一九三〇年代日本共産党論−壊滅原因の検討

 

『一九三〇年代日本共産主義運動史論』の第1章

 

渡部徹

 

 ()、これは、渡部徹京大人文科学研究所教授編著『一九三〇年代日本共産主義運動史論』(三一書房、1981年、280ページ、絶版)の第1章(P.13〜74)からの大部分の抜粋である。第1章は、渡部徹著だが、長いので、一部を省略した。戦前1930年代の日本共産党については、最後の中央委員宮本顕治による偽造歪曲・隠蔽党史しか知られていない。それによる戦前共産党のイメージが左翼全体刷り込まれている。それにたいし、この著書は、別ファイル田中真人著書『一九三〇年代日本共産党史論』と合わせて、その実態を共産党側の資料・『赤旗』や官憲資料など膨大な原資料を発掘・分析した画期的な研究になっている。

 

 渡部徹、田中真人とも共産党員だった。しかし、渡部は、戦前の労働組合運動史に関する他著書(1954年)で戦前の党指導への批判的見解を載せたこと、田中は、党内闘争をしたことなどで、宮本顕治ら党中央により査問・除名をされた。絶版なので、出版社の了解を得ていない。私の判断により、文中に各色太字をつけた。

 

 〔目次〕

   著書全体の構成

   第1章、一九三〇年代日本共産党論−壊滅原因の検討

       はじめに (全文)

     1、党組織の根本的欠陥 (一部抜粋)

     2、大衆意識・動向の一面的把握 (全文)

     3、党と大衆団体の混同 (全文)

   渡部徹と他執筆者紹介 (1981年時点)

 

 〔関連ファイル〕        健一MENUに戻る

     田中真人『日本反帝同盟の研究−共産主義運動と平和運動』

           『一九三〇年代日本共産党史論−序章とあとがき』 『田中HP』

            共産主義の歴史的分析が可能になってきた

           『日本共産党「50年分裂」はいかに語られたか』

 

     『逆説の戦前日本共産党史』 『逆説の戦後日本共産党史』ファイル多数

     『1930年代のコミンテルンと日本支部』志位報告の丸山批判

     『反戦平和運動にたいする共産党の分裂策動の真相』

           「反戦平和でたたかった戦前共産党」史の偽造歪曲

     『転向・非転向の新しい見方考え方』戦前党員2300人と転向・非転向問題

     石堂清倫『「転向」再論−中野重治の場合』

     伊藤晃  『田中真人著「1930年代日本共産党史論」』書評

     丸山眞男『戦争責任論の盲点』(抜粋)

     加藤哲郎『「非常時共産党」の真実──1931年のコミンテルン宛報告書』

 

 著書全体の構成

 

   第1章、一九三〇年代日本共産党論−壊滅原因の検討 渡部徹

   第2章、共産党員・同調者の実態−警保局資料による分析 西川洋

   第3章、共産主義青年同盟論−組織路線の混迷 斉藤勇

   第4章、日本赤色救援会−「超党派」的大衆団体の論理と背理 田中真人

   第5章、共産主義と教育運動−新興教育研究所の活動を中心に 尾崎ムゲン

 

 

 第1章、一九三〇年代日本共産党論−壊滅原因の検討

 

 はじめに (全文)

 

 立花隆が『文蛮春秋』一九七六年一月号より「日本共産党の研究」を連載したのを契機に、一九三〇年代の日本共産党をめぐっての論議がにわかに活発化した。当初は、一九三三年一二月末の大泉兼蔵・小畑達夫にかかわる 「スパイ査問事件」に焦点があてられたから、稔りあるものではなかったが、立花の連載が、一九二九年の四・一六事件後、再建された田中清玄中央部時代から一九三一〜三二年の風間中央部時代に進むにつれ、新事実の発掘、現存者による証言などにより、党史の陰の部分が明るみに出され、党史研究に飛躍的前進をもたらした。

 

 この間、立花の研究に触発され、袴田里見の予審訊問調書(平野謙『「リンチ共産党事件」の思い出』所収一九七六年)、風間丈吉の「獄中手記」(風間丈吉『「非常時」共産党』所収一九七六年)、大泉兼蔵の予審訊問調書、谷口直平・宮川寅雄・山下平治・松尾茂樹らの証人訊問調書(竹村一『リンチ事件とスパイ問題』所収一九七七年)、呉水兵・共産党関係判決書、横須賀水兵事件判決書(山木茂『戦艦三笠の反乱』所収一九七七年)、『「多数派」史料』(一九七九年)などが公刊され、豊富な史料が提供された。

 

 さらに、宮内勇『ある時代の手記』(一九七三年、一九七六年『一九三〇年代日本共産党私史』と増補改題)、林田茂雄『「赤旗」地下印刷局員の物語』(一九七三年)、梅本竹馬太『壊滅−「赤旗」地下配布部員の記録』(一九七四年)、山本秋『昭和米よこせ運動の記録』(一九七六年)、山口近治『治安維持法下の教育労働運動』(一九七七年)、山本正美「激動の時代に生きて」(『労働運動研究』九九号〜一三一号)はじめ、多くの当事者の回想が『神山茂夫研究』、『運動史研究』にのせられ、当時の党周辺の実情をなまなましくうかがうことができるようになった。

 

 それにともない、伊藤晃「日本共産党分派『多数派』について」(『運動史研究』1所収)、栗原幸夫「戦前日本共産党史の一帰結」(竹村=リンチ事件とスパイ問題)所収)、「党史の方法」(『さんいち』五号、丸山茂樹「崩壊期の共産党の諸問題」(『運動史研究』6所収)などのすぐれた研究も発表された。

 

 問題の中心は、一九二九年末以来の大恐慌と階級闘争の激化という、共産党発展の好条件に恵まれたにもかかわらず、三一〜三二年一〇月風間丈吉中央部時代に、三・一五、四・一六事件の党中央部の公判闘争、反戦闘争、米よこせ運動、失業者運動、文化運動にやや見るべき活動を示したにとどまり、三二年一〇月銀行ギャング事件大検挙を境に、急激に党勢が衰退し、三三年末「スパイ査問事件」とそれにつづく三四年一月「全党員の再登録」指令を契機として、「多数派」分派を生み、あえなく壊滅するに至ったのは、何故かという点にあるといってよいであろう。

 

 『日本共産党の五十年』は、この原因を、()、弾圧が強化されたこと。()、三二五、四・一六事件により有能な、経験ある幹部・活動家が奪われ、経験の少ない小ブルジョアが党指導部の中心を占め、活動家の質も低下したこと。()、コミンテルンの社会ファシズム論に災いされたこと。()、革命の戦略が二七年テーゼから三一年の政治テーゼ(草案)、三二年テーゼと大きく動揺したこと。()、スパイ、挑発者により党を撹乱されたこと。()、三三年六月の佐野学・銅山貞親ら、かつての党最高指導者の転向とそれを契機とする大量の転向現象。()、三二年テーゼの、革命近しという主観主義的な情勢判断、などによるものとしているといってよいであろう。

 これらの要因が作用したことは確かであるが、ただ要因を列挙しただけでは、問題点を解明したとはいえない。

 

 これに対し、伊藤晃は、「日本共産党分派『多数派』について」(『運動史研究』1)において、まず「共産主義運動は世界的にみても、三〇年代敗北したのである。なかでも、日本の運動はついに勝敗を論ずるに足るような規模に到達できずじまいであった」と、日本の共産主義運動の全体的位置づけをした上で、彼のあげる敗北の原因は、ほぼつぎのようにまとめることができよう。

 

 すなわち、この時代、「党とは中央委員会のことであり、党員はその方針実現のための材料」、「使い捨ての消耗品」で、しかも、中央委員は「大衆的な場で信頼を問い、力量を評価される」ことなく、恣意的に任命され、指導能力が疑わしいにもかかわらず、「党を神秘化する権威主義が、党員・支持者をとらえていた」。その結果、党は「さまざまな運動の指導機関を整然とした体系にととのえることを革命運動と混同し」、「党が直接指導する運動であればあるほど、イデオロギー性の乏しい街頭的カンパニアになっていった」。そのため、党員は入党から検挙までの活動期間がきわめて短く、また、党員は細胞に所属しない街頭分子がほとんどで、大衆との結合がよわかった。

 

 そこへ三二年テーゼがもたらされ、「天皇制打倒によって対ソ戦争が阻止でき」、「天皇制を直接の敵とするときに日本の革命がありうる」としたが、「危機のなかで国民が歴史に立ち帰り、天皇に率いられた戦争に引きつけられた、まさにそのとき」であっただけに、天皇制打倒・戦争反対のスローガンは大衆に受けいれられず、逆にスパイによる大量検挙に伴い、党内に疑心暗鬼の不安感をつのらせ、「スパイ査問事件」党員再登録破滅的局面を迎えたというのである。

 

 しかし問題は、なぜこのような党になったのかであろう。栗原幸夫は「戦前日本共産党史の一帰結」(竹村一『リンチ事件とスパイ問題』)の中で、これに答えて「四・一六大弾圧以後、革命運動は明らかにそれ以前とは大きく変った。運動全体を非合法主義ラジカリズムが支配した。この傾向は、…大量に運動に参加してきたインテリ出身者によって一層拍車をかけられた」。「党の中心部よりも周辺の方がより『左』翼的な心情にとらわれ……その結果、いろいろな組織が運動全体のなかでもつそれぞれのレベルの違いが無視されて、すべてが『党』に一元化されてしまうという傾向が支配的となった」。とくに風間中央部時代の「『党の大衆化』の方針が、政治方針、大衆運動の方針の転換=大衆化と並行せず、また大衆組織の方針の転換とも並行しなかった結果、一方では党員獲得が自己目的化して大量の街頭分子の流入を生み、党活動の主要な部分が街頭連絡という形をとるに至り、他方では大衆組織党員獲得のプール視する傾向を強め…『党の大衆化』のスローガンが逆に大衆組織『外郭団体』化、『前衛化』を生み、その方針の一層の極左化・セクト化を結果したのであった」という()

 

  (1)、伊藤はこの点について、前掲論文で「当時の社会の深い諸矛盾は、労働者・農民をともすれば急進化させ、運動にはげしい形をとらせた。この社会では自己の将来が否定されていると感ずる青年たちが、新しい生き方を求めて献身的に運動に加わってきた。こうした自然発生的な急進性は、往々にして共産党への支持となった。党はどちらかといえば、こうしたものに依存するようになった」といっている。

 

 党の極左的偏向、街頭分子化、党と大衆団体混同をもたらした理由としてはうなずけるが、何故こうなったか、風間時代の党大衆化方針のどこに問題があったのか、さらに解明を必要としよう。

 

 本稿は、今みたように、すでにこれまで検討、指摘された諸点をふまえた上で、三〇年代日本共産党のもった最も根本的な弱点として、()党組織の根本的欠陥、()大衆意識・動向の極端な一面的把握、()党といわゆる革命的大衆団体との混同、党による大衆団体付属物視、の三点をとりあげ、検討しょうとするものである。検討にあたっては、「党組織」を、げんみつに党員によって構成されるものに限局して究明することに努めた。

 

 というのは、党組織の全体像については、官側記録によってうかがう以外、ほとんど手だてがないが、特高の記録は、たとえば同調者を党員とみなしたり、細胞とあっても、党細胞か共青(共産主義青年同盟)細胞かが区別されない場合もあり、さらに経営細胞とされていても、その経営内に党員がなくて、経営内の党員獲得をめざす目標細胞の場合が少なくなく、また経営内に一名の党員しかいなくても、細胞であるかのようにみなされていることも少なくない。そして、このような特高の誇張した記録が、党勢誇示に都合のよいこともあって、そのまま受けいれられていることが多かったからである(1)

 

  (1)、たとえば、『日本共産党の五十年』は、三〇年代初頭の「この時期には、党は、東京、大阪の陸軍各連隊、横須賀、呉の軍港、戦艦長門、榛名、山城など、兵営や軍艦のなかにも党組織をつくり」(増補版六四ページ)と記しているが、のちに検討するように、党員として確認しうる者は、僅少で、多くは党と連絡のある軍人がいたにすぎず、党組織−複数以上の党員−が作られたのは、呉海兵団だけであるにすぎない。もっとも、共産党は、三四年四月から三五年三月まで、中央委員は袴田里見一人にすぎなくなっても、中央委員会なる「組織」は存続したとしているから、党員一名がいても党組織がつくられたことになるのであろう。

 

 なお本論に入る前に三〇年代の日本共産党のおかれていた地平について一言しておこう。それは、さきにみたように伊藤も指摘し、また神田文人も、戦前の運動は「極論すれば、思想集団の域をついに越えられなかった」(『日本の統一戦線運動』四一ページ)というように、三〇年代の日本共産党は、直接、革命にとりくむ態勢にある党ではなかったということである。

 

