日本反帝同盟の研究−共産主義運動と平和運動

 

『1930年代日本共産党史論』の第2章

 

田中真人

 

 ()、これは、故田中真人同志社大学教授の上記著書(三一書房、1994年、252頁)から、第2章の全文(P.99〜136)を転載したものである。この著書は、1930年代における日本共産党の活動・組織実態を、日本反帝同盟機関紙『反帝新聞』、共産党側の『赤旗(せっき)』や官憲側データに基づいて、実証的に論証した画期的な研究内容になっている。宮本・不破・志位らは、「反戦平和でたたかった戦前共産党」が真理と宣伝してきた。この田中論文全体と、とくにむすびは、それが偽造歪曲・犯罪隠蔽党史であることを論証した。

 

 田中教授は、2007年4月に死去した。著書は絶版になっているが、この転載に当たって、田中真人夫人の了解を得た。生前、了解を得て、『日本共産党「50年分裂」はいかに語られたか』を私のHPに転載した。田中氏の京大学生時期の活動、共産党入党−党内闘争−査問・除名、その後の行動についての対談、追悼文は〔関連ファイル〕にリンクした。私の判断で、文中のいろいろな箇所を各色太字にし、「1、戦争反対同盟」に〔小目次〕を付けた。

 

 〔目次〕

   著書全体の構成

   第2章、日本反帝同盟の研究−共産主義運動と平和運動

     はじめに

     1、戦争反対同盟

     2、日本反帝同盟

       2−1、日本反帝同盟への改組

       2−2、戦争反対同盟と反帝同盟

       2−3、反帝同盟の学生組織

       2−4、反帝同盟と在日朝鮮人

       2−5、団体加盟をめぐる内紛

       2−6、合法性と超党派性の喪

       2−7、極東反戦大会

       2−8、反帝同盟の財政活動

     むすび−共産主義運動と平和運動の原理的関連

     補注7項目

 

 〔関連ファイル〕        健一MENUに戻る

     『逆説の戦前日本共産党史』 『逆説の戦後日本共産党史』ファイル多数

     『1930年代のコミンテルンと日本支部』志位報告の丸山批判

     『反戦平和運動にたいする共産党の分裂策動の真相』

           「反戦平和でたたかった戦前共産党」史の偽造歪曲

     『転向・非転向の新しい見方考え方』戦前党員2300人と転向・非転向問題

     石堂清倫『「転向」再論−中野重治の場合』

     田中真人『一九三〇年代日本共産党史論−序章とあとがき』 『田中HP』

            共産主義の歴史的分析が可能になってきた

     伊藤晃  『田中真人著「1930年代日本共産党史論」』書評

     渡部徹  『一九三〇年代日本共産党論−壊滅原因の検討』

     丸山眞男『戦争責任論の盲点』(抜粋)

     加藤哲郎『「非常時共産党」の真実──1931年のコミンテルン宛報告書』

 

     田中真人『日本共産党「50年分裂」はいかに語られたか』

 

 著書全体の構成

 

   序章、日本共産党史研究の現段階

   第1章、合法地方無産政党論−京都・労農大衆党を中心に

   第2章、日本反帝同盟の研究−共産主義運動と平和運動

   第3章、日本赤色救援会−「超党派」的大衆団体の論理と背理

   第4章、共産主義者の反宗教活動

   あとがき−『共産主義の歴史的分析が可能になってきた』田中HPのリンク

 

 

 第2章、日本反帝同盟の研究−共産主義運動と平和運動

 

  引用資料略号

  内務省警保局『昭和四年ニ於ケル社会運動ノ状況』→『社会運動の状況』一九二九年

  内務省警保局『特別高等警察資料』第二輯第二号、一九二九年二月→『特高資料』二の二、29・2

  司法省刑事局 思想研究資料第四十輯『日本反帝同盟資料』一九三四年二月→『反帝資料』

  井上学解題『編集復刻版 反帝新聞』(一九八四年、不二出版)第二部主要文書篇、第四号文書→『反帝』四

  『無産者新聞』一九二八年五月一五日号→『無新』28・5・15

 

 はじめに

 

 日本反帝同盟、すなわち「反帝国主義民族独立支持同盟日本支部」は、一九二七年に結成された対支非干渉同盟、および翌一九二八年にこれを改組した戦争反対同盟を発展的に解消して一九二九年二月に結成された。一九二七年二月にベルギーのブラッセルで結成大会がもたれた国際組織としての反帝同盟の日本支部として位置づけられるのは、日本反帝同盟を名のって以降のことに属する。

 

 対支非干渉同盟を名のるその初期の段階においては、成功をおさめなかったとはいえ、共産主義者左右の社会民主主義者が日本帝国主義の干渉戦争に反対するという高度の政治課題において共通の土俵を萌芽的ながらつくりえた(1)。

 

 これに対し反帝同盟日本支部となって以後のこの組織は、共産主義の事実上非合法化された大衆組織−当時の官憲用語を使うならば「日本共産党の外郭団体」といわれる存在となっている。補注(1)

 

 反帝同盟をとりあげる意義は、戦前における共産主義者たちを中心とした平和運動、反戦運動とはいかなるものであったのか、あるいはいかなるものでありえたのか、さらに自問すれば共産主義者による「平和運動」がありえたのか、という問題意識に対するものである。本章では反帝同盟の運動実態を、主としてその中央機関の残した文書によって具体的にみることを主眼とする。日本における社会主義運動は、平民社が日露戦争の是非をめぐる分岐のなかから生まれたように、反戦・平和の課題に大きなかかわりを持っている。その社会主義運動がコミンテルン型運動に転化したとき、「狭義」の平和運動理論的に排斥していく構造については、より分析的考察を行なわなければならない。

 (1)、大野節子「一九二七年の対支非干渉運動」(増島宏編『日本の統一戦線』上、一九七八年)

 

 1、戦争反対同盟

 

 〔小目次〕

   1、結成準備状況と参加団体

   2、文書宣伝活動の重視−リーフレット発行

   3、戦争反対同盟の性格と全国非戦同盟への批判

 

 1、結成準備状況と参加団体

 

 一九二七年五月に発足した対支非干渉同盟は、結成後ただちに「支那武力干渉反対週間」のキャンペーンに着手したのをはじめ、中国への視察団派遣、満蒙政策反対宣伝デー、ロシア革命十周年記念運動、カール・ローザ・レーニンデーのカンパ二アの実施などを展開し、「レーニンとリープクネヒトは如何に戦争と戦ったか」などのリーフレットを発行した。

 

 しかしこの中核となった無産青年同盟と労働農民党は、一九二八年四月結社禁止処分を受け、多くの活動家が検挙された。戦争反対同盟結成の構想は、この弾圧に対する局面打開の試みのなかで登場する。『無産者新聞』一九二八年五月一五日号(以下『無新』28・5・15と略)社説「戦争反対同盟を作れ」においては「従来の如く、単に頭だけの集まり、各団体の代表の集団といふのではなく、各工場及農場に基礎を以(ママ)た大衆の組織、所謂『下からの組織』でなければならない」とし、工場農村に戦争反対・対支非干渉反対のための宣伝委員会を作り、これらを戦争反対同盟に結集することを呼びかけている。

 

 ことさらに「下からの組織」を強調しているのは、前年の対支非干渉同盟の活動において、各無産政党指導部との統一行動の交渉が結局、十分な成果をおさめえなかったことの反省に立ち、左派主導による大衆的反戦組織の先行による運動の展開をめざしたものといえよう。ただし新党準備会は同じころ、「治安維持法改悪出兵反対共同闘争委員会」の結成を日労党に呼びかけており(『無新』28・5・20)、「上からの共同行動」の提唱をあわせた二面作戦をとっていた。

 

 この新党準備会の日労党に対する共同行動の提唱は、郡山など一部地方で実現をみたところもあったが(『無新』28・6・2)、日労党中央は拒絶した(同前28・5・26)。それを見越してか、「戦争反対同盟を組織せよ」という、第四次出兵強行直後の五月二一日付で発行された『無新』号外の論文では、対中国侵略戦争の開始を対ソ戦の前哨としてとらえる「左翼」的視点からとらえられている。「ソヴィエトロシア擁護」「対ソ戦阻止」というスローガンを大きな柱として戦争反対準備がなされていくのである(「戦争反対の大衆闘争を起せ」『無新』28・6・17)。

 

 戦争反対同盟の具体的組織化は、一九二八年七月九日の関東地方無産団体協議会において、戦争反対同盟関東地方準備会の成立をみることから開始された(『無新』28・7・15)。ただし『特別高等警察資料』二の二(29・2)では、関東地方無産団体協議会は六月三〇日に東京市電自治会にて開催されたが、戦争反対同盟結成の決定にいたらず、七月八日の第一回組織準備会でもって戦争反対同盟準備会が結成された、とある。準備会加盟団体として新党準備会・青年同盟準備会・朝鮮青年同盟・朝鮮労働総同盟・関東金属・東京合同・関東電気・出版労組の各組合の名があげられている(『無新』28・7・5)。

 

 戦争反対同盟を対支非干渉同盟の「組織替」(『社会運動の状況』一九二九年、一五一ページ)とする評価があるが、実際にはその性格にかなりの変化がみられる。何よりも対支非干渉同盟が、無産政党の統一戦線組織としての性格を強調していたのに対し、戦争反対同盟はこれを、工場・農村に根のない頭だけの運動として否定的評価を下し、まず左派活動家を工場・農村を基礎に結集すべきものとし、左翼大衆組織として戦争反対同盟を位置づけていた。

 

 だが、独自の大衆的左翼反戦運動の組織を結成することの意義について必らずしも理解が十分になされていたとはいいがたい。七月九日の第一回準備会において東京合同の代表は「一般労働者は戦争に依り好景気の到来することを希望し居り、且戦争目下勃発するといふ時代にも非ざるに本同盟を組織することは恰も対支非干渉同盟と等しく、大衆と離れたる幹部のみの同盟となり終るべし。故に本同盟組織よりも先づ組合組織確立に努力すべきなり」(『特高資料』二の二、四四ページ)との反対意見が表明されたようである。この反対意見は少数で、戦争反対同盟結成が決定されるが、以降もしばしば、左翼反戦・反帝組織の独自的必要性に対する懐疑が表明されることとなる。

 

 七月の第一回準備会を具体的に準備した責任者は新党準備会東京府支部連合会の大野木茂である。大野木には日本共産党から秋笹政之輔(本名、正之輔)の線で指導が入っていた(『特高資料』二の二、四三ページ)といわれているが確証はない。しかし『赤旗』紙上では、たとえば一九二八年七月一〇日付第一六号に「極東における帝国主義の支柱たる日本帝国主義に対する闘争」と題する論説など、山東出兵以後の情勢のなかで反戦闘争の必要性を強調するものが目立つようになっている。

 

 準備委員会の中心であった大野木茂が翌八月に病気入院となったのちは帝大生鈴木小兵衛が中心となった。組織部・宣伝部・財政部などの専門部がおかれた書記局のほとんどは東京帝大を中心とする学生によってになわれた(文部省学生部『思想調査資料』第二輯、一九三一年、五九ページ)。鈴木は一九二九年五月に検挙されるまでの一〇カ月間、戦争反対同盟の書記局をになうことになる。人的にも財政的にも学生に大きく依存したことが戦反同盟・反帝同盟のひとつの特徴としてあげられよう。なお戦争反対同盟の事務所は芝区琴平町二番地の検閲制度改正期成同盟内におかれた。

 

 この間、『無産者新聞』では戦争反対同盟の地区組織の結成を報じたものが散見される。同紙一九二八年八月五日号によれば、戦争反対同盟東京地方準備会は、七月二〇日から三〇日までを同盟宣伝週間として、ビラ三万枚を用意する計画を報じ、荏原・城西・北部・本部・京橋に宣伝委員会が確立した、とある。また七月二〇日には戦争反対同盟城西地区準備会が結成され、その構成団体として市電・出版・金属の各組合と朝労および無新の名があがっている。だが、この準備会はその後の『無新』に登場していない。『無新』には各地における反戦演説会の記事もしばしば掲載されているが、戦争反対同盟が主催団体となっているものはみられない。七・八月にかけて『無新』にみえる反戦集会は表2−1のとおりである。

