1918年6月他党派をソヴィエトから排除・第4次クーデター

「スターリンは悪いが、レーニンは正しい」説当否の検証

 

第4部、すべてのソヴィエトをボリシェヴィキ独裁機関に変質化

 

(宮地作成)

 〔目次〕

   1、ソヴィエト誕生と「十月革命」後におけるソヴィエトの変質

   2、第2回ソヴィエト大会乗っ取り作戦と、第3回大会代議員構成の不自然さ (表1、2)

   3、18年3月、ボリシェヴィキ→ロシア共産党(ボリシェヴィキ)への党名変更と記述

   4、18年6月、他党派をソヴィエト執行委員会から排除の第4次クーデター (表3、4、5)

   5、農民ソヴィエトからの権力簒奪と党独裁機関化への改変手口

   6、労働者・兵士ソヴィエト執行委員会の党独裁機関化手口

 

 〔関連ファイル〕              健一MENUに戻る

   『見直し「レーニンがしたこと」−レーニン神話と真実1917年10月〜22年』ファイル多数

   第1部『1917年10月、レーニンによる十月・ソヴィエト権力簒奪第1次クーデター』

   第2部『1918年1月、憲法制定議会の武力解散・第2次クーデター』

   第3部『1918年5月、革命農民への食糧独裁令・第3次クーデター』

   第4部『1918年6月、他党派をソヴィエトから排除・第4次クーデター』

   第5部『1921年2月、革命労働者ストライキの弾圧・第5次クーデター』

   第5部2『1920年3月、トロツキー「労働の軍隊化」構想と党内論争』

   第6部『1921年3月、革命水兵の平和的要請鎮圧・第6次クーデター』

   第7部『1921年3月〜22年末、「ネップ」後での革命勢力弾圧継続・強化』

   第8部『1922年5月、知識人数万人追放「浄化」・第7次クーデター』

   第9部『1917年〜22年12月、レーニンの最高権力者5年2カ月間』

   第10部『「レーニンによる7連続クーデター」仮説の自己検証』

 

 1、ソヴィエト誕生と「十月革命」後におけるソヴィエトの変質

 

 ソヴィエトという言葉の元来の意味と「十月革命」後におけるソヴィエトの性格の変質過程を、『新版・ロシアを知る事典』(平凡社、2004年)塩川伸明執筆内容(P.421)の抜粋に基づいて確認する。ただ、このファイルへの抜粋にあたって、私(宮地)の判断で、「十月革命」用語を「十月クーデター」とし、前後の字句も若干変更する。

 

 ソヴィエトsovetとは、元来、ロシア語で会議、評議会、助言などを意味するごく一般的な言葉だった。歴史的文脈の中で独自の性格をもつ政治機構、さらにはより広く政治体制を象徴する言葉として使われるようになった。

 

 この語が労働者の代表者機関という意味で使われた最初の例は、1905年、第1次ロシア革命の中でストライキ委員会の連合体的性格をもつ機関としてのことである。イワノヴォ・ヴォズネセンスクをはじめ各地でソヴィエトが誕生したが、中でもペテルブルグ・ソヴィエトは全国のソヴィエト運動の中心となった。

 

 こうした1905年革命の経験が1917年二月革命時に思い起こされ、ペトログラード・ソヴィエトが結成されて、労働者・兵士を中核とする革命運動の担い手となった。新たなソヴィエト運動はまもなく全国各地に広まった。しかし、その役割・実態は一様でなく、その意味で分散的で自然発生的な運動体としての性格が濃厚だった。各地のソヴィエトはそれぞれに独自の権力体になることを志向した。

 

 レーニンは、単独武装蜂起・単独権力奪取という十月クーデターによりソヴィエト権力を宣言した。しかし、それは()こうした分散的運動体の連合体としての性格と、()中央集権的なボリシェヴィキ党による国家権力奪取という性格との二重性を帯びた。それは、()すべての社会主義党派を含むソヴィエト権力と、()クーデター政府という新しい二重権力性を帯びた。

 

 十月クーデター後、レーニンは、次第にソヴィエトの斉一化・体系化を進めた。それにより、当初の自然発生的・分散的運動体としての性格失われていった。権力機関としてのソヴィエトは、執行と立法の分離を否定し、両者を兼ねるコミューン型の機関とされ、この点で、三権分立に立脚した議会制度とは理念的に区別された。また、人民から直接生まれ、人民に担われる機関という直接民主主義的発想のため、人民と権力の間が乖離する可能性は想定されず、権力抑制のメカニズムは彫琢されなかった

 

 現実には,ソヴィエト制の理念と実態とは乖離し、権力の実質は共産党および国家官僚制に移行していった。擬制としての人民権力を象徴するソヴィエトは、形式上は国家の中核としての役割を付与され続けた。そのため、この語はソヴィエト制という独自の政治体制を象徴し、またソヴィエト社会主義共和国連邦(ソ連)の略称として、国名や社会休制を示す言葉としても使われるようになった。

 

 

 2、第2回ソヴィエト大会乗っ取り作戦と、第3回大会代議員構成の不自然さ

 

 〔小目次〕

   1、ソヴィエト大会の党派別代議員構成の変遷

   2、第2回ソヴィエト大会乗っ取りの2つの作戦

   3、第3回ソヴィエト大会の狙いと代議員構成の不自然さ

 

 1、ソヴィエト大会の党派別代議員構成の変遷

 

 第1回から第3回までのソヴィエト大会における党派別代議員構成の変遷データは、レーニンによる十月クーデター作戦と直接の関係を持つ。3回の代議員構成を見る。これらのデータは、すべて、長尾久『ロシア十月革命の研究』(社会思想社、1973年、絶版、P.212、377、423)にある。第2回ソヴィエト大会代議員の党派別人数は、著書によって異なる。大会アンケート委員会データによれば、13の党派が参加している。

 

    塩川伸明HP『第2回全国労兵ソヴェト大会の構成』2種類のデータ

 

(表1) 第1回〜第3回ソヴィエト大会の党派別代議員構成の変遷

第1回大会

第2回大会

第3回大会

年月日

17年6月3〜24日

17年10月25日

18年1月10〜13日

党派

党員+同調者

大会アンケート委

労兵ソヴィエト大会

農民ソヴィエト大会

労兵農合同大会

エスエル

メンシェヴィキ

メンシェヴィキ国際派

ボリシェヴィキ

左翼エスエル

285+20

248+8

32

105

193

68

 

300

35

22

 

441

112

 

 

 

309

278

35

22

 

750

390

無党派社会主義者

社会民主党統一派

ブンド

「統一」派

トルドヴィキ

エヌエス

アナルコ=コムニスト

エスエル・社民党綱領支持

73

10

10

3

5

3

1

2

36

 

 

10

 

 

3

ウクライナ社民党

アナキスト

ポーランド社会党と社民党

社民党国際派

リトヴァ社会人民主義派

 

 

 

 

17

7

3

10

14

4

マキシマリスト

その他+不明

 

 

22

18

80+234

 

77+41

18

157+275

合計

822

670

942

705

1647

 

 第1回ソヴィエト大会から第3回労兵農合同大会にかけて、大会代議員はどう変わったのか。

 ボリシェヴィキは、105人→300人→750人と激増した。メンシェヴィキは、256人→193人→22人と激減している。エスエル全体は、左翼エスエルが1917年12月に分離・独立したので、比較できない。ただ、エスエル・左翼エスエルの合計は、305人→193人→35人+390人と激増している。

 

 ソ連崩壊前の公認ロシア革命史や通説において、このような代議員構成の変遷は、「十月革命」の成功によって、ボリシェヴィキ・左翼エスエルの支持が激増した結果とされてきた。ところが、ソ連崩壊後、リチャード・パイプスが、レーニン・トロツキーらによる第2回ソヴィエト大会乗っ取り作戦を、6つのクーデター作戦の一つとして暴いた。その内容が、下記の〔作戦2〕第2回ソヴィエト大会の代議員選出ソヴィエトの構成をすりかえる計画である。これを、ソ連崩壊後においても、レーニンによる正当な行為となお認めるのかどうか。

 

 2、第2回ソヴィエト大会乗っ取りの2つの作戦

 

 レーニンは、『蜂起の技術』の一つとして、1917年10月25日第2回ソヴィエト大会を単独武装蜂起・単独権力奪取クーデターの事後報告大会とすべく、6つのクーデター作戦の内、〔作戦2〕〔作戦6〕に関し、周到な事前準備をした。

 

 〔作戦2〕、第2回ソヴィエト大会の代議員選出ソヴィエト構成をすりかえる計画

 

 この事実は、ソ連崩壊後、リチャード・パイプスが初めて発掘し、『ロシア革命史』(成文社、P.149、原著1995年、)に公表したデータである。そのまま引用する。また、長尾久『ロシア十月革命』からも抜粋する。下記「イスパルコム」とは、ペトログラード・ソヴィエト執行委員会である。それは、エスエル・メンシェヴィキ・ボリシェヴィキが中心で構成していた。執行委員会「イスパルコム」が、第2回ソヴィエト大会を召集する権限を持っていた。

 

