1951年10月16日、日本共産党は、感情的な団結面を別として、五全協で組織統一回復をした。国際派中央委員20%・7人全員と国際派党員10%・専従30%のほとんどが、五全協前までに、主流派(所感派)の中央委員80%・28人と主流派党員90%・専従70%側に自己批判・復帰した。それにより、日本共産党の大分派闘争は終結したからである。第6回大会中央委員だった自分が五全協中央委員に選ばれなかったからということで、五全協後も組織分裂がつづいていたという宮本式形式論理・「自己中」的詭弁は成立しない。

 

 第四1年4カ月間が、日本共産党の分裂期間である。それは、1950年6・6追放の翌日から五全協までだった。分裂のきっかけは、1950年1月8日、スターリン執筆のコミンフォルム批判であり、かつ、統一回復の決定的要因は、1951年8月14日、スターリンによる「宮本らは分派」としたコミンフォルム判決(論評)だった。日本共産党というレーニン型前衛党とは、2回の外圧=国際的命令により、分裂に陥り、また、組織統一回復をするというソ中両党隷従体質の政党だった。

 

 第五1952年、その体質のままで、宮本顕治ら国際派全員も自己批判・復帰した五全協共産党は、ソ中両党による朝鮮侵略戦争参戦命令に隷従し、日本全土で朝鮮戦争の後方・補給基地における武力かく乱戦争行動に突入した。かくして、日本共産党は、党史上初めて、侵略戦争参戦政党となった。1953年3月5日、スターリンが死去した。1953年7月27日、朝鮮休戦協定が成立した。五全協共産党の武装闘争は、それ以後、ぴたりと止んだ。その経緯は、武装闘争が、ソ中両党命令を受けて、実行された日本における朝鮮侵略戦争参戦行動だったことを証明した。

 

 第六5年1カ月間が、分裂期間だったとする宮本顕治の主張は、党史の偽造歪曲である。彼は、組織統一回復を、1955年7月27日六全協と断定した。しかも、彼は、1967年以降(六全協以前の)武装闘争は分裂していた一部が行ったものである。(六全協以降の)現在の共産党と私(宮本)はそれになんの関係も責任もない」と何度も公言した。それは、武装闘争実行者や騒擾事件刑事裁判中の被告人らを切り捨て、見殺しにする敵前逃亡犯罪だった。さらには、彼の言動が大須事件において騒擾罪を成立させた副次的要因となった。

 

 彼がそのような党史偽造歪曲をしたのはなぜか。その心理的根底には、六全協まで分裂が続いたという党史偽造歪曲の嘘をつくことにより、武装闘争による「汚れた手」をしていないと大宣伝をする自己保身動機があったと推測される。以下で『嘘つき顕治の真っ青な真実』を論証する。

 

 2、宮本顕治が公表した証言と沈黙・隠蔽した事実

 

 宮本顕治が、五全協前から六全協までの期間に関して公表した証言を確認する。

 (1)、1951年10月上旬、モスクワ放送を受けて、彼が「全国統一会議」を解散した事実を認めた。

 

 (2)、五全協期間中、「党機関とのつながりはなかった」「当時、党籍はあったが、党のどの組織にも所属していないという、普通ならばあり得ない状態におかれていた」と証言した。

 

 (3)、彼は、1967年以降、(六全協以前の)武装闘争は分裂していた一部が行ったものである。(六全協以降の)現在の共産党と私(宮本)はそれになんの関係も責任もない」と何度も公言した。

 

 (4)、彼が、志田重男と会った日付を、1955年のある日とした(『私の五十年史』、P.191)。しかし、『日本共産党の七十年』では、「1955年1月」と書いた(P.145)

 全党員と左翼知識人・日本史学者は、これらの4点の宮本証言を歴史的真実だと判断してきた。

 

 

 しかし、他方で、彼が沈黙し、隠蔽してきた事実がある。

 (5)、「全国統一会議」解散と同時に、宮本顕治が、志田重男宛に自己批判書を提出し、五全協という武装闘争共産党に復帰した事実に沈黙した。スターリンが「宮本らは分派」と裁定・論評したからには、分派としての自己批判書を提出しなければ、国際派の誰でも、主流派に絶対復帰できなかった。国際派他中央委員の自己批判書提出事実とその内容は判明している。しかし、宮本顕治の自己批判書内容だけは分かっていない。

 

 (6)、彼が、五全協共産党で中央レベルの活動をした事実を隠蔽してきた。ただ、自己批判・復帰した五全協において、ある時期までの一定期間、所属組織がなかったことは真実である。その期間は、主流派志田重男らによる報復としての点在党員組織隔離措置と言える。

 

 このファイルにおいて、宮本顕治が五全協共産党で中央レベルの活動をした証拠を提示することはどういう意味を持つのか。それは、(3)という彼の嘘を暴くだけでなく、1950年代の日本史・社会労働運動史の記述内容の変更を要求するものとなる。なぜなら、武装闘争を実行したのが、「分裂していた一部が行ったもの」ではなく、宮本顕治らも自己批判・復帰した統一回復五全協が行ったとなれば、「現在の共産党と宮本顕治は武装闘争に直接の関係と責任がある」ことになるからである。さらには、彼が「なんの関係も責任もない」として、武装闘争データを完全隠蔽し続け、「極左冒険主義」というイデオロギー総括のみでごまかしてきた責任問題に発展するからである。

 

 不破・志位・市田らも同類であり、彼らの責任問題とデータ全面公表・総括要求問題にも広がる。党史の偽造歪曲犯罪を許さないという現在の共産党指導者にたいする党内外世論を形成させることにもなろう。

 

 3、宮本顕治が五全協共産党で中央レベルの活動をした証拠 〔証拠資料14

 

 〔小目次〕

   〔証拠資料1〕、『経過の概要』二一〜二六 宮本顕治

   〔証拠資料2〕、『概要』二三、五一年秋、地下活動に応じ、宣伝教育関係の部門に入れられる

   〔証拠資料3〕、『概要』二五、一九五四年末、衆議院選挙への立候補を求められ、これに応ず

   〔証拠資料4〕、『概要』二五、選挙後、中央指導部の一員。六全協準備への協力要請に応ず

 

 〔証拠資料1〕、『経過の概要』二一〜二六 宮本顕治

 

 別ファイルにも載せたが、宮本顕治の『経過の概要』を確認する。そして、その項目を『宮本顕治の半世紀譜』内容、その他によって、彼の嘘を証明する。六全協選出中央委員会は、中央委員全員に、党分裂以降の「自己批判書」か「経過報告書」を提出するよう決定した。宮本顕治は、1950年1月8日コミンフォルム論評以降から、六全協会議までの自己の行動経過書を出した。

 

 排斥された国際派中央委員7人中の一人だった亀山幸三は、六全協中央委員に選ばれなかった。しかし、彼は、全中央委員が提出した文書を保管・管理する任務になった。六全協中央委員会は、それらを一人一人審議することを決定していた。しかし、中央委員らによるさまざまな思惑が噴出し、彼らは審議を棚上げにしてしまった。よって、彼は、他中央委員の文書とともに、宮本顕治の『経過の概要』文書も保管したままになった。その後、神山茂夫がそれを保管していた。

 

 宮本顕治は、61年綱領問題での異論者数十人を、分派活動の規律違反口実をでっち上げて排除・除名した。亀山幸三も除名した。亀山幸三は、『日本共産党史―私の証言』(日本出版センター編、1970年、絶版)を、10人の証言者とともに出版した。彼の題名は『六全協の秘密』である。その中の〔資料2〕として、『経過の概要、一〜二六』全文(P.47〜59)を載せた。彼は、これを神山茂夫から借りた。これは、宮本顕治の自筆文書のままを印刷した貴重な証拠である。ただ、その提出月日は記入されていない。コミンフォルム批判以降の経過が書かれ長いので、このファイルには、五全協直前から六全協までの自筆文のみを抜粋する。ただし、これらには、宮本式用語法が使われているので、いくつかに(宮地注)を付ける。

 

 二一(一九五一年)八月中旬に全国会議を開く予定で、その報告を準備する。地方組織は、地方統一会議と名のるところもあったが、全国統一会議なるものは存在せず。

 

 二二八・一四放送後、別項の声明(資料集3参照)を発し、中央委員の指導体制を解体す。この間、期限つきで自己批判書の提出を――これに応ず。また、経過措置として、臨中側との交渉、地方組織の統合その他に、他の同志とともにあたる。

 

 (宮地注)、五全協直前の動向

 (1)、八・一四放送とは、「宮本らは分派」と再確定したスターリン判決のモスクワ放送=コミンフォルム論評のことである。

 (2)、声明とは、統一会議解散の宮本・蔵原2人だけの連名文書。その内容抜粋は、別ファイルに載せた。

    『宮本顕治の五全協前、スターリンへの屈服』〔資料4〕宮本・蔵原「宮本分派の解散宣言」

 (3)、自己批判書の提出を――これに応ずという赤太字個所は縦一本線で消している。

 (4)、地方組織の統合とは、徳田・野坂らの主流派組織に宮本分派=統一会議地方組織が自己批判・復帰し、日本共産党としての統一回復をしたことである。宮本式用語法で、あたかも対等平等な統合をしたかのような日本語を使っている。

 

 二三、五一年秋、地下活動に入ることを求められ、これに応じ、宣伝教育関係の部門に入れられることになったが、仕事を始めるに至らず。一、二週間して不適任者として解除される。

 

 二四、以後、選挙応援その他で、ときおり連絡はあったが、特定の組織的任務につくことなく、宮本百合子全集の刊行にあたる。この間、文芸評論を多数書く。

 

 二五、一九五四年末、中央指導部より衆議院選挙への立候補を求められ、これに応ず。選挙後、中央指導部の一員とされる。五全協指導部より六全協準備への協力を求められ、これに応ず。

 

 二六、六全協を迎える。直後、九州、北海道、中国、関東等に他の同志と出席して、この問題の一部を担当する。

 以上、大会準備のため、時日の余裕なく、簡単に経過の概要を記したが、詳細は資料集の関係文書にかなり出ているので、これの参照を願いたい。この問題についての政治的理論的見解と基本的な反省点については、「団結と前進」第五集に公表した。

 

 いずれにしても、私は第六回大会の中央委員として、また当時の政治局員、統制委員として、中央委員会の解体を阻止できず、事態の収しゅうを成功的におこなうことができなかったことは、党と人民にたいして大きな責任がある。また、中央委員会の機能回復を求める中央委員の政治的組織的活動においては、二人の政治局員の一人として、また志賀同志が離別したあとは、唯一の政治局員として最も責任ある立場にあったものである。

 

 (宮地注)、五全協復帰から六全協までの期間における五全協指導部依頼の活動の事実

 ()地下活動に入ることを求められ、これに応じ、宣伝教育関係の部門に入れられることになった。

 ()、以後、選挙応援その他で、ときおり連絡はあった。

 ()、一九五四年末、中央指導部より衆議院選挙への立候補を求められ、これに応ず

 ()、選挙後、中央指導部の一員とされる。

 

 〔証拠資料2〕、『経過の概要』二三、「五一年秋、地下活動に入ることを求められ、これに応じ、宣伝教育関係の部門に入れられることになった」

 

 1951年秋とは、宮本顕治が五全協に自己批判・復帰した直後である。彼に地下活動を要求する立場にあるのは、党中央軍事委員長の志田重男しかない。宣伝教育関係の部門とは、武装闘争開始をする直前の五全協中央レベルの部署そのものである。これに応じた事実は、彼が、スターリンの排斥指令で五全協中央委員になれなかっただけで、武装闘争共産党の宣伝教育活動を始めたことの完璧な証明となっている。秋当時、宣伝教育の具体的内容とは、「球根栽培法」パンフを含め、武装闘争実行の諸パンフ・非合法の武装闘争指令機関紙などの製作・秘密印刷・非公然ルート配布だった。よって、宮本顕治は、「武装闘争になんの関係も責任もない」どころか、武装闘争遂行の中核部門に応じ入ったことを、これによって自白・証言した。

 

 (1)、『宮本顕治の半世紀譜』は、この事実を抹殺している(P.105)

 (2)、亀山幸三『戦後日本共産党の二重帳簿』は、次のエピソードを載せた。「志田は宮本復帰のときに、彼にアジ・プロ方面の仕事をやらせようとしたが、結局『つかいものにならないので、放っておいた』と人に喋っている。志田は宮本のことを一九五一年秋頃『あの薄ノロ奴! どうしようもない、放っておけ!』といったことも、私は耳にしている。しかも志田は宮本の自己批判書はきちんと手に入れている」。

 

 宮本自筆『経過の概要』二三と、亀山証言という2つの証拠によって、宮本顕治が、五全協という武装闘争共産党の中央レベルの活動に入ったことが証明された。しかも、彼が、武装闘争の宣伝教育に関係し、武装闘争に責任を持ったことも自己証言したことになる。もっとも、「一、二週間して不適任者として解除され」たことも事実であろう。だからといって、彼が「武装闘争になんの関係も責任もない」とする論理は成立しない。それは、明白な嘘となる。

 

 〔証拠資料3〕、『経過の概要』二五、「一九五四年末、中央指導部より衆議院選挙への立候補を求められ、これに応ず」

 