 

表2−1 1928年夏における反戦集会

開催日

場所

集会名称

主催団体

『無新』掲載号

1928723

横須賀

朝鮮増兵反対演説会

在日朝鮮労働総同盟横須賀支部

1928.8. 1

1928724

横浜

戦争反対演説会

新党準備会、神奈川合同、朝労、関東金属支部、横浜水道臨時人夫組合

1928.8. 1

1928811

笠岡

悪法反対対支問題演説会

無産者新聞小田支局

1928.8.25

19289. 1

沼津

戦争反対演説会(予告)

新党準備会

1928.8.25

1928829

府中

対支不干渉演説会

新党準備会(広島)

1928.9. 5

 

 戦争反対同盟関東地方準備会の名による一九二八年八月二六日付指令「運動並に組織方針について」には、組織方針について次のような懐疑的見解があらわれている(『特高資料』二の二、七一ページ)。

 

  (戦争反対同盟)ニュース第二号に掲げたる『大衆的戦争反対同盟を組織せよ』のスローガンは、現在の我々の少さき〔ママ〕力を以てしては、党、青同、組合等に更に重ねて大衆の組織を持つことは困難であり、力の分散の恐れもある故に、一時保留して「大衆的戦争反対闘争を組撤せよ」に改められる可きである。(傍点引用者)

 

 つまり独自に戦争反対のための大衆組織を作ることは限られた力量の分散になる、として早くも「工場・農村を基礎にした大衆的反戦組織」の方針は放棄されつつあり、かわりに、反戦のための文書宣伝活動の重要性が説かれている。左翼諸団体による反戦闘争のための専門家集団の集合体として戦争反対同盟を構成するというように変化したものの如くである。またこの時期には、東京以外での戦争反対同盟の組織は生まれなかった模様である(「戦争反対同盟の最近の方針について」一九二九年七月、『反帝』四、二四八ページ)。

 

 前述のように、準備会はスタートしたものの、中枢となる書記局が未確立のまま中心となった大野木茂が検挙されてしまったのであとをひきついだ鈴木小兵衛は、九月九日、東京市下谷中天王寺町に無産団体協議会を召集した。招待状は新党準備会、全協系組合など四〇団体に及んだが、出席者は関東出版労組、ナップからの五名にすぎず、鈴木自身もこの集会に関連して一時拘留されるなど停滞が続いた(『社会運動の状況』一九二九年、一五四ページ)。一九二八年七月よりガリ版でほぼ月刊の『戦争反対同盟ニュース』が発行され、またロシア革命記念日、入営日にむけてのリーフレットも発行されたが、一九二八年一一月ごろまでは、事実上鈴木一人の運動であった(同前、一五五ページ)。

 

 この状況を打開するための行動方針書として一九二八年一二月一〇日付「戦争反対同盟の運動及組織に就て」が配布された。起草者はこのころの同盟の状況からみて鈴木と考えられるが明確ではない。この前後より帝大新人会やナップの紹介による学生数名が鈴木のもとに結集し、ニュース、リーフレットはこれら東京帝大を中心とする学生の手によって刊行されていった。翌一九二九年一月、ようやく連絡のとれた秋笹政之輔の示唆により、無産団体協議会の開催を試みた。当面する建国祭反対キャンペーンをはじめとする反戦闘争を、新しくスタートした政治的自由獲得労農同盟や全協などの左派団体にその動員部隊を求め、これら諸団体の代表に戦争反対同盟書記局の学生を加えた中軸による反戦運動の指令部を確立する構想である。

 

 しかし一九二九年二月二日に宮坂中央公会堂で予定された無産団体協議会は参加者が検束され、協議会開催は不能に終わった。かねてよりたんなるアドレス先にすぎなかった検閲制度改正期成同盟内におかれた事務所は、一九二九年二月に政治的自由獲得労農同盟本部に移されたが、これも連絡先にすぎず、実際の活動の場所はアジトを転々とすることとなり、このころの左翼大衆団体の多くがそうであったように非合法化、地下潜行型の行動形態に移ることになる。

 

 2、文書宣伝活動の重視−リーフレット発行

 

 戦争反対同盟は「工場・農村を基礎とした大衆的反戦組織」という当初の目標を変更し、前述した一九二九年七月の方針書(『反帝』四)にみられるように、左翼諸団体の反戦闘争のための専門家集団という性格が強調されるようになった。これにしたがって文書宣伝活動がとりわけ重視され、限られた力量の同盟としてはかなり活発に行なわれた。「週一回の定期的ニュースと少くとも月一回のリーフレットの発行」は、主戦主義排外主義に支配された大衆への働きかけの基本的武器として重視された(同盟関東地方準備会指令28・8・26=『特高資料』二の二、六八ページ)。

 

 『戦争反対同盟ニュース』一九二八年七月にその創刊号が出された(一九二九年三月三日付第一七号までが『特高資料』二の二、に転載されている)。一九二八年夏に大阪と横浜で挙行された防空演習に反対するキャンペーン、不戦条約調印(一九二八年八月)にあたって、これを反ソ戦線確立の策動ととらえて批判、国際青年デー・広東ソヴィエト記念日、カールし・ローザ記念日、国際婦人デーなど記念日闘争関連記事などで紙面がうめられている。とりわけ賀川豊彦らによって結成された全国非戦同盟(後述)に対する批判にかなりの紙面がさかれている。

 

表2−2 戦争反対同盟発行リーフレット一覧

1928年10月

戦反リーフレットbP

ロシア革命11周年を迎えて日本の労働者農民は何を考へるか!

12月

反戦パンフレット第2輯

兵士の生活

1929年 1月

戦反リーフレット第3号

戦争反対だ

2月

戦反リーフレット第4号

建国祭と労働者農民

3月

戦反リーフレット第5号

植民地の解放は何故必要か

3月

戦反リーフレット第6輯

戦争と婦人労働者

5月

反戦リーフレット第7号

国家総動員演習を粉砕しろ

4月()

パンフレット第8号

植民地の革命的被圧迫民衆と手を握れ、反帝国主義同盟を支持せよ

 

 戦争反対同盟の中心的キャンペーン運動にあたってはかなり大量のリーフレットを作成している。リーフレットの題目は、その時点での戦争反対同盟の重点活動項目であることを物語る。第四号までは活版、以降は謄写印刷である。リーフ第一号から第三号には「著者・発行者・印刷者」として鈴木小兵衛の名が奥付にかかげられているが、第四号からは石塚英蔵にかわっている。それぞれ二銭から一〇銭の定価が付せられている。活版のリーフは約五〇〇〇部、謄写版は三〇〇部が印刷されたといわれるが、配布ルートは明確ではない。

 

 リーフ第二号「兵士の生活」は一九二八年一二月一日からの入営日にあたってのキャンペーンの一環で、非人間的軍隊生活の暴露、入営中の家族の生活擁護のための諸課題、日本の軍隊の反人民的性格を訴えている。ただし戦争反対同盟は徴兵忌避という戦術は排して、むしろ人民の軍隊、人民の兵士とするための努力をなすべきことを説いている。たとえば、旧新党準備会福井県連合会常任執行委員伊藤重男が一一月二六日福井県大野での入営兵送別会でおこなった反軍演説と「入営に際し同志に声明す」との声明書を紹介しているが、ここでは「軍隊をブルジョアの手よりプロレタリアの手に! その為には無産青年は軍隊を忌避してはならない。軍隊を無産民衆の巨大なる力とするには吾々無産青年は勇敢に軍隊に進入しなくてはならない」と語っている(『特高資料』二の二、五四ページ、『無新』28・11・30)。また大山郁夫は神戸における入営同志たちを前にして、軍隊の教える操練、技術は、他日プロレタリアートのためにもその必要のあることであるから真面目にこれを修得すべき、と説いたといわれる(同前、五二ページ)。補注(2)

 

 リーフ第一号、第三号は日本政府の軍事目標が対ソ戦の準備にあることを説いて反ソ戦争の阻止を強調している。また第五六議会に提案された予算の戦争準備のための内容を暴露し、リーフ第四号は日本国内で戦争政策推進の露払いとなっている建国会や赤化防止団などの団体が建国祭の推進役であることに注意を呼びかけている。リーフ第五・第六はそれぞれ三月一日の万歳事件記念日と三月八日の国際婦人デーにあわせて発行されたもので、植民地被圧迫国の民衆や婦人は反戦のための大きな部隊であり、日本のプロレタリアートの隊列の有力な一翼として成長させることの必要を説いている。

 

 3、戦争反対同盟の性格と全国非戦同盟への批判

 

 以上のような課題にとりくんでいた戦争反対同盟の組織の目標と性格を整理した文書が一九二八年一二月一〇日、および翌二九年一月三〇日の二回にわたり、組織内にあてた指令「戦争反対同盟の運動及組織に就て」である。この文書の起草はやはり鈴木小兵衛である(『社会運動の状況』一九二九年、一五五ページ)。全文は『インタナショナル』一九二九年一月号、および 『特高資料』第二輯第二号に掲載されている。

 

 文書は、現代における戦争が、()帝国主義諸国間の戦争、()植民地解放戦争、()ソヴィエト同盟に対する帝国主義国の侵略戦争、という三つの方向から発展しつつあることを立論の前提とする。これに対応して戦争反対同盟の闘争目標は、()帝国主義戦争の阻止、()植民地民族運動の支持、とくに対支不干渉、()反ソ戦争阻止、という三点とともに、()万国の労働者の団結の意識の宣伝、をあげている。この点につき、文書は次のように付言している。

 

  併し注意すべきことはかかる同盟−戦争反対同盟は決して戦争反対の闘争を全体的に指導するものではないことは云ふまでもないことだ。それは他の全体的階級組織の任務であって同盟の任務ではない。

 

 つまり同盟は、戦争反対のためのすべての人々を結集する超党派組織であり、その支持団体である左派無産団体のそれぞれの立場からすると戦争反対の運動をする反戦運動の専門家集団であるが、戦争を根本的になくすための闘争−帝国主義戦争の不可避性という当時の共産主義者の立場に立てば、それは革命の達成ということに他ならない−は「全体的階級組織」すなわち「党」の任務ということにならざるをえない。

 

 この点で、前記四項にわたる同盟の闘争目標のうち「()万国の労働者の団結の意識の宣伝」は、一九二九年一月三〇日付指令「再び運動並に組織方針について」において削除されることになる。()から()の目標は反戦組織として当然持たねばならぬものであるが、()()から()のための諸闘争のなかから必然的に達成されるものであっても、最初から闘争の目標として掲げるのは「全体的階級組織」としての任務との混用をまねく点で正しくない、とされたわけである。

 

 戦争反対同盟は「戦争反対のスローガンに賛成の人々」すべてが参加できる超党派組織とされた。「労働者も農民も学生も芸術家も学者も宗教家も凡ての人々が含まれ」「左翼右翼中間派其他凡ての人々」「人道主義者も民族主義者も自由主義者も社会民主主義者も左翼の人々も凡て参加」が可能とされた。しかしその「超党派性」も、当時の左翼大衆団体の常套である次のような限定がここでも付け加えられている。

 

  併しかく雑多な人々によって作られた同盟であってもこの同盟の目的が戦争反対の有効な運動の組織である以上は、この運動の有効性を妨げる様な意見即ち平和主義的意見に対しては常に厳格な批判が加えられ、暴露されねばならないことは云ふまでもないのみならず絶対に必要だ。……我等の目的が有効なる戦争反対運動である限り、この有効さを損ふ様な最少の試みに対しても暴露されなければならないのだ。

 

