レーニンによる分派禁止規定の国際的功罪
1921年クーデター政権崩壊危機とレーニン選択の4作戦
分派根絶・一枚岩統一功績と党内民主主義抑圧犯罪の二面性
レーニンがしたこと=少数分派転落・政権崩壊に怯えた党内クーデター?
(宮地作成)
〔目次〕
1、暴力革命秘密結社・暴力革命政党の組織原則の変遷経緯3段階
2、レーニン1年9カ月間の分派禁止規定功罪とスターリン時代の功罪
=レーニンの自己保身目的による党内クーデター?
3、イタリア共産党・フランス共産党における功罪と放棄の背景・理由
4、日本共産党における役割と党内民主主義抑圧=トップ自己保身の犯罪武器
5、異なる潮流包摂の民主主義政党転換拒絶によるじり貧的瓦解の果て→自然死
〔関連ファイル〕 健一MENUに戻る
『スターリンは悪いが、レーニンは正しい説当否の検証』ファイル多数
『レーニン「分派禁止規定」の見直し』1921年の危機、クロンシュタット反乱
『レーニンが追求・完成させた一党独裁・党治国家』他党派殲滅路線極秘資料と性質
レーニンがしたこと=政治的民主主義・複数政党制への反革命クーデター
検閲システム確立と国内外情報閉鎖=鉄のカーテン国家完成
レーニンがしたこと=民主主義・自由廃絶の反革命クーデター
稲子恒夫『1920、21年のソ連とソ連共産党年表』ボリシェヴィキ不支持者・政党の浄化
大藪龍介『党内分派禁止と反対政党の撲滅。民主主義の消滅』1921年
リチャード・パイプス『19212年危機−党機構官僚化と分派禁止』
『コミンテルン型共産主義運動の現状』ヨーロッパでの終焉とアジアでの生き残り
『イタリア左翼民主党の規約を読む』添付・左翼民主党規約
『フランス共産党の党改革の動向と党勢力』選挙連続惨敗での党改革でも、じり貧的瓦解
『前衛党式排除・粛清システムと査問の考察』ファイル多数
1、暴力革命秘密結社・暴力革命政党の組織原則の変遷経緯3段階
レーニン型前衛党の基本は、暴力革命による権力奪取と一党独裁・党治国家による社会主義建設である。ただし、1991年ソ連崩壊後、1917年10月は、革命ではなく、レーニン・トロツキーらによる単独武装蜂起・単独権力奪取クーデターだったという実相が証明された。これは、(1)ヨーロッパの旧共産党・左翼・研究者の常識になっている。また、(2)日本においても、加藤哲郎・中野徹三・梶川伸一・稲子恒夫ら研究者4人が、著書において、クーデター説への転換を公表している。
そこから、ソ連とは、社会主義政権ではなく、不法なクーデター政権=反民主主義の一党独裁・党治国家だったと10月以降の政権規定が180度逆転した。暴力革命秘密結社・暴力革命政党の組織原則は、3段階の変遷を遂げてきた。その経緯を確認する。
〔小目次〕
〔第1段階〕、暴力革命秘密結社の組織原則=陰謀的集権型
〔第2段階〕、ボリシェヴィキの当初組織原則=民主主義的中央集権制
〔第3段階〕、分派禁止規定と民主主義的中央集権制との一体化への変質
1921年クーデター政権崩壊危機とレーニン選択の4作戦
〔第1段階〕、暴力革命秘密結社の組織原則=陰謀的集権型
加藤哲郎『社会主義と組織原理1』(窓社、1989年)から一部引用する。彼は、19世紀社会主義運動の組織原理が4つあったとした。その一つ「陰謀的集権」型−ブランキ派の四季協会の組織原理(P.36)を載せる。
ここにみられる組織原理は、社会と国家に対するバブーフ的平等主義の主張と、カルポナリ的陰謀性の結合であり、「友愛的平等」型の対極にたつ。(1)「人民自身による人民政府、すなわち共和政」を目的にするが、「しばらくの間は人民は革命的権力を必要とする」として、この理想社会を少数精鋭の武装蜂起による現存国家の即時打倒・軍事革命政権樹立により実現しようとする目的と手段との鋭い緊張関係、(2)死をも恐れぬ既存国家・社会体制への憎悪と、革命遂行のための厳しい軍事的組織規律。
(3)家族や友情も超えた組織への絶対的忠誠・献身と秘密保持義務、(4)指導者・上級組織への絶対服従と成員間の匿名性、水平的交流の排除、(5)組織決定の絶対性と権利なき義務の遂行、自己犠牲精神、(6)厳格な入会資格と秘教的入会儀式、脱退権の欠如と裏切者への死刑−これらが、「陰謀的集権」型組織の特徴であり、社会主義運動の組織原理の、いまひとつの出発点となる。
加藤哲郎『ローザ・ルクセンブルクの構想した党組織』19世紀社会主義運動の組織原理4つ
〔第2段階〕、ボリシェヴィキの当初組織原則=民主主義的中央集権制
以下も加藤哲郎同著書の抜粋・引用である。これは、共産党の指導的役割を前提として、その政党の組織原理である民主主義的中央集権制が絶対化され、政党の組織原理に留まらず、国家および社会の組織原理にまで拡延されるメカニズムである。
民主主義的中央集権制(Democratic Centralism)とは、(1)党の上から下まですべての指導機関の選挙制、(2)党組織にたいする党機関の定期的報告制、(3)厳格な党規律と多数者への少数者の服従、(4)下級機関および全党員にとっての上級機関の決定の無条件的拘束性、と規定されるものである(この四項目は、スターリン時代の一九三四年ソ連共産党規約第一八条の規定であるが、それは、今日までおおむね踏襲されている)。
この規定は、文面だけなら、一見、近代的・合理的組織一般にも通用する「民主主義」に「中央集権制」の契機を結合したものにみえる。しかし、コミンテルンの加入条件二一カ条の第一二条が明記していたように、民主主義的中央集権制の世界化は、「現在のような激しい内乱の時期には、党が最も中央集権的に組織され、党内に軍事的規律に近い鉄の規律がおこなわれ、党中央部が、広範な全権を持ち、全党員の信頼をえた権能ある権威ある機関である場合にだけ、共産党は自己の責務を果たすことができる」という論調を起源にする(P.19)。
この性質は、暴力革命秘密結社の絶対的軍事的中央集権制(Centralism)にたいし、その継承として暴力革命のための軍事的集権を基軸としつつも、選挙制と定期的報告制という民主主義的要素(Democratic)とを付加した組織原則である。ただ、Democratic Centralismの党運営実態は、1921年3月レーニンの分派禁止規定と一体化する前にも、Democratic要素は形骸化し、官僚的軍事的Centralismに変質していた。
レーニン・トロツキーらによる1917年10月単独武装蜂起・単独権力奪取クーデター後、3年5カ月間で早くも、国家・党内に発生した官僚化実態を批判し、民主主義的要素を復活・強化せよと主張したのが、1920年〜21年3月第10回大会における「民主主義的中央集権派」である。これは、「民主的中央集権派」とも言う。
党大会の分派禁止規定決議により、レーニンは分派即時解散を指令した。レーニンは、彼らを解散させただけでなく、もう一つの主要分派「労働者反対派」党員を合わせ、1921年夏そのほとんどを除名した。その規模は当時のボリシェヴィキ党員の約20%〜24%除名になった。スターリン時代の1936年前後の大テロル時期になると、スターリンは、ロイ・メドヴェージェフ資料にあるように、それら被除名党員約100万人全員を、過去の分派禁止規律違反レッテル→「人民の敵」とでっち上げで銃殺した。これについては、下記でも検証する。
〔第3段階〕、分派禁止規定と民主主義的中央集権制との一体化への変質
1921年クーデター政権崩壊危機とレーニン選択の4作戦
1991年ソ連崩壊後、「レーニン秘密資料」6000点や膨大なアルヒーフ(公文書)の発掘・公表により、レーニンが1917年10月にしたことは、革命でなく、単独武装蜂起・単独権力奪取クーデターだったとする歴史認識が、ヨーロッパの左翼・有権者や世界・日本研究者の常識になった。しかも、レーニン・トロツキーらが遂行した社会主義政治経済路線や政策は、秘密政治警察チェーカーとその赤色テロルを権力維持システムの中核とする根本的な誤り、ロシア革命勢力数十万人大量殺人犯罪を含んでいた事実も判明した。
レーニンらの誤った路線・政策・赤色テロルにたいする80%・9000万農民、労働者、水兵の不満、批判が、1918年5月食糧独裁令以来急速にソ連全土に広がった。それは、(1)1920年から21年、タンボフ・西シベリア・ウクライナを中心とするソ連全土の農民反乱となった。(2)同時期における多数の労働者ストライキは、1921年2月ペトログラード全市的ストライキになった。さらに、(3)2月から3月にかけクロンシュタット兵士・労働者14000人の総決起が始まった。赤色テロル型クーデター政権は、クーデター後わずか3年5カ月間で政権崩壊の危機に直面した。
その期間において、法治国家を廃絶した党治国家における官僚化進行とともに、一党独裁政党内における官僚化も深まった。また、プロレタリア独裁といいながら、労働者や労働組合が国家・共産党内部で排除される傾向が目立った。プロレタリア独裁成立とは、レーニンのウソ・詭弁で、その実態は、党独裁だったからである。トロツキーの労働軍事化方針への批判・怒りが沸騰した。党内におけるそれらへの不満・批判は、農民・労働者・兵士らロシア革命勢力の総反乱と呼応するかのように、2つの分派を産み出した。それにたいし、レーニン・トロツキーは主流派2分派を形成した。
(1)国家運営・党機関からの労働者・労働組合排除傾向やトロツキーの労働軍事化方針にたいし、批判党員らは強力な労働者反対派を形成した。(2)党治国家・一党独裁政党内で強まった官僚的中央集権の強化傾向にたいし、批判党員らが民主主義的中央集権派に結集した。これは、民主的中央集権派とも言う。