 「北部地方委員会」は、ボリシェヴィキ支持ソヴィエトの比率がきわめて高かった。ボリシェヴィキは、第2回ソヴィエト大会の代議員選出ソヴィエトを、ボリシェヴィキ支持比率の高い「北部地方委員会」にすり替えるようイスパルコムに強制した。その目的は、クーデター事後報告大会となるはずの第2回ソヴィエト大会が、()クーデター賛成大会になるよう、かつ、()メンシェヴィキ・エスエルのクーデター批判・抗議を蔑視・排斥するように仕組んだ陰謀だった。これも、レーニンの『蜂起の技術』シミュレーションの一環によるものだった。レーニンは、クーデター計画者=蜂起の技術設計者としては、たしかに天才と言えよう。

 

 1、リチャード・パイプス『ロシア革命史』(成文社、原著1995年、P.149〜150より抜粋)

 

 レーニンは直ちに行動することを望んでいたが、彼の同僚の大多数に譲歩せざるを得なかった。彼らは、むしろクーデターがソヴェトの名のもとに遂行されることを主張していたのである。ソヴェトの全国大会が誠実に選出されれば、ボリシェヴィキが少数派となるのは、ほぼ確実であったので、トロツキーと彼の副官たちは、おもに彼らが多数を確保したソヴェトからなる大会を召集することに向かった。

 

 イスパルコムが、それのみがソヴェト大会を召集する権限を有すると抗議したのを無視して、彼らは、十一人のボリシェヴィキと六人の左派エスエル(エスエル党の分派で、一時、彼らと提携した)から成るもっともらしい「北部地方委員会」を設置した。この委員会が、イスパルコムの権威を横奪して、ソヴェトと軍委員会に対し、来る大会に代表を送るように要請した。ボリシェヴィキが明らかに多数を制するソヴェトや軍の部隊は、二倍、三倍に代表を出すことになった。ある地方のソヴェトには五人の代議員が割り当てられたが、それは、ボリシェヴィキがたまたま弱体であったキエフ市に割り当てられたものより多かった。

 

 これは、正統なソヴェト組織に対する紛れもないクーデターであり、イスパルコムは、そのことをきわめて厳しい言葉で次のように非難した。「他のどの委員会も、大会召集のイニシアチヴを自らに引き受ける機能も権限も有していない。北部地方委員会は、地方ソヴェトのために定められたあらゆる規制をこもごも侵犯し、専横にでたらめに選ばれたソヴェトを代表しているのであるから、なおさら、この権限が北部地方委員会に属することは、ありえない」。

 

 イスパルコムの社会主義者たちは、ボリシェヴィキのとる手順に強く反対したが、しかし、結局、彼らに屈服した。九月二十六日に、イスパルコムは、ボリシェヴィキの認可のもとで選出される第二回大会を十月二十日に召集することに、その議事日程は、国内情勢と憲法制定会議の準備、新しいイスパルコムの選出に限られるとの条件をつけて、同意した。後に、イスパルコムは大会の日付を十月二十五日に延期したが、地方の代議員が首都に到着する時間を与えるためであった。

 

 それは、驚くべき、かつ、後で判ったことだが、致命的な降伏であった。ボリシェヴィキが何を意図しているかに気付きながら、イスパルコムは、彼らが望むものを彼らに与えてしまったのである。彼らの信奉者と味方を詰め込んだ選り抜きの組織に、クーデターの合法化を許したのである。

 

 ボリシェヴィキを支持するソヴェトの集まりが第二回ソヴェト大会を装い、ボリシェヴィキのクーデターを裁可することになっていたが、そのクーデターは、レーニンの主張によれば、大会が行われる前に彼の軍事組織の突撃隊によって遂行されるはずであった。それらの部隊の任務は、首都の戦略的要衝を制圧し、政府は打倒されたと宣言することであった。この目的のためにボリシェヴィキが利用しようとした道具が、軍事革命委員会であり、それは、予期されるドイツの攻撃から市を防衛するため、十月初めのパニックのなかで、ペトログラード・ソヴェトにより設置されたものであった。

 

 2、長尾久『ロシア十月革命』(亜紀書房、1972年、P.217より抜粋)

 

 一〇月一一〜一三日北部地方労兵ソヴェート大会がおこなわれた。ペトログラート、クロンシタット、ヴイボルク、ゲリシンクフォルス、レーヴェリ、ナルヴァ、ノーヴゴロト、ユリエフ、ヴォリマル、アルハンゲリスク、モスクワなどのソヴェートから代表が集った。ペトログラート労働者約四〇万(そのうち赤衛隊員約一万)、ペトログラート守備軍十数万、バルト海艦隊約六万、第四二軍団約五万を含む巨大な力が、この大会に代表された。大会代議員の党派別構成は、ボリシェヴィキ五一、左翼エスエル二四メンシェヴィキ国際派一、エスエル一〇、メンシェヴィキ祖国防衛派四だった。大会議長はクルイレンコ、主要報告者は、トロツキー、ラシェーヴィチ、アントーノフ=オフセーエンコであり、大会は全面的にボリシェヴィキ指導下にあった。大会は、「革命の軍事的防衛を組織するために軍事革命委員会を設置すること」を各ソヴェートに提案した。

 

 〔作戦6〕、事後報告の大会で、メンシェヴィキ・エスエルを怒らせて退場に追い込む計画

 

 10月25日(新暦11月7日)、この大会の状況・雰囲気については、無数の記録がある。ジョン・リード『世界をゆるがした十日間』(岩波文庫、1957年)が、詳細で、よく知られている。私(宮地)もそれに興奮して、何回も読んだ。トロツキーによるメンシェヴィキのマールトフ批判演説とマールトフ退場で、溜飲を下げたものだった。

 

 ところが、1991年ソ連崩壊後、「レーニン秘密資料」6000点や膨大なアルヒーフ(公文書)発掘・公表により、この第2回ソヴィエト大会の評価が、レーニン・トロツキーによる〔作戦6〕として全面的に逆転した。それこそ、彼らの『蜂起の技術』における一党独裁狙いクーデターの仕上げ計画だった。

 

 レーニン・トロツキーは、第2回ソヴィエト大会を、ボリシェヴィキ単独武装蜂起部隊による単独権力奪取という既成事実の事後報告大会にする作戦を周到に準備した。それだけでなく、レーニンは、メンシェヴィキ・エスエルを怒らせて退場に追い込む計画=ボリシェヴィキ一党独裁政権樹立宣言の計画を綿密に立てた。トロツキーが、彼らを怒らせる挑発的言動の任務を受け持った。

 

 第2回ソヴィエト大会の代議員構成は、〔作戦2〕で分析したように、レーニン・トロツキーらの策略によって、ペトログラード・ソヴィエト執行委員会の強烈な反対を押し切って、かなりの代議員が、圧倒的なボリシェヴィキ支持である「北部地方委員会」ソヴィエトの代議員にすり替えられていた。それでも、代議員649人中、エスエル160人、メンシェヴィキ72人がいた。レーニンの思惑通りに、エスエル、メンシェヴィキを怒らせ、退場させることに成功した。大会に残ったのは、ボリシェヴィキ代議員390人と、ボリシェヴィキ支持の左翼エスエル代議員、他一部だけになった。

 

 レーニン・トロツキーによる他党派の挑発・退場追い込み作戦の内容は、別ファイルに載せた。ここでは、それを証言・分析した3つの文献項目のみ挙げる。

 

    『「レーニンによる十月クーデター」説の検証』〔作戦6〕証明する3文献

 

 1、トロツキー『ロシア革命史1〜5』(岩波文庫、2001年、藤井一行訳、5巻P.244〜255、抜粋)

 2、ニコラ・ヴェルト『共産主義黒書』(恵雅堂出版、原著1997年、P.59〜60より抜粋)

 3、ロート・サーヴィス『レーニン・下』(岩波書店、原著2000年、P.80〜92より抜粋)

 

 3、第3回ソヴィエト大会の狙いと代議員構成の不自然さ

 

 一党独裁狙いのクーデターが成功しても、その後、不正常・不成立の第2回ソヴィエト大会を補完する必要が生れた。レーニンは、クーデター体制を確定し、正規に承認させるため、2つの計画を開始した。

 

 〔補完計画1〕、クーデターの2カ月11日後、1918年1月5日、憲法制定議会を招集する。ただし、事前計画どおり、一日だけで、その武力解散を強行する。その作戦によって、()クーデター政府と()エスエルに敗北した憲法制定議会というソヴィエト勢力内の新しい二重権力暴力で解消させる。

 

 〔補完計画2〕1月6日朝に武力解散をさせる予定2日後、1月8日に第3回ソヴィエト大会を開催できるようにする。そのために、1日目武力解散の前から、同時並行し、あらかじめ第3回ソヴィエト大会代議員の招集をしておく。それを、憲法制定議会の武力解散正当化のための別の対抗会議と位置づけ宣伝する。招集をする機関は、ボリシェヴィキ・左翼エスエルだけで90.0%を占めるソヴィエト中央執行委員会である。執行委員会メンバーは、他党派を挑発・退場させた後の不正常・不成立の第2回ソヴィエト大会が選出していた。臨時のクーデター政府は、その第3回ソヴィエト大会によって、正式に承認されたという装いを被ることができる。

