筆坂秀世『日本共産党』出版をめぐる動向

 

筆坂証言と共産党反論があぶりだした3つの真相

 

(宮地作成)

 〔目次〕

   1反響の大きさと3つの対立点

   2、筆坂証言の内容−宮本引退、不破と志位、二段階処分

   3、共産党の反論全文−不破哲三・浜野忠夫・志位和夫

   4、対立点3つの真相解明 (表1、2、3)

   5、出版後インターネットで出された評価

   6、赤旗号外『筆坂転落問題 日本共産党の反論』発行→全党討論を指令

 

 〔関連ファイル〕        健一MENUに戻る

    『筆坂秀世「悩める日本共産党員のための人生相談」』

           Q&Aによる悩む力を鍛える『日本共産党』第2弾

           筆坂秀世と私の経歴・立場の違いからくる主張の隔絶度合

    『筆坂秀世「政治的暗殺事件」とその謎とき仮説』常幹4人「党内脅迫ファックス」に屈服

    『筆坂「政治的暗殺」から「外部飲酒禁止令」へ』常幹4人の党運営に関する『哲学の貧困』

    Google検索『筆坂秀世 日本共産党』63100件

    行政調査新聞『あきれた粛清劇、筆坂氏失脚の深層』

    有田芳生『共産党は筆坂氏の発言に答えるべきだ』週刊朝日2006年5月19日号

    ブログ『小隊長日記→最近の戦況報告』筆坂問題のコメント・投稿多数

 

 1反響の大きさと3つの対立点

 

 筆坂著書は、出版と同時に大きな反響を起こしている。新聞記事は、せいぜい短いコラム程度だった。しかし、インターネットにおけるリストは続々と増えている。関心の広がりとそのテンポは、共産党を慌てさせるのも無理がないほどである。たしかに、最近では、離党したばかりの常任幹部会員の立場から、これほどリアルに、党中央の実像、指導部の実態、選挙総括の欺瞞性などについて証言した本は出ていない。

 

    Google検索『筆坂秀世 日本共産党』66800件

 

 〔目次2〕は、筆坂著書の中から、注目され、話題になっているに、3つのテーマ・証言だけをピックアップする。その箇所の一部を抜粋・引用する。ただ、セクハラ問題は、その事実関係をふくめ、二段階処分という実態を載せる。私(宮地)は、25歳から40歳までの15年間、愛知県で民青・共産党の専従をしてきた。共産党では、名古屋中北地区常任委員(現在では5つの地区委員長)と愛知県選対部員だった。その中間機関専従体験から見ても、党中央常任幹部会員体験に基づく筆坂証言全体の信憑性は高いと判断する。

 

 〔目次3〕は、共産党側の反論者3人の全文である。出版は2006年4月20日だった。出版前日から3人が3日間連続して、「しんぶん赤旗」に反論を載せた。これは、党費納入党員約27万人、赤旗読者164万人にたいするマイナス影響を、未然に防ごうとする瞬時の対応である。共産党は、()赤旗読者の歯止めのない減少が続き、()選挙でも連続惨敗になっている。

 

 ()支部数も減り続けている。この10年間で、28000支部→24000支部へと、4000支部が消滅した。それだけでなく、「政策と党勢拡大計画」を持った支部は、22回大会90%→23回大会52%に減った。48%の支部が、「計画的な党勢拡大」路線を意図的に拒否し、または、「拡大目標」も立てられないほどに実質崩壊している。総選挙で支部会議を開いた支部82%、一度も開かなかった支部18%にもなった。公表24000支部×18%≒4320支部は、事実上すでに崩壊している。

 

 ()43年ぶりに全面改定した不破綱領を読んだ党員は、在籍党員の34.2%しかいない。綱領決定後の2年間、党中央・中間機関は、読了率アップを必死になって追求・点検してきた。それでも、公表党員数404299人の65.8%・266028人が不破綱領を読もうともしなかった。党費だけは払う、(多分、しんぶん赤旗も購読する)、しかし、不破新綱領を読まない党員が、党費納入党員約27万人の内、48%・13万人いるというのが、日本共産党員の実状である。

 

 これらの現象は、「科学的社会主義」テリトリー(領域)から外部への逃散行為であるとともに、共産党の内部崩壊が深刻化してきたことを示している。それを証明する第24回大会の諸データは、別ファイルに載せた。

 

    『第24回大会決議・中央委報告における15の真相データ』

 

 これら出版前日からのあわてふためいた3人の連続対応は、常任幹部会員だった筆坂秀世の証言にたいし、とりあえず、「虚構」「ガセネタ」「変節者」というレッテルを貼り付け、党員・読者への影響力を遮断することを狙ったものである。それは、党員・読者の頭脳に「科学的社会主義」バリアをかける作戦である。筆坂証言内容と共産党側3人の反論全文を、きちんと比べないと、共産党のレッテルやバリアの性格を理解することができない。

 

 

 2、筆坂証言の内容−宮本引退、不破と志位、二段階処分

 

 〔小目次〕

   1、宮本議長に引退を強要した真相 (P.114〜117、全文)

   2、不破哲三と志位和夫との陰湿な関係実態 (P.100〜102、全文)

   3、常任幹部会員・参議院議員筆坂秀世にたいする二段階処分 (P.18〜22、全文)

 

 1、宮本議長に引退を強要した真相 (P.114〜117)

 

 この宮本氏が中央委員会議長を退いたのは、一九九七年九月の第二一回党大会であった。一九五八年から一九九七年まで四〇年間、書記長、幹部会委員長、中央委員会議長を務め、常に党の最高貴任者であり続けた氏も、すでに八八歳になっていた。このかなり前から、宮本氏は引退すべきだという声が党の内外からあがっていた。第一九回大会も、第二〇回大会もマスメディアは宮本氏の去就に注目していた。

 

 それは党内も同様であった。その都度、期待を裏切られて、「まだやるのか」と溜息をついたものである。だからこそ一九九四年の第二〇回大会では、新しい中央役員を選出する際の提案で、浜野忠夫常任幹部会委員(現副委員長)は次のように述べた。「中央委員会の推薦名簿の作成にあたっては……知恵と経験に富んだ試練ずみの幹部と有能・誠実な新しい幹部の適切な結合をはかるという、従来から一貫した党の幹部政策の基本を今回もなによりも重視しました」「その立場から余人をもって代えがたい同志は別として、六十五歳以上の同志は原則として勇退することを確認し、若い将来性のある幹部を大胆にばってき・登用することとしました」

 

 「余人をもって代えがたい同志」とは、もちろん宮本氏のことである。当時党内では、この言葉が皮肉を込めて流行したものである。「余人をもって代えがたい」というのは、他の人では駄目だということであり、特定の人物を特別扱いすることを意味する。党内で反発の声が渦巻いたのは当然であった。そもそもこんなことをあえていわなければならないところに、この人事に無理があったことは明らかである。

 

 その宮本氏も第二一回大会を機に、ついに勇退した。党内では、宮本氏が自分の意で勇退したかのように受け取られており、「さすが宮本さんは立派だ」という党員もいたが、実際はそうではなかった

 

 宮本氏は、第二一回大会には体調を崩して出席できないという状態だったにもかかわらず、まだ引退するつもりなどなかった。不破氏が数日間の大会期間中、その日の日程が終わると東京都多摩市の宮本邸まで行って、「引退してほしい」と説得し続けたのである。私の記憶に間違いがなければ、たしか長い間宮本氏の秘書をしていた小林栄三常任幹部会委員(当時)も同行したように聞いている。

 

 不破氏から直接聞いた話だが、この説得に対し、宮本氏は「君、僕は何か間違いを犯したのか」と聞いたそうである。不破氏らは「そうではない」として、年齢などをあげ説得したそうである。そして、ついに宮本氏が渋々この説得に応じたというのが引退の真相だ。その後、常任幹部会で、不破氏が「宮本さんには知的後退が見られる」と語っていたことが印象に残っている。

 

 世界の多くの共産党を眺めてみると、党の指導者が辞める時は、死亡するか、もしくは失脚する例が多かった。高齢になったため第一線から引退するという例は少ない。それゆえ、宮本氏も思わず「失脚」という言葉が頭に浮かんだのであろう。

 

 宮本氏引退に関連し、この大会では異例なことがおこっている。通常、綱領改定案や規約改定案は、「党内民主主義を大事にする」という建前から、党大会のかなり前に全党員に周知され議論がおこなわれることになっている。ところが、この大会では、大会の真っ最中にいきなり規約改定案が提出されたのである。

 

 改定案の中身は簡単なものだった。規約第三十一条で「中央委員会は、中央委員会議長一名(中略)を選出する」となっていたのを、「選出できる」に変えるだけだった。つまり中央委員会議長を「置かなければならない」から、「置くことができる」に変えたわけである。結局、この大会で宮本氏は中央委員には選出されず、引退することになった。そして第一回中央委員会総会では、議長は選出せず空席となった。あの戦時中の過酷な弾圧下で、一二年間も牢獄につながれながら非転向を貫いた宮本氏は、私たちにとっては次元が違いすぎて憧れることすら憚られるほどの大きな存在であった。私が日本共産党に入党して以降も、「仮に宮本さんのような弾圧を受けたら黙秘でがんばることができるか」と自分に問いかけ、到底その自信がない自分に恐れおののいたものである。戦後、いまの共産党の路線をつくりあげたのは、間違いなく宮本氏の卓越した政治的眼力とリーダーシップであった。

 

 私は宮本氏の引退の真相を聞いたとき、「ああ、あの宮本さんでさえそうか」と正直ほっとしたものである。組織というものは、得てして指導者を天まで持ち上げ、欠点など何もないがごとく完全無比の人間像をつくりあげてしまう。だがあの宮本氏ですら、結局は自分の地位にこだわり、中央委員会議長の座に執着したのである。そのことをとやかくいうつもりは毛頭ない。そんな資格が私にあるとも思わない。

 ただあまりにも「人間的」だと思っただけである。

 

 2、不破哲三と志位和夫との陰湿な関係実態 (P.100〜102)

 

 私が罷免される一年前ぐらいの時期だったと記憶しているが、志位氏が議題のまとめをするたびに、不破氏が「僕は違うな」といってひっくり返すのである。当然、結論も不破氏の意見に落ち着いていく。居並ぶ常任幹部会委員の前で、「君はまだまだだな」といわれているに等しいわけだから、これは志位氏にとってつらかったと思う。

 

 これが週一回の会議のたびごとに繰り返されるのである。こうしたことが何回か続いた後、彼はついにまとめができなくなってしまった。志位氏がまとめをしないと会議は終わらない。そのため、通常は午前一〇時半に始まり一二時半頃には終わる会議が、午後一時あるいは一時過ぎまで長引くこともしばしばであった。志位氏が病気になった時、私はすぐにこの情景が思い浮かんだ。

 

 他の常幹メンバーはどう思ったか知らないが、私は不破氏の一連の振る舞いに非常に嫌悪を感じた「なぜ志位氏がまとめる前に発言しないのか。もっといえば議長、委員長の関係なのだから、事前に相談だってすればよいではないか」と思ったものである。ただ私は、そのことを不破氏に指摘する勇気はなかった。志位氏には申し訳なかったと思うし、その勇気がなかったことを恥じ入るばかりである。

 

 かくいう私も、常任幹部会委員になった頃は、会議のたびに不破氏から叱責された。私を鍛えるつもりだったのだと解釈しているが、国会質問の態度、会議での発言など、一時は何をいっても怒られるというありさまだった。何回か続いた後、志位氏も心配して、「筆ちゃん(志位氏はこう呼んでいた)、大丈夫? どうして不破さんは筆ちゃんにあんなに怒るのかな」と慰めてくれたこともある。私は、「いや、気にしてないです。どうってことないですよ」と返していた。実際のところ、大して気にもしなかった。ただ同じ叱責でも、常任幹部会委員になりたての私の立場と、書記局長も経験し、対外的には党を代表している委員長としての志位氏の立場では、辛さの度合いはまったく違ったはずである。