主流派において、(3)トロツキーは、鉄道交通担当の経験から、あくまで労働軍事化方針の正しさに固執し、労働軍事化推進のトロツキー派になった。(4)レーニンは、3つの分派に反対し、批判しつつ、レーニン主流派を維持した。しかし、レーニンのトロツキー批判は方法論など一部だった。
1920年3月、2000企業「軍隊化」での労働者ストライキ激発と弾圧
かくして、1920年から21年3月第10回大会にかけ、4分派が発生し、党内論争を展開していた。4分派相互の力関係は微妙だった。主要な党内闘争は、労働者反対派にたいする、レーニン主流派と、労働軍事化のトロツキー派が結束してたたかったことである。副次的に、レーニン主流派と労働軍事化のトロツキー派が対立し、批判し合った。ただし、これらはあくまで党内論争であり、彼ら4分派党員とも、一党独裁クーデター権力政党党員として、党外の社会主義他党派弾圧・殲滅、ロシア革命勢力である農民・労働者・兵士反乱鎮圧と赤色テロルを全面的に支持していた。
第10回大会の直前に勃発したクロンシュタット事件における水兵・労働者14000人皆殺し方針に、すべてのボリシェヴィキが賛成した。労働者反対派党員・党大会代議員たちも、鎮圧部隊に志願した。1920〜21年、ロシア革命勢力総反乱によってクーデター政権が崩壊危機に瀕しているという認識は全分派が一致していた。
一党独裁政党・党治国家における4分派論争が続き、党が内部分裂すれば、クーデター政権そのものの崩壊に直結することも、全4分派党員が分かっていた。一党独裁政権放棄→連立政権への後退・敗北でなく、党治国家のままで生き残る道は何か。そこには、4つの生き残り作戦しかなかった。以下の作戦には、レーニンだけでなく、4分派ボリシェヴィキ党員全員が、クーデター政権崩壊を回避する方策として賛成した。それらの作戦に反対したボリシェヴィキ幹部・党大会代議員がいたという情報はない。
〔作戦1〕、ソ連全土に燃え広がった食糧独裁令反対の農民反乱を鎮めるためには、80%・9000万農民の要求をやむなく受け入れ、商業・市場の自由であるネップ路線に転換・後退する。農民要求への譲歩=資本主義的市場経済への一時的後退と承認なしには、政権を持ちこたえることは不可能になった。ただ、問題は、どのレベルまで、いつまで後退を続けるのかというテーマだった。
〔作戦2〕、ただし、ネップという譲歩・後退を示しつつも、タンボフ・西シベリア・ウクライナなどソ連全土における反乱農民を殲滅する。ストライキ労働者を銃殺・強制収容所送りにする。クロンシュタット反乱の水兵・労働者14000人は皆殺しにせよ。
〔作戦3〕、エスエル・左翼エスエル・メンシェヴィキの中央役員だけでなく、全党員を赤色テロルで絶滅させる。なぜなら、ネップの内容は、食糧独裁令実施の1918年5月時点から、それに反対する全他党派が農民とともに要求していた政策であり、それをボリシェヴィキが2年10カ月後に認めたことは、他党派主張の正しさを明らかにすることになる。そこから、他党派は、一党独裁を掘り崩す最大の敵対勢力に発展する危険性が高まった。一党独裁を続けるためには、それを以前から主張していた政党・党員を壊滅させる必要が強まったからである。
『レーニンが追求・完成させた一党独裁・党治国家』他党派殲滅路線極秘資料と性質
レーニンがしたこと=政治的民主主義・複数政党制への反革命クーデター
〔作戦4〕、それらの作戦だけでは足りない。クーデター政権崩壊から逃れるためには、この際、党内分派論争を力づくで廃絶し、一党独裁政党の党内統一=党内批判・異論を犯罪とする一枚岩政党化を図る。それが、分派禁止規定である。それは、党内批判・異論者の絶滅であり、党内民主主義を完全抑圧する規定を第10回大会最終日3月16日のレーニン緊急提案で決定した。
分派禁止規定と民主主義的中央集権制とを一体化させた共産党に大転換する。この一体化は、党内民主主義がまだ一定保証されていた体質から、国家・社会にたいする党独裁の共産党を、今度は、党内にたいするレーニン・トロツキー2分派独裁の党内民主主義抑圧犯罪政党に変質させた。
大藪龍介『党内分派禁止と反対政党の撲滅。民主主義の消滅』1921年
かくして、レーニン・トロツキーらクーデター政権は、(1)農民への経済面における譲歩ネップの一方、(2)政治面における党内分派禁止と反対政党撲滅によって、民主主義を消滅させる犯罪政党・党治国家となった。
2、レーニン1年9カ月間の分派禁止規定功罪とスターリン時代の功罪
〔小目次〕
1、第10回大会分派禁止規定前後1月〜4月の稲子恒夫年表・抜粋
4、けた外れの大量除名が示す分派禁止規定の第2目的疑惑=レーニンの自己保身目的による党内クーデター
1、第10回大会分派禁止規定前後1月〜4月の稲子恒夫年表・抜粋
稲子恒夫『ロシアの20世紀』における第10回大会前後1月〜4月の年表を抜粋し、レーニンが分派禁止規定を党大会最終日に緊急提案したクーデター政権崩壊危機の歴史的背景を確認する。日本語表記の違いがあるが、稲子著書のまま載せる。
〔1921年1月〕
1.19 [極東共和国] 憲法制定会議選挙.議席総数382,内訳は農民多数派(主にパルチザン)183,農民少数派44,ボリシェヴィキー92,エスエル18,メンシェヴィキー13,プリヤート人代表13,無党派民主主義者8,シベリア・エスエル6,人民社会党.無所属1.→2.12〜4.2
1.31 西シベリアで武力による食糧割当供出反対の農民反乱始まる.3.6人民反乱軍.シベリア住民への呼びかけ.3.15トボーリスク農民市ソビエト規定.「共産主義者なしのソビエト」を要求.反乱地域はチュメーニ県,オームスク県,エカテリンブールグ県と,モスクワ,極東地方間の電信とシベリア鉄道が一時中断.3月大半の地域で反乱鎮圧.12月完全鎮圧→6.2
1月 モスクワで金属労働者協議会,言論の自由を要求しソビエト政権の崩壊を予言
1〜2月 ペトログラードでパン配給削減に抗議の集会,ストライキ,デモ広まる.→2.21
〔2月〕
2.5 『プラウダ』紙に.レーニンが書いた「教育人民委員部の体系に勤務する共産主義者への中央委員会指令」,大学に旧専門家を勤務させるが,「一般教育科目,とくに哲学,社会科学,共産主義教育の内容は共産主義者だけが決定する」.→3.8
2.8 (極秘) 政治局・農業人民委員部次官オシーンスキーの報告を聞き,食糧調達政策の転換を記すレーニンのメモ「農民テーゼの予備的草案」に同意.出席政治局員はレーニン,カーメネフ,スターリン,クレスティーンスキーの4人.
2.17 『プラウダ』紙に,ソコローフ,ローゴフ「割当供出か税か」,新経済政策を予告
2.21 ペトログラードの93工場,燃料不足で月末まで操業停止.労働者総会が民主主義への移行を決議.2月下旬ペトログラードのいくつかの工場で「騒動」とストライキ.→2.24
2.22前 (極秘) レーニン,クレスティーンスキー(政治局員,財務人民委員)への覚書で,緊急措置作成のため秘密委員会を作り,ひそかにテロを用意し,人民委員会議を通すか,別のかたちでの決定を提案.◆この文書には日付がないので,これを最初に公表した米国のパイプス編『知られていなかったレーニン』(英文,1996)は,緊急措置,テロという言葉から,18.9.5の赤色テロの人民委員会講決定に関係するものとして,18.9.3または4のものと推定した.
しかしレーニン『知られていなかったレーニン.1891〜1922年』(1999年)は,この覚書が委員会のメンバーとしてあげている者が,「経済部門人民委員都の活動への秩序導入の人民委員会議決定」草案の作成委員会(20.10活動開始)の主要メンバーであり,21.2.22人民委員会議が経済部門人民委員都合同委員会の報告を聞いているので,この覚書は22.2.22前のものとしている.レーニンは委員会の仕事がはかどらないので,秘密委員会を作って事態を打開するよう指示したのだろう.
2.22 (極秘) 中央委員会,新経済政策準備の作業グループの報告を承認.→3.8
2.22 リャザーン,カルーガ,オリョール,トゥーラ,ツァリーツィンの各県住民の飢餓救済委員会設置の全ロシア中執委幹部会決定.国外での食糧買い付けに1000万金ルーブルを計上
2.24 ペトログラードに非常事態宣言
2.28 (極秘) 反革命との闘争強化のヴェチェカー命令.「エスエルとメンシェヴィキーが,きびしい生活状況に対する労働者の自然の不満を利用し,ソビエト権力とロシア共産党に対するストライキ運動を呼びかけ,それに組織的,全ロシア的性格をあたえている」とする
2.28 クロンシュタートの反乱始まる.→3.2,3.18
2月 鉱山労働組合協議会(代議員の60%が共産党員),商業の自由化を要求
〔3月〕
3.1 戦艦ペトロパーヴロフスクとセヴァストーポリの乗組員集会,ソビエトの即時・自由な改選,言論と報道の自由,全政治犯の釈放,没収の中止,商業の自由,買出取締隊の廃止などを決議
3.1 クロンシュタートでメンシェヴィキーと無政府主義者の代表からなる臨時革命委員会設立
3.2 クロンシュタートにおける社会革命党,白衛派の反乱の政府公報
3.2 レーニンとトローツキーが署名の労働防衛会議決定.3.1の乗組員集会の決議を「黒百人組・社会革命党的」と呼び,指導者とその一味を「法律の外」におくと宣言
3.8 トゥハチェーフスキー指揮の赤軍,クロンシュタートを攻撃,失敗
3.8〜16 第10回ロシア共産党大会.農民反乱とクロンシュタートの反乱のなかで新経済政策決定,政治の民主化は拒否.新経済政策(NEPネップ)への急転換
3.15 割当供出の現物税へ変更の決定.
