1930年代日本共産党史論−序章とあとがき

 

共産主義運動壊滅の内在論理

共産主義の歴史的分析が可能になってきた

 

田中真人

 

 ()、これは、故田中真人同志社大学教授の上記著書(三一書房、1994年、252頁)から、序章の第8、9節全文(P.29〜35)と、あとがき全文(P.229〜252)を転載したものである。別ファイルで、「第2章、日本反帝同盟の研究−共産主義運動と平和運動」全文も転載してある。この著書は、1930年代における日本共産党の活動・組織実態を、日本反帝同盟機関紙『反帝新聞』他、共産党側の『赤旗(せっき)』や官憲側データに基づいて、実証的に論証した画期的な研究内容になっている。宮本・不破・志位らは、「反戦平和でたたかった戦前共産党」が真理と宣伝してきた。この田中著書全体と、とくに序章あとがきは、それが偽造歪曲・誤りの結果責任隠蔽党史であることを論証した。それは、日本共産党史を「神話」の記述から、「歴史的分析」に書き換える作業の一つとして貴重なデータと考察である。

 

 田中教授は、2007年4月に死去した。著書は絶版になっているが、これらの転載に当たって、田中真人夫人の了解を得た。生前、了解を得て、『日本共産党「50年分裂」はいかに語られたか』を私のHPに転載した。田中氏の京大学生時期の活動、共産党入党−党内闘争−査問・除名、その後の行動についての対談、追悼文は〔関連ファイル〕にリンクした。私の判断で、文中のいろいろな箇所を各色太字にした。

 

 〔目次〕

   著書全体の構成

   序章最終の第8節−官憲資料による統計的分析

   序章最終の第9節−共産主義運動壊滅の内在論理

   あとがき−共産主義の歴史的分析が可能になってきた

     1、キューバ危機30周年

     2、歴史的に捉えるということ

     3、党の歴史の空白と継続−「再入党」と党歴継続のこと−

     4、スターリン恐怖政治下のコミンテルン

     5、現代史のからんだ糸を解きほぐすこと−野坂参三・伊藤律−

     6、党の歴史の空白と連続−毎日の『赤旗』の第一面欄外の記載によせて

     7、あとがきの追加

 

 〔関連ファイル〕        健一MENUに戻る

     『逆説の戦前日本共産党史』 『逆説の戦後日本共産党史』ファイル多数

     『1930年代のコミンテルンと日本支部』志位報告の丸山批判

     『反戦平和運動にたいする共産党の分裂策動の真相』

           「反戦平和でたたかった戦前共産党」史の偽造歪曲

     『転向・非転向の新しい見方考え方』戦前党員2300人と転向・非転向問題

     石堂清倫『「転向」再論−中野重治の場合』

     渡部徹  『一九三〇年代日本共産党論−壊滅原因の検討』

     伊藤晃  『田中真人著「1930年代日本共産党史論」』書評

     丸山眞男『戦争責任論の盲点』(抜粋)

     加藤哲郎『「非常時共産党」の真実──1931年のコミンテルン宛報告書』

 

     田中真人『第2章、日本反帝同盟の研究−共産主義運動と平和運動』

           『日本共産党「50年分裂」はいかに語られたか』

 

 著書全体の構成

 

   序章日本共産党史研究の現段階−第1節〜9節

   第1章、合法地方無産政党論−京都・労農大衆党を中心に

   第2章日本反帝同盟の研究−共産主義運動と平和運動 (別ファイル)

   第3章、日本赤色救援会−「超党派」的大衆団体の論理と背理

   第4章、共産主義者の反宗教活動

   あとがき『共産主義の歴史的分析が可能になってきた』

 

 

 序章最終の第8節−官憲資料の利用による統計的分析

 

 第一次日本共産党の解党ののち、再建された共産党について、とりわけ一九二八年以降の共産主義運動史研究のための資料的な貢献として、内務省の『社会運動の状況』『特高月報』をはじめとする膨大な官憲資料の復刻があげられる。一九二八年以降の、こうした内務省資料が継続的・体系的に整備されたことにより、この時期以降の共産主義運動史の定量的・統計的分析が可能となった。運動当事者の側が、とりわけ非合法分野にかかわる左翼の運動においては、個別的、断片的にしかその活動記録を残しえなかったのに対して、権力を背景とした取締側は、より体系的・継続的に、また全体的・鳥瞰的に運動の全容を見渡せる位置に身を置くことができた。こうした官憲資料を利用した共産主義運動の統計的分析を行なったのが西川洋である(「共産党員・同調者の実態」、渡部徹編『一九三〇年代日本共産主義運動史論』三一書房、一九八一年、および「在日朝鮮人共産党員・同調者の実態」、『人文学報』第五〇号、一九八一年)。

 

 西川は「かつての社会運動家の回想録等で部分的・断片的にふれられることはあっても、運動側の資料によってその全体像が示されることは、これまでもなかったし、今後も期待できないであろう」(「共産党員・同調者の実態」七六ページ)し、「特に非合法、半非合法の共産主義系団体の活動家の実態については、それらの資料が残される可能性は全く無いといってよい」から内務省資料を利用せざるをえないとする。もちろん、「特高警察によって作成されたこれら資料は、治安維持法の拡張解釈や拡大適用により、かならずしもすべてが客観的事実を反映しているわけではないし、官僚特有の成績主義により誇大報告されている場合もあることは周知のことである」。

 

 しかし「被起訴者の地域的分布や所属団体、職業、学歴、年齢等の分類に関しては、比較的正確なものであると認定しても誤りはないであろう」から、このような客観データに限定した統計分析は、官憲資料利用の利点もっとも発揮するものとなるとしている。また西川の統計的分析は一九三〇年〜三四年を対象とした。この時期は「官憲側が共産系団体のほぼ全容を把握し、組織を壊滅させた時期であ」り「他の時期に比較すると、警保局資料には共産主義系団体を網羅した活動家の実態が、最も高い確率で捕捉されていると考えてよい」(同前)との判断からである(28)。いわばこの時期の取締り官憲側の資料の整備が、共産主義運動の全体を、定量的・鳥瞰的に見ることを可能にした。

 

 西川の統計分析の対象となっている一九三〇年〜三四年の時期は、戦前の共産主義運動もっとも量的に拡大した時である。この五年間の治安維持法での検挙人員総数は四万七八七〇人、うち起訴人員は三二一七人となっており、この五年間の年平均は一九二八年から四三年の期間の左翼関係検挙・起訴者年平均の約二倍となっている。このうち東京・神奈川・京都・大阪・兵庫・福岡の六大地域の占める割合は検挙者比で七七%、起訴者比で六七%となっている。

 

 また検挙者に対する起訴者の比率は平均六・七%で、起訴に至らないような広範な検挙が行なわれた東京府が四%と低起訴率であるほかは、他の五大地域は神奈川一二%、京都九%、大阪一四%、兵庫二三%、福岡一三%といずれも全国平均を上回る起訴率である。このことは起訴者中の党員数比率では一層顕著で、この五年間合計東京に四〇%、六大地域に七五%が集中している。とりわけ三〇年〜三一年段階では六大地域が起訴党員総数のうち九一〜九七%を占めている。これは六大地域以外では党組織が未確立であったことの反映でもある。

 

 検挙者数年別変化を見れば、一九三三年最高として、翌三四年は前年の三分の一に激減している。三三年より三四年の検挙人員が増加している地域は青森・宮城・栃木・大分・宮崎などの農村県で、六大地域の全国に対する比重は急速に減少している。三二年〜三三年初期までに都市部の組織の中核が検挙されたことを物語る。『社会運動の状況』による日本共産党員の検挙数は全国計で一九三〇年一二一名、三一年一二一名、三二年三七三名、三三年六〇六名、三四年二六五名計一四八六名となっている。

 

 このうち一九三二年七月から翌三三年六月までの一年間に全体の五〇・六%が、さらに三三年一二月までの一年半についていえば六三・八%の検挙者数が集中している。これら起訴党員の入党時期について不明の九九名を除いた比率を算出すれば、一九三一年入党が二七・一%、三二年四六・二%、三三年二一・九%と、この三年間九五・一%が入党している。とくに六大地域以外では一九三四年の入党者はわずか一九名しかいない。このことは一九三三年日本共産党の組織がほぼ壊滅していたことを裏付けるものといえる。

 

 『特高月報』の「治安維持法違反起訴調」から、入党年月、起訴年月の判明している共産党員一二九一名の活動期間を算出すれば、その三九・四%が三カ月未満、二二・九%が四〜六カ月となっている。つまり六割以上が党員としての活動半年未満であり、一年以上党員としての活動を継続し得ているのは一七・八%に過ぎない。この点を年次別にもう少し具体的に見れば、検挙党員のうち党員期間六カ月未満の占める比率は、一九三〇年が五八・四%、三一年九六・四%、三二年五七・六%、三三年五七・六%、三四年三九・九%三一年をピークとして低下している。逆に一年以上の活動期間党員の占める比率は三一年がわずか二・七%であったのに対し、三二年八・二%、三三年一七・三%、三四年三九・四%と増加している。この数字について西川は「三一年には大量の入党者があり、その多くは一年以内の活動期間で検挙されたと思われる。

 

 しかし、三一年には検挙者数よりも入党者数のほうがはるかに上まわっていたため、検挙をまぬがれて一年以上活動を継続する者が残っていた。翌三二年にも、同様の傾向が続いたと推定できる。しかし、三三年の前半からは、検挙者数入党者数を上回るようになり、三一年から検挙をまぬがれて残存してきた党員も総ざらいし始め、ついに三四年には、ほとんどの党員検挙し尽くしてしまったと思われる。したがって三二〜三四年にかけての検挙者の活動期間が、三一〜三二年の検挙者のそれを上まわる結果となった」(西川、前掲論文、一一五ページ)と解釈している。