 ()『宮本顕治の半世紀譜』は、この事実を、1954年11月上旬から3回載せている。

 「11月上旬 党主催演説会の弁士として岩手県入り。遠野町・遠野小学校講堂での演説会で演説。土沢駅前の福山荘に宿泊。翌日、釜石市錦館での演説会で演説。夜、遠山旅館での文学サークル同人との懇談会に出席。翌日、山田町・山田小学校の演説会で演説。翌日、呉服店「べにや」で主人と懇談。夜、同店に宿泊。

 12月10日 「日本共産党政策発表大演説会」(新橋野外ステージ)で演説。

 12月11日 東京都党員決起大会(浅草公会堂)で東京一区衆議院議員予定候補者として決意表明(P.114)

 

 党主催演説会の弁士としての中央レベルの活動は、1954年11月上旬から始められた。その12月には、東京一区衆議院議員予定候補者になることが志田重男らによって決定されていた。となると、それは、宮本顕治が、12月以前の時期に、五全協という武装闘争共産党中央との関係、党中央軍事委員長志田重男との関係が、1951年秋の一時期に続いて、復活していた事実を証明している。

 

 東京一区衆議院議員予定候補者とは、共産党中央委員会の顔である。なぜ彼が、武装闘争共産党が公認する党中央の顔になれたのか。その経緯と背景には何があるのか。

 

 ()亀山幸三『戦後日本共産党の二重帳簿』は、東京一区衆議院議員予定候補者決定問題に関するエピソードを書いている。

 「もう一つの変化は、総選挙にさいし東京一区の予定候補松本三益が突然二区へまわり、宮本が一区に立つことになったことだ。大阪では志賀が表へ姿をあらわして立候補した。春日も神奈川一区から立候補するという。明らかに党全体が議会にカムバックしようとする姿勢になったのだから、火焔ビンや軍事方針、非合活動に重点をおく従来のやり方とは明らかに違う。

 

 とくに東京一区の変化に注目を払った。一区はもとは野坂が当選していたところで、いわば看板選挙区である。宮本にかわったことは、党中央そのものの大変化を予告していると思った。あとで聞いたところだが、宮本が一区から出るには、前年の一二月末に突然、宮本の家へ春日(正)がやってきて、玄関でべったり土下座して、宮本に謝り、志田に会って欲しい、一区から立候補して欲しい、の二点をいったということである。土下座したことと、志田の使いできたことは事実のようで、一区立候補の件は志田から、直接いわれたのかもしれない。いずれにしても単なる噂ではない。

 

 果たせるかな、総選挙の直後に、春日、志賀、宮本、米原の新中央指導部なるものが発表された。これも、どこで誰から任命されたものかはまったくわからない。先に紹介したように、宮本と志賀は五全協では中央委員になっていないのである。

 

 ともかく、選挙の結果は、大した成果はあがらなかったが、それでも大阪で、志賀川上貫一の二人が当選した。宮本はもちろん惨敗だった。」(P.192)

 

 ()『半世紀譜』は、総選挙期間中の行動と選挙結果に関して、3つの事実を載せた。

 1955年2月1日 衆議院選挙公示にともない東京一区から立候補。

 21日 個人演説会(共立講堂)で候補者として政見発表の演説。

 27日 (第二十七回総選挙、党は七三万票・二人当選。東京一区の得票数・率は二万七、八二五票、五・一パーセント、党候補の前回総選挙の実績は一万九、三五三票、四・二パーセント)

 

 〔武装闘争との関係・責任に関して宮本顕治がついた第2の嘘、または隠蔽

 

 ここで、志田重男と宮本顕治とが会った日付に関して、宮本顕治による別の嘘が問題となる。亀山幸三は、宮本顕治がその日付を恣意的に、1954年12月から、1955年1月1日「アカハタ」での武装闘争自己批判論文発表後の「1月」にずらして、嘘をついたとしている。この問題は、武装闘争との関係・責任の第2の嘘として重要なので検証する。

 

 ただし、(1)月日を後にずらして「1月」という嘘をついたのではなく、(2)1955年1月の会見は、第2回目であり、1954年12月11日以前の第1回目会見隠蔽・抹殺したとも考えられる。ただし、こうなると、歴史推理小説の範疇に入り込む面も出てくる。

 

 第一1954年12月11日、『宮本顕治の半世紀譜』が自己証言したように、彼は、東京一区衆議院議員予定候補者として決意表明」をした(P.114)。その決意表明演説会以前に、当然、彼は、志田重男と会っている。志田重男としても、会わずに、看板選挙区の予定候補者を決めることは絶対にあり得ない。亀山幸三は「一二月末」と書いたが、日付は「12月11日」以前である。

 

 というのも、私(宮地)は、名古屋市・愛知県において13年間共産党専従・県選対部員をやり、愛知県における総選挙・参院選・統一地方選・首長選挙などの候補者事前決定の場に何度も立ち会っているからである。宮本顕治が、「12月11日」以前に、党中央軍事委員長志田重男に会い、共産党の看板選挙区で立候補することを受諾したことは、何を意味するのか。それは、宮本顕治自身が、「武装闘争方針をいまだなお堅持・宣伝していた五全協共産党に直接関係し、責任を負う立場にいた」事実を完全証明するデータとなる。なぜなら、武装闘争方針の放棄を発表したのは、1955年1月1日であり、五全協共産党は、その直前まで、武装闘争路線体制をとり、その方針を宣伝していたからである。

 

 例えば、軍事委員会体制は継続され、軍事方針も堅持されていた。下部では、形骸と化してきたとしても、中核自衛隊・独立遊撃隊や山村工作隊は解散命令を受けず、行動していた。軍事委員会の歪曲した軍事方針の一種として、悲惨な結末を引き起こした総点検運動が、組織防衛会議によって、全党的に行われた。その運動は、1953年12月から1954年5月まで続けられた。

 『回想−戦後主要左翼事件』(警察庁警備局、1967年、絶版、P.279)によれば、志田重男らが、正式に軍事組織の解体指令を出したのは、六全協の1カ月前、1955年6月28日だった。宮本顕治は、そのような軍事方針状況下で、武装闘争共産党の看板選挙区における立候補を受諾し、武装闘争体制の党中央レベルで活動をした。

 

 第二1955年1月1日、「アカハタ」は、極左冒険主義の方針を自己批判する文書を公表した。小山弘健は『『戦後日本共産党史』において、次のように書いている。

 「一九五五年一月一日の『アカハタ』紙は、「一・一方針」とよばれる『党の統一とすべての民主勢力との団結』なる文書を発表した。これは、はじめて党の極左冒険主義の方針を自己批判していることで注目され、党の内外に大きな反響をよんだ。『このさい、われわれが過去においておかし、また現在もなお完全に克服されきっているとはいえない一切の極左的な冒険主義とは、きっぱり手を切ることを、ここで率直な自己批判とともに、国民大衆のまえに明らかに公表するものである。……われわれは、断じてこのような極左冒険主義の誤りを、再びおかさないことを誓うものである』。このかんたんな一文こそ、一九五一年の軍事方針採択以来、まる四カ年にわたる悪夢のような党の歴史にピリオドをうったのだ」(P.173)。

 

 第三1955年1月(日付なし?)、宮本顕治は、志田重男と会った。『宮本顕治の半世紀譜』は、1955年・47歳として、1月の言動記録を、克明な日付つきで10項目を載せている。しかし、志田と会った日付だけは「同月」として隠蔽した。なぜなのか。1988年出版時点においても、1月度の他項目は日付を明記するのに、志田と会った日付を隠さなければならない理由がなおあるのか。『日本共産党の七十年』においても、「1月」とだけ書いてその日付を隠蔽した。

 

 1月9日 臨時中央指導部主催による「五五年赤旗びらき」(渋谷公会堂、参加者八百人)に参加、郷土民謡をうたう。

 17日 党東京都南部地区委員会の“平和旗びらき”(大田区民会館)で講演(年頭の決意)。中部地区委員会の“はたびらき”(豊島公会堂)で年頭の挨拶。

 19日 「日本共産党政見発表演説会」(党東京都委員会主催、高円寺・白木屋ホール)で演説。

 21日 電話によって立候補を正式に受諾。衆議院第一次党公認候補(東京一区)として二十一日付「アカハタ」に発表。

 24 「日本共産党政見発表演説会」(大田区入新井第二小学校)で演説。

 25日 「政見発表演説会」(京橋公会堂)で演説。大山郁夫氏が激励演説。

 26日 「政見発表演説会」(中央区駒沢小学校)で演説。

 27日 「政見発表演説会」(武蔵野第三小学校)で演説。

 30日 * 『十二年の手紙』(その一、二、三、百合子との共著)を新科学社から刊行。

 同月 統制委員だった岩本厳来訪「志田重男が会いたい」旨告げてくる。志田重男のアジトに案内され、さらにその後、志田、西沢隆二らと会い、ここで第六回全国協議会(六全協)の計画をきかされる(P.116)

 

 ちなみに、『宮本顕治の半世紀譜』は、この種類の宮本個人記録月日データだけで、686頁を埋め尽くしている。解説も何一つ付いていない。もちろん、個人の略歴書はいろいろあるが、それは、著書の付随記録である。このように異様な『半世紀譜』(2800円)は、他に見たことも聞いたこともない。もっとも、このお陰で、彼の嘘を証明できることはありがたいが…。

 

 これは、(1)亀山幸三が言うように、日付を後にずらして「1月」としたなのか。それとも、()志田との第1回会見を隠蔽・抹殺したなのだろうか。そのいずれかを判定する証拠はない。しかし、いずれかの嘘になることは間違いない。彼が日付に関する(1)か(2)の嘘をついた理由は明快である。それは、志田重男と会ったと公表する日付「一・一方針」が出た後にして、極左冒険主義方針を五全協共産党が放棄した後にしなければ、「現在の共産党や私(宮本)は、「一・一方針」前の武装闘争共産党となんの関係も責任もない」とする詭弁が崩壊してしまうからである。

 

 そして、六全協に提出した『経過の概要』は非公表であり、亀山幸三が暴露・公表するまでは、誰にもその内容を知られていなかった。もはや、ほとぼりも冷めたと思って、1951年の五全協から37年後、1988年に『半世紀譜』を出版しても、そこの記述をほじくりかえして、彼の嘘を暴く者が現れようとは、彼自身も、宮本秘書団私的分派メンバーも思いもよらなかったと言えよう。

 

 このように精密な詭弁創作、党史偽造歪曲操作をなし得る共産党指導者は、宮本顕治の他にいないのではなかろうか。それは、まさに彼の党内犯罪であり、かつ、敵前逃亡犯罪である。その犯行動機は、嘘をついてでも、私(宮本)が武装闘争をするような「汚れた手」を持っていない指導者であるとの仮面を被る自己保身心情である。

 

 もっとも、宮本顕治を日本共産党が生んだ最も偉大で、真実のみを語る有能な共産主義的人間と信仰する党員たちは、彼が東欧革命のとき、動揺した党員たちに向って、「安心立命の境地に立て」と宗教用語で力説したように、日本革命めざす綱領路線の立場を揺るぎなく堅持している。

 

 〔証拠資料4〕、『経過の概要』二五、「選挙後、中央指導部の一員とされる。五全協指導部より六全協準備への協力を求められ、これに応ず」

 

 1955年3月15日、宮本顕治、中央指導部員となる(『半世紀譜』P.118)

 それは、2月27日総選挙の約2週間後である。志賀・川上貫一の2人が当選し、宮本は看板選挙区で惨敗した。そして、「一・一方針」の2カ月間半後だった。

 

 この時期は、7月27日六全協の約4カ月間も前だった。そこにおける五全協共産党のトップ人事決定である。中央指導部員は、7月30日六全協一中総決定のように、共産党常任幹部会員と役職名を変更した。彼は、四全協で中央委員から排除された。さらに、五全協で、スターリンによる宮本ら国際派中央委員7人排除の秘密人事命令によって、中央委員になれなかった。その宮本顕治が、六全協前にもかかわらず、一中央委員を飛び越えて、いきなり常任幹部会員→常任幹部会責任者に大抜擢されたをどう解けばいいのか。

 

 そもそも、主流派幹部内において、神山茂夫と同じく、宮本顕治も除名せよという意見が繰り返し出ていた。それは、多くの幹部が証言している。その強烈な宮本除名要求を抑えつけた上で、なおかつ、彼を常任幹部会責任者に据えるという人事力学にはどんな国際的・国内的圧力が掛かったのか。「一・一方針」後であるにせよ、彼は、五全協という武装闘争共産党の最高権力者の一人に踊り出た。この人事を見ても、彼が「武装闘争については、なんの関係も責任もない」どころか、五全協共産党の最高権力者としての関与と責任を持ったことは明白である。

 

 六全協前後における役員人事問題は謎に満ちている。

 (1)、ソ中両党招集によるモスクワでの六全協準備会議が、1954年春にあった。その場において、役員人事指令が、スースロフや中国共産党らから、どのようにあったのか。

 (2)、モスクワで決定された六全協原文と人事指令は、日本共産党にいつ伝わったのか。

 (3)、六全協準備と新人事に関するテーマで、志田重男は、いつ宮本顕治に会い、協力を求めたのか。

 (4)、国際的命令を受けた六全協内容・人事に関して、日本共産党内においては、誰が、どの機関が人事を決定したのか。いつ決まったのかなどである。

 