 というのは『「赤旗」パンフレット』第五輯「ブルジョア議会と労働者農民政府」(29・2・14)が「現在の政府を顕覆し、労働者農民の政府を樹立することは如何にして出来るか?」を問うて、それは「プロレタリアートと農民が固く固く同盟して、現存国家に対して闘争し、反乱することによって出来る。プロレタリアート自らが武装し、権力に向って大衆的な蜂起をすることによって、プロレタリアートと農民の出身から成る軍隊が、その手にある武器を支配階級に向けることによって…可能である」とのべているように、当時、革命を語りうるためには、武装蜂起の準備が不可欠であった。

 

 したがって、一九三一年末のプロフィンテルン第八回評議会も、全協に対し、自衛団、それも「民主主義的中央集権主義に基いて選出された単一の中心をもつ恒久的組織」の建設を要求したが、全協は、ストライキやデモのさい、局地的、一時的な自衛団を作るのがせい一杯であり、党も「勝利ある叛乱の道へ進む我々は、今からすでに武装せる決死的大衆的自衛団の組織を具体的な階級闘争の場面と結びつけて日程に上さねばならない。プロレタリアートは武装しなければならぬことを今日既に広く宣伝しなけねばならぬ」(『赤旗』六三号、32・3・2)というていどで、具体的現実的には武装は緒にもついていない。したがって党のおかれている主体的情勢は非革命的状態であった。この時、革命を直接語るなどは夢想といわなければならない。まさに、この時期こそ、党勢の拡大と組織の温存が必要であったであろう。しかし、現実は、全く反対に動いたのである。

 

 1、党組織の根本的欠陥 (一部抜粋)

 

 〔小目次〕

   1、党の自己批判 (省略)

   2、田中清玄中央部の「組織テーゼ」 (省略)

   3、風間中央部の安易な細胞建設観 (省略)

   4、三一年前半期の党組織 (文末のみ)

   5、記念日街頭デモの偏重 (一部抜粋)

   6、経営細胞の実態 (一部抜粋)

 

 4、三一年前半期の党組織 (文末のみ)

 

 そうであるとしても、三一年六〜八月の兵庫県地方委員会は、三〇年代前半の党史上、組織的には稀有のケースであった。それは八・二六事件で検挙された京阪神の党員一二四名中、七九名(大阪は二九名、京都は一六名)を占めるだけでなく、党員の分布が、神戸市電一三名、神戸中央電信局七名、三菱電機三名、神戸製鋼・川崎造船・宇治電各二名、ダンロップゴム・生糸検査所・小泉製麻・神戸工作所・姫路郵便局各一名、と大事業所勤務が三四名、ほかに船員二名で合計四五名と党員の五六%が経営内党員であることである。

 

 逆にいえば全体的には党員総数中、経営内党員がいかに少なかったかが知られよう。それにしても工場細胞の存続期間は、神戸市電・神戸中電が五ケ月、三菱電機が四ケ月にすぎない。工場細胞は、簡単に組織しうるものでもなければ、またそれ以上に維持することがいかに困難であるかが知られようというものである。

 

 じじつ、三一年九月頃まで、全国を通じ工場細胞が形成されたのは神戸の三細胞のほかは、東京の宮田自転車製作所、東京市電のみであった(詳細は後述)。

 

 5、記念日街頭デモの偏重

 

 工場細胞が思ったほどには建設されないことが明らかになったからであろうか。風間中央部は、三一年二月の党中央委員会「満州占領戦争と日本共産党の当面の任務」(『無新パンフレット』第一三種 みすず『社会主義運動』1所収)において、「細胞の拡大強化なくして党大衆化はあり得ない」(五二〇ページ)として、「吾々は特に細胞組織の仕事を精力的に遂行する為め、選ばれた戦士で突撃隊を組織することを要求する」。「組織の進撃目標工場を選定し突撃隊員をさしむけて急速に大衆行動を組織し、細胞を組織することを要求する。

 

 それは必ずブルジョアから彼等のあらゆる機関によって総攻撃を以ってむかえられる最も苦難な闘争であることを覚悟しなければならぬ。それ故辛抱強く、巧妙に、決死的に闘うプロレタリア英雄でなければ断じて成功し得ない」(五二七ページ)と、細胞建設は「最も苦難な闘争」であることを認め、ついで『赤旗』六二号(32・1・21)において、中央委員会は、「大衆運動の先頭に立て! 右翼日和見主義並極左宗派主義的偏向の克服へ」の中で「我党指導部は次の事を決定し、その実行を各機関に義務づける」と次の四項を指示した。

 

  、中央、地方、地区の優秀なオルガナイザーを重要目標工場、企業に派遣し、工場、企業細胞の生活に直接接しさせる。オルガナイザーは従来の如く只単なる連絡の為にのみ時間を費すというが如き事を廃し、受持工場・企業を基礎として大衆運動を組織する為に働かねばならぬ。

 

  、受持工場・企業は従って最少限度に止められねばならぬ。重要な所は一人一ヶ所で充分である。(下略)

  、必要な条件のある場合には、地方・地区の指導部は一、二名の同志を残し、全員を大衆運動の直接指導に当らしめること。

  、比の方針を受取った其の日から実行に着手しなければならぬ。

 

 しかし、この指令の状況認識が「我党の下層組織状態を見るに一工場一農村に三名乃至五名の細胞が存在して居り、且つその地方、職場等に大衆運動が起ったにも拘らず、細胞員数が少しも増加していないという有様である」というように、細胞組織が広く存在しているかの如くみなしていた

 

 その上、すでにまえに示した一九二九年の「日本共産党当面の組織事業、特に細胞の組織及活動に関する決議」において工場細胞の「なすべき仕事の重要」なものとして、「時々刻々の政治的並に経済的諸運動(例えば全国的大ストライキ、農民運動、失業反対、議会解散、選挙戦、帝国主義戦争反対、メーデー、ロシア革命記念日、其他すべてのプロレタリア記念運動、其他種々様々の問題のための工場代表者会議、大衆集会及び示威運動)に工場大衆を動員すること」(みすず『社会主義運動』1−三五六ページ)をあげていたが、以後、党の表立った活動は、各種記念日闘争が中心であった。いま風間中央部時代に、無数ともいうべき各種記念日闘争の指令・檄・ビラのうち一九三一年〜三二年はじめにかけてスト・デモを指令・檄した『赤旗』ならびに手元にあるビラ・檄を示せば、つぎのとおりである。

 

  三・一五記念日

  『赤旗』(「三・一五記念特輯号」31・3・10)−三・一五を大衆的政治的デモで記念せよ! 工場鉱山農村から腕をくんで街頭へ!」

 

  七月七日公判開始日

  (党・同盟の檄)−「前衛を釈放しろ! 午前十時を期して一斉ストライキを決行し街頭デモに参加せよ!…午前十時!…此の時を期して…各工場の情勢に応じたスト、五分間スト、サボを以て支配階級に抗議をタタキつけるのダ!」

  (同前ビラ)−「七月七日前衛を即時釈放しろ 一斉スト・デモだ」

 

  (党東京市委員会檄)−「七月七日を期して全市一斉にストとデモを決行せよ!…ガッチリと腕を組んで工場から車庫から街頭に押し出せ! 失業者と共に街頭を占領して一大デモを決行せよ!」

  (党檄)−「七月七日! 一日のストと一日のデモを決行せよ! 七月七日、凡ての労働者、農民、勤労民衆は一人残らず街頭デモへ!」

  (党中央委員会檄)−「万難を排してデモを組織せよ!…日常闘争が如何に激烈に闘われたか、日常闘争の公判カムパニアが如何に成功的に結合されたかは、この大衆的政治的デモに同志達がどれだけの労働者農民を動員し得るかによって端的に示されるのだ!」

 

  (中略)−以下、26種類の各種記念日闘争の指令・檄・ビラの内容と動員・実行結果

 

 ややのちの三三年七月には、「従来のデモに於ては、…経営内の闘争の発展に役立たなかったばかりか、せっかく経営内で獲得した活動分子をムザムザと敵に引渡すが如き場合すらあった」(「論説 プロレタリア英雄主義を発揮して八・一闘争の立遅れを克服せよ」『赤旗』一四九号33・7・21)と告白しなければならなかった。

 

 そうであるからデモへの公然たる参加どころか、「工新を発行すれば直ぐテロが来るから発行できぬ」(党東京市委員会アジプロ部『突撃』第一号)というのが正直なところである。これに対し「一人の同志が奪われようとも、その代りに何百人何十人の新しき同志を獲得しなければならぬ。テロを恐れては何もできはしない」(同前)といってみても、空語にすぎないであろう。

 

 風間中央部は、命脈をたたれる直前の『赤旗』特別号(32・9・22)「ロシア革命十五周年記念日−十一月七日に備えよ」で、改めて「最大の弱点は重要大経営−多くは軍需品大工場−内に於ける活動の不十分である。…この事は過去一ヶ年半の基本的方針たる重要大経営のネライ打ちの方針の実践のテンポが遅い事と拙いことを証明する」とのべたが、「実践のテンポが遅い事と拙いこと」が原因ではないことはもはやいうまでもないであろう。

 

 後年(一九三七年九月)、『国際通信』の「大衆的反戦闘争の為に」は、「満州事変の二、三年間、反戦的大衆行動といえば、高度の革命的反戦スローガンを掲げた非合法、街頭デモに限られる傾向があった。…有効な街上デモを行うことは絶対に必要である。然しこの場合には犠牲を最小限度にする為の周到な準備が絶対必要条件であり、従って、屡々繰り返すことは一般に不可能である。…党組織の擁護が第一であって、これを犠牲にしてまでデモを行う事は本末顛倒である。処が過去の誤りは、他の合法的な大衆行動の組織を等閑にして非合法デモを過大評価し、『如何なる犠牲を払っても』これを『敢行』し、その結果、党組織に甚大な損失を与えた処にあった」(みすず『社会主義運動』1−八八〇ページ)と評したが、適切な指摘といえよう。

 

 6、経営細胞の実態

 

 これまでみたところで明らかなように、風間中央部時代をつうじて、経営内細胞がそれほど多く形成されえたとは考えられない。じっさいに、どれだけ形成されたかを確かめることきわめて困難であるが、特高の調査を手がかりにして検討してみょう。

 

 『社会運動の状況』の三二〜三四年の各年版には全協の項で、全協各産業別組合の組織のある大工場・官庁名とその組合員数にあわせて、その中の党員数、共青同盟員数をかかげている。いまそのうち党員のいる工場、官署名を示すと表l,2のとおりである。

 

 このうち、宮田自転車製作所の全協日本金属労組員三七名全員が党員と記載されているが、ミスプリントではないかと思われる。というのも三三年二月二七日に一斉検挙されたとすれば、『特高月報』に記載があるはずであるし、また党員であれば当然起訴され、『特高月報』の「起訴調」に関係者氏名が掲載されるのが通例であるのに、該当者が見当らないからである。しかし、今は確認の方法がないので、以下一応、表1どおりとして検討を加える。

 

 つぎに『特高月報』各月分にある「治安維持法違反起訴調」から、その「犯罪事実」欄により、党員だけをとり出し、さらにそのうち経営に所属しているとの記載のある者を事業所ごとに整理して、党員二名以上が同時に存在するか、あるいは同一事業所で二度以上党員のいた事業所名と、その党員の入党年月検挙年月を示すと表3のとおりである。また党員一名のみの事業所名を府県別入党年月日順にあげると次のとおりである(括弧内、上は入党年月日、下は検挙年月日)。

 

 (中略) (表1〜5)の経営細胞党員数データ、都道府県別データ、年度別データ多数

  8ページにわたる膨大で綿密な分析だが、長いので(省略)する。

 

 こと経営細胞に関する限り今みたように全く弱体である。「工業地帯で最も重要な経営に細胞を建設し始めた」というには値しない。このような評価は、目標工場を設定した街頭細胞や、あるいは、党東京市委員会アジプロ部の『突撃』第一号(32・7・10)が「一人でも細胞のある所は」というように、経営内に一名の党員がいれば、細胞とみなして、誇大に経営細胞をとらえたことにあろう。

 

 このように、風間中央部時代に入って、党員拡大を推進しながら、経営細胞建設が進まなかった結果は、「党細胞−地区委員会−都市委員会−地方委員会−中央委員会」という構成が、基底の細胞を欠いたまま、地区委員会以上の機関要員の肥大化をもたらし、スパイ松村と切り離せない、かの悪名高い膨大な家屋資金局なども、頭でっかちな組織構成が生み出したともいえよう。

 

 2、大衆意識・動向の一面的把握 (全文)

 

 〔小目次〕

   1、共産主義者の社会的孤立

   2、「大衆は革命化している」

   3、革命の切迫観

 

 1、共産主義者の社会的孤立

 

 以上にみたような組織実態にもかかわらず、党勢やその影響力をいちじるしく誇大にとらえたのは、当時の党中央部−中央部のみに限られないが−の大衆意識・大衆動向のとらえ方が、極端に一面的、主観主義的であったからであろう。あらためて述べるまでもなく、当時、国民大衆の間には「共産党=アカ=非国民・国賊」観が定着していた。大衆運動内においても、治安維持法制定以後は、「共産主義的」といえば、問答無用で排除されえた。したがって、党員はもちろん共産主義者は仲間うち以外では、世をはばからねばならなかった。

