1920年3月、トロツキー「労働の軍隊化」構想と党内論争
「スターリンは悪いが、レーニンは正しい」説当否の検証
第5部2、2000企業「軍隊化」での労働者ストライキ激発と弾圧
(宮地作成・編集)
〔目次〕
1、宮地コメント−トロツキー「労働の軍隊化」が孕む6つの側面
2、E・H・カー「トロツキーと労働の軍隊化」−(党内論争面のみ)
3、R・ダニエルズ「トロツキーと労働の軍隊化」−(同)
4、立原信弘「トロツキー、労働の軍隊化構想の展開」−(同)
5、ヴォルコゴーノフ「『トロツキー』−労働の軍隊化、義務労働」−(同)
6、ニコラ・ヴェルト「労働の軍事規律化」執行とストライキ労働者逮捕・殺害
〔関連ファイル〕 健一MENUに戻る
『見直し「レーニンがしたこと」−レーニン神話と真実1917年10月〜22年』ファイル多数
第1部『1917年10月、レーニンによる十月・ソヴィエト権力簒奪第1次クーデター』
第2部『1918年1月、憲法制定議会の武力解散・第2次クーデター』
第3部『1918年5月、革命農民への食糧独裁令・第3次クーデター』
第4部『1918年6月、他党派をソヴィエトから排除・第4次クーデター』
第5部『1921年2月、革命労働者ストライキの弾圧・第5次クーデター』
第5部2『1920年3月、トロツキー「労働の軍隊化」構想と党内論争』
第6部『1921年3月、革命水兵の平和的要請鎮圧・第6次クーデター』
第7部『1921年3月〜22年末、「ネップ」後での革命勢力弾圧継続・強化』
第8部『1922年5月、知識人数万人追放「浄化」・第7次クーデター』
第9部『1917年〜22年12月、レーニンの最高権力者5年2カ月間』
第10部『「レーニンによる7連続クーデター」仮説の自己検証』
google検索『トロツキー』
大藪龍介『トロツキー永続革命論の再検討』トロツキー理論の批判的検討
1、宮地コメント−トロツキー「労働の軍隊化」が孕む6つの側面
これは、『第5部2』となる資料編である。5つの資料を載せる。『第5部』は、レーニンが『国家と革命』ユートピア構想を放棄していった過程=反労働者路線・政策への転換にたいする革命労働者の山猫ストライキによる抵抗・反対運動をを検証した。それを、(1)最高権力者レーニンによる現実への優れた適応と、ソ連崩壊前の公認党史・レーニン神話の視点で見るのか、それとも、(2)第5次クーデター遂行者レーニンによる革命労働者ストライキ弾圧・大量殺人犯罪過程とするのかで、ロシア革命史の見方考え方が180度異なる。
その過程において、トロツキーの「労働の軍隊化」構想と2000企業の「軍隊組織化」執行は、さまざまな側面で、1920〜21年時期のロシア革命に重大な影響と結果をもたらした。なお、2000企業とは、ニコラ・ヴェルトの『共産主義黒書』データ(P.97)である。転載した5つの文献資料に基づき、6つの側面からやや長いコメントをする。
〔小目次〕
5、「労働の軍隊組織化」に反対する革命労働者のストライキ激発
1、トロツキー「労働の軍隊化」構想内容と人間観の位置づけ
これについては、下記最初の4資料が分析、検討している。ただ、いずれも「戦時共産主義」時期における方針と位置づけている。しかし、その名称は「ネップ」採用以後に名づけられたものである。ソ連崩壊後の研究者たちの論文において、「戦時共産主義」とは、いわゆる「内戦」時期のボリシェヴィキ党独裁路線・政策を意味する。しかも、「内戦」の基本2大原因を、ロイ・メドヴェージェフは、(1)憲法制定議会の一日目武力解散、(2)80%・9000万農民にたいする食糧独裁令と規定した。その見解は、「戦時共産主義」の性格・原因を根底から覆した。それは、外国干渉軍・白衛軍との「内戦」のみを基本内容とする「戦時共産主義」観点・公認ロシア革命史の全面否定となる。
第2部『1918年1月、憲法制定議会の武力解散・第2次クーデター』
第3部『1918年5月、革命農民への食糧独裁令・第3次クーデター』
私はそれら2つを、レーニンによるソヴィエト権力簒奪第2・3次クーデターと規定した。さらに、レーニン・トロツキーの反労働者路線・政策遂行を第5次クーデターと位置づけた。トロツキー「労働の軍隊化」方針と強行は、その第5次クーデターの一環をなす。しかも、彼の方針・思想は、下記資料において、E・H・カー、ニコラ・ヴェルトが指摘しているように、1930年代におけるスターリンの強制労働政策との類似性、共通性を孕んでいる。下記5資料を検討すれば、ソ連崩壊後におけるトロツキー評価がどう変わるのだろうか。
Google検索『スターリン 強制労働政策』
2、赤軍を「労働軍」に移行し、各地・工場に強制配置
『第3部』で検証したように、「内戦」とは、(1)80%・9000万の土地革命農民反乱、(2)白衛軍、(3)チェコ軍団反乱の総体である。ウクライナにおけるヂェニキン→ウランゲリ白衛軍との戦闘だけは、マフノ農民軍との共闘をしつつ、1920年11月14日まで続いた。他の(2)(3)は、(1)の土地革命農民のソ連全土における総反乱の継続を除いて、1919年夏までで基本的に終った。
トロツキーは、軍事人民委員として、戦闘がなくなった赤軍部隊を農村に帰郷させず、「労働軍」に移行し、各地に強制配置した。レーニンら政治局はその方針を支持・執行した。1920年1月15日、トロツキーは、ウラル第三軍を初の「革命的労働軍」に移行させた。
トロツキーは、第一軍、ウラル第三軍、ペトログラード、ウクライナ、カフカース、南ザヴォルジェ、西部の各軍を労働軍に移行した例としてあげている。トロツキーとレーニン・政治局は、「労働の軍隊化」と「赤軍の労働軍化」とを一体の路線・政策として遂行した。工場に強制配置された「労働軍」は、それらの企業を「労働の軍隊化」する上で尖兵の役割を果たした。1921年2月ペトログラード革命労働者の山猫ストライキ要求の一つが、「労働軍」の廃止だったことは、それを証明している。
ニコラ・ヴェルトが『共産主義黒書』で発掘・公表したように、「一九一九年末から一九二〇年春にかけて、ボリシェヴィキ権力と労働者世界との関係は、二〇〇〇以上の企業が軍隊組織になった結果、ますます悪化した。」(P.97)。この時期は、まだ「労働組合論争」が始まる前である。それは、レーニンら政治局が、当初、その方針に賛成し、20年春までに、2000企業の規模で積極的に執行していた事実を証明する。というのも、レーニンが、「官僚主義のゆきすぎ」とトロツキー「労働の軍隊化」方針の誤りを部分的に、初めて批判したのは、20年春ではなく、はるかに遅れて、1920年12月30日だったからである。
レーニンらは、ストライキ労働者弾圧・大量殺人犯罪を完璧に隠蔽した。それとともに、「労働の軍隊化」規模と実態も隠蔽した。ただ、2000企業の内訳データを、ニコラ・ヴェルトは書いていない。彼は、その一例として、ドンバスの大工鉱業地帯で施行された「労働の軍事規律化」政策の実態を発掘・公表した。なお、「労働の軍隊化」、「労働の軍事規律化」、「企業の軍隊組織化」は同義語である。「義務労働」もほぼ同じ実態を意味する。というのも、トロツキーは「義務労働」の具体的方法として「労働の軍隊化」を主張しているからである。
「労働組合論争」の経過を簡潔に確認する。
1919年12月16日、トロツキーは、ロシア共産党中央委員会において、「戦争から平和への移行に関するテーゼ」(=「労働の軍隊化」)を発表した。
1920年1月15日、トロツキー提案とレーニンら政治局の承認で、ウラル第三軍を初の「革命的労働軍」に移行させた。その後、第一軍、ペトログラード、ウクライナ、カフカース、南ザヴォルジェ、西部の各軍を、次々と労働軍に移行させた
3月29日、トロツキーは、ロシア共産党第九回大会で、労働組合そのものの軍隊化を主張した。彼は、「労働の軍隊化」の最も熱心な擁護者であり、推進者だった。大会は、(1)企業の単独運営制の問題と並んで、(2)「労働の軍隊化」に議論が集中した。
4月6日、トロツキーは、第3回ロシア労働組合大会で、「労働の軍隊化」方針を主張した。
11月2日、トロツキーは、第5回ロシア労働組合協議会で、「労働組合の国家機関化」を提唱した。組合活動家たちは、トロツキーを公然と攻撃した。それを契機として、トロツキー方針を批判する「労働者反対派」が結成された。レーニンによれば、この会議が「論争の発端」だった。以後、1921年3月8日第10回党大会まで、論争が続いた。
12月30日、レーニンは、『労働組合について、現在の情勢について、トロツキーの誤りについて』を発表した。彼は、それまで、トロツキー方針と執行を全面的に支持していた。しかし、労働組合活動家たちや「労働者反対派」が、トロツキー批判・攻撃を激化させたので、若干の軌道修正をした。レーニンは、4面作戦を採った。
〔第一作戦〕、労働者反対派の主張を、「サンディカリズム的偏向、無政府主義的偏向」と決め付け、全面否定した。〔第二作戦〕、トロツキーの主張には「官僚主義のゆきすぎ」と部分的に批判した。〔第三作戦〕、両派を批判する中間派として、レーニン・ジノヴィエフ・スターリンら10人グループを結成した。〔第四作戦〕、党大会の最終日3月16日に、突如、党大会議案にもなかった「分派禁止規定」を提案し、非公表の秘密決議を採決させた。党大会後の夏、労働者反対派を中心に、ボリシェヴィキ党員の4分の1を除名した。
『レーニン「分派禁止規定」の見直し』1921年の危機、クロンシュタット反乱
google検索『ロシア革命 労働組合論争』
下記資料が分析しているように、トロツキー「労働の軍隊化」にたいするボリシェヴィキ党内の反対は多かった。「労働の軍隊化」方針をめぐる党内3派形成と論争である。3派とは、(1)レーニン・ジノヴィエフ・スターリンら10人グループ、(2)ブハーリン=トロツキー派、(3)コロンタイら労働者反対派である。1921年3月8日の第10回党大会は、(1)レーニン派の決議案を採択した。
ただし、労働者反対派の限界がある。それはボリシェヴィキという党独裁クーデター政党内の分派だった。レーニンは、第10回党大会において、その直前2月28日から始まったクロンシュタット水兵・労働者の平和的要請・自由で平等なソヴィエト新選挙運動を拒絶した。彼は、それにたいし、「白衛軍将軍の役割」と真っ赤なウソをつくとともに、「白衛軍の豚」「反革命の豚」というレッテルを貼り付けておいて、彼らの皆殺しを指令した。軍事人民委員トロツキーは、ペトログラード守備隊の武装解除をする一方で、赤軍5万人をソ連全土から緊急動員し、トハチェフスキーとともに、クロンシュタット殲滅作戦を指揮した。労働者反対派は、党独裁政権崩壊の最大危機に直面し、レーニン・トロツキーによる皆殺し方針に賛成した。労働者反対派の一部は、コミッサールとして戦闘に派遣された大会代議員300人に加わって、クロンシュタット虐殺に手を貸した。
イダ・メット『クロンシュタット・コミューン』事件の全経過、14章全文転載
ヴォーリン『クロンシュタット1921年』事件の全経過
コロンタイなどの「労働者反対派」は、レーニンの分派禁止規定によって、弾圧・大量除名・解体された。この経過については、ソ連崩壊前からも、多くの研究者によって分析されてきた。ただ、それらは、党内論争・分派問題に限られ、その執行が労働者のどのような反応・反対ストライキをもたらしたのかというテーマを検証できていない。
それなら、(1)レーニン派決議採択によって、「労働の軍事規律化」路線・政策は廃止されたのか。それは、弱められるどころか、さらに強化された。ニコラ・ヴェルトは、下記〔資料6〕において、1921年のドンバス大工鉱業地帯で施行された「労働の軍事規律化のさらなる強化」について、詳細なデータを載せた。その事実は、1921年3月第10回党大会後も、実態として、「企業の軍隊組織化」が継続・強化されたことを証明している。
なぜなら、「サンディカリズム的偏向、無政府主義的偏向」というレーニン式レッテルを貼った労働者反対派を、一方的に弾圧・大量除名・解体し、党内に巣くう邪魔者たちを粛清した後、(1)レーニン・ジノヴィエフ・スターリンら10人グループと、(2)ブハーリン=トロツキー派は、再び完全に一体化したからである。分派禁止規定という党内民主主義破壊の非常・秘密措置によって、反対派を排除し、沈黙させたクーデター政党は、「党の統一」を回復できた。以後は、「労働の軍事規律化のさらなる強化」を心おきなく遂行できたからである。
大藪龍介『国家と民主主義』反対派禁止による党内民主主義破壊など民主主義消滅
『トロツキー永続革命論の再検討』トロツキー理論の批判的検討
5、「労働の軍隊組織化」に反対する革命労働者のストライキ激発
トロツキーだけでなく、レーニン・政治局全員も、「企業の軍隊組織化」に賛成し、ソ連全土の2000企業で執行した。これは、まさに反労働者路線・政策であり、革命労働者のソヴィエト権力を簒奪し、労働者要求とまったく逆の第5次クーデターそのものだった。その犯罪的クーデターにたいし、革命労働者のストライキが激発した。
ニコラ・ヴェルトが『共産主義黒書』(P.98)で、次のようなストライキ規模・実態を発掘・公表した。
工場における「秩序回復」をめざした労働の軍事規律化の方策は、期待した効果とは反対に、多くの時限スト、作業中止、ストライキ、暴動を引き起こした。労働人民委員部の公式統計によれば、1920年前半にロシアにおける大・中規模工業経営の77%においてストライキが起っている。中でも金属工業、鉱山、鉄道といった混乱の元になった部門が、労働の軍事規律化が最も進んだ分野だった。
2000企業×77%≒1540企業において、「企業の軍隊組織化」反対の革命労働者ストライキが勃発したことになる。これは、1920年前半公式統計なので、隠蔽されたストライキ報告やその後1921年までを含めれば、90%を越えていることも推測される。革命労働者の怒りの頂点が、1921年2月のペトログラード労働者による全市的山猫ストライキだった。そのデータ全体は『第5部』に載せたので、ここには書かない。その一部のみを、ニコラ・ヴェルトの下記〔資料6〕に転載した。
6、ストライキ労働者の逮捕・強制収容所送り・大量殺人犯罪
1920年2月12日の『プラウダ』はこう書いている。これら有害な黄色い害虫であるストライキ参加者の絶好の場所は強制収容所である。当局は、ストライキを情け容赦なく鎮圧した。チェーカーの秘密部門がボリシェヴィキ指導部に送った報告は、軍事規律化に反対する労働者に加えられた弾圧がどんなものだったかを明らかにした。逮捕された労働者は、たいてい「サボタージュ」または「脱走」という罪で革命裁判所に裁かれた(『黒書』P.98)。
これ以外のデータも、『第5部』に載せたので、〔資料6〕ニコラ・ヴェルトのデータ以外は書かない。
E・H・カーは、『ボリシェヴィキ革命2』(原著1952年)で、レーニンの労働者・産業政策を『第5部』のように、綿密に分析した。しかし、ソ連崩壊前では、ストライキとその弾圧実態は「極秘・完全隠蔽」で、彼もそれを発掘できなかった。
ニコラ・ヴェルトは、『黒書』(P.94)で、その理由を次のようにのべている。ボリシェヴィキは、労働者の名において政権を獲得したのだが、弾圧のエピソードの中で、新体制が最も注意深く隠蔽したのは、まさにその労働者にたいして加えた暴力だった。
以下、引用する5文献の内、最初の3資料は、ソ連崩壊前の出版である。よって、トロツキーの「労働の軍隊化」構想を分析しているが、それにたいする労働者の反対運動・ストライキのデータは、隠蔽されていたので、発掘・公表できていない。党内論争に限られている。ヴォルコゴーノフ『トロツキー・上』(原著1992年)は、ソ連崩壊1年後だが、労働者ストライキのデータに触れていない。
ニコラ・ヴェルトの『共産主義黒書』(原著1997年)だけが、「労働の軍隊組織化」実態と労働者ストライキ実態を発掘・公表し、2つの関係を初めて検証した。『第5部』に載せた彼のデータから、その関連箇所を再転載するとともに、そこに載せなかったドンバス大工鉱業地帯における「企業の軍隊組織化」実態を論証した新しいデータも加えた。