 モスクワ会議の内容は、不破哲三が自白・証言している。ただし、隷従下共産党にたいする常識的な人事指令の有無について、不破哲三は隠蔽・沈黙した。六全協への国際的指令内容については、別ファイルでも書いた。

 

    『宮本顕治の「五全協」前、スターリンへの“屈服”』モスクワ会議内容を不破哲三が証言

    『大須事件騒擾罪成立の原因(2)=法廷内外体制の欠陥』六全協への国際的指令内容

 

 「1954年10月30日、中国共産党李徳全来日。六全協原文日本へ到着志田は宮本と連絡する」(P.175)と、亀山幸三『戦後日本共産党の二重帳簿』は、(2)(3)の月日について、()で明記した。彼は、2人が会った月日を「12月末」としたが、上記の立候補決意表明月日のように、「12月11日以前」である。ただ、李徳全が六全協原文を持ってきたのかは分かっていない。

 

 1955年3月15日、小山弘健『戦後日本共産党史』は次の事実を記している。「三月一五日の『アカハタ』は、指導体制(公然面の)の強化と各専門部の充実をうたい、中央指導部員として春日正一(議長)志賀・宮本・米原昶の四名が決定されたことを報じた。これまで中央指導部員だった田中松次郎・松本三益・風早八十二・岩間正男などは、各専門部の責任者に転じた」(P.175)。

 

 7月27日、「六全協中央指導部員−春日正一(議長)志賀・宮本・米原昶・松本一三」と、亀山幸三は、党中央指導部員リストを載せた。六全協中央委員会において、中央指導部員と中央委員とはどう違うのか。それは、常任幹部会員と平の中央委員との違いである。

 

 7月30日、六全協一中総において、宮本顕治が常任幹部会員・中央機関紙編集委員会責任者に選ばれた(『半世紀譜』P.119)

 

 8月2日、宮本顕治が常任幹部会責任者・統一戦線部長・機関紙部長に就任(『半世紀譜』P.120)

 

 8月17日、六全協二中総において、野坂参三が第一書記、宮本顕治が書記局員に選出された(『半世紀譜』P.120)

 

 これら人事決定の異様なまでのスムーズな経過は何を意味するのか。

 ()1954年12月11日五全協武装闘争共産党の看板選挙区・東京1区候補者決意表明演説()1955年3月15日五全協共産党の中央指導部員()7月27日六全協中央指導部員()8月2日常任幹部会責任者・統一戦線部長・機関紙部長()8月17日野坂参三第一書記、宮本顕治書記局員という経過である。

 

 第一、「志田と宮本との野合、手打ち、お手盛り」としての六全協と人事

 

 宮本顕治が志田重男と会った月日は、1954年12月11日以前であることは間違いない。そこで、人事体制の大枠を2人が合意した。国際派中央委員の他6人はその合意に参加しなかった。多くの幹部が証言しているように、六全協とその前後の人事体制は、志田と宮本ら2人の「野合の産物」だった。

 

 石堂清倫は、『わが異端の昭和史・下』(平凡社、2001年)で次のような規定と分析をしている。

 「六全協、つまり第六回全国協議会で共産党の主流派と国際派各グループとの手打ちがあった。手打ちといっては気の毒だが、招集したのは志田重男と宮本顕治というのが変である。旧主流中の最有力者伊藤律は、スパイと断定されて伊藤グループは脱落、国際派のうち志賀義雄、神山茂夫、春日庄次郎その他のグループも主催者から除かれている。どうも適法な招集でなく、志田、宮本のお手盛でないかという声があった。

 

 しばらくあとに知ったことだが、集った代議員(どこで選出したのか?)百一名のほとんどが旧主流派で、中央委員十五名中、国際派五名という。宮本(彼だけではないが)が志田に自己批判書を提出したとの噂だから、本当は志田主導というところであろう。この席上で集った全員が五一年綱領をそろって承認しているが、あの極左冒険主義の原典である綱領の承認が国際派復帰の条件だったにちがいない。志田がそれだけの力をもっていたのは、ソ連共産党と中国共産党が旧徳田派を正統と認めていたからと想像される(P.88)

 

 第二、異様でスムーズな人事体制確立の国際的圧力=宮本顕治を「助監督」に任命

 

 このような「志田と宮本との野合、手打ち、お手盛り」による異様でスムーズな人事体制を確立し得た背景に、何があるのか。それは、1954年春の六全協準備目的のモスクワ会議において、スースロフらソ中両党が、日本共産党の六全協人事を具体的に指令した事実をほぼ完璧なまでに証明している。ソ中朝3党は、朝鮮侵略戦争で惨敗した。ソ中両党は、隷従下日本共産党に朝鮮戦争参戦命令を出し、劉少奇テーゼの植民地型武装闘争方針によって、後方基地武力かく乱戦争行動を激発させた。五全協で統一回復をした日本共産党は、党史上初の侵略戦争参戦政党となった。その結果、党員は23万人から、約3万数千人に激減し、共産党系大衆団体もほとんど壊滅した。

 

 ソ中両党は、熱い戦争から冷戦に戻った。その時点で、アメリカの「不沈空母」となった日本は、ソ中朝3つの一党独裁型社会主義国家にとって、最大の脅威となった。彼らは、朝鮮戦争後の「不沈空母」内において、アメリカ帝国主義と闘わせる日本共産党を早急に再建する必要に迫られた。それが、六全協準備とその人事指令である。彼ら「日本共産党を隷従状態に据え置き続ける2つの監督政党」は、日本共産党を立て直すため、「日本国内に配備する助監督」として、宮本顕治を抜擢した。その背景の詳細は、別ファイルで分析した。

 

    『「武装闘争責任論」の盲点』朝鮮侵略戦争惨敗と宮本顕治を「助監督」に任命

 

 第三、宮本顕治は、武装闘争指導者を100%継承・合体

 

 宮本顕治は、ソ中両党の人事命令を完全に履行した。

 (1)、人事命令にしたがって、彼は、スパイ野坂を、ソ連式名称の第一書記に据え、宮本を常任幹部会責任者に任命するという「ソ中両党の辞令」を拝命した。

 (2)、命令どおりに、後方基地武力かく乱戦争行動指導部との「手打ち」を水面下で行ない、彼らのほぼ全員を引継ぎ、六全協中央委員や各機関・委員会に収容した。

 (3)、もっとも、「手打ち」命令は、武装闘争指導部と反徳田5分派幹部の双方から、指名幹部を排除せよとの内容も含んでいた。それは、()の排除中央役員リストである。

 

(表1) 六全協で、宮本顕治は武装闘争責任を100%継承

党役職

武装闘争指導部責任・個人責任

直接責任なし・復帰党員責任

比率

中央委員

野坂、志田、紺野、西沢、椎野、春日()、岡田、松本(一三)、竹中、河田

宮本、志賀、春日()、袴田、蔵原

105

中央委員候補

米原、水野、伊井、鈴木、吉田

50

常任幹部会

野坂、志田、紺野、西沢、袴田

宮本「常任幹部会責任者」、志賀

52

書記局

野坂「第1書記」、志田、紺野。竹中追加

宮本。春日()追加

42

統制委員会

春日()「統制委員会議長」、松本()

蔵原、岩本

22

排除中央役員

伊藤律除名。(伊藤系)長谷川、松本三益、伊藤憲一、保坂宏明、岩田、小林、木村三郎

神山、中西、亀山、西川

(84)

総体

伊藤律系を排除した上での、武装闘争指導部責任・個人責任者の全員を継承

4人を排除した上での、旧反徳田5派との「手打ち」

 

 この()は、小山弘健『戦後日本共産党史』(芳賀書店、1966年、絶版)の第4章1、六全協の成果と限界(P.183)の記述を、私(宮地)が(表)として作成したものである。その一部を引用する。

 「発表された中央の機構は、政治局と書記長制が廃止されて、かわりに中央委員会常任幹部会と第一書記制が採用された。スターリンの死後、フルシチョフが集団指導を強調してソ連共産党に創始した一方式を、そのまま『右へならえ』式に、日本の指導体制に採用したものだった。(()人事記述個所を中略)。みぎのような中央人事は、全体としてみると、旧徳田主流派が若干の優位をたもちつつ、旧統一会議系国際派とのバランスをはかってくみたてられていた。それは、六全協までのはなしあいの主体が、伊藤派をのぞいた旧主流派と神山・中西・亀山・西川らをのぞいた旧反対派との二つであったことを、あきらかにしていた。この事実は、下部における大衆的討議を一さいぬきにしたこととあいまって、六全協の限界と弱点を、はっきりばくろしていた」。

 

 宮本顕治は、文化部関係人事で、宮本百合子らの宮本顕治崇拝者を抜擢し、一方で、強い宮本批判を持っていた原泉ら築地の文化人、中野重治支持者らを排除した。

 

 

 4嘘つき顕治の真っ青な真実

 

 〔小目次〕

   1、1967年度における4つの政治的要因と2つの選択肢

   2、宮本顕治の嘘の性質と功罪両面結果

   3、〔第2選択肢〕という嘘の路線を選んだ心理的要因・人間性

 

 

 〔小目次〕のテーマは、大須事件とも直接の関係があるので、『大須事件第5部』後半に詳しく書いた。ただ、このファイルにおいても重要な問題となる。しかし、『第5部』の該当個所は長大になった。よって、ここでは、それに若干の改訂加筆をしつつ、重複転載、または、順序を変えて抜粋をする。

 『真っ青な真実』内容の一つとして、最後に、宮本顕治が嘘をついた政治的要因、嘘をつかないですむような他の選択肢の有無、嘘の路線を選んだ彼の人間性を検討する。

 

 1、1967年度における4つの政治的要因と2つの選択肢

 

 彼の無責任で、武装闘争実行者を切り捨てる冷酷で自己保身的な前衛党指導者体質は、すでに12年前の六全協とその直後の言動で証明されてはいる。しかし、1967年前後における国際的国内的政治情勢が、日本共産党最高権力者宮本顕治に、1952年度・15年前に激発した武装闘争共産党問題に関し、あらためて明確な見解の再表明を迫る諸要因を発生させたことは事実である。

 

 〔第一要因〕、中国共産党の文化大革命と日本共産党にたいする批判・暴力革命路線圧力

 1966年、文化大革命の中で、中国共産党は日本共産党批判と圧力を強めた。8月23日、廖承志中日友好協会会長が教育事情視察訪中団に「日本人民にとって武装蜂起の戦術が唯一の正しい戦術である」とのべた。1967年7月7日、「人民日報」は、日本共産党批判をしつつ、日本における人民戦争を奨励した。中国共産党はあらゆる場所・新聞で、新左翼が行っている暴力行動を鼓舞・激励した。

 

 〔第二要因〕、中国共産党の日本共産党批判・圧力に隷従するグループの発生

 党内に、文化大革命と中国共産党の言動を無条件で支持する幹部、グループが発生した。それは、宮本・野坂らの一貫した中国共産党隷従体質が続いていた中から必然的に生れたものと言える。彼らは、中国共産党の圧力に隷従し、党内で武装蜂起・人民戦争を唱え始めた。宮本顕治は、1966年9月5日、共産党山口県委員会幹部5人を除名し、9月10日原田長司の除名、10月13日西沢隆二を除名した。

 

    Google検索『文化大革命と日本共産党』

 

 〔第三要因〕、新左翼各派の暴力活動の活発化

 1967年10月8日、11月21日と連続で、新左翼による羽田空港暴力事件が発生した。それ以前から、新左翼勢力の各派は、武装闘争を全面支持し、実行に移していた。それらの武装闘争実践は、70年安保闘争まで続いた。もっとも、新左翼が「反帝・反スタ(=反日本共産党)」を掲げたという事実は、歴史的に明らかなように、その発生の根源が日本共産党とその武装闘争路線にある。彼らは、武装闘争共産党が産み出した鬼っ子である。なぜなら、新左翼が大量に生れて、過激な暴力活動をしたことは、六全協共産党がソ中両党命令に隷従し、武装闘争の総括・データ公表をまったくしなかったという反国民的行為にその一因があるからである。彼ら新左翼幹部のほぼ全員が除名・離党の元日本共産党員だった。言い換えれば、六全協共産党が武装闘争総括・公表をしなかったことが、武装闘争五全協分派としての新左翼を産み出した要因の一つをなしている。宮本顕治は、その歴史的根源の六全協の誤りを恣意的に抹殺し、彼らを「トロツキスト」と名付けて歴史から切り離し、全面的に敵対し、排斥した。もちろん、新左翼崩壊の主因の一つは、五全協・武装闘争共産党が崩壊した原因と同じで、彼らの武装闘争路線という活動内容にある。

 

 〔第四要因〕、保守勢力挙げての「共産党は武装闘争政党だ」との大宣伝強化

 これら3つの要因を受けて、自民党ら保守勢力は大いに喜んだ。六全協以降も、また、ソ中両党と決裂後も、宮本顕治は武装闘争の総括・データ公表を故意に拒否し、その党内討論もタブー化してきた。保守勢力は、共産党の欠陥を利用し、武装闘争データを具体的に暴露し始めた。ほとんどの共産党員たちは、武装闘争実態に関して、何も知らず、宮本顕治らによって知らされていなかった。武装闘争の具体的事例についての宮本顕治の党内向け路線は、「党中央は常に正しいと依らしむべし、武装闘争実態を知らしむべからず」だった。