 この立場から「有効なる戦争反対運動」でない運動、「有効さを損ふ様な最少の試み」すなわち「平和主義」の立場に立つ戦争反対運動に対する厳しい批判が展開される。平和主義とは「今戦争が起りかけている様だが戦争をしないで呉れと資本家達に欺願する」という社会民主主義者の運動をさす。

 

  軍縮会議とか不戦条約とか国際仲裁裁判所とかいふうはべでは平和を持ち来たすものだといいながら実際は裏では却って戦争のために攻守同盟の約束をとり替す様な諸機関である。平和が来るかの幻想をおしつけ、真に戦争を防ぐことの出来るのは大衆自身の戦争反対の運動だといふことをゴマ化さうとするものだ。そうして資本家たちには戦争の準備をさせ、イザ戦争となれば社会愛国主義に早変りしてしまふのだ。斯様な平和主義徹底的バクロなしには到底強力に戦争反対の闘争が起り得ないのは明白だ。

 

 この「平和主義」の立場に立つ運動の典型としてとらえたものが、一九二九年八月に結成された、賀川豊彦らを中心とする全国非戦同盟である。文書の平和主義批判はこの組織を念頭におき書かれたもので、非戦同盟を、平和主義幻想をふりまくとともに、右派中間派統一の手段となっていることに警戒を呼びかけている。『戦争反対同盟ニュース』は早くから非戦同盟を批判する記事を系統的に掲載している。

 

  改良主義的博愛主義によって大衆の闘争をにぶらし、資本家に忠勤を示して来た賀川豊彦を中心として、救世軍、キリスト教青年会等其他の小市民層、遅れたる無産者等を集めて全国非戦同盟を組織せんとしてゐる。彼等の運動目標として掲げる所は非戦の宣伝、不戦条約、国際裁判所の支持等であって、単なるお饒りや帝国主義問の条約で戦争を防ぎ得るかの如き幻想を大衆に与へるにすぎないのであって、戦争の切迫と共に高まる大衆の反戦の気運を無力の餞舌の中に溶け込ましめ、真実の敵帝国主義に対する徹底的闘争より大衆の力をまき取らんとするブルジョア自由主義者、社会民主主義者共の意識的無意識的の試みであって、彼等の云ふ「侵略主義」に対する反対は、直ちに「祖国擁護」を合理化するのであって、一旦戦争が始まるや熱狂的排外主義者に変ずるのであって、欧州大戦はその豊富な実例を残してゐる。我等はかかる欺瞞的な平和主義暴露し、大衆の反戦的気運を只一つの戦闘的闘争組織へ、大衆的戦争反対同盟へ集中し結合せしめなければならぬ。(『戦争反対同盟ニュース』第二号、一九二八年六月)

 

 全国非戦同盟一九二八年一一月、東京で中国国民党員を招いて講演会を開催したが、戦争反対同盟は中国革命の「裏切者」を招いたとして激しく非難した(『戦争反対同盟ニュース』第七号、一九二八年一二月)。また非戦同盟の中国視察団派遣運動も「国民党と手を握り合ひ」蒋介石に懇願する運動ととらえて否定的論評を加えている(同前、第二一号、一九二九年一月)。

 

 一九二八年二一月にフランス社会党員で国際連盟国際労働局長であったアルベール=トーマが来日したさいには戦争反対同盟準備会の名において「裏切者トーマの来朝に対して声明す」というビラが撒かれた。第一次大戦開始当時フランス社会党代議士にして党内参戦派の中心人物であり、軍需相として入閣したトーマを、社会民主主義者の裏切りの標本、欺瞞的平和主義の見本として、平和主義批判のかっこうの材料としたわけである。

 

 もっとも一九二八年一月三〇日付指令「再び運動並に組織方針について」では、平和主義に対する闘争のみが強調され、反動的な排外主義に対して言及が弱かった点の反省が語られている。国民の間に根強い「お国のために」という意識を打ち破る闘争なしに戦争反対の有効な闘争は不可能である、とされた。対建国祭闘争、植民地民族に対する連帯のための闘争は、排外主義の打破という点で重視されるべき課題として位置づけられるようになった。

 

 建国祭は排外主義宣伝鼓吹の場であると同時に反動団体の結集軸の場であり、民衆動員機関の反動的活用の場ととらえられた。青年団、在郷軍人会、消防隊、青年訓練所などの動員機関の「自主化」、すなわち上意下達の動員機関から自主的運営のための組織へ、ということがスローガンに加えられた。しかし建国祭当日に戦争反対同盟として具体的な行動をおこしたという記録はない。

 

 三月一日の万歳事件記念日に続いて、三月八日の国際婦人デーから一〇日の陸軍記念日と一五日の三・一五記念日にかけてを「戦争反対週間」として集中的キャンペーンを設定した。熊本や旭川では陸軍記念日に挙行された動員演習に反対するビラはりなどが行われたが、政獲同盟(政治的自由獲得労農同盟)がビラの発行主体となっている(『無新』29・3・25、4・1)。在郷軍人教練反対のビラが「戦争反対同盟下伊那支部」の名で手渡されるといった事例(『無新』29・2・5)のように同盟支部が行動主体の前面に登場することは依然として少ない。戦争反対同盟は、この他、大観兵式参加兵士への呼びかけ、観兵式動員部隊の宿舎にわりあてられた民家に対する実費補償要求運動の煽動など多くの指令をだしているが、実行主体は戦争反対同盟としてではなく、政獲同盟をはじめとする左翼大衆団体であることが一般的である。

 

 2、日本反帝同盟

 

 〔小目次〕

   2−1、日本反帝同盟への改組

   2−2、戦争反対同盟と反帝同盟

   2−3、反帝同盟の学生組織

   2−4、反帝同盟と在日朝鮮人

   2−5、団体加盟をめぐる内紛

   2−6、合法性と超党派性の喪失

   2−7、極東反戦大会

   2−8、反帝同盟の財政活動

 

 2−1、日本反帝同盟への改組

 

 戦争反対同盟「反帝国主義民族独立支持同盟日本支部」に改組する動きは一九二九年春よりはじまった。直接には、この年の七月にパリで開催を予定(実際にはフランクフルトで開催された)の反帝同盟第二回世界大会にあたってのキャンペーンを契機としている。

 

 国際反帝同盟は一九二七年二月、ブラッセルでその創立大会を開催した。補注()。世界二一カ国から一七四名の代表が列席したとされている(「反帝国主義同盟の意義とその二年間の戦蹟」=『インタナショナル』一九二九年六月号)。日本からは日本労農党から与謝野譲、労農党から千田是也、そしてモスクワから出席の片山潜の三名が出席をしている。しかしこれらは日本の国内のいかなる組織の代表でもない。千田はベルリンに留学生として滞在中という便宜でもって、たまたま出席を勧誘されたにすぎず、その後もひき続きベルリンに滞在し、もっぱら演劇の勉強をしていたので、日本での戦争反対同盟の動きとは全くきりはなされたままになっている。だから反帝同盟第二回大会開催を日本で最初に報じた『無産者新聞』も、この点につき次のように語っている。

 

  わが日本の労農大衆はこの連盟の執行委員に我等の片山潜をもってゐる。第一回大会には労農党日労党より各一名の代表を送った。だがこの第一回大会代表については我等の間には何等大衆的運動は起されず、代表者は幾分便宜的に決定され、日本の労働者農民を世界の被圧迫民衆と結びつけるその重大な役割は不充分にしか果されなかった。(『無新』29・4・15)

 

 そこで第二回大会には大衆的な労農代表派遣運動が提唱され、一九二九年四月一三日には「第二回反帝連盟世界大会支持東京地方無産団体協議会」が政治的自由獲得労農同盟・全農・戦反同盟・青年同盟準備会の代表でもたれ、四月二〇日から二五日までを反帝会議支持週間とすることなどが決定された(『無新』29・4・25)。また反帝同盟議長マリントン(英)、書記ミュンツェンベルグ(独)、ネール(印)、ハッタ(インドネシア)など連名の第二回大会への招請状も『無産者新聞』一九二五年五月八日号に掲載された。

 

 しかし代表派遣運動については、その後の『無新』記事としては登場せず、あまり内実のないものに終わったようだ。結局、前回同様、在ベルリンの千田是也政獲同盟戦争反対同盟の代表として派遣することとなった(『無新』29・7・11)。千田はその自伝『もうひとつの新劇史』(一九七五年)において次のように書いている。

 

  『十字路』公開のお手伝いが一応すんだ頃、私は(反帝世界連合)のフランクフルト大会に(新党準備会)の代表として出て欲しいという手紙を日本から貰った。相変らず日本の事情には疎いし、またもや並び大名はかなわんと思ったが、断わるのも悪いと思ってつい引き受けてしまった。…大会事務局に顔を出すと、ベルリンから直行した国崎定洞氏や、ここの研究所におられる平野義太郎氏がもう見えていた。翌朝はモスクワから来られる片山さんをみんなで駅まで迎えに行き、その午後、大会が始まった。(一九二〜三ページ)。補注(4)

 

 ただし千田の自伝には、大会のことはほとんど記述はなく、この大会を機に千田ドイツ共産党に入党し、ベルリンで日本帝国主義を風刺したレビュー『インペリアリズム』の公演にたずさわった記述に移っている。

 

 千田を大会に送り出す主体となった政治的自由獲得労農同盟戦争反対同盟は、一九二九年七月一日付で「反帝国主義同盟第二回大会に贈るメッセージ」を発表した(『無新』29・7・11)。この前、六月に戦争反対同盟は「反帝日本支部創立に関する指令」を発している(『インタナショナル』一九二九年七月号所載)。戦反同盟はすでに四月に戦反同盟パンフレット第八号として「植民地の革命的被圧迫民衆と手を握れ! 反帝国主義同盟を支持せよ!」と題する文書を発行している。戦争反対のための運動がたんなる平和主義に終わらないためには、国際的団結、とりわけ植民地解放運動との結びつきが強調され、それが社会民主主義的平和運動区別される大きな指標とされた。「反帝同盟日本支部準備会創立の檄」は、フランクフルトで世界大会が開催されている最中の一九二九年七月二五日に発せられた(『反帝』五)。「今吾々は反帝同盟日本支部準備会を凡ゆる日本、朝鮮、台湾の同志、及び同志団体の支持参加の下に創立することとなった」とあるように団体参加名には、植民地関係諸団体の名がつらなっている。「檄」に名をつらねている参加団体、個人参加名をそのまま転載すると次のようになる。

 

 団体参加

 全国労働組合協議会 朝鮮労働総同盟 自由法曹団 関東消費組合有志 朝鮮新幹会有志 無産者新聞社 全国農民組合 労農青年同盟有志 無産青年新聞社 社会青年同盟有志 台湾農民組合 全無産階級芸術家同盟 政権獲得労農同盟 台湾文化協会 朝鮮プロレタリア芸術連盟 国際文化研究所 産業労働調査所

 

 個人参加(順不同、括弧内は所属団体或は職業)

 布施辰治(借家人同盟) 秋田雨雀(国際文化研究所長) 河上肇(著述家) 大山郁夫(著述家) 中村高一(弁護士) 高畠春次(弁護士) 溝上弥久馬(全国協ギ会) 小岩井浄(全農) 古屋貞雄(台農) 奥村甚之助(全国協ギ会) 細迫兼光(政獲同盟) 額賀次郎(弁護士) 藤森成吉(ナップ) 佐々木孝丸(ナップ) 李北満(ナップ) 川口浩(ナップ) 千田是也(反帝大会日本代表) 上村進(弁護士) (尚参加者陸続として受付く)

 

 戦争反対同盟反帝同盟日本支部改組することについて、一九二九年七月八日付の文書「戦争反対同盟の最近の方針について」(『反帝』四)を通じて検討してみよう。

 