3.16 党内のサンジカリスト・無政府主義的偏向の決定.党の統一の決定(党内分派禁止第7項(分派活動の発起人は厳罰)は秘密とされ,1924年に公表).労働組合の役割と任務の決定
3.17 執行機関に単独責任制実施の人民委員会議布告.人民委員部審議会の決定権を否定し,人民委員の責任明確に
3.18 クロンシュタートの反乱の鎮圧終わる.3.20臨時トローイカ(3人委員会),戦艦ペトロパーヴロフスク乗組員167人の銃殺を決定,刑即時執行.3.21同艦で32人銃殺.3.24同艦で27人銃殺.夏まで反乱参加者銃殺2103人,刑務所拘禁,流刑計6549人,のち全員銃殺.⇒1921年春のクロンシュタート市の事件についてのロシア連邦大統領令(94.1.10).200頁
3.21 食糧,原料の割当供出から現物税への変更の全ロシア中執委布告
3.23 全農民への全ロシア中執委・人民委員会講の呼びかけ.食糧割当供出廃止,現物税への移行を告げる
3.28 食糧割当供出廃止県の農産物の交換,売買の自由の人民委員会議布告
第1四半期(1〜3月) (極秘) ヴェチェカーの活動総括によると,銃殺4300人(クロンシュタートをのぞく).中央12県の農民反乱を鎮圧,とくにヤロスラーヴリ,サラートフ,サマーラ,カザーン,クールスクで大量銃殺.モスクワでは1月だけで347人銃殺.エカテリンブールグで集中収容所から6人脱走,他の者の教訓のため元将校25人を選んで銃殺.オリョールでギムナジウム生徒27人を裁判,5人銃殺
3.30 労働部隊についての労働防衛会議決定.5月に労働軍を労働人民委員部に移管
〔4月〕
4.4 (極秘) 地方党組織への党中央委書簡,県委員会と県非常委員会は一体になって反革命行動に対する警戒と防止を指示
4.6 (極秘) 政治局,赤軍50万人削減にともなう復員に鉄道利用の余裕がないので,徒歩による復員を決定
4.12 (極秘) 政治局,ウフター(現コーミ共和国内)に集中収容所設置を承認
4.21 (極秘) レーニン,ゼルジーンスキーにヴェチェカーによる次の措置の計画作成を指示.(1)社会革命党の絶滅,彼らの監視強化,(2)メンシェヴィキーも同様,(3)共産党の浄化,ぐらついている共産主義者は失せろ,(4)サラートフ.サマーラ両県の浄化,(5)特別任務隊の浄化(19.4.17参照),(6)地方の軍学校生徒の浄化,(7)農村の国家権力機構の浄化.→6.4
稲子恒夫『1920、21年のソ連とソ連共産党年表』ボリシェヴィキ不支持者・政党の浄化
2、レーニンによる分派禁止規定の論旨とラデック賛成発言の性質
「党の統一について」決議は、もともと第10回党大会の議事日程で予定されていなかった。それを、1921年3月16日大会最終日の会議で、レーニンがいわば緊急動議のかたちで提出した。
大会は、なにかある政綱に基づいてつくられた諸グループ……は、例外なくすべて解散することを宣言し、また、それをすぐに解散するように指令した。大会のこの決定を遂行しないものは、無条件にまた即座に、党から除名されなければならないと決定した。
それだけでなく、「フラクション禁止」の第7項は、まさに前衛党そのものを変質させる根本的誤りだった。レーニンは、その7項目規定によって、党内での批判の自由、党内民主主義の実質的抑圧に決定的な一歩を踏み出した。あまりにも誤った非常事態規定だけに、レーニン自身が、その第7項だけを、大会以外への公表を禁じ、秘密条項とするよう提起した。
秘密第7項の内容は、次である。党内に、また、ソヴィエトの全活動のうちに厳格な規律を打ちたてるため、また、あらゆる分派結成を排除して、最も大きな統一を成し遂げるために、大会は、規律の違反とか、分派の発生や黙認とかの場合には、党からの除名をふくむあらゆる党処罰の措置をとる。また中央委員については中央委員候補に格下げするとか、非常措置としては党から除名さえする全権を中央委員会に与える。
これは、党組織の歴史における大転換点だった。党大会で選出され、したがって大会でしか格下げ、除名できない中央委員にたいする処分権を中央委員会に与えるという非常事態規定である。これらの規定によって、レーニンは、党内民主主義を抑圧する道をスターリンに先駆けて、切り開いた。スターリンは、3年後の1924年、レーニン死後、秘密条項を解禁した。それによって、この規定を公然とした恒常的規定に格上げし、分派禁止規律違反レッテルによる政敵排除に全面的に活用した。
R・ダニエルズは『ロシア共産党党内闘争史』(現代思潮社、1982年、原著1959年)において、「党統一の鍛造」(P.117〜123)として分派禁止規定の背景、性格を以下のように分析している。レーニンの発言とトロツキー派のラデック発言など、その一部を抜粋・引用する。出典(注)が多数あるが、すべて英語かロシア語なので省略する。
クロンシュタット叛乱は、党指導部に、極左反対派の挑戦に止めをさすために、即時の断固たる措置をとることを強いた。彼らの戦術は、共産党内極左派をクロンシュタットで働いたとされる反革命的影響と同一視することであった。反対派中もっともダイナミックで危険な部分としての労働者反対派は、主要な攻撃の対象として選び出された。レーニンは、第一〇回党大会の開会演説で、労働者反対派を、革命の安全にたいする脅威として非難した。レーニンは、彼の報告結語のなかで次のように宣言した、サンディカリスト的偏向、すなわちアナーキスト的偏向であり、プロレタリアの背後に身をかくしている「労働者反対派」、すなわち小ブルジョア的・アナーキスト的自然発生性であるということは誰でも知っている筈である。
大会は、検事の装いを帯び、被告たちを告発通り有罪と認めた。偏向はいくぶんは、以前のメンシェヴィキや、さらに共産主義的な世界観をまだ十分に身につけていない労働者や農民が、党の隊列に入ってきたことによるものであるが、主としては、この偏向は、プロレタリアートに対する、またロシア共産党に対する小ブルジョア的自然発生性の影響によるものである。
党指導部は、この「小ブルジョア的」という告発がでっちあげであることを確かに承知していた。
第三番目に、労働者反対派は不十分に革命的であり、そして、極端に革命的であるという非難に加えて、正しい形で革命的ではなく、アナルコ・サンディカリズムに向って偏向していると非難された。いかにも、常に、アナルコ・サンディカリズムとボリシェヴィキ思想の左翼との間には、ある種の類似が存在していた。レーニン自身、一九一七年には、彼の『国家と革命』の綱領的急進主義をもってアナーキスト的精神にとりつかれていた。
レーニンの眼に映った、労働者反対派の政治的罪悪の最たるものは、共産党の覇権を疑問視することなのだった。大会は、この点での正統性を、次のように宣言した−マルクス主義が教えるところ−もっと正確にいえばレーニン主義なのだが。
そして、この教え……わが国の革命によって実践的にも確証されている−によれば、労働者階級の政党、すなわち共産党のみがプロレタリアートおよび勤労大衆全体の前衛を統合し、そだて、組織することができるのであって、この前衛だけが、勤労大衆の避けられない小ブルジョア的動揺や、プロレタリアートの間の職業組合的な偏狭さ、あるいは職業組合的偏見の避け難い伝統や再発に対抗でき、プロレタリアート全体の統合された活動全体を指導すること、すなわち、プロレタリアートを政治的に指導し、プロレタリアートを通じて勤労大衆全体を指導することができるのである。これなしには、プロレタリアートの独裁は実現できない。
プロレタリアートは、自身では、単なる労働組合意識の水準を超えることは不可能だとされた。このことに異議を差しはさむことは、そのプロレタリアならば犯すはずのないマルクス主義からの許し難い理論的後退なのであった。
第一〇回大会の決定的課題、目的は、極左反対派の諸グループ、特に労働者反対派への非難を強めることであった。結果として、公然とした合法的な反対のための将来の可能性は、実質上抹殺されてしまった。それ以後、すべての反対派運動は、自らの反対派的性格を否定し、共産主義の政治的作法の新しい基準に適合させる必要によって、不具にされた。
大会は、党の隊列の統一と団結が……一連の事情のため国内の小ブルジョア的住民の間に動揺が強まっている現在では、特に必要であるという事実にたいして全党員の注意を喚起する。……すべての自覚した労働者が、どんなものでも分派は有害であり、許しえないということを、はっきりさとる必要がある。分派というものは、たとえ個々のグループに属する者がどんなに党の統一を保とうと望んでいるにせよ、実際には協力一致した活動を必ず弱め、また、政府党内に入りこんでいる党の敵が、分裂を深め、それを反革命のために利用しようとますます激しく繰り返して試みる結果をもたらすものである。
次の一歩は、論理的に新しい組織原則を強化するためのものであった。
三分の二の票が、このような非常措置をとる条件であった。この決議の重要性は、強調してなお余りあるものだ。それは、党の組織の歴史での転換点なのであった。
党の組織原理におけるこの変更の意味合いは、大会でカール・ラデックが行なった注目すべき演説のなかで明らかにされた。ラデックは、中央委員会と中央統制委員会とに与えられた権力について不安だと告白した。
私は、一つの規則が、ここで確立され、それが誰にたいして適用されるのかについて、いまだにわれわれは不確かであるという感じを抱いた。というのは、中央委員会が選出された時に、多数派出身の同志たちが、彼らに支配を与える名簿を構成していたからだし、また同志の誰もが、それが党内紛争の初めに行なわれたのを知っている。われわれは、この原則が、どんな具合に実行されるのか、どんな面倒が生じるのか、いまだに知らない。
だが、この規則を提案している同志諸君は、それが異なった考え方をする同志たちを狙う剣だと考えている。それでも私は、この決議に賛成投票する。私は、それがわれわれにたいして向けられさえするかもしれないと感じている。しかし、それにもかかわらず私は決議に賛成する。