 

 志位氏を幹部の面前でいじめのように叱責する不破氏のやり方は、党にとってマイナスでしかない。この場面を直接見ている常任幹部会委員や、伝聞で知った党本部の人間は、志位氏を軽んじ、ますます不破議長を絶対化していくからである。

 

 たとえば、二〇〇四年参議院選挙前に志位氏が病気になったときのことである。その頃には、私もすでに党本部に復帰していた。志位氏は、療養中にもかかわらず必死に委員長としての職責を果たそうとして、作成中の参議院選挙政策について政策委員会に意見を伝えてきたのである。それをスタッフが浜野副委員長に報告したところ、中央委員でもない政策委員会のメンバーもいる前で、浜野氏は「彼(志位氏)には意見をいう資格はない」と公然と述べたというのである。病気で戦線離脱しているのだから、その資格はないというわけである。それを聞いた政策委員会のメンバーが、「党の指導部はいったいどうなっているのか」と憤慨していたのも当然である。

 

 こんな話はいくらでもある。政策委員会でも担当の常任幹部会委員が、平然と志位氏の批判をするところを何度も聞いたものである。ところがこういった人たちは、志位氏に面と向かっては何もいわない。典型的な面従腹背である。その一方で不破議長に対する批判だけは、どの幹部もしないのである。

 

 私が罷免された時、メディアは私のことを「党のナンバー4」と書いたが、私にいわせれば、共産党にはナンバー1しかいなかったのである。

 

 3、常任幹部会員・参議院議員筆坂秀世にたいする二段階処分 (P.18〜22、全文)

 

 私は二〇〇三年六月、共産党のすべての役職を罷免され、参議院議員を辞職することになった。なぜそうなったのかについての詳細な経緯は、『週刊新潮』(二〇〇五年九月二九日号)の手記であきらかにした通りである。この手記に、事実関係の誤認も、偽りも一切ない。

 

 問題の日はさかのぼって五月二六日だった。私は、私の秘書後に私を訴えることになる女性三人で焼肉店で飲食したあとカラオケボックスに行った。そこで三人で歌い、その女性の同意も得て何度かダンスを踊り、デュエットにも興じるなど、それぞれに楽しい時間を過ごした、つもりであった。ところがその後、その女性から、ダンスを踊った際、身体を強く抱きしめられた。デュエットの際、肩に回した手が腰に下りてきた。党の大幹部にこういうことをされ大変ショックを受けた″、という趣旨の訴えが党になされた。セクハラだというわけである。六月五日に志位和夫委員長、市田忠義書記局長、浜野忠夫副委員長の三人から調査を受け、事態を初めて知った。

 

 私は、三人に対し、チークダンスを踊ったこと、デュエットで腰に手を回して歌ったことは事実だと認めた。これ以上でも、これ以下でもないからだ。同席した秘書も、その女性が、私が「帰ろう」と声をかけるまで、大いに楽しんでいたと証言している。それがなぜセクハラという訴えになったのか、今もって不可解というしかない。

 

 だが、当時の私は党の最高幹部の一人であり、参議院議員でもあった。背後に何があったのか知る由もないが、こういう訴えを受けること自体、軽率、失態のそしりは免れ得ないと考えた。だから事実関係は率直に認め弁解は一切しない、その処理は党の判断にすべて委ねる、という態度をとることにしたのだ。六月九日、私も出席した常任幹部会(記録係を入れない秘密会議であった)での処分は「警告」ということであった。

 

 ところが、六月一四日一枚のファックスが書記局に届いた。そこにはセクハラ議員は自民党だけではない。共産党の最高幹部にもいる。それが甘い処分で済まされようとしている。甘い処分で済ますなら、七中総を機に世間に公表する″という趣旨のことが書かれていた。一種の「脅迫状」である。秘密会議のことが漏れているうえに、開催が迫っていた第七回中央委員会総会のことを「七中総(ななちゆうそう)」という党内用語で呼ぶなど、あきらかに党内からだと判断できるものであった。これに慌てた共産党指導部は、一六日常任幹部会で、急遽「警告」から「罷免」に処分内容を変更した。

 

 この変更を一七日に聞いた私は、それも即刻受け入れた。どう弁解したところで私の失態が原因なのだから、最高幹部の一人として、党への打撃を少しでも小さくしたいという思いが強かった。国民の期待を裏切ってしまうことは痛恨の極みであったが、その政治責任を明確化するのは当然だと考えた。もちろん生涯最大の無念であった。

 

 しかし一方では、生き恥をさらさぬため死を真剣に考えた。妻にも話せなかった。ホテルにこもって妻や子供に遺書も書いた。だが死ねなかった。明後日に記者会見で発表されるという、文字通り最後の最後になって、妻に「罷免、辞職」の決定や事の経過を伝えた時、やっと生きていく決心、この重荷を生涯背負っていく決心がついた。一連の件で私が一番辛かったのは、公職にあったものとしての説明責任を果たすことを、党から厳禁されたことだった。実は「罷免、辞職」の決定が市田、浜野両氏から伝えられた時、私自身が辞任の記者会見をせよという指示もなされていた。私は国会議員として、説明責任を果たすことは当然と考え、この指示を了承した。逃げ隠れするような無様なことだけはしたくはなかったからだ。

 

 ところが、一八日になると、市田氏から「指導部(不破啓三氏)の判断で記者会見はしなくてよい」という変更指示があった。記者会見をして色々と説明することは「事態の状況描写」をすることになりかねず、その結果、二次被害を生むおそれがあるとの理由であった。私の口は封印されてしまった。除名覚悟で記者会見を強行するという手段もとりえたが、当時の私は精神的にも追い詰められ、そこまでの判断はできなかった。

 

 結果はどうであったか。かえってさまざまな指摩憶測(しまおくそく)を呼び、ここには到底書くことができないような、事実無根の記事があふれてしまった。指導部の判断が二次被害を生み出したのである。世間の輿味本位のたくましい想像力を助長しただけであった。それだけではない。私は“雲隠れ”という批判まで受けた。事情を知らない党内からすら、「なぜ記者会見しないのか」と批判され、「卑怯者」という烙印を押されてしまった。当然の批判であろう。ついに最後のプライドまでズタズタにされてしまった。私は、退職・離党する際、志位氏に「このままでは私は生ける屍」だと言った。志位氏ならわかってくれるだろうと思った。二〇〇三年八月私が党職に復帰したとき、「辛かったろう」と目に涙を浮かべて激励してくれた唯一の幹部が志位氏だったからだ。

 

 私は、記者会見をさせてくれるよう強く要求し続けたが、ついに認められることはなかった。共産党が私の口を封印したのは、相手の女性の二次被害を恐れてなどではない。「脅迫状」に屈して、処分を変更したことへの批判を恐れてである。浜野氏自身はっきり私に述べた。「脅迫状」を出した人物が、「もし本当に公表すれば、常任幹部会は甘い処分をしたと批判される。だから罷免に変更した」と。一切事実関係をあきらかにしない共産党の態度を、メディアは「共産党の秘密体質」と批判したが、「幹部の自己保身体質」も付け加えなければならないだろう。

 

 程度の差こそあれ、プライドを持たない人生などありえない。そうでなければ生きてはいけないだろう。私がそれを取り戻すためには、共産党からはめられていた猿轡(さるぐつわ)をはずさなければならなかった。私は離党した。

 

 党の要職を離れたことによって、いつしか共産党という存在と客観的に向き合うようになった。そうすると、これまでとはまったく違う視点で物事が見えるようになってきた。敢えて見ようとしなかったものから、目をそらさないようになった。これまで自明のこととし、また当然視していたことに多くの疑問を持つようになった。「恥を言わねば理が聞こえぬ」という。これまでも恥多き人生だったが、今後もっと恥をかくのかもしれない。それでも私は、新しい眼で世界と日本を見つめたいと思う。そうすれば、必ずこれまでとは違った世界が広がってくるであろう。どんなに小さな力であったとしても新しい働きかけができるだろう。

 

 

 3、共産党の反論全文−不破哲三・浜野忠夫・志位和夫

 

 〔小目次〕

   1、不破哲三「筆坂秀世氏の本を読んで」2006年4月19日 出版前日

   2、浜野忠夫「筆坂秀世氏の虚構と思惑」2006年4月20日 出版当日

   3、志位和夫「筆坂氏の本について−誤りの合理化が転落の原因4月21日 1日後

 

 1、不破哲三「筆坂秀世氏の本を読んで

   2006年4月19日 出版前日 「しんぶん赤旗」

 

 筆坂秀世氏が、『日本共産党』(新潮新書)という本を出しました。氏は、二〇〇三年六月にセクハラ事件で党中央委員罷免の処分を受け、参議院議員を辞職したあと、二年ほど党本部に在籍しましたが、〇五年七月、みずから離党を申し出て日本共産党を離れました。同年九月二十九日号の『週刊新潮』に「日本共産党への『弔辞』」と題する「特別手記」を掲載し、党に敵対する立場を明確にしました。

 この本を読んだ不破哲三前議長から、次の一文が本紙に寄せられましたので、掲載します。


 

 ここまで落ちることができるのか

 

 筆坂秀世氏の日本共産党攻撃の書を読んでの感想は、一言でいえば、ここまで落ちることができるのか、という驚きである。

 筆坂氏によれば、自分は「プライドを取り戻す」ために党を離れ、共産党の「実像」を国民に知らせるためにこの本を書いた、とのことである。

 

 しかし、彼が自分の「プライド」を傷つけられたという筆坂問題とは、だれかが彼をおとしいれたという問題ではなく、彼自身がひきおこした問題である。筆坂氏自身がやった行為について、一女性からセクハラの被害をうけたという訴えがあり、当人にただしたら、訴えの事実があったことを認め、女性への謝罪の意思を示すとともに、自分の性癖についても、「刹那(せつな)的な享楽」を求めて同じような行為に出たことがこれまでにもあったことを認め、そのことを自分から「自己批判書」に書いて提出した。それにたいして、規約にてらして処分をおこなったのが、筆坂問題だった。

 

 しかし、今回の本では、自分の行為で被害を受けた女性への一言の謝罪の言葉もなく、「なぜセクハラという訴えになったのか、今もって不可解」と、問題がまるで“冤罪(えんざい)”であったかのように見せかけている。本当に“冤罪”だと思ったのなら、なぜ、そのとき、正々堂々と自分の態度を説明しなかったのか。そして、いま、問題を“冤罪”にすりかえることで、自分の“プライド”を取り戻そうとしているのだとしたら、それは、人間のモラルというものを、自分本位の立場で、あまりにも安易に捨て去ることではないか。

 

 筆坂問題で、被害を受けたのは、当の女性だけではない。全国の多くの党員が国民のあいだでの活動でどんなにつらい思いを経験したか。国民のあいだでの日本共産党の信頼性がどれだけ傷つけられたか、党が受けた打撃は、はかりしれないほどのものがあった。しかし、全国の党員たちのそういう思いには、筆坂氏はまったく目を向けようとはしない。それどころか、日本共産党を攻撃する本のなかで、自分こそ草の根の党員の代表者だ、といったそぶりで、党中央への文句をならべて見せる。

 私は、これまでの党生活のなかで、党員としての立場を捨てて敵対的な立場に移った人びとを少なからず見てきたが、このような厚かましさは、私の経験にはほとんど前例がないものである。

 

 驚かされたことは、もう一つある。たとえ、政治的にどんな立場をとろうと、言論で活動しようとする者なら、事実を尊重するという精神は、欠くことのできない資格条件となるはずである。しかも、筆坂氏は、この本の発行にあたって、かつて党の常任幹部会委員の部署にあったものとして、外からは見えない“日本共産党の本当の姿”を書くということを最大の売り物にしている人物である。

 

 私は、筆坂氏の次々持ち出してくる“本当の姿”なるものに一つ一つ付き合うつもりはないが、私の立場上、どうしても触れる責任があると思う二、三の点についてだけ、発言しておきたい。

 

 筆坂氏の語る「真相」とは……

 