 文書は二年前の対支非干渉同盟の結成が、おりから開催されていた国際反帝同盟創立大会と時期を同じくしていたにもかかわらず、また対支非干渉運動が国際カンパニアの一環としてあったにもかかわらず、当時の指導者は「反帝日本支部」に発展させることを「躊躇し或は拒否し」たことへの反省から筆をおこす。対支非干渉同盟が「何時となく消滅」したのちに新党準備会を中心に結成された戦争反対同盟も「主として東京に生れたもの以外には遂に存続し得なかった」し「大阪地方も…只一回二回の無産団体協議会に終った。」このような脆弱な組織にとどまっていたのは、左翼内外における解党主義的傾向に基因する、と文書は指摘する。

 

  即ち反戦同盟は第一回の方針書(一九二八年一二月一〇日付指令「戦争反対同盟の運動及組織に就て」−引用者)に於ては反戦同盟は「戦争反対の意志表示の機関であり宣伝の為の機関」であるといひ、その組織は「戦争反対の意志をもった人々の左翼から右翼まで学生も学者も芸術家も社会民主主義者も含めて作る」といひ、更に「同盟員は毎月五銭の会費を収め、そのニュースの配布を受けよ」といふが如き極めてルーズな原始的な組織として認めてゐる。

 

  そして「戦争反対といふ斗争は党が行ふ斗争なのだ」といふ消極的な態度を持し、党の斗争といふことを何らかの形で認めてゐたが他面ではやはり同時に戦反の特別の組織を考へやがては「現在党が弱いから之を代りに行ふのだ」と云って「戦争反対の斗争の指導」をやむを得ないこととしてあげてゐることが分る。これが抑々その成立の当初から反戦同盟を一方ルーズな大衆組織と規定しながら一方党の代理者である様に規定している二重性をもった組織上の混乱なのである。それは決定的には日本に於ける従来の解党派的傾向宗派的傾向の積りつもった癌種であり従来のかかる解党派的傾向が一般的によく克服されていなかつたこと、党と大衆の左翼化との間の組織上の隙間とにほかならない。

 

 戦争反対同盟「党の代理者」として、「戦争反対といふ特殊な日常斗争から切り離された斗争を指導する組織」であるかのように規定される傾向が、地下潜行型の非合法活動が中心となる活動形態となり「党の力が弱いから、之に代って反戦の斗争を指導すると云ふ反戦同盟の班組織論が抬頭」してくるのであり、それを解党主義の裏がえしであると文書は指摘している。

 

 工場・農村に戦争反対同盟を、というスローガンとはうらはらに、戦争反対同盟は反戦運動のための特殊な活動家集団という実体となっていったことは前述のとおりである。この文書も、こうした傾向を否定的にとらえているわけである。そしてこの組織上の矛盾の解決策が反帝同盟日本支部への改組、というわけである。しかし文書はたんに「党が掲げる正しい戦反斗争の指令に基いて、工場・農村に、あらゆる活動を通じて具体的活動を起すべき工場反戦委員会、農村反戦会議を開き、そこで具体的斗争を決定して…大衆的なカムパーニアを起す方向に努力せねばならない」と、党指導の貫徹の必要が一般的に語られるにすぎない。

 

 反戦運動という日常要求闘争に比し、より高次の闘争課題を専門にあつかう共産主義的左翼大衆団体党との関係のあり方は、十分な整理がなされないままになっているといえよう。工場班・農村班の必要がやはり説かれてはいるし、それらが「二〜三人の意識的な革命的分子を秘密グループとして集め」る党代行主義になる傾向への危険も指摘されている(「反帝同盟工場班農村班組織方針書、一九二九年一〇月一九日、=『反帝』七」。この危惧に対し、班の大衆化への努力の一般的強調しかなされていない。

 

 一九二九年七月に反帝同盟日本支部準備会が結成されたのち、八月の朝鮮併合記念日に対するカンパニアなどのなかで同盟創立は準備され、同年一一月七日に創立大会を持つに至った。戦争反対同盟の中心であった鈴木小兵衛が一九二九年五月に検挙されたのちの戦争反対同盟、反帝同盟準備会の書記局は上智大学中退の三浦重道をはじめ岡本静彦(東大中退)、堀内涼太郎、井尻重午(ともに青山学院学生)らによってになわれた。三浦は反帝同盟日本支部準備会委員長とされている(『社会運動の状況』一九二九年、一五九、一七四ページ)。

 

 三浦は反帝同盟結成ののち一カ月ほどした一九二九年一二月に検挙され、同盟指導部は原田耕・田口一男らがひきついだ。原田は京都学連事件の被告の一人で、学生社会科学連合会は一九二九年春以来、学連の解体と反帝班・学生全協支持団などへの改組をすすめていた。このような動きともかかわり、反帝同盟書記局は学生が主体となる状況が続いた。一九三〇年春における反帝同盟への団体加盟問題をめぐる内訌(後述)は田口ら学生、インテリ指導部排斥という現象としてあらわれたものであった。

 

 反帝同盟は機関紙『反帝ニュース』を準備会発足の一九二九年七月に発刊したのち、一九三〇年一一月、活版化された『反帝新聞』に継承した。しかし一九三一年一一月の第一一号よりふたたび謄写版にもどって、三四年一月一日付第五四号まで発行されていたことが確認されている。この間、一九三一年一二月と一九三三年二月に二回にわたって全国大会を開催している。以下、一九二九年一一月の反帝同盟日本支部の創立より、一九三四年初頭に、事実上、その活動を停止せざるをえなくなるまでの四年余の活動について、いくつかの問題別に反帝同盟の活動をあとづけてみよう。

 

 2−2、戦争反対同盟と反帝同盟

 

 一九二九年一一月、国際反帝同盟日本支部として新発足するにあたっては、従来の戦争反対同盟からの質的飛躍が期されていた。戦争反対同盟の段階における「反戦活動の一面的傾向」すなわち「反帝同盟の重なる任務は反戦反軍であるといふ見解」という「旧反戦同盟との混同」が、克服すべき第一の課題とされた(「日本反帝同盟第一回大会議案」、『反帝資料』六八ページ)、つまり反戦反軍は、反帝同盟の主要な活動目標のひとつではあるがすべてではなく、それに加えて民族解放運動の支持の運動を推進することが、旧戦反同盟に希薄な側面として反帝同盟が意識的に追求すべきものとされた。しかし一九三三年四月の第二回全国大会議案においてもなお「反戦活動の一面的偏向について」の一項を設けねばならないような活動の実態があった(『反帝資料』一八八〜一九〇ページ)。

 

  同盟の反戦活動に於ける一面性については第一回大会で自己批判したにかかはらず、この一年間にも猶全くは克服されてゐない。…特に他団体の中に「反戦闘争は反帝同盟へ」「反帝同盟の仕事は反戦闘争だ」とする反帝同盟と反戦同盟との混同は根強く残ってゐる。…反帝同盟はもとより反戦闘争をやらぬどころか、反戦闘争こそ現下の情勢に於て最も重要な闘争である。ソヴェート同盟の包囲攻撃と帝国主義国間の強盗戦争、これこそ世界政治の中心問題であり、この情勢の下に於て全世界の植民地、半植民地の反帝国主義、民族独立闘争は帝国主義列強の基礎を掘り崩し、ソヴエート同盟を守り、強盗戦争を阻止粉砕すべき巨大な反戦要因となってゐる。そしてこの植民地、半植民地の独立闘争の支持こそそのまま我が同盟の任務なのである。

 

  吾々が反戦闘争の一面性を克服強調するのは反戦闘争の重要性を無視するからではなく、全く反対に同盟の受持つ反戦闘争の重大な活動分野である「民族独立支持」の任務を十分に果さんがためなのである。従って吾々の反戦闘争には常に「民族独立支持」の立場が前面に押し出され、この立場から植民地、半植民地の問題がもっともっと広汎にとりあげられ、国内の勤労大衆並に植民地民族にアジ・プロされ、闘争が組織されねばならぬ。高知、岡山等の地方組織の活動に於て此の一面性は尚濃厚である。高知では徴兵検査、機動演習、入営、除隊に対する闘争等、嘗ての「反戦同盟」の如き反軍活動のみに偏向し、同盟の他の広汎な活動分野を放棄している。

 

 第二回全国大会は、このような反戦闘争への一面的理解、「同盟の任務に関する政治的理解の不明瞭」を克服するために行動綱領の大幅な改定を行なった。一九三一年の第一回大会で採択されたものが四三項目にのぼる多岐なものであったのに対し、新行動綱領は「九項目と大幅に簡素化している。その一九項目のうち一六項目までが朝鮮、台湾、満州、中国の民族解放闘争に直接かかわるもので占められている。旧綱領にはこれらと並んで、治安維持法、国家総動員法、軍国主義教育、軍事教練、兵士の権利にかかわるもの、戦争のための産業合理化、軍事予算、遺家族や出征兵士の生活擁護要求、反宗教、反社会ファシズムなどにかかわる多くのスローガンが連らなっていたが、これらは新綱領では「植民地と帝国主義戦争に協力する天皇主義的ファシズム、社会ファシズム粉砕の為の闘争」「日本に於ける労農、勤労大衆の一切の反帝国主義的組織の活動の無制限なる自由獲得の為の闘争」の二項に集約、簡素化されている。

 

 反帝同盟の活動目標を植民地解放闘争支持に限定しようという動きは、従来の同盟活動の行きづまり、つまり同盟の大衆化が果されず、また反帝闘争は共産党や共青の任務で、そのうえさらに反帝同盟という大衆組織は不要であるという議論さえ出現していた同盟の実情を打開するためにとらえられたものである。

 

 すでに一九三〇年六月に発行された反帝パンフレット第二輯『反帝同盟を大衆化せしめよ』(『反帝』一九)において、反帝同盟の大衆組織としての成長が成功せず、非合法的活動形態のままでとどまっている内的要因につき、次のような点が指摘されていた。

 

 ()「反帝国主義」というスローガンが、経済要求などの闘争課題に比し高度な内容を有しており、大衆行動の自然成長性が期待できない。

 

 ()党や共青の組織力が大衆の革命化においついていず、共産主義的プロパガンダを大衆的に行なうさいは、かわりに反帝同盟のビラや伝単が代行するということになった。いきおい官憲の追求はきびしくなり、一定の規律と秘密に耐えうるマルクス主義者以外は反帝同盟に組織されない、というセクト的傾向におちいった。

 

 ()大衆化のための具体的戦術を同盟が意識的に追求しなかった

 

 反帝同盟の非合法的、少数精鋭的傾向は、同盟が共産党や共青の活動の代行という性格の活動をとったことの結果であるが、そのことを裏がえしにした傾向が「反帝不要論」とでもいうべきものである。つまり党や共青の強化が必要であるのに、何故、これとは別に反帝同盟が必要なのか、という活動家の率直な疑問があった。『反帝新聞』第七号(31・7・26)での江東地区の山田正一郎の投稿は、『反帝新聞』が反帝同盟独自の立場で書かれていず「無新、無青、労新をゴタゴタにした様なものにスローガンだけが申し訳のやうについてゐる」と指摘する。大衆組織をめざしながら『赤旗』『第二無産者新聞』あるいは全協の『労働新聞』のような内容の反帝同盟の出版物は「大衆はまだ政治的にそれを受け容れるだけの用意が出来てゐないのに、革命的な言葉とスローガンを機械的に繰返してゐる」ものになっている、だから「我々には党や青年同盟があるから反帝なんかそれ程大切なものではない」という傾向が生まれてもやむをえない、と投稿者は述べている。

 

 このような傾向は、非合法の革命党の周辺にある左翼大衆団体が共通しておちいりがちの傾向ではあるが、反帝同盟の場合、組織の性格からくる闘争目標の抽象性、高次性ゆえに極端にでてきているといえよう。

 

 2−3、反帝同盟の学生組織

 

 反帝同盟中央の書記局の中心人物は、あいつぐ検挙にもめげず、三浦重道、田口一男、井尻重午、津金常知、河原井己三郎、谷川巌らがそれぞれの時期の中心となって活動が継承されていった。これら中央書記局を担った多くは学生出身の活動家である。