 

 これら4つの要因は相互に絡み合って、日本共産党にたいするマイナスイメージを加算した。宮本顕治は、()武装闘争実態の無総括・()データ無公表・()党内討論タブー化という誤った路線のつけを、15年後に精算しなければならないという国際国内的な4つの要因に直面した。しかし、1967年における彼の選択肢は、『嘘つき顕治』言動という一つしかなかったのだろうか。

 

 ちなみに、ソ連反体制派歴史家ロイ・メドヴェージェフは、ロシア革命史検討やレーニン批判を行うに当って、「選択肢的方法」を採用している。それは、1917年から22年の諸問題にたいする対応において、いくつかの実行可能な他選択肢が歴史的に存在していたこと、そして、レーニンとボリシェヴィキが選択した路線・政策は正しかったのかという歴史分析方法を採っている。私(宮地)も、それに学んで、レーニン批判ファイルを書く方法としている。

 

 宮本顕治には、15年前の武装闘争問題に関する対応・言動として、2つの選択肢が存在した。

 

 〔第1選択肢〕、ソ中両党と全面的に決裂したので、もはや彼らの総括・公表禁止命令に従う必要はなくなった。よって、武装闘争実態データを全面公表する。党内におけるタブー化をやめ、全党的に武装闘争実行の総括運動を開始する。公判が続いている3大騒擾事件は、宮本顕治も自己批判・復帰していた統一回復の五全協中央委員会の正式決定で遂行した武装闘争事件であったと認める。今日の共産党と私(宮本)はそれに直接の関係と責任があると宣言する。その公表・総括運動という大転換を通じて、武装闘争共産党のイメージを払拭し、4つの要因とたたかう。

 

 〔第2選択肢〕、上記のような『嘘つき顕治』言動で応える。(1)党史の偽造歪曲をし、(2)騒擾罪でっち上げの国家権力犯罪とたたかっている最中の3大騒擾事件裁判の被告人たちを見捨て、切り捨てる。(3)武装闘争問題の党内討論のタブー化を強め、裁判支援の全党動員を禁止する。裁判闘争は被告・弁護団と関係党組織に丸投げする。ただし、()党中央は裏側のDemocratic Centralismルートで公判における武装闘争実態公表の厳禁指令を貫徹し続ける。

 

 宮本顕治が選んだのは、〔第2選択肢〕だった。その選択基準は何だったのか。党のためだけなのか、それとも、彼個人の自己保身によるものか。

 

 2、宮本顕治の嘘の性質と功罪両面結果

 

 1、党史偽造歪曲と1950年代日本史・社会労働運動史の偽造歪曲

 

 宮本顕治が「極左冒険主義をやったのは、分裂していた党の一部である。統一した中央委員会がやったわけでない」とする主張は真実なのか、それとも党史の偽造歪曲なのか。彼が言う「極左冒険主義」とは、武装闘争の具体的実践のことである。その歴史的証拠を検討する。以下の立証は、細かなデータを挙げるので、読むのに苦労すると思われる。しかし、宮本顕治の詭弁・嘘を論証するためにやむをえない。以下の詳細やいくつかの()は、『大須事件第5部』に載せたので、そちらを参照されたい。

 

 第一、武装闘争の具体的実践期間を特定する証拠―五全協以前にはないというデータ

 第二、宮本顕治が五全協・武装闘争共産党に自己批判書を提出し、復帰した3つの証拠

 第三、宮本顕治が五全協・武装闘争共産党の党中央レベルで活動した証拠

 

    『大須事件騒擾罪成立の原因(2)=法廷内外体制の欠陥』党史偽造歪曲証拠詳細・()

 

 『嘘つき顕治』言動は、党史の偽造歪曲をしたという党内犯罪にとどまらない。彼の嘘は、1950年代に関する日本史・社会労働運動史の記述内容にも歴史の偽造歪曲のマイナス効果をもたらした。なぜなら、1989年東欧革命から1991年ソ連崩壊以前の時期において、政治学・歴史学・社会労働運動史分野の学者・研究者たちのかなりの部分が、共産党員か共産党支持者、マルクス主義者だったからである。彼らは、宮本顕治の嘘を真実と錯覚した。または、共産党員として真実と信じ、彼の言動内容そのままをほとんどの出版物に記した。その分野における学者党員やマルクス主義学者の権威は、10の一党独裁型社会主義国家とレーニン型前衛党が一挙に崩壊した現在からは想像できないほど高かった。それら著名な学者党員たちの著書を通じて、大部分の日本国民も、彼の党史偽造歪曲内容を、日本史の真実と思い込んできた。

 

 もっとも、日本史・社会労働運動史において、1950年代の日本共産党に関する記述個所・ページ数はわずかである。そこでの嘘の記述は、さしたる影響を持たない、とする見解もあろう。はたして、そうだろうか。1950年代の社会政治情勢において、また、朝鮮戦争最中の後方補給基地日本において、各政党間の政治的力関係の面で、日本共産党の動向は、21世紀の現在よりもはるかに重要な位置を占めていた。

 

 『嘘つき顕治の真っ青な真実』が納得され、広まれば、新しく出版される歴史書は、従来の嘘に代わって、この真実を改訂記述することになるだろうか。

 

(表2) 日本史・社会労働運動史の改訂個所と正誤表()

改訂個所

() 顕治説に基づく記述

() 『真っ青な真実』に基づく改訂

臨中指名

1950・6・7

66追放の米占領軍による弾圧を機会に、中央委員7人を排除し、非公然体制に移行。

50181回外圧・スターリン執筆のコミンフォルム批判で分裂開始

中央委員35人は、主流派28人・80%、国際派7人・20%

四全協

1951223

徳田派が規約違反の四全協。劉少奇テーゼに基づく「軍事方針」を決定。「分派主義者に関する決議」を採択。(この決議をスターリンは全面的に正しいと、810モスクワ放送)

劉少奇テーゼの植民地型武装闘争方針決定。分派闘争のため、武装闘争実行はほとんどなし。

分派比率推定−主流派の中央委員80%・専従70%・党員90%。国際派の中央委員20%・専従30%・党員10%。宮本分派側中央委員3人・9%。

五全協

19511016

五全協直前の10月上旬、宮本分派「全国統一会議」解散−宮本分派側中央委員は宮本・蔵原2人のみ。

六全協前の551月まで、機関との連絡なし、組織に所属せず。

志田との会見は551

55315、五全協中央指導部員。

518102回外圧・スターリン裁定のモスクワ放送で大分派闘争終結=組織統一回復。宮本は、志田宛に自己批判書提出・五全協武装闘争共産党に復帰。

52・1から日本全土で本格的な武装闘争実行。

宮本顕治は、武装闘争共産党の中央レベルで活動−(1)51年秋、武装闘争の宣伝教育部門に応ず、(2)武装闘争共産党の看板選挙区の立候補者、(3)六全協4カ月前の武装闘争共産党の指導部員。

志田軍事委員長との会見は、立候補決意表明の541211

武装闘争規定

「極左冒険主義」、中核自衛隊・山村工作隊

ソ中両党命令により、日本において朝鮮侵略戦争に参戦。後方基地武力かく乱戦争行動展開により、党史上初の侵略戦争参戦政党となった。

『大須事件第5部』に武装闘争データ・()多数掲載。

六全協

1955727

50年以来の党の分裂状態から一定の団結を回復した。徳田派の武装闘争路線を批判し、セクト主義、官僚主義的個人指導の誤りを克服する上で重要な一段階。

 

82、常任幹部会責任者に宮本顕治。

54春、3回外圧・ソ中両党招集のモスクワ会議で、日本における朝鮮侵略戦争惨敗でほぼ壊滅した日本共産党の再建をする六全協開催命令−ソ中日3党による日本共産党再建国際会議。ソ中両党が出した3つの指令()決議文内容、()武装闘争の総括・データ公表禁止、()人事指名、宮本顕治を再建「助監督」=常任幹部会責任者・野坂を「第一書記」に指名。

六全協は、志田と宮本との手打ち・野合の運営・人事

分裂期間

5年1カ月間

1年4カ月間

 

 2、敵前逃亡犯罪

 

 宮本言動の1967年7月といえば、3大騒擾事件公判開始15年後であり、いずれも公判闘争中だった。大須事件第一審は、1967年7月14日、第755回公判を開き、証拠調を終結したところだった(『大須事件50周年記念文集』P.145)。武装闘争事件で逮捕・起訴され、その刑事裁判が終っていたとしても、有罪となった共産党員たちも多数いた。逮捕を免れた党員でも、武装闘争参加で心身ともに傷ついた。その後、六全協前の総点検運動という全党的な相互批判・査問活動も受け、全体の結果として、党員約23万人中、20万人が離党し、または、除名で排斥された。それは、宮本顕治も自己批判・復帰して、統一が回復した正規の五全協中央委員会がしたことだった。

 

 宮本顕治は、スターリン裁定裏側の秘密人事指令=「分派の宮本らは選ぶな」という国際的指令で中央委員に選ばれなかった。隷従下共産党にたいし、スターリンやソ中両党がそのような人事指令・干渉をしたのは、当時の国際的慣行だった。そのことを口実にして、「そもそも私(宮本)は、第6回大会選出の正規の中央委員であり、かつ、政治局員だった。自分が自己批判・復帰したのに、自分を中央委員にさせなかった五全協中央委員会は、正規の中央委員会ではなかった」というのは、宮本顕治が得意とする詭弁である。

 

 宮本顕治は、それら最長26年間に及ぶ騒擾事件裁判中の党員、武装闘争に参加したが六全協共産党に残った党員3万人、離党・被除名の党員20万人にたいし、党史の恐るべき偽造歪曲を行って、「現在の党(=宮本顕治)は、武装闘争に何の関係も責任もない」と見殺しにし、切り捨てた。武装闘争事件で起訴された党員はどれだけいるのか。3大騒擾事件被告人たちは、国家権力の騒擾罪でっち上げと向き合って、国家=検察庁・警察庁という敵とたたかっている最中だった。その時点における宮本の言動は、まさに敵前逃亡犯罪以外のなにものでもない。彼が、スターリンの「宮本らは分派」裁定に屈服して、五全協・武装闘争共産党に自己批判・復帰していなかったのなら、彼の言動は正当化される。しかし、真実は違っていたという証拠が出揃った。彼の真っ赤な嘘=党史の偽造歪曲犯罪が証明された。

 

 「敵前逃亡」という言葉は、大須事件元被告酒井博が、提起した。彼は、それを、騒擾罪でっち上げ策謀中の検察庁・警察庁という敵とたたかっている騒擾事件公判15年目に発せられた宮本言動の性質を規定するものとして何度も使っている。私(宮地)も、酒井博が実感した性格規定に同意して、使っている。

 

 「敵前逃亡」が対象とするメンバーは、(1)武装闘争を指令した党中央軍事委員会、(2)大須事件では、火炎ビン武装デモを命令した党中央軍事委員岩林虎之助、(3)六全協トップになったソ連共産党NKVDスパイ野坂参三・第一書記、武装闘争時代の党中央軍事委員長志田重男、スースロフ・毛沢東の人事指令で指導部に復帰できた宮本顕治常任幹部会責任者ら3人と、(4)地方派遣の党中央軍事委員たちである。そのなかでも、宮本顕治が武装闘争事件15年後に行った言動は、そのマイナス影響力から見て、もっとも悪質な犯罪性を帯びる。

 

 「敵前逃亡」の内容は、次である。宮本顕治らも自己批判・復帰し、統一回復をした正規の五全協共産党中央指導部が、武装闘争方針を出し、各地で火炎ビンなど武器使用活動(=Z活動)を指令してきた。彼らは、1955年六全協後、極左冒険主義の誤りというイデオロギー規定をしただけで、自分たちの結果責任・指導責任に頬かむりして、ほぼ全員が六全協役員、1958年第7回大会中央委員に復帰した。問題は、武装闘争の具体的総括公表について、ソ中両党の公表禁止命令に屈服したままで、火炎ビン武装闘争の被指令者・実行者たちに具体的な支援・救援活動をすることを事実上放棄し、見殺しにしたという犯罪行為のことである。それは、国家権力犯罪・刑事裁判への対応姿勢において、共産党中央トップたちが自己保身と知的・道徳的退廃にとりつかれ、下部の武装闘争実行党員たちを切り捨てて、逃亡した犯罪のことである。

 

    『大須事件騒擾罪成立の原因(2)=法廷内外体制の欠陥』敵前逃亡犯罪の具体的な()

 

 この宮本言動の無責任さは、すでに六全協における彼の言動に潜んでいた。宮本顕治・野坂参三は、武装闘争参加・起訴者・離党者・被除名者などの人数を調べようともしなかった。これも、六全協当時における敵前逃亡犯罪行為に該当する。それを告発した有名な詩が六全協後に発表された。

 

 以下は、小山弘健『戦後日本共産党史』(芳賀書店、1966年、絶版、P.194)「第4章責任追求と責任回避」からの抜粋である。

 (1)、野坂参三は、9月21日「アカハタ」で、誤りを認めた。しかし、彼は「誤りを犯した人にたいしてただちに不信を抱いてはならない」「たんに身をひくことが責任をとる正しい方法ではない」として、責任をとろうとしなかった。

