1921年2月、革命労働者ストライキの弾圧・第5次クーデター
「スターリンは悪いが、レーニンは正しい」説当否の検証
第5部、労働者の大量逮捕・殺害とプロレタリア独裁成立のウソ
(宮地作成)
〔目次〕
1、工業労働者数・人口比率とその減少経過・原因 (表1、2)
2、革命拠点ペトログラード・ソヴィエトの歴史と革命労働者の要求
3、レーニンの労働者・産業政策と労働者要求との対立激化・第5次クーデター
4、労働者ストライキ頻発とストライキ労働者の大量逮捕・虐殺 (表3)
5、1921年2月、ペトログラード労働者の全市的な山猫ストと弾圧
6、レーニン・ジノヴィエフによるストライキ労働者500人即時銃殺
7、プロレタリア独裁理論の誤りとプロレタリア独裁国家成立のウソ (表4)
〔関連ファイル〕 健一MENUに戻る
『見直し「レーニンがしたこと」-レーニン神話と真実1917年10月~22年』ファイル多数
第1部『1917年10月、レーニンによる十月・ソヴィエト権力簒奪第1次クーデター』
第2部『1918年1月、憲法制定議会の武力解散・第2次クーデター』
第3部『1918年5月、革命農民への食糧独裁令・第3次クーデター』
第4部『1918年6月、他党派をソヴィエトから排除・第4次クーデター』
第5部『1921年2月、革命労働者ストライキの弾圧・第5次クーデター』
第5部2『1920年3月、トロツキー「労働の軍隊化」構想と党内論争』
第6部『1921年3月、革命水兵の平和的要請鎮圧・第6次クーデター』
第7部『1921年3月~22年末、「ネップ」後での革命勢力弾圧継続・強化』
第8部『1922年5月、知識人数万人追放「浄化」・第7次クーデター』
第9部『1917年~22年12月、レーニンの最高権力者5年2カ月間』
第10部『「レーニンによる7連続クーデター」仮説の自己検証』
(労働者ストライキ、プロレタリア独裁問題の関連ファイル)
『ストライキ労働者の大量逮捕・殺害と「プロレタリア独裁」論の虚構(1)』 『(2)』 『(3)』
『ペトログラード労働者大ストライキとレーニンの大量逮捕・弾圧・殺害手口』
『クロンシュタット水兵とペトログラード労働者』水兵の平和的要請とレーニンの皆殺し対応
マーティン・メイリア『主役はプロレタリアート? それとも党?』『ソヴィエトの悲劇・上』抜粋
大藪龍介『国家と民主主義』レーニンのプロレタリア独裁理論
『マルクスカテゴリー事典』プロレタリア独裁理論
google検索『プロレタリアート独裁』
1、工業労働者数・人口比率とその減少経過・原因
〔小目次〕
1、プロレタリアート数とその人口比率 (表1)
2、プロレタリアート数減少、都市人口流出の原因 (表2)
プロレタリアートとは、工業・産業・工場労働者のことである。その労働者数を、1917年10月25日「十月クーデター」時点で、約300万人・人口比率2.7%と推定する。それは、白衛軍との内戦、農民反乱と飢饉、21~22年における500万人餓死もあって、1920年から22年に約220万人・1.95%に減少した。そのデータは、下記(表1)(表2)である。
ツアーリ帝政政府の人口統計は、二月革命以前で1億4000万人だった。私は、別ファイルで、1917年時点もその数値を使った。しかし、ソ連共産党の『十月社会主義大革命・百科事典』(P.549)は、1917年12月憲法制定議会選挙における投票者を、投票率50%弱で、4440万人と確定した。そして、79選挙区全体の有権者を9000万人とした。私は80%・9000万農民説を採っている。それは、総人口が1億1250万人になり、ソ連共産党確定の有権者数9000万人にも相応する。よって、『第5部』では、この2.7%数値で、労働者比率を計算する。ただ、他ファイルでは、その比率を四捨五入した3%も使う。というのも、一般的には、300万人・3%が使われているからである。
なぜ、その数値・比率にこだわるのか。なぜなら、それがレーニンの「プロレタリア独裁国家が成立」というウソと直接の関連を持つからである。ウソと断定する根拠は2つある。
〔根拠1〕、実態として、プロレタリア独裁国家は成立しておらず、クーデターの最初から「ボリシェヴィキのみによる党独裁国家」だった。これは、ソ連崩壊後に出版された研究文献の共通認識である。また、それは、ヨーロッパのすべての共産党と左翼・国民が共有する常識になっている。ただ、左翼エスエルとの連立政府期間の3カ月間だけを除く。
マーティン・メイリア『主役はプロレタリアート? それとも党?』『ソヴィエトの悲劇』抜粋
〔根拠2〕、300万人・2.7%→220万人・1.96%の労働者数・比率の国家が、数量的に見ても、プロレタリア独裁国家だったとは、とうてい規定できない。レーニンが、なぜそんな見え透いたウソをついて、ソ連国民と世界を欺いたのかという分析は、『第8部』で検証する。
(表1) 1917年のプロレタリアート数
年 |
労働者数 |
比率 |
内容 |
出典 |
1905 1913 |
169万人 260万人 |
1.2% 1.9% |
金属25.2万人、繊維70.8万人、印刷・木材・皮革・化学27.7万人、鉱石・食料品45.4万人 工業労働者 |
ロシア商工省『ロシアにおけるストライキ統計』 『ボ革命2』P.147 |
1917 |
271.5万人 300万人 300万人 |
2.4% 2.7% 2.7% |
建設労働者から赤十字職員まで含む 労働組合員150万人 労働者 |
『1917年のロシア革命』P.28 『ボ革命2』P.147 『ソ連邦の歴史1』P.157 |
1917 |
300万人 |
2.7% |
私の推計 |
ロシア商工省『ロシアにおけるストライキ統計』とは、帝政ロシア商工省が、1895年~1904年の10年間、および、1905年~1908年の4年間の『工場・製作所における労働者ストライキ統計』のことである。この有名な出版物データに基づいて、レーニンは、1910~11年、雑誌「ムイスリ」に、論文『第一革命時代におけるロシアの労働者運動-ロシアにおけるストライキ統計について』を発表した。彼は、そこで、1905年革命から4年間の労働者の状態とストライキを、「19の商工省(表)」を引用し、分析している。そして帝政ロシア権力・工場主にたいするストライキの革命的・前衛的役割を高く評価し、ストライキ労働者を賞賛した。レーニンは、当時のプロレタリアート数が169万人であったことを認めていた。
ところが、レーニンは、自分が最高権力者になると、クーデター政府や国有化工場にたいするストライキを批判し、「黄色い害虫」とのレッテルを貼り付けた。そして、下記に載せるように、ストライキ労働者を大量逮捕・銃殺・虐殺し、強制収容所送りにした。その仕上げが、1921年2月のペトログラードにおける全市的ストライキへの(1)全市軍事封鎖・(2)全工場ロックアウト・(3)5000人もの大量逮捕と、(4)ストライキ指導者500人の即時銃殺だった。
このファイル『第5部』は、レーニンによる反労働者路線・政策とストライキ労働者弾圧・虐殺のケース総体を、革命労働者のソヴィエト権力を簒奪していったレーニンの第5次クーデターと位置づける論旨である。
2、プロレタリアート数減少、都市人口流出の原因
ソ連崩壊前・後の多くの文献が、共通して指摘しているプロレタリアート数の減少原因は、次の4点である。下記4つの原因によって、プロレタリアートは、1917年300万人から1920年220万人へと、80万人も減少した。
(表2) プロレタリアート数の減少 1918年~1922年
年 |
労働者数 |
比率 |
内容 |
出典 |
1918 1918 |
250万人 (?) |
2.22% |
→1920年220万人→1922年124万人 31県の労働者125.4万人→20年6月86.7万人に→後も減少 |
『ボ革命2』P.147 『ソ連邦の歴史1』P.157 |
1920 1922 |
220万人 200万人 |
1.96% 1.78% |
国有化企業労働者141万人。20年11月国有化工業3.7万で雇用労働者161.5万人 工業労働者 |
『社会主義像の転回』P.34 『ボ革命2』P.133 『ソ連の階級闘争』P.134 |
1920 |
220万人 |
1.96% |
私の推計。1917年から80万人減少 |
出典の『社会主義像の転回』は、中野徹三著(三一書房、1995年)、『ソ連の階級闘争1917~1923』は、シャルル・ベトレーム著(第三書館、1987年)である。これらの詳しい内容は、『農民』ファイルに書いた。
『反乱農民への「裁判なし射殺」「毒ガス使用」指令と労農同盟論の虚実』
〔原因1〕、減少の大部分は、都市の飢餓による農村への脱出
都市の住民・労働者・兵士の生活、飢餓状態は、悲惨だった。都市における工業の混乱と、燃料・衣料の欠乏が、脱出に拍車をかけた。「共産党員にたいしてだけ、靴の秘密配給がされた」という噂で、プロレタリアートが激昂するような欠乏状況だった。レーニン・スヴェルドロフ・トロツキーらは、1918年5月、食糧独裁令の貧農委員会方式によって、ボリシェヴィキ側から、農村に内戦の火をつける作戦を発動した。レーニン・政治局は、都市に続いて、農村でも、貧農委員会を組織し、富農にたいする階級闘争という内戦を勃発させ、農村の社会主義革命をやろうという空想的な暴挙を実行に移した。その第3次クーデター路線・政策は、土地革命農民の抵抗・反乱に出会って、都市における飢餓をますます深刻化させた。
レーニン・トロツキーは、赤軍の正規軍化と徴兵による500万人拡大路線を採った。レーニンらは、その非生産者500万人を養う兵糧確保政策にまったくの無知だった。とどのつまり貧農委員会方式が、わずか7カ月間で行き詰まった。そこから転換した政策は、農民の生産意欲を無視し、踏みにじる軍事割当徴発制という食糧収奪路線だった。この無謀な作戦遂行のために、ボリシェヴィキの産業政策が武器・軍需生産強化に集中し、国民・農民向けの消費財・生活用品生産を後回しにした。レーニンの政策は、食糧だけでなく、燃料・衣料・靴などを極度に欠乏させた。都市の労働者・家族は、生きる糧を求めて農村に脱出するしかなかった。
〔原因2〕、農村の土地革命による総割替え=地主から没収した土地配分を求めての帰村
工業プロレタリアートは、農村、農民といまだ密接な関係を保っていた。世襲的なプロレタリアート=都市に生まれ、彼らにとって、他の道がありえないという労働者階級の存在は、まだ少なかった。1917年3月以降、80%・9000万農民は、左派エスエルの暗黙の支持以外、臨時政府の反対に逆らって、土地革命を自力で成し遂げた。その農民革命成果としての土地配分の分け前をもらいに、プロレタリアートの多くが都市を離れて、出身の村に帰った。ただ、分け前といっても、土地を個人所有にするわけではない。地主から没収した土地を、ミール共同体が社会的所有をし、一年毎の総割り替え制による土地耕作権を手に入れることである。
〔原因3〕、白衛軍との内戦、農民反乱との戦闘による赤軍兵士、その中のプロレタリアート出身兵士の死亡
赤軍500万人中、農民出身の80%・400万人を除いて、徴兵されたプロレタリアート出身兵士は、数十万人いた。メドヴェージェフは、『1917年のロシア革命』において、農民反乱との戦闘で、1)、赤軍兵士171185人が死亡、2)、食糧人民委員部10万人が死亡とのソ連崩壊後のデータを明らかにした。リチャード・パイプスは、『ロシア革命史』(P.280)で、ソ連崩壊後のデータに基づいて、赤軍の死者を100万人とし、それは農民との戦いのなかで主に蒙ったと推定している。
〔原因4〕、国家・党機関へのプロレタリアートの大量吸収
レーニン『国家と革命』によれば、成立したプロレタリア独裁国家とは、まず、プロレタリアートが、あらゆる国家暴力装置を完全に掌握することだった。それは、国家行政機構、食糧人民委員部、革命裁判所裁判官、赤軍全部隊のコミッサール(政治委員)、秘密政治警察チェーカーなど無数にある。赤色テロル・オルガンであるチェーカーの指令体系実態は、レーニン→ジェルジンスキーの直系だった。ニコラ・ヴェルトは、『共産主義黒書』(P.77)において、チェーカー・メンバー数(チェキスト)が、1918年末約4万人、1921年初め28万人以上になった、とのデータを示した。チェーカーは、レーニンと政治局に絶対忠誠を誓い、かつ、その赤色テロル指令を無条件で執行するプロレタリアート出身の党員で主に構成された。
2、革命拠点ペトログラード・ソヴィエトの歴史と革命労働者の要求
〔小目次〕
3、1917年「十月・ソヴィエト革命」のペトログラード・ソヴィエトと経済・政治要求
ソヴィエト(Sovet)とは、ひろく助言、会議、和合などを意味する。1905年革命で多くの地方にソヴィエトが出現した。なかでも重要なのは、ペテルブルグ・ソヴィエトである。それは、プチーロフ工場を中心とする各工場のストライキ委員会として発足し、巨大な10月ストの引き金となり、一定の政治的・行政的機能をもつ恒常的組織となった。
1905年のペテルブルグ県労働者のストライキ参加率は、68.0%だった。ペテルブルグ地方の労働者は、29.8万人である。そのストライキ参加者数は、103.2万人で、労働者が4回づつストライキに参加したことになると、レーニンは、論文で計算している。そして、彼は「前衛労働者は、最大限のエネルギーをもって運動を開始し、他の大衆を揺り動かした」と、ストライキを絶賛した。
レーニンは、1905年革命全体におけるストライキ結果の『商工省統計』も引用した。それによれば、「労働者の勝利23.7%、妥協46.9%、工場主の勝利29.4%」である。これは、ストライキ委員会と工場主側との正規の団体交渉が、かなり持たれたことを示した。商工省は、「経済ストライキと政治ストライキの参加者数を分別してデータ」も載せた。レーニンはその相互関係も分析した。
1905年革命というと、オデッサ・ソヴィエトのゼネストと黒海艦隊の「戦艦ポチョムキン」の反乱が有名である。私は、エイゼンシュタインのその映画を7回も観たが、これらのソヴィエトは、ツアーリ政府によってつぶされた。
2、1917年二月革命のペトログラード・ソヴィエト
1914年からの第一次世界大戦中、首都には、食糧難・燃料難がもっとも激しく現れた。そこには、労働者38万人と兵士47万人がいた。2月23日婦人労働者のストライキと「パンよこせ」デモ、25日全市ゼネスト、27日兵士反乱と兵士による政治犯釈放を経て、3月1日、ペトログラード労働者・兵士代表ソヴィエトが創設された。ペトログラード・ソヴィエトは、7項目の「命令第1号」を出した。その内容は、(1)労働者と兵士がソヴィエトに忠誠を示し、(2)官吏と将校が国会臨時委員会に忠誠を誓うという二重権力を示すものだった。
1905年革命、二月革命は、いずれも自然発生性の強いもので、それらにおいてボリシェヴィキはなんら積極的役割を果たしていない。ソヴィエトは、レーニンの路線・方針とは無関係なところで、労働者・兵士の自然発生的な革命運動の結果として誕生したロシア革命特有の組織だった。この歴史的事実は、前衛党の指導がなくても、革命が発生し、二月革命のように成功し、ソヴィエトが創設されることを証明した。
3、1917年「十月・ソヴィエト革命」のペトログラード・ソヴィエトと経済・政治要求