転載した5冊の資料とも、それぞれ多数の(出典・注)が付いている。それも載せると膨大になりすぎるので、E・H・カー(注)のごく一部以外をすべて省略する。私の判断で、各色太字や(番号)をつけた。なお、5文献とも転載する頁数が少なく、引用の範囲なので、出版社の了解は得ていない。
2、E・H・カー「トロツキーと労働の軍隊化」−(党内論争面のみ)
(注)、これは、E・H・カー『ボリシェヴィキ革命・2』(みすず書房、1967年、原著1952年)の「第四篇、経済秩序」である。「17、戦時共産主義(c)労働と労働組合」(P.150〜172)のうち、トロツキーの「労働の軍隊化」部分(P.160〜172)のみを抜粋した。そこには、小見出しがなく、かなり長いが、そのまま載せる。引用範囲だけでも、各頁ごとにある(出典・注)が33カ所もある。そこからごく一部のみを(注)として載せた。
冒頭コメントで書いたように、「労働の軍隊化」テーマは、6つの側面を伴っている。重要なのは、(1)トロツキーの「労働の軍隊化」方針内容とその根底にある人間観、(3)2000企業における強行、(5)その執行に反対する革命労働者のストライキ激発、(6)レーニン・トロツキーらによるストライキ労働者の逮捕・大量殺人犯罪である。
ところが、ニコラ・ヴェルトが指摘したように、レーニンらは労働者にたいする弾圧事例を徹底的に隠蔽しぬいた。ソ連崩壊前の研究者は、誰もそれを発掘・公表できなかった。E・H・カーの原著は1952年なので、『全3巻』や他著書を通じても、(3)(5)(6)の側面を一つも書いていない。隠蔽作戦によって、書くことができなかった。以下は、「労働の軍隊化」に関する全文だが、後半の「労働組合論争」箇所については(中略)にした。
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労働動員が激しさの極点に達したのは、一九二〇年の最初の数カ月−デニキンとコルチャークが敗北したおかげで、それを必要とした鋭い緊急事態がすでに姿を消しつつある時機のことであった。一九二〇年一月の第三回国民経済会議全ロシア大会で、トロツキーは、演説の大半を労働徴集と労働規律との弁護にあてた。そして、トムスキー−涸渇した工業労働力についてのかれの陰気な批評はわれわれのすでに引用したところである−の提案にもとづいて、(1)個人または集団に現物で報奨をあたえること、(2)労働規律裁判所を設置すること(3)、(3)労働義務の回避をふせぐためにすべての労働者に労働手帳をもたせること、それに、(4)労働の動員と配転のために軍の徴兵機構をつかうことなどの要求をふくんだ、影響するところの広い決議が採択された。
(注3)、一九一九年の半ばに、最初の「規律にかんする労働者同志裁判所」が工場内につくられた(『法令集、一九一九年』、第五六号、五三七)。これはまもなく工場規律にかかわる正規の機関となった。労働者裁判所の活動については、くわしい情報はたいしてえられないが、工場の職員と労働者のための同種裁判所の審理について若干の数字から、もち出される訴因と課せられる刑罰の性格がわかる。一九二〇年度の記録された九四五件のうちほとんど半数は、時間を守らないという訴因によるものである。
その他の普通の訴因を数の多い順にあげると、「顧客にたいして正しくない態度をとること」、「土曜日の残業をおこなわないこと」、「労働組合の規律に従わないこと」、「命令に従わないこと」、「仕事を勝手に放棄すること」、「労働日の短縮をもとめる宣伝をおこなうこと」である。無罪の言渡しがあったものは件数中の四分の一をこえ、約半数は解雇された。労働収容所での刑が宣告されたものは三〇件、強制収容所での労働の刑は七九件であった(D・アントーシキン『事務員の組合活動』、一九二七年、一五二ページ)。数年後、戦時共産主義がつらい思い出となってしまったときに、トムスキーは、当時、手に負えない組合員のために「絞首台をつくる」までにいたった組合があったことを恥入りながら想起した。(第八回ソ連邦労働組合大会)、一九二九年、四二〜四四ページ)。
その間、前線での戦闘の停止は、部隊を軍事規律のもとに他の緊急な任務にふりむけることを示唆していた。一九二〇年一月一五日、ウラルの第三軍を、地方の民政当局にたいして軍事的な権限をもつ「最初の革命的労働軍」に変えるという布告が出された(2)。された。こうして、先例がつくられた。「労働の軍隊化」として知られるにいたる段階がはじまったのである。
(注2)、『法令集一九二〇年』、第三号、二五。トロツキーは、つづく全ロシア中央執行委員会にたいする報告のなかで、最初の労働軍は第三軍から「それ自身のイニシャティヴにもとづいて」つくられたと主張した(『全集』、第一五巻、五ページ。最初の労働軍にかんする多くの資料が、同上、第一五巻、二六三−三四二ページに集められている)。トロツキーは、第九回党大会で、「みずからを州の経済的中心に転化した」さいの軍隊の専断的な行為を誇らしげに語り、なされたことは「最高度によい仕事であったが、これは非合法の仕事であった」と述べた(『ロシア共産党(ボ)第九回大会』、一九三四年、一一四ページ)。
その直後、「ウラル地方の正常な経済的軍事的生活を再建し強化する活動の一般的指導を第一労働軍の革命評議会に委ねる」ことが決定された(『法令集、一九二〇年』・第三〇号二五一)。一九二〇年八月、同様の機能が南東ロシア労働軍の革命評議会にあたえられた(同上、第七四号、三四四)。一九二〇年一一月にも、ウクライナ労働軍評議会が「労働国防会議の地方機関」としてみとめられた(同上、第八六号、四二八)一九二〇年の最初の数カ月間のトロツキーの著作と演説(『全集』、第一五三号、二〇六ページ)は労働軍についてのゆたかな資料である。労働軍のなかには、石油輸送のための鉄道をトルケスタンに建設するのに労力を提供した軍隊もあれば、ドネッの炭坑に配置された軍隊もあった(同上、第一五巻、六ページ)。
これが、一九二〇年三月末にひらかれた第九回党大会が直面しなければならなかった新しい問題であった。戦闘が終りをつげたので、いまや、労働軍が、林業と鉱山業をふくむあらゆる種類の重労働に従事する赤軍部隊という形で、あらゆるところに姿を現わしつつあった。これが何を意味するかについても、またなんの疑念もなかった。工業の問題は国内戦を勝利にみちびいた方法と熱情によってのみ解決されうると信じていたトロツキーは、「労働義務の原則で仕事につかせられた膨大な農民大衆を軍隊化する」ことの必要性について述べ、つぎのようにつづけた。
軍隊化は、労働組合をそのものとして軍隊化することなしには、ひとりひとりの労働者が労働兵の気持でいるような体制をうちたてることなしには、考えられない。(1)労働兵は、勝手な行動をとることはできず、(2)転勤の命令が出されれば、それを履行しなければならない。(3)もし履行しなければ、脱走兵となり、処罰されるのである。(4)だれがこれを監督するのか? 労働組合である。労働組合は新しい体制をつくりだすであろう。(5)労働者階級の軍隊化がそれである。
ラデックも、主としてコミンテルンの問題を論じた演説の結びで、「メンシェヴィキやあらゆる種類の協調主義者の心情にとっては大切この上ない『労働の自由』というブルジョア的偏見を克服せよという組織労働者への呼びかけ」をおこなった。他には、こういうことを述べた者はいなかったが、トロツキーは中央委員会と政治局の権威を背後にもっていた。それに、あやうく逃れることのできた軍事的危険の印象がまだなまなましく、また、前方にはのりこえがたいような経済的冒険が待ちうけているという感じがつよかったので、それだけでも、大会が公然たる反対意見なしに、この政策を承認するのに十分であった。
トロツキーのたくみな文体の特徴を示している長文の決議において、大会は、「軍事的任務のために軍隊を存続させることが必要であるあいだ」、労働義務に赤軍部隊を用いることを、用心深く承認した。労働の軍隊化の原則については、なにも懸念されていなかった。(6)「軍隊の必要をみたすために指揮幹部についておこなわれてきたのと同じ正確さと厳格さをもって、生産活動への配置のためにすべての熟練労働者の記帳をおこなう」よう、「労働組合と労働部」に援助があたえられることになった。(7)労働義務のための大衆動員については、仕事の規模と必要な用具の数に動員される者の数をあわせること、および、(8)「赤軍の創設にあたって」なされたように、有能な指導員を用意しておくこと、が必要とされたにすぎなかった。(9)仕事をはなれる労働者は「労働脱走」の罪あるものとして扱われ、(10)「強制収容所への拘禁」にいたる一連の厳罰が指定された。
労働徴集についての討議は、数週間後、第三回全ロシア労働組合大会の席上で、ふたたびおこなわれた。この大会には、なお少数ながら黙ってはいないメンシェヴィキの代議員がいたし、ボリシェヴィキの隊列になお広まっているこの政策への反対も、ここでもっとも強くなりそうであった。一週間前、全ロシア鉱山労働者組合創立大会で、「かつてわが赤軍にみられたような同志的な規律を、労働組合を通じてつくりださなければならない」と言明したレーニンは、いまや、この政策のもっと筋道のとおった弁護に乗り出した。かれはブレスト=リトフスクのあとの「息つぎ」にまで話をもどした。
当時、一九一八年四月、かれは、共産党左派に反対して、全ロシア中央執行委員会に提出したテーゼのなかで、「労働規律の向上」を提唱したのである。かれは、「二年前には労働軍のことなどは問題にならなかった」ことをみとめた。しかし、「資本との闘争形態は変化しつつあり」、いまや、新たな息つぎがおなじ問題を提起した以上、「労働を新しい仕方で組織し、労働への引きいれ、労働規律への服従の新しい形態をつくりださなければならない」。そうは言っても、レーニンは、「社会的規律の新しい形態をつくりだすことは、何十年もの仕事である」ことをみとめた。レーニンは問題をこのような大まかな線にのこしておいた。
かれの演説ののちに採択された短い決議において、大会は、(1)「ただちにあらゆる労働組合組織に下から上まで厳格な労働規律を実施すること」を、一般的に決定した。(2)「われわれは現代において強制なくしては生きることはできない」とルイコフは、大会の日程も半ばをすぎたころに、率直に言った。(3)「ろくでなしやおろか者は、労働者と農民を飢餓と貧困から救うために、かれらのために働くように、刑罰でおどして、強制しなければならないのである」。しかし、「労働の自由」を主張するメンシェヴィキの言い分にたいして、ボリシェヴィキの立場を理論的に弁護する役目はトロツキーにのこされていた。
自由な、強制されない労働とは何を意味するのか、をメンシェヴィキのスポークスマンに説明してもらおうではないか。われわれは奴隷労働を知っている、われわれは農奴労働を知っている、われわれは中世ギルドの強制的な、組織化された労働を知っている、われわれはブルジョアジーが「自由な労働」と呼ぶ雇用賃労働を知りつくした。われわれは、いまや、国全体にとって義務的な、したがってすべての労働者にとって強制的な経済計画にもとづいて社会的に規制される労働の型にむかって進みつつある。それが社会主義の土台だ。……そして、ひとたびこのことをみとめた以上、われわれは、そのことによって、経済的任務の遂行のために必要とされる場所にすべての勤労男女を派遣する権限を労働者国家がもつことを、基本的に−形式的にではなく、基本的に−みとめることになるのである。
われわれは、そのことによって、国家の命令を実行することを拒み、労働者階級の意志とその経済的任務にみずからの意志を従属させようとしない勤労男女を罰する権限を、国家が、労働者国家がもつことをみとめることになるのである。…‥わたくしが言ったこの基本的な意味での労働の軍隊化は、われわれの労働力組織のために欠くことのできない基本的な方法である。……われわれは、すべての労働は社会的に強制された労働であることを知っている。人間は死なないためには働かなければならない。働きたくないものもあろう。しかし、社会組織はその方向にむかって人間を追いたて、鞭打つのである(1)。
(注1)、『第三回全ロシア労働組合大会』一九二〇年、第一巻(総会)、八八〜九〇ページ。この議論は、部分的には、第九回党大会におけるトロツキーの演説において予期されていた(『ロシア共産党(ボ)第九回大会』、一九三四年、一〇四〜一〇五ページ)。L・トロツキー『テロリズムと共産主義』、一九二〇年、一二四〜一五〇ページ(『全集』、第一二七〜一五三ページに再録)の長い文章は、二つの演説を合成したものである。
恒久的にかつ無制限におこなわれる国家の労働徴集を弁護するこの議論を読むと、この時期におこなわれた貨幣廃止論と同じように、避けられなかった厳しい必然にたいする理論的正当化をおこなおうとする試みのような気がする。しかし、この率直な発言は、それが党の公認の政策を代弁したものであって、大会ではメンシェヴィキ以外反論する者もなくすんだとはいえ、一般の労働組合員のあいだでのトロツキーの人気を高めることにはとてもなりそうもなかった。この年の終りに、ブハーリンは、かれの『過渡期の経済学』のなかで、国家資本主義のもとでは強制的な労働義務制は「労働者階級の奴隷化」を意味するが、プロレタリアート独裁のもとでは、同じ方策もまさに「労働者階級の自己組織」に他ならないと論じた。
働かせるための刺激として、(1)道徳的な勧めや手本、(2)物質的な誘い、(3)それに刑罰の恐怖などを組合わせるという大変な努力のおかげで、ポーランド戦争とウランゲリの攻勢の期間中は困難がましはしたものの、労働規律の制度は維持された。労働規律にかんする諸方策を断固として承認した第九回党大会の決議はまた、(4)集団的および個人的な「労働者競争」の組織を提唱し、(5)現物形態の報奨制度をすすめ、(6)前年の夏、自然発生的にはじまった「共産主義的土曜労働」の慣行をとくにたたえた。一九二〇年四月、党出版部は、特別の一日かぎりの新聞「共産主義的土曜労働」を発行することによって、この運動をあらたに促進するための手本をしめした。この年は土曜日にあたった五月一日の朝、レーニンみずから、クレムリン内で「共産主義的土曜労働」に参加した。のちに、(7)無報酬の土曜労働に参加することは党員の義務である、とする党規約がつくられた。
同じ年のうちに、(8)トロツキーを推進者として輸送の復興に従事していたとくに活動的な労働者のいくつかのグループが、軍事的な比喩で、ウダールニキ、つまり突撃作業班員と名づけられた。そして、労働戦線におけるとくに価値ある奉仕を指す言葉として、ウダールニチェストヴォ、つまり「突撃作業」という名詞がつくられた。ウダールニキの班はとくに困難な、またはとくに急を要する任務を割当てられた。この案は、当初は貴重な刺激をあたえたが、のちには濫用され、あまりに広範にかつ不断に用いられたため役に立たなくなった。
最初のウダールニキはまったく栄光のために働いたのであって、特別の努力のための刺激は純粋に道徳的で心理的なものであった。だからといって、なにも、より物質的な刺激が−それが得られるかぎり−完全に無視されたというわけではない。一九一九年一月の第二回全ロシア労働組合大会によって承認された賃金表がどの程度実際に通用されたかは測りがたい。
しかし、一九二〇年四月に開かれた第三回大会は労働の軍隊化という主要問題にだけ注意を向けたわけではない。大会は賃金政策についても討議をおこない、新しい賃金表を承認した。新しい案を提出した労働人民委員シュミットは、「賃金表の構成に加えられた変化は熟練労働力を工業に引きつけることを目的とするものである」とはっきり述べた。このような目論見のもとに、賃金差別は鋭く浮き出され、最下級の「労働者」と最上級の「労働者」のあいだの正規の格差は一対二の割合になった。こうして、戦時共産主義の真最中に、熟練労働者を引きつけるより強い刺激を提供する必要にせまられて、革命期の当初に宣言され、ある程度実行されもした平等化政策からの退却がはやくもはじまったのであった。