 

 たとえば一九二八年四月一〇日労農党解散を命ぜられたとき、大山郁夫を例外として、大多数は「労農党と共産党とは全然異っているのだから、共産党にかこつけて解散するのは不当だというのであった。いわば共産党が弾圧されるのは止むを得ないと暗黙裡に承認し、労農党は共産党と何の関係ももっていないと、もっぱら弁解に終始していた」(講座『現代反体制運動史』2−七五ページ)のである。

 

 現に三二年二月の総選挙に党の支持の下に立候補した全協日本電気労組所属で東京電燈新宿営業所勤務の吉田由市(三二年一月二八日入党)は、選挙中「『全協組合員では絶対にない』と否定した」という(川辺太一「第三回総選挙闘争に対する自己批判」『赤旗』六四号32・3・8)。川辺はこれに対し「何も積極的に否定する必要はない。黙っていればよい。むしろ反対に日本共産党や全協は正しいのだという事を主張すべきである」と批判しているが、川辺自身「黙っていればよい」という点に、世をはばかる意識がうかがえる。

 

 また一九三二年の全協中央常任委員会「工場内活動の諸問題」でも、「秘密の態度を改めよ」として、組合員中には「いつも自分は非合法だ非合法だと考えているから、何か公然とものを云ったり、行動することがコワクテコワクテ仕様がないようになるのだ。何かすれば工場主にニラマレはしまいか、警察に引っ張られはしまいかということを心配して小さくなっている」(みすず『社会主義運動』2−六五〇ページ)と指摘している。

 

 だから、党文書中でも、つぎに列挙するように大衆の非革命(反革命)性を指摘するものはあった。

 

  『赤旗』四三号(31・5・31)「トシエ(投)私の誤謬を聞いて下さい」−専売局煙草工場に勤務する「トシエ」が、一人の友人を長い期間かけ説得し、『戦旗』を貸したりして教育した結果、その友人は周囲の人々を説得しはじめたが、「職場中に社会主義者だと評判され誰も側に寄りつかなくなった」。トシエ自身も「たった二人か三人を教えるのに、私が他の職場に行けば、きっと赤い話をすると皆に思い込ませてしまった」。

 

  『赤旗』五六号(31・10・20)「勝子 帝国主義戦争絶対反対だ」−「日本の民衆が殊に婦人勤労大衆は欧州の婦人に比して戦争がプロレタリア階級にもたらす悲惨を自覚していない。未だに排外的祖国擁護的な煽動に乗り易い状態だ」

 

  『無新パンフレット』第一三輯「党中央委員会 満州占領戦争と日本共産党当面の任務」(一九三一年二月)−「日本プロレタリアートが反戦闘争を闘う場合、是非共頭の中に入れてかからなければならない一事だけをここに書く。それは日本帝国主義は未だ一度も露骨な戦敗の経験を持っていないということだ。民衆は一般に尚帝国主義戦争に強力に反対していないということ、むしろ強盗戦争を欲しさえしているということをシッカリ頭の中に入れて、その上で反戦闘争の戦術を立てなければならぬ。抽象的機械的な独りよがりの反戦闘争では決して大衆を啓蒙し大衆の支持を得、大衆を動員することは不可能であろう」(みすず『社会主義運動』1−五三六ページ)

 

  『赤旗』六一号(31・12・23)「赤旗印刷局マル子 婦人部、婦人新聞、婦人間の活動」−「新聞記事によれば、若い勤労婦人が戦時看護婦を志願している。…愛国主義が現在広汎な婦人層を把えていることは明らかである」

 

  『赤旗』六四号(32・3・8)「井上晴子 戦争反対の大衆闘争を捲き起せ」−「戦争が誰を利し、誰を殺すかを遅れた労働者であっても今日では階級的な本能によって感じている。だがブルジョア共のギマンは尚多くの反動的な考えを労働者農民の頭に残すことに成功している」

 

  『党建設者』第一巻二号(32・8・29)「××軍港××艦三等水兵 軍艦の中から」−海軍の兵卒は、上級者・先任者や日常の訓練・作業等に対しては不満と反抗心を持っているが、「それは直接自分達に号令している目前の指揮者に対してであり、その背後の主人公(資本家地主天皇の国家権力)を見極めようとはしないのである。それを指摘して『我々の本当の敵は之だ』と色々例を挙げて説明しても『それは本当かも知れんが、そんな事を云うとぢき憲兵が来る』と目を他に転じてしまう。『満期で出るまでおとなしくしている』と云うのが皆の肚だ。社会主義とはロシアの過激派の事で、日本国家の倒壊を企てている恐ろしいものだと云う事を実に頑迷に信じ切っているのだ。『赤』と云う烙印を捺された者の云う事は非常に効果が少い。烙印を捺されない事が軍隊活動に於て最も必要な条件だ」

 

 2、「大衆は革命化している」

 

 しかし、以上の文章は探し出すのに苦労する全くの例外で、労働者・農民・兵士は革命化していると一義的にとらえられた。このことが、革命客観的条件の成熟主観的条件のいちじるしい立遅れ、という、この時期、たえず強調された言葉の概念を、歪んだものにさせた。

 

 たとえば、「二七年テーゼ」は、日本の革命について「客観的革命的状勢に対して主観的革命的状勢の後れている事は非常なる障害であり、躓きの石である」と強調したが、ここでいう主観的状勢は、「日本のプロレタリアートも農民も何ら革命的伝統や闘争の経験を有して居らない。広汎なる大衆は今や漸く政治的意識に覚醒し始めたばかりである。しかもそれはその中の僅かな部分にとどまる。……階級的感情、階級闘争の必要の理解は、未だ大衆の間に於ける愛国主義的毒素、又は平和主義的幻想によって圧殺されている。

 

 プロレタリアート−農民は暫くおく−の政治意識その革命的階級意識その革命的組織は猶漸くその胎生的状態を脱し始めたばかりである」(みすず『社会主義運動』1−八七ページ)というように、労働者階級総体の状況をさしていた。ところが、日本の党は、広汎な労働者・農民大衆は急速に革命化している誤認することによって、主観的状勢とは党の組織勢力ということに壌小化、あるいは、大衆の革命化は革命の客観的状勢とみなし、主観的状勢とは党の組織勢力であると一面化していくのである。

 

 それは早くも二九年二月の「日本共産党当面の組織事業、特に細胞の組織活動に関する決議」(『「赤旗」パンフレット』第五輯)で、「『党孤立化』の危険は、大衆の我党に対する信頼が失われ始めたことを意味するのであるか? 断じて否、正反対である。大衆は益々我党に対する信頼を増大し、我党への参加を熱心に希望し、その革命的指導を痛切に要求している。然るに、…目下の我党の指導力は此の大衆の要求に応ずるには余りに薄弱なのである。一言にすれば、大衆の革命的圧力が党の指導力を乗り越えて進んでいるのである。ここに『党孤立化の危険』の存する根拠がある」(同前三五三ページ)と、端初的に現われた。

 

 そして、「深まり行く経済危機に労働者・勤労農民の窮乏化と反抗は増大している。革命の客観的条件は成熟している」(「全農左翼を分裂主義の過誤より救へ!」の「あとがき」『赤旗』五七号、31・10・26)というように、大衆の革命化は客観的条件とみなされてしまう。このように三一年はじめより労働者農民が革命化していることは自明の前提として、したがって常套語としてたえず使われているので、今さら例示する必要はないので、ここでは党文書にあらわれた戦争・軍隊・天皇(天皇制)に対しての大衆感情に具体的にふれた事例をいくつか示すにとどめよう。

 

  『赤旗』七七号(32・6・5) 「論説 非常時の道徳」−「支配階級の一切の僕婢共を動員しての戦争の賛美と忠君愛国の思想の大がかりな宣伝にも拘らず、日本の労働者農民の間には反帝国主義戦争の雰囲気が増大している」

 

  『赤旗』七八号(32・6・15) 「論説 農業革命への道」−「勤労農民が『全員の八十三%』を占める軍隊が、この階級搾取と階級支配の現実から教え込まれて、も早や昔日の如き天皇−資本家・地主−の忠勇な軍人でなくなりつつあるのだ(軍艦兵営内で赤旗がむさぼり読まれ『赤い』新聞が発行されている)。これは只に彼等の侵略戦争を不可能にするばかりでなく、直接彼等の支配を転覆するための決定的前提条件である」

 

  『赤旗』八四号(32・7・15) 「宣言」−「天皇の権力並に資本家地主の全機構を挙げての宣伝煽動にも拘らず、天皇制と天皇の一族に対する公然たる批難と反抗とは益々一般化しつつある」

 

  『赤旗』八六号(32・7・25) 「農村に起る反戦行動」−「ひどい窮乏のために、農民は今や、お互いに黙っては居るものの物凄く根強い反戦の意識に燃え、之はまだ極めて不明瞭な形をとっているにせよ、事毎に反戦的な行動となって現われている」

 

  『赤旗』九〇号(32・8・15) 「国際反戦デー 八月一日の教訓」−「我々が集中的目標を政治的中心地(東京では宮城)としたことは全く正しかった。公衆食堂、電車、バス、めしや等々で労働者大衆はこの問題を話題の中心となし、共産党が天皇制に反対することを支持した。宗教的に教え込まれた天皇に対する崇拝が、反対に天皇に対する闘争へと向っている大衆的気運の動きは重要なことである。…『一天万乗』を誇れる天皇への崇拝は、僅かに暴力で支えられているに過ぎなくなっている」

 

  『兵士の友』第一号(32・9・15)−「かつては世界に誇った皇軍の規律は最早今日のものではない。天皇の軍隊は崩壊の危機に迫りつつある。…内地でも兵営に軍艦に反戦の気分は波紋のように広がりつつある。…『労農兵の提携』の思想が全兵士の心をとらえつつある」(藤原彰編『資料 日本現代史1』二〇七ページ)

 

  『赤旗』特別号(32・9・22) 「ロシア革命十五週(ママ)年記念日」−「陸海軍兵士の間に於ける天皇の軍規の弛緩と天皇の将校に対する反抗の増大と反戦機運の浸透とは全く特徴的な最近の現象である」

 

  『赤旗』号外(32・10・28) 「党中央委員会 関西大演習反対闘争カンパーニャに対する闘争方針」−「日本軍隊の内部には今や偉大なる革命化の過程が驚くべき速度で進行している。…全国の兵営軍艦内には銃殺の脅威の下に、幾多の革命的兵士が広汎な兵士大衆と共に執拗なる闘争を続けている。…党に対する兵士大衆の支持が著しく高まっている。天皇の軍隊は今や内部崩壊の危機に際会している」

 

 誇大もここにきわまっているとしか評しようがないであろう。もっとも、全協は、一九三二年九月天皇制の打倒を行動綱領にかかげた悪評高い第一回中央委員会の決議「全国協議会当面の任務」(33・1・7)(みすず『社会主義運動』2−四九八ページ以下に所収)において、「我々は一歩も前進していないばかりか、数歩の退却を率直に認めねばならぬ」(五〇二ページ)として、その原因の一つに、日本の労働者は、「余りにも酷い植民地的強烈な搾取、長時間労働等々のため…殆ど文化的教養など与えられず、文化水準が極めて低い事」、「労働者の大部分が農村から出て来ているが、彼等は小金をためて田舎へ帰ろう、又は帰れる家があると思っている事から、近代的プロレタリアートの意識をもつ事が甚だ困難であったこと」、「封建的、奴隷的観念が尚ほ根強く残っている事」(五〇二ページ)と、労働者の遅れていることを指摘した。

 

 しかし、そこでも「大衆の左翼化、急進化は急速に進みつつ」あるとしただけでなく、この第一回中央委を「我が日本の労働組合連動に於いて未だ一度も問題にしなかった『天皇制打倒』の問題を前面に押し出し、凡ての闘争を『天皇制打倒』の闘争に発展させ、結合する事、集中することにある−と規定…この点に於て…我が国の労働者運動にとって画期的意義を持つもの」(五〇七ページ)として、それにより「労働者の多数者を獲得し、我が全協の拡大強化を計」ろうというのだから、これまた何とも評しようがない。

 

 この三、四年後にコミンテルン関係文書はつぎのように言っている。

  「日本共産党統一のために」(一九三五年)−「われわれは次のことをはっきり記憶しなければならない。すなわち、日本労働者の広汎な一般大衆は、その圧倒的大多数が、まだ政治に引込まれていないか、あるいは現在でも、自分の階級敵、すなわち社会愛国主義者や、ファシスト共や、天皇制政府に信頼しているということである」(みすず『社会主義運動』1−七四八ページ)。岡野・田中「日本の共産主義者へのてがみ」(一九三六年二月一〇日)−は「広汎な大衆はまだ、天皇制打倒のために、直接公然たる闘争を行う用意をまだしていないという事実を考慮に入れなかった。というのは、広汎な大衆は排外主義的偏見や天皇制に関する一切の幻影からまだ完全に脱しきってはいないという事実をはっきりと見なかったのだ」(同前 七七一〜二ページ)(1)