 

 ()宮本、春日()らも、自分らのおかしたあやまちについて、なに一つ自己批判を表明しなかった。彼らは、責任の所在をあいまいにし、ごまかしてしまうという第二の重大なあやまちをおかした。宮本顕治は、総括・公表を要求する党中央批判党員たちにたいして、「うしろ向きの態度」とか「自由主義的いきすぎだ」とか「打撃主義的あやまり」「清算主義の傾向」とかの官僚主義的常套語で、水をかけ、武装闘争総括をおしつぶす先頭に立った。

 

 ()、上層幹部たちのこのような責任回避のありかたにかかわらず、前記のように全党をつうじて、分裂以後の党と党員のありかたにたいするきびしい自己批判とはげしい責任追及のあらしが、まきおこってきた。党はこの九月から一〇月にかけて、中国・北陸・東海・関西・九州・関東・四国・北海道などの各地方活動家会議をひらき、新中央から志田・宮本・紺野・蔵原などが出席した。つづいて一二月にかけて、各地方党会議をひらいて地方指導部をえらんだが、これらのどの会議でも、主流派と地下指導部にたいする非難のこえがわきかえり、収拾つかないありさまだった。

 

 ()党の最高指導者たちが、みずから「指導的地位を去ることが責任をとる正しいやりかたではない」などといって全党の責任問題を混乱させているとき、一学生新聞の無名の一記者は、死者のためにつぎのようにうたっていた。

 

  日本共産党よ /死者の数を調査せよ /そして共同墓地に手あつく葬れ /

  政治のことは、しばらくオアズケでもよい /死者の数を調査せよ /共同墓地に手あつく葬れ

 

  中央委員よ /地区常任よ /自らクワをもって土を起せ /穴を掘れ /墓標を立てよ

 

  もしそれができないならば /非共産党よ /私たちよ /死者のために /

  私たちのために /沈黙していていいのであろうか /彼らがオロカであることを /

  私たちのオロカさのしるしとしていいのであろうか

 

   (「風声波声」、『東大学生新聞』、一九五六年一〇月八日・第二七四号)

 

 だが党には、ひとりの中央委員もクワをとって土をおこそうとはせず、ひとりの地区委員も穴をほって墓標をたてようとはしなかった。全党あげての論争と追及、党外からのいくたの批判と要求―これらすべては、しだいに、みのりのないのれん談義におわっていった。党外や下部からの責任追及が、上部機関の責任のとりかたに集中化されるのと比例して、奇妙にも「アカハタ」紙上の自由な発言はおさえられ制限されていきだした。国外権威からの原案指示と上層幹部だけのはなしあいで運営された六全協は、必然に新中央による責任問題のホオかむりとタナあげという事態にうけつがれ、さらに党内民主主義の回復途上における中絶という奇怪な事態へと発展したのである。(P.186〜193)

 

 宮本顕治は、()1955年六全協当時において、すでにこのレベルの敵前逃亡犯罪を行った。そして、()その12年後の1967年に、さらに悪質な敵前逃亡犯罪言動を繰り返した。日本共産党史上で、この性質の大規模な党内犯罪を最高権力者が行ったのは、『嘘つき顕治』のケース以外にはないであろう。

 

 3、大須事件騒擾罪成立の副次的要因

 

 被告人永田末男は、1969年3月14日『第一審最終意見陳述』において、次のように陳述した。「かくして極左冒険主義とその産みの児ともいうべき騒擾事件等の問題は、日共党内においては、いわばタブー視され、今日に至るまで明確な理論的検討も総括もなされず、まして真の責任所在も明らかにされないままに放置され、もっぱら多くの被告たちの生身によって贖われるにまかされているといってもよい。事件は、公式には、いわば日共とは無関係のものとされた」と、宮本顕治の敵前逃亡犯罪言動内容を挙げて告発した。

 

 共産党愛知県党内におけるタブー化の実態はどうだったのか。タブー化とは、大須事件公判に関して、党内で何もしない、させない、または、公判闘争に向けた全県党的取り組み・大量動員を、県・地区機関として一切しないという意味である。一方、宮本顕治と愛知県常任委員会は、その裏側において3つの方針で臨んだ。以下は、私(宮地)の愛知県における民青・共産党専従の15年間にわたる実体験からの認識である。ただし、これを証明する証拠文書はない。

 

 第一方針、大須事件公判闘争は、被告・弁護団とその家族、および、その関係者が所属する共産党細胞に丸投げする。それ以外の党組織にたいし、公判支援活動や支援集会に動員を掛けない。というのは、(1)そもそも、大須事件と現在の愛知県党とには関係などなく、現在の県党として、その事件・裁判に責任を負うこともないからである。(2)よって、地区機関や県党内の他細胞には、党勢拡大と選挙闘争勝利を最重点課題とし、赤旗HN拡大月間運動や選挙票よみ活動だけに連日取り組ませる。(3)ましてや、永田末男・酒井博らが法廷内外において、活発な反党活動を展開しているからには、大須事件と直接の関係を持たない党機関・細胞をすべて、彼ら反党分子から絶縁する措置を講じる必要が生じたからである。(4)2人の除名だけでなく、名電報細胞軍事担当LC山田順造も、社会主義革新運動に加わり、61年綱領に反対したので除名した。(5)大須事件被告・弁護団が、3人の反党分子を抱え、彼らがその反党活動を展開している以上、上記の党中央方針が党防衛上のもっとも正しい路線である。

 

 第二方針、武装闘争の総括禁止・具体的データ公表禁止方針は、ソ中両党と決裂してその国際的命令が失効した後も、大須事件公判内において継続・貫徹する。公判において、火炎ビン武装デモの計画・準備事実などを絶対認めてはならない。あくまで、警察・検察の騒擾罪でっち上げ事実を暴露・追求するだけの公判闘争方針でたたかい続ける。統一を回復していた五全協共産党の正規の中央委員会が遂行した武装闘争で85%が崩壊したというのが党史の真実である。その日本共産党を再建するには、「後向きの討論」をやめ、党勢拡大と選挙という2分野における大躍進を勝ち取ることこそ「前向きの前衛党思想」から出たものなのである。その方針にたいし「後向きの」批判・異論を主張する反党分子ら3人を被告・弁護団内で孤立させ、その影響力を粉砕する。

 

 第三方針、大須事件公判における裏側の共産党体制を構築する。「現在の共産党は大須事件などの火炎ビン武装闘争に関係がなく、責任を負う必要もない」という言動はあくまで表向きの国民欺瞞・一般党員騙しの手口にすぎない。裏側体制とは、公判に向けた党中央指令の貫徹ルート、反党分子動向の党中央報告ルートであり、そのシステムを忠実に実行する。それは次である。(1)宮本顕治⇔(2)党中央法対部⇔(3)愛知県委員長・中央委員神谷光次、県常任委員・大須事件公判担当・反党分子対策委員会責任者田中邦雄⇔()党中央派遣の主任弁護士伊藤泰方・永田末男解任後の新被告団長芝野一三⇔()被告・弁護団内共産党グループという5段階の方針貫徹・上級への報告という双方向ルートである。これこそ、民主集中制というもっとも優れた組織原則を、大須事件公判闘争に創造的に適用したシステムである。

 

 4、嘘の効用=党史偽造歪曲・敵前逃亡犯罪がもたらしたプラス効果

 

 ただし、別の側面も見る必要があろう。宮本言動は、党勢拡大や選挙躍進において大きな効用をもたらしたという事実である。宮本顕治は、自分も直接の関係と責任がある五全協共産党とその武装闘争実態にたいし、15年後の最高権力者として「現在の党だけでなく、(宮本)も、それになんの関係も責任もない」と、繰り返し断言した。その党史偽造歪曲の嘘によって、共産党と彼自身に拭い難くまとわりついていた負の遺産と絶縁し、切り捨てることができた。彼は、半非合法の地下活動という暗闇時代の党史にまつわる嘘によって、過去の武装闘争政党=朝鮮侵略戦争参戦政党時期と断絶できた。おりしも、1960年・70年安保闘争の国民的盛り上がりを受けつつ、また、高度成長時代のひずみが大量生産した政治への不満を吸収しつつ、その宮本式詭弁は、共産党を党勢拡大や選挙勝利課題において大躍進させるきっかけを創った。負の重しを武装闘争の海底墓場に密葬したり、不法投棄処分をしたことによって、彼は、身軽になった共産党を、1960年・70年代政治世界の海面上に急浮上させることができた。

 

 3、〔第2選択肢〕という嘘の路線を選んだ心理的要因・人間性

 

 宮本顕治が選んだのは、〔第2選択肢〕だった。その選択基準は何だったのか。党のためだけなのか、それとも、彼個人の自己保身によるものか。

 

 宮本顕治の人間性を考察する上で、彼がなぜ、どのような動機からこの言動を行ったのかを考える必要もある。あらゆる刑事裁判において、犯罪の動機を立証することは必要不可欠である。それと同じく、宮本言動の3つの犯罪性において、いかなる国際・国内的動機、および、それに直面したケースでの個人的犯行動機が潜在したのかを探求する必要がある。それをしなければ、たんなる表面的な言動批判に終ってしまうからである。

 

 前衛党最高権力者の人間性というテーマに関しては、私(宮地)が言うまでもなく、大須事件被告人永田末男が一言で断定している。彼は、『第一審最終意見陳述』において、宮本・野坂らの言動を、「人間性の欠如」とした。さらに「知的・道徳的退廃である」と規定した。

 

 また、永田末男『控訴趣意書』では、「よせばよいのに、性こりもなく『けれども、火炎ビンなど…云々』と、彼独特の『党分裂無責任論』という官僚顔負けの迷論を繰りかえすのである」、「火炎ビン=ノイローゼにとり憑かれた彼は、ひょっとして自分が一種の精神分裂症ではないかと自問するだけの知性も良心もないらしい。なぜなら、正気の人間には、とても、ああいう無恥で無責任な『責任論』は思い付きうるものではないからだ」(P.75、76)とした。彼は、大須事件公判闘争を体験する中で、宮本顕治という前衛党最高権力者の無恥で無責任な体質を実感した。前衛党最高権力者の人間性を告発した永田末男の指摘は、当っているのか。

 

 宮本顕治が〔第2選択肢〕を選んだ心理的要因・人間性はいろいろ考えられる。5つを考察する。

 

 第一〔第1選択肢〕を選んだ場合、その大転換に伴う困難にたいする怯えがあった。それによる共産党再分裂の恐怖もある。彼は、()のように武装闘争指導部のほとんどと手打ち・野合をし、武装闘争責任を100%継承した。そして、ソ中両党命令に隷従し、武装闘争総括・データ公表を棚上げした。宮本と志田は、()宮本の分派活動事実・五全協への自己批判復帰事実と、(2)志田軍事委員長を初めとする軍事委員たちの武装闘争指導個人責任事実の双方を隠蔽・棚上げし、下部からの責任追及・具体的データ公表要求を抑圧するという交換取引条件で合意した。それなのに、12年後の1967年、秘密合意を破棄し、〔第1選択肢〕の路線を強行すれば、寝た子を起こすことにもなりかねず、武装闘争指導者たち多数派の反乱・党内クーデターにより、彼自身が少数派に再転落し、再排除される危険も高かった。

 

 というのも、六全協や1958年第7回大会時点においても、第6回大会中央委員35人中、国際派中央委員は7人であり、宮本分派側の中央委員は、わずか宮本・蔵原・袴田ら3人・9%しかいなかった。宮本顕治とは、党内人気がなく、9%少数分派の成り上がり者だったからである。彼が、五全協中央委員でないのに、いきなり六全協常任幹部会責任者に成り上がることができたのは、彼個人の党内人望・能力によるものでない。それは、ひとえにソ中両党という「日本共産党監督の前衛党」が、日本における朝鮮侵略戦争敗戦を処理させる会議としての六全協で、日本共産党再建の「助監督」として彼を任命したからにすぎない。

 

    『「武装闘争責任論」の盲点』朝鮮侵略戦争惨敗と宮本顕治を「助監督」に任命

 

 手打ち・野合であるからには、彼の党内権力はまだ万全ではなかった。彼の側近はほとんどいなかった。そこから、彼は、自分に完全忠誠を誓う子飼いの側近幹部の育成・配備に熱中した。それは、宮本秘書・秘書室長らを中核とする宮本秘書団私的分派の形成となった。かくして、日本共産党は、個人独裁者『嘘つき顕治』と最高権力者私的分派メンバー「ごますり・茶坊主」らに牛耳られるDemocratic Centralism型前衛党に変質した。

 

    『不破哲三の第2回・宮本顕治批判』〔秘密報告〕宮本秘書団を中核とする私的分派

 

 第二、少数派への再転落の恐怖から逃れる自己保身から、自己の地位保全に安全な〔第2選択肢〕という嘘の路線を選んだ。具体的には、五全協への自己批判書提出・復帰による組織統一回復事実を隠蔽・歪曲した。党史において、「極左冒険主義」を抽象的に書いたとしても、五全協会議に関する記述そのものを抹殺した。党分裂期間を、五全協までの1年4カ月間ではなく、六全協までの5年間もあったと偽造歪曲をした。それは、武装闘争による「汚れた手」をしていない顕治というイメージ創りにおいて、もっとも効果的な自己宣伝作戦ともなった。なぜなら、半非合法・地下活動共産党の実態はほとんど知らされておらず、〔第2選択肢〕による彼の嘘は、共産党員・左翼知識人・学者党員の歴史学者らのほぼ全員を見事なまでに騙すことができたからである。