 私は、ある週刊誌にこの本の予告的な報道記事が出たとき、それを読んで目を疑った。記事には、「宮本顕治氏(97)の議長引退の真相が初めて明かされた」というリードがつけられ、本文には、筆坂氏の本からの次のような引用があった。

 「宮本氏は……まだ引退するつもりなどなかった。不破氏が数日間の大会期間中、その日の日程が終わると東京都多摩市の宮本邸まで行って、『引退してほしい』と説得し続けたのである。(中略)宮本氏の秘書をしていた小林栄三常任幹部会委員(当時)も同行したように聞いている」。

 

 党の大会のことをまったく知らない人ならいざ知らず、少しでも大会の様子を知っている人なら、党の委員長であるとともに大会での中央委員会報告の報告者である私が、日々の日程が終わったあと、毎晩、伊豆多賀の大会会場から東京に取って返し、宮本邸を訪問しては伊豆多賀にとんぼがえりをしていたなどとは、想像しがたいことだろう。実際、日本共産党が、伊豆多賀の党学校で大会を開くようになってから、すでに二十九年たつが、その間の十一回の大会期間中、私が東京に帰ったのは、二〇〇〇年秋の自民党内の“反乱”――いわゆる“加藤の乱”――の時、大会への報告を終えたあと、国会議員の責任として、夜の衆院本会議にかけつけ、未明に大会会場に帰ったという経験が一度あるだけだ。

 

 “本当にこんなことが書いてあるのか”と半信半疑の気持ちで、後日、発売された本を開いてみると、「宮本議長引退の真相」と銘打った部分に、予告されていた通りの文章があった。

 これは、筆坂氏の頭のなかでつくりだされた虚構と妄想の世界での話としか、考えられない。

 

 宮本さんの退任の経過について

 

 筆坂氏がつくりだした「真相」なるものが、マスメディアでずいぶん流布され、誤解も広まっているので、私は、当事者の一人として、正確な事実をお伝えする責任を感じている。

 

 宮本さんの議長退任が決まったのは、一九九七年九月の第二十一回党大会だったが、その一つ前の第二十回党大会(一九九四年)の直前に、宮本さんは、脳梗塞(こうそく)の発作を起こしてたおれ、大会には出席できなかった。その後、一定の回復をして、中央委員会の総会には顔をだしあいさつや発言をしていたが、病気の進行とともに活動上の困難が強まってきた。九七年を迎えたころは、中央委員会総会への出席でも車いすが必要となり、発声の苦しさも周囲から目にみえるようになった。

 

 九七年五月の中央委員会総会で、九月に大会を開くことが決まったあと、私は、長くいっしょに活動をしてきた者として、宮本さんの退任の問題について、二人での話し合いを始めた。高齢という問題もあるが、いまの健康状態で議長の職務を続けることは、党全体にとっても、ご当人にとっても適切なことではない、と考えての提起だった。戦前・戦後、党中央で一貫して活動してきたただ一人の幹部という経歴からの思いもあり、一致した結論にいたるまでには、時間がかかったが、九月に入って間もなく、話し合いがまとまった。大会にたいする報告を承認する中央委員会総会(九月二十日)を終えたあと私と志位書記局長(当時)の二人が宮本さんと会い、二人が議長退任の申し出を受けた。この間、筆坂氏がいうような、小林栄三さんが、私に同行したり、話し合いに同席したりした事実はまったくない。

 

 こうして、宮本さんの退任の問題は、大会開催(九月二十二日)まですっかり解決していたことだった。

 党大会では、二日目の夜常任幹部会を開いて、宮本さんの退任問題を報告、翌三日目には、夕方から幹部会および中央委員会総会をひらいて、同じ報告をおこなった。このことを前提にして、中央委員会として大会に提案する中央役員および名誉役員の推薦名簿を作成した。

 

 この日程を見ていただければ、筆坂氏のいう「真相」など、入り込む余地がまったくないことがお分かりいただけるだろう。

自分でつくった「ガセネタ」を自分で流す

 

 さらに重要なことがある。いま説明した日程には、筆坂氏自身も参加していた。彼は、当時、中央委員で幹部会委員だったから、大会三日目の二つの会議には参加して、その報告を聞いていた。だから、自分の記憶に忠実でさえあるならば、筆坂氏がいうような日程などありえないこと、つまり、自分が「真相」として宣伝するものが、小泉首相の用語法にならえば「ガセネタ」であることを重々承知していたはずである。

 

 なぜ、このような「ガセネタ」が筆坂氏の頭に浮かんだのか、それは私の知るところではない。しかし、まったく事実になく、道理から言ってもありえない「真相」話を、彼が自分でつくりあげて、それをこの本を通じてマスメディアにふりまいたことは、まぎれもない事実である。民主党のメール問題では、「ガセネタ」の情報源と流布者は別人だったが、筆坂氏の場合には、「ガセネタ」の情報源と流布者が同一人物なのである。それだけ、その罪の重いことは明りょうだろう。

 

 筆坂氏の本には、日本共産党の内部事情なるものについて、数多くの「真相」話がもりこまれている。しかし、もっとも人目を引く「真相」話としてマスメディアに売り込んだ「宮本議長引退の真相」なるものが、こういう手法で製造された「ガセネタ」だったとなると、その他の「実像」話のつくられ方も、おおよそ想像がつくのではないだろうか。

 

 「不破議長時代の罪と罰」とは……

 

 筆坂氏は、その本の後半に「不破議長時代の罪と罰」という章をたてて、「本当に不破議長は完全無欠なのだろうか」と問いかけている。この問いかけはまことに奇妙なものである。どんな人間でも「完全無欠」な人間などありうるはずはないし、私自身についていえば、私は“よりよく、より欠陥すくなく”あることを願いはしても、“完全無欠”な人間になることなど考えたこともない。

 

 しかも、もう一つ奇妙なことがある。筆坂氏の問いかけは、政策や理論の分野を問題にしているようなのだが、その点で、彼が私の誤りあるいは失敗として問題にしているのは、次の章の「日本共産党の無謬(むびゅう)性を問う」をあわせても、拉致問題での外交交渉を論じた党首討論(二〇〇〇年十月)民主連合政府のもとでの自衛隊の扱いについてのテレビ討論での発言(同年八月)と、二つの点しかない。私が日本共産党の議長をつとめたのは、第二十二回大会(同年十一月)から第二十四回大会(二〇〇六年一月)までの五年二カ月だが、その全期間を筆坂式で調べても、この二つの問題点しか見つからなかったのだろうか。しかも、二つの問題点なるものは、どちらも私が議長になる以前のことであって、それを「委員長時代」ではなく、「議長時代」の「罪」に数え入れるのは、「看板に偽りあり」ということになろう。

 

 提起されている二つの問題点については、どちらも、ここに「罪」を求めるのは筆坂氏の独断にすぎない。

 拉致問題での外交交渉についていえば、私が提起したのは、拉致問題とは北朝鮮の国際犯罪にかかわる問題であることを十分に意識した、緻密(ちみつ)な外交努力を求めたのであって、これを“拉致棚上げの主張”と非難するのは、まったくの曲解である。

 

 その後、小泉首相の第一次訪朝のさいに、北朝鮮側が、拉致という国際的な犯罪行為を犯したことを部分的にもせよ認めた、という展開があった。この第一歩を、問題の根本解決に前進させるためには、国家的な国際犯罪という拉致問題の重大な性格を正面からとらえて、それにふさわしい緻密な外交態度をとることが、いよいよ重要になってきた。そこに、拉致問題の現状の大きな特徴があることを指摘しなければならないだろう。

 

 また、テレビでの安保論争についていえば、このとき、私が論戦の当事者として確認したのは、私たちの安保政策に、憲法完全実施および国際的な平和秩序の確立にいたる過程での対応論が十分に整理されていない、という問題だった。私たちは、その年の党大会では、それまでの政策をさらに大きく発展させ、民主連合政府のもとで、国民合意のもとにすすめる段階的な安全保障政策と対応する自衛隊政策を決定した。私たちの政策のこうした発展のプロセスは、公開された形で明らかになっていることで、筆坂氏の“内幕”話などが入り込む余地は、なんら存在しない。

 

 なお、こうして確立した民主連合政府下に憲法完全実施に進む段階的な政策は、次の大会での綱領改定のさい、党の基本政策の一部として、党綱領にとりいれたことを、付記しておこう。

 

 2、浜野忠夫「筆坂秀世氏の虚構と思惑

   2006年4月20日 出版当日 「しんぶん赤旗」

 

 筆坂秀世氏の著書『日本共産党』は、党の内部をよく知る者の“客観的な日本共産党紹介”という体裁を取っているが、端的にいえば、党に敵対する転向者、変節者にお決まりの、虚偽に満ちた自己弁護と党攻撃が、その主要な内容である。この本の何よりの“売り”が、日本共産党のトップの内情をよく知る筆者によるものだという点だから、以前から常任幹部会で活動し、筆坂氏にかかわるセクハラ問題の調査や処分を直接担当した私から、若干の反論をしておきたい。

 

 セクハラ問題での開き直り

 

 筆坂氏のセクハラ事件は、党の重要幹部が引き起こした不祥事として、党内外に大きな衝撃を与えた。筆坂氏は、本のなかで、国民との接点で苦労して活動している党員の気持ちに深い理解を寄せているかのようにいうが、それが装いに過ぎないことはすぐわかる。それら苦労している党員・支持者にはかり知れない困難をもたらした自らの不祥事についてのおわびの言葉も、反省もない。それどころか、肝心の被害女性への謝罪さえない。あるのは党への非難なのである。

 

 「同席した秘書も、その女性が…大いに楽しんでいたと証言している。それがなぜセクハラという訴えになったのか、今もって不可解というしかない」――訴えたのがおかしい、何か裏があったに違いないというのが、氏がこの本で表明している今の心境なのである。

 

 氏のセクハラによる被害者からの訴えを受けて、志位委員長、市田書記局長、それに私の三人がただちに筆坂氏に会って事実をただすと、氏は率直に事実を認めた。その際、みずから「常任幹部会委員も参議院議員も辞める」といい、涙を流して悔悟の気持ちをのべたのである。そして、事件後最初の常任幹部会会議(二〇〇三年六月九日)の席上、氏が読み上げた「自己批判書」には次のようなくだりも含まれていた。

 

 「(今回のような行為は)程度の差こそあれ、これまでもあったことを否定できません。ただ、これまでは、誰からも訴えられることはなかったというだけです」

 「私が、共産党に入党した時には、理論的にも未熟そのものでしたが、いまよりもはるかに誇りをもっていたように思います。共産党員である以上、『まわりの人から尊敬されるいい人〔に〕ならなければ』『悪いことはしない』『俺たちが日本の未来をつくるんだ』『みんなのために献身的に働く』等々、本音でそう思って活動していましたし、勉強もしました。だからこそ頑張れたのだと思います。ところがいまはどうかといえば、この原点というか、この気持ち、姿勢が欠如してきていることが、今回のことにつながっているのではと、いま思っています」

 

 「女性にたいする自分の感情です。そう強く自覚していたとはおもはないのですが、たとえば、『女性は可愛ければよい』『所詮、女は色取り』というような蔑視があったのかもしれません」

 「今回の私の行為は、どうにも弁解できないものであり、また、弁解するつもりも毛頭ありません。…入党の原点をたえず見つめなおす必要があると考えています」「いかなる処分も受け入れる覚悟です」

 

 事件後二度目の常任幹部会会議で、筆坂氏の党中央委員罷免・議員辞職勧告という方向を決め、市田書記局長と私が筆坂氏に会ってそれを伝えた際も、氏はそれを素直に受け入れた。処分を決定する幹部会会議と中央委員会総会に出席し、弁明する権利があることを伝えたが、「弁明することはない。出席しない」と明言し、「党にたいへん迷惑をかけた。申し訳ない。忙しいときにこんなことで手をわずらわせて…」などとのべて、涙ながらにわれわれと握手を交わしたのである。私は、このときの彼の言葉や態度は、当時の彼の偽りのない真情だったと思っていた。