この逆説的な立場を説明するために、ラデックは、党とソヴィエト政権がおかれていた目下の危険な情勢に言及した。このような瞬間にこの剣が誰に向けられるかに関わりなく−このような瞬間には、この決議を採決し、そして次のようにいう必要があるのだ、危機にあって中央委員会をしてそれを必要と認めるならば、最良の同志たちにたいして、最も苛烈な措置をとらさしめよ、と。中央委員会の明確な路線が肝心なのである。最良の中央委員会といえども誤るかもしれない。だが、それは今われわれが見ている動揺より危険ではないのだ。
ここには、大粛清裁判を通じての自白において頂点に達した論法−制度としての党への忠誠行為がある。この背景によって、その後の反対派運動は、その主張を成功に導くために必要とされた、目的の単一性を呼び起すことが決してできなかった。
第一〇回大会による中央集権的諸原則の確認は、少なくとも言葉のうえでは「労働者民主主義」という理想を排除しなかった。彼は、党を分裂させた諸問題をいっそうこじらせたにすぎず、また同時にいずれはあらゆる種類の抗議を根絶するために用いられるようになる権力の手段を創り出したにすぎなかったことに、気がつかなかったのではなかったか。
『レーニン「分派禁止規定」の見直し』1921年の危機、クロンシュタット反乱
大藪龍介『党内分派禁止と反対政党の撲滅。民主主義の消滅』1921年
3、レーニン1年9カ月間の分派禁止規定功罪データ
1年9カ月間とは、1921年3月16日分派禁止規定決議から、レーニンが第2回脳梗塞発作で最高権力者活動が不可能になる1922年12月16日までを指す。
分派禁止規定は、クーデター政権が崩壊危機に直面した時点において、たしかに党内の批判・反対派2分派を解散させ、党内分派固定化を回避し、党統一を固めた。その面で、分派禁止規定決議の効用があった。
しかし、それは裏側の半面として、批判・異論を犯罪視する一枚岩政党化を進めた。あらゆる異論と不一致の表現を党に対する最も重大な犯罪とみなすという第11回大会におけるレーニン指令により、党内批判の自由権は奪われた。その結果、それは、党内民主主義を抑圧し、レーニン主流派・トロツキー派にたいする批判・不満発表の全面禁止となった。それだけでなく、レーニンは、他2分派党員を狙い撃ちにし、約20〜24%もの大量除名を強行した。分派禁止規定によるその功罪2面性をどう評価するのか。
レーニンは、この決議と大量除名によって、共産党を反民主主義政党に変質させた。Democratic
Centralismといっても、民主主義的中央集権派が批判したように、クーデター3年5カ月後には、党治国家・一党独裁政党とも官僚化が進み、官僚的 Centralismへの腐敗が強まっていた。その分派禁止規定と官僚的Centralismとが一体化したらどうなるのか。レーニンは、共産党を、分派禁止規定の批判・異論抑圧犯罪性を機軸とする反民主主義的な中央集権制という組織原則政党に変質させたと規定できる。上記〔作戦4〕の実態をもう少し詳しく検証する。
〔作戦4〕、1921年夏、「秩序ある後退」をするために、党内規律強化と党員粛清・大量除名を決行
ネップ発令の第10回大会で、分派禁止規定を大会最終日に、レーニンが突如提案し、決定した。そして、1921年夏前後、レーニンは、党の頂上から底辺までの粛清を指令した。除名党員数データは、さまざまである。(1)P・アヴリッチは、全党員のほぼ4分の1を除名(『クロンシュタット1921』P.273)としている。(2)ダンコースは、党員の24%、136836人を規律違反・重大な誤ち・不活動で除名(『ソ連邦の歴史1』P.223)と書いた。(3)『ロシア史(新版)』は、約20万人を除名(P.482)と推定している。(4)稲子恒夫は、約20%を除名(『ロシアの20世紀』)とした。
シャルル・ベトレーム『ソ連の階級闘争、1917〜1923』(第三書館、原著1974、絶版)は、次の事実も書いている。除名キャンペーンと除名決定は、中央審査委員会・地方審査委員会で行われた。それにより労働者反対派のほとんどが党から追放された。しかし、レーニンは、除名対象者の調査・リストアップをチェーカーにもやらせた。この瞬間から、レーニンは、チェーカーを、(1)ソ連国民向けの赤色テロルオルガンから、(2)ボリシェヴィキ党内における党員向けの秘密政治警察の役割も備える機関に変身させた。
レーニンは、1922年3月においても、この後退、退却観を堅持していた。R・ダニエルズ『ロシア共産党党内闘争史』(P.131)を、そのまま引用する。一九二二年の三月末から四月はじめにかけて開催された第一一回党大会は、レーニンの指導下における最後の党大会であった。更にいっそうの団結と規律というのが党指導者の考えた主要なテーマであった。
レーニンは時を移さず、党の団結を維持するには無慈悲さが必要なのだと断じた。もし人々が狼狽をもちこむならば―こういう瞬間には、どんなわずかな規律紊乱も、厳重に、手ひどく、容赦なく罰する必要がある。ネップは一種の退却であるから、党の隊列における秩序はそれだけますます必要である。本物の軍隊にこのような退却が行なわれるときは、機関銃をすえる。そして正常な退却が無秩序な退却になっていくときには、「射て!」という命令がくだる。しかもそれは正しいのである。
レーニンは反対派活動の弱まりを認めたが、代議員たちは分派主義を根絶するために倍旧の努力を献げるように要請された。党全体とその地方諸組織の全権力をあげて、党の組織を分裂させるあらゆる種類の現われと決定的な闘争を行なわねばならない。…党全体が、あらゆる異論と不一致の表現を党に対する最も重大な犯罪とみなさねばならない。
大藪龍介『党内分派禁止と反対政党の撲滅。民主主義の消滅』1921年
4、けた外れの大量除名事件が示す分派禁止規定の第2目的疑惑=レーニンの自己保身目的による党内クーデター?
(1)レーニン最高権力者分派と(2)トロツキー「労働の軍事化」路線分派は生き残った。(3)労働者反対派と(4)民主主義的中央集権派は、分派禁止規定と、それによる4カ月後の大量除名事件によって壊滅させられた。除名の規模・比率が、いかにけた外れで異様なのかは、上記研究者4人のデータが証明している。
当時のソ連共産党(ボリシェヴィキ)党員は、約57万人だった。除名党員比率と人数データを、少ない順に並べると、稲子恒夫20%・11万人、ダンコース24%・136836人、P・アヴリッチ25%・14万人、『ロシア史(新版)』35%・20万人となる。
たしかに、ダンコースが指摘するように、規律違反・重大な誤ち・不活動など、一党独裁政党に出世目的で入党した者もいる。除名名目がどうあろうとも、レーニン・トロツキーら主流2分派が、反主流2分派党員のほぼ全員を、しかも、ベトレームが発掘・暴露したように、秘密政治警察チェーカーを党内向け警察に変質・転用し、除名したのは間違いない。
それ以前に、レーニン直轄で、ジェルジンスキー指揮下のチェーカーは、他党派殲滅システムとして、他党派を絶滅させ、一党独裁・党治国家を構築した赤色テロル機関だった。レーニンが、豊富な資金支出・無制限の独自銃殺権を与えたチェーカー18万人体制という秘密政治警察国家を構築しなければ、他党派全党員の調査・摘発をし、逮捕・銃殺・強制収容所送りができなかった。
『「赤色テロル」型社会主義形成とその3段階』赤色テロル・オルガンとしてのチェーカー
それでは、なぜ、レーニンは、この1921年時期に初めて、チェーカーを反主流2分派党員の調査・摘発・除名の党内向けの赤色テロル機関に変質させたのか。その謎をどう解いたらいいのか。レーニンの真意は何だったのか。
ボリシェヴィキ党員約57万人中、国家・共産党・労働組合・大衆団体のあらゆる機関に配備されたチェキスト18万人なら、反主流2分派党員のリストアップは容易だった。チェキストとは、チェーカー要員のことで、全員がボリシェヴィキ党員だった。レーニン粛清指令による異様な規模の除名事件後、チェキスト18万人は、主流2分派党員数の半数を占めた。よって、大量除名事件によって、レーニン・トロツキーは、ソ連共産党を、チェーカーが党内の全権力を裏側で実質的に占有する秘密政治警察政党に変質させた。
レーニンは、第10回大会最終日3月16日、議題になかった分派禁止規定の突然提案において、分派禁止を訴えただけで、大量除名の気配も示さなかった。しかし、そのわずか4カ月後・1921年夏前後、レーニンは、党の頂上から底辺までの粛清を指令した。反主流2分派党員は、クーデター政権が3年5カ月後に政権崩壊危機に転落している事態の認識で一致し、一党独裁・党治国家を持ちこたえるために、それへの反対・批判意見で動揺しつつも、満場一致で、分派禁止規定に賛成した。
かつ、トロツキーが「革命の栄光拠点」と賛美したクロンシュタット赤軍水兵・労働者14000人皆殺しをせよとのレーニンと軍事人民委員トロツキー指令にも賛同し、殺人任務の党大会代議員として、クロンシュタット鎮圧にも出向いた。派遣された代議員中、クロンシュタット赤軍水兵皆殺しの戦闘で、代議員15人が死亡した。
『クロンシュタット事件』ファイル多数
その4カ月後のレーニン・トロツキーによる大量除名執行は、労働者反対派と民主主義的中央集権派党員にたいする騙し討ちではないのか。
たしかに、分派禁止規定は、政権崩壊危機に陥ったクーデター政党内の分派活動を強権的に根絶させた。レーニン発言=党全体が、あらゆる異論と不一致の表現を党に対する最も重大な犯罪とみなすという指令によって、それは、一枚岩的統一を作り挙げた功績という側面がある。
しかし、異様な規模の大量・2分派全員除名事件となると、分派禁止規定指令の裏側にあるレーニンの別目的の存在に疑惑が及ぶ。それは、1921年3月の党内外情勢のとらえ方になる。第2目的=レーニンの自己保身目的があったのではないのかという疑惑である。
〔レーニンの自己保身目的による分派禁止規定という疑惑とその推理根拠〕
レーニンがしたこと=少数分派転落・政権崩壊に怯えた党内クーデター?