 

 反帝同盟の規約に定められた同盟費は月額で労働者・農民・兵士が一〇銭、失業者が五銭であるのに対し、学生二〇銭となっていた(『反帝資料』一三一ページ)。同盟第一回大会報告においても「同盟はその財政的基礎を主として学校街頭班に置いてゐたため、財政の基礎たる同盟費の納入は不確実で毎月著しく変動があり、又夏休み中などは殆んど同盟費が集らない状態だった」(同前、一一二ページ)と指摘されている。

 

 反帝同盟の地方組織のうち京都府は、すべて学生班による構成で出発している。一九二九年秋ごろに解体する学生社会科学連合会は、無青班、無新支局、モップル班、学生全協支持団、そして反帝同盟班に再編され、非合法の地下活動となったものが多いが、京都府の場合はその典形例といえよう(『社会運動の状況』一九三〇年、二三五ページ)。

 

 もっともととのった地方組織を有していた東京地方委員会には、第一回大会当時の一九三一年末において官憲調査による同盟員数は一〇三五名となっている(『社会運動の状況』一九三一年、二九三〜二九六ページ、文部省学生部『思想調査資料』第二〇輯、五九ページ)。六地区委員会別の同盟員数とおもな学校班は次のとおりとなっている。

 

○城西地区(三五三名、うち学生一一四名) 日本女子大(一九名) 東京女子大(一七) 名教中学(六) 駒沢大学(五) 早稲田第二高等学院(三〇) 早稲田大学(三〇) 東京高等学校(七)

○江東地区 (二〇人名、学生なし)

○城南地区 (一〇二名、学生なし)

○北部地区(五四名、うち学生四名) 立教大学(三) 武蔵高等学校(一)

○中部地区(二二四名、うち学生二〇〇名) 東京帝大(七〇) 明治大学(六〇) 美術学校(五) 日本大学(五〇) 津田英学塾(一五)

○荏原地区(九四名、うち学生一二名) 工業大学(一〇) 立正大学(二)

 

 ここに記録されている学校斑は一六校、ほかに一四の工場班、七〇の街頭班、若干の兵営班が記載されている。江東、城西、城南に多い「失同紹介所」「失同自由労働」「失同屑屋」といった失業労働者班は後述するように朝鮮人同盟員の多い班と推定されるが、それらは合計すると一七班、二九一名に達する。また主な構成員を「街頭分子」とされる班は、一四斑、一三三名に達する。このかなりの部分も朝鮮人が占めていることが推定される。朝鮮人と学生が、東京における反帝同盟の二大構成員をなしていた。

 

 学生同盟員は街頭分子としてのビラ撒き動員部隊として、あるいは機関紙印刷などの書記局業務の担い手として、さらには同盟費などの拠金者として、反帝同盟を支える貴重な階層であった。しかしこのような活動に偏していては、学校班は精鋭分子のみで大衆化をはばむものになるとして、第一回大会報告は学校班が当該学校での活動を重視するようにうながしている(『反帝資料』一一一〜一一二ページ)。この時期に多発した学校騒動が「一部の教授の首の問題が中心で、軍教に対する、学校行政に対する問題で闘争に蹶起してゐない」という問題点を指摘し、反軍教、反動教授の暴露、愛国主義的学生団体との闘争などの活動を呼びかけた。

 

 この方針の方向で、反帝同盟学校班の名においてなされた活動のいくつかを紹介しよう(文部省学生部『思想調査資料』第二〇輯、四〇〜四三ページ、同『彙報』第三〜第六輯)。京都帝大では一九三一年一〇月二六日に陸軍省軍務局長による時局講演会開のさい、あるいは一一月六日のロシア革命記念日にあたり、日本帝国主義の満蒙侵略に反対するビラが撒かれた。大阪商大でも一九三一年二月「愛国学生同盟粉砕」のビラ撒布があった。明治大学での軍教費学校負担要求(一九三二年一月)、同志社大学での軍事教練反対(一九三一年一〇月)をはじめ東京帝大、東北帝大、早稲田大学、富山高校などで満蒙侵略反対のキャンペーンがなされているが、そのほとんどは、ひそかに教室に反帝同盟支部署名のビラを撒布するという活動方法である。

 

 反帝同盟発足当初は、学校班は「学生協議会」に組織されていた。しかし一九三〇年二月二五日付、反帝同盟東京地方委員会通達により、学生協議会は解体されて、学生斑もすべて東京地方委員会所属の各地区の傘下に入ることとなった。「学生運動は学外の大衆の闘争と緊密に結びつけてこそ始めて強力に有効に且果敢に遂行され得るのである」と位置づけられたわけである(『社会運動の状況』一九三〇年、五二三一ページ)。第一回大会で、ふたたび学校斑の学内での活動重視の方針がだされたのは、学生出身の活動家を街頭分子として非合法活動に動員するという、共産主義活動家供給機関としての反帝同盟学校斑のあり方に対する反省から再転した方針となったもののように思われる。

 

 2−4、反帝同盟と在日朝鮮人

 

 戦反同盟から反帝同盟への移行にあたっての質的飛躍が、民族独立闘争の重視という点にあったことは、さきにみたとおりである。その行動綱領も、圧倒的部分が日本帝国主義の抑圧のもとにある朝鮮、台湾、満蒙などの解放にかかわるものになっていた。そのことからの必然として、同盟員における植民地出身者、つまり在日朝鮮人の比重は増大し、全協とともに、朝鮮人活動家を多数かかえる団体となっていた。『社会運動の状況』の記述を借りるならば、当初は「学生を中心とするの状況」であったのが「其の後昭和六年九月の満州事変勃発以来、国民大衆の愛国熱頓に昂揚せる時機に際し本同盟は戦争反対と植民地の独立運動に主力を傾注したる為益々大衆の支持を失ひ内地人は漸次離散し、メンバーの大部分は朝鮮人によって占めらるるの状況となるに至れり」(『社会運動の状況』一九三四年、一八〇ページ)ということになっていった。

 

 とりわけ在日朝鮮人の集住地区をかかえる大阪の反帝同盟の組織は「民族的構成が絶対優位を占め日本動労大衆の組織率が極端に低い点」が問題点として第二回大会報告で述べられる(『反帝資料』八八ページ)ほど、朝鮮人が大きな比重を占めている。

 

 同盟の発足にあたっては、台湾農民組合、在日本労働総同盟などの組織が反帝同盟日本支部に組織加入をしたことが『無産者新聞』で報ぜられていることはさきにみたとおりである。これに対し、ベルリンの反帝同盟本部は一九二九年一一月二二日付で日本支部に送られた「日本反帝同盟の任務とその戦略戦術」(『反帝パンフレット』第一弾として一九三〇年五月発行、『反帝』一八)において、次のように言及している。

 

  原則的立場から云へばすべての被圧迫民族が自己の支部を持つことが正常であり且つ重要なことである。従って朝鮮及台湾の諸団体が各々朝鮮若しくは台湾支部を結成することが望しい(因みに吾々は在日本朝鮮労働総同盟が日本支部に加入することは賛成である)。だが国民支部の成立またはかかる団体が団体員として直接世界同盟に所属することを事情が許さない場合には勿論かかる団体が一時本国の支部に所属することは許容される。だがかかる場合には日本支部は台湾の諸団体とその同盟台湾支部創立の活動を常に援助すべく努力しなければならぬ。

 

 この文書では、植民地民族は独自の支部を創ることが原則であり、宗主国の支部に所属するのは独自の支部をうちたてるだけの「事情が許さない場合」に限定されている。しかしながら、この視点は、いつのまにか大きく転換している。『反帝新聞』第三号(31・1・20)は「何故内地在住の植民地労働者学生を日本反帝同盟に組織しなければならないか」との見出しのもと、同盟員の投稿に答える形式の日本反帝同盟書記局の見解が載っている。

 

  一の革命的組織が民族別に組織されることは間違だ。だから在日朝鮮労働総同盟が全協各産別組合に解消した様に、在日植民地労働者学生は日本反帝同盟に組織されねばならない。左翼の組合員の中にすら民族的偏見は尚根強く残ってゐるから、労働者農民の国際的団結、民族的偏見打破のアヂ・プロを強化せねばならぬ。

 

 一九二九年から三一年にかけて、在日朝鮮人がその独自組織−在日本朝鮮労働総同盟、在日本朝鮮青年同盟、朝鮮共産党日本総局など−を解散させ、全協、共青、反帝同盟、日本共産党といった日本の運動組織に合流していった。この転換は一九二八年のプロフィンテルン第四回大会の方針、同年のコミンテルン第六回大会の「植民地および半植民地における革命運動に関するテーゼ」によるものであるが、植民地の民族解放闘争を過小評価するこの方針は、日本の共産主義運動内にもあった植民地の運動に対する無理解ともあいまって混乱と打撃をそれらの運動に与えることとなった。補注(5)

 

 在日朝鮮人の治安維持法違反による検挙者についての西川洋の統計的分析(西川「在日朝鮮人共産党員・同調書の実態」『人文学報』第五〇号、一九八一年)によると、一九三〇年から三四年にいたる五年間の間に、治安維持法違反によって検挙された在日朝鮮人は三〇四四名、うち二八四名が起訴されている。朝鮮人起訴者の所属団体別百分比は、全協が五六・九パーセント、反帝同盟が三・六パーセントとなっている。日本人をふくめた全起訴者の所属団体別百分比は、全協四二パーセント、反帝同盟〇・八パーセントであるから、この二団体が、平均よりもはるかに在日朝鮮人の比重が高いことが知られる。また反帝同盟所属朝鮮人起訴者はすべて一九三三、三四年に起訴されたものであり、全協のそれは、一九三〇年七名、三一年九名であったものが、一九三二年二六名、三三年五六名、三四年四三名となっている。柳条湖事件以後において、左翼大衆団体における在日朝鮮人の比重が高まったという『社会運動の状況』の記述を裏づけるものである。

 

 2−5、団体加盟をめぐる内紛

 

 一九二九年一一月の反帝同盟創立にあたって制定された「反帝国主義民族独立支持同盟日本支部規約」においては、同盟員につき、個人加盟とともに、団体加盟も認めていた。そして準備会に参加していた諸団体もこれにそのまま参加したことになっている。加盟団体は構成員一〇〇名につき年額五〇銭の会費を負担(個人の一般同盟員は一名につき当初は年額六〇銭)することと規定された。しかしながら、一九三〇年夏に、この団体加盟の扱いをめぐって反帝同盟内に内紛を生ずることとなった。

 

 反帝同盟中央書記局の責任者に選ばれた三浦重道は、創立から一カ月後の一九二九年一二月初旬に検挙され、このあと東京帝大生の田口一男、中島正を中心とするメンバーによって書記局は再興された。内紛は、団体加盟のみなおしを主張する中島らのグループが、田口らを「クーデター式」に排除せんとすることによってはじまった。中島派の主張は『反帝ニュース』第二二号(30・7・1)および第二三号(30・7・22)ならびに一九三〇年七月一五日付文書「再び新組織方針に関して声明す」(『反帝』二二)、反帝同盟東京地方委員会機関紙『民衆の武装』第二三号(31・7)で述べられている。

 

  山本(田口)はあくまで日本支部規約通りのソシキ(あの不明確な、誤った、非現実的な)を正しいとして頑張る。…要するに、彼は規約をタテにとって、団体加盟といふ大ザッパな方法で同盟の活動を骨ぬきにし、工場、農村、軍隊内に於る困難なる斗争を放棄せんとしてゐるのだ。(『反帝』二二)(日本支部規約には)団体加盟の場合に右ヨクと左ヨクが存在することすら顧慮されてゐない。それに国際規約を一段小さくしたものが支部規約だなんぞと思ったら大まちがひだ。同盟の全世界本部と各国支部とはその任ムも条件も全く異ってゐる。

 