 

 新中央執行委員会の党派別構成は、エスエル・メンシェヴィキを一人も含まず、ボリシェヴィキ62人、左翼エスエル29人、他10人という不正常な構成になっていた(長尾久『ロシア十月革命の研究』P.380)ボリシェヴィキが86.1%を占拠する新執行委員会は、12月22日、憲法制定議会選の武力解散の14日前に、第3回ソヴィエト大会の招集をし、()一方の解散・()他方の招集という同時二面計画を決定していた(『同』P.423)。それは、〔第2作戦〕と同じように、ボリシェヴィキ代議員の比率が圧倒的になるよう裏工作した。さらに、退場させた他党派からの代議員がほとんど選ばれないよう策動した。その結果が、第3回ソヴィエト大会の党派別代議員というきわめて不自然な構成になった。

 

(表2) 第1〜3回大会選出のソヴィエト中央執行委員会構成

第1回ソヴィエト大会

第2回ソヴィエト大会

第3回合同大会

党派

17年6月24日

17年10月25日

18年1月18日

メンシェヴィキ

エスエル

メンシェヴィキ国際派

ボリシェヴィキ

左翼エスエル

 

社民党統一派

トルドヴィキ・エヌエス

ブンド

ウクライナ社民党

エスエル=マクシマリスト

アナキスト

メンシェヴィキ祖国防衛派

107

102

 

35

 

8

3

1

 

 

 

(抗議の退場)

(抗議の退場)

(抗議の退場)

62

29

6

 

 

3

1

 

 

7

2

160

125

 

 

 

 

7

3

2

256

101

306

ボリシェヴィキ比率

ボリシェヴィキ・左翼エスエル比率

13.7%

(分離・独立前)

86.1

90.0

52.3

93.1

 

 1918年1月18日、第3回ソヴィエト大会の最終日、ボリシェヴィキ・左翼エスエル代議員が過半数の69.2%を占める大会は、新ソヴィエト中央執行委員会を選出した。その党派別構成は、ボリシェヴィキ160、左翼エスエル125、他党派21の計306人だった。ボリシェヴィキ・左翼エスエルだけで、執行委員の93.1%を占めた。(表2)のデータは、長尾久著書が出典である(『同』P.213、380、425)

 

 レーニンは、第3回ソヴィエト大会を、憲法制定議会武力解散の5日後に、1日目で解散させた同じ場所であるタヴリーダ宮殿で開催した。彼は、同一宮殿において、5日ずらしで、2つの会議を同時招集した。それも、『蜂起の技術』の延長作戦だった。それに関する研究者2人の評価を載せる。

 

 ()、H・カレール=ダンコースの評価

 

 彼女は、第3回ソヴィエト大会の性質を検証した。『レーニンとは何だったか』(藤原書店、原著1998年)において、レーニンの作戦を次のように分析した。

 

 レーニンの考えにおいて、第三回労働者・兵士ソヴイエト大会は、憲法制定議会とはに、彼の権力の正当性を保証するための真の人民議会だった。しかしこの大会は、議会でもなければ、真剣に討議することができる機関でもなかった。

 

 第一に、参加者の数が多すぎたためである。二千人近くの参加者がいたが、これでも予告されていた全「ソヴイエトの代表者」からはほど遠かった。大会三日目の一月十九日に、この大会は急遽招集された農民ソヴイエトの代議員大会との合同大会に拡大された。

 第二、多数の兵士とともに、最初は代表団に属していなかった組合や工場委員会等々の代表も席を占めていた。

 第三、代表の選択は、ボリシェヴィキによって細心に管理されていた。

 第四、何らかのソヴイエトによるいかなる決定も経ないで、指名された者もいた。

 

 第五、要するに、会議の代表性はきわめて疑わしいものだった。代議員の数が多いため、会議はボリシェヴィキの提案を単に承認するだけの機関となった。大会は要求されたものをすべて採択した。

 

 第六新中央執行委員会を選出したが、それは全面的にボリシェヴィキに支配されたものとなった。

 第七、創設以来ソヴナルコムに付されていた「臨時」という語を消すこと、また消滅した憲法制定会議へのいかなる準拠決して行なわないことを決定した。

 

 勝負の仕上げはついた。レーニンは、()自分の権力を、自分の支配を正当化させた第三回ソヴイエト大会の旗の下に据えた。一方、()自分を拒絶する民衆によって選ばれた厄介な議会歴史から消し去った

 

 かくも久しく夢見つづけて来たこの目論見を実現するため、彼は、策略、裏工作、暴力を代わる代わる、あるいは同時に用いる必要があった。これまでの全生涯を支配してきたこの計画のために、彼は侮りがたい政治的天才と、しばしば身近な者とさえ衝突する原因となった比類無きシニスム〔良心の呵責なき臆面のなさ〕を動員した。

 

 一九一八年一月において、ソヴイエト国家が成立し、彼の政府はもはや臨時ではなくなった。いかなる民衆の意志ももはや彼に反対することはできなくなった。それを表現するための機関を彼が消滅させたからである。

 

 確かに民主主義は死んだ。しかし、これは、まさしくレーニンが望んでいたことではないのか(P.372〜373)

 

 ()、リチャード・パイプスの評価

 

 彼は、その大会を次のように規定している。二日後(一月八日)に、ボリシェヴィキは「第三回ソヴエト大会」と銘打った対抗集会を開いた。そこでは、彼らに反抗できるものは誰もいなかった。何故なら、彼らは、自分たちと左派エスエルで九四%の議席を保持していたからである。この集会は、当然ながら、ボリシェヴィキの出した法と決議を全て承認した。新政府は、今や、その名称から、「臨時」という形容詞削除して、ロシアとその領有する諸地域の永続的な政府としての地位を確立した。(『ロシア革命史』P.171)

 

 ただ、パイプスの規定における月日について、決定は1月8日だったが、実際の開会は、2日間遅れ、1月10日だった。また、九四%という数値は、長尾データと異なっている。それとも、議席比率69.2%と執行委員比率93.1%とを取り違えているのか。あるいは、誤訳なのか。

 

 

 3、18年3月、ボリシェヴィキ→ロシア共産党(ボリシェヴィキ)への党名変更と記述

 

 1918年3月6日、第7回大会は、党名をボリシェヴィキから、ロシア共産党(ボリシェヴィキ)に変更した。

 この政党は、1898年にロシア社会民主労働党として発足した。1903年の第2回党大会で分裂した際、ボリシェヴィキ(多数派)と呼ばれた急進派が母体である。ロシア革命翌年の1918年3月、ロシア共産党(ボリシェヴィキ)に党名を変えた。1925年に全連邦共産党(ボリシェヴィキ)へと名称が変化した。1952年にソ連共産党となった。

 

 レーニンの最高権力者5年2カ月間における党名は、()ボリシェヴィキが、1917年10月25日(新暦11月7日)から、第7回大会までの4カ月間である。()ロシア共産党(ボリシェヴィキ)は、彼が脳梗塞第2回発作で倒れる1922年12月16日まで、4年10カ月間あった。

 

 レーニン批判の全ファイルにおいて、厳密には、()()の時期によって、党名を区別する必要があるかもしれない。党員名も、ボリシェヴィキ党員→ロシア共産党員、または、共産党員に変わる。ただ、( )付きながら、(ボリシェヴィキ)がある。それらを区別して書くと、煩雑になる。ソ連崩壊後、ほとんどの研究者も、レーニン時代に関し、それを区別しないで、ボリシェヴィキを使っている。よって、一連のファイルでも、ボリシェヴィキ、ボリシェヴィキ党員という名称に統一する。

 

 

 4、18年6月、他党派をソヴィエト執行委員会から排除の第4次クーデター

 

 〔小目次〕

   1、ボリシェヴィキ支持率の急落・大衆がボリシェヴィキから顔をそむける (表3)

   2、支持率急落原因は、レーニンによる4公約全面違反の裏切り

   3、1918年5〜6月、ボリシェヴィキが各都市の選挙で大敗北

   4、勝利した社会主義他党派の全面弾圧・逮捕、ソヴィエトからの排除第4次クーデター (表4、5)

 

 1、ボリシェヴィキ支持率の急落・大衆がボリシェヴィキから顔をそむける

 

 一党独裁狙いクーデター半年後で、下記路線・政策によって、ソヴィエト内のボリシェヴィキ支持率は、ソ連全土で急落し始めた。

 

 ロイ・メドヴェージェフは、『10月革命』(未来社、1989年、原著1979年)の「第4部、1918年の困難な春、第12章」(P.208)に、「大衆がボリシェヴィキから顔をそむける」という見出しを付けた。彼は、そこでソヴィエト内支持率激落データとその原因を分析している。国民が目にしたものは、下記の政治・経済要求を全面実施するという公約にたいするボリシェヴィキ政権の不実行だった。それどころか、判明してきたのは、国民の要求とは正反対の「赤色テロル」「食糧独裁令」型社会主義政策転換というレーニンによる公約違反の裏切りだった。

 

 それを、国民が悟ったことによって、権力奪取クーデターのわずか6カ月後から、国民のボリシェヴィキ支持率が、急落した。ボリシェヴィキから顔をそむけた国民は、左翼エスエルと無党派にたいする支持率急増をもたらした。