しかし、この新政策が挫折することになったのは、貨幣報酬が現物給与によってまったく影を失ってしまうときがせまっていたためであった。いまや、重点は現物給与にうつつたのである。消費者の地位と職業に合わせた配給等級には多くの変化があったが、一九二〇年前は配給量を個人の生産量に合わせようとする試みがなされたことはなかった。貨幣賃金がほとんど意味を失い、配給が現物賃金の性格をおびつつあった一九二〇年一月、現物報奨の制度を設けるという提案が第三回国民経済会議全ロシア大会に提出されて、承認された。
この勧告は、一九二〇年三月の第九回党大会とその翌月の第三回全ロシア労働組合大会によって繰りかえされた。一九二〇年六月には、「労働の生産性を向上させるために」貨幣および現物による報奨制度を設けることを命じる布告が出された。この制度を実施する可能性は、あきらかに、「現物報奨のための一般フォンドの確立」にかかっていた。一九二〇年一〇月には、五〇万プードの穀物とそれに相当する量の他食料品フォンドがこの目的のために蓄積された(5)。
(注5)、同上、第九二号、四九七。レーニンは、この布告を「人民委員会議と労働国防会議のもっとも重要な布告ならびに決定の一つ」と呼んだ(『全集』、第二六巻、四〇ページ〔第三一巻、五一五ページ〕)。
しかし、労働組合が管理するはずであったこの計画は物資不足のために破産してしまった。なぜなら、食糧人民委員部の機関は「食糧を報奨としてではなく、普通の正規の配給の一部として分配しなければならなくなることがしばしばであった」からである。いまや貨幣がほとんど価値を失った以上、労働者の賃金の現実に意味をもつ部分はたえず増大しつつある現物支払いの部分であった。しかし、供給量がとぼしいために、ぎりぎりの最低限の配給量を超える分配がたえず阻止されるときには、報奨や差別賃金があたえたかもしれない生産への物質的刺激は失われてしまった。労働政策の分野での戦時共産主義の最終的な結果は、革命的な熱情とむきだしの強制以外に他のいかなる刺激も用をなさないようにしたということであった。
労働戦線が、国民経済の他の分野とおなじように、緊張がたえがたくなっているという徴候を示しはじめたのは、ウランゲリが敗北して、国内戦が最終的におわった一九二〇年も未に近いころのことであった。「労働の軍隊化」は、生存のための闘争が進行しているかぎりでもっていたように思われた正当化の根拠を失ってしまった。
労働組合は、ふたたび、鋭い摩擦−(1)中央評議会内部の摩擦、(2)中央評議会と労働組合とのあいだの摩擦、それに(3)組合とソヴェト機関とのあいだの摩擦−の場となり主題となった。論議の的となった問題−それは、原則の問題というよりは程度の問題として提起されることが多かった−は、(4)組合の主要な機能は、生産を刺激することにあるのか、それとも組合員の直接的で部分的な利害を守ることにあるのかという問題、(5)組合は労働を動員し組織するにあたって、強制的方法によるべきか、それとももっぱら自由意志を重んじる方法によるべきかという問題、さらに、(6)組合は政策問題について国家から命令を受けるべきか、それともある程度の独立性を推持すべきかという問題であった。(7)「労働の軍隊化」をめぐる争点と、国家にたいする労働組合の関係についての争点のあいだには本質的なつながりはなにもなかった。
しかし、労働徴集を社会主義経済の恒久的な部分とみなす者が労働組合を国家機構に組みこもうとしたのにたいして、労働組合の独立性を支持する者が、組合の価値はそれが課する規律の自発的な性質にあるとしたのは当然のことであった。トロツキーは強制的な労働動員と国家への組合の完全な従属を限定ぬきで主張したが、かれの強烈な個性のために、論争は一段とつきつめたものとなり、やりとりは一つ一つ激しいものとなった。他方、トムスキーは、伝統的な「労働組合主義」の見地の擁護者としてあらわれた。
一九一八年の第一回全ロシア労働組合大会は、労働組合は「国家権力の機関」となるべきであると定めていた。他方、翌年の第八回党大会は、党綱領中の該当部分で、労働組合は「単一の経済体としての国民経済全体の管理を事実上ことごとくみずからの手に集中す」べきであると宣言していた。国内戦の渦中では、二つの観点は融合されえた。しかし、それが終ってしまうと、重要な政策決定は労働組合と国家機関のいずれによってなされるべきかという問題がおこらざるをえなかった。この論争を呼びおこすきっかけとなったのは、多少とも偶然的なものであった。一九一九年から一九二〇年にかけての冬には、鉄道事情は破滅的なものとなっており、輸送の完全な解体のために、経済は崩壊の危機にあった。レーニンは、当時ウラルにいたトロツキーに電報を打って、この問題解決の任にあたってほしいと頼んだ(1)。
(注1)、(1) L・トロツキー『わが生涯』、ベルリン、一九三〇年、第二巻、一九八ページ。また本巻、三七三−三七四ページ 〔訳書、二七八ページ〕を見よ。
最初に思いつくものといえば、なんといっても、当時流行の強制の方法であった。一九二〇年一月三〇日付の労働国防会議の布告は、すべての鉄道従業員は労働義務により動員されると宣言した。さらに、一週間後に出た新しい布告は、鉄道当局に規律にかんする広範な権限をあたえた。どの布告にも労働組合のことは一言も述べられていなかった。一九二〇年三月初め、トロツキーは、かれの政策を実行するために、交通人民委員部(ナルコムプーチ)に新機関を設置することに成功した。
この機関は、「交通人民委員部総政治局」(グラフポリトプーチ)と呼ばれ、鉄道従業員の政治的自覚に訴えることを職務とした。この新機関設置の目的のひとつ、そういえなければ、とにかくもその結果のひとつは、革命後の最初の数週間におきた事件以後、多くの組合のなかでもひときわ頑強に、独立行動の伝統を守ってきた鉄道従業員組合を棚上げすることであった。
一九二〇年三月末の第九回党大会は、特別の決議をもって、輸送のもつ枢要な重要性に注意をうながし、「輸送改善の事業で根本的な困難」をもたらしているのは「鉄道従業員組合の弱態」であるとした。さらに、交通人民委員部総政治局を特別にたたえて、「経験をつんだ共産主義者の組織的な影響を通じて緊急に輸送事情を改善する……と同時に、鉄道労働組合の組織を強化し、総政治局が鉄道へ派遣する最艮の労働者を組織につぎこみ、労働組合自身が組織の内部に鉄の規律を確立するのをたすけてやり、そのことによって鉄道従業員労働組合を鉄道輸送のいっそうの向上のためにかけがえのない道具にする」という二重の任務を交通人民委員部総政治局は果さなければならないとした。
反感がじきにかきたてられて、交通人民委員部総政治局と鉄道従業員組合のあいだには公然と戦争がはじまった。それは八月に危機的な状態に立ちいたったので、党中央委員会は鉄道従業員組合の委員会を廃し、新しい委員会に代えることを決定した。この新しい委員会はのちの論争においてツェクトラン〔運輸労働組合中央委員会〕(2)という名で知られるものである。
(注2)、第一〇回党大会で、トロツキーは、ツェクトランをつくるという決定(おそらくはかれの考えに発するものであろう)は一九二〇年八月二八日の党中央委員会でおこなわれ、トムスキーが抗議したが、レーニン、ジノヴィエフ、スターリンが支持したと、二度にわたって、矛盾なく、述べている(『ロシア共産党第一〇回大会』、一九二一年、一九五、二一四ページ)。
ポーランド戦争は終っていなかったし、南ロシアではウランゲリがあらたに干渉を開始していたのだから、輸送が機能を果すのを保証するものなら、どんな高圧的な緊急措置でも正当化されるようにまだ思われていた。しかし、九月の末になって、労働組合は党中央委員会内での信望をいくらか取りもどした。党中央委員会は、労働組合問題にたいする「一切のこまごました監督と干渉」を意義あることとみず、輸送事情が「決定的に改善された」ことをみとめて、いまや交通人民委員部総政治局(および、交通人民委員部水運政治局という河川輸送のための同種の機関)を労働組合機関に転化すべき時だと宣言した決議を採択した。
(中略) 第一〇回党大会に向けた三派による労働組合論争の分析は省略する。(1)レーニン・ジノヴィエフ・スターリンら10人グループの決議草案、(2)トロツキー=ブハーリン派の綱領、(3)労働者反対派の提案とその採決結果において、レーニン派が勝利した。(P.168〜171)
トロツキーは、勝利した決議は「第一一回大会まで生命をもちつづける」ことはないであろう、と大会の席上予言した。この予言は文字どおり適中した。新たな危機がわずか二カ月後におとずれた。そして、労働組合にかんする党の方針は、一九二二年一月の中央委員会の決議によって、いま一度実質的な修正をうけることになった。この新たな変更がなされるにあたって、一九二〇〜一九二一年の冬に特徴的にみられたあの激しい対立感情がいささかも再燃しなかったことについては、二つの要因が働いていた。
第一に、第一〇回大会で党の規律が強化されたため、大会前におこなわれたような類の公開の激烈な論争をあらためておこなうことが不可能になっていた。第二に、一九二〇〜一九二一年の冬の労働組合論争全体は、戦時共産主義の制度のもとに、この制度の経済的前提にもとづいておこなわれた。戦時共産主義が放棄されネップが採用されたことは、労働政策にもはねかえり、トロツキー派と労働者反対派の政綱を時代おくれのものとした。しかし、この政策変化は、大会で採択されたより柔軟な綱領にはよく適合し、この綱領の継続であるともっともらしく見せかけることもできた。
トロツキー派の国家による労働動員政策は、戦時共産主義の極度の緊張状態を反映したものであり、緊急事態が去れば、ゆるめられなければならなかった。しかし、それは、戦時共産主義の他のいくつかの特徴よりは、持続的な有効性をもつことがのちにわかった。五力年計画のもとで最終的に採用された労働政策は、第一〇回党大会によって採択された決議よりは、当時トロツキーが述べていた考えのほうに負うところが大きかったのである。(P.172)
3、R・ダニエルズ「トロツキーと労働の軍隊化」−(党内論争面のみ)
(注)、これは、R・ダニエルズ『ロシア共産党党内闘争史』(現代思潮社、1982年、原著1959年)から、「第五章、労働組合論争」4節のうち、〔小目次〕にある最初の2節(P.96〜100)の転載である。この党内論争は、2つの内容を含む。第一は、トロツキー「労働の軍隊化」方針と2000企業への強行である。第二が、「労働の軍隊化」方針をめぐる党内3派形成と論争である。3派とは、(1)レーニン・ジノヴィエフ・スターリンら10人グループ、(2)ブハーリン=トロツキー派、(3)コロンタイら労働者反対派である。
私の関心・視点は、革命労働者が、トロツキーの第一内容と執行に反対し、ソ連全土において、立ち上がった激烈なストライキ実態の解明にある。それは、1921年2月ペトログラード革命労働者の全市的山猫ストライキという総決起で頂点に達した。それにたいし、レーニン・ジノヴィエフ・トロツキーらは、ストライキ弾圧・1万人逮捕・労働者500人即時銃殺の大量殺人犯罪で応えた。
ところが、R・ダニエルズの原著は、ソ連崩壊32年前の1959年だった。彼も、E・H・カーと同じく、レーニンらによる労働者弾圧の完全隠蔽作戦によって、それら「労働の軍隊化」執行にたいし、革命労働者がどう対応したのかという側面を発掘・公表できなかった。転載した範囲だけで、 (出典・注)が27ある。すべて英語なので省略した。
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〔小目次〕
第五章、労働組合論争−はじめに
3、組合自治と労働者反対派 (省略)
4、労働組合論争 (省略)
第五章、労働組合論争−はじめに
一九二〇年までには、白軍やポーランドとの戦闘がその年の大部分にわたって続いてはいたが、ソヴィエト国家の存続如何はもはや深刻な問題になっていなかった。共産主義指導者たちにとって、彼らが建設しようとしている新社会の窮極の形態になにがしかの注意を向けることが、もう一度可能となった。その結果は、革命家たちがこうした一般的問題に向かった場合の常の如く、対立の再生であり、それは労働組合問題を通じて表わされることとなった。
労働組合がになう固有の役割の問題から出発して、議論ははるかにこれを越えて進展した。それは、ソヴィエト国家の将来、並びにそれと公言された諸目的との関係についての根本的な選択を内包していた。これこそ、労働組合問題がブレスト・リトフスク条約への辛辣な前奏曲にも匹敵すべき論争の嵐を捲き起した理由である。レーニン派と左派との間の基本的相違が再度表面化し、一般的にいって分派闘争の七年間を通じて保持されることになるいくつかの線が引かれた。
深刻な政治的対立の殆どの例がそうであるように、一九二〇年から一九二一年にかけての冬に闘われた、共産主義者間の労働組合論争は一夜にしてもちあがったのではない。直接的にであれ、間接的にであれ、労働組合および労働問題は、共産主義者が権力についてからこのかた、党内論争にいつも含まれていた。政治的・工業的権威の問題一般と同じように、労働組合問題は、レーニンが『国家と革命』の中で例示した無政府主義的ユートピア論にその根をもっていた。今度もまた、労働組合と、経済行政の職務への大衆の自治的・民主的参加とに関して革命的理想を維持しようと努めたのは、左派に依拠した反対者たちであった。
一九一七年から一九一八年にかけての「労働者管理」の一年が、工業の包括的国有化と直接的な、中央集権的政府管理に道をひらいたとき、労働組合は依然として、一九一七年ボリシェヴィズムのサンディカリズム的遣産の受益者に留まった。一九一九年三月の第八回大会で作成された党綱領は宣言した、「社会化された工業の組織的機構は、まず第一に、労働組合を基礎とせねばならない。……労働組合は、……経済的単一体としての全国民経済に対する全般的管理を、事実においてその手に集中するまでにならなければならぬ」。ブハーリンは、彼の新社会の理論において、この展望を詳細に論じた。すなわち彼は、生産関係の基本的組織として、資本主義的カルテルやトラストに取って代るべき第一義的役割を、労働組合に与えたのである。
一九一九年一月、第二回労働組合大会は、組合の将来に関して、翌年の論争で合言葉となる定式を確認した。いわく、工業行政および管理の政府機関と併合され拡大化された諸機能をもつものとしての、労働組合の「政府化」(ogosudarstvleie)、このことは「労働組合が、緊密に調整された共同作業を行ない、広汎な大衆を国家機構とすべての経済管理機関を運営する任務に動員することの、全く不可避的な結果」として、多かれ少なかれ自然に起るであろう。
労働人民委員X・X・シュミットは、自身の担当部門に関して、「労働人民委員部の諸機関といえども、労働組合機構の中から築きあげられるべきである」と述べた。組合の行政的特権の裏側は、労働規律と生産性を維持すべき、そしてまたストライキを指導するというよりもむしろ予防すべき、その責任であった。奨励、勧告、および工業や軍隊への人員補充のための動員、これらもまた組合の活動範囲につけ加えられた。
一九一八年から一九一九年にかけて、私的所有と効果的な政府管理との間の空白期においては、労働組合は工業管理に実質的役割を演じた。トムスキーを全ロシア労働組合中央評議会(ARCCTU)議長に戴く労働組合指導部の共産主義者は、大きな権力とかなりの自治権を享受した。しかしながら、組合指導部と下部との関係にあっては、民主的理想は決して現実のものではなかった。実際には、労働組合は、伝統的経営官僚の管理機能を帯びれば帯びるほど、それ自身ますます官僚化していった。
極右ボリシェヴィキとして過大な野心を盛りこんだ綱領の結果を常に気づかっていたリヤザノフは、第八回党大会に警告した。「すべての労働組合が……生産管理におけるあらゆる権利を……放棄しないかぎり、われわれは官僚主義を避けることができないであろう」。しかしながら、組合の将来に関する議論は、生産の能率や、下部に対する組合指導者の鋭敏な反応にではなくて、国の基本的経済諸条件や、革命的綱領のための包括的見通しに向けられたのであった。
一九二〇年には、戦時共産主義も行き詰りに達していた。経済は崩壊しており、社会は混沌のさなかにあった。労働者も農民も、ソヴィエト体制に背を向けはじめていた。党上層の人々は、戦時共産主義をもっと現実主義的な光の中に−社会主義の楽園への近道としてよりも、むしろ苛酷ではあるが恐らく必要な方策の一つの型として−眺めはじめていた。労働組合は、革命後の夜明けの冷え冷えとした風を、すばやく感じとった。