 

 しかし、この当時の自己批判の言葉・態度と、今回の本での言い分が、正反対のものであることは明白である。氏は今度の本のなかで、「共産党員といえども人間である以上、恋もすれば、遊びもするし、酒も飲む。その結果、時には活動をサボタージュしたり、誤りだって犯すこともある」としたうえで、日本共産党内での「自己批判」という問題に言及している。

 

 「そうそう簡単に自己批判をすることなど、本当に可能なのだろうか。…自己批判なるものを突き詰めていくなら、それまでの自分の生き方、歩み、性格そのものを否定することにだってなりかねない」「(いまの党内では)『自己批判』すらも形式的になり、建前にしか過ぎなくなっているのだ」。自分の自己批判も本心ではなかったですよという予防線のつもりだとすれば、氏の人間性の根本が問われよう。

 

 氏は、本のなかで、氏の議員辞職の際あるいはその後、氏に記者会見をさせなかったという党の対応にかんして、「共産党からはめられていた猿轡(さるぐつわ)」などの語も使いながら、この対応のために「最後のプライドまでズタズタにされてしまった」とうらみをのべている。あの当時記者会見して“自分ははめられたのだ”といいたかったとでもいうのだろうか。当時の氏の心境からすれば、ただただ謝罪するしかなかったはずではないか。記者会見すれば、セクハラの具体的内容について根掘り葉掘り尋ねられ、それが結果的に、被害者の二次被害を強めることにしかならないことを心配して、止めたのである。

 

 氏は、「(離党したのは)プライドを取り戻したかったからだ」「プライドを持たない人生などありえない」などと、「プライド」を繰り返している。ここでいう「プライド」が、自己批判のなかでいった「誇り」とはまったく別物であることは明白である。

 

 氏が党員としての本当のプライド、誇りをもっていたとするなら、傷ついた氏のプライド、誇りは、氏自身の党内での地道な努力によってのみ回復しうるものだった。常任幹部会は、その道をけっして閉ざすことはしなかった。しかし、筆坂氏は、結局その道を進むことができず、いま、自分ではなく党の方が間違っていると主張することで、自分の「プライド」を取り戻そうというのだ。党攻撃によって自らの正当化をはかってきたこれまでの転向者、変節者たちと、何ら変わるところはないのである。セクハラ問題にかんして、氏は、当初の反省を完全にかなぐり捨てて開き直り、党が悪いと主張しているのである。

 

 偽りの“内幕”話のねらい

 

 筆坂氏の本に付された帯には、「これが実態だ! 元・最高幹部が赤裸々に明かす『革命政党』の全貌」という文字が躍っている。筆坂氏を励まして離党を勧め応援している人々が、なによりも期待するのは、「共産党ナンバー4」だったと自認する筆坂氏が、日本共産党の指導的中枢の“赤裸々な内情”を、恨みを交えて暴露することである。氏の出版を報じた各紙の見出しも、「共産党批判本」あるいは「暴露本」「内幕本」などとして扱っている。

 

 もともと日本共産党には、「ナンバー1、2、3…」などという序列はない。党の規約にもとづく任務の分担、機能の分担はあっても、身分的な序列や上下関係はないのである。筆坂氏のように、自分のことを「最高幹部」「ナンバー4」などと自認し、売り物にするような人はいない。それは、筆坂氏が常任幹部会委員、政策委員長などの任務を、身分のように考えていたことの証しでしかない。

 

 宮本顕治氏引退の経緯にかんする筆坂氏の「暴露」が虚偽であることは、すでに不破前議長の昨日付「しんぶん赤旗」の文章で明白に証明している。「内幕本」「暴露本」の一番の“売り”がこの程度なのだから、他は推して知るべしである。

 

 筆坂氏は、常任幹部会会議で「志位氏が議題のまとめをするたびに、不破氏が『僕は違うな』といってひっくり返す」「これが週一回の会議のたびごとに繰り返される」、そのために志位氏は「ついにまとめができなくなってしまった」などと書いている。これもマスコミ受けを狙った筆坂氏一流の偽りである。

 

 筆坂氏が常任幹部会のメンバーだったのは、九七年九月の第二十一回党大会後から、中央委員を罷免された〇三年六月までのことである。志位氏が委員長になったのは、〇〇年十一月の第二十二回党大会以後のことだから、筆坂氏はこの大会以後の二年半を問題にしているようだ。

 

 常任幹部会の会議では、常に率直な討論がおこなわれている。問題によっては、異なる意見・見解が表明されて議論になることがあるのも当然である。不破氏も、そうした流れのなかで発言している。当時の不破氏が、中央委員会議長としての責任、長い経験と知恵、蓄積に立って出した意見の多くがまとめの内容にとりこまれたのは、当たり前のことである。いうまでもなく、不破氏が意見を出したために、志位氏のまとめができなくなったなどということは、一度もない。毎回、議論のあった問題には志位氏がまとめをし、それが「常幹会議要旨報告」となって中央役員や党本部の各部局の責任者に届けられている。

 

 筆坂氏が、常任幹部会の“内部事情”をあれこれいいたてるねらいは明白である。自分を、そういう常任幹部会の不当な処分の犠牲者に描き出して、「筆坂=被害者」論をひきたたせるとともに、あわせて、党中央の“対立”を宣伝し、日本共産党の信用を落とす――ここからすけて見えるのは、反共派の立場に身を落とした者の、おなじみの謀略的手口である。

 

 党員への「共感」を装うが…

 

 筆坂氏は本のなかで、「こつこつと地道に活動している党員や地方議員には、いまでも素直に頭が下がる思いだ」と語り、氏をたずねて来る党員や地方議員から聞いたと称する苦労話への共感などをのべている。さらに募金、党勢拡大、選挙などの活動について「一般党員」への同情をにじませるような口調で、あれこれならべたてたうえで、筆坂氏が最後にのべる結論は、つぎのようなものである。

 

 「共産主義社会などまったく将来の展望がないのだから、無理をせずに、強がらずに、普通の国民に好かれて、国民のために活躍する政党になればよいではないか。国民もそうなることを望んでいる」

 

 日本共産党は、世界の資本主義国にも例を見ないような異常さを特徴とする自民党政治、大企業本位・アメリカいいなりの政治への確固とした対決者であり、そうした政治の変革を当面の目標としている。さらに、日本共産党は、資本主義の害悪そのものをも乗り越える確固とした未来展望をもって活動する党である。

 

 支配勢力は、この日本共産党を何よりも恐れ、マスメディアをはじめあらゆる力を動員して、封じ込めようとしてきた。

 日本共産党が活動のなかでぶつかる困難とは、なによりもこの政治条件から生み出される困難であるが、どんな困難をも恐れず、どんな攻撃にも負けず、ねばり強い活動によって国民との結びつきを広げ、前進と勝利への大道を歩みつづけるところに、戦前・戦後の不屈の伝統に裏付けられた日本共産党の本領がある。いま、全国の党員と党組織は、この自覚にたって、党綱領と第二十四回党大会決定を導きに、気概にもえた献身的な活動に立ち上がっている。

 

 その時に、筆坂氏はいうのである。“そんな活動などやめてしまえ、日本共産党には展望がないのだから、困難をおして活動してもむだだよ”。筆坂氏の「日本共産党」論が、誰を代弁しての「日本共産党」論であるかは、このよびかけ一つ見ても明りょうではないか。

 筆坂氏は、本の結びで「今後、いかなる道を歩むのか、私にもまだ分からない…」と記している。しかし、氏が党の道から完全に離れ、変節と転落の道をひた走っていることは、明白である。(幹部会副委員長)

 

 3、志位和夫「筆坂氏の本について−誤りの合理化が転落の原因」

   4月21日 出版1日後 「しんぶん赤旗」 志位委員長が記者会見で

 

 日本共産党の志位和夫委員長は、二十日の記者会見で、筆坂秀世氏の本について記者団に問われ、次のようにのべました。やりとりを紹介します。

 

 ――筆坂氏が本を出版したが感想は。

 志位委員長 落ちるところまで落ちた、というのが感想だ。

 

  ――「しんぶん赤旗」では不破哲三前議長、浜野忠夫副委員長が反論しているが、志位さんの記述もあるが、反論はあるか。

 志位 それも含めて、不破さんの反論、浜野さんの反論で尽くされていると思っています。

 

  ――読んでみると、暴露本という印象より、共産党にエールを送っていると強調されているが。

 志位 暴露本として宣伝しているではないか。中身もそれを最大の売り物としている。しかし、その暴露なるものの内実がまったく虚偽だったということは、二つの論文が示したとおりだ。

 

  ――党として対抗措置、法的措置を考えているか。

 志位 これは、言論によって「しんぶん赤旗」で行ったということだ。

 

  ――なぜ筆坂さんは、委員長によると、落ちるところまで落ちたのか。

 志位 自らの不祥事について、その誤りを結局うけいれることができなかった。それを合理化していった。そしてあたかも、冤罪(えんざい)であるかのようにのべているが、その立場に身を置いていった。そうすると党のすべてが憎悪の対象になっていく。反省ができず、開き直る。まさに、それが落ちていった原因だ。

 

  ――財政難などの指摘もあった。われわれが地方をまわって、地方の共産党の人をみると、ほんとうに身をもって感じていたことだが、それと中央とのギャップという話もあった。その面で反省点はまったくないのか。

 志位 私たちが、さまざまな党活動の面で苦労しながら前途を開いているのは事実だ。しかし、それは、まさに社会発展の目標を実現する過程のなかでの苦労であり、困難であって、そういうものとして、草の根でこつこつ党員のみんなが打開するためにがんばっている。それにあたかも同情するようなふりをしながら、党を卑劣なやり方で攻撃している。虚偽をもって攻撃している。落ちるところまで落ちたというのは、そういうことです。

 

 

 4、対立点3つの真相解明 (表1、2、3)

 

 〔小目次〕

   1、宮本引退経過の真相 (表1)

   2、不破・志位の陰湿な関係実態とその歴史的背景 (表2)

   3、二段階処分手口とその口実・性質 (表3)

 

 著書の順序とは異なるが、注目・話題になっているに検討する。これら3つの真相については、筆坂証言と共産党反論が全面的に対立している。これらの真相を解明することは、不破・志位・市田・浜野らの指導部体制が出来た経過とその内実、および、彼らの自己保身体質をあぶりだす上で、きわめて重要なテーマだと考える。よって、その食い違いを、まず、それぞれ()にした上で、その信憑性を検証する。

 

 1、宮本引退経過の真相

 

(表1) 宮本引退経過をめぐる対立点

対立点

筆坂証言

共産党反論(すべて不破反論)

引退要求と拒絶

かなり前から、宮本氏は引退すべきだという声が党の内外からあがっていた。第一九回大会も、第二〇回大会もマスメディアは宮本氏の去就に注目していた。

 指導部は、余人をもって代えがたい同志は別として、六十五歳以上の同志は原則として勇退することを確認

 引退要求は党内も同様であった。その都度、期待を裏切られて、「まだやるのか」と溜息

反論なし

発病・病状

証言なし

第二十回党大会(一九九四年)の直前に、宮本さんは、脳梗塞(こうそく)の発作を起こしてたおれ、大会には出席できなかった。

引退説得開始

年月日

不破氏が数日間の大会期間中、その日の日程が終わると東京都多摩市の宮本邸まで行って、「引退してほしい」と説得し続けた

九七年五月の中央委員会総会で、九月に大会を開くことが決まったあと、私は、宮本さんの退任の問題について、二人での話し合いを始めた。

説得期間

大会期間中

一致した結論にいたるまでには、時間がかかったが、九月に入って間もなく、話し合いがまとまった5カ月間にわたる引退説得

宮本反応

不破氏から直接聞いた話だが、この説得に対し、宮本氏は「君、僕は何か間違いを犯したのか」と聞いたそうである。

反論なし

同行者と月日

私の記憶に間違いがなければ、たしか長い間宮本氏の秘書をしていた小林栄三常任幹部会委員(当時)も同行したように聞いている。大会期間中

大会にたいする報告を承認する中央委員会総会(九月二十日)を終えたあと私と志位書記局長(当時)の二人が宮本さんと会い、二人が議長退任の申し出を受けた。この間、筆坂氏がいうような、小林栄三さんが、私に同行したり、話し合いに同席したりした事実はまったくない。