 

  (1)、もっとも野坂は、三三年末のコミンテルン第一三回プレナムでは、「現在の日本の政治情勢の特徴は、反革命的勢力の総動員と同時に革命的勢力の抬頭があるという点、そして日本は事実、偉大なる階級衝突の前夜にあるという点、これであると。われ等はクーシネンのこの見解に全然一致するものである。(中略)党は最早革命家の一小集団ではなくなって、勤労者大衆の支持を克ち取りつつある一個の政党である」(みすず『社会主義運動』1−六六〇ページ)とのべていた。

 

 このような指摘を俟つまでもなく、広汎な労働者・農民大衆は革命化していなかった。たしかに、一部の労働者・農民は恐慌下で戦闘化した。そして、ほんの僅かな労働者・農民中には、狂熱的な共産党信者があり、相当広汎な学生・インテリ中にはマルクス主義への傾倒から共産党に畏敬の念をもつ人びとが少なくなかった。しかし、その大部分は、栗原幸夫がいうように、「党の姿が見えないということが逆に、ますます党を理念化、理想化させ……幻想としての党にとらわれた」(「党史の方法」『さんいち』五号、一九七七年五月)ものであって、堅固な革命の隊列たりうるものではなかった。

 

 3、革命の切迫観

 

 『日本共産党の五十年』は三二年テーゼの「重要な欠陥」の一つとして「日本における『革命的決戦』が切迫しているという主観主義的な情勢評価にたっていた」。「こうした非科学的な情勢評価は、党が、情勢と力関係の冷静な分析のうえに、正確な政策や戦術をたてるのを妨げる一つの要因となった」(増補版七一〜二ページ)というが、すでにみたように非科学的な情勢判断は、三二年テーゼを俟つまでもなかった。

 

 三一、二年頃、党が革命の切迫をどのように判断していたかといえば、風間中央部が発足して間もない頃、「資本家地主の政府は、全日本の田畑に石油をブッかけた。マッチ一本すれば帝国主義日本の全農村は革命の焔に襲われる」「程に切迫している」(『赤旗』三五号、31・3・1)としたが、彼等の三一年「政治テーゼ(草案)」は、「日本は今日政治的危機に直面しているという見解」は間違いとし、三二年初頭でも、「革命的昂揚は更に高まるであろう。それは嘗てない深度と規模を持つものである」としながらも、「現在我々は未だ革命的危機の存在について語り得ない」(「カール、ローザ、レーニンの記念週間を迎う」『赤旗』六二号、32・1・21)としていたが、『赤旗』六四号(32・3・8)には「近き日の一大決戦」(「党財政の基礎確立に就いて」)という言葉が現われた。

 

 ついで『赤旗』七五号(32・5・20)では「階級闘争の激化とプロレタリアートの革命的昂揚は、就中日本共産党の政治的組織的勢力の急速な発展に現われている」(「論説『非常時』に処するファッショ政策の強行」)、あるいは「我々のみが危機の革命的活路について大胆に宣伝し、偉大なる決戦と勝利に向って階級闘争を拡大強化している」(「論説斉藤 挙国一致内閣の成立」『赤旗』七六号、32・5・30)と、革命の主観的情勢がととのいつつあるかのような思わせぶりな表現がとられる。

 

 たしかに、この頃も「我々は末だ我国に於ける革命的情勢の存在について語る事が出来ない」(「論説 非常時の道徳」『赤旗』七七号、32・6・5)とはいっているが、『赤旗』七九号(32・6・20)の論説が「新たなる革命的昂揚」と題し、また「闘争の尖鋭な加速度的な発展は…経済恐慌による勤労者の生活の大衆的な破滅によって呼び起されている事によって日本の階級闘争の領域に革命的昂揚の深刻な新しき段階を導き入れている」、あるいは「メーデーから僅か一、二ケ月の間に情勢は一変している」(「農民救済要求の闘争を通じて八・一デーに備えよ」『赤旗』八〇号、32・6・25)というとき、いかにも革命が切迫しているかのような印象を与える。

 

 そして八月一日の国際反戦デーをその画期たらしめようと意図していたことは、党中央委が七月一日付「八月一日を準備せよ」で、反戦デーはスト・デモの大衆的行動によって「直接に帝国主義戦争遂行を妨害し、帝国主義戦争を天皇制打倒のための、労働者農民政府樹立の為の内乱に転化する為の闘争に於いて一時期を画する歴史的日として闘われねばならぬ」(『赤旗』八二号、32・7・5)といっていることで推定できる。

 

 したがって『赤旗』紙面からも反戦デーに向けてのなみなみならぬ力の入れ方がうかがわれる。このような革命切迫観をもたらしたもう一つの要因は、対ソ開戦の切迫観であった。『赤旗』八〇号(32・6・25)が一面に大見出しで 「日本帝国主義は、今にも対ソ武力進撃を、おっ始めようとしている」と書いたのを最初に、ほとんど毎号、対ソ戦切迫を訴えた。

 

 そして、「五月一日を期してソヴエート同盟を侵略すると宣言した天皇の軍部が今まで其を延期して居るのは、実に労働者農民の決死的反戦闘争のためだ。上海侵略を一時打切らざるを得なかったのも戦線に於ける日本兵士の戦争拒否であった」(党中央委員会アジプロ部『労働者農民と戦争』一九三二年七月二〇日発行、藤原彰編『資料 日本現代史1』一一五ページ)とまでのべていた。

 

 改めてのべるまでもなく、この時代の革命論は、帝国主義戦争を内乱へ、であり、三一年九月の「満州事変」を帝国主義戦争と規定していたのであるから、この段階で、内乱が提起されなければならなかった。たしかに三一年一〇月七日執筆とされる党中央委員会「満州占領戦争と日本共産党当面の任務」(『無新パンフレット』第一三輯)は、「戦争が既に開始された情勢の下で我々が全力をあげて戦はねばならぬことは、この戦争を自国ブルジョアジーに対するプロレタリア、貧農及び勤労者の戦争に転化し、戦争を労働者農民の勝利の闘争へ転化する任務である。

 

 自国政府敗北の促進、帝国主義戦争を内乱に導くための闘争は今や、日本プロレタリアートとその革命的前衛、日本共産党の実践的目標となった」(みすず『社会主義運動』1−517ページ)とのべてはいた。しかし「満州」での大きな戦闘は一九三二年二月はじめのハルビン占領でほぼ終り、三月一日「満州国」建国が宣言され、一月二八日からの「上海事変」も三月三日戦闘は中止され、五月五日停戦条約が調印されたから、戦争を内乱へを現実的に提起する条件は乏しかった。そのため対ソ開戦→第二次世界大戦こそ、内乱→革命を現実化するものと期待させた。

 

 たしかに、対ソ戦阻止を声高く訴え、「広汎な大衆の闘争を以てすれば、その強盗反革命戦争を阻止することは今となっても可能である」。「人民革命は戦争なくして可能である(スペインを見よ)ばかりでなく、戦争阻止の革命的闘争こそは戦争を内乱に転化する前提となる」(「ロシア革命十五周年記念日−十一月七日に備へよ!」『赤旗』特別号、32・9・22)ともいってはいる。

 

 しかし「吾々は日本帝国主義の軍隊が労働者農民の祖国ソヴエート同盟に攻撃を開始する時、その時こそは武器を逆に向けて強盗戦争の元兇天皇に対向する」(党中央委員会アジプロ部『労働者農民と戦争』一九三二年七月二〇日発行、藤原彰編『資料日本現代史1』一一五ページ)、あるいは、反戦闘争は「常識となって来ているが、現在満州でやられている戦争にあくまでも反対して大衆行動を組織して闘争してゆくと云う熱意がうすれ、ソヴエート同盟に対する直接の武力干渉がはじまってからでないと、どうも反戦闘争に力コブがはいらないと云う気分が」ある(「反戦闘争を如何に戦うべきか」『赤旗』一一〇号、33・4・6)、に端的にうかがえるように、対ソ戦阻止の訴えは、むしろ対ソ戦待望のニュアンスを強く帯び、また、あらゆることをコジつけて対ソ戦切迫を主張するのは、対ソ開戦イコール革命の現実化と考えられたからである。

 

 しかし期待の八・一デー闘争も、すでにみたように不成功に終り、つづいての八月二二日からの臨時議会は「ソヴエート同盟攻撃、中国革命絞殺戦争のための、迫りつつある内乱鎮圧のためのむき出しの準備議会である」として、開院式の当日、「大衆的飢餓行進を組織せよ」(『赤旗』八九号、32・8・10)とし、九月六日国際青年デー、九月一八日「満州掠奪戦争一周年記念日」の反戦闘争と、矢つぎ早やにデモ・ストを指令したが、惨澹たる結果であった。

 

 当時、党中央委員会が情勢をいかに一面的に誇大にとらえていたかは、九月五日付の「天皇政府の九・一八愛国戦争示威を労農兵の九・一八革命的大衆的反戦示威で闘へ」(『赤旗』号外)によくうかがえる。そこでは、まず、この日が「階級闘争の未曽有の尖鋭化、内地、出征地における兵士大衆の未曽有の革命化の真只中に迎えられ様としている」とし、「我々はこの日、天皇政府の一切の戦争煽動に反対し、一切の戦争示威に反対し、帝国主義戦争絶対反対、ソヴエート同盟、中国革命の擁護、満州・朝鮮・台湾の完全なる独立、帝国主義戦争の内乱への転化、資本家地主的天皇制の打倒、労・農・兵のソヴエート政府樹立、労・農・兵の革命的提携万歳等の中心スローガンの下に、革命的大衆的反戦示威を敢行せねばならない」とした。その上で

 

  兵営軍艦内にあっては、()天皇の将校の凡ゆる威信を傷つけ、彼等の戦争煽動計画を妨害し、大衆的集会を開き、デモを敢行し、兵士大衆の日常不満を基礎に兵士大衆を反戦闘争に参加させねばならぬ。(中略)我々さえ大胆に慎重に巧妙にやれば反戦闘争は決して不可能ではない。

 

  ()、この様な大衆的反戦闘争遂行の為には直ちに細胞会議に於いて、何が現在兵士大衆の最も関心の集中せる問題か、どんな闘争形態で戦うべきかを決定せねばならぬ。刻々の兵士大衆の気分を巧につかみ、敵の弱点をつき、公然闘争のキッカケをつかむ為に用意周到な計画と準備、これへの広汎な革命的兵士の参加が、其の為に細胞は真先に立って革命的兵士と共に九・一八闘争委員会を作り、九・一八の敵の企図を暴露し、如何にこれと闘うかを具体的に決定し、各自の毎日、毎日の仕事をはっきりきめ、又すべての者に各々仕事を割り当てねばならぬ。計画的な大衆的準備がありさえすれば必ず反戦闘争は成功する。(下略)

 

 と述べ、なお御丁寧にも、「反戦決議を兵士大衆の気持や感情や意識程度を考えないで無理に押しつける様なことは決してしてはならない」。しかし「天皇軍隊の規律が自然発生的にすら如何に乱れているかを見ないで、大衆の尻尾についている様な事ではどんな場合にでも大衆闘争はやり得ない。…すべての党員及び革命的兵士は一切の犠牲を覚悟して勇敢に先頭に立たねばならぬ」という。さらに

 

  戦線にある党員革命的兵士は兵士大衆の先頭に立って、匪賊とごまかされている満州の労働者農民のパルチザンとの交戦を拒否し、ソヴエート同盟内の国境内に侵入するのに反対せねばならぬ。(中略)銃を逆にして、先づ指揮官に向けよ。指揮官を追放して兵士大衆自身の選挙に依る兵士委員会を作り、それによって軍の行動の一切を定め、武装せる満州の労働者農民と握手し、赤軍に参加して、日本帝国の将軍共を満州から追放し、満州に於ける労働者、農民、兵士のソヴエート樹立に積極的に参加せねばならぬ。…軍隊細胞員革命的兵士の常日頃の行動による大衆からの信頼と…不断のアジ・プロによって準備されさえすれば、九月十八日を天皇政府の対ソヴエート戦争計画の粉砕、戦争の終末への第一歩たらしめ得るであろう。

 

 党中央委員会が正気でこんなことを考えていたとすれば、何と評してよいか言葉に苦しむ。この頃、軍隊内の党細胞といえばまえにみたように呉海兵団の三名によるもののみである。それは「機関紙『聳ゆるマスト』を半年にわたって六号まで発行し、…党員、同調者…現役水兵五名、一年前までの水兵五名、計一〇名という全国最大の階級的反戦組織であった」(山木茂「戦艦三笠の反乱」九一ページ)というように、最大にしてこのていどであり、活動は大したものではなかった。党中央自身、この少し前に軍事部を作り、九月一五日『兵士の友』第一号を発刊し軍隊内への働きかけを始めようとしたばかりで、軍隊内に党組織のないことはもちろん、兵士への手がかりさえきわめてわずかなものであった。出征兵士にいたっては、直接の組織的手がかりはなかったであろう。まして九月五日の檄で九月一八日の行動を組織しうるとは、当事者自身考えていなかったであろう。自慰的顧望と評するほかはない。