トロツキーは、労働組合を共産主義者の政治討論の主要舞台に据えた人であった。決定的な軍事的危機が去るや、彼はそのエネルギーと新たに修得された指令の習慣を経済再建の分野にふり向け、そこにおいて中央の指令と規律という試験ずみの軍隊式方法によって共産主義の勝利への障害物を克服することを提案した。トロツキーの提案が十分に受け入れられたとは言い難く、彼の駆り立てた討議は、拡大しつつある諸サークルに広がり、ついには、社会組織の基本原則にからまる分派闘争に全党が苦しむに至った。
労働者のスポークスマンの多くに、不満がなかったわけではないが、一九二〇年ごろには、伝統的な労働規律や生産性を向上するための奨励は、多かれ少なかれ党指導部に受け入れられた。一九二〇年初期のトロツキーの革新は、民間労働の任務に対して軍事単位と軍事規律を用いることであった。内乱の最悪期が去った現在、トロツキーは、苦心を重ねてつくりあげた赤軍の組織的資源を平和目的に使用することに、殊更望みをかけていた。軍隊を労働部隊として使用する方が、それが混沌たる経済の中で無活動状態になっているのを見るよりも好ましいと、彼は力説した。
トロツキーは、もっと長い見通しに立って、労働の軍隊化を、国の決定的経済問題の解決に大衆を動員すべき効果的なシステムと考えはじめた。「もしわれわれが、中央から出される目的との一致を必要とすべき計画経済を真面目に問題とするならば、労働力が所与の発展段階における経済計画に従って配分されるときは、労働大衆はロシア中をうろつきまわることなどあり得ない。彼らは、兵士と全く同様に、そこここに投入され、指揮され、命令されねばならない。…‥これなくしては、荒廃と飢餓という状態のもとでは、新しい基礎に立ついかなる工業についても、われわれは真面目に語ることはできない。」
軍隊化は、主として労働組合に対する含みをもっていた。「労働組合は、労働条件の改善を目指して闘う……ためではなく、生産目的に沿って、労働者階級を組織し、教育し、訓練し、……一言でいえば、国家権力に協力して労働者を単一経済計画の枠内に権威を行使してはめ込むために、若き社会主義国家にとって必要であるからだ」。組合は、一口にいって、溶け込んで政府と一体になり、非規律的な自治を剥奪され、経済的軍隊化の手段に転化されるはずであった。
トロツキーが心に描いたところの労働行政の体系は、(1)政府・労働組合・軍隊の管理の複雑な体系、その高度の官僚制度化を伴うものであって、(2)住民全体に適用されるばあいには、不可避的に「強制の諸手段」をもたらすものであることを認めた。これらを彼は、(3)経済危機に対処するための単なる臨時的方策としてでなく、遅れた農民や種々雑多な労働者の土地で社会主義を建設すべき唯一の道として正当化したのである。
彼は率直に断言した。「労働の軍隊組織化の基礎を形づくる政府による強制の形態なしには、資本主義経済を社会主義経済で置き換えることは、空論にすぎないだろう」。これが中央集権化に適用されるはあいの論理的延長は、完全な経済計画化という終着点を指し示していた。トロツキーは、ソヴィエト体制最初の一〇年間に登場するすべての中央集権主義者の中でも最も熱心であったが、第九回大会で不満を述べた。「競争の諸法則の自然性的作用に取って代るであろう単一の経済計画を、われわれはまだもっていない。ここからこそ、最高経済会議の諸困難が派生してくるのである。」
トロツキーの計画化提案は、第九回大会に抵抗もなしに承認された。もっとも、すでに明瞭となっている決定的経済問題の列挙以外には、これといった内容は、殆ど示唆されなかったような状態ではあったけれども。あたかも、包括的計画の考えに対してなされたかのような抵抗も、実際には指導部内の政治的対立の産物であったように思われる。最高経済会議は、常に慎重な人物、ルイコフを長としていた。彼は、当然ながら、トロツキーに恫喝されたと感じて、トロツキーの計画化案は非実践的な抽象論であると抗議した。
ルイコフは失脚した。すなわち、トロツキーの労働者・農民防衛会議が、労働・防衛会議と改称されて、経済の最高権力と決定され、ルイコフは、合議制原則を誤って支持しているというので、最高経済会議とそれがまだ保持していた工業上の諸責任からやがて解任されたのである。トロツキーはもう一方にも敵をつくっていた。トロツキーは、彼の勧める激越な手段に対してためらいや恐れから反対にまわった共産主義者たちを容赦しなかった。
彼は労働の軍隊組織化について述べた、「こうした表現を使うと、われわれは、たちまち極度の迷信と反対を叫ぶ喧騒に包まれる」。この反対は、社会主義社会の性格および任務を理解しえぬ人々の側のブルジョア的・労働組合主義的偏見によって、主としてかき立てられている、とトロツキーは主張した。彼は敵対者をメンシェヴィキと呼んだ。そして彼らに対しても、抵抗する農民に対してと同様、今にも強制手段に訴える用意が彼にあることは明らかであった。
もし労働する多数者がどのようにしてその真の利益を追求せねばならないか理解することができなかったのだとしても−それは確かに不幸なことであったが−いつの日か歴史の法廷に立つことを思い描いているこの共産主義指導者にとっては、彼が正しいと信じている方向に一歩一歩進むことが、依然として必要なのであった。社会主義は、地球上のより先進的な部分における革命に支えられていない一後進国にあっては、人民の上に彼らの差し当りの望みに反して押しつけられることによって、その最初の動力を受けとらねばならなかったのである。
その経済的思考において、トロツキーは最初期スターリニストであった。生産性と労働規律への責任を強調した彼の労働組合綱領は、一九二九年以降の組合のスターリン的画一統治(Gleichschalung)の予行演習となった。もっと広く見れば、経済生活における権威と強制に対してトロツキーが試みた弁明は、五カ年諸計画の全体主義的経済学を予告するものであった。なるほど、そこには相違点があり、トロツキーとスターリン以上に対照的な二人の人物を想像することは殆どできない。トロツキーの峻厳さの底には、真の確信が横たわっていた。
「われわれの革命は」と彼は一九一九年にかいた。「すべての勤労者、すべての勤労婦人が、この地上の生活はより容易であり、より自由であり、より清潔であり、また自分にとって、より尊いものだと感ずるときにはじめて、十分に、自らを正当化することになろう。……困難な道が、このことの達成から、われわれの根本的な唯一のゴールから、今なおわれわれを隔てているのである」。トロツキーの理念とスターリンの現実との間の血縁関係を辿ってみるならば、この二人がロシアで手許にあるだけの政治的・経済的素材から一つの工業力を築きあげようと試みる際に対処せねばならなかった状況にまでさかのぼることができる。これらの深い根からこそ、世界が「共産主義」という言葉と同一視するようになった社会制度−軍隊式に組織された工業的社会−が生い立ったのである。
トロツキーの軍隊化提案は、まさに批判の蜂の巣をつついた形となった。抗議の多くは、極左派からのものであったが、それは、トロツキーの提唱した権威主義と中央集権化に対するイデオロギー的反感から起ったものであった。ウラジミール・スミルノフは、いっそう意識的な社会層に余りにも権威主義的にアプローチすることに対して、警告を与えた。「われわれは、全社会の軍隊化を論ずることはできない。もしそれが全産業部門に及ぼされるならば、それは、上層と下層との間に(不十分な程度ではあるが)現に存在しているあの不断の相互作用を打ち砕いて、わが党の外観全体を激変せしめるであろう。この場合、党は、髪の毛で自分を吊り上げようとしている人間に似ていることになろう」。過度の官僚制度の害悪を避けるためには、労働組合のような現存する機関によって規律と権威が行使されるべきであろう。通常以上の統制は、指導部に影響を与えるべき下部の民主的な力を破壊してしまうであろうし、また党指導部は自らに対しての責任を負うことになろう。こうしたスミルノフの予見は例外的であった。
軍隊化に関する別の不満は、党の右翼、経済行政にたずさわる慎重派レーニン主義者−ルイコフ、ミリューチン、およびノーギン−から起った。レーニンは、はじめトロツキーを支持した。というのは、革命国家を支えてロシア経済を動かさんがためには、最大限の強制と暴力を行使する用意がどちらにもあったし、また二人とも、労働部隊の訓練と統制には労働組合を利用しようと望んでいたからである。(1)トロツキーの追随者たちと、(2)レーニン派との間に労働組合をめぐる意見の対立がはじまったのは、細密な論点に関してであった。第九回大会でブハーリンは、工業行政への組合の統合を表わすために、「政府化」(governmentalizing)という言葉を用いた。モロトフは、この言葉はむしろ国家目的のために党の指導下に組合を利用することと見るべきであるとして、これに反対した。
労働組合の自治が旨くいかなくなることは、どちらのばあいにもいえたであろうが、モロトフにいわせれば、プバーリンを批判する理由がたしかにあった。「われわれは、官僚的方法ではなくて、民主的な方法で、つまり労働大衆自身を組織するという方法で活動せねばならない。これが労働組合の形式的政府化に対する主要な反対理由である、と私は考える。労働の生産性を高める目的をもって、労働組合を通じての労働大衆のイニシャティヴを高めなければならない。これは、やがてレーニンによって採用された「伝達ベルト」理論であった。それによれば、共産主義的に統制された組合は、大衆の政治的教化を引き受け、社会主義建設のための最大限の活動へと彼らを鼓舞するものとされた。
組合の負うべきこうした役割は、単独指導的経営原則にぴったりと適合した。レーニンは次のように第九回大会に決議させた。「組合は、労働階級の広汎なサークルに、工業行政の機関を最大限の弾力性と事業能力を発揮できる方向に再建する、あらゆる必要を説く任務を引き受けなければならない。そしてその再建は、行政的合議制の最大限の切りつめへの移行と生産に直接にたずさわる一単位における単独指導的経営の漸次的導入によってのみ成就しうる」。この目的を追求するためには、組合を国家から形式上切り離しておき、また党の統制によって最高指導部への組合の従属を確保しつつも、それらに自治の外観を与える方が、いっそう便宜であった。
一九二〇年の春から秋にかけての間に、トロツキーは、彼の軍隊化計画を実践に移す機会を得た。ロシア経済において常にアキレスの踵であった運輸機関の麻痺状態が、もはや耐えられぬほど激しくなったとき、状況を矯正するべくトロツキーが召喚され、(国防の地位に加えて)運輸人民委員部の裁量を委された。鉄道労働者はすでに軍隊規律のもとに置かれていたので、新しい地位についたトロツキーの最初の所為は、全政治活動を、軍隊方式に再組織することであった。
彼は交通路線のための交通人民委員部総政治局(Glavpolitput)を設置したが、これは「政治部」タイプの組織であって、そこでは党員は、指令の補助チェーンとして役立ちうる一つの軍事機構に組織された。いかにも彼らしいエネルギーと気の利かなさを発揮した挙句、特に彼の政治的管理官と運輸組合指導者との間の多くの個人的軋轢の代価を払って、トロツキーはともかく車輪をふたたび回転させることに成功した。
一九二〇年八月、ポーランドで戦闘中のソヴィエト軍がその敗北を潰走に転化させまいと努めていたとき、運輸部門の緊張は頂点に達した。自分への批判を沈黙させるために、トロツキーは党指導部の残りの者たちの賛成を得て、鉄道組合幹部を手っとり早く追放した。その代りに、彼は、自分の「政府化」案の線に沿った制度、運輸労働組合中央委員会(ロシア語略称、ツェクトラン〔Tsektran〕として知られる)をつくりあげた。ツェクトランは、鉄道および水路運輸制度全体をカヴァーする、人民委員部・組合・政治機関の融合物であった。それは、トロツキー自身を頭に戴いて、軍事的・官僚的方式に厳密に沿って機能した。単一の効果的なヒエラルヒーという理想は、少なくともこの分野では、現実となった。
ソヴィエト共産主義のこの進化段階においては、こうした体制は、その官僚的中央集権主義の行き過ぎに対する痛烈な批判を逃れることはできなかった。とりわけ極左からの、そしてまたある程度は慎重派レーニン主義者間では右からの、この批判は、多くは原則から発したものであった。もう一つの動因は、個人的怨恨であった。トロツキーの軍隊化案とツェクトラン計画の不評判は政治的乾草作りに恰好の機会を与え、特にジノヴィエフはそれをすばやく掴んだのである。(訳・注。政治的乾草作りとは、政治的妨害、または非難の材料を見つけることを指す)。
3、組合自治と労働者反対派 (省略)
4、労働組合論争 (省略)
4、立原信弘「トロツキー、労働の軍隊化構想の展開」−(党内論争面のみ)
(注)、これは、資料集『ロシア革命と労働者反対派』(海燕書房、1981年、絶版)における冒頭解説論文の抜粋である。解説者・立原信弘『労働組合論争と労働者反対派』(P.7〜78)から、〔小目次〕の2節(P.10〜33)を載せた。それらの内容は、ロシア革命の歴史的経過に基づいて、客観的で、正確に書かれている。ただ、解説者の肩書・経歴を書いていない。インターネット検索のデータは、「村松豊功。筆名・立原信弘、元教育大学新聞編集発行人、元現状分析研究会会員」となっている。
『資料集』の構成は、(3)コロンタイ『労働者反対派』論文、そのテーゼ、第10回大会への提案など、「労働者反対派」の3資料をまず載せた。他には、(1)レーニン・ジノヴィエフ・スターリンら10人グループ決議草案、(2)ブハーリン=トロツキー派提案である。よって、解説者の立場は、ボリシェヴィキ党内論争における「労働者反対派」主張の支持である。その立場から、トロツキー批判を展開している。ただ、省略した第4節でレーニン批判も一定行なった。ただ、ソ連崩壊10年前の解説なので、トロツキー批判と比べると、まだレーニン神話からまぬがれていない。
私は、レーニンのしたことを『国家と革命』ユートピア構想の放棄過程、反労働者路線・政策への転換という第5次クーデターと規定した。しかし、立原信弘は、「『国家と革命』からの転調」という批判レベルになっている。そして、労働組合論争に関しては、トロツキー批判のあまり、レーニンの『労働組合について、現在の情勢について、トロツキーの誤りについて』の論調を全面支持する書き方になっている。ただ、1981年著書なので、E・H・カー、R・ダニエルズと同じく、ここには、「労働の軍隊化」2000企業執行実態とそれに反対した革命労働者のストライキ激発データを一つも書いていない。レーニンらの完全隠蔽作戦によって、それらを発掘・公表できなかった。
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〔小目次〕
1、はじめに (省略)
4、レーニン−『国家と革命』からの転調 (省略)
5、労働者反対派の思想と行動 (省略)
6、論争の結末−第一〇回党大会と労働者反対派敗北の意味 (省略)
2、労働組合論争前史−戦時共産主義と労働組合
ボリシェヴィキは、ロシア共産党第一〇回大会において、労働者反対派を「サンディカリズム的・無政府主義的偏向」と断罪する決議を採択した。それによって、(1)一九一七年の政策が状況に促迫されたものであって、その思想的本質と不可分のものではないこと、(2)むしろプロレタリア革命の理念を実現する手段としての「一枚岩」の党的権威の第一義性と、(3)それにもとづく中央集権主義こそがその思想的本質にほかならないことを公的に確認し、(4)その理想主義的契機をカッコに入れた。政治権力をゆるぎないものとして確保した時点で、(5)自己の思想と組織の内部から、反権威主義的で分権主義の傾きをもつプロレタリア大衆の自然発生的革命性に連なるすべての要素を切断しようとした、ということもできる。