引退の真相

そして、ついに宮本氏が渋々この説得に応じたというのが引退の真相だ。

宮本さんの退任の問題は、大会開催(九月二十二日)まですっかり解決していたことだった。

常部報告年月日

証言なし

党大会では、二日目の夜常任幹部会を開いて、宮本さんの退任問題を報告

その後、常任幹部会で、不破氏が「宮本さんには知的後退が見られる」と語っていた

 

 (表1)の対立点から、宮本引退の真相をいくつか検討する。経過の細部は、別ファイルに載せた。

 

 1、宮本引退への党内要求と常任幹部会による拒絶・弾圧、欺瞞的人事作戦

 

 1985年、この要求が強烈になり、東大院生支部による「宮本勇退決議案の党大会提案」運動に結実した。宮本顕治・上田耕一郎・志位和夫・河邑赤旗記者ら4人がそれを全面弾圧し、除名・規律違反処分をした。その要求を逸らすために、宮本顕治は、志位和夫を大抜擢し、「老・壮・青の重層的指導体制」と偽って、最高権力者の地位に執着した。

 

    『不破哲三の宮本顕治批判』〔秘密報告〕「宮本勇退決議案の党大会提案」運動粛清事件

 

 2、引退説得開始年月日と説得期間の謎

 

 この問題については、不破反論内容が真相であろう。不破哲三が一人だけで、説得開始1997年5月から、引退解決9月22日までの5カ月間を掛けて説得を続けた。引退説得への宮本反応に関する筆坂証言も真相である。「不破氏から直接聞いた話だが、この説得に対し、宮本氏は『君、僕は何か間違いを犯したのか』と聞いたそうである」。

 

 不破反論内容は、宮本顕治が5カ月間にわたって、引退を拒絶し続けていたという事実を、不破哲三自身が自白したことを意味する。「私と志位書記局長(当時)の二人が宮本さんと会い、二人が議長退任の申し出を受けた」とする不破反論はウソである。真相は、不破哲三が、ようやく、退任強要に成功したということである。

 

 ところが、筆坂秀世は、この時期、すでに幹部会委員・書記局員になっていた。彼は、9月26日第21回大会第1回中央委員会総会で、常任幹部会員になった。これは、宮本引退工作の人事方針が、幹部会の了解も得ていなかった事実を証明している。しかも、常任幹部会になった時点においても、不破・志位らは、引退結果報告のみで、説得の具体的経過報告をしていなかった事実を、筆坂著書と不破反論は証明した。これは、不破・志位・市田・浜野ら4人による人事独裁・秘密決定システムという体質を暴露した。共産党内の人事権限は、中央委員会・幹部会・常任幹部会のどこにもなく、この4人が占有する独裁体制になっていることを証明した。

 

 3、小林栄三常任幹部会委員の同行有無の噂とその背景

 

 これについても、不破反論内容が真相であろう。謎は、小林栄三が同行したとの噂が、筆坂秀世を含め、党本部勤務員800人に真実と思われていたことである。800人の内訳は、党中央勤務員・赤旗記者・国会議員秘書・新日本出版社勤務員である。その数値は、党中央広報部が中日新聞に答えたデータである。

 

 小林栄三は、宮本秘書出身で、宮本秘書団私的分派の中心の一人だった。彼は、宮本顕治の命令を受け、スパイ査問事件問題で袴田里見査問・除名・キャンペーンの中心的役割を担った。宮本顕治は、その論功行賞として、小林栄三を中央委員から、二段階特進をさせ、常任幹部会員に大抜擢した。彼は、その後も、宮本指令により、党本部内の批判・不満専従にたいする査問・専従解任・処分を遂行する先頭に立った。それにより、党本部内で、彼は「ごますり・茶坊主」という蔑称とともに、「代々木のべリヤ」と呼ばれてきた。スターリン命令による粛清担当者エジョフ→ベリヤと同じく、日本共産党における党内粛清ルートは、宮本顕治命令による粛清担当者袴田→小林栄三になったからである。その間、宮本秘書団私的分派は、「満月の歌」を謳歌し、虎の威を借りた狐のように、党本部内で虚勢をはっていた。

 

 ところが、1994年、最高権力者私的分派創設者宮本顕治が脳梗塞で倒れた。不破哲三が朝日新聞インタビューに答えた内容によれば、1996年にも脳梗塞を起こした。これは2回目の発作と思われる。「満月の歌」時代は終焉の危機に陥った。不破哲三は、そのチャンスを捉え、()宮本引退強要と()宮本秘書団私的分派の全面解体を決断した。ところが、その私的分派グループは強力で、結束が固かった。虎の威を借りた狐たちは、党内でさまざまな規律違反行為をしていた。その本質は、宮本顕治も含め、彼ら自らが行った最高権力者私的分派活動である。宮本顕治と「ごますり・茶坊主」たちの裏側権力は、正規の常任幹部会の権限を上回っていた。

 

 その結束を崩すのには、宮本秘書団私的分派の中心人物を、説得と脅迫手法で、不破哲三側に寝返りさせるしかない。彼は、()宮本引退の5カ月間に及ぶ説得活動と同時に、()平行して小林栄三にたいし、地位保全約束・規律違反行為不問を条件に、私的分派リスト全員の解任・格下げに協力するよう説得・脅迫をした。これは、前衛党内で行われた一種の司法取引だった。小林は不破に屈服し、私的分派の解体作戦に応じた。この経過については、萩原遼が『朝鮮と私−旅のノート』(文春文庫、2000年、P.230)で書いたように、党本部800人のほとんどが知っている。それが、小林栄三同行の噂の背景である。この詳細は、2つの別ファイルで分析した。

 

    『不破哲三の宮本顕治批判』〔秘密報告〕宮本秘書団私的分派リスト

    『不破哲三の第2回・宮本顕治批判』〔秘密報告〕私的分派の全面解体作戦

 

 2、不破・志位の陰湿な関係実態とその歴史的背景

 

(表2)  不破・志位の陰湿な関係実態

対立点

筆坂証言

共産党反論(浜野のみ)

不破→志位への言動

志位氏が議題のまとめをするたびに、不破氏が「僕は違うな」といってひっくり返すのである。当然、結論も不破氏の意見に落ち着いていく

(浜野反論) これもマスコミ受けを狙った筆坂氏一流の偽りである。

常任幹部会の会議では、常に率直な討論がおこなわれている。不破氏が意見を出したために、志位氏のまとめができなくなったなどということは、一度もない

浜野→志位への言動

二〇〇四年参議院選挙前に志位氏が病気になったときのことである。その頃には、私もすでに党本部に復帰していた。志位氏は、療養中にもかかわらず必死に委員長としての職責を果たそうとして、作成中の参議院選挙政策について政策委員会に意見を伝えてきたのである。それをスタッフが浜野副委員長に報告したところ、中央委員でもない政策委員会のメンバーもいる前で、浜野氏は「彼(志位氏)には意見をいう資格はない」と公然と述べた

反論なし

常幹らの対応

この場面を直接見ている常任幹部会委員や、伝聞で知った党本部の人間は、志位氏を軽んじ、ますます不破議長を絶対化していくからである。

政策委員会でも担当の常任幹部会委員が、平然と志位氏の批判をするところを何度も聞いたものである。ところがこういった人たちは、志位氏に面と向かっては何もいわない。典型的な面従腹背である。その一方で不破議長に対する批判だけは、どの幹部もしないのである。

反論なし

志位反応・病気

これが週一回の会議のたびごとに繰り返されるのである。こうしたことが何回か続いた後、彼はついにまとめができなくなってしまった志位氏が病気になった時、私はすぐにこの情景が思い浮かんだ。

反論なし

筆坂の受け留め

志位氏を幹部の面前でいじめのように叱責する不破氏のやり方は、党にとってマイナスでしかない。

他の常幹メンバーはどう思ったか知らないが、私は不破氏の一連の振る舞いに非常に嫌悪を感じた。

(浜野反論) 自分を、そういう常任幹部会の不当な処分の犠牲者に描き出して、「筆坂=被害者」論をひきたたせるとともに、あわせて、党中央の“対立”を宣伝し、日本共産党の信用を落とす

志位→筆坂への言動

何回か続いた後、志位氏も心配して、「筆ちゃん(志位氏はこう呼んでいた)、大丈夫? どうして不破さんは筆ちゃんにあんなに怒るのかな」と慰めてくれたこともある。

反論なし

 

 1、筆坂証言の信憑性と共産党・浜野反論の無内容

 

 筆坂秀世は、1997年9月、第21回大会で、19人の常任幹部会員の一人になった。政策委員会責任者になり、参議院議員に当選した。2003年6月、「警告」→「機関罷免」に変更という二段階処分を受け、参議院議員を辞職した。彼の常任幹部会員体験は、5年9カ月間に及ぶ。筆坂著書は、その期間全体に関する()常任幹部会内部の討論・雰囲気と、()政策委員会責任者として党中央政策委員会内部で見聞した問題に関する証言である。

 

 それらは、伝聞証拠ではなく、すべて彼の直接体験証拠である。私(宮地)の愛知県における中間機関専従体験から見ても、その内容の信憑性は高いと判断できる。共産党・浜野反論は、このテーマについてまるで無内容であり、なんの説得力も持たない

 

 ちなみに、私(宮地)の名古屋中北地区常任委員時期において、機関レベルが異なるとはいえ、上記の不破→志位関係とまったく同質の体験をした。それは、1967年、愛知県指導改善運動の第1期から第2期までの2年間の問題である。その地区は、名古屋市の10行政区を範囲とし、専従52人を抱え、愛知県党の半分の党勢力を占める巨大な中間機関だった。私は、地区常任委員・5つのブロック責任者体験(現在では5つの地区委員長)った。そこでの一面的で異様なまでに偏った党勢拡大運動のやり方をめぐって、准中央委員・愛知県副委員長である地区委員長と私とのやりとりの中で、私にたいする打撃的批判・見せしめ的自己批判の強要を2年間にわたって、数十回受けた。筆坂著書を読んで驚いたことの一つが、この嫌がらせ雰囲気だった。私の同質体験は別ファイル『日本共産党との裁判・8部作』に載せた。

 

     第1部『私の21日間の“監禁”「査問」体験』「5月問題」

     第2部『「拡大月間」システムとその歪み』「泥まみれの拡大」

 

 2、不破哲三・志位和夫の陰湿な関係が起きる歴史的背景

 

 筆坂著書を読む限りでは、なぜこのような関係が発生するのかという原因が分からない。彼は、その背景を分析していない。私(宮地)は、そこに、宮本・不破・志位ら3人の歴史的三角関係に発生源があると考える。ただ、この分析は、長大になるので、別ファイル・リンクを挙げて説明する。

 

 1、宮本顕治→上田耕一郎・不破哲三の関係

 この関係については、いくつかの別ファイルで検討した。そこでの軋轢の根源は、すべて宮本顕治側にある。彼は、上田・不破共著『戦後革命論争史』絶版を強要した。さらに、1983年、その出版行為・著書内容に関し、宮本私的分派常任幹部会員を使って、上田・不破査問事件を行い、2人の自己批判書を『前衛』に公表させた。2人は、宮本顕治とその私的分派グループに屈従した。正当理由のない、非条理な査問の屈辱感は、それを体験した者でないと理解できない。不破哲三は、その屈辱を忘れることができなかった

 