 

 第三彼の潜在意識を探ると、さらに次の論理が読み取られよう。3大騒擾事件で公判中であろうとも、武装闘争という日本における朝鮮侵略戦争に参戦した共産党員兵士たちは、ほぼ壊滅した日本共産党を再建する上で最大の邪魔者となった。「邪魔者は殺せ」は、レーニン型前衛党における党運営の鉄則である。その革命兵士らを切り捨て、見殺しにすることによってしか、日本共産党を再建できないとなれば、それはやむをえない戦略だった。しかも、私(宮本)は、1967年時点、すでに「余人をもっては替えがたい指導者」となっていた。

 

 第四、ソ中両党と決裂した段階になって、現在の共産党と私(宮本)は、ソ中両党命令による朝鮮侵略戦争参戦の武装闘争と無縁であり、なんの関係も責任もないと公言することは、1967年以降における日本共産党の「自主独立路線」をアピールする効果もあった。それは、ソ中両党への隷従党員時期やスターリン讃美党員時期の自分史を隠蔽し、抹殺する効果も絶大だった。

 

 第五、ただし、ソ連共産党・中国共産党・朝鮮労働党などの一党独裁型前衛党が、非政権共産党である日本共産党に仕掛けた理不尽な批判・干渉・分裂策謀にたいして、宮本顕治が敢然と決裂し、彼らの攻撃にたいする受身の反撃による結果とはいえ、「自主独立路線」を確立した功績は大きい。

 

 もっとも、ルーマニア共産党・チャウシェスク讃美問題では、相も変らぬ『嘘つき顕治』を続けたが…。他にも、「社会主義生成期論」→「ソ連の崩壊をもろ手を挙げて歓迎する」→「ソ連はそもそも社会主義でなかった」「レーニン時代は社会主義を追求していた」と、一党独裁型社会主義国家の評価・規定理論では、苦し紛れの支離滅裂なゆれを見せた。

 

 チャウシェスク問題、社会主義国家の規定問題をめぐる強弁・二転三転の詭弁以降、彼の理論的権威は、党内外で地に落ちた。1994年第20回大会における丸山眞男批判キャンペーンは、政治学・社会思想史分野の学者党員のほとんどを離党させた。当時84歳になっても、共産党最高権力者・議長の地位にしがみつく彼への軽蔑が、彼への信頼を上回った。党内外からの強烈な引退要求にたいし、不破哲三に「余人をもっては替えがたい人」と代弁させるに及んでは、彼の党内権力への執着心にたいし、党内外の視点に憐れみさえ浮かんだ。レーニン型前衛党最高権力者が自己内部で育む人間性の一つは、高度に発達した異様な権力独占欲・権力執着心と言えるであろう。それは、必然的に、裏側において異論・批判党員を党内外に排除しつくし、表では「共産党や私(宮本)は意見の違いで党員の組織的排除をしたことは一度もない」と平然と真っ赤な嘘をつく二枚舌の最高権力者を産み育てる。

 

 

 5〔証拠資料5〕小山弘健『第3章、極左冒険主義の悲劇−6』 (抜粋)

 

 (宮地・注)、小山弘健は、戦前から活動しており、戦後、多数の著書を出版した。なかでも、『戦後日本共産党史』(芳賀書店、1966年、絶版)は、被除名者側が膨大な共産党資料を駆使し、冷静な筆致で、客観的な党史を描いた文献として有名である。それは、1945年占領下の平和革命論から、1966年中ソ論争の波間までを分析している。このファイルには、「第3章、極左冒険主義の悲劇−6」(P.173〜178)のほぼ全文を転載した。「第2章」抜粋は別ファイルに載せた。

 

    小山弘健『コミンフォルム判決による大分派闘争の終結』五全協への自己批判・復帰

 

 彼は、ここで、1955年1月1日の「一・一方針」前後の状況を詳しく分析している。『嘘つき顕治の真っ青な真実』を検証する上で、「一・一方針」は重要な意味を持つ。その方針以前に宮本顕治が、五全協という武装闘争共産党の中央レベルで活動した事実データが、彼の嘘を証明する。ただ、この著書は1966年出版であり、小山弘健は、データとしての(1)宮本顕治『経過の概要』(1970年亀山幸三が公表)、(2)『宮本顕治の半世紀譜』(1988年)、(3)不破哲三のモスクワ会議内容の自白・証言(1993年)という3文献資料をまだ読んでいない時点の記述である。なお、私(宮地)の判断で、一部を赤太字黒太字にした。

 

 6、非公然体制の転換と統一へのはなしあい開始 (ほぼ全文を転載)

 

 党指導部は神山グループを処分したあと、さらに五四年秋以後、前記のように旧国際派指導分子の再除名を計画した。ところが、このころ党のこれまでの組織的戦術的方針の根本的転換について、国際組織から強力な指示と勧告がおこなわれた。この間のくわしい事情はいまだに明らかにされていないが、この国際的提言によって図にのった志田・椎野派の態度が大きく動揺したこと、国際的な圧力を仲介した野坂・西沢ら徳田派中の「中立派」の説得によって、猛威をふるったさすがの志田派指導部も、ついに方向転換を決意するにいたったこと、破めつにひんする党組織を再建するために、まず軍事方針を放棄し、極左冒険主義にたいする自己批判を公表することがやむをえないとされたこと、一定の準備期間をかけて非公然機関を整理し、きりかえ、地下指導部が公然面へ出現することについてはじめて考りょされだしたこと、およそこれらの事情が推測されうるのである。

 

 こうして一九五五年一月一日の『アカハタ』紙は、「一・一方針」とよばれる「党の統一とすべての民主勢力との団結」なる文書を発表した。これは、はじめて党の極左冒険主義の方針を自己批判していることで注目され、党の内外に大きな反響をよんだ。「このさい、われわれが過去においておかし、また現在もなお完全に克服されきっているとはいえない一切の極左的な冒険主義とは、きっぱり手を切ることを、ここで率直な自己批判とともに、国民大衆のまえに明らかに公表するものである。……われわれは、断じてこのような極左冒険主義の誤りを、再びおかさないことを誓うものである」。

 

 このかんたんな一文こそ、一九五一年の軍事方針採択以来、まる四カ年にわたる悪夢のような党の歴史に、ピリオドをうったのだ。これは、軍事方針がもたらしたすべてのあやまりとあやまちを公然と確認したことの証明であり、その間にはらわれたおびただしいエネルギーとぎせい、情熱と献身が、すべてむなしかったことを表白したものであった。それはまた、党が労働者階級の前衛と称しながら、いたずらに大衆から遊離し国民から疎外され、戦後に誠実な下部党員たちがきずきあげたいくたの成果とえいきょう力とをさいごの一片となるほどまでにうしなうにいたった事実を、はっきり自認したものであった。党中央が極左冒険主義をみとめて反省したことは、党内外に、いよいよこれまでの基本戦術と組織方針の再検討が必至となり、党の非公然体制や軍事方針の放棄がまぢかとなったことを感じさせるに十分だった。

 

 だれがみても、国内国外の客観情勢が、あまりにもおそすぎた党の転換をこれ以上ひきのばしえないような時点にきていることは、あきらかだった。国際的には、一九五四年四月のジュネーブ会議から、平和五原則による中国インド協定、それにストックホルム世界平和大集会、インドシナ休戦協定、五四年一〇月の中ソの対日共同宣言とつづき、四年前の朝鮮戦争がひきおこした国際危機が克服されて、平和共存への大勢がうごかしえないものとなっていた。

 

 国内的には、五四年三月のビキニ事件の国民的衝撃のあと、原水バク禁止・憲法擁護・再軍備反対・日中日ソ国交回復などの国民運動が、党の軍事方針のゆきづまりや軍事組織の自滅の傾向をよそに、しだいに大きくもりあがった。五三年から五四年へかけての労働運動も国民運動も、ほとんど党とははなれた組織と人間が主導していた。これらをバックとした総評や社会党は、ようやく大衆的基盤をかため、とくに左右両社会党の統一機運は下からの力でたかめられた。下からの国民的な独立コースの成長と、他方で独占資本主導の「上からの自立化」の傾向の強化とにはさまれ、六年間も政府の座を占拠してきた吉田内閣も、ついに命数がつきた。造船汚職・乱闘国会をへて、五四年一二月、第一次鳩山内閣が成立した。新内閣は、あたらしい情勢におうずるため、日ソ国交回復と憲法改正をスローガンとした。これらの内外情勢は、もはや党体制の転換をこれ以上ひきのばせないギリギリの時点においこんだのである。

 

 さて、さきの一・一方針発表のあと、志賀義雄が公然とすがたをあらわして、世間とジャーナリズムの注目をあびた。かれが二月の総選挙に、他の公然面幹部とともに立候補したことは、転換へのきざしをつよく感じさせた。衆議院選挙では川上貫一と志賀の二名が当選し、党は七三万三一二一票(一・九八%)をかくとくした。三月一五日の『アカハタ』は、指導体制(公然面の)の強化と各専門部の充実をうたい、中央指導部員として春日正一(議長)・志賀・宮本・米原昶の四名が決定されたことを報じた。これまで中央指導部員だった田中松次郎・松本三益・風早八十二・岩間正男などは、各専門部の責任者に転じた。たんなる窓口にすぎないとはいえ、一時は再除名を計画された宮本が機関に復帰したことは、党の全面転換のちかさを想像させた。

 

 いま、おそるべき極左冒険主義の支配が、一九五一〜五四年のまる四カ年もつづき、ことにその失敗が実証された五二年夏以後清算されず、二カ年以上も正式の自己批判なしにおしとおされてきたのは、なぜであろうか。これはなによりも、地下指導部がこの時期のスターリン主義の国際的圧力によってささえられ、また中共の基本線を忠実に奉持してきたからであった。チトーを一方的に攻げきし、東ヨーロッパのいくたの指導者たちを「チトー的分子」として一方的に粛正しさったスターリンのあやまれる政策とその大国主義的偏向、それからくる国際政策上の緊張政策、日本にたいする軍事支配の一面的強調、そして、さらにこのうえに重ねられた中国共産党がわからの中国革命方式の機械的適用、これらすべてに、党指導部は忠実に無批判的にしたがってきた。

 

 徳田−伊藤−志田の派閥は、スターリンの死後、ソ連に底流しだした雪どけの兆候にも、国際政局に生じた平和共存への動向にも、一向に意をはらわず、一たびすえつけられたスターリン綱領と中国革命路線をがん固に固守し、そのうえにアグラをかきつづけたのだ。かれらが外国の権威よりも日本人民の「権威」をより尊重し、共産主義者としての主体性、独立の判断力や自主的な実行力を十分にもっておれば、スターリン主義や中共的「権威」だけでなく国際的圧力からくる一さいの害悪を阻止し、またそれを最小限におさええたであろう。

 

 ところが、これらの力は、常にはほとんどといってよいほど欠けていた。大分派闘争の時期、争いあう両派にとって、中共やコミンフォルムの決定が最高基準であり、一さいが国際的決定を軸としてうごいていたことはすでにみてきたが、この極左冒険主義の時期でもおなじように、国際的方針への無条件的追ずいの精神が、指導部全体を一貫して支配していた。その結果はひとたび決定された軍事方針=武力革命コースを、その時期その時期で具体的に検討しなおすことなしに、まるでバカの一つおぼえのようにただ一途に四年間温存しまもりぬかせることになった。国際運動上のかたよりとそれの無条件的うけいれは、こうして一国の党をして、容易に回復できない崩かい状態にまでおいやってしまったのである。

 

 一度軌道にのった極左冒険主義方針が、情勢が要求するギリギリまで訂正されなかったもうひとつの原因は、党内体制のありかた自体であった。大分派闘争の収束がかんたんに一方を分派ときめつけて官僚主義的に統一するという形式だったため、実質上の統一は達成できず、党内民主主義はますます無視され、家父長的個人中心的指導を抑制する内部的保証はなにもなくなった。あやまった戦術方針や組織体制を修正するための内的保証たる民主主義的党内闘争、集団指導の確保などは、あとかたもなくきえうせ、指導部の独善化と特権化は信じがたいたかきにまでおよんでしまった。

 

 絶大な権限をにぎった地下指導部の派閥的どろじあい、そのフハイとだらくが無制約に進行したため、その末期には、党機構の官僚主義、上部機関への盲従主義、権威主義と事大主義、形式主義とセクト主義など、およそありとあらゆる病弊の満開状態をもたらしたのである。このため、みずから転換の主導をとりえない地下指導部とそれに一指も染めえない党内情勢にたいして、外部から強力な衝撃がくることになり、これがさいわいにフハイしきった地下指導部を破滅の一歩手前でやっとくいとめ、硬化してなんの自主性もなくなった党組織を自滅のふちからひきもどしてくれたのである。

 