「十月革命」という用語に関する私の立場をのべる。従来の「レーニン神話」「公認ロシア革命史」では、その性格を「十月社会主義大革命」と規定し、レーニン・ボリシェヴィキの指導性を極度に誇張した。「すべての権力をソヴィエトへ」というスローガンは、レーニンも唱えた。一方、彼は、十月クーデター後、労兵農ソヴィエトによる自然発生的な革命運動・決起の側面を恣意的に無視・軽視した。
私は、以前、他のファイルでも、単に「十月革命」という用語を使ってきた。しかし、ソ連崩壊後、「レーニン秘密資料」6000点や膨大なアルヒーフ(公文書)が発掘・公表された現在では、それを「レーニンによるソヴィエト権力簒奪十月クーデター」「7連続クーデター」と規定する立場にある
その労働者ソヴィエト・工場委員会・労働組合からのレーニンによる労働者権力簒奪(さんだつ)過程を分析するのが、この『第5部』レーニンによる第5次クーデターの中心テーマである。ただ、ソヴィエトによる革命という意味から、「十月・ソヴィエト革命」という用語も使う。
1917年4月、臨時政府とソヴィエトとの二重権力のなかで、臨時政府はソヴィエトとの連立政府を求めた。国民の側からも、連立の声が挙がった。ペトログラード・ソヴィエト執行委員会は、一旦は連立を拒否した。
5月1日、連立への圧力が強まるなかで、緊急執行委員会は連立を決議した。当時のペトログラード・ソヴィエトには、委員約2800人がいたが、革命派(ボリシェヴィキ派)委員は、約100人で、4%だった。プチーロフ工場を中心とした地区ソヴィエトにおける党派構成は、メンシェヴィキ11、ボリシェヴィキ10、エスエル5、メジライオンツィ4、無所属26であり、ボリシェヴィキは18%だった。メジライオンツィとは、左派エスエルの左翼グループである。
5月27日、ペトログラード市区会選挙が6月5日まであった。その806議席中、メンシェヴィキ・エスエルの社会共同派443議席・55%、カデットなどのリベラル派207議席・26%、ボリシェヴィキなど革命派156議席・19%だった。
この中で、ペトログラードの労働者とソヴィエトは、全国の先頭を切って、一連の工場で「工場委員会」を創設した。工場委員会とは、それまで存在した産業別の労働組合とは異なり、ある工場の労働者全員から選出された工場単位の労働者代表機関だった。ペトログラード・ソヴィエトは、資本家の工場主協会と協定し、それを工場労働者の代表機関として、工場主協会にも承認させた。それは、軍隊における「兵士(軍隊)委員会」と並んで、革命運動に大きな役割を演じた。
工場委員会では、最大の労働者数26564人を持つプチーロフ工場を中心とする11の官営軍需工場が目立った動きを見せた。11工場の労働者数は、115768人で、1917年1月1日時点のペトログラード労働者数417000人の28%になる。1917年前半には、労働者が459000人に増員されている。
5月30日、第1回ペトログラード工場委員会協議会が、プチーロフ工場の提案で招集され、6月5日まで行われた。そこには、367工場・企業の代表が、その労働者337464人から選ばれて参加した。この協議会決議は以下で、賛成297対反対21対保留44で決定された。
(1)、経済的要求・・労働者統制、全般的労働義務、労働者民兵制。労働者統制とは、管理・経理・技術の各面で、工場管理部の活動を統制し、その機関を工場委員会とするという内容である。
(2)、政治的要求・・それら全分野の計画的な、成功裡の実施は、全国家権力を労兵ソヴィエトに移行するもとでのみ可能である。
そして協議会は、ボリシェヴィキ19、メンシェヴィキ2、エスエル2、メジライオンツィ1、他1からなる工場委員会中央評議会を選出した。これにより、ペトログラード労働者の主流は、「すべての権力を労働者兵士農民ソヴィエトへ」とする革命派となった。
こうして、(1)地域全体を包む「ソヴィエト」、(2)産業別の「労働組合」、(3)工場別の「工場委員会」、(4)部隊別の「兵士(軍隊)委員会」が、「十月・ソヴィエト革命」側の体制として成立した。
ペトログラード労働者のボリシェヴィキ支持率が、(1)1917年8月以降、11月にかけて、なぜ急上昇したのか。その原因を、(2)1918年春からの支持率急落と、(3)1921年2月の反ボリシェヴィキ大ストライキ発生との関係で、明確にしておく必要がある。
労働者・農民・兵士の共通要求は、「土地・平和・パン」だった。臨時政府と、途中から閣僚を出したメンシェヴィキ・エスエルは、それらのいずれも解決できなかった。二月革命の成果が何一つ目に見えてこない。それへの不満が、2つのソヴィエト内社会主義政党にたいする幻滅となって、8月以降、その支持率が急落した。一方、「土地・平和・パン」要求を取りあげ、その完全解決を公約したボリシェヴィキ支持率が急上昇した。
なかでも、労働者が求めたものは、「全国家権力を労兵ソヴィエトに移行すること」「工場委員会による労働者統制」だった。その要求スローガンは、労働者が革命運動の進展につれて、自然発生的に作り出した。レーニンは、それに賛同し、公約に取り込んだ。そのボリシェヴィキへの支持率が高まったのは、当然だった。ただし、労働者の支持レベルは、「ボリシェヴィキの単独政権や一党独裁」を認めるものではなかった。その政権要求は、ソヴィエトに結集したすべての社会主義党派による連立政権だった。
片や、レーニンが隠蔽していた思惑は、マルクス主義青写真を全面実施するための、連立拒否=一党独裁権力だった。この食い違いとその現れが、『第4部』で分析したように、単独武装蜂起・単独権力奪取クーデターのわずか6カ月後に、ペトログラード労働者におけるボリシェヴィキ路線・政策にたいする幻滅となり、かつ、支持率急落となった。さらに、レーニンが4公約に違反した全面的な裏切りにたいする強烈な怒りとなって、反ボリシェヴィキ・大ストライキとなって爆発した。
それにたいし、「プロレタリア独裁国家の成立」を名乗る最高権力者レーニンは、プロレタリアート・ストライキとの話し合いに一切応じず、ストライキ労働者の大量逮捕と流血の鎮圧で応えた。その経過を、以下確認する。
3、レーニンの労働者・産業政策と労働者要求との対立激化・第5次クーデター
〔小目次〕
1、1918年1月7日、第1回全ロシア労働組合大会
2、1918年2月1日、「差別的報酬形態」「出来高払い制」の布告
3、1918年3月3日、最高国民経済会議による「上からの統制強化」法令
4、1918年4月3日、労働組合中央評議会の中央集権化と「出来高払い制」の準則公布
5、1918年4月28日、レーニン『ソヴィエト権力の当面の任務』を発表
6、1918年5月13日、「食糧独裁令」発令。6月11日、「貧農委員会を組織する法令」公布
7、1918年6月18日、「大工業国有化令」の発令
8、1919年1月16日、第2回全ロシア労働組合大会
9、1919年12月6日、チェーカー「飢餓と労働者の問題」についての報告
10、1920年2月1日、レーニンのトロツキー宛「メモ」
11、1920年3月29日、第9回党大会でのトロツキーの「労働の軍事規律化」発言
以下、11のデータを通じて、「レーニンがしたこと」としての、都市ソヴィエト、労働組合、工場委員会からソヴィエト権力・革命労働者の権力を簒奪していく過程を検証する。それらの経過全体は、レーニン・トロツキーらが革命労働者のソヴィエト権力を簒奪していく第5次クーデターとなった。これらは、E・H・カー『ボリシェヴィキ革命2』(みすず書房、1967年、原著1952年)全体にある資料、および、ニコラ・ヴェルト『共産主義黒書』(恵雅堂、2001年、原著1997年)のデータに基づいている。引用頁数はいちいち書かない。
1、1918年1月7日、第1回全ロシア労働組合大会
1917年、プロレタリアート300万人中、労働組合員は、150万人だった。大会では、代議員416人中、ボリシェヴィキ273人、メンシェヴィキ66人だった。大会では、連立政府と労働組合との関係が、論争の中心となった。大会は、大論争の末、ボリシェヴィキ多数による採決で、次の事項を決定した。
1)、「労働組合は、社会主義権力の機関となるべき」として、事実上「労働組合の国家への従属」という原則を打ち立てた。
2)、「工場委員会は、対応する労働組合の地元機関たるべき」とし、中央集権的な労働組合制度への工場委員会の合体・従属を決めた。
3)、「全ロシア労働組合評議会と政府・労働人民委員部との統合を実現する」とした。組合指導部と政府機関との一体化である。
4)、大会後に、「労働政策・労働組合の主目的は、生産を組織し、増大させることである」とし、「そのための労働の組織化と労働規律の実施が労働組合の目的である」との決定がなされた。
2、1918年2月1日、「差別的報酬形態」「出来高払い制」の布告
レーニンは、権力奪取直前に執筆した『国家と革命』(1917年8月)において、「階級をなくし、平等賃金にする」と公約していた。しかし、権力奪取クーデターの3カ月後に、はやくも、ペトログラードの冶金工業で「差別的報酬形態」布告をした。その内容は、「生産ノルマ不履行の場合の賃金カット」「賃金の低等級への格下げ」「例外的な出来高払い制」である。数日後、郵便電信業への布告を出した。それは、「熟練労働者の月215ルーブルから600ルーブルまでの賃金格差表」「管理者への800ルーブルの賃金表」だった。まもなく、全国方針を「基本的な出来高払い制」に移行させた。
労働者の反感は、この「出来高払い制」と「差別的報酬形態」の実施に向けられ、それをレーニンの裏切り、公約違反と見なした。『国家と革命』で公約したことへの違反によって、プロレタリアート内におけるボリシェヴィキ支持率は急落し始めた。
3、1918年3月3日、最高国民経済会議による「上からの統制強化」法令
政府・中央管理部(グラフクまたはツェントル)は、「政府が、国有化企業にたいし、政府代表委員・技術管理者・経営管理者3人を任命する」法令を出した。それによって、「従来からの労働者側の工場統制委員会を、経営評議会の下部組織とする」とした。これは、二月革命以来勝ち取った「下からの労働者統制権」を、レーニンが事実上簒奪し、上からの国家権力による労働者統制に逆転させるものだった。
レーニンは、すでに、1907年、「労働組合の中立性は、原則として擁護しえない」(「レーニン全集」第12巻、P.66)という見解に転換していた。E・H・カーは、『ボリシェヴィキ革命2』(P.79)で、この全過程を次のように規定した。労働組合運動を党に従属するものとみなし、党の政策の道具とする傾向は、ボリシェヴィキの教義に内在的なものである。それは、組合にたいする党の積極的な関与を促進するようなあらゆる方策によって強められた。
4、1918年4月3日、労働組合中央評議会の中央集権化と「出来高払い制」の準則公布
政府機関と合体した労働組合機関は、中央集権化を進め、全工場委員会を労働組合の「下部組織」とした。それだけでなく、ペトログラードで出した「布告」を全国に広げた。その内容は、「労働者にたいする生産性ノルマを定める委員会の設置」、「出来高払い制を準則とすること」だった。これは、政府と癒着した労働組合中央評議会が、プロレタリアート300万人にたいして、プロレタリア独裁国家における「差別賃金か平等賃金か」という選択肢を突きつけたものだった。かくして、レーニンは、『国家と革命』における「平等賃金」公約を、権力奪取の5カ月後に、公然と裏切った。
5、1918年4月28日、レーニン『ソヴィエト権力の当面の任務』を発表
この中で、レーニンは、「ブルジョア専門家の高給での雇用」「企業内での管理者の個人独裁権限」「鉄の労働規律」方針を発表・擁護し、「出来高払い制」「(アメリカ資本主義)テーラーシステムの中の科学的なものの採用」を主張した。これは、彼自身も認めたように『「国家と革命」からの後退』だった。『国家と革命』公約を信じて、ボリシェヴィキを支持したプロレタリアートは、次々とレーニンの公約違反に直面していった。レーニンによる個人独裁容認への変質は、大藪龍介が分析している。
大藪龍介『国家と民主主義』レーニンのプロレタリア独裁理論、個人独裁容認
6、1918年5月13日、食糧独裁令発令。6月11日、貧農委員会を組織する法令公布
「レーニン型社会主義崩壊」の結果論になるが、「市場経済廃絶、貨幣経済も廃絶」「その廃絶の上での社会主義的計画経済」という社会主義青写真が、根本的な誤りであったことは、東欧革命・ソ連崩壊と、10の一党独裁国前衛党のいっせい崩壊によって証明された。これらの内容は、『第3部』に載せたので、ここに書かない。
第3部『1918年5月、革命農民への食糧独裁令・第3次クーデター』
この政策は、9000万農民の土地革命にたいするレーニン・政治局による一種の反革命クーデターと規定できる性質を持つ。それに抵抗する農民反乱が激化した。レーニンの誤りは、メドヴェージェフがいうように、内戦発生・拡大の第2主要原因になった。飢餓が深刻となり、それは都市プロレタリアートを直撃した。300万プロレタリアートは、レーニンによる労働者ソヴィエト、労働組合、工場委員会からの権力簒奪クーデター体験からだけでなく、飢餓深刻化という毎日の衣食住体験を通じても、「ボリシェヴィキに顔をそむけ」、労働者ストライキに決起して行った。
7、1918年6月18日、大工業国有化令発令
これにより、国有化のテンポが高まった。それは、同時に、ボリシェヴィキ一党独裁政府による上からの労働者管理・統制の強化をもたらした。1918年3月3日ブレスト講和条約の締結是非問題をめぐって、それに反対した左翼エスエルは、連立を離脱し、クーデター政府は、ボリシェヴィキ一党独裁体制になっていた。
(1)政府任命の工場・企業3人管理システムと、(2)管理・統制される側に転落した労働者との矛盾が激しくなった。レーニンの『国家と革命』公約からの後退、公約違反にたいする労働者の怒りは、ボリシェヴィキ支持率の急落に伴って、抗議デモ、ストライキとなって頻発した。
8、1919年1月16日、第2回全ロシア労働組合大会
白衛軍との内戦とともに、白衛軍占領地域以外では農民反乱が激化していた。戦時共産主義の下で、政府の労働者政策は、(1)内戦勝利、(2)穀物の軍事割当徴発のための労働者徴兵と、(3)前線および農村への派遣になった。レーニン・政治局・労働組合中央評議会は、労働組合を、「このボリシェヴィキ政権の政策が、もっとも有効に実行されるための道具」と正式に位置づけた。
第2回大会では、再び、労働組合の「中央集権化」か、それとも「国家にたいする労働組合の独立性」か、のテーマが論争になった。大会代議員600人中、ボリシェヴィキは450人で、メンシェヴィキ30人、国際派社会民主主義者37人だった。レーニンは、大会で長い演説をした。大会は、その演説どおりに、「中央集権的工業統制」「純地方的な利害の放棄」などのボリシェヴィキ決議を採択した。
大会後、全ロシア労働組合中央執行委員会と人民委員会議は、「賃金格差」の布告を出した。その内容は、(1)「出来高払い制」、(2)「ノルマ制」、(3)「ノルマ達成労働者への報奨金制」、(4)「12等級の賃金格差表」などである。
9、1919年12月6日、チェーカー「飢餓と労働者の問題」についての報告
ニコラ・ヴェルトは、『共産主義黒書』(P.97)に、次のチェーカー「政府宛報告」を載せた。最近では、食糧供給の危機は、ますます深刻化した。飢餓が労働者大衆をさいなんでいる。労働者にはもはや働き続けるだけの体力がなく、寒さと飢えが重なって、日毎欠勤する者が増大した。もし食糧供給の問題を可及的速やかに解決しない時は、多くのモスクワの冶金工場で絶望にかられた労働者大衆は、何でも――ストライキ、暴動、蜂起を――やりかねない状態である(ロシア現代史文書保存研究センター資料)。