このようなボリシェヴィキの選択は、一〇月革命による政治権力の掌握以降、革命の直面した困難な現実を次々と切り開いてゆく過程で、彼らの模索し決断した政策の流れのなかに、すでに準備されつつあったものである。以後の論述に必要な範囲で、論争の前史をふり返ってみよう。一九一七年一一月、ボリシェヴィキ政権は、レーニンの草稿をもとに起草された「労働者統制令」を公布したが、レーニンの草稿には「企業が小さくて直接にそれのできるところでは直接に、さもなければ被選出代表を通じて、企業のすべての労働者および職員が」生産、保管、売買にたいする「労働者統制」をおこなうと記されている。それは政治権力獲得以前のボリシェヴィキの政策を継承したものであり、自生的な「労働者統制」活動に法的保証と権限を与えたものである。
この法令について、P・アヴリッチは次のような評価をくだしている。「法令の効力は、労働組合総機構よりもむしろ現場の労働者が生産用具をコントロールするというサンディカリズムの旗印−混沌と紙一重のサンディカリズムの旗印−に強い刺激を与えるものであった」「この緊急法令を出したときレーニンは、すでに混乱している状況をさらに悪化するかもしれないということに気づいていないわけではなかった。だが彼は仕事場の労働者に彼らのユートピアを速やかに実現する約束をすることによって、彼らの忠誠心を堅めることの方を、政策上優先した」。
しかし、生産点に拠り、被選出代表で構成された工場委員会等の分権主義的傾向へのボリシェヴィキの不信は、この法令に踵を接するようにして、「労働者統制の中央集権化」をめざす一連の方策を生みだした。ボリシェヴィキの立場からみれば、これらの方策は、国家的利益を無視した自己の職業的利益の追求(小ブルジョア意識の醸成)や管理上・技術上の知識の不足がもたらす「生産のアナーキー」の克服を目ざしたものであった。
一九一七年一二月、国民経済の全般的管理・調整機関として、労働組合を基礎に最高国民経済会議が設置され、この中央集権的国家機関が「国家トラスト」の支配権をにぎる体制がしだいに形を整えていく。一九一八年の前半、最高国民経済会議は、すでに一九一五〜一六年にツァー政府によって設立されていた工場管理の中央集権的諸機関を次々と接収し、グラフク(総管理局)・ツェントル(中央管理局)の名のもとに、それらを自己の下部組織として、工業管理の中心に据えた。ここでは、(1)古い(ブルジョア的)官僚組織を破壊し、(2)「労働の解放」を可能にする「生産の新しい組織」を生みだすのではなく、(3)古い官僚組織を取りこみ、(4)それをそのまま社会主義建設に利用するという選択がなされている。
一九一八年一月の第一回全ロシア労働組合大会では、(5)「労働者統制を細分化しようとする企て」が非難され、工場委員会は労働組合の下部機関・基礎組織とされた。(6)工場委員会に比して労働組合にボリシェヴィキの支配が貫徹しており、またこの大会で全ロシア労働組合中央評議会という中央集権的機構が組織されたからである。(7)企業別、工場別の工場委員会の組織形態にたいして、産業別の労働組合の組織形態が「労働者統制の中央集権化」という目標にとって有利なものと判断されたという事情もあろう。
国民経済の中央集権化は、戦時共産主義のもとでさらに強化される。当初、国民経済の全般的な管理・調整の機能を託された最高国民経済会議は、「大工業の全面的国有化にかんする人民委員会議の布告」(いわゆる「大工業国有化令」)(一九一八年六月)などによる国有化工業の急増という状況に強いられて工業管理の機関に変質していった。「労働者統制」の主体として最高国民経済会議に統合されていた労働組合もまた、この状況下で「労働者統制」機能を衰退させ、工業管理におけるブルジョア専門家の利用や単独運営制の導入などを通して、管理・運営面におけるその権限はさらに縮小する。「労働者統制」は「自主管理」(「労働者運営」)と逆のベクトルをもつ国家管理のなかへ吸収・消失し、中央集権化は官僚主義を跋扈させる温床となる。
戦時共産主義は、一〇月革命後一年を経ずして開始された帝国主義諸列強の軍事干渉と白軍との内戦を背景に、軍事をすべてに優先させざるを得ない状況下で採用された超中央集権主義的な統制経済である。反革命勢力の占領による地下資源の喪失や、すぐれた労働力の軍事への動員、ソヴエト官僚機関への吸収は、工業生産の崩壊とプロレタリアの階級としての解体・脱階級化を促進し、経済全般の荒廃と飢餓の蔓延は甚だしいものとなった。このような革命の危機を克服すべく、(1)私的商業の禁止や(2)農民からの農産物の徴発などとならんで、(3)プロレタリア大衆にたいしても、しだいに強制的措置をともなう管理が実行に移されたのである。
ボリシェヴィキ政権(人民委員会議)は、(4)失業者は提供された仕事を拒否できないといった布告や、(5)ブルジョア階級に属する一六歳〜五〇歳の全ての人々を徴用し、社会的に必要な労働につかせることを正式に承認する布告を出し、(6)一九一八年に公布された最初のロシア共和国労働法典では、全般的労働義務が定められた。(7)そしてさらに刑罰としての労働を強制する労働収容所の設置(一九一九年四月)や、(8)労働義務に反したものを裁き刑罰を課す労働規律裁判所の設置(一九一九年半ばより工場内に設けられ、まもなく工場規律にかかわる正規の機関となる)などを通して、(9)強制的労働義務にもとづく労働力の総動員とその計画的再配分の政策が強化された。
「戦時共産主義の労働政策の本質は、労働市場および労働者の雇用と管理のために従来みとめられていた資本主義的手続きの廃棄であった。このため、この時期の他の政策と同じように、労働政策も、国内戦の必要への単なる譲歩ではなく、社会主義制度への真の前進にほかならないのだと思われた。労働者国家が前線での要務のために市民を動員する権限をもつことにだれも異論がないとすれば、この労働者国家が工場に配置するのに必要な人間を徴用する権限を同じようにもっているという議論も争いがたいものであった。労働は売られるべき商品というよりは、むしろ果たされるべき奉仕であるというこの考え方は、理論の上では、資本主義的賃金制度のいやしい力学から社会主義の高い理想を区別する一切のものに押された刻印であった」。
このような戦時共産主義における労働政策を引き継ぎ、「プロレタリア独裁」期の普遍的政策として平時にまでそれを継続しようと構想されたのが「労働の軍隊化」にほかならない。労働力の動員と配分のために、(1)軍の徴用機構を用い、(2)一般の勤労大衆をも軍事的な単位とし、(3)軍事規律のもとに組織していくという方向をもつこの構想は、当初、(4)内戦の終結にともなう徴兵解除計画と関連してうち出され、(5)内戦のもたらした経済的荒廃の進行や労働規律の深刻な麻痺状況を打開する現実的方法として、レーニンをはじめとするボリシェヴィキ指導層全体の支持を受けていた。
「内戦の終結間近、輸送機関は、車輌と線路が破壊されていたために、完全に麻痺してしまっていた。兵士を復員させ、帰郷させることが不可能になったのである。全軍はただ空しく時を費やしていた。また他方では、工業生産と農業生産の一部は行詰っていた。採炭、木材伐採、収穫などに遊休状態の分遣隊を利用することが決定されたのは、そんな時だったのである」。一九二〇年一月、ウラル第三軍を最初の「革命的労働軍」に変える布告が出され、同年三月にはじまるロシア共産党第九回大会では、(1)単独運営制の問題と並んで、(2)「労働の軍隊化」に議論が集中する。
「労働の軍隊化」の最も熱心な擁護者であり、推進者であったトロツキーは、大会において、(1)労働組合そのものの軍隊化を主張し、「(2)労働兵は勝手な行動をとることはできず、転勤の命令が出されれば、それを履行しなければならない。(3)もし履行しなければ、脱走兵となり、処罰されるのである。(4)だれがこれを監督するのか? 労働組合である」と述べている。かれはこの数週間後に開かれた第三回全ロシア労働組合大会でも独自の「労働哲学」を展開して「労働の軍隊化」構想を擁護し、(5)戦時共産主義の平時への継続を正当化することによって、のちの労働組合論争におけるひとつの確固たる立場を用意することとなるが、この点については、のちに詳しく論ずることにする。
ところで、第九回大会は、公然たる反対なしに、「軍事的任務のために軍隊を存続させることが必要であるあいだ」、労働義務に赤軍部隊を用いることを「用心深く承認した」。しかし、この大会をまえに、のちに労働者反対派の中心となるシリャプニコフ(初代労働人民委員)は、ソヴエトを「政治権力の表現」とし、労働組合を「国民経済の唯一の責任ある組織者」として区別するテーゼを配布している。ここでは、労働組合が民衆を訓練し、生産能率を向上させるために強制を行使する生産者組織として「国家機関化」するという「労働の軍隊化」構想への反論が意図されている。
このように、「プロレタリア独裁」期における役割や国家機関との関係のあり方をめぐってしだいに論争の焦点にひきすえられつつあった労働組合は、戦時共産主義のもとでいかなる推移をたどったのか。この推移のなかに、労働組合論争の火種はすでに孕まれていたということができる。
労働組合が国家を吸収するのか、それともその逆なのかという問題は、明瞭に整序された形ではなかったにせよ、ボリシェヴィキが政治権力をにぎった一〇月革命以後、現実に強いられた労働組合の機能変化にともなって何度となく発生した議論の底に、たえず潜在していた問題であった。第一回全ロシア労働組合大会では、すでに述べたように、工場委員会を労働組合の下部組織に組みこむという重大な決定がなされた。しかし、労働組合の位置づけについては、革命の現在をブルジョア革命段階とみて、プロレタリアの利害代表としての労働組合の政府からの自立を説くメンシェヴィキに対して、ボリシェヴィキの公式見解は、労働組合の政府への従属を説くものであった。しかし労働組合が直ちに行政機関の重要な単位として構成され「国家化」されるべきか否かについては、ボリシェヴィキ内部にも意見の相違があった。
この意見の相違は諸党派間の対立の枠を越えて存在し、次のような不明瞭な大会決議を導き出すこととなる。「本大会は、今後予期しうる事態から推断して、労働組合が必ずや社会主義国家の機関に転化し、労働組合への加入が、産業に雇用されている全ての人民の国家に対する義務となることを確信している。」
一九一八年、内戦が勃発し、反革命との戦闘が革命の当面する最も重要な課題とならざるをえない状況のもとで、労働組合の「国家機能」は急速に拡大する。「政府が兵力用の人的資源を評価し、内戦に動員したのは、労働組合を通じてであったのである。労働組合中央評議会はこの件に関する報告書を毎週提出し、大半の組合は赤軍のための特別補給をはじめた。また内戦の長期化につれ、労働組合は組合員の五〇パーセントを召集し、武装した」
先に述べたプロレタリアの脱階級化とは、(1)ソヴエト官僚機関への先進的プロレタリアの吸い上げや、(2)飢えた都市からの民衆の離散という過程の結果であるとともに、(3)このような軍事をすべてに優先させざるをえぬ苛酷な現実に直接規定されたものであった。第二回全ロシア労働組合大会(一九一九年一月)でも第一回大会と同質の論争が再燃したが、内戦の最中という事情もあって、労働組合が直ちに徴兵オフィス、補給施設、懲罰機関となるという取り決めが承認された。レーニンは「国家死滅」という将来的な原則的視座に立って、労働組合が広範な勤労大衆を行政にたずさわることができるよう教育する必要を力説しつつも、労働組合の「国家機関化」という方向不可避性を強調し、大会もこの方向にそって起草されたボリシェヴィキの決議案を圧倒的多数で可決した。
しかし、「国家がしだいに組合を吸収することになるのか、それともその逆であるのかという点については、決議はある曖昧さをのこしていた」。すでに述べたように、当時最高国民経済会議は総管理局や中央管理局という官僚的機関の膨張しつつある体系を通して工業管理の機能を発揮していた。一方、「労働者統制」の主体としての機能を担わされた労働組合は、はじめ最高国民経済会議との共同のもとに、その中核として私企業の生産管理を組織していたが、総管理局や中央管理局の設置にともない、生産を組織する分野でのその仕事は「中央管理諸機関の理事会や工業管理部の理事会の形成に参加すること」に帰着し、国民経済全般の管理・運営においてはもちろん、工業の管理・運営においてもその権限はしだいに縮小しつつあった。
「最高国民経済会議は、労働組合を自己の補助機関とみなしがちであったが、他方、少なくとも数人の労働組合幹部は、工業管理業務は労働組合に委ねられた特権であるという考えをいだいていた。最高国民経済会議が多数の技師、旧時代の工業管理者との協働をうち出した時、この衝突は激化した。プロレタリアの大衆的感覚や利害に鋭敏たらざるをえないと同時に、労働組合の権限縮小に直接の利害関係をもつ労働組合指導層が、「労働者統制」の空洞化に抗議の声をあげはじめたのである。
立場の相違によって自由な解釈の余地を残した決議の「曖昧さ」は、この衝突を助長し、新たな論争の契機を用意した。第八回党大会(一九一九年三月)で採択されたロシア共産党(ボリシェヴィキ)の新綱領における「経済の分野で」の第五項で規定された労働組合の役割と任務も、この種の「曖昧さ」をもつことによって、労働組合論争において、それぞれの立場から自己正当化の根拠として引用され、注釈をほどこされることとなる(この第五項については、のちに詳しく述べたい)。
このようにみてくると、第九回党大会および第三回全ロシア労働組合大会でトロツキーが主張し、論理化した「労働の軍隊化」構想が、この種の「曖昧さ」に決着をつけ、国家が労働組合を吸収し、労働組合を通して労働力の効果的な動員と配分を、強制力をもって上から組織するというその傾向的主張によって、労働組合とその指導層を著しく刺激したことは当然であったといえる。内戦の緊迫が遠のき、戦時共産主義の行詰りが広範に自覚されはじめるなかで、戦時共産主義の平時への継続を意味したトロツキーの構想(およびそれにもとづく実践)は、しだいに状況に支えられた当初の説得力を失い、公然たる反撥と攻撃が労働組合の内部からあらわれはじめる。
3、トロツキー「労働の軍隊化」構想の展開
労働組合論争の直接のきっかけとなったのは、内戦で壊滅的打撃を受けた鉄道網を整備し、輸送事情を改善して経済の再建に資すべく、交通人民委員トロツキーのイニシャティヴにもとづいて、交通人民委員部総政治局(グラフポリトプーチ)が設けられたことにある(一九二〇年三月)。「この新機関設置目的のひとつ、そういえなければ、とにかくもその結果のひとつは、革命後の最初の数週間におきた事件以後、多くの組合のなかでもひときわ頑強に、独立行動の伝統を守ってきた鉄道従業員組合を棚上げすることであった」。交通人民委員部総政治局と鉄道従業員組合との間に公然たる闘争がはじまった。一九二〇年九月、党中央委員会は、鉄道従業員組合の指導部を罷免し、新たにトロツキーを長とする運輸労働組合中央委員会(ツェクトラン)という中央管理機関を設けることを決定した。
トロツキーはこの機関を用いて「労働の軍隊化」を実践に移し、強制と命令の方法(組合員の配置の任命制等)によって、寸断され機能麻痺に陥った交通網の再建、労働規律の回復にとりかかり、これを成功させる。かれは、第五回全ロシア労働組合大会(一九二〇年一一月)と、それに先だって開かれたボリシェヴィキ代議員の会合で、この方法をもって、他の労働組合をも刷新し、生産能率を向上させるという、労働組合への「ゆすぶり」政策を提案した。労働組合の代表的指導者のひとりトムスキーが、激しくこれに異議を唱えた。レーニンによれば、これが「闘争の発端」である。
その後の具体的経過については、レーニンが「党の危機」(一九二一年一月二一日、『プラウダ』に発表)で、錯綜した党内の分岐やテーゼ、政綱の続出した状況を七つの段階にわけて整理しており、参考になる。しかし、ここでは、(1)トロツキーのテーゼが党中央委員会内でレーニンやジノヴィエフの反対にあって孤立したこと、(2)争いを調停するため、ブハーリンらの「緩衝グループ」があらわれたが、これはのちに解体し、ブハーリン派はトロツキー派と合同したこと、(3)一九二〇年二一月の中央委員会で、交通人民委員部総政治局(および水運政治局)が正式に解散させられ、運輸労働組合中央委員会は、つぎの運輸労働者大会で新たな選挙がおこなわれるという了解のもとで残された。(4)論争の過程で半ダース近いテーゼが回覧に付された。