 

(表3) ボリシェヴィキ支持率の急落

1918年4月〜、とくに5月「食糧独裁令」以降

年月

支持率・議席

他党派の支持率・議席

出典

1918.318.48

100の郡ソヴィエト選挙結果

66.044.8

左翼エスエル23.1%、右翼エスエル2.7%、メンシェヴィキ1.3%、無党派27.1

10月革命』P.212

1918.118.3

クロンシュタットのソヴィエト選挙

46.028.9

エスエル最左翼のマクシマリスト22.4%、左翼エスエル21.3%、メンシェヴィキ国際派7.6%、アナキスト5.4%、無党派13.1

I・ゲッツラー『クロンシュタット191721

 

 2、支持率急落原因は、レーニンによる4公約全面違反の裏切り

 

 レーニンは、権力奪取クーデター後の6カ月間における政策実践で、クーデター前の4公約を守らなかった。それどころか、むしろ、公約とは逆の路線・政策を選択した。

 

 〔小目次〕

   (公約1)、「すべての権力をソヴィエトへ」という政権構想要求への裏切り

   (公約2)、「パン=飢餓の解決」という生活・経済要求への裏切り

   (公約3)、「土地」という80%農民の要求にたいする実質的な裏切り、反革命クーデター

   (公約4)、「平和=戦争終結」という全国民的要求にたいする犯罪的な裏切り

 

 (公約1)、「すべての権力をソヴィエトへ」という政権構想要求への裏切り

 

 クロンシュタット・ソヴィエトや、それを含むバルト艦隊ソヴィエトは、1905年革命や二月革命における中心的ソヴィエトだった。その伝統に基づき、この政権構想要求がもっとも強烈だった。それを実行すると公約した政党としてのみ、メンシェヴィキ、エスエルという社会主義政党よりも、ボリシェヴィキを支持し、「十月革命」の栄光拠点ソヴィエトとなった。彼らの要求レベルは、ボリシェヴィキ一党独裁政府ではなく、ソヴィエト内の全社会主義政党による連立政府だった。

 

 それだけに、彼らは、レーニンの公約違反の裏切りをもっとも早く悟った。上記(表)のように、ボリシェヴィキ支持率は、1917年11月バルト海艦隊の憲法制定議会選挙57.7%→1918年1月クロンシュタット・ソヴィエト選挙46.0%→1918年4月クロンシュタット・ソヴィエト選挙28.9%と激減した。1921年3月クロンシュタット事件のときには、10%台に転落したと推定できる。

 

 なぜなら、その6カ月間でレーニンは、労働者兵士ソヴィエトが自分たちで勝ち取った権力を、法令と暴力・赤色テロルで簒奪し、ボリシェヴィキ一党独裁政権へと大転換させたからである。

 

 労働者のボリシェヴィキ支持率は、単独では不明である。ただ、クロンシュタット・ソヴィエトのボリシェヴィキ支持率が、38.8%も下落して、28.9%になったと同じ程度に、ペトログラード労働者の支持率も、20%以上の下落をしたと推定できる。『第5部』で分析する労働者ストライキのデータから見ると、1920年における220万人労働者のボリシェヴィキ支持率は、30%をはるかに割って、10%台になったと推定できる。

 

 レーニンは、『第2部』で分析したように、憲法制定議会選挙と議会での公約実行を繰り返し明言していた。一党独裁狙いクーデター約2カ月後の1918年1月5日にレーニンが強行した憲法制定議会の武力解散クーデターは、投票者4440万人の批判・不支持をもたらした。それも、支持率急落の一因をなしている。

 

 (公約2)「パン=飢餓の解決」という生活・経済要求への裏切り

 

 飢餓は、ツアーリ帝政・臨時政府時点から受け継いだ負の遺産だった。ケレンスキー臨時政府は、戦争中という理由で国家による食糧専売・配給制を採った。レーニンのクーデター政府も、その穀物専売制を踏襲し続けた。そのため飢餓はますます深刻になった。1917年3月以降、9000万農民は、政党の具体的支援を受けず、レーニンのクーデターに先行し、自力で〔第1要求〕の土地革命を成し遂げつつあった。

 

 1918年3月3日戦争単独離脱後の農民、国民、ボリシェヴィキ以外のすべての政党が求めた「パン=飢餓の解決」政策は、革命農民の〔第2要求〕穀物・家畜の自由処分権=自由商業の回復と一致していた。1921年3月「ネップ」で証明されたように、1918年3月以降の政策は、食糧専売・配給制という戦時統制経済を廃止して、資本主義的自由商業=市場経済の承認・奨励しかなかった。ロイ・メドヴェージェフは、その時点に「ネップ」に移行する選択肢とその条件があったと論証した。

 

 ところが、レーニンらボリシェヴィキにとって、その政策は、一党独裁狙いクーデターで奪い取ったボリシェヴィキ独裁型社会主義政権が、社会主義青写真の市場経済廃絶・貨幣経済も廃絶路線に背くことになる。それは、資本主義経済に逆戻りし、社会主義経済への裏切り政策となる。レーニンは、有権者9000万人の飢餓解決よりも、マルクス主義理論の教条的施行を選択した。その誤った政策により、飢餓は、さらに深刻化した。それに伴って、食糧の「闇屋」「かつぎ屋」が激増した。レーニンは、ジェルジンスキーに命令し、彼らを裁判なしで逮捕・銃殺させた。

 

 この理論は、根本的な誤りで、机上の空論だった。それは、1989年から1991年において、一党独裁型の市場経済廃絶路線を実験した10カ国がいっせい崩壊したことによって証明された。

 

 (公約3)「土地」という80%農民の要求にたいする実質的な裏切り、反革命クーデター

 

 土地革命を自力で成し遂げた農民は、穀物・家畜の自由処分権=自由商業を求めた。レーニンは、1921年3月の「ネップ」まで、その要求を一貫して拒絶し続けた。それどころか、彼は、飢餓が激化するのにたいして、1918年5月13日食糧独裁令を発令し、農民からの食糧収奪路線の泥沼に踏み込んだ。これは、()9000万農民の労働・生産意欲や要求にまったくの無知な政策であり、かつ、()ロシア農業を破壊する結果をもたらした。()そこから、1921・22年において500万人を餓死させる基本原因の一つとなった。

 

 権力奪取クーデター時点に、レーニンは、それに先行していた9000万農民の土地革命実態と要求を否定するわけにもいかず、やむなく、没収した土地の共同体所有と内部分配追認した。その限りにおいてのみ、農民は、土地革命を否定し、鎮圧しようとした臨時政府よりも、ボリシェヴィキ支持に回っていた。しかし、この食糧独裁令は、土地革命農民が生産した穀物・家畜を軍事割当徴発制の暴力で一方的に収奪するものだった。それは、まさに「土地」要求にたいするレーニンの実質的な裏切りだった。むしろ、それ以上に、農民にとって、レーニンとボリシェヴィキは、土地革命にたいする一種の反革命クーデター政権となった。自力で土地革命を成功させた農民たちが、その反革命クーデター政策にたいして、ソ連全土での農民抵抗・反乱に総決起したのは必然だった。

 

 (公約4)「平和=戦争終結」という全国民的要求にたいする犯罪的な裏切り

 

 レーニンは、権力奪取クーデター前、「平和=戦争離脱・終結」を力説し、公約した。それにより、ドイツとの戦争をまだ続けている臨時政府を批判するボリシェヴィキ支持率が急上昇した。1918年3月3日ブレスト講和条約によって、第一次世界大戦からソ連だけが単独離脱した。それは、ソ連国民に「平和」と息継ぎをもたらした。

 

 ところが、レーニンは、そのわずか2カ月後5月13日に、食糧独裁令を発令した。レーニン・政治局の目的は、2つあった。第1は、食糧人民委員部を中央集権化すること。食糧武装徴発隊を十数万人も農村に派遣し、チェーカーと赤軍の暴力手段で、穀物・家畜を収奪すること。それによって飢餓状態を克服することである。第2は、農村において、貧農委員会を組織し、「富農」にたいする階級闘争を起すことだった。それは、ボリシェヴィキ側が、農村に内戦の火をつけることによって、80%・9000万農民、2000万農家を社会主義化するという、レーニン・トロツキー・スヴェルドロフらの、自国民にたいする犯罪的な戦争再開政策だった。ボリシェヴィキ指導者たちの発言内容データは、『第3部』に載せた。

 

 レーニン・政治局にとって、プロレタリア独裁国家の権力基盤である軍隊と都市に食糧の供給を確保することが死活問題となっていた。彼らには2つの選択肢があった。1)、崩壊した経済の中で一定の資本主義市場を再建するか、あるいは、2)強制を用いるかである。彼らはツアーリ体制打倒の闘争の中で、さらに前進する必要があるとの論拠から第2の方策を選んだ。この驚くべき幼稚、かつ犯罪的な思惑が、レーニン・政治局全員の社会主義構想であったことについては、ロシア革命史のほとんどの文献が一致している。

 

 3、1918年5〜6月、ボリシェヴィキが各都市の選挙で大敗北

 