10、1920年2月1日、レーニンのトロツキー宛「メモ」
レーニンの誤った穀物軍事割当徴発・市場経済廃絶路線により、食糧危機はますます深刻になる一方だった。そこで、クーデター政府は、食糧配給量を5つ階級別に分類した。その基準は、一党独裁体制存続のために不可欠な部門の特権的優先権による序列だった。(1)、特権者は、力仕事の労働者、赤軍兵士、チェーカーである。(2)、最下位は、有閑インテリ、反ソヴィエト知識人、聖職者全員、元・・・という帝政時代の役人・将校などである。ソ連崩壊後に明らかになったことは、(3)、レーニン・トロツキーをはじめ、政治局全員、政府機関メンバーが、特権の最上位にいたことである。
特権内容についてのソ連崩壊前のデータでは、ダンコース『奪われた権力』がある。それとともに、ヴォスレンスキー『ノーメンクラツーラ-ソヴィエトの赤い貴族-』(中央公論社、1981年)が、ソヴィエト社会の支配・特権階級の実態を克明に暴いた。ソ連崩壊後では、ヴォルコゴーノフ『レーニンの秘密』が、レーニン個人の特権内容とその利用実態を明らかにした。
ダンコース『奪われた権力』
山内昌之『革命家と政治家との間』レーニンの個人的特権・利用実態と人間性
ニコラ・ヴェルトは、『黒書』(P.98)に、レーニンのトロツキー宛「メモ」を載せた。パンの配給は、今日決定的に重要な輸送部門で働いていない者には減らし、そこで働いている者には増やすべきだ。何千もの人間が死んでもやむをえないが、国家は救わなければならない(Trotsky Papers, volⅡ,p.22)。
1919年から20年のペトログラードにおいて、配給は、さらに細分化された32種類のカードとなり、その有効期限は1カ月間を越えなかった。これは、レーニン・ボリシェヴィキが、食糧配給システムを、(1)ある階層を元気づけたり、(2)ストライキ労働者を罰したりする武器としたことを証明する。これらの政策によって、農村との関係をもつプロレタリアートの多くは、食糧を持ち帰るために農村に出かけたり、あるいは、食糧を求めて、都市を脱出した。
ところが、レーニン、ペトログラード・ソヴィエト議長ジノヴィエフは、ペトログラード市と農村との境界に民兵分遣隊を配備し、農村からの持ち込み食糧をすべて没収した。それは、袋を担いだ男(=闇商人)を取り締まる名目だった。しかし、労働者の食糧持ち込みも無差別に禁止し、その食糧も没収した。
この「民兵分遣隊の即時廃止」は、1年後の1921年2月、ペトログラード労働者の大ストライキにおける主な要求項目の一つとなった。レーニン、ジノヴィエフは、ペトログラード・ストライキ労働者5000人を逮捕し、指導者500人を即座に殺害した。その直後、1921年3月からのクロンシュタット・ソヴィエト反乱は、その抹殺されたストライキ要求を受け継いで、15項目の綱領の第8要求として掲げた。レーニンは、革命の栄光拠点の兵士ソヴィエト反乱による一党独裁政権崩壊の恐怖に慄いた。彼は、鎮圧司令官トゥハチェフスキーに命令し、水兵10000人、労働者4000人を含むコトリン島住民55000人の皆殺しをさせた。
11、1920年3月29日、第9回党大会でのトロツキーの「労働の軍事規律化」発言
このデータも『黒書』(P.97)のものである。1919年末から20年春にかけて、レーニン・政治局は、2000以上の企業を軍隊組織化した。その結果、ボリシェヴィキ権力とプロレタリアートとの関係は、ますます悪化した。
「労働の軍事規律化」提唱者トロツキーは、第9回大会において、自分の考えを発言した。その論旨は以下である。人間は生まれつき怠惰の傾向をもっている。資本主義の下にあっては、労働者は生きるために仕事を探さなければならない。働く者を駆り立てるのは資本主義市場である。社会主義の下では労働資源の利用が市場にとって代わる。したがって、国家のつとめは、勤労者を導き、使い、統率することであり、勤労者はプロレタリア国家の兵士、プロレタリアの利益の擁護者として服従しなければならない。
トロツキーの提唱は、一部の労働組合活動家や、一部のボリシェヴィキ指導者によって、きびしく批判された。それは、1921年2月に向けて、(1)党外で労働者の不満・怒りとして鬱積し、ペトログラード労働者大ストライキとなって爆発した。その批判は、(2)ボリシェヴィキ党内で、組合自治を求める「労働者反対派」という2大分派の一つとなった。レーニンは、1921年3月第10回党大会で「分派禁止規定」を緊急提案し、大会後、党員の上から下までの粛清を指令した。その結果、彼は、1921年夏までに、2大分派党員を中心として、党員の24%・136836人を除名した(ダンコース『ソ連邦の歴史1』P.223)。
しかし、実のところ、トロツキーによる労働の軍事規律化提唱や、実態としてレーニン・政治局が強行した2000以上の企業の軍隊組織化とは、次のことを意味した。
(1)、「戦時共産主義」にあっては、敵前逃亡と同じと政府が見なしたストライキの禁止である。
(2)、工場・企業の政府任命3人管理システムの指令と権限の強化であり、それへの労働者ソヴィエト・労働組合および工場委員会の完全な従属だった。
(3)、プロレタリアートが二月革命から「十月・ソヴィエト革命」にかけて自力で勝ち取った資本家経営全般にたいする労働者統制権限を簒奪した。そして、各労働者組織の役割をプロレタリア独裁の国有化企業におけるボリシェヴィキ生産政策の遂行に限定・矮小化してしまった。
(4)、当時の飢餓状況下で、労働者が、食糧探しのために、職場を離れたり、欠勤や遅刻するのを禁止する措置だった。
レーニン・トロツキーは、革命労働者にたいする軍事的抑圧政策によって、すべての労働者組織をボリシェヴィキ党独裁権力の道具に変質させた。レーニンがしたことは、一党独裁政権が赤色テロル手段で、労働者ソヴィエト権力を簒奪していく事実上のクーデターだった。
これら11項目の路線・政策は、「すべての権力を労兵ソヴィエトへ」と決起した労働者ソヴィエト革命にたいする反革命クーデターとなった。レーニン・トロツキーらによる労働者権力簒奪の第5次クーデターにたいし、革命労働者2.7%・300万人はどうすべきだったのか。どうしたのか。一党独裁政権はどのような対応をしたのか。
4、労働者ストライキ頻発とストライキ労働者の大量逮捕・虐殺
〔小目次〕
1917年から20年にかけての、労働者ストライキの状況、鎮圧実態については、1997年フランスで出版された『共産主義黒書』が、ソ連崩壊後に初めて明らかにした。
E・H・カーは、『ボリシェヴィキ革命2』(原著1952年)で、レーニンの労働者・産業政策を上記のように、綿密に分析した。しかし、ソ連崩壊前では、ストライキとその弾圧実態は「極秘・完全隠蔽」で、彼もそれを発掘できなかった。
ニコラ・ヴェルトは、『黒書』(P.94)で、その理由を次のようにのべている。ボリシェヴィキは、労働者の名において政権を獲得したのだが、弾圧のエピソードの中で、新体制が最も注意深く隠蔽したのは、まさにその労働者にたいして加えた暴力だった。
アイザック・ドイッチャーは、E・H・カー『ボリシェヴィキ革命・全3巻』の内容について、ロシア革命に関しこれ以上のデータは、もう見つからないだろう、とまで高く評価した。ところが、彼ら2人とも、下記のような労働者にたいする暴力データを、レーニンらが最も注意深く、完全隠蔽していたとは、気づかなかった。
以下のデータは、すべてニコラ・ヴェルトが掘り出した資料に基づいている。詳細な出典がそれぞれに付いているが、ロシア語原典をフランス語に直したもので、邦訳された資料はない。よって、出典としては、『黒書』のページ数を書く。これらは、『黒書』(P.70~99)にある。「第2章、プロレタリア独裁の武装せる腕(かいな)」と「第3章、赤色テロル」から、ストライキ関係データのみを、抜粋・要約し、月日・都市・事項を太字にした。私の見解も若干加えた。
12月、ペトログラード、公務員ストライキ
時期的には、鉄道従業員組合と同じような、ボリシェヴィキ単独権力奪取にたいする直後の批判ストとも推測される。しかし、正確なストライキ原因は、書いてない。レーニンが創設したばかりの秘密政治警察チェーカーが、最初にやったのは、この公務員ストライキの粉砕だった。そのやり方は迅速で、リーダーの逮捕だった。ジェルジンスキーが断言した逮捕の根拠は、人民とともに働くことを欲しないものは、人民とともにいる場所をもたないである。ストライキ労働者のいる所は監獄であるというのが、権力奪取1カ月後のレーニン、ジェルジンスキーの基本姿勢だった。1905年革命における労働者ストライキを称賛し、激励した「革命家レーニン」は、権力奪取の瞬間から、ストライキ労働者を逮捕する一党独裁クーデター政府の最高権力者レーニンへと、見事に変身した(『黒書』P.70)。
4月11~12日、モスクワ、チェーカーによるアナキスト襲撃
これは、チェーカーの最初の大規模作戦だった。1000人以上の特別部隊が、アナキストの20軒ほどの家を襲撃した。アナキスト520人を逮捕し、25人を「匪賊」として略式処刑した。それは、裁判なしの恣意的な銃殺である。「匪賊」(バンディト)というレッテルは、その後、ストライキ労働者、徴兵忌避者や反乱農民をも指すようになった(『黒書』P.73)。
トロツキー・フルンゼらは、ウクライナのマフノ軍にも同じレッテルを貼り、マフノ運動参加者を皆殺しにした。
5~6月、ソ連全土、ボリシェヴィキの選挙敗北と社会主義他党派の全面弾圧・逮捕
権力奪取半年後で、上記路線・政策によって、ボリシェヴィキ支持率は、ソ連全土で急落した。大衆がボリシェヴィキに顔をそむけた結果、ソヴィエト改選選挙が行われた30の県庁所在地の内、19地区で社会革命党(左派エスエル)とメンシェヴィキが勝利した。「すべての権力をソヴィエトに」とした革命権力機関・ソヴィエト内における一党独裁政党ボリシェヴィキの大敗北である。県庁所在地ソヴィエトとは、プロレタリアートが最も集中していた地区であり、そこでの敗北は、プロレタリアートがプロレタリア独裁国家を名乗るボリシェヴィキ一党独裁政権の不支持を明確に表明したことだった。
選挙敗北・惨敗者レーニンの対応は、勝利政党にたいする全面弾圧だった。その詳細な経過データは、『第4部』に載せたので、省略する。
第4部『1918年6月、他党派をソヴィエトから排除・第4次クーデター』
7月24日、3都市とイジェフスク兵器工場労働者の蜂起
3都市のヤロスラヴリ、ルイビンスク、ムーロムで、社会革命党指導者ボリス・サヴィンコフの指揮下で、「祖国〔と自由〕防衛同盟」によって組織された反乱が起きた。また、イジェフスク兵器工場労働者の蜂起が、メンシェヴィキと社会革命党の地方組織の扇動で発生した。ヤロスラヴリ市が、半月の抵抗後に陥落し、ジェルジンスキーは、特別調査委員会を派遣した。チェーカー委員会は、7月24日から28日までの5日間で、428人を処刑した(『黒書』P.81)。
8月30日、2つの暗殺事件と「赤色テロル」の合法化と大波
8月30日、レーニンとペトログラード・チェーカー長官ウリツキーにたいする暗殺事件が起きた。事件の内容とそれにたいする「赤色テロル」については、『赤色テロル』ファイルで詳細に分析した。この『黒書』でも、82ページから88ページにかけて、さらに詳しいデータが載っている。
『「赤色テロル」型社会主義とレーニンが「殺した」自国民の推計』
9月、ジノヴィエフの断言
我々の敵を滅ぼすには、我々は自身の社会主義テロルを持たなければならない。我々はソヴィエト・ロシアの1億の住民中、そう9000万を我々の側に引き込まなければならない。その他の者については、何も言うことはない。彼ら(残りの1000万人)はすべて殲滅されるべきである(『黒書』P.84)。
このジノヴィエフ発言は、国民の10%・1000万人を殺害するテロルを、公然と是認し、推進する「赤色テロル」思想だった。その思想に基づいて、レーニンは、最低でもロシア革命勢力数十万人を殺害し、スターリンは、約4000万人を粛清した。
ただ、一連のファイルにおいて、私は、1917年~18年の人口を1億1250万人、有権者9000万人としている。
10月25日、ボリシェヴィキの党中央委員会、「新しいチェーカー法規」の審議
チェーカーの役割をめぐって、ボリシェヴィキ指導部内に論争が起きた。ブハーリン、オルミンスキーや内務人民委員ペトロフスキーは、ソヴィエトと党自体を超えて行動することをのぞむ一機関に全権をゆだねることを批判した。カーメネフは、単純・率直に、チェーカーを廃止することまで提案した。
しかし、無条件のチェーカー支持派が勝利を占めた。それは、ジェルジンスキーのほか、スヴェルドロフ、スターリン、トロツキー、そしてもちろんレーニンといった党のトップたちだった。彼らは、テロの問題をより広い観点から考察することのできない・・・偏狭なインテリによって、多少の行きすぎを批判された機構を断固擁護した。
11月初め、ペルミ県、モトヴィリハ武器工場のストライキと弾圧・処刑
ストライキの理由は、(1)食糧配給が「社会的出身」に応じてなされるボリシェヴィキ的原則や、(2)チェーカーの職権乱用への抗議だった。
当局は、ひとたび労働者がストライキに入れば、(1)それを全工場が蜂起の状態に入ったと宣言した。当局は、(2)ストライキ中の労働者との話し合いをまったく行なわなかった。そして、(3)工場をロックアウトし、(4)全労働者を解雇した。(5)リーダーを逮捕し、(6)ストライキの元凶と疑いをかけたメンシェヴィキの「反革命家」を手配した。地方チェーカーは、『赤色テロル』ファイルで書いたような、秋から始まった、中央による赤色テロル殺人の呼び掛けに奮い立って、(7)ストライキ参加者100人以上を、正式な裁判もせずに、処刑した(『黒書』P.87)。
1918年の夏以降、このようなやり方は、しばしば行われた。報道から察せられる限り、1918年秋の2カ月間で、チェーカーは、「赤色テロル」によって、約1万人から1万5000人という大量処刑をした。(『黒書』P.87)。
12月19日、中央委員会、チェーカーにたいする中傷的記事の掲載禁止決議を採択
レーニンの提案で、中央委員会は、ボリシェヴィキの報道が、諸機構、とりわけ困難な情況の下で任務を果たしたチェーカーにたいする中傷的記事を掲載することを禁止する決議を採択した。かくて、チェーカーをめぐる論争は終わった。「プロレタリアの鉄の腕」は、絶対に誤りをおかさぬという証明を、レーニン・中央委員会によって受けた。レーニンが言うように、「よきコミュニストはよきチェキストでもある」となった。(『黒書』P.88)。
以下の4件は、重要なデータであるので、『黒書』から、そのまま引用・抜粋する。ただ、私の方で、字句の変更、番号の挿入をしてある。
3月10日、ペトログラードの大騒動と鎮圧
『隠蔽された労働者への弾圧
ボリシェヴィキは労働者の名において政権を獲得したのだが、弾圧のエピソードの中で新体制が最も注意深く隠蔽したのは、まさにその労働者にたいして加えた暴力であった。一九一八年から始まったこの弾圧は、一九一九~一九二〇年にかけて進行し、その絶頂は有名な一九二一年春のクロンシュタットのエピソードである。ペトログラードの労働者たちは一九一八年の初め以来、ボリシェヴィキに対する不信感を表明してきた。一九一八年七月二日のゼネスト失敗のあと、ボリシェヴィキは社会革命党の何人かの指導者を逮捕したが、これはその中のマリア・スピリドーノヴァが、ペトログラードの主立った工場をめぐって大喝采を博した直後だった。
