1922年5月、知識人数万人追放「浄化」・第7次クーデター
「スターリンは悪いが、レーニンは正しい」説当否の検証
第8部、「反ソヴィエト」知識人追放作戦という文化大革命
(宮地作成)
〔目次〕
3、「反ソヴェト」知識人数万人の肉体的排除4方針と遂行 「浄化」文言
5、「反ソヴィエト」レッテル知識人の実態と言動の性質 (表1)
6、肉体的排除「浄化」データ (表2、3、4)
7、1922年5月第1回目脳梗塞発作・症状と「浄化」作戦遂行時期
8、党独裁社会の「浄化」文化大革命→アンチ・ユートピア単一国出現
〔関連ファイル〕 健一MENUに戻る
『見直し「レーニンがしたこと」−レーニン神話と真実1917年10月〜22年』ファイル多数
第1部『1917年10月、レーニンによる十月・ソヴィエト権力簒奪第1次クーデター』
第2部『1918年1月、憲法制定議会の武力解散・第2次クーデター』
第3部『1918年5月、革命農民への食糧独裁令・第3次クーデター』
第4部『1918年6月、他党派をソヴィエトから排除・第4次クーデター』
第5部『1921年2月、革命労働者ストライキの弾圧・第5次クーデター』
第5部2『1920年3月、トロツキー「労働の軍隊化」構想と党内論争』
第6部『1921年3月、革命水兵の平和的要請鎮圧・第6次クーデター』
第7部『1921年3月〜22年末、「ネップ」後での革命勢力弾圧継続・強化』
第8部『1922年5月、知識人数万人追放「浄化」・第7次クーデター』
第9部『1917年〜22年12月、レーニンの最高権力者5年2カ月間』
第10部『「レーニンによる7連続クーデター」仮説の自己検証』
山内昌之『革命家と政治家との間』レーニンの死によせて
1、クロンシュタット事件鎮圧後の3問題
1921年2月25日から3月18日の25日間で、レーニンは、(1)ペトログラード革命労働者の全市的山猫ストライキを鎮圧した。ストライキ参加労働者5000人を含め、ソ連全土で1万人を逮捕し、500人を即時銃殺にした。さらに、(2)、15項目の平和的要請と、自由で平等なソヴィエト新選挙運動をしたクロンシュタットの革命水兵・基地労働者に、「反革命の豚」「白衛軍の豚」というレッテルを貼り付け、14000人を皆殺しにした。
レーニンとロシア共産党(ボリシェヴィキ)は、第10回大会終了日までに、これら第5次・第6次のソヴィエト権力簒奪クーデターと、そこでの大量殺人犯罪によって、党独裁政権崩壊の最大危機を脱した。当然ながら、レーニンは、クロンシュタットの反乱に特別強い衝撃を受けた。なぜなら、その性質は、まさに、ペトログラード十月単独武装蜂起・単独権力奪取クーデターにおける革命の栄光拠点ソヴィエト2つともが、ボリシェヴィキ党独裁の3年4カ月間路線を全面否定した行動だったからである。
P・アヴリッチは、『クロンシュタット1921』で、その全経過を分析しつつ、レーニンによる、第10回大会への演説のための概況メモを発掘し、公表した。レーニンは、そこに「クロンシュタットの教訓:政治学では――(1)党内における隊列(および規律)の閉鎖、(2)メンシェヴィキと社会革命党にたいする一層の闘争。(3)経済学では――中産農民を可能なかぎり満足させること」と記していた(P.271)。その思考に基づいて、彼は、党独裁権力の引き締めと、さらなる維持・強化のための路線・方策を次々と打ち出した。
このファイルは、第7次クーデター『「反ソヴィエト」知識人数万人追放「浄化」作戦』に絞る。よって、他の3問題は、そのテーマに関するファイル・リンクにとどめる。
〔小目次〕
3、聖職者全員銃殺型社会主義の構築=飢饉での500万人飢死に便乗
4、メンシェヴィキと社会革命党にたいする一層の闘争=「浄化」作戦
1、党内における隊列(および規律)の閉鎖=分派禁止規定
第10回大会に至る党内状況として、党内における路線・政策論争が深刻化していた。それは、明白な分派対立レベルになっていた。(1)レーニン・トロツキーら主流派以外に、(2)労働者反対派、(3)民主主義的中央集権制派などが、論争をしていた。しかし、クロンシュタット事件による政権崩壊危機に直面して、レーニンら党指導部は、一党独裁政党の党内統一を守り抜くため、反対派に断固たる措置をとることを決断した。それが、レーニン・メモに基づく、党大会最終日に突然提起された分派禁止規定だった。
それは、党の統一を固めたが、Democratic Centralismと結合させたことによって、反対意見も抑圧し、党内民主主義を破壊する恐るべき武器となった。それは、共産党指導部をして、その後、あらゆる異論者・批判者やその言動を分派活動とでっち上げて、党内外排除する党内犯罪を激増させた。レーニンは、この規定によって、共産党を党内民主主義抑圧政党に変質させた。この性質については、大藪龍介が鋭い分析をしている。
第5部2『1920年3月、トロツキー「労働の軍隊化」構想と党内論争』労働者反対派問題
大藪龍介『国家と民主主義』党内分派の禁止と民主主義の消滅
2、中産農民を可能なかぎり満足させること=「ネップ」
「ネップ=新経済政策」の経過と評価については、さまざまな見解がある。公認ロシア革命史は、レーニンの偉大な業績としてきた。しかし、ソ連崩壊後、梶川伸一が、膨大なデータ、アルヒーフ(公文書)を発掘した。彼は、4冊の著書において、「労農同盟が成立」というのは、レーニンのウソであることを論証した。
さらに、3〜4冊目著書によって、次の5つの事実を解析した。(1)、レーニンの農民・農業路線の誤りにより、軍事割当徴発システムは、1920年に事実上崩壊していた。(2)、レーニンによる農業破壊システムと農業破綻の結果、農村の実態として、現物税と穀物家畜の自由商業に移行しつつあった。(3)、第10回大会の「ネップ」決定は、その現状を追認したものである。(4)、しかも、その後の現物税徴収システムは、軍事割当徴発の暴力的徴収レベルと同じだった。(5)、よって、「ネップ」は、80%・9000万農民にたいする融和政策ではない。(6)、レーニンの根本的な誤りは、ソ連農業を破壊した。「ネップ」後の500万人飢死は、その誤りの直接的結果である。
梶川伸一『十月革命の問題点』ネップは融和策か
『幻想の革命』十月革命からネップへ これまでのネップ「神話」を解体する
第7部『1921年3月〜22年末、「ネップ」後での革命勢力弾圧継続・強化』「ネップ」評価
『「ネップ」−誤りの遅すぎた撤回と500万人の飢饉死亡者』農民問題ファイル
不破哲三『学術講演「レーニンと市場経済」』02年8月、中国に出向いての「ネップ」賛美
3、聖職者全員銃殺型社会主義の構築=飢饉での500万人飢死に便乗
ロシア正教は、多くの教会、聖職者、信徒を抱え、ツアーリ帝政以来、ロシアにおいて精神的支柱として栄えてきた。それは、ツアーリ帝政を支える基盤でもあった。しかし、文学・絵画・音楽とならんで、ロシア文化の伝統を守る文化運動の一つだった。
クロンシュタット14000人皆殺し後、レーニンが遂行した路線の一つが、ロシア正教の権威・影響力を危険視し、破壊することだった。とりわけ、1921年から22年の大飢饉において、(1)ボリシェヴィキでない多数の知識人とともに、(2)全教会・聖職者・信徒が、党独裁政府の無為無策を見るに見かねて、飢饉救援活動に立ち上がった。ソ連全土でクーデター政府から自律した救援組織を結成した。2つの自主的勢力は、(3)アメリカを中心とする国際的救援組織とも連携した。レーニンにとって、第5次・第6次クーデター後、これら3つの階層・組織は、未来の危険な「反乱」因子として急浮上してきた。その活動は『第7部』の「飢饉救援勢力敵視と大量殺人・追放浄」作戦」に載せた。
第7部『1921年3月〜22年末、「ネップ」後での革命勢力弾圧継続・強化』
レーニンは、大飢饉情勢を利用し、2つの危険勢力を予防的に殲滅する決定を下した。その第1段階を以下の手口で遂行した。(1)、教会をすべて破壊し、そこの財宝を略奪しつくし、党独裁クーデター政権の資金にした。(2)、それに抵抗する聖職者数万人を銃殺し、信徒数万人を殺害した。(3)、レーニンの農業破壊の結果として、大飢饉が発生し、1921〜22年で、500万人が餓死した。その救援基金にするとウソをついて、教会財産を共産党が私物化した。(5)、その大事業をトロツキーに担当させた。
この事業の性質は何か。それは、レーニン式の戦闘的無神論に、ソ連国民を変革・改造するための宗教戦争を仕掛けたものである。同時に、それは、下記の「浄化」作戦と並ぶレベルのレーニンによる文化大革命だったと規定できる。彼とトロツキーは、その結果、聖職者全員銃殺型社会主義を構築することに成功した。ペトログラード・クロンシュタットに続く、このような大量殺人犯罪を指令するレーニンの革命倫理をどう考えたらいいのか。
4、メンシェヴィキと社会革命党にたいする一層の闘争=「浄化」作戦
レーニンが概況メモを具体化し、遂行したのが、このファイルが検証する「反ソヴィエト」知識人数万人の追放=ソヴィエト国家・社会を「浄化」する作戦である。以下、その方針・実態を分析する。この性質は、ソヴィエト権力簒奪第7次クーデターと規定できる。
レーニンのソヴィエト簒奪7連続クーデターは、1922年12月16日、レーニンが第2回目の動脈硬化症・脳梗塞発作で倒れたことにより途絶した。以降は、死去するまで、いわゆる『レーニンの遺書』口述行為を除いて、最高権力者としての活動はなくなった。もちろん、それらのクーデターや大量殺人犯罪は、スターリンが形態を変え、規模を拡張しつつ、引き継いだ。
2、知識人追放「作戦」規模・体制とレーニンの極秘指令
〔小目次〕
1、レーニンの1922年5月19日付「知識人追放指令の秘密・手紙」
2、ウラジーミル・イリイチ〔レーニン〕の指令。極秘 5月26日第1回目発作以後
1、レーニンの1922年5月19日付「知識人追放指令の秘密・手紙」
この手紙については、ソルジェニーツィンとニコラ・ヴェルトが載せている。ただ、ニコラ・ヴェルトは日付を5月20日とした。
第一、ソルジェニーツィンは、『収容所群島』第1部・第10章「法は成熟する」(新潮社、P.360)の冒頭で、次の「レーニン全集」に掲載されている「知識人追放に関する準備指令の手紙」を載せた。よって、これは「レーニン秘密資料」ではない。その個所をそのまま引用する。
「銃殺に代えて国外追放が大量かつ緊急に試みられた。刑法典が編集されていた、あの熱狂の時代、ウラジーミル・イリイッチ(レーニン)は閃(ひらめ)いた思いつきをただちに五月十九日付の手紙の中に結実させた。