 「大衆がボリシェヴィキに顔をそむけた」結果、ソヴィエト改選選挙が行われた30の県庁所在地の内、19地区で左翼エスエルとメンシェヴィキが勝利した。「すべての権力をソヴィエトに」とした革命権力機関・ソヴィエト内における一党独裁政党ボリシェヴィキの大敗北である。県庁所在地ソヴィエトとは、プロレタリアートが最も集中していた地区である。そこでの敗北は、プロレタリアートが、プロレタリア独裁国家を名乗るボリシェヴィキ一党独裁政権の不支持を明確に表明したことだった。(『黒書』P.73)

 

 リチャード・パイプスは、『ロシア革命史』(P.173)において、次のように記している。

 一九一八年のまでには、彼らは、さらに一層頻繁に力に頼らねばならなくなっていた。には、彼らに従っていた兵士と労働者たちの支持さえ、今や、失うことになったからである。当時行われたソヴエト選挙の結果は、彼らには芳しくなかった記録の残っている全ての都市で、彼らは、メンシェヴィキとエスエルによって敗北を喫したのである。

 

 4、勝利した社会主義他党派の全面弾圧・逮捕、ソヴィエトからの排除第4次クーデター

 

 選挙敗北・惨敗者レーニンの対応は、勝利政党にたいする即時弾圧とソヴィエト執行委員会からの全面排除だった。これは、レーニンによるソヴィエト権力簒奪第4次クーデターとなった。そもそも、ソヴィエトとは、自然発生的な大衆組織であり、1905年革命・二月革命以来、約13の社会主義党派を含む革命運動体である。ソヴィエト選挙において惨敗したからといって、その独創的で歴史的な組織から、ボリシェヴィキ以外を全面排除し、チェーカーの暴力によって、ボリシェヴィキ独裁機関に変質させる行為は、まさにクーデターそのものである。

 

 レーニン直属のチェーカー長官ジェルジンスキー・チェーカー28万人は、ソヴィエト民主主義を蹂躙する犯罪的な対応を続発させた。レーニンらは、()1918年5月13日、食糧独裁令によって、土地革命農民・農村にたいする内戦を開始した。同じ時期、()1918年5〜7月にかけては、都市の革命労働者・他党派にたいし、ソヴィエト民主主義破壊の全面弾圧、他党派排除クーデターを開始した。

 

 この時期、いわゆる本格的な内戦勃発の契機とされるチェコ軍団の反乱は、まだ始まっていなかった。軍事人民委員トロツキーが残酷な全員武装解除命令を出したのは、1918年5月25日だったからである。チェコ軍団・白衛軍との内戦が始まるに、レーニンは、()80%・9000万の土地革命農民にたいする内戦・第3次クーデターを開始した。

 

 その1カ月後、6月14日に、()都市の革命労働者・他党派をソヴィエト執行委員会から追放するソヴィエト権力簒奪の第4次クーデターを連続して開始した。レーニンや公認ロシア革命史は、これらの経過・原因を抹殺し、隠蔽することによって、ロシア革命史の偽造歪曲をしてきた。

 

 その犯罪的な〔11対応〕の内容を確認する。このデータは、ニコラ・ヴェルトが、膨大なアルヒーフ(公文書)から発掘し、『共産主義黒書』(P.76〜94)で公表した。それを、私(宮地)が時系列的に編集し直し、抜粋・加筆をし、作戦番号を付けた。リチャード・パイプスが発掘したデータも加えた。以下の内容は、フランス国内の労働者たちだけでなく、ヨーロッパ全域の労働者にも強烈な影響を与え、そこでのレーニン神話を完全に崩壊させる一因となった。

 

 〔対応1〕、社会主義的反対派の新聞205を完全な発行禁止にした。左翼エスエルは、1918年3月3日のブレスト講和条約に猛反対し、連立政権を離脱していた。さらに、農民要求支持の立場から、5月13日の食糧独裁令を強烈に批判していた。反対派とは、ソヴィエト参加の社会主義党派だが、ボリシェヴィキ一党独裁クーデター政権への抵抗・批判派を意味する。カデット機関紙やブルジョア新聞は、クーデター直後、すでに、レーニンが発行禁止にしていたからである。これにより、選挙敗北・惨敗者レーニンの少数派クーデター政府は、全面的情報統制・情報独占という異様な反民主主義システムに移行した。(『黒書』P.75)

 

 〔対応2〕、メンシェヴィキや左翼エスエルが多数派となった11のソヴィエトを、チェーカー分遣隊が武力解散させた。そのソヴィエトは、カルーガ、トヴェーリ、ヤロスラヴリ、リャザン、コストロマ、カザン、サラートフ、ペンザ、タンボフ、ヴォロネジ、オリョール、ヴォログダだった。(『黒書』P.76)

 

 リチャード・パイプスは、『ロシア革命史』(P.173)において、当時行われたソヴエト選挙の結果は、彼らには芳しくなかった記録の残っている全ての都市で、彼らは、メンシェヴィキとエスエルによって敗北を喫したのである、と断定した。

 

 ただ、2人とも、選挙結果データを載せていない。そこで敗北したソヴィエト11の内、8都市における憲法制定議会選挙結果から推定する。レーニンによる十月クーデター半年後に、都市ソヴィエト住民・労働者が、ボリシェヴィキ顔をそむけエスエルとメンシェヴィキ支持に転換したのかの推測資料となる。

 

 ただし、レーニンは、クーデター後直ちに、プロレタリア独裁理論=ブルジョアジーの諸権利制限・剥奪理論に基づき、カデットをブルジョア政党=「反革命」政党とでっち上げた。そして、カデットを非合法化し、幹部全員を逮捕した。さらに、カデット党員から、ソヴィエト立候補権・投票権を剥奪した。よって、カデットは、1918年5〜6月のソヴィエト選挙から排除されている。カデット支持票がどの政党に流れたのかは言うまでもない。このデータは、長尾久『ロシア十月革命の研究』(社会思想社、1973年、絶版、P.403)にある。都市名は、長尾表記のままにした。

 

 ボリシェヴィキの得票率がどれだけ急落したかを示す別のデータがある。それは、クロンシュタット・ソヴィエト選挙である。ただ、憲法制定議会選挙と、カデット排除のソヴィエト選挙とは異なる。()1917年11月、バルト海艦隊の憲法制定議会選挙57.7%(出典『研究』)()1918年1月、クロンシュタットのソヴィエト選挙46.0%→()1918年3月、クロンシュタットのソヴィエト選挙28.9%(()()の出典、ゲッツラー『クロンシュタット1917〜21』)と、ボリシェヴィキへの支持が丁度半分に激減した。そこから、クロンシュタットにおける激減と同じ比率として、8都市におけるボリシェヴィキ惨敗のデータを推計してみる。

 

(表4) 敗北8都市における憲法制定会議選挙結果と激減推計

都市名

ボリシェヴィキ →激減

エスエル

メンシェヴィキ

カデット

その他

カルーガ

24.7 →? 12.4

5.5

16.7

49.2

3.9

トヴェーリ

47.2 →? 23.6

16.9

12.3

19.8

3.8

ヤロスラーヴリ

47.3 →? 23.7

11.1

9.6

2.

8.4

リャザーン

25.7 →? 12.9

15.3

3.9

43.2

11.9

コストロマー

43.6 →? 21.8

10.3

11.3

22.4

12.4

カザーン

26.0 →? 13.0

21.1

3.2

24.8

25.0

サラートフ

37.7 →? 18.9

14.5

6.8

19.9

21.1

ヴォローネシ

11.9 →? 6.0

12.2

7.2

58.1

10.6

 

 〔対応3〕、他でも、反対派が選挙で勝って、新しいソヴィエトが作られると、その数日後に、土地のボリシェヴィキが軍隊の応援を頼んだ。来たのは、チェーカーの分遣隊で、「戒厳令」を出し、反対派を逮捕した(『黒書』P.76)。

 

 リチャード・パイプスは、さらに次のデータを挙げている。クーデター政府は、ソヴィエト選挙惨敗の窮状を2つの方法で処理した。政府は、()メンシェヴィキとエスエル、左翼エスエルがソヴエト選挙に出る資格を取り上げた。そして、()望まれる多数をボリシェヴィキが得られるまで選挙を繰り返し行った

 

 〔対応4〕5月31日、トヴェーリ、ジェルジンスキーのチェーカー全権委員への指令

 反対派が勝利した町トヴェーリに、ジェルジンスキーは、自分が信頼するチェーカーのエイドゥークを全権として派遣した。そして次の指令を書いた。「メンシェヴィキやエスエルやその他反革命の畜生どもに影響された労働者たちは、ストライキを行い、社会主義めいた政府の創設に賛成を表明した。君はすべての市にポスターを貼って、ソヴィエト権力にたいして陰謀を企てるあらゆる匪賊、盗賊、投機家、反革命家はチェーカーによってただちに銃殺されると声明すべきだ。人を黙らせるには一発ぶっぱなすのがいちばん有効だとよく知っている連中を使うことだ」。(『黒書』P.76)

 