  世界本部の活動は、特に分散し、孤立してゐる植民地のプロレタリア諸ソシキを統一し強化し、それを国サイ的斗争の水準にまで高めるためのいはば世話役としての仕事にその精力を集中してゐるのだ。また強大な党、共青、赤色労働組合を持つ諸国の支部はその斗争任ムを狭められ、戦争反対、植民地労働者、国サイプロレタリアートとの連帯をアヂ、プロし示威するかなりルーズな団体となってゐるのだ。そんなわけでかくの如き国サイ規約を作ったのだ。それをそのまま日本支部の規約にするなんて既に完全な誤りである。(同前)

 

  我々はただ加盟団体の名を列記することと実質上団体的に支持することをハッキリ区別したのだ。…反帝同盟は、代表的な左翼団体、即、全協、全農刷新派、モップル、無新、無音、ナップ等とは特に密接な連絡をとって同一の党の影キョウ下にある団体としての階級的任務を遂行せねばならぬと考へてゐる。…右ヨク団体の場合はテンデ問題にならぬ。これ等をも他の左翼団体と同列において、協同的な指導部を作れなどといふ奴は、俺達の味方ではなく、資本家、地主のマハシ者だ。(同前)

 

  右より中間派を団体加盟せしめることによって我々の合法性が回復されるものでもなし又其の下の大衆が獲得される訳でもない。それ故規約は完全に誤ってゐる。(『民衆の武装』第二三号)

 

 つまり中島派は国際規約が、非合法で左翼のまだ強力ではない日本の実情に合致せず、社会民主主義者や平和主義者に妥協的である点を批判したわけである。そして規約どおりの組織運営を主張する田口派を「一部のインテリ策動者」とし、「規約もヘッタクレもあるか!」「現実にアテはまらない規約なんかに首をしめられてたまるか」(『反帝ニュース』第二三号、31・7・22)として、支部規約の正当性を主張した田口派を批判した。中島派の主張はより極左セクト主義的ではあるが、当時、全協のセクト主義と冒険主義を批判した全協刷新同盟は中島派を支持し、全協、無青、第二無新は田口派を支持した。中島正とこれに同調する井尻重午ら反帝書記局多数派は、一九三〇年六月中旬に、いったん田口の除名と新組織方針を決定した。しかし全協主流は田口らを支持し『第二無産者新聞』第二九号(30・7・28)も田口を支持し、国際規約を尊重すべしとする主張を掲載した。これをうけた八月六日の反帝同盟評議委員会は、団体加盟をしている第二無新、無産青年新聞社、全協などの代表を加えて開催され、田口の書記局への復活と、中島派への辞職勧告を決定した(『社会運動の状況』一九三〇年、二二二〜二三五ページ)。また中島派の東京地方委員会が七月に発表した「新組織方針」は「同盟大衆化の方針ではない」として公式に否定された。また今回の内紛は「各加盟団体が同盟の活動に関して無関心または所謂友誼団体的な交渉を持つに過ぎなかったことが一層重大な原因」であったとし、改選された執行委員会に全協・無新・無青・全農刷新会の各本部が参加することを決定した(『反帝ニュース』特別号、30・8・15)。同盟中央の指導性を強化する方針から、活版の『反帝新聞』発行と、そのための寄金募集も決定された。『反帝新聞』一九三〇年一一月一日付で創刊号がだされた。

 

 2−6、合法性と超党派性の喪失

 

 一九三〇年夏における反帝同盟の団体加盟をめぐる内紛は、同盟の「超党派」的性格の理解にかかわる問題であった。中島派書記局が一九三〇年七月に発表した「新組織方針」(『反帝』二三)は、反帝同盟規約が平和主義者や社会民主主義者排除において不徹底であったことを厳しく主張している。

 

  右にせよ左にせよ、社会民主主義的□□である以上、それを左翼団体と一堂に会合させて、或は会合させなくても同列に於て(山本等が云ふ様に河上、大山等を執行委員にして)協働的な指導部を作れと云ふことは統一戦線戦術の全き無理解者やまわし者だ。同盟がその斗争を平和主義、人道主ギ、民族主ギ、社会民主主ギに引きさげるか或は反帝国主義の斗争を全然放棄するのならば、規約厳守主義者の主張する通りミソもクソも仲好く一しょになれよう。だが正しい統一戦線戦術とはそんなものではない。社会民主主ギ、改良主ギ、組合内の反対派の中に、或ひはそれのない所は我々独自の働きかけで、工場班を作り、ただ下からのみその大衆を獲得出来るのだ。又同盟が超党派組織であると云ふのは無党の大衆…をも組織すると云ふ意味で、帝国主ギに対して戦ひもしない奴をも義理でおつき合ひに入れてやれと云ふ意味ではない。

 

 この中島派の社民排除路線は、中島らを解任したその後の反帝同盟執行部においても基本的には継承されているといってよい。第一回大会報告は次のように述べている(『反帝資料』六七ページ)。

 

  反帝同盟は党派を超越した組織である。共産党支持でも社会民主党支持でもない。帝国主義に反対し、民族独立を支持するといふ観点から、政治的見解に区別なく反帝国主義者を組織するのであって、超党派的大衆組織である。

 

  それ故に帝国主義に協力し、民族の抑圧を支持する者とは断乎として戦ふ社会民主主義者が満蒙の占領に協力してゐる限り、我々は之と闘はなければならない。このこと、即ち超党派的組織であるのに、社会民主々義者闘争することは反帝の性質とは少しも矛盾するものではない。日本の社会民主々義者は右から左まで公然と帝国主義者の支柱たる役割を演じてゐる時、彼等の影響下にある大衆の獲得、彼等のデマ、排外主義の粉砕は日本反帝同盟の主なる任務である。彼等は今日社会ファシスト化しつつある。植民地支配を兇暴化することを援助してゐる。それを実行してゐる彼等と断乎として闘争する。

 

 この観点は、対支非干渉同盟や戦争反対同盟における「超党派」性とは、一歩すすめられた内容を有している。対支非干渉同盟は、労農党が、日労党や社民党との共同闘争を遂行することを追求する組織であった。戦争反対同盟においては、その「超党派」性は、前節にみたように、かなりの限定の付されたものではあるが、「戦争反対のスローガンに賛成の人々」は「左翼右翼中間其の他凡ての人々の参加が可能」とされていた(「戦争反対同盟の運動及組織に就て」、『特高資料』二の二、九〇ページ)。

 

 田口執行部が、一九三〇年夏において、すでに共産党から激しい批判をあびていた大山郁夫、河上肇といった新労農党派を反帝同盟にくみ入れようとしたのは、戦反同盟のかつての指導方針からすれば、必らずしも矛盾したものではない。しかし、あらゆる戦線で進行していた合法政党否定、プロレタリアートの前衛党唯一論と社会ファシズム論の風潮のなかでは、超党派性そのものではなく、その留保条件の方が強いアクセントをもって主張されたわけである。

 

 加えて、反帝同盟の有しているスローガンの高度性が、前述のような「反帝不要論」といった、党と反帝同盟の混同をもたらし、そうした「前衛主義的セクト主義的傾向」(『反帝新聞』第三号、31・1・20)がいっそう、その大衆団体としての「超党派」性を希薄にさせていった。

 

 もちろん、反帝同盟が共産党を中心とする党派的まとまりのなかでの安住をめざしたわけではない。第二回大会報告の「成果と失敗」の項においては「超党派的大衆組織としての発展について」と題し、「東京地方城×地区に於て排撃同盟所属の組合青年部と協同してこれを同盟に加盟させ、埼玉地方、川口地区で全労所属の組合の中に班を確立した等其の組織的成果であった」(『反帝資料』一八五〜一八六ページ)と、合法左翼をはじめとする非共産党の流れとの結びつきを追求すべき課題としている。

 

 しかし報告は「過去の同盟の全活動を支配した非合法主義セクト主義同盟の超党派性と全く相容れない傾向として指摘しなければならぬ」と続ける。すでに一九三〇年春の時点で、東京市外長崎町大和田の造形美術研究所内プロ美術社気付でおかれていた合法事務所は「プロ美術社に迷惑をかける様だから廃止する。これで書記局も完全に(?)非合法になったわけだ」(『反帝ニュース』第一六号、30・1・11)という状況になっていた。地下活動化、非合法化とともに、党と大衆組織を混同する極左主義が拾頭した。大阪地方委員会や新潟で「共産党万才」のスローガンが採られる、といった現象である。こうした極左セクト主義は第一回大会、および第二回大会において厳しく批判され、「逸脱は今日完全に克服されてゐる」と総括された(『反帝資料』一四九、一八六ページ)。

 

 だがこの報告と同じ第二回大会に提案された行動綱領改定案には、「植民地掠奪、帝国主義戦争遂行の元兇資本家地主的天皇制打倒」というスローガンがふくまれており、この「天皇制打倒」スローガンをめぐって激論が展開された。その結果、このスローガンは削除され、「植民地抑圧と帝国主義戦争に協力する天皇主義的ファシズム、社会ファシズムの粉砕の為の闘争」が行動綱領の第一八項目として残った。「天皇制打倒」の削除理由は次のように説明されている(『反帝新聞』全国大会号、33・4・15)。

 

  反帝同盟は、()最も広汎な統一戦線の舞台であって、()政党に非ず、従って「天皇制打倒」の如き権力収奪〔ママ〕を意味する斗争を直接出来ぬし、()更に天皇制打倒の如き一つの思想的統一を要求する事もその本質に反する。

 

 反帝同盟第二回大会の半年前、一九三二年九月に、全協はその綱領「天皇制打倒」をかかげ、これが弾圧衰退に導く運動上の諸困難を作りだしていったことは周知のことである。反帝同盟は、全協の轍をふまなかったわけである。全協の混乱を教訓化しうる時間的ズレが反帝同盟には与えられていた。

 

 2−7、極東反戦大会

 

 反帝同盟は国際的な連帯、とりわけ帝国主義国における労働者農民と被抑圧国、植民地従属国民衆との連帯の追求を、その綱領的任務としてきた。とりわけ一九三一年九月の柳条湖事件から開始された中国への日本帝国主義の侵略に対する大規模な反対キャンペーンの必要が強調されたのは当然である。一九三二年の「満州事変」一周年にあたり、八月二八日から三〇日までアムステルダムで開催された国際反戦大会、および九月に東京での開催が計画された汎太平洋反帝国主義民族代表者会議は、その代表的事例である。アムステルダム大会には片山潜らが出席したが国内からの代表派遣は今回も十分な達成をみなかった。

 

 汎太平洋民族代表者会議も九月開催は準備不足のため延期されていたが、国際反帝同盟書記局は日本支部が、アムステルダム反戦大会において決定された国際反戦委員会の汎太平洋支部として活動すべき旨の一九三二年一〇月一二日付指令を発した(『社会運動の状況』一九三二年、三三三ページ)。これをうけて汎太平洋反帝国主義民族代表者会議は、一二月一二日の広東コンミューン記念日に開催されることが決められたが、一〇月三〇日の熱海事件以来の日本共産党員の大規模な検挙により実現をみなかった。

 

 一方、アムステルダム反戦大会において恒常的組織として設置が決定され本部をパリにおいた国際反戦委員会は、一九三二年一二月のパリにおける総会において上海での極東反戦大会の開催を決定した。日本反帝同盟は『反帝新聞』第三三号(33・2・4)、第三四号(33・2・19)および同月発行の号外において上海反戦大会支持合流を声明し、その代表派遣にむけての大々的キャンペーンにのりだした。

 

 一九三三年九月に予定された極東反戦大会にむけて六月にはロマン=ロラン、アンリ=バルビュス署名のよびかけが発せられ、これをうける形で、上海会議支持日本国内委員会ともいうべき「極東平和の友の会」が六月にその準備会として発足した。八月二五日に東京日比谷公園内東洋軒で合法的に開かれたその発会式(当局は上海会議に触れないことを条件に開催を認許=『社会運動の状況』一九三三年、三二八ページ)で選出された同会の幹事は、次のような幅広い顔ぶれとなっている。