 

 西川はさらに『特高月報』から作成した「検挙時期別党員数」「起訴党員入党時期調」の二つの表を比較検討することによって、各時期の残存党員数を割り出している。すなわち『社会運動の状況』(一九三〇年、五三ページ)の、一九三〇年一月現在党員数一〇〇名に、次の六カ月ごとの入党者数を加え、検挙者数を差し引けば、各時期における残存党員、つまり未検挙で活動中の党員数算出できるというわけである。その結果算出しえた数値は一九三〇年六月末で六九名、三三年六月末二二三名、同三月末二二七名、三四年六月末九名となり、このほかに入党時期不明者が九九名いる。

 

 以上は半期ごとの数字であるが、一カ月ごとの同様の試算では一九三二年九月末四八〇名がピークをなしており、検挙時期不明者のプラスアルファ分を考慮すれば、瞬間的には約五〇〇名の党員が存在したと考えられる。

 

 西川は検挙時期と入党時期による統計分析のほかに所属団体、職業、学歴、年齢などの指標による分類をも行なっているが、それらの結論として、この時期のもっとも一般的な共産党員像は、二〇歳代の前半で、入党後わずか半年の若者で、その過半数は定職を持たない大学等高学歴の者の多い集団ということとなる。「(起訴者全体のうち)党員の場合のほうが経営内労働者の比率の低下と無職・不明の比率の増大が明白であり、それだけ活動の街頭性が強まることは容易に想像出来る。

 

 また、恒常的な細胞組織が確立していたとは思えない当時の状況下では、わずか半年位の入党期間で、高度な理論武装や活動技術を身につけることも困難であったと思われる。そうだとするなら、そのような党員が大部分を占めた党で、一体いかなることが出来たであろうかという大問題に再びぶっからざるをえない」(西川、前掲論文、一二〇ページ)と結論づけて、かねてから指摘されている共産主義の理論的影響力の大きさと、それを担う共産主義系団体の社会的影響力の現実の貧困さとのギャップを、あらためて確認している。

 

 (28)、官憲資料の利用の方法と資料批判のあり方については、立花隆との論争の過程での発言である犬丸義一「日本共産党史研究の立場と方法」(『現代と思想』第二五号、のち『特高史観と歴史の偽造』日本共産党中央委員会出版局、一九七八年、所収)がまとまった「官憲資料論」となっている。同論文は官憲資料が取締側の論理が貫徹したものであり、予審調書は「絶対主義的天皇制官僚による権力強制下の陳述」であり「戦後民主主義の下では証拠価値のないもの」で、したがって「第一次史料、根本史料でない」(五一七ページ)と論断しているが、官憲史料が逮捕、起訴から公判維持にあたって不可欠であった客観データ部分の利用についてはより積極的であってよいと思われる。

 

  西川洋略歴1943年生まれ。三重大学教育学部助教授。「『愛国新聞』について」(三重大教育学部『研究紀要』第29巻3号、1978年)。「山川均の議会運動方針」(九州大法学会『九大法学』第27号、1973年)。

 

 

 序章最終の第9節−共産主義運動壊滅の内在論理

 

 前項の記述で依拠した西川論文は、本書第三章の原形をなす拙稿と同じく、京都大学人文科学研究所「社会運動の研究」班の報告論文集『一九三〇年代日本共産主義運動史論』(三一書房、一九八一年)所収の一編として執筆されたものである。同書は「四・一六事件後党再建より、一九三四年春党中央委員会が機能を失うまでの期間を中心として、党とその外郭団体が、なぜ壊滅したかに焦点をあてて検討を加えたもの」であり、「われわれの関心は、壊滅の因を、…多くのスパイや挑発者による党撹乱に求めるのでなく、運動の内在論理の中に見出すことにあった」(編者の渡部徹の同書「はしがき」)という視点において分析を加えたものである。

 

 同書の総論とも言うべき渡部徹「一九三〇年代日本共産党論」においても「問題の中心は一九二九年末の大恐慌と階級闘争の激化という、共産党発展の好条件に恵まれたにもかかわらず、三一〜三二年一〇月風間丈書中央部時代に、三・一五、四・一六事件の党中央部の公判闘争、反戦闘争、米よこせ運動、失業者運動、文化運動にやや見るべき活動を示したにとどまり、三二年一〇月の銀行ギャング事件大検挙を境に、急激に党勢が衰退し、三三年末『スパイ査問事件』とそれにつづく三四年一月『全党員の再登録』指令を契機として、『多数派』分派を生み、あえなく壊滅するに至ったのはなぜか、という点にあるといってよいであろう」と、壊滅に至る運動側の内在論理に注目するという姿勢を押し出している。

 

 『日本共産党の六十年』は壊滅の原因について、次のような諸要因を挙げているといってよいであろう。すなわち、()弾圧の強化、()三・一五、四・一六検挙により有能な活動家が奪われ、経験の少ない党員が党指導部を占めたこと、()社会ファシズム論に災いされたこと、()革命の戦略が二七テーゼ、三一テーゼ草案、三二テーゼと動揺したこと、()スパイ、挑発者により党組織が撹乱されたこと、()佐野・鍋山の党最高幹部の転向と、それに続く大量転向現象、()三二テーゼの革命の切迫という主観的情勢判断。

 

 渡部はこのように「ただ要因を列挙しただけでは、問題点を解明したとはいえない」として、これに対して伊藤晃「日本共産党分派『多数派』について」(『運動史研究』第一号、一九七八年)の挙げる「敗北の原因」を次のようにまとめている。すなわちこの時代において党とは中央委員会のことであり、党員はその方針実現のための使い捨ての消耗品であったのに対し、中央委員は大衆的な場力量を試されることなく恣意的に任命され、また党を神秘化する権威主義が党員・支持者を捉えていたため、指導能力の疑わしい幹部への自己点検機能を欠如したままであった。

 

 その結果、党は「さまざまな運動の指導機関を整然とした体系にととのえることを革命運動と混同し」、「党が直接指導する運動であればあるほど、イデオロギー性の乏しい街頭カンパニアになっていった」。活動期間が短く、党活動経験が蓄積されないまま、細胞に所属しない街頭活動が中心の党員が多数となり、大衆との結合が弱く、そのなかで三二テーゼ直訳の「天皇制打倒」のスローガンの採用は「危機のなかで国民が歴史に立ち帰り、天皇に率いられた戦争に引きつけられた、まさにそのとき」であっただけに、大衆に受け入れられず、逆にスパイによる大量検挙と、党内の疑心暗鬼のなかで壊滅の過程をたどっていった。

 

 伊藤の指摘するこのような党になったのはなぜか。本書第一章で触れるように、一九二八年末、プロレタリアートの唯一の党が共産党以外にないことを大衆的に教育するという「玉砕主義」の方針のもと、労農党結成大会が、予定通り解散させられたのち、引き続く四・一六の弾圧によって、従来の労農諸運動を通じて培われた活動家とそのネットワークが、根刮ぎに切断されていく。四・一六事件後の共産党の運動は、それ以前とは明らかにことなる非合法主義とラジカリズムが支配したものとなった。「党の中心部より周辺のほうがより『左』翼的な心情にとらわれ…その結果、いろいろな組織が運動全体のなかでもつそれぞれのレベルの違いが無視されて、すべてに『党』に一元化されてしまうという傾向が支配的となった」(栗原幸夫「戦前日本共産党史の一帰結」、竹村一編『リンチ事件とスパイ問題』所収、三一四ページ)。

 

 とくに風間時代に採られた「党の大衆化」方針は、党員獲得が自己目的化して、結果として街頭分子の大量流入となり、大衆組織党員獲得のプール視され、大衆組織の文字通りの「外郭団体」化、「前衛化」をもたらしていった。

 

 渡部徹「一九三〇年代日本共産党論」は、四・一六事件後の日本共産党の極左的偏向、街頭分子化、党と大衆団体の混同をもたらした、三〇年代日本共産党のもっとも根本的な弱点を、()党組織の欠陥、()大衆意識・動向の一面的把握、()党と大衆団体の混同、党による大衆団体の付属物視、の三点から取り上げ、それらを『赤旗』をはじめとする当時の日本共産党の発行した文書に即して検討したものである。ここでは工場細胞が欠如していること、大経営内の党員は極小であること、各種記念日における公然街頭デモの一面的強調、こうした中央の指令に対して細胞からの反応がほとんどないことなど、この時点での「党」の名において行なわれた諸活動の具体相が明らかにされている。そして革命が切迫しているという主観的情勢評価が、革命の推進体である前衛党への戯画化された優位性を活動家に承認させ、多くの大衆団体党の外郭団体化、党の付属物視を認容したものである。

 

 このような極左方針や、党と大衆組織の混同、その方針を一方的に押し付ける「指導」に対して、これに対する様々な批判、あるいは反対派の結集の動きが、あるときは自然発生的に、あるときは意識的に登場するのも、十分な根拠があるものといえよう。一九三〇年の全協刷新同盟はその一例でもあるし、もっとも大規模な、そして末期的な表われとして一九三四年から三五年「多数派」問題を捉えることができよう。モップル運動消費組合運動における党の指導を意識的に「握りつぶし」したともいえる対応(本書一六五ページ)は、硬直した党指導に対する大衆運動の実践部隊としての防衛本能がとらしめたものともいえよう。本書は、こうした風間時代の「党の大衆化」方針のもとで大衆組織「外郭団体」化、「前衛化」が如何にもたらされたか、あるいは「党の論理」に対する「大衆運動の論理」が如何に抵抗したかを明らかにした個別事例研究である。

 

