1917〜22年レーニンが最高権力者5年2カ月間でしたこと

「スターリンは悪いが、レーニンは正しい」説当否の検証

 

第9部、十月クーデター〜22年12月第2回脳梗塞発作

 

(宮地作成)

 〔目次〕

   1、神話と真実とを見分ける2つの視点−ウソ・詭弁と大量殺人

   2、レーニンのウソ・詭弁データとその検証

   3、ロシア革命勢力数十万人殺害データの総検証

   4、なぜだったのか?−大量殺人是認・命令遂行の論理構造

   5、ウソ・詭弁、大量殺人犯罪データから見たレーニンの人間性再考

 

 〔関連ファイル〕              健一MENUに戻る

   『見直し「レーニンがしたこと」−レーニン神話と真実1917年10月〜22年』ファイル多数

   第1部『1917年10月、レーニンによる十月・ソヴィエト権力簒奪第1次クーデター』

   第2部『1918年1月、憲法制定議会の武力解散・第2次クーデター』

   第3部『1918年5月、革命農民への食糧独裁令・第3次クーデター』

   第4部『1918年6月、他党派をソヴィエトから排除・第4次クーデター』

   第5部『1921年2月、革命労働者ストライキの弾圧・第5次クーデター』

   第5部2『1920年3月、トロツキー「労働の軍隊化」構想と党内論争』

   第6部『1921年3月、革命水兵の平和的要請鎮圧・第6次クーデター』

   第7部『1921年3月〜22年末、「ネップ」後での革命勢力弾圧継続・強化』

   第8部『1922年5月、知識人数万人追放「浄化」・第7次クーデター』

   第9部『1917年〜22年12月、レーニンの最高権力者5年2カ月間』

   第10部『「レーニンによる7連続クーデター」仮説の自己検証』

 

 1、神話と真実とを見分ける2つの視点−ウソ・詭弁と大量殺人

 

 神話真実とを見分けるといっても、何をその基準にするのかが難しい。従来、多くの研究者が、()レーニンの理論面から追及してきた。その主な出典は『レーニン全集』や公認ロシア革命史だった。その最も優れた業績の一つは、E・H・カー『ボリシェヴィキ革命・全3巻』であろう。ソ連崩壊後は、()具体的データに基づく実証的研究が主流になっている。その出典は、ソ連崩壊後に初めて発掘・公表された「レーニン秘密資料」6000点や膨大なアルヒーフ(公文書)などである。その研究者たちと研究内容は、『第1〜8部』で紹介してきた。

 

 東欧革命・ソ連崩壊の原因に関して、レーニンの理論面から解析する手法は、さらに探求すべき課題である。しかし、もう一つの側面として、ソ連崩壊後のデータに基づく実証的研究も重要である。そのデータとして何を選ぶのか。私は、レーニンが最高権力者5年2カ月間でしたことを、ソヴィエト権力簒奪7連続クーデターと規定した。その連続クーデターという違法・不法な行為をする上で、レーニンが、()さまざまなウソ・詭弁を使った事実が証明されてきた。それだけでなく、()秘密政治警察チェーカーを駆使して、ロシア革命勢力数十万人殺害してきたデータも判明した。

 

 よって、この『第9部』は、レーニン神話真実とを見分ける視点として、レーニンによる()ウソ・詭弁データと、()大量殺人犯罪データを総検証する。そのデータ・数値分析に絞る。これら2つこそ、レーニン神話を解体する上で、もっとも具体的でリアルな方法と考えるからである。ただ、以下に載せるデータは、『第1〜8部』において、個々に検証したものほとんどを、再録=総合した。総合によって、それら2つの全体像を浮き彫りにできる。

 

 なお、最高権力者5年2カ月間とは、1917年11月7日(旧暦10月25日)レーニンによる一党独裁狙いの十月クーデターから、1922年12月16日第2回動脈硬化症・脳梗塞発作までの期間を指す。それ以後、第3回発作までにおける党大会への手紙=「遺言」や数通の口述筆記がある。レーニン神話華やかなりし頃、それらの内容は、レヴィン『レーニン最後の闘争』として高く評価された。私もスターリンとの闘争開始宣言として何度も読んで、興奮した。しかし、ソ連崩壊後、レーニン神話が解体されてきた時点で見直すと、その意見・反省は、根本的な誤りにたいする自己検討を欠落させたレベルと判定する。よって、彼の最高権力者としての活動期間は、「遺言」や数通の口述筆記まででなく、第2回発作で終ったとみなす。

 

 エレーヌ・カレール=ダンコースは、ソ連崩壊後に発掘・公表された膨大なデータに基づく686頁の大著において、『レーニンとは何だったか』(藤原書店、2006年、原著1998年)と根源的な問い掛けをした。藤原書店が、その「序」全文をHPに載せている。この『第9部』への入口として、そのリンクをする。

 

    ダンコース『レーニンとは何だったか−序・全文』レーニン神話を解体

 

 

 2、レーニンのウソ・詭弁データとその検証

 

 〔小目次〕

   1、国家体制・民主主義をめぐるウソ・詭弁

   2、憲法制定議会の武力解散を正当化する4つの詭弁

   3、大量殺人犯罪レッテルのウソ・詭弁

   4、レーニンのウソ・詭弁における目的と手段の関係

   5、レーニンのウソ・詭弁を信奉し、宣伝した側の責任有無問題

 

 1、国家体制・民主主義をめぐるウソ・詭弁

 

 このテーマについては、さまざまなファイルで検証してきた。それらを再確認する。最大のウソ・詭弁は、()プロレタリア独裁国家成立のウソと、()労農同盟成立のウソである。これら2つのウソは犯罪的である。

 

 〔小目次〕

   1、プロレタリア独裁国家成立のウソ

   2、労農同盟成立のウソ

 

 1、プロレタリア独裁国家成立のウソ

 

 この根拠は、『第5部』において、詳細に検証した。21世紀になって、レーニンの主張どおりプロレタリア独裁国家が成立していたと弁護する人は、左翼でもほとんどいないと思われる。

 

 「プロレタリア独裁」概念の理論的内容については、大藪龍介富山大学教授が『マルクスカテゴリー事典』(青木書店、1998)において、担当執筆した「プロレタリアート独裁」項目がある。またはgoogle検索『プロレタリアート独裁』関連HPがある。

 

    大藪龍介『マルクスカテゴリー事典』プロレタリアート独裁理論(青木書店、1998)

    大藪龍介『国家と民主主義』レーニンのプロレタリアート独裁理論

    google検索『プロレタリアート独裁』

 

 そもそも、この概念に基づく国家体制は、人口の多数を占めるようになった、発達した資本主義国のプロレタリアートが、小ブルジョアとしての農民と同盟し、圧倒的な多数者となり、人口の絶対的少数者であるブルジョアジーにたいして「独裁」を執行するものである。「独裁」の具体的形態は、絶対的少数者ブルジョアジーから、言論出版の自由権を奪い、場合によってはその生存権も否定=殺害をすることである。

 

 レーニンが実際に行った「独裁」は、資本家・白衛軍だけでなく、ボリシェヴィキ一党独裁体制に反対・抵抗・反乱・批判する農民・労働者・兵士・聖職者・知識人などロシア革命勢力数十万人を殺すことが「プロレタリアート」には許されている、という「赤色テロル」だった。最高権力者レーニンが殺人権を与えていた「プロレタリアート」の実質は、革命労働者でなく、()党独裁ボリシェヴィキ党員約40万人と、()秘密政治警察チェーカー28万人だった。

 

 ヨーロッパの資本主義国共産党のすべてが、1970年代、ポルトガル共産党を筆頭として、その理論・実態全面的に否定し、明確な放棄宣言をした。その理由は3つある。()マルクス・レーニンの「プロレタリア独裁」理論そのものが誤りであった。かつ、()、レーニンが言明した「プロレタリア独裁国家」は成立していなかった。それはレーニンのウソだった。さらに、()、「プロレタリア独裁」という実態は、「ボリシェヴィキの党独裁」であり、ロシア革命勢力数十万人の大量殺人犯罪を伴った、とした。

 

 ソ連崩壊後、それは、レーニンのウソだったという2つの根拠が明白になった。ただし、彼が、下記の実態をプロレタリア独裁国家の成立と本当に確信していたのか、それとも、恣意的にウソをついたのか。それは、末尾で分析する彼の人間性との関係からよく検討する必要がある。

 

 〔根拠1〕、プロレタリアート数と人口比率から見たウソ

 

 プロレタリア独裁国家は、プロレタリアート数と人口比率から見ても、「十月革命」の最初から存在していなかった。当時のソ連人口が、1億1250万人だったとして、この結論をのべる。人口データの根拠は、80%・9000万農民という数値に基づく。農民9000万人÷80%=1億1250万人となる。この数値は、ソ連共産党データ・1917年12月憲法制定議会選挙の有権者総数9000万人とも相応する。(表1)の労働者数を出した出典は、『第5部』に載せた。1億1250万人中、プロレタリアート数が、300万人250万人220万人と減り続けた事実は、ほぼ証明されている。

 

(表1) ボリシェヴィキ支持労働者数とその人口比率

年月

労働者数

ボリシェヴィキ支持率

支持労働者数

支持労働者の人口比率

1917.11.

300万人

5060

150180万人

1.31.6

1918.48

250万人

40

120万人

1.1

1920

220万人

(0%以下)

66万人

0.6

 

 『第5部』労働者問題ファイルの検討期間は、1917年10月25日(新暦11月7日)から1921年2月末「ペトログラード労働者の大ストライキ」までである。その3年4カ月間において、存在した体制は、「プロレタリア独裁」の虚構(フィクション)看板を掲げた「党独裁」だった。

 

 ところが、いくつかのデータも、ソ連崩壊後に明らかになった。そこでは、ソ連プロレタリアートの60%から30%以下だけが、ボリシェヴィキ支持労働者であり、その人口比率が1%前後しかなかったことも判明してきた。しかも、その人口の1%前後は、ボリシェヴィキを支持していたとしても、その全員がレーニンの「プロレタリア独裁」理論の支持者とはかぎらない。その理論と体制を支持したのは、約40万人・人口の0.4%であるボリシェヴィキ党員だけだった。

 

 となると、人口の1%前後のボリシェヴィキ支持プロレタリアートが、国家暴力装置を独占しただけの国家体制を、はたして「プロレタリア独裁国家」だったと規定できるのかという、根本的疑惑が浮上する。疑惑どころか、それは、レーニンの明白なウソだった。

 

 〔根拠2〕、ソ連全土での労働者ストライキ、ペトログラードの全市的山猫ストと、レーニン・ジノヴィエフによる1万人逮捕・500人即時銃殺という実態から見たウソ

 

 『第5部』のソ連全土におけるストライキとその鎮圧データは、ソ連崩壊後、ニコラ・ヴェルトが初めて発掘・公表した。ペトログラードの全市的ストとその鎮圧手口・大量殺人犯罪については、クロンシュタット事件との関連で、ソ連崩壊前から判明していた。それら2つのデータが合体した実態は、何を暴露したのか。

 