労働組合論争に一応の結着をつけたロシア共産党第一〇回大会(一九二一年三月)には、(1)レーニン派のいわゆる「一〇人政綱」と、(2)トロツキー=ブハーリン派のテーゼ、および、(3)労働者反対派のテーゼの三つの決議案が提出され票決を争ったことなどを確認すれば足りる。問題は、論争そのものの内実であり、それぞれの派に固有の発想や思想方法そのものであり、それらの対立の意味、勝利と敗北の意味そのものにほかならない。
すでにみてきたように、トロツキーは「労働の軍隊化」の最も中心的な擁護者であり、推進者であった。かれはそのきわめて特徴的で首尾一貫した論理をもって、労働組合論争におけるひとつの典型的立場を代表した。
一九二〇年の半ば、カウツキーの著『テロリズムと共産主義』の発表を機に、ロシア革命における「プロレタリア独裁」の諸政策を擁護することを意図して執筆された同名の著作において、トロツキーはその第八章を「労働の組織の諸問題」にあて、そのなかで第三回全ロシア労働組合大会(一九二〇年四月)に提出したかれの報告を引用している。ここで述べられている一種の「労働哲学」は、かれの固執する「労働の軍隊化」構想が、たんに革命ロシアをとりまく困難な現実に強いられたやむをえざる方策ではなく、社会主義建設における普遍的原則と考えられていることを示している。
トロツキーは、労働における「拘束・強制という要素」が「今後なおかなりの長い期間きわめて大きな役割を演ずる」ひとつの根拠として、独特の人間観を披瀝する。かれは述べている。「一般的にいって、人間は労働を回避しようとする。勤労意欲は、人間の本性ではない。それは経済的圧迫と社会教育によって始めて創られるものだ。いわば人間はかなり怠惰な動物なのである。」
この明解かつ率直な見解には、「怠惰」や「勤労意欲」は労働の質に規定され、労働の質は基本的には生産関係によって条件づけられるという社会主義の初歩的認識が欠けている。ここには「人間の本性」を一般的に云々することができるという安易な断定が認められる。
このような人間観に立って、かれは社会主義建設期における(1)「義務労働」の不可避性、(2)「義務労働」の具体的方法としての「労働の軍隊化」の必要を力説する。(3)非強制的な自由労働との比較において、「義務労働」の生産性も強調される。人間の本性は怠惰であるという人間観からすれば、これは当然の帰結である。「義務労働」が非生産的だというのは「哀れむべき自由主義的偏見」にほかならない。(4)「義務労働」の生産性を認めなければ、経済建設の破滅は必至である。「というのは、社会主義へ行きつくための手段として、われわれには、国の経済力と資源の権威的指導、国家計画に沿った労働力の中央集権的配分以外にはありえないからだ。(5)労働者国家は、いかなる労働者をも、その労働が必要とされる場所に送ることができるとみなす。
(6)真面目な社会主義者なら例外なしに、労働者国家が、自分のしなければならない任務の遂行を拒むような労働者を逮捕する権利を否定したりしないはずだ。」。(7)労働組合も新たな任務を帯びる。「労働組合は、労働条件の改善をめざして闘う−それは社会・国家組織全体の任務だ−ためではなく、生産目的に沿って労働者階級を組織し、教育し、訓練し、配分し、集結し、ある職種を定め、ある労働者を一定期間かれらの部署に定着させるために、(8)一言でいえば、国家権力に協力して労働者を単一経済計画の枠内に権威を行使してはめこむために、若き社会主義国家にとって必要」なのである。
このように、トロツキーは、人間性への独断(これは「ロシアには怠け者が多すぎる」というかれの民衆認識を反映していると思われる)から、社会主義へ至る手段として「義務労働」を正当化し、労働組合をそのための道具として位置づける。(9)プロレタリア個人は、労働組合を介して単一経済計画の枠内に強制的にはめこまれ、再教育され、「生産性を不断に増大させる」ために使用される客体である。(10)かれらは国家による管理の対象であり、官僚による操作の対象であることを強いられる。
もとより、トロツキーは、「社会主義体制」のもとにおける国家の「死滅」、その「生産と消費のコミューン」への解消という原理について語ってはいる。しかし、この原理との緊張のもとに過渡期の問題を論じてはいない。それはそれ、これはこれなのである。「ちょうどランプが燃えつきようとするときに、鮮烈な炎を放つように、国家もまた、死滅の前に、プロレタリアート独裁の形態、つまり市民の生活をそのすべての面でうむをいわさず掌握する国家というもっとも苛烈な形態をとるのだ」。この「国家独裁」において「労働者は、国家に従属し、あらゆる面で国家の支配下にある。なぜならば、それがかれの国家だからだ。」
しかし、わたしたちは、資本家階級や反革命勢力のみならず、プロレタリア大衆をもたんなる管理と操作の対象とする国家を「かれの国家」と呼ぶことができるだろうか。
トロツキーはこの時点において、端的に「プロレタリア独裁」イコール「国家独裁」と述べている。そして「国家独裁」とは、プロレタリアの意志と利害の代弁者を僭称する共産党の官僚支配にほかならない。この支配には、それ自体としては、「国家独裁」を自己否定するなんらの契機も内在していない。同じように、トロツキー流の「義務労働」にも、自己を否定し、資本制生産のもとでの労働力商品としての「自由」労働や強制をともなう「義務労働」とは質的に区別された自由な労働にもとづく共同社会、いいかえれば支配と抑圧の根拠である政治と管理の専門化を廃し、肉体労働と精神労働の分裂を止揚した真に自由な共同社会へ至るなんらの契機も内在していない。のみならず、かれの先の人間観に立てば、「義務労働」が「自由な労働」に変わることは空想にすぎない。かれがこの報告で社会主義建設の目的として強調する「労働生産性の増大」も、それ自体では、国家の「死滅」、「独裁」の否定にゆきつくことはできないのである。
以上のようなトロツキーの議論は、すでに述べたように、戦時共産主義やそのもとにおける労働の実際の経験を全面的に肯定し、そのうえにたって、その平時への継続を鼓吹するものであった。労働者反対派が適確に批判した「官僚制の害悪」という現実は、社会主義への一歩前進として理解され、「プロレタリア独裁国家がおこなうほど、完全に国民を従属させ、意のままに全面的に支配する権利があると確信している社会組織は軍隊をおいて他にない」という観点から、「労働の軍隊化」が主張されるのである。「労働の軍隊化」による「プロレタリア独裁」=「国家独裁」の強化と勤労大衆の国家権力への一層の従属−トロツキーによれば、この「リヴァイアサン」的状況こそ社会主義を準備し、「プロレタリア民主主義」を開花させるものにほかならない。
この第三回全ロシア労働組合大会におけるトロツキーの報告について、ドイッチャーは次のような評価をくだしている。「これは、知りうるかぎりでは、条件つきながらも全体主義的労働政策と呼びうる諸説のうちでも最も率直な見解であり、ロシアその他で実施されてきたそうした政策を、社会学的、哲学的に正当化しようとしたおそらくは唯一の試みであろう」。「トロツキーの労働政策は、三〇年代には、スターリンの労働政策の実践の根低を形成するにいたったのである」。
ロシア共産党第一〇回大会に向けて、トロツキーは「労働組合の役割と任務」というテーゼを執筆している。ここでは、すでに紹介してきた特徴的議論が、労働組合に焦点をすえる形で展開されている。かれはまず「労働組合運動の危機は、要するにわが労働組合の現在の展段階を客観的にふまえたうえでの任務と、労働組合における過去の遺産として広くゆきわたっている従来からの概念や活動方法とが一致しないというところにある」と現状を認識した。
そのうえに立って「労働組合の現在の発展段階を客観的にふまえたうえでの任務」、(1)すなわち「生産を組織する」という新しい任務を遂行する方法として、(2)「労働の軍隊化」をあらためて提起し、(3)「労働組合機関と経済機関とが漸次的に融合的発展をとげること」、いいかえれば労働組合の「国家化」によってのみ、運動の危機を克服することができると述べている。
このような主張は、一方で労働組合の従来の経済的階級闘争に固執し、その生産組織への変化という時代の要請に抵抗を示す労働組合指導層の「労働組合的保守主義」への強い批判を含むものであった。トロツキーによれば、「同志シリャプニコフとその同調者たち」すなわち労働者反対派もまた、労働組合の当面する急務への認識を欠いている点で、「労働組合的保守主義」と一致する。国民経済の管理をただちに全面的に労働組合に移譲せよという労働者反対派の主張について、かれは、次のように論評を加えている。
「公然たるサンディカリズム的傾向に規定されているこのような処置は、すこぶるラディカルに見えながら、実際はなんら実務的内容をもたない」。「労働組合が生産の管理に関してよりすぐれた能力をもつような準備策を講じもしないで、確固とした、偶然に設置されたのではない機関がすでに存在している生産の分野に対して、全く不意打ちをかけることによって、あらゆる困難を回避しようと試みたとしても、そのような試みは、とてつもない組織上の混乱をまねく結果にしかならないであろう。」
ところで、トロツキーのこのテーゼは、先の報告に比して「プロレタリア民主主義」への積極的な言及、その特徴的な概念規定という点できわだっている。テーゼの全体は、これまでと同様、帝国主義諸列強の軍事干渉と白軍との内戦の過程で破局に瀕したロシアの工業生産や経済状況をいかに効率よく改善するかという「生産的立場」の第一義性から発想され、労働組合の「生産組合」への転化、生産的観点にもとづく「個々の労働者の生産的価値」の表示、生産教育や生産宣伝による労働生産性の向上などの実践的課題もすべてこの発想の帰結であるといってよい。
しかし、すでに運輸労働組合中央委員会(ツェクトラン)問題などで労働組合内部からの激しい反撥に遭遇していたトロツキーは、「官僚主義」という予想される非難を考慮して、「生産的立場」と「プロレタリア民主主義」の調和を論理的に準備する必要に迫られていたと考えられる。労働者反対派の存立基盤でもあった「プロレタリア民主主義」や「労働の解放」へのプロレタリア大衆の理念的共感は、無視しがたいひとつの力として、労働組合論争を背後から条件づけていたのである。
トロツキーは、労働組合論争を「民主主義的方法」と「人民委員制と命令」・「任命制」という方法との闘争としてとらえる労働組合活動家の「誤った観念」をひきあいに出して、組合の無能力による「任命制」の不可避性を強調しつつ、さらに次のように述べている。「生産的立場は決して労働者民主主義の理念に対立するものと解されてはならない。逆に労働者民主主義は生産民主主義としてのみ開花することができる。労働者民主主義は疲弊と貧困という条件のもとでは発達することができない。大衆の自発性は物質的充足の上昇によってこそ増進されうる」。「労働者民主主義は意識的に生産規準に従属しなければならない。集会、討論、批判、宣伝および選挙は、生産の進行をそこなわないかぎり、必要であり、許可されるということは全く自明である。」
この議論の混乱、とくに「生産民主主義」というスローガン(これはトロツキーのみならず、ブハーリンも使っている)の誤謬については、次のようなレーニンの指摘を引用すれば充分であろう。「『生産民主主義』というスローガンがあたえられる場合、その結果として、大衆のあいだにはいったいどういう解釈が出てくるか、考えてみたまえ。彼らはこう言うであろう。『われわれ平労働者、一般労働者は、官僚主義者を一新し、矯正し、放逐しなければならないという。ところが君たちは、生産に従事せよだの、生産の成果のうえで民主主義を発揮せよだのと、筋ちがいの話で肝要な問題からそらせている。だが、私が生産に従事したいのは、こんな官僚主義的な構成の管理部や中央管理機関などのもとではなく、それとはちがった構成のもとである』と」。
戦時共産主義の行詰りが広範に自覚され、「プロレタリア民主主義」の回復をもとめる声がプロレタリアをはじめとする勤労大衆の内部から湧出しはじめていた状況下で、労働組合を上から強制的に生産組織に転形し、それをつうじて勤労大衆を国家権力の強制をもって単一経済計画の枠内にはめこむという構想は、「生産民主主義」という造語をもって「プロレタリア民主主義」との調和をはかったとしても、勤労大衆にとっては、官僚主義的現実の固定化と強化を意味するものでしかない。それは勤労大衆の党からの離反を生み、党の指導下に経済再建を効率よく達成するというこの構想の原初的なモチーフをも危くする。民衆の気分や覚悟の状況に絶えず鋭敏な洞察を加えていたレーニンが、このように「労働の軍隊化」の危険を読みとったのは当然であろう。
トロツキーは、「労働の軍隊化」が、活動の自主性、選出制の拡大などの「生産民主主義」と矛盾するものではなく、むしろ「外的規律や国家的官僚主義とは正反対のもの」であると述べ、「最高の献身と英雄的責任感」をその基本的属性にくみいれている。しかしこの時点においては、このような献身や責任感を自生させる条件−生産点におけるプロレタリア大衆の権威の確立(「労働者統制」から「労働者運営」に至る生産関係の革新)を通して破局に瀕した経済を再建することこそが問われていたのではないか。
レーニンは、「労働組合の役割と任務」というこのトロツキーのテーゼについて論じた演説(一九二〇年一二月三〇日、「労働組合について、現在の情勢について、トロツキーの誤りについて」)を、「同志トロツキーの『テーゼ』は、政治的に有害なしろものである。彼の政策全体は労働組合を官僚的に引きまわす政策である」と締めくくっている。
すでに触れたように、第一〇回大会に向けて、(1)ブハーリン派はトロツキー派と合同し、(2)レーニン派、(3)労働者反対派とならんで、ひとつの決議案(トロツキー、ブハーリン、アンドレーエフ、ジェルジンスキー、クレスチンスキー、プレオブラジェンスキー、ラコフスキー、セレブリャーコフのロシア共産党中央委員八名他多数が署名)を大会に提出している。
この決議案は、労働組合の「国家機関化」とその「生産組合」への転形という主張において、トロツキーのテーゼの基本を継承するものであったが、トロツキーのテーゼにとって不可欠の概念をなしていた「生産民主主義」という字句の削除や「労働の軍隊化」に関する抑制的表現などを特徴としており、「プロレタリア民主主義の方向への決定的移行」という当面の政策そのものを承認している。トロツキーのテーゼでは、「プロレタリア民主主義」の方法によって必要な成果が達成されたかどうかを熟慮せずに交通人民委員部総政治局(グラフポリトプーチ)を弾劾した労働組合活動家の「形式民主主義的態度」が激しく批判され、「プロレタリア民主主義」への物神崇拝が論争的にとりあげられていた。
また「労働の軍隊化」という方法が「わが国の極端に困難な経済的状況においては、破壊、分断された労働市場に計画的、全般的労働義務を確立する移行期に不可避のもの」とされ、それが「生産民主主義」と矛盾するものでないことが強調されたということは、先にみたとおりである。新たな決議案では「はじめに」において、「プロレタリア民主主義」の方法に関してかつて党内に存在していたニュアンスの相違が論争の過程で消え去ったという指摘があり、「労働組合における説得と強制」という二項が設けられて、この問題について次のように「二〇人政綱」と同じ表現がなされている。
「苛酷な三年間の内戦の間に厳しく制限された労働者民主主義は、何よりもまず労働運動のなかで広範に復活されなければならないのである。労働組合では、まずあらゆる機関の選挙を実施し、任命制は現実にやむをえない場合に限り、最小限に止めるべきである。」