 宮本が脳梗塞で倒れ、再起不能になった。それと同時に、不破は、宮本秘書団私的分派の全面解体という党内クーデターを発動した。その遠因は、彼の不本意な屈従と、彼の共産党員人生で味わった最大の屈辱感がある。彼は、私的分派グループを、党財政担当の上田均元秘書一人を除いて、全員を平和的に粛清した。平和的という意味は、彼らの分派活動にたいし、いかなる処分も行わず、寝返った小林栄三の分派メンバー・分派行為事実の自白内容脅迫・説得しつつ、役員降格・引退手口で、党中央幹部から追放したことである。彼の怒りは、私的分派グループだけでなく、宮本顕治によって大抜擢され、重用された幹部にも向けられた。その一人が志位和夫である。筆坂秀世も宮本顕治に大抜擢された一人である。

 

    『不破哲三の宮本顕治批判』〔秘密報告〕上田・不破査問、自己批判書公表事件

    『不破哲三の第2回・宮本顕治批判』〔秘密報告〕上田・不破査問、自己批判書公表事件

    『「戦後革命論争史」に関する不破哲三「自己批判書」』

    『「戦後革命論争史」に関する上田耕一郎「自己批判書」』

    石堂清倫『上田不破「戦後革命論争史」出版経緯』手紙3通と書評

 

 2、宮本顕治→志位和夫の大抜擢関係

 この背景は、党本部勤務員800人のほぼ全員が知っている。志位和夫の経歴を確認する。

 

 1980年、東京都委員会専従、都委員会勤務員(26歳)彼は、地区委員会専従を一度も経験していない()316地区の地区専従は、あらゆる階層の支部を直接担当し、支部の実態を知る上での専従活動の第一歩の場である。()、都道府県委員会専従は、一部の直属支部担当をのぞいて、支部との直接的関係を持たず、専門部活動を通じての各地区委員会という一級下の中間機関にたいする指導・点検をする「党内管理部門」の任務を持つ。通常は、20歳代なら、最低でも、数年間、地区専従体験を経てから、都道府県委員会専従になる。

 

 1950、60年代ならともかく、80年代において、地区専従を経ずに、いきなり党内管理部門専従になるのは、きわめて異例なことだった。なぜなら、彼には、それまでに、高く評価されるような、東京都レベルでの大衆団体・運動経歴、民青専従経歴、理論活動・発表経歴など、何一つないからである。それとも、宮本体制には、霞ヶ関官僚キャリア育成システム・27歳税務署長と同じように、陰湿な東大出・党官僚キャリア・システムが、作動しているのか。

 

 1982年、中央委員会専従、中央勤務員・青年学生対策委員。彼が、2年間で、党中央・青年学生対策委員になったのも、異例のことだった。宮本顕治が、彼を、なぜそこまで引き立てたかは、下記の連続抜擢のやり方を含めて、一つの宮本と志位との個人的関係疑惑となっている。それは、彼が東大学生のとき、宮本家の家庭教師だった事実である。党活動以外のプライベートな問題なので、今まで書かなかったが、党本部専従800人のほとんどが知っていることなので、彼の経歴の一つとして確認しておく。

 

 1985年11月19日、第17回大会。同年7月から党大会直前まで、東大院生支部の「党大会・宮本勇退決議案」提出運動とそれへの粛清事件が発生した。そこにおいて、中央勤務員・青年学生対策委員(31歳)志位は、宮本の直接指令を受けつつ、上田耕一郎副委員長、河邑赤旗記者とともに、粛清の先頭に立った。宮本は、彼の粛清手腕、宮本擁護と宮本指示への絶対服従・遂行を高く評価した。

 

 1987年、第18回大会。宮本は、その論功行賞として、彼を最年少の准中央委員(33歳)にした。さらに、翌1988年には、書記局員(34歳)に任命した。

 

 1990年、第19回大会。宮本は、彼を中央委員・新書記局長(36歳)に超・超・大抜擢をした。

 1994年、第20回大会。宮本は、彼に党大会・中央委員会報告をさせた。これは、志位の党大会報告デビューだった。そこで、彼は、丸山批判キャンペーンの総仕上げとして、別ファイルで分析する丸山眞男批判報告をした。これは、彼にとって、宮本無条件擁護、宮本絶対忠誠心を発揮する二度目の舞台となった。

 

 一つは、東大院生支部の党大会・宮本勇退決議案提出での宮本擁護とあれば、手段を選ばない粛清を平然と行うという、実践面での党派性(=宮本盲従性)の証明である。志位委員長の「汚れた手」出自は、ここにある。

 

 二つは、この丸山批判報告での、戦前における宮本中央委員の革命活動の栄光を、「すべて真理だった」として、別ファイル・4種類の詭弁を駆使して、守り抜くという、理論面での党派性(=宮本盲従性)の高さを、全党に披露した。

 

    『不破哲三の宮本顕治批判』東大院生支部「宮本勇退決議案」提出運動粛清事件

    『1930年代のコミンテルンと日本支部』志位報告の丸山批判、志位和夫の詭弁術

    『共産党は丸山眞男の何を、なぜ批判するのか』丸山批判関連のファイル多数

 

 3、不破哲三→志位和夫の陰湿な関係の歴史的背景

 これは、()宮本→不破関係、()宮本→志位関係から、必然的に派生した()不破→志位関係という3人の経歴に基づく歴史的な三角関係だと考えられる。もちろん、3人とも、優れた共産主義的人間であり、そんな個人的動機による人事・人間関係など起こすタイプではないと断定する共産党員や宮本・不破・志位ファンは多い。共産党・浜野反論のように、筆坂証言が「党中央の“対立”を宣伝し、日本共産党の信用を落とす」目的だけという規定は当たっているのか。

 

 筆坂証言において、志位→筆坂への言動には、志位和夫の人間的側面を見た。この証言内容は、事実と思われる。

 

 3、二段階処分手口とその口実・性質

 

(表3) 二段階処分手口の経過

対立点

筆坂証言

共産党反論

当日の行為事実

五月二六日だった。私は、私の秘書後に私を訴えることになる女性三人で焼肉店で飲食したあとカラオケボックスに行った。そこで三人で歌い、その女性の同意も得て何度かダンスを踊り、デュエットにも興じた。デュエットで腰に手を回して歌ったことは事実だと認めた

反論なし

セクハラとの訴え

その後、その女性から、ダンスを踊った際、身体を強く抱きしめられた。デュエットの際、肩に回した手が腰に下りてきた。党の大幹部にこういうことをされ大変ショックを受けた″、という趣旨の訴えが党になされた。セクハラだ

(不破反論) 一女性からセクハラの被害をうけたという訴えがあり、当人にただしたら、訴えの事実があったことを認めた。

第1回目処分

六月九日、私も出席した常任幹部会(記録係を入れない秘密会議であった)での処分は「警告」ということであった。

反論なし

ファックス「脅迫状」

ところが、六月一四日一枚のファックスが書記局に届いた。そこにはセクハラ議員は自民党だけではない。共産党の最高幹部にもいる。それが甘い処分で済まされようとしている。甘い処分で済ますなら、七中総を機に世間に公表する″という趣旨のことが書かれていた。一種の「脅迫状」である。

秘密会議のことが漏れているうえに、開催が迫っていた第七回中央委員会総会のことを「七中総(ななちゆうそう)」という党内用語で呼ぶなど、あきらかに党内からだと判断できるものであった。

反論なし。(ファックスの存否に沈黙)

処分変更

これに慌てた共産党指導部は、一六日常任幹部会で、急遽「警告」から「罷免」に処分内容を変更した。

(浜野反論) 筆坂氏は率直に事実を認めた。その際、みずから「常任幹部会委員も参議院議員も辞める」と言った。

浜野→筆坂への言動

浜野氏自身はっきり私に述べた。「脅迫状」を出した人物が、「もし本当に公表すれば、常任幹部会は甘い処分をしたと批判される。だから罷免に変更した」と

(浜野反論) 事件後二度目の常任幹部会会議で、筆坂氏の党中央委員罷免・議員辞職勧告という方向を決め、市田書記局長と私が筆坂氏に会ってそれを伝えた。

記者会見指令と中止指令

実は「罷免、辞職」の決定が市田、浜野両氏から伝えられた時、私自身が辞任の記者会見をせよという指示もなされていた

 ところが、一八日になると、市田氏から「指導部(不破啓三氏)の判断で記者会見はしなくてよい」という変更指示があった。記者会見をして色々と説明することは「事態の状況描写」をすることになりかねず、その結果、二次被害を生むおそれがあるとの理由であった。私の口は封印されてしまった。

(浜野反論) 記者会見すれば、セクハラの具体的内容について根掘り葉掘り尋ねられ、それが結果的に、被害者の二次被害を強めることにしかならないことを心配して、止めた。

記者会見中止への反応

かえってさまざまな指摩憶測(しまおくそく)を呼び、ここには到底書くことができないような、事実無根の記事があふれてしまった。指導部の判断が二次被害を生み出したのである。私は“雲隠れ”という批判まで受けた。事情を知らない党内からすら、「なぜ記者会見しないのか」と批判され、「卑怯者」という烙印を押されてしまった。

反論なし

記者会見中止指令の性質

私は、記者会見をさせてくれるよう強く要求し続けたが、ついに認められることはなかった。共産党が私の口を封印したのは、相手の女性の二次被害を恐れてなどではない。「脅迫状」に屈して、処分を変更したことへの批判を恐れてである。一切事実関係をあきらかにしない共産党の態度を、メディアは「共産党の秘密体質」と批判したが、「幹部の自己保身体質」も付け加えなければならないだろう。

反論なし

志位→筆坂への言動

私は、退職・離党する際、志位氏に「このままでは私は生ける屍」だと言った。志位氏ならわかってくれるだろうと思った。二〇〇三年八月私が党職に復帰したとき、「辛かったろう」と目に涙を浮かべて激励してくれた唯一の幹部が志位氏だったからだ。

反論なし

 

筆坂秘書の意見書(『週刊朝日』5月5・12日合併号、P.22)

秘書も「彼女には拒絶の態度や言葉は一度もなかった。時間も気にせず楽しんでいた」という趣旨の意見書を中央委員会に上げた。

 

 〔小目次〕

   1、処分対象の行為事実とセクハラ訴え事実認識は、三者が一致

   2、第1回目「警告」→ファックス「処分が甘い、公表する」→第2回目「機関罷免」処分に変更

   3、常幹4人の対応における三重の誤り

   4、党内脅迫者と脅迫動機をめぐる3件の推理

 

 1、処分対象の行為事実とセクハラ訴え事実認識は、三者が一致

 

 ()、女性から、デュエットの際、肩に回した手が腰に下りてきた、セクハラだという趣旨の訴えが党になされた。

 ()、筆坂秀世は、デュエットで腰に手を回して歌ったことは事実だと認めた

 ()、共産党反論も、それ以外の行為があったと書いていない。

 

 2、第1回目「警告」→ファックス「処分が甘い、公表する」→第2回目「機関罷免」処分に変更

 

 ファックスの存在を浜野副委員長も、筆坂秀世にたいして認めている。その党内脅迫に屈服して、処分をエスカレートさせた事実も浜野は認めた。彼は、筆坂が「みずから常任幹部会委員も参議院議員も辞めると言った」というが、これはウソである。なぜなら、すぐ後で、浜野は、「事件後二度目の常任幹部会会議で、筆坂氏の党中央委員罷免・議員辞職勧告という方向を決め、市田書記局長と私が筆坂氏に会ってそれを伝えた」と証言しているからである。ただし、3人の反論は、ファックスの存否沈黙している。

 

 3、常幹4人の対応における三重の誤り

 

 〔第1の誤り〕、機関役員処分は、当該機関総会で決定するという規約にたいする違反とウソ

 

 その処分を常任幹部会内だけで決定し、中央委員会総会に掛けようともしなかった。中央委員の処分は、規約上、中央委員会総会で決定しなければならない。掛けなかった理由を、以前「規律担当者の思い違いだった」と弁明した。これは、真っ赤なウソである。なぜなら、常任幹部会員21人は、全員が機関役員処分に立ち会った体験を豊富に持っているからである。「規律担当者の思い違い」などということは絶対に起こり得ない。彼らは、筆坂「警告」処分をしても、意図的に、常幹内部だけにとどめ、処分を隠蔽するという規約違反犯罪をした。これは、常任幹部会全員の腐敗と姑息な隠蔽体質を示す。