 人口比率1%前後のボリシェヴィキ支持プロレタリアートは、ペトログラード労働者から分かるように、レーニンの十月クーデターの支持者だった。労働者全体300万人は、最大時でも人口比率で2.7%しかなかった。彼らが、第1次クーデター後の3年4カ月間において、『第5部』に載せたようなストライキによりレーニン・トロツキーの反労働者政策命がけで抵抗・抗議のストライキをした。「プロレタリア独裁国家」にたいするプロレタリアートの全国でのストライキ、革命の栄光拠点ペトログラードでの全市的ストライキという事実こそが、レーニンのウソを証明する決定的な根拠になる。

 

 『第5部2』に載せた1920年春2000企業「軍隊化」とソ連全土における労働者ストライキ激発、それにたいするレーニン・トロツキーらによる弾圧は何を示すのか。1921年「ネップ」後、ウクライナのドンバス大鉱工業地帯で実施された「労働の軍事規律化のさらなる強化」実態は、何を浮き彫りにしたのか。それらレーニン・トロツキーがしたことは、「すべての権力を労兵ソヴィエトへ」と決起した労働者ソヴィエト革命にたいし、ソヴィエト権力を簒奪しつくす反革命クーデターそのものだった。これらの実態を知っても、それでも「プロレタリア独裁国家は成立していた」となお強弁する左翼がいるだろうか。

 

 しかも、ニコラ・ヴェルトは、労働者ストライキ・鎮圧データの発掘・公表にあたって、『黒書』(P.94)で、その理由を次のようにのべた。ボリシェヴィキは、労働者の名において政権を獲得したのだが、弾圧のエピソードの中で新体制が最も注意深く隠蔽したのは、まさにその労働者に対して加えた暴力だった。E・H・カーでさえ、一件も発見できなかった。それら暴力データに関し、これほどの100%隠蔽度合は、レーニン自身が、「プロレタリア独裁国家の成立」がウソだったことを十分認識していた証拠ではないのか。

 

    第5部『1921年2月、革命労働者ストライキの弾圧・第5次クーデター』

    第5部2『1920年3月、トロツキー「労働の軍隊化」構想と党内論争』

 

 2、労農同盟成立のウソ

 

 この根拠についても、『第3部』において検証した。世界的に見ても、労農同盟成立というレーニンの主張がウソだったという事実を、膨大なアルヒーフ(公文書)に基づき、著書4冊で論証したのは、梶川伸一金沢大学教授だけであろう。

 

 ウソである最大の証拠の一つが、1918年4月29日全露執行委員会の議事録にあるレーニン・トロツキー・スヴェルドロフらボリシェヴィキ指導者たちの発言内容である。その14日後、5月13日から開始された食糧独裁令は、()飢餓の解決策であるだけでなく、()レーニンらによる80%・9000万の土地革命農民にたいする内戦開始決定だった。

 

 レーニンは、権力奪取クーデター前、「平和=戦争離脱・終結」を力説していた。それにより、ドイツとの戦争をまだ続けている臨時政府を批判するボリシェヴィキ支持率が急上昇した。1918年3月3日、ブレスト講和条約によって、第一次世界大戦からロシアだけが単独離脱した。それは、ロシア国民に「平和」と息継ぎをもたらした。

 

 1918年5月25日、いわゆる本格的な内戦勃発の契機が、チェコ軍団4.5万人の反乱であることは、確定された真実である。ただし、チェコ軍団は白衛軍とは異なる。それ以後、イギリス・フランス・アメリカ・日本による軍事干渉が本格化した。白衛軍も、それ以前の国境付近や辺境における小規模な行動から、大規模な軍隊活動に移行した。

 

 ところが、ソ連崩壊後、2人の研究者が、4月29日から数日間の「第4回全露中央執行委員会」の議事録を発掘・公表し、メドヴェージェフの新説を追認・検証した。2人とは、()ニコラ・ヴェルト『共産主義黒書』(原著1997年)と、()梶川伸一『飢餓の革命』(1997年)他3冊である。他時期を含め、ボリシェヴィキ指導者7人の発言を()にする。

 

(表2) 1918年4月29日、「農民・農村への内戦開始」発言と決定

月日

発言者

発言内容

出典

429

レーニン

レーニンは単刀直入に言った。「我々プロレタリアが地主と資本家を打倒することが問題になった時、小地主と小有産階級はたしかに我々の側にいた。しかしいまや我々の道は違う。小地主は組織を恐れ、規律を恐れている。これら小地主、小有産階級に対する容赦のない、断固たる戦いの時がきたのだ。

『黒書』P.74

429

トロツキー

我々の党は内戦のためにある。内戦とはパンのための戦いなのだ……内戦万歳!

『黒書』P.74

429

食糧人民委員

わたしは断言する。ここで問題になっているのは戦争なのだ。我々が穀物を入手できるのは銃によるのみだ。

『黒書』P.74

5

スヴェルドロフ

われわれは、村の問題にとり組まなければならない。農村に、敵対する二つの陣営を作り出し、貧農をクラークに向けて蜂起させる必要がある。もしを二つの陣営に割り、都市におけると同様に、に内戦の火をつけることができるならば、その時にはわれわれは、都市と同じ革命に、において成功することになるであろう。

ダンコース『ソ連邦の歴史1』新評論、1985年、P.154。梶川伸一『飢餓の革命』P.571

5月

ツュルーパ

モスクワの近くでさえ著しい貯蔵を持ち、飢えたモスクワにも、ペトログラードにも、そのほかの中央諸県にもそれらを引き渡さない農村ブルジョワジーに戦争を布告する以外の解決はない。

梶川伸一『飢餓の革命』P.571

5月

シリーフチェル

農民の九〇%が余剰を持ち、農村内「階級闘争」を適用する対象である。

『同上』P.571

21

ラデック

彼は一九一八年春のボリシェヴィキの政策、すなわちその後二年間にわたって行なわれた赤軍と白軍の戦いへとつながる軍事的対決の発展の数カ月前の政策について、次のように解明している。「一九一八年初めの我々の義務は単純だった。我々に必要なことは農民に次の二つの基本的なことを理解させることだった。国家は自らの必要のために穀物の一部に対して権利があるということ、そしてその権利を行使するための武力を持っているということである!」』(ラデック『ロシア革命の道』)

『黒書』P.74

 

 これら7人の「農民との内戦開始」発言中、上6人の発言時期は、4月29日から数日間の第4回全露中央執行委員会である。それは、チェコ軍団の反乱勃発の26日も前だった。4月29日の議事録は、内戦を誰が先に仕掛けたのかを、明白な歴史的事実とした。それこそ、土地革命農民にたいするレーニンの犯罪的な戦争再開政策だった。レーニン・トロツキー・スヴェルドロフこそが、全露中央執行委員会の決定に基づく、5月13日食糧独裁令の発令によって、80%・9000万農民にたいする穀物・家畜収奪の内戦を開始した事実が暴露・証明された。

 

 レーニンは、「土地・平和・パン」という公約を繰り返し発言してきた。1917年8月コルニーロフの反乱失敗後、ボリシェヴィキは、「平和=ドイツとの戦争終結」という全国民的要求を取り込んだ公約によって、支持率を急増させた。しかし、4月29日執行委員会は、ドイツとの戦争をやめてからわずか2カ月弱の後土地革命農民への戦争再開政策を決定した。レーニンらクーデター政権は、それによって、全国民的な「平和」要求にたいする犯罪的な裏切り路線に大転換した。その性質は土地革命にたいする反革命クーデターと規定できる。

 

 レーニン・政治局の目的は、2つあった。第一、食糧人民委員部を中央集権化し、食糧の武装徴発隊を十数万人も農村に派遣する。チェーカーと赤軍の暴力手段で、穀物・家畜を収奪する。それによって飢餓状態を克服することである。第二は、農村において、「貧農委員会」を組織し、「富農」にたいする階級闘争を起すことだった。それは、「ボリシェヴィキ側が、農村に内戦の火をつけることによって、80%・9000万農民を社会主義化する」という、レーニンの、自国民にたいする犯罪的で空想的な政策だった。

 

    第3部『1918年5月、革命農民への食糧独裁令・第3次クーデター』

 

 プロレタリア独裁国家は最初から成立していなかった。クーデター政府は、左翼エスエルとの連立3カ月間を除いて、党独裁国家だった。それと同じく、労農同盟も最初から成立していなかったというのが歴史的真実である。レーニンがこのような基本テーマに関するウソを創作し、全世界に宣伝したモチベーション(動機)は何なのか。

 

 2、憲法制定議会の武力解散を正当化する4つの詭弁

 

 憲法制定議会は、「全国民によって選挙される」―すなわち国民を等質の権利(参政権)の主体とみなし、その平等の権利の行使にもとづいて構成される。その選挙は、自由主義政党カデットを排除しない。レーニンにとって、そのような性質の議会は、本来必要でなかったし、むしろ24%少数派クーデター政府にとって有害無益ですらあった。だが、そう主張することは、これまでボリシェヴィキが制憲議会の早急な選挙を要求してきた事実と明らかに矛盾する。

 

 レーニンは、臨時政府を追い詰め、一党独裁狙いクーデターを成功させる条件・状況を作り出すために、全国民が支持していた憲法制定議会選挙を一時的戦術として活用した。彼にとって、それによる議会政権戦略でなく、単独権力奪取を秘めた目的とする戦術の一つにすぎなかった。単独武装蜂起・単独権力奪取クーデターによって、党独裁政権を樹立できた以上、天才的な蜂起の技術者レーニンは、詭弁的なものを含む次のいくつかの状況証拠を重ねて、その解散を正当化しようとした。レーニンの武力解散口実は、(表3)に載せた。

 

(表3) レーニンの正当化口実とその詭弁性

テーマ

レーニンの口実

その詭弁性 (中野徹三)

1、エスエルの候補者名簿と選挙人意志との不一致

エスエルが選挙後左右に分裂したため、選挙前の政党別名簿と、各党派に投じられた選挙人の意志との間には「形式上の一致さえない

エスエルの選挙後の左右両翼への分裂(一一月一九〜二八日、左翼エスエル党創立大会)が、全党派の選挙結果に表明された人民の意志の分布そのものを否認する十分な論拠となりえないことはレーニン自身も内心では承認せざるをえないはずである。

 

左翼エスエル創立大会の決議が語るように、分裂と抗争は選挙のはるか以前に生じており、かりに選挙前に公然たる分裂が惹起したとしても、それが両派の制憲議会選挙結果に多大の影響を及ぼしえたとはいえない(その場合でも右派はやはり、一一月の時点では圧倒的多数を占めたであろう)。

2、革命前と後とで階級勢力グループと名簿との原則的変化

選挙が開始された一一月一二日(武装蜂起の一八日後)には、人民の圧倒的多数はソヴェト革命の意義を完全には知りえなかった。革命はその後、一一〜一二月の間も進行し、現在なお終っていない。

 

したがって、ロシアの階級勢力のグループ分けは、一二月には一〇月なかばの制憲議会への政党別の候補者名簿のそれとは、原則的に変化している。

進行中の革命が階級の勢力分布を変えているので、一〇月の候補者名簿にもとづく選挙が民意を反映していないという説明も、武装蜂起によって成立したボリシェヴィキ党政府自身がこの名簿にもとづく選挙の実施を認め、実施した以上、万人を首肯せしめる論拠とはなりえない。