この根拠とは、1920年〜21年3月、4分派間闘争とその党員比率、比率変動・逆転の見通しである。レーニンのクーデター政権は、3年5カ月後、レーニンの意図的な追求どおり、完全な一党独裁・党治国家になっていた。
『レーニンが追求・完成させた一党独裁・党治国家』他党派殲滅路線・遂行極秘資料とその性質
レーニンがしたこと=政治的民主主義・複数政党制への反革命クーデター
1、民主主義的中央集権派の結成・活動と勢力増大
しかし、わずか3年5カ月間で、党の官僚化と党治国家の官僚化が顕わになってきた。それが、党内に民主主義的中央集権派を結成させ、党内における党・国家の反官僚化闘争が激しくなった。彼らは、レーニン最高権力者分派への強烈な批判活動を展開した。
2、労働者反対派の結成と、トロツキー「労働の軍事化」政策・執行への激烈な批判・反対運動激化
トロツキーの「労働の軍事化」政策は、方針だけでなく、レーニンも賛成した上で、2000以上の企業で執行され始めていた。プロレタリア独裁を名乗る国家において、これほどの反労働者の犯罪的政策はなかった。当然、ソ連全土で、農民反乱だけでなく、労働者ストライキが激発した。ペトログラード労働者の全市的ストライキは、その最高の盛り上がりだった。
『ペトログラード労働者大ストライキとレーニンの大量逮捕・弾圧・殺害手口』
『革命労働者ストライキの弾圧・第5次クーデター』1921年2月、労働者の大量逮捕・殺害
それとともに、一党独裁クーデター政党内、党治国家内でも、専門家重視=労働者軽視の党・国家運営が、労働者出身党員にとって、我慢がならないレベルにまで、変質が深化し、表面化してきた。労働者反対派は、一般の労働者の不満・批判・ストライキ動向を反映していた。しかし、レーニン・トロツキーは、その反労働者政策を撤回しようとしなかった。
『トロツキー「労働の軍隊化」構想と党内論争』2000企業「軍隊化」での労働者スト激発と弾圧
3、レーニン最高権力者分派・トロツキー「労働の軍事化」分派と、批判・反対2分派との党内力関係逆転の危険性増大
1920年夏、白衛軍はほぼ壊滅していた。ウクライナだけで、アナキスト・マフノ農民軍が、白衛軍ウランゲリをクリミア半島から追い出す最後の戦闘をしていた。
『マフノ運動と農民反乱』ファイル多数
(1)80%・9000万農民の食糧独裁令反対反乱、(2)ソ連2000企業におけるトロツキーの犯罪的な「労働の軍事化」執行への労働者ストライキ、(3)軍事人民委員トロツキーによる兵士・水兵のソヴィエト権利剥奪政策にたいする兵士・水兵の不満・批判が沸騰してきた。まさに、不法なクーデター政権と一党独裁政党は政権崩壊危機の瀬戸際に陥った。
レーニン最高権力者分派とトロツキー「労働の軍事化」分派にたいする批判・反対2分派は、一党独裁政党内党員・党治国家内党員なので、党外の全国民的総反乱勢力との直接的提携はなかった。しかし、1917年二月革命以来のロシア革命・ソヴィエト勢力である労働者・農民・兵士総反乱の圧力によって、反対2分派の党内比率はさらに増大し、レーニン・トロツキー2分派との勢力比率が逆転する危険性が高まった。それを放置すれば、クーデター政権崩壊より前に、レーニン・トロツキーら主流2分派が、少数派に転落する見通しも考えられた。
この流動する4分派間の勢力関係判断と、レーニン・トロツキー主流2分派が、少数分派に逆転換・転落する可能性判断のキーポイントは、何か。それは、トロツキー「労働の軍事化」という反労働者の犯罪路線・政策とその2000企業執行にたいするロシア革命・ソヴィエト勢力労働者の全国的ストライキ激発データをどう読み取るかである。
たたし、ソ連崩壊後も、そのデータは、ウクライナのドンバス地方の「労働の軍事化」実態しか判明していない。ソ連全土における2000企業の「労働の軍事化」と労働者ストライキ、鎮圧データが発掘・公表されれば、レーニンによる党内クーデターという推理の根拠が裏づけられよう。レーニンは、少数分派転落と政権崩壊に怯え、(1)突然の分派禁止規定提案と、(2)4カ月後の異様な規模の騙し討ち大量除名事件という犯罪的な党内クーデターを発動した。この(1)(2)2つをレーニンによる一連の党内クーデターと捉えるかどうかが鍵になる。
4、レーニンによる自己保身戦術としての分派禁止規定という党内クーデター
レーニンは、10月クーデターにおいても、「蜂起の技術」を練り上げた天才だった。彼は、反対2分派による最高権力者からの転落を座して待つタイプではなかった。二重権力時期において、(1)二重権力の双方にたいする単独武装蜂起・単独権力奪取クーデター技術を練り上げた天才だった。
『1917年のレーニン−革命かクーデターか』ファイル多数
レーニンが、1921年3月16日から夏前後にかけて遂行した異様な規模の大量除名事件をどう規定すればよいのか。レーニン最高権力者分派とトロツキー「労働の軍事化」路線分派は、彼らの誤った路線・政策・赤色テロルに反対するソ連全土における全階層総反乱につれて、日増しに党内権威が下がっていた。
一方、党内での批判・反対2分派の路線・要求の人気と比率は、党外動向の党内への反映もあって、急増してきた。この党内外情勢をレーニンがどう把握し、クーデター政権崩壊危機だけでなく、党内の4分派間比率逆転換=少数派への転落危機に怯えたかどうかとなる。それは、その時点におけるレーニンの心情分析の認識にかかわるテーマでもある。
(1)10月クーデター時点における二重権力にたいする先手クーデター戦術とは違うが、(2)今度は、一党独裁政党内において、最高権力者分派から少数派分派への転落を阻止するために、自己保身の先手を打って、勢力急増中の反対2分派だけを分派禁止規定で、まずは活動停止をさせ、その4カ月後に、騙し討ちで、全員除名をする党内クーデターを謀った。それは、国家における他党派殲滅=一党独裁・党治国家完成の裏側として、ソ連共産党(ボリシェヴィキ)における主流2分派独裁政党完成に向けた、党内民主主義を消滅させる自己保身という犯罪目的に基づく党内クーデターだったのではないか。
レーニンが、1921年、ネップによる経済的後退戦術・譲歩の半面として遂行した、政治逆改革の両面=反対政党の撲滅と党内分派禁止とその性質については、大藪龍介が「民主主義の消滅」と、きわめて的確な性格規定をしている。
大藪龍介『党内分派禁止と反対政党の撲滅。民主主義の消滅』1921年
ただし、1921年時期問題の研究は、あまり進んでいない。よって、(1)分派禁止規定問題と、(2)4カ月後の異様な大量除名事件とを連結した党内クーデター事件とする研究もない。連結した(1)(2)の裏側におけるレーニンの自己保身目的の存否について、私のように推理した研究者は、現在まだいない。というのも、私は、宮本・不破・上田耕一郎による党中央批判への報復としての専従解任・除名の体験党員として、レーニンによるこれほどの規模の騙し討ち大量除名事件には、どうも納得できない疑惑を捨てきれないからである。しかも、私は、宮本顕治による党内クーデターや、不破哲三による党内クーデターの直接体験もしているからである。
最高権力者の自己保身目的のためなら、党内クーデターやウソ・詭弁など手段を選ばないというのが、レーニン・トロツキーを初めとする世界のレーニン型前衛党トップの基本体質である。それが、ソ連崩壊後における私の体験・研究に基づく前衛党犯罪の認識となっている。
5、スターリン時代の分派禁止規定の執行データ
塩川伸明は、『終焉の中のソ連史』(朝日選書、1993年、P.341)において、次のロイ・メドヴェージェフデータを載せた。スターリンが、1937年前後の大テロル時期に、現役党員100万人・除名された元党員100万人を銃殺・処刑したというデータである。スターリンとNKVDは、秘密政治警察の活用方法として、(1)他党派殲滅任務だけでなく、(2)党内での批判・異論党員粛清任務をも持たせたというレーニンの教え=党内犯罪システムを、忠実な弟子として受け継いだ。
(表) ロイ・メドヴェージェフによる「スターリニズムの犠牲」の推計
時期 |
事項 |
逮捕・流刑・強制 移住にあった者 |
うち死亡 |
1920年代末 |
党内反対派 |
数万 |
?(多くが一旦許されるが後処刑) |
1920年代末 〜30年代初め |
ブルジョア民族主義者、ブルジョア専門家、ネップマンなど |
数十万 |
?(スターリン後の釈放まで 生きのびたのは数万か) |
1929〜32年 |
富農撲滅 |
1000万 |
?(苛酷な条件下で生きのびた) |
1933年 |
飢饉 |
600万[600〜700万] |
|
1935年 |
キーロフ暗殺後の旧分子摘発 |
100万 |
? |
犠牲者小計 |
1700〜1800万 |
1000万 |
|
1937〜38年 |
大テロル |
500〜700万 |
死刑100万+獄死? |
1939〜40年 |
西ウクライナ、西白ロシア、バルト3国、ベッサラビア、ブゴヴィナなどの伴合 |
200万 |
? |
1941年 |
ドイツ人の追放 |
?[200万弱] |
? |
1942〜43年 |
カルムィク人、チェチェン人、イングーシ人、クリミア・タタールなどの追放 |
300万 |
100万以上 |
戦中〜1946年 |
ドイツ占領時の占領軍協力 |
500万 |
? |
1947〜53年 |
レニングラード事件、コスモポリタン狩り、その他 |
100万 |
? |
総計 |
?[4000万] |
? |
(注)、飢饉の死者を含む。大テロルのうち党員約100万、除名されていた元党員約100万、非党員300〜500万。〔〕内数字は別の出典。出典名は1988年出版のロシア語資料のため省略。
塩川伸明『「スターリニズムの犠牲」の規模』粛清データ
スターリンによる共産党員粛清・銃殺データを載せた著書は無数にある。ロイ・メドヴェージェフ『共産主義とは何か・上下』(三一書房、1973年)がもっとも詳しい。共産党員粛清のやり方は、(1)深夜のドアノック・逮捕→(2)ソルジェニーツィンが分類した31種類の拷問→(3)分派活動自白をするまでの拷問とサイン強要→(4)無実の分派党員リストの芋づる式逮捕→(5)全員銃殺である。レーニン・チェーカー後の秘密政治警察NKVDとスターリンとがもっとも愛用した罪名レッテルは、レーニンが1921年に決議してくれた分派禁止規定違反だった。