 

 にもかかわらず、このような夢想を現実ととりちがえた点、自ら墓穴を掘ることとなったのではないか。

 九月一八日の直後の一〇月六日銀行ギャング事件、一〇月三〇日以来の大検挙は、党自身「三十日来、関東地方に行はれた日本共産党に対する弾圧は、更に関西を初め中部、中国、九州、北陸、東北等全国的な検挙に拡大している」(『赤旗』一〇七号、32・11・25)と大打撃を認めながら、相かわらず、それまでと同じ姿勢をとりつづけた。恐らく、三二年九月のコミンテルン第一二回プレナムでの、日本は「近い将来、革命的危機の情勢にたつかもしれない」が、ここで作用したといえよう。

 

 そのためすでに丸山茂樹が指摘しているように、三三年に入っての山本正美中央部以後も、事態は改まらなかった」(「崩壊期の共産党の諸問題」、『運動史研究』6−五四ページ)。

 

 しかし、一〇月事件のあとでは、全協は「活動は萎縮し、不活発になり、小さく小集団に固まって了う傾向さえも現れて来ている。例えば最近のカンパーニアに於いて、全市的・全地区的に集中統一されて成功したデモが一つだってあるか? ‥多くは少人数の組合員に極く少数の影響下の労働者のみが参加する状態である」(『労働新聞』七六号、32・12・24)という有様であり、党自身も三三年三月五日の失反デーは「引き続く白色テロルの攻撃の結果として、…準備活動に著しく立遅れ」、「当日の飢餓行進、失反デモへの大衆動員の不成功」(『赤旗』一二四号、33・3・10)、また三月一五日小林多喜二労農葬も、「中央委員会の指令が方針をハッキリ示しているにもかかわらず、或る地区、或る細胞等々に於ては十五日を如何に闘うかが具体的な問題にすらなっていない。甚だしきは『失反デーで疲れたから』と、のんきなことを云っている」(『赤旗』一二五号、33・3・12)。

 

 あるいは「反戦行動の組織のための我々の積極的努力が昨年の秋以来一歩一歩と後退に向っている」(『赤旗』一三二号、33・4・15)というように、組織も活動力も目にみえて衰退していた。にもかかわらず党中央部は、これを党員の「日和見主義的受動性」の結果と断じ、「諸君が先頭に立って戦え、そしたら大衆は動くだろう。組織も出来るだろう」(「論説 労農葬準備闘争に於ける日和見主義的受動性に就て」『赤旗』一二五号、33・3・12)と咤咤するだけでなく、「最近の日本政府の最大の特質は実に彼等のすべての政策が共産党弾圧を第一条に掲げることなくして立ち行かなくなっていることである。…弾圧の刃は飢えつつある大衆の頭上に振りかざされている。

 

 だがこのことは何よりも、彼等の権力の危機が如何に促進しているかを明らかに証明するものであり、共産党が如何に広汎な大衆を従えつつ躍進的闘争を組織しつつあるかを示すことに外ならぬ。それはここに我々が今一躍をするならば、敵の弾圧敵への弾圧へ転化し得る、革命的情勢が刻々に迫っていることを教えているのだ」(傍点部分は原文ゴチック、「論説 メーデーを前に新たなる敵の弾圧に抗していかに逆襲を組織するか」『赤旗』一三三号、33・4・26)とした。

 

 この直後六月一〇日佐野学・鍋山貞親の転向が新聞に報じられ、党は一方では「今まで大衆の信任を一身に集めていた彼等の裏切が、どんなに大衆を失望させ、どんなに党を大衆に対して不信任化したかと言う事実を軽視することは許されない」としつつも、「我党の陣営に微動だに与えることが出来ない」(『赤旗』一四六号、33・7・6)、「一〇・三〇以来の引続くテロルにも拘らず我党の組織はめきめきのびている」(同前)とさえ言っているのである。

 

 そして、八月一日反戦デー闘争方針書では、「決定的闘争の日は近づいている。日本の全経済的、政治的諸情勢は極度に爆発物に満ちている。内外諸矛盾の極端な激化の結果は、如何なる突発時の爆発によって、何日何時革命的危機の情勢下に立つかも解らぬ状態にある」として、「最も緊切な主要行動スローガン」に、「帝国主義戦争を内乱に転化せよ! ブルジョア地主的天皇制の打倒! 労働者農民のソヴエート政府の樹立」をかかげ(『思想研究資料特輯』第四号『日本共産党発行関係文書集』三三一ページ以下)、その「八・一デモが…充分成功的に闘われ得なかったことから結論して、二、三の同志の間でデモはメーデーとか八・一とか革命記念日とかの重要カンパの時だけやればよいという…主張が生れた。

 

 だが今日のように大衆の不満動揺が昂まり、闘争が激化しつつある時には、あらゆる機会に大衆をサボ、スト、デモの大衆行動にかり立てることが絶対に必要である」(「論説 青年デーを前にしてデモ正しき遂行のために」『赤旗』一五六号、33・8・26)と、動員力も失われかけているとき、依然として記念日のデモに固執した。

 

 このような姿勢がとられつづけたのは、ここでも対ソ開戦の切迫観が色こくまといついていたからである。すなわち「日本帝国主義強盗はどうあろうとも今年一パイ反ソ戦争の遅延を持ち耐えることは出来ないであろう。予定された秋は刻々近づいている。八月遅くも十月までには『挙国一致』全人民大衆を反ソ戦争の嵐の中にまきこまねばならぬと」(「論説 北支強奪に反対して大衆的反戦行動を組織せよ」『赤旗』一三八号、33・5・26)、あるいは「日本帝国主義は既に反ソ干渉戦争強行のための諸般の準備を準えて今はいよいよ火蓋を切るための口実を見出すことに汲々としてあらゆる挑発行動に憂身をやつしている」(『赤旗』一四〇号、33・6・6)。

 

 「諸君が北支で停戦協定が結ばれたから戦争は一段落したと気を弛めているならば、諸君は寝耳に水式に反ソ戦争勃発の号外によってドギモ抜かれて、周章狼狽するに違いない」(『赤旗』一四一号、33・6・11)、日本帝国主義の「デマの全く新しい点、『赤軍の国境侵入』に計画的に集中されている事は、彼らが東支鉄道交渉を決裂させ、九月に予定されている干渉開始期までに開戦の口実を間に合せようとしている事を示すものだ」(『赤旗』一五七号、33・9・6)等でうかがうことができよう。

 

 そして三三年末になっても「最近に於ける内外諸情勢の切迫が革命を押しやらずして、益々それを近づけ、決定的闘争への真剣なる準備が日程に上されている」(『赤旗』一六二号、33・11・7)と、革命の切迫観を改めなかった

 

 このような「狂」としか評するほかないような情勢判断は、党が、とくに党中央部が現実の大衆と遊離していたことに起因しよう。たとえば三一年一一月の、まえにも示した党中央委員会「満州占領戦争と日本共産党当面の任務」は、その最後をつぎの一文で結んでいる。

 

  労働者貧農の生活の中からこみ上げてくる要求を、どんな小さな要求でもよい、細大もれなく全部書きしるして中央部へ報告してもらいたい。それが民主主義的要求であるか、それが反動的要求であるかというようなことを考慮する必要はない。それは中央部ではっきり判定する。吾々は労働大衆の要求がドコにあるかをモレなく間違いなく調べたいのだ。反動的要求や民主主義的要求を革命的要求に変じたり、それ等の要求の軽重を決定したり、整理して統一性を与えたり、一、二の中心的要求を闘いとることによって一切のものが解決されるに至るが如き中心的要求を巧みにテキ出したりすることは吾々が引受ける。吾々には確信がある。(みすず『社会主義運動』1−五三八ページ)

 

 また川辺太一「第三回総選挙闘争に対する自己批判」(『赤旗』六四号、32・3・8)の中でも、「中央部が示した方針は完全に正しかった。が然し、決して十分具体的であったとは言えない。原因は何処にあるか? 言うまでもなく中央部が浮き上っている−大衆からかけ離れているからだ。我々は今日まで非難される程屡々中央部を浮き上らさないように具体的なレポートを送るように、又中央部と大衆とを緊密に結合するようにと希望した。にも拘らず、このことは殆んど全く実行されていない」と書いている。

 

 はしなくも「大衆からかけ離れ」「大衆の要求」を知らないこと告白している。せめて、「中央部が浮き上っている」ことをたえず自覚していれば、恐らく、これほどまでには至らなかったであろう(1)

 

  (1)、『赤旗』が報告を命令しても、ほとんど履行されていないものを拾ってみてもつぎの事例をあげることができる。

 

  三九号(31・4・22) 「付記」−「赤旗編韓部へ向って『自分の属している工場細胞はこういう風に活動している』という記事を是非送る義務がある。それは鉄の規律の一部分であることを特に付記する」。「労働者通信員団を組織せよ」−「吾々は毎号(意見、ニュース、経験の報告、質疑、通信、マン画、小説類をドシドシ送れと)訴えている。…今日までのところでは甚だ成績がよくない」。

 

  四二号(31・5・17) 「付記」−「凡ての同志が必ず過去の選挙闘争の経験を即刻書いて赤旗編輯局へ送れ」(応答として、四九号、8・12に「『赤旗』編輯局の要求に応じて」として「一九三〇年二月総選挙に俺達が犯したような失敗を再び繰り返すな」一編がある)。

 

 四八号(31・8・5) 中央委員会「党組織の政治生活に関する決定」−「各地方、地区、細胞等…は定期的に自己組織の政治的並に組織的活動を文書によって上部機関に報告しなければならぬ」。「各細胞は、本決定を受取った日より一週間、各地区は二週間、都市・地方は三週間以内に全般的報告をそれぞれ上部機関に報告することを中央部は各組織に義務づける」。

 

  「即時婦人部を設置せよ」−「我党及び共青の上から下までの凡ゆる指導機関は即時婦人部を設置せねばならぬ」(九三号、32・8・30「日本共産党関西地方委員会に関する決議」中にも「上から下まで一切の機関に婦人部又は婦人係を設置し、その活動を全組織が進めねばならぬ」とある)。

 

 五〇号(31・8・22) 「八・一デーの決算に就て」−「第一に指摘しなければならぬことは、多くの組織が今日に至るも尚、当日の動員、闘争形態、成功と失敗とに関する詳細な報告を提出していないことである。これは党規律の見地からして許すべからざる行為である」。「次のことを各地方組織に指令する。1、八・一デーに関する詳細な報告を直ちに中央部に送ること。……6、報告はこの指令到着より五日以内に送ること」。

 

 赤旗印刷局「『赤旗』第五十号発行に際し同志諸君に依頼す」−「吾々はさきに…印刷技術についての批判や意見を送って呉れるように依頼した(四六号、7・15−引用者)。にも拘らず今日に至るまで一度もそれが実行されていない」。

 

 五六号(31・10・20) 「小岩井浄君の府議当選に就いて」−「我々は各地方の同志達が『我地方では府県議選挙戦を如何に遂行したか?』を送って寄越すべき事を要求して置く」。

 

 五八号(31・11・1) 「中央機関紙の再編成に就いて」−「工場細胞がその会合で必ず第二無新を研究し討論し意見を送ること。これは鉄の規律の要求するところ」。「ここに述べた事は何一つ新しい事はない。只一つ今度こそは是非とも総ての同志がこれを誓って実践してもらいたいのだ」。

 

 六一号(31・12・23) 「『決定』に忠実たれ! 直に婦人部活動を開始せよ」−「今春、先づ中央部に婦人部を設置し、以来何回となく赤旗紙上及び第二無新紙上に於て…党の各地方、地区、都市、各細胞の指導部は婦人部…を直ちに設置しなければならない事…提案し、実行を要求したのである。これに就いて若干の同志の間で討論が行われたが、一般には行われなかったらしい(報告が来ていない)。そして今日に至るも一つの地方委員会、一つの都市委員会、一つの地区委員会、一つの細胞にも婦人部はおろか、一人の婦人オルガナイザーさえ出来ていない。…遺憾乍ら『決定』に対する態度は、この間題の限りに於て、真剣でなく、忠実でなかった」。

 

 六四号(32・3・8) 川辺太一「第三回総選挙闘争に対する自己批判」−「我々の手許には尚、報告が来ていない東京市のそれすら入手していない」。

 

 七〇号(32・4・13) 編集局「『赤旗』普及防衛の歌・ビラ・ポスター・標語を募集す」−「我々は『赤旗』の宣伝普及の為の歌、切手、ビラ、ポスター、標語等も、…『赤旗』読者及一般大衆の中から募集する。(中略)応募したものの中優秀なものは集り次第『赤旗』紙上に発表して行く」。(応答として、八〇号、32・6・25に「赤旗印刷局 輝満生 赤旗の歌」がある)。