 

先に見たように、ペトログラートなど大都市の選挙結果が最初に判明した時点では、レーニンは外国記者に対して一時、革命の「勝利宣言」を発したのであって、その後全国的レベルでの敗北が明らかになり、ソヴェト政府の存立が否定される危険に直面したのちになって持ち出された「論拠」にすぎない。

3、「全権力を憲法制定議会へ」スローガンの性質

カデット=カレーヂン派の反革命蜂起に表現されるブルジョア・地主階級との階級闘争の新たな発展は、「この奴隷所有者の蜂起の容赦ない武力弾圧だけが、プロレタリア=農民革命を、実際に確保できる」ことを教えるものである。

 

労農革命の成果とソヴェト権力を考慮に入れない「全権力を憲法制定議会へ」というスローガンは、今は反革命のスローガンとなっている。

選挙の終了前までは、平和と土地についての二大政策だけでなく臨時労農政府そのものの適法性さえも、制憲議会の審議に委ねられると世界に宣明したのであるから、レーニンのこの立言はロシア人民に対する明白な食言とされてもやむをえないものである。

 

またカデット一派の反乱についても、たしかにペトログラートではボリシェヴィキに次いで第二位を占めたとはいえ、七〇七議席中一七議席しか占めえなかった同党が、制憲議会の結果を転覆しうるはずはありえない

4、革命の利益と憲法制定議会の形式的権利の関係

これらの事情を総合すれば、「プロレタリア=農民革命以前に、ブルジョアジーの支配のもとで作成された諸政党の名簿にしたがって召集された憲法制定議会は、一〇月二五日にブルジョアジーにたいして社会主義革命をはじめた勤労被搾取階級の意志と利益とに不可避的に衝突するようになる」。

 

そして、「この革命の利益が、憲法制定会議の形式的権利に優先することは、当然である」。

最後に、「革命の利益」の「憲法制定議会の形式的権利に対する優先」、つまりソヴェト民主主義のブルジョア民主主義に対する優越が再度強調される。

 

そして、ここに私たちが見るものは――本章の最初ですでにマルクスとエンゲルスの理論にも内在していたことを示したところの「二つの民主主義概念」のロシア的衝突である(多かれ少なかれそれは例外なくすべての革命と革命理論に伏在しているにせよ)。

 

 中野徹三は、レーニンが創作した4つの詭弁への批判に基づいて、次のように結論づけた(『社会主義像の転回』P.109〜111)。レーニンらボリシェヴィキは、彼らが考えた「人民の利益」の大義の前に、「人民の意志」を無視した。そしてこの背景には、プロレタリアートが総人口に占める比率が圧倒的に少なく、民主的選挙制度を持ったことのないロシアの歴史的現実がある。

 

 レーニンの胸中には、一〇月のロシアに始まった社会主義革命の炬火が、やがてドイツ・プロレタリアートの手に引き継がれるだろうという壮大な、だが悲劇的に根拠の乏しい幻想が燃えていた(「……ドイツ革命がやってこないならば、考えられるかぎりでたとえどんな急変がおころうとも、ともかくもわれわれは滅亡するだろうということ、これは絶対的な真理だからである」。一九一八年三月の第七回党大会での演説)。

 

 世界革命へのこの期待が生きている限り、十月革命の成果を葬り去るものと予想された制憲議会への権力移譲が問題外とされたのは、その限りで当然であった。

 

    第2部『1918年1月、憲法制定議会の武力解散・第2次クーデター』

 

 3、大量殺人犯罪レッテルのウソ・詭弁

 

 〔小目次〕

   1、殺人指令文書27通とレッテル

   2、食糧独裁令への反乱を起した革命農民数十万人殺害レッテルの検証

   3、ストライキをした革命労働者の大量逮捕・銃殺レッテルの検証

   4、クロンシュタット水兵・基地労働者14000人皆殺しレッテルの検証

   5、知識人数万人を追放・「浄化」したレッテルの検証

   6、ソヴィエト内他党派を逮捕・銃殺したレッテルの検証

 

(表4) 殺人指令文書27通とレッテル

 〔殺人指令文書〕27通は、それぞれ別ファイル〔小目次〕の文中に載せた。一方で、その通し番号を()にしておく。これらの指令を発したレーニンという大量殺人革命家人間性をどう考えたらいいのか。未発掘の殺人指令文書や殺人指令電報などが、まだ数百通あると言われている。それらを含めれば、『レーニン全集』の裏側として、『レーニン殺人指令選集』が編纂できるほどである。

 

対象

年月日

殺人指令文書

レッテル

発令者

殺害数

農民

18811

18820

18829

201019

21611

21612

21710

1暴動農民の絞首刑指令

2富農の人質指令

3クラーク鎮圧・没収措置の報告督促

4タンボフ県の農民反乱への鎮圧指令

5タンボフ農民への裁判なし射殺指令

6毒ガス使用とタンボフ農民絶滅命令

7、タンボフ県匪賊の人質公開処刑報告

暴動農民

富農

富農

クラーク反乱

クラーク反乱

クラーク反乱

クラーク反乱

レーニン

レーニン

レーニン

レーニン

レーニン

政治局

政治局

数十万

兵士

18830

8脱走兵銃殺命令

犯罪、腰抜

トロツキー

数十万

コサック

19121

201023

9コサックへの赤色テロル指令

10コサック解体・絶滅命令と絶滅報告

白衛軍加担

白衛軍加担

スヴェルドロフ

オルジョニキッゼ

数十万

労働者

18531

20129

11ストライキ労働者銃殺指令

12ストライキ労働者の大衆処刑電報

黄色い害虫

黄色い害虫

ジェルジンスキー

レーニン

数万

水兵

21228

13最後通牒、雉子のように撃ち殺す

白衛軍の豚

トロツキー

14000

チェコ

18525

14チェコ軍団への武装解除・銃殺命令

独断的行動

トロツキー

45000

聖職者

22319

15教会財産没収、聖職者銃殺指令

黒百人組

レーニン

数万

知識人

22529

226

2295

229

16知識人追放指令の秘密手紙

17反ソヴィエト知識人追放指令

18、知識人追放督促指令

19知識人掃討・浄化指令メモ

反ソヴィエト

反ソヴィエト

反ソヴィエト

浄化

レーニン

レーニン

ジェルジンスキー

レーニン

数万

他党派

171128

186

1889

1893

214

216

22515

20カデット党員逮捕の布告

21チェキスト党集会法令とレーニン指示

22銃殺とメンシェヴィキ追放指令

23、社会革命党員の即時逮捕電報命令

24メンシェヴィキ、エスエル逮捕銃殺命令

25社会革命党とメンシェヴィキ壊滅作戦

26銃殺刑の範囲拡大とテロル指令

反革命

武装反革命

動揺分子

白色テロル

反革命

反革命

反革命

レーニン他

チェキスト

レーニン

ペトロフスキー

レーニン

ウンシュリフト

レーニン

百数十万

171220

27チェーカー創設と組織、チェキスト

人民の敵

レーニン

総計

数十万

 

 知識人の数万人は、追放と強制収容所送りである。他党派の百数十万人は、労働者・農民と重複する人数を含む。ここには、1921・22年の餓死500万人、内ウクライナの餓死100万人を入れていない。それが、レーニンによる政策的餓死殺人をどれだけ含むのかについては、関係資料がまだ未発掘である。ランメルは政策的餓死殺人を250万人としている。レーニン、トロツキー、スヴェルドロフ、トハチェフスキー、フルンゼらが、コサックやタンボフ反乱農民、ウクライナのマフノ運動参加者にたいし、すべての穀物・家畜を没収し、大規模な餓死殺人政策を行ったことは、ソ連崩壊後のデータによって、かなり証明されてきた。

 

    『大飢饉での500万人餓死原因と反乱地方への250万人飢死殺人政策の手口』

 

 単純総計をすれば、レーニンの大量殺人数は、百数十万人になる。ただ、発掘されたデータから見て、最低数十万人を殺害したことは間違いない。餓死殺人250万人が事実だとして合わせれば、約300万人殺人になる。レーニンが、マルクス主義革命家であったことは事実である。しかし、27通の〔殺人指令文書〕を克明に検証すれば、レーニンは、反民主主義者、反人道主義者という大量殺人型革命家だったことが、浮き彫りになる。

 

    『レーニンの大量殺人総合データと殺人指令27通』大量殺人指令と報告書の全文

 

 しかも、殺人指令レッテルのすべては、レーニンらが恣意的にでっち上げた詭弁とウソだったことが、ソ連崩壊後に判明した。それらすべてに()共通するレッテルは、「反革命分子」「人民の敵」だった。「人民の敵」というレッテルは、スターリンが最初に使ったと思われていた。しかし、ソ連崩壊後、レーニンこそが、始めて使い、法律文言に入れさせた事実も証明された。レーニンは、連続クーデターに反対・批判するロシア革命勢力のそれぞれにたいし、()個別のレッテルを貼り付けた。レッテルの背景は、各ファイルに載せたので、以下は簡潔に書く。

 

 2、食糧独裁令への反乱を起した革命農民数十万人殺害レッテルの検証

 

 レーニンは、食糧独裁令強行に当たって、()土地革命農民を「富農」「クラーク」と規定した。()農民の抵抗にたいし「暴動」「クラーク反乱」というレッテルを貼った。レーニンの狙いは、飢餓の解決とともに、農村と80%・9000万農民の社会主義化だった。それは、レーニン・トロツキー側から仕掛けた農村・土地革命農民にたいする内戦開始だった。

 

 二月革命の1カ月後1917年3月から1918年5月、土地革命は、ロシア全土で勃発した。それは、貴族・地主の土地を没収し、ミール共同体の社会的所有にした。たしかに、その性質は、ツアーリ帝政の土地所有形態・ストルイピン土地改革にたいする革命であっても、社会主義的性格の革命と異なる。共同体の80%・9000万農民は、社会的所有内において、土地耕作権と穀物家畜処分権を手に入れた。彼ら全員が「中農」になった。結果として、「富農・貧農」ともいなくなった。その自力革命の成果・収穫物を、ボリシェヴィキの暴力で収奪する路線が食糧独裁令の本質だった。それは、土地革命にたいし、レーニンが強行した実質的な反革命クーデターとなった。

 

 土地革命農民・農村が、レーニンの反革命にたいし抵抗・反対するのは、当然の正しい行為である。レーニンは、それに「暴動」「クラーク反乱」というレッテルを貼り、下記データのように農民数十万を殺害した。

 

 農民・農村にたいする戦争再開犯罪を遂行するために、レーニンは恣意的に4項目の詭弁をでっち上げた。詳しくは、『第3部』において検証した。

 〔詭弁1〕、農民層にたいする観念的な階級分化論の持ち込み−富農(クラーク)・中農・貧農

 〔詭弁2〕、飢餓の原因を、富農の余剰穀物隠匿にすり替え

 〔詭弁3〕、農民反乱を、富農(クラーク=農村ブルジョアジー)反乱にすり替え

 〔詭弁4〕、クラーク反乱は反革命と断定。農民反乱と白衛軍を同列視し、「人民の敵」大量殺害を合法化・正当化

 