 〔対応5〕5月後半から6月、その弾圧・排除にたいする労働者の抗議・デモ・ストライキと流血の鎮圧

 勝利政党への弾圧・排除抗議して、多くの工業都市で、労働者のデモ・ストライキが発生した。ソルモヴォ、ヤロスラヴリ、トゥーラや、ウラルの工業都市ニジニータギール、ベロレック、ズラトウスト、エカチェリンブルグなどである。それらは、土地のチェーカーによって、流血の中で鎮圧された。

 

 一方、そこでの食糧事情はますます悪化していた。それにたいする労働者の食糧要求デモ、集会にたいして、チェーカーは、発砲し、銃殺した。ペトログラード近郊のコルピノにおけるデモにたいして、チェーカー分遣隊長が発砲を命じ、10人を射殺した。エカチェリンブルグ近郊のベレゾフスキー工場では、労働者が「ボリシェヴィキの委員たち」が、町でいちばんいい家の占拠をしていることと、150ルーブルを横領したことにたいして抗議集会を開いた。それにたいして、ボリシェヴィキ赤衛隊は、労働者15人を殺害した。翌日、地区当局は、この工業都市に「戒厳令」を宣告し、土地のチェーカーは、即座に14人を銃殺した。(『黒書』P.76)

 

 〔対応6〕6月8日、第1回全ロシア・チェーカー会議

 ジェルジンスキーが招集し、11日まで開催した。そこには、43地区、約12000人の代表100人が出席した。チェーカーのメンバー数は、1918年末に4万人、1921年初めには28万人以上に増加した。すでにチェーカーの権限は「ソヴィエト以上」「党以上」と、何人かのボリシェヴィキが言っていた。この会議は「ソヴィエト・ロシアの行政当局の最高機関として共和国全土に反革命にたいする闘いの重荷を引き受ける」ことを宣言した。チェーカー情報部・課の疑わしい者のリスト作成義務対象には、労働組合と労働者委員会を含めていた。(『黒書』P.77)

 

 〔対応7〕5月〜6月20日前、ペトログラード、労働者ストライキ・集会・デモとロックアウト

 ボリシェヴィキと労働者との関係は、悪化し続けていた。ペトログラード・チェーカーは、この期間に、ストライキ、反ボリシェヴィキ集会、デモなど70の事件を報告した。彼らの主力は、1917年とそれ以前において、最も熱烈にボリシェヴィキを支持していた金属労働者だった。彼らのストライキにたいして当局は国営化された大工場をロックアウトすることで応えた。このやり方は、その後何カ月かの間、労働者の抵抗を打ち破る常套手段となった。(『黒書』P.78)

 

 〔対応8〕6月14日、レーニンは、ソヴィエトの全露執行委員会から「メンシェヴィキ、エスエルと、左翼エスエルの排除」を強行した。(『黒書』P.75、76)

 

 〔対応9〕6月20日〜7月2日、ペトログラードで、ヴォロダルスキー暗殺→800人逮捕

 6月20日、このような労働者ストライキ弾圧状況の中で、ペトログラード・ソヴィエトのボリシェヴィキ指導者であるV・ヴォロダルスキーが、エスエル活動家によって暗殺された。それは、労働者ストライキへの弾圧・逮捕・銃殺という赤色テロルにたいする労働者側の報復だった。レーニンは、ペトログラード・ソヴィエトとチェーカーにたいし、数百倍の赤色テロル報復を指令した。暗殺後の2日間で、当局は、「首謀者」800人以上を逮捕した。(『黒書』P.77)

 

 〔対応10〕6月14日後〜7月、ペトログラードの労働者全権代表組織結成とその解散弾圧

 ペトログラード・ソヴィエトは、すでに、6月14日のレーニン指令により、ソヴィエト執行委員会からメンシェヴィキ、エスエルと左翼エスエルの排除を強行していた。レーニンは、これにより、政府機関だけでなく、地方行政区ソヴィエトの一党独裁化をも強引に完成させた。他党派排除で権力を簒奪し、ボリシェヴィキが私有化したペトログラード・ソヴィエトに対抗して、メンシェヴィキが労働者全権会議を作った。当局は、それも解散させた。(『黒書』P.78)

 

 労働者はメンシェヴィキの熱意のない支持を得ながら、自分たち自身の労働者全権代表組織を作ることにより、これらの手段に対抗しようと試みた。しかし、この組織はまもなく弾圧され、その指導者たちは逮捕された。このようにして、()ソヴエトの自立性、()労働者の彼ら自身の代表制機関への権利、そして、()多党制システムの残余といったものに終止符が打たれた。これらの処置は、1918年の6月と7月に実施され、一党独裁の基礎を仕上げることになった。(リチャード・パイプス『ロシア革命史』P.173)

 

 〔対応11〕7月2日、この大量逮捕・銃殺や労働者全権代表組織解散弾圧にたいして労働者側は、ゼネスト呼び掛けで応えた。左翼エスエル指導者マリア・スピリドーノヴァは、ペトログラードの主な工場をめぐって、大喝采をあびた。このゼネストは、弾圧で失敗した。ボリシェヴィキは、その直後に、彼女を含む左翼エスエル指導者を逮捕した。(『黒書』P.94)

 

(表5) 4連続クーデターへの批判・反対運動と弾圧・逮捕・銃殺

都市・地域

弾圧者・機関

内容

黒書

1

5〜6月、ソ連全土

レーニン、チェーカー

社会主義的反対派の新聞205を完全な発行禁止

P.5

2

5〜6月、多数派となった11のソヴィエトは、カルーガ、トヴェーリ、ヤロスラヴリ、リャザン、コストロマ、カザン、サラートフ、ペンザ、タンボフ、ヴォロネジ、オリョール、ヴォログダ

チェーカー分遣隊

メンシェヴィキや左翼エスエルが多数派となった11のソヴィエトチェーカー分遣隊が武力解散

P.76

3

反対派が選挙で勝って、新しいソヴィエトが作られた

チェーカー分遣隊。

クーデター政府

選挙で勝利した反対派を「戒厳令」を出し、反対派を逮捕。政府は、()メンシェヴィキとエスエル、左翼エスエルがソヴエト選挙に出る資格を取り上げ()望まれる多数をボリシェヴィキが得られるまで選挙を繰り返し行った

P.76

4

5月31日、反対派が勝利した町トヴェーリ

ジェルジンスキーは、自分が信頼するチェーカーのエイドゥークを全権として派遣

指令「メンシェヴィキやエスエルやその他反革命の畜生どもに影響された労働者たちは、ストライキを行い、社会主義めいた政府の創設に賛成を表明した。君はすべての市にポスターを貼って、ソヴィエト権力にたいして陰謀を企てるあらゆる匪賊、盗賊、投機家、反革命家はチェーカーによってただちに銃殺されると声明すべきだ。人を黙らせるには一発ぶっぱなすのがいちばん有効だとよく知っている連中を使うことだ

P.76

5

5月後半から6月、勝利政党への弾圧・排除抗議して、多くの工業都市で、労働者のデモ・ストライキが発生。ソルモヴォ、ヤロスラヴリ、トゥーラや、ウラルの工業都市ニジニータギール、ベロレック、ズラトウスト、エカチェリンブルグなど。

 

エカチェリンブルグ近郊のベレゾフスキー工場

各土地のチェーカー

 

 

 

 

 

 

 

ボリシェヴィキ赤衛隊、チェーカー

労働者の食糧要求デモ、集会にたいして、チェーカーは、発砲し、銃殺した。ペトログラード近郊のコルピノにおけるデモにたいして、チェーカー分遣隊長が発砲を命じ、10人を射殺

 

 

 

労働者が「ボリシェヴィキの委員たち」が、町でいちばんいい家の占拠をしていることと、150ルーブルを横領したことにたいして抗議集会を開いた。それにたいして、ボリシェヴィキ赤衛隊は、労働者15人を殺害。翌日、地区当局は、この工業都市に「戒厳令」を宣告し、土地のチェーカーは、即座に14人を銃殺

P.76

6

6月8日

第1回全ロシア・チェーカー会議。ジェルジンスキーが招集し、11日まで開催

43地区、約12000人の代表100人が出席。チェーカーのメンバー数は、1918年末に4万人、1921年初めには28万人以上に増加

チェーカー情報部・課の疑わしい者のリスト作成義務対象には、労働組合と労働者委員会を含めていた。

P.77

7

5月〜6月20日前、ペトログラード、労働者ストライキ・集会・デモ

 彼らの主力は、1917年とそれ以前において、最も熱烈にボリシェヴィキを支持していた金属労働者

当局、ペトログラード・チェーカー

ペトログラード・チェーカーは、この期間に、ストライキ、反ボリシェヴィキ集会、デモなど70の事件を報告。

彼らのストライキにたいして当局は国営化された大工場をロックアウトすることで応えた。このやり方は、その後何カ月かの間、労働者の抵抗を打ち破る常套手段となった。

P.78

8

6月14日

レーニン

ソヴィエトの全露執行委員会から「メンシェヴィキ、エスエルと、左翼エスエルの排除」を強行。レーニンによる第4次クーデター

P.75

P.76

9

6月20日、ペトログラードで、ヴォロダルスキー暗殺。このような労働者ストライキ弾圧状況の中で、ペトログラード・ソヴィエトのボリシェヴィキ指導者V・ヴォロダルスキーが、エスエル活動家によって暗殺。それは、労働者ストライキへの弾圧・逮捕・銃殺という赤色テロルにたいする労働者側の報復だった。