  渡部徹略歴−1918年生まれ。京都大学人文科学研究所教授。『日本労働組合運動史』(1954年),『京都地方労働運動史』(1959年),『解放運動の理論と歴史』(1974年),『部落問題・水平運動資料集成』全5巻(共編)(1973〜78年)。

 

 

 あとがき−共産主義の歴史的分析が可能になってきた

 

 〔小目次〕

   1、キューバ危機30周年

   2、歴史的に捉えるということ

   3、党の歴史と空白−「再入党」と党歴継続のこと−

   4、スターリン恐怖政治下のコミンテルン

   5、現代史のからんだ糸を解きほぐすこと−野坂参三・伊藤律−

   6、党の歴史の空白と連続−毎日の『赤旗』の第一面欄外の記載によせて

   7、あとがきの追加

 

 1、キューバ危機30周年

 

 核戦争勃発が、現実の可能性を持って世界の人々を覆った唯一の体験というべきキューバ危機からちょうど三〇年が経過した一九九二年一〇月、NHKテレビではキューバ危機の真相についての特集番組が放映された。この番組では、最近に開催されたというキューバ危機真相究明のための国際会議の模様が映し出されていた。その会議の出席者には、危機の一方の当事者にして、当時の指導者で存命中の数少ない人物の一人であるキューバのカストロ首相、当時のアメリカの国防長官で、後ベトナム戦争の最高責任者となるマクナマラ、他方の当事者であるフルシチョフソ連首相の証言者としてその息子、キューバへのミサイル持込みの現場責任者兼作戦本部長とでもいうべき役割を担った当時の在キューバソ連大使。こうした人々、危機当時の配置からいえば呉越同舟というべき人々が一同に会して当時を回顧したさまざまな発言がなされていた。番組を見ながら、三〇年という歳月の経過のなかで、キューバ危機も歴史検討の時代となったのだということを感じ入った次第であった。

 米ソ対決時代の象徴的事件とも言うべきこの事件について、こうした会議の開催が可能となってきたのは「米ソ両陣営相互の軍事的・政治的対決政策とそれによって生じた国際緊張状態」(『社会科学総合辞典』新日本出版社、一九九二年。この冷戦の定義は「冷戦終結論」を認容するゆえに誤りとの日本共産党の意向によって一九九三年秋に記述が改定された)という限りでの冷戦が、ゴルバチョフ外交がもたらした一つの帰結として終結したゆえであり、こうした国際情勢の変化なしには不可能であったということであろう。またその帰結の一つが一九九一年ソ連邦崩壊という形で表われていることもひとしく認められることであろう。

 

 そしてその副産物という以上の結果として、さまざまなことが現在明らかになりつつある。キューバへの核ミサイル持込みから、その撤去の過程を示す公文書が公開される、あるいは探索しようと思えばなし得る状態になりつつある。これからもハンガリー事件やチェコ事件の真相を具体的に示す公文書が明らかになっていこう。各国共産党へのソ連からの資金援助についての記録や領収書というものが次々と明るみになってきている。

 

 日本共産党も自身にかかわる問題につき不破哲三著『日本共産党に対する干渉と内通の記録−ソ連共産党秘密文書から−』(新日本出版社、一九九三年)をまとめた。日本共産党がこの書物をまとめることを可能にした旧ソ連共産党文書の調査を行なわしめた直接のきっかけは、週刊誌『週刊文春』誌上で小林峻一・加藤昭両氏によって一九九二年八月以降に明らかにされた日本共産党名誉議長野坂参三にかかわるいくつかの事実である。小林・加藤の究明をもたらした資料群の探索を可能にした条件も、以上のような国際情勢の変化なしにはありえなかったものであろう。そして、このような状況の変化は、共産主義の歴史も「歴史的」に見ることが可能になりつつあることを示している。

 

 2、歴史的に捉えるということ

 

 物事を歴史的に見る、歴史的に捉えるということはどのようなことか。とりわけその歴史分析の対象が、政治的であれ、あるいは宗教的であれ、大きな権力や権威を持っている場合、歴史的分析の対象としてこれをまな板の上にのせて料理しようとすることに対して、どのような因子が加わるか、こうした問題を考えて見たい。たとえばヨーロッパ中世史の大きな歴史的事件である十字軍の遠征ということを考えて見よう。一一世紀末から一三世紀後半にかけて行なわれたこの著名な史実は、いわゆる聖戦史観という見方から語られてきた。近代の歴史学は、この聖戦史観をどのようにして突き崩していくかということのなかに、その存在意義を見出してきたといってよい。

 

 十字軍遠征の実態は何だったのか、どのような人達が参加し、そして彼らはどのような獲得物を得たのか、その費用はどこから賄われていたのか。参加者の動機は何だったのか、キリストの聖地を回復するためだったのか、あるいはペストの流行で食いっぱぐれがいっぱい出たからなのか、もっと別の動機があったのか。イスラム側の反応と影響はどうだったのか。その結果がヨーロッパ社会にもたらしたものは何であったのか。こうしたことを個別に検証することが聖戦史観の非神話化というものだといえる。岩波新書の一冊の『十字軍』(一九七四年)には「その非神話化」というサブタイトルが付けられている。この書は東大の西洋史学科出身の、いわゆる歴史畑の著者にかかるものだが、「神話から歴史へ」つまり神話として語られ、書かれてきたものを実態とつきあわせることが歴史化過程であるとするのが歴史家の立場である。

 官選歴史書、権力によって編纂された歴史書の場合、その性格はより明確であろう。『古事記』『日本書紀』は、当時でき上がった古代天皇制国家の正統性を説明するために作られた書物である。自分たちがこの日本列島を支配することを約束された神の子孫である、神が天からこの瑞穂の国を支配するために派遣したものの子孫が自分たちであることを説明するために記紀は編纂された。神話は、こうした権威や権力の正当性を説明するという要素が纏わり付いている。だからこの権威を拠所にしている体制においては、その歴史書の科学的解明はつねに権力との緊張、しばしば弾圧を余儀なくされた。記紀の神話を史実として国民に教育している体制のもとで、津田左右吉の日本神話研究が刑事罰の対象になったことを思い起こせばよい。

 『十字軍』が刊行されたと同じ一九七四年、やはり岩波新書で『イエスとその時代』が刊行された。この本の著者荒井献氏もイエスを歴史的存在として記述してみようとの意欲のもとに書かれたように思われる。その背後には、これまでイエスは歴史的に記述されてこなかったのではないかという反省があるように感じられる。ところでここにはもう一つの問題が提示されている。イエスはキリスト教徒にとっては信仰の対象であり、信仰を媒介にしてイエスに接している。そのようなイエスに対して歴史的方法で接近するということは、信仰の対象でなく、一人の人間、あるいは一個の分析対象としてキリストを捉えていこうという立場に立っていかざるをえないのではないか。そうするとクリスチャンであることと、イエスを歴史的に描くこととは両立し得るだろうかという問題が生じてくる。同じく、天皇を信仰的にあがめることと天皇を歴史的に把握することも両立し得るだろうかという問題ともなる。

 同じ次元の問題が次のようなところでも生じる。共産党員共産党の歴史を歴史的に描くことは可能だろうか。とりわけ民主集中制という組織原則を党員に課している場合において。たとえば『ソ同盟共産党史』といった書物は歴史ではなく神話の次元のもの、あるいは体制側によるある種の政治文書という性格の書物であったといえる。党史が編纂され、その後に党の方針が変わったり、党から除名された幹部が登場すると、現在の党の路線がその起源に遡って一貫したものであるかのような説明に書き変えられていく、そして除名された人物の名前が消える、こうしたことが無数に起こっており、共産党史においてはこうした現象は通例のものであった。本書序章で触れた渡部徹氏の著書『近代日本労働者運動史』『日本労働組合運動史』をめぐって、渡部氏当時共産党員であったゆえに受けた党機関からの圧迫の経過はその典型例の一つであり、共産党が権力を掌握していないところでも一般的に起こり得たことを物語る。

 こうしたことは「スターリン党史」的段階の過去の話であり、「無謬主義」を排した今日では起こり得ないことであろうか。そうとも言い切れない事象をあげることは難しくないかもしれないが、渡部氏に対したような権威的方法をしにくくなっていることは事実であろう。市民社会のチェックと監視機能が、共産党にも届くようになり、ある部分に対して有していた共産党の権威もより相対化されてきており、そして日本共産党も一九五〇年代に比べてほどほどに大きくなってきて、国政を決定的に左右するほどの力には欠けるが、かといって無視することもできない程度の勢力であるという状態が続いてきた。

 

 このことは共産党にも市民社会の民主的常識から大きく逸脱することへの歯止めのベクトルが働く余地が増大してきたといえよう。一九八三年の『赤旗』記事のような出版統制を示唆するかのごとき記事が掲載され、これに対する出版者側からの公開質問状を黙殺するようような不誠実な態度をとったこともあるが(本書四二ページ)、その後においてこのようなあからさまな言論抑圧的記事は控えられているようにも思える。日本共産党に対して言うべきことは率直に言う社会的力の増大が、じょじょではあれ共産党の側にも、一定の変化をもたらしていると考えるべきであろう。

 

 、党の歴史の空白と継続−「再入党」と党歴継続のこと−

 

 キューバ危機三〇周年を迎えた一九九二年一〇月、たまたまこの月には日本共産党中央委員会顧問西館仁、同名誉幹部会委員吉田資治の両氏があいついで亡くなった。『赤旗』には両氏の訃報記事と略歴が掲載された。吉田氏の「略歴」においては、同氏は一九四四年に満期出獄して「以後、敗戦まで党活動からはなれる」とある(『赤旗』92・10・7 )。また西館氏の「略歴」では一九四〇年一二月満期釈放、四一年一月党組織との連絡のため上京するも果たせず、一九四一年一二月予防拘禁、一九四三年春ごろ「敗北感に陥り節を貫けず」との表現がある(『赤旗』92・10・4)。そして西館氏は一九四五年一二月、吉田氏は一九四六年に「再入党」したとある。