    『反革命クーデターにおけるレーニンの詭弁テクニックと犯罪性』4項目の詭弁内容

 

 3、ストライキをした革命労働者の大量逮捕・銃殺レッテルの検証

 

 レーニン・ジェルジンスキーは、ボリシェヴィキの反労働者政策に抵抗・ストライキをした労働者にたいし、「黄色い害虫」「人民の敵」というレッテルを貼った。そして、ストライキ労働者の大量逮捕・銃殺・強制収容所送りをした。1921年2月、ペトログラードの全市的な山猫ストライキにたいし、レーニン・ジノヴィエフは、ペトログラード労働者5000人を含め、ソ連全土で1万人を逮捕した。ストライキ指導者500人を即座に銃殺した。

 

 ストライキ要求の基本は、クロンシュタット水兵が15項目にまとめた。それらは、すべて正当で、ソヴィエト権力を擁護・復活させる要求だった。この15項目綱領は、レーニンによるソヴィエト権力簒奪クーデターの本質を浮き彫りにした。

 

    第5部『1921年2月、革命労働者ストライキの弾圧・第5次クーデター』

 

 4、クロンシュタット水兵・基地労働者14000人皆殺しレッテルの検証

 

 レーニンは、クロンシュタット事件を「白衛軍将軍の役割」と断定した。15項目の平和的要請を最初から拒絶し、「反革命の豚」「白衛軍の豚」というレッテルを貼り、皆殺しを指令した。彼らの要求を呑めば、レーニンのクーデター政権が崩壊することは確実になっていた。政権崩壊の危機に直面し、レーニンは、トロツキー・トハチェフスキーに鎮圧を命令した。

 

 革命の栄光拠点ソヴィエトであり、かつ、完全武装のバルチック艦隊赤軍水兵を、他の赤軍部隊で皆殺しにさせるために、レーニンは真っ赤なウソをつくしかなかった。クロンシュタット事件が、「白衛軍将軍の役割」どころか、白衛軍と何の関係もなかった事実は、ソ連崩壊前のドイッチャー、アヴリッチや、ソ連崩壊後の研究者たち全員が証明してきた。これは、ロシア革命史上、一つの事件における真っ赤なウソに基づく、最大規模の革命水兵・労働者14000人皆殺し犯罪だった。

 

    第6部『1921年3月、革命水兵の平和的要請鎮圧・第6次クーデター』

 

 5、知識人数万人を追放・「浄化」したレッテルの検証

 

 レーニンは、他党派知識人・共産党に協力しない知識人すべてに、「反ソヴィエト」というレッテルを貼った。1922年5月第1回脳梗塞発作の前後から、12月16日第2回発作で倒れるまで、知識人リスト作成・チェックなど先頭に立って、知識人追放を遂行した。彼とジェルジンスキーは、それを「作戦」と名付けた。レーニンは、その追放作戦を「浄化」と規定した。

 

 これは、1922年前半トロツキーに遂行させた聖職者の全員銃殺・教会破壊・教会財産没収行為と並んで、レーニンによる旧ロシア文化破壊の2連続文化大革命となった。ソ連崩壊後から見れば、()7連続クーデター指導をした知識人レーニンと、()「浄化」された知識人とで、どちらが「反ソヴィエト」知識人だったのか、という問いが生れる。

 

    第8部『1922年5月、知識人数万人追放「浄化」・第7次クーデター』

 

 6、ソヴィエト内他党派を逮捕・銃殺したレッテルの検証

 

 1918年6月14日、レーニンは、ソヴィエトから他党派を排除する決定をした。以後、メンシェヴィキ、エスエル、左翼エスエル党員と、他党派系知識人を逮捕・銃殺・強制収容所送り・追放にしてきた。

 

 それらの他党派は、ソヴィエト内の社会主義勢力であり、二月革命以来のロシア革命勢力である。他党派は、たしかに、レーニン批判、ボリシェヴィキの党独裁批判・抵抗をした。また、彼らは、レーニンによるソヴィエトからの他党派排除クーデターにたいし、ボリシェヴィキのクーデターにたいする武装抵抗を決議し、行動しようとしたこともあった。しかし、それらは「反革命」と異なる正当な批判・抵抗言動だった。

 

 レーニンは、その言動にたいし、「反革命」「武装反革命」というレッテルを使って、他党派の行為の性質をすり替えた。その詭弁によって、ソヴィエト革命勢力排除行為を正当化した。そして、ジェルジンスキー・チェーカーを駆使し、他党派幹部・党員を逮捕し、監獄に閉じ込めた。レーニンは、ウソ・詭弁の天才でもあった。その結果、彼は、20世紀世界で最初の党独裁・秘密政治警察国家完成させた。

 

    『カデット、エスエル、メンシェヴィキ、左翼エスエルの絶滅』〔殺人指令文書20〜26〕

 

 4、レーニンのウソ・詭弁における目的と手段の関係

 

 ソ連崩壊後、上記のデータから、レーニンが主張・宣伝した国家体制・民主主義の基本命題、個々の問題で貼り付けたレッテルは、ウソ・詭弁だったことが、ほぼ完璧に証明されてきた。ヨーロッパでは、もはや、それに反論する左翼もいない。もっとも、21世紀の世界において、東方の島国における不破哲三と党費納入日本共産党員28万人だけが、レーニン神話の呪縛から解放されていない。

 

 となると、レーニンとはだったのか、レーニンはなぜそんなウソ・詭弁をついたのかという根源的な疑問が湧き起こる。それを解きほぐす解答があるのか。一つの解釈として、彼の社会主義目的と手段の関係から検討してみる。それには、2つの見解がある。

 

 〔第1、目的と手段の乖離からくるウソ・詭弁という通説〕

 

 通常の社会主義目的・理念は、正義・平等・公平・博愛などである。それを実現する国家・社会を革命によって創り出す。その社会主義国家は、労働者・農民の要求をくみ上げ、資本主義の弊害から解放される。そこでの手段は目的にそい、目的から逸脱してはならない。レーニンは一党独裁狙いの単独武装蜂起クーデター前に、その目的・理念を語っていた。

 

 ところが、党独裁権力者レーニンが7連続クーデターでしたことは、「すべての権力をソヴィエトへ」「土地・平和・パン」という4公約を守らず、むしろ、4公約に反する全面的な裏切り路線・政策だった。それらの実態は、社会主義目的・理念に背反する手段を伴って、チェーカーの暴力で強行された。これは、まさに、社会主義目的と手段の乖離である。

 

 その乖離をどう解釈したらいいのか。レーニンを弁護する通説は以下である。レーニンは、一貫して、正義・平等・公平・博愛などの社会主義目的・理念を堅持していた偉大なマルクス主義革命家だった。しかし、「十月革命」後の国際国内情勢は、きびしく、熱望したドイツ革命も鎮圧された。戦時共産主義現実に直面し、4公約を次々と変更しなければならなくなった。革命権力を維持・強化するには、目的から逸脱した手段を採用し、党独裁・秘密政治警察国家をやむなく構築する道しかなかった。その公約違反の路線・政策を遂行するには、ウソ・詭弁という手段を、心ならずも頻発せざるをえなくなった。そんなレベルのことで、レーニンを全面否定するのは、ではないのか。()目的と手段の乖離、()革命家と政治家とのはざ間によるストレスはどんどん蓄積していった。

 

    山内昌之『革命家と政治家との間』レーニンの死によせて

 

 〔第2、目的と手段の一致による必然的なウソ・詭弁という逆説〕

 

 一方、ウソ・詭弁多用において、実は、レーニン型社会主義目的と手段とが一致していたとする逆説もある。彼の社会主義目的の本音は、マルクスの階級闘争理論から逸脱し、極端に偏った階級戦争理論だったという解釈である。その偏向・誤りについては、多くの研究者が、ソ連崩壊後に指摘している。ステファヌ・クルトワは、『共産主義黒書』(P.16)において、次の一例を挙げた。彼は、ニコラ・ヴェルトと並んで、この著書の中心研究者である。

 

 ロシアの歴史家で社会主義者だったセルゲイ・メリグノーフは一九二四年にベルリンで出版された『ロシアの赤色テロル』という本の中で、チェーカー(ソ連の政治警察)の初期の長官の一人だったラツィスが、一九一八年十一月一日に部下に与えた次のような指令を引用している。我々は特定の個人を相手に戦争をしているのではない。我々は階級としてのブルジョワジーを皆殺しにしているのだ。捜査の時、被告がソビエト当局に行動や口頭でどんなことをしたかを、書類や証拠物件で捜す必要はない。最初に質問することは、そいつがどの階級に属すのか、出身はなにか、どんな教育や訓練を受けたのか、職業は何かということだ。

 

 最初から、レーニンとその同志は、「階級戦争」の立場を明確にし、政治的・イデオロギー的敵、あるいは服従しない住民さえもと見なして扱い、容赦なく皆殺しにすべきだとした。ボリシェヴィキは自分たちの独裁政権に反対する者、抵抗する者を、たとえ彼らが受動的であっても、法律的にも肉体的にも抹殺することに決めた。それは彼らが政治的に対立する集団である時だけでなく、貴族、ブルジョワジー、インテリゲンツィア、教会、専門的職業(将校、憲兵等々)などの社会的集団であっても同様で、しばしば彼ら全員を虐殺したのだった。

 

 一九二〇年からは、「コサック解体〔ラスカザーチヴァニエ〕」がジェノサイドの定義に広く当てはめられるようになった。コサックの住民全体が、厳しく定められた地域に移されたあと、男は銃殺され、女、子供、老人は強制的に移住させられて、村は徹底的に破壊されるか、あるいは新しい非コサック系住民の住むところとなった。レーニンはコサックをフランス革命の時のヴァンデと同様に見なした。そして近代共産主義の「発明者」たるグラックス・バブーフが、一七九五年以後「ボピュリシッド」〔民衆虐殺〕と呼んだ処置を、彼らに適用しようとした。

 

 ステファヌ・クルトワが書いているコサック解体・皆殺しは、ロイ・メドヴェージェフも発掘・公表した事実と合致している。ラツィス、ジェルジンスキーやレーニンが強行した7連続クーデターは、「階級戦争」=敵と認定した国民を皆殺しにする路線に基づく行為である。そのような社会主義目的からは、ウソ・詭弁、大量殺人犯罪を含むあらゆる手段が正当化された。レーニンにおいて、()偏向し、誤った社会主義的階級戦争目的と、()それらの犯罪的手段は、乖離でなく、一致していた。トロツキーも明言している。「目的はあらゆる手段を正当化する」と。

 

 ソ連崩壊後に発掘・公表された「レーニン秘密資料」6000点や膨大なアルヒーフ(公文書)は、次のことを明らかにした。レーニン・トロツキーの目的とは、クルトワが規定するように、党独裁権力確立後も続ける犯罪的な「階級戦争」型社会主義だった。

 

 5、レーニンのウソ・詭弁を信奉し、宣伝した側の責任有無問題

 

 レーニン・スターリン時代、全世界の共産党・左翼がレーニンのウソ・詭弁信奉した。ウソ真実と思い込んで、国内・国外に大宣伝をした。1991年、ソ連崩壊は、レーニンがウソ・詭弁を多用していたことを、「レーニン秘密資料」6000点や膨大なアルヒーフ(公文書)発掘・公表を通じて暴露し、証明した。