 もちろんこの四年間、党の全国組織の活動がなにからなにまで、また党機関が上部から下部まで一さい不正常状態にあったとみるならば、それはまちがいであろう。日常の政治活動から平和運動などの国民運動にまでおよぶ範囲で、個々の活動分野として党はこの時期にも一定の積極的役割をはたし、国民大衆の向上と前進のために一定の寄与をなした。他方で党内には、まだ誠実で能力ある分子も多くのこっていた。五〇〜五一年の大分派闘争、五二年の極左冒険主義の絶頂、五三〜五四年の点検=摘発闘争と、言語に絶する内争・かたより・恐怖・解体化の連続は、まじめで才能ある多数の党員をたたきだし、または沈黙させてしまったが、それでもまだのこされた党員のなかには、基本方針のあやまりと指導部のフハイにもかかわらず、その自分の持ち場持ち場でじみに謙虚に活動したものも、けっしてすくなくなかった。

 

 党全体のありかたや方針には無条件にしたがうというあやまちをおかしながらも、かれらは自分の小さな活動の場のワク内では、営々として大衆のために奉仕し、ただしい実践の成果をあげた。かれらの地についた努力と大衆からからえた素朴な信頼こそ、党の全面崩かいをささえる唯一の柱だったのであり、指導のあやまりのためいたるところで党が疎外され非難され、あらゆる場所で基盤とえいきょう力をうしないながら、なおひとつの「党」として存立しえた真の原因だったのである。ただこうした党活動の部分的な成果や個々の党員がはたした積極的役割といえども、党の基本方針のあやまりと指導部のありかたのゆがみがもたらした重大な失敗のかずかずを、けっして相殺することはできなかったのであり、だからこそ党そのものが内部崩かいのせとぎわまで傾斜していくことを阻止できなかったのである。

 

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 6、〔証拠資料6〕亀山幸三『一九五二から六全協にかけて』 (抜粋)

 

 〔小目次〕

     (宮地・注)

   4、六全協の舞台裏では六全協原々文の入手経緯 (末尾のみ引用)

   5、同志が語る「六全協原案作成者」の事実関係 (末尾のみ引用)

   6、「六全協」の原々案、原案、決議文をめぐる怪 (ほぼ全文)

   7、解明された「文書改竄」の狙い (ほぼ全文)

 

 (宮地・注)、亀山幸三は、国際派中央委員7人の一人である。彼は、50年分裂中、宮本分派「全国統一会議」メンバーではないが、宮本顕治に密着した活動をしていた。それだけに、当時の宮本顕治の動向や心境に通じている。彼は第7回大会中央委員・財政部長だった。61年綱領問題で宮本顕治と意見が対立し、除名になった。『戦後日本共産党の二重帳簿』(現代評論社、1978年、絶版)の内容は、党分裂→四全協→六全協→第7回大会という経過に関する貴重な証言である。この〔証拠資料6〕は、そこから六全協原案・決議文に関する第5章の一部を抜粋・転載した。

 

 「第5章、一九五二年から六全協にかけて―4、5、6、7」(P.197〜228)の内、4・5の末尾と6・7のほぼ全文を抜粋し、転載した。第5章は長く、その前半を省略したので、亀山幸三が主張する六全協における3つの文書とその規定を説明する。彼は、ここで、志田重男と宮本顕治による六全協文書改竄事実を論証している。この内容も、『嘘つき顕治の真っ青な真実』を証明する貴重な証言である。

 

 第一、六全協原々案=A案…スースロフ作成。北京が日本に持ち込んだ。北京とは、(1)1954年10月30日、来日した中国共産党李徳全なのか、(2)北京機関の誰かかは不明である。不破哲三は、モスクワにおける六全協準備会議メンバーと国際的指令内容を、1993年に自白・証言した。彼は、六全協がソ中両党準備・指令により武装闘争五全協共産党が招集した隷従型国際会議だったことを証言した。

 

 第二、六全協原案=B案……宮本・志田が、原々案=A案の改竄をした内容。この改竄過程やその内容の分析は鋭い。A案B案とを比較し、その決定的違いを検証し得たのは、A案を写すチャンスに出会った亀山幸三しかいなかった。

 

 第三、六全協決議文=C決議…六全協会議における最終決議文。B案C決議との内容はほとんど同じである。

 以下の文中におけるA案・B案・C決議とは、これらの意味である。

 

    『宮本顕治の「五全協」前、スターリンへの“屈服”』不破哲三の自白・証言データ

 

 私(宮地)の判断で、一部を赤太字青太字黒太字にした。

 

 4、六全協の舞台裏では六全協原々文の入手経緯 (末尾のみ引用)

 

 第五は、六全協の原々文の入手についてである。その頃、私は代々木病院に入院している春日()のところへ、二日に一度は(六全協の開催中は毎日)立ち寄って、見舞ったり、喋ったりしていた。中央委員が決ったあとで春日もその中に入っていることを伝えると彼は「僕はその人事を受けるかどうか、自分で中央委員会内でやる」といった。「やる」とはどういうことかわからなかったが、中央委員を引き受けるかどうか、中央委員会へ出かけていって六全協の内容について大いに討論をやるというように聞いた。六全協が終わって一週間ほどして、春日のところへ寄ったときに重要なことを聞いた。「これは六全協の原文である。今日、松本一三が持ってきた。明日はどうしても彼に返さねばならない」という。私は春日に頼んで一晩だけかりて帰り、大急ぎでそれを写し取った。それが、いわゆる六全協決議に提案される、まだ前の原文(以下A案とする)である。これは六全協に提案された原文()とは、冒頭の字句と結びの字句だけは瓜二つであるが、中間はかなり大きく違っている。ただしこの違いが極めて重要な違いであることがわかるのは、それからまだずっとあとのことであるが、その違いは決定的に重要であった。六全協の怪も実はそこに最大のポイントがあるのである(P.207)。

 

 5、同志が語る「六全協原案作成者」の事実関係 (末尾のみ引用)

 

 二、三年前に、臨時中央指導部議長の椎野悦朗に「君は六全協の原文、北京からきた原文を知らないか」と聞いたところ「知らない」という答えがはねかえってきた。椎野が見ていないのは事実のようである。最近、といっても今年になってであるが、志賀義雄に聞いてみると、彼もまた「見たことがない、あれば、見せてくれ」という。時々、大嘘をつく志賀だから、彼の言葉は本当かどうかわからない。いくら何でも志賀がそれを見ていないはずはないと思うが、それでもはっきりしない。もし志賀がそれを見ておらず六全協の原案作成にタッチしていないとすれば、どうなるか。

 

 結局、それにタッチしていると推定出来るのは宮本と志田のほかは、蔵原が少々、松本一三が春日(庄)のところへ持ってきたから、少々知っており、春日正一が当日の報告者だから事前に知っていたぐらいである。こういうところから、A案を知っており、B案を作成した中心人物は確実に宮本と志田の二人だけであると私は断言する。(P.212)

 

 6、「六全協」の原々案、原案、決議文をめぐる怪 (ほぼ全文)

 

 さて六全協の原々案(A)と当日の決議文(Cとを比べて、その特徴点をあげると、

 一、これが何時作成されたかについては二、三の証拠となる文句があるのでほぼ推定出来る。

 二、次にAにあって、BにもCにも無いもの、すなわち削除された部分がある。それはどこか。

 三、そして、A案に無くて、Bにあるものは何か。それは新たに挿入されたものである。

 四、その他の特徴、たとえば形式とか、奇妙な字句の違いなど。

 

 まず、これは何時つくられたか。A案には鳩山内閣という言葉はどこにもなく「吉田内閣」という言葉がたびたび出る。それゆえに、原文が吉田内閣の時代につくられたのは明白であろう。したがって情勢分析がAとCではいたるところで非常に違っている。周知の一九五四年暮から翌年初めにかけてわが国の政治情勢は非常に流動的であった。したがって情勢分析はC決議の方がずっと精密である。また、前述のようにC決議の最後の第六項には「今年になってから行なわれた二つの選挙の結果に見られるように」といっていることによって、B実は少なくとも四月の統一地方選挙ごに仕上げられたことは明白である。蔵原の発言なども考えると、おそらく最後の仕上げは六全協の直前かも知れない。

 

 次にA案にはあって、BまたはCに無いものは、重要事項にしぼっていえば次の通りである。なお、BはCとほとんど同じであるから、以下はAとCの対比だけにとどめる。

 

 、冒頭の「一九五一年一〇月、党は五全協で新綱領を採用した」というところは除いている。これは誰でも知っているので除いても問題にならない。

 

 、「わが祖国はソ同盟や中国、朝鮮その他のアジア諸国の親しい兄弟的人民に対する不正な破滅的戦争へかりたてられる重大な危機にさらされている。アメリカ帝国主義者とその同盟者は三年間にわたって日本の領土を利用して朝鮮人民に対する略奪的侵略戦争を行った、しかしそれは惨敗に終った…‥」という部分は除かれている。あまりにも主観的、誇大表現だからであろう。このところはC決議では単に「朝鮮侵略戦争に失敗したアメリカ帝国主義は」となっているだけである。……実はAとCでは細かい、削除、訂正は無数にあるので、一々記録することは出来ない。

 

 、いうまでもないが「吉田内閣」はすでに除かれて、大部分が反動政府、または鳩山内閣になっている。

 

 にはあった「『党は平和革命の日和見主義論を排し、新しい綱領に基いて、党を分裂させていた党内分派闘争を停止し』党の政治的、組織的統一を回復した」という部分から『……』内をすべて削除した。そこのところは、後段部分の「党の政治的、組織的統一を回復した」とだけ書かれている。これは重大な改変である。「党内分派闘争を停止し」なるところを削除することは重大な意味をもっている。

 

 またそれにつづいて「この誤りの最大のものは冒険的闘争についてである」とか「武装闘争」という言葉は除かれ、それらはまとめて「極左冒険主義」という言葉にかえられている。つづいて「この国内情勢の誤った評価にもとづいて四全協、五全協の決議の中に冒険的闘争をうながすような誤ったものがあった」に始まって、「党は大衆を獲得する為の忍耐強い頑強な活動のかわりに、小さな自衛隊を組織する道に進み」云々とつづき、「吹田事件、名古屋事件等はその代表であり、五二年の東京メーデー事件は、敵の挑発にたいし大衆が勇敢に闘ったが、党の正しくない政策の結果おきたものである」云々「五二年一〇月に開かれた第二二回中央委員会総会は、党活動の中の欠点を反省した。しかし、その総会は党の最大の誤り、冒険的闘争方針の誤りを全然批判しなかった」云々として、これらの部分はすべて削除してしまった。要するに「武装闘争」の部分と、その具体的実例部分をすべて消してしまったのである。

 

 次に、A案の中から「一切の冒険的闘争を停止し、今までの自衛隊は解散しなければならない。一時的ピケ以外に恒常的な軍事的性質の部隊を組織することは正しくない」云々は、その前後とともに、すっぱり削除されている。

 

 A案でも決議案でも共通なのは第一章だけで以上のように改竄されている。これだけでも見られる通り大変な文書改竄である。それは明らかにある目的をもった文書偽造といえるように思う。もしも、A案がそのままだされておれば、志田も椎野も、野坂でさえも所感派の中心分子はほとんどすべて六全協の中央委員として居坐ることは出来なかったはずである。なにしろ、A案にあった軍事方針、武装闘争の文字が全部消されており、吹田事件も名古屋事件もメーデー事件でさえも具体例が全部削除されているからである。それを前線で指揮し、実行した人びとは捕えられて牢獄で呷吟しており、それを指導した人たちは、のほほんと党中央部に坐ってはおれないはずである。

 

 第二章以下も、さまざまの改変があるが、煩雑さを避け、また出来るだけ最重要な点に集中すれば、次の通りである。

 、「党は、なによりも党の組織からスパイや挑発者を追い出すために闘わねばならない。

 、次に最大の訂正個所は次の通り。

 「わが中央委員会は永年の党歴と多くの活動経験を持つ若干の党員を党の指導的活動から遠ざけつづけるという正しくない態度をとっている。この若干の同志とは、かつて分派活動を行なった同志らである。これらの同志らは一九五〇年に中央委員会の多数がとった諸方針にたいして、いくつかの点で正しい批判を行ないながら彼ら自身は、理論的性質をもった誤りを犯し、また党の組織原則を破って党内に分派を組織するという重大な誤りを犯した。しかしながら、この分派を発生させたことについては、当時の党指導部にも重大な責任がある。したがって、すべての責任を一方的に分派をつくった同志らに転嫁することは正しくない。しかし、彼らが公然と自分の誤りを認め党の新しい綱領に完全に賛成することを声明して、中央委員会の指導の下に党の活動に積極的に参加しようとしているかぎり彼らに対して、これ以上不信をいだく根拠はない」云々、以下四行つづく。

 

 かなり長い引用になったが、先の軍事方針をA案の一つの核心とすれば、この部分も六全協決議(B案)の第二の核心部分である。しかも誤りの第一項目として(党分裂の誤りを)C決議案に挿入しているので、これが最重要な核心ということが出来るだろう。この最重要の核心部分が、すっぱり削除されている。そして、C決議でそれらしい部分を探せば、「わが党内には、これまで集団指導の作風がかけていた。而も日本にのこっている半封建的な思想が党内に持込まれ、個人中心的指導と結びついて、家父長的な指導となる傾向があった。党はこのような傾向と闘い、個人中心的な指導方法を断乎として取除かなければならない」云々と、改変され、とくに六全協、C決議では付帯決議をつくり、「党の統一にかんする決議」として、「現情勢は党の団結を何よりも重要としている。全党の団結がなければ国民の団結は出来ない。一九五〇年に発生した党内の不統一と混乱は、発と国民にたいして大きな損害を与えた。この問題については、当時の党指導部にも責任があった。とくに新綱領が出来てから党の統一の基礎が定められたにもかかわらず、全党の統一を十分に実現出来なかったのは、党指導部の重大な責任である」云々とかわったのである。