同志ジェルジンスキー! 反革命を援助している作家や教授たちを国外へ追放する問題について。このことはもっと綿密に準備する必要がある。準備がなければ、われわれは馬鹿をみることになるだろう……これらの《軍事スパイたち》をつかまえ、絶えず一貫してつかまえ、国外へ追放するように処置しなければならない。これのコピーをとらずに、政治局員にこっそり見せてくださるようにお願いする(「レーニン全集」第45巻、P.721)
この場合、その秘密性は手段の重要さと教訓的なことから当然である。ソビエト・ロシアにおける切り裂いたようにはっきりした階級勢力の布陣は、旧ロシアにおけるブルジョア・インテリゲンチャの輪郭の判然としない、ぼんやりした汚点によってはじめて破られてしまった。これらインテリゲンチャはイデオロギーの面で本当の軍事スパイの役割を演じていたのであり――彼らに対する最善の処置はその腐った思想の滓(かす)を削りとり、彼らを国外へ放り出すこと以外にはなかった。
同志レーニンその人はもう病床にあったが、政治局員たちが明らかに賛同し、同志ジェルジンスキーが八方手を尽して逮捕を行い、一九二二年末に約三百人の人道主義者が伝馬船に?……いいや、汽船に詰め込まれてヨーロッパのごみ捨て場へ送りだされた」。
第二、ニコラ・ヴェルトは、レーニンによる長い同一手紙の他文面を『共産主義黒書』(P.138)に載せた。
一九二二年五月二十日、レーニンはジェルジンスキーにあてた長い手紙の中で、「反革命を援助する作家と教授の国外追放」について大計画を描いてみせた。「この作戦は慎重に行なわなければならない−とレーニンは書いている−特別委員会を召集せよ。政治局員に毎週二、三時間、何冊かの本と雑誌を検討するように義務づける……教授や作家の政治的過去、業績、文筆活動について体系的な情報を収集すること。」
その上でレーニンは例をあげてみせる。「たとえば雑誌『エコノミスト』についてだが、これが白衛軍の中心だということは明らかだ。第三号(第三号だけだ!注意!)のカバーには寄稿者のリストが載っている。わたしはこのほとんど全部がきわめて適格な追放該当者だと思う。彼らは疑いもなく反革命家で、英・仏の共犯者であって、その手先・スパイ組織をつくり、若い学生を腐敗・堕落させる者たちである。これらのスパイどもを追い出し、逮捕し、恒久的・組織的・体系的な方法で外国に追放するように、計画準備しなければならない。」
五月二十二日以降、政治局はカーメネフ、クルスキー、ウンシュリヒト、マンツェフ(二人はジェルジンスキーの直属の部下)を加えた、知識人を逮捕・追放するためのブラックリスト作成の任務をもった特別委員会を設立した。
一九二二年六月に第一陣として追放されたのは、元「飢餓と闘う全露社会委員会」の二人の指導者、セルゲイ・プロコボーヴィチとエカチェリーナ・クスコーヴァだった。
八月十六〜十七日には、一六〇人の有名な哲学者、作家、歴史家、大学教授らの最初のグループが逮捕され、九月に船で追放された。そこには国際的に有名な、あるいはそれ以後名声を得るようになる人物が何人かいた。ニコライ・ベルジャーエフ、セルゲイ・ブルガーコフ、セミョン・フランク、ニコライ・ロスキー、レフ・カルサーヴィン、フョードル・スチェプン、セルゲイ・トルベツコーイ、アレクサンドル・イズゴーエフ、イヴァン・ラブシン、ミハイル・オソルギン、アレクサンドル・キゼヴェッテルらである。
各自が、もしソ連に帰国したらただちに銃殺されると明記した書類に署名しなければならなかった。彼らは夏と冬のコート、背広一着、着替えの下着、ワイシャツと寝巻各二枚、二枚のパンツ、二足の靴下を持っていくことが当局から許可された! これらの私物のほか、各追放者は外貨で二〇ドル持って出る権利があった。彼らの追放と並んで政治警察は第二級の疑わしい知識人を追及し続け、これら知識人はその後、一九二二年八月十日の政令で合法化された、国内の僻地への行政移住か、強制収容所送りとなった。
手紙の「5月19日、または、20日」という日付には、3つの意味がある。
(1)、「知識人の大量追放作戦」の準備指令は、レーニンが最初に発した。
(2)、レーニンは、後述のように、5月26日に第1回目の脳梗塞発作を起こし、5月30日には「12×7」の計算もできない症状になった。その第1回発作の8日前に、「作戦」指令を出していた。
(3)、彼は、「教会財産没収・聖職者全員銃殺指令」の「極秘手紙」を3月19日に出した。5月時点は、その指令が、トロツキー担当・指導により大々的に執行され、聖職者数万人の銃殺、信徒数万人の殺害がソ連全土で行なわれていた。よって、レーニンが1922年に行った2大粛清事件は、2カ月違いで、ほぼ同時にスタートした。一方は大量銃殺・殺害で、他方は追放をする形態だった。彼は、2つの肉体的排除形態に違いを持たせた。その点では、高度な政治的配慮を込めた、いかにもレーニンらしい粛清=「ごみ捨て場の分別」スタイルだった。
2、ウラジーミル・イリイチ〔レーニン〕の指令。極秘 5月26日第1回目発作以後
ロイ・メドヴェージェフは、『1917年のロシア革命』(P.134)で、次の「レーニン秘密資料」を発掘し、公開した。これは、L・コーガン「精神的エリートの追放についての新情報」『哲学の諸問題』(8号、1993年)で最初に掲載された。
「一九二二年、レーニンは多数の人文系学者をソヴィエト・ロシアから追放することを承認した。大勢の傑出した哲学者の一団がペトログラードやモスクワから、汽船(「哲学船」)で送り出された。ペトログラードからは経済学者や歴史家が西側諸国へ向かった。法律家、文学者、協同組合活動家、農学者、医者、財政学者も追放された。これはきわめて大規模な措置であり、モスクワやペトログラードだけでなく、キエフ、カザン、カルーガ、ノヴゴロド、オデッサ、トヴェーリ、ハリコフ、ヤルタ、サラトフ、ゴメリにまで及んだ。ゲー・ペー・ウーの文書ではこの措置は「作戦」というコード名で呼ばれ、その実施指導のために、L・カーメネフを議長とするロシア共産党中央委員会政治局特別委員会が設置された。委員会にはその他ジェルジンスキーの代理ヨシフ・ウンシリフトとゲー・ペー・ウー秘密工作部部長I・レシェトフが加わった。同委員会メンバーとゲー・ペー・ウーの地方機関に対するF・ジェルジンスキーの「指令」メモの一つにはこう書かれていた。
ウラジーミル・イリイチ〔レーニン〕の指令。極秘。
積極的な反ソヴィエト・インテリゲンツィア(まずはメンシェヴィキ)の国外追放を、たゆまず継続する。入念にリストを作成し、それらをチェックしわれわれの文芸学者たちに批評させる。文献は全部彼らに割り当てる。われわれに敵対的な協同組合活動家のリストを作成する。「思想」と「家族共同体」の論集参加者のチェックをする。草々。
F・ジェルジンスキー」
この指令の月日をメドヴェージェフは、著書で書いていない。しかし、期日を推測させる文言がある。それは。「(まずはメンシェヴィキ)の国外追放を、たゆまず継続する」である。この文言は、5月26日第1回目発作以後の「追放の督促・継続指令」である。
3、「反ソヴェト」知識人数万人の肉体的排除4方針と遂行
〔小目次〕
第1方針 逮捕・国外強制追放 1922年秋の覚書における文言「浄化」
第2方針 逮捕・出国不許可、辺境地強制移住(=流刑)
第3方針 出国許可(=自主的亡命許可)
第4方針 国外に出た亡命者グループ内でのスパイ活動、分裂工作
以下の内容は、ヴォルコゴーノフが「レーニン秘密資料」6000点に基づいて公表した『レーニンの秘密・下』第6章(NHK出版、原著1994年、P.176〜203)の要約である。それを、私が4方針に分類し、かつレーニン指令を時系列順に並べ直した。ニコラ・ヴェルト『共産主義黒書』のデータも載せる。
第1方針 逮捕・国外強制追放 「浄化」文言、1922年6月〜年末
1922年6月8日、政治局(ポリトビューロー)は、党と異なった考え方をする人たちを国外へ追放することを提案した「反ソヴィエト・グループ分布」に関する報告を承認した。これは、レーニンが決定し、ジェルジンスキーの最高補佐官ヨシフ・ウンシュリフトが作成した。この報告書は、(1)内務人民委員部(NKVD)と司法人民委員部の代表から成る特別委員会を形成し、(2)国内で強行措置の適用が限界に達した時、(3)国外もしくはロシア連邦内の特定地域へ追放する権利をもたせてはどうかと提案していた。絶大な権限をもつ国家保安部(GPU)は、革命にとって危険であるとみなされる人物の選り分けを開始した。危険人物とは、事実上、ロシア社会のエリートたちだった。
7月31日、第一団のリスト人数は120人だった。彼らの追放命令書は、カーメネフ、クルスキー、ウンシュリフトが署名した。著名人の名がずらりと並んだ名簿のあとには、「政治局の決定により、同志ジェルジンスキーを議長とする本委員会は、それぞれの分野でかけがえのない人材と考えられ、所属機関から彼らを現在の地位に残す許可願が出ていた人物について、追放命令取り消しの嘆願書を検討した」というヤーゴダのコメントが付いていた。
哲学者ニコライ・ベルジャーエフの項には、こうしたGPUの典型的なコメントが付けられていた。「彼はベーレグ出版社と関係があり、戦術センター、君主主義者、右翼立憲民主党、黒百人組〔20世紀帝政ロシアに存在した右翼反動団体の総称〕、宗教関係、反革命的教会との関連も調査済み。追放」。
8月2日、ウンシュリフトはすでに、スターリンに「モスクワ……およびペトログラードの反ソヴィエト知識人」のリストを付けて、こう報告することができた。「要注意人物全員を逮捕し、自費で国外へ退去する機会を与える。もし彼らが拒否すれば、GPUが旅費を出してはどうか」。同時に、「反革命的新聞『農業ニュース』と、『思想と経済再生』は、反ソヴィエト的、理想主義的見解を広めつつあるので、廃刊にする」。
GPUはさすがにその道の専門家だった。彼らが選び出した名前のリストには、ロシア最高の知識人エリートたちがきら星のごとく並んでいた。だが、その選択にはレーニンも個人的にいろいろ干渉した。最高の知的人材を社会から流出させる政策は、もとはといえば彼が言い出したものだったからである。その名簿は、GPUに渡されて、最終的にジェルジンスキー、スターリン、ウンシュリフトによって完全なものにされる前に、レーニンのところへ何度も回され、修正、追加、但し書き、疑問符が付けられた。最初の一団が追放される寸前の1922年秋には、レーニンは病気で静養中だったにもかかわらず、今後の同様の措置について、彼はあれこれ心配した。