レーニンは、ペトログラード・ソヴィエトとチェーカーに指令

レーニンは、ペトログラード・ソヴィエトとチェーカーにたいし、数百倍の赤色テロル報復を指令。暗殺後の2日間で、当局は、「首謀者」800人以上を逮捕。7月2日までさらに大量逮捕の報復

P.7

10

6月14日後〜7月、ペトログラードの労働者全権代表組織結成

 

 労働者は自分たち自身の労働者全権代表組織を作ることにより、これらの手段に対抗しようと試みた。

ペトログラード・ソヴィエト。ペトログラード・チェーカー

ペトログラード・ソヴィエトは、すでに、6月14日のレーニン指令により、ソヴィエト執行委員会からメンシェヴィキ、エスエルと左翼エスエルの排除を強行していた。レーニンは、これにより、政府機関だけでなく、地方行政区ソヴィエトの一党独裁化をも強引に完成。他党派排除で権力を簒奪し、ボリシェヴィキが私有化したペトログラード・ソヴィエトに対抗して、労働者メンシェヴィキが労働者全権会議を作った。当局は、それも解散させた。

 

この組織はまもなく弾圧され、その指導者たちは逮捕。このようにして、()ソヴエトの自立性、()労働者の彼ら自身の代表制機関への権利、そして、()多党制システムの残余といったものに終止符が打たれた。これらの処置は、1918年の6月と7月に実施され、一党独裁の基礎を仕上げた

P.78

 

(リチャード・パイプス『ロシア革命史』P.173)

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7月2日、この大量逮捕・銃殺や労働者全権代表組織解散弾圧にたいして労働者側は、ゼネスト呼び掛けで応えた。左翼エスエル指導者マリア・スピリドーノヴァは、ペトログラードの主な工場をめぐって、大喝采をあびた。

ペトログラード・ソヴィエト。ペトログラード・チェーカー

このゼネストは、弾圧で失敗。ボリシェヴィキは、その直後に、彼女を含む左翼エスエル指導者を逮捕

P.94

 

 

 5、農民ソヴィエトからの権力簒奪と党独裁機関化への改変手口

 

 二月革命の1カ月後から、80%・9000万農民による土地革命が始まった。農民ソヴィエトは、その中から生れた。レーニンは、その自然発生的な大衆組織の権力簒奪をし、党独裁機関に変質させた。その改変手口を、3つの時期に分けて検証する。

 

 〔小目次〕

   〔第1期〕、土地革命と農民ソヴィエトの誕生

   〔第2期〕、貧農委員会創設と農民ソヴィエトからの権力簒奪

   〔第3期、貧農委員会崩壊と農民ソヴィエト執行委員会の改変手口

 

 〔第1期〕、土地革命と農民ソヴィエトの誕生

 

 ペトログラードの労働者・兵士ソヴィエトが中心となった二月革命は、自然発生的な数十万人のデモ・ストライキにより、ツアーリ帝政を打倒した。二月革命の結果は、2000万農家にも衝撃的な影響を与えた。農民は、〔第1要求〕土地の共同体所有を実現するために、地主・貴族・資本主義経営の富農(クラーク)の土地を収奪する土地革命に総決起した。土地要求に基づくだけでなく、3者は農村におけるツアーリ帝政の支持・擁護基盤になっていたからである。よって、1917年3月からの農民総決起は、土地没収革命というだけでなく、農村におけるツアーリ帝政基盤を打倒する革命として、都市における労働者・兵士の革命と連動した。

 

 都市のソヴィエト運動と連結し、農村にも続々と農民ソヴィエトが誕生した。これは、1917年3月頃から、ロシア全土で勃発した自然発生的な民衆革命である。地主・貴族・富農から土地を奪い、それぞれの村落共同体ミール内で、総割り替え制を行った。以下は、長尾久『ロシア十月革命』からの抜粋・引用(.146〜147。152)である。

 

 農民運動は多くの場合ミール共同体を基礎として、郷・村総会−郷・村委員会を通じておこなわれた。だが郷より上級、つまり県・郡レベルでも三月から動きが始まる。(.146〜145)

 

 運動の発展の中で農村でもソヴェート網が拡大していった。まず、県農民ソヴェートは、ヨーロッパ・ロシアで次のように組織されていった。

 三月――ニジェゴロト、サマーラ、ヤロスラーヴリの三県。

 四月――ペンザ、サラートフ、ヴォローネシ、トゥーラ、ミンスク、モスクワ、スモーレンスクの七県。

 五月――カザーン、クールスク、リヤザーン、タムボフ、モギリョーフ、ヴラヂーミル、カルーガ、コストロマー、トヴェーリ、ヴォーログダ、オローネツ、ペトログラード、ペルミの一三県。

 六月――オリョール、ヴィリノ、ヴィーチェプスク、アルハンゲリスク、ヴャートカ、ウファーの六県。

 

 六月末までで計二九県で成立したことになる。ヨーロッパ・ロシヤでの県農民ソヴェート建設は、この頃でだいたい終ったと見てよい。郡農民ソヴェートは、七月一五日現在、ロシヤ八一三郡中三七一郡で成立していた。なお農民代表機関(ソヴェート、委員会)は、郷については各村の総会で選ばれるが、郡については郷代表機関から、県については郡又は郷の代表機関から選ばれている。すでに述べた第一回全国農民代表大会は、ちょうど県農民ソヴェートが最も多くつくられた時におこなわれたのである。大会が協調主義路線で進んだことはすでに述べたが、農業問題については政府の枠にはおさまれなかった。(.152)

 

 この土地革命の結果、土地関係は根本的に変わった。1905年は、地主・貴族・国家所有の土地が、23.7%あった。しかし、1919年農業用適地の96.8%がミール共同体の社会的所有する農民地、0.5%がコルホーズ地、2.7%がソフホースと工業施設の土地になっていた。私的な資本主義農業経営をする富農(クラーク)もいなくなった。共同体所有の総割り替え制なので、土地革命前に約300万人いた貧農もいなくなった。食糧独裁令強行に当たって、レーニンが仕組んだ富農(クラーク)・中農・貧農という3分類法は、恣意的な詭弁レッテルであったことが、ソ連崩壊後、データとしても完全に証明された。

 

 〔第2期〕、貧農委員会創設と農民ソヴィエトからの権力簒奪

 

 土地革命農民は、〔第1要求〕没収した土地の共同体所有実現に続いて、〔第2要求〕穀物専売制の撤廃・穀物家畜の自由商業を提起していた。レーニンは、クーデター権力を維持するために、やむなく、エスエル政策を剽窃し、『土地に関する布告』において、「没収した土地の共同体内分配」を認めていた。農民は、レーニンが〔第1要求〕を認めた限りにおいてのみ、クーデター政府を支持していた。しかし、レーニンは、土地革命農民の〔第2要求〕拒絶し続けた。そのため、飢餓がますます深刻化した。

 

 クーデター権力と80%・9000万農民との〔第1要求〕表面的合意・支持、かつ、〔第2要求〕対立という二面的な「平和」関係が、6カ月間続いた。これは、「社会主義支持の労農同盟が成立」というレベルではない。ところが、その関係を一方的に破って、農民にたいする内戦を仕掛けたのは、レーニンの側だった。1918年5月13日、クーデター政府の食糧独裁令は、二重の目的を持った。()、パン=飢餓の解決目的のため、農民から余剰穀物を全面収奪する。()、都市に続いて、農村における階級闘争を発生させ、80%・9000万農民、2000万農家を社会主義化する。この経過・内容については、『第3部』で詳述した。

 

    第3部『1918年5月、革命農民への食糧独裁令・第3次クーデター』

 

 その二重目的を遂行する作戦の一つが、貧農委員会である。このシステムは、食糧独裁令の第1段階だが、1918年12月、わずか7カ月間で崩壊した。崩壊の理由はいろいろあるが、ここでは4つを挙げる。

 

 〔崩壊理由1〕、土地革命により、富農(クラーク)・中農・貧農という分類は、農村の現実としてなくなっていた。レーニン・スヴェルドロフ・トロツキーらの構想は、存在しない貧農を決起させ、これまたいなくなった富農(クラーク)を打倒するという理論だった。その農村における階級闘争によって、農村を社会主義化するという机上の空論レベルだった。このような架空の存在に基づく空想的社会主義理論と実践が成功するはずもなかった。

 

 〔崩壊理由2〕、貧農がいなくなった土地革命農村・ミール共同体に、貧農委員会をでっち上げるには、どうしたらいいのか。それには、ボリシェヴィキ党員・労働者を都市からの落下傘武装部隊として、80%・9000万農民という大草原・耕地に降下させるしかなかった。彼らは、農業・農村・農民の実態に無知であるだけでなく、レーニンの誤ったプロレタリア独裁理論を刷り込まれ、プロレタリアートの絶対的優位性=小ブルとしての農民蔑視・敵視観を抱いていた。崩壊直前の11月までの6カ月間で、レーニンは、122000の貧農委員会を組織させた。それは、農村におけるクーデター政府の末端権力機関に転化した。しかし、農民・農業について無知で、農民蔑視の落下傘武装部隊が成功するはずもなかった。