 

 その結果、旧東欧・ソ連10カ国を含むヨーロッパ全域では、レーニン型前衛党5原則堅持政党は壊滅した。フランス共産党は、その内、2原則を放棄宣言し、ポルトガル共産党は1原則の放棄宣言をした。よって、2党は、もはや、完全なレーニン型前衛党と規定できない。その根底には、ヨーロッパの前衛党だけでなく、左翼・国民が、レーニンのウソ・詭弁を見抜き、レーニンの大量殺人犯罪データを真実と認識した過程がある。ポルトガル共産党以外は、すべての前衛党が、レーニンのウソ・詭弁を宣伝してきた誤りと責任を自己批判した。それらの共産党は、左翼勢力・国民とともに、レーニン理論を全面廃棄した。

 

    『コミンテルン型共産主義運動の現状』ヨーロッパでの終焉とアジアでの生き残り

 

 一方、東方の島国は、ヨーロッパからはるか遠くに離れ、そこには亡命者約300万人の内、一人も渡って来なかった。東欧・ソ連の生情報が届かなかった。さらに、宮本顕治による日本共産党の逆旋回クーデターは、ユーロ・ジャポネコミュニズムから、「スターリンは悪いが、レーニンは正しい」説に逆戻りさせた。その組織・党運営体質として、スターリン体質をそのまま隠蔽・堅持し続けた。不破哲三は、暴力革命理論を除いて、レーニン賛美を、著書90冊のほとんどで続けている。彼は、それを中国にまで出向いて、出前講演をしている。

 

    『不破哲三の宮本顕治批判』〔秘密報告〕日本共産党の逆旋回と4連続粛清事件

    山椒魚『不破哲三の資本論「研究」と中国「賛美」の老害ぶり』

 

 私も熱烈なレーニン信奉者だった。民青・共産党専従15年間、その宣伝の先頭に立ってきた。ウソ・詭弁真実と宣伝してきた責任がある。レーニンのウソ・詭弁を見抜く力は、どこから生れるのか。私の場合は、やはり党内闘争の個人的な体験が大きい。30歳→32歳→38歳と、3回も、党内において、職業革命家として、党内民主主義をめぐる闘争の先頭に立った。40歳からの2年間は、日本共産党との裁判をたたかった。その後、1989年から91年、東欧・ソ連10カ国とその前衛党のいっせい崩壊に出会った。それらの日本共産党体験と東欧・ソ連崩壊の原因解明問題とが連結した。

 

 それでも、私は、なぜ、東欧・ソ連10カ国とその前衛党が崩壊するまで、レーニンのウソ・詭弁を見抜けなかったのかと、自問自答をしている。一党独裁・完璧な情報統制社会だったからというだけで済ますことができるのか。共産党専従としての責任は、それによって免責されるのか。というのも、党内闘争をした片方で、極度に一面的な党勢拡大運動の成績追及・数字点検の先頭に立った。それにより、共産党地区常任委員・5つのブロック責任者(現在では5つの地区委員長)として、数多くの地区委員・細胞長・LCら未結集・離党に追い込み、支部をいくつか丸ごと崩壊させた経歴を持っているからである。

 

    『日本共産党との裁判・第1〜8部』27歳から40歳における共産党専従としての責任

 

 

 3、ロシア革命勢力数十万人殺害データの総検証

 

 ここでは、『第3〜8部』に載せた殺害数データのみを再掲載し、レーニンによる大量殺人犯罪を総検証する。ただ、7連続クーデターとの関係に絞るので、()コサック400万人への弾圧と数十万人殺害()聖職者数万人銃殺・信徒数万人殺害を除いたデータになる。

 

 〔小目次〕

   1、第3次クーデターと革命農民数十万人殺害データ

   2、第4次クーデターとソヴィエトから全他党派排除への批判・反対者逮捕・殺害データ

   3、第5次クーデターと革命労働者のストライキ弾圧と銃殺・殺人データ

   4、第6次クーデターと革命水兵・基地労働者14000人皆殺しデータ

   5、第7次クーデターと「反ソヴィエト」知識人の追放・「浄化」データ

   6、データに関する3つの見方考え方

     ()反革命への正しい対応、()革命につきものの犠牲、()大量殺人犯罪

 

 1、第3次クーデターと革命農民数十万人殺害データ

 

 80%・9000万農民は、1917年二月革命の翌月3月から、ロシア全土において、土地革命に総決起した。その自力革命の結果、ほとんどの土地は、ミール共同体の共同所有になった。彼らは、レーニンが、エスエル政策を剽窃し、共同所有を事後承認する限りにおいてのみ、ボリシェヴィキ独裁政権を支持した。しかし、レーニンらは、第1次クーデターの7カ月後=ブレスト条約による戦争離脱の2カ月後1918年5月13日、農民にたいする戦争再開という土地革命への反革命第3次クーデターを開始した。下記(表5)は、農民反乱がもっとも激しかった1920・21年だけのデータである。

 

(表5) 1920、21年の「反乱」農民の射殺・人質数

期間

地域

内容と規模

赤軍

出典

192021

ウクライナからドン川流域

マフノー農民軍5万人中、ドイツ占領軍、デニーキン、ウランゲリ白衛軍との戦争における死傷以外で、赤軍との戦闘で数万人死傷。192122年飢饉死亡者はウクライナだけで100万人(コサック絶滅指令のように、報復的穀物没収が原因かは不明。1919年コサックへの「赤色テロル」指令による殺戮、穀物完全没収でコサック身分農民440万人中、30万人から50万人が戦闘、殺戮、餓死により死亡)

対マフノー鎮圧部隊の歩兵・騎兵中、数万人死傷

『ロシア・ソ連を知る事典』

 

 

 

中野徹三『共産主義黒書を読む』

1920212

西シベリア5地方、8県、14

205、「反乱」農民5000人殺害、42人銃殺

207、「反乱」農民42人銃殺

211、アルタイ県で郷・村執行部1494人逮捕、市民5494人逮捕、家畜14000頭以上没収。

4万人の「反乱」農民中で、射殺・人質総計は不明

コムニスト80人殺害

『ボリシェヴィキ権力とロシア農民』

19208

チェリャビンスク県

兵役忌避者7340人のうち106人が監獄、194人が矯正収容所、134人が強制労働、1165人が執行猶予、5067人が罰金、18人が銃殺、656人がそのほかの判決。もちろん、捕獲部隊との戦闘で多数が犠牲。

『飢餓の革命』

P.16

192011

各地

反ユダヤ主義ポグロム(虐殺)4村で58人。他地域でも多数

『ボリシェヴィキ権力とロシア農民』

19208216

タンボフ県と他4

209、戦闘で600人犠牲者

2132010の党員・候補11521人が、6158人に半減

216、タンボフ「反乱」農民5万人中、『裁判なし射殺』『毒ガス使用』指令による殺害数は不明

219、モスクワの3収容所のタンボフ農民人質364

チフス、戦闘で毎週300人死亡。

『同上』

 

『レーニンの秘密・下』(P.158)

1920216

全土

36県が「反乱」農民と赤軍・チェーカー・食糧人民委員部との戦争状態になった

食糧人民委員部10万人以上死亡

1917年のロシア革命』

1921年だけ

全土

1921年兵役忌避・脱走兵の銃殺刑。1360237537944740541963657393829591761012211111121871921年計4337人銃殺。ヴォルコゴーノフ『国内戦の初期(1819)には銃殺者がはるかに多かった』『革命裁判で控訴権なし、判決は24時間以内に執行』

赤軍兵士171185人が、農民「反乱」との戦闘で死亡

ヴォルコゴーノフ

『トロツキー・上』(P.409

(赤軍死亡)1917年のロシア革命』

 

    第3部『1918年5月、革命農民への食糧独裁令・第3次クーデター』

 

 2、第4次クーデターとソヴィエトから全他党派排除への批判・反対者逮捕・殺害データ

 

 その犯罪的な〔11対応〕の内容を確認する。このデータは、ニコラ・ヴェルトが、膨大なアルヒーフ(公文書)から発掘し、『共産主義黒書』(P.76〜94)で公表した。それを、私が時系列的に編集し直し、抜粋・加筆をし、作戦番号を付けた。リチャード・パイプスが発掘したデータも加えた。以下の内容は、そこから逮捕・殺害データだけを抜粋した。第4次クーデター前後のレーニン・チェーカーの犯罪はほとんど知られていない。よって、この(表6)は、色太字を使う。

 

(表6) 4連続クーデターへの批判・反対運動と弾圧・逮捕・銃殺

都市・地域

弾圧者・機関

内容

黒書

1

5〜6月、ソ連全土

レーニン、チェーカー

社会主義的反対派の新聞205を完全な発行禁止

P.5

2

5〜6月、多数派となった11のソヴィエトは、カルーガ、トヴェーリ、ヤロスラヴリ、リャザン、コストロマ、カザン、サラートフ、ペンザ、タンボフ、ヴォロネジ、オリョール、ヴォログダ

チェーカー分遣隊

メンシェヴィキや左翼エスエルが多数派となった11のソヴィエトチェーカー分遣隊が武力解散

P.76

3

反対派が選挙で勝って、新しいソヴィエトが作られた

チェーカー分遣隊。

クーデター政府

選挙で勝利した反対派を「戒厳令」を出し、反対派を逮捕。政府は、()メンシェヴィキとエスエル、左翼エスエルがソヴエト選挙に出る資格を取り上げ()望まれる多数をボリシェヴィキが得られるまで選挙を繰り返し行った

P.76

4

5月31日、反対派が勝利した町トヴェーリ

ジェルジンスキーは、自分が信頼するチェーカーのエイドゥークを全権として派遣

指令「メンシェヴィキやエスエルやその他反革命の畜生どもに影響された労働者たちは、ストライキを行い、社会主義めいた政府の創設に賛成を表明した。君はすべての市にポスターを貼って、ソヴィエト権力にたいして陰謀を企てるあらゆる匪賊、盗賊、投機家、反革命家はチェーカーによってただちに銃殺されると声明すべきだ。人を黙らせるには一発ぶっぱなすのがいちばん有効だとよく知っている連中を使うことだ

P.76

5

5月後半から6月、勝利政党への弾圧・排除抗議して、多くの工業都市で、労働者のデモ・ストライキが発生。ソルモヴォ、ヤロスラヴリ、トゥーラや、ウラルの工業都市ニジニータギール、ベロレック、ズラトウスト、エカチェリンブルグなど。

 

エカチェリンブルグ近郊のベレゾフスキー工場

各土地のチェーカー

 

 

 

 

 

 

 

ボリシェヴィキ赤衛隊、チェーカー

労働者の食糧要求デモ、集会にたいして、チェーカーは、発砲し、銃殺した。ペトログラード近郊のコルピノにおけるデモにたいして、チェーカー分遣隊長が発砲を命じ、10人を射殺

 

 

 

労働者が「ボリシェヴィキの委員たち」が、町でいちばんいい家の占拠をしていることと、150ルーブルを横領したことにたいして抗議集会を開いた。それにたいして、ボリシェヴィキ赤衛隊は、労働者15人を殺害。翌日、地区当局は、この工業都市に「戒厳令」を宣告し、土地のチェーカーは、即座に14人を銃殺