8月、政治局は、レーニンの指示にしたがい、「学生の中の反革命分子を国外へ追放する」、および「カーメネフ、ウンシュリフト、プレオブラジェンスキーから成る委員会をつくる」というウンシュリフトの提案を承認した。ボリシェヴィキは先を読んでいた。次世代の知識人の芽を、若葉のうちに摘み取った。
9月5日、これは、ニコラ・ヴェルト『共産主義黒書』(P.138)からの引用である。
一九二二年九月五日、ジェルジンスキーは自分の補佐のウンシュリヒトに次のように書いた。
「同志ウンシュリヒト! インテリゲンツィア追い出しの件に関しては、事態はまだ手工業的だ! アグラーノフが出立してから、もはやこの分野で有能な人間はいない。ザライスキーは少し若すぎる。早く仕事するためには、同志メンジンスキーがこの件を担当しなければならないだろうと思われる……ちゃんと計画をたて、それを定期的に訂正・補足することが不可欠だ。すべてのインテリゲンツィアをグループとサブ・グループに分類すべきだ。
一、作家。
二、ジャーナリストと政治家。
三、経済学者(これはサブ・グループ分けが必要だ)。
(a)財政専門家、(b)エネルギー専門家、(c)運輸専門家、(d)小売業、(e)協同組合専門家等
四、技術専門家(これもサブ・グループ分けが必要だ)。
(a)技師、(b)農学者、(c)医者その他
五、大学教授およびその助手等々。
これらの紳士方に関する情報はすべて我々の部局中の『インテリゲンツィア』部によって総合されなければならない。知識人一人一人の書類が我々のところにあるべきだ……我々の部の目的は単に個人を追放したり、逮捕することでなく、専門家に対する全般的政策を念入りに作ることだということをいつも心に止めておかねばならない。すなわち、彼らを身近に監視し、対立させ、彼らを単に言葉のうえだけでなく、行動においてソビエト権力を支持するよう仕向けるのである。」
9月5日の数日後。これは、ヴォルコゴーノフ、ニコラ・ヴェルトともが記載している。出典は『ロシア現代史文書保存研究センター、76−3−303』である。
スターリンに宛てた長い覚え書の中で、レーニンは、反ボリシェヴィキ出版物にかかわりをもった人物や、自分の政権にとってとくに鋭い反対派とみなされる人物を槍玉に挙げていた。この覚え書には、そういう人たちとは縁を切りたいというレーニンの異常なまでの不安がうかがわれる。
「メンシェヴィキ、人民社会主義者党、カデットなどの追放の問題について、いくつかうかがいたい。この問題は、私が休暇に出かける前から着手していたのに、いまだに落着していない。人民社会主義者全員を根絶することは決定されたのか? ペシュホーノフ、ミャコーチン、ゴーンフェルトはどうなったのか? ペトリシュチェフその他の連中は? 私は彼ら全員が追放されるべきであると考える。彼らはエスエル党員のだれよりも危険である。なぜなら、彼らのほうが抜け目がないからだ。A・N・ポトレソフ、イズゴーエフらの『エコノミスト』[雑誌]の関係者全員、(オゼロフやほかにももっともっと大勢)。メンシェヴィキのローザノフ(医師、抜け目がない)、ヴィグドールチク(ミグロとかいう名)、リューボフ・ニコラエヴナ・ラドチェンコとその若い娘(ボリシェヴィズムにとってもっとも有害な敵と思われる)、N・A・ロジコフ(手に負えない奴なので、追放すべきだ)、S・L・フランク(『方法論』の著者)、マンツェフ=メッシング委員会は、こうしたリストをつくり上げ、そのような紳士数百人を容赦なく国外へ追放すべきである。そうすれば、われわれはロシアを一度に浄化することになる。
レジェネフに関しては……われわれはこれについて考えるべきである。彼を追放すべきではないのか? 彼の論文から判断するかぎり、この男はいつも非常にずる賢い。『エコノミスト』関係者全員と同じように、オゼロフはもっとも冷酷無情な敵である。彼ら全員をロシアから追放しなくてはならない。何が何でも、今すぐ行うべきだ。エスエル党員の裁判が終わるまでにはやるべきで、それより遅くなってはいけない。追放の動機については説明無用。諸君、腰を上げよ!
「作家の家」および『ムイスリ(思想)』[ペトログラード]関係の執筆者全員、ハリコフは絶対捜し出さねばならない。われわれはそこで何が起こっているのかまったくわからない。われわれにとって、まったく外国同然だ。これを速やかに浄化する必要がある。エスエル党員の裁判の終了より前に。[ペトログラードの]作家たちに注目せよ(彼らの住所は、『ノーヴァヤ・ルースカヤ・クニーガ(新しいロシアの書籍)』一九二二年、第四号、三七頁)および民間出版社の名簿(二九頁)を参照せよ」。
レーニンの指示は、支離滅裂だが、消えない鉛筆で一息に書かれたかのように、無慈悲、冷酷なものだった。スターリンの手書きのメモによれば、それらはただちに、指導者の命令としてジェルジンスキーへ送られた。
9月17日、レーニンは、ウンシュリフトにこう書いている。「だれが追放され、だれが留置所におり、だれがどんな理由で追放を免れたかについてコメントを付けた上、すべての関連書類を私に送り返してくれるように手配してください。この手紙についても短いコメントをお願いする」。翌日の夜、ウンシュリフトは不在だったので、彼の代理のヤーゴダがこう返事した。「ご指示にしたがって、彼らについてのコメントを付けた名簿を同封する。(別に挙げてある)名前の人たちは、何らかの理由があってモスクワ[またはペトログラード]に残っている」。さらにそれには、「最初の一団は、9月22日金曜日にモスクワを発つことになっている」と付け加えられていた。
レーニンのリストには大勢の名前が並んでいた。その見出しを見ただけでも、最高学府のモスクワ大学教授、ペトロフスキー=ラズモフスキー農林学アカデミー教授、鉄道技師養成大学教授、自由経済協会事件に連座した人たち、考古学研究所反ソヴィエト教授、ベーレグ出版社とかかわりのある反ソヴィエト人物、第812事件関連者(アプリコーソフ・グループ)、反ソヴィエト農業経済学者および協同組合主義者、医師、反ソヴィエト・エンジニア、作家、ペトログラード著述家、ペトログラード反ソヴィエト知識人の特別リストなどが並んでいた。
9月22日、最初の一団120人を、モスクワから出発させた。
1922年末、レーニンは、秘密警察署長よろしく、チェキストたちに、ないがしろにされていた党の指令の処理方法について模範を示した。年末には、追放の問題に戻り、もうひとりの自由思想家N・A・ロジュコフについて、自分の主任秘書のリージャ・フォティエヴァを通じて、スターリンに電話で命令した。「第一に、ロジュコフを外国へ追放することを提案する。第二に、これが実現できなければ(たとえば、彼の高齢を理由に)ブスコフへ送り、何とか耐えられる環境に置き、暮らせる程度の金と仕事を与えよ。だが、監視は厳重にしなければならない。なぜなら、彼は現在も、これからも、最後までわれわれの敵でありつづけることは間違いないからである」。
こうして、レーニンは知識人追放方針を常套手段として現実化し、自ら率先して追放者リストづくりに手を染めていった。「われわれはこれから長期間にわたって、ロシアを浄化していく予定だ」。
浄化とは、つまり、知識人の良心をロシアから一掃することだった。その犠牲者の大半を彼は個人的に知っていたにもかかわらず、そういう人たちを槍玉に挙げることにためらいを感じることはなかった。後でのべる彼のゴーリキーへの手紙が、レーニンの知識人にたいする態度を表していたとすれば、スターリンへの覚書、命令はその具体的リスト指示だった。
1919年、ただし、この第1方針は、すでに、「戦時共産主義」時期において、カデット系知識人にたいして、大量に行なわれていた。カデット=立憲民主党は、1905年、モスクワで結成された自由主義政党である。自由主義地主とブルジョアジー、大学教授、弁護士や医師などの自由業インテリが中心だった。
ソルジェニーツィンは、『収容所群島』「下水道の歴史」(P.43)で、その大量逮捕の事実を暴露している。「一九一九年、ソビエト政権に対する真偽とりまぜての陰謀(《ナツィオナリヌイ・ツェントル》、軍の陰謀)をめぐって、モスクワ、ペトログラードその他の都市で名簿順の銃殺(というのはつまり、自由の身の人間をつかまえて即座に銃殺することだが)が大々的に行われ、またいわゆる立憲民主党周辺のインテリゲンチャがごっそり牢獄に放り込まれていった。
《立憲民主党周辺》とはどういう意味か? 君主制主義者でもなく、また社会主義者でもない、つまり、すべての学者、すべての大学人、すべての芸術家、すべての文学者、それにすべての技師たちである。極端な思想を持った作家、神学者、社会主義の理論家を除いて残りのインテリゲンチャ全部、すなわち、インテリゲンチャの八割までが《立憲民主党周辺》であった。レーニンの考えによれば、たとえば「ブルジョア的偏見の囚となった哀れなプチブル」コロレンコもその一人であり、こういう『才子ども』は数週間監獄に入っているのも悪くはあるまい」ということだった。
逮捕された人びとの個々のグループについては、私たちはゴーリキーの抗議文から知ることができる。一九年九月十五日、レーニンは抗議に答えて、「……ここにも間違いのあったことはわれわれには明らかだ」が、しかし「まったくなんという不幸だろう! なんという不公平だろう!」と慨嘆し、「腐りきったインテリどもの泣言に自分の力を消耗する」ような真似はしないようゴーリキーに忠告している」。
第2方針 逮捕・出国不許可、辺境地強制移住(=流刑)
1923年1月11日、政治局は、GPUにたいして「自由主義的な職業をもつ個人の監視を強化すると同時に、ソヴィエト政権の敵が害を及ぼさないようにする措置をとれ」という命令をだした。(1)国外追放だけでなく、(2)辺地への強制移住も徹底して行なわれた。
相当な人数にのぼる作家、学者、技術者らが窮地に追い込まれて、自力で国を出ようとした。だが、政治局とGPUはすばやく対応した。ヤーゴダは中央委員会にたいし、自分の担当するNKVDが、「著名人としてはジナイーダ・ヴェンゲ一ロヴァ、アレクサンドル・ブローク、フョードル・ソログーブら多数の作家の出国声明書」を受け取っていると報告している。「出国する作家たちは反ソヴィエト・ロシア運動をもっとも積極的に行っており、中でもコンスタンチン・バリモーント、アレクサンドル・クプリーン、イヴァン・ブーニンらは、きわめて恥ずべきことを率先して行う傾向があるため、チェーカーとしては彼らの出国申請を認めるのは妥当ではないと考える」と提案した。