この逮捕のあとの一九一九年三月に、労働者の二度目の大きな騒動が、古都ペトログラード〔新都はモスクワ〕で起こった。すでに食糧供給の難しさから、情勢はかなり緊張していたが、この逮捕によって広範な抵抗運動とストライキが開始された。一九一九年三月十日、プチーロフ工場の労働者の総会は、一万の参加者の前で正式にボリシェヴィキを非難する宣言を採択した。「この政府は、チェーカーと革命裁判所の助けをかりて統治する共産党中央委員会の独裁でしかない。」
宣言は、「(1)全権力のソヴィエトへの移行、(2)ソヴィエトと工場委員会における自由な選挙、(3)労働者が田舎からペトログラードへ持ち込むことのできる食糧の制限(一・五プード、すなわち二四キロ)廃止、(4)投獄されている「真に革命的諸党派」の政治家、とくにマリア・スピリドーノヴァの釈放」を要求した。
日毎増大する運動を抑えるために、レーニンは一九一九年三月十二~十三日に、自らペトログラードにおもむいた。労働者に占拠されている工場で演説をしようとした時、彼はジノヴィエフとともに「ユダヤ人と人民委員を倒せ!」という叫びにやじり倒されてしまった。一九一七年十月の革命のあとボリシェヴィキが一時的に獲得していた信頼が失われるや、いつでも表面化せんとしていた民衆の底辺にあった昔からの反ユダヤ主義が、ただちにユダヤ人とボリシェヴィキを結びつけたのだった。有名なボリシェヴィキ指導者の中に占めるユダヤ人(トロツキー、ジノヴィエフ、カーメネフ、ルイコフ、ラデックら)の割合が大きかったことが、大衆の目には、ボリシェヴィキとユダヤ人の融合を証明するようにみえた。
一九一九年三月十六日、チェーカーの分遣隊は、武器を手にして守っていたプチーロフ工場を襲撃した。およそ九〇〇人の労働者が逮捕された。その後数日間に、約二〇〇人のストライキ参加者が、ペトログラードから五〇キロほど離れたシュリッセリブルク要塞監獄で、裁判もなしに処刑された。スト参加者は全員解雇された。そのあと、労働者たちは、新しい儀式によって、自分たちが反革命のリーダーによって騙され、「犯罪に引き込まれた」という声明に署名したあとでなければ、再雇用されることがなかった。このあと労働者は厳しい監視下に置かれた。一九一九年春以降、チェーカーの秘密部門は、いくつかの労働運動の中心に、あれこれの工場における「精神状態」を定期的に報告する任務を負った密告者網を設置した。労働者階級は危険な階級となった…』(『黒書』P.94)。
1919年春、8都市における労働者ストライキと鎮圧
『危険な階級
一九一九年春は、トゥーラ、ソルモヴオ、オリョール、ブリヤンスク、トヴェーリ、イヴァノーヴォ・ヴォズネセンスク、アストラハンなど、労働者の町いくつかで多くのストライキが起こって、乱暴なやり方で鎮圧されたことで特記される。労働者の要求事項はほとんどどこでも同じだった。給料は飢餓のレベルの、一日半フント〔二〇〇グラム〕のパンが買えるだけの配給券と同じにまで下がってしまった。そこから、スト参加者はまず「(1)配給量を赤軍兵士と同じ水準まで引き上げること」を要求した。しかしそれにとどまらず、彼らの要求は、なによりも政治的なものでもあった。「(2)共産党員の特権の廃止、(3)すべての投獄されている政治犯の釈放、(4)工場委員会やソヴィエトへの自由な選挙、(5)赤軍への徴兵の廃止、(6)結社・言論・出版の自由」などである。
これらの運動がボリシェヴィキ政権にとって危険に見えたのは、それがしばしば労働者街の兵営に居住する軍隊を味方につけたからであった。オリョール、ブリヤンスク、ゴメル、アストラハンにおいて、反乱を起した兵士は(7)「ユダヤ人に死を! ボリシェヴィキの人民委員を倒せ!」と叫んであるトライキ参加者と合体した。彼らはチェーカーの分遣隊や、数日間の戦闘のあとでも依然として体制に忠実な部隊によって再占領されていない町の一部を占拠し、掠奪した。これらのストライキや兵士の反乱に対する弾圧の仕方は、様々であった。(1)工場全体をロックアウトし、(2)配給券を差し押さえてしまう――ボリシェヴィキ権力の最も強力な武器は、飢餓だった――というやり方から、(3)何百というスト参加者や反乱兵をまとめて処刑するのまで、いろいろだった』(『黒書』P.95)。
3月10日、アストラハン、労働者ストライキ・兵士反乱と大虐殺
『アストラハンの虐殺
ヴォルガ河口近くのアストラハンの町は、一九一九年春には戦略上とくに重要な意味を持つようになっていた。ボリシェヴィキにとってこの町は、北東からのコルチャーク提督の軍勢と、南西からのデニーキン将軍の軍勢とが合流することを阻止しなければならない重要地点だった。一九一九年三月にこの町のストライキがかつてない荒々しさで鎮圧された理由は、おそらくこれが理由だったろう。
三月初めに、(1)経済的理由-きわめてわずかな配給量と、(2)政治的理由-社会主義者活動家の逮捕、から始まったストライキは、第四五連隊が、町の中心を行進していた労働者に発砲するのを拒否した三月十日に、質的に変化した。ストライキを行っていた労働者に合流した反乱軍兵士は、ボリシェヴィキの本拠を襲って、何人かの指導者を殺した。この時アストラハン県軍事革命委員会議長のセルゲイ・キーロフは、「あらゆる手段を使って白軍のシラミどもを一掃」するように命じた。町を再占領するべく徹底的に攻撃する前に、依然として体制に忠実だった部隊とチェーカーの分遣隊は、町へのすべての道を閉鎖した。
はち切れんばかりにいっぱいの牢獄から出されたスト参加者と反乱兵は、平底船に乗せられたあと、首に石を付けられて何百人もがヴォルガ川に沈められた。三月十二日から十四日にかけて、二〇〇〇から四〇〇〇の間のスト参加者と反乱兵が、銃殺されたり、溺死させられた。十五日から今度は「白軍」の陰謀を「教唆した」という口実で、町の「ブルジョワ」が襲われた。しかし労働者も兵士も、たとえ「白軍」だったとしても、ほんの下っ端でしかなかっただろう。二日間、アストラハンの富裕な商人の屋敷は掠奪され、主人は捕らえられて、銃殺された。アストラハンで虐殺された「ブルジョワ」の犠牲者は、おおよそ六〇〇から一〇〇〇の間と見積もられる。合計すると一週間で、三〇〇〇から五〇〇〇の間の人が処刑されたり、溺死させられた。
一方、共産党の側で殺され、三月十八日――この日は当局が宣伝するパリ・コミューン記念日だった――に盛大な儀式をもって埋葬された者の数は四七人だった。赤軍と白軍との戦闘における単なるエピソードとして長いこと語られてきたアストラハンの虐殺は、今日入手し得る史料に照らしてみると、その本当の性格が明らかになる。それはクロンシュタットの虐殺前の、ボリシェヴィキ権力によって行なわれた最大の労働者虐殺だった』(『黒書』P.96)。
3月27日、トゥーラ、兵器製造工場の労働者ストライキと大量逮捕・死刑
『弾圧に関して最もその性格を示したのは、一九一九年の三~四月にトゥーラとアストラハンで起こった事件である。一九一九年四月三日、ジェルジンスキーは自らトゥーラに赴いたが、それはこのロシアでも武器製造で歴史的に有名な都市で起こった、兵器製造工場のストライキを粉砕するためだった。ロシアの小銃生産の八〇%を占め、赤軍の死命を制するこの町で、一九一八~一九年の冬には、多くの工場が相次いでストライキに入っていた。質の高い労働者の中で活躍する政治的闘士の間では、メンシェヴィキと社会革命党員が多数を占めていた。
一九一九年三月初めに、数百人の社会主義者の活動家が逮捕され、それは大きな抗議の波を引き起こした。ついに三月二十七日には何千という労働者と鉄道員の巨大な「自由を求め飢えと闘う行進」に発展した。四月四日、ジェルジンスキーはさらに八〇〇人の「リーダー」を逮捕させ、数週間前からスト参加者によって占拠されていた工場から労働者を武力で排除した。全労働者が解雇された。
労働者の抵抗は、飢えという武器で打ち破られた。もう数週間前から、配給券は配布されていなかった。日に二五〇グラムのパンをもらうための新しいカードを受領し、ロックアウト後の仕事を見つけるためには、労働者は雇用願に署名しなければならなかった。そしてそこには、今後仕事を中止した時は、兵士の逃亡と同様、死刑をもって罰せられると明記されてあった。四月十日、生産が再開された。その前日、二六人の「リーダー」が死刑に処された』(『黒書』P.95)。
1月29日、レーニンによる第5軍軍事革命委員会議長スミルノフへの電報
レーニンや共産党最高指導部は、ストライキにたいする見せしめの弾圧を呼び掛けた。ウラルの労働運動が高まっていた。それが不安になったレーニンは、スミルノフへの電報を送った。Pの報告によれば、鉄道労働者が大規模なサボタージュをしたという・・・伝え聞くところでは、イジェフスクの労働者も関係したとのことだ。わたしは君がそれを放置し、サボタージュを大衆処刑で処置しないことに驚いている。『黒書』(P.99)
2月12日、『プラウダ』記事、ストライキ参加者「黄色い害虫」
工場における「秩序回復」をめざした労働の軍事規律化の方策は、期待した効果とは反対に、多くの時限スト、作業中止、ストライキ、暴動を引き起こした。当局は、それらを情け容赦なく鎮圧した。1920年2月12日の『プラウダ』はこう書いている。これら有害な黄色い害虫であるストライキ参加者の絶好の場所は強制収容所である。
労働人民委員部の公式統計によれば、1920年前半にロシアにおける大・中規模工業経営の77%においてストライキが起こっている。中でも金属工業、鉱山、鉄道といった混乱の元になった部門が、労働の軍事規律化が最も進んだ分野だった。チェーカーの秘密部門がボリシェヴィキ指導部に送った報告は、軍事規律化に反対する労働者に加えられた弾圧がどんなものだったかを明らかにした。逮捕された労働者は、たいてい「サボタージュ」または「脱走」という罪で革命裁判所に裁かれた。
3月から6月、「労働の軍事規律化」にたいする労働者ストライキの激発と弾圧
労働の軍事規律化を通じて、多くのストライキが起った。
3月、エカチェリンブルグ、当局は、ストライキ労働者80人を逮捕し、収容所送りにした。
4月、リャザン-ウラル間の鉄道では、鉄道員100人を有罪にした。
5月、モスクワ-クルスク線では、鉄道員160人を有罪にした。
6月、ブリヤンスクの金属工場では、労働者152人を有罪にした。
労働の軍事規律化にたいするストライキがきびしく弾圧された例は、さらに何倍にもなる『黒書』(P.99)。
6月6日、トゥーラ、武器工場のストライキと「トゥーラ陰謀撲滅委員会」の鎮圧
これも、原文をそのまま抜粋・引用する。
『「トゥーラ陰謀撲滅委員会」
体制に反対する労働者の抗議で有名なのは、一九二〇年六月、トゥーラの武器工場の場合である。もっともここは、すでに一九一九年四月に、きびしい弾圧を経験したところであった。一九二〇年六月六日の日曜日に、何人かの金属労働者が上から要求された時間外労働を拒否した。女子の工員たちはこの日も、それ以前の日曜日も働くことを断っていた。それは近郊の農村に食糧の買い出しに行くことができるのは、日曜だけという理由からだった。
管理部の要請で、チェーカーの分遣隊がストライキ参加者を逮捕に来た。戒厳令が出され、「赤軍の戦闘力を弱める目的で、ポーランドのスパイと黒百人組〔反ユダヤ人主義をかかげる右翼の組織〕に扇動された反革命の陰謀」を告発するために、党とチェーカーを代表するトロイカがつくられた。
ストライキが広がり、リーダーの逮捕が増える一方で、事態の通常の展開を乱すような新たな事実が生じた。何百、何千という労働者や下級管理者がチェーカーに出頭して、自分らも逮捕してくれと言った。この動きは大きくなり、「ポーランドと黒百人組の陰謀」が馬鹿げたものであることを明らかにするために、労働者は大量逮捕を要求した。四日間で一万人以上が獄を満たした上、さらにチェーカーに監視された青天井の空間に押し込まれた。忙殺されて、もはや事態をなんとモスクワに報告してよいかわからなくなった党とチェーカーの地方組織は、ついに中央当局を、広範な陰謀が生じていると言いくるめた。
「トゥーラ陰謀撲滅委員会」がつくられ、何千という男女の労働者が、犯人発見のために尋問された。逮捕された労働者は、釈放され、再雇用されて、新しい配給カードを受けるために、「下記に署名する、臭くて罪ある犬である私は、革命裁判所と赤軍の前に悔俊し、自分の罪を告白し、良心的に働くことを約束する」という声明書に署名しなければならなかった。
他の労働者の抗議運動とは反対に、一九二〇年夏のトゥーラの騒動は、かなり軽い判決で終わった。二八人が収容所送りとなり、二〇〇人が流刑となった。高度の技能を持った労働力が不足していた状況から、おそらくボリシェヴィキ権力は、国一番の兵器製造工なしではやっていけなかったからだろう。抑圧についても、食糧の供給と同じように、決定的に重要な部門や、体制の優先的利益を勘案しなければならなかった』(『黒書』P.99)。
以下は、上記データを(表)にしたものである。出典は、すべて『共産主義黒書』のページ数である。ただ、未判明分、未記載分が多くあり、数字に含めていない。レーニンが、どれだけのストライキ労働者を逮捕し、殺害したのかを検証する。
(表3) 労働者ストライキと参加者の大量逮捕・処刑数
年 |
地方・都市 |
月日・内容 |
逮捕・処刑 |
出典 |
1917 |
ペトログラード |
12、公務員ストライキ |
リーダー逮捕 |
70 |
1918 |
モスクワ ソ連全土 コルピノ エカチェリンブルグ 7都市 ペトログラード (ボ)支配地域 ヤロスロヴリ ペルミ県 |
4.11、アナキスト襲撃 5、6、社会主義的反対派新聞 反対派勝利のソヴィエト解散 5、6、労働者の食糧要求デモ 5、6、ベレゾフスキー工場の抗議集会 5、6、抗議集会、デモ、ストライキ 5、6、ストライキ、集会、デモ70件 6.20、暗殺への「赤色テロル」 7.2、抗議のゼネスト呼び掛け 夏、大規模な「農民反乱」140件 7.24、イジェフスク兵器労働者蜂起 11、モトヴィリハ武器工場ストライキ |
逮捕520人、処刑25人 新聞205を発行禁止 19/30で敗北、12を解散 射殺10人 殺害15人、銃殺14人 流血の鎮圧 ロックアウト、指導者逮捕 逮捕800人 弾圧、スピリドーノヴァ逮捕 処刑428人 ロックアウト、全員解雇、逮捕、処刑100人以上 |
73 75 76 78 80 81 87 |
年 |
地方・都市 |
月日・内容 |
逮捕・処刑 |
出典 |
1919 |
ペトログラード 9都市 4都市 アストラハン トゥーラ |
3.10、全市の抵抗運動とストライキ プチーロフ工場も党独裁批判の宣言 春、ストライキ 春、労働者街にある兵営の軍隊反乱 3.10、食糧配給量と社会主義活動家逮捕への抗議ストライキ、デモ。それへの発砲拒否の第45連隊の合流。クロンシュタット虐殺前のボリシェヴィキ権力による最大の労働者虐殺 冬、多くの武器製造工場であるトライキ 3月初め 3.27、何千という労働者と鉄道員の「自由を求め飢えと闘う行進」 |
全員解雇、逮捕900人、処刑200人、密告者網 ロックアウト、処刑、配給停止 何百とまとめて処刑 スト参加者と反乱兵士の銃殺・溺死処刑2000人から4000人。ブルジョア銃殺600人から1000人共産党側犠牲47人 社会主義活動家逮捕数百人 リーダー逮捕、全労働者解雇、ロックアウト、配給券差押え、リーダー死刑20人 |