 

 〔崩壊理由3〕、農村に降り立った貧農委員会メンバーは、それまでの農民ソヴィエト・村スホードの権限を制限し、剥奪した。その行動は、農村における新たな二重権力状態を発生させた。()富農(クラーク)にたいする貧農の階級闘争ではなく、()農民ソヴィエト・土地革命農民の共同体にたいし、でっち上げ貧農委員会が権力簒奪闘争をするという悲劇的な状況に陥った。80%・9000万土地革命農民は、レーニンが仕掛けた農民にたいする内戦開始犯罪にたいし、当然ながら抵抗し、反乱を起した。

 

 〔崩壊理由4〕、レーニンは、余剰穀物を持つ農民ということだけで、富農(クラーク)・中農・貧農という分別を指令した。それ以外の分別基準を一度も提起していない。余剰穀物とは、『第3部』で分析したように、共同体の土地革命農民が1年間に必要とする物である。貧農委員会は、レーニンの分類法に基づいて、80%・9000万農民の全員を、富農(クラーク)断定した。貧農委員会の行動は、土地革命農民にたいする余剰穀物全面収奪の内戦となった。それは、土地革命の収穫を剥奪する一種の反革命クーデターの性格を帯びた。レーニンの第3次クーデターの第1段階が崩壊するのは、必然だった。

 

 このような机上の空論や、その後に連続する農民・農業政策の誤りがまかり通った原因について、梶川伸一は次のように分析している。「農民の父」と呼ばれたМИ・カリーニンが一九二五年に述べているように、共産党の農民政策の一〇分の九はレーニンに負っていたとするならば、その誤りはレーニンに帰すべきであろうか。そうではない。これら乏しい農民観は一人レーニンだけでなく、このような瑕疵は都市プロレタリアを基盤としたボリシェヴィキ権力が広く共有していた。カバーノフは「ボリシェヴィキの悲劇は、ボリシェヴィキが農民を理解しなかったことにあった」と適切に表現した(『飢餓の革命』P.4)

 

 〔第3期〕、貧農委員会崩壊と農民ソヴィエト執行委員会の改変手口

 

 ロイ・メドヴェージェフ〔ロシア革命史の選択肢的方法〕として、指摘するように、1918年12月段階でも、レーニンは、本来なら、貧農委員会の全面崩壊実態を直視し、その路線の根本的な誤りに気付いて、「ネップ」選択に大転換することができた。それを選択する客観的条件もあった。飢餓の解決という経済的側面だけからなら、選択可能だったであろう。しかし、レーニンの政治目的は、空想的な「農村における階級闘争」路線であり、かつ、それはドイツ革命の勃発・成功という幻想に縛られていた。

 

 レーニンは、貧農委員会が崩壊しても、二重の目的を固執した。そして、目的達成をめざし、貧農委員会廃止に伴う第3次クーデター作戦の大転換を図った。それが、食糧独裁令の第2段階である。それは、2つの転換内容を伴った。

 

 第一、穀物軍事割当徴発方針への転換と徴発部隊の再編成・大量投入

 

 富農(クラーク)個々人からの余剰穀物徴発という非現実的なシステムをやめ、共同体・村スホードという組織に徴発量を割り当てた。富農(クラーク)がいない事実を認めざるを得ないので、徴発対象を中農全員=土地革命の80%・9000万農民全員に変更した。ロシア中央執行委員会は、「共同体への割り当て量が、余剰穀物の存在量である」と指令した。この思考スタイルは、食糧人民委員部が、都市・赤軍が必要とする穀物量を計算しそれが農村の共同体・村スホード内に存在していると推測・断定し共同体に割り当て軍事的暴力で徴発せよというものである。

 

 そして、余剰穀物徴発スタイルを、貧農委員会崩壊・廃止に伴い、都市から農村に投入する直接的軍事行動として遂行した。()赤軍を農村に大量投入する。()秘密政治警察チェーカー28万人を全員動員する。()食糧人民委員部の武装部隊も、引き続き、農村への「十字軍」として派遣する。これら3種類の武装部隊によって、余剰穀物を徴発し、飢餓を解決する。

 

 第二、農民ソヴィエト選挙を展開し、執行委員会のボリシェヴィキ独裁機関化

 

 1918年12月2日、全ロシア中央執行委員会は、農民ソヴィエトの選挙カムパニア(キャンペーン)を大々的に開始した。その方針により、貧農委員会と農民ソヴィエトという農村における二重権力をなくす。それは、貧農委員会崩壊・廃止により、農民ソヴィエトを丸ごとボリシェヴィキ独裁機関に転換することを目的とするものだった。

 

 従来の農民ソヴィエト執行委員会は、互選で、カデットを除く、すべての社会主義党派が入っていた。クーデター政府は、新しい選挙による農民ソヴィエトを、農村における一党独裁権力の末端国家権力機関にしようと企んだ。その目的に基づいて、全県・全郡選挙委員会の設置を命令した。

 

 その選挙委員会と崩壊した貧農委員会に次の指令を出した。()、農民ソヴィエト執行委員会をボリシェヴィキ党員で占拠する。()、その手口として、ボリシェヴィキ党員・都市派遣労働者による貧農委員会が、次期執行委員会の名簿を作成・提出する。()、その候補者名簿は、全員をコムニストにせよ。()、それ以外の者、他党派、クラーク、商人、投機人などを排除する。()、彼らが、執行委員に当選した場合は、チェーカーが彼らを逮捕し、執行委員会から排除する。

 

 122000の貧農委員会は、クーデター政府の指令を遂行した。崩壊・廃止貧農委員会のボリシェヴィキ党員・労働者メンバーは、そのまま、新しい農民ソヴィエトの執行委員に横滑りした。かくして、全他党派を含んでいた農民ソヴィエトからの権力簒奪=ボリシェヴィキ独裁機関化は、1919年初期に完成した。

 

 ボリシェヴィキ独裁機関に改変された新しい農民ソヴィエトは、赤軍・チェーカー・食糧人民委員部の食糧徴発武装部隊と一体となって、土地革命農民全員=中農全員を対象とする余剰穀物の軍事割当徴発を暴力で遂行した。80%・9000万農民は、総決起し、クーデター政府の食糧独裁令第2段階に抵抗・反乱で応えた。レーニンは、土地革命農民の抵抗・反乱にたいし、「クラーク反乱」とすり替えた。クラーク反乱とでっち上げておいて、それを反革命と断定した。「反革命のクラーク」、脱走兵士、兵役忌避者の全員逮捕・殺害・銃殺・捕獲を命令した。土地革命をした80%・9000万農民の反乱は、ソ連全土において、食糧独裁令の第1・第2段階を通じ、「ネップ」までの2年8カ月間続いた。その詳細データは、『第3部』、および、農民ファイルに載せた。

 

 

 6、労働者・兵士ソヴィエト執行委員会の党独裁機関化手口

 

 労働者ソヴィエト、兵士ソヴィエトは、1905年革命で誕生し、二月革命で再結成された。彼らは、レーニンによる十月クーデターを支持した。しかし、その関係は、飢餓の深刻化につれて変化した。1918年5月13日食糧独裁令・第3次クーデターを契機として、労働者・兵士たちも、ボリシェヴィキに顔をそむけ始めた

 

 労働者ストライキ、兵士反乱が頻発し始めた。それは、1918年6月、クーデター政府が、ロシア中央執行委員会、都市ソヴィエト執行委員会から他党派すべてを排除する第4次クーデターを起こした行為にたいし、激発するようになった。レーニンは、都市ソヴィエトからだけでなく、労働者ソヴィエト・兵士ソヴィエトからも他党派党員を排除し、ボリシェヴィキ独裁機関にしようと企んだ。その手口は、農民ソヴィエト選挙のやり方と同じである。

 

 このテーマについては、『第5部』『第6部』において検証する。

 

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 〔関連ファイル〕

   『見直し「レーニンがしたこと」−レーニン神話と真実1917年10月〜22年』ファイル多数

   第1部『1917年10月、レーニンによる十月・ソヴィエト権力簒奪第1次クーデター』

   第2部『1918年1月、憲法制定議会の武力解散・第2次クーデター』

   第3部『1918年5月、革命農民への食糧独裁令・第3次クーデター』

   第4部『1918年6月、他党派をソヴィエトから排除・第4次クーデター』

   第5部『1921年2月、革命労働者ストライキの弾圧・第5次クーデター』

   第5部2『1920年3月、トロツキー「労働の軍隊化」構想と党内論争』

   第6部『1921年3月、革命水兵の平和的要請鎮圧・第6次クーデター』

   第7部『1921年3月〜22年末、「ネップ」後での革命勢力弾圧継続・強化』

   第8部『1922年5月、知識人数万人追放「浄化」・第7次クーデター』

   第9部『1917年〜22年12月、レーニンの最高権力者5年2カ月間』

   第10部『「レーニンによる7連続クーデター」仮説の自己検証』