ただ、1920年代はじめのソヴィエト連邦は、外国から外交面で認められ、受け入れられたいと願っており、世論も気になっていたので、世界的に名を知られた芸術家やインテリの扱いにはたいへん神経をとがらせていた。それゆえ、先に挙げたような人たちの大半は、やがて出国を許可された。しかし、ウクライナの知識人の処遇はちがっていた。政治局は、「彼らを、(1)国外へ追い出す代わりに、(2)ロシア連邦共和国内の辺境地へ追放すべきである」というウンシュリフトの提案を認めた。
第3方針 出国許可(=自主的亡命許可)
出国希望者はたくさんいた。とくにソヴィエト・ロシアにいては、創造的な仕事をつづけられる見通しはないと思った人たちは国を出たがった。集団で国外脱出を試みた人たちもいた。1921年5月、政治局は、モスクワ芸術座第一スタジオから提出された出国申請について審議し、ルナチャルスキーから、これまでに出国した学者、芸術家の中で、何人が実際に帰国したかについて報告書が届くまで、決定を延期することにした。出入国の実態はまったくの一方通行で、行き先は西側だった。
当初は、革命を創造的自由のユニークな契機と歓迎していた芸術家たちも、多くの場合、パリやベルリンなど、もっと寛大な環境を求めて国を出る準備をしていた。この分野でもまた、シャガール、カンディンスキー、ステイーンらの画家や、ディアギレフと彼の率いるロシア・バレエ、作曲家のプロコフィエフやストラヴィンスキーなど、ロシア芸術界の著名人の名が見られる。一流のソヴィエト市民が大勢亡命したということは、この国の制度に決定的な欠陥があったという紛れもない証拠だった。
第4方針 国外に出た亡命者グループ内でのスパイ活動、分裂工作
1923年、政治局はOGPUに、「国外にいる白衛軍の武装解除を徹底的に行い、彼らの一部をソヴィエト体制の利益のために利用する」ように指示した。その結果、OGPUに特殊任務のための外国課が設置され、ロシア人亡命者の間で徹底的なスパイ活動が展開された。その中には、「ソヴィエト政権にとってとくに危険な敵の一掃」も含まれていた。西側諸都市の工作員から送られた山のような報告書のファイルを見ると、当局がまず大勢の知識人を国外へ追放しておいて、今度は彼らを、スキャンダルや贈収賄を利用したり、グループ同士を対立させたりして、彼らを分離させることに全力を挙げていたことがわかる。公開されたファイルには、「ロシア出国者」という大きな見出しのもとに、著名な学者、著述家、政治家が集められ、亡命者の一挙一動が記録されている。
興味深いのは、ソヴィエト諜報部が反動思想の持ち主として追放した哲学者ベルジャーエフに巧みに取り入って信頼を獲得し、彼の名前と影響力を利用しようとしていたことである。だが、工作員カルによれば、彼は役に立ちそうもないと報告されている。なぜなら、「彼は共産主義の批判者で、唯物論的哲学の明確な敵であり、目的論しか論じたがらない」人物だったからだった。外国課のベルジャーエフ・ファイルには「表信者〔殉教はしないが迫害や拷問に屈せず、キリスト教への信仰を宣言し、それを守った男の意味〕」という見出しが付けられていた。OGPUの工作員たちは何度か取り入ろうとしたがやがてあきらめた。
4、レーニンの党派性−知識人の3分類法
〔小目次〕
第1分類、ボリシェヴィキ党員知識人
第2分類、「同盟者」知識人、同伴者文学の作家・詩人
第3分類、「反ソヴェト」「非ソヴェト」知識人
ソ連憲法は、知識人を「階層」と規定している。労働者、農民と知識人である。ソ連の統計は、労働者、農民、職員と知識人に分けている。以下は、文学を中心にのべる。その出典は、(1)ヴォルコゴーノフ『レーニンの秘密・下』第6章「知識人の悲劇」(P.176〜202)、(2)『新版・ロシアを知る事典』(平凡社)のロシア文学関係事項、(3)他のロシア文学関係文献である。ただ、いちいち出典とその頁は書かない。
その知識人「階層」を、さらに3分類するのが、レーニン、ボリシェヴィキの基本観点である。それは、知識人をふるいにかける党派的・階級的逆差別分類法である。レーニンの「浄化」思想と指令は、第3分類知識人全員を対象とした。その実践は、追放・強制収容所送りにより、彼らをソ連社会からの排除・絶滅しつくす路線だった。
第1分類、ボリシェヴィキ党員知識人
党員知識人によるプロレトクリト(=プロレタリア文化)が、1917年に結成された。文学分野では、ワップ(=全ロシア・プロレタリア作家協会)が作られた。1925年に、それはラップ(=全ロシア・プロレタリア作家協会)になった。
革命前の1905年、レーニンは、『党組織と党文献』において、「プロレタリアートと公然と結びついた文学」を強調した。ブルジョア文学に対抗するものとして、プロレタリアート自身による階級的芸術の必要性を訴えた。ソヴェト文学の創作・批評の基本的方法は、社会主義リアリズムである。そこには、思想性(イディノスチ)と党派性(パルティイノスチ)が要求される。「党派性」は、レーニンの用語で、文学における共産主義精神の発揚を目指さなければならないとするものである。
レーニンの基本方針は、知識人を党の管理下に置き、彼らを「党と革命のために」働かせることだった。政治局が「プロレトクリト(プロレタリア文化の略)」大会の問題を討議した時、レーニン、スターリン、カーメネフ、クレスチンスキー、ブハーリンらは、全員一致で、「プロレトクリトの党への従属」を擁護した。
トロツキーは、1925年、モスクワの作家と詩人たちにこういっている。「われわれは新しいプロレタリア詩人や芸術家たちを生み出す工場をもっている。だが、それはMAPP(モスクワ・プロレタリア作家協会)や、VAPP(全ロシア・プロレタリア作家協会)といったものではなく、RKP(ロシア共産党)である。同志たちは党にきて勉強すべきだ。党はプロレタリア詩人に教育し、純粋な芸術的作家をつくり出す。それゆえ、共産主義作家は、党員として、党内での創作活動に注意を集中しなければならない」。
ロシアの文化と知識人の悲劇は進行しつつあった。党への忠誠心は彼らの創造的自由を奪うことになる。初歩的な社会主義思想が理解できる国民をつくるため、ボリシェヴィキは素朴な知的文献を国民に与えた。その一方、読むのを禁じられた文学の分野は、その後70年間に常識を超えた範囲にまで広がった。ソヴィエト知識人の教育は、『党組織と党文献』の中に編み出されている。これによれば、(1)文学は党の仕事であり、(2)新聞は党組織の管理下に置き、(3)作家は党員でなければならないと明示されている。いったんレーニンが政権の座についてからは、こうした考え方がひとつの政策になった。
そこから、まず、第一に、知識人をふるいにかけなければならない。党と革命が要求するものに応じられない人たちを排除しなければならない、という発想につながった。
第2分類、「同盟者」知識人、同伴者文学の作家・詩人
これは、プロレタリア作家ではないが、十月革命への同調を示した作家たちとその作品を言う。レオーノフ、エセーニン、A・N・トルストイ、エレンブルグ、マヤコフスキー、パステルナークら、旧知識人系、農民系、都市小市民系、帰国者や芸術左派戦線所属者などがこの名前で呼ばれた。
しかし、ワップの後を引き継いだラップは、共産主義世界観に偏った創作方法を掲げ、非プロレタリア系作家への攻撃を強めた。ラップは、同伴者文学擁護派との激しい論争を繰り返し、創作・批評における政治主義的傾向を強め、ゴーリキーやショーロホフを含む非プロレタリア系作家に、「卑属社会学的、世界観偏重」の非難を浴びせ、その批評はラップの棍棒と怖れられた。
プロレタリア派が力を得るにつれて、非共産党員作家にたいする論難はきびしくなった。ついには、「同盟者か敵か」「われらか敵か」として、圧力が加えられた。ザミャーチンは、1905年以来のボリシェヴィキ党員で、ゴーリキーとともにロシア文学の中心で活動していた。彼のSF小説『われら』や短編にたいしても、強烈な攻撃が始まった。彼だけでなく、ゴーリキー、エレンブルグ、マヤコフスキー、エセーニン、《セラピオン兄弟》グループも激しい攻撃にさらされた。1925年エセーニン自殺、1930年マヤコフスキーが自殺する。ザミャーチン『われら』の一節は、この状況をもっとも先鋭的に浮き彫りにした。『われら』では、主人公D-503号は「覚え書」を40まで書くが、すでにこれは反逆行動で、I-330号との恋愛もそうである。
彼は「覚え書」にこう書いた。「私でなく<われら>である。<われら>は神に、<われ>は悪魔に由来する。すべての人も私も単一の<われら>なのであるから」。
第3分類、「反ソヴェト」「非ソヴェト」知識人
これには、第1、第2分類以外の知識人全員が入る。それは膨大な数になる。レーニンは、それらに「反ソヴェト」知識人というレッテルを貼りつけ、その肉体的排除4方針を指令し、第1回発作の病み上がり状態で、強制執行した。
レーニンの「ブルジョア」知識人にたいする党派的見方のいくつかを、明らかにしておく。
1908年、レーニンは、レフ・トルストイを分析して、創造的芸術家への自分の見解を詳しく論じている。「ロシア革命の鏡としてのレフ・トルストイ」という題のこの論文は、レーニンがこの作家を革命という観点からのみ見ていたことがわかる。レーニンにとってトルストイは必要だった。なぜなら、トルストイはロシアの知識人の無力さ、無意味さを彼に示してくれた鏡だからである。
(トルストイは)、一方では、ロシアにおける生活の比類のない画像を提供したばかりでなく、世界文学の第一級の作品を提供した天才的な芸術家。他方では、キリストをばかみたいに信じている地主。一方では、社会的な虚偽と偽りにたいするすばらしく力強い、直接的で心からの抗議、他方では、「トルストイ主義者」、すなわち、公衆の面前で自分の胸をたたきながら、「私は醜悪だ、私はけがらわしい、しかし私は道徳的自己完成を求めている。私はもはや肉を食わず、今は揚餅を食べている」という、ロシアの知識人と呼ばれる生活に疲れた、ヒステリックな意気地なし。
レーニンは。ナロードニキの哲学者・作家チェルヌイシェフスキーの革命小説『何をなすべきか』を愛読した。彼は、自分の著作に同じ題名『なにをなすべきか』を付けただけでなく、その一方で、ドストエフスキーの『悪霊』について次のように発言した。ネチャーエフは、ナロードニキ革命組織内での裏切り者を殺害した指導者である。ドストエフスキーは、その事件を『悪霊』で、その殺人心理と革命家の倫理を鋭く批判的に探求した。「『悪霊』のような反動的な小説を読む時間は私にはない。この小説によってネチャーエフのような人の存在がおとしめられている。ネチャーエフのような人はわれわれにとって必要だったんだ」(1943年、雑誌「三十日間」に掲載)。