94 95 96 96 |
年 |
地方・都市 |
月日・内容 |
逮捕・処刑 |
出典 |
1920 |
レーニン プラウダ 労働人民委員部の公式統計 シンビルスク エカチェリンブルグ リャザン・ウラル線 モスクワ・クルスク線 ブリヤンスク ソ連全土 |
2.1、「何千もの人間が死んでもかまわないが、国家は救われなければならない」 2.12、「これら有害な黄色い害虫であるストライキ参加者の絶好の場所は、強制収容所である」 20年前半、ロシアの大・中規模の工業経営の77%であるトライキ。「労働の軍事規律化」が最も進んだ金属工業、鉱山、鉄道が中心 4、武器工場でイタリア・ストライキ型サボタージュ=許可なし休憩、日曜強制労働に抗議、共産主義者の特権批判、低給与告発 「労働の軍事規律化」への抗議ストライキ 4、鉄道員 5、鉄道員 6、金属工場 「労働の軍事規律化」によるストライキの例は、さらに何倍もある |
収容所送り12人 逮捕・収容所送り80人 有罪100人 有罪160人 有罪152人 それへの弾圧も何倍もある |
98 99 |
5、1921年2月、ペトログラード労働者の全市的な山猫ストと弾圧
〔小目次〕
2、ペトログラードのデモ・山猫ストと大量逮捕・弾圧・殺害手口
1、ペトログラード労働者の飢餓と経済要求、政治要求の激化
この状況については、イダ・メット『クロンシュタット・コミューン』の「クロンシュタット前夜のペトログラード」や、P・アヴリッチ『クロンシュタット1921』が、詳細な分析をした。その要点を時系列順に直して載せる。
イダ・メット『クロンシュタット・コミューン』クロンシュタット前夜のペトログラード
〔小目次〕
1920年夏、ジノヴィエフの商取引を禁じる布告発令
1921年1月、ペトログラード市国家供給部(Petrokommouna)の報告
1920年~21年の冬、飢餓の深刻化
1月21日、政府が都市へのパン配給量を1/3に削減する政策を発表
2月上旬、燃料欠如による工場閉鎖と食糧供給の途絶
2月中旬、モスクワの工場集会とデモ・ストライキの激発
2月22日、モスクワの労働者デモとチェーカーによる鎮圧
1920年夏、ジノヴィエフの商取引を禁じる布告発令
市場は、公式には廃止となっていた。しかし、なかば黙認された闇市場は、ペトログラードにも存在していた。1920年夏、突然、ペトログラード・ソヴィエト議長ジノヴィエフが、いかなる種類の商取引をも禁じる布告を発令した。当局は、それまで開いていたわずかな数の小商店を閉鎖させ、その扉を封印した。これは、レーニンの市場経済廃絶路線に基づいて、ソ連全土で強行された。この瞬間から、飢餓はもはや住民の創意工夫によっては緩和できないものとなった。ペトログラードの飢餓はその極点にまで高まった。
1921年1月、ペトログラード市国家供給部(Petrokommouna)の報告
それによれば、金属精錬工場労働者は1日分の配給量として黒パン800グラム、その他の重工業の労働者は600グラム、A・Ⅴカードを所有する労働者は400グラム、残余の労働者は200グラム、をそれぞれ割りあてられていた。黒パンは、当時のロシア人にとって主食だった。
ところが、こうした公式の割当てなら、不規則にしか配給されず、しかも規定量よりも少ないというありさまだった。住居は、暖房なしだった。衣類と靴の欠如はひどいものだった。公式統計によれば、ペトログラードにおける1920年の労働者階級の賃金は、1913年当時のそれのわずか9パーセントにすぎなかった。
住民は首都から流出していった。地方に親戚をもっている人びとは、そこへ帰っていった。正真正銘のプロレタリアートは、地方ときわめて細々とした関係を保ちながら、最後まで留まっていた。当時ペトログラードに駐留していた数千の労働軍兵士(Troudarmeitzys)も、同じ事態だった。労働軍兵士とは、徴兵した農民兵士を内戦終結後でも帰村させないで、労働軍として工場で働かせるという軍事人民委員トロツキー提案の全国的政策だった。最後にストライキという階級闘争の古典的武器に訴えたのは、先行する二月革命と十月ソヴィエト革命で傑出した指導的役割を演じた、かの名高いペトログラード・プロレタリアートそのものだった。
1920年~21年の冬、飢餓の深刻化
ペトログラードの人口が3分の2も減少したにもかかわらず、1920年~21年の冬はことに厳しいものになった。市中の食糧は1917年2月以来、払底していて、その後の事態は、毎月毎月悪化していた。大都市ペトログラードは、他の諸地方から持ち込まれる食料品に、つねに依存してきた。しかし、これらの地域の多くで、農村経済は危機に瀕しており、ペトログラードへの供給は、きわめて少量だった。鉄道の悲劇的な状態は、事態をさらに一段と悪化させていた。
その原因は、(1)食糧独裁令の軍事割当徴発という9000万農民から穀物家畜を暴力で収奪する根本的に誤ったレーニン路線と、(2)食糧供給にあたる国家諸機関の行政上の官僚主義的堕落である。その結果、住民に食糧を供給するという政府の役割は、実際には反対の飢餓の進行をもたらした。
ペトログラードの住民は、ありとあらゆる可能なところで、食糧を調達した。物々交換は、大規模に行なわれていた。農村には未だ若干の食糧の予備があり、農民は、この穀物を自分たちに欠如した品物――長靴、石油、塩、マッチといった生活用品――と交換する。労働者は、それらの品物を携えて農村へ行き、交換に数ポンドの小麦粉や馬鈴薯を肩にかついでくるのだった。
1月21日、政府が都市へのパン配給量を1/3に削減する政策を発表
この政策にたいし、労働者のボリシェヴィキ体制への怒りは、極限状態になった。(1)労働者の怒りは、(2)ペトログラード守備軍や、(3)周辺のバルチック艦隊水兵にも波及した。クロンシュタット・ソヴィエトは、ペトログラードのすぐ沖のコトリン島にあった。バルチック艦隊の最大拠点基地である島には、水兵・労働者を含むソヴィエトの住民55000人がいた。
2月上旬、燃料欠如による工場閉鎖と食糧供給の途絶
当局は、ペトログラード最大の工場60以上を、燃料欠如のため、閉鎖した。食糧供給も、政府の特権階層以外、おおかた途絶した。飢えた労働者と兵士たちが、街頭でパン屑を乞う状況が現れた。激昂した市民は、階級範疇による不平等な配給制度に抗議した。
レーニン・ジノヴィエフは、ペトログラードにおいて、(1)32種類の食糧配給カードによる階級差別政策を施行し、(2)食糧配給有効期限1カ月間のみのカード・システムを労働者支配・ストライキ鎮圧の武器にしてきていた。(3)その中の特権階層とは、政府官僚、チェキスト、赤軍、ボリシェヴィキ党員などだった。市民と労働者の怒りは、(4)ボリシェヴィキ党員だけが、新しい靴と食糧を受け取った、という噂で頂点に達していった。
2月中旬、モスクワの工場集会とデモ・ストライキの激発
最初の労働者決起は、新首都モスクワで、噴出した。自然発生的な工場集会のラッシュで始まった。それに続いて、ストライキとデモが行われるにつれて、決起は全市に広がり、急速にエスカレートした。製革工の代表者会議や非党員金属工の代表者会議も開かれようとした。
経済要求は、(1)労働の軍事規律化・戦時共産主義の即時廃止と自由労働制実施、(2)食糧独裁令の穀物徴発撤廃と自由取引・自由商業回復、(3)配給量の増額などだった。彼らは、経済要求に止まらなかった。
政治要求は、(4)政治的権利と市民的自由の回復、(5)憲法制定議会の復活だった。なかには、(6)共産主義者とユダヤ人はくたばれというプラカードもあった。
最初、当局は、救済の約束でデモを終わらせようとしたが、失敗した。レーニンも、モスクワ金属工場の騒々しい集会に出て、説得しようとしたが、労働者たちからやじり倒された。ここにいたって、もはや、労働者にたいするレーニン演説の権威は、完全に地に落ちた。そこで、レーニンは、正規の軍隊と士官学校生徒(クルサントゥイ)を導入し、ストライキ労働者を弾圧し、秩序を回復させた。
ただ、モスクワにおけるストライキ工場数、参加労働者、逮捕・処刑数などは、ソ連崩壊後も、判明していない。
2月22日、モスクワの労働者デモとチェーカーによる鎮圧
22日から24日、モスクワで労働者デモが発生した。デモ隊は、兵士に連帯を表明するために、モスクワ守備隊の兵営に入ろうとした。チェーカー分遣隊が、それを阻止し、デモ隊何人かを殺し、何百人も逮捕した。
2、ペトログラードのデモ・山猫ストと大量逮捕・弾圧・殺害手口
1921年2月22日~3月3日の10日間
〔小目次〕
2月22日、ペトログラードの工場ほとんどで自発的労働者集会が勃発
2月23日、トルーボチヌイ工場における最初のストライキ発生
2月24日、労働者集会・3000人デモと、即時弾圧体制確立・「戒厳令」発令
2月25日、トルーボチヌイ工場労働者が周辺の工場に職場放棄を呼び掛け
当局の弾圧と宣伝
2月26日、クロンシュタット調査代表団派遣。当局の弾圧とストライキ沈静化目的の譲歩
2月27日、労働者側の宣伝文・ビラ。当局による譲歩追加
2月28日、プチーロフ工場ストライキ決起
党員軍のペトログラード突入命令とストライキ粉砕。
クロンシュタット代表団の帰着と決議
3月 1日、クロンシュタット人民大会。当局の譲歩追加
以下のデータは、主に、ソ連崩壊前に出版された、P・アヴリッチ『クロンシュタット1921』、イダ・メット『クロンシュタット・コミューン』、ヴォーリン『知られざる革命』ら3人の著書に基づいている。ソ連崩壊後の研究で、ニコラ・ヴェルト、ヴォルコゴーノフ、その他のロシア革命史研究者の著書は、このペトログラードの10日間について、新しい資料をあまり載せていない。E・H・カーも、具体的なデータを書いていない。日本人研究者で、このテーマを分析した人は、私の知る限り、2006年までに一人もいない。
以下の内容は、3冊の資料を、私なりにまとめ、要約し、私の見解を含めて再構成したものである。また、P・アヴリッチは、「第2章、ペトログラードとクロンシュタット」(P.39~100)において、下記データに関する出典の(注)を、92カ所もつけている。しかし、出典文献が、すべてロシア語か英語なので省略する。
ジョン・リードは、『世界をゆるがした十日間』(岩波文庫、1919年初版)で、「十月革命」のペトログラードを生き生きと描いた。彼は、アメリカ共産党員として、これをボリシェヴィキ全面支持の立場から書いた。レーニンは、1919年末の「序文」において、私はこの書を世界の労働者たちに無条件で推薦する、と絶賛した。
その10月25日(新暦11月7日)から3年4カ月後、ふたたび、「ペトログラードとレーニンをゆるがした十日間」が勃発した。今度は、レーニン・トロツキーらによる反労働者第5次クーデター路線・政策に反対し、その撤廃要求を掲げたペトログラード・プロレタリアートの集会・デモ・全市的な山猫ストだった。
レーニンは、(1)ソ連全土での革命農民反乱、(2)モスクワ・ペトログラードの革命労働者ストライキ・デモ、(3)クロンシュタット・ソヴィエトの革命水兵の反乱というソヴィエト革命を担った全階級による反ボリシェヴィキ独裁の総決起・いっせい反乱によって、クーデター政権崩壊の危機に直面した。
レーニンとペトログラード・ソヴィエト議長ジノヴィエフが採った対応は、ストライキ労働者の大量逮捕・殺害だった。そして、世界をゆるがすことがないよう、その弾圧データを完璧に隠蔽・焼却した。逮捕者1万人中、500人即時銃殺以外の殺害・強制収容所送り・流刑などの処分データは、その85年後およびソ連崩壊15年後になっても不明のままである。それは、ニコラ・ヴェルトでさえも、このデータを発掘できなかったほどの隠蔽・焼却レベルと言えよう。
山猫ストの意味を確認する。(1)、英語でのWildcat Strikeを直訳した語で、山猫争議ともいう。一部の組合員が組合指導部の承認を得ず、独自に行うストライキである。(2)、ドイツ語は、単にWilder
Streikであって、別に「山猫」とは云っていない(「現代独和辞典」)。
『第4部』で分析したように、1918年5~6月にかけ、ボリシェヴィキ・クーデター政権は、30都市中、19都市のソヴィエト選挙で惨敗した。単独武装蜂起・単独権力奪取クーデターの6カ月後に、なぜ、かくも早く惨敗したのか。「国民がボリシェヴィキから顔をそむけた」理由は、レーニンが、第1次クーデター前からの4公約をすべて裏切り、国民の要求と逆の路線・政策を、チェーカーの暴力を使って、強行したからである。
第4部『支持率急落原因はレーニンによる4公約全面違反の裏切り』
ソヴィエト選挙制度は、都市・郡ごとでソヴィエト執行委員会を選出するだけで、憲法制定議会選挙のように、その結果の全国集計・公表をしない。全国レベルは、ソヴィエト大会だが、それは、すでに1918年1月の第3回大会において、レーニン・トロツキーによるソヴィエト大会の権力簒奪クーデター作戦によって、ボリシェヴィキ独裁機関に変質させられていた。しかし、各都市・郡選挙において惨敗すれば、どのような選択肢があるのか。
本来なら、60%以上もの都市・郡における選挙惨敗政権は、その時点で〔選択肢1〕崩壊・政権交代をするか、それとも、〔選択肢2〕ソヴィエト連立政権に大転換すべきであった。ところが、レーニンは、〔選択肢3〕勝利した他党派をソヴィエト執行委員会から排除するという第4次クーデターの道を選んだ。1918年6月14日、レーニンは、すべてのソヴィエトをボリシェヴィキ独裁機関に変質させる決定をした。
同時に、彼は、ジェルジンスキー・チェーカーに指令し、あらゆる労働組合執行委員会からも、他党派党員を排除し、ボリシェヴィキ党員だけが占拠する機関に転換させた。その選挙において、他党派党員が組合執行委員に当選しても、チェーカーが彼を逮捕し、執行委員会から排除した。それは、(1)全他党派参加というソヴィエトの伝統にたいするクーデターであるとともに、(2)労働組合と労働者の権利にたいする権力簒奪クーデターそのものだった。その手口と結果は、農民ソヴィエトをボリシェヴィキ独裁機関に変質させるやり方と同じで、『第4部』に書いた。
ボリシェヴィキ党員占拠の労働組合執行委員会は、ソヴィエト執行委員会・チェーカーと並んで、労働者支配・労働者要求の抑圧をする三位一体の弾圧機関に変質した。二月革命以来の誇り高き革命労働者たちは、何をなすべきか。彼らは、やむなく、工場経営ボリシェヴィキと労働組合執行委員会にたいし、さまざまな要求を掲げて、ストライキに立ち上がった。その性質は、執行委員会の了解を得ない山猫ストにならざるをえなかった。ニコラ・ヴェルトが初めて発掘・公表したのが、(表3)のストライキ・データである。ただ、彼は、「山猫スト」という用語を使っていない。
しかし、全国各地のストライキ労働者は、(1)ボリシェヴィキ独裁ソヴィエト・(2)ボリシェヴィキ占拠の組合執行委員会・(3)チェーカー28万人の暴力により、次々と鎮圧され、大量逮捕・銃殺・強制収容所送りにされた。アン・アプルボームは、『グラーグ-ソ連集中収容所の歴史』(白水社、2006年、原著2003年)において、レーニン~スターリン時期のグラーグの実態を、651頁の大著によって暴いた。そこで次の事実を記している。