 他方で、一九八一年七月には、宮本顕治・野坂参三・竹中恒三郎の三氏に対する「党歴五〇年党員」としての表彰が行なわれた。日本共産党はすでに党歴三〇年を経過した党員に対する「永年党員」顕彰規定を有していたが、「五〇年党員」の顕彰は、この直前の、一九八一年六月開催の日本共産党中央委員会総会(第一五回大会第六回)の決定にもとづいて新設されたものである。この表彰式での不破書記局長による三氏の経歴紹介においては、野坂氏が一九二二年入党で党歴五九年、宮本氏・竹中氏は一九三一年入党で党歴五〇年と発表された(赤旗)81・7 ・31)から、一九三五年から一九四五年にいたる中央委員会の機能が停止された時期も、それぞれの党歴期間に算入してある。

 

 西館氏の場合、一九三一年入党とされているが、同氏が五〇年党員として表彰されたとの『赤旗』報道の記憶はなかった。また一九八七年一二月四日の竹中氏の葬儀に際して、日本共産党を代表した戎谷春松幹部会副委員長の「弔辞」には「一九四五年一〇月一〇日に宮城刑務所を出るや、ただちに日本共産党京都地方委員会準備委員として、党再建の指導にあたりました」(赤旗)87・12・5)とあり、戦後の「再入党」を窺わせる語句はない。宮本氏ら三氏の事例と、西館氏・吉田氏とはどのような違いがあるのか、その背後には共産党が自身の党史に対する見方が反映されているように思われ、これは何よりも現在の共産党自身の見解をただすべきと思い、一九九二年一〇月一三日付けで、日本共産党中央委員会に、要旨次のような質問を行なった。

 

 ()、日本共産党が組織的活動の停止を余儀なくされていた一九三五年から約一〇年間の時期において、党活動から離れないということはどのような状況であると考えたらいいのか。
 ()、「再入党」というのは、戦前の何時かの時点で党籍を失ったとの認定がなされていると思われるが、それはどのような根拠から認定されるのか。また再入党者の党歴期間の計算はどのようになされているか。
 ()、西館氏の「略歴」にある、一九四三年春ごろ「敗北感に陥り節を貫けず」との表現と、西館氏が党籍をいったん無くしたとの認定との間には関係があるのか。
 ()、一九三五年に中央委員会が壊滅して後も日本共産党は存在したとの立場を取っていると考えてよいか。

 ()、この場合、この時期に存在し、活動したさまざまな共産主義グループも、日本共産党の戦列として考えているということになるのか。またそのように考えないグループもあるのか、そうだとすれば、その場合の判断基準は何か。ちなみに『日本共産党の六十五年』では、中央委員会壊滅後の国内の共産主義グループとして小林陽之助グループ、和田四三四ら旧「多数派」を中心とした「日本共産党再建準備委員会」のグループ、岡部隆司らのグループ、山代吉宗・春日正一・加藤四海・酒井定吉および中西篤・中西三洋・芝寛らの京浜地方グループ、春日庄次郎・安賀君子・竹中恒三郎らの「日本共産主義者団」、佐藤秀一・神山茂夫・寺田貢らのグループが例示されてある。

 

 この私の質問に対して二か月後の一九九二年一二月一五日付けで「日本共産党中央委員会質問係」の回答書が届けられた。そのまま引用(引用者による省略あり)すれば次のとおりであった。

 

 ()、「党活動から離れない」とは、党組織との連絡が回復しない、あるいは連絡しえない条件であっても、天皇制と侵略戦争に反対し、国民の苦難を軽減する日本共産党の基本的立場をまもり、日本共産党員としての自覚をもって自らの党活動をつづけるということです。

 ()、戦後、戦時中に党活動から離れていた同志たちや、党活動をしないことを権力に表明するなどの変節という誤りをおかした同志たちは、当時の自己の誤りを自己分析し、誤りを二度とくり返さないことをちかって、党に結集し、再入党を認められました。日本共産党では、こうした本人の自己分析と報告、客観的な事実を根拠にして、戦前の党籍の継続、もしくは喪失を認定しています。これら本人の自己分析や敗北主義におちいった心意は、党の幹部として提出された「経歴報告書」のなかにも率直にかかれており、死亡時に「赤旗」に掲載された「略歴」もそれにもとづいて作成されています。

 

 党歴は、入党時から計算されますが、党籍を喪失した場合は、その時点で終わり、再入党しても以前の党歴は加算されません。したがって、再入党の場合は、その時点から党歴が新たに起算されます。もちろん、だからといって、党歴計算に入らない戦前の過酷な条件のもとでの、戦闘的な経歴を軽んじたり、無視するものではありません。むしろ、何度にもおよぶ検挙・投獄、拷問や長い獄中生活と言う苛酷な活動の経験を正しく評価しています。

 

 ()、これについては、()への回答でつきていると思います。
 ()、そう考えていただいて結構です。中央委員会の統一的機能が発揮しえない条件下であっても、党組織や個々の党員は、日本共産党の基本路線にもとずく活動を続けました。なによりも、獄中での現在の宮本議長らは、獄中闘争、公判闘争を通じて、日本共産党の旗をまもりつづけたのですから、政党としては確固として存在していたといえます。

 

 ()、(『日本共産党の六十五年』に例示されている)それぞれのグループ参加者のなかには、戦後の入党者もいるわけですから、これをただちに、”日本共産党の隊列”とみているわけではありません。同時に、党と無関係とみているわけでもありません。日本共産党員や個々の共産主義者の運動としてそれぞれ正当に評価しています。

 

 党外の一個人の質問に対して、こうした回答を寄せたことは懇切な対応として評価できるが、その内容にはかなりの疑問点がある。日本共産党が組織的活動を停止した時期において「党活動から離れない」こととは「日本共産党の基本的立場をまもり」「日本共産党員としての自覚」のもとでみずからの党活動を続けるということとある。しかし「基本的立場」であるかどうかについて、その時点でオーソライズする党機関はない。本人の自覚による以外にないであろう。党の主流から公認されない立場からの「日本共産党員としての自覚」を抱いて活動したということもありうるだろう。その自覚が「基本的立場」であったかどうかは、全面的に後の再建された党指導部の認定に任せられるということにならないか。

 

 戦時下の個々の共産主義者の活動が日本共産党の活動であったかどうかは、恣意的に現指導部が決定できることにならないか。現指導部にとって都合の悪い活動は、あれは日本共産党の活動でもなく、日本共産党員による活動でもないと、これまた恣意的に弁明することができることにならないか。()()の部分についての回答は、歴史のこうした恣意的改ざんを可能にする道を開くことになりはしないか。同様に()の設問の戦時下の共産主義者グループについても、日本共産党との関係性の有無を恣意的に説明することが可能とならないか。中央委員会の機能が停止された一〇年間についてのこのような扱いは、現時点での党指導部の視点から党の歴史を編み直すことを容易にするもののように思われてくる。

 

 4、スターリン恐怖政治下のコミンテルン

 

 一九九三年一一月一四日、一〇一年にわたる波乱に満ちた生涯を終えた野坂参三氏は、自伝『風雪のあゆみ』全八巻を一九八九年に完結させている。第一巻が刊行されたのが一九七一年、その原形が日本共産党機関誌『前衛』に連載され始めたのが一九六九年であるから、二〇年以上の時間をかけて書かれたわけである。(自伝が完結したといっても『風雪のあゆみ』が扱っている時期は野坂氏の前半生、つまり一八九二年に生れてから一九四六年に一五年の亡命生活を終えて帰国する五三歳までのことである)。

 

 自伝といってもかなりの歴史家等のサポートを得て書かれた模様で、読者としては、野坂氏の肉声部分と、歴史家等のサポートを得て資料で補充された部分が混在している気配をしばしば感じる。そうした自伝『風雪のあゆみ』のなかで最終巻の末尾の次の一節は野坂氏の肉声を感じさせるところのひとつである。かつて延安から帰国する野坂氏を見送った周恩来は、一九六〇年代になって日中両共産党間の関係が悪化すると、あちこちで野坂の悪口を語っていることが野坂氏の耳にも伝わってくる、それに対する野坂氏のコメントのくだりである。

 

 周恩来ともあろう者が(中略)わが党や、わたしを誹謗しなければならなかったのだろうか。まったく理解に苦しむところである。聞くところによると、「文革」の積極的推進者であった江青らの「四人組」は、周恩来の失脚をも計っていたといわれるが、もし、それから逃れたい一心で、彼らのご機嫌をとるためにか、すすんでああしたことを言ったとしても、それは、共産主義者としてあるまじき変節行為である。それとも、彼らの共産主義とは、その程度のものであったのだろうか。いずれにせよ、かつて苦労を共にし、ともにたたかってきただけに、哀れで、後味の悪い思い出を作ってくれたものだという思いを、わたしは禁じえない。(『風雪のあゆみ』第八巻、二九一ページ)

 

 一九九二年八月以降明らかにされ、野坂氏がその明かにされた事実について否定したり、弁明したりしないままに亡くなった現在の時点でこのくだりを読むと、言葉を語ることの重みをあらためて感じさせる一句である。周恩来はどうしてあんなことを語ったのか、それは自分の保身のためであったのか、だとすればそれは共産主義者にあるまじきことではないかといっているわけである。そして今は、野坂氏の保身がもたらした重大な結果が問題とされている。