『ドストエフスキーと革命思想殺人事件の探求』『罪と罰』『悪霊』『大審問官』
1919年9月15日、レーニンはゴーリキーに長い手紙を書いた。その頃ドイツにいたゴーリキーは知識人たちの逮捕を案じる手紙をレーニンに送ってきていた。レーニンに抗議し、知識人の保護を要請するゴーリキーの手紙は、自由を求める彼の最後のあがきにも見える。レーニンの返事は、彼の知識人にたいする基本姿勢が表明されている。それは、教条的で、怒りに満ち、命令調の冷酷なものだった。彼は逮捕に「間違いがあった」ことを認めつつも、「たしかに立憲民主党員(カデット)およびそのシンパの逮捕は、当然であり正しかった」と結論していた。
レーニンはさらにこう続けた。「労働者や農民の知的エネルギーは、自分たちこそこの国の頭脳であると思い込んでいるブルジョアやその仲間、知識人、資本主義のお先棒かつぎたちを打倒する闘いにおいて強化されつつある。実際、彼らはこの国の頭脳どころか、ただのくそったれなのである」。
レーニンによる知識人への「党派的」分類法からすれば、第3分類知識人は、聖職者・信徒と同じく、その存在自体が反革命そのものか、または、反革命の火種という危険階層となる。そこから、彼ら全員を4方針で肉体的排除しつくす「作戦」の発想が、必然的に生れた。
マルクスは、権力を取っていない知識人社会主義者だった。それにたいして、レーニンは、ボリシェヴィキ単独武装蜂起クーデターによって権力奪取したが、労働経験がない知識人マルクス主義者だった。知識人特有のうぬぼれたエリート思想から、科学的社会主義理論は上から=知識人から注入されなければならないという「注入理論」を創作した。それは、知識人が遅れた大衆を啓蒙するという「ヨーロッパ啓蒙思想」の系譜につながるものだった。同時に、それは、国外追放された哲学者ベルジャーエフが指摘したように、ヨーロッパ・キリスト教の「一神教」=異端教義排除の「攻撃的排他宗教」の本質をも具有していた。レーニンがカウツキーに貼り付けた『背教者カウツキー』というレッテルは、キリスト教の宗教用語そのものである。
その系譜と教義を信奉する第1分類知識人のスイス長期亡命革命家レーニンは、1917年4月ドイツ軍部の封印列車に乗って帰国した。そのわずか7カ月後に、一党独裁クーデター政府の最高権力者となった。彼が、同じ階層である第3分類知識人にたいし、どういう態度をとるかは自明のことだった。それは、戦闘的無神論に基づく、聖職者にたいする全員銃殺作戦の知識人版といえるものとなった。
彼は、3分類逆差別でふるいわけるだけでなく、同一階層の知識人として、党独裁クーデター政府を支持しない異端教義知識人がソ連国内に存在する危険性を、だれよりも、恐怖をもって洞察することができた。そこでのレーニンの心理は、上記スターリン宛の覚書にある「浄化」という言葉に集約的に表されている。「浄化」とは、彼にとって、第3分類知識人にたいして、「われらか敵か」の踏絵を踏ませ、従わない知識人に「人民の敵」レッテルを貼りつけ、「反革命活動に加担」とでっちあげ、チェーカーの暴力を使用し、4方針で肉体的排除を完遂することだった。
従来から、マルクス主義者は、アクトンの「すべての権力は腐敗する、絶対的権力は絶対的に腐敗する」というテーゼを普遍的真理と認め、資本主義体制権力者にたいしてそのテーゼを適用し批判してきた。しかし、国家権力奪取クーデターに成功したマルクス主義革命家は、このテーゼを自らに適用することに、拒絶反応を示した。資本主義国のマルクス主義者たちも、それをレーニンにたいして適用しようという発想を抱かなかった。ところが、1989年から1991年にかけて、10の一党独裁国家とその前衛党が一挙に崩壊し、その「秘密資料」の一部が公表された。それ以降、スターリンだけでなく、レーニン、チャウシェスク、ホーネッカーなど、すべての一党独裁国前衛党最高指導者にも、そのテーゼが当てはまることが証明された。もし、レーニンの6000点以上の「秘密資料」が完全公開されれば、レーニンの絶対的腐敗の証明度は、さらに高まるであろう。
5、「反ソヴィエト」レッテル知識人の実態と言動の性質
〔小目次〕
2、他党派系・無党派系知識人が抱き、発言した批判事項 (表1)
レーニン、政治局、チェーカーは、「反ソヴェト」知識人、または「積極的な反ソヴェト」知識人というレッテルを貼りつけて、数万人の肉体的排除「作戦」を完遂した。その「反ソヴェト」というレッテルに、根拠があるのかどうかを検討する。問題は、第3分類知識人が、実際の反革命活動に加担したかどうかである。その根拠は一切明示されていない。実際にあったのは、ボリシェヴィキ一党独裁権力の誤った路線・政策にたいする批判・抵抗、または、不支持である。それは、反革命・「反ソヴェト」という性質ではない。
1、第3分類知識人の党派支持有無関係による5つの分析
(1)、カデット(立憲民主党)系知識人
保守だが、自由主義者である。1905年に結成され、ツアーリ帝政に批判的であるとともに、ボリシェヴィキ一党独裁にも批判的立場である。自由主義的地主とブルジョアジー、大学教授、弁護士、医師などの自由業インテリが中心だった。この政党・党員や周辺知識人たちが、レーニン批判をしたとしても、党全体の方針として、白衛軍に加担したり、反革命活動に参加した証拠はない。
1917年8月、コルニーロフ反乱のとき、臨時政府内のカデット閣僚4人が辞任したのは事実である。しかし、カデットが政党として、その反乱に加担したとする証拠は出なかった。レーニンは、ブルジョア政党・機関紙にたいするプロレタリア独裁=諸権利剥奪を執行したが、カデットを反革命政党だとしたのは、彼の恣意的なでっち上げである。
しかし、レーニンは、「浄化」の第1対象として、はやくも、1919年に彼らを大量逮捕し、肉体的排除4方針を執行した。これは、反革命の恐怖におののく25%少数派レーニンらによる予防拘禁・予防追放措置だった。ソルジェニーツィンは、上記引用のように、インテリゲンチャの8割までが《立憲民主党周辺》としている。ゴーリキーが抗議した手紙内容とレーニンの返事は、この逮捕・追放に関するものである。
(2)、メンシェヴィキ(ロシア社会民主労働党)系知識人
プレハーノフ創立の伝統を受け継ぐロシアのマルクス主義政党である。二月革命以降、レーニンの2段階プロレタリア革命路線とマルトフらのブルジョア革命路線とに分離した。労働運動、二月革命で中心的役割を果した。7月には、党員が20万人になった。レーニンの10月単独武装蜂起以降、その対立は決定的になった。その路線から、レーニン・ボリシェヴィキ批判は一貫していた。しかし、白衛軍に加担した事実はない。
1918年5月、トロツキーはシベリア鉄道で帰国中のチェコ軍団4.5万人の武装解除という残酷で誤った命令を出した。完全武装の軍団は、全員虐殺命令と受け留め、鉄道沿線で反乱を起こした。この時期、白衛軍の反乱は発生していない。メンシェヴィキは、沿線周辺で、壊滅したボリシェヴィキ政府に代わって、メンシェヴィキ地方政府を創った。これは、反革命への加担と異なる。
レーニンとチェーカーは、彼らを監視、逮捕し、非合法化と合法化を繰り返し、意図的に弾圧した。1921年2月、ペトログラードの労働者大規模ストライキに逮捕を免れていた党員たちが参加した。しかし、ペトログラード・チェーカーにより、その労働者・党員たち5000人が逮捕され、拷問死、銃殺、強制収容所送りされ、党組織はほぼ壊滅させられた。
(3)、エスエル(社会主義者・革命家党)、左翼エスエル系知識人
革命的ナロードニキ運動の伝統に立つロシアの革命政党である。「土地社会化」綱領を掲げ、国民の80%を占める農民の大きな支持を受けた。二月革命後、党員は100万人を越えた。1917年11月のボリシェヴィキ単独政権が行った憲法制定議会選挙で、707議席中、438、得票率40.3%を得て、第一党になった。しかし、12月に、ボリシェヴィキ支持の左翼エスエルが分裂する。
レーニンは、「分裂前のエスエル統一名簿だから選挙は無効」といいがかりをつけて、憲法制定議会武力解散の暴挙をした。得票率24.0%ボリシェヴィキによる第2次クーデターにたいし、左翼エスエル以外の全党派がこれに猛反発した。メドヴェージェフは、ソ連崩壊後の新資料に基づき、この武力解散を内戦の第1原因と規定した。左翼エスエルは、ボリシェヴィキと連立政権を組んだが、1918年3月のブレスト講和条約に反対して、3カ月間だけで連立を離脱した。
二月革命以降の農民ソヴェトによる自力の土地革命を支援し、一貫して、最初から現物税、自由商業を主張した。それは、1921年3月のレーニン「ネップ=新経済政策」内容を先取り提案していた。よって、レーニンの1918年5月からの「食糧独裁令」に反発し、ボリシェヴィキへの批判を強め、レーニンのチェーカー・赤軍暴力支配体制、軍事=食糧割当徴発にたいして、武装抵抗もした。
ただ、タンボフで農民反乱を起すことに、党は反対だった。しかし、エスエル党員である反乱指導者アントーノフが、党の方針に逆らって、レーニンによる過酷な「軍事割当徴発」にたいして、武装抵抗をした。レーニンは、その真相をタンボフ県チェーカーからの報告によって承知した上で、それをエスエルの武装反乱、陰謀とでっち上げた。1921年4月タンボフの森に逃げ込んだ「反乱」農民にたいする毒ガスの使用をも指令した。1921年6月裁判なし射殺指令を発して、数万人の農民とともに、エスエル・左翼エスエルとその知識人を大量虐殺、殲滅した。これらが、レーニン生存中における意図的な他党派殲滅=一党独裁政治体制完成の真因である。
(4)、アナキスト系知識人
ロシアのアナキズムは、民衆と知識人の側における組織されない分散した点の抵抗として、世界でも例をみないほどの広がりを持った。バクーニン、クロポトキンらの思想的影響と伝統は根強かった。ナロードニキ運動と一体化したときのアナキズムは、テロリズムを前面に押し出した。ウクライナのマフノ軍は、農民の強い支持を受け、最盛期には5万人以上の勢力を持ち、ボリシェヴィキと協力して、ドイツ占領軍や白衛軍とたたかった。しかし、レーニンの食糧独裁令に反対し、1920年〜21年、赤軍との戦闘で敗れ、双方に数万人の犠牲者を出した。1921年3月、革命の栄光拠点クロンシュタット事件では、アナキストが大きな役割を果した。そのアナキズム思想から、ボリシェヴィキの中央集権強化路線・一党独裁システムには、強烈な批判を持った。
(5)、無党派系知識人