1919年5月17日、「強制労働収容所にかんする全ロシア中央執行委員会の決定」が出された。それは、それぞれの地域の中心都市は、地域のはずれ、あるいは近傍の修道院、荘園、農園等々の建物に、すくなくとも300名を入れる収容所を一つ設置するよう指示していた。その結果、1919年末現在登録された強制収容所が21カ所あった。1920年末には、それが5倍以上の107カ所となった(P.48)。この著書は、強制収容所設置・拡大を、(2)スターリンが始めたのでなく、(1)レーニンこそが最初の推進者だった事実を証明した。ソルジェニーツィンの言い方では、レーニンこそが「下水道の歴史」と「収容所群島」を開始した創設者だった。
革命の栄光拠点ペトログラード労働者は、その惨状にたいし、いつまで我慢できるのか。彼らは、レーニンのソヴィエト権力簒奪政権・労働組合執行委員会にたいし、ついに、ペトログラード全市を巻き込んだ山猫ストに総決起した。その経過が、以下の10日間である。
クロンシュタット水兵・基地労働者14000人は、革命労働者の山猫ストに連帯した。革命の栄光拠点クロンシュタット水兵も、(1)ペトログラード労働者の要求を15項目にまとめ、(2)クーデター政府にたいし、それを自らの15項目要求とする平和的要請をし、(3)自由で平等なクロンシュタット・ソヴィエト新選挙運動に連続決起した。
2月22日、ペトログラードの工場ほとんどで自発的労働者集会が勃発
レーニン、ジノヴィエフは、上記全体の労働者・産業政策を変えることを拒んだ。不満・要求をもった労働者たちと討論しようともしなかった。労働者側のどんな提案・発議もはねつけた。労働組合執行委員会はボリシェヴィキ党員で占められ、政府と一体化していた。『第4部』の農民ソヴィエト選挙と同じ手口で、他党派労働者が組合執行委員に当選すると、チェーカーが彼らを逮捕し、執行委員会から排除したからである。
その労働組合幹部自体が、(1)労働の軍事規律化・(2)ノルマ制・(3)出来高払い制を積極的に遂行していた。政府と労働組合が、一般労働者の要求を解決する民主主義的ルートを、剥奪・閉鎖していた。
モスクワに続いて、ペトログラードでも、労働者たちが決起し、ほとんどの主要工場で、労働者大会を開いた。集会は、政府への要求案を可決し、その決議文を工場、街頭に貼り出した。演説者たちはみな、まず、食糧問題を解決することを求めた。(1)穀物徴発の廃止、(2)道路遮断物の撤去、(3)特権的配給量の廃止、(4)個人所有物を食糧と交換することの許可などである。
しかし、要求内容や労働者の行動には、様々な見解が現れ、歪みも出た。なぜなら、1921年時点、レーニンが、それまでに、労働者の言論・出版の自由を禁止し、他社会主義政党の革命家・指導者のほとんどを逮捕し、殺害し、監獄に閉じ込めるか、国外追放していたからである。よって、集会は、労働組合主催の正規大会でなく、大部分が労働組合幹部に逆らった、自発的な、山猫ストライキ的な大会にならざるをえなかった。レーニン・トロツキー・ジノヴィエフらによる(1)反労働者第5次クーデター路線・政策、(2)食糧独裁令に反対し、その撤回を求める革命労働者の非合法集会が、ペトログラードのいたるところの工場で勃発した。
2月23日、トルーボチヌイ工場における最初のストライキ発生
最初のストライキが、トルーボチヌイ工場において勃発した。ここは、ペトログラードで最大の金属工場だった。ストライキ労働者たちの要求内容は、飢餓対策として食糧供給援助への緊急処置である。具体的には、(1)ジノヴィエフが市場経済廃絶政策として全面禁止した地域的な市場の再設置、(2)市から半径30マイル以内の旅行の自由、(3)市周辺の道路を押えて農村からの食糧持ち込みを阻止した民兵分遣隊の退去などである。
こうした経済的諸要求と並んで、いくつかの工場は、(4)言論および出版の自由とか、(5)労働者政治犯の釈放とかいった、一層政治的な要求を前面に押し出していた。トルーボチヌイ工場の集会は、さらに、(6)食糧配給量の増額と手持ちのすべての靴および冬物衣類の即時分配を要求する決議を通過させた。
2月24日、労働者集会・3000人デモと、即時弾圧体制確立・「戒厳令」発令
(1)、労働者のストライキ・デモ・集会
24日朝、ストライキ阻止に必死の当局は、トルーボチヌイ工場で、労働者手帳を一人一人検査した。それは、当局の決定的な挑発だった。工場全体が仕事を止めた。労働者は、道具を置いて、工場から退出した。(1)ストライキ参加者は、ネヴァ川北岸にあるヴァシリエフスキー島への道をとったのち、街頭における大衆的示威行進(デモンストレーション)を組織した。ストライキ代表団は、ペトログラード守備隊の一つであるフィンランド連隊の兵営と連絡をとろうと試みた。しかし、兵士をデモに引き入れることには失敗した。にもかかわらず、(2)追加の労働者が付近の工場から、(3)学生が鉱山専門学校から到着し始め、やがて(4)3000人の群衆が政府にたいする彼らの否認を叫ぶために集った。ある説明によると、ペトログラード労働組合評議会のボリシェヴィキ議長アンツェロヴィチが現場へ急行し、労働者に仕事にもどるよう促したが、車から引きずり降ろされ殴りとばされた。
いくつかの大工場労働者は、1918年3月のように、(5)「労働者全権会議」を選挙で作った。これには、メンシェヴィキやエスエルの影響があった。この会議は、最初の声明で、(1)ボリシェヴィキの独裁廃止、(2)ソヴィエトの自由選挙、(3)言論・結社・出版の自由、(4)全政治犯の釈放を要求した。
(2)、ジノヴィエフによるデモの武力解散措置
ジノヴィエフは、クルサントゥイ(士官学校生徒)の分遣隊をデモ隊3000人に対抗して繰り出した。彼らは、一般兵士でなく、ボリシェヴィキ党員からなり、政府に絶対忠誠を誓う部隊だった。なぜなら、一般兵士では、他地方ですでに何回も発生していたように、鎮圧命令を拒否し、ストライキ労働者に加担する危険が高かったからである。その士官学校生徒部隊は、非武装の大衆デモを武力で解散させた。その部隊とペトログラード・チェーカーは、いくつかの集会を阻止した。無数の報告書によれば、ジノヴィエフはペトログラードにおいて、真の専制君主のごとく振舞っており、暴力に訴える以外にストライキ労働者を説得するすべを知らなかった。
こうした間にも、ストライキは拡大していった。バルチスキイ工場が操業を停止した。ラファーマ工場や多くの工場――スコロホッド靴工場、アドミラルチスキイ工場、ボーマンおよびメタリスチェスキイ工場もストライキに加わった。パトロニイ軍需工場もストライキに入った。大工場のいくつかで、ストライキ参加者は、党代表者たちが発言する機会を拒否した。
(3)、レーニン・ジノヴィエフによる防衛委員会設置と「戒厳令」、包囲状態宣言
24日、レーニンの緊急指令に基づいて、党指導者たちは、防衛委員会と呼ばれる特別参謀本部を設置した。ペトログラード市の全地区にも、地区党指導者、地区旅団の党員大隊指揮官、それに将校訓練隊付政治委員からなる同様の3人委員会(「トロイカ」)を設置するよう命令した。また同様な委員会を、遠隔地域にも組織した。トロイカとは、地方党指導者、地方ソヴィエト執行委員会議長、それに地区軍事人民委員という、党・ソヴィエト・軍からなる、一党独裁体制におけるストライキ弾圧システムのことである。
同日、防衛委員会はペトログラード全市に「戒厳令」と包囲状態宣言を発した。(1)夜間11時以降の市街地の通行禁止、および(2)防衛委員会に前もって特別に許可されなかった集会や会合は戸外たると屋内たるとを問わず、全面的に禁止、(3)いかなる違反も軍隊法に従って処断されるであろうとする内容である。この布告は、ペトログラード軍管区司令官アヴローフ(後にスターリンによって銃殺される)、軍事会議委員ラシェヴィチ(後年、自殺した)、それにペトログラード要塞地区司令官ボーリン(後にスターリンによって銃殺される)らのトロイカが、署名した。
当局は、ボリシェヴィキ党員にたいする総動員令を発令した。特別部隊を編制し、これは《特別な目標》に向けて派遣されることとなった。同時に、この都市への入口と出口に通ずる道路とを警戒していた民兵分遣隊を、ストライキ労働者に加担する危険があるとして、撤退させた。そうした後で、ペトログラード・チェーカー分遣隊は、デモ隊に発砲し、労働者12人を殺害した。ストライキの指導者たちの大量逮捕を開始し、この日だけで、1000人の労働者と社会主義者を逮捕した。
2月25日、トルーボチヌイ工場労働者が周辺工場に職場放棄を呼掛け。当局の弾圧と宣伝
(1)、労働者ストライキの拡大、兵士の脱走・労働者ストへの参加
デモ・ストライキの動きは、さらに大きくなり、町中に広がった。ストライキ労働者は、海軍兵器廠とギャレルネイア港湾労働者に呼び掛けた。労働者があちこち群をなして集会をしようとするたびに、特別部隊が追い散らした。
ヴァシリエフスキー島におけるデモの翌日、トルーボチヌイの労働者はふたたび街頭に出て、周辺の工場地区の間を扇動してまわり、仲間の労働者に職場を放棄するよう呼び掛けた。彼らの努力はただちに成功を収めた。工場退去が、ラフェルム・タバコ工場、スコロホート製靴工場、およびバルトおよびパトロンヌイ金属プラントに起こった。ついで、ヴァシリエフスキー島デモ隊のいく人かが前日士官学校生徒によって殺傷されたとの噂にあおられて、ストライキが海軍造船所とガレールナヤ乾ドックを含む、その他の大企業に拡大した。数地点で、群衆が政府の政策への即席攻撃を聴くために集った。
何千ものペトログラード守備隊兵士が、労働者に加わるために、部隊から脱走した。二月革命の4年後になって、同じシナリオが繰り返されるかのような情勢が現れ始めた。
(2)、当局の弾圧とペトログラード全市包囲体制
そこで、もう一度クルサントゥイが彼らを退散させるために呼び寄せられた。混乱の拡大を見て、政府はペトログラード守備隊にも鎮圧出動するよう「警告」を発した。しかし、守備隊自体も大きく動揺しており、いくつかの部隊は、労働者にたいしてたたかおうとしなかった。当局は、危険を感じて、守備隊を武装解除した。レーニン・ジノヴィエフは、もはや守備隊さえも頼れなくなったので、あわてて、地方や国内の他前線から、多数の絶対忠誠のボリシェヴィキ党員軍を、ペトログラード全市包囲に急行するよう緊急動員をかけた。
(3)、ボリシェヴィキ側の大キャンペーン開始
(1)、当局は、「赤色ペトログラードの労働者へ」という共同アピールを発し、彼らに仕事にとどまるよう訴えた。このアピールとともに、彼らは、市内の不安をくい止めるため大宣伝キャンペーンに乗り出した。あらゆる公式筋から、罷業者は反革命の手に乗らないよう警告された。飢え、食糧の枯渇、および寒さは、国土が通り過ぎたばかりの七年戦争の不可避的な結果である。かくも高価な勝利を「白衛軍の豚ども」と彼らの支持者に没収されることは、いったい意味をなすだろうか。
(2)、ペトログラードのクルサントゥイも声明を発した。内容は、トルーボチヌイの労働者を、たんにイギリス、フランス、およびその他の国々の地主、いたるところに散らばっている白衛軍の手先き、および彼らの従僕、資本主義の追従者――エスエルならびにメンシェヴィキをよろこばせるにすぎない行動である、と非難していた。
(3)、ペトログラード防衛委員会は、イギリス、フランス、およびポーランドのスパイが混乱を利用するため市内に潜入したと警告した。
(4)、毎日の政府側新聞は、挑発者と怠け者が騒擾に責任があると糾弾した。また、ペトログラードのさまざまな工場と御用労働組合(政府と一体化した機関)からの決議の洪水を印刷した。騒動の発起人といわれたストライキ労働者にたいして好んで使われたあだ名は、シクールニキすなわち「我利がり亡者」――文字通りには、自身の生皮〔肉体的幸福〕にのみ関心をもつひとびと――だった。そして、「ストライキ」のための通常のことば(スターチカあるいはザバストーフカ)を使う代わりに、坐りこみ罷業者と怠業者をも包摂する言葉ヴォルインカを貼り付けた。
2月26日、クロンシュタット・ソヴィエトが調査の代表団派遣。当局の弾圧と一方でのストライキ沈静化目的の譲歩(ムチとアメの二面政策)
(1)、クロンシュタットの調査代表団派遣
2月26日、ペトログラードで進行しつつあった事態のすべてに関心を寄せていたクロンシュタット・ソヴィエトの水兵たちは、ストライキについての事実を知るために代表団を派遣した。
クロンシュタット代表団がペトログラードに到着したとき、彼らは工場が軍隊と士官学校生徒によって包囲されているのを見出した。いまなお稼動した作業場では、武装した共産党員の分隊が労働者に監視の眼を光らせており、水兵らが近づいていったとき、労働者は沈黙したままだった。人は考えたにちがいないと、さし迫ったクロンシュタット反乱における指導的人物ペトリチェンコが記した。「これらは工場ではなくて帝政時代の強制労働監獄である」と。
以下は、彼が書いた調査の様子である。これを、スタインベルグ『左翼社会革命党1917~1921』(鹿砦社、1972、P.254)から、そのまま引用する。
この代表団は、直接にストライキで閉鎖された工場へ赴き、労働者自身の口から説明を求める予定であった。だが、水兵の代表たちは、予期せぬ障害に遭遇した。彼らは、(1)外部を軍隊によって包囲され、(2)内部を武装したチェーカー部員(チェキスト)によって埋めつくされていた。労働者たちは、当惑したような目つきをして、無目的に立ちつくしていた。工場委員会議長がクロンシュタット代表団の話を聴く集会を告げた時、労働者は誰も動きはしなかった。その代りに、俺たちは彼らを、こうした代表団を知ってるさ、というような呟きを我々は耳にした。
そこで我々は尋ねた、諸君はどうして我々と物事をざっくばらんに討論しようとしないのだ? 我々は諸君の不満の原因を知るためにやってきたのに。彼らは長い間黙りこくっていた、それから誰かが言った、俺たちは、前にも代表団に会ったんだ。でも後になって代表団を信用した者は皆、しょっ引かれちまったんだ。我々は彼らに、我々が間違いなくクロンシュタットから派遣されたのだということを証明する書類を提示した。
さあ、諸君は我々を信じてくれるな? それでもなお彼らは動こうともせずその視線は兵士や工場委員会のメンバーに向けられていた。それで我々はすべてを理解し、もはや何も言わずに、彼らの顔をじっと見つめた。彼らの涙にうるんだ目をみているとそのうちの幾人かの頬を涙がつたって落ちていった。我々は、最後に彼らに向かって呼びかけた。でも同志たち、我々はクロンシュタットに何と報告すれは良いのだ? 諸君は口がきけなくなってしまったのか?
遂に一人の勇敢な男が口を開くと毅然として語り出した。そうだ、俺たちは自分の舌をなくしてしまったし、記憶もなくしてしまった。俺はあんた方がここからいなくなったら、俺の身の上に何が起るかを承知している。それでも、あんた方がクロンシュタットからやってきている以上は、しかも奴らが俺たちを、クロンシュタットの名前を使って脅迫し続けている以上は、あんた方は本当のことを、つまり、俺たちは飢えさせられているってことを知らなきゃいけない。
俺たちには着る物も靴もない。俺たちは、精神的にも肉体的にもテロられているんだ。ペトログラードの監獄を見に行って、この三日間にどれほど多くの俺たちの仲間が逮捕されたのかを知ってほしい。それだけじゃない、同志たち、共産党(コミュニスト)の奴らに――あんたらは俺たちの名前のかげに長い間隠れてきたが、もうたくさんだ!――って言ってやる時がきたんだ。自由に選出されたソヴィエト万歳!