1956年第20回党大会、フルシチョフによるスターリン批判「秘密報告」の内容は衝撃的だった。ニコラ・ヴェルト『共産主義黒書』は次のように報告を記した。二二九人の中央委員のうち九八人、第十七回党大会(一九三四年)の一九六六人の代議員中一一〇八人が粛清された。コムソモールの幹部も同様に弾圧された。九三人の中央委員中七二人が逮捕〔のち銃殺〕され、三八五人の州委員会書記のうち三一九人が、二七五〇人の地区委員会書記のうち二二一〇人が犠牲となった。総体として、州と地区の党とコムソモールの組織は、モスクワの無条件で「正しい」決定を妨害し、国内で起こっていることに中央当局が有効な監督をするのを妨げたと疑われて、全面的に更新された。
とりわけ党機関がジノヴィエフに指導され、キーロフが暗殺されたレニングラードでは、ジダーノフと地域のNKVDの長であるザコフスキーによって党幹部の九〇%以上が逮捕された。しかしこれは一九三六〜一九三九年間にレニングラードで弾圧された者のごく一部でしかなかった。またしてもウクライナが酷かった。フルシチョフがウクライナ共産党の書記長に任命された後の一九三八年だけでも、ウクライナでは一〇万六〇〇〇人以上が逮捕され(その大部分が処刑され)た。ウクライナ共産党中央委員二〇〇人中、生き残ったのは三人だけだった。共産党指導者に関する何十という公開裁判が行なわれた党の地方や地区レベルでも、同じようなシナリオが繰り返された。
3、イタリア共産党・フランス共産党における功罪と放棄の背景・理由
1920年8月、コミンテルン第2回大会は、21カ条の加入条件を決定した。資本主義国共産党はコミンテルン各国支部となった。第12条の民主主義的中央集権制とは、「最も中央集権的に組織され、党内に軍事的規律に近い鉄の規律がおこなわれ、党中央部が広範な全権を持つ」だった。それだけでも、暴力革命を目指す厳しい軍事的集権規律だった。
しかし、1921年3月16日第10回大会最終日の緊急提案で、レーニンは、それを分派禁止規定決議と一体化させた。それを大転換点とし、Democratic
Centralismとは、それ以前の軍事規律とさらに一段と異なり、党内批判・異論者やグループをすべて分派とでっち上げ、完全封殺する反民主主義的官僚的Centralismに変質した。イタリア・フランス共産党とも、その後の分派禁止規定と一体化した民主主義的中央集権制という名の組織運営は、レーニンによって変質させられた党内民主主義を抑圧する反民主主義の官僚的党内犯罪実態となっていった。
〔小目次〕
放棄経過
1976年、大会で「プロレタリア独裁」の用語を放棄した。
1986年、「そのたびごとに決定される多数派の立場とは異なる立場を公然たる形においても保持し、主張する権利」の規定を行う。
1989年、第18回大会、民主主義的中央集権制を放棄し、分派禁止規定を削除した。
1991年、第21回大会、左翼民主党に転換した。同年12月、少数派が共産主義再建党を結成した。
放棄の背景と理由
背景として、党員数減少が、1977年をピークとし、1986年以降は毎年4万人以上が離党し、それは加速された。また、選挙得票数減少は北西部工業地帯で著しかった。その地帯での党員数減少は顕著で、ピーク後、1989年までに−31.8%、103303人もが離党した。その結果、1987年総選挙で深刻な敗北に直面した。これは、下部組織を巻き込む激しい党内論争の引き金になった。
そこから、党の諸機関で自己の主張と異なった選択がなされた後も、自らの意見を主張できるとし、党内の討論を複数の提案をめぐって展開することになっていった。それは、一枚岩主義を否定し、組織された潮流の承認に進んだ。一方、共産主義について、それが現実的に生み出した社会モデルが人間解放の展望を裏切り、破産したことを最終的に確認した。
放棄理由は次のように言明された。民主主義的中央集権制はたしかに派閥主義的堕落を阻止した。しかし、さまざまな思想や綱領の自由な表明を行うために常に不可欠な指導部を統制のもとにおくという点において大きな限界を持っていた。
左翼民主党規約の一部抜粋
前文 指導者主義的ではなく、寡頭制的ではなく、上部主導的ではなく、諸潮流へと結晶化していない政党であることを望む。内部において、あらゆる個人、あらゆる個々の党員や活動家の権利、自由、権限が保障されているような、そして、男性と女性の間の完全な機会の平等が実現しているような政党であることを望む。
第五条 男女の党員の権利
(e)、党の諸機関においてそのたびごとに決定される多数派の立場とは異なつた立場を、公然たる形においても維持し主張する権利。
第六条 集団的形態における権利の行使
(一)、男女の党員は、第五条で規定されている諸権利を集団的形態においても行使する。
(二)、男女の党員は、内部討論と党の方針決定に寄与するために、政策的な提案や綱領の提起を集団的にも行なうことができる。また、規約の規定や規則に基づいて、指導機関や大会代議員の候補者を集団的に提案することができる。男女の党員は、書見の自由な表明と普及のために集会を組織する権利を保障される。
(五)、本第六条で規定している集団的権利の行使のために、また内部討論や公的イニシアティヴにおける対等な条件を保障するために、指導機関はさまざまなレベルにおいて、党の部屋や諸手段の利用を促進し調整する。
『イタリア左翼民主党の規約を読む』添付・左翼民主党規約
放棄経過
1976年、第22回大会で「プロレタリア独裁」理論を放棄した。
1985年、第25回大会頃より、党外マスコミでの批判的意見発表も規制しなくなる。
1994年、第28回大会で、民主主義的中央集権制を放棄した。賛成1530人、反対512人、棄権414人という採決結果だった。
ソ連崩壊の数年後、ソ連の失敗は、マルクス主義の失敗だったとし、マルクス主義の立場を取らないと宣言した。
1996年、第29回大会で、「ミュタシオン」(変化)を提唱し、党改革を図る。
2003年、第32回大会で、党史上初めて対案が提出され、45%の支持を得た。党改革派が主流だが、反対は2派で、党改革案への異議提出派である。
放棄の背景と理由
フランス共産党も、イタリア共産党とほぼ同時期である1979年以降、選挙・党員数・機関紙・党財政のあらゆる分野で、歯止めのないじり貧的瓦解段階に突入していった。
(1)、選挙では、2002年6月、総選挙第1回得票率は、4.91%だった。それは、1981年総選挙得票率16.13%の3分の1以下であり、1997年総選挙得票率9.88%の半分に激減した。フランス下院議席は、35議席から、21議席に減った。07年6月、下院議席は21→18議席へとさらに減った。
(2)、党員数は、1979年76万864人、96年27万4000人、98年21万人、99年18万3878人、2001年13万8756人、03年13万3200人、04年12万5000人へと、一貫した党員減退を続けている。党費納入党員数=党員証交付数でほぼ毎年公表するので、1979年と比べ、党員62万6864人・81.6%がフランス共産党から離党した。18.4%党員しか残っていない。
(3)、機関紙ユマニテは、第二次大戦直後は40万部あった。しかし、60年代から80年代まで、15万部、1997年では、6万部、2001年は4万5千部に減少している。05年は5万1639部に増えたが、増収になっていない。週末版(日曜版)8万部がある。
(4)、財政危機・破綻も深刻になっている。ル・モンド記事などによると、2001年ユマニテの累積赤字は5000万フラン・約8億円になった。04年赤字が270万ユーロ・約4億2660万円で、05年が赤字300万ユーロ・約4億7400万円だった。2001年5月18日のユマニテ再建計画は、民間企業3社の出資を受けることを決定した。(1)出版社アシェット社、(2)放送局TF1、(3)ケス=デパルニュ銀行の3社から、資本金の20%を出してもらって、発行を存続する。それらは、左翼系の会社ではない。さらに、ユマニテ記者・社員190人中、50人をリストラで解雇する。
これら、選挙、党員数、機関紙、財政危機・破綻のデータ全体は何を示しているのか。それは、レーニン型前衛党5原則の3つを放棄しても、共産党名=うぬぼれた前衛党体質を維持し続ける限り、フランス共産党の歯止めのないじり貧的瓦解を食い止めることが、もはや出来ないことを証明している。共産党名とは、フランスの党員・左翼・有権者にとって、もはやなんの魅力も持たないどころか、レーニンによるロシア革命勢力数十万人の大量殺人犯罪データの発掘・公表によって、忌むべき時代錯誤の党内犯罪政党名となった。
放棄理由は次である。1994年大会を機にマルシェ書記長は引退した。代わったユー全国書記は、民主主義的中央集権制は、統一と画一性を混同し、誠実な共産主義者でも意見が異なれば、これを打倒し、隔離すべき敵であるかのように扱ったと自己批判し、分派禁止規定と一体化した誤りと認め、放棄宣言をした。
4、日本共産党における役割と党内民主主義抑圧=トップ自己保身の犯罪武器
〔小目次〕
1、隷従共産党にたいするソ中の分派形成・分裂策動と、隷従脱却時期の役割
1、隷従共産党にたいするソ中の分派形成・分裂策動と、隷従脱却時期の役割
この〔小目次1〕は、レーニンの分派禁止規定が、1964年〜67年の日本共産党において、役立った時期もあったと、評価する内容である。ただし、その4年間を、(1)ソ連共産党系分派、(2)中国共産党系分派とともに、(3)宮本秘書団私的分派形成という最高権力者分派の隠蔽された存在と合わせ、3分派間の闘争問題として把握する必要がある。レーニンの1921年は、上記のように、レーニン分派・トロツキー分派を主流派とする4分派間闘争問題だった。日本における詳細は、長くなるので、主にリンクでの説明にする。
『トロツキー「労働の軍隊化」構想と党内論争』4分派間闘争と分派禁止規定
日本共産党創立は、1922年である。レーニンはその1年前1921年3月に、Democratic Centralismと分派禁止規定とを一体化させていた。よって、コミンテルン日本支部は、鉄の軍事規律としての、党内民主主義を抑圧する犯罪的組織原則政党としてスタートした。