 片山潜が一九三三年に亡くなった後、山本懸蔵野坂参三の二人が、日本共産党の公式のコミンテルンへの派遣員としてモスクワに滞在する。一九三六年に二人は連名で「日本共産主義者への手紙」という著名な文書を公表し、翌年に山本だけが逮捕され銃殺される。銃殺されたこと自体も、戦後長い間は知られず、獄死をしたとか病死をしたとかされてきた。銃殺されたことが日本共産党にロシア当局から伝えられ、日本共産党が公式に犠牲者として追悼したのは一九九二年五月一八日であり、この時に山本の銃殺刑の執行は一九三九年三月一〇日と確定された(『赤旗』92・ 5・19)。山本がこうした運命をたどり、野坂が生き延びたことへの疑問は、かねてから指摘されてきたもので、こと新しい問題ではない。たとえば元日本共産党財政部長の亀山幸三は日本共産党を離党した後の一九六二年に発表した文書のなかで次のような指摘をしている。

 

 「野坂がソ連に亡命中、ともに亡命していた故山本懸蔵同志がソ連官憲によって捕らえられ、獄死しているが、野坂はこのことに関して手を貸したのではないかと疑われる節がある。」「いかにスターリン時代のソ連官憲が判らず屋であっても、これほどの人物を、野坂の意見を聞くこともなく、死に至らしめることはありえないはずである。しかも、山本は獄中で死去したもので(処刑ではない)当然のことながら捕えられて獄死するまでには、相当の時間はあったはずである。」「これらの事を整理してみると、山本は明白にスターリンの疑心暗鬼に触れたようであるが、その際、野坂は山本のために何らの証言もせず、山本を救済できる立場にあるにもかかわらず、それを行なわなかった事は明白である。」

 

 「野坂がこの問題に対して、みずから何らかの疚しい所がないならば、彼が日本に帰国した時に、ただちに彼の自らの口から山本の生涯について何らかの発言があってしかるべきであろう。自分ら二人が日本共産党の代表としてモスコーにいる以上、他の同志の一身上の重大危機にはっきりとその釈明に立つくらいは共産主義者としての最低、最小の義務である。野坂は明らかに自らそれに手を貸したか、又はそれに近い態度であったことは明白といわねばならない。野坂は戦後一九六二年まで(この文書を発表した現在まで=引用者)、故山本懸蔵同志については一言もしゃべらなかった。われわれは、そこによからぬ最大の暗黒面をのぞきみる思いがする。」

 

 亀山の文書は、山本は獄死であるが処刑されていないと断定するなど、今日では事実誤認と思われる点をふくんでいる。何よりも野坂が何らかの手を打てば山本は救われたはずとの思い込みを前提としてこの文書は書かれている。しかし岡田嘉子が、ともに樺太の国境線を越境した杉本良吉へのスパイ嫌疑を受けたことに対する獄中から提出した助命嘆願書の内容とその後の処置(『毎日』『朝日』『赤旗』など各紙の92・6 ・30、升本喜年『女優 岡田嘉子』文芸春秋、一九九三年)、同じく樺太国境を越えてソ連に亡命した元日本共産党員の寺島儀蔵が受けた嫌疑と、その後の長いラーゲリ生活(寺島『長い旅の記録−わがラーゲリの20年−』日本経済新聞社、一九九三年)などが示すその実情からすれば、野坂の少々の尽力によって、山本の不当な運命が変わるほど生易しい状況ではないように思われる。

 

 不合理と理不尽が強大な権力を背景に渦巻いたスターリン体制下のこうした状況下に置かれた野坂が「山本を救済できる立場」にあったとは思えないし、この点から野坂に同情の余地がなくはない。またこうした恐怖時代だから見殺しにせざるをえなかった事情があったんだろうという評価が従来は一般的であった。亀山のような指摘を早くからしている人も少なくはなかったが、その多くは物証がなく、また物証がないならば日本共産党も野坂も黙殺をしてきたわけである。

 野坂が駐在していた一九三〇年代後半から四〇年代にかけてのコミンテルンの実情についての興味深い手記のいくつかが近年に邦訳刊行されている。その一つ、『ホテル=ルックス』(晶文社、一九八五年)は、元オーストリア共産党幹部夫人ルート=フォン=マイエンベルグのコミンテルン滞在時代の回想記で、原著の刊行は一九七八年である。表題となっているホテル=ルックスは、クレムリンから程遠からぬところにあり、当初はコミンテルン大会などの出席者のための、文字通りのホテルだったが、やがて政治的迫害を受けた各国共産党の亡命共産主義者や派遣員たちの長期滞在アパート、ある種の外国人共産主義者のゲットーになっていったものである。

 

 片山潜野坂もこのホテルに滞在していた。マイエンベルグは、デミトロフとかピークといった著名なコミンテルン指導者たちの日常生活の生態を描いている。そこではコミンテルンがスターリン体制の飾り物であり、彼らがスターリンとソ連共産党に対していかに無力であったかが、具体的に描かれている。また粛清の荒れ狂う時期にはこのホテルの住人たちが、いつのまにかいなくなっていく状況が描かれてある。著者は第二次大戦後オーストリアに帰国し、共産党からも離れているので、そうした立場から自由に書いている。

 もう一冊、アイノ=クーシネン『革命の堕天使たち』(平凡社、一九九二年)、このタイトルは一九七二年に刊行された原著の表題の直訳に近い。著者はオットー=クーシネンの夫人である。オットーはフィンランド共産党の創立者の一人で、フィンランド人であったが、スターリンから帰国を許されず、ソ連共産党の能吏として、スターリン時代も、その後のフルシチョフ時代もソ連共産党の最高幹部であり続け、一九六四年に死去した人物で、左翼文献を少し読んだ人にはお馴染みの名前であろう。とりわけ彼は日本の革命運動の最大の綱領的文書であった「三二テーゼ」についてのコミンテルン執行委員会での報告者として日本ではよく知られており、この時の報告「日本帝国主義と日本革命の性格」はすでに『インタナショナル』第六巻第一六号(一九三二年一〇月)に訳載されている。

 

 ところが、その夫人アイノ=クーシネンというこの本の著者はスターリンの粛清により、一六年間もの間、獄中や強制収容所で迫害されていたという事実は、私がかつてオットー=クーシネンの論文を読んでいた当時には全く知らない事実であった。レーニン存命中の若き日、すでに人妻であったアイノが家庭と夫を捨ててオットーと一緒になるドラマは、個人への愛と革命への情熱の幸福な一体化の時代として描かれている。やがてスターリン追随のオットーに疑問を感じ始め、彼への愛が冷めかかる頃、コミンテルン駐在員として滞在していたアメリカと日本から召還されたアイノは一九三八年の年頭、突然逮捕される。当初告げられなかった彼女の逮捕理由は、やがてオットーに対する反革命告発をさせるためであることだと判明する。

 

 その間の彼女の抵抗によってコミンテルン幹部としてのオットーの立場は守られたが、アイノには未決の獄中とラーゲリでの九年間の強制労働が待っていた。一九四七年に釈放されたアイノは生活の手段無く、思い余ってアメリカ大使館に亡命を申し出たが、信用されず、このことも一つの理由として一九四八年に再逮捕される。獄中からのアイノの再三の再審の申し出により、一九三九年と一九五〇年のアイノに対する特別法廷の判決の無効の回答を得て「一言の謝罪の言葉もなく」釈放されたのは一九五五年であった。すでにソ連最高会議幹部会副議長であったオットーは、この法律上の妻のために指一本動かす労を執ることなく、アイノもまた高級官僚であるオットーにすがることも無かった。

 

 凍土のうえに成り立った犯罪社会はこのふたりをすでに決定的に引き離していた。若い頃にトロツキー崇拝者でありながら、変わり身早くトロツキー攻撃を展開したオットーと、その妻アイノの生き方を通してスターリン体制とは何であったかを語るものである。また妻や肉親、かつての同志が迫害によって獄中にあるとき、眉一つ動かすことなく共産主義者としての任務を完うしたオットー=クーシネンという人物は、一体どのような精神構造で共産主義の大義のために働いたのであろうという問題をも私たちに投げかけるものである。しかもオットーのような生き方は、この社会においてはけっして特異でもない通常のありふれたものであった。他者を告発しなければ生きていかれない社会において特異なのはオットーではなく、むしろアイノのほうであった。犯罪が正義であるというべきこのような社会は、なかなかわれわれの常識を絶するところがあるし、それゆえに野坂の置かれた状況にも同情の余地があり得るのかもしれない。

 

 5、現代史のからんだ糸を解きほぐすこと−野坂参三・伊藤律−

 

 野坂参三の問題についていえば、彼の百年の人生のなかでもっとも説明されていないこととして三点ばかりがかねてから指摘されてきた。第一点は、一九二八年の三・一五事件で検挙された野坂が一九三〇年に釈放された問題である。この時、野坂は目の治療などの病気治療を理由として、合法的に執行停止の許可を取りつけて釈放された。そしてこの執行停止期間中に野坂は国外に逃亡することになる。執行停止で釈放中の野坂の逃亡に懲りた官憲は、これ以後の、とりわけ非転向共産主義者の釈放条件を厳しくし、病気であっても瀕死の状態にならないと執行停止にはならなくなった。

 

 事実、病気による執行停止はかなりの重症にならねば許可が下りず、釈放後すぐに死亡するケースが一般的となっている。また同じ三・一五事件で検挙された徳田球一志賀義雄らは刑期満了後も、いわゆる「予防拘禁」(一九四一年の治安維持法改定で新設)によって第二次大戦後まで釈放されず、「非転向の獄中一八年」組ということになる。こうした点からいえば野坂の釈放はかなりの例外に属し、それゆえに野坂はなぜ執行停止を得られたかについての憶測が、これまでにもずいぶん語られてきた。