この代表団は、数多くの工場を訪れて回り、28日にクロンシュタットに帰着した。彼らは目撃した光景への憤慨に満ちて、クロンシュタットへもどり、戦艦ペトロパヴロフスク艦上での歴史的集会において彼らの知ったことを提示した。
(2)、当局における政権崩壊の恐怖感と、一層の弾圧、ロックアウト・大量逮捕
騒擾が高まったので、ペトログラード・ソヴィエトは、以後の行動を検討するため特別会議を開いた。数週間後に悪名をうることになるバルト艦隊コミッサール・クジミーンが、ペトログラードのすぐ沖にあるクロンシュタットに碇泊した戦艦の乗組員の中に不穏な動きがあることを報告した。そして、水兵らの高まりつつある怒りに注意を促し、もしストライキの継続が許されるなら、クロンシュタットでも爆発が起こるかもしれないと警告したとき、不吉な旋律がかき鳴らされた。
クロンシュタットは、ペトログラードの西方約20マイル、フィンランド湾内に位置する、コトリン島上の要塞都市ならびに海軍基地である。(1)ペトログラードの全工場労働者、(2)ペトログラード守備隊兵士、(3)クロンシュタットの武装した水兵などの3つの勢力が、ボリシェヴィキ政権に反対して連携し、同時決起をすれば、レーニンのクーデター政府の即時崩壊を引き起こす。
(注)、地図の□印は、クロンシュタット側の海上砦である。
2月26日21時、ペトログラードのボリシェヴィキの長であるジノヴィエフは、レーニンに電報を送って、パニックを予告した。労働者は兵営内の兵士と接触をとり始めた……我々は相変わらずノヴゴロドからの救援隊を待っている。もし信頼できる軍隊が近いうちに来ないなら、我々は後れをとることになろう(『黒書』P.122)。
この恐怖にあおられて、ペトログラード軍事会議委員ラシェヴィチは、トルーボチヌイ工場の労働者を厄介者・自分たちだけの利益を考えている者ども・反革命と呼んだ。彼は、断固たる措置こそストライキ参加者を取り扱う唯一の方法だ、と宣言した。彼はとりわけ、運動の主要な教唆者、トルーボチヌイの労働者を彼らの工場からロックアウトし、そして自動的に彼らの配給量を剥奪するべきだと要求した。特別会議も意見を同じくし、そしてただちに必要な指令を発した。プロレタリアの不満の第2温床となっているラフェルム工場もロックアウトした。他企業の労働者には、彼らの機械に復帰すること、さもなければ同じ懲罰を受けるだろう、と命令した。
市内への大軍事力の集結以外では、当局は、すべての「ストライキ」労働者を彼らの工場からロックアウトすることによって抗議運動を打破しようとした。このことは――トルーボチヌイとラフェルムの場合におけるように――その「ストライキ」労働者に配給券を渡さないことを伴った。食糧配給停止を武器としたストライキ弾圧政策である。
それらと同時に、ペトログラード・チェーカーは、広範な逮捕を遂行した。工場集会や街頭デモで体制を批判した演説者を拘留した。
(3)、当局の一方での「ストライキ沈静化目的」の譲歩
ジノヴィエフは、弾圧の一方で、緊急の譲歩措置を採り、ストライキの不満を沈静化させようとした。それは、反対運動の利刃をそぐに充分な大きさの一連の譲歩だった。即座の措置として、(1)1日1缶の保存肉と1ポンド4分の1のパンの特別配給を兵士と工場労働者にした。それは、ゲイボルク駐在アメリカ領事の報告によれば、「ペトログラードの減少しつつある食糧供給にかなりの穴を空けた」。それと同時に、政府は、現在の貯えがなくなったとき使われる緊急供給を大急ぎで他の地区から運びこんだ。
2月27日、労働者側の宣伝文・ビラ。当局による譲歩追加
(1)、ストライキの拡大と労働者側の宣伝文・ビラ配布
ストライキ労働者を、(1)ロックアウトし、(2)配給券を渡さず、兵糧攻めにして屈服させようという、この試みは、ただそれまでの緊張を強めたにすぎなかった。2月の残る日々の間に、運動は拡大を続け、工場から工場へと広がり、当局は、工場操業の中止に追い込まれた。
2月27日から、労働者は、さまざまな種類の無数の宣伝文を町々にまき、ペトログラードの壁に貼った。そのなかでもっとも代表的なビラのひとつは次のように言っている。
(1)政府の政策についての根本的な変革が要求されている。(2)第一に労働者と農民は自由を必要とした。彼らはボリシェヴィキの規制の下に生活したいとは思っていない。(3)彼らは彼ら自身の運命を自分たち自身で決めたのだ。(4)同志諸君、革命の秩序を守れ!
組織的に断固として次のことを要求する。(1)すべての投獄された社会主義者と無所属の労働者の釈放。(2)戒厳令の撤廃。(3)働く者すべてに対する言論・出版・集会の自由。(4)工場委員会、労働組合、ソヴィエトの代表の自由な再選挙(『知られざる革命』P.27)。
(2)、当局の追加譲歩
保存肉とパン特別配給以外にも、ジノヴィエフは、2月27日、労働者のもっともさし迫った要求にたいする数々の追加的譲歩を発表した。(2)労働者が食糧買い出しのため市を離れることの許可。(3)これを容易にするため、周辺の農村地帯へ特別旅客列車を仕立てる約束。(4)ペトログラード周囲の道路遮断分遣隊が、一般労働者からは食糧を没収しない訓令。(5)政府が外国から約1800万プードの石炭を購入、それが近く到着してペトログラードや他の都市における燃料不足を緩和する方針の発表。
(6)もっとも重要であったのは、はじめて、農民からの穀物の強制的奪取を放棄して現物税に代える計画(「ネップ」)の立案中、などだった。これらの追加譲歩政策の性格は、戦時共産主義の制度がついに、町と農村との間の取り引きの自由を少なくとも部分的に復するであろう政策・「ネップ」新経済政策によって置き換えられなければならないことを示した。
レーニンは、(1)1920年8月からのソ連全土での土地革命農民反乱勃発、(2)1921年2月のペトログラード革命労働者大ストライキ、(3)3月のクロンシュタット・ソヴィエト革命水兵反乱という9000万農民、220万プロレタリアート、赤軍水兵の総反乱に直面し、彼の根本的に誤った「市場経済廃絶」路線の撤回に追い込まれた。それは、彼自身が認めているように、「後退・敗北」だった。しかし、彼は、『赤色テロル』ファイルで分析したように、反乱農民・ストライキ労働者・反乱兵士を数十万人殺害しようとも、一党独裁権力だけは放棄せず、それに執着した。
2月28日、大プチーロフ金属工場自身も、ストライキに決起。ボリシェヴィキ党員軍のペトログラード突入命令とストライキ粉砕。クロンシュタット代表団の帰着と決議
(1)、プチーロフ金属工場のストライキ決起、労働者要求の変化
28日、ストライキは、6000人の労働者を擁する巨大なプチーロフ金属工場に達した。この工場は、それが第一次世界大戦中にあったものの6分の1にすぎなかったけれども、なお侮りがたい企業体だった。
いまや、二月革命の4周年記念日が近づいていた。そしてペトログラードにおける不穏は、メンシェヴィキ指導者ダンが注目したように、ツアーリ専制崩壊の直前、1917年におけるその都市の気分を想起させたのである。当局の懸念をかきたてたもう一つの要素は、労働者要求の性格が変化したことだった。
当初、工場集会で通過した決議は、(1)食糧の規則的な配給、(2)靴と防寒衣類の発給、(3)道路遮断物の撤去、(4)農村への買い出し旅行と村人と自由に取り引きすることの許可、(5)特別の労働者範疇にたいする特権的配給量の排除など、圧倒的に経済問題を取り扱っていた。2月の最後の2日間に、これらの経済的要求は一層緊急の語調を帯び、あるチラシは、たとえば、凍死体となって発見されたか自宅で餓死した労働者の事件を引き合いに出していた。
だが、当局の観点から、それ以上に警戒しなければならなかったのは、政治的苦情がストライキ運動において顕著な地位を占め始めたという事実だった。
とりわけ、労働者は、その若干が最近大きなペトログラード企業に配属されていた(6)労働軍の解散を求めた。さらには、(7)純粋に警察的機能を遂行していた武装ボリシェヴィキの特別分隊が工場から引き揚げることを要求した。最初は散発的であった(8)政治的および市民的権利の回復にたいする訴えが執拗かつ広範になってきた。
(2)、レーニン・ジノヴィエフによるボリシェヴィキ党員軍のペトログラード突入命令とストライキ粉砕
ジノヴィエフらのストライキ鎮圧任務を複雑にしたのは、ペトログラード守備隊のかなりの部分が、全市的ストライキの雰囲気にとらえられており、政府の命令を遂行するうえで信頼が置けなかったという事実だった。当局は、信頼しがたいと考えられた部隊を武装解除し、営舎に閉じこめた。ペトログラード守備隊兵士らが、「十月・ソヴィエト革命」において決起したように、持ち場を離れて群衆と混じり合うのを阻止するため、長靴の発給が禁止されたという噂すら流れた。正規の守備隊の代わりに、当局は、共産党士官候補生・クルサントゥイに頼り、市の巡回任務で付近の士官学校から何百名と呼び寄せた。加えて、市内秩序を回復にそなえて、その地域における全党員を動員した。
レーニン、ジノヴィエフ、軍事人民委員トロツキーは、ペトログラード守備隊を武装解除した上で、他地方・前線から急行させた絶対忠誠のボリシェヴィキ党員軍を、ペトログラードに突入させた。党員軍は、容赦のない弾圧を反革命レッテルの労働者に加えた。一夜にして、ペトログラードは軍隊の兵舎に変わった。どの街角でも、党員軍は、歩行者を誰何(すいか)し、身分証明書を点検した。ときおり、散発的な銃声が路上にこだました。レーニンは、「鉄の手で社会主義を建設しよう!」というスローガンを自ら創作し、宣伝させていた。彼は、「匪賊」「黄色い害虫」の労働者ストライキを、軍隊とチェーカーの鉄の手で粉砕した。
(3)、戦艦「ペトロパヴロフスク」乗組員の『15項目要求』決議
同日、戦艦「ペトロパヴロフスク」の乗組員は、ペトログラード・ストライキと鎮圧についての事態を討議した後、以下のような決議を採択した。クロンシュタット・ソヴィエトが行動に入ったのは、正確には、この2月28日からだった。
「艦隊乗組員総会によってペトログラードにおける状況を把握するために派遣された代表団の報告をきいた結果、水兵たちは以下のことを要求する――
(1) ソヴィエト再選挙の即時実施。現在のソヴィエトは、もはや労働者と農民の意志を表現していない。この再選挙は、自由な選挙運動ののちに、秘密投票によって行なわれるべきである。
(2) 労働者と農民、アナキストおよび左翼社会主義諸政党にたいする言論と出版の自由。
(3) 労働組合と農民組織にたいする集会結社の権利およびその自由。
(4) 遅くとも一九二一年三月一〇日までに、ペトログラード市、クロンシュタットそれにペトログラード地区の非党員労働者、兵士、水兵の協議会を組織すること。
(5) 社会主義諸政党の政治犯、および投獄されている労働者階級と農民組織に属する労働者、農民、兵士、水兵の釈放。
(6) 監獄および強制収容所に拘留されているすべての者にかんする調書を調べるための委員会の選出。
(7) 軍隊におけるすべての政治部の廃止。いかなる政党も自らの政治理念の宣伝に関して特権を有するべきでなく、また、この目的のために国庫補助金を受けるべきではない。政治部の代りに、国家からの資金援助でさまざまな文化的グループが設置されるべきである。
(8) 都市と地方との境界に配備されている民兵分遣隊の即時廃止。
(9) 危険な職種および健康を害するに職種についている者を除く、全労働者への食糧配給の平等化。
(10) すべての軍事的グループにおける、党員選抜突撃隊の廃止。工場や企業における、党員防衛隊の廃止。防衛隊が必要とされる場合には、その隊員は労働者の意見を考慮して任命されるべきである。
(11) 自ら働き、賃労働を使用しないという条件の下での、農民にたいする自己の土地での行動の自由および自己の家畜の所有権の承認。
(12) われわれは、全軍の部隊ならびに将校訓練部隊が、それぞれこの決議を支持するように願っている。
(13) われわれは、この決議が正当な扱いの下に印刷、公表されるよう要求する。
(14) われわれは、移動労働者管理委員会の設置を要求する。
(15) われわれは、賃労働を使用しないという条件の下での、手工芸生産の認可を要求する。」
この決議を、ついで全クロンシュタット水兵総会が、また赤軍の多数の部隊も、賛成した。さらにこの決議を、クロンシュタットの全労働者大会も賛成した。そしてこれが、反乱の政治的綱領となった。それゆえに、これは注意深く検討するに価する内容を持っている。これらは、『第6部』において検討する。
3月1日、クロンシュタット人民大会。当局の譲歩追加
(1)、クロンシュタット人民大会
3月1日、錨広場で人民大会が開かれた。それはバルチック艦隊の第一、第二戦隊によって招集され、クロンシュタット・ソヴィエトの機関紙に告知された。同日、全ロシア中央執行委員会議長カリーニンとバルチック艦隊の人民委員クズミンがクロンシュタットに着いた。カリーニンは軍礼と軍楽隊と、ひるがえる軍旗に迎えられた。この内容は『第6部』に載せる。
(2)、ストライキ沈静化目的の当局の譲歩追加
3月1日、ペトログラード・ソヴィエト当局は、(7)ペトログラード県全体からのすべての道路法断物の撤去を声明した。同日、さらに、(8)ペトログラードにおいて労働兵役を課されていた赤軍兵士約2000人ないし3000人が動員解除され、彼らの故郷の村へ帰ることを許された。公式の説明は、「生産の削減が彼らのそれ以上の滞在を不必要にした」からだった。
「労働者軍」とは、1920年11月に内戦が終了し、赤軍550万人を半減させたとき、徴兵除隊兵士を返さないで、兵士のままで工場労働者として「労働の軍事規律化」方針により使用するというレーニン・トロツキーの政策だった。その政策にたいする兵士の怒りも強烈だった。公式説明は口実で、その「労働者軍」が、クロンシュタット・ソヴィエト反乱と連動することを恐れた、ジノヴィエフの「反乱予防措置」だった。
6、レーニン・ジノヴィエフによるストライキ労働者500人即時銃殺
〔小目次〕
3月2日、1万人逮捕、500人即時殺害、クロンシュタット弾圧命令
3月3日、ストライキの完全鎮圧。工場の操業再開。蜂起の動きと大量逮捕
3月2日、1万人逮捕、500人即時殺害、クロンシュタット弾圧命令
(1)、ペトログラード・ロシア全土での1万人逮捕、500人即時殺害
2月の最後の数日間に、メンシェヴィキ指導者ダンの計算によれば、(1)チェーカーは、約500人の反抗的労働者とストライキ・リーダーを牢獄で殺害・銃殺した。同様に、(2)学生、知識人、およびその他の非労働者を数千名検挙し、その多くは反対政党およびグループに所属していた。(3)チェーカーは、ペトログラードのメンシェヴィキ組織を急襲した。それによって、それまで逮捕をまぬがれていた、ほとんどすべての活動的指導者を監獄へ護送した。カズコーフとカメンスキーは労働者のデモを組織したのち、2月の末に逮捕された。ロシコーフとダンを含む少数の者は、一日長く自由の身でとどまり、夢中で彼らの声明やチラシをつくって配付したが、まもなく警察が検挙した。
1921年の最初の3カ月間に、(4)チェーカーは、党の全中央委員を含む約5000人のメンシェヴィキ逮捕をロシア全土において行ったと推定されている。それと同時に、(5)チェーカーは、まだ自身を自由とみていた少数の著名なエスエルとアナキストを同じく検挙した。(6)ヴィクトル・セルジュがその『一革命家の回想』において語っているところによれば、チェーカーはそのメンシェヴィキ収監者をストライキの主要な教唆者として銃殺しようとしたが、マクシム・ゴーリキーが干渉して彼らを救った。
ただ、ソ連崩壊後15年経った、2006年でも、大量逮捕・殺害の具体的データは判明していない。
(2)、レーニン・トロツキーによるクロンシュタット弾圧命令
レーニン・トロツキーは、3月2日、「クロンシュタット弾圧命令」を出した。その内容は、スタインベルグ『左翼社会革命党1917~1921』(鹿砦社、1972、P.254)が載せている。これは、『第6部』に載せる
3月3日、ストライキの全面鎮圧。工場の操業再開。蜂起の動きと2000人逮捕
(1)、ストライキの全面鎮圧、当局による宣伝活動内容
3月3日、当局、チェーカーと赤軍は、(1)工場ロックアウト・(2)ストライキ労働者全員解雇・(3)配給券支給停止・(4)5000人大量逮捕・(5)リーダー500人即時殺害などの手口によって、ペトログラードの労働者ストライキを全面鎮圧した。これら5つの鎮圧対策によって、かつ、チェーカーと赤軍による武力包囲・監視状態の中で、レーニン・ジノヴィエフは、ペトログラードの全工場の操業を再開させた。
当局は、ストライキ労働者に流血をみずに仕事へ復帰するよう説得する最後の努力として、彼らの宣伝活動を強化した。新聞だけでなく、民衆の尊敬を受けていた党員を街頭、工場、および兵営における扇動のために狩り出した。宣伝の中心テーマは、ストライキとデモは、白衛軍とそのメンシェヴィキならびにエスエル同盟者ら扇動者によって企まれた反革命陰謀であると非難した。