さらにここでは「形式民主主義的態度」への論難に代わって「労働の軍隊形態の官僚主義的形式主義への変質」に注意が促されている。(1)先に言及した第三回全ロシア労働組合大会におけるトロツキー報告から、(2)トロツキー・テーゼを経て、(3)このトロツキー=ブハーリン派テーゼに至る論点の推移、とりわけ「プロレタリア民主主義」の取り扱い方の変遷や全体の構成に占めるその比重の上昇が確認されるとすれば、この変遷・上昇という事実のなかに、労働組合論争の背後にあった時代的雰囲気や戦時共産主義からの「自由」を求めるプロレタリア大衆の状況が明白に映しだされているとみることができよう。
4、レーニン−『国家と革命』からの転調 (省略)
5、労働者反対派の思想と行動 (省略)
6、論争の結末−第一〇回党大会と労働者反対派敗北の意味 (省略)
5、ヴォルコゴーノフ「『トロツキー』−労働の軍隊化、義務労働」−(党内論争面のみ)
(注)、これは、ヴォルコゴーノフ『トロツキー、その政治的肖像・上』(朝日新聞社、1994年、原著1992年)の「第4章、革命の催眠術。第3節、テロリズムと共産主義」からの抜粋である。その内、「トロツキーによる労働の軍隊化、義務労働」に関する部分(P.480〜485)のみを載せる。著書は『上・下』で1052頁の大著になっている。彼は、ソ連陸軍大将、国防省軍事史研究所所長を経て、エリツィンの軍事顧問になった。「グラスノスチ」からソ連崩壊後にかけて、レーニン関連文書保管所に入り、「レーニン秘密資料」6000点以上を最初に、自由に閲覧できた一人である。彼は、それら秘密データを駆使し、「指導者の政治的肖像」3部作を出版した。『スターリンの政治的肖像−勝利と悲劇・上下』(原著1989年)、『レーニンの秘密・上下』(原著1994年)である。
ただ、ここには、ニコラ・ヴェルトが発掘・公表したような(1)トロツキー「労働の軍隊化」「企業の軍隊組織化」の規模・執行実態、(2)それに反対した革命労働者ストライキ・データ、(3)レーニン・トロツキーらによるストライキ労働者逮捕・強制収容所送り・大量殺人犯罪データを載せていない。トロツキー「労働の軍隊化」主張と党内論争面に限られている。ソ連崩壊1年後の1992年出版だったので、まだそれらを発掘・公表できなかったのか。
『レーニンの秘密・上下』は英語短縮版の翻訳であるとともに、(出典・注)が全面カットされていた。他2冊は、膨大な(出典・注)が全訳されている。以下の抜粋6頁分だけでも、(出典・注)が11ある。それは、各種の文書保管所資料から多数引用している。これはすべて省略する。
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トロツキーの著書『テロリズムと共産主義』は、まずなによりも革命の方法と課題についての急進的ボリシェヴィズムの見解を示している点で興味深い。そこには農業国ロシアにおけるプロレタリアート独裁を確立する方法だけでなく、新しい社会の建設方法についても、ひどく誤った概念的命題が凝縮された形でたっぷりと述べられている。これについては、彼は一九二〇年四月の第三回全ロシア労働組合大会でより具体的に語っている。
この大会には、メンシェヴィキの代表もまだ参加していた。ダン、アブラモーヴィチ、マルトフを中心とした三三人の代表団だった。メンシェヴィキはロシアの社会民主主義の思想を擁護し、トロツキーの報告『経済建設の課題』の命題に断固として反対した。とくにアブラモーヴィチが執拗で非妥協的だった。彼は、社会主義建設の不可欠な手段としての義務労働にかんするトロツキーの基本テーゼに激しく反論した。もし社会主義が労働の軍隊化、大々的な強制を求めるならば、「エジプトの奴隷制とどう違うのか。ファラオは民衆を労働にかりたて、ピラミッドを建てた」と述べている。彼は、ボリシェヴィキの支持する全体的強制のなかに、社会主義にとっての大きな危険を先見的にみてとった。
ついでに言えば、アブラモーヴィチはソ連から亡命したが、ボリシェヴィキと戦うばかりでなく、対話も試みている。合同国家保安部(オー・ゲー・ペー・ウー)外国部の報告によると、アブラモーヴィチは一九二六年初め、ボリシェヴィキ政府と交渉をおこない、社会主義的建設に参加するためメンシェヴィキが帰国する条件を話し合おうとした。もっとも、アブラモーヴィチ自身は、この話し合いが成功するとはあまり信じていなかったという
こうした接触はこれだけではなかった。スターリン憲法が採択されるすこし前、ダンとアブラモーヴィチは全ソヴィエト大会へ向け『公開書簡』を執筆した。この書簡のなかで、メンシェヴィキはボリシェヴィキと共通の目的を持っているが、「革命闘争の方法」では異なる、としている。そして、メンシェヴィキが示した道にはより広い展望があり、「勤労大衆を苦しみや犠牲から守り、民主主義的社会主義を建設する可能性を持っている」と主張している。
国外で散りぢりとなったメンシェヴィキの党は、ソ連の共産主義者たちに「民主主義にもどる」よう、なお呼びかけていた。そして『公開書簡』の末尾には「ロシア社会民主労働党の海外代表団」と記されている。ロシア社会民主主義の滅びゆく最後の人たちであった。トロツキーは生涯の最後の日まで、自分のかつての同伴者たちにたいする否定的な態度を変えようとしなかった。
トロツキーはつねに確信していた。革命、彼が理解した社会主義のためにはすべて許される、と。ボリシェヴイズムの誤った考えの由来を理解するためには、第三回労働組合大会でのトロツキー報告の若干の思想は想起するに値する。もっとも、この報告は事前に政治局の承認を受けている。
私の見解では、トロツキーの演説はつねに興味深い。根本的に間違っていたとしても。革命の雄弁家トロツキーは誰にも似ていない。彼の発想、論拠、論争の矢、結論とアピールは独創的で比類がなく、印象的である。革ジャンパーにぴっちり身をつつみ、ふさふさした髪のトロツキーはジェスチャー、間の入れ方、抑揚のつけ方を正確に計算していた。当時、彼の外見は前線のコミッサールそのものであった。一九一八年にスクリャンスキーにこんな電報を打っているほどだ。「革ジャンパーと革の長靴を送ること」。
トロツキーはこの労組大会ではいつもと違ったふうに報告をはじめた。「一般的にいって、人間は労働を回避しようとする‥。人間はかなり怠惰な動物なのである」
こうした「生物学的」な前提から、「現在の経済的任務に必要な労働力を入手する唯一の方法、それは義務労働の実施である」という命題に至っている。問題は危機的な時期であれば、とやかく言う必要はないかもしれない。ところが、そうではないのだ。この原則は基本的で、また長期的のものとして実施することが提案されている。
「ここでもう一度頭にいれておかなければならないのは、義務労働の原則はまさしく自由な雇用原則に徹底的に、永久に取って代ったということである。生産手段の社会化が資本主義的所有制に取って代ったようにである」。
強制労働を確立する方法、その特質についてこの先を読み進むと、「このような社会主義はエジプトの奴隷制とどう違うのか」というアブラモーヴィチの言葉がつい思い起こされる。
トロツキーは、実際に動員された労働について触れながらこう書いている。「動員された労働力の移動は、もっとも短い距離でなければならない。動員された労働者の数は、経済的任務の大きさに相応しなければならない。動員された労働者には、食糧と作業用具とが遅滞なくあたえられなければならない。労働者自身、自分の労働力が細心に無駄なく利用されていて、空しく費やされているのではないということを、実際に納得しなければならない…。
可能性のあるところでは必ず、直接的動員は、作業任務に置き換えねばならない。つまり、一定期間にこれこれの量の木材を提供する義務や、どこそこの停車場までこれこれの量の鉄鉱石を運ぶ義務などを、農村地区などに負わせるのである」。こうした考察のすべては、(スターリン時代の)農業集団化、国の「収用所群島」(グラーグ)化の実践を思い起こすと、いかに恐ろしいものであったかと思わずにはおれない。まさにトロツキーは全体的暴力の理論家であり、それをはじめた実践家のひとりであった。
この点に関して、トロツキーは労働軍に特別の注意を払っている。つまり、国内戦の沈静化にともなって、徐々に「失業」していった軍にたいしてである。トロツキーは第一、第三、ペトログラード、ウクライナ、カフカース、南ザヴォルジェ、西部の各軍を労働軍に移行した例としてあげている。
「強制労働は生産性が低い」というメンシェヴィキの反論にたいして、トロツキーはこう答えている。「革命的独裁と経済組織にたいする強制手段を用いずに、ブルジョア的無秩序から社会主義経済に移行することは、まったく問題にもならない」
反論を許さない断固さは、ときとして驚くべきである。しかし、驚くことはない。勝者がこうした言葉で語るのは当たり前である。だが、歴史を振り返ってみたとき、はたしてボリシェヴィキは勝者だったのだろうか? 打ち負かされたロシア社会民主主義の言葉は、多くの点で正しかったにもかかわらず、長年にわたって忘れられてしまった‥。トロツキーは彼らの綱領にたいして無慈悲な判決をくだしている。「メンシェヴィキの『社会主義』への移行の道は小麦の独占もなく、市場の廃止もなく、革命的独裁もなく、労働の軍隊組織化もない。まるで天の川のようなものだ」。
トロツキーの報告がおこなわれた時代を考慮したとしても、次の点をみないわけにはいかない。ボリシェヴィキは、(1)当時わが国がおかれていた深刻な危機からの出口を探し求めていただけでなく、(2)全体主義的システムの土台を構築していた。このシステムは数十年後のいま、激しく分解しつつある。まさにこの時代(ネップはこの過程に修正を加えようとした試みでしかなかった)、新しい社会の土台が築かれた。しかし、この新しい社会にはもっとも大事なこと、すなわち自由が認められていなかった。この「建造物」の建築者はトロツキーひとりではなかった。レーニンやほかの指導者らとともに、トロツキーはロシア的なマルクス主義の解説者だった。それも積極的な解説者だった。
労組大会のまえ、一九一九年十二月二十七日、レーニンも承認したトロツキーの提案で、人民委員会議は義務労働導入の計画を作成するためトロツキーを責任者とする特別委員会の設置を決定した。それからわずか三日後、第一回会議で著名なボリシェヴィキたちが委員会に加えられた。その翌日、トロツキーはポンチ=ブルーエヴィチに義務労働を遂行するうえで人々を動員するため、軍はどれほどの人員、輸送、技術手段を提供できるかを調べるようにとの手紙を送っている。
「上に述べたいっさいの準備作業の総括的指導を引き受け、ただちに仕事に着手するよう願いたい。一九二〇年一月一日 モスクワ 義務労働に関する総合委員会議長トロツキー」
さきほどの労働組合大会でのトロツキーの演説の断片をもう少し紹介しておこう。じっくり練り上げたかのように、トロツキーはこう表明する。「賃金は、(1)個々の労働者の個人的生活を保障する手段ではなく、(2)労働者がその労働により、共和国にどれだけ貢献したかを評価する手段である」
トロツキーは、「共通の利益に寄与した」労働者をまず報奨しなければならない、としてこう続けている。「労働者国家は、ある者に報奨をあたえるときに、ほかの者を、つまり、事情をよくわきまえていながら、労働連帯性に違反し、共同労働の根底をくつがえし、ひいては国の社会主義再生に大きな損害をあたえた者を処罰せざるをえない。経済的目標を達成するための抑圧は社会主義独裁の不可欠の武器である」。なんという歪曲された弁証法か! 弾圧は、(1)政治的目的だけでなく、(2)経済的目的によっても必要だというのである! (3)しかもまたもや暴力を通じてなのだ!
ベルジャーエフの洞察に満ちた思想が思い起こされる。「パンのために精神の自由を放棄することに同意する、もっとも革命的な社会主義において、異端大審問官の精神がはびこっているのを私は見た」。「精神」ばかりではなく、実際にそういう恐ろしい人たちがいた、とつけ加えたい。
トロツキーはこう報告している。「これらすべてについて、まだどの本にも書かれていない……。いまや、われわれは、それを労働者の血と汗で書きはじめたばかりである」。これは予見的な言葉である。彼はこの実験の規模、どれほどの人命が「社会主義の独裁」の祭壇に捧げられることになるのかをまだ知らない。そして、この血の海に彼自身の血も注ぎこまれることも知らない。
ボリシェヴィズムのリーダーのひとりの報告(こうした演説をトロツキーはなんと数多くしていることか!)、賢明なる「背教者」カウツキーとの論争は、明快に次のことを証明している。トロツキーは、全体主義型社会主義体制のもっとも積極的な創造者のひとりであることを。当時、トロツキーはレーニンとは目立った相違はなかった。ソヴィエトはなんとしても生き残らなければならない−多くのことがこの至上命令によっても強いられた。
しかし、そもそものはじめから、個人、自由、人民主権はごく限られた少数の手のなかにしかなかったこともみないわけにはいかない。彼らは、人々を長いあいだ「幸せにする」ことを望み、暴力、強制、威嚇の助けをかりて「幸せにする」のである。当初、それらは一時的なものと思われた。「革命の催眠術」はやがて立ち去り、その代わりに人民主権の岸辺に自由がやってくる、と考えられていた。しかし、レーニン、トロツキーの代わりにやってきた男は、この一時的とされた特徴(暴力、強制、威嚇)を不気味にも恒常的なものとした。
トロツキーはこのようにカウツキーに答えた。そのおかげで、急進的ボリシェヴィキと典型的な社会民主主義者のあいだに横たわる巨大な深淵がよりよくみえるようになった。もちろん、社会民主主義者を理想化してはならない。彼らの方が、ボリシェヴィキよりはるかにヒューマニズム、民主主義、真の人民主権に近かったことは明らかだが。急進的と穏健的、あるいは階級的と全人類的といった二つの原則の闘争のなかに、社会主義の悲劇の謎を解きあかすカギがある。
かのポトレフソは一九二七年にすでにこう予見している。「かつてロマノフ王朝もその退廃ぶりを露呈して消え去ったと同じように、あらゆる独裁が消え去るように、ボリシェヴィズム体制もいつか消え去る。ボリシェヴィキ幹部がその特権を捨てて、民主的国家体制の軌道に移るよりも、資本主義が社会主義になる方がはるかに容易である」。
トロツキーは社会主義の悲劇の最初の「演出家」のひとりであった。彼はカウツキーに答えた。そのことによって、われわれはボリシェヴィズムの進化とその歴史的失敗の根源をより深く理解することができるようになった。
6、ニコラ・ヴェルト「労働の軍事規律化」執行とストライキ労働者逮捕・殺害
(注)、このデータは『共産主義黒書』(恵雅堂、2001年、原著1997年)の(P.97)(P.125)2カ所のものである。ニコラ・ヴェルトは、ソ連史専攻のフランス歴史学教授資格者である。彼は、ここで、トロツキー「労働の軍隊化」主張を分析していない。「労働の軍隊化」「企業の軍事組織化」の規模・実態を載せている。軍隊組織化企業の一例として、ウクライナのドンバス大工鉱業地帯で施行された政策を発掘・公表した。そこに書かれたドンバスの実態が2000企業で強行されたら、それにたいし革命労働者はどうすべきか、どうしたのか。
そこは、地図にある(1)ソ連南西部ロストフ州とウクライナ南東部にまたがるドネツ大炭田、都市ドネツク、(2)中南部のクリヴィイ・リィ鉄鉱産地を合わせ、炭鉱・金属関係労働者の町として、「十月革命」時期はウクライナ革命運動の拠点地帯だった。しかも、マフノ運動解放区のすぐ北部に位置した。トロツキーは、1919〜20年、ウクライナも担当し、フルンゼとともに、マフノ農民軍5万人の殲滅、マフノ運動参加者皆殺しの指揮・命令をした。1921年にかけて、レーニン・トロツキーは、マフノ運動への報復として、ウクライナで食糧独裁令による過酷な食糧収奪作戦を展開し、意図的飢餓政策も含めウクライナ国民100万人を飢死させた。下記ドンバス大工鉱業地帯における実態は、ウクライナの悲劇に新たなデータを加えた。
マフノ運動解放区の中心地グリャイ=ポーレは、ドニエプル河の
東で、地図のサボリジジャとベルジャンスクの中間に位置する
『マフノ運動とボリシェヴィキ政権との関係』ウクライナの悲劇データ・資料集