 

 このほか野坂にかかわる第二の問題として、スターリン粛清時代のソ連において、なぜ野坂は生き延び得たのか第三には、一九五〇年代の前半に日本共産党が一連の軍事方針を採用していく過程において野坂は何をしていたのかという点。こうした点が、今日まで本人の口からは明確に語られず、かねてから野坂の生涯で明確でないといわれていたことのうちの代表的なものである。このほか一九三〇年代後半の滞米中の活動への疑義の指摘、一九四六年一月の帰国直後の急速な「獄中一八年組」への妥協、一九六〇年代にも続いたと言われるソ連共産党との「内通」など、解明し切れていない野坂と共産主義運動史にかかわるものは少なくない。

 かねてから指摘されているこれらの点について、野坂氏自身も気になったとみえて、戦前の前半生を扱った自伝『風雪のあゆみ』において、弁明をしていることも少なくない。一九三〇年の執行停止問題については、自分の病気がいかに重かったか、協力した医師がどのような工作をしてくれたか、自分自身もどう立ち回ったかなどがかなり克明に語られている部分といえる(同書、第六巻、一九八二年、一六二ページ以下)。ところがこうした当事者の証言というのは、事実と異なること、意識的に伏せていることなどが織り混ぜられると、その検証は何も語らなかったことよりも始末の悪いことにもなる。

 

 この時の保釈のさいには検事への上申書を提出しているとの指摘がかねてからなされており、その上申書といわれるものの一部が公刊物に引用されてもいる(辻泰介『暗黒の代々木王国』一九七〇年、仮面社、六七ページ以下)。上申書を提出することは、保釈問題では重要な意味を帯びることだが、保釈について詳しく述べている今回の自伝『風雪のあゆみ』でも、何の言及もない。また野坂の妻である龍の姉婿の次田大三郎という人物について、従来野坂は公刊物で語ることはあまりなかったが、今回の自伝では積極的に書いている。次田は当時の内務省の地方局長で、やがて内務省警保局長、つまり特高の元締、取締側の最高官僚となる人物である。

 

 野坂が一九二一年にヨーロッパにでかけたときには、国際労働会議の日本政府代表としてローザンヌに滞在していた次田と一か月も一緒に生活をしたとか(第三巻、一九七五年、二〇六〜二一二ページ)、保釈されたときには取り締まり現場の警察官が遠慮深い態度を取っていたように見受けたが、それは次田という、特高の連中にとって上司に当たる人物と野坂が姻戚関係にあり、そのことが官憲側にある種の遠慮をかもしだし、こうしたことが野坂がうまく外国に逃れることを可能にしたのではないか(第六巻、二五〇〜二五三ページ)といったことをみずから述べている。

 姻戚関係のことはすぐ明らかになることだから、明白な事実は語る。しかし明らかにはなっていない、明らかにはならないと、この自伝『風雪のあゆみ』の執筆時に野坂が思っていたことは書かれていない。山本懸蔵の問題についてはこの自伝では積極的に弁明しているが、それは闇に包まれたソ連のスターリン体制下のことだから、反証のしようがないと自伝執筆当時の野坂は考えただろう。そして一九九二年にその反証の物証が出て来たということになる。やはり野坂の自伝は、周到な防衛線を張って記述しており、現代史のからんだ糸をほぐすことの難しさをあらためて感じさせるものといえる。

 同じことは伊藤律の問題についてもいえよう。伊藤律が日本共産党から除名されたさいの最大の口実は、戦時下のゾルゲ事件の検挙の発端が伊藤の供述と裏切りにあったとする「伊藤律スパイ説」であった。伊藤を検挙した特高の論功行賞のためにも、あるいは伊藤が邪魔となって中国の監獄政治的私刑(リンチ)として幽閉した日本共産党内のある種の勢力にとっても、あるいはゾルゲ事件の犠牲者の肉親としてこの告発をして来た者にとっても、「伊藤律スパイ説」は共通の前提となった。そして一九八〇年の伊藤の日本への生還は、伊藤を幽閉し放置してきた日本共産党の、とりわけ直接の当事者の一人である野坂らにとっては大きな困惑と衝撃であり、これについてのさらなる弁明がなされた。

 

 「伊藤律スパイ説」が多くの勢力にとって共通の前提であるがゆえに、スパイ容疑が寃罪であることを論証した渡部富哉『偽りの烙印−伊藤律スパイ説の崩壊−』(五月書房、一九九三年)は、精力的な論証が必要とされた。ゾルゲ事件検挙の発端となったアメリカ帰りの婦人北林トモへの捜査の網が、伊藤の自白によるものか否かの論証のために、著者たちは北林の監視役となった者元特高への聞き取り調査などを行なっている。渡部富哉の著書は特高資料の利用と、これに対するテキストクリティークをいかになされねばならないかの好事例を提供してくれる。

 共産主義の古い文書庫が開きつつある。その共産主義の実態について語られた著作は、一九九三年になってから日本語で公刊され、私の読書記録に加えられたものだけを数え上げても、前述の寺島儀蔵『長い旅の記録』、不破哲三『日本共産党にたいする干渉と内通の記録』、渡部富哉『偽りの烙印』などのほか、『伊藤律回想記−北京幽閉二七年−』(文芸春秋)、原暉之『インディギルカ号の悲劇−一九三〇年代のロシア極東−』(筑摩書房)、元ルーマニア大統領個人補佐官であったパチェパの『赤い王朝−チャウシェスク独裁政権の内幕−』(恒文社)、梶浦智吉『スターリンとの日々−「犯罪社会主義」葬送譜−』(武蔵野書房)、桑原草子『シュタ−ジ<旧東独秘密警察>の犯罪』(中央公論社)、ウォルタ−=ラカ−『スターリンとは何だったか』(草思社)、そして野坂が日本共産党から除名される直接の発端となった小林峻一・加藤昭の調査をまとめた『闇の男・野坂参三の百年』(文芸春秋)などを数えあげることができる。

 

 大規模な共産主義運動の資料集が編まれるにはなお距離はあるが、いずれにせよ、今起こっている事態は、共産主義の歴史が文字通りの歴史化する時代の一こまである。それにしても開きかけた歴史の箱のなかは、あまりにも死屍累々ではある。『スターリンとの日々』の著者梶浦智吉は、元満州国ブラゴベエシチェンスク領事で、戦後の一一年間をシベリアでの強制労働の抑留生活を過ごした経験を持つ。その体験を綴ったこの著書のなかの「なぜソ連人は働かないのか?」との囲み記事での自問に答えて次のように記す。

 

 、仕事についての意見、アイデアを提供しても、共産党の介入、官庁間の縄張り等々によって実現までにひどく時間が掛かり、しかもその大半がオクラになる。だから嫌気がさして、二度とやる気が起きない。、働いて成績をあげても収入が増えない。、働けば働くほど労働生産性の向上を認められてノルマが引き上げられ、ますます苦しくなる。、働くものも働かないものも均等賃金で大差ない。、もともとやる気のない者、怠け者やアルコール常飲者のほか、ヤミ商売やアルバイトを本業とする者までいて、彼らは職場は本業のために英気を養う場所と心得ている。、低賃金、とりわけ熟練労働者や知識労働に対する極端な低賃金。そして次のように結論付けている。「人類の名において人間個々人を台なしにし労働者階級の名において労働者個々人の生活をダメにするようにできているのが共産主義で、これは自滅するに決まっている」と。

 

 シベリア抑留生活を綴った古典的著作『極光のかげに−シベリア俘虜記−』(一九五〇年、岩波文庫版一九九一年)や近年刊行の『スターリン体験』(岩波書店、一九九〇年)の著者高杉一郎をはじめ、内村剛介・石原吉郎・五味川純平など、ラーゲリ抑留生活下の社会主義体験という、考えてみれば特異な体験の世界を描いた著作は、かねてから日本では少なくないが、こうした過酷な体験記を、ソ連邦体制崩壊のプロセスとして、あらためて検討する時が来ている。

 

 、党の歴史の空白と連続−毎日の『赤旗』の第一面欄外の記載によせて

 

 日本共産党中央機関紙『赤旗』の毎日の紙面の第一面の欄外には「一九五二年五月三〇日第三種郵便物認可」と印刷されている。一九四五年一〇月、合法出版物として復刊した『赤旗』は一九四五年一二月五日付けで第三種郵便物の認可を得たが、一九五〇年のGHQによる日本共産党中央委員の公職追放、いわゆる「六・六追放」に続き、翌日にはアカハタ編集局員の追放が行なわれ、『アカハタ』には、同年六月二六日に一か月間、同七月一八日には無期限の発行停止命令が下された。一年一〇か月余の停刊の後、一九五二年四月二八日のサンフランシスコ対日講和条約の発効を期して、発行禁止命令の法的根拠が失われたことにより、同年五月一日のメーデーの日『アカハタ』は復刊し、このときあらためて第三種郵便の申請を行なったわけである。

 ところで一九五二年のこの時期の日本共産党指導部と『アカハタ』編集局は、一九五〇年六月に、意見を異にした七中央委員(志賀義雄・宮本顕治・蔵原惟人・袴田里見・春日庄次郎・亀山幸三・神山茂夫)を排除したまま地下に潜航した徳田主流派が任命して発足した「臨時中央指導部」とこれが招集した「全国代表者会議=第三回全国協議会」(一九五〇年六月)、およびこれに続く「四全協」(一九五一年二月)「五全協」(同年一〇月)で打ち立てられた体制であった。

 