 

 それは、常幹による一種の党内犯罪と言える。隠蔽行為がばれると、常幹に出席していない規律担当者に責任転嫁をするウソをつくなど、どこまで堕落しているのか。というのも、規律委員会責任者は、上岡辰夫で、彼は幹部会員なので、「警告」処分の常幹決定の場には参加できないからである。もっとも、国民や一般党員にたいしてなら、そのウソによる欺瞞が成功するのかもしれないが。

 

 もう一つの推理もできる。「規律担当者」とは、浜野常任幹部会員・副委員長のことなのか。常幹メンバー内にも党内粛清担当者が必要である。党内粛清ルートは、常幹内粛清担当者として、()袴田副委員長()小林栄三常任幹部会員「代々木のベリヤ」→小林死亡後→()浜野副委員長になっているのか。現実に、浜野は、不破哲三から指示され、筆坂処分・反論に全面的にタッチしている。そうだとすれば、浜野が、「規律担当者」として、常幹内のみで処分決定をし、中央委員会総会には隠蔽しようと規約違反の提案をした可能性もありうる。

 

 〔第2の誤り〕、同一行為にたいする処分変更の誤りと党内脅迫への屈服の誤り

 

 そもそも、党内脅迫があったからといって、同一の行為にたいして、処分レベルを変更することは、規約違反である。新たな行為が発覚したケースなら、処分のエスカレートもありうる。それがない場合は、変更は誤りである。そもそも、「肩に回した手が腰に下りてきた。セクハラだ」という行為を、常任幹部会は「警告」処分相当だと認定した。

 

 規約第49条は、処分を4段階に分けている。警告、権利停止、機関からの罷免、除名である。「デュエットで腰に手を回して歌った」行為が、処分第3段階の「機関からの罷免」に相当し、議員辞職もさせると判定変更した根拠は何か。

 

 それは、「デュエットをした党中央専従女性、またはその夫から漏れ聞いた党員、または、国会議員秘書からの党内脅迫状」しかない。ファックスの文面は、「セクハラ議員は自民党だけではない。共産党の最高幹部にもいる。それが甘い処分で済まされようとしている。甘い処分で済ますなら、七中総を機に世間に公表するという趣旨」だった。これは「党内脅迫状」である。

 

 そこには、3項目の脅迫内容がある。()、「警告」処分では甘い、もっと重い処分をせよ。()、常幹内部だけで決定し、中央委員会総会に掛けないという規約違反の隠蔽犯罪を許さない。()、この要求を呑まなければ、七中総を機に公表する。そうなれば、共産党・常任幹部会の信用がどれだけ失墜するのか分かっているのか。

 

 不破・志位・市田・浜野ら4人は、「党内脅迫状」にうろたえ、怯えた。脅迫に屈し、処分をエスカレートさせ、脅迫者の要求を全面的に受け入れた。「脅迫」と規定する根拠は、党員なら、ファックスという発信者秘匿の手法でなく、公然と意見書を出すはずである。それをしないのは、「党内脅迫」である。4人は、筆坂秀世を人身御供に差し出した。この4人の屈服を正当化できるのか。

 

 〔第3の誤り〕、記者会見指令から中止指令への転換の誤りと詭弁の誤り

 

 筆坂証言−実は「罷免、辞職」の決定が市田、浜野両氏から伝えられた時、私自身が辞任の記者会見をせよという指示もなされていた。ところが、一八日になると、市田氏から「指導部(不破啓三氏)の判断で記者会見はしなくてよい」という変更指示があった。

 

 浜野反論−記者会見すれば、セクハラの具体的内容について根掘り葉掘り尋ねられ、それが結果的に、被害者の二次被害を強めることにしかならないことを心配して、止めた

 

 筆坂秀世は参議院議員である。国民の投票によって当選したからには、議員辞職にあたって、まず、国民・投票者にたいする説明責任が、政党・議員個人として第一義的に発生する。「被害者の二次被害」は、会見において「その点は答えられません」と言えば、すむことである。浜野反論は、まったくの詭弁である。となると、中止理由の本音は何か。

 

 常幹4人は、記者会見をさせることによって、()筆坂本人の行為にたいする追及よりも、それ以上に、()常任幹部会の誤り・規約違反犯罪が暴露され、それにたいし批判・追及が及ぶことを怖れた。というのも、マスコミが抱く常任幹部会への質問・疑惑は、()二段階処分の手口の不可思議さ、()「デュエットで腰に手を回した」行為にたいする罷免処分・議員辞職は、妥当性を持つのか、()その背景になんらかの党内脅迫があったのか、というテーマに向けられるからである。彼ら4人は、国民への説明義務よりも、常任幹部会の自己保身を優位に置いた。不破・志位・市田・浜野らは、よくぞこの性質の詭弁を使えるものだと感心するほどである。

 

 4、党内脅迫者と脅迫動機をめぐる3件の推理

 

 ファックス発信者を「党内脅迫者」とし、常幹4人を「党内脅迫への臆病な屈服者」と規定するからには、筆坂事件の〆としての推理が必要となる。というのも、事件は、「党内脅迫者」「脅迫への屈服者」とによる政治的暗殺事件の性格を帯びたからである。

 

 1、〔筆坂秀世の推理〕

 

 筆坂秀世は、『週刊朝日、5月5・12日合併号』(P.23)において、有田芳生の「誰がファックスを?」という質問にたいし、次のように答えた。ある幹部の秘書が「ふたりの人物を特定した」と語っていたそうです。国会議員の秘書でしょう。背後にベテランの参議院議員がいたという話も聞きました。

 

 2、〔ある掲示板の推理〕

 

 筆坂回答「背後にベテランの参議院議員がいたという話」に基づいて、次の推理した。参議院議員でベテランというキャリアは、当選4回の吉川春子しかいない。他議員は、当選1、2回の議員しかいないし、それをベテランとは言わないからである。

 

 3、〔行政調査新聞記事の推理〕

 

 筆坂問題の真相については、行政調査新聞がかなり突っ込んだ解明をしている。細部を別として、その信憑性は高いと判断する。取材源として、「マスコミ」としているが、内容を見ると、党本部勤務員・赤旗記者からの取材だと思われる。党外マスコミでは以下の内容はとても把握できないからである。

 

 筆坂処分における常幹の誤り・自己保身対応怒った党本部勤務員・国会議員秘書・赤旗記者のかなりが積極的に協力した。政治的暗殺事件の性格を持った真相を見抜き、「党内脅迫者」「脅迫屈服の常幹4人」にたいする憤りにかられなければ、共産党国会議員秘書団の内部事情が、これほど克明に漏れ出すことはありえない。

 

 このようなレベルでの党本部内情報のだだ漏れも、代々木85億円新築ビルにおける内部崩壊現象を示す証拠の一つといえよう。党内脅迫者に関する該当箇所を抜粋・引用する。脅迫者の動機も推理しているので、以下引用が長くなる。

 

    行政調査新聞『あきれた粛清劇、筆坂氏失脚の深層』

 

 この女性職員は、新たに筆坂氏の国会秘書になる予定で、マスコミに「5月26日夜」と報じられているカラオケ・パーティーは、以前からの筆坂氏の議員秘書も交えた「歓迎会」だったという。この事実に関連し、本紙はマスコミ関係者から重大な事実を打ち明けられた。「要するにたいした問題じゃなかったんですよ。ところが、つまづきのきっかけになったのが、この女性職員の亭主。この人も共産党系団体の役員なんですが、病気休職中らしくいつも家に居る。その上、異常な妬きもちやきらしくて、『歓迎会』で遅く帰宅した妻を叱責し、筆坂氏らと何をしたのか根ほり葉ほり聞きただしたというんです」……。

 

 このマスコミ関係者によると、件の女性職員が悩んだのは「党の最高幹部・筆坂氏によるセクハラ」よりも、嫉妬に燃える亭主の異常な怒りであったというのだ。「女性職員は、悩みを以前からの知り合いであった同僚の女性国会秘書に相談したそうです。この秘書も、たまたま共産党最高幹部である衆議院議員の国会秘書なんですが、実は名うての『セクハラ摘発マニア』でした」。

 

 「ここで乗り出したのが、共産党国会秘書団の女ボスというべき人物でした。この女ボスは、筆坂氏が国会秘書時代に同僚だった30年近いキャリアの大ベテラン秘書で、『飛ぶ鳥を落とす勢い』で出世したかつての同僚、筆坂氏に対して不快な感情を抱いていたといいます。ここから『筆坂のセクハラ疑惑』が書記局に告発され、市田書記局長と浜野忠夫副委員長の耳に入ったのです」(マスコミ関係者)。

 

 まず、筆坂氏「告発」に関わった人物連関図と、不可解な経過に見られる謀略性だ。マスコミが日共からの「抗議」や「提訴」に怯えて、報道できなかった「事実」があるという。その「事実」とは、「セクハラ」を受けた女性党職員が相談した相手が志位衆議院議員・党委員長秘書であり、「セクハラ」の事実を書記局に訴えるよう指図した「女ボス」も市田参議院議員・党書記局長の秘書だということだ。これが真実なら、日共ナンバー2とナンバー3の国会秘書が、「筆坂下ろし」に関与していることになる。

 

 更に、筆坂氏のNHK出演の降番と処分やり直しのきっかけになった書記局に送られたというファクシミリも、全く不可解なものだ。「本来なら、犯罪的な『脅迫』の実態こそ究明すべきなのに、そこは不問にして筆坂氏に対する処分をやにわに急いで強行した。『出来レース』の匂いがプンプンだ」(雑誌コラムニスト)と言われても仕方がない。だいたい、日共は世間に対して、代表電話とファックス番号一本分しか公開していない。つまり、書記局宛に直接ファクシミリを送れるのは部内の人間だけで、日共指導部が誰の仕業か把握しようと思えば不可能ではない。各部局のファックス送信記録と受信時間の照合をすれば、簡単に特定できるのである。

 

 「マスコミ記者の間でも、誰があの『脅迫ファックス』を送ったかの目星はついています。女ボス傘下のグループにいる女性国会秘書です。この女性国会秘書には、部内の男性職員のセクハラ行為を同じようにファックスで告発し、処分させた実績があります」(前出マスコミ関係者)。

 

 筆坂「告発」に走った女性秘書グループは、普段から「論客」としてテレビ、国会で活躍する筆坂氏に対して妬み、「あんな大酒飲みのセクハラ常習者が党幹部にいるのは許せない」と話し合っていたという。

 

 また、筆坂氏が政策や国会対策の責任者として、重大問題を国会で取り上げる際に優秀な秘書をあちこちから抜擢してチームを組ませて仕事をさせることも、件の女性秘書グループの怒りをかっていたという。

 

 「彼女たちの怒りが頂点に達したのは、鈴木宗男衆議院議員の疑惑追及の仕事をまとめた本が出版された時だったそうです。あの本(『ムネオ追及 300日』新日本出版社)は、マスコミや国会関係者の中でちょっとした話題になったもので、共産党議員の国会論争だけでなく調査や準備に関わった国会秘書たちの活躍ぶりが実名で載っていたのです。皆、筆坂氏が抜擢した秘書たちでした」(国会記者クラブ関係者)。

 

 嫉妬というものは、どの社会にもつきものである。しかし、嫉妬が組織的陰謀になり、日本政治の中で有為な働きをする国会議員の政治生命を絶つばかりか、家族を含めてその名誉を傷つける……「筆坂失脚」劇に見られる日共内の動きは、単に「党内抗争」にとどまらない民主社会では許されざる犯罪行為だと、本紙は断言する。

 

 

 5、出版後インターネットで出された評価

 

 〔小目次〕

   1、五十嵐仁HP『転成仁語』 ああ、もったいない 4月21日のコメント

   2、有田芳生HP『今夜もほろ酔い』 「酔醒漫録 4月14日のコメント

   3、私(宮地)の友人からのメール

 