〔小目次1〕(P.97)は、本文字句を、私の判断で若干変えた。〔小目次2〕は、『第5部』からの一部転載である。〔小目次3〕)(P.125)だけが、この資料編に新しく加えた。ドンバスのデータは、1921年3月8〜16日第10回党大会以降も、「労働の軍隊化、軍事規律化」が、レーニン・トロツキーらによって一段と強化され、遂行された事実を証明している。ニコラ・ヴェルトは、その政策を「ネップ導入後」と明記している。
なお、ドンバス大工鉱業地帯のボリシェヴィキ指導者は、トロツキーに近かったピャトコーフである。名前はピャタコフと訳される方が多い。彼は、1937〜38年、スターリンの大テロル期に、ジノヴィエフ、ラデック、ブハーリン、ルイコフ、トハチェフスキーら中央委員・同候補98人とともに、「反革命」「人民の敵」「スパイ」というレッテルなどで銃殺された。トロツキーは、1940年、スターリンの手先が砕氷用ピッケルを後ろから頭に突き立てた頭骨骨折により、メキシコの自宅書斎で殺害された。
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〔小目次〕
1、2000以上の企業を軍隊組織化、それに反対する労働者ストライキ激発
2、1920年度の労働者ストライキとレーニンによる弾圧・大量殺人犯罪
3、1921年、軍事規律化のさらなる強化−ドンバスの大工鉱業地帯
1、2000以上の企業を軍隊組織化、それに反対する労働者ストライキ激発
1919年末から20年春にかけて、レーニン・政治局は、2000以上の企業を軍隊組織化した。その結果、ボリシェヴィキ権力とプロレタリアートとの関係は、ますます悪化した。
労働の軍事規律化主唱者トロツキーは、第9回大会において、自分の考えを発言した。その論旨は以下である。人間は生まれつき怠惰の傾向をもっている。資本主義の下にあっては、労働者は生きるために仕事を探さなければならない。働く者を駆り立てるのは資本主義市場である。社会主義の下では労働資源の利用が市場に取って代わる。したがって、国家のつとめは、勤労者を導き、使い、統率することであり、勤労者はプロレタリア国家の兵士、プロレタリアの利益の擁護者として服従しなければならない。
労働の軍事規律化の意味と基本はこのようなものであって、これは、一部の労働組合活動家や、一部のボリシェヴィキ指導者によって、きびしく批判された。しかし、実のところ、トロツキーによる労働の軍事規律化提唱や、実態としてレーニン・政治局が強行した2000以上の企業の軍隊組織化とは、次のことを意味した。
(1)、「戦時共産主義」にあっては、敵前逃亡と同じと政府が見なしたストライキの禁止である。
(2)、工場・企業の政府任命3人管理システムの指令と権限の強化であり、それへの労働者ソヴィエト・労働組合および工場委員会の完全な従属だった。
(3)、プロレタリアートが二月革命から「十月・ソヴィエト革命」にかけて自力で勝ち取った資本家経営全般にたいする労働者統制権限を簒奪した。そして、各労働者組織の役割をプロレタリア独裁の国有化企業におけるボリシェヴィキ生産政策の遂行に限定・矮小化してしまった。
(4)、当時の飢餓状況下で、労働者が、食糧探しのために、職場を離れたり、欠勤や遅刻するのを禁止する措置だった。(『黒書』P.97)。
それは、1921年2月に向けて、(1)党外で労働者の不満・怒りとして鬱積し、ペトログラード労働者大ストライキとなって爆発した。その批判は、(2)ボリシェヴィキ党内で、組合自治を求める「労働者反対派」と、党機関の官僚主義化を批判する「民主主義的中央集権制派」という2大分派の一つとなった。レーニンは、1921年3月第10回党大会で「分派禁止規定」を緊急提案し、大会後、党員の上から下までの粛清を指令した。その結果、彼は、1921年夏までに、2大分派党員を中心として、党員の24%・136836人を除名した(ダンコース『ソ連邦の歴史1』P.223)。
2、1920年度の労働者ストライキとレーニンによる弾圧・大量殺人犯罪
レーニン・トロツキーらによる労働者権力簒奪の第5次クーデター、その一環としてのトロツキー「労働の軍隊化」「2000企業の軍隊組織化」たいし、革命労働者2.7%・300万人はどうすべきだったのか。どうしたのか。一党独裁政権はどのような対応をしたのか。
3月から6月、「労働の軍事規律化」にたいする労働者ストライキの激発と弾圧
労働の軍事規律化を通じて、多くのストライキが起った。
3月、エカチェリンブルグ、当局は、ストライキ労働者80人を逮捕し、収容所送りにした。
4月、リャザン−ウラル間の鉄道では、鉄道員100人を有罪にした。
5月、モスクワ−クルスク線では、鉄道員160人を有罪にした。
6月、ブリヤンスクの金属工場では、労働者152人を有罪にした。
労働の軍事規律化にたいするストライキがきびしく弾圧された例は、さらに何倍にもなる(『黒書』P.99)。
6月6日、トゥーラ、武器工場のストライキと「トゥーラ陰謀撲滅委員会」の鎮圧
これは、原文をそのまま抜粋・引用する。
「トゥーラ陰謀撲滅委員会」
体制に反対する労働者の抗議で有名なのは、一九二〇年六月、トゥーラの武器工場の場合である。もっともここは、すでに一九一九年四月に、きびしい弾圧を経験したところであった。一九二〇年六月六日の日曜日に、何人かの金属労働者が上から要求された時間外労働を拒否した。女子の工員たちはこの日も、それ以前の日曜日も働くことを断っていた。それは近郊の農村に食糧の買い出しに行くことができるのは、日曜だけという理由からだった。
管理部の要請で、チェーカーの分遣隊がストライキ参加者を逮捕に来た。戒厳令が出され、「赤軍の戦闘力を弱める目的で、ポーランドのスパイと黒百人組〔反ユダヤ人主義をかかげる右翼の組織〕に扇動された反革命の陰謀」を告発するために、党とチェーカーを代表するトロイカがつくられた。
ストライキが広がり、リーダーの逮捕が増える一方で、事態の通常の展開を乱すような新たな事実が生じた。何百、何千という労働者や下級管理者がチェーカーに出頭して、自分らも逮捕してくれと言った。この動きは大きくなり、「ポーランドと黒百人組の陰謀」が馬鹿げたものであることを明らかにするために、労働者は大量逮捕を要求した。四日間で一万人以上が獄を満たした上、さらにチェーカーに監視された青天井の空間に押し込まれた。忙殺されて、もはや事態をなんとモスクワに報告してよいかわからなくなった党とチェーカーの地方組織は、ついに中央当局を、広範な陰謀が生じていると言いくるめた。
「トゥーラ陰謀撲滅委員会」がつくられ、何千という男女の労働者が、犯人発見のために尋問された。逮捕された労働者は、釈放され、再雇用されて、新しい配給カードを受けるために、「下記に署名する、臭くて罪ある犬である私は、革命裁判所と赤軍の前に悔俊し、自分の罪を告白し、良心的に働くことを約束する」という声明書に署名しなければならなかった。
他の労働者の抗議運動とは反対に、一九二〇年夏のトゥーラの騒動は、かなり軽い判決で終わった。二八人が収容所送りとなり、二〇〇人が流刑となった。高度の技能を持った労働力が不足していた状況から、おそらくボリシェヴィキ権力は、国一番の兵器製造工なしではやっていけなかったからだろう。抑圧についても、食糧の供給と同じように、決定的に重要な部門や、体制の優先的利益を勘案しなければならなかった(『黒書』P.99)。
以下は、『第5部』の(表)から(表3)のみを転載した。出典は、すべて『共産主義黒書』のページ数である。ただ、未判明分、未記載分が多くあり、数字に含めていない。レーニンが、どれだけのストライキ労働者を逮捕し、殺害したのかの判明分を検証する。
(表3) 1920年の労働者ストライキと大量逮捕・処刑数
地方・都市 |
1920年 月日・内容 |
逮捕・処刑 |
出典 |
レーニン プラウダ 労働人民委員部の公式統計 |
2.1、「何千もの人間が死んでもかまわないが、国家は救われなければならない」 2.12、「これら有害な黄色い害虫であるストライキ参加者の絶好の場所は、強制収容所である」 20年前半、ロシアの大・中規模の工業経営の77%でストライキ。「労働の軍事規律化」が最も進んだ金属工業、鉱山、鉄道が中心 |
|
98 |
シンビルスク エカチェリンブルグ リャザン・ウラル線 モスクワ・クルスク線 ブリヤンスク |
4、武器工場でイタリア・ストライキ型サボタージュ=許可なし休憩、日曜強制労働に抗議、共産主義者の特権批判、低給与告発、「労働の軍事規律化」への抗議ストライキ 4、鉄道員 5、鉄道員 5、鉄道員 6、金属工場 |
収容所送り12人 逮捕・収容所80人 有罪100人 有罪160人 有罪152人 |
98 99 |
ソ連全土 |
「労働の軍事規律化」によるストライキの例は、さらに何倍もある |
それへの弾圧も何倍もある |
99 |
3、1921年、軍事規律化のさらなる強化−ドンバスの大工鉱業地帯
一九二一年春における体制側の優位の一つは、一九一三年の十分の一に落ちていた工業生産が持ちなおしたことだった。労働者に対する圧力を弱めるどころか、いまやボリシェヴィキはそれまで行なってきた労働の軍事規律化を維持し、さらに強化した。ネップ導入後、一九二一年に全国の石炭と鋼鉄の八〇%以上を生産していたドンバスの大工鉱業地帯で施行された政策は、あらゆる点で「労働者を再び就業させる」ためにボリシェヴィキがもちいた独裁的方法を表しているように見える。
一九二〇年の末、指導部の一人でトロツキーに近かったピャトコーフがドンバス石炭産業局中央指令部の代表に任命された。一年間で彼は石炭の生産を五倍にすることに成功したが、それは自分の下の十二万炭坑夫の労働を軍事規律化するといった、労働者階級にかつて例のない搾取と抑圧の政策によってであった。ピャトコーフのとった政策は次のような厳しい規律であった。(1)欠勤はすべて「サボタージュ行為」と見なされ、強制収容所送りか死刑をもって処罰された。(2)一九二一年には十八人の炭坑夫が「札付きの寄生生活」で銃殺された。(3)彼は労働時間を延長し(とりわけ日曜労働)、(4)労働者の生産性を高めるために「配給券による恫喝」を広く行なった。
すべてこれらの政策は、(5)労働者が給料のかわりに、生きるために必要な量の三分の一か半分だけのパンを支給され、(6)毎日仕事が終わった時には自分のたった一足の靴を交替する同僚に貸さなければならないという時期に行なわれたのだった。石炭産業局が認めているように、欠勤が多かったのは伝染病のほかに、「恒常的飢餓」と「衣服、ズボン、靴がほとんどまったくない」ことからきていた。飢餓が差し迫っている時に、食い扶持を減らすためにピャトコーフは、一九二一年六月二十四日、(7)炭鉱で働いていない者、したがって「厄介者」を、すべて町から追放することを命じた。炭坑夫の家族からも配給券が取り上げられた。(8)配給量は厳密に各炭坑夫の出炭高に応じて決められ、給与も出来高払いという原始的形態がとられた。
すべてこれらの施策は平等の思想と、ボリシェヴィキの労働神話にたぶらかされて末だ甘い夢をみていた労働者の「保証された配給」といった考えに逆行するものだった。それは三〇年代の反労働者政策を見事に予示していた。労働者はもはやできる限り有効に搾取されるべき「ラブシーラ(労働力)」でしかなかった。労働組合は単に労働生産性を高める役割しか持たず、組合や労働立法といったわずらわしいものは回避された。労働の軍事規律化は、この強情で、腹をへらし、生産的でない労働力を、最も有効的に指導する形態のように見えた。
この(1)自由な労働の搾取形態と、(2)三〇年代初めにつくられた懲罰機構の強制労働との類似性を疑問に感じないわけにはゆかない。ボリシェヴィズム揺藍期の他の多くのエピソード−それは国内戦だけに帰するわけにはゆくまい−と同じように、一九二一年にドンバスで起ったことは、スターリン主義の最盛期に実施されたいくつかの事柄を予告していた(『黒書』P.125)。
トロツキー「労働の軍隊化」が孕む6つの側面の性質をどう考えたらいいのか。トロツキー・レーニンらは、ドンバス大工鉱業地帯での路線・政策を具体例とする「2000企業の軍隊組織化」を強行した。それら企業の革命労働者にたいし執行した行為の性格規定を、ソ連崩壊後に再考する必要があろう。
それは、(1)社会主義革命の正しい路線・政策の一環だったのか、それとも、(2)『国家と革命』ユートピア公約の全面的裏切りは、「戦時共産主義」現実に直面したやむをえない部分的誤りだったのか。または、(3)クーデターだったのか。そうだったとしたら、いかなる性質のクーデターだったのか。
『第3部』では、レーニンらによる食糧独裁令と反乱した革命農民数十万人殺害を、土地革命の成果・収穫を簒奪するという面で、土地革命にたいする事実上の反革命クーデターと規定した。その期間、トロツキーは、軍事人民委員であるとともに、それらを指揮・命令した食糧人民委員を兼任していた。よって、トロツキーの「装甲列車による前線指揮」神話は、二面性を持つ。第一、白衛軍との戦闘指揮である。第二、隠蔽された側面は、食糧独裁令に反対し、ソ連全土で反乱に決起した土地革命農民数十万人殺害の前線指揮だった。
『第5部』とこの『第5部2』〔資料編〕データを検証すれば、レーニン・トロツキーらがしたことは、これまた、ロシア革命=ソヴィエト革命、革命労働者にたいする事実上の反革命クーデターと規定できるのではなかろうか。なぜなら、それらは、労働者の革命要求を全面的に裏切る路線・政策だったからである。しかも、彼らが起こした革命方向・理想に逆行し、労働者ソヴィエト権力を簒奪しつくす暴挙だったからである。
ただ、レーニンは、ボリシェヴィキ批判・党独裁路線への反対を唱える他社会主義政党、革命労働者、革命農民、革命水兵たちにたいし、やたらと、恣意的な「反革命」レッテルを貼り付けた。彼は、それらを「反革命」「武装反革命」勢力と決め付け、チェーカーの赤色テロルでロシア革命勢力数十万人の殺害をした。ソ連崩壊後、このレッテルは、白衛軍を除いて、すべてウソで誤りだったことがほぼ証明されてきた。彼らの批判・要求は「反ボリシェヴィキ、反一党独裁」であっても、「反革命」ではなかったからである。
それだけに、レーニンのしたことにたいし、私が「反革命」クーデターという規定をすることには、ためらいがある。本当は、レーニンが乱用したウソのレッテルを使いたくない。しかし、他にその性格規定をする用語が見つからないので、あえて使う。
レーニン・トロツキーは、革命労働者への赤色テロル政策によって、すべての労働者組織をボリシェヴィキ党独裁権力の道具に変質させた。『第5部』に載せた11項目の反労働者路線・政策、とりわけ、第11項の「労働の軍隊化」「2000企業の軍隊組織化」執行、その具体例であるドンバス大工鉱業地帯で施行された政策実態は、「すべての権力を労兵ソヴィエトへ」と決起した労働者ソヴィエト革命にたいする反革命クーデターだったと規定せざるをえない。
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〔関連ファイル〕
『見直し「レーニンがしたこと」−レーニン神話と真実1917年10月〜22年』ファイル多数
第1部『1917年10月、レーニンによる十月・ソヴィエト権力簒奪第1次クーデター』
第2部『1918年1月、憲法制定議会の武力解散・第2次クーデター』
第3部『1918年5月、革命農民への食糧独裁令・第3次クーデター』
第4部『1918年6月、他党派をソヴィエトから排除・第4次クーデター』
第5部『1921年2月、革命労働者ストライキの弾圧・第5次クーデター』
第5部2『1920年3月、トロツキー「労働の軍隊化」構想と党内論争』
第6部『1921年3月、革命水兵の平和的要請鎮圧・第6次クーデター』
第7部『1921年3月〜22年末、「ネップ」後での革命勢力弾圧継続・強化』
第8部『1922年5月、知識人数万人追放「浄化」・第7次クーデター』
第9部『1917年〜22年12月、レーニンの最高権力者5年2カ月間』
第10部『「レーニンによる7連続クーデター」仮説の自己検証』
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大藪龍介『トロツキー永続革命論の再検討』トロツキー理論の批判的検討