ソ連共産党への隷従実態は、(1)1945年からのシベリア抑留問題に現れている。また、(2)宮本顕治は、「いかなる国の核実験にも反対する」という被爆国家の国民的要求を拒絶し、1962年〜64年のソ中両党の核実験を支持した。それは、次のソ連共産党による核実験を支持する上田耕一郎理論にも出ている。原水爆禁止運動分裂において、社会党・総評側の問題点があるとしても、その主因は、宮本顕治・上田耕一郎らの誤った路線・理論にある。
『「異国の丘」とソ連・日本共産党』ソ連・日本共産党の犯罪 You Tube『異国の丘』3編
『前衛』1962年『ソ同盟核実験を断固支持する上田耕一郎同志』
1949年中国革命以降、日本共産党は、さらに、ソ中両党隷従政党になった。隷従脱却の契機は、ソ中両党の両側からもたらされた。1960年代前半の中ソ論争である。ソ連崩壊後、対立の真因が、(1)フルシチョフのスターリン批判問題での意見相違でなく、(2)毛沢東による核開発計画とそれを妨害・阻止しようとしたソ連共産党・アメリカ・イギリスとの対立だった事実が判明した。具体的には、1963年の部分核停条約の賛否をめぐる国際共産主義運動の分裂にまで突き進んだ。
Wikipedia『部分的核実験禁止条約』
ソ中両党は、自己の党利党略に基づき、被爆国における隷従下日本共産党を味方に取り込もうと企んだ。しかし、日本共産党は、ソ連共産党と対立し始めていた。宮本顕治は、中国共産党隷従を堅持しつつ、部分核停条約問題の国会審議時期に、中国へ療養名目で、3カ月間も行っていた。彼は、被爆国民の要求に敵対し、部分核停条約不支持という中国共産党隷従を続けた。
『1964年5月15日、部分核停条約賛否問題と中国共産党への隷従継続』
日本共産党は、毛沢東が、文化大革命で、日本共産党批判・攻撃をし始めてから、1966年〜67年、受身的に中国共産党・文化大革命批判を始め、中国共産党への隷従から、ようやく脱却した。宮本・不破らは、これを自主独立路線確立と誇り、大宣伝してきた。自主独立は、当然ながら正しい。しかし、その性質は、1922年結党から1967年まで、45年間続いた不自然で誤った国際的隷従共産党からの脱却にすぎない。当たり前の自立的政党状態に初めてなっただけのことである。
しかし、国際共産主義運動における支配的前衛党とうぬぼれていたソ中両党は、日本共産党が隷従から脱却し、自立することを許さなかった。結党当初からの隷従政党なので、党内には、(1)ソ連共産党支持一辺倒幹部とともに、(2)中国共産党支持一辺倒幹部がかなり存在した。それ以外に、(3)宮本顕治の宮本秘書団私的分派と合わせ、3つの潮流が潜在していた。明白な分派だが、民主集中制の名の下でひた隠しにされていたのは、最高権力者分派としての宮本秘書団私的分派だけだった。
『不破哲三の宮本顕治批判』〔秘密報告〕日本共産党の逆旋回と4連続粛清事件
『不破哲三の第2回・宮本顕治批判』〔秘密報告〕宮本秘書団を中核とする私的分派
国際的指導権力の前衛党と自己規定するソ中両党は、隷従共産党の自立を許さなかった。2党は、(1)日本共産党内の自党盲従幹部を工作し、(2)分派活動資金も提供し、(3)ソ連共産党系分派と中国共産党系分派形成で策動した。ソ中両党による日本共産党への秘密の資金提供データは、1952年前後の武装闘争時期だけでも、数十億円もある事実から推定できる。
宮本秘書団私的分派は、その最高権力地位を利用し、1964年ソ連派との闘争に勝利し、1966年〜67年中国派との闘争に勝利した。そして、ソ中両党分派メンバー全員を除名した。ソ連派→日本のこえとなったが、宮本秘書団私的分派は、党中央発表で、63人を除名と公表した。中国派→いくつかの党派になったが、除名党員数は百人以上は確実で、百数十人になったと思われる。
Wikipedia『日中共産党の関係』
それは、レーニン最高権力者分派が、4分派間闘争に勝利し、トロツキー主流派分派を除いて、労働者反対派分派と民主主義的中央集権派分派という2分派の全員を除名したのと同質・同類である。ただし、レーニンによる除名規模はけた外れに大きかった。分派禁止規定決定のわずか4〜5カ月後、1921年夏前後、レーニンは、当時の党員数約57万人中、党の頂上から底辺までの粛清を指令した。
『トロツキー「労働の軍隊化」構想と党内論争』4分派間闘争と分派禁止規定
上記には出典とともに載せたが、除名党員数データは、さまざまである。(1)P・アヴリッチは、全党員のほぼ4分の1を除名としている。(2)ダンコースは、党員の24%、136836人を規律違反・重大な誤ち・不活動で除名と書いた。(3)『ロシア史(新版)』は、約20万人を除名と推定している。(4)稲子恒夫は、約20%を除名とした。
日本共産党内での3分派間闘争ケースでは、レーニンの分派禁止規定が最大の効果を発揮した。レーニンが、コミンテルンを通じ、国際共産主義運動にたいし、くもの巣(web)のように貼りめぐらした「分派」レッテルの呪縛力は、東方の島国においても絶大だったからである。しかも、その当時、宮本秘書団私的分派の存在とメンバーは、代々木の赤い霧に包まれて、透視不能だったからでもある。よって、私が、この時期を、3分派間闘争として検証するのは、まさに、今まで誰も書いていない逆説の戦後日本共産党史になる。
ただし、ソ中両党による犯罪的干渉を主因とした異論にしても、党内で民主的討論の場が保証されていれば、どうなったのか。被爆国家における国民、市民団体や、政党は、この時期、中国に3カ月間も療養名目で滞在し、実質的に中国共産党の部分核停条約反対人質に自ら転落していた宮本顕治と主流派以外は、すべてが、地下核実験を除くにしても、核実験全面禁止・核廃絶への一歩前進と受け留め、部分核停条約に賛成していたからである。
宮本顕治の日本共産党は、部分核停条約不支持によって、被爆国民の要求に敵対する反国民的政党に変質した。もっとも、隷従からの45年ぶりの初脱却という劇的瞬間の3年前・1964年では、それが難しかったとも言える。私も、当時、共産党専従として、部分核停条約不支持の立場に立っていたので、同罪である。
いずれにしても、日本において、外国共産党系分派を破壊する面では、レーニンがDemocratic
Centralismと分派禁止規定とを一体化させた、党内民主主義を抑圧する犯罪的組織原則が役立ったという事実の側面だけは評価できよう。
2、日本共産党トップ自己保身の党内犯罪武器、3つのカラクリ
上記の外国共産党系分派問題を別とすれば、1955年六全協後の日本共産党史において、分派禁止規定は、党中央路線・方針にたいする批判・異論者やグループにたいし党内民主主義抑圧の最大の党内犯罪武器となった。同時に、宮本顕治・不破哲三・志位和夫ら共産党トップは、分派禁止規定を、党内外からの批判・異論から自己保身をする上での最高のでっち上げ道具として利用してきた。
Democratic
Centralismの日本共産党式略語は民主集中制である。日本共産党トップは、それを民主と集中との統一であり、最高の組織原則と自画自賛している。しかし、その実態は、1921年レーニンの分派禁止規定決議以来の資本主義国共産党と同じく、分派禁止規定を中核とした官僚的中央集権制である。そのお陰で、宮本顕治は、39年間も日本共産党の最高権力者を続けた。この長さは、資本主義国共産党トップの世界最長不倒記録となった。
党中央路線・方針・政策の誤りへの批判・異論、および、国政選挙6連続惨敗選挙総括におけるトップ無責任さ・党内下部や外部要因への責任転嫁手口にたいする批判・異論が繰り返し湧き上がる。それらは、以前の宮本・不破や、現在の志位・市田・不破のトップ交代・引退要求に収斂する。民主集中制とは、トップが自己保身を謀る最高の党内犯罪武器になる。党内下部からの批判・要求によっては、彼らが交代・引退させられることには絶対にならないという党内犯罪のカラクリは次である。
〔自己保身犯罪のカラクリ1〕、トップ交代・引退要求を提出する党員権の存否実態
これは、党員個人が党中央にたいし、垂直にする場合だけ認められる。しかし、それらは個人的見解とされすべて握りつぶされる。握りつぶしや無回答に怒って、その批判・不満を他党員に話せば、党機関はその行為を分派活動と決め付け、瞬時に査問・処分をする。
(1)党員個人に枠をはめた意見書提出党員権のみを認め、(2)集団的・横断的な意見書提出党員権を否定するシステムにこそ、トップにとって、分派禁止規定の最大の旨味が隠されている。その犯罪的組織原則を手放そうとしないことは、トップの自己保身犯罪そのものである。
〔自己保身犯罪のカラクリ2〕、交代・引退要求に関し、支部内や他支部を含めた複数党員による水平的・横断的意見提出権の存否
これは、まったく認められず、分派禁止規定の規律違反となり、査問・処分される。そのトップ批判・交代要求を、党内で多数意見には絶対させないというのが、日本共産党が誇る民主集中制の水平的・横断的交流完全禁止の党内犯罪本質である。その証拠の一つを別ファイルで検証した。
『東大院生支部の党大会。宮本勇退決議案提出への粛清事件』1985年
〔自己保身犯罪のカラクリ3〕、党機関の正規会議において、機関役員や専従・議員が、個人として党中央批判やトップ批判発言をする行為への対応
この権利は、規約上認められる。しかし、発言党員は、さまざまな形で党中央から陰湿な報復を受ける。専従なら、専従解任の口頭通知という報復で瞬時に路頭に迷うハメになる。機関役員個人や議員の場合は、次回役員非推薦の報復を受け、合法的に排除される。これらは、宮本・不破・志位が得意技とする党内の政治的殺人犯罪である。これらの報復犯罪をされた機関役員や専従・議員の規模は、数百人になる。
『なぜ民主集中制の擁護か』党内民主主義抑圧の党内犯罪事例
『ゆううつなる党派』民主主義的中央集権制の4システム
戦後日本のあらゆる政党において、また、過去形となった資本主義諸国内の国際共産主義運動・政党においても、彼らほどの規模・裏技で、自己保身目的による党内殺人をしてきた犯罪者はいないであろう。