特定の党派に属さず、非ソヴェト無党派系の知識人も多数いた。しかし、レーニン式の「われらか敵か」という知識人ふるいわけ手口からみれば、彼らも「反ソヴェト」知識人=「人民の敵」に自動的に入れられる。「ボリシェヴィキ党独裁支持のわれら、同盟者」以外は、「敵、反革命」と見なすという極端な国民・知識人二分法が、レーニンの偏った階級闘争理論の根幹をなしていた。『第3部』で検証したのは、「農村における階級闘争」という非現実的な空想的社会主義理論だった。彼の「浄化」理論は、それを知識人ふるい分けに持ち込んだ根本的に誤った犯罪的理論だった。
これら5つの第3分類知識人階層は、ロシア社会において、帝政時代や、1917年二月革命時期も、数万人の聖職者と並んで、大きな思想的・精神的影響力を持っていた。彼らは、レーニンのしたことにたいするもっとも根深い批判勢力を形成していた。
2、他党派系・無党派系知識人が抱き、発言した批判事項
「反ソヴェト」「積極的な反ソヴェト」の内容は何なのか。知識人たちが、国家権力に批判的見解を持ち、それを言動に表すのは、当然のことである。第3分類知識人たちが、レーニン・ボリシェヴィキ党独裁クーデター権力にたいし批判し、不支持を表明した事項は多々ある。ここでは、その項目の〔関連ファイル〕リンクにとどめる。日付は新暦にした。彼らは、『第1部』から『第7部』におけるレーニンによるソヴィエト権力簒奪6連続クーデターのすべてにたいし、批判を持ち、発言もした。
下記項目に関する批判的言動は、「反ソヴィエト」どころか、ソヴィエト権力擁護の発言である。レッテルを付けるとすれば、ソヴィエト権力簒奪7連続クーデターを続けたレーニンこそ「反ソヴィエト」知識人となる。
(表1) 他党派知識人によるレーニンの連続クーデター批判事項
年 |
月日 |
クーデター |
レーニンのソヴィエト簒奪7連続クーデター事項 |
1917年 |
11月7日 |
第1次 |
ボリシェヴィキ単独武装蜂起・単独権力奪取 |
11月8日 |
カデット機関紙「レーチ」、ブルジョア新聞閉鎖措置 |
||
1918年 |
1月5日 |
第2次 |
憲法制定議会の1日目武力解散 |
3月3日 |
ブレスト・リトフスク講和条約−左翼エスエルが批判し、連立離脱 |
||
5月13日 |
第3次 |
食糧独裁令、軍事割当徴発、革命農民への内戦開始。〜21年3月 |
|
6月14日 |
第4次 |
ソヴィエト執行委員会から他党派排除。批判・反対運動の鎮圧 |
|
1921年 |
2〜3月 |
第5次 |
ペトログラードの革命労働者ストライキ弾圧 |
3月 |
第6次 |
クロンシュタット水兵の平和的要請・自由で平等なソヴィエト新選挙運動鎮圧 |
|
1922年 |
2〜5月 |
教会財産没収、聖職者数万人銃殺・信徒数万人殺害 |
『見直し「レーニンがしたこと」−レーニン神話と真実1917年10月〜22年』ファイル多数
第1部『1917年10月、レーニンによる十月・ソヴィエト権力簒奪第1次クーデター』
第2部『1918年1月、憲法制定議会の武力解散・第2次クーデター』
第3部『1918年5月、革命農民への食糧独裁令・第3次クーデター』
第4部『1918年6月、他党派をソヴィエトから排除・第4次クーデター』
第5部『1921年2月、革命労働者ストライキの弾圧・第5次クーデター』
第6部『1921年3月、革命水兵の平和的要請鎮圧・第6次クーデター』
第7部『1921年3月〜22年末、「ネップ」後での革命勢力弾圧継続・強化』
ただ、私は、ブレスト条約については、領土一部放棄などの屈辱的内容があるにしても、「土地、平和、パン」スローガンにおける「平和」を回復する手段として、やむをえない、正当な選択だったと判断している。しかし、上記項目の他路線、政策は、ソ連崩壊後、「レーニン秘密資料」「アルヒーフ(公文書)」がかなり公開されてきた21世紀の現時点で見ると、すべてレーニンの重大な誤り、誤った大量殺人=「人道にたいする前衛党犯罪」だと考えている。
6、肉体的排除「浄化」データ (表2、3、4)
レーニン提唱・督促・自らリストアップという3方針で肉体的排除をした知識人総計について、ヴォルコゴーノフは数万人としている。しかし、その詳細な内訳データは発掘・公表されていない。ただ、党独裁システム挙げての(1)コード名「作戦」として、かつ、(2)「浄化」思想に基づき、ソ連全土において強行されたので、(表2)の判明人数には留まらないであろう。
(表2) レーニン指令による肉体的排除「浄化」の判明数
方針 |
規模 |
出典 |
逮捕・国外追放 |
1922年6月、「飢餓と闘う全露社会委員会」代表2人 1922年9月22日、第一次追放120人 1922年秋、160人 1922年末、300人の人道主義者が、汽船に詰め込まれてヨーロッパのごみ捨て場へ送り出された。全体の人数は不明 |
『黒書』P.138 『レーニンの秘密』 『われら』解説 『収容所群島』 |
逮捕・出国不許可、辺地強制移住、強制収容所送り |
ウクライナの知識人 『われら』作者ザミャーチンは逮捕・出国不許可 |
『レーニンの秘密』 『われら』解説 |
出国許可 |
コサック約3万人、ドンコサック合唱団亡命。亡命者200万人+内戦犠牲者700万人、飢饉死亡者500万人 |
川端『ロシア』 |
総計 |
知識人肉体的排除3方針の総計数万人 具体的数字は不明。しかし、レーニンは「排除人数」報告を要求しているので、そのデータは「レーニン秘密資料」6000点の中にある筈 |
『レーニンの秘密』 |
ロシア革命史において、レーニンとスターリンとの連続性・非連続性は、重要な研究テーマである。粛清・大量殺人犯罪の面では、連続性が基本だということは、ソルジェニーツィンが『収容所群島』で証明した。ロイ・メドヴェージェフ『共産主義とは何か』(三一書房、1973年、絶版、原著1971年)も、ソ連崩壊前のデータとして、スターリンによる知識人大量逮捕・殺害事実を驚くほどの緻密さで論証した。ソ連崩壊後の研究においても、2人の連続犯罪を否定する研究者はいない。ただ、スターリンは、レーニンの大量殺人犯罪路線を忠実に継承しつつも、その形態・規模を拡大し続けた。(表3)は、知識人粛清データだけを載せた。
ソルジェニーツィン『収容所群島』第2章わが下水道の歴史、レーニンの犯罪
(表3) スターリンによるレーニン路線継承の知識人大量逮捕と死亡数
分野 |
逮捕・銃殺・拷問死・強制労働死の規模 1930年代後半 |
出典 |
文学 |
作家同盟にいる作家、詩人、劇作家、評論家などの1/3の600人逮捕。ほとんどが拘禁中に死亡、銃殺、強制収容所で餓死 各共和国の作家組織も大きな損害−ウクライナ、グルージァ、アゼルバイジャン、カザフスタン、タタールなど パステルナーク、レオーノフ、エーレンブルグを「形式主義的偏向」の罪があると批判 |
ロイ・メドヴェージェフ『共産主義とは何か・上』(P.376) |
芸術 |
多数の有名俳優、芸術家、映画人、音楽家、建築家、画家の逮捕 舞台監督メイエルホリド狩り、「形式主義」と批判、メイエルホリド劇場閉鎖。彼は、「逮捕され、とくに苦しく手のこんだ責苦をうけたのち、肉体的にほろぼされた」 映画監督ドブジェンコ、エイゼンシュタインにも批判 |
『同』(P.381) |
学問 |
何千人という学者が滅ぼされた。学術雑誌で始まった論争と討論は、内務人民委員部の拷問部屋での拷問と銃殺に終わった。逮捕・銃殺の範囲は、歴史学、哲学、教育学、言語学・文献学、数学、生物学と農業、医学に及んだ 農学者ルイセンコは、逮捕開始を利用して、多くの著名な生物学者と農学者への誹謗カンパニアを展開した。彼らへの逮捕、弾圧は異常に広まった。遺伝学、品種改良学、農芸化学、微生物学、植物学のあらゆる分野の学者が逮捕され、拷問死・獄死し、強制収容所で死んだ |
『同』(P.365) |
技術 |
技術インテリゲンツィア、有名な学者、発明家と設計者、何百何千の企業の企業長、技師長、職場長にも大弾圧がふりかかった。航空機製造技師、兵器関係設計者・技師、水力発電・製鉄・自動車製造、鉄道関係の工場長、技師、幹部が逮捕され、死んだ ベロルシア鉄道長は、代理の逮捕を知って、妻と息子を射殺したうえ自殺した |
『同』(P.373) |
総計 |
『共産主義とは何か』は、被粛清者のうち、有名な百数十人の名前を記載。ただし、その総計は不明 メドヴェージェフは、下記データでスターリン大テロル時期に、共産党員100万人、元共産党員100万人が、銃殺・拷問死・強制労働死したと推計している |
(表4) メドヴェージェフによる「スターリニズムの犠牲」の推計
時期 |
事項 |
逮捕・流刑・強制移住にあった者の数 |
うち死亡 |
1920年代末 1920年代末〜30年代初 1929〜32年 1933年 1935年 |
党内反対派 ブルジョア民族主義者、ブルジョア専門家、ネップマンなど 富農撲滅 飢饉 キーロフ暗殺後の旧分子摘発 |
数万 [100万] 数十万 1000万 ――― 100万 |
?(多く一旦許されるが後処刑) ?(スターリン後の釈放まで生きのびたのは数万か) ?(苛酷な生活条件下ではあるが、多くが生きのびた) 600万[600〜700万] ? |
犠牲者小計 |
1700〜1800万 1) |
1000万 |
|
1937〜38年 1939〜40年 1941年 1942〜43年 戦中〜46年 1947〜53年 |
大テロル 西ウクライナ西白ロシア、バルト3国、ベッサラビア、ブコヴィナ併合 ドイツ人の追放 カルムィク人、チェチェン人、イングーシ人、クリミア、タタール追放 ドイツ占領時の占領軍協力 レニングラード事件、コスモポリタン狩り、その他 |
500〜700万 2) 200万 ?[200万弱] 300万 500万 1100万[100〜150万] |
死刑100万+獄死? ? ? 100万以上 ? ? |
総計 |
?[4000万] |
? |
1)飢饉の死者を含む。
2)うち党員約100万、除名されていた元党員約100万、非党員300〜500万
出典《Московские новости》、1988、No.48
表の訳出と解説−塩川伸明「終焉の中のソ連史」(朝日選書、1993年、P.340)に所収
7、1922年5月第1回目脳梗塞発作症状と「浄化」作戦遂行時期
〔小目次〕
2、第1回発作後の症状、知能状態 1922年6月〜7月
3、知識人の大量追放「作戦」時期と病状 1922年6月〜年末
レーニンは、3回の発作を経て、死去した。
第1回、1922年5月26日、最初の動脈硬化症・脳梗塞発作。夏、ゴールキで静養。
第2回、1922年12月16日。その後、12月23日〜26日、『党大会への手紙』口述。