 1五十嵐仁HP『転成仁語』 ああ、もったいない 4月21日コメント

 

 元日本共産党政策委員長の筆坂秀世さんが書いた『日本共産党』が話題を呼んでいます。私も読みました。
 兵本達吉『日本共産党の戦後秘史』に対する長いコメントを書いているのに、筆坂さんの本については何も書かないのかと言われそうですので、簡単な感想を書くことにしましょう。とはいっても、兵本さんの本とこの本とでは、基本的な性格の違いがあるように思われます。前者は、日本の政界において共産党の存在意義を認めていませんが、後者は「日本共産党の存在意義はあると思う」と述べています。

 私が「気にくわない」のは、この本を「新潮社」から出したということです。「これが実態だ! 元・最高幹部が赤裸々に明かす『革命政党』の全貌」という帯の文句も気に入りません。
 『週刊新潮』や『週刊文春』がどのようなものであるかを知っていれば、新潮社や文藝春秋から出そうとは思わないでしょう。この点は、不破哲三『私の戦後60年―日本共産党議長の証言』についても同様の感想を持っています。

 週刊誌と出版とでは部局が違うということは承知していますが、それでも私には「気にくわない」できごとです。同じ新潮社ですから、このような話題を呼ぶ興味深い本を出して儲けさせることはないと、筆坂さんと不破さんの両方に言いたいと思います。

 これ以外の点では、筆坂さんに対する批判や不満を、あまり感じませんでした。この本を読んでも、共産党中枢にいる人々の“人間くささ”が窺われるだけで、これらの人々を貶めようとする底意のようなものは感じませんでした。

 私は本書を読んで、志位さんを見直したほどです。その他の方々について、ここに書かれていることが「真相」であるか否かを判断する材料を私は持ちませんし、すでに不破さんや浜野さんなど当事者による反論や批判も『しんぶん赤旗』に出ています。

 ただ一つ、大変、残念に思うことは、このような優秀で弁も立ち筆も立つ人を、共産党がこのような形で失ってしまったという点です。率直に言って、私は筆坂さんに同情的です。彼の除名から始まる一連の事態についても、「厳しすぎるのではないか」という感想を持ちながら、事態の推移を注視していました。

 

 この問題が明らかになったとき最も心配していたことは、このような形で筆坂さんが党外に追いやられ、「反共産党」の手記を書くことでした。セクハラの事実を認め、議員を辞職したときも、何らかの形で復帰されることを強く期待していたものです。
 そしてその後、『前衛』 200412月号( No.785)に論文が掲載されたのを見て、「ああ、良かったなー」と、その復帰を陰ながら喜んでいました。たとえ問題を起こしたにしても復活するチャンスは与えられるべきであり、筆坂さんもそうなったと思ったからです。

 その後、どのような事情があったのかは分かりませんが、結局、筆坂さんは共産党を離れました。いずれ、共産党批判の文書をどこかで発表するであろうことは、このときから予想されていたといえるでしょう。

 それが、兵本さんによって書かれた本のような恨み辛みに満ちたものでないことを願っていました。自らの過去を全面的に否定するものであれば、筆坂さん自身にとっても不幸です。

 産経新聞社や扶桑社などから出して欲しくないという思いもありました。新潮社から出したのは「気にくわない」と書きましたが、まだ、産経新聞社から出すよりはましだといえるでしょう。不破さんだって出しているんですから……。
 共産党を罵倒したり、自らの過去を否定するものでなかったのは、不幸中の幸いであったと思います。筆坂さんの筆致も抑制されているという印象です。私が同情的だから、そういう印象を持ったのかもしれませんが……。

 

 いずれにしても、残念な思いでいっぱいです。日本の政治を変えるために力をあわせ、相応の役割を果たせるはずの人が、このような形で革新政治の舞台から失われてしまったのですから……。
 「セクハラ」問題についての過ちは過ちとして、その責任を明らかにした上での復権が、何故できなかったのでしょうか。自民党など他党には、もっとひどい“罪”を犯しながら、知らん顔をしたり、責任を曖昧にしたり、一度は辞職しても堂々と復活するなどという輩がゴロゴロいるというのに……。

 このようにして、日本共産党は筆坂秀世さんという貴重な人材を失いました。ああ、もったいない、と言わざるを得ません。

 

    五十嵐仁HP『転成仁語』4月21日のコメント

 

 2、有田芳生HP『今夜もほろ酔い』 「酔醒漫録」4月13日のコメント

 

 朝日新聞の談話室で筆坂秀世さんの『日本共産党』を読了。筆坂さんは拉致問題や自衛隊問題で共産党の方針を批判しているが、なぜ幹部のときに表明しなかったかといえば、保身があったからだという。全体として正直な著作だと思った。なかでも興味深く、唖然としたのは、最高幹部の人物像だ。共産党では常任幹部会が日常の最高指導組織だ。筆坂さんが所属したときには20人のメンバー。ところがそこで発言するのは限られた人物であることにまず驚いた。

 

 革命運動の最高指導部の会議は、さぞ理論的で活発な議論が行われているものだとずっと想像していた。ところが、そうでなかったと筆坂さんは書いている。その会議を主宰するのは幹部会委員長の志位和夫氏だ。したがって会議をまとめるのも志位氏の役割である。ところが志位氏が「まとめ」を語ると、不破哲三氏(当時は議長)が「僕は違うな」と志位氏の結論を覆したのだという。それが何度も続いたそうだ。

 その結果、志位氏は精神的な病を抱えることになってしまった。かつて「週刊文春」が志位氏の母親を取材したとき、病気を認めたことを思い出した。「そうだったのか」とこれまた驚いたのは、宮本顕治議長(当時)が引退する経緯だ。党大会の開会中に伊豆の会場から多摩市の宮本宅に不破、小林栄三氏(かつての宮本秘書の幹部)が連日通い、引退を求めたそうだ。そこで宮本氏は不破氏に「君、僕は何か間違いを犯したのか」と語ったという。筆坂さんはのちに不破氏が常任幹部会で「宮本さんには知的後退が見られる」と語ったと書いている。結論的な感想は、もっともっと自由に議論が行われることが必要だということである。

 

    有田芳生HP『今夜もほろ酔い』4月13日のコメント

 

 3(宮地)の友人からのメール

 

 筆さんの本の件ですが、寄せ場学会の会合が,4/18に有り、話題になったそうです。

 新潮社からでたと言うことは、公安筋の何らかの工作ではないかとフロント系のイデオローグ達は言っているそうです。どうも、不破グループと旧宮本系の分離攪乱をねらっているのではないかと私は、思います。

 

 私は、兵本さんの本と比べて、兵本さんの本の中に匂う開けっぴろげな人の良さに比べ、非常に計算された狡さを感じると言っておきました。世間では兵本さんの事をボロクソに言っていますが、兵本さんの方が、人はいい愛される性格ですよね。

 

 

 6、しんぶん赤旗・号外『筆坂転落問題 日本共産党の反論』発行→全党討論を指令 4月29日 出版9日後 「しんぶん赤旗」号外の全党員配布

 

 4月20日、筆坂秀世『日本共産党』が出版された。共産党は、()出版前日の4月19日不破反論()4月20日浜野反論()出版翌日4月21日志位記者会見を、しんぶん赤旗に載せた。さらに、()4月29日しんぶん赤旗・号外『筆坂転落問題 日本共産党の反論』を全党員向けに40万枚発行→全党討論を指令した。()さらには、164万人の赤旗読者にも配布する。

 

    [PDF] 『日本共産党の反論』2006年4月29日、『週刊朝日への批判』も掲載

 

 ()5月に入って、約4000人の専従とともに、約4200人3403人へと、800人も激減した地方議員たち計7400人が、常幹指令に基づいて、公表24000支部の緊急会議を開かせようと動いている。地方議員3403人とは、2006年5月3日現在の党中央公表数である。そして、支部LC約10万人をして、公表党員404299人全員に、号外を手渡し、読了させるよう指令している。ただ、公表党員数の65.8%・266028人が不破綱領を2年間経っても読もうともしなかった。党費納入党員約27万人の内でも、不破新綱領を読まない党員が、48%・13万人いるというのが、日本共産党員の実状である。

 

 よって、不破新綱領を読んだ党費納入党員14万人は、読了すると思われる。しかし、その号外を読んだ党員のかなりは、筆坂『日本共産党』と読み比べたくなる可能性がある。その結果、著書を読む党員たちは、どちらに説得力があるかを考える。常幹4人は、『袴田転落問題』におけるパンフ大量販売と効果を再現させたいのかもしれない。しかし、当時の『袴田転落問題』と、今回の『筆坂転落問題』とは、性格がかなり異なる。柳の下に再び泥鰌となるか。

 

 支部討論の内容が、ブログで一部報告されている。はたして、真面目な討論を期待できるのか。それとも、この全党討論指令は、逆に常幹4人の墓穴を掘ることにならないのか。もっとも、彼らは、これをしない限り、来年2007年4月統一地方選と7月参議院選挙でさらなる惨敗結果に繋がると恐怖に打ち震えている。よって、この全党討論を指令せざるをえないとも言える。

 

 過去3回分の選挙結果を見ても、その恐怖ぶりが分かる。

 4月統一地方選()44道府県議、98→152→107()12政令市議、92→120→104

 7月参議院選挙()当選議員、15→5→4()比例区得票率、14.60→7.91→7.80

 

 過去4回の小選挙区比例代表並立制総選挙結果を振り返れば、さらに鳥肌が立つ

 総選挙議席数26→20→9→9議案提出権喪失・党首討論権喪失

 比例区得票率12.55→11.23→7.76→7.25

 

 もっとも、常幹4人は、議席9→9と、比例区得票率7.76→7.25「善戦・健闘」と自己讃美の評価をした。そして、常幹トップの誤りを認めず、何の自己批判もしなかった。筆坂著書における常幹選挙総括の欺瞞的手口を読む党員たちが、その説得力に賛同すれば、意図的な選挙サボタージュが激増する。筆坂著書「第5章」における「ご都合主義の選挙総括、責任回避のレトリック、疲弊する党員たち」の自己批判的な指摘(P.154〜166)にたいし、私(宮地)は、愛知県選対部員だった専従として全面的に賛同するからである。

 

 常幹4人が、来年2007年4月統一地方選と7月参議院選挙に向けての決起の掛け声をいくら挙げても、かなりの党員たちが白け、選挙に取り組む意欲を失う。代々木ビル内の3グループ潜在発覚が象徴する党本部からの内部崩壊とともに、支部・党員レベルにおける内部崩壊現象が深化し、表面化する。これら党中央・下部における同時メルトダウンとともに、「科学的社会主義」テリトリー(領域)からの党員・読者・支持者の党外逃散とが重なれば、日本共産党はどうなるのか。それは、資本主義国で唯一残存しているレーニン型前衛党の5原則堅持政党の党内外崩壊に繋がるのか。

 

    ブログ『小隊長日記』の内、不破タソ、浜野タソのウソ「反論」は無駄w 支部討論レベル

    『参院選で動く党員と反発サボタージュする党員』2004年参院選で発現した党内現象

    『統一地方選、参議院議員選挙結果とその分析』ファイル多数

 

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 〔関連ファイル〕

    『筆坂秀世「悩める日本共産党員のための人生相談」』

           Q&Aによる悩む力を鍛える『日本共産党』第2弾

           筆坂秀世と私の経歴・立場の違いからくる主張の隔絶度合

    『筆坂秀世「政治的暗殺事件」とその謎とき仮説』常幹4人「党内脅迫ファックス」に屈服

    『筆坂「政治的暗殺」から「外部飲酒禁止令」へ』常幹4人の党運営に関する『哲学の貧困』

    Google検索『筆坂秀世 日本共産党』63100件

    行政調査新聞『あきれた粛清劇、筆坂氏失脚の深層』

    有田芳生『共産党は筆坂氏の発言に答えるべきだ』週刊朝日2006年5月19日号

    ブログ『小隊長日記→最近の戦況報告』筆坂問題のコメント・投稿多数