 

 水野広徳 布施辰治 山崎今朝弥 加藤勘十 奈良正路 神道寛次 新居格 猪俣津南雄 木村毅 金子洋文 葉山嘉樹 荒畑勝三 岡邦雄 大宅壮一 石原辰雄 生田花世 矢部友衛 佐々木孝丸 上村進 佐々木秋夫 大森詮夫 江口渙 山花秀雄 堺真柄 河合篤 黒田寿男 黒村欣三 妹尾義郎 須山計一 鈴木茂三郎 小牧近江 高津正道 関鑑子 戸沢仁三郎

 

 また、この極東平和の友の会準備会が招集して七月二一、二六両日に開催された上海反戦大会支持無産団体協議会への参加団体は次のとおりである(同前、三三〇ページ)。

 総評 統一会議 社会大衆党××青年部 新興仏教青年同盟 排酒同盟 反宗教同盟 ソヴェート友の会 日本消費組合連盟 労農救援会(以上代表出席、以下欠席) 総労 社大党婦達有志 全農全会 文化連盟 赤色救援会

 

 協議会は代表派遣のための二五〇〇円募金活動や、ロード=マレー代表団歓迎活動、上海反戦大会報告書宣伝印刷物作成などの活動を展開した。このうちロード=マレー代表団とは、イギリス労働党上院議員ロード=マレーやベルギーのブラッセル市助役らで構成された上海会議代表団で、会議開催に先立ち八月二一日神戸港に入港し、日本の当局と会見を申し入れるなど日本の代表の参加を容易にするための工作を行なう予定であったが、日本の官憲は神戸港近くのホテル以外の上陸を禁止した。

 

 上海反戦大会は九月三日より開催される予定であったが、会場の確保がおくれ、かつ日本・オーストラリアからの代表団の到着がおくれたこともあって、結局九月二九日より三〇日にかけて、事実上の非合法状態で開催された。補注(6)

 

 上海反戦大会に日本内地からの参加は不可能に終わったようであるが、これに先立ち、九月一日、極東平和の友の会の名において本所公会堂で上海反戦大会支持無産団体協議会を開き、これを事実上の日本反戦大会とせんとした。しかし合法的開催はやはり実現できず、反帝同盟、モップル、全協、全農全会らの代表団は翌九月四日に非合法に集会をもった。

 

 極東平和の友の会上海反戦大会支持無産団体協議会は合法左翼、社会民主主義者、自由主義者をふくむ極めて幅広いものであった。「満州事変」の軍事緊張が一九三二年の上海事変ののち一定の小康状態をみせる一方で、「一九三五・六年の危機」と呼ばれた、再度の世界大戦の到来に対する危機感が、日本においても反戦平和への希求となり、「満州事変」直後の熱狂をさまさせていた。

 

 日本共産党は満州事変をもっぱら対ソ戦争の準備として宣伝することの必要を強調していた。たとえば「反戦闘争を如何に戦ふべきか」(『赤旗』第一三〇号、33・4・6)は日本軍の熱河侵攻を外蒙古を通じてチタを攻撃するための橋頭堡の確保という対ソ戦争のための前進基地としてとらえる必要を強調し、ソ連への直接の武力干渉がはじまらないと反戦闘争に力コブが入らないという態度に警告を発している。このような視点からではあるが、あるいはそれゆえに、上海反戦会議の成功に大きな期待を寄せ、『赤旗』第一三二号(33・4・15)には反帝同盟の方針をうける形で代表派遣の大衆的カンパを組織することを呼びかけた。以後の『赤旗』には継続的に上海反戦大会支持委員会の結成、代表派遣資金の集約状況を詳しく報じている(第一三九、一四〇、一四一、一四五、一四六、一四八、一四九、一五一、一五二号)。

 

 さらに、『赤旗』は極東平和の友の会準備会の案内状にこたえる形で結成された上海反戦会議支持無産団体協議会、あるいは極東平和の友の会の正式発足について、社会民主主義者をふくむ多くの参加団体、個人を列挙して詳しく肯定的に報じている(『赤旗』第一五三号、33・8・11、第一五四号、33・8・16)。たとえば第一五四号の「上海反戦大会支持極東平和の友の会の設立進む」 においては「同志秋田雨雀他十四名が発起人」としてその氏名が肯定的に列挙してある。そのなかには、長谷川如是閑、蔵原惟郭といった自由主義者や麻生久、加藤勘十、金子洋文、葉山嘉樹といった名前があがっている。この記事に並ぶ形で「党派を超えて神奈川に反戦大会支持委員会結成」との記事があるが、ここでも「作家同盟の林房雄、大江賢次、横浜総評の糸川の諸君を発起人」と紹介している。

 

 一九三三年八月中旬までの『赤旗』は、このように超党派的な上海反戦大会支持の動きに好意的であったが、九月三日の上海反戦会議開催予定の日(東京でも日本反戦委員会創立大会が予定)を直前にした『赤旗』第一五六号(33・8・26)大きく修正し、社民排撃という「本来の」共産党の立場にもどっている。

 

  諸君、口の先では帝国主義戦争反対を唱へながら実際には日本帝国主義の強盗戦争を支持して労働者農民をマンチャクせんとした社会ファシストやダラ幹共すら、諸君の真剣な反戦闘争の叫びに押されて、この創立大会に乗り込んで、平和主義的駆引をやったり上海反戦大会に色目を使うかもしれぬ。

 

  だが、奴等は平和主義や日和見主義の毒素を振りまいて、スキさい(ママ)あれば諸君の革命的反戦闘争を裏切らうとしてゐるのだ。今加藤勘十鈴木茂三郎などが極東平和友の会でモサモサやってゐることがそれだ。彼等は、反戦闘争のための真に大衆的な統一戦線機関として生れやうとしてゐる日本反戦委員会の生長にブレーキをかけるために、小ブル的平和主義的な極東平和友の会に労働者農民の注意をそらさせやうとしてゐる(この点に於て本紙第百五十四号の友の会への労働者農民の参加を無条件にアッピールした記事には少なからぬ誤った認識が含まれてゐた)。

 

 当初の肯定的、積極的態度から一転した日本共産党と『赤旗』の論調は、「情勢の要求にもとづく統一戦線への指向と『社会ファシズム』論などの方針との矛盾」(『日本共産党の六十年』)と大まかに把えることは可能だろう。気になるのは、この間の『反帝新聞』には『赤旗』論調に対応するようなもの、つまり超党派的反戦委員会に対する肯定、あるいは否定の記事が見あたらないことだ。具体的な「闘争」記事はあっても、高所にたった指導的論調は皆無である。

 

 前年、すなわち一九三二年において、日本共産党被告救援のための「無罪要求の会」、あるいは政府払い下げ米を要求する「米よこせ会」の運動において、赤色救援会や関東消費組合連盟などで活動していた日本共産党員たちは、大胆に、ある意味では『赤旗』の論評に逆らう形で、自由主義者や合法左翼をはじめとする社会民主主義者との共同闘争を展開した(次章参照)。合法性と大衆性を保持しつつ活動を続けていかねばならないモップルや消費組合の共産主義者たちのみせた党に対する「弾力的」対応は、反帝同盟の活動家にはみられない。党からのこの自主性のなさは、反帝同盟の活動のせまさの反映であり、この点で反帝同盟は、文字どおり党の「外郭団体」にとどまっていたといえよう。

 

 2−8、反帝同盟の財政活動

 

 反帝同盟の財政は、同盟費、賛助会費、寄付金および事業収入でもって充てられることとなっている。同盟費は月額で労働者・農民・兵士が一〇銭、失業者が五銭、学生は二〇銭とされ、それらを本部四、地方二、地区二、班二の割合で配分されることとなっていた(第一回大会採択の規約、『反帝資料』三一一ページ)。

 

 しかしながら、同盟費の納入状態は一貫して良好とはいえない。第一回大会報告には、同盟費納入の大部分が学生班からであったことから夏休み中などはほとんど同盟費が集まらず、それを補う特別基金も十分な成果をおさめえなかったことが報告されている(同前、一一二ページ)。また東京以外の地方から中央書記局に上納される同盟費は極めて貧弱であった(同前、二二三ページ)。たとえば、反帝同盟日本支部準備会が設立された一九二九年七月から翌年八月までの一年間に『反帝ニュース』紙上に掲載された基金の合計一一五円五八銭のうち、東京以外のものはわずか二六円三三銭と四分の一以下の比重でしかない。

 

 比較的まとまった統計の出ている一九三二年二月から六月までの五カ月間についてみると、表2−3のごとく、この間の同盟費総額一〇七円七〇銭のうち、九一円二〇銭、およそ八五パーセントが東京地方委員会から拠出されていることになる。中央への納入比率四割が守られていたと仮定した場合の東京地方委員会傘下の同盟費は一カ月あたり四五円六〇銭となる。一人あたり平均一二銭の同盟費と仮定すれば、約三八〇名というのが、一九三二年前半における東京での同盟費を納めている同盟員数ということになる。補注(7)

 

 またちょうど一年後の一九三三年二月から六月までの中央書記局の同盟費収入が第二回大会に報告されている(『反帝資料』二二四ページ)。それによれば、一九三三年二月は三二円四二銭、三月一五円三八銭、四月一四円七九銭、五月一六円三七銭、六月一〇円八四銭と下降線をたどっている。表2−3による一年前の同期に比し一七パーセントの収入減の水準となっている。

 

表2−3 反帝同盟本部書記局収入額

(1932年2月〜6月) 費用−円

     本部収入総額 うち同盟費  うち東京地方同盟費

2月  44.12     44.12        33.82

3月  15.58     15.58        15.38

4月  25.79     14.79        14.79

5月  30.44     21.37        16.37

6月  20.84     11.84        10.84

『反帝新聞』1932年7月5日(号外)、同8月15日第25号より作成。

 

表2−4 反帝同盟東京地方委員会地区別費目別収入状況

(1932年5月1日〜7月15日) 費目−円

地区名   荏原   北部   城西   中部   江東   城南    計

同盟費   6.90  5.60  2.50  9.90  4.45  2.90  32.25

紙代    0.95  1.75  2.24  2.30  1.56  ――   8.80

パンフ   0.45  0.45  1.12  0.12  0.63  0.96   3.73

基金    5.75  0.20  1.02  0.21  0.04  2.00   9.22

計     14.05  8.00  6.88 12.53  6.68  5.86  54.00

 

 第二回大会報告は収入状況の報告に続いて、平常月における同盟の最低限度の活動をするための費用をあげている。旬刊新聞(謄写版)一〇円、パンフ一回三円、資料二回三円五〇銭など印刷経費で計一八円五〇銭、発送費一〇円、ビューロー費一〇円など合計四二円五〇銭となっているから、一九三三年二月から六月までの平均収入一七円九六銭と目標の四割強にすぎない。同盟費収入、紙代の不足を補うために再三にわたって特別基金が募られるゆえんである。反帝新聞一〇〇〇円基金(一九三一年)、第一回大会基金、東北救援基金(一九三二年)、反帝新聞防衛基金、上海反戦大会基金、第二回全国大会基金、三〇〇円特別基金(一九三三年)、反帝新聞防衛基金(一九三四年)といった基金募集の訴えが再三にわたって呼びかけられた。これらの応募者は随時『反帝ニュース』や『反帝新聞』に掲載されているが、紙上に発表せられたかぎりでは、目標額に遠く及ばないままに終わっている。とはいえ、一九二九年夏から一九三三年末までの四年余の間に機関紙上に報告されたさまざまの拠出金の合計は五〇〇円を超え、貧弱な財政活動の支えになったことはたしかである。

 

 地方組織については、第二回大会報告において、東京以外の地方組織の財政活動は極めて弱いこと、高知その他二、三の地方から不定期の同盟費納入と「申し訳的に基金カンパ」が送られたにすぎぬことが報告されているが、具体的規模は不明確なところが多い。