P.76

6

6月8日

第1回全ロシア・チェーカー会議。ジェルジンスキーが招集し、11日まで開催

43地区、約12000人の代表100人が出席。チェーカーのメンバー数は、1918年末に4万人、1921年初めには28万人以上に増加

チェーカー情報部・課の疑わしい者のリスト作成義務対象には、労働組合と労働者委員会を含めていた。

P.77

7

5月〜6月20日前、ペトログラード、労働者ストライキ・集会・デモ

 彼らの主力は、1917年とそれ以前において、最も熱烈にボリシェヴィキを支持していた金属労働者

当局、ペトログラード・チェーカー

ペトログラード・チェーカーは、この期間に、ストライキ、反ボリシェヴィキ集会、デモなど70の事件を報告。

彼らのストライキにたいして当局は国営化された大工場をロックアウトすることで応えた。このやり方は、その後何カ月かの間、労働者の抵抗を打ち破る常套手段となった。

P.78

8

6月14日

レーニン

ソヴィエトの全露執行委員会から「メンシェヴィキ、エスエルと、左翼エスエルの排除」を強行。レーニンによる第4次クーデター

P.75

P.76

9

6月20日、ペトログラードで、ヴォロダルスキー暗殺。このような労働者ストライキ弾圧状況の中で、ペトログラード・ソヴィエトのボリシェヴィキ指導者V・ヴォロダルスキーが、エスエル活動家によって暗殺。それは、労働者ストライキへの弾圧・逮捕・銃殺という赤色テロルにたいする労働者側の報復だった。

レーニンは、ペトログラード・ソヴィエトとチェーカーに指令

レーニンは、ペトログラード・ソヴィエトとチェーカーにたいし、数百倍の赤色テロル報復を指令。暗殺後の2日間で、当局は、「首謀者」800人以上を逮捕。7月2日までさらに大量逮捕の報復

P.7

10

6月14日後〜7月、ペトログラードの労働者全権代表組織結成

 

 労働者は自分たち自身の労働者全権代表組織を作ることにより、これらの手段に対抗しようと試みた。

ペトログラード・ソヴィエト。ペトログラード・チェーカー

ペトログラード・ソヴィエトは、すでに、6月14日のレーニン指令により、ソヴィエト執行委員会からメンシェヴィキ、エスエルと左翼エスエルの排除を強行していた。レーニンは、これにより、政府機関だけでなく、地方行政区ソヴィエトの一党独裁化をも強引に完成。他党派排除で権力を簒奪し、ボリシェヴィキが私有化したペトログラード・ソヴィエトに対抗して、労働者メンシェヴィキが労働者全権会議を作った。当局は、それも解散させた。

 

この組織はまもなく弾圧され、その指導者たちは逮捕。このようにして、()ソヴエトの自立性、()労働者の彼ら自身の代表制機関への権利、そして、()多党制システムの残余といったものに終止符が打たれた。これらの処置は、1918年の6月と7月に実施され、一党独裁の基礎を仕上げた

P.78

 

(リチャード・パイプス『ロシア革命史』P.173)

11

7月2日、この大量逮捕・銃殺や労働者全権代表組織解散弾圧にたいして労働者側は、ゼネスト呼び掛けで応えた。左翼エスエル指導者マリア・スピリドーノヴァは、ペトログラードの主な工場をめぐって、大喝采をあびた。

ペトログラード・ソヴィエト。ペトログラード・チェーカー

このゼネストは、弾圧で失敗。ボリシェヴィキは、その直後に、彼女を含む左翼エスエル指導者を逮捕

P.94

 

    第4部『1918年6月、他党派をソヴィエトから排除・第4次クーデター』

 

 3、第5次クーデターと革命労働者のストライキ弾圧と銃殺・殺人データ

 

 以下は、『第5部』データを()にしたものである。出典は、すべて『共産主義黒書』のページ数である。ただ、未判明分、未記載分が多くあり、数字に含めていない。レーニンが、どれだけのストライキ労働者を逮捕し、殺害したのかを検証する。

 

 E・H・カーは、『ボリシェヴィキ革命2』で、レーニンの労働者・産業政策を『第5部』のように、綿密に分析した。しかし、ソ連崩壊前では、ストライキの実態は「極秘」で、彼もそれを発掘できなかった。これらのデータは、ソ連崩壊後でも、なかなか発見されなかった。

 

 ニコラ・ヴェルトが初めて発掘し、公表した。なぜそれほど完璧なまでに隠蔽されていたのか。彼は、『黒書』(P.94)で、その理由を次のようにのべている。ボリシェヴィキは、労働者の名において政権を獲得したのだが、弾圧のエピソードの中で新体制が最も注意深く隠蔽したのは、まさにその労働者に対して加えた暴力だった。

 

(表7) 労働者ストライキと参加者の大量逮捕・処刑数

地方・都市

月日・内容

逮捕・処刑

出典

1917

ペトログラード

12、公務員ストライキ

「リーダー」逮捕

70

1918

モスクワ

ソ連全土

 

コルピノ

エカチェリンブルグ

7都市

ペトログラード

 

 

()支配地域

ヤロスロヴリ

ペルミ県

4.11、アナキスト襲撃

56、社会主義的反対派新聞

    反対派勝利のソヴィエト解散

56、労働者の食糧要求デモ

56、ベレゾフスキー工場の抗議集会

56、抗議集会、デモ、ストライキ

56、ストライキ、集会、デモ70

6.20、暗殺への「赤色テロル」

7.2、抗議のゼネスト呼び掛け

夏、大規模な「農民反乱」140

7.24、イジェフスク兵器労働者蜂起

11、モトヴィリハ武器工場ストライキ

逮捕520人、処刑25

新聞205を発行禁止

1930で敗北、12を解散

射殺10

殺害15人、銃殺14

流血の鎮圧

ロックアウト、指導者逮捕

逮捕800

弾圧、スピリドーノヴァ逮捕

 

処刑428

ロックアウト、全員解雇、逮捕、処刑100人以上

73

75

 

76

 

 

78

 

 

80

81

87

 

地方・都市

月日・内容

逮捕・処刑

出典

1919

ペトログラード

 

9都市

4都市

アストラハン

 

 

 

 

トゥーラ

 

3.10、全市の抵抗運動とストライキ

プチーロフ工場も党独裁批判の宣言

春、ストライキ

春、労働者街にある兵営の軍隊反乱

3.10、食糧配給量と社会主義活動家逮捕への抗議ストライキ、デモ。それへの発砲拒否の第45連隊の合流。クロンシュタット虐殺前のボリシェヴィキ権力による最大の労働者虐殺

冬、多くの武器製造工場であるトライキ

3月初め

3.27、何千という労働者と鉄道員の「自由を求め飢えと闘う行進」

全員解雇、逮捕900人、処刑200人、密告者網

ロックアウト、処刑、配給停止

何百とまとめて処刑

スト参加者と反乱兵士の銃殺・溺死処刑2000人から4000人。ブルジョア銃殺600人から1000人共産党側犠牲47

 

社会主義活動家逮捕数百人

「リーダー」逮捕、全労働者解雇、ロックアウト、配給券差押え、リーダー死刑20

94

 

95

 

96

 

 

 

 

96

 

地方・都市

月日・内容

逮捕・処刑

出典

1920

レーニン

 

プラウダ

 

 

労働人民委員部の公式統計

 

シンビルスク

 

 

エカチェリンブルグ

リャザン・ウラル線

モスクワ・クルスク線

ブリヤンスク

ソ連全土

2.1、「何千もの人間が死んでもかまわないが、国家は救われなければならない」

2.12、「これら有害な黄色い害虫であるストライキ参加者の絶好の場所は、強制収容所である」

20年前半、ロシアの大・中規模の工業経営の77%であるトライキ。「労働の軍事規律化」が最も進んだ金属工業、鉱山、鉄道が中心

4、武器工場で「イタリア・ストライキ型サボタージュ」=許可なし休憩、日曜強制労働に抗議、共産主義者の特権批判、低給与告発

「労働の軍事規律化」への抗議ストライキ

4、鉄道員

5、鉄道員

6、金属工場

「労働の軍事規律化」によるストライキの例は、さらに何倍もある

 

 

 

 

 

 

 

 

収容所送り12

 

 

逮捕・収容所送り80

有罪100

有罪160

有罪152

それへの弾圧も何倍もある

98

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

99

 

    第5部『1921年2月、革命労働者ストライキの弾圧・第5次クーデター』

 

 4、第6次クーデターと革命水兵・基地労働者14000人皆殺しデータ

 

 この(表8)データは、あくまで判明分である。クロンシュタット事件については、レーニン、トロツキーの具体的皆殺し指令文書などを含め未発掘データがかなりある。彼らは、その証拠を隠滅・焼却した可能性もある。というのも、ヴォルコゴーノフは「レーニン秘密資料」6000点を調べたとき、スイス長期亡命時点の資金関係データやドイツ軍封印列車で帰国したときのデータが、明らかに、レーニンの直接指令の下で、秘密資料ファイルからも完全に抹殺されていた証拠があると、『レーニンの秘密』において証言しているからである。

 

(表8) クロンシュタット事件の死傷者・処刑数の判明分

項目

クロンシュタット水兵・労働者

政府軍

分類

人数

出典

分類

人数

出典

 

勢力

水兵

基地労働者

コトリン島他住民

10000

4000

41000

全文献

鎮圧司令官

攻撃軍、クルサントゥイ、ボリシェヴィキ党員軍など

トハチェフスキー

50000

全文献

 

死傷

死者

負傷者

フィンランドに脱出

  内帰国者

600〜数千

1000以上

8000

不明

アヴリッチと

『黒書』

死者

  内代議員

負傷者

入院

  内死亡

700

15

2500

4000

527以上

アヴリッチ

 

鎮圧後の処刑

銃殺

  内320

   321

   324

銃殺刑

強制収容所送り

ホモゴールイ収容所

  内溺殺・虐殺

ソロフキ収容所

  内虐殺

シベリア収容所

数百人

167

32

27

2103

6459

5000

3500

2000

全員

2514

アヴリッチと

『黒書』、ヴォルコゴーノフ

 

 

 

『聖地ソロフキの悲劇』

『黒書』

追放、バルト水兵と全海軍部隊

 

クロンシュタット・ソヴィエト

15000

 

 

 

ソヴィエト閉鎖、復活させず

アヴリッチ

 

 

イダ・メットとアヴリッチ

 

逮捕

社会主義活動家

メンシェヴィキ中央委員

  内国外追放

2000

全員

12

『黒書』

スターリン

生残り流刑者銃殺・虐殺

生残り全員

全文献、ヴォルコゴーノフ

 

    第6部『1921年3月、革命水兵の平和的要請鎮圧・第6次クーデター』

 

 5、第7次クーデターと「反ソヴィエト」知識人の追放・「浄化」データ

 

 レーニンの「浄化」クーデターを、スターリンが忠実に受け継ぎ、さらに規模・形態を拡張した。大量殺人犯罪面におけるレーニンとスターリンの連続性は、これによってほぼ完全に証明された。そのデータは『第7部』に載せた。

 