宮本・不破らが、分派活動規律違反で処分したケースは無数にある。むしろ、彼らが、宮本秘書団私的分派のように、自ら党中央分派を形成し、自己保身犯罪をしてきたという日本共産党史の逆説の方が説得力を持つ。
『不破哲三の宮本顕治批判』〔秘密報告〕日本共産党の逆旋回と4連続粛清事件
『不破哲三の第2回・宮本顕治批判』〔秘密報告〕宮本秘書団を中核とする私的分派
3、分派活動でっち上げの3つの党内犯罪ケース
分派活動でっち上げの規律違反事件は、多数あるが、闇に隠されて、ほとんど公表されていない。わずかに、3つのケースだけが、その経過と分派でっち上げ犯罪を含め、かなり明らかになった。これらについては、別ファイルで分析したので、リンクにとどめる。
『前衛党式排除・粛清システムと査問の考察』ファイル多数
(1)、1967年愛知県指導改善運動分派事件・5月問題
これは、名古屋中北地区常任委員3人・地区専従4人、地区委員。細胞長30数人の約40人分派でっち上げ事件である。名古屋中北地区は愛知県党の約半分の党勢力を占め、専従52人を抱える巨大地区だった。その規模は、東海北陸の他県委員会に匹敵した。ことの契機は、准中央委員・県副委員長を兼任する地区委員長の赤旗一面的・成績主義的追及と粗暴な指導にたいする批判の爆発だった。それは全地区的規模に広がり、1カ月間続いた。しかし、批判側地区常任委員一人の裏切り・密告により、分派活動と逆転し、でっち上げられ、全員が監禁査問された。私は首謀者とされ、21日間の監禁査問を受けた。
『愛知県指導改善運動分派事件』1967年5月、21日間の監禁査問実態
(2)、1972年新日和見主義分派事件
これは、2人分派・3人分派という宮本式新分派規定ねつ造による民青専従・幹部約600人分派容疑・査問、民青中央・都道府県専従100人分派断定・党員権1年間停止処分・民青専従解任という日本共産党史上最大規模の冤罪粛清事件となった。
ただし、この謎に満ちた分派事件の真相は、資本主義世界で、東方の島国に唯一残存するレーニン型前衛党が崩壊し、代々木新築88億円ビル内の秘密資料室に隠蔽・封印されている「新日和見主義分派事件の600人分ファイル」数十巻が、「レーニン秘密資料」6000点のように、発掘・公表されないと解明できない。ただ、謎を解くカギとなる疑惑が一つだけある。
被査問者の側から、この事件の一端を、自己体験から公表した3人がいる。川上徹・油井喜夫・ジャーナリスト高野孟である。3人ともが、監禁査問開始当初、朝鮮労働党との関係や、朝鮮人参問題への関与を厳しく追及され、自白を迫られたと書いている。別ファイルにも分析したが、当時、(1)沖縄返還闘争テーマだけでなく、(2)党機関裏側の警戒秘密情報として、専従の私にも常時伝わってきたが、金日成誕生祝い・祝賀品強要や金日成教義の大宣伝と、朝鮮人参押し売りなどが、日本中で強化されていた。社会党や、総評、かなりの市民団体が、その策動に乗せられ始めていた。
私が責任者(=現在の地区委員長)をしていた共産党名古屋中北地区内ブロック事務所にも、朝鮮総連幹部がそれらを要請に来た。党中央から拒絶せよとの秘密指令が来ていたので、丁重に断った。結局、日本共産党内に、朝鮮労働党分派を形成しようとした目論見は失敗した。
宮本顕治は、1964年ソ連派、1966年中国派に続いて、1972年第3の朝鮮労働党分派が党内、とくに、民青・全学連・共産党系ジャーナリスト・学者党員などの党組織・大衆団体に形成されたのではないかとの事実誤認をし、錯覚と誇大妄想に基づいて、党史上最大規模の大量監禁査問を指令した。
ところが、党中央本部とともに、全都道府県委員会事務所において、600人もいっせい監禁査問にしたが、朝鮮労働党分派形成の証拠は、何一つ出てこなかった。そこで、(1)第3の外国前衛党分派容疑を、早々とあきらめた。
そして、同時期に大問題として急浮上してきた(2)民青専従年齢制限問題に分派容疑の焦点移動を謀った。それは、宮本・不破らが、民青中央に事前相談もしないままで、従来の民青専従30歳までを、25歳に制限する=一挙に5歳引下げ・25歳以上の民青専従全員解任という共産党決定をし、強行しようとした事件だった。その一方的な手口への民青専従内の強烈な不満・批判の爆発問題だった。収まりがつかないので、宮本・不破は、彼らを2人分派・3人分派とでっち上げ、振り上げた誇大妄想の拳を民青問題に摩り替え、名前も中身も意味不明の新日和見主義という名の分派事件をでっち上げたのではないか。
『新日和見主義「分派」事件』その性格と「赤旗」記事、1972年
ただし、誇大妄想というよりも、宮本顕治の被害妄想の方が原因なのかもしれない。というのも、ソ連・中国・北朝鮮とも、一党独裁・党治国家であり、朝鮮侵略戦争敗北後、ソ中朝に向けた恐るべきアメリカ不沈空母となった日本国内に、様々な独自ルートを秘密裏に構築していた。それにたいし、3党の独自分派形成を狙われた日本共産党の防御体制は、45年間もの長期隷従史により、きわめて脆弱だったという側面も考慮する必要がある。
しかも、1955年六全協=同時期の朝鮮総連結成以前は、日本共産党員の約3分の1が在日朝鮮人だったと言われている。彼らは全員が、日本国内で活動する朝鮮労働党員・朝鮮総連幹部になった。朝鮮総連内の秘密組織「学習組」は、実質的な朝鮮労働党日本支部となった。
『日本共産党と朝鮮労働党との関係史』友党・賛美→決裂・批判→事実上の友党・無批判
もっとも、それらソ中朝3党による日本共産党への分派形成・分裂策動実態は、国際共産主義運動の裏側を貫く本質を立証した。それは、一党独裁政党が、(1)国内では、レーニンの分派禁止規定を利用し、レーニンの教え=党内の異論・批判を党にたいする犯罪とみなし、最高権力者分派独裁→個人独裁システムを構築するが、(2)外国前衛党にたいしては、自党の分派形成を謀るという、剥き出しのダブルスタンダード犯罪をする二枚舌前衛党だった真相を証明している。
(3)、1985年東大院生支部の宮本勇退決議案提出問題めぐる分派事件
東大院生支部内で起きた宮本勇退の党大会決議案提出運動における連名者5人を、同一支部にせよ、連名は分派活動とでっち上げ、5人権利停止処分・内1人除名事件である。これは、粛清遂行側志位和夫の「汚れた手」出自となった。
『志位報告と丸山批判詭弁術』志位の異様な党内出世経緯と「汚れた手」出自
この自己保身目的のみによる党内犯罪武器を捨てようとしないのは、21世紀資本主義国共産党で、ポルトガル共産党と日本共産党の2党だけになった。日本共産党とは、反民主主義の党内犯罪政党だという規定が、東方の島国における左翼・有権者にまだ認識されていない。もっとも、イタリア・フランス共産党とほぼ同時期以降、日本共産党も1980年をピークとし、全般的で歯止めのないじり貧的瓦解現象が顕著になってきた。それは、日本の左翼・赤旗読者・共産党員・有権者が、日本共産党を党内犯罪規約に執着する反民主主義政党と認定し、そこから大逃散しつつある証拠ともいえる。
『じり貧的瓦解への道=参院選総括・総選挙方針』衰退過程突入政党の党員・読者
5、異なる潮流包摂の民主主義政党転換拒絶によるじり貧的瓦解の果て→自然死
1989年〜91年東欧・ソ連10カ国と前衛党いっせい崩壊後、党内における異なる潮流の承認は、民主主義政党としての当然のあり方となった。それへの大転換を拒絶し続けるかぎり、イタリア共産党やフランス共産党に現れたような、党員数・選挙得票数における長期低落傾向から抜け出すことはできない。日本共産党の歯止めのないじり貧的瓦解傾向は、別ファイルで検証した。今後とも、トップ自己保身目的・反民主主義・党内犯罪の分派禁止規定を手放さない日本共産党が、国政選挙・赤旗部数において躍進する見込みは絶無である。
日本共産党は、すでに、じり貧的瓦解の4段階を経過し、次回総選挙において、そのじり貧的瓦解第5段階に転落する。その果てには、何があるのか。国会衆参議席が一段と泡沫化し、さらには国会議席ほぼなしの政党になり、自然死を迎える。
しかも、民主党は、選挙マニフェストにおいて、衆議院比例代表定数180を、100議席に減らすと公約している。もし、政権交代が起き、比例代表定数80議席削減法案が通れば、国政選挙の野党選挙協力拒絶政党で、比例代表でしか当選できない日本共産党議席は、それだけで半減する。それは、日本共産党を自然死状態に追い込む。
『じり貧的瓦解4段階経過と第5段階への転落方針』次回総選挙の展望
加藤哲郎はHPファイル『日本社会主義運動の現在』の末尾で、社会主義と言いつつも、その内実として日本共産党の展望=自然死について、次のように結論付けている。社会主義を日本共産党と置き換えて読めば、そのまま当てはまる。
「現存した社会主義」の歴史的教訓の一つは、思想の自由・文化的多元主義が、社会主義にとって不可欠だということであった。それは、社会主義の定義そのものにも適用されねばならない。「何が社会主義であるか」をも、後世の歴史の審判に委ねる、思想的寛容が必要である。その意味で、日本の社会主義はいったん自然死し、新たな名前で再生することが、課題となっている。
加藤哲郎『日本の社会主義運動の現在』末尾の自然死
以上 健一MENUに戻る
〔関連ファイル〕
『スターリンは悪いが、レーニンは正しい説当否の検証』ファイル多数
『レーニン「分派禁止規定」の見直し』1921年の危機、クロンシュタット反乱
『レーニンが追求・完成させた一党独裁・党治国家』他党派殲滅路線極秘資料と性質
レーニンがしたこと=政治的民主主義・複数政党制への反革命クーデター
検閲システム確立と国内外情報閉鎖=鉄のカーテン国家完成
レーニンがしたこと=民主主義・自由廃絶の反革命クーデター
稲子恒夫『1920、21年のソ連とソ連共産党年表』ボリシェヴィキ不支持者・政党の浄化
大藪龍介『党内分派禁止と反対政党の撲滅。民主主義の消滅』1921年
リチャード・パイプス『19212年危機−党機構官僚化と分派禁止』
『コミンテルン型共産主義運動の現状』ヨーロッパでの終焉とアジアでの生き残り
『イタリア左翼民主党の規約を読む』添付・左翼民主党規約
『フランス共産党の党改革の動向と党勢力』選挙連続惨敗での党改革でも、じり貧的瓦解
『前衛党式排除・粛清システムと査問の考察』ファイル多数