1918年1月憲法制定議会の武力解散・第2次クーデター

「スターリンは悪いが、レーニンは正しい」説当否の検証

 

第2部、議会1日目での解散作戦と内戦第1原因形成

 

(宮地作成)

 〔目次〕

   1、一党独裁狙いのクーデターが惹き起した4つの直後問題

   2、憲法制定議会選挙にたいするレーニンの戦略・戦術の乖離・二枚舌

   3、選挙結果とレーニンの議会解散作戦への大転換・公約裏切り (表1、2)

   4、武力解散の正当化口実とその詭弁性 (表3)

   5、武力解散の性質−ソヴィエト権力簒奪第2次クーデター (表4)

   6、「レーニンによる十月クーデター」と規定した研究者たちへの疑問

   7、内戦の2大原因の一つとなった第2次クーデター

 

 〔関連ファイル〕             健一MENUに戻る

   『見直し「レーニンがしたこと」−レーニン神話と真実1917年10月〜22年』ファイル多数

   第1部『1917年10月、レーニンによる十月・ソヴィエト権力簒奪第1次クーデター』

   第2部『1918年1月、憲法制定議会の武力解散・第2次クーデター』

   第3部『1918年5月、革命農民への食糧独裁令・第3次クーデター』

   第4部『1918年6月、他党派をソヴィエトから排除・第4次クーデター』

   第5部『1921年2月、革命労働者ストライキの弾圧・第5次クーデター』

   第5部2『1920年3月、トロツキー「労働の軍隊化」構想と党内論争』

   第6部『1921年3月、革命水兵の平和的要請鎮圧・第6次クーデター』

   第7部『1921年3月〜22年末、「ネップ」後での革命勢力弾圧継続・強化』

   第8部『1922年5月、知識人数万人追放「浄化」・第7次クーデター』

   第9部『1917年〜22年12月、レーニンの最高権力者5年2カ月間』

   第10部『「レーニンによる7連続クーデター」仮説の自己検証』

 

 1、一党独裁狙いのクーデターが惹き起した4つの直後問題

 

 1917年10月24・25日(新暦11月7日)、レーニンは、一党独裁狙いの単独武装蜂起・単独権力奪取クーデターを成功させた。

 10月25日、第2回ソヴィエト大会において、レーニンは、単独権力奪取クーデター政権の事後承認を、エスエル・メンシェヴィキを含む代議員に要求した。トロツキーは、レーニンとの事前打ち合わせどおり、クーデター批判党派にたいし「歴史の屑かごに行け」という意図的な挑発演説をした。その結果、彼らを憤激させて、予定通り退場させた。

 

 第2回ソヴィエト大会開会時点の代議員総数は、大会アンケート委員会集計で12党派670人いた(長尾久『ロシア十月革命の研究』社会思想社、絶版、P.377)。ボリシェヴィキ・左翼エスエル以外の他党派のほとんどが、ソヴィエト権力簒奪の抜け駆けクーデターとトロツキー演説に挑発されて、退場した。クーデター事後承認の賛否をめぐる論争・大混乱で、残留代議員数と退場代議員数の比率がよく分からない。私(宮地)は気になって、いろいろな文献を調べたが、どの研究者も、その数値を調査・公表していない。

 

 そこで、私の推計をのべる。長尾久データにある他党派の名前・性格を検討しても、残留しそうな党派は見当たらなかった。ボリシェヴィキ代議員は300人いた。エスエル代議員は193人である。左翼エスエルの憲法制定議会選挙における議席実態数は40であり、エスエル全体410議席の10%だった。その比例数値から見れば、左翼エスエル代議員は、エスエル代議員全体193人の10%・19人と推定される。ボリシェヴィキ・左翼エスエルの残留代議員は、300+19≒319人である。残留数319÷670≒残留比率47.6%になる。

 

    塩川伸明HP『第2回全国労兵ソヴェト大会の構成』2種類の代議員数データ

 

 ただし、ボリシェヴィキ代議員300人という数字には、疑問符が付く。なぜなら300人とは、北部ソヴィエト大会の代議員と差し替えて、大会におけるボリシェヴィキ代議員の比率を高めるという不正な手口を使った結果の数字だったからである。それは、レーニン・トロツキーが、クーデター作戦の重要な一環として、クーデター決行前に企んだ第2回ソヴィエト大会乗っ取り作戦だった。その真相を、別ファイルの「6つのクーデター作戦の」として、リチャード・パイプスが、ソ連崩壊後に発掘し、初めて論証した。彼が発掘したデータは、信憑性が高い

 

    『十月クーデターの6つの作戦』作戦2・代議員選出ソヴィエト構成のすり替え計画

 

 残った代議員だけで、第2回ソヴィエト大会を名乗った決議・布告・革命政府樹立が決定された。他党派が退場する前には、何も決定されていない。となると、この第2回ソヴィエト大会そのものが、ソヴィエト大会として、()そもそも不成立だったと規定しうるのではないか。しかも、大会は、()不正な選出手口による代議員構成になっていた。()不正な選出手口と不成立のソヴィエト大会において、ボリシェヴィキ一党独裁のクーデター政府が、残留比率47.6%代議員の承認によって成立した。大会乗っ取り代議員選出作戦と残留比率という2つのデータを、ソ連崩壊後の現時点で、どう考えたらいいのか。

 

    『「レーニンによる十月クーデター」説の検証』10月10日〜25日の16日間

        革命か、それとも、一党独裁狙いのクーデター

    『1917年10月、レーニンがしたこと』

        大十月社会主義革命か、それとも、労兵ソヴィエト革命・農民革命

        と一時的に重なった一党独裁狙いの権力奪取クーデター

 

 レーニンは、『蜂起の技術』の延長で考え抜いた構想にしたがって、単独権力奪取直後における少数派クーデター政権の維持強化作戦を次々と遂行した。このファイルは、憲法制定議会選挙とその武力解散問題に絞る。よって、他の下記3問題は、そのテーマに関するファイル・リンクにとどめる。

 

 〔小目次〕

   110月26日、言論・出版の自由権剥奪

   2、10月27日、憲法制定議会選挙の実施を決定

   3、12月20日、秘密政治警察チェーカーの創設とその変質・拡大

   4、10月25日〜12月22日、政権構想−独裁か連立か

 

 110月26日、言論・出版の自由権剥奪

 

 レーニンのプロレタリア独裁理論が持つ基本内容の一つは、「ボリシェヴィキ革命」に反対・批判する勢力の諸権利を抑圧・剥奪する行為を正当化する。彼は、その信念に基づいて、クーデターの翌日、自由主義政党カデット機関紙『レーチ』とブルジョア新聞の封鎖を指令した。大藪龍介富山大学教授が、このテーマに関する詳細な分析をしている。

 

    大藪龍介『国家と民主主義』ソヴィエト民主主義の性格−出版の自由抑圧

 

 2、10月27日、憲法制定議会選挙の実施を決定

 

 私(宮地)は、憲法制定議会とその武力解散を、レーニンによる第2次クーデターと規定する。ロイ・メドヴェージェフは、ソ連崩壊後、膨大なアルヒーフ(公文書)を調査・研究し、この()武力解散問題が、()1918年5月食糧独裁令による軍事割当徴発と並ぶ内戦の2大原因の一つになったとした。そして、内戦の主要原因について、()外国軍事干渉・()白衛軍との戦闘という公認の説を否定した。以下、このファイルにおいて、第2次クーデターを検証する。

 

 3、12月20日、秘密政治警察チェーカーの創設とその変質・拡大

 

 フランス革命のジャコバンは、秘密政治警察の公安委員会を作り、「反革命」というレッテルを貼った者1万数千人をギロチン台に送った。レーニンは、スイス亡命中、フランス革命の敗北原因を徹底して研究した。その結論の一つとして、ロシアにおける一党独裁権力は、いかなる法律にも拘束されず、最高権力者直属の秘密政治警察を創設・拡大することが、革命権力を維持・強化する上で、絶対必要条件であると確信した。レーニンは、ボリシェヴィキ内部や左翼エスエルの反対を押し切って、チェーカーを創設し、28万人体制に拡大した。