(表9) レーニン指令による肉体的排除「浄化」の判明数

方針

規模

出典

逮捕・国外追放

1922922日、第一次追放120

1922年秋、160

1922年末、300の人道主義者が、汽船に詰め込まれてヨーロッパのごみ捨て場へ送り出された。全体の人数は不明

『レーニンの秘密』

『われら』解説

 

『収容所群島』

逮捕・出国不許可、辺地強制移住

ウクライナの知識人

『われら』作者ザミャーチンは逮捕・出国不許可

『レーニンの秘密』

『われら』解説

出国許可

コサック約3万人、ドンコサック合唱団亡命。亡命者200万人+内戦犠牲者700万人、飢饉死亡者500万人

川端『ロシア』

総計

知識人肉体的排除3方針の総計数万人

具体的数字は不明。しかし、レーニンは「排除人数」報告を要求しているので、そのデータは「レーニン秘密資料」6000点の中にある筈

『レーニンの秘密』

 

    第8部『1922年5月、知識人数万人追放「浄化」・第7次クーデター』

 

 6、データに関する3つの見方考え方

   ()反革命への正しい対応、()革命につきものの犠牲、()大量殺人犯罪

 

 データの根拠となる事実関係・経過については、『第3〜8部』において検証した。この『第9部』における数値・データに関する見方考え方はいろいろある。公認のロシア革命史は、すべて()反革命への正しい対応だったとしていた。

 

 ただ、ソ連崩壊後、これらの数値・データが判明するにつれて、それをでっち上げとか、反共宣伝と切り捨てることができなくなった。そこからの見方や弁明が、()革命につきものの犠牲になった。その根底には、「スターリンは悪いが、レーニンは正しい」説への固執がある。もちろん、そのレーニン弁明者たちは、犠牲が数十万人規模だった事実を直視しようとしない。

 

 ()レーニンによる大量殺人犯罪という認識に大転換するには、抵抗感を持つ人が多い。東方の島国においてのみ、国際的になお多数残存するレーニン神話信奉者はなおさらである。私が熱烈なレーニン信奉者から、レーニンによる連続クーデター説、大量殺人犯罪説を真実と認識するまでには、()長期にわたる何度もの党内闘争体験、()日本共産党との裁判経緯、()かなりの時間と資料研究が必要だった。その転換経緯は、別ファイルに書いた。

 

 30歳での党内闘争と21日間の監禁査問体験、40歳から2年間にわたる日本共産党との裁判経緯、60歳からのこのHP開設に至るまでに、30年間という年月を必要とした。

 

    『「レーニンによる十月クーデター」説の検証』私のレーニン信奉者からの変遷経緯

 

 4、なぜだったのか?−大量殺人是認・命令遂行の論理構造

 

 2冊目の『共産主義黒書−コミンテルン・アジア篇』(恵雅堂出版、2006年、原著1997年)が出版された。その末尾に、ステファヌ・クルトワが「なぜだったのか?」(P.333〜367)を、2冊の総括として書いている。彼は、フランス国立科学研究センター・主任研究員で、共産主義の歴史の専門家である。その中で、なぜ、レーニンが、これほどの大量殺人犯罪を遂行したのかという論理構造分析した。ただ、長いので、この『第9部』への引用は、ごく一部にとどめる。彼は3つの論理を解析した。その前に、権力保持とテロルとの関係箇所(P.345)を引用する。私の判断で(番号)を付けた。

 

 〔小目次〕

   レーニンにおけるテロルの真の原動力

   〔論理1−国民二分の単純用語法〕

   〔論理2−敵の絶滅に向かうイデオロギー〕

   〔論理3−死刑執行者への教育法=他者の動物化〕

 

 レーニンにおけるテロルの真の原動力

 

 レーニンは、やがて、知識人にたいする軽蔑の時期から、殺害の時期へと移っていった。レーニンが最優先した目標は、できるだけ長く権力を握りつづけることだった。十週間がたって、パリ・コミューンの継続期間を超えるやいなや、レーニンは夢想しはじめ、権力保持の意志は倍加された。歴史の流れはその進路を変え、ボリシェヴィキが握ったロシア革命はそれまで未知の道に入り込んでいった。

 

 なぜ、()権力の保持が、()あらゆる手段の使用と、()最も初歩的な道徳原理の放棄とを正当化するほどまでに重要だったのだろうか。なぜなら、権力保持だけが、()レーニンに彼の思想の実行を、()「社会主義建設」を可能にしてくれたからである。この回答から、テロルの真の原動力が見えてくる。すなわちそれは、()レーニン主義イデオロギーと、()現実と完全にずれた教義を適用しようというまったくユートピア的な意志とであった。

 

 この点にかんして、次の問いを発することはきわめて正当であろう。そもそも、一九一四年より前の、とりわけ一九一七年以後のレーニン主義のなかに、いかなるマルクス主義的要素があったのだろうか? 確かにレーニンは、()階級闘争、()歴史の助産婦としての暴力、()歴史の意味をになう階級としてのプロレタリアートといった、いくつかのマルクス主義の初歩的概念のうえに彼の方法を基礎づけてはいた。

 

 しかし、早くも一九〇二年には、『なにをなすべきか』というかの有名な書物のなかで、ほとんど軍隊的といえる規律をもつ非公然構造の形に結集した職業革命家からなる革命政党という新たな構想を提起している。レーニンは、ドイツ、イギリスの、あるいはフランスを含めてもいいが、大きな社会主義組織という考え方とはかけ離れたネチャーエフのモデルを採用し展開していたのだ。

 

    『ドストエフスキーと革命思想殺人事件の探求』ネチャーエフ事件と『悪霊』

 

 〔論理1−国民二分の単純用語法〕

 

 みずから戦時下にあると考えていたので、ボリシェヴィキは「敵の手先」「敵と通謀する住民」などなど、にかかわる一連の用語法をつくりあげた。戦争をモデルとしていたので、政治は、()かの関係と規定されるような、()あるいは「奴ら」にたいして、「われら」と名乗るような、単純きわまる用語法に還元されることになった。()政治は革命的陣営、反革命的陣営といった「陣営」−これまた軍隊的表現だが−に置き換えられる見方をともなっていた。()そして、各人は死刑に処される覚悟のうえで、みずからの陣営を選ぶよう求められた。百五十年に及ぶ個人的・民主的なブルジョワの努力をかき消すような、古めかしい段階への政治の重大な退行であった。

 

 敵をどのように定義すべきだろうか? 政治は二つの軍勢−ブルジョワジーとプロレタリアート−が相争う内戦へと還元されており、最も暴力的な手段を使ってでも、このうちの一方を絶滅することが必要とされていた。したがってとは、()ただ単に旧体制の人間・貴族・大ブルジョア・将校のみに限られることなく、()ボリシェヴィキの政策敵対し、「ブルジョワ」と呼ばれるいっさいの人間を含むものだった。ボリシェヴィキの精神から見て、()絶対権力の障害となるいっさいの人間と社会的カテゴリーを示すものが「敵」だった。ソビエトの選挙集会のような、テロルがまだ不在だったレベルの機関まで含め、この現象はただちに出現している。

 

 ()このというカテゴリーは、共産主義者の思想と実践の重要な一要素となった。(P.355)

 

    『ザミャーチン「われら」と1920・21年のレーニン』「われら」は神に、「われ」は悪魔に

 

 論理2−敵の絶滅に向かうイデオロギー

 

 本質的な問題が一つ残っている。なぜ「敵」を殺さなければならないのだろうか? 実際、政治の要諦がとりわけ友と敵を識別する点にあるというのは別段新しい現象ではない。すでに福音書が次のように断定していた。「私とともにいない者は私にそむく者である」と。新奇なのは、レーニンが()「私とともにいない者は私にそむく者である」としただけでなく、()「私にそむく者は死ぬべきである」と布告し、()またこの提案を政治の領域から全社会の場へと一般化したことである。

 

 テロルとともに、二重の転換に立ち会うことになった。()何よりもまずであり、()ついで犯罪者でもある敵対者は被排除者へと変貌をみた。()この排除からは、ほとんど機械的に絶滅という観念に行き着く。実際、友−敵という弁証法は今や、次のような全体主義の根本問題を解決するには不十分となったからである。すなわち、()純化され、非敵対的となった人類を追求すること、これこそ全体主義の根本問題である。このような企図が正当化するのは党と社会の強制的統一、ついで帝国の強制的統一という道程であり、()この進行は当然竣工図に載らない人々をとして廃棄する。

 

 やがて、()政治闘争の論理から排除の論理へと次第に移行し、(10)ついで、淘汰のイデオロギーへ、(11)最後にはすべての不純分子を絶滅させるイデオロギーへと向かうのである。(11)この論理の行き着くところ、人道にたいする犯罪がある。(12)指導者はその同類死に追いやる権利があると主張し、事実そうする「道徳的な力」をもっていた。(13)彼らの根本的な正当化の論理は常に同一で、科学に基づく必然性という点にあった。(P.357)

 

 論理3−死刑執行者への教育法=他者の動物化〕

 

 文字通りの死刑を執行するには教育学が必要とされる。隣人を殺すのはだれもがためらうことだが、そのためらいを抑止する最も有効な教育法は、またしても犠牲者の人間性を否認すること、前もって犠牲者を「非人間化する」ことである。アラン・ブロッサは正当にもこう論じている。「粛清の野蛮な儀式と絶滅機械をフル稼働させることは、迫害の言説と実践においては、他者動物化と、仮想上・現実上の動物状態に陥れることと切り離せない」。

 

 そして実際に、モスクワ大裁判の際、知識人であり法律家であり、まともな古典教育を受けた検事ヴィシンスキーは次のような言葉を使って、被告「動物化」のかぎりをつくした。「狂犬どもに火を! 人民大衆に野獣のような牙と猛禽のような歯を隠す、この一味に死を! 有毒なよだれをまき散らして、マルクス・レーニン主義の偉大な思想をけがす、禿鷹のようなトロッキーよ、消え失せろ! あのうそつき連中、あのペテン師ども、情けないほど無能な者たち、吠えまわるども、象にまとわりつく、彼らを武装解除せよ! (…)そうだ、おぞましいどもを打倒せよ! キッネとブタのけがらわしい雑種ども、悪臭ふんぷんたる悪党どもを片づけろ! 奴らのブタのようなぼやきを黙らせろ! わがソビエトの地の最良の人間を粉砕しようとする、資本主義の狂犬どもを絶滅せよ! わが党の指導者たちに向けられた奴らの野獣のような憎しみを、奴らの喉元へと突き返せ!」。

 

 しかしながら、一九五二年に「すべての反共産主義者はだ!」とあけすけに言い放ったのは、ジャン=ボール・サルトルではなかったろうか。

 

 それにスターリンがこの方法の発明者というわけではない。レーニンも、権力の掌握後、すべての敵のことを「害虫」だとか、「シラミ」だとか、「サソリ」だとか、「吸血鬼」などと決めつけていた。(P.359)

 

    第5部『1921年2月、革命労働者ストライキの弾圧・第5次クーデター』「黄色い害虫

    第6部『1921年3月、革命水兵の平和的要請鎮圧・第6次クーデター』「白衛軍の

    第8部『1922年5月、知識人数万人追放「浄化」・第7次クーデター』「ただのくそったれ」

 