 

 八〇号(32・6・25) 編集局「工場、農村から小説・詩・読物・漫画・写真を送れ」−「『赤旗』をもっと明るくし、本当に諸君のものとするために…我々はそのため…出来るだけ努力してきた。だが同志達からの投書が余りに少なく不充分にしか実行し得なかった。しかし我々は今、更に一段と力を入れて小説や詩歌…写真等を入れた頁を作ることを計画している。だがこうなればいよいよ…同志諸君の積極的投書に俟たねばならないのだ。(中略)同志諸君!これを必ず実行せよ」。

 

 八一号(32・7・1) 「工場、農村、兵営、軍艦に『赤旗』カンパを通じ通信員活動を捲き起せ」−「現在『赤旗』は…漸く通信員の通信を基礎として編輯され始めている。だがそれは尚…党組織の極めて僅かな部分の協力と創意的活動で行われているのである。今尚地方(その内には神奈川・大阪・福岡等の重要地方を含めて)及び闘争の著しい昂揚と拡大を示している農村に於ては殆ど全く通信は皆無の状態に近い。…各組織、機関に先づ赤旗への通信員係を設置せよ!」。

 

 八二号(32・7・5) 「軍需品関係工場、交通運輸産業から通信員(ママ)を送れ」−「今迄通信は東京のごく一部に限られている。地方の諸君、通信を送らねばならぬ。組織のある工場の諸君は責任をもって戦争反対の一つの実践的行動として、これ丈のことを至急、赤旗に通信せよ」。

 

 3、党と大衆団体の混同 (全文)

 

 〔小目次〕

   1、諸組織間の区別のあいまい

   2、混同を生む根源

   3、党・外郭団体、党内の家父長的序列

 

 1、諸組織間の区別のあいまい

 

 党勢の最も拡大したといわれる一九三一〜三二年においても、第二章で検討されているとおり、党員数は最高六〇〇名に達したかどうかという、微々たる勢力にすぎなかった。にもかかわらず、政治的・社会的に一定の影響を与える活動力を発揮しえたのは、いわゆる革命的大衆団体共青、全協、全農全会、反帝同盟、モップル、文化団体はもちろん、無新支局、無青支局、戦旗支局などが総ぐるみで、党の指揮棒の下で動いたからである。革命的大衆団体は党の付属物であり、文字どおり外郭団体であった。

 

 それは一面では党や党員による強引な引廻しが行われたと同時に、他面では、第五章に詳述されている日本教育労働者組合(のちの全協一般使用人組合教労部)や新興教育研究所を代表例とするような、党の具体的方針もなく、組織内に党員もほとんど存在しないにもかかわらず、一部、同調者的指導者党路線に忠実たろうとして、かえってより一層、進んで付属物たろうとしたからである。いずれにしろ、その結果は、大衆団体に即してみれば、それぞれ独自の課題をもつ組織でありながら、付属物化することで、これら大衆団体は、大衆団体として発展するみちをとざし、党に食いつぶされ、党と運命をともにして壊滅するにいたったのである。

 

 三二年三月、二〇歳で大阪砲兵工廠に旋盤工の臨時工として入り、すぐ全協日本金属労働組合に加入し、三名で金属組合分会を結成した原全五はつぎのように回想している。

 

  (二時間残業で午後八時)門を出ると、殆ど毎日のように街頭連絡である。まず金属、それから共青、反帝同盟、党、党の赤旗配布係という調子である。そのつどビラやパンフレットの類をもらう。全協機関紙の労働新聞党の赤旗は勿論、しかもこれら機関紙は新しい読者を獲得しなければならない。こうしたことの実務的な処理についての相談が、工廠三人組の仕事で…(臨時工組合結成を準備)この状況と計画は勿論、連絡で報告する。とたんに外からビラがまかれ、機関紙に大々的に報道される。「砲兵工廠に赤旗ひるがえる!!」「わが砲兵工廠分会の破竹の進撃」「ゼネストに立ち上がれ」という調子である。

 

  忽ち特高と憲兵が通勤時に工場の周囲を包囲して、少しでも怪しいとにらんだ者には容赦なく不審尋問、身体検査をやり、工場内部の警戒も厳しくなった。…身動きも出来ない。(中略)

 

  年末近い或る日(入党もしていないのに、党関西地方委員長が)「君を機関に採用することに決定した」とおごそかに私に宣言した…その翌日、本番の金属の山六(山田六左衛門)の連絡である。…正月に東京で金属の中央委員会を開く、君と株本も参加することになっているから準備しておけと言った。

 

  「俺は中央委員でないのに何でや」というと、いや中央委員会で君も株本も中央委員にするのだと言う。…参加を引きうけた。

  つぎの党の連絡でそのことを報告すると…言下にそれはやめとけと命令した。金属労働者が自分の組合の会議に出るのがなんでいかんのやと抗議して、やり合って、結局彼の命令反対して押し切ってしまった。(金属の中央委員会に出席)討議は二日続いた。白熱した討議である。しかし私には討議の内容が殆どわからなかった。(一月四日帰阪、五日検挙)(「大阪の工場街から」『運動史研究』1−一三三〜五ページ)

 

 当時のいわゆる革命的諸組織の総ぐるみと、活動の実情がよくうかがえるであろう。

 もちろん当時も建前としては、党員は党外大衆団体内にフラクション(分派)を作り、「大衆団体の具体的情勢に応じて、その内部に党のスローガン及諸決議並に細胞の諸決定を宣伝煽動し、以ってその内部に於ける勢力・影響を拡大強化すること。然しこの事は、党分派がその所属大衆団体の日常闘争に最も熱心に参加し、その先頭に立って活動することを…前提条件とする。かくて我党員がその大衆団体の発展、革命化のために最も忠実に働くことが大衆の間に知られ、彼等の信頼を集め、そしてその団体の指導的地位をかちとることが出来るのである」(「日本共産党当面の組織事業、特に細胞の組織及活動に関する決議」一九二九年、みすず『社会主義運動』1−三六〇ページ」としていた。

 

 三〇年のメーデーに頂点に達した全協の極左冒険主義に対しては、三〇年七月のプロフィンテルン西欧書記局「日本における経済的危機とストライキ運動」、三〇年八月のプロフィンテルン第五回大会決議「日本における革命的労働組合の任務」が、具体的にこれを痛烈に批判した。行論に関係する部分についてのみふれれば、前者では、「左翼の指導者は労働運動の政治化に就いて沢山論じたし且つ今日でも論じている。だが今日まで彼等はこの政治化と云うことを闘争の政治化として見ないで、左翼労働組合の組織政党の性質を附け加えることが政治化だという風に考えていた。この事は実践上では左翼組合の地盤の制限及び政党と労働組合との機能の有害なる混同となった」(『第二無新』三四号、30・9・24)。と指摘し、後者では「右翼日和見主義的合法主義と並んで…左翼宗派的偏向を暴露した。

 

 それは左翼労働組合が大衆の面前に色々な傾向をもっている全労働者を包容する広汎なる非党的組織としてではなく、政治的に同一の意見をもつ人々の組織として進出し、共産党と自らを同視したこと」、「革命的労働組合を大衆的組織に転化するためには、まづ第一に、労働者の間に権威を獲得することが必要である。権威は革命的言辞によって獲得されるものではなく、革命的行動によって獲得できるものである。唯常に大衆とともにあり、この不満の先頭に立ち、その凡ての進出を指導し、闘争のすべての段階において大衆の要求をまとめあげ、その絶望と希望とを反映する組織のみが大衆の間に権威を獲得する」(拙著『日本労働組合運動史』三七五ページ)と批判した。

 

 さらに、「三二年テーゼ」も、「労働組合及びその他総ての党外諸組織に対する党の指導方法が、根本的に変えられねばならぬ。即ちこれらの組織内における命令の方法と、これらの組織と党との混同は悉くやめられねばならぬ。これらの組織に対する指導は、次の点に限定さるべきである。即ち共産主義者は自分の精力によって、その思想的影響によって、(自分の党員たることを言いふらすこと等々によるのではなしに)これらの組織内で指導的役割をかち取り、そして常に説得の手段により(ただ説得に依ってのみ)その成員大衆を革命的提議に賛成せしめるようにしなければならぬ」。「かくすることによって、大衆組織内で活動する党員の態度に正しい方針が保証され、大衆組織内に活動能力ある共産党のフラクションが作られ、党による大衆組織の指導と大衆組織内に於ける党の規律が強化されるのである」(みすず『社会主義運動』1−六二七ページ)と指示している。

 

 この間、日本の党でも、「党はこの労働組合、モップル、青年同盟等々の大衆団体の全体を指導するのである。而してこの指導は党が党外大衆団体に命令することに依って行われるのではない。…大衆団体に居る党員が『感化力により又、説得を以て』是等大衆団体が『自発的に党の政治上の指導に従うように』活動してのみ行われるのである。我党は…党の独自性、独立的活動の重要性を常に主張して来たのである。而してそれは他の党外大衆組織との正しい相互関係の理解に於いて党員大衆の間に浸透していなかったのである。党と労働組合との混同はこうした所から発生したのである」(「共産党の独自活動の重要性に就いて」『「赤旗」パンフレット』第一二輯 31・7・20、みすず『社会主義連動』1−四一二ページ)とした上で、

 

 「呉れ呉れも注意すべきは、…『これは党の決定だから』と云って組合分会に強制してはならぬことである。党員は組合分会の会合で、党細胞の決定を採用すべく、党員でない他の組合員に説明し、納得させねばならぬ。それでも力が足りなくて組合分会で採用されなかったならば、行動に於いて、党の方針が正しいことを教えねばならぬ。それはハガユイかも知れぬ。だが赤色労働組合員であっても、それが党員でない以上、党の規律を以って向うわけにはゆかぬ」(同四一二〜三ページ)と懇切に教示している。

 

 このほか、党と大衆団体との混同をいましめる指示は決して少なくない。しかし全協では最盛期の三二年においても、「或る意味では全国協議会は真の労働組合とは言い得ないだろう。何故なら労働組合はあらゆる傾向の労働者を組織せねばならぬのに、現在の全国協議会には共産党支持者ではない組合員は一人もないと言ってよい状態である」(全協中央常任委員会「工場内活動の諸問題」一九三二年、みすず『社会主義運動』2) 六四五ページ)という有様で、組織人員も最大一万二千名に達したかどうかであり、しかも職業紹介所登録労働者、土建業現場労働者で構成される日本土木建築労働組合が圧倒的勢力を占め、他は産業別単一組合を称しても、実質はせいぜい地方的産業別組合を出るものではなかった(拙稿「全協をめぐる若干の問題」『運動史研究』6 一〇〜二一ページ参照)。

 

 このような党と大衆団体の混同を象徴的に示したものが、まえにも示した一九三二年九月全協第一回中央委員会において、全協中央常任委員や中央委員の反対にもかかわらず、党フラクションによる行動綱領への強引な天皇制打倒の挿入lである。

 

  ()、山口近治は「天皇制打倒のための闘争を『全協』の政策中に入れることは、共産党の方針として決定していたが、『全協』の行動綱領としてこれを採用させようとして(党中央部の正式決定となっていなかったにもかかわらず−引用者)強制したのは、共産党の組合部長田井為七であった。田井為七の主観的意図は知らないが、それによって『全協』の組合活動を撹乱させた同人の行為は、まさにプロポカートル的な行為であったといってさしつかえあるまい」(『治安維持法下の教育労働運動』一〇八ページ)と田井を責めるに急であるが、当時の全協中央部組織部員坂田正次は、「全協天皇制打倒のスローガンを掲げるについては、党中央の方針であり、岩田(義道)から直接、全協の党フラクションに強く働きかけて、これを実現するようにと指示を受けたので、私は極力フラクションの間を説き回った。

 

  全協中央委員会のあと、党中央委員長の風間丈吉に逢ったときも、私は党中央の方針の正しいことを疑わなかった」(「『司法部赤化事件』を顧みる」『運動史研究』6 一二八ページ)と党中央の方針であるとしている。手続き問題はともかく、風間中央部に異論はなかったと考えられる。風間自身は一九三三年一〇月二六日付「上申書」(『思想研究資料(特輯)』第一五号『日本共産党に対する批判−其の二』所収)において、「君主制打倒のスローガン全協の行動綱領に入れたこと。或る同志はこれを自分一個の責任として負うべく悲壮な決心をした。併し乍ら、これは一人二人の責任問題ではない。五月テーゼそのものから来た必然の結果である。『太平洋労働者』は即時行動のスローガンとせよと言ったではないか。全協の行動綱領に入れることに対し、積極的に反対しなかったものはすべて責任があるのだ」(一〇〇〜一ページ)と、共同責任を強調している。

 