 

 このような限られた財政規模のために『反帝新聞』は一九三〇年二月の創刊からちょうど一年間、第一〇号までが活版のほかは、それ以前の『反帝ニュース』時代をふくめて謄写版印刷となっている。多くの方針書、指令も活版印刷はほとんどない。

 

 むすび−共産主義運動と平和運動の原理的関連

 

 日本反帝同盟の歴史は、共産主義運動と平和運動の原理的関連を考察するうえで興味深いものである。両次大戦間、とくに一九三〇年前後において共産主義者の戦争と平和に関する基本的認識は次のようなものであった。

 

 ()、資本主義体制の全般的危機の進行、社会主義世界体制への世界史的移行の時代

 ()、社会主義体制が事実上ソ連一国であることからする帝国主義戦争の不可避性、その不可避である帝国主義戦争を「内乱」、すなわち「自国政府の敗北」に持ちこむというロシア革命モデルの革命イメージ

 ()、植民地従属国における解放戦争、反帝国主義戦争の支持

 ()、ソ連に対する帝国主義諸国の攻撃の阻止ソ連の祖国防衛戦争の擁護

 

 このような認識は、世界革命の達成、ソ連邦の擁護を任務とするコミンテルンのものであったが、それは反戦、反帝運動においてもそのまま持ちこみ得るものとされた。だから帝国主義戦争の不可避性という世界情勢認識と「帝国主義戦争阻止」というスローガンは二律背反のようにみえても、それらは社会主義革命の達成によっても解決できうるものであり、革命とのかかわりにおいて両者は密接に関連し、したがって共産主義者にとって二律背反は意識されなかった。

 

 したがって社会主義国の国防力強化のための運動でさえも、世界平和擁護のための運動として位置づけることも可能であった(第二次大戦後の社会主義国の官製平和運動も多かれ少なかれこのような色彩をおびていた。オーウェル『一九八四年』における「平和とは観争である」というブラックユーモア的スローガンが書かれるゆえんである)。

 

 革命運動とはことなる独自の論理を持つ平和運動という認識は否定されるべきものとされ、それは絶対平和主義、ブルジョア平和主義、社会民主主義というような否定的レッテルがはりつけられた。たんなる「反戦」のスローガンは、ブルジョア平和主義的弱点をもつものといわれかねず、「反戦」から「反帝」への「質的飛躍」が強調された。こうして全国非戦同盟は「資本家に戦争をしないで呉れと歎願する運動」(「戦争反対同盟の運動及組織に就て」、『インタナショナル』一九二九年一月)として排され上海反戦大会支持極東平和の友の会の幅広い結集は「小ブル的平和主義」と一蹴された(『赤旗』第一五六号、33・8・26)。

 

 ※第二次大戦後、あるいはもう少しさかのぼって一九三五年のコミンテルン第七回大会以降、共産主義者が、平和運動を独自の論理のもとに活動していくことに肯定的なタテマエが確立されてはいる。しかしその平和運動革命運動と区分されうる論理をどこまで認識されるかにつき、共通の理解がうちたてられていないことは、日本における原水禁運動の分裂の歴史など多くの列証を挙げ得よう。

 

 これらの認識の必然的結果として、反帝同盟は、平和運動や反戦闘争のための左翼大衆団体でもなければ、日本共産党そのものでもなく、赤色救援会のような特定の目的、共青・全協といった特定階層のものでもない、奇妙な存在となってしまった。当時の活動家のなかから、幹部の説得にもかかわらず、再三登場する「反帝不要論」−党や共青があるのになぜそのうえ反帝同盟が必要なのか−は、運動実態において根拠があった。つまり「戦争と革命の時代」において共産主義運動は、革命運動とは別の求心円を持つ反戦組織の必要性の論理を持ちえない構造があったからである。

 

 反帝同盟が一定の基盤をもって拡張していく要素があったとすれば、朝鮮人をはじめとする植民地解放のための左翼大衆団体としてその目標を限定した場合であろう。しかしたとえその方針をとりえたとしても、全協がそうであったように「日本帝国主義の崩壊のための闘争」のための消耗品として終わらない保障が十分にあったとは思われない。

 

 補注7項目

 

 補注(1) 内務省の文書(「共産主義運動史概観」稿、一九三四年、不二出版刊『特高警察資料集成』第五巻、一七九ページ以下)においては「外郭団体」について「共産主義を指導理論とする大衆団体」と定義したうえで、団体の一部分子が共産主義を信奉するというだけで団体自体の行動に反映していない場合、団体内の大勢を共産主義者が掌握しきれていない場合は外郭団体とは言いきれないとし、そのうえで「外郭団体」として次の一二団体を列挙している。

 

 日本共産青年同盟、日本労働組合全国協議会、日本反帝同盟、日本赤色救援会、日本プロレタリア文化連盟、全農全国会議、日本労農救援会準備会、日本無産者医療同盟、ソヴェート友の会、日本消費組合同盟、全国水平社解消闘争委員会、全国借家人組合戦闘化同盟

 

 同文書はさらに「外郭団体の国民精神に及ぼす害毒は、或る意味では却って党より甚大である」として、次のように述べている(同前、二一七ページ)。

 

 多数の外郭団体は、大衆闘争分野を分担した一種の分業組織であるから、多種多様な大衆の日常諸要求を細部に亘って取上げることが出来る。又外郭団体の大部分は、原則綱領を掲げて鋒茫を現はすが如きことがないので、大衆の意識程度に順応することが出来る。加之、現在の外郭団体は大体に於て、取締上の制限を受くることが割合に少いから、殆ど自由に其の触手を動かすことが出来る。此等の事情から、外郭団体は比較的容易に大衆の間に喰ひ入り実際上党よりも一層広汎に害毒を醸しつつある事情である。

 

 補注(2) 徴兵に対しては、たんにこれを忌避するのではなく、武装の必要と、武器の扱いに習熟のために積極的に軍隊を利用すべきであるとの立場は、当時の共産主義者の受け入れていた一般的見解である。日本共産主義青年同盟機関紙『レーニン青年』第一八号(一九三二年一月二六日)所載の論文「帝国主義戦争反対の闘争に関する二三の問題」は「召集令に対して我々は如何なる態度を取るべきか」と設問する。帝国主義戦争を終らせるということは「これらの戦争を内乱に転化」し、その内乱を我々の勝利とするためには「ブルジョアジーの武装解除とプロレタリアートの武装を全般的に遂行しなければならない。」だから「召集令の問題は実にかかる根本方針を遂行する上に於て我々の遭遇する実践的な問題なのである」「召集令に応ずることはすなわち、プロレタリアートが手に銃を握ることであり、それを拒否することは、銃を取る事を拒否する事である。」(『資料集 コミンテルンと日本』第二巻、四三九〜四四〇ページ)

 

 補注(3) ブラッセルの創立大会は一九二七年二月一〇日から一四日までの日程で開催された。『コミンテルン資料集』第四巻(一九八〇年)の編訳者注記には三七カ国の一三七団体の代表一五二名が出席したとある(同書、五六七ページ)。主な参加団体と出席者として、ブラッセル大会召集の提唱団体であるミュンツェンベルグによって創設された非抑圧諸民族連盟のほか、中国国民党、インド国民会議派(ネルー)、インドネシア協会(ハッタ)、アフリカ民族会議、アメリカ黒人労働会議、そしてアンリ=バルビュス、アンドレ=ジード、さらにイギリス共産党、イギリス独立労働党、ドイツ社会民主党の代表があがっている。ジョージ=ランズベリ(イギリス労働党)、アインシュタイン、宋慶齢が大会の名誉議長に選ばれた。

 

 補注(4) 反帝同盟第二回世界大会の日本代表は、千田の挙げている片山・平野・千田・国崎のほか三宅鹿之助の名が挙がっている(『資料集 コミンテルンと日本』第二巻、大月書店、一九八七年、四七三ページ、村田陽一の訳者注記)。

 

 補注(5) 反帝同盟日本支部の結成にあたって、ベルリンの国際本部からの書簡「日本反帝同盟の任務と戦略」は『資料集 コミンテルンと日本』第二巻にも納められている(六八〜七四ページ)。この文書は組織問題に関連して言及された次の二点が注目される。

 第一は「すべての被圧迫民族が自己の支部を持つことが正常」であるが「国民支部の成立、またはかかる団体が団体員として直接世界同盟に所属する自治を許さない場合には、勿論かかる団体が一時本国の支部に所属することを許される」としている点である。これは台湾農民組合の反帝日本支部準備会への参加と関連したくだりで、この種のことは原則外であるかのように述べている。この時点ではすでに在日本朝鮮労働総同盟の日本支部加入がなされていたが、これについては「賛成」と述べている。

 

 第二には、反戦同盟から反帝同盟への改組に関連して、両者が「異なる目的を追及するならばこの問題は大いなる慎重さを要求する」ものだとことわったうえで、同一目的であれば問題はなく「反戦同盟は既に反帝同盟に」解消されたという無産者新聞の報道が真実であれば、これ以上は吾々の見解が既に諸君の実践によって確かめられていることになるであろう」としている。反帝同盟のような性格の組織よりも、より反戦平和運動に限定された運動を行なう平和運動体の必要を述べたとまでは読み取れない。

 

 補注(6) 上海反戦大会(正しくは極東反戦・反ファッシズム大会)の開催については、一九三二年一二月二一日から二三日に開かれた帝国主義戦争反対世界委員会第二回ビューロー会議の決定によるものである(『コミンテルン資料集』第五巻、一九八二年、五三三ページ)。大会の外国代表は、世界委員会の代表としてイギリス上院議員マーリ卿、ジェラード=ハミルトン(英『タイムズ』記者)、ジャン=マルトー(ベルギー、ブリュッセル助役)、ポール=クチュリエ(仏『ユマニテ』主筆)、ジョルジュ=ブビ(仏、代議士)、ハロルド=アイザックス(米)であった。中国からは宋慶齢ら五九名が出席したが、日本からは、朝鮮・台湾の代表もふくめて逮捕されて出席できなかった。この上海での極東反戦大会の「大会宣言」は『コミンテルン資料集』第六巻(大月書店、一九八三年、四五一〜四五二ページ)に収められている。なお同項目に対する編訳者村田陽一の補注(同、五九五ページ)を参照。

 

 補注(7) 同盟規約には団体加盟の条項があり、団体加盟の場合の同盟費は一〇〇人につき月五〇銭、一〇〇人増ごとにつき一〇銭増、一〇〇〇人以上の一〇〇人ごとに五銭増と定められている。しかし団体加盟の同盟費納入率はかなり低いことがしばしば報告されており(第二回大会報告、『反帝資料』二二六ページなど)、かつ団体加盟の同盟員の実質について疑念もあるので、同盟費から逆算した同盟員数はすべて個人加盟として試算してみた。

 

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 〔関連ファイル〕

     『逆説の戦前日本共産党史』 『逆説の戦後日本共産党史』ファイル多数

     『1930年代のコミンテルンと日本支部』志位報告の丸山批判

     『反戦平和運動にたいする共産党の分裂策動の真相』

           「反戦平和でたたかった戦前共産党」史の偽造歪曲

     『転向・非転向の新しい見方考え方』戦前党員2300人と転向・非転向問題

     石堂清倫『「転向」再論−中野重治の場合』

     田中真人『一九三〇年代日本共産党史論−序章とあとがき』 『田中HP』

            共産主義の歴史的分析が可能になってきた

     伊藤晃  『田中真人著「1930年代日本共産党史論」』書評

     渡部徹  『一九三〇年代日本共産党論−壊滅原因の検討』

     丸山眞男『戦争責任論の盲点』(抜粋)

     加藤哲郎『「非常時共産党」の真実──1931年のコミンテルン宛報告書』

 

     田中真人『日本共産党「50年分裂」はいかに語られたか』