 

 5、ウソ・詭弁、大量殺人犯罪データから見たレーニンの人間性再考

 

 〔小目次〕

   1、ザミャーチンが見た1920・21年におけるレーニンの人間性

   2、レーニンの人間性再考−21世紀から見た5つのレーニン像

 

 1、ザミャーチンが見た1920・21年におけるレーニンの人間性

 

 1920、21年において、レーニンがしたことと、その人間性をどう考えたらいいのか。ボリシェヴィキ党員作家ザミャーチンは、ゴーリキーとともに、ソ連文壇の中心で活動していた。その中で、彼は、ペトログラード労働者の山猫ストライキ、クロンシュタット事件とレーニンによる皆殺し対応、共産党秘密政治警察チェーカーの手口を全体験した。同時期・同現場で、その直接体験をSF小説化し、告発した作家は、ザミャーチンしかいない。ソ連崩壊後、彼のレーニン認識を再確認するとどうなるのか。

 

 レーニンは、自ら、「鉄の手で社会主義を建設しよう」というスローガンを創って、キャンペーンを展開した。1918年に作られたクーデター政権のポスターは、「鉄の手で、人類を幸福へ導こう!」というレーニンの言葉を掲げていた。上記全体の誤りと、全分野における民主主義抑圧者に変質した最高権力者レーニンの一側面は、歴史上でひた隠しにされ、偉大なマルクス主義者レーニンの虚像が作られていった。レーニンは、巨大な鉄の手をセットした絶対的権力者として、反民主主義・赤色テロル型一党独裁システム維持・強化に固執する中で、絶対的に腐敗した。

 

 ザミャーチンは、SF小説『われら』(岩波文庫)において、最高権力者「恩人」をレーニンそっくりに描写した上で、その「恩人」が「鉄の手」をもち、異端者処刑のレバーを押す情景を描いた。ザミャーチンは、「自分自身を押しつぶし、膝を折って」という言葉で、レーニンの腐敗状態を文学的に表現した。彼は、「その方の巨大な鉄の手」と書いて、レーニンのスローガンを否定しただけでなく、レーニンを殺人者と規定した。

 

 レーニンは、ボリシェヴィキのザミャーチンを、それにより逮捕させた。レーニン・スターリンは、彼を、ヨーロッパに出したら危険な人物とし、長期にわたって出国を拒否した。もちろん、彼の言論・出版の自由を全面的に剥奪し、作家生命を暴力で断ち切った。ソ連共産党と作家同盟は、彼の作品を絶版・廃棄にしただけでなく、ザミャーチンの名前さえもソ連文学史から完全抹殺した。

 

説明: http://www2s.biglobe.ne.jp/~mike/orwell.files/image004.jpg

『われら』 「恩人は、ソクラテスのように禿げた頭をもった男で、その

禿げた所に小さな汗のしずくがあった」「その方の巨大な鉄の手は、

自分自身を押しつぶし、膝を折ってしまっていた」「明日、彼ら(反逆

)は、みな恩人の処刑機械に至る階段を昇るであろう」(P.299)

(3DCGは、長男・宮地徹作成)

 

    『ザミャーチン「われら」と1920、21年のレーニン』「恩人」=レーニン

 

 2、レーニンの人間性再考−21世紀から見た5つのレーニン像

 

 21世紀に入った時点で、人間レーニン認識を見直すことも、改めて必要となろう。ソ連崩壊後に証明された事実は、いくつかある。その中で次の5つのレーニン像がほぼ明らかとなった。

 

 第一、社会主義革命を掲げた。しかし、彼がしたことの実態は、革命でなく、二月革命や諸ロシア革命が作ったソヴィエト権力を簒奪する7連続クーデターだった。彼が作り上げたのは、プロレタリア独裁国家でなく、「十月革命」の最初から、ボリシェヴィキの党独裁国家だった。彼の社会主義目的は、表向きに宣伝した自由・平等・博愛でなく、裏側に隠蔽した一党独裁権力保持階級戦争継続だった。知識人追放作戦で1922年に「浄化」された一人である哲学者ベルジャーエフは、その実体験から、レーニンを「権力のための権力者」と規定した。

 

 第二、さまざまなウソ・詭弁、ロシア革命史の偽造歪曲で世界欺いたマルクス主義者だった。とりわけ、「プロレタリア独裁国家が成立している」「社会主義支持の労農同盟が成立している」という演説・文献内容は、事実に反する最大のウソだった。彼は、党独裁権力保持目的のためなら、ウソ・詭弁という手段を多用できる天才的な二枚舌の持主だった。それは、ソ連崩壊後、ほぼ完璧なまでに証明された。クレムリンの奥深く隠蔽されてきた「レーニン秘密資料」6000点とその内容こそが、彼の二枚舌の片面を暴露・証明したからである。

 

 第三ボリシェヴィキ党独裁体制と誤った路線・政策に批判・抵抗したロシア革命勢力数十万人にたいし、「人民の敵」「反革命」という虚偽のレッテルを貼り付けるという極度に偏った一面的な階級闘争理論家だった。その偏向した理論に基づき、()憲法制定議会1日目武力解散と、()食糧独裁令・軍事割当徴発という内戦の2大原因を発生させた第2・第3クーデター指令者だった。レーニン・トロツキーらは、自ら作り出した内戦の原因・責任を覆い隠し、白衛軍との内戦だけで記述するというロシア革命史の偽造歪曲をした。

 

 第四、「人民の敵か、味方か」「奴らか、われらか」というボリシェヴィキ党独裁支持の有無だけを基準とした恣意的な国民二分思考を創作した。それは、マルクスの階級闘争理論を二重に歪曲したものだった。()党独裁権力は、階級闘争をエスカレートさせ、国内での階級戦争を続行するという犯罪的理論に捻じ曲げた。それだけでなく、()マルクスの階級概念を逸脱させ、党独裁支持の「われら」か、不支持・批判の「人民の敵」かという単純な国民分別理論にすり替えた。その二重に誤った理論に基づき、批判・抵抗勢力の生存権を剥奪する行為を正当化するプロレタリア独裁理論を遂行した大量殺人犯罪者だった。レーニンがしたことは、人道に反する前衛党犯罪だった。

 

 第五、秘密政治警察チェーカー28万人体制と強制収容所を作り、近代政党政治世界において、最初の「下水道システム」の創設者となった。憲法制定議会選挙で24.0%得票率→食糧独裁令・軍事割当徴発で10%前後の支持率に落ち込んだ少数派クーデター政権を維持するため、チェーカーの暴力システムのみに依拠し、ジェルジンスキーとともに、『収容所群島』の基礎を築いた。彼は、ホブズボームが言う「短い20世紀」(1914年〜1991年)において、秘密政治警察国家の創設者となった。

 

 このような彼の人格・人間性・革命倫理を、21世紀において、どう考えたらいいのか。

 

 ソ連崩壊後に出版された研究文献は、レーニンの人間性もさまざまな側面から分析した。山内昌之東大教授は、ヴォルコゴーノフ『レーニンの秘密・下』(NHK出版、原著1994年、P.377〜384)の解説として、レーニンの人間性について鋭い解析をした。

 

    山内昌之『革命家と政治家との間』レーニンの死によせて

 

 そこまで考えると、そのレーニン像に類似するキャラクターも、文学作品において、いくつか思い浮かぶ。)ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』における大審問官像)ザミャーチン『われら』の巨大な鉄の手を持った恩人像)オーウェル『1984年』における偉大な兄弟、B・B=Big Brotherら3人である。これは、レーニンと彼らとの人格的同一性に関する連想である。

 

 ただし、ドストエフスキーは、1980年における未来予測像である。ザミャーチンは、レーニンの実像そのものをSF小説形式でデフォルメ化した。オーウェルの場合は、スターリン像とモスクワ裁判システムを小説化した。大量殺人・粛清犯罪におけるレーニンとスターリンとの連続性・非連続性のテーマに関して、その規模・手口の違いが多々あるのが当然である。しかし、批判・抵抗をしたソヴィエト革命勢力の大量殺人・粛清を肯定し、遂行させる論理・思考と、その殺人指令の多発という面では、2人の連続性が基本である。よって、偉大な兄弟、B・B=Big Brotherのキャラクターや、それを具現化した秘密政治警察党員オブライエンの言動などから見て、レーニンとスターリンとは、ほぼ同じ人格・人間性を内蔵している。

 

    『ドストエフスキーと革命思想殺人事件の探求』『カラマーゾフの兄弟』における大審問官像

    『ザミャーチン「われら」と1920、21年のレーニン』巨大な鉄の手を持った恩人像

    『オーウェルにおける革命権力と共産党』『1984年』における偉大な兄弟、Big Brother

 

 オーウェルが『1984年』で描いたシーンは、スターリンの思想だけでなく、レーニン自身が初めから隠蔽・保持していたものと規定できよう。彼は、スペイン内戦で、ソ連共産党派遣NKVD2000人・スペイン共産党による「人間狩り」を体験し、政治の目的、権力の目的をスペイン、ソ連の現実から探求した。その結論を小説の終盤で、党内局党員・思想警察オブライエンに語らせる。

 

 「いったい、なぜわれわれは権力を望むのか。……答えはこうなのだ。党はもっぱら権力のために権力を追求するのだ。われわれは他人の利益には関心がない。つまり、ひたすら権力だけに関心があるのだ。富でも、ぜいたくでも、長生きでも、幸福でもない。ただ権力、純粋な権力にだ。――権力は手段ではない、目的なのだ」。これがオーウェルの「革命権力と共産党」認識の到達点だった。彼の洞察は、スターリンだけでなく、先導者レーニンの権力思想の本音を刺し貫いた。

 

 オーウェルは、人間のさまざまな欲望のなかでも、権力欲こそ、抑制のきかない、絶えざる強化を強制する欲望と位置づける。自己目的化した権力欲は、その強化、絶対的集中、独裁化しつつ、一方でその絶対的腐敗化を進行させる。その「権力のための権力」を遂行するオーガニズム(有機的組織体)は、絶対的服従という鉄の規律で固められた共産党だった。

 

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 〔関連ファイル〕

   『見直し「レーニンがしたこと」−レーニン神話と真実1917年10月〜22年』ファイル多数

   第1部『1917年10月、レーニンによる十月・ソヴィエト権力簒奪第1次クーデター』

   第2部『1918年1月、憲法制定議会の武力解散・第2次クーデター』

   第3部『1918年5月、革命農民への食糧独裁令・第3次クーデター』

   第4部『1918年6月、他党派をソヴィエトから排除・第4次クーデター』

   第5部『1921年2月、革命労働者ストライキの弾圧・第5次クーデター』

   第5部2『1920年3月、トロツキー「労働の軍隊化」構想と党内論争』

   第6部『1921年3月、革命水兵の平和的要請鎮圧・第6次クーデター』

   第7部『1921年3月〜22年末、「ネップ」後での革命勢力弾圧継続・強化』

   第8部『1922年5月、知識人数万人追放「浄化」・第7次クーデター』

   第9部『1917年〜22年12月、レーニンの最高権力者5年2カ月間』

   第10部『「レーニンによる7連続クーデター」仮説の自己検証』