  これに対し、第一回中央委まで全協中央常任委員であった真弓信吾は「上申書」(一九三四年五月二〇日付)(同前所収)の中で、「私が検挙(三三年三月一日−引用者)後、知って驚きと憤慨に耐えなかった事は、我々旧中央常任、高江洲重正、依田公三、私、山田六左衛門に至る迄が、中央委員会後プロバカートルとして党から除名されていたという事を知った事です。中央委員会直前我々中央常任は全部、松原問題等の政治的責任を取って辞任する事に固く決定していたのですが、而もは中央委員会席上であらゆる方面から、我々常任委員会の旧悪を指摘して地位を剥奪する為に(辞任を決している我々に対し何と滑稽な一人相撲か)ひそかに各産別本部のフラクション会議を開催し、全部が党員であった吾々の側には一言の指示もなしに、放逐の手段として所謂天皇制を行動綱領に採用する為に討論すると決定しているのです」(一六二ページ)とのべている。

 

  私は、まえに松原問題からこの第一回中央委における執行部更迭について若干の考察を加えたが(「全協をめぐる若干の問題」『運動史研究』6)、このようになお問題は多いので、別の機会に、くわしく検討を加えたい。

 

 風間丈吉は、その「獄中手記」で「革命的労働組合は天皇制に反対するための組織であるか? かかる問題の扱い方は間違いである。革命的労働組合は『資本の搾取と抑圧に反対するすべての−性、民族、信教の如何を問わず−労働者を包容する大衆的組織である』。それは労働者大衆の日常経済的政治的要求を掲げて闘争する。その過程において遭遇するすべての邪魔物に対しても徹底的に闘争するものである。…然らば行動綱領は加入の条件となるか?の問題がある。…全国協議会は資本の搾取に反対して闘争せんとするすべての労働者および使用人を組織するが、その場合決して一定のまとまった世界観を要求しない」(『「非常時」共産党』二三〇〜二ページ)と、行動綱領に天皇制打倒をかかげても、加入の条件とはならない、という全協フラクションと同じ考えを示している。

 

 これは、全協自体、天皇制打倒をかかげた画期的意義を礼讃すると同時に、前にもふれた第一回中央委員会決議「全国協議会当面の任務」(三三年一月)が、「意識水準の高い者のみの少数者で分会を組織し、小さく固まる(セクト主義)事を止め、政党への加入と殆ど同様な難かしい条件を撤去し、加入条件を、資本家に対して不平不満を持つ労働者の何人をも加入せしむるようにし」(みすず『社会主義運動』2−五一一ページ)と、いっているのと、符節が合っている(1)

 

  ()三三年はじめ党中央委員会書記長となった山本正美は三月の中央委総会で、「私は先ず第一、労働組合内の宗派的傾向として労働組合を党化することに反対しました」。「それと結びつけて具体的問題として天皇制廃止のスローガンは…労働組合として掲げる必要がないと云う事を主張しました」(「山本正美証人訊問調書」、竹村一『リンチ事件とスパイ問題』二二一ページ)というが、この中央委総会での「『日本労働組合全国協議会当面の任務』に就いて」(みすず『社会主義運動』2所収、但し山辺健太郎は、これを「一九三一年」の文書としているが誤りである)は、「3、党と全協の諸方針に現われた党と全協との混同、従って全協とは何ぞやと云う全協の本質に対する無理解が即刻改められねばならない。

 

 従来全協はその活動の多くを党的な政治的任務の方向にのみ集中し、党外の大(衆)組織として全協の独自的任務をおろそかにして来た。全協は何よりも先ず労働者階級の日常的経済的利益の擁護拡大のために闘う組織であるということを忘れてはならない。その為めには、全協は政治信念、宗教、性、年齢の如何を問わず、仮令天皇主義労働者であれ社会民主主義労働者であれ、全協の示す具体的政策の一々に賛意を現わす総ての労働者を組織し確保して行かねばならない」(六九〇ページ)とはのべているが、天皇制打倒の行動綱領からの取下げには言及していない。三三年五月発行と推定される、党中央委員会煽動宣伝部「煽動宣伝書−アジプロ部報bQ」(『日本共産党発行関係文書集』『思想研究資料』特輯第四号所収)の「テーゼ講習会報告」は、「全協は…左右の日和見主義的傾向の克服のために闘争せねばならなかった。

 

 主として『労働新聞』紙上に表われた極左的日和見主義(天皇制打倒の闘争を全協の主要任務として主張すると云う党と全協との混同)」(三八ページ)を指摘してはいるが、党が正式に取下げを決定したとは思えない。というのも『赤旗』一三三号(33・4・26)の「日本反帝同盟第二回全国大会終る」(四月五日)は、「更に天皇制打倒のスローガンに就て熱心なる討論の結果、広汎なる大衆組織は現在未だこのスローガンを掲げ得ぬ事が決定された」とあり、もし党の決定があったとすれば、ここでこのような問題が取上げられるとは考えにくいし、さらに『赤旗』一四七号(33・7・11)の「全協を党にケシかけて革命的戦線の分裂をたくらむ三田村の悪煽動を粉砕せよ!」は、「彼(三田村)は、党が全協に君主制打倒のスローガンを押しつけて、全協を反君主団体にして了ったとデマっているが、…なるほど、一頃全協内に天皇制打倒の闘争に於ける全協の役割を極左的に考えて、全協でもこのスローガンを掲げてはどぅかと主張したものもあったが、全協が党の命令でこのスローガンを採用したことなぞは断じてない。

 

 共産主義の学校である労働組合が、まだ学校に通って充分に階級的に訓練されていない労働者に、加入条件として天皇制打倒のスローガンを押しつけることは誤りである。日金やその他の産別組合に現われた斯様な一時的な偏向をいち早く批判して、正しい方針を示したのは現在の党の中央委員会だ。党は、組合は、天皇制打倒の闘争を日常の闘争を通じて大衆に理解させ、やがてこの闘争を充分に理解した労働者を党に送り込む学校であると言うはっきりした理解に基いて、日金やその他に対して、天皇制打倒のスローガンを機械的に掲げるよりは…(スト圧迫や弾圧等々の)事実によって、まだこのことをハッキリ知っていない大衆に啓蒙することが重要な務めであることを忠告して、その偏向を正さしたのだ。裏切者三田村よ何を血迷いを言うのであるか」と書いているからである。

 

 こうしてみると山本正美中央部とその後継である野呂栄太郎中央部は、全協とその産別組合の機関紙などが天皇制打倒をスローガンとして書きたてることだけに関心をよせ、全協が行動綱領に採択したことを知らずにいたとしか思いようがないが、三二年九月全協第一回中央委で、行動綱領に採択したあと選ばれた石上長寿以下の全協中央部は三三年二月二七日まで健在であったのだから、山本党中央部と充分連絡があったにちがいないと思えるのに奇怪である。それは『社会運動の状況』一九三三年版がいうように、天皇制打倒を行動綱領に採択したことをめぐって、産別組合間や組合内が紛糾し、「党並に全協指導分子にありても慎重に批判検討を重ねるに従い…行動綱領に採用したことは、戦略的に妥当ならざることを自覚し、…本年一月発表したる『全国協議会当面の任務』にも行動綱領全文の発表は之を見合せ…」(一九七ページ)云々が、あたっていると思えるが、隠蔽すれば、なかったことになるとする発想が大きな問題であろう。

 

 こんなことが通用しないことは、全協中央が八月に至って、開催予定の第二回拡大中央委員会では、「従来の前衛主義的偏向の克服、すなわち政策においては党的スローガンの撤回…が討議決定されねばならぬ」(拙著『日本労働組合運動史』三三七ページ参照)とし、全協関西地方委員会からも、「天皇制廃止・ソヴエット権力樹立を行動綱領より削除せよ」(『特高月報』三三年一〇月分七四〜五ページ所収)が提議されなければならなくなることで明らかである。全協は、第二回拡大中央委を結局開催することができなかったから、公式には、天皇制打倒を綱領にかかげたまま壊滅したということになる。

 

 以上のいきさつで、うかがえることは、党や全協が、組合加入条件としないとすれば、それが大衆的に通用するとする発想である。あるいは、いまの「注1」の中で指摘したように、行動綱領に採択したことを隠蔽すれば、事実としてあったことも、ないことになるとする発想である。ここには、大衆の側からどのように見られているか、思われているか、という着眼が全く欠如している(1)

 

  (1)、全く欠如しているというのは、あるいは酷かも知れぬ。というのは『労働新聞』三五号付録(31・10・8)では、組合員が「大衆の先頭にた」たない結果、労働者の側からは「『全協のいうことは正しい。しかし影が見えない』。曰く『組合に入ると不良職工になる』、『私達は学問もなければ頭も悪いから組合にははいらない』」と、「組合員が大衆から離れた何か特別な存在であるかのような状態におかれているもの、爪弾きされるもの」が少なくない。といい、また三二年の前掲の「工場内活動の諸問題」でも、「全協にはいるのは仲々六ケ敷しいもの、学問がなければ出来ないもの、全協はコワイもの、全協は間違っていると云う風に労働者に誤って考えさせる様なことが果して我々のところにはなかったであろうか?」(六四五ページ)ともいっているからである。しかし、この文脈は全協中央や産別組合指導部は正しく指導しているが、組合員の中に、このような印象を与えるものが少なくないと、罪を下部組合員に帰しているといえよう。

 

 2、混同を生む根源

 

 党と組合との混同が、その誤り指摘されつつ、ほとんど改まらなかったのは、最も基本的には、全協が加盟しているプロフィンテルンとコミンテルンの関係に、党と組合の混同が根深く潜んでいたことにあろう。両者は、当時形式的な組織関係においては、それぞれ独自の団体であるが、事実上はプロフィンテルンはコミンテルンの指導下にあり、人的にも両者は交錯している。風間丈吉は、つとに、三〇年のプロフィンテルン第五回大会の日本問題委員会について次のように指摘していた。

 

 日本委員会の構成メンバーは殆んど全部共産党員であった。ロゾフスキーは日本の指導者が「党と労働組合の区別を知らぬ誤りを犯した」と叱り付けたが、ここでは彼自身、否、委員会に出席した人々の殆んど全てがこの誤りを自ら犯していたのではないか? 組合の大会で党の問題を決定しようとしたのであることは厳たる事実だ。ピアトニッキーの保留提案がなかったら恐らく満場一致で可決されたのである。…だから形式や手続問題は別として日本革命に関する新しい方針(「政治テーゼ(草案)」)は実質上ここで決定されたものと見ても過言ではない(『モスコー共産大学の思い出』二八二ページ)。

 

 それだけでなく、この大会の決議「日本における革命的労働組合の任務」は、全協の誤謬を具体的詳細に批判したが、奇妙にも、三〇年二月の総選挙にさいしての、左翼諸団体による「議会解散闘争同盟」、「選挙闘争同盟」の選挙闘争については全くふれていない。たしかに「選挙闘争同盟」への改称は、「『純正左翼のスローガンをかかげた純正左翼の組織とした点』を改め、右翼や中間派や未組織の労働者諸君もすぐ賛成するようなスローガンを掲げ」(拙著『日本労働組合運動史』一三七ページ)と、相対的には一歩前進したといえるかもしれないが、この選挙闘争同盟のパンフレット中には「労働者農民の敵はなにか?−日本共産党は何を目標に、如何に戦っているか−」があり、じっさいの選挙闘争では、全国的に、影候補佐野学に集中してなされているから(『特別高等警察資料』三〇年二月分、二三ページ以下参照)、選挙闘争同盟共産党の別働隊と受けとられることは当然である。この点、全協中央部を痛烈に批判した全協刷新同盟もこれに全くふれていないのであるから、いわゆる革命的大衆団体とは、共産党支持の団体、あるいは共産党に指導される組織と一般に受けとられることは当然である。

 

 したがって、プロフィンテルン第五回大会の日本問題の決議以後も、すでにみた党の各種記念日闘争は、全協はじめ、いわゆる革命的大衆団体総ぐるみの動員であり、また三二年二月の総選挙も、全協は「日本共産党に於て決定する候補者を支持、応援、投票すること」(『社会運動の状況』「一九三二年版、三〇〇ページ」を基本としていた。同じことは、第四章で詳述されているモップルにしても、たしかに、階級闘争の「後衛部隊」、「超党派」的合法的大衆団体と自己規定し、いわゆる革命的大衆団体中では党に抗して自主性保持に努めた、当時としては例外的組織であるが、にもかかわらず、この選挙では、「二月十二日救援新聞号外にて佐野学等に投票すべき旨煽動し、東京地方委員会は之に基き佐野学等の推薦状を発表し具体的活動方針として(()略)()…。

 

  ()、二月十八日に各班に於て模擬投票を為すこと。之が方法として会社工場学校等中休時間を利用して未組織者を加えて模擬投票を行い、会員はK.P.に投票し、其場に於て開票し懇談的に党員の経歴或は党員は労働者階級の味方なることをアジプロし、以てK.P.員に投票せしむべく誘導すること。

 

 以上の如き口頭指令を発し」(『昭和七年自一月至六月社会運動情勢(東京控訴院管内)』『思想研究資料』二七輯四一一ページ)、というように、共産党候補を支持し、その選挙活動を行っている。「超党派」をかかげながら、共産党のみの選挙運動を会として行っても怪しまないところに病根の深さがうかがわれる。