第3回、1923年3月10日。以後、口述も不可能。
死去、 1924年1月21日。公表された死因は、動脈硬化症・脳梗塞発作。
2、第1回発作後の症状、知能状態 1922年6月〜7月
この症状、知能状態も、ヴォルコゴーノフが「レーニン秘密資料」により初めて明らかにした。その個所(P.259〜261)をそのまま引用する。
「ボリシェヴィキ政権獲得後の数年間とそれに伴う重圧で、レーニンの神経の傷つきやすさが表面化した。それは一九二二年五月に最初の脳梗塞の発作を起こしたあと、目立つようになった。発作を起こした時、クレメル教授は次のように記している。彼の病気の原因は頭の使いすぎばかりではなく、脳血管の重大な変調によるものであった。脳への血液供給の異常は、精神機能障害と密接に関連しており、一九二二〜二三年にレーニンを治療した医師の大半が精神科医と、神経専門医であったのはそのためだった。医学文献によれば、脳動脈の劣化による精神疾患は、徴候として、持続性の頭痛、いらだち、不安、鬱病、固着観念などの形で表われるという。レーニンはこれらの症状のすべてを示した。
レーニンの病気が、政権の座にあった彼の行為にどのような影響を及ぼしたのか、明確に証明することはむずかしい。レーニンは病気になる前から苛酷な命令をどんどん出していた。とりわけ一九一八年にはそれが目立つ。だが、そうした決定もまた、神経の緊張が高まった時になされていた。ストレスが高ければ高いほど、これらの決定はより極端で苛酷なものになった。強大で、監視機構のない、無制限の権力が、彼の心の病的傾向を悪化させたことは明らかのように思われる。
すでに述べたように、レーニンがロシアの知識人の追放をはじめたのは、一九二二年八月〜九月であった。ロシア文化の花を追放する――実際は根絶する――という発想は、病気か、あるいはよほど頭の硬化した人間でもなければ思い浮かぶはずがなかった。だが、この事件のわずか一〜二カ月前には、病床のレーニンはクループスカヤの助けを借りて、文字の書き方を練習したり、小学生程度の計算問題を解こうとしたり、ごく簡単な聞き書きの練習をしていたのである。彼はかろうじて読める、ぎこちない字を何頁も書いた。その年五月、脳梗塞発作のあと、彼にはひどい記憶ちがいが起こるようになり、物事にたいする反応が緩慢になった。彼はぼうっとしていた。クレメル教授は次のように記している。彼はもっとも初歩的な計算を行うことができず、ごく短い語句さえ思い出せなかったが、理解力、思考力は完全だった。
彼の理解力、思考力は完全だったという神経専門医の断言を疑いたくなる根拠はたしかにあった。彼の妹マリヤの回想によれば、五月三十日に、「医師たちから12×7の計算をするようにいわれて、それができなかった彼はひどく落ち込んだ。だが、彼は持ち前の意固地さを発揮した。医師たちが帰ったあと、この間題を解こうと三時間にわたって苦闘し、足し算でこれを解決した(12+12=224、24+12=36、など)」。そんな状態から一カ月もしないうちに、レーニンは、(1)知識人の追放、(2)「処刑を含む秘密警察GPUの法的に正当と認められない措置」の承認、(3)コミンテルンの戦術と戦略の決定というようなきわめて重大な決断をしていた」。
3、知識人の大量追放「作戦」時期と病状 1922年6月〜年末
ソルジェニーツィンは、『収容所群島』で、5月19日付の秘密・手紙を載せた。それによって、レーニンが、第1回発作の5月26日前から、すでに、知識人の大量追放に関する準備指令を出していたことが立証された。
「12×7」の計算ができなかった5月30日の病状から、1カ月しか経っていない「精神・神経病患者」が、この「作戦」を指令、督促し、追放リストを点検した。そして、知識人数万人の肉体的排除を強行した。山内昌之教授が、レーニンの革命家と政治家とのはざ間、そこでの精神と肉体に関し、鋭い検証をしている。
山内昌之『革命家と政治家との間』レーニンの死によせて
1922年8月のレーニン(『レーニンの秘密』(P.183)写真)
第7次クーデターを指揮・命令中のレーニン
8、党独裁社会の「浄化」文化大革命→アンチ・ユートピア単一国出現
〔小目次〕
2、レーニン命令による知識人追放「作戦」=「浄化」の性質と位置づけ
4、第7次クーデターの特徴と結果→アンチ・ユートピア単一国出現
レーニンが知識人追放作戦に使った「浄化」という用語の意味をまず確認する。
和英辞典では、1、〔清めること〕purification。浄化するpurify。2、(不純分子の)粛清a purge;〔政治腐敗などの一掃〕a cleanup。3、浄化するpurge; clean up。政界を浄化するclean up the political world。4、他の使用法。浄化運動a
cleanup campaign; a campaign to clean up。浄化設備sanitation
facilities; 〔下水の〕sewage treatment facilities。浄化槽〔飲料水の〕a purification tank; 〔下水の〕a septic tank。浄化装置a purifying facilityなどがある。
英和辞典を見ても、「浄化」は、purify、purge、cleanupという英語である。それらは、(1)自然科学、(2)人間の精神面にかんして用いられる。それとともに、(3)政治においては、浄化する、清める、粛清する、一掃するという意味である。ただ、レーニンがどのようなロシア語を使ったのかは、レーニンのスターリン宛「浄化」覚書・電話命令を発掘・公表したヴォルコゴーノフも、ニコラ・ヴェルトも書いていない。
インターネットで「浄化」を検索すると、他に「民族浄化」という用語が出てくる。民族浄化(英:ethnic cleansing)は、複数の民族集団が共存する地域において、ある民族集団が別の民族集団を強制移住、大量虐殺、迫害による難民化などの手段によってその地域から排除しようとする政策。これは、ユーゴ問題からよく使われるようになった。
2、レーニン命令による知識人追放「作戦」=「浄化」の性質と位置づけ
レーニン・トロツキー・オルジョニキッゼらは、1919年〜20年にかけて、コサック400万人を大量殺人・強制移住などで根絶させる作戦を遂行した。コサックは民族ではなく、ロシアにおける一種独自な階層だった。ロシア人だが、ツアーリ帝政との関係を持った特殊な階層だった。それだけに、レーニンはコサックを未来の「反乱」因子を内蔵する階層と危険視し、その根絶を企んだ。このデータは少ない。しかし、これも「知識人階層浄化」以前に遂行された「コサック階層浄化」でなかろうか。ロイ・メドヴェージェフが批判するように、この性質は、レーニンらによる予防的な飢死殺人犯罪だった。スターリンもそれを継承した。
『コサック30〜50万人殺戮、強制移住による餓死殺人』コサック「階層浄化」作戦
知識人は階層である。となると、レーニンの「作戦」は、上記の用語法から見ると、「階層浄化」と言える。それは、ソ連全土から、第3分類知識人を根絶させ、ボリシェヴィキ支持知識人だけの社会に「純粋化」「単一国化」しようと企んだ作戦である。聖職者数万人銃殺・信徒数万人殺害犯罪は、(1)コサック「階層浄化」に続く、(2)二度目の「階層浄化」になる。そうなれば、(3)「知識人階層浄化」は、レーニンら党独裁政権による三度目の「階層浄化」になる。
第3分類(1)〜(5)の知識人たちが、その当時、レーニンの6連続クーデターに批判的見解を持ち、その批判を言動に表したのは当然で、かつ、正当な言論の自由権に基づく行為である。たしかに、その言動内容は、レーニン批判、ボリシェヴィキ批判だった。しかし、それは「反革命」活動でも「反ソヴェト」行為でもない。
ところが、レーニン・政治局・チェーカーは、レーニンの路線・政策批判を口にする知識人すべてに、「反ソヴェト」「積極的な反ソヴェト」知識人というウソのレッテルを貼りつけ、反ソヴェト・グループ分布表を創った。かつ、「12×7」の計算ができず、第1回目脳梗塞発作病み上がりのレーニンがその追放リストを繰り返しチェック・指令し、数万人の肉体的排除を遂行した。
その追放作戦の性質を、レーニン自身が「浄化」と規定した。1922年秋におけるスターリン宛の覚書で書いた。電話命令でも指示した。それらで3回も使った(ヴォルコゴーノフ『レーニンの秘密・下』P.187〜189)。それを、もう一度確認する。
ところが、レーニンは、その直前、1922年大飢饉最中において、トロツキー・カーメネフに指令した教会破壊・教会財産没収、聖職者数万人銃殺・信徒数万人殺害においても、「浄化」用語を使った。それを合わせると、4回もその思想を表明している。
〔第1回〕、1922年3月11日。「同志トロツキー、〈掃き清められた〉(=「浄化」された)教会の数に関する情報を発注(=発送?)されたものと思いますが…。ではごきげんよう! 一九二二年年三月十一日 レーニン」(最新資料研究ロシア中央文書保管所、フォンド二、資料一六六六、ファイル一〜二)。これは、ヴォルコゴーノフ『七人の首領−レーニンからゴルバチョフまで』(朝日新聞社、1997年、原著1995年)にある。訳文が〈掃き清められた〉となっているが、「浄化」と同じ用語だと思われる。
〔第2回〕、1922年9月5日の数日後。こうしたリストをつくり上げ、そのような紳士数百人を容赦なく国外へ追放すべきである。そうすれば、われわれはロシアを一度に浄化することになる。
〔第3回〕、同覚書。「作家の家」および『ムイスリ(思想)』[ペトログラード]関係の執筆者全員、ハリコフは絶対捜し出さねばならない。われわれはそこで何が起こっているのかまったくわからない。われわれにとって、まったく外国同然だ。これを速やかに浄化する必要がある。
〔第4回〕、1922年末。われわれはこれから長期間にわたって、ロシアを浄化していく予定だ
それらの行為こそが、レーニンの「浄化」という言葉の本質である。(1)批判・抵抗・不支持の知識人、(2)存在すること自体が異端である聖職者を、銃殺、裁判なし射殺、強制収容所送り、拷問死、強制労働死、国外強制追放、辺境地移住などの肉体的排除手段によって、ボリシェヴィキ党独裁国家を「浄化」し抜くことが、レーニンの権力目的だった。レーニンは、まさに、「権力のための権力者」として、「国家と革命」の浄化目的のために手段を選ばないという、強靭な信念を持つ、異様な天才だった。
国家権力を握った通常のマルクス主義者レベルでは、このような「浄化」作戦には、とてもその神経が耐えられないであろう。もっとも、これらの大量殺人指令とそれを原因とするストレスが、第1回脳梗塞発作の引き金になったかどうかは分からない。