 今日の日本共産党にとり、「臨中」を認めることは「中央委員会の解体を認め、解党主義を認め、徳田らの分裂主義的処置にいっさい党をゆだねよということを意味する」ものであり、四全協・五全協は「分裂の一方的合法化」「党の分裂状態での党規約に違反した会議」とされている(『日本共産党の六五年』)。徳田主流派に排除された側の七中央委員の一人である宮本顕治の率いる現在の日本共産党は、一九五〇年六月から、一九五五年七月六全協にいたる日本共産党中央委員会の分裂期の出来事について、都合の悪い出来事は、分裂した一方の派による、正規の手続きを経ないままに為されたものゆえにわれ関知せずと受け取られかねない対応が目立つ。

 

この時期の極左冒険主義といわれる日本共産党のとった戦術が、その後の共産党攻撃の格好の材料とされたがゆえに、一九六〇年代以後の議会主義路線をとる共産党指導部がいっそうこの「極左冒険主義」の問題をめぐって防御の姿勢を強めた。『日本共産党の六〇年』(単行書版)は巻末に二三五ページにわたる「党史年表」を付している。しかしこの「五〇年分裂」期の頃は記載事項が極端に少なく、一九五二年から五四年にかけての三年間は『アカハタ』の復刊関係、国政選挙結果のほかは、徳田球一の死去が記載されているのみである(メーデー事件、吹田事件、大須事件などは「日本共産党」の項でなく、一般事項の「日本」の項に記載されている)。ここでも、この時期の日本共産党の諸活動について、その後の共産党との関わりを薄くしたいという指向を感じさせる。

 

 「五全協」で採択され、中央委員会の統一が回復された一九五五年の「六全協」でその有効性が確認された後、一九五八年の第七回党大会で公式に廃止が確認された「五一年綱領」について、一九九三年になってからこれを「五一年文書」と呼ぶことを「日本共産党常任幹部会」が決定したということもおこっている。一九五〇年六月の中央委員会の一方のグループによる地下潜航と解体は、党規約と第一九回中央委員会総会(一九五〇年四月)に背くものであり、五一年綱領を採択した五全協も党規約違反の会議であること。

 

 徳田・野坂らの「北京機関」は「分派の機関」であり「ソ連、中国の日本共産党への覇権主義的干渉の手先としての役割を果たし、党に重大な打撃をあたえた組織として、党史上認めることのできない存在」であり、五一年綱領はこの機関が外国の党から「押しつけられた文書」を規約違反の「国内指導部」に送られ、規約違反の会議で採択されたもので「綱領と呼ぶことは適切でない」という結論になったとのことである(常任幹部会委員宇野三郎「いわゆる『五一年綱領』という用語の変更について」、『赤旗』93・6 ・25)。第七回党大会が、公式に「五一年綱領」の廃止を宣言してから実に三五年後の「言い換え」である。

 現在の『赤旗』が第三種郵便物認可を取得した一九五二年五月における『アカハタ』編集部は、前述のように「臨時中央指導部」、あるいは「五全協」で選出された指導部のもとにあった。現在の日本共産党指導部が、一九五〇年代前半のこの時期の日本共産党の活動を現指導部下の日本共産党との関わりにおいて希薄にしたいと強く指向しているにもかかわらず、この時期の日本共産党の体制のもとで発行された『アカハタ』の紙齢も、今日の『赤旗』の紙齢に加えて継承されている。

 

 日本共産党の歴史の正も負もふくめて今日の日本共産党があり、その歴史の功罪ともにする継承者が東京代々木に本部を置く日本共産党であることを国民は認めているのではないか。そして毎日の『赤旗』欄外に記載された「一九五二年五月三〇日第三種郵便物認可」の文字と、毎日加わっている『赤旗』の紙齢は、このことを日々確認しているのではないか。私はこの文字をそのように読んで、そこに歴史の寓意を感じているわけである。(なお付言すれば、『赤旗』欄外のこの第三種認可の日付が「昭和二七年五月三〇日」とあったのが西暦表記に変わったのは一九七九年八月一日付けからである。共産党ですら、西暦表記に意識的にこだわるようになったのは元号法の施行=一九七九年六月一二日以後ということか。)

 二〇世紀は社会主義の時代であったともいえる。近代と資本主義の体制に呻吟していた人民にとって、一九世紀に体系化された社会主義思想は大きな夢とロマンを与えるものであった。そして二〇世紀にはこの地上において社会主義・共産主義の巨大な実験が実現した。七〇年余のその実験は惨憺たる姿を露呈している。その惨状は、たんにロシア的特色、スターリンの誤り、本来の社会主義からの逸脱、形成期、あるいは現存社会主義ゆえの限界といったことから説明できるほど生易しいものではないように思える。

 

 いずれにせよ社会主義の歴史の現実を冷厳に見つめることからしか、「社会主義の二〇世紀」の意味を汲み取ることはできないであろう。現在の視点や利害からご都合主義的に歴史を改ざんしたり、言い換えたり、無かったことにする「神話的歴史」からの脱却が本格化しようとしている。冷戦の象徴というべきキューバ危機が歴史的分析の対象となるまでに三〇年もかかったというべきか、三〇年にして早くも可能となったというべきか、どちらがふさわしいか分からないが、共産主義が歴史的分析の対象となる時代の幕が開けていることは間違いない。本書もそのささやかな一つとなれば幸いである。

 本書の序章と、この長い後ろ書きは書き下ろしであるが、序章のうち「地方運動史研究の進展」「活動家たちの組織とヒヤリング」の二項は「地方運動史研究の新動向」(みすず書房『続現代史資料』第二巻月報、一九八六年七月)、後ろ書きの一部は私の勤務する大学の宗教行事「チャペルアワー」での、一九九二年一〇月二八日の私の講話の速記「歴史に裁かれるとは−野坂参三氏の話題に触発されて−」(同志社大学宗教部『月刊チャペルアワー』第一八八号、一九九二年一二月)の一部を改稿したものである。第一章から第四章の初出は次のとおり。

 第一章 合法地方無産政党論(1928〜1930)−京都・労農大衆党を中心に−
       『キリスト教社会問題研究』第二五号(一九七六年一二月)
 第二章 日本反帝同盟の研究−共産主義運動と平和運動−
       『キリスト教社会問題研究』第三五号(一九八七年三月)
 第三章 日本赤色救援会−『超党派』的大衆団体の論理と背理−

       渡部徹編『1930年代日本共産主義運動史論』(三一書房、一九八一年二月)

 第四章 共産主義者の反宗教運動
       同志社大学人文科学研究所編『排耶論の研究』(教文館、一九八九年七月)

 本書のテーマは私にとって一筋に追跡してきたというよりは、随分道草をしてきたものである。共産主義運動史を追跡する意味について懐疑的になった時期もあるが、一九八九年世界史の大変動がこの問題をめぐる考察の機運を高めていくようにも思われ、ささやかなその材料の一つになればと思い、まとめてみたものである。ちょうど一九九二年七月は日本共産党創立七〇周年にあたり、日本共産党は『日本共産党の七〇年』の刊行を予告していた。ところがこの年の八月に野坂除名の発端となる『週刊文春』での連載が始まり、このことをきっかけとして日本共産党は調査団をモスクワに急遽派遣し、その過程でのいくつかの党史上の新事実の発見がなされた模様である。

 

 おそらくこうした事情から『日本共産党の七〇年』の発表は大幅に遅れている。この発表を待って、本書への必要な加筆をすることを考えていた私も、一年以上の待機にいささか業を煮やしたこと、この間の不破哲三の著書『日本共産党にたいする干渉と内通の記録』や『赤旗』記事から、「七〇年史」での改定箇所はおおむね予想が付くと判断したことから、見切り発車的に私の著書の刊行作業を再開したわけである。本書が日の目を見る頃にはあるいは『日本共産党の七〇年』も発表されているかもしれないが、私の著書に大幅に付加修正することはないであろうと思っている。

 本書は私の京都大学に提出した学位論文「一九三〇年代日本社会主義運動史論」のうち、共産主義運動史関係のものを集めたものである。論文審査の主査を勤めて頂いた松尾尊@教授はいうまでもなく、朝尾直弘・大山喬平両教授からも有効で具体的な指摘を受けたことに感謝したい。松尾教授には一九六六年に京都大学文学部の講義を担当されて以来、さまざまなご指導を受けた。その松尾教授の導きで、一九六七年から一九八一年まで、渡部徹教授を班長とする京都大学人文科学研究所「社会運動の研究」班に参加させていただいたことは、私の研究生活には大きな意味をもたらした。

 

 渡部教授以下、飛鳥井雅道・斎藤勇・岩村登志夫・秋定嘉和・尾崎ムゲン・西川洋・太田雅夫・辻野功・古屋哲夫・宮田栄次郎そして松尾尊@の各氏をはじめとする研究班の皆さんとの交わりは、いつも刺激に満ちたものであった。渡部徹著『日本労働組合運動史』をめぐる渡部氏日本共産党の党機関との間におこった問題について本書の序章で言及したが、この問題を渡部氏から体験談としてまとまって聞いた記憶はない。私が『日本労働組合運動史』をめぐる渡部氏と日本共産党党機関との間の記録を見せていただいたのは、この問題に言及した『月刊チャペルアワー』での私の前掲講演記録を渡部氏にお送りした後の一九九三年になってからである。このことも一つのきっかけとなって、渡部氏は日本労働運動史・社会運動史研究の研究史的回顧録を執筆されんとしている。年令からくる避け難い体力の衰えにめげず、渡部氏が回顧録を完成されることは、日本社会運動史の学問的研究のパイオニアの証言として貴重な共有財産を提供するものとして、その完成を心待ちにしている。