 

 一方、党の側も、全協・モップルなどのこのような党候補支持応援については黙過しながら、関東消費組合内での無産党候補応援に関しては、「消費組合に全団体として、一政党の支持を強制することは出来ない。それは絶対に間違いである…それは労働組合、農民組合、モップル、労農救援会、反帝同盟、その他等々の党外大衆諸組織の場合と全く同様である」(「消費組合運動に於ける左翼の任務」『赤旗』六六号、32・3・22)というのであるから、手前勝手もいいところである。

 

 党利をはかることに急で、諸組織間のけじめはないも同然という運動スタイルは、反面では、当然のこととして、相互に足を引張り合い、全体的には運動を弱める結果をもたらした。たとえば『赤旗』一四一号(33・6・11)「八・一闘争に於ける経営内活動について」は、つぎのようにのべている。

 

  我々は従来目標工場の狙いうちの戦術を立てて、その遂行に努力して来たが、この場合党も全協も共青も各々手前勝手に突撃し、それが為にエネルギーを分散させていたばかりでなく、お互いにイガミ合って党の組織も伸びなければ、組合も萎縮する…場合すらあった。そして経済闘争の指導に際して、党のみが一途に乗り出して(成功的に戦われた地下鉄ストの場合すらそうであった)組合を背後に押し込めて了い、その結果組合の発展が阻害され、組合党の拙劣な複製に止まっており、亦他方では、組合のフラク自身が経営内の党細胞の大衆化を煙たがって、活動的メンバーをドシドシ党内に送り込むことをしりゴミして、多かれ少かれ縄張り主義の偏向をバクロすることが度々あった。

 

 このように、いわゆる革命的大衆団体が、それぞれ独自に党機能を代行しようとする傾向は、一面で「大衆団体内党員の党に対する無関心主義、党活動の放棄主義」(「大衆団体の指導に就いて」『赤旗』一六九号33・1・21)を生み出した。この代表例は三二年春から夏にかけての全協中央部(溝上弥久馬、宮上則武、高江洲重正ら)と党中央部との対立であろう。三二年五月二五日付の党中央委員会労働組合部「全国協議会中央部の再建」(『「赤旗」パンフレット』第二四輯)は、この点についてつぎのように書いている。

 

  最近全国協議会の或指導機関の会合では、党中央機関紙の配布に関する決議を採用した。組合が政党の掲げる政策を支持するかどうかを決定することは差支えないが、党員及び党の活動を規定する様な決定を採用することは出来ないし、且間違いである。その混乱と、組合内に働いている一部の極く少数の同志達の間にある労働組合主義とを結び付けて考えることは興味深いものである。これらの同志は云う。「組合のことは組合でやるから任して置いて呉れ、は干渉(?)しないでいい」と。…更に、党と組合とを対立的に考える傾向もある。かかる傾向の所有者は「全協は党より強い」という…

 

 こうした対立から、同パンフは「去る四月中旬(三二年−引用者)に中央部の有能な同志を多く失った後の全協中央部の同志達は暫定的に新しい中央部を構成した。それは拡大会議で承認されたものであるという意味では民主的である。併しそれだけでは全く不充分である。選ばれた新しい指導部員は如何に決定を正しくするか? 彼等は革命的戦術をどれだけ実行するか? 又大衆との結合をどれだけ深め得るか…等の見地から再吟味されねばならぬ」と、全協中央部敵意をあらわにしている。この延長線上に、まえにふれた九月の全協第一回中央委員会が位置づけられるのである(1)

 

  (1)、ここでは、党と全協との混同をいましめているが、これもまた御都合主義であることは、つぎの一例でもうかがえる。すなわち『赤旗』一五一号(33・8・1)に、「全協日本××東京支部常任委員会」名の「党中央委員会宛の上申書」「全党員は労働組合運動の先頭に立て!」が掲載されているのである。党フラクションでなく、支部常任委員会が「党フラク組織が極度に弱いこと」とか、「経営内党組織を組合組織から全く速断しておいたり、所謂独自的活動を大衆団体とは全く離れて党が独り勝手にやることだと、歪曲すること」とか述べた上、「経営内及び失業者間の党組織成員は一人残らず組合員になれ! 彼等をして組合活動の先頭に立たしめよ! 組合内のフラク組織を強化せしめよ! 革命的労働者を大胆に入党せしめよ!」と訴え、「以上の事は…我々の、唯一の党の強化のための熱意から発したものに他ならぬ」といい、これを受けて、党中央委書記局は「日本の革命的労働組合の指導者達が、わが党のボルシェヴィーキ的大衆政策を正しく理解し、その偏向の克服とその精力的遂行とのために非常な階級的熱意を示していることに最大の階級的敬意を表する」と述べるに至っているのである。

 

 3、党・外郭団体、党内の家父長的序列

 

 一九二八年コミンテルン第六回大会で、プロレタリアの党は唯一つ、共産党のみというテーゼが確立され、党は労働者階級の最高の階級組織、労働者階級の頭部とされ、「革命的組合運動が革命的方針を遂行し得るのは共産党の指導あってこそ始めて可能」(『赤旗』六八号、32・4・1)と、党の指導下にある大衆運動だけが特別に価値あるものとみなされ、大衆団体は、党の指導を受け入れるていどに応じて評価された。また党内では中央委員会を頂点として、上級機関の決定には党員は無条件に従わなければならないという組織原則=鉄の規律は、党中央部絶対化と党員の党内での地位による差別を生み出した。

 

 このような運動内、党内の序列制は当時の革命運動論、党組織論から当然にもたらされたものであるが、その上で三〇年代の日本の共産主義運動を特徴づけているのは、党の戯画化された優位性、すなわち党と外郭団体間、および党内の地位の家父長的序列制であろう。三二年テーゼにさえも、「党外諸組織に対する党の指導方法が根本的に変えられねばならぬ。即ち…命令の方法…は悉くやめられねばならぬ。…指導は…(自分の党員たることを言いふらすこと等々によるのではなしに)…常に説得の手段により」(括弧内も原文、傍点は引用者)云々とのべている。事態はそれほどもひどかったということであろう。

 

 いま『赤旗』など党文書で警告されている例をいくつか示せばつぎのとおりである。

 

  『「赤旗」パンフレット』第一二輯(31・7・20)「党の独自的活動の重要性に就いて」−「党はこの労働組合、モップル、青年同盟等々の大衆団体全体を指導するのである。而してその指導は党が党外大衆団体に命令することに依って行われるのではない」(みすず『社会主義運動』1−四一二ページ)。組合で「働いている党員は…党細胞の決定を持って、組合の工場分会内で働くのである。…呉れ呉れも注意すべきは、…『これは党の決定だから』と云って組合分会に…強制してはならぬことである」(四一三ページ)。「甚だ遺憾なことに、最近次の如き不平を耳にしたのである。××君は最近『党の方の仕事が忙しいから』というので組合の仕事をやらない…絶対に誤りである。更に又、『党の仕事が忙しいから』ということを当時まだ党員でなかった同志に公言するが如きは許しがたい行為である」(四一四ページ)

 

  『赤旗』六八号(32・4・1)「工場細胞の活動に就いて」−党員の一部には「党員であることは、…まだ『赤旗』を読んでいない労働者の前で威張り散らすことなのである。例をとろう。…平組合員一人を党組織に採用した。ところが組合の地区或は支部の役員…はまだ『赤旗』を読んでいない。そこでこの新党員は、党の政策をよく説明し納得…させる代りに、『なあんだ、彼等はまだハタを読んで居ないのか。エラそうな顔をして…』という態度を以て相対するのである」

 

  『赤旗』七二号(32・4・23)「労働組合活動を強化せよ」−「党員が組合員に対して優越的態度をとること」を警告、さらに「組合の働き手が党員になり、党組織の一定の部署で働くようになると」「引きつぐことなしに」「組合の活動を放置」する事例が「一つ二つに尽きない」

 

  『赤旗』一五一号(33・8・1)「論説 党の拡大強化の為に大衆闘争のなかから大衆活動の戦術を学べ」−「従来大衆団体党の付属物視したセクト的方針を打破して、大衆団体を…発展させるために、我々が先頭に立って努力することだ。…これは、最級(ママ)なアジ、プロ機関化しているセクト的非大衆的な反帝同盟についても、基本的な階級闘争との結合が不充分なモップルについても言えることである。そしてこの実行のためには、我々がモップルアンチに行って、オヤヂから来たといって大きな顔してアアシロ、コウシロと指図するのでなく…」

 

  『赤旗』一六九号(34・1・31)「大衆団体の指導について」−「従来我々は、この党と大衆団体との関係、大衆団体との役割」に就いてのイロハとも言うべき原則を実際の活動の上で十分に理解し生かして来ただろうか?」。「大衆団体で働いた経験がなく旗友の会から吸収された党オルグが自ら大衆団体に籍を置き、大衆と共に生活し闘争することなしに『高所から』党員たる事をホノメかし党員風を吹かせて、ただカンパ毎に党の方針を押しつけたり命令したりしている…その団体の独自性自主性を無視して党の方針決定を命令的強制的に持ち込もうとする…そこから説得によらず党の権威を笠に着て党員たる事をホノメかして命令する極悪の官僚主義、極左的セクト主義が種々な型で発生した」。一方「大衆団体内フラク・メンバーは党員として権利義務に於て一般の党員とは一段下のものであるかの如き観を呈し……」

 

 以上によってうかがえば、党が組織的勢力としての形をとりはじめた一九三一年以来、外郭団体に対しての、党の家父長的優位性は、警告にもかかわらず、改められることのなかったことがうかがえよう。

 

 また、党内の序列制は、ラインからはずれた党フラクション・メンバーは「一般の党員より一段下のもの」とみなされる風潮を生んだだけでなく、上・下の序列を家父長的たらしめ、中央委員間においてさえ、先任・後任の家父長的序列(モスコー帰りを除いて)をもたらした。たとえば木島隆明の警察官聞取書第八回(一九三四年六月二二日)によれば、宮本顕治大泉・小畑の査問第一日の夜木島に対し「君実に愉快だよ、片野も古川もスパイだったよ。(中略)君は労働者としてこんな素晴らしい闘争に参加出来たことは実に光栄だよ」と云って大声で如何にも愉快そうに笑っていました。

 

 「彼奴は今迄僕等に対しても威張って居たのがヘイへイして居るから実に滑稽だよ」(中略)「佐久間君(木島の党名−引用者)見て呉れ、昨日まで親分の様な奴等が、まるで狼の前の羊の様だよ」と話したという。大泉ら古参中央委員が宮本ら新参中央委員にいかに横柄に対していたか、また宮本らが、心ならずもそれに屈していたさまがうかがえる。こうした家父長的序列制が党と党外大衆団体を一層腐蝕させたといえよう。

 

 

 渡部徹と他執筆者紹介 (1981年時点)

 

 渡部徹 1918年生まれ。京都大学人文科学研究所教授。『日本労働組合運動史』(1954年),『京都地方労働運動史』(1959年),『解放運動の理論と歴史』(1974年),『部落問題・水平運動資料集成』全5巻(共編)(1973〜78年)。

 

 西川洋 1943年生まれ。三重大学教育学部助教授。「『愛国新聞』について」(三重大教育学部『研究紀要』第29巻3号,1978年)。「山川均の議会運動方針」(九州大法学会『九大法学』第27号,1973年)。

 

 斎藤勇 1925年生まれ。名古屋市立女子短期大学教授。『名古屋地方労働運動史(明治・大正篇)』(1969年),『日本共産主義青年運動史』(1980年)。

 

 田中真人 1943年生まれ。同志社大学人文科学研究所助教授。『高畠素之』(1978年)。

 

 尾崎ムゲン 1942年生まれ。大阪府立女子大学学芸学部助教授。「日本近代教育における都市的潮流」(大阪女子大『社会福祉評論』42・43号)。

 

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 〔関連ファイル〕

     田中真人『日本反帝同盟の研究−共産主義運動と平和運動』

           『一九三〇年代日本共産党史論−序章とあとがき』 『田中HP』

            共産主義の歴史的分析が可能になってきた

           『日本共産党「50年分裂」はいかに語られたか』

 

     『逆説の戦前日本共産党史』 『逆説の戦後日本共産党史』ファイル多数

     『1930年代のコミンテルンと日本支部』志位報告の丸山批判

     『反戦平和運動にたいする共産党の分裂策動の真相』

           「反戦平和でたたかった戦前共産党」史の偽造歪曲

     『転向・非転向の新しい見方考え方』戦前党員2300人と転向・非転向問題

     石堂清倫『「転向」再論−中野重治の場合』

     伊藤晃  『田中真人著「1930年代日本共産党史論」』書評

     丸山眞男『戦争責任論の盲点』(抜粋)

     加藤哲郎『「非常時共産党」の真実──1931年のコミンテルン宛報告書』