クロンシュタット反乱にかんする《官許》歴史家であるプーホフは、直前のペトログラードの労働者ストライキに関し、次のように書いた。ストライキは、労働者階級とその前衛である共産党の手から権力を奪うために、プロレタリアートの没階級意識的部分を利用したものだった。その革命の敵を打倒するためには、断固たる階級的手段をとる必要があった。これは、ボリシェヴィキ側によるペトログラード・ストライキの公認規定であり、プーホフ『1921年のクロンシュタット叛乱』国立出版所、「若き親衛隊」版、1931年、叢書「内戦期」に所収されている。
(2)、労働者蜂起の動きと2000人逮捕
ただし、その後も、労働者蜂起の動きがあった。『黒書』(P.123)がそれを伝えている。
毎日のチェーカー報告の一つがある。「(1)クロンシュタット革命委員会は今日明日にでもペトログラードで一斉蜂起が起きないかと待っている。(2)反乱兵と大工場の間の連絡ができた……今日海軍造船所の集会において、労働者は蜂起に参加を呼び掛けるアピールを採択した。(3)クロンシュタットとの連絡係として3人の代表――アナキストとメンシェヴィキとエスエル――が選出された」。
運動をただちに止めるためにペトログラードのチェーカーは、3月7日、労働者に対して断固たる措置を取るようにとの命令を受けた。(1)48時間内に2000人以上の労働者、シンパ、戦闘的社会主義者あるいはアナキストが逮捕された。反乱兵と違って労働者には武器がなく、ほとんどチェーカーの別働隊に抵抗することができなかった。(2)反乱の後方基地を破壊したあと、ボリシェヴィキは入念にクロンシュタット攻撃を準備した。(3)反乱鎮圧にはトゥハチェフスキー将軍が任命された。この1920年のポーランド戦線の勝利者は、民衆に発砲するために、革命の伝統のない若い士官学校生やチェーカーの特別部隊に援助を求めた。(4)作戦は3月8日に開始された。
(1)、メンシェヴィキ、エスエル、アナキストと労働者ストライキとの関係
レーニンは、それまでに、メンシェヴィキ、右派エスエル、左翼エスエルやアナキストのかなりの人数を、大量逮捕し、獄中に入れ、処刑していた。彼ら政治犯の釈放は、ストライキ労働者の政治要求の一つだった。しかし、未逮捕の活動家たちは、ひとたびストライキが勃発するや、それらを激励するのに最善を尽した。このことはメンシェヴィキについてはとくにそうで、彼らは1921年までに、彼らが1917年革命の期間に失った労働者階級の支持の多くを取りもどしていた。
ペトログラード全市的ストライキの10日間、トルーボチヌイ工場やその他の争議のあった企業におけるメンシェヴィキの勢力はかなりのものに回復していた。メンシェヴィキの扇動者は労働者集会で同情的な聴衆を獲得し、彼らのチラシと宣言書は多くの熱心な手を経て回覧された。それでもなお、ストライキの扇動において疑いもなくある役割を演じたとしても、メンシェヴィキや他のなんらかのグループがそれらを事前に計画し組織したという証拠はない。
(2)、ストライキの原因・背景と要求・不満の自然発生的な爆発
ペトログラードの労働者は、すでにみたように、クーデター政府にたいする公然たる抗議を噴出させる彼ら自身の広範な理由を持っていた。レーニン・トロツキーらによる「十月クーデター」以来、3年4カ月間が経過していた。革命労働者たちは、当初、ボリシェヴィキ政権を支持していた。しかし、その後における経済的・政治的体験から、「プロレタリア独裁国家」を名乗る党独裁国家の本質をいやでも見抜かざるをえなかった。(1)その11項目におよぶ反労働者路線・政策こそ、さらに、(2)全国各地で頻発した革命労働者ストライキ弾圧の手口こそ、労働者ソヴィエト権力を暴力で簒奪していく第5次連続クーデターだった。
ペトログラード労働者の怒りは、上記のように、さまざまな具体的経済要求・政治要求となって、クーデター政府に突きつけられた。しかし、それらが計画されたものではないという意味で、2月~3月の10日間ストライキは民衆的不満が自然発生的に爆発した表現だった。
(1)、ジノヴィエフのムチとアメによる二面的弾圧行動
ペトログラード騒擾は急速に消滅した。3月2日あるいは3日までに、ストライキ中のほとんどの工場は操業に戻った。当局側の譲歩はその任務を終えた。というのも、民衆の謀反心を刺激したのはなによりも飢えと寒さだったからである。レーニン・ジノヴィエフが繰り出した8項目にわたる譲歩手口は、大きな効果を挙げた。
それでもなお、当局が行った軍事力適用と広範な逮捕こそ秩序を回復するうえで不可欠だった。ペトログラード・ボリシェヴィキはすばやく同志的結束を固め、鎮圧という任務を効率的かつ迅速に遂行した。ジノヴィエフは、危険が迫ったとき恐慌状態に陥りやすい、臆病者としてのその一切の評判にもかかわらず、ストライキ労働者を鎮めるため、ムチとアメの二面的弾圧行動を指揮した。
(2)、労働者側・知識人側の問題点
ペトログラードの労働者・住民側にまったくの問題点がなかったなら、運動の瓦解は、かくもすみやかには起こらなかった。労働者はただあまりにも消耗していたので、どのような持続的政治活動をも維持していくことができなかった。飢えと寒さは多くの者を無関心の状態におとしめていた。そのうえ、彼らは効率的な指導と首尾一貫した行動のプログラムを欠いていた。過去、それらは急進的インテリゲンチャによって供給されてきた。
だが、ペトログラードの知識人は、かつて革命的抗議の先鋒であったとしても、1921年には、状況がまったく異なっていた。
(1)、いまや、あまりにも赤色テロルの恐怖を感じており、かつ、個人的努力のむなしさによってあまりにも麻痺させられていたので、反対の声をあげることができなかった。
(2)、その同志の大部分は投獄あるいは流刑に処せられ、またいく人かはすでに処刑されている状態のもとでは、生き残っている者で同様の運命に陥る危険をすすんで犯そうというものは少数だった。
(3)、彼らにとって形勢がかくも圧倒的に不利であるときには、またいささかの抗議も彼らの家族から32種類に細分化された食糧配給カードを奪うかもしれないときには、とくにそうだった。
これらの理由で、ペトログラードにおけるストライキは短命に終わる運命にあった。実際、それらは始まるやいなやほとんど突然終息し、体制にたいする武装蜂起の地点にまではついに到達しなかった。にもかかわらず、それらの影響は絶大だった。それは、旧首都における全市的ストライキの発展にぴったりと調子を合わせていた、近くのクロンシュタットの水兵をかきたてた。それによって、それは多くの点でソヴィエト史におけるもっとも重大な反乱であったクロンシュタット・ソヴィエト反乱のための背景を設定した。
7、プロレタリア独裁理論の誤りとプロレタリア独裁国家成立のウソ
〔小目次〕
2、プロレタリア独裁国家成立というレーニンのウソ (表4)
「プロレタリア独裁」概念の理論的内容については、大藪龍介富山大学教授が『マルクスカテゴリー事典』(青木書店、1998)において、担当執筆した「プロレタリアート独裁」項目がある。またはgoogle検索『プロレタリアート独裁』関連HPがある。
大藪龍介『国家と民主主義』レーニンのプロレタリアート独裁理論
大藪龍介『マルクスカテゴリー事典』プロレタリアート独裁理論(青木書店、1998)
八百川孝共産党区会議員『夢・共産主義』最終章、プロレタリア独裁・ディクタツーラ論1~3
google検索『プロレタリアート独裁』
そもそも、この概念に基づく国家体制は、(1)人口の多数を占めるようになった、発達した資本主義国のプロレタリアートが、(2)小ブルジョアとしての農民と同盟して、圧倒的な多数者となり、(3)人口の絶対的少数者であるブルジョアジーにたいして「独裁」を執行するものである。(4)「独裁」の具体的形態は、絶対的少数者ブルジョアジーから、言論出版の自由権を奪い、場合によってはその生存権も否定することである。
ところで、レーニンが実際に行った「独裁」は、資本家・白衛軍にたいするだけではなかった。それは、ロシア革命勢力といえども、ボリシェヴィキ一党独裁体制・路線に反対・抵抗・反乱・批判すれば、革命農民・革命労働者・革命兵士・聖職者・知識人など数十万人を殺すことが「プロレタリア国家」には許されている、という「赤色テロル」だった。レーニンの「プロレタリア独裁」理論は、ロシア革命勢力にたいする「赤色テロル」実態として現れた。
ヨーロッパの資本主義国共産党のすべてが、1970年代、ポルトガル共産党を筆頭として、その理論・実態を全面的に否定し、明確な放棄宣言をした。その理由は3つある。(1)、マルクス・レーニンの「プロレタリア独裁」理論そのものが誤りであった。かつ、(2)、レーニンが言明した「プロレタリア独裁国家」は成立していなかった。それはレーニンのウソだった。さらに、(3)、「プロレタリア独裁」という実態は、「ボリシェヴィキの党独裁」であり、ロシア革命勢力数十万人の大量殺人犯罪を伴った、とした。
21世紀になっても、東方の島国における日本共産党だけが、「プロレタリア独裁」理論を訳語変更の繰り返しによって、隠蔽・堅持している。放棄を宣言したことがない。もっとも、中国・ベトナム・北朝鮮という一党独裁型の「自称・プロレタリア独裁国家」を合わせれば、アジアでは、4つの残存前衛党が「プロレタリア独裁」理論をなお堅持していることになる。コミンテルン型共産主義運動のヨーロッパでの終焉と、アジアでの生き残りという違いが発生した原因はどこにあるのか。
『コミンテルン型共産主義運動の現状』ヨーロッパでの終焉とアジアでの生き残りの原因
ソ連崩壊後、それは、レーニンのウソだったという2つの根拠が明白になった。ただし、彼が、下記の実態をプロレタリア独裁国家の成立と本当に確信していたのか、それとも、恣意的にウソをついたのか。それは、『第8部』末尾で分析する彼の人間性との関係からよく検討する必要がある。
〔根拠1〕、プロレタリアート数と人口比率から見たウソ
プロレタリア独裁国家は、プロレタリアート数と人口比率から見ても、「十月革命」の最初から存在していなかった。当時のソ連人口が、1億1250万人だったとして、この結論をのべる。人口データの根拠は、80%・9000万農民という数値に基づく。農民9000万人÷80%=1億1250万人となる。この数値は、ソ連共産党データ・1917年12月憲法制定議会選挙の有権者総数9000万人とも相応する。(表3)の労働者数を出した出典は、そこに載せた。1億1250万人中、プロレタリアート数が、(表3)のように、300万人→250万人→220万人と減り続けた事実は、ほぼ証明されている。
(表4) ボリシェヴィキ支持労働者数とその人口比率
年月 |
労働者数 |
ボリシェヴィキ支持率 |
支持労働者数 |
支持労働者の人口比率 |
1917.11.7 |
300万人 |
50~60% |
150~180万人 |
1.3~1.6% |
1918.4~8 |
250万人 |
40% |
120万人 |
1.1% |
1920 |
220万人 |
(30%以下) |
66万人 |
0.6% |
『第5部』労働者問題ファイルの検討期間は、1917年10月25日(新暦11月7日)から1921年2月末「ペトログラード労働者の大ストライキ」までである。その3年4カ月間において、存在した体制は、「プロレタリア独裁」の虚構(フィクション)看板を掲げた「党独裁」だった。
ところが、いくつかのデータが、ソ連崩壊後に明らかになった。そこでは、ソ連プロレタリアートの60%から30%以下だけが、ボリシェヴィキ支持労働者であり、その人口比率が1%前後しかなかったことも判明してきた。しかも、その人口の1%前後は、ボリシェヴィキを支持していたとしても、その全員がレーニンの「プロレタリア独裁」理論の支持者とはかぎらない。その理論と体制を支持したのは、約40万人・人口の0.4%であるボリシェヴィキ党員だけだった。
となると、人口の1%前後のボリシェヴィキ支持プロレタリアートが、国家暴力装置を独占しただけの国家体制を、はたして「プロレタリア独裁国家」だったと規定できるのかという、根本的疑惑が浮上する。疑惑どころか、それは、レーニンの明白なウソだった。彼は、なぜ、そんな見え透いたウソをつき続けたのか。
〔根拠2〕、ソ連全土での労働者ストライキ、ペトログラードの全市的山猫ストと、レーニン・ジノヴィエフによる1万人逮捕・500人即時銃殺という実態から見たウソ
『第5部』の(1)ソ連全土におけるストライキとその鎮圧データは、ソ連崩壊後、ニコラ・ヴェルトが初めて発掘・公表した。(2)ペトログラードの全市的ストとその鎮圧手口・大量殺人犯罪については、クロンシュタット事件との関連で、ソ連崩壊前から判明していた。それら2つのデータが合体した実態は、何を証明したのか。
人口比率1%前後のボリシェヴィキ支持プロレタリアートは、ペトログラード労働者から分かるように、当初、レーニンの十月クーデターの支持者だった。労働者全体300万人は、最大時でも人口比率で2.7%しかなかった。彼らが、第1次クーデター後の3年4カ月間において、『第5部』に載せたようなストライキにより、レーニン・トロツキーの反労働者政策・第5次クーデターに命がけで抵抗・抗議のストライキをした。「レーニン自称・プロレタリア独裁国家」にたいするプロレタリアートの全国でのストライキ、革命の栄光拠点ペトログラードでの全市的ストライキという事実こそが、レーニンのウソを証明する決定的な根拠になる。
しかも、ニコラ・ヴェルトは、労働者ストライキ・鎮圧データの発掘・公表にあたって、『黒書』(P.94)で、その理由を次のようにのべた。ボリシェヴィキは、労働者の名において政権を獲得したのだが、弾圧のエピソードの中で新体制が最も注意深く隠蔽したのは、まさにその労働者に対して加えた暴力だった。E・H・カーでさえ、一件も発見できなかった。それに関し、これほど完璧な隠蔽度合は、レーニン自身が、「プロレタリア独裁国家の成立」がウソだったことを十分認識していた証拠ではないのか。
私は、ソ連崩壊後のこれらデータから、この3年4カ月間の国家を「プロレタリア独裁国家」と規定することを、本質的な誤りであると考える。ソ連崩壊後15年経って、「レーニン秘密資料」や大量のアルヒーフ(公文書)に基づいて、様々な「ロシア革命史」研究が出版されてきた。ただ、その中で、私のように、ソ連人口・労働者数・ボリシェヴィキ支持率、ボリシェヴィキ支持労働者の人口比率などを確定し、その数字的データによっても、「プロレタリア独裁」体制の存否論を検討する研究は、まだ出ていない。
(1)1%前後のボリシェヴィキ支持プロレタリアートが国家権力を占拠し、(2)「労農同盟」も存在しなかった国家体制でも、ボリシェヴィキが国家暴力装置・秘密政治警察を完璧に握っていれば、その党独裁国家を「プロレタリア独裁国家」と規定できるのか。そのような歴史認識が成立し得る歴史学があるのか。それが、マルクス主義国家論なのだろうか。
以上健一MENUに戻る
〔関連ファイル〕
『見直し「レーニンがしたこと」-レーニン神話と真実1917年10月~22年』ファイル多数
第1部『1917年10月、レーニンによる十月・ソヴィエト権力簒奪第1次クーデター』
第2部『1918年1月、憲法制定議会の武力解散・第2次クーデター』
第3部『1918年5月、革命農民への食糧独裁令・第3次クーデター』
第4部『1918年6月、他党派をソヴィエトから排除・第4次クーデター』
第5部『1921年2月、革命労働者ストライキの弾圧・第5次クーデター』
第5部2『1920年3月、トロツキー「労働の軍隊化」構想と党内論争』
第6部『1921年3月、革命水兵の平和的要請鎮圧・第6次クーデター』
第7部『1921年3月~22年末、「ネップ」後での革命勢力弾圧継続・強化』
第8部『1922年5月、知識人数万人追放「浄化」・第7次クーデター』
第9部『1917年~22年12月、レーニンの最高権力者5年2カ月間』
第10部『「レーニンによる7連続クーデター」仮説の自己検証』
(労働者ストライキ、プロレタリア独裁問題の関連ファイル)
『ストライキ労働者の大量逮捕・殺害と「プロレタリア独裁」論の虚構(1)』 『(2)』 『(3)』
『ペトログラード労働者大ストライキとレーニンの大量逮捕・弾圧・殺害手口』
『クロンシュタット水兵とペトログラード労働者』水兵の平和的要請とレーニンの皆殺し対応
マーティン・メイリア『主役はプロレタリアート? それとも党?』『ソヴィエトの悲劇・上』抜粋
大藪龍介『国家と民主主義』レーニンのプロレタリアート独裁理論
『マルクスカテゴリー事典』プロレタリアート独裁理論
八百川孝共産党区会議員『夢・共産主義』最終章、プロレタリア独裁・ディクタツーラ論1~3
google検索『プロレタリアート独裁』