『「赤色テロル」型社会主義形成とその3段階』レーニンが「殺した」ロシア革命勢力の推計
『レーニンの大量殺人総合データと殺人指令27通』大量殺人指令と報告書
一方、レーニンは、その前衛党犯罪指令の手紙・メモなど多数に、「極秘」「絶対に写しをとらないこと」「返却すること。私の方で焼却する」とわざわざ書いて、6000点も「秘密資料」として、隠蔽しつくした。彼は、その気配りの面でも、もっとも「党派性」の高い政治家だった。1991年ソ連崩壊により、「秘密資料」のかなりが公開された。それまで、レーニン自身とスターリン・ブレジネフらが、その面でのレーニンの異様なまでの隠蔽才能・手口を、秘密文書とともに、クレムリンの奥深くにある「レーニン秘密文庫」に封印してきた。それは、世界と日本の全左翼に、「レーニン神話」を74年間も信じさせ続けてきたことからも証明できる。
スターリンは、レーニン式二枚舌のうち、(1)表側だけを『レーニン全集』として編纂・公表した。それを全世界に宣伝した。ところが、(2)二枚舌の裏側を、レーニン自身が率先し、「極秘」「絶対に写しをとらないこと」と指令していた。レーニンこそが、『レーニン全集』を上回る大量の秘密文書を隠蔽させただけでなく、焼却・廃棄処理の命令を出した。この知識人「浄化」作戦テーマでも、ソ連崩壊前は、何一つ分からなかった。ロイ・メドヴェージェフ、ヴォルコゴーノフやニコラ・ヴェルトが、ソ連崩壊後に、初めて発掘・公表した。しかし、「浄化」数万人の内訳データのほとんどが、レーニン命令によって焼却・廃棄処理されたと思われる。
もっとも、レーニン死後、ドイツ、イタリア、日本のファシズムが世界を覆いかくすように広がった。それに対抗できる唯一の「労働者の楽園」「世界初の社会主義国家、ソ同盟を守れ」というスローガンへの信仰が湧き上がってきた。そこから、レーニンの欠陥や粛清事実から目をそむけ、仮にそれを聞いたとしても、「レーニンがしたこと」は、反革命分子にたいする大量殺人・国外追放措置であるから当然であり、正しい、となった。その信頼が、スターリンの意図的情報操作とあいまって、レーニン神話をより強固で、永続的なものにしていたことは事実である。
かくいう私も、1977年、40歳で除名になるまで、民青・日本共産党専従として15年間活動した。その間、マルクス・レーニンの文献だけでなく、ロシア革命史、ロシア・ソ連文学を、百数十冊夢中になって読みまくった。エイゼンシテイン監督の『戦艦ポチョムキン』を7回も観た。『レーニン全集』の基本文献をほとんど読み、レーニン神話の世界にどっぷりつかっていた。レーニンの二枚舌の裏側=6000点もの隠蔽文書・大量殺人指令文書を想像することもできなかった。よって、21世紀になっても、「スターリンは悪いが、レーニンは正しい」と信仰している東方の島国の人たちを単純には批判できない。
『日本共産党との裁判』第1〜8部、40歳で除名
4、第7次クーデターの特徴と結果→アンチ・ユートピア単一国出現
ただ、第7次クーデターは、それまでの連続クーデター6回と異なる特徴を持っている。
〔異なる特徴1〕、組織勢力破壊が済んだら、個々人追放「浄化」の徹底
6回ともが、ソヴィエト参加の13政党と革命農民・革命労働者・革命水兵らの組織から、レーニン・ボリシェヴィキがソヴィエト権力を簒奪していくクーデターだった。その結果、ボリシェヴィキ党独裁にたいし批判・抵抗する組織勢力は壊滅させられた。それら6連続クーデターによって、レーニン・トロツキーらは、ロシア革命=ソヴィエト革命の息の根を止めた。その時期が、1921年3月だったことについては、P・アヴリッチ、ロイ・メドヴェージェフとニコラ・ヴェルトが明言している。ソ連崩壊後に出版された他研究文献のほとんども、それに一致している。
残るのは、組織形態をなさない異論者・批判者・共産党に非協力という個々人や知識人だけになっていた。第7次クーデターは、彼らを最後の一人までソ連の大地から一掃・根絶させ、共産党(ボリシェヴィキ)党員・支持者のみからなる単一国・社会を構築するという壮大な「浄化」ユートピア作戦だった。
レーニンは、スイス長期亡命革命家だった。1917年4月16日、ドイツ軍封印列車に乗って帰国できた。それから、わずか7カ月後に単独武装蜂起第1次クーデターによって、単独権力奪取の党独裁政権の最高権力者になった。クーデター以前に、彼が描いた理想国家・社会=ユートピア構想は、『なにをなすべきか』や『国家と革命』にある。6連続クーデターを成功させた後、彼のユートピア構想は、さらに深化した。その本音を露骨に示した言葉が、1922年5月以降に4回も唱えた「浄化」である。批判・抵抗・不支持の知識人・聖職者をソ連全土から追放・強制収容所送り・銃殺で根絶し抜いた社会こそ、彼がイマジン(imagine)した理想的な社会主義ユートピアになった。
しかし、7連続クーデターの果てで、ついに実現させたレーニン型ユートピアの客観的実態は、ユートピアどころか、アンチ・ユートピア(=ディストピア、dystopia)だったことが、ソ連崩壊後、白日の下にさらけ出された。
3人の作家が、「浄化」による単一国・社会の創造というイマジン(imagine)を描いた。(1)40年後未来の洞察=1880年のドストエフスキー→(2)1920・21年現実のSF小説化=ザミャーチン→(3)1948年現実の描写的なSF小説=オーウェルである。それら3作品の内容が、ソヴィエト権力簒奪の7連続クーデターにおけるレーニン像や、大テロルのスターリン像にあまりにも合致していることに驚かされる。とりわけ、ザミャーチンの洞察は、レーニンが創作しつつあったアンチ・ユートピア社会=単一国像を、同時期進行形でリアルに描いた。「浄化」の果てに実現したのは、まさしく、レーニン型のアンチ・ユートピア(=ディストピア、dystopia)社会だった。スターリンが、それをさらに拡張・強化した。
『ドストエフスキーと革命思想殺人事件の探求』『カラマーゾフの兄弟』における大審問官像
『ザミャーチン「われら」と1920、21年のレーニン』巨大な鉄の手を持った恩人像、単一国像
『オーウェルにおける革命権力と共産党』『1984年』における偉大な兄弟、Big Brother像
ソルジェニーツィンは、イマジンでなく、現世に出現したディストピア国家・社会を自分も実体験させられた。そして、その実態を、227人の具体的な証言に基づいて暴き、1973年、レーニン・スターリンの犯罪を全世界に告発した。
ソルジェニーツィン『収容所群島』第2章わが下水道の歴史、レーニンの犯罪
ソルジェニーツィン『収容所群島』第3章「審理」共産党が行う32種類の拷問
〔異なる特徴2〕、レーニン方式による2連続文化大革命の荒療治
第7次クーデターとは、ボリシェヴィキ支持の学者・作家・文化人だけからなる党独裁による同質で単一の文化をソ連全土で創作することだった。それには、批判・抵抗する体質を持ち、ボリシェヴィキに協力しない他党派・無党派知識人たち数万人を、個々にリストアップし、ヨーロッパに追放し、または、強制収容所送りにしなければならない。それが、レーニンの発想スタイルである。これは、別ファイルの聖職者全員銃殺型社会主義構築作戦と並ぶ、レーニン型の2連続文化大革命となった。
なお、聖職者全員銃殺・信徒数万人殺害犯罪は、このクーデターに入れていない。というのも、7連続クーデターとは、レーニンによるソヴィエト権力簒奪行為のみを指しており、聖職者・信徒たちはロシア革命勢力でないという理由だけからである。
レーニンの文化大革命は、同時に、旧ロシア文化の価値を根源的に否定し、教会建物・芸術作品の破壊行動を伴った。あらゆる面で、旧ロシアと現ソ連とを歴史的・文化的・宗教的に断絶させる思考=指令となった。過去の全面否定と破壊という大転換路線は、(1)聖職者・(2)知識人というロシアの人的資源を銃殺・強制収容所送り・追放の手口で、絶滅させる結果となった。その根底にある概念は、レーニンが4回も使った「浄化」思想である。
レーニンは、その2連続文化大革命体制として、(1)トロツキーに聖職者全員銃殺・教会破壊・教会財産没収を担当させた。(2)、ジェルジンスキー、ウンシュリフトとカーメネフらに知識人数万人追放・強制収容所送りを遂行させた。(3)、それらを強制執行する機関として、共産党秘密政治警察チェーカー28万人をフル稼働させた。1917年12月20日、第1次クーデター直後からレーニンが創作し、拡大したチェーカーによる秘密政治警察国家が完成していなければ、このような2連続文化大革命の荒療治はできなかった。
彼は、1922年12月16日、第2回目の動脈硬化症・脳梗塞発作で倒れた。第1次クーデター以後、それまで、5年2カ月間あった。その間、彼は、(1)ソヴィエト権力簒奪の7連続クーデターを、一貫して指導・命令し抜いた。(2)、誤った路線・政策に抵抗・批判したロシア革命勢力数十万人を殺害した。(3)、政党政治時代に入った近代史の上で、党独裁・秘密政治警察国家を、世界で初めて完成させた。
彼は、ホブズボームが言う「短い20世紀」(=1914年第一次世界大戦〜1991年ソ連崩壊)の国際的政治環境と社会主義理論・運動が産み落とした異様なまでに天才的な連続クーデター指揮能力者だった。かつ、「殺すな!」という政治家の基本倫理を欠落させ、赤色テロル・大量殺人犯罪に関して確信犯的な共産主義的人間だった。
以上 健一MENUに戻る
〔関連ファイル〕
『見直し「レーニンがしたこと」−レーニン神話と真実1917年10月〜22年』ファイル多数
第1部『1917年10月、レーニンによる十月・ソヴィエト権力簒奪第1次クーデター』
第2部『1918年1月、憲法制定議会の武力解散・第2次クーデター』
第3部『1918年5月、革命農民への食糧独裁令・第3次クーデター』
第4部『1918年6月、他党派をソヴィエトから排除・第4次クーデター』
第5部『1921年2月、革命労働者ストライキの弾圧・第5次クーデター』
第5部2『1920年3月、トロツキー「労働の軍隊化」構想と党内論争』
第6部『1921年3月、革命水兵の平和的要請鎮圧・第6次クーデター』
第7部『1921年3月〜22年末、「ネップ」後での革命勢力弾圧継続・強化』
第8部『1922年5月、知識人数万人追放「浄化」・第7次クーデター』
第9部『1917年〜22年12月、レーニンの最高権力者5年2カ月間』
第10部『「レーニンによる7連続クーデター」仮説の自己検証』
山内昌之『革命家と政治家との間』レーニンの死によせて