 また私の勤務先である同志社大学人文科学研究所は、日本におけるキリスト教と社会問題にかかわる諸研究をその有力な重点課題としてきており、この分野での一定の研究の蓄積を有している。その「社会問題」の範囲は広く、左翼文献や官憲文書も少くなくない集積がなされており、私はこの優れた研究環境を享受しえたことを感謝したい。こうした伝統を私も引き継いで収集してきた諸文献を、本書にもなるべく一覧表で掲載してみたが、社会運動にかかわる文献は私家版、地方出版物など、商業ルートにのらないものが多く、資料の収集に当たっては、つねにその遺漏を危ぐしている。一九八六年に発足した社会・労働関係資料センタ−連絡協議会(現在の事務局、法政大学大原社会問題研究所)の加盟機関の一つとして、各機関との連絡を取りながら資料の収集をすすめてはいるが、なお遺漏を避け難い。社会問題・社会運動に関する、とくに商業ルートにのらない機関紙、会報、私家版刊行物などをご教示・ご提供いただければ幸いである。

 このほか私の学問研究上の恩人を数えあげればきりがないが、最後に私が名古屋の中学生のときに教えを受けた水越正行先生に感謝の言葉を捧げたい。水越先生から社会的関心の視点を開いていただいたことが、私のその後の出発点となっている。私が教えを受けた頃、大学を卒業したばかりの駆け出し青年教師だった水越先生は、今年還暦を迎え、一九九四年春、三八年間の教師生活の定年を迎えられる。本書を先生のこの間の長い労苦へのささやかな感謝として捧げたい。 (一九九三年一二月)

 

 7、あとがきの追加

 

 本書の校正と索引の作成作業中の一九九四年四月一五日に『日本共産党の七十年』の本文が発表され、「党史年表」を加えた単行書版も五月三日に発売された。総字数は九〇万字を超え、『六十年史』の一・五倍の量である。全一二章は前回の『六十五年史』にくらべて二章増えている。そのうちの一章は最終章として付加された「一九九〇年代初頭の運動」であり、もう一章は『六十五年史』の第四章「敗戦後の党の再建から第七回大会まで」を二分割し、新たに第五章として「日本共産党の五〇年問題とその克服への道」を独立させたものである。『七十年』第四章の章題は「敗戦後−党活動の公然化……」と変わっており、「党の再建」との表現をとっていない。『七十年史』は党の「壊滅」「再建」という用語を慎重に避けて一九三五年からの一〇年間における中央委員会解体時期においても党の連続性を強調している。

 

 また第三章の「中国侵略戦争の開始から日本帝国主義の敗北まで」においても野坂問題を中心としてかなりの書き加えがある。総じて、一九六一年の第八回大会までの部分は書き加え部分が多く、以後は『六十五年史』でのくだくだしい説明、引用、共産党史以外の一般政治情勢の記述などの整理・削除が目立つ。『六十五年史』における第八回党大会までの記述部分は全体の二八パーセント余であったが、『七十年史』では三二パーセント(『六十五年史』があつかった一九八七年までの記述での比率からいえば三九パーセント強)というふうに、一九五〇年代までの記述の比重が高まっている。とくに独立章となった第五章「日本共産党の五〇年問題と…」は五万一〇〇〇字で『六十五年史』当該部分の一・八三倍の分量となっている。

 このことは「党史年表」の一九五〇年代においてとくに顕著である。本書の「あとがき」において、この「五〇年分裂」期における「党史年表」の記載が極端に少くないことを述べた(二四四〜二四五ページ)。今回の「党史年表」もとくに一九五三年から五四年にかけては記述の少ないのは相変わらずだが、それでもこの一九五〇年代前半の「五〇年分裂」期の記述事項は大幅に増えている。「党史年表」は今回から、「分派」や「反党分子」など党機関に公認されない党員・元党員の動きのうちのいくつかはこれらを囲み符合を付けて事項に加えている(こうした囲み事項は戦前では、一九三〇年における全協刷新同盟の結成、佐野・鍋山らの「変節」=「転向」という用語は今回の『七十年史』では一貫して避けている=の声明書、「多数派」結成、野坂の山本懸蔵告発、一九四五年の野坂帰国時におけるモスクワ立寄りなどがある)。

 

 「五〇年分裂」期における「北京機関」「臨時中央指導部」の動きは、すべて「徳田・野坂分派」のものとして囲み事項として記載されている。逆に宮本ら、徳田に排除された側の「全国統一委員会」「全国統一会議」に関する事項は囲み無しとなっている。したがって全国統一委員会が国際批判を受け入れてその組織を解消したこと(一九五一年一月一日)は囲み符合が付されていない。ただし志賀義雄や袴田里見が自己批判して徳田派に合流した動きは囲み事項となっている。また一九五二年五月一日の記述事項「徳田派の『中央指導部』を発行所として『アカハタ』復刊」、同じく一九五三年一月一日の「徳田派の『中央指導部』を発行所とした『アカハタ』題字の横に『日本共産党中央機関紙』と明記」などの事項は、なぜか囲み事項ではない。

 こうした囲み事項方式を採用することによって、今日の日本共産党からは触れたくない動きも遠慮がちではあるが言及されるようになったといえる。「『劉少奇テーゼ』にもとづく軍事方針」「中核自衛隊」「山村工作隊」『球根栽培法』といった用語はこの囲み事項のなかに登場する。一九九二年の野坂参三の除名によって、遠慮することなく「五〇年問題」の正閏をより明確に決して歴史が書き直されたといってよい。ある体制の変化が「歴史」をいかに書き換えていくか、『日本共産党の四十年』以後の、日本共産党自身によって書かれてきた一連の党史も、この意味で格好の「歴史書」である。各「党史」での記述の移動の追跡が、この党の体制の変化を知り得る材料となるという点において。

 今回の『七十年史』における書き替えの主役というべき野坂参三については、たとえば第一次共産党事件の検挙者リストから名前が抹消され、安保闘争において「共産党の野坂議長は、社会党の浅沼委員長としばしば手を組んでデモの先頭に立った」という記述がなくなり、第八回党大会以後の党大会に関する記述に毎回登場した「野坂議長が『開会のあいさつ』をおこない」の記述がすべて消えるというように、その「罪状」に直接関連しないところにおいても記述の変化が起きることも相変わらずである。

 

 『国際通信』などによって野坂が「多数派」に対してとった態度は「調停主義」であるとの明確な評価が下され、延安での「反戦同盟」の活動に関する記述は大幅に縮小され、一九四六年の帝国議会における「日本人民共和国憲法」の提案演説については、個々の党議員の功績に帰することのできない集団的英知であったことがことさら強調され「それは野坂参三自身が、後に、自分には『法律的な素養』もなく、『党の草案の基本原則をちゃんと腹におさめた上で』論戦した、と語っていることからもあきらかである」というご愛敬のような書き加えもある。野坂以外の項目においても『六十五年史』において列挙されていた中央委員会壊滅後の国内共産主義グループ(本書二三四ページ参照)のうち、春日庄次郎・竹中恒三郎・安賀君子らの「日本共産主義者団」と神山茂夫・佐藤秀一・寺田貢らの名前が消えている(代わりに大窪満、石川篤、石川友左衛門の名が新たに登場している)。

 それでも「事実を事実として」記述していくという歴史書としての基本が着実に進展していることも今回の『七十年史』の各所に見ることができよう。一九三二年一〇月「大森銀行ギャング事件」について「松本清張の『昭和史発掘』も、この事件が完全に警察が仕組んだものであり、銀行から奪った金もすべて、スパイ飯塚をつうじて、事件直後に警察にわたり、警察の金庫に保管されていた事実まであきらかにした」との『六十五年史』の記述が全文抹消されているのは、こうした一例と見たい。聞き取りにもとづく松本清張のこの記述の信憑性については立花隆『日本共産党の研究』でもありえないこととして疑問が出され、松本も十分な反証をし得ないままとなった経緯がある。

 

 本書の校正中にも、和田春樹「歴史としての野坂参三」(『思想』一九九四年三、四、五月号)や加藤哲郎「歴史における善意と粛正」(『窓』第一九号、一九九四年四月)という日本共産党史についての研究論文が発表された。荒木義修『占領期における共産主義運動(芦書房、一九九三年)にも言及しつつ野坂の歴史的位置付けの再構築を目指した和田論文は、ソ連共産党文書の文書番号を脚注に注記して、他の研究者の第一次史料へのアプローチを可能とした最初の論文となった。加藤論文は、従来からの国崎定洞研究の視点から野坂問題を見て、野坂の保身からの山本告発は、より「党派的」であるがゆえにスターリンに忠実であった山本に対する野坂の防衛的先制攻撃ではなかったかとの新たな論点を提示している。一九八九年以来の世界史の大変動が、共産主義運動史研究の新しい地平を展開しつつあることは本書「あとがき」で述べたとおりであるが、その動きは着実に広がりつつある。 (一九九四年五月八日)

 

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 〔関連ファイル〕

     『逆説の戦前日本共産党史』 『逆説の戦後日本共産党史』ファイル多数

     『1930年代のコミンテルンと日本支部』志位報告の丸山批判

     『反戦平和運動にたいする共産党の分裂策動の真相』

           「反戦平和でたたかった戦前共産党」史の偽造歪曲

     『転向・非転向の新しい見方考え方』戦前党員2300人と転向・非転向問題

     石堂清倫『「転向」再論−中野重治の場合』

     渡部徹  『一九三〇年代日本共産党論−壊滅原因の検討』

     伊藤晃  『田中真人著「1930年代日本共産党史論」』書評

     丸山眞男『戦争責任論の盲点』(抜粋)

     加藤哲郎『「非常時共産党」の真実──1931年のコミンテルン宛報告書』

 

     田中真人『第2章、日本反帝同盟の研究−共産主義運動と平和運動』

           『日本共産党「50年分裂」はいかに語られたか』