 

 こうしてみて初めて「当時の党指導にも」の「も」が如何なる意味であるかが明らかになったといえる。本来は「分派(志賀、宮本、それから私らも全部)をつくったのは重大な誤りである。しかしそれについては、党指導部にも責任があった」とする原々文、A案の前段部分をすっぱり削除してしまったので、なんとも奇妙な「にも」となったわけである。

 

 、A案、B案、C案では形式も若干かえられている。原々文(A)は、どうも全体の題名がないらしい。C決議文は題名を「党活動の総括と当面の任務」としている。ただし、この点は私が急いで筆写したので、写し忘れかも知れない。ほかにCでは付帯決議として、「今後の党活動は綱領とこの決議で指導される。過去のこれと反するものは廃棄される」としている。誤った決議であれば廃棄されるのは止むを得ないが、その方針で闘って捕まった同志はどうなるのか、その誤った決議をつくった指導者の責任はどうなるのか。それを免責するために削除したことは明白といえる。

 

 大阪の枚方事件の一被告は訴えている(「枚方事件覚え書」、脇田憲一)。「軍事組織解体以後、私の新たな任務として東大阪地区委員会のアカハタ分局員としてアカハタの配布を担当していたが、六全協後は一転して分局員の仕事も解任された。これは枚方事件の被告であり、その裁判にかかっていることが理由であった。私は六全協による軍事組織の解体は理解できるとしても、私ら事件関係者の党機関要員からの解任は理解できなかった。その後、ある幹部の話では、党はそういう決定をしたことはなく、それは上級の軍事関係幹部が六全協による下からの責任追及を逃れるための策略に違いないというのであった。

 

 そういえば当時、明らかに上級の軍事委員だった顔ぶれがそのまま中央、地方の要職に残っているのを見る時(村上弘は大阪軍事委員会の責任者であった)、私は六全協をめぐって、どのような妥協が行なわれたのか、不信がつのるばかりであった」「六全協をうけとめる気持は正に虚無そのものであった」と訴えている。もはや説明の必要はない。これはまたすさまじい党中央への不信、下部党員大衆の憤怒の告白である。

 

 党の統一に関する決議が、以上のように決定され、つづいて「団規令その他による弾圧反対についての決議」が決定されている。最後の団規令云々は、軍事方針を全部削除したので、その方針で闘い、捕えられている人びとへの義理合いから、つけ加えられたものにすぎない。というのは六全協の会議で決議するときは、えらく神妙に、重大そうに志賀義雄あたりが報告していたが、実際には六全協ご、党として軍事方針の犠牲者には何一つ満足な救援もしていない「ほったらかしの政策」を組織的にやったから、私はこういうのである。

 

 7、解明された「文書改竄」の狙い (ほぼ全文)

 

 さて、これで、いったいどういうことを狙って文書改竄が行なわれたかは、もはや一目瞭然であろう。

 

 第一は、軍事方針、武装闘争を極左冒険主義という言葉に緩和し、その具体例を除き、党勢力の減退の理由を出来るだけ抽象化することによって、志田の責任を逃がれさせ、

 

 第二は、第二次総点検運動は誤りであったという部分を削ることによって、神山除名をそのまま引き継ぎ、志田、竹中、岩本、椎野らの責任を免れさせ、

 

 第三は、分派を結成したのは誤りであった、というのを取り除くことによって、ついでに分派をやった人びとが自己批判したということも削除して、宮本を救済し、そのヘゲモニーを全面的に認めることにあったのである。

 

 要するに、このような狙いをもって文書改竄が行なわれ、ついで歴史的事実の偽造もその線に沿って進められたのである。志田は自分のある仲間に「早くしないと、あいつらが帰ってきて、ヘゲモニーを取られるおそれがある」と六全協の二カ月ほど前に喋っている。「あいつら」とは誰か。おそらく野坂や紺野らではないかと思う。というのは北京にいた野坂と紺野は日本の党が非合法活動と軍事ゴツコばかりして、みるみるうちに労働組合からはじき出され、全党の組織が顕著に減退するのを非常に怒っていた。そのことを、私は別のルートから(北京から帰った人びとの中から)入手している。この志田の言葉はいわば自分が党ヘゲモニーをなおも握っていたいとする点で、まさにそのものずばりである。

 

 宮本は、一九五一年秋から五二年、五三年、五四年と、百合子全集を編輯したり、文学評論を書くぐらいで、党の仕事にはいっさいタッチしていない。志田は宮本復帰のときに、彼にアジ・プロ方面の仕事をやらせようとしたが、結局「つかいものにならないので、放っておいた」と人に喋っている。志田は宮本のことを一九五一年秋頃「あの薄ノロ奴! どうしようもない、放っておけ!」といったことも、私は耳にしている。しかも、志田は宮本の自己批判書はきちんと手に入れている。そういうところへ六全協の原文がきたのだから、その批判から身をかわすために一番先に思いついたのは志賀でも、春日(庄)でもなく、この宮本であったわけである。ところがそれは志田にとっては最後の大きな見込み違いであった。

 

 宮本はもと国際派の中でも一ばん頑固で陰性であり、しかも形式論理の大家であった。薄ノロは宮本のカムフラージュであることに権力者・志田は気がつかなかったのである。それだから志田は宮本に会ってすっかり兜を脱いだ。おそらく徳田の死もすぐ告げたに違いない。しかし志田は、それでも組織と金は全部握っているから、そこで二人の妥協、権力への野合が出来上ったものと思われる。おそらくA案からB案への改竄はほとんどすべて宮本の手になったものだろう。宮本一人の手に! 宮本にとって、想えば長い道のりであった。一九五〇年一月七日のコミンフォルム批判以来、はげしい罵倒、屈辱にたえて、その中には自分の生涯の痛恨事である自己批判まで強要されて、一時、彼は八・一四のコミンフォルム第二批判のあとで「そんなことがとおるのなら、党も何もやめてしまう」というところまでいっていたようである。それとともにタライ舟で日本海を渡る説まで流されたのである。それが、目ざす徳球は死ぬし、志賀はトップにはなり得ないし、一番うるさいのは、むしろ神山なり、春日であるとみたものだろう。志田と手を握って、党指導権を手中にする絶好のチャンスとしたものである。

 

 (中略)…この椎野・吉田、小松への軍事責任転嫁の陰謀は空おそろしいものを感じる。もしも椎野がいっておれば・半永久的に帰れなかったはずだ。実際上、彼は一時的にせよ、軍事委員会の最高責任者であった事実があるからである。宮本と志田の合作によるこの陰謀は、六全協決議の内容の改竄とまったく表裏一体の関係にあることは、もはや説明の要もないと思う。宮本は自らに加えられた分派の刻印を消すために、六全協決議から苦心惨憺して、その部分を削除した。これが出来れば宮本のヘゲモニーは目の前にぶら下っている。志田がそれを承認するなら、志田の軍事方針削除に手を貸すぐらいいとたやすいことであったろう。またそのためには、極力、神山を遠ざけ、春日庄次郎と私を遠ざけることもたやすいことであった。それで私には選挙対策部長の激務をふりあてたり、また、あとで述べるトラック財政の点検から遠ざけたこともうなずける。

 

 六全協の怪の内容には、なお、付け加えなければならない。どうも野坂、紺野らの対応が気にかかる。いままでも、六全協の原々案をいったい誰がつくったかについて、暗示的に野坂と紺野ではないかといったが、どうもそれは事実らしい。この二人に河田賢治と西沢隆二も加わっているかも知れぬ。志田が「あいつら」といったのは明らかに野坂、紺野を指すと思う。ところが最近聞いたところでは「これを最終的に仕上げたのは、スースロフだ」という(北京から帰ったもと中央委員の話)。私はそれを聞いて、はっと思った。なるほど、これは確かにスースロフに違いない。彼の人をきめつけるいい方は、これとよくにている。スースロフは長らくスターリンの代筆者であり、フルシチョフの文書係りでもあった。ただ、ちょっと疑問に思うのは、スースロフとすれば、やはり野坂らはモスクワにいったものか、あるいはスースロフが北京へきたものか、まさかスースロフがこのために北京へくることもないだろうと思われ、その点やや疑わしい。いずれにしても野坂と紺野、河田らが中心になり、原案を書いてスースロフにみてもらったものだろう。

 

 そうすると、次の問題として野坂や紺野、河田、西沢らは、このA案からB案またはC決議案にまでの改竄を、どうして許したのかという疑問が出る。私はそれは容易に解明出来るとみる。野坂や紺野は、海外で遠くから調査したり、文書を書いたりすることはいつもなかなか上手にやるが、本来、弱虫であり、いわば共産主義運動の仲間では卑怯者で通っている。彼らは、宮本も五年前に分派活動をみとめて、三度も書き直しに応じてまでも自己批判しているのだから、まさか、それが宮本によって引っくりかえされていると思いもおよばなかったのであろう。そしてもっとも嫌っていた志田の軍事方針については、自分らにも脛に傷がある。たとえば紺野は四全協のあとで軍事方針の内容について、自己批判を書いた本人であり、野坂は一番初めの「新しい愛国者の任務」を書いたらしく、そういう弱みのためにCのような改竄をすぐ認めたものだろう。何よりもこの二人は、宮本と志田の同盟にはまったく歯が立たなかったと見られ、「宮本らは分派活動をやった」と野坂は前から、北京時代も帰国してからもずっとそのように思っていた。

 

 かくて宮本と志田の合作、陰謀ははっきりした。この合作と陰謀のゆえに、宮本は党の資金で待合遊びをし、軍事方針を強行して全党を崩壊寸前に陥れた志田を、丁重に「君づけの除名処分」にしたのである。ただしこの場合(一九五六年九月)も除名ではなく、党員としての資格を失ったもの、と確認したにすぎない。これは明らかに志田から合作陰謀について開き直られたら困るからである。

 

 それではここで、「志田問題について(要約、五六年九月一二日)」について記す。

 、去る一月六日に志田が自ら発との連絡を断ってから、既に九ケ月すぎた。……中略……彼が意識的に党の任務を放棄したことは疑う余地がない。それ故、第八回中委総会は、規約三八条にもとづいて志田を中央委員の地位から罷免する。同時に志田自ら党員としての権利と義務を放棄し、党員としての一切の資格を失ったことを確認する。

 

 、……志田は六全協の準備に積極的に参加した。その際、彼と他の同志との間に重要な意見の相違は見られなかった。そして六全協において彼は中央委員に選ばれ……中略……地方組織に六全協の意義を説明するために、宮本同志と共に九州、中国、関西、北海道の党活動者会議に出席して、これを指導した。彼はこのころから疲労が深まり、三月初めから三カ月の休養に入ることになった。六全協から休養に入るまでの期間に、常任幹部会で相互検討が行なわれたときにも、論争や方針に関して他の同志と重要な意見の違いのあるような発言を彼は言いもしなかった。彼は休養中に自己批判をまとめると語っていた。三月に常任幹部会は彼の一身上の問題(彼の待合遊びのこと)について報告をうけたので、これを彼に知らせると共に彼の説明を求めた。彼はこれに答えることなく、一月初めに中央委員会との連絡をたって、姿をかくしたのである……。

 

 宮本と志田の合作、陰謀の事実はこの声明の中にも歴然とあらわれている。二人が共同して、六全協決議を全国の党組織に説明して回ったことだけでなく、志田の腐敗事実が暴露されたあとも、おだやかに志田を怒らせないような配慮のもとに、彼を「党員たる資格の喪失者」と発表したのである。こういうことは党史上、あとにも先にも例のないやり方である。この文書は、当時の宮本が如何に志田の叛逆を恐れ、志田の機嫌を損ねないように配慮したか、そしてまた当時の中央委員(六全協)内で、すでに宮本が如何に思いのままに振舞っていたか、を示して余りあるものといえよう。この八中総の決定文書は、後半分は志田の待合遊びを暴露した雑誌『真相』(佐和慶太郎編輯人)を激しく非難することに重点がおかれていたのである。

 

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 (関連ファイル)

     小山弘健『コミンフォルム判決による大分派闘争の終結』五全協への自己批判・復帰

     『大須事件騒擾罪成立の原因(2)=法廷内外体制の欠陥』自己批判書提出の証拠

     『大須事件第5部・資料編』五全協への自己批判・復帰と五全協共産党での活動証拠

     『宮本顕治の「五全協」前、スターリンへの“屈服”』7つの資料

     『「武装闘争責任論」の盲点』朝鮮侵略戦争に「参戦」した統一回復日本共産党

     石堂清倫『コミンフォルム批判・再考』スターリン・中国と日本共産党との関係

     宮島義勇『中国密航と50年8月・周恩来との会見』統一回復・北京機関・武装闘争

     吉田四郎『50年分裂から六全協まで』主流派幹部インタビュー