 

 チェーカーが、赤色テロルを遂行した対象は、レーニン指令によって次第に変質した。()ツアーリ帝政支持者・貴族・地主()「かつぎ屋」「闇屋」など経済犯()少数派クーデター政権の誤った路線・政策に抵抗・反対するロシア革命勢力となった。レーニンは、チェーカーと赤軍を使って、ロシア革命勢力数十万人を殺害した。

 

    『「赤色テロル」型社会主義とレーニンが「殺した」自国民の推計』チェーカー創設・拡大

    ニコラ・ヴェルト『共産主義黒書』第2章・プロレタリア独裁の武装せる腕(かいな)

    スタインベルグ『ボリシェヴィキのテロルとジェルジンスキー』レーニン直属機関

    ヴォルコゴーノフ『テロルという名のギロチン』チェーカー創設・拡大

 

 4、10月25日〜12月22日、政権構想−独裁か連立か

 

 ソ連崩壊後に発表された、ほとんどの研究文献は、レーニンが1917年10月にしたことが、一党独裁狙いのクーデターだったことを論証した。当時、ボリシェヴィキ内部では、連立政権の意図を持つ幹部も多かった。また、ソヴィエト勢力内のクーデター批判・抗議により、12月22日、左翼エスエルとの連立政権になった。しかし、連立は3カ月間で終った。ソ連崩壊までの74年間、ソヴィエト社会主義共和国連邦とは、その短期間を除いて、「ソ連共産党が所有する一党独裁国家」だった。

 

    R・ダニエルズ『ロシア共産党党内闘争史』蜂起、連立か独裁か

    E・H・カー『1917年10月、レーニンがしたこと』鉄道従業員組合の抗議

 

 

 2、憲法制定議会選挙にたいするレーニンの戦略・戦術の乖離・二枚舌

 

 〔小目次〕

   1、一党独裁狙いクーデター前の戦術的公約

   2、クーデター成功直後におけるレーニンの公約

   3、レーニンの戦略的転換=戦術的公約破棄の二枚舌

 

 1、一党独裁狙いクーデター前の戦術的公約

 

 第1次・十月クーデター前に、レーニンが憲法制定議会選挙に関して公約した内容については、すべての文献が一致している。憲法制定議会選挙は、旧ロシア・ソ連において、20歳以上の全国民が投票権を持つ最初で、最後の選挙となった。

 

 1917年1月、レーニンは、まだスイスにいた。彼は、「憲法制定議会をただちに招集する」ことを要求した。

 

 1917年4月、レーニンは、「4月テーゼ」との関連で、「私は、臨時政府が口約束でごまかして、憲法制定議会の召集の早い日取りはさておき、全然その日取りを決めていないことを攻撃した。私は、労働者ソヴェトがなければ、憲法制定議会の召集は保障されないし、その成功は不可能だということを、論証した」(『レーニン全集』24巻、P.5)と記している。

 

 1917年4月、レーニンは、憲法制定議会を召集すべきか否かの質問に答えて、「召集すべきであり、しかもなるべく早く召集すべきである」とのべた(『レーニン全集』第24巻、P.83)

 

 中野徹三札幌学院大学教授は、『社会主義像の転回』(三一書房、1995年)第1部2章(P.89〜117)において、憲法制定議会とその武力解散問題について、詳細な研究を発表した。彼は、レーニンの戦略・戦術の乖離・二枚舌を分析した。その全文は別ファイルにある。以下は、クーデター前の戦術的公約についての中野徹三論文の要約・抜粋である。

 

    中野徹三『社会主義像の転回』制憲議会解散、一〇月革命は悲劇的なクーデター

 

 4月の記述内容から、この時期のレーニンの制憲議会に対する基本姿勢が、明らかになる。

 

 第一、レーニンは、ソヴェト共和国をプロレタリア独裁の唯一のあるべき国家形態として堅く想定していた。制憲議会をそれ自体として独立した革命の目標とはせず、むしろ制憲議会はソヴェト型国家への移行に際して時として障害ともなりうる、と考えていた事実である。なぜなら、「全人民によって自由に選挙された憲法制定議会」(一九〇三年の第二回党大会で採択された党綱領から)は、それ自身ブルジョア民主主義的議会であり、この議会が制定する憲法のもとでの国家もまた、議会制共和国になるのが自然だからである。

 

 第二、だがレーニンはこの時期に、臨時政府は制憲議会を召集できないだろうし、したがってボリシェヴィキは対外的には制憲議会の早期召集要求、という錦の御旗を掲げて臨時政府を攻撃することが可能と考えていた。

 

 第三、したがってレーニンは、まずソヴェトにおけるボリシェヴィキ主導の革命的多数派の形成を通じてのソヴェト権力の確立をする。次に、ソヴェト権力のもとでの制憲議会選挙と召集を通じての労働者・農民代表ソヴェト共和国の樹立、という道を、革命のもっとも望ましいコースとして展望していた、と考えられる。しかし、状況によっては制憲議会を通じないソヴェト共和国の樹立の可能性をも、彼が考慮に入れていたことは、四月テーゼと同時期に書いた「わが国の革命におけるプロレタリアートの任務」のなかの言葉から推測可能であろう。

 

 第四、にもかかわらず、レーニンとボリシェヴィキが制憲議会の早期召集を要求し続けたのは、革命的情勢の下の全人民による選挙は、労農大衆の革命的進歩を可能となしうること、また全人民の意志の適合的表現である憲法制定議会を通じての制憲議会だけが、地主・ブルジョア・軍部の反抗の口実を奪い取りうること、等を戦術的に考慮したためであった。その成功の保障は、「労働者・兵士・農民その他の代表ソヴェトの数をふやし、その力を強めること……労働者大衆を組織し武装させること(『レーニン全集』24巻、P.83)とされた。

 

 2、クーデター成功直後におけるレーニンの公約

 

 1917年12月25日、レーニンが起草し、第2回ソヴィエト大会が採択した特別声明は、「ソヴィエト権力は、適当な時期に憲法制定議会を召集することを保障する」とした(『レーニン全集』第26巻、P.247)

 

 1917年12月26日、『プラウダ』は、次のように書いた。「同志たちよ! あなた方の血で、ロシアの大地の主人である憲法制定議会を定刻に開催することを確実にした」。

 

 中野徹三は、上記著書において。次のように書いた(P.94)

 ボリシェヴィキとエス・エル左派だけが残った第二回ソヴェト大会は、翌二六日の早朝、権力掌握宣言を採択し、その日の夜の第二回会議では、レーニン自身が提案した「平和についての布告」と「土地についての布告」が採択される。

 

 注意すべき点は、レーニンは「平和についての布告」の提案に際しても、講和の条件や提案は、一一月二八日に開会が予定されている憲法制定議会の審議に委ねるとした(『レーニン全集』26巻、P.252)

 

 また「土地についての布告」でも、土地問題の最終的解決はやはり制憲議会を待つ(『同書』P.259)としていること、また大会が承認した労農政府(人民委員会議)も「憲法制定議会が召集されるまで」の「臨時労農政府」である、としていること(『同書』P.264)(「労農政府創設についての決定」)である。

 

 つまり、革命直後のレーニン公的には、憲法制定議会を全ロシア・ソヴェト大会をも超える国家権力の最高の源泉とみなしているよう、言明せねばならなかったのだ。この制憲議会の選挙日は二七日の労農政府の決定により、旧臨時政府が指定した期日通り一一月一二日に行なわれることとなった。

 

 3、レーニンの戦略的転換=戦術的公約破棄の二枚舌

 

 この点にかかわって、トロツキーはレーニンの死の直後に刊行した著作『レーニンについて』のなかで次のような重要な証言を残している(中野徹三著書P.95)

 

 「革命後の、最初の数時間ではないにせよ、最初の数日のうちに、レーニンは制憲議会の問題を議題にのせた。

 「選挙を延期せねばならない(とレーニンは提案した)。延期すべきである。選挙権は一八歳にまで拡大されねばならない。候補者名簿の更新も必要だ。われわれ自身の名簿も不適当だし、そのなかにはわれわれにへつらってやって来た知識人の一群も含まれている、だが私たちには、労働者と農民が必要なのだ。また、コルニーロフの仲間やカデットたちは、法の保護の外に置かれることを、宣言せねばならない。」

 

 この彼の発言には、次のような反対があった。

 「延期は今はまずい。制憲議会の清算と受け取られかねない。しかもわれわれ自身が制憲議会の延期のことで臨時政府を責めてきただけ、いっそうまずい。

 

 「それはささいなことだ!(とレーニンは言った)。大切なことは事実であって、言葉でない。臨時政府にとっては、制憲議会は一歩前進、あるいはそれ以上を意味していた。だがソヴェト権力にとっては、しかも現在の候補者名簿では、間違いなく一歩後退を意味する。選挙期日の延期が、なぜ不利になるというのか? そして制憲議会がカデット的・メンシェヴィキ的・エス・エル的になったら――それが有利だというのか?」

 

 「その時までにはわれわれはもっと強くなっているでしょう(と別の者が抗弁した)。今のところはまだ大へん弱体ですが。地方ではソヴェト権力のことはまったく知られていません。もし田舎に、私たちが制憲議会を延期したという知らせが拡まったなら、私たちの立場はいっそう弱いものになりましょう。(トロツキー『レーニンについて』P.87)

 

 トロツキーによれば、選挙の延期に特に強く反対したのは、他の者以上に地方の指導に当っていたスヴェルドロフだった。

 レーニンはただひとり自分の見解を固持していたが、不満そうに頭を振りながらくりかえしこう述べた、という。

 「誤り、しかもわれわれに大へん高くつきかねない明白な誤りだ! この誤りが、革命の命取りにならねばよいが……

 

 レーニンによる憲法制定議会選挙の延期主張と、スヴェルドロフの反対発言の事実については、他の研究文献も明記している。

 

 

 3、選挙結果とレーニンの議会解散作戦への大転換・公約裏切り

 

 〔小目次〕

   1、他党派の選挙運動と国民の投票行動

   2、選挙結果 (表1、2)

   3、レーニンは議会解散作戦に大転換・公約裏切り

 

 1、他党派の選挙運動と国民の投票行動

 

 カデット(立憲民主党)もエスエルもメンシェヴィキも、ボリシェヴィキ政権の短命を予想し、エスエルとメンシェヴィキは共に「全権力を憲法制定議会へ!」というスローガンを掲げて選挙戦に臨んだ。11月12日に始まった投票の結果が全国的に集計されるには一カ月以上を要した。12月初めでも400名以下だった。その時点では、首都ペトログラートでのボリシェヴィキ勝利が判明した。ボリシェヴィキ6議席、カデット4議席、エスエル2議席だった。

 

 リチャード・パイプスは、国民の投票行動について、次のようなデータを載せた(『ロシア革命史』成文社、原著1995年、P.168)

 選挙が、ペトログラードでは、十一月十二〜十四日に、国内の他の地域では、その月の後半に行われた。資格を有するのは、消滅した臨時政府が定めた基準によると、二十才以上の全ての男女市民であった。軍服を着た兵士には、投票年齢は十八才まで引き下げられた。人々の出足は見事であり、ペトログラードとモスクワでは、有権者の約七〇%が投票場に向い、農村地帯では、それが一〇〇%に達したところもあった。最も信頼のできる数字によると、四四四〇万人が投票した(『十月社会主義大革命・百科事典』P.549)

 

 十二月一日に、レーニンは、「もし、内戦との瀬戸ぎわにある階級闘争という状況から離れて、憲法制定会議をみれば、現在の時点では人民の意志をより完全に表現する機関は、他にないであろう」と、言明していた。

 投票の結果は正確には判定できない。非常に多くの政党が関係していたし、それらが多くの地域で選挙ブロックを組んでいたからである。ペトログラードでだけでも、十九の政党が競い合っていた。

 

 2、選挙結果 (表1,2)

 

 投票率は50%弱で、投票者4440万人である。ソ連共産党の『十月社会主義大革命・百科事典』は、有権者総数を9000万人としている。選挙方式は各党派別候補者名簿に基づく、完全比例代表制だった。全国平均の投票率に比べて、ペトログラードとモスクワなど大都市における投票率が約70%であれば、ボリシェヴィキにとって有利になるはずだった。しかし、全国結果は次の()になった。

 

 これは、全国79選挙区の内、65選挙区の結果である。その議席数・議席率データは、すべての研究文献が一致している。左翼エスエルの独自立候補者は4選挙区だけで、それ以外は、分裂前のエスエル立候補者名簿に入っていた。左翼エスエルの議席実数は、(40議席)になった。()得票率については、文献によって若干異なる。()議席数はすべての文献が一致している。()得票数については、リチャード・パイプス著書(P.168)の数値を載せた。得票数空白の政党は、4440×得票率≒その政党の得票数が出る。

 

(表1) 得票率・議席数・得票数

政党・党派

得票率

議席数

得票数(万票)

エスエル

40.4

410

1790

ボリシェヴィキ

24.0

175

1060

カデット

4.7

17

210

メンシェヴィキ

2.6

16

左翼エスエル

3.8

(40)

民族政党

28.3

83

3

合計

100.0

707

4440

 

(表2) 他の選挙結果データ

政党・党派

得票率()

得票数

出典

ボリシェヴィキ 兵士・水兵

          67都市

40.9

36.5

倉持俊一『ソ連現代史』(山川出版社、P.248)

エスエル 兵士・水兵

40.8

同上

(民族政党の内)

ウクライナのエスエル

340万票

パイプス同著、P.169

グルジアのメンシェヴィキ

66.2万票で首位

同上

 

 倉持俊一データのように、ボリシェヴィキは、兵士・水兵内と67都市における得票率が高い。それは、一方、80%・9000万農民における得票率が20%以下だったことを示している。農民のボリシェヴィキ支持率は、レーニンが1918年5月13日に指令した食糧独裁令・軍事割当徴発にたいする農民の反発・抵抗・反乱によって、5月以後は10%前後に激減したと思われる。

 

 ロイ・メドヴェージェフは、『一〇月革命』(未来社、P.208〜230、原著1977年)というソ連崩壊前の著書において、「1918年の困難な春−大衆がボリシェヴィキから顔をそむける」状況を分析し、レーニンの誤った路線を批判した。そして、それによるボリシェヴィキ支持率の激減を示唆した。『1917年のロシア革命』においても、詳細に分析した。

 

    ロイ・メドヴェージェフ『1917年のロシア革命』食糧独裁令の誤り

 

 3、レーニンは議会解散作戦に大転換・公約裏切り

 

 1、レーニンの真意と、狡猾で巧妙な計画

 

 ロバート・サーヴィスは、このテーマに関し、『レーニン・下』(岩波書店、P.107、原著2000年)において、次のように分析した。

 

 レーニンの(議会解散)提案はボリシェヴィキの間で反論なしに認められた。彼は十月革命の最初の日から、憲法制定議会の選挙に党は勝てないであろうと考えて、選挙を延期するように提案していたが、党はそれを拒否した。しかし、ボリシェヴィキは投票総数の四分の一しか獲得できず、彼の予言が正しかったことが証明された。

 

 すると、意見の風潮は選挙結果を無視しようという方向に変っていった。全社会主義政党の連立政権を望んでいたボリシェヴィキでさえもが、それに賛成であった。左翼社会革命党についても同じことが言えた。こうしてレーニンは、憲法制定議会が一九一八年一月にペトログラードで開会された後で、それを解散させるということでソヴナルコム(人民委員会議)の合意を確保できた。

 

 ボリシェヴィキと左翼社会革命党は、憲法制定議会選挙によってロシアとヨーロッパの革命的転換を危険にさらすつもりはなかった。ボリシェヴィキも左翼社会革命党も、選挙手続きというものを根本的に信奉するという立場に立っておらず、いったん掌握した権力を捨てる意図はなかった。彼らは先ず革命家であり、民主主義が革命の大義を強めるという限りでの民主主義者であった。

 

 レーニンの計画は、狡猾なまでに巧妙であった。()、当選した議員はタヴリード宮殿に集まることになる。()、そこでソヴナルコム(人民委員会議=閣僚会議)の代表者たちは、議会の最大政党・社会革命党(エスエル)が、ソヴナルコムの布告した基本政策とソヴイエトを基礎とした政府の形態を承認することを要求する。()、もし憲法制定議会がそれを拒否すれば、()、翌日、議員は議場から閉め出されるというのである。()、この計画の利点は、流血はほとんどなさそうな点にあった。

 

 2、憲法制定議会の武力解散までの作戦経過

 

 以下、レーニン・ボリシェヴィキが、憲法制定議会を武力解散させた作戦経過については、すべての研究文献が一致している。

 

 1917年12月12日、レーニンは、有名な「憲法制定議会についてのテーゼ」を執筆した。テーゼは制憲議会のボリシェヴィキ議員団によって確認された。

 

 12月20日、クーデター政府は400名の定数に達するという条件付きで、翌1918年1月5日に制憲議会を召集することを布告した。

 

 1918年1月初め、レーニンは、全ロシア・ソヴェト中央執行委員会の名で制憲議会に提案する「勤労被搾取人民の権利の宣言」案を起草した。

 

 1月3日、この宣言案は、中央執行委員会において全員一致で採択された。

 

 1月5日午後4時、開会された憲法制定議会において、スヴェルドロフがこの宣言案を読みあげた。しかし、この宣言案は、議会の多数によって否決された。

 

 1月5日、宣言案が否決された後、ボリシェヴィキは、予定した作戦通り、議会を「反革命的」と宣言して、退場した。続いて、左翼エスエルも、予定通り議会から退場した。

 

 1月5日深夜、ソヴェト中央執行委員会は、レーニンの提案にもとづく「憲法制定議会の解散についての布告」を採択した。

 

 1月6日午前6時、レーニン代行者の命令によって、一人の水兵が、会議保安任務衛兵の疲労を理由として、議会の休会を要求した。レーニンの事前作戦計画に基づいて、多くの部隊が、威嚇するかのように、議場になだれ込んだ。エスエルの議長は、やむなく、6日午後5時まで休会とした。

 

 1月6日朝、スヴェルドロフは、正式に憲法制定議会の解散を通告した。水兵たちが議会会場を武力で閉鎖していた。ロシア最初の普通選挙による制憲議会は、こうしてたった一日でその寿命を終えた。

 

 

 4、武力解散の正当化口実とその詭弁性

 

 レーニンは、憲法制定議会武力解散を正当化する口実をいくつも創作した。その内容と詭弁性にたいする批判については、ソ連崩壊後に出版されたすべての研究文献が一致している。

 

 中野徹三は、『社会主義像の展開』(P.105〜107)において、次の()のように、レーニンの詭弁性を規定し、それらを4点にまとめた。ここでは、私(宮地)が、それを(表3)に直して検証する。彼は、レーニンが口実とした詭弁の内「 」部分について、別ファイルで出典を明記している。

 

    中野徹三『社会主義像の転回』制憲議会解散、一〇月革命は悲劇的なクーデター

 

 レーニンの武力解散口実は、「全人民によって選挙される」――すなわち人民を等質の権利(参政権)の主体とみなし、その平等の権利の行使にもとづいて構成される憲法制定議会は本来必要でなかったし、むしろ有害無益ですらあった、ということになろう。だが、そう主張することは、これまでボリシェヴィキ党が制憲議会の早急な選挙を要求してきた事実と明らかに矛盾する。それで、レーニンは、詭弁的なものを含む次のいくつかの「状況証拠」を重ねて、その解散を正当化しようとする。

 

(表3) レーニンの正当化口実とその詭弁性

テーマ

レーニンの口実

その詭弁性 (中野徹三)

1、エス・エルの候補者名簿と選挙人意志との不一致

エス・エルが選挙後左右に分裂したため、選挙前の政党別名簿と、各党派に投じられた選挙人の意志との間には「形式上の一致さえない

エス・エルの選挙後の左右両翼への分裂(一一月一九〜二八日、左翼エス・エル党創立大会)が、全党派の選挙結果に表明された人民の意志の分布そのものを否認する十分な論拠となりえないことはレーニン自身も内心では承認せざるをえないはずである。

 

左翼エス・エル創立大会の決議が語るように、分裂と抗争は選挙のはるか以前に生じており、かりに選挙前に公然たる分裂が惹起したとしても、それが両派の制憲議会選挙結果に多大の影響を及ぼしえたとはいえない(その場合でも右派はやはり、一一月の時点では圧倒的多数を占めたであろう)。

2、革命前と後とで階級勢力グループと名簿との原則的変化

選挙が開始された一一月一二日(武装蜂起の一八日後)には、人民の圧倒的多数はソヴェト革命の意義を完全には知りえなかった。革命はその後、一一〜一二月の間も進行し、現在なお終っていない。

 

したがって、ロシアの階級勢力のグループ分けは、一二月には一〇月なかばの制憲議会への政党別の候補者名簿のそれとは、原則的に変化している。

進行中の革命が階級の勢力分布を変えているので、一〇月の候補者名簿にもとづく選挙が民意を反映していないという説明も、武装蜂起によって成立したボリシェヴィキ党政府自身がこの名簿にもとづく選挙の実施を認め、実施した以上、万人を首肯せしめる論拠とはなりえない。

 

先に見たように、ペトログラートなど大都市の選挙結果が最初に判明した時点では、レーニンは外国記者に対して一時、革命の「勝利宣言」を発したのであって、その後全国的レベルでの敗北が明らかになり、ソヴェト政府の存立が否定される危険に直面したのちになって持ち出された「論拠」にすぎない。

3、「全権力を憲法制定議会へ」スローガンの性質

カデット=カレーヂン派の反革命蜂起に表現されるブルジョア・地主階級との階級闘争の新たな発展は、「この奴隷所有者の蜂起の容赦ない武力弾圧だけが、プロレタリア=農民革命を、実際に確保できる」ことを教えるものである。

 

労農革命の成果とソヴェト権力を考慮に入れない「全権力を憲法制定議会へ」というスローガンは、今は反革命のスローガンとなっている。

選挙の終了前までは、平和と土地についての二大政策だけでなく臨時労農政府そのものの適法性さえも、制憲議会の審議に委ねられると世界に宣明したのであるから、レーニンのこの立言はロシア人民に対する明白な食言とされてもやむをえないものである。

 

またカデット一派の反乱についても、たしかにペトログラートではボリシェヴィキに次いで第二位を占めたとはいえ、七〇七議席中一七議席しか占めえなかった同党が、制憲議会の結果を転覆しうるはずはありえない

4、革命の利益と憲法制定議会の形式的権利の関係

これらの事情を総合すれば、「プロレタリア=農民革命以前に、ブルジョアジーの支配のもとで作成された諸政党の名簿にしたがって召集された憲法制定議会は、一〇月二五日にブルジョアジーにたいして社会主義革命をはじめた勤労被搾取階級の意志と利益とに不可避的に衝突するようになる」。

 

そして、「この革命の利益が、憲法制定会議の形式的権利に優先することは、当然である」。

最後に、「革命の利益」の「憲法制定議会の形式的権利に対する優先」、つまりソヴェト民主主義のブルジョア民主主義に対する優越が再度強調される。

 

そして、ここに私たちが見るものは――本章の最初ですでにマルクスとエンゲルスの理論にも内在していたことを示したところの「二つの民主主義概念」のロシア的衝突である(多かれ少なかれそれは例外なくすべての革命と革命理論に伏在しているにせよ)。

 

 中野徹三は、レーニンが創作した4つの詭弁にたいする批判に基づいて、次のように結論づけた(P.109〜111)

 レーニンらボリシェヴィキは、彼らが考えた「人民の利益」の大義の前に、「人民の意志」を無視した。そしてこの背景には、プロレタリアートが総人口に占める比率が圧倒的に少なく、民主的選挙制度を持ったことのないロシアの歴史的現実がある。

 

 レーニンの胸中には、一〇月のロシアに始まった社会主義革命の炬火が、やがてドイツ・プロレタリアートの手に引き継がれるだろうという壮大な、だが悲劇的に根拠の乏しい幻想が燃えていた(「……ドイツ革命がやってこないならば、考えられるかぎりでたとえどんな急変がおころうとも、ともかくもわれわれは滅亡するだろうということ、これは絶対的な真理だからである」。一九一八年三月の第七回党大会での演説)。

 

 世界革命へのこの期待が生きている限り、十月革命の成果を葬り去るものと予想された制憲議会への権力移譲が問題外とされたのは、その限りで当然であった。

 

 

 5、武力解散の性質−ソヴィエト権力簒奪第2次クーデター

 

 1917年10月24・25日、レーニン『蜂起の技術』指令に基づく、ボリシェヴィキ部隊数千人による単独武装蜂起・単独権力奪取は二重の性格を持った。それは、()エスエル・メンシェヴィキも閣僚に含む臨時政府にたいする権力奪取クーデターだった。同時に、()ボリシェヴィキ・エスエル・メンシェヴィキ・アナキストなどを中心とするソヴィエト権力・12党派にたいし、その構成勢力の一つであるボリシェヴィキのみによるソヴィエト権力簒奪クーデターの性格を帯びた。

 

 ソ連崩壊後に出版された研究文献のほとんどは、レーニンが1917年10月にした行為を、革命ではなく、レーニンによる10月クーデターと規定した。クーデターだったという結論は、自動的に、()臨時政府とソヴィエト権力との二重権力の解消から、()レーニン・ボリシェヴィキの少数派クーデター政府とソヴィエト権力という新しい二重権力への移行を意味した。10月25日の第2回ソヴィエト大会は、レーニン・トロツキーの意図的な挑発・退場作戦によって、エスエル・メンシェヴィキ・他党派を怒らせ、予定通り退場させた後の不正常で、残留代議員319人・残留比率47.6%という不成立の大会だったからである。

 

 しかも、上記のように、レーニン・トロツキーが、不正な手段で、大会の代議員構成を摩り替えたという不法な代議員構成になっていた。そこから見れば、第2回ソヴィエト大会は、選出代議員数の面でも、不正・不法な大会だったと言えよう。

 

 ソ連崩壊後の21世紀になっても、この第2回ソヴィエト大会は、正当性があり、正規に成立していたと、公認ロシア革命史通りに、なお認めるのか。その大会も、『第1部』における6つのクーデター作戦に含まれ、あくまで、レーニンによる十月クーデター作戦の一環だった。「十月革命」と呼ばれた事件の性格が、一党独裁狙いの十月クーデターだったと認識すれば、その大会もクーデター賛成になるよう不法に仕組まれた大会と規定すべきではなかろうか。

 

 レーニンは、新しい二重権力の解消手段として、クーデター前からの一貫した公約である憲法制定議会選挙を、クーデター政府が実施すると決定した。彼は、選挙敗北という危惧を抱きつつも、ボリシェヴィキが議会第一党になることを期待した。しかし、選挙結果で、ボリシェヴィキは、得票率24.0%、議席数175、得票数1060万票だった。それは、エスエルの得票率40.4%、議席数410、得票数1790万票に大きく引き離され、議会第二党になった。

 

 レーニン・トロツキーが、クーデターを発想・指令した根底には、ロシア国内における二重権力の力関係認識だけではない。そこには、あらゆる研究文献が一致しているように、発達した資本主義国ドイツにおけるプロレタリア革命が、レーニンらのクーデターに連動して、勃発・成功するはず、という壮大な、だが悲劇的に根拠の乏しい幻想に裏打ちされていた。

 

 結果論になるが、ドイツ革命の客観的主体的条件は、ドイツ政府・軍部との力関係から見ても、成熟していなかった。ドイツ革命は、カール・リープクネヒトとローザ・ルクセンブルグの虐殺でもって挫折した。レーニンのドイツ情勢認識は、上っ面で、空想的願望に過ぎなかったことも判明した。その面では、カーメネフ・ジノヴィエフらのドイツ・ヨーロッパ情勢認識の方が正しく、レーニン・トロツキーの認識が幻想的な誤りだったことも明確になった。

 

 レーニンは、ドイツ革命の連動的勃発・成功→ロシア・クーデター政権支援という空想的予測に依拠し、憲法制定議会の選挙結果にたいし、従来の公約を完全に裏切り、4つの詭弁を創作し、憲法制定議会の武力解散を遂行した。新しい二重権力に移行した時期において、レーニンの武力解散行為は、どういう性格を持つのか。

 

 それは、レーニンが、国民にたいする公約に違反し、投票率50%弱・約4440万投票者にたいする裏切り行為を犯したというレベルにとどまらない。

 

 レーニン・ボリシェヴィキの武力解散行動は、ソヴィエト権力にたいする第2次クーデターの性格を持った。選挙結果データを組み替えた(表4)から、そのクーデター性を検証する。左翼エスエルとエスエルの議席数・率と得票数については、選挙後の実態分別に基づき、( )の数値に変更した。

 

(表4) ソヴィエト勢力におけるクーデター政府勢力の割合

政党・党派

議席数

議席率

得票数(万票)

得票率

ソヴィエト内議席割合

ボリシェヴィキ

175

24.8

1060

24.0

29.1

左翼エスエル

(40)

(5.7)

(170)

(3.8)

(6.7)

小計

215

(30.5)

(1230)

(27.8)

35.8

エスエル

(370)

(52.3)

(1620)

(36.5)

メンシェヴィキ

16

2.3

2.6

小計

386

54.6

39.1

64.2

ソヴィエト勢力計

601

85.0

66.9

100

カデット

17

210

4.7

民族政党

86

28.3

3

総計

707

100

4440

100

 

 議席数は、ソヴィエト勢力が、601議席÷707議席≒85.0%を占めた。それは、ソヴィエト権力が完全に勝利した選挙結果となった。その中で、クーデター政府が、ソヴィエト権力内で取った議席割合は、35.8%にとどまった。ソヴィエト勢力内では、約3分の1強の議会勢力である。

 

 投票結果に表わされた4440万国民の意志は、()臨時政府からソヴィエト政府への転換とともに、()選挙結果を尊重し、エスエルを第1党に据えたソヴィエト連立政府だった。ソ連崩壊後に出版されたすべての研究文献をみても、二月革命以来、とくに、「レーニンによる十月クーデター」から憲法制定議会選挙まででも、国民の基本的要求は、ソヴィエト連立政府樹立に向けられていた。

 

 ボリシェヴィキ内では、一般党員や幹部たちを含め、レーニン一人を除いて、誰も、ボリシェヴィキ一党独裁政府などを想定も、要求もしていなかった。ただ、トロツキーは、レーニンの根拠の乏しい空想的なドイツ情勢分析と強引な指令に引き寄せられた。ブハーリン・カーメネフらは、最後まで連立政府構想を模索していた。スターリンは、明確な態度表明を避けた。それらの事実は、あらゆる文献が証明している。

 

 クーデター政府は、憲法制定議会選挙で、エスエルに敗北し、()全体で4分の1弱、()ソヴィエト勢力内で約3分の1強の少数与党勢力になった。ロバート・サーヴィスが分析したように、彼らは、いったん勝ち取ったクーデター権力を手放し、議会第2党の地位に甘んじることを拒絶した。そして、レーニンの武力解散というソヴィエト権力に対する第2次クーデター作戦に賛成した。

 

 この(表4)データは、武力解散が、第1次クーデターに連続するクーデターそのものであることを示している。たしかに、第2次クーデターをしないですむ別の選択肢も理屈としては存在した。

 

 〔第1選択肢〕、ボリシェヴィキ・左翼エスエルのクーデター勢力は、全体で30.4%の少数与党勢力になった。よって、ロシア初の普通選挙による4440万国民の意志を尊重し、選挙公約どおり、第1党エスエルを中心とするソヴィエト連立政府樹立に転換する。

 

 〔第2選択肢〕、国民にたいする一貫した公約に従い、憲法制定議会を発足させる。議席の85.0%を占めるソヴィエト勢力の下で、全体の議席率30.4%のクーデター政府が、他の69.6%の政党・党派と闘争・妥協しつつ、新しい二重権力を、クーデター政府に有利になるよう、時間を掛けて努力する。

 

 ロイ・メドヴェージェフは、もう一つの選択肢を提示した。歴史記述におけるIf」は邪道とされる。ただ、ロイ・メドヴェージェフは、ロシア革命史分析において、選択肢的方法を導入した。それぞれの時期に、実現可能な他選択肢があった事実を解明し、そこから、実際に選択された路線・政策の当否を検証した。中野徹三も、この憲法制定議会選挙問題の分析において、この方法を使っている。私(宮地)もそれに倣って、他ファイルでも、その歴史分析方法を用いている。

 

 〔第3選択肢〕、ロイ・メドヴェージェフは、レーニンが主張したように、選挙を延期していれば、選挙結果が変ったかもしれないとした。しかし、その選択肢の展望については、中野徹三も否定している。私(宮地)も、上記の公約をしてきたからには、延期方法は逆効果になったのではないかと判断する。

 

 これらいずれかの選択肢にしていれば、ソヴィエト権力内における「内戦=ソヴィエト勢力による一党独裁政府への反乱」は避けられたかもしれない。しかし、レーニンは、武力解散という第2次クーデターを強引に選択した。

 

 

 6、「レーニンによる十月クーデター」と規定した研究者たちへの疑問

 

 〔小目次〕

   1、「レーニンによる十月クーデター」と規定した8人の研究者たち

   2、クーデターの二重性ともう一つの側面の位置づけ

   3、少数派一党独裁政府支持率の一貫した下落過程と原因

 

 1、「レーニンによる十月クーデター」と規定した8人の研究者たち

 

 別ファイル『第1部』冒頭で書いたように、1917年10月レーニンがしたことを、「革命ではなく、レーニンによる十月クーデター」と規定した研究者は8人いる。()ソ連崩壊前のE・H・カー、()ソ連崩壊後の日本人研究者3人、()アメリカ・フランス・イギリス人研究者4人である。

 

 しかし、これら8人の研究者たちは、憲法制定議会の武力解散事実を分析し、レーニンの誤りを批判しつつも、それを、十月クーデターに引き続く、連続クーデターと規定していない。その理由は何か。

 

    第1部『1917年10月、レーニンによる十月・ソヴィエト権力簒奪第1次クーデター』8人

 

 私(宮地)は、この『第2部』において、レーニンの行為を、ソヴィエト権力簒奪の第2次・連続クーデターと規定している。武力解散の事実経過とレーニンの意図・作戦について、研究者たちと私との認識差はない。異なるのは、武力解散の性格規定である。その違いが生ずる原因は、一つであろう。それは、「十月革命」と呼ばれてきた事件が、誰・何に対するクーデターだったのかに関する認識差である。

 

 改めて、『第1部』に載せたクーデター概念を抜粋し、再確認する。

 ()フリー百科事典『ウィキペディア』 クーデター権力者内部の少数のグループが武力による迅速な襲撃で政府の実権を握る行為。

 ()三省堂「大辞林」 クーデター 既存の政治体制を構成する一部の勢力が、権力の全面的掌握または権力の拡大のために、非合法的に武力を行使すること。

 ()、広辞苑 クーデター 急激な非合法的手段に訴えて政権を奪うこと。通常は支配層内部の政権移動をいい、革命と区別する。

 

 この概念に基づいて、8人の研究者たちは、「レーニンによる十月クーデター」と断定した。それらの著書を読み込むと、彼らは、二重権力という特殊な権力並立状態において、ソヴィエト権力側の一構成部分に過ぎないボリシェヴィキの数千人部隊が、臨時政府にたいし、単独武装蜂起・単独権力奪取をし、一党独裁政府を作った側面にたいし、クーデターという性格規定を下した。

 

 2、クーデターの二重性ともう一つの側面の位置づけ

 

 私は、その側面をクーデターと規定することに異論がない。彼らの研究がなければ、私も「十月クーデター」説に転換できなかった。しかし、彼らが解析した「レーニンによる一党独裁狙いの十月クーデター」経過を検証するにつれて、そのクーデターが持つもう一つの側面にも、スポットをもっと当てる必要があると考えた。クーデターの二重性である。

 

 クーデターのもう一つの側面とは、レーニン・ボリシェヴィキの少数派クーデター政府とソヴィエト権力という新しい二重権力への移行という現実である。というのも、10月25日の第2回ソヴィエト大会は、レーニン・トロツキーの意図的な挑発・退場作戦によって、エスエル・メンシェヴィキが怒って、退場した後の不正常・不成立の大会だったからである。4大政党の結集による、急激な情勢流動過程から見ても、ソヴィエト権力側は事実上の国家権力を握りつつあった。

 

 レーニンが単独武装蜂起・単独権力奪取手段でしたことは、()臨時政府にたいする権力奪取クーデターであるとともに、()4大政党中のボリシェヴィキ一党のみによる一党独裁狙いのソヴィエト権力簒奪クーデターだった。クーデターを起こさなくても、憲法制定議会選挙結果が証明したように、議席率85.0%のソヴィエト権力政府が合法的に成立していた。そして、臨時政府との二重権力は、選挙によって解消していた。

 

 レーニンも、10月24日、第2回ソヴィエト大会前日にクーデターをしないで、11月12日から始まる選挙をすれば、そのような結果が出るであろうことを十分認識していた。それにもかかわらず、憲法制定議会選挙開始日の19日前に、なぜ、二重性を持つクーデターをする必要があったのか。彼は、4党からなるソヴィエト権力による連立ソヴィエト政府を拒絶し、あくまで、ボリシェヴィキの一党独裁政府による権力独占をしようとした。

 

 その根底には、ソヴィエト内他党派をクーデターで排斥する排他的な前衛党理論があったからである。レーニン創作の前衛党思想について、イタリア共産党は、次のような規定をし、前衛党の放棄宣言をした。それは、ボリシェヴィキしか、真のマルクス主義的社会主義を建設できないと思い込む、他社会主義党派蔑視の、傲慢で、うぬぼれた理念だった。それらの概念は、『なにをなすべきか』における外部注入論に典型的に表れている。

 

 8人の研究者たちは、もう一つの側面を含むクーデターの二重性を軽視、または、見落としているのではないか、というのが、彼らにたいする私(宮地)疑問内容である。クーデターの二重性を直視すれば、ボリシェヴィキ一党独裁政府とソヴィエト権力という新しい二重権力が発生し、二重権力間の闘争が継続することになる。その闘争は、1921年3月クロンシュタット・ソヴィエト14000人の平和的要請・執行委員会選挙運動とレーニン・トロツキー・トハチェフスキー・赤軍5万人による全員虐殺まで、3年4カ月間続いた。

 

 新しい二重権力の発生・移行にたいし、レーニンは、あくまで、ボリシェヴィキのみによる一党独裁権力の維持・強化を一貫して目指した。レーニンは、もともと、左翼エスエルとの連立に消極的だった。その連立政府も、1918年3月、3カ月間で破綻した。ソヴィエト権力は、二月革命以来、()労働者・兵士・農民ソヴィエト、()地域・行政区ソヴィエト、()ボリシェヴィキ・左翼エスエル・エスエル・メンシェヴィキ・アナキスト・民族政党など約12の党派によって構成されていた。さらに、私がソヴィエト権力という場合、それは、()全ロシア・ソヴィエト大会レベル、()階層別・地域別ソヴィエト執行委員会レベル、()労働者・兵士・農民など個々のソヴィエト構成員レベルという3つのレベルを含む。

 

 レーニンが、その少数派一党独裁政権の維持・強化目的を完遂するまでには、エスエル・メンシェヴィキ・左翼エスエル・アナキストを含むソヴィエト権力にたいし、ソヴィエト権力を簒奪する連続クーデターを、第1次十月クーデターを含めて、7回遂行せざるをえなかった。というのも、クーデター政府は、以後、一度も国民の支持率において、多数派になったことがないからである。それどころか、支持率はどんどん下落していった。

 

 3、少数派一党独裁政府支持率の一貫した下落過程と原因

 

 支持率とその連続する下落過程には、3つの時期における指標がある。ただし、ここでいう()支持率は、有権者9000万人全体におけるボリシェヴィキ支持度合・得票率を指し、()ソヴィエト選挙内における得票率と異なる。ソヴィエト内得票率の変化については、『第4部』において、分析する。

 

 第1期1917年10月24・25日「十月クーデター」から、1917年12月12日憲法制定議会選挙開始まで。ペトログラード・モスクワや大都市において、労働者兵士のボリシェヴィキ支持率は、一位だった。しかし、選挙結果は、ボリシェヴィキの全国得票率が24.0%、議席率で24.8%となり、いずれも国民の約4分の1しかなかった。農民内の得票率は、20%以下だったと推定される。

 

 第2期1918年5月13日、80%・9000万農民にたいする食糧独裁令=穀物家畜収奪路線の暴力的強行は、農民の総反発・抵抗を生んだ。国民の全国的支持率は20%以下に下落し、とりわけ、人口の80%を占める農民の支持率は10%前後に激減したと推定される。なぜなら、食糧独裁令は、1917年3月以降の80%・9000万農民による土地革命で作られた収穫物を簒奪し、「土地革命の成果にたいする一種の反革命クーデター」の性格を持ったからである。以後、少数派クーデター政府と人口の80%農民とは、完全な敵対関係に突入した。レーニンは、その過程において、抵抗・反乱をした土地革命農民を数十万人殺害した。この経過は、『第3部』で検証する。

 

 第3期1918年6月、レーニンは、左翼エスエルの一日蜂起を口実とし、全国のソヴィエト全執行委員会から、左翼エスエルだけでなく、エスエル・メンシェヴィキ党員・アナキストの追放・排除を指令し、強行した。ソヴィエト権力機関は、チェーカーの暴力によって、ボリシェヴィキの一党独裁機関に変質させられた。全他党派党員や支持者の労働者・兵士たちが、ボリシェヴィキの暴挙にたいする抗議・ストライキに決起した。レーニンは彼らの大量逮捕・殺害で応えた。ソヴィエト権力システムは、二月革命以来、全他党派を含んでいた。よって、これは、「ソヴィエト革命にたいする一種の反革命クーデター」の性格を帯びた。他党派支持の労働者・兵士におけるボリシェヴィキ支持率は、地に落ちた。

 

 その最中に行われた6月のソヴィエト定例選挙において、ボリシェヴィキが19の大都市において、惨敗した。ただ、その得票率データは分かっていない。惨敗したソヴィエト選挙の得票率も、クーデター時点と比べ、20%以上も下がったと推測される。食糧独裁令への抵抗・反乱と合わせて、有権者9000万人における全国支持率は、10%以下になったとも推測される。レーニン・ジェルジンスキーは、チェーカーを使って、当選した他党派の各ソヴィエト執行委員の全員を逮捕し、執行委員会から追放した。その後釜に、ボリシェヴィキ党員を据えた。まさに、これこそ、ソヴィエト権力機構にたいし、レーニン・チェーカーが強行したソヴィエト権力簒奪クーデターと規定できる。この経過は、『第4部』で検証する。

 

 1917年二月革命に始まるロシア革命の終焉時期と期間はいつか。ロイ・メドヴェージェフ、ニコラ・ヴェルト、それに(宮地)は、終焉時期1921年3月とし、期間をレーニンによる一党独裁狙いの十月クーデターから3年4カ月間だと判断している。もっとも、3人の時期設定は同じだが、終焉内容に関し、前者2人は、3月の「ネップ」とし、私は、3月のクロンシュタット・ソヴィエト14000人のレーニンによる皆殺し犯罪とする違いがある。

 

 

 7、内戦の2大原因の一つとなった第2次クーデター

 

 〔小目次〕

   1、「内戦」の公認・外部原因説か、それとも、内部原因説か

   2、内部原因説とレーニン・トロツキーの〔第2・第3の誤った選択〕

 

 1、「内戦」の公認・外部原因説か、それとも、内部原因説か

 

 「内戦」という概念は、別ファイルにおいても書いたが、複雑で、多面的である。『レーニン全集』や公認ロシア革命史は、()外国の軍事干渉と白衛軍との内戦を基本とし、()ソ連全土における農民反乱を無視するか、反乱と()の内戦とを恣意的に混同させてきた。それは、「内戦」の外部原因説である。

 

 その公認の内戦原因説にたいし、ロイ・メドヴェージェフは、ソ連崩壊前後に発掘された膨大なアルヒーフ(公文書)や「レーニン秘密資料」に基づき、内戦の主要原因を、()1918年1月5日憲法制定議会の1日目武力解散と、()1918年5月13日食糧独裁令による穀物家畜の軍事割当徴発とした。これは、「内戦」の内部原因説である。ただ、彼は、農民反乱を区別しつつも、それも「内戦」という範疇の中にも位置づけている。

 

 ソ連崩壊後の21世紀現時点において、()崩壊前の公認外部原因説になお固執するのか、それとも、()()内部原因説に転換するのか。それによって、ロシア革命史全体の解釈・理解の基軸が大逆転する。というのも、内部原因説とは、レーニンにより選択され、遂行された2つの誤りこそが、「内戦」を引き起こし、拡張させたたことを意味するからである。

 

 白衛軍との内戦による死者数推定は、双方で約700万人である。もっとも、この数値が、農民反乱による双方の死者数十万人を含むのかどうかについて、はっきりしたデータがない。ロイ・メドヴェージェフは、レーニンの2大誤りがなければ、白衛軍の活動規模・範囲が、外国干渉軍の軍事支援を受けつつも、小規模の、かつ、国境周辺における内戦に留まったと規定した。

 

 たしかに、白衛軍との内戦と、農民反乱を含めた状況の「内戦」とを区別するのは難しい。2つは、時期的に重なっているからである。私(宮地)は、できるだけ、白衛軍と区別し、農民反乱という用語を使っている。ただ、両者を含む意味の時は、「」つきの「内戦」を用いる。「」を付けない用語は、白衛軍との内戦という意味である。

 

 2、内部原因説とレーニン・トロツキーの〔第2・第3の誤った選択〕

 

 農民反乱と白衛軍との内戦の区別問題は、『第3部』において、詳しく検証する。よって、ここでは、ロイ・メドヴェージェフの内戦内部原因説を一部引用するのにとどめる。彼は、『10月革命』(未来社、原著1979年)の第3部第9章において、「憲法制定議会の招集と解散」(P.158〜172)の経過を詳細に分析した。そして、次のように結論付けた。

 

 「一九一八年の夏と秋の反ボリシェヴィキ闘争それは、内戦へと拡大していく−で採用された主要なスローガンとは、憲法制定議会の防衛とその権威の回復だった。だがそれでも、憲法制定議会は、それをうまく利用し、そうして一〇月革命の成果を支える中心点へと転化することが潜在的に可能な制度であったと言えよう」(P.172)

 

 エスエル・メンシェヴィキ・カデットなど多数派野党は、憲法制定議会の1日目武力解散クーデターで不法に締め出された。彼らは、このスローガンを、憲法制定議会の武力解散直後から掲げていた。しかし、それは、すぐには、実際の大衆的な運動にならなかった。80%・9000万農民の関心が低かったためである。ところが、その4カ月後、1918年5月レーニン・トロツキーらが誤って選択した2つの路線・方針は、このスローガンに、一党独裁少数派クーデター政府にたいする抵抗・批判運動としての生命力を与えた。

 

 生命力を与えた2つとは、憲法制定議会1日目武力解散クーデターの誤りに続く〔第2・第3の誤った選択〕だった。以下の誤った選択が、それにたいする抵抗・批判と、憲法制定議会の防衛とその権威の回復運動とを結合させたからである。その結合が、()土地革命農民の反乱という「内戦」を勃発させる原因となり、かつ、()白衛軍との内戦を大規模化・拡張させる原因となった。

 

 〔第2の誤った選択〕、1918年5月13日、食糧独裁令発令

 

 これは、『第3部・第3次クーデター』において分析するが、土地革命農民が収穫した穀物家畜を、軍事割当徴発の暴力で収奪するという、土地革命にたいする一種の反革命クーデターだった。ソ連全土で、クーデター政府にたいする農民反乱が勃発した。そこから、食糧独裁令にも猛反対するエスエル・左翼エスエル・メンシェヴィキとというソヴィエト内政党と80%・9000万農民において、()憲法制定議会武力解散クーデターへの反対運動と、()食糧独裁令への反対運動・反乱とが結びついた。それが、ソ連全土における農民反乱という「内戦」の主要原因の一つとなった。

 

 〔第3の誤った選択〕、1918年5月25日、トロツキーによるチェコ軍団4.5万人の武装解除命令

 

 チェコ軍団は、ボリシェヴィキ政府との協定によって、完全武装のまま、シベリア鉄道を使って、ウラジオストックからチェコに帰国する途中だった。彼らは、協定を裏切った残虐な命令を全員虐殺指令と受け留めた。兵士4.5万人は、鉄道沿線で、トロツキー命令を拒否し、完全武装で反乱を起こした。彼らは、旧帝政の軍隊だが、白衛軍と異なり、反革命勢力ではない。シベリア鉄道沿線のボリシェヴィキ・クーデター地方権力は、瞬時に打ち破られた。軍事人民委員トロツキーが出した「チェコ軍団の武装解除命令」は、別ファイルの〔殺人指令文書14〕に載せた。

 

    『レーニンの大量殺人総合データと殺人指令27通』〔殺人指令文書14〕

 

 憲法制定議会の1日目武力解散反対の多数派野党エスエル・メンシェヴィキは、反乱したチェコ軍団と提携した。そして、クーデター政府反対・憲法制定議会の防衛とその権威の回復をスローガンとする政府を各地で樹立した。この時点において、白衛軍の大規模反乱は発生していない。かくして、憲法制定議会武力解散という第2次クーデターへの反対運動は、トロツキー命令にたいするチェコ軍団反乱と結合した。それは、白衛軍との内戦発生・拡張の引き金となり、その原因の一つとなった。むしろ、これらレーニン・トロツキーによる2つの誤った選択こそが、それを契機・原因として、白衛軍の国境周辺・小規模な行動をして、大規模な内戦に変質・発展させた。

 

 訳者石井規衛東大教授は、『訳者解説』でも、それを簡潔にまとめているので、該当箇所を載せる。

 以上の社会革命の概念規定と、「選択肢的方法」とがもっとも効力を発揮していると思われるのは、本書で中心的に取り扱われる一九一八年の春と夏の時期の分析においてであろう。ボリシェヴィキは、その時期に二つの決定的な過ちを犯したという。一つが、憲法制定議会への態度である。

 

 すなわち、憲法制定議会を延期すべきであったのを、「過度のまっ正直さ」を現わして、臨時政府の指定した期日に選挙を行なったことである。これによって、ボリシェヴィキの影響が民衆の間に浸透して、ボリシェヴィキや左翼エスエル系の議員が支配する憲法制定議会を手にする機会が失われた。それのみか、議会を強引に解散するはめに陥った。そして、後に、憲法制定議会の擁護の大義名分を反革命勢力に対して与えることとなったのである、と。

 

 いま一つの、そして本書が最も重視するものが、一九一八年の春に、一九二一年春の「ネップ」のような妥協的な経済政策をとらずに、例えば、「直接的生産物交換」といった現実に照応していない、性急で、空想的な政策を採用したことであった。一九一八年春の政府の、この「間違った」政策は、農村政策をめぐって左翼エスエルとの対立を決定的なものにして、新政府の政治的基盤を著しく弱めた。その一方で、「間違った」経済政策は、広範な農民の不満ばかりか、労働者の間にも不満を引き起こし、「大衆がボリシェヴィキから顔をそむける」という事態を引き起こした。

 

 まさに「反革命」勢力がそれを利用して、内戦が本格化し、ボリシェヴィキ政権を滅亡の寸前まで追いやることになった、と。すなわち、一九一八年の春と夏に、社会主義に直接移行する政策ではなく、「妥協の政策」であるネップを採用してさえいれば、大衆のボリシェヴィキに対する不満もなく、したがって、たとえ反革命勢力が行動を起こしたとしても、それは辺境での個別分散的な武装蜂起で終わり、そもそも大規模な内戦は起こりえなかったのである、と。

 

 周知のように、内戦は、後のソ連史の展開に大きな意味を持った事件である。一般には、内戦は、ソヴィエト政権の意思に反して外から押し付けられたものと理解されている。それに対して、本書は、内戦の勃発と本格化の責任の多くは、ボリシェヴィキ政権が自ら採った「間違った」政策にある、と主張しているのである。このように、「選択肢的方法」を採用することよって、ソ連史上重要な問題について、かくも斬新な見解に到達しえたのである。そればかりか、えぐりだされた一九一八年春のボリシェヴィキ経済政策の問題性は、その後のソ連史上の様々な困難という広い文脈に置き直されているのである(P.313)

 

以上  健一MENUに戻る

 〔関連ファイル〕

   『見直し「レーニンがしたこと」−レーニン神話と真実1917年10月〜22年』ファイル多数

   第1部『1917年10月、レーニンによる十月・ソヴィエト権力簒奪第1次クーデター』

   第2部『1918年1月、憲法制定議会の武力解散・第2次クーデター』

   第3部『1918年5月、革命農民への食糧独裁令・第3次クーデター』

   第4部『1918年6月、他党派をソヴィエトから排除・第4次クーデター』

   第5部『1921年2月、革命労働者ストライキの弾圧・第5次クーデター』

   第5部2『1920年3月、トロツキー「労働の軍隊化」構想と党内論争』

   第6部『1921年3月、革命水兵の平和的要請鎮圧・第6次クーデター』

   第7部『1921年3月〜22年末、「ネップ」後での革命勢力弾圧継続・強化』

   第8部『1922年5月、知識人数万人追放「浄化」・第7次クーデター』

   第9部『1917年〜22年12月、レーニンの最高権力者5年2カ月間』

   第10部『「レーニンによる7連続クーデター